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「クンビア」 ーラテンアメリカの舞踊音楽ー 音楽における記憶の継承

”クンビア”はラテンアメリカのダンス音楽の一つで、コロンビアの伝統音楽でもある。この伝統音楽はおよそ1800年頃には存在したと言われ、1960年代に人気が沸騰し、世界中で人気を博した。 この音楽が近隣諸国に伝播していくにつれ、アスカンビア・ペルアナ(ペルー)、クンビア、アルゼンチン(アルゼンチン)、クンビア・チレナ(チリ)、クンビア・メキシカナ(メキシコ)など、各諸国で新しい形態のクンビアの派生音楽を生み出すことになった。メキシカーナなど上記の派生した音楽にも心を惹かれるものがありますが、特にコロンビアの海岸地域で発生した伝統的なクンビア、その音楽の最初期の発展こそがコロンビアという国家の重要な文化の基礎を形成している。 クンビアにはその前身となる音楽のスタイルがあるらしく、フォルクロルコロンビアーノといわれるアフリカ系コロンビア人が植民地時代に大陸から持ち寄った民族音楽がその発祥とされています。植民地化以降、コロンビアの沿岸地域には、スペイン人、ネイティヴのコロンビア人、アフリカ系のコロンビア人が混在して生活していたと言われている。それらの人種的な混在が多様な音楽のスタイルを生み出し、何世紀にわたる音楽文化の礎石を築き上げていった。そして、この音楽は、移民としてアフリカ大陸から渡来した人々の音楽の記憶の継承でもある。[....]

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アパラチアの文化  「アパラチアン・フォーク」の本質に迫る

 アパラチアとはニューヨーク州からミシシッピやアラバマ州まで、その稜線を伸ばす山岳地帯である。その地域は約二十万平方マイルを網羅している。古くは、イングランド、スコットランド/アイルランドの移民が多く住んでいて、ニューイングランドの文化性を最初期のアメリカの建国において築き上げて来た。この民族は、日本の北海道の奥地にいたアイヌ民族によく似た生活を送り、口伝の伝統性、自給自足の生活、そして民間伝承を特徴としていた。後には「アパラチアン・トレイル」という区域が設けられ、山岳登山者にも親しまれる場所となった。 アパラチア山脈の地域の産業は、農業の他、石炭の採掘が盛んだった。山岳地帯で冬はひときわ寒い。真冬は大雪が降る。家の中を温めるため、石炭と石油は必須であった。男性は石炭を採掘するため山の奥深くに踏み入った。彼らが日中を仕事に費やし、木造りの小屋の灯芯の油が途絶えようとする頃、山に仕事に行っていた男が石炭と埃にまみれて戻って来る。その間、女性たちは農業や紡績等の仕事を行い、家族が帰ってくるのを待っていたのは想像にかたくない。 アパラチアの文化を見るときにフォーク音楽という要素を欠かすことは出来ない。なぜならアパラチアは鉱業と音楽によって、その文化性を構築してきたからである。フォークとは平たく言えば、民謡のことで、その地域で親しまれる流行歌と言える。アパラチアはカントリーとブルーグラスの発祥の土地であり、もちろん、アメリカーナの出発の土地でもある。スコットランドやニューイングランドの移民は、はてない太洋の向こう、遠く離れた故郷のイギリスの望洋の念をアコースティックギターに乗せて歌ったのだろうか。アパラチアの家族の中には、必ずといっていいほど、楽器演奏者がいた。多くの鉱業や農業を営む家族は非常に貧しかった。高級なピアノを買うほどのお金はない。そこで、彼らは、スコットランドから持ってきたフィドルやバンジョー、あるいは、ダルシマーを演奏したのだった。山の枝を伐り、薪とし、それを小屋の向こうで燃やし、薪の周りに円居し、フォーク音楽を演奏した。この地域からはドリー・パートン、パッツィ・クライン、ロレッタ・リンを始めとする偉大な音楽家が輩出された。 こういった山岳地帯の生活の中でアパラチアン・フォークは育まれたわけだが、この音楽用語は20世紀初頭に少数の学者のグループによって名付けられた人工的なカテゴリーだった。アパラチアの民族性は音楽だけではなく、民間伝承や産業を切り離して語ることは難しい。それに加えて、民族的にもアフリカ系が住んでいた。単一主義の地域ではなく、出発からして多民族の地帯だ。しかし、この地域の音楽が、後世のフォーク/カントリーの一部を形成しているのは事実のようである。スコットランド民謡の伝承という要素がアパラチア音楽の素地の一側面を形成しているのも明確なのだ。  アパラチア音楽に求められる民俗性 19世紀から始まり、1920年代まで続いたアパラチア音楽に関する初期研究は、すべてアイルランド等で盛んだった「バラード」という形式、及び、他の類に属する新しい当世の流行歌や歌謡曲の再発見である「バラード・ハンティング」、「ソングキャッチ」という側面に焦点が絞られていた。ジェームス・チャイルドの「イギリスとスコットランドの人気バラード(1898)」という書籍を元に音楽研究が進んだ。実際、この本に書かれていた記述によって、アパラチアの音楽とイギリス諸島の民謡の中に歴史的なつながりを見出す契機をもたらしたのだった。 アパラチア音楽の最初期の評価は、モチーフの価値観や興味よりも、作家の個別の価値観や興味に基軸が置かれていた。例えば、1928年に米国議会図書館にフォーク・ソングアーカイブを設立したロバート・ウィンスロー・ゴードン氏は、イギリスの歌との直接的な関係によって定義付けられるアパラチアのフォーク音楽こそが「純正なもの」であり、「本物」であるとしている。ロバート・ゴードン氏は、「アパラチアを、アフリカ系アメリカ人やユダヤ系アメリカ人に代わるアメリカ人」として指摘した上で、次のように言及している。「個人的には、私達の本当のアメリカ人のフォークを復活させ、知らせるためのプロジェクト全体が今日率先して行うべき価値のあることだと信じています。真のアメリカニズムの見方ーー、それはまさに私達の過去、開拓者、アメリカの作った人々の魂そのものです。現代のブロードウェイ、ジャズだけではないのです」ロバート氏の言葉には、現代性を見た上で、「過去の民族性が、現在にどのような形で反映されているのか」を最も重視すべきということが痛感出来る。 ただ、音楽専門家の意見とは異なる民俗学の研究者の視点が入ったとき、アパラチア音楽の研究は別の意義を与えられることになった。英国の伝統に関する視点は必ずしも絶対的なものではなかったのだ。ション・ローマックスとアラン・[....]

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【St.Patrick's Day- セントパトリックスデー】 アイルランドの守護聖人のお祭り なぜバクパイプが演奏される?

毎年3月17日に行われるセント・パトリックス・デーは、パレードやお守り、そして緑のカラーに染まる。今年も世界各地でアイルランドの守護聖人のイベントが開催された。 人々は、目の覚めるような緑の民族的な衣装や山高帽を身にまとい、大きなパトリックの人形を制作し、街を練り歩き、バクパイプを演奏しながら、このお祭りを盛大に祝うのが通例である。このセント・パトリックのイベントは宗教的な祝日として始まったが、後にアイルランド文化の祭典となりました。このイベントは実は例年、原宿でも行われ、ひそかなパレードが開催されるのが通例となっている。このパレードはアイルランド系の多いボストン、サンフランシスコ、シカゴでも開催されることも。特にシカゴの運河が緑色に染まるのを見たことがある方はいるだろうか。聖パトリックはアイルランドの守護聖人と一般的に言われているが、常にアイルランドに住んでいたわけではないようです。パトリックは、4世紀にイギリスで生まれ、アイルランドに来たのは16歳の時でした。到着後、パトリックはキリスト教に興味を持ち、他の人々にこの宗教について伝道を行うに至った。彼は、この国の住民の多くをキリスト教徒に改宗させたと言われており、現在では、パトリックが亡くなったとされる日に聖パトリック・デーが祝われている。米国の移民はイギリスだけではなく、アイルランド系もいる。ボストンのアイルランド系アメリカ人は、1737年に最初の祝賀行事を開催しました。新しく設立されたチャリタブル・アイリッシュ・ソサエティ(Charitable[....]

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「Breaking Dance(ブレイキング・ダンス)」の始まり   今なおヒップなダンスカルチャーのスタイルの原点

 ブラック・ミュージックの系譜を説明するに際して、ダンスの要素を差し引いて語ることはとても難しい。そもそも、ダンスは音楽と連動するようにして文化の中核を担ってきた経緯があるからである。ロックにしても、ソウルにしても、ハウスにしても、音楽には常に踊りが付随して文化発展を辿った経緯がある。アクションのない黒人音楽、それは無味乾燥なもので、ひどくつまらないものになるだろう。例えば、50年代には、ロックンロールという踊りがあったし、ツイスト、ポップコーン、ブギー、チキン、バンプ、ゴーゴー、ハウス、とその後の数十年をかけて、ダンスカルチャーの系譜を作り上げてきた。これらはスタジオの中にある音楽を一般のストリート・カルチャーに開放する力を持っていた。だから音楽家や取り巻きに留まることなく、多数の人々に支持され、インディーベースでも支持層を拡大してきたのだった。 ブラックミュージックは、移民系の有色人種や、そこに部分的に関わる白人のダンスカルチャーの一端を担っている。厳密に言えば、その後のヒップホップですらも、文学的な試みや個人的な告白や暴露、人種的なステートメントとは別に、ダンスの要素が不可欠となっている。ブラックミュージックは、音楽からダンスが離れすぎてもいけないし、それとは反対にダンスから音楽が離れすぎてもいけない。そして、ストリートのダンスとスタジオの音楽の融合がブラックミュージックのヒストリーの核心を構成している点を踏まえると、動きが少なく踊れることができないブラックミュージックはお世辞にもヒップとはいいがたい。そして主流の系譜からは外れており、それはオルタネイティヴに属すると言えるのだ。 今年開催されるパリ・オリンピックでも注目の競技となる、ブレイキングのルーツは、基本的には1970年まで遡る。[....]

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Bossa Nova(ボサノヴァ)の発祥  カルロス・ジョビン、モライス、ジルベルト、そしてイパネマの娘

イパネマの海岸ボサノヴァは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。  ボサはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノヴァの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。 そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、音楽が世界に向けて発信された。ボサノヴァは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。  Antnio[....]

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R&Bとインディペンデントレーベルの歩み   全米各地に設立された50年代のレコード会社

  1950年代、ビック・スリーと呼ばれる、ジェイムス・ブラウン、ジャッキー・ウイルソン、サム・クックが登場した後、新しいタイプのR&Bシンガーが登場した。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ロサンゼルスを舞台に多数のシンガーが台頭する。ファッツ・ドミノ、ルース・ブラウン、ファイブ・キーズ、クローヴァーズがその代表格に挙げられる。この時代は、ビック・スリーを筆頭に、必ずといっていいほど、ゴスペル音楽をルーツに持っているシンガーばかりである。近年、ヒップホップを中心に、ゴスペル音楽を現代的なサウンドの中に取り入れるようになったのは、考え方によっては、ブラックミュージックのルーツへの回帰の意味が込められている。そしてこの動向が、2020年代のトレンドとなってもそれほど不思議ではないように思える。 そもそも、「R&B(リズム&ブルース)」というのは、ビルボードが最初に命名したもので、「リズム性が強いブルース」という原義があり、第二次世界大戦後すぐに生まれた。その後、ソウルミュージックというワードが一般的に浸透していき、60−70年代の「R&B」を示す言葉として使用されるようになった。しかしながら、この年代の前には、R&Bではなく、「レイス・レコード」、「レイス・レーベル」という呼称が使われていたという。これはなぜかというと、戦前のコロンビアやRCA、ブルーバード、デッカなどのレーベルは、白人音楽と黒人音楽を並行してリリースしており、作品を規格番号で区別する必要があったからである。レーベルのカタログから「レイス・シリーズ」というのも登場した。現在の感覚から見ると、レイシズムに根ざした言葉ではあるが、コロンビア、RCAの両社は、戦後もしばらくこの方針を継続していた。 その後、1970年代に入ると、一般的に見ると、ブラック・ミュージックは商業化されていき、R&Bシンガーは軒並み大手のメジャー・レーベルと契約するようになる。[....]

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