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Annie DiRusso(アニー・ディルッソ)は散歩をしている時、着想が湧いてきた。ロラパルーザに出演するためにシカゴの街を散歩している時に天啓のようにアーティストの心をとらえたのだった。
「アルバム制作を始めてすぐにこのタイトルは決まっていました」と、ディルッソは語っています。彼女は大学に通うため、2017年からニューヨークからナッシュビルの街に引っ越しをした。
「私は免許を持っていないから、どこへでも歩いていく。運転可能な街であるナッシュビルで何年も無免許だったから、食料品店まで歩いて行ったりして、自分にとって歩きやすい街にしていたのよ」
シンガーソングライターは音楽を難しく捉えることをせず、等身大の自己像をロックソングによって描き出そうとしている。少なくとも、本作は驚くほど聞きやすくシンプルかつ軽快なインディーロックソング集だ。
「『スーパー・ペデストリアン』は、私という人物を表現していると思うし、『イッツ・グッド・トゥ・ビー・ホット・イン・ザ・サマー』は、このアルバムの趣旨をよりストレートに表現していると思う。ようするにデビューアルバムとしては、少し自己紹介のようなことをしたかったんだと思う」
アーティスト自身のレーベルから本日発売された『Super Pedestrian』には、ディルッソが2017年から2022年にかけてリリースした12枚のシングルと、高評価を得た2023年のEP『God, I Hate This Place』で探求したディストーションとメロディの融合をベースにした切ないロックソングが11曲収録されている。 これらのレコーディングはすべてプロデューサーのジェイソン・カミングスと共に行われ、新作は2023年にミネアポリスで行われたショーの後にディルッソが出会ったケイレブ・ライト(Hippo Campus、Raffaella、Samia)が指揮を執った。
「ジェイソンとの仕事は好きだったし、長い付き合いと仕事のやり方があった。けれど、今回のフルレングスのアルバムでは、自分のサウンドをどう広げられるか、何か違うことをやってみたいと思った。いろいろなプロデューサーと話をしたんだけど、ケイレブというアイディアに戻った」
アルバムは2024年2月と3月にノースカロライナ州アッシュヴィルのドロップ・オブ・サン・スタジオで録音された。 『スーパー・ペデストリアン』の公演では、彼女が歌とギターを担当し、マルチインストゥルメンタリストのイーデン・ジョエルがベース、キーボード、ドラム、追加ギターなどすべての楽器を演奏した。 今作には共作者のサミア(「Back in Town」)とラストン・ケリー(「Wearing Pants Again」)がゲスト・バッキング・ヴォーカルとして参加している。
また、ディルッソは年に5.6曲のペースで曲を書きあげる。それほど多作な制作者ではないと彼女は自負している。しかし、もし、このアルバムが飛躍作になるとするなら、それは彼女の人間としての成長、かつてのお気に入りのファッションがすでに似合わなくなったことを意味する。過去の自分にちょっとした寂しさを感じながら惜別を告げるというもの。しかし、アルバムの作品では、内面と向き合ったことにより、過去の自分との軋轢のようなものも生じていて、それはディストーションという形でこのアルバムの中に雷鳴のように鳴り渡る。しかし、それは心地よい響きを導く。シンガーソングライターが一歩前に進んだ証拠でもあるのだから。
「前回のツアーが終了したとき、私は23歳でした。あのツアーは本当に大好きだったけれど、18歳か19歳か20歳の頃に書いた曲を毎晩演奏していたし、その頃に着ていたような服を着ていました。ツアーから離れたことで、自分自身と向き合わなければならなかったと思う。だから、このアルバムは、もう少し地に足をつけたところから生まれたと思う。EPがもう少し体の外側から内側を見つめたものだったのに対して、もう少し体の内側から外側を見つめたものなの」
Annie DiRusso 『Super Pedestrian』- Summer Soup Songs (Self Label)
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アニー・デルッソの記念すべきデビュー・アルバム『Super Pedestrian』は、ウィリアム・サローヤンというアメリカの作家の名作『The Human Comedy(人間喜劇)』をふと思い起こさせる。それは人間の持つ美しさ、純朴さ、それからエバーグリーンな輝きをどこかにとどめているからである。そもそも、青春の輝きというのは、多くの人々の心に魅惑的に映る。そして多くの人々は、その宝石のようなものを血眼になって自分自身の内外に探し求めたりするが、容易には見つからない。それは、美しい青春というものが二度とは帰って来ず、ふと気づいた時に背後に遠ざかっているものだからだ。そして、興味深いことに、エバーグリーンと言う感覚は、その瞬間に感じるものではなく、ずいぶんと後になって、その時代の自分が青春の最中を生きていたことを思いかえすようになるのである。つまり、これは、土地に対する郷愁ではなく、過去の自分自身に対する郷愁を感じる瞬間である。それはどのような人も通ってきた道である。
文学的だというと少し大げさになるかもしれない。それでも、このアルバムに流れる音楽がソングライターの人生を雪の結晶のように澄明に映し出すのは事実である。その素朴な感覚は都市部から離れたナッシュビルという土地でしか作り得なかったものではないか。ニューヨークにいたら、こういうアルバムにはならなかっただろう。なぜなら、有名な都市部は、世界のクローバリゼーションに支配されており、異常なほどの画一性に染め上げられている。アニー・ディルッソは、自動車には乗れないかもしれないが、しかし、乗馬という特技を持っているのだから本当にすごい。
このアルバムには、現代のアメリカ人の多くが見失ったスピリットが偏在している。多くのアメリカ人は、グローバリゼーションの渦中に生きており、海の向こうの異質な文化や気風にプレッシャーを感じると、過敏な反応を起こすことがある。その反動として過激なアティテュードにあらわれたりもする。それは日本人にもありえることであるが、その中で最もアメリカらしい純粋さや純朴さをどこかの時代に忘れてきたのではないか。少なくとも、そういったアメリカの本当の魅力に触れた時、感動的な気分を覚えるのである。
このアルバムは最近のアメリカのインディーロックアルバムの中で”最もアメリカらしい”と言える。それはまた、海外の人間から見ると、アメリカの人々にしか出来ない音楽ということである。 最近のアメリカのミュージシャンは異常なほど海外の人々からの評判や目を気にする。まるで彼等は、アメリカがどう見られているのかを四六時中気にするかのようである。そして、奇妙なほど世界的な文化、外側からみた何かを提示しようと躍起になるのである。ところが、このアルバムはそのかぎりではない。終盤の収録曲に登場するヤンキースの伝説的なヒーロー、ディレク・ジーターへの賞賛は、ヘミングウェイ文学にも登場する地域性を明確に織り込んでいて、海外の人間にとってはものすごく心を惹かれるし、なぜか楽しそうに聞こえるのである。例えば、この曲には画一性とは異なる、その土地の人にしかなしえない表現が含まれている。近年、それは田舎性として見なされることもあるが、本当にそうなのか。海外の人間がディレク・ジーターを称賛したとしても、それは大して面白いものにはなりえないのである。
ライブツアーというのは、非現実的な生活空間に属することをつい忘れがちである。例えば、ミュージシャンがステージに上り、多数の観衆の前で演奏を披露する。その空間は、明らかにエンターテインメント業界が作り出した仮想現実である。素晴らしい瞬間であるに違いないが、同時に日常的な生活との乖離を生じさせる要因ともなる。こういった非現実的な生活、そして現実的な生活が続くことに戸惑いを覚えたり、精神のバランスを崩す人々は少なくないのである。どちらの自分が本物なのか。多くの人々は、そういったライブでの姿を本当の人物像であると思い込んでいる。けれども、こういった究極の問いの答えを見つける人は稀だと思う。アニー・ディルッソについてはシカゴのロラパルーザなど大型のライブステージの出演を経て、ナッシュビルに帰ってきた。喧騒の後の静けさ。ナッシュビルの自然の風景は何を彼女に語りかけたのだろうか。しかし、その時、ミュージシャンは本当の自分の戻ることが出来たのだ。
アニー・ディルッソはライブツアーを一つの経験としてロックスターを目指すことも出来たはずである。 しかし、アルバムを聞くと分かる通り、音楽的な方向性はそれとは正反対にあり、むしろ自分自身に帰るための導線のようなものになっている。虚飾で音楽を塗り固める事もできたが、実際に出来上がった音楽は驚くほどに等身大だ。だからこそ聴きやすく親しみやすい。そして信頼出来るのは、音楽的な時流に翻弄されず、好きなものを追求しているという姿勢だ。
それはアルバムのオープナー「Ovid」から出現し、心地よいインディーロックソングという形を通じて繰り広げられる。その中にはベッドルームポップ、グランジやカントリーといったこのアーティスト特有の表現が盛り込まれている。音楽から立ち上がるカントリーの雰囲気は、ルーシー・ダカス、スネイル・メイルの最初期のようなUSインディー性を発揮するのである。コード進行やボーカルも絶妙で、琴線に触れるような切ないメロディーとバンガーを作り出す。本作は、静かな環境で制作されたと思うが、鳴らされるロックは痛快なほどノイジーである。
また、USインディーロックを体現させる「Back In Town」は、ナッシュビルへの帰郷をテーマに、自分の過去の姿を対比的な「あなた」に仮託し、甘い感じのポップソングに昇華している。ローカルラジオで聞かれるようなカントリー風のポピュラーなロックソングを展開させる。ギター、ボーカルというシンプルな構成に導入される対旋律のシンセのレトロなフレーズが、このアルバムの内在的なモチーフである「過去の自分を回顧する」という内容をおもいおこさせる。それは制作者が述べている通り、着古した服に別れを告げるような寂しさも通底している。しかし、曲の印象は驚くほど、さっぱりしていて、軽妙な感覚を伝えようとしている。ナッシュビルと自分の人生を的確に連動させ、それらをカントリーで結びつけた「Leo」も秀逸である。これらはサッカー・マミーの最初期のようなベッドルームポップとカントリーの複合体としてのモダンなポップソングを踏襲し、それらをセンス十分のトラックに昇華している。
軽快なインディーポップ/インディーロックが続く中、グランジのようなオルトの範疇にあるギターの要素が押し出される瞬間がある。そして、これがナッシュビルへの郷愁という一つ目の主題に続く2つ目のモチーフのような形で作品中に出現し、それらがまるでバルザックの人物の再登場形式(別の作品に前に登場した人物が登場するという形式)のように、いくつかの曲の中に再登場する。
「Hungry」は、サビこそポップだが、全体的な曲のディレクションはギターロックの範疇にあり、ディストーションの効果が強調される。90年代初期のグランジのようなシアトル・サウンドの影響が含まれ、それらがノイズとなって曲そのものを支配している。 アンプからのフィードバックノイズを効果的に録音マイクで拾いながら、それらのノイズの要素をボーカルのポップネスと的確に対比させる。
USオルタナティブロックの流れを大きく変えたオリヴィア・ロドリゴの傑作アルバム『Gut』で示唆された「静と動の対比」というグランジのテーマの復刻をインディーポップの側面から見直した痛快なトラックとして十分楽しめる。ノイジーなロックと合わせてディルッソのバラードの才覚が続く「Leg」に発見出来る。
この曲はツアーを共にしたSamia、もしくはSoccer Mommy(サッカー・マミー)の最初期のポップネスの影響を感じさせる。繊細で内向的な音楽の気風は前曲と同様にグランジロックの反映により、ダークネスとセンチメンタルな感情の領域を揺れ動く。注目すべきは、ボーカルをいくつもダブのように多重録音し、アンセミックなフレーズの畝りを作り上げたりと、トラックをバンガーへと変化させるため、様々な工夫が凝らされている。そして音量的なダイナミクスと起伏を設け、変幻自在にラウドとサイレンスの間を行き来する。
前述したグランジの要素が鮮烈に曲の表側に押し出される「I Am The Deer」は、パール・ジャムのような方向性とはかなり異なるが、”ポスト・グランジ”の時代を予見するトラックである。 この曲では、ガレージ・ロックのようなラフでローファイな要素、Z世代のベッドルーム・ポップ、そして旧来のシアトルのグランジを結びつけ、新しいロックのイディオムを提示する。これは2020年代後半の女性ソングライターのロックソングの”モデル”ともなりえる一曲だ。
特に、グランジだけではなく、Pixiesの最初期のジョーイ・サンティアゴ、Weezerのリヴァース・クオモのようなオルタネイトなスケールがサビの箇所で登場し、それらがスタジアム・ロックのような形式で繰り広げられる。これは、制作者の若い時代のロックスターへの情熱が長い時を経て蘇ってきた形である。
特に、バッキング・ギターのミュート奏法が曲に心地よいリズム感をもたらし、メタリックでメロディアスな音楽性を形作り、Def Leppardのような古典的なソングライティングの魅力が現れる。この80年代のUKハードロックの手法は、LAのハードロックの台頭によって形骸化し、使い古されたかのように思えたが、まだまだ現代のロックソングに通用する求心力がある。
「I Am The Deer」
序盤は必ずしもそうではないけれど、ローカルな魅力に焦点を絞った音楽が本作の中盤以降の核心を担う。カントリー/フォークの魅力を再訪した「Wearing Pants Again」は、アメリカーナに希釈されつつある音楽の持つ民族性へ接近する。これらは、失われたアメリカのスピリットをどこかにスタンドさながらに召喚させ、田舎地方にある原初的な美しさ、次いで幻想性という主題を発現させる。それはまるでフォークナーの傑作『8月の光』、もしくは傑作短編小説「乾いた9月」のアメリカ南部の空想的な側面と幻想性を音楽の片々に留め、ヨクナパトーファ、ないしは、シャーウッド・アンダソンの現実と仮想の間にある”架空のアメリカ”を作り出す。しかし、ここであらためて確認しておきたいのは、幻想という概念は、日常と地続きに存在する。これらのーー現実の底にある空想性ーーは、不思議なことに、アメリカの植民地時代の日本文学の最も重要な主題である”現実との対比的な構造”と分かちがたく結びついていたのだった。(遠藤周作の「沈黙」など) ということで、これらの奇妙な空想性は、密接に現代アメリカの側面と結びついているだけではなく、日本から見ても何らかの親近感が込められている。
さて、そうした真摯な音楽性もある中で、「Drek Jeter」はワイアードな響きを持ち、ロックソングとしての癒やしの瞬間をもたらす。ニューヨークのヤンキース・スタジアムのチャントの歓声は、ミスフィッツの『Static Age』の「TV Casualty」のような、USサブカルチャーの要素と結びつき、ゾンビみたいに変化する。「現代人のほとんどはゾンビ!!」と言った日本の映画監督が居たが、そういった同調圧力の感覚を表されていて、とりもなおさず、ソングライターがソンビのように変身してしまう瞬間なのである。これを聴いてどのように感じるかは人それぞれだが、奇妙な揶揄が滲んでいる気がする。さらに『テキサス・チェーンソー』のようなグロテスクとコメディーの要素が結びついて、史上最もアングラなパンクロックソングが誕生した。この曲には、シニカルな風刺が滲み、内輪向けの奇妙な悪ノリ、アメリカの表面上の明るさの裏側にある暗いユーモアが滲み出ている。それは乾いた笑いのようなものを呼び起こし、内的な崩壊やセクシャルな要素という、ソングライターの一時期の自己を反映させている。この曲は、着色料をふんだんに用いたチョコレートやキャンディーのような毒々しい風味を持つ。それとは対比的に軽快な印象を持つ「Good Ass Movie」では青春映画のような一面が現れる。
こういったアメリカの文化の多層性が織り交ぜられながら、時折、純粋になったかと思えば、毒気を持ち、また毒気をもったかと思えば、再びストリートになる。ある意味では外的な環境に押しつぶされそうになりながら、すれすれのところで持ちこたえるソングライターの姿、それは何か現代的な日本人の感覚にも共通するものがあり、スカッとしたカタルシスをもたらす。そして、きわめて多彩な側面をサイコロの目のように提示しながら、アルバムの終盤には圧巻とも呼ぶべき瞬間が用意されている。「Wet」は、今年聴いたUSインディーの中で最も魅力的に聞こえる。ポピュラー/ロックのシンプルさ、そして一般性が豊かな感性をもって紡がれる。この曲はベッドルームポップの次の音楽を予見し、2020年代の象徴的な音楽ともいえる。
タイトルだけで心を揺さぶられる曲というのは稀にしか実在しないが、クローズ「It's Good To Be Hot In The Summer」は例外である。制作者は”自己紹介のような意味を持つ”と説明しているが、タイトルだけで切ない気分になる。例えば、アメリカのインディーロックファンには避けて通れない、Atarisの「Boys Of Summer」、Saves The Dayの「Anywhere With You」を彷彿とさせるが、実際の音楽はそれ以上に素晴らしい。
叙情的なイントロのギターとボーカルに続いて、アニー・デルッソの人物像が明らかになる瞬間である。そして、この曲こそ、エバーグリーンな感覚が滲んでいる。心を揺さぶるような良質で美しいメロディー、さらにツアー生活とその後の人生を振り返るようなクロニクルであり、その向こうにはナッシュビルとニューヨークの二つの情景が重なり合い、感動的な瞬間を呼び起こす。このクローズ曲は圧巻で涙腺を刺激する。2025年のインディーロックの最高の一曲かもしれない。
10年後になって振り返った時、アーティストはこういった曲を書いたことを誇りに思うに違いない。
94/100
「It's Good To Be Hot In The Summer」-Best Track