New Album Review:  Circuit Des Yeux 『Halo On The Inside』

 Circuit Des Yeux 『Halo On The Inside』

Label: Matador

Release: 2025年3月14日


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Review         潮流を変えるモーダルなアートポップ

 

マタドールに移籍して発表された『Halo On The Inside』。シカゴのミュージシャン、ヘイリー・フォアの最新作で、シンガーとしてのひとつの変容の瞬間が刻印されている。しかし、このアルバムの主題の芽生えは、2021年のアルバム『Sculping The Exsodus』に見出すことが出来た。オーケストラストリングスとの融合を基底にしたシアトリカルなアートポップ。その本領はまだ数年前には発揮されず、ぼんやりとした印象に留まっていたが、今作ではより明瞭な感覚をもって聴覚を捉える。

 

ギリシャ神話をモチーフにして、半身半獣の怪物、悪魔的なイメージを持つヤギ、それらの神話的なモチーフは、地下室のスタジオでの午後9時から午前5時という真夜中の雰囲気と密接に結びつけられることになった。録音現場のひんやりとした静けさ、それは制作者の内面にある感覚と符合し、アルバムのサウンドの全体を作り上げる。独特な緊張感と強固なキャラクターを持つ異形としての実験的なアートポップ。これらの全9曲は、トリップ・ホップとハイパーポップ、グリッチポップ、それらの先鋭的な音楽性を内包させた孤絶したアルバムの一つである。

 

アルバムにはダンサンブルなポップが裾野のように打ち広がっている。結局、それをどのような形でアウトプットするのか、アーティストは相当な数の試行錯誤を重ねただろうと推測されるが、デモーニッシュなイメージ(悪魔的な印象)と小形式のオペレッタのような歌唱が全般のエレクトロニックの要素と合致し、その上にロックやメタルといった音楽が取り巻き、薄く、もしくは分厚い層を形成している。

 

これがアルバムを聴いたとき、複数の層がぼんやり揺らめくように聞こえる要因なのかもしれない。なおかつ、それらのサウンドとしての機能をはっきりと浮かび上がらせたのは、フリーフォームの即興、絵画、オーディオ・ビジュアルといったヘイリー・フォアが親しんでいるというリベラルアーツの全般、そして、内的な探検を通して得られたもう一人の自己の"分身"である。これらは、例えば、カフカの『変身』のようなシュールレアリズムの範疇にある内的な恐怖としてポップサウンドの向こうがわに渦巻いているというわけである。 そのアンビバレントな(抽象的な)音の層に目を凝らし、耳を静かに傾けたとき、一つの核心のようなものに辿り着く。これはもしかすると、音楽を通したフランツ・カフカ的な探検を意味するのではないか、と。

 

本作は、EDMをベースにしたダークを超越したエレクトロポップ「Megaloner」で幕を開ける。そして同じく、Underworldのエレクトロをベースにした「Canopy Of Eden』といった曲を聞くと、音楽そのものが旧約聖書の黙示録の要素を持って繰り広げられる。聞き手はそれらを宗教としての符牒ではなく、アーティスティックな表現下にあるポップソングという側面で捉えることになろう。


しかし、その中では、ブリューゲルのバベルの塔や洪水から救済するためのノアの方舟といった西洋絵画などのモチーフに度々登場する絵画的な表現性によって音楽という名の媒体が展開されていく。これらのポップソングとしての構造の背景には、明らかに中世の西洋的な概念が揺らめく。それが的確なソングライティング、そして中性的な印象を放つアルトやバリトンの音域に属するヘイリー・フォアのボーカルによって、強固な音楽空間が綿密に構築される。音楽としては、ロックらしい情熱を持つ瞬間があり、二曲目「Canopy Of Eden』ではユーロビートやレイヴのようなアシッド・ハウスに近い音像の広い奥行きのあるサウンドが熱狂的に繰り広げられる。決して安易に箱庭の音楽を作ろうとせず、ライブでの熱狂を意図したサウンドが楽しめる。

 

対象的に、「Skelton Key」では、イントロや導入部の箇所においてアルバムの冒頭にある悪魔的なイメージ、旧約聖書の終末的な余韻を残しつつ、神話に登場するようなエンジェリックな印象を持つ曲へと変化させる。曲の始まりでは、ゆったりしたテンポ、清涼感のあるアンビエント風のサウンドと結びつき、緊張感に満ちた音楽が繰り広げられるが、中盤からは、暗黒の雲間から光が差し込むような神秘的なイメージを持つストリングスとピアノの美麗な旋律進行が顔をのぞかせる。すると、当初の印象が一変し、それと相反する祝福的な音楽性が登場する。それらを間奏の楔として、その後再び、ノイズの要素を用いたハイパーポップが後半で登場する。これらの盛り上がりがどのように聞こえるのか、実際の音源で確かめてみてください。

 

収録曲そのものが続編のように繋がる。続く「Anthem Of Me」では再びノイジーなロックやメタル風のサウンドが驚きをもたらす。内的な探検をもとにした内的な自己の発見を端的に表そうという試みなのだろうか。それは、メタル的な興趣を持つギターの代わりとなるシンセのジェネレーター、そしてそれとまったく相反するオペレッタ風のシアトリカルなボーカルというように、これこそ新時代のロック・オペラなのではないかと思わせる何かが込められている。

 

しかし、これは、例えば、クイーンやザ・フーのような大衆的なロック・オペラではない。 現代的なステージ演出とインスタレーションを仮想的に表現した音楽の新しいオペラやミュージカルの形式なのである。それはアルバムの全体的なテーマである恐怖というプロセス、そしてその時間を前に巻き戻して、おそれのない境地まで辿り着こうとする表現者としての歩みが暗示されているのである。


そして実際的に、アーティストは仮想的な舞台の演出の中にある恐ろしい内的な感覚という形而下の世界の情景をダンテの『神曲』の地獄編のように通り抜け、別の境地を探ろうとする。それはまるで中世のイタリアの作家が長い迷路に迷い込んだときや、地獄の門を船でくぐり抜ける情景をサウンドスケープとして脳裏にぼんやり蘇らせることがある。また、この曲では聴取下にある音楽という単一の音楽の意義を塗り替える趣旨が込められているように思えてならない。

 

 

アルバムの音楽にはセイント・ヴィンセントやガガのようなメインストリームにある歌手の音楽とも相通じる感覚も含まれていると思うが、稀に異彩を放つ瞬間がある。「Cosmic Joke」では明らかにPortisheadの影響下にあるトリップホップの要素が体現されている。 『Dummy』の時代のサウンドだが、それらはやはりオペレッタの歌唱やピアノの実験的なサウンドワークによって別の境地に達している。この曲こそ、無響室のひんやりとした感覚、真夜中から明け方の時間、そういった制作現場のアングラな雰囲気がリアルに乗り移っている。アルバムを象徴するような一曲といえるかもしれない。全体的なミックスやマスタリングのアトモスフェリックな音響効果の中で、ひんやりした印象を持つダークなボーカル、サウンド・コラージュのように響きわたる低音部を担うピアノ、それらが組み合わされ、アルバムの中で最も情感あふれる一曲として聞き入らせる。一度聴いただけではわからない、奥深さを持った素晴らしい楽曲である。

 

 

イギリスの象徴的な作曲家/プロデューサー、ジェイムス・ブレイクの系譜に位置付けられる「Cathexis」ではハモンド・オルガンを彷彿とさせるシンセサイザーの伴奏を用い、恐怖とは異なる哀愁や悲哀の瞬間を体現させようとしている。これらはセンチメンタルな響きを持つギターライン、そしてボーカルとハーモニーの層を作りながら、アルバムの最も奇跡的な瞬間ーー淡麗な美しさーーを形作ることがある。さらに注目すべきは、このアルバムの音楽のほとんどは、縦の構造を持つ和声によって音楽が書かれたのではなく、横の構造を持つモーダルの音楽によって紡がれ、従来にはなかった偶発的なハーモニクスが形成されるということである。

 

こういった音楽を聴いていると、和声法だけで音楽を作るのには限界があり、マイルス・デイヴィスのようなモーダル(Modal)の要素がどこかで必要になってくることが分かる。デイヴィスの音楽には、和音という概念が稀にしか出てこないこともあるが、これは複数の音階の横の動きにより、自由度の高い音楽構造を構築していくのである。和声は、全体的な構成の中で限定的な働きしかなさず、和声にこだわるほど自由な音楽性が薄れたりする。その反面、ポリフォニーの音楽(複数の声部の重なり)の方が遥かに作曲の自由度が高くなる。それはなぜかと言えば、音楽の構造を限定させず、次の意外な展開を呼び入れることが可能になるからである。

 

 

一曲目や二曲目を除けば、アートポップやハイパーポップというように、ポップソングの枠組みを取り払うための前衛的な試みが中心となっている。しかし、最も着目すべきは、『Halo On The Inside』は単なる録音作品以上の意味が込められているということである。例えば、ライブ会場でどのように響くのか、もしくはファンを楽しませるための音楽として書かれた曲も発見出来る。

 

「Truth」では、例えば、アヴァロン・エマーソンにも引けを取らないようなDJらしい気質を反映させた刺激的なダンス・ポップに挑戦している。この曲には、ヘイリー・フォアという人物の音楽フリークとしての姿を捉えられる。それは、制作者としての研究者気質のアーティストとは対照的に''音楽を心から楽しもう''という姿勢を映し出す。アルバムは全体的にアーバンな印象で縁取られている。これは中西部の文化を背景とし、現代のミュージシャンとして何が出来るかという未知なる挑戦でもある。同時にアーティストとしての矜持を体現しているのだろう。

 

「Organ Bed」はダンサンブルなビートを生かしたアップテンポな楽曲であるがオーネット・コールマンやアリス・コルトレーンのフリージャズの範疇にある前衛的なサックスフォンを登場させている。 これらはジャズに託けて言うと、フリー・ポップ(ポップソングの解放)のような意味が込められている。

 

 

創作活動の全般における困惑や戸惑いのような感覚は、シンガーソングライターを悪魔的な風貌に変化させた。けれども、実際のサウンドが示す通り、音楽的な収穫や手応えは非常に大きかったように思える。それは音楽的な蓄積、及び、それにまつわる幅広い知識は、プロデューサーの協力により音楽作品として結実した部分もあるかもしれないが、同時にアーティストが自らの志す音楽をじっくり煮詰めていったことに拠るところが大きいのかも知れない。本作の最後でも期待を裏切らない。

 

「It Takes My Pain Away」は、90年代のモグワイの音響派としてのポストロックをインスト曲として更新している。あるいはエイフェックス・ツインの初期のアンビエントの音楽的なアプローチに共鳴する内容である。こういった曲は、90年代や00年代では男性ミュージシャンの仕事と相場は決まっていたが、時代を経て性別に限定されなくなった。前作に比べると劇的かつ飛躍的な進化を遂げた。これは肯定的に見ると、音楽的な変容というプロセスがどこかで必要だったのだろう。サーキット・デ・ユーの従来の最高傑作の一つが誕生したといえるだろう。

 

 

 

 

86/100

 

 

 



 

 「Skelton Key」-Best Track