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先日開催されたバッハ・コンクール 2025は、13カ国から27人のピアニストが参加し、審査員と聴衆を魅了した。決勝の舞台となったライプツィヒ・ゲヴァントハウスで開催されたコンサートでは、ベスト3が対決した。コンクールは、21歳のチェコ人の演奏家ヤン・チェメイラが制した。

 

ヤン・チェメイラは優勝賞金20,000ユーロと史上初の聴衆賞2,000ユーロを獲得した。第2位もチェコの31歳のピアニスト、マレク・コザークに贈られた。第3位の5000ユーロはイスラエルのピアニスト、マリアムナ・シャーリングが受賞した。



各賞は、トマス・カントール(聖トーマス教会のカントル職)として27年間ライプツィヒで活躍したドイツの歴史的な作曲家ヨハン・セバスティアン・バッハの誕生日である3月21日に授与された。

 

セバスティアン・バッハの楽曲に加え、ドミトリー・ショスタコーヴィチの作品も、ライプツィヒの3つの評価ラウンドに参加した24人の参加者の必修プログラムの一部となった。50年前に亡くなったショスタコーヴィチは、1950年の第1回バッハ・コンクールの審査員だった。

 


ヨハン・セバスティアン・バッハ没後200年を記念して1950年に創設されたライプツィヒ・バッハ・コンクールは、2025年に75周年を迎える。

 

ドイツ分割後もしばらくの間、プレ選考会はドイツ全土で開催され、本選はライプツィヒで開催された。当時、審査員にはドミトリー・ショスタコーヴィチがいた。コンクールの雰囲気に触発されたショスタコーヴィチは、数年後、ピアノ部門の第1回優勝者であるタチアナ・ニコライエワに「24の前奏曲とフーガ」を献呈した。



現在、コンクールの形式は変わり、年に1度、単一部門で開催されるようになった。2025年、ピアノが王者となる。ライプツィヒでは、13カ国から27人の候補者が出場する。

 

決勝では、3人のファイナリストはそれぞれ、必修曲であるバッハの「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調」と、好きな古典派、またはロマン派のピアノ協奏曲を演奏した。エンリコ・デランボイエ指揮MDR交響楽団の伴奏で実演を行った。

 

 

 


 

【ファイナリストと受賞者】



・ヤン・チェメイラ(チェコ共和国) - 第1位および聴衆賞 ★


演奏曲: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903
F. メンデルスゾーン=バルトルディ:ピアノ協奏曲第1番 ト短調 Op.25



・マレク・コザーク(チェコ共和国)-第2位


演奏曲: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903
エドヴァルド・グリーグ:ピアノ協奏曲 イ短調 作品1



・マリアムナ・シャーリング(イスラエル) - 第3位


演奏曲: ヨハン・ゼバスティアン・バッハ:半音階的幻想曲とフーガ ニ短調 BWV 903
ロベルト・シューマン:ピアノ協奏曲 イ短調 作品54
 

 

【Jan Čmejla(ヤン・チェメイラ)】 

 

ヤン・チェメイラ(21)はプラハ音楽院でエヴァ・ボグニョヴァーに師事し、その後マンハイムでヴォルフラム・シュミット・レオナルディに師事した。ボリス・ギルトブルク、ラン・ラン、ゴーティエ・カプソンのマスタークラスに参加。

 

エピーナル国際ピアノコンクール(2022年)、コンチェルティーノ・プラガ(2019年)、サンタ・チェチーリア・コンクール(2021年)で優勝。アメリカ、チェコ共和国、中国で演奏活動を行っている。



マレク・コザーク(31)はプラハ音楽アカデミーでイヴァン・クラーンスキーに師事。ブレーメン・ヨーロッパ・ピアノ・コンクール(2018年)とチューリッヒのジェザ・アンダ・コンクール(2021年)で優勝し、チェコ共和国、ドイツ、ポーランドで演奏活動を行っている。2024年にはプラハ放送交響楽団とチェコのピアノ協奏曲のCDを録音。


マリアムナ・シャーリング(23)は、モスクワのチャイコフスキー音楽院でチェコ・フィルハーモニー管弦楽団とともに学んだ。

 

Wiener Philharmoniker Photo: Dieter Nagl

 

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサート2025が元旦に開催されます。2025年の公演は、ウィーンフィルが「最もウィーン的」と紹介するシュトラウスのプログラムを中心に1月1日に演奏されます。デジタル配信が1月8日に全世界で開始されます。コンサートの映像は世界90ヵ国で放映され、NHKでも1月1日の午後7:00から放映予定です。

 

2025年のウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートは、リッカルド・ムーティを指揮者に迎えて、ストラウス一世、二世を中心とするプログラムが組まれており、意外な曲目が含まれている。コンスタンツェ・ガイガーという一般的に知られていない女性作曲家を対外的に紹介します。1939年初演という由緒ある伝統を持つウィーンフィル・ニューイヤーコンサートはこれまで、カラヤン、アーノンクール、小沢征爾らを指揮者に迎え、新年の到来を祝う素晴らしいコンサートを開催してきた。放映を前に来年度の注目しておきたいポイントを以下にご紹介します。

 

 

世界的な指揮者 リッカルド・ムーティ

Riccard Muti


イタリアのナポリ出身のリッカルド・ムーティは世界最高峰の指揮者。2010年に第10代シカゴ交響楽団(CSO)音楽監督に就任しました。指揮者としての全盛期には、フィレンツェ五月音楽祭(1968-1980)、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団(1972-1982)、フィラデルフィア管弦楽団(1980-1992)、ミラノ・スカラ座(1986-2005)において、輝かしい実績が築かれました。


リッカルド・ムーティはザルツブルグ音楽祭の芸術監督を務めていたカラヤンの招聘により、1971年に同音楽祭でデビューしている。それ以来、ウィーンフィルとの友好的な関係を築き、現在に至るまで同音楽祭に欠かせない重要な指揮者となった。

 

同音楽祭で演奏するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは、深い信頼関係を築いており、数々の記念すべき名演奏を残している。若い音楽家の育成にも情熱を注いでいる。2004年にはケルビーニ・ユース・オーケストラを設立。2015年には若手指揮者にイタリア・オペラの正統を伝えるため「リッカルド・ムーティ・オペラ・アカデミー」を主宰。2011年に70歳の誕生日を迎えるに際し、 ウィーン・フィルの名誉団員の称号を授与。これまでに、イタリア共和国カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ、フランスのレジオンドヌール勲章ほか、数多くの国際的な栄誉を受け、2018年には第30回「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞しています。

 


ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサートの長きにわたる歴史


 Herbert Von Krajan (1987)

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートは今や世界中で知られており、本楽団によるシュトラウスの楽曲の演奏は「ワルツ王」の時代、つまりウィーン・フィルの歴史の始まりまで遡るという印象を与えているかもしれませんが、史実は異なるという。実際、楽団員は長いこと、当時作曲された最も「ウィーン的」なシュトラウスの音楽を取り上げてきませんでした。それはシュトラウスの音楽が娯楽的であるという理由によるんだそうです。彼らは、「娯楽音楽」と関係することで、「フィルハーモニー・コンサート」により向上した社会的地位が脅かされると考えたようです。シュトラウス一家に対する、この姿勢は徐々にしか変わりませんでした。


この姿勢を変えた決定的なことは、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナー、ヨハネス・ブラームスなどの偉大な作曲家が、この作曲家一族の二人を大変高く評価していたという事実に加え、ヨハン・シュトラウス二世と何度か会うことで、ウィーンフィルの楽団員がこの音楽の意義やヨーロッパ中を魅了していた作曲家の人柄を知る機会を得たということにありました。



作曲家ヨハン・シュトラウスとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の長年にわたる友好的な関係


ウイーンフィルとシュトラウスの友好関係は長きにわたり深められてきました。ウイーンフィルの楽団員とヨハン・シュトラウスが出会って間も無く、シュトラウスの楽曲が初演されることとなりました。

 

1873年4月22日にウィーン楽友協会のホールで開催された宮廷歌劇場主催の舞踏会のためにシュトラウスはワルツ『ウィーン気質』を作曲し、ヴァイオリンを自ら演奏しながら指揮しました。1873年11月4日にはウィーン万国博覧会に参加した中国の委員会が開催したガラコンサートで父親やヨーゼフ・ランナーの楽曲、そして『美しく青きドナウ』の公演を行いました。


続いて、宮廷歌劇場のソワレにおいて(1877年12月11日)、シュトラウスは彼が作曲した《古きウィーンと新しきウィーンの回想》の初演を指揮しました。この曲は、残念ながら今は失われてしまった、彼のあるいは彼の父親の楽曲のテーマのメドレー集だと言われています。1894年10月14日にウィーン・フィルはシュトラウスの音楽家生活50周年を記念する祝賀演奏会に参加し、(その返礼として)シュトラウスは記念メダルおよび電報を送り、謝意を表明しました。


ヨハン・シュトラウス」その次の共演には悲しい結末が待ち受けていました。1899年5月22日にシュトラウスは宮廷歌劇場で『こうもり』の公演の最初で最後となる指揮を振りました。その時に風邪を引き、これが肺炎を誘発し、1899年6月3日に死去。


1979年10月にヴィリー・ボスコフスキーが健康上の理由で1980年のニューイヤーコンサートをやむを得ず降板した後、ウィーン・フィルは再び抜本的な改革を行いました。国際的な名声を博していた指揮者であるローリン・マゼールが選出、彼が、1996年までニューイヤーコンサートの指揮を振ることになった。その後は、毎年指揮者を替えることが決定されました。その始まりをヘルベルト・フォン・カラヤンが1987年の忘れがたいコンサートで華々しく飾りました。


その後、クラウディオ・アッバード、カルロス・クライバー、ズービン・メータ、リッカルド・ムーティ、ローリン・マゼール、小澤征爾、ニコラウス・アーノンクー、マリス・ヤンソンス、ジョージ・プレートル、ダニエル・バレンボイム、フランツ・ヴェルザー=メスト、グスターボ・ドゥダメル、クリスティアン・ティーレマン、アンドリス・ネルソンス(2020年)といった、主にウィーン・フィルの定期演奏会の指揮者がニューイヤーコンサートを指揮した。マエストロ、リッカルド・ムーティがニューイヤー・コンサートで指揮するのはこれで7度目となります。

 

 

ニューイヤー・コンサートのこぼれ話 

2021年のニューイヤーコンサート


ニューイヤー・コンサートは、ザルツブルグ音楽祭と並び、オーストラリアの音楽祭としては最大規模。ウィーン楽友協会の黄金ホールで開催されるということもあり、新年らしい華やかなムードを素晴らしいオーケストラの演奏と共に体験出来ます。しかし、このニューイヤーコンサート、実は、12月30日、大晦日、1月1日と、3日間にわたって開催されるのが恒例です。1月1日の演奏だけが世界的に配信され、生放送されるのが通例となっているんです。

 

また、このコンサートは、一般的な参加が可能ですが、コンサートのチケットは抽選式となっています。毎年のように熾烈なチケット争奪戦が繰り広げられ、世界から約50万人の抽選応募があり、当選するのはかなり難しいという話。抽選の申し込みは、通例では、2月1日から29日までとなっているようです。また、”チケットは一人2枚まで”というのが規則となっている。

 

2021年のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは無観客で開催され、地元オーストリアのTV視聴率はなんと54%を記録し、歴史的な視聴率を獲得しました。同年のコンサートは、およそ120万人が視聴したと試算されています。また、この年のコンサートでは、楽団や指揮者の登場時は無音だったものの、第一部と二部の間にオンラインで視聴していた七万人の拍手をリモートで映像で届けるという荒業が取り入れられた。 

 

実は、この年、コンサートの指揮を振ったのが他でもない、リカルド・ムーティでした。彼は、ウィーンフィルと協力し、80年以上に及ぶ、同コンサートの伝統を守り抜くことに成功しました。

 

オーストリア日刊紙「クーリエ」は、この年のコンサートについて、次のように評しています。「芸術的にこれ以上望むものはない」「リッカルド・ムーティとウィーン・フィルは聴衆に特別な音楽的な饗宴をもたらしてくれた」。さらに、同国のクローネ紙も同様に「ウィーン・フィルは魅惑的な色彩感、そして洗練された音に包まれた」と手放しの称賛を送りました。

 

またとない豪華な共演、そして饗宴。様々な楽しみ方が出来るウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート。2025年の年始は、ご家族で生中継をご覧になってみてはいかがでしょうか。

クリスマスソングの集大成  J.S.Bachのクリスマス・オラトリオ  世俗と神聖を繋げるもの

 

オランダ・バッハ協会

  数日後にクリスマスが近づいてきた。クリスマスソングの定番曲というのはそれぞれ国によって異なる。イギリスではキャロル、フランスではノエルがある。そしてドイツ語圏はなんといっても、バッハの「クリスマス・オラトリオ」が定番である。J.S.バッハがクリスマス・カンタータ(合唱付きの器楽曲)を作曲したのは1734年のこと。この年の終わり頃に成立したクリスマス・オラトリオは6つの構成に分かれている。


 「クリスマス・オラトリオ」は、1734年のクリスマスから1735年の顕現節(1月6日)にかけて、年をまたいで、カンタータとして実際に演奏された。バッハは聖トーマス教会の聖歌隊を率い、同地の聖ニコライ教会と聖トーマス教会を往復し、オラトリオを演奏したという。この曲はレスタティーヴォ(現代風に言えば、スポークンワードで、ルター派の福音書のナビゲーターとしての独白的なセリフが合唱や器楽曲の間に現れる)が登場するのが特徴だ。

 

 合唱で始まり、シンフォニア、アリア、レスタティーヴォを交えながら、最後はコラール(福音書の引用)で終了し、総計64曲にも及ぶ。それでは、J.S.バッハはなぜ、このような前代未聞の大掛かりな作曲に挑戦したのだろう。それはバッハがライプツィヒのカントルという教会の教師職にあり、クリスマス、受難節、王侯の祭礼に際して、多くの作曲を行ったという点から話を始める必要がある。

 

 バッハの作曲の総数は、BWV(作品目録のことで、バッハ専用のアーカイヴのような意味がある)の番号で1100以上にのぼり、史上最も多作な作曲家として知られているが、その多くが依嘱的な作品か練習曲のための作品(インヴェンション等)である。つまり、バッハがこれだけ目の眩むような膨大な作品目録を残したのは、教会から作曲の依頼があり、そして教師として、教会音楽の教材を作る必要に駆られたからである。そしてバッハは、1100以上もの作品を制作したが、すべてが新曲ではなく、旧作の作り替えも含まれている。この時代は口うるさく言うメディアもいなかったため、バッハ一族(バッハの時代はなんと40人以上もの親族がいた)で楽曲の使い回しをしたり、自身の楽曲のパロディー(再利用)を心置きなく行ったことは、専門の研究者の間でもよく知られている。


ライプツィヒの聖トーマス教会


 1723年、バッハがライプツィヒの聖トーマス教会のカントル(Kantor)の職に応募したとき、 二人の有力なライバルがいた。当初、聖トーマス教会側はテレマンとグラウプナーに目星をつけていたが、両者に断られた結果、バッハがカントルに着任した。選定の難航があった理由は、ライプツィヒ市の派閥争いがあり、バッハが教会付属の高等教育を終えただけの人物であったことが大きい。当時のカントルは学歴が重視され、音楽教育の生徒に施すだけではなく、ラテン語の教理問答や文法の教育が必須だった。ことバッハに関しては、学生時代に修辞学を学んでいるが、前任者ヨハン・クーナウに比べると、アカデミズムの観点から不安があった。18世紀のライプツィヒには啓蒙主義の波が押し寄せ、音楽よりも実学を重んじる風潮が強まっていたのだ。

   

 1723年、カントルとライプツィヒ市の音楽監督に就任した後、40代のバッハには並外れた多忙な時期が到来した。カントルに就任したバッハの最初の任務は、音楽教師としての指導、そして、もうひとつは、ライプツィヒの市議会議員のような任務を同時にこなすことだった。これは中世ヨーロッパの教区制度というのに起因している。教会がその地域の自治や政治的な役割を担っていたのである。もちろん、これは音楽的な性質が強いことは言うまでもない。

 

 バッハの任務も同様で、ライプツィヒ市の教会の全般的な音楽を取り仕切るという役目があった。これは、もちろん、同地域の何らかの祭礼の時に、バッハ自身が音楽監督を務めたということである。特に、この時代、聖トーマス、聖ニコライの二つの教会の安息日や祝日のための音楽を、バッハは制作する必要に駆られた。これこそ、バッハの音楽が、カンタータ等の楽曲の形式に象徴されるように、祭礼的な意味や宗教儀式的な性質が色濃い理由と言えるのである。

 

 J. S.バッハの音楽というのは、気忙しい現代人にとって大掛かり過ぎるし、また、近寄りがたい面があると思うかもしれない。じつは私もその一人であることには違いないが、バッハの曲が、現代的な音楽の尺度からみると、膨大かつ長大にならざるを得ないのには理由がある。これは意外にも実務的な要因に拠る。特に祝日や祭礼のための音楽は、主にカンタータの形式で書かれ、20分から30分に及ぶ宗教曲が年間60曲ほど必要であったという。これらの曲の多くは、宗教的な神に対する捧げ物として書かれた一方、教会組織に対する捧げ物として制作された経緯があることを考慮に入れたい。バッハとても、もし「こういった曲を書いてほしい」という依嘱がなければ、これほどまでに膨大な総数を持つBWVを作らなかったことは明らかなのである。

 

 おどろくべきは、これらの楽曲のほとんどは制限がある中で書き上げられたという点である。つまり、バロック派以降のロマン派のような個人的な音楽を作ることは非常に少なく、職業的な作家としての作風を維持することを余儀なくされた。同時に、作品を量産しなければならないという重圧の中で多くの制約が存在した。 一つ目は、カンタータという形式の中にあるテキストは、安息日の礼拝の内容に準ずる必要があった。つまり、自由な形で神学的な歌詞を書きこむことは出来なかった。そして、二つ目は、同じカンタータの曲を毎年連続して演奏することもご法度だった。例えば、祝日等に演奏される楽曲が去年と同じ内容であることは一般的に倦厭されたのだ。


 そこで、何年かごとに演奏する曲を入れ替えながら、カンタータは演奏されるというのが通例だった。バッハは、このライプツィヒのカントルの教職にある年代に、およそ5年分のカンタータを書き溜めようと試みた。このほかにも、バッハは以降の時期に多忙な生活を送っている。カントルの職にありながら、音楽教育者としての責務を果たす。楽譜の転写、練習、実際的な演奏の手解きを生徒に施すかたわら、自身の作曲の目録を着実に組み上げていったのである。


 

第三部「天を統べたもう者よ」の情景 農夫の前に聖母と幼子が顕現する


 名曲というのは、そう簡単には出来上がらない。こうした多忙な環境の下で制作された不朽のクリスマス曲「クリスマス・オラトリオ」は、先述したように、パロディ(楽曲の再利用)が取り入れられた。1729年頃から、バッハは、テレマンが創設した学生の演奏団体「コレギウム・ムジウム」を引き継ぎ、ツィマーマンのコーヒー店(18世紀のドイツ最大のコーヒーショップ)の庭で室内楽やカンタータを演奏した。その後、いくつかの楽曲の再利用に取り組んだ。

 

 当該作品の合唱曲やアリアの多くが既存の世俗カンタータからの転用である。とくに、1733年にザクセン選帝侯のために書かれた表敬カンタータ(BWV213、214)が主体になっている。つまり、既存の音楽的な枠組みに福音書を引用した歌詞や合唱、レスタティーヴォを付け加えていった。


 ここには、バッハの再利用に対する容認的な考えと、自身の楽曲が埋もれてしまうことへの惜しさがあったという通説がある。その一方、作曲者の見地から見ると、旧来のテーマや題材を組み替えて洗練させ、崇高な作品に仕上げたいとの欲求も読み解けるかもしれない。そしてもうひとつ、通俗性の中に神聖な概念を見出すという作曲者の隠れたメッセージを読み解くことが出来る。さらに、バッハが作曲の狙いとして定めたのは、世俗と神聖という二つのかけ離れた主題をクロスオーバーしながら、それを繋げるというものであった。ここには、バッハの考える理想的な音楽ーークリスマス・オラトリオーーが限定的な特権階級にとどまらず、一般的に開かれるべきという思いを読み取れなくもない。これは、教会の教師職という立場が、そのような切実な思いを浮かび上がらせたと言える。次いで、楽曲の再利用に関しては、多くの作曲家にとって、楽曲は一度書き上げただけで完成ではなく、もし、編曲や改良の余地が残されていれば、それに迷わず取り組むというのが、作曲家としての責務であると考えていたのではないかと推測される。

 

 クリスマス・オラトリオは、一般的には教会の祭礼のために作曲された作品であることに違いない。しかし、作曲の最初の動機は教会の祭礼のためだったが、「誰に向けて奏でられるべきなのか?」という疑問を抱いたとき、もうひとつの見解が浮かび上がる。これは、バッハが聖トーマス教会の聖歌隊を率い、二つの教会を往復しながら、オラトリオを生演奏したというエピソードに関して、その演奏を誰が耳にするのかというポイントを探ればよく分かる。つまり、バッハは、このカンタータを神聖な存在のために捧げたのみならず、民衆のために捧げたのだ。それゆえ、現代のクリスマス・オラトリオもまた、民衆的な響き、神聖的な響きが幾重にも折り重なり、崇高なハーモニーを形作り、我々を魅了してやまない。それはおどろくべきことに、最初の演奏から300年近くが経過した現代の私達に鮮烈なイメージすらもたらすのである。


下記のクリスマス・オラトリオの演奏は数日前に公開されたオランダ・バッハ協会のもの。ぜひ年末にかけてじっくり聞いてみていただきたい。




 もし、図書館で調べ物をしていて、2世紀以上前の有名作曲家の楽譜を見つけたとしたら??   


 そんなロマンを感じさせる出来事が音楽の都ドイツのライプツィヒで起こった。今回、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトの死後230年以上が経ち、新しい楽譜が発見された。モーツァルトが10代の頃に書いたと思われる、未発表曲がドイツの市立図書館で発見されたというのだ。


 ライプツィヒ市立図書館の公式の声明によると、「Ganz kleine Nachtmusik(ガンツ・クライネ・ナハトムジーク)」と呼ばれる12分に及ぶ曲は、1760年代半ばから後半に制作されたと見られ、弦楽三重奏のための7つの小楽章で構成されているという。さらにライプツィヒ市立図書館の発表によると、研究者がこの曲をライプツィヒの音楽図書館で発見したのは、いわゆる「ケッヘル」カタログの最新版を編集している時だったという。


ライプツィヒ市立図書館で発見されたモーツァルトの未発表曲の模写


 今回、ライプツィヒで発掘された手稿はモーツァルトが個人的に書いたものではなく、研究者によれば、1780年に作成されたオリジナルの楽譜の模写であると推察される。この曲は、今週木曜日(9月19日)にオーストリア・ザルツブルグで行われた最新版のカタログのお披露目で弦楽三重奏によって初演され、続いて、土曜日(9月21日)にライプツィヒ歌劇場で初演される予定。


 ザルツブルクの国際モーツァルテウム財団のウルリッヒ・ライジンガー氏は、この曲について声明を通じて次のように述べています。「この曲の着想はどうやらモーツァルトの妹から得たようなので、妹が兄の形見として、この作品を保管していたのではないかと想像したくなる」


 ケッヒェル・カタログは、この曲について、1769年12月、神童モーツァルトがまだ13歳であった頃に書かれたもので、「作者の帰属から、モーツァルトが初めてイタリアを旅行する前に書かれたものであることが示唆される」と述べています。

 

 2世紀余りが経過しても影響力を失わぬ音楽家であり、いつの時代もセンセーショナルであり続ける。それがヴォルフガング・モーツァルトの偉大さなのかもしれない。


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John Adams


ジョン・クーリッジ・アダムス(John Coolidge Adams)は1947年生まれの米国の現代音楽家。1971年にハーバード大学でレオン・キルヒナーに学んだ後、カルフォルニアに移り、サンフランシスコ音楽院で教鞭と指揮者として活躍、以後、サンフランシスコ交響楽団の現代音楽部門の音楽顧問に就任する。1979年から1985年まで楽団の常勤作曲家に選出される。

 

その間、アダムスは『Harmonium(ハーモニウム)』、『Harmonielehre(和声学)』を始めとする代表的なスコアを残し、作曲家として有名になる。以後、ニュー・アルビオン、ECMといったレーベルに録音を提供し、ノンサッチ・レコードと契約する。1999年には『John Adams Ear Box』を発売した。


ジョン・アダムスの作風はミリマリストに位置づけられる。当初は、グラスやライヒ、ライリーの系譜に属すると見なされていたが、コンポジションの構成の中にオリヴィエ・メシアンやラヴェルに象徴される色彩的な和声法を取り入れることで知られる。


その作風は、新ロマン主義に属するという見方もあり、また、ミニマルの未来派であるポストミニマルに属するという解釈もある。彼の作風では調性が重視されることが多く、ジャズからの影響も指摘されている。

 

管弦楽『Fearful Symmetries」ではストラヴィンスキー、オネゲル、ビックバンドのスウィングの技法が取り入れられている。また、ライヒのようなコラージュの手法が採られることもある。

 

チャールズ・アイヴズに捧げられた『My Father Knew Charles Ives』でもコラージュの手法を選んでいる。1985年の歌劇『Nixon In China(中国のニクソン)』の晩餐会の場面を管弦楽にアレンジした『The Chairman Dances(ザ・チェアマン・ダンス)」は管弦楽の中では再演される機会が多い。

 

ジョン・アダムスの作曲家としての主な功績としては、2002年のアメリカ同時多発テロを題材に選んだ『On The Transmission of Souls』が名高い。この作品でアダムスはピリッツァー賞を受賞した。ロリン・マゼール指揮による初演は2005年度のグラミー賞の3部門を獲得した。



Phrygian Gates / China Gates  (1977)

 


 

ジョン・アダムスのピアノ・スコアの中で特異なイデアが取り入れられている作品がある。『Phyrygian Gate and China Gates』であり、二台のためのピアノ協奏曲で、マック・マクレイの委託作品で、サラ・ケイヒルのために書かれた。

 

この曲は1977年3月17日に、サンフランシスコのヘルマン・ホールで、ピアニスト、マック・マクレイにより初演された。和声法的にはラヴェル、メシアンの近代フランス和声の系譜に属している。

 

この2曲には画期的な作曲概念が取り入れられている。「Gates- 門」は、なんの予告もなしにモードが切り替わることを意味している。つまり、現実の中に別次元への門が開かれ、それがミルフィール構造のように移り変わっていく。


コンポジションの中に反復構造の意図が込められているのは事実だが、音階構造の移行がゼクエンツ進行の形を介して段階的に変化していく点に、この組曲の一番の面白さが求められる。つまり、ライリー、ライヒの作品とは少し異なり、ドイツのハンス・オッテ(Hans Otte)のポスト・ミニマルの系譜にあるコンポジションと言える。さて、ジョン・アダムスは、このピアノの組曲に関してどのように考えているのだろうか。


 



 

「Phrygian Gates(フリギアの門)」とその小さなコンパニオン作品である「China Gates(中国の門)」は作曲家としての私のキャリアの中で重要な時期の産物でした。

 

この作品は、1977−78年に新しい言語での最初の一貫した生命として登場したという事実のおかげで、私の「Opus One」となる可能性を秘めている。1970年代のいくつかの作品、アメリカンスタンダード、グラウンディング、いくつかのテープによる作曲は振り返ってみると独創的であるように見えますが、まだ自分自身の考えをまとめる手段を探している最中でした。


「Phrygian Gates」 はミニマリストの手段の強い影響を示していて、それは確かに反復的な構造の基づいています。しかし、アメリカのミニマリストにとどまらず、ハワード・スケンプトン、クリストファー・ホッブズ、ジョン・ホワイトのようにあまり知られていない英語圏の実践者は、この作品を制作する上で私の念頭に置かれていた。


1970年代はそもそも、ポスト・シェーンベルクの美学の過程がセリエリズムの原則にそれほど希望を見出さない作曲家によって新しい挑戦が始まった時代でした。これはまた、言い換えれば、新しい音楽における巨大なイデオロギーとの対立の時代だったのです。私はその頃、ジョン・ケージの方法に同様に暗い未来を見出していたが、それは合理主義と形式主義の原則に立脚しすぎているように私には思えたのです。


例えば、『易経』を参考にして作曲法を決定することは、『トーン・ロー』を参照して作曲することとそれほど違いがあるとは思えなかった。ミニマリズムというのは、確かに縮小された、ときには素朴なスタイルなのですが、私にこの束縛から抜け出す道を与えてくれたのです。調性、脈動、大きな建築構造の組み合わせは、当時の私にとって非常に有望であるように思えたのです。 

 

 

 「Phrygian Gates」

 


『Phrygian Gates』は、私がミニマリズムのこうした可能性にどのようにアプローチしたかを明確な形で示している。

 

また、逆説的ではあるが、私が当初からこのスタイルに内在する単純さを複雑化し、豊かにする方法を模索していたという事実も明らかにしている。よく言われる、”ミニマリズムに飽きたミニマリスト”という言葉は、別の作家が言ったものだが、あながち的外れではないでしょう。


『Phrygian Gates』は、調のサイクルの半分を22分かけて巡るもので、「平均律クラヴィーア曲集」のように段階的に転調するのではなく、5度の輪で転調していく。


リディアンモードとフリジアンモード(注: 2つとも教会旋法の方式)の矩形波が変調する構造になっている。曲が進むにつれて、リディアンに費やされる時間は徐々に短くなり、フリギアに費やされる時間は長くなる。

 

そのため、一番最初のAのリディアンの部分は曲の中で最も長く、その後、Aのフリジアンの非常に短いパッセージが続く。次のペア(Eのリディアンとフリジアン)では、リディアンの部分が少し短くなり、フリジアンの部分がそれに比例して長くなる。そして、コーダが続き、モードが次々と急速に混ざり合う。「ゲート」とは、エレクトロニクスから借用した用語で、モードが突然、何の前触れもなく変化する瞬間である。この音楽には「モード」はあるが、「変調」はない。


私にとって『Phrygian Gates』がいまだに興味深い理由を挙げるとするなら、その形状の地形と、波紋を思わせる鍵盤のアイデアの多様さである。

 

波が滑らかで静かなときもあれば、波が押し寄せてフィギュレーションが刺さるような場合もある。ほとんどの場合、それぞれの手を波のように動かし、もう一方の手と連続的に調和するパターンとフィギュレーションを生み出すように扱う。これらの波は、常に短い「ピング音」によって明瞭に表現され、小さな道しるべとなり、内部の小さな単位をおよそ「3-3-2-4」の比率で示す。


『Phrygian Gates』は一種の巨大構造であり、相当な肉体的持久力と、長い音のアーチを持続する能力を持ったピアニストが必要とされます。一方、『China Gates』は若いピアニストのために書かれたものです。演奏者のヴィルトゥオーゾ的な技術的効果に頼ることなく、同じ原理を利用している。

 

この曲もまた、2つのモーダルな(様式的な)世界の間を揺れ動くが、それは極めて繊細に行われている。この曲は、暗さ、明るさ、そしてその間に内在する影の細部に真摯に注意を払うことを求めるような曲であると私には感じられる。-John  Adams


「China Gates」

 


 

J.S.バッハによる「Goldberg-Variationen(ゴールドベルク練習曲集) BMV988」は19世紀以降、「ゴールドベルク変奏曲」という名で親しまれている。

 

ピアノの演奏では、古くはグレン・グールド、現在はアンドラーシュ・シフ、オラフソン等の録音が有名だが、2000年以降、複数の音楽家が、チェンバロ(ハープシコード)の演奏により、スコアの従来とは異なる魅力を引き出そうと試みている。

 

これはベートーベンの時代のフォルテ・ピアノの楽器も用い、その時代の音楽を再現させようという試みである。ハンマー・クラヴィーアとは異なり、18世紀の宮廷で響いた音楽とはかくなるものではなかっただろうか、というような歴史的な考察を交えながら、音楽を楽しむという趣が込められているのではないだろうか。時代検証や古い時代に対するロマンを音楽的な感性によって駆り立てようという試みは、もっと高く評価されてしかるべきではないだろうか。

 

では、このJ.S.バッハによるゴールドベルク練習曲集は、どのような経緯で作曲されたものだったのか。ウイーン原典版にはこうある。


ーーその愛好家の心の慰みのため、ポーランド国王兼ザクセン選帝侯の宮廷作曲家、楽長、ならびにライプツィヒ 音楽隊監督、ヨハン・セバスティアン・バッハが作曲した。ニュルンベルクのバルタザール・シュミートにより刊行ーー


この音楽は癒やしのために宮廷の王侯に捧げられた楽曲集らしいということがわかる。

 

 ゴールドベルクの楽譜彫版は、発行責任者であるシュミートが自ら行った。バッハはこれに先駆け、自費出版をしている。このことから、第四部を出版者に委任した際に、番号付けを断念したことが伺える。

 

初版の発行には、出版年が明記されず、この時代の楽譜出版では一般的であった出版番号(彫版番号とも)も記されていない。

 

つまり、ゴールドベルクの成立した年代は不明であるが、1つだけ手がかりがあり、表題のページの上にある「16番」という数字が明記されているため、1741年よりも前に作曲されたという可能性は少ないというのが一般的な説となっている。通説では、1740年にこの「ゴールドベルク練習曲集」が書かれたことが確実視されている。

 

バッハ研究の第一人者として有名で、伝記も出版しているヨハン・ニコラウス・フォルケルは、このスコアはバッハの年上の息子の申し立てに基づき、変奏曲がドレスデン宮廷のロシア大使であった帝国伯ヘルマン・カール・フォン・カイザーリンクの委嘱により、そのお屋敷のお抱えのチェンバロ奏者ヨハン・ゴートリープ・ゴールドベルクのために書かれたと記している。

 

ーーあるとき、伯爵はバッハに穏やかでいくらか快活な性格を持ち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲をお抱えのゴールドベルクのために書いてほしいと申し出た。変奏曲というものは、基本的に和声的な変化を付け加えることが少ないので、バッハ自身はやりがいのない仕事であると考えていたが、伯爵の希望を満たすためには変奏曲が最も望ましいと考えた。そしてバッハは完成品の報酬として、ルイ金貨が100枚詰められた金杯を受け取った。ーー

 

しかしながらこの一般的な通説に関しては疑問視されている箇所もある。まず、貴族からの委嘱作品には正式の献呈の辞をつけることが習慣付けられていたが、これが記されていないという点。そしてバッハがチェンバロ奏者ゴールドベルクのために書いた可能性が限りなく低いのではないかという指摘もある。つまり、1737年頃からバッハの弟子だったゴールドベルクは、この作品が作曲された年に12-13歳だったからである。さらに、ゴールドベルク変奏曲に先立って出版された『クラヴィーア練習曲集』の最初の三部のシリーズとなっており、それらの作品群には委嘱者が記されていない。


上記の点から、これらが委嘱作品と見なすには疑問点がいくつも発見出来る。しかしながら、それと同時に、ヨハン・フォルケルの報告が史実の核心に基づいて行われていることも事実である。1741年の11月、バッハは、ドレスデンのカイザーリンク邸に滞在し、そのときにかれは伯爵に手書きの献呈の辞を添え、その伯爵邸にて、このスコアを直接贈ったか、もしくは献呈をする約束をしたという可能性が浮かび上がってくるわけである。


ヴァイマール時代のオルガンのためのコーラス変奏曲以来、バッハは変奏曲を書くことに興味を示したことはほとんどなかったという。1740年代に対位法的な晩年の作風の時期に至ると、バッハはようやく、この変奏曲という作曲形式に興味をいだきはじめた。そしてこのゴールドベルク練習曲の多楽章を連ねた形式を、彼の卓越したコンポジションの手腕により、首尾一貫したツィクルスに高めようとしたというのが、この楽曲集のウイーン原典版の説明である。

 

このスコアの再演に関しては、ピアノによる演奏が有名だが、その他にもチェンバロ(ハープシコード)による再演を試みる演奏家もいる。

 

特に、傑出した再演をリリースしているのが、アメリカのチェンバロ演奏家であるロバート・スティーブン・ヒル(Robert Hill)、そして、ベルギーの演奏家であるフレデリック・ハース(Fredrick Haas)が挙げられる。前者は、チェンバロのライブ録音により、ダイナミックな音響性を重視したアルバム『Bach: Goldberg Variations』を2011年にリリースしている。

 

後者のフレデリック・ハースは、「Clavin Henri Hemsch 1751」というフランスの18世紀に制作されたアンティークのハープシコードで落ち着いた演奏をレコーディングで披露している。

 

双方ともに、ハープシコードの制作の年代に違いがあるため、演奏される楽器の調音が異なる。少なくとも、ピアノとは一味違うゴールドベルク変奏曲のパフォーマンスを楽しめる。前述したように、フォルテ・ピアノよりも格調高い響きには洗練性と気品が漂い、崇高な音響性が生み出されている。

 

 

 

Robert Hill  『Bach: Goldberg Variations』 /   Music and Arts Program of America 2011



 

1993年5月18日にフライブルク、カウフハザールでロバート・ヒルのライブ録音。・アルバムにはライブ録音が持つ緊張感、それに負けぬ卓越したヒルの演奏、それに加え、その場に居合わせた観客の拍手も収録されている。アートワークのはフェルメールの絵画「音楽のレッスン」。

 

ハープシコードのきらびやかな音の響きを堪能出来、演奏の間にはチューニングピンや響板が軋む音が、演奏者の息遣いとともに精妙な音が録音されている。ゴールドベルクはそもそも、大作であるため、聞くのに根気を必要とするのは事実であるが、ロバート・ヒルの卓越した演奏力はそれらの間を超越し、緩急に富んだゴールドベルクの物語性を喚起させ、最後の「アリア」に至る時、またそれらのすべての音が鳴り止んだ時、観客の歓声とともに感動的な瞬間を呼び起こす。ハープシコードの演奏のゴールドベルク変奏曲のライブの決定版に位置づけられる。

 

 

 


 



 

Fredrick Haas 『Bach:  Goldberg Variations BMV 988」/ La Dolce Volta 2010




ベルギーの演奏家、フレデリック・ハースは、チェンバロやフォルテピアノのソリストとして、オーソニア・アンサンブルのリーダーとして活躍している。1997年よりブリュッセル王立音楽院チェンバロ科教授。ドイツ、イギリス、ベルギー、フランスで定期的にマスタークラスを開催している。

 

1751年製のアンリ・ヘムシュ製チェンバロを所有し、この楽器をゴールベルク変奏曲の演奏で使用している。一般的なハープシコードと調音が異なり、比較的落ち着いたゴールドベルクの贅沢な響きを追求している。