グラミー賞のはじまり  ハリウッドの商工会議所から始まった米国最大の音楽賞

▪️グラミー賞のはじまり ハリウッドから始まった米国最大の音楽賞

第1回グラミー賞の授賞式
 

音楽賞というのは、他の一般的な映画賞、文学賞と同じように、一定の商業的な効果や作品の販売促進を見込んで表彰者が決定されるものである。また、それとは別に、音楽的な貢献をもたらした制作者や文化人の功績が称えられるという意味も込められている。


そもそも、グラミー賞は、1958年に最初の受賞レコードが表彰された。これは米国映画界の最高の栄誉とされるアカデミー賞(オスカー賞)の創設から30年後のことだった。ハリウッドの映画産業とともエンターテイメント業界を発展させてきた米国であるが、少し遅れて同賞が開始されたのも、同じように経済効果を期待してのことだろう。もちろん、音楽産業が映画産業に付随するような媒体として一般的な市民のマインドに浸透させるという効果があった。

 

グラミー賞は、NARAS: ナショナル・アカデミー・オブ・ザ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(現在はレコーディングアカデミーの名称で親しまれている)によって優れた音楽作品に表彰される賞であり、アメリカの音楽界の最高の栄誉といえる。音楽を対象にしたアワードの一つで、当初はレコードだけを受賞対象としていた。当初は音楽作品に贈られる賞であったが、時代に沿った形で、アーティストや、それに付随する活動を表彰するようになった。

 

1958年に第一回の受賞レコードが発表され、1963年頃には39部門が表彰されていたが、受賞部門は増減を繰り返しながら、年々、拡大を続けている。1973年頃には、ジャズ、クラシック、ポップス部門が新設され、音楽ジャンルごとに細分化されていき、人気のあるジャンルを部門別に分けて表彰するようになった。2025年現在では91部門があり、そのうち4つの主要部門は「ビッグ4」と称されている。このうち最も栄誉があるとされているのが、アルバム賞だ。今年度はビヨンセがカントリー・アルバム『Cowboy Carter』で受賞している。

 

特に、日本でグラミー賞自体が知名度を上げるようになったのは、1970年代前半、およそ1973年頃である。例えば、同年の受賞者は、レコード・オブ・ザ・イヤーがロバータ・フラック「The First Time Ever I Saw Your Face(邦題: 愛は面影の中に)」、アルバム・オブ・ザ・イヤーには、ジョージ・ハリソンとラヴィ・シャンカールによるコラボレーション・アルバム「バングラデシュ・コンサート」が選ばれた。

 

現在でも注目を浴びるその年の象徴的な楽曲を紹介するソング・オブ・ザ・イヤーには、レコード・オブ・ザ・イヤーのロバータ・フラックによる「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」がダブル受賞を果たしている。当初から一人のアーティストに複数の賞を授与するという伝統は70年代から引き継がれているようだ。そして、この年のベスト・オリジナルスコアには「ゴッドファーザーのテーマ」が選ばれている。そして一般的には、洋楽には興味を持たない日本の一般層に、この名画がグラミー賞を浸透させる契機をもたらしたのである。

 

ちなみに、ベスト・ポップ・ボーカルには男性歌手として、「ウィズアウト・ユー」を歌ったニルソン(ハリー・ニルソン)が選出されている。女性歌手として、ヘレン・レディの「I Am A Woman(私は女)」が選ばれた。ニルソンの不朽のポピュラーソングに比べると、レディの楽曲はやや時代に埋もれてしまった感もあるかもしれない。しかしながら、この年のポピュラーの充実感は、日本の音楽ファンのみならず、業界全体に洋楽の最大の音楽賞に興味を惹きつける要因になったのである。

 

また、メディアのバックアップもグラミー賞の一般的な認知度を高める要因となった。ビルボード誌、そして、キャッシュ・ボックス誌などがグラミー賞を報道し、当該賞の華やかさを一般的に知らしめることになった。そして70年代はじめ頃には、受賞者にとどまらず、ノミネート作品にも大いに注目が集まるようになった。これは一つ、世界的な音楽賞が他に存在しなかったのも理由であろう。つまり、グラミー賞の開催そのものが音楽の重要なプロモーションのチャンスになったのである。グラミー賞は、当初から委員の投票形式で選考され、すでに70年代においてNARASのメンバーは2000人以上に膨れ上がっており、厳密な投票が行われるのが慣例だった。


グラミー賞は大きな専門機関から始まったわけではない。”1957年、ハリウッドの商工会議所がハリウッドと関連業界を発展させるために始まった”と日本の音楽評論家の岩波洋三氏は指摘している。要するに、映画音楽の宣伝のようにキャンペーン色が強いイベントであることは明らかである。


そして、1957年の最初のミッションは、五大レコード会社の有力者を集めて、選考の計画を立てるように依頼するというものだった。当時のアメリカの主要レーベル、及び、責任者は、ソニー・パーク(Decca)、ロイド・ダン(Capital)、ジェシー・ケイ(MGM)、デニス・ファーノン(RCA)、ポール・ウェストン(CBS)であった。つまり、レコード会社による干渉があったのは創設当初からであり、なにも今始まったというわけではない。しかも、近年はメジャーアーティストだけではなく、インディーアーティストも表彰する場合があることを考えると、主要なキャンペーンの他にも、公平性を重視した選考を行うようになっているのは事実だろう。ちなみに、現在の五大レコード会社とは勢力図がかなり異なることにご留意いただきたい。

 

しかし、彼らにとってこの選考はあまりに荷が重すぎたため、引退したCBSの社長であったジム・コンクリングを抜擢し、NARASが結成され、本格的な機関としての活動を始めるにいたった。現在でも、CBSのプロモーション広告があるのはそのためである。以後、1957年5月には、委員会とノミネート委員会が発足し、本格的な機関が創設される。そして、ハリウッド支部は、初代の会長に、ポール・ウェストン氏が選ばれ、この賞の責任者に就任した。同年にはNARASののニューヨーク支部も発足し、ガイ・ロンバート氏が選ばれた。

 

1958年には第一回のグラミー賞が開催され、前年度のレコードを対象として優れた作品にトロフィーが授与された。この第一回の受賞者には、ドメニコ・モデューノンの「ボラーレ」、ヘンリー・マンシーニの「ピーター・ガン」が受賞している。また、1960年には、パーシー・フェス・オーケストラの「シーム・フロム・サマー・プレイス」がレコード・オブザ・イヤーを獲得し、マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」なども受賞した。

 

当初、グラミーが映画音楽に注力していたのは前述の通りで、1961年にはヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」、62年には「ハロー・ドリー」が受賞している。その後、フィフス・ディメンション、ディオンヌ・ワーウィックが受賞した。グラミー賞は、その年の音楽の流行を反映している。70年代以降は、日本の音楽業界でもグラミー賞が注目されるようになった。例えば、1973年には日本のテレビで授賞式の模様が放送されたことがあった。