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バロックポップとチェンバーポップの原点

 

The Beatles-Strawberry Fields

他のジャンルと同様に、ポピュラーミュージックの中には、数えきれないほど無数のジャンルがある。例えば、この中にチェンバーポップ、バロックポップというジャンルが存在するのを皆さんはご存知だろうか。


大まかに言えば、これらの2つの専門用語ともに古典音楽の影響を含めるポピュラー音楽を意味する。チェンバーポップ、バロックポップの原点は間違いなくビートルズにある。そう、勘が鋭い読者はお気づきのことだろう、「Strawberry Fields Forever」である。


「Strawberry Fields Forever(ストロベリー・フィールズ・フォーエバー)」は、ビートルズの楽曲である。1967年2月に「Penny Rain(ペニー・レイン)」との両A面シングルとして発売され、ビートルズのサイケデリック期における傑作。


レノン=マッカートニー名義となっているが、実質的にはジョン・レノンの作った楽曲といわれ、レノンが幼少期に救世軍の孤児院「Strawberry Fieldsr」の庭園で遊んでいた思い出をモチーフにしている。

 

1966年11月にレコーディングを開始し、スタジオで5週間に渡って異なる3つのバージョンを制作し、最終的にテンポやキー、使用される楽器の異なる2つのバージョンを繋ぎ合わせて完成した。


現代の「編集的なサウンド」、及び現代のWilcoがレコーディングで使用するような音楽のレコーディングはすべてここから始まったといえる。

 

この曲にはメロトロンやストリング、ホーンセクション、逆再生、そしてポピュラー音楽の範疇を越えたクラシック音楽の構成など、現在でもレコーディングやソングライティングの教科書とも言えるマスターピースであり、チェンバーポップやバロックポップの出発点とみても大きな違和感がない。


しかも、この音楽にはバロック音楽の要素が取り入れられている。しかし、教会のポップ、そして、バロックのポップとはいったい何を意味するのか。それを始まりから現在に至る系譜を大まかに追っていきたい。



バロック音楽



そもそも「チェンバー」は教会の意味である。これは教会で演奏されるクラシック音楽を模したポピュラー音楽を意味すると推測できる。その一方、「バロック」というジャンルも音楽の専門用語で使用され、クラシック音楽の一ジャンルをポピュラーの中に組み入れることを意味していると思われる。バロックはポルトガル語で「不整形の真珠」を意味している。バロックというジャンルは、中世の古典音楽のジャンルで、イタリアからフランス、ドイツまでヨーロッパの音楽様式として栄華をきわめた。

 

バロックは、音楽という観点で言えば、イタリアのヴィヴァルディに始まり、フランスのクープラン、ドイツのJSバッハまでの中世ヨーロッパの音楽形式を示すのが一般的と言える。音楽としては、ハープシコードを用いたり、トランペット(ピッコロ)やフレンチホルン、さらには木管楽器を弦楽曲と共に組曲の中で使用した。テンポとしては、ゆったりとしたアンダンテから、性急に駆け抜けていくプレストまで様々である。これらのバロックやチェンバーという様式の原点は、そのほとんどが宗教的なモチーフや宮廷などの委嘱作品として制作される場合が多かった。詳述するには音楽家が宮廷お抱えの演奏家や作曲家であった時代にまで遡る必要がある。


中世の音楽家は、そもそも教会組織に使える人物であり、王族や教会のためのミサ、及び、宗教的な儀式のための音楽を制作し、教会の組織から特別な「サラリー(給与)」を得ていたのである。(サラリーは、塩から派生した言葉で、仕事の定期的な報酬は「塩」という貨幣の代替品により始まった。塩が最も貴重であった時代の話である)それらのバックアップを得て、ヨーロッパの近隣諸国の演奏旅行に出かけることもあった。現在で言う''ライブツアー''の原点である。つまり、現在のプロモーターやレーベルのスポンサーの役割は、中世音楽という観点からいうと、教会の組織やコミュニティ、もしくはその背後にある国家が司っていたと見るべきだろうか。


これらの作曲家、演奏家の多くは教会専門の音楽家として生計を立てていたが、もしその契約を打ち切られると、かなり大変だった。たちどころにスポンサーを失い、みずからの音楽が演奏される機会が少なくなり、最終的にはモーツァルトのように借金をしてまで生計を立てねばならなくなる。晩年、ザルツブルグの教会内部との軋轢があってのことなのか、モーツァルトは晩年には無宗教者として墓に入ることを決意した。しかし、彼の遺作が宗教音楽のレクイエムであることはかなり皮肉にまみれている。

 

時代が変わり、楽譜(スコア)が出版されるようになると、現在でいうCD/LPの販売のような商業的な形態の初歩的な構造が出来上がっていった。当初は銅板の印字のような出版形式で、後に現在のスコアのような紙の出版へと移行していく。すると、ドイツや旧ワイマール帝国、あるいはオーストリアの作曲家は楽譜を書店などで売ることで、ようやく生計を立てられるようになった。

 

しかし、現在のようなライブツアーや物販という営業形態までは至らず、依然として教会や国家に仕える比較的経済に余裕がある場合を除いては、音楽家のほとんどはどのような時代も貧困にあえいでいたと見るべきだろう。現在のようなスターシステムは当然ながら、グッズ販売などの付加要素がないため、楽譜の売上だけではなく、ピアノ教師をやりながら生計を立てていかなければならなかった。現在でいう専門のインスティテュート、ピエール・ブーレーズが設立したIRCAMのような研究の専門機関もまだ存在しないので、それはほとんど個人的な音楽教師の範疇にとどまっていた。

 

ロベルト・シューマンと並んで世界最初の音楽評論家であるロマン・ロランによるベートーヴェンの伝記にも出てくるが、音楽室の壁に飾ってある大作曲家の半数は、中世においては社会的な地位に恵まれることは少なかった。フランスでは、だいたいのところ国立音楽院で学んだ後、教授職に就いたり、ガブリエル・フォーレのように学長に歴任するというケースはきわめて稀だった。これは彼が出世コースを歩み、アカデミズムの世界の人物であったからである。

 

音楽家が独立した職業として認められ、一般的に生計を立てられるようになったのは、少なくとも19世紀の終わりか、もしくは20世紀のはじめと推測される。後にはマーラー、ブーレーズ、ストラヴィンスキーなど、指揮者と作曲家を兼任し活動を行う人々も出てくる。この時代からようやく音楽家の地位も一般的な水準より高まり、つまり文化人として認識されるようになる。

 


 

ジャズとポピュラーの融合 大衆のための音楽

 

Mourice Ravel & George Gershwin USTour

こういった流れを受け継いで、近代文明の中にクラシックとともに''ジャズ''という音楽が台頭した。ニューオリンズの黒人の音楽家を中心とするブラック・ミュージックの一貫にあるコミュニティとは別に、クラシックの系譜に属するジャズが出てくる。ニューヨークでジャズが盛んになった経緯として、ジョージ・ガーシュウィンの大きな功績を度外視することは難しいだろう。

 

ジョージ・ガーシュウィンはオーケストラとジャズを結びつけ、フランク・シナトラと合わせて米国のポピュラー音楽の最初の流れを形作った人物といえるかもしれない。


そして、バロックポップやチェンバーポップの中には、クラシック音楽と合わせて、古典的なジャズの要素が入る場合があることを忘れてはいけない。これは、以降のMargo Guryanというソングライターに受け継がれ、現代的な米国のポピュラー・ミュージックの一部を形成していると見るのが妥当である。

 

もう一つ、ポピュラー・ミュージックの文脈の中に組み込まれるバロックやチェンバーという様式の中に、別のルーツがヨーロッパのクラシックに存在する。それがフランスの著名な近代の作曲家であり、クロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル。特にラヴェルに関しては、『ボレロ』などミニマル・ミュージックの元祖を制作しているし、アメリカへのツアー旅行の過程でガーシュウィンと交流を持った。彼は音楽にスタイリッシュさをもたらした作曲家である。


また、フランスのサロン文化やジャポニズム、また絵画芸術が発祥の印象派の作曲家、クロード・ドビュッシーは同じように古典音楽という形式の中に洗練されたスタイリッシュさをもたらした人物だ。彼はロシアからアメリカに亡命したイゴール・ストラヴィンスキーと交友関係にあった。これらのエピソードはアメリカのポピュラー音楽がフランスの近代音楽やロシアの古典音楽からの影響を元に原初的なポピュラーという形態を作り上げていったことを証立てている。


そして、上記二人の作曲家に強い触発を与えたパリ音楽院を十数年かけて卒業した作曲家、エリック・サティの存在も重要となるだろう。


元々は、サロン文化華やかし時代の花の都パリで、フレドリック・ショパンをサロンのような場所でカバーを演奏していたが、ドビュッシーが彼の音楽を取り上げはじめたおかげで彼の名は歴史に埋もれずに済んだ。サティはのちのハロルド・バッドのような現代的なミュージシャンに影響を及ぼし、オーケストラ音楽やピアノ曲をポピュラーとして編曲した。


和音法の革新性という側面でもエリック・サティは度外視することができず、フォーレのアカデミズム一派と並んで、フランスの近代和声の一部を形成していることは事実である。''その場のムードを重んじる''という意味で、環境音楽やアンビエントのルーツでもある。そしてそれは以降のコクトー・ツインズのように、絵画や建築、服飾などの他分野を発祥とする美学やイデアを元に構成される音楽の一派に直結する。いわばサティは、クラシックという領域でポピュラー(大衆のための音楽)というテーマを最初に意識づけた作曲家である。それ以前から、クラシックとポピュラーのクロスオーバーは、歌曲や大衆向けのオペラでも頻繁に行われていたのは事実だが、この時、古典音楽の意義が変わり、一部の共同体のためのものから大衆の音楽へと移行した。

 

 

ロックやポップスのレコーディングの中で組み込まれるオーケストラ楽器

 


音楽が「大衆のための娯楽」として確立されたのち、ミュージック・スターが誕生するのは当然の成り行きだったのかもしれない。1950年代に入ると、レコード会社が米国各地に乱立するようになり、音楽産業が確立されると、ヒーローが数多く登場するようになった。チャック・ベリーやリトル・リチャード、エルヴィスを中心とするロックンロール、これは明らかにブルースやゴスペルをはじめとするブラックミュージックを出発点として発展していった。


その一方、ポピュラー・ミュージック全般は、明らかに以前の時代のクラシックやジャズ、それからミュージカルやオペラのような形態を元に発展していった。イギリスでは、アイルランドやスコットランドのデーン人のフォーク音楽、そして米国ではゴスペルやアパラチア発祥のニューイングランドを意味するフォークミュージックを吸収し、教会音楽の格式高さを受け継いだものから、それとは別の完全なショービジネスとして君臨するものまでかなり広汎に及んだ。

 

しかし、少なくとも、現在のような商業的な音楽の流れを決定づけたのはやはりビートルズである。そしてチェンバーポップやバロックポップというジャンルもまたリバプールのバンドから出発したと考えるのが妥当だろう。今回、クラシック音楽をポピュラー・ソングに取り入れた最初の成功例として注目したいのが、ザ・ビートルズの名曲「Strawberry Fields Forever」である。


この曲は『Rubber Soul』時代のサイケデリック文化からの影響をうかがわせつつも、チェンバーポップとバロックボップの最初の出発点だ。ビートルズの中期の曲ではお馴染みのメロトロンの使用という要素は、現在のリスナーから見ると、ノスタルジックな印象をおぼえるはずである。

 


 

これは同時期に、サイケデリック・ムーブメントやフラワー・ムーブメントの一貫として登場したザ・ローリンズ・ストーンズの『Their Satanic Majesties Request』の収録曲「In Another Land」にもチェンバロ(ハープシコード)というオーケストラ楽器が登場する。これらの2曲が一般的な意味でのバロックポップ/チェンバーポップの出発点と見るのが妥当であるといえるかもしれない。


またこの要素はジョージ・ハリソンやレノンがインドでシタールなどの民族楽器を学んだこともあり、チェンバー・ポップの文脈にくみこまれたり、さらに独立した音楽ジャンルとしてエスニックのロック/ポップという、以後のニューエイジ系の先駆けとなったことは想像に難くない。

 

 

そして、バンドのレコーディングという側面では、ビートルズがオーケストラ音楽の要素をポピュラーの中に組み込み、それらをリスナーの期待に応えるような形式に仕上げたことは明らかである。他方、ローリング・ストーンズは、これらをサイケデリックやミュージカル、もしくは映像的な音楽効果と結びつけ、ビートルズとは異なる音楽の新しい様式を作り上げることになった。


これは続く、80年代から90年代のブリット・ポップに直結している。ブリット・ポップの正体とは、「バロック・ポップ/チェンバー・ポップの継承」である。それらを前の年代のニューウェイブやポストパンク、ロンドンやマンチェスターのダンスミュージック、及び、エレクトロニックと結びつけるという意義があった。ブリット・ポップのレコーディングにオーケストラのストリングが必須であるのは、こういった理由によるのかもしれない。そして、商業的なロックソングという観点でも、オーケストラのストリングやエレクトロニックの要素が複合的に取り入れられると、それがブリット・ポップとなり、その影響下にあるポスト世代の音楽となる。

 

 

 

 

もう一つの系譜 女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップの発展


Murgo Garyan

 

ビートルズやストーンズのバンドという形態で築き上げられるバロックポップとチェンバーポップは以降のブリットポップに直結した。そして、もう一つの系譜として女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップが台頭する。それらの音楽は独特のふんわりした音楽性が特徴となっている。

 

例えば、その原点として、元々はクラシックやピアノの演奏に親しんだMargo Guryanがいる。女性シンガーとしては傑出していたが、寡作のシンガーソングライターであったこと、所属レーベルとの関係の悪化、さらに家庭の人生を重んじたため、生涯の作品こそ少ないが、ポピュラー音楽の中にクラシック音楽やジャズを本格的に組み入れようとした最初のシンガー/作曲家である。

 

米国では著名な女性のシンガーソングライターがレコード会社やプロデューサーと協力し、チェンバロやメロトロン、そしてオーケストラ楽器を曲の中に導入し、シンガーソングライターとしてのチェンバーポップ、バロックポップの様式を作り上げていった。

 

このジャンルが盛んだったのは何もアメリカのニューヨークだけにとどまらない。もう一つの文化の重要な発信地であるフランスでは、イエイエが盛んになり、パリの音楽シーンは映画やファッションと連動するようにして、ジェーン・バーキンやシルヴィ・バルタンを筆頭とするフランス版のチェンバーポップの象徴的なシンガーを輩出する。イエイエの系譜にありながらボーカルアートの領域まで表現形態の裾野を広げて、アートポップやスポークンワードの先駆的な存在として活躍したシンガーソングライター、Brigitte Fontaineも忘れてはいけないだろう。

 


現代のチェンバーポップ/バロックポップの音楽がおしゃれでスタイリッシュな印象があるのは、60年代頃のフレンチ・ポップ、つまりイエイエからの影響が大きい。シルヴィ・バルタンやジェーン・バーキン、これらのシンガーはそのほとんどがモードファッションに身を包み、ファッションリーダーとしても活躍した。現在のアートポップやバロックポップの歌手がファッションに関して無頓着ではなく、新しい文化性を感じさせるのはパリ文化からの影響がある。

 

 

 

 

現在のバロックポップ、チェンバーポップ 無数に細分化する先に見えるもの

 

Melody's Echoes Chamber

もう一つ、現代的なサブジャンルとしてドリーム・ポップというジャンルがある。Cocteau Twins(コクトー・ツインズ)、Pale Saints(ペール・セインツ)などを中心とする4ADが得意とする音楽である。これらはよく知られているように、上記のバロックポップやチェンバーポップをニューウェイブやソフィスティポップというレンズを通して再度見つめ直したものである。

 

音楽的な特徴としては、甘いメロディーや、柔らかい感覚のボーカル、ソフィスティポップの系譜にあるうっとりとさせるような雰囲気がある。これらもMargo Guryanやイエイエの系譜にあるものを英国らしい音楽として昇華させたということができるかもしれない。さらに言えば、これらのジャンルの原点である建築様式のゴシックという要素でやや暗鬱な音楽で包み込んだ。

 

これらは現在のアートポップの原点となったにとどまらず、80年代のグラスゴーのギターポップ/ネオ・アコースティック、そして80年代のロンドンやマンチェスターのダンスミュージック/クラブミュージックと組み合わされて、90年代のシューゲイズやエレクトロポップ、それ以後の2000年代のオルタナティヴロックの流れを形づくることになった。(これは後に日本の渋谷系[shibuya-kei]というジャンルに直結している。詳しくはコーネリアスやカヒミカリィの音楽を参照)


現在のバロックポップやチェンバーポップというのは、以前よりもさらに細分化されつつあり、他のジャンルの音楽と同じく、他文化からの干渉をまぬがれない。音楽自体も懐古的なものから、現代の需要に応えるようなスタイリッシュなポップソングに変遷しつつある。最近の事例ではアークティック・モンキーズの『The Car』、あるいはピーター・ガブリエルの最新作『i/o』という例外はあるにせよ、このジャンルは、男性中心のロックバンド、及び、ソロシンガーから女性シンガーソングライターの手に移りつつあるようだ。


ウェールズのCate Le  Bon、フランスのMelody"s Echoes Chamber、アメリカのKate Bollingerが現代版のバロックポップ、チェンバーポップの筆頭格だ。


これらはオルタナティヴの系譜にあるドリームポップやシューゲイズ、クラブミュージックにも部分的に取り入れられる場合がある。また、これらの音楽は全般的にエクスペリメンタルメンタルポップ、つまり、実験的なポピュラー・ミュージックと称されることもある。


以降、チェンバーポップには、把握しきれないほど多種多様なスタイルが登場している。例えばサンフランシスコや西海岸のサイケデリックを吸収したり、ヒップホップのローファイサンプリング、ブレイクビーツからの影響を交え、より洗練された未来志向の音楽に変化しつつある。ラップトップの一般的な普及により台頭したベッドルームポップという新世代の録音の象徴的な音楽と融合し、Clairo(クレイロ)のような現代的な音楽に変わることもある。それとは対象的に、全般的なオルタナティヴロックという文脈に部分的に取り入れられる場合もある。


最近のレコーディングでは、ポピュラー音楽にオーケストラを導入することは日常的となりつつあり、さまざまな形が混在し、そしてまだ完成されていないジャンルでもある。


もしかすると、現在最も注目すべきジャンルの一つが、バロックポップ、チェンバーポップなのかもしれない。



 


 

1974年はニューヨークでニューウェイブが始まった年である。すでにマクシズ・カンサス・シティでは、ヴェルヴェット・アンダーグランドやリチャード・ヘル、トム・ヴァーラインが登場していたが、続いて、ローワー・マンハッタンのバワリーのライブハウス、CBGBからニューウェイブは発展していく。そこにはパティ・スミス、ブロンディ、テレビジョン、ラモーンズ、トーキング・ヘッズ等、のちのウェイブを牽引するグループのミュージシャンが数多く出演していた。

 

かつて、CBGBのライブハウスのオーナー、ヒリー・クリスタルは、このスペースに出演するバンドやソロアーティストのほとんどが、”自分たちをミュージシャンであると考えていない”ことを気に入っていた。そういった素人意識やプロフェッショナリティーとは対極にあるところから、ニューウェイブのムーブメントは出発している。最初に注目したのは、ニューヨークの『ヴィレッジ・ボイス』誌である。続いて、NMEやタイムズのようなメディアが、1975年にこの薄汚いライブハウスを訪れて、何か新しい波が沸き起こりつつあるのを肌で感じ取っていた。

 

1974年9月、もうひとつのニューヨークのミュージックシーンのメッカであるマクシズ・カンサス・シティでも新しいアンダーグラウンドの運動ーーニューウェイブーーが起ころうとしていた。すでに主流のメディアから支持を獲得していた最初のパンク詩人であるパティ・スミス、そしてトム・ヴァーライン、リチャード・ヘル、ビリー・フィッカ、リチャード・ロイドの四人組、テレヴィジョンがこのスペースに出演していた。フロアの一階はレストランバー、2階は客席150からなる比較的大きめな空間、そして3階はバンドの控室、つまり、楽屋になっていた。

 

狭い部屋にある鏡にむかい、リチャード・ヘルが頭にオレンジジュースをふりかけている。ビリー・フィッカーは口にスティックをくわえて廊下で逆立ち。パティ・スミスとヴァーラインは人目を憚らず、抱き合い、一分に一度はキスをしている。空調は効いていない。そして、むさ苦しく、法治の及ばない場所で、最初のパンク/ニューウェイブの動きが始まろうとしていた。

 

当時、マクシズ・カンサス・シティに出演することは、ロサンゼルスのトルバドールにレギュラー出演することと同意義で、ニューヨークのバンドとして認められることを意味していた。テレヴィジョンのトム・ミラーはその頃、アンリ・ミショー、ヴェルレーヌ、ランボーを愛読していた。このエピソードは彼らが登場したのは裏町だが、必ずしも、裏町の出身ではないことを明かし立てている。


パティ・スミスは、その頃、すでにニューヨークのストリート・パンクの女王として名を馳せていた。ただ、一方、それ以外のテレヴィジョンやラモーンズをはじめとするCBGBのレギュラー・メンバーの方は、メディアの評判は芳しくなかった。唯一、ロイドとコネクションがあった『ヴィレッジ・ボイス』誌のみが、明らかに先走ったキャッチ・コピー「この四人組----、泣かせてくれるぜ」を広告として掲載したに過ぎなかった。デボラ・ハリーを擁するブロンディに至っては、「ギタリストに誰かマイクに向けて歌えとおしえてやれ」と言われるような始末だった。

 

しかし、その中で、唯一、一発で覚えられるシンプルなバンド名を冠するテレヴィジョンにレコーディングの噂が持ち上がっていた。現在のように、録音が気楽に行える時代ではなくて、レコード会社とのライセンス契約、そしてレコード幹部やプロデューサーに気に入られなければレコーディングをすることは一般的ではなかった時代である。そしてテレビジョンというシンプルなバンド名が一般的な興味をそそる要因となったことは想像に難くない。彼らはジョークを効かせ、トム・ヴァーラインの頭文字を取り「TV」を名乗りはじめた。「アメリカのどの家庭にもあるものだ。でしゃばりな機械だけど、ときにとても謙虚でもある」すでにヴィレッジ・ボイスとコネクションを持っていたロイドはバンド名の由来についてこう振り返っている。

 

ヴァーラインは、パティ・スミスのバックミュージシャンとして知られていた。しかし、両者の関係は音楽的なものにとどまらず、より深い関係に及んでいた。パティ・スミスは、ブルー・オイスター・カルトのアラン・ レイニヤーとの二年間の恋愛を終えた後、青い目のやや痩せぎすの青年を恋人に選ぶ。「鶴のような長い首の官能的なロックンローラー」というパティ・スミスののろけた表現は、ミラーがスミスにとって自らの分身のような存在であったことを明かし立てている。


実は、ミラー青年は、当初、パティ・スミスのレコーディングで演奏し、シングル「ピス・ファクトリー / ヘイ・ジョー」にギターで参加している。(このシングルは、1974年に自費出版でリリースされ、1000枚の限定のプレスだった。)


すなわち、ヴァーラインは、スタジオ・ミュージシャンのようなカタチで、ニューヨークの音楽シーンで知られる存在であった。天才パンク詩人と気鋭のギタリストというカップルの組み合わせは、ニューヨークのロックシーンの新星、言い換えれば、名物のような存在として知られることに。また、後にアリスタ・レコードから発売される『Horses』にもトム・ヴァーラインはギターで参加している。そればかりか、トムはこのレコードで作曲も行っている。いわば、パティ・スミスの音楽的な成果の一部は、とりも直さず、ヴァーラインの貢献が含まれている。

 

ゴシップ誌のような宣伝文句と思われた『ヴィレッジ・ボイス』誌のテレヴィジョンの提灯記事が、その翌年にほぼ現実のものになると誰が想像したのか?  1975年にかけてCBGBは、音楽フェスティバルのようなカタチで長期的なイベントを開催して注目を集め、複数のメディアがCBGBでテレヴィジョンのプレイを目撃することになった。最初に目をつけたのがNME(ニュー・ミュージック・エクスプレス)で、その次が1980年代のイギリスの音楽シーンに重要な影響を及ぼした『Melody Maker(メロディー・メイカー)』誌だった。その後に続いて、『Times』のような大規模のメディアがCBGBの現地取材に訪れ、最初のパンクシーンを目撃している。


そういったメディア業界の動きは、最終的に大手レコード会社を関心を与える契機をもたらし、ウェイブの筆頭格であったテレヴィジョンに注目が集まるようになる。アトランティック、アリスタ、ワーナー、アイランドといった現在でも影響力を持つ大手レーベルの一群が、トム・ヴァーラインのギター、そしてテレヴィジョンの音楽に注目し始めたのである。上記のレーベルの勧めで、テレヴィジョンは何度もテスト・レコーディングを行ったが、それから最初のリリースが決定したのは、およそ二年後のこと。それは、レコード会社が要因だったのではなく、テレヴィジョンが自らの特殊性やスペシャリティーを活かそうとしたからであった。つまり、どのレーベルであれば、自分たちの音楽性を尊重してくれるかを判断していたのだろう。

 

その二年の間に、同じくCBGBのライブハウスのオーナー、ヒリー・クリスタルが最も気に入っていたラモーンズがニューヨークアンダーグランドのバンドとして最初にSireからのリリースにこぎ着けた。その傍ら、テレヴィジョンは、辛抱強くテスト・レコーディングを重ねながら、あるレーベルとの契約を目論んでいた。それがElektra(エレクトラ) であり、当時、レーベルはドアーズのレコードをリリースしていた。最終的には、レーベル側との話し合いは上首尾であった。1976年6月、テレヴィジョンはエレクトラとの契約がすでに内定したことを明かしている。

 

 

デビューアルバム『Marquee Moon』の制作のプロデュースには複数の候補が挙がっていたという。ジョン・ケイル、ジャック・ダグラス(ニューヨーク・ドールズ、チープ・トリック、エアロスミス)という意外な名前も挙がっていた。 しかし、エレクトラは、最終的には、イギリスの敏腕エンジニアであるアンディ・ジョーンズを抜擢している。アンディ・ジョーンズは、ローリング・ストーンズ、レッド・ツェッペリン、ジャック・ブルース等のプロデュースを世に送り出した伝説的なロックのプロデューサーだ。そして、実際のレコーディングでは硬質でエッジの効いたギターサウンドが強調されている。このデビューアルバムから、「See No Evil」、タイトル曲、「Venus」といったテレヴィジョンの代表曲が誕生したことは周知の通りである。

 

かつて、Kraftwerkの共同製作者のエミール・シュルトは、「Autobahn」にそれ以後の世代の電子音楽やヒップホップのすべてが集約されていると語っていた。もちろん、Televisionの『Marquee Moon』も同程度の影響力を誇る。四人組のデビュー作には、以後、数十年のパンク、ニューウェイブ、ポスト・パンクというジャンルが凝縮され、いまだ鮮烈な輝きを放ってやまない。

 

 

 


 

・1970年の時代背景

 

ジョージ・クリントン擁するパーラメント/ファンカデリック、ジェイムス・ブラウン、さらにはスライ&ザ・ファミリー・ストーンといったグループは、ファンクとソウルを結びつけた象徴的なグループで、ブラック・ミュージックを語る上で軽視することができない。そしてこれらのグループは、アメリカの音楽の歴史において、かなりデリケートな時代を生き抜いている。

 

黒人と白人が共に同じ目的に向かい、歩んでいくという理想が幻想に終わり、そしてストーンズとビートルズがフラワー・ムーブメントへ歩みを進める中、黒人のグループはより独自の音楽的な過程を歩まざるを得なかった。

 

それは1950年代から60年代にかけて公民権運動が始まり、より人種間の主張の差が著しくなった時代でもあった。マーティン・ルーサー・キングの活動によって公民権運動は勝利を収め、社会としては公平性が担保されたと言えるが、それは表向きの話であり、レイシズムがなくなったわけではなかった。そのことによって、両者の間に深い溝を作ったと言える。政治的な公平性は、社会構造に歪みをもたらし、ときに社会における不公正やバランスの歪みを作り出す。

 

スライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽が重要な意味を持つのは、人種的な混合のグループであるにとどまらず、人種間の軋轢をリアルに体現させ、時には社会概念から開放させる力があるからだ。米国南部では、古くから激しい人種差別があり、その暗い靄を拭うために、公民権法が議会で承認され、次いで法案が通過したことは、米国南部で大きな意味があった。北部では、それ以前から黒人と白人が日頃の暮らしにおいて接触を図る機会は圧倒的に増加していた。


それでも、依然として、経済的な格差は著しく、毎年夏になると、黒人暴動が起きていた事実を鑑みると、公民権法は紙切れの公約に過ぎず、平等性が幻想の範疇にとどまっていたことを象徴していた。時代背景として、1960年代といえば、不均衡に関してバランスを取ろうという動きが世界各地で沸き起こった。


例えば、ベトナム戦争では、米国とソビエトの代理戦争が起き、それに関する反戦運動は学生運動に結びついて、68年から翌年にかけて大規模な学生運動に繋がった。日本でもこれらの動向は無関係ではない。これは現時点のガザに関連する米国での学生運動にも通じる何かがある。これは潜在的な”民衆の蜂起”と見るのが妥当で、単なる学生の思いつきと見て、武力で制圧するようなことがあると、政府や国家はその見立ての不確かさを露呈することになるだろう。

 

以降、音楽の世界でも同じような動向が沸き起こり、白人と黒人が同じステージに立つことも日常的となった。1967年のモントレー国際ポップフェスティバルでは、オーティス・レディングが白人のロックミュージシャンと同じ舞台に立った。そして、そこでは白人と黒人との音楽における共闘が演じられた。1969年のウッドストック(ニューヨークのキャッツキルバレーで開催され、40万もの観客が詰めかけた)では、スライ&ザ・ファミリー・ストーンがステージに上がった。ただし、これらは例えば、白人のフラワー・ムーブメントという概念の中に絡め取られていた。

 

スライに関しては、早くから白人と関わりを持ってきたため、人種間における軋轢のようなものをより身近に感じ取っていただろうと思われる。スライの音楽は、人種混合のバンドとしての深いテイストがあり、ボーカルやコーラスに関しては、ジャクソン5の影響下に置かれたグルーヴィーなものがあったが、ビートやリズムに関しては、白人音楽の影響を感じさせるものだった。サンフランシスコ出身のスライは、同地のサイケデリックムーブメント等と連動し、いわばロサンゼルスとは異なる''もうひとつのウェストコースト・サウンド''を確立させようとしていた。

 

黒人としてのアイデンティティを切実に感じていたスライ&ザ・ファミリー・ストーンが必要としたのは、ブラウンの次世代を行くファンクビートだった。とくに、1969年の「Stand!」にそのことが表れている。この曲にはオーティス・レディングの系譜にある南東部のソウルからの影響は泥臭い感じのフレーズに乗り移り、それとは対象的なハリのあるファンク・サウンドーージェイムス・ブラウンの次のニュー・ファンクーーが付け加えられ、軽快なグルーブが出現する。


ジェイムス・ブラウンのファンクには表向きには思想性はほとんどないが、スライのファンクには、何らかの意図や狙いのようなものが浸透している。これらは、他の以降の年代のブラック・ミュージックのグループやミュージシャンが試みたように、離れた2つの地域ーー西海岸と東海岸の音楽を繋げるような役割を担っていた。


いわばスライは潜在的なレイシズムの内在を捉えながらも、対立項を作り出すのではなく、融和や和合のようなものを描いた。だから、この曲は、友好的な雰囲気に満ち溢れ、ハートウォーミングな味わいがある。言わばスライは、かなり進んだ存在で、憎しみが愛情に勝ることはないと知っていた。加えて、彼らの音楽は特別視や神聖さとは別の民衆と同じスタンスを取っている。 

 

 

 

 

 

 

 

・スライ&ザ・ファミリー・ストーンの音楽の醍醐味


There's A Riot Goin' On 1971
スライの音楽の特徴は、ソウルミュージックの識者によると、とりも直さずファンクに求められるという。68年には、「My Lady」において、ジェイムス・ブラウン風のファンクビートが刻まれているが、より重要視すべきなのは、「Sing A Simple Song」の方だという見方がある。そして、「Stand!」での試作を経て、ようやく「Thank You」において最終的な形となった。

 

ジェイムス・ブラウンのファンクは音楽家としての専門性を土台として構築されたが、スライのファンクはそのハードルを少し下げ、誰にでも演奏出来るような軽やかさに変化したのだ。この後、ファンクビートはより一般的となり、誰にでも真似出来るものとなった。つまり、スライが、1960年代や70年代の音楽業界にもたらしたのは、リズムにおける革新性だった。


その影響は分岐し、ファンクビートを古典的なブラックミュージックに取り込もうというグループ、それから、「Stand!」の中で発現した黒人としてのアイデンティティを突き詰めようとするグループに分岐していった。つまり、後者のグループに属するミュージシャンたちが「ニューソウル」という運動を巻き起こしたというのが一般的な見方である。これは、さらに後の時代になると先鋭的になり、スライの1971年の代表作『There's A Riot Goin' On (暴動)』において完成される。このアルバムではスライのしなるようなファンクギターを楽しむことが出来る。 

 

 

 

 

 

スライが「Stand!」において人種的なアイデンティティを示唆しようとした以前にも、同じような試みを行ったグループがいた。特にアメリカの南部において、これらの動きが顕著であって、その中にはEddie Floydの「Raise Your Hand」が挙げられる。彼は曲の中で、拳をあげようというラディカルなメッセージ性を添えていた。68年には、James Carrが「Freedom Train」という曲の中で、「自由の列車はもうすぐやってくる!」と歌っている。


ただ、後者のニュアンスに関しては、Sam Cooke「サム・クック)の系譜にあり、彼の代表曲でブラックミュージックの至高の名曲でもある「Change Gonna Come」のように未来に対する純粋な希望が歌われている。 シンプルだが心を揺さぶられるメッセージは、この年代のニューソウル運動の前後の時代の醍醐味だ。取り分け、南部のシンガーは、マーティン・ルーサー・キングに親愛の情を抱いていたという。ブラックミュージックの先駆的な存在、サム・クックは、1964年のコパでのライブステージにおいて、「If I Had A Hammer」を歌い、自由の喜びを端的に伝えた。制限的な権利から開放的な権利を有する時代への変遷を上記のエピソードは反映している。



・社会との関わりを持つ音楽 --ニューソウル--


ただ、それらの靄は完全には払われたわけではない。1968年に、キング牧師が暗殺されたことは、彼を信奉していた南部の歌手に深い衝撃を及ぼしたにとどまらず、根深い人種問題をもたらす。現在も、多くのブラックミュージックの系譜にある歌手が、何らかの罪や背後に残してきた暗さを暗示的に歌う理由は、この時代が出発なのではないか。サザン・ソウルの代表的な歌手、Wilson Pickettは「People Make The World」において、キング牧師に哀悼の意を表しているし、ナッシュビルのFreddie Northもまた「I Have A Dream」の有名な演説の一説を引用したりしている。


この時代の音楽は、政治的ないしは社会的な側面とは無縁ではなく、いつもどこかで繋がっている。彼らは仮想的でバーチャルな空間に逃げないで、真っ向から現実を見つめる厳格な感覚を持ち合わせていた。だから、それが限定的であるにしても、音楽が何らかの意味を持っていた、あるいは、社会に対して何らかの働きかけをするということがありえたというように考えられる。つまり、80年代に入り、ブラック・ミュージックそのものが商業主義に絡めとられるまでは、多くのグループにとって、音楽は権利のための重要なファクターの役割を担っていた。


スライ&ザ・ファミリー・ストーンや同時代のコーラス・グループ/ドゥワップの代表格であるTemptationsのメッセージは、歌詞だけに求められるわけではないようで、そこにブラック・ミュージックとしての面白さがあるのだという。彼らはリリックだけで、拳を挙げよと伝えるのではなしに、ファンクビートをより先鋭的にさせ、それらの音楽からメッセージを伝えた。

 

つまり、音楽そのものが何らかのメッセージであるということを、彼らはよく知っていた。これは音楽に乗せられる言葉だけがメッセージであると考える人々にとっては、かなり意外なことに思えるかも知れないが、音楽そのものからなんらかの思想や考え、ひいては重要なメッセージを読みとるということはありえる。そういったことを象徴するのが、ジェイムス・ブラウン、ファンカデリック/パーラメント、スライといった一派なのであり、彼らは社会的に報われぬ人々の魂を鼓舞する音楽を率先して作り上げた。そういった音楽の一側面が、人種的な平等性ーー社会的な問題と個人的な問題の均衡ーーの合間で矛盾を抱えていた人々に希望を与えたのだ。

 

1960年代後半から1970年初頭は、社会的にも大きな変化があった時代だった。いわば、「ニュー・ソウル」という名称は、時代の変化の前触れを予兆していた。「新しいソウル」という標語は、音楽的な側面を示唆するにとどまらず、社会的な側面を強かに反映させていたのだった。


同じ年代には、「Black Power」と呼ばれる運動が湧き起こり、「Black Is Beautiful」というキャッチフレーズが新聞や雑誌に相次いで登場した。マイアミのDJ、Nikie Leeは、このキャッチフレーズをタイトルにしたシングルをリリースし、話題を呼んだ。Edwin Howkins Singersの「O Happy Day」がチャートで一位を獲得したのは、ゴスペルからのこのムーブメントへの回答でもあった。その他、Syl JohnsonはJBに触発を受け、「Is It Because I'm Black」という曲を制作し、ブラックとしてのアイデンティティを定義づけた。社会的な混乱の時代、こういったシンガーやグループは時代の変化を賢しく読んで、リスナーの人気を獲得することに成功したのだった。

NEU! デュッセルドルフのクラウドロックの先駆者 音楽のイノベーションの変遷

 


 

1971年に旧西ドイツに登場した"NEU!"は、以降のデュッセルドルフの電子音楽のシーンの先駆者で、音楽に革新性をもたらしたグループである。クラウス・ディンガーとミヒャエル・ローターによって立ち上げられたこの実験音楽グループは、湯浅譲二と武満徹が制作したテープ音楽に近い趣旨がある。マシンビートを元にしたサウンドは、アンビエントからノイズ、ポスト・パンクに至るまで、その後の数十年の音楽を予見していたと言えるかもしれない。

 

 1970年代、CANやKraftwerkと並んで登場したNEU!の周りには厳然としたシーンと呼ばれるものがあった。産業革命の後の時代、彼らは工業都市の環境音を反映させた音楽を構築した。カン、クラフトヴェルク、そしてノイ!によるデュッセルドルフを中心とした音楽運動は、「Kosmische Music」という名で親しまれていた。日本語で訳すと、”宇宙の音楽”である。実はそのルーツは60年代後半にあり、伝統音楽の規則に対する反抗の意味が込められていた。現代音楽の規則に制約されることを嫌った音楽家たちは、あえてそれらのルールを破ることにしたのだ。

 

上記の3つの主要なグループに共通するのは、多数のジャンルをクロスオーバーしていることである。アヴァンギャルド、エレクトロニックはいうに及ばず、実験的なロック、フリージャズ、そしてイギリスで盛んだったプログレッシブ・ロックを吸収し、それらを独自のサウンドとして構築していく。そんななかに登場したNEU!とはどのようなグループだったのか。

 

当時のことについて、クラウスとローターは次のように回想する。「わたしたちは同じようなヴィジョンを持っていた。初期のバンドは1971年後半に結成され、音楽ジャンルの異なる折衷案を融合させたのです」

 

クラフトワークとの意見の相違、音楽的な感性に関する欲求不満の後、バンドは新鮮な気風を感じていた。それは二人のミュージシャンを活性化せることは明確だった。彼らが完全に同意しなかったのはドイツ語で新しいを意味する「ノイ!」だけ。マイケルはバンドに自然な名前をつけることを望んでいたが、一方のクラウスはこの英語ではない新鮮な音の響きに感激していた。

 

結局のところ、彼らは実験音楽活動の一部としてこのプロジェクトを立ち上げたのだから、この「NEU!」という名前は理に叶っていた。

 

 

NEU!のロゴの誕生

 




 ノイ!の誕生に合わせて、バンドのイメージが必要になった。そこで、テキスタイル風のポップなロゴが作りだされ、著作権の特許を得た。


このロゴにはどうやら意味があるらしく、''現代の消費文化に対する抗議''を意味しているという。使い捨てられるものに対する反抗、音楽は消費されるものではないというロゴの考えは、ある意味では工業化や商業化されつつあるデュッセルドルフの70年代にしか登場しえなかった。


ノイ!は社会的な意見と芸術に関する考えを組み合わせることを躊躇しなかった。それでも、クラフトワークのようにノイ!は当時、裕福な経済力を有していたわけではなかったことは着目すべきか。この中で音楽の再利用を意味するサンプリングという考えも出てくるようになった。

 

 

デビューアルバム『NEU!』の制作

 




 

 

 

ミヒャエルは「わたしたちは貧しいミュージシャンだった」とデビュー当時のことを回想する。1971年、デビュー・アルバムを録音するときも、彼らの念頭にあったのは制作費だった。

 

彼らは12月にウィンドローズ・デュモン・タイム・スタジオを四日間予約した。つまりこれ以上の使用代を支払えなかったのだ。当のスタジオを選んだのも安かったからという単純明快な理由。「それは実用的な髭剃りのようなもの。私はそれについて考えると、無謀で震える気がする。しかし、コニー・ブランクの助けを借り、どうにかわたしたちはメッセージを伝えられた」


驚くべきは、4日間という限られた時間で、ノイ!は六曲をレコーディングした。そして音源を8トラックのレコーダーに落とし込む。マイケルはギターとベース、そしてクラウスはドラムと琴を演奏した。

 

「最初は録音の速度が遅かったけれども、その後、前進するポジティヴなエネルギーを見出した。曲は必要な箇所だけむき出しになるまで削ぎ落とされた。あの時、8トラックのレコーダーしかわたしたちは所有していなかったんだ。6曲のうちの5曲、デビュー・アルバムのために録音されたのは長いトラックが中心となった、その中にはHellogalloとNegativelandが含まれていた」

 

「アルバムが録音され、ミックス作業が終わると、 コニー・ブランクは私にきかせるためのテープをくれた。私はそれを誇りに思い、ガールフレンド、家族、友人の前で聞かせてみました。アルバムの効力は見当もつかなかった。私はアルバムを録音できたことが本当に嬉しかった」

  

デビュー・アルバム『NEU!』は1972年のはじめにリリースが予定されていた。発売当初の評論家の意見は二分されていた。一部の先見の明のある批評家は、画期的なアルバムであるとし、ジャンルという概念を超越するものであると評していた。 少なくとも、このアルバムには、アンビエント、エレクトロニカ、エクスペリメンタル、フリージャズ、インダストリアル、ミュージック・コンクレート、ロックの要素が織り交ぜられていることは事実である。当初、ノイ!の音楽はロンドンで評価され、メロディーメイカー誌の評論家がこの音楽を「クラウト・ロック」と命名した。デビュー作『ノイ!』はドイツでは三万枚の売上を記録する。実験音楽としては驚異的な数字である。しかし、ドイツ以外では商業的な成功には見舞われなかった。


ついでクラウスとミヒャエルはドイツ国内でしか評判を呼ばなかったにもかかわらず、2ndアルバムの制作に着手する。 

 

「Hallogallo」

 

 

セカンドアルバム『Neu! 2』

 



 

 


翌年、 二人はデビューアルバムのプロデューサー、コニー・ブランクと連れ立ってスタジオ入りした。


「わたしたちはレコード・レーベルと契約していなかったからクラウスとコニーと私は制作費を節約しようとした。スタジオにいったとき、10日間録音するための経費を支払った」とミヒャエル。

 

「二度目の録音は作業するときに16トラックのレコーダーがあったので、複数の楽器を多重録音することが可能になった。私はギターを弾いて、それが逆再生され、テンポが意図的に早められ、最終的にエフェクトが追加された。それらの音楽的なプロセスはノイ!の実験性を新しいレベルへと引き上げ、音楽の境界を限界まで押し上げ、すべてを越えたように思えた。すべてが上手く行ったように思えたものの、問題が発生した」

 

「それまでにわたしたちは音のレイヤーを追加し、試行錯誤するのにおよそ1週間を必要とした。私は5つのギターを積み重ね、歪みのような効果を与えようとした。しかし、この作業に一週間かかりましたが、結局、アルバムの収録曲の半分しか録音されておらず、これでは終わらないと思ったので、かなりの混乱に陥っていた。それからわたしたちは解決策を用意しようとした」



さらにセカンド・アルバムについて、ミヒャエルは補足している。「つまり、絶望の結果なんです。わたしたちは色々なことを試した。ターンテーブルでシングルを演奏し、クラウスは演奏中にそれを蹴り上げた。その後、わたしたちは、カセットプレイヤーで曲を演奏し、音を遅くしたりスピードアップしたりというように試行錯誤を重ね、そのプロセスの中でマスタリングを行った。デビューアルバムと同じように、『NEU! 2』はスタジオの使用期間の制限に合わせて制作が完了した。おわかりの通り、それはデビューアルバムとはまったく異なるものだった」

 

 

『NEU!2』は当初、1973年に発売予定だった。アルバムのリリース後の批評家の反応はデビューアルバムよりも好意的だった。彼らのトレードマークのサウンドを洗練させたという評価。批評家は、 特に11分に及ぶ電子音楽の叙事詩と評価する声もあった。しかし、同時に物議を醸すアルバムでもあった。全般的にはそれほど評価が高かったとも言いがたい。批評家たちはNEU!のサウンドをギミックと見なし、レコード・バイヤーを騙しすかそうとしていると指摘した。しかし、ノイ!がこのセカンド・アルバムで試みたのは既存のサウンドの解体だった。

 

「わたしたちは既成の音楽を相手取り、それらを一度ばらばらにすることだった。その後、解体したものを再構築していった。一般的な評論家は、このことを理解できなかったか、理解したくなかった」と、ミュージック・コンクレートの技法を重視していたとノイ!は回想しているのである。

 

しかし、革新的な制作法は一般受けせず、このセカンド・アルバムはイギリスどころか、ドイツ国内でも商業的な成功を収められなかった。現在のサンプリングやコラージュのような手法はあまりにも前衛的すぎるため、一般のリスナーには受け入れられなかったというのが実情である。

  

クラウス・ディンガーと彼の兄弟のトーマスはノイの音楽を宣伝できないかと、画策を始める。イギリスに向かい、DJのジョン・ピールとザ・フーのタウンゼントの妻、カレン・タウンゼントに出会った。ピールはノイ!の音楽をオンエアしたものの、やはり一般的な反応は薄かった。 

 

 

「Casetto」

 

クラウスとミヒャエルは、ノイ!が終わったわけではなく、他の興味やプロジェクトを追求するため、しばらく時間を取りたかったと明言した。クラウスの新しいプロジェクトは『ラ・デュッセルドルフ』だった。一方、ミヒャエルはフォルスト・コミューンへの旅に出ることにした。

 

 

 そこで彼は、クラスターのディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスに出会うことになる。ミヒャエルは、クラスターの2枚目のアルバム『Cluster II』に収録されている「Im Süden」を聴いていた。ディーター・メービウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスがノイ!の拡張ラインナップに加わることに興味を持つのか? それからミヒャエルは、ノイ!とクラスターからなるスーパーグループを検討しはじめた。フォルスト・コミューンで、ミヒャエルはディーター・メビウスとハンス・ヨアヒム・ローデリウスとジャムった。最初のジャムは、後にハルモニアの1974年のデビュー・アルバム『Musik von Harmonia』の収録曲『Ohrwurm』となった。最初のジャム・セッションの後、ミヒャエルはフォルスト・コミューンに滞在し、ハルモニアのデビュー・アルバム『ムジーク・フォン・ハルモニア』のレコーディングに備えた。


一方、クラウスとトーマス・ディンガーはロンドンから戻っていた。彼らは贈り物を携えてやってきたのだ。

 

賜物のひとつは、1972年の大半をコニーのエンジニアだったスタジオエンジニアのハンス・ランペ。もうひとりは、クラウスの弟トーマス。クラウスの提案で、彼らはノイ!のラインナップに加わることになり、その準備のため、ラ・デュッセルドルフとして一連のコンサートを行う。


しかし、ミヒャエルはハルモニアの活動で忙しかった。デビューアルバムのレコーディングだけでなく、レコーディング・スタジオを建設し、ミヒャエルは''ノイ!''の将来のプロジェクトに取り組み、後にソロアルバムのレコーディングも行う予定だった。しかし、それはまだ先のこと。その前に、ハルモニアはデビューアルバム『ムジーク・フォン・ハルモニア』の録音を開始した。

 

 

 

Neu! 75



他のプロジェクトの活動も行う中、ノイ!は三作目のアルバム「Neu!'75」の制作に取り掛かる。ミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーは1974年12月にコニー・プランクのスタジオで再結成した。その頃、コニー・スタジオはドイツのグループのためのレコーディング・スタジオだった。彼らは望んでいた。''天才 "が自分たちのアルバムに魔法をかけてくれることを。


ノイ!の2人のメンバーは変わっていた。クラウスはロックに傾倒し、ミヒャエルはアンビエント・ミュージックへの関心を高めていた。 ミヒャエルが説明するように、「2年も離れていると、僕らは別人になっていた。問題を複雑にしたのは、クラウスがドラムキットの後ろから離れたがっていたこと。彼は自分が隠れていると感じていた。それはわかる。でも、それはクラウスがとても上手くやっていた。しかし、彼はギターを弾きながら歌うエンターテイナーになりたかったんだ。彼は自分の代わりに2人の新しいミュージシャンを迎え入れようとした。その中には、クラウスの弟トーマス、コニー・プランクの元エンジニア、ハンス・ランペも含まれていた」


ミヒャエルはこれが問題だと気づいた。「その頃には、クラウスは一緒に仕事をするのが難しくなっていた。そこで妥協して、2つの全く異なる面を持つアルバムを作ることにしたんだ」 サイド1は、古いノイ! のスタイルを展開させ、サイド2では、クラウスはギターを弾きながら歌った。

 

アルバムは1975年1月に完成し、同年末に発売された。ノイ!は、この三作目でアンビエント風の作風を確立させる。もちろん、その中には「Hero」のような後のパンクのヒントとなる作風もあった。

 

 

「Leb' whol」

 

John Adams


ジョン・クーリッジ・アダムス(John Coolidge Adams)は1947年生まれの米国の現代音楽家。1971年にハーバード大学でレオン・キルヒナーに学んだ後、カルフォルニアに移り、サンフランシスコ音楽院で教鞭と指揮者として活躍、以後、サンフランシスコ交響楽団の現代音楽部門の音楽顧問に就任する。1979年から1985年まで楽団の常勤作曲家に選出される。

 

その間、アダムスは『Harmonium(ハーモニウム)』、『Harmonielehre(和声学)』を始めとする代表的なスコアを残し、作曲家として有名になる。以後、ニュー・アルビオン、ECMといったレーベルに録音を提供し、ノンサッチ・レコードと契約する。1999年には『John Adams Ear Box』を発売した。


ジョン・アダムスの作風はミリマリストに位置づけられる。当初は、グラスやライヒ、ライリーの系譜に属すると見なされていたが、コンポジションの構成の中にオリヴィエ・メシアンやラヴェルに象徴される色彩的な和声法を取り入れることで知られる。


その作風は、新ロマン主義に属するという見方もあり、また、ミニマルの未来派であるポストミニマルに属するという解釈もある。彼の作風では調性が重視されることが多く、ジャズからの影響も指摘されている。

 

管弦楽『Fearful Symmetries」ではストラヴィンスキー、オネゲル、ビックバンドのスウィングの技法が取り入れられている。また、ライヒのようなコラージュの手法が採られることもある。

 

チャールズ・アイヴズに捧げられた『My Father Knew Charles Ives』でもコラージュの手法を選んでいる。1985年の歌劇『Nixon In China(中国のニクソン)』の晩餐会の場面を管弦楽にアレンジした『The Chairman Dances(ザ・チェアマン・ダンス)」は管弦楽の中では再演される機会が多い。

 

ジョン・アダムスの作曲家としての主な功績としては、2002年のアメリカ同時多発テロを題材に選んだ『On The Transmission of Souls』が名高い。この作品でアダムスはピリッツァー賞を受賞した。ロリン・マゼール指揮による初演は2005年度のグラミー賞の3部門を獲得した。



Phrygian Gates / China Gates  (1977)

 


 

ジョン・アダムスのピアノ・スコアの中で特異なイデアが取り入れられている作品がある。『Phyrygian Gate and China Gates』であり、二台のためのピアノ協奏曲で、マック・マクレイの委託作品で、サラ・ケイヒルのために書かれた。

 

この曲は1977年3月17日に、サンフランシスコのヘルマン・ホールで、ピアニスト、マック・マクレイにより初演された。和声法的にはラヴェル、メシアンの近代フランス和声の系譜に属している。

 

この2曲には画期的な作曲概念が取り入れられている。「Gates- 門」は、なんの予告もなしにモードが切り替わることを意味している。つまり、現実の中に別次元への門が開かれ、それがミルフィール構造のように移り変わっていく。


コンポジションの中に反復構造の意図が込められているのは事実だが、音階構造の移行がゼクエンツ進行の形を介して段階的に変化していく点に、この組曲の一番の面白さが求められる。つまり、ライリー、ライヒの作品とは少し異なり、ドイツのハンス・オッテ(Hans Otte)のポスト・ミニマルの系譜にあるコンポジションと言える。さて、ジョン・アダムスは、このピアノの組曲に関してどのように考えているのだろうか。


 



 

「Phrygian Gates(フリギアの門)」とその小さなコンパニオン作品である「China Gates(中国の門)」は作曲家としての私のキャリアの中で重要な時期の産物でした。

 

この作品は、1977−78年に新しい言語での最初の一貫した生命として登場したという事実のおかげで、私の「Opus One」となる可能性を秘めている。1970年代のいくつかの作品、アメリカンスタンダード、グラウンディング、いくつかのテープによる作曲は振り返ってみると独創的であるように見えますが、まだ自分自身の考えをまとめる手段を探している最中でした。


「Phrygian Gates」 はミニマリストの手段の強い影響を示していて、それは確かに反復的な構造の基づいています。しかし、アメリカのミニマリストにとどまらず、ハワード・スケンプトン、クリストファー・ホッブズ、ジョン・ホワイトのようにあまり知られていない英語圏の実践者は、この作品を制作する上で私の念頭に置かれていた。


1970年代はそもそも、ポスト・シェーンベルクの美学の過程がセリエリズムの原則にそれほど希望を見出さない作曲家によって新しい挑戦が始まった時代でした。これはまた、言い換えれば、新しい音楽における巨大なイデオロギーとの対立の時代だったのです。私はその頃、ジョン・ケージの方法に同様に暗い未来を見出していたが、それは合理主義と形式主義の原則に立脚しすぎているように私には思えたのです。


例えば、『易経』を参考にして作曲法を決定することは、『トーン・ロー』を参照して作曲することとそれほど違いがあるとは思えなかった。ミニマリズムというのは、確かに縮小された、ときには素朴なスタイルなのですが、私にこの束縛から抜け出す道を与えてくれたのです。調性、脈動、大きな建築構造の組み合わせは、当時の私にとって非常に有望であるように思えたのです。 

 

 

 「Phrygian Gates」

 


『Phrygian Gates』は、私がミニマリズムのこうした可能性にどのようにアプローチしたかを明確な形で示している。

 

また、逆説的ではあるが、私が当初からこのスタイルに内在する単純さを複雑化し、豊かにする方法を模索していたという事実も明らかにしている。よく言われる、”ミニマリズムに飽きたミニマリスト”という言葉は、別の作家が言ったものだが、あながち的外れではないでしょう。


『Phrygian Gates』は、調のサイクルの半分を22分かけて巡るもので、「平均律クラヴィーア曲集」のように段階的に転調するのではなく、5度の輪で転調していく。


リディアンモードとフリジアンモード(注: 2つとも教会旋法の方式)の矩形波が変調する構造になっている。曲が進むにつれて、リディアンに費やされる時間は徐々に短くなり、フリギアに費やされる時間は長くなる。

 

そのため、一番最初のAのリディアンの部分は曲の中で最も長く、その後、Aのフリジアンの非常に短いパッセージが続く。次のペア(Eのリディアンとフリジアン)では、リディアンの部分が少し短くなり、フリジアンの部分がそれに比例して長くなる。そして、コーダが続き、モードが次々と急速に混ざり合う。「ゲート」とは、エレクトロニクスから借用した用語で、モードが突然、何の前触れもなく変化する瞬間である。この音楽には「モード」はあるが、「変調」はない。


私にとって『Phrygian Gates』がいまだに興味深い理由を挙げるとするなら、その形状の地形と、波紋を思わせる鍵盤のアイデアの多様さである。

 

波が滑らかで静かなときもあれば、波が押し寄せてフィギュレーションが刺さるような場合もある。ほとんどの場合、それぞれの手を波のように動かし、もう一方の手と連続的に調和するパターンとフィギュレーションを生み出すように扱う。これらの波は、常に短い「ピング音」によって明瞭に表現され、小さな道しるべとなり、内部の小さな単位をおよそ「3-3-2-4」の比率で示す。


『Phrygian Gates』は一種の巨大構造であり、相当な肉体的持久力と、長い音のアーチを持続する能力を持ったピアニストが必要とされます。一方、『China Gates』は若いピアニストのために書かれたものです。演奏者のヴィルトゥオーゾ的な技術的効果に頼ることなく、同じ原理を利用している。

 

この曲もまた、2つのモーダルな(様式的な)世界の間を揺れ動くが、それは極めて繊細に行われている。この曲は、暗さ、明るさ、そしてその間に内在する影の細部に真摯に注意を払うことを求めるような曲であると私には感じられる。-John  Adams


「China Gates」

 


 

 

・思考はどのような結果を形作るのか?

 

 人間はある思考に基づいてなんらかの行動を起こします。思考なくしては行動も存在する余地がありません。そういったことを考えると、思考の正当性によって行動が決定されますし、その後に何らかの行動を起こすことで従来とは異なる結果が現れるわけです。


 しかし、翻ってみると、思考は、価値観や倫理観、固定観念の蓄積から発生しています。思考とは、過去から未来に繋がる線を歩くということ。それは究極的に言えば、立体的な思考法はおろか直線的な思考法しかしえないことを意味する。すると、別の線上にある可能性を見落とす場合もある。例えば、外的な環境の変化だったり、他者の説得や直感的なヒントによって、外側から思考が変わる場合もありますが、結果的に何らかの発想の転換をもたらさないかぎり、従来の思考や行動を変えることはとても難しいでしょう。私達が、ときに自分でエキセントリックな方法であると考えるもの、それは意外に何らかの枠組みの中で動いているのに過ぎないかもしれません。


 かつて現代音楽家のジョン・ケージは「Chance Operation(チャンス・オペレーション)」という偶発的に発生する音楽の概念を生み出しました。ケージは、まだ彼が無名だった時期に、かつてモノクロ・テレビのアメリカのバラエティー番組に出演し、観客の笑いのなかで、即興の実験をしながら偶発的な音を発生させました。それはずいぶん滑稽な印象をもたらし、彼がコメディアンと考えた人もいたほどでした。その中には、ヤカンで湯を沸かす音を出すだけというのもあったのです。もちろん、その場の即興でケージの演奏はおこなわれました。そして、彼が取り組んだのは、音楽のイノベーションではなく、音楽を形成する仕組みや構造性を変化させたり破壊するということでした。これと同じような考えに基づいて作られたのが、ピーター・シュミットとブライアン・イーノによって考案された「Oblique Strategies (斜め上の戦略)」だった。ケージが実践的にその方法論を示したのに対して、ピーターとイーノの斜め上の戦略は、外側からの働きかけによって、別の結果を恣意的に発生させるという手法なのです。

 

 「Oblique Strategies−斜め上の戦略」は、音楽家を中心に、すでに実際の制作に取り入れられたことがありますが、例えば、音楽制作以外にも、実業家、経営者、他にも、政治家の方が戦略を立てる時にも有益となるかもしれません。


 オブリーク・ストラテジーズとは、あらかじめカードに考えを記しておき、何らかの制作をしていて、行き詰まりを感じた時、そのカードにかかれている短い警句を読み、新しい考えを取り入れ、それまでとは違う考えに気づき、そして行動を変化させ、最終的には従来とは異なる結果を生み出すという方式です。


 例えば、基本的に、何らかのアドバイスは人間がその間に介在するため、感情的な反発すら起こす虞れがありますが、この手法はカードによってもたらされるため、それほど大きな反発を起こす危険性がありません。なぜならカード自体は、善意でもなく、悪意でもなく、一つの考えを示したに過ぎないのです。


 では、この斜め上の戦略が、どのようにして生み出されたのかについて見ていきたいと思います。

 

 

・斜め上の戦略 思考の背後にある思考

 

デザイナーのピーター・シュミット

 このカードはどのようにして作られたのでしょう。1970年、ピーター・シュミットは、スタジオに溜まっていたすでに使用されなくなった版画に活版印刷した55文が記された「思考の背後にある思考」を作成し、これはのちにイーノが所有することになった。そもそもイーノは、1960年代からシュミットを知っていたようですが、彼自身も同様のプロジェクトを推進していた。1974年に彼は何枚かの竹製のカードに思考の背後にある思考について手書きをし、それを「Oblique Strategy」と名付けました。この2つのプロジェクトには重複期間があった。

 

 同年の後半、シュミットとイーノは、それらをひとつのカードのセットにまとめ、1975年に一般販売を開始しました。このセットは1980年初頭に、シュミットが急死するまでに3回の限定版の印刷が行われましたが、その後、カードセットは希少となり、プレミアがついた。

 

 16年後、ソフトウェアの先駆者であるピーター・ノートンはイーノを説得し、友人のクリスマスプレゼントとして第四版を制作しました。非売品として制作され、後にオークションに出回った。カードに関する世間的な評判は、その後も高まる一方で、イーノは2001年に新しいオブリーク戦略カードをセットで販売することに。 2013年5月には黒ではなくバーガンディー色の限定版が発売された。2012年には文書化され、書籍としても出版されています。

 

 これらのカードについて、ブライアン・イーノは次のように話しています。「これらのカードは、私達の別々の作業手順から進化しました。それは友情の間の多くの事例の一つに過ぎませんでした。私達はほとんどまったく同じ時期、ほとんどまったく同じ言葉で、作業のプロセスに到達したのです」


「数ヶ月、会わなかったこともあり、再会したり、手紙の交換をしたりするうちに、私達は同じような知的レベルにあることがわかった。これはその前にあった印象とはまったく異なるものでした」

 

 

 

・カードにはどのような言葉が記されているのか?


 オブリーク・ストラテジーズは、実際、現在もアマゾンやショップなどで販売されています。カードは箱の中に封入されていて、蓋を開くと、何らかの短い思考が書かれたカードが出てきます。そこにはあっと驚くようなことも書かれています。それでは、このカードには実際どのような言葉が書かれているのでしょうか。55のカードがあり、そこには現在の自分とは全然関係のなさそうなことまで書かれています。カードの言葉を下記に示していきたいと思います。

 

 

The List of Oblique Strategies:

 

・通常の楽器を放棄する

・アドバイスを受け入れる

・降着

・線には二つの側面がある

・地役権を許可する(地役権とは狭窄部の放棄です)

・セクションはありますか?  移行を検討する

 ・人々に自分のより良い判断に反して働くように依頼する

・自分の体に問いかけてみる

・いくつかの楽器をグループに集めてグループで扱います

・一貫性の原則と不一致の原則のバランスを取る

・汚れてください

・もっと深く呼吸してください

・橋を建てる - 建てる - 燃やす

・カスケード

・楽器の役割を変更する

・何も変更せず、完全な一貫性を維持して続行します

・子どもたちの声・話す・歌う

・クラスター分析

・さまざまなフェージング システムを検討する

・他の情報源を参照する - 期待できる - 期待できない

・メロディー要素をリズミカル要素に変換する

・勇気!

・重要なつながりを断ち切る

・飾る、飾る

・エリアを「安全」として定義し、アンカーとして使用する

・破壊する -何もない -最も重要なもの

・公理を破棄する

・欲望から切り離す

・使用しているレシピを見つけて放棄する

・時間を歪める

・できるだけ長い間、何もしないでください

・簡単なことだから恐れる必要はない

・決まり文句を恐れないでください

・自分の才能を発揮することを恐れないでください

・沈黙を破らないで

・あることを他のことよりも強調しないでください

・退屈なことをする

・食器を洗う

・言葉を変える必要があるでしょうか?

・穴は必要ですか?

・違いを強調する

・繰り返しを強調する

・欠点を強調する

・選択に直面したら、両方を行う (Dieter Roth 氏)

・録音を音響状況にフィードバックする

・すべてのビートを何かで埋める

・首をマッサージしてもらう

・ゴーストエコー

・ゲームを譲ってください

・最悪の衝動に道を譲る

・外側をゆっくりと一周してください

・隠された意図として自分の間違いを尊重する

・どうやってやればよかったのでしょう?

・エラーのないものを人間化する

・音楽が動く鎖や毛虫のように想像してください。

・音楽を一連の切り離されたイベントとして想像してください

・微小グラデーション

・意図 -信頼性 -高貴さ -謙虚さ

・不可能へ

・終わりましたか?

・何か足りないものはありますか?

・チューニングは適切ですか?

・ただ続けるだけ

・左チャンネル、右チャンネル、センターチャンネル

・完全な暗闇、または非常に広い部屋で、非常に静かに聞いてください。

・静かな声を聞いてください

・非常に小さな物体を見てください。その中心を見てください

・物事を行う順序に注目してください

・最も恥ずかしい部分を注意深く観察し、それを拡大する

・最小公倍数チェック -単拍 -単音 -単

・リフ

・ブランクを絶妙なフレームに収めて価値あるものにする

・やるべきことすべてを網羅したリストを作成し、最後に実行する

・リストにあるもの

・突然、破壊的で予測不可能な行動を起こす。組み込む

・特異なものを機械化する

・ミュートして続行

・各種類の要素は 1 つだけ

・(有機)機械

・あからさまに変化に抵抗する

・耳栓をしてください

・あの静かな夜を思い出してください

・曖昧さを取り除き、具体的な内容に変換する

・詳細を削除し、曖昧さに変換する

・繰り返しは変化の一形態である

・逆行する

・短絡

・彼の男らしさを向上させるには、それらを彼の膝に直接押し込みます

・ドアを閉めて外から聞いてください

・単純な引き算

・スペクトル解析

・休憩する

・明らかに重要でない要素から順に要素を取り除きます

・口にテープを貼ってください(Ritva Saarikko さんより)

・不一致の原則

・テープが音楽になった

・ラジオのことを考えてみましょう

・片付ける

・今のあなたを信じて

・ひっくり返してください

・背骨をひねる

・古いアイデアを使用する

・許容できない色を使用する

・ノートの使用量を減らす

・フィルターを使用する

・「資格のない」人材を利用する

・水

・あなたは今、本当に何を考えていますか? 組み込む

・状況の現実はどうなっているのでしょうか?

・前回はどんな間違いを犯しましたか?

・あなたの一番親しい友人ならどうしますか?

・やらないことは何ですか?

・異なる速度で作業する

・あなたはエンジニアです

・一度にドットは 1 つしか作成できません

・自分のアイデアを使うことを恥ずかしがる必要はありません

・[空白の白いカード]

 

 

 以上のカードの言葉が示している通り、これらのメッセージのようなものは、何らかの制作のために作られたため、音楽的な事項にまつわる思考が多い。

 

 その中には「録音を音響状況にフィードバックする」、「ステレオ・チャンネルのパンの振り方」から「フィルターを使用する」といった具体性のある音楽的な指示、「自分の才能を発揮するのを恐れないように」、「繰り返しは変化の一形態である」といった啓示的な内容まで、さらに制作における緊張感を解すため、「首をマッサージしてもらう」、「休憩する」、「長い間、何もしない」という実際的なアドバイスまで書かれています。これらのカードは、それまで考えもよらなかったような隠された思考に気づくきっかけを与えてくれるかもしれませんよ。

 

 

・斜め上の戦略が取り入れられた事例

 

 考え次第によっては、お遊びにも思えるオブリーク・ストラテジーズですが、こういったカードが実際のプロのミュージシャンの作品制作に使用された事例は一度や二度ではありません。

 例えば、コールド・プレイのアルバム『Viva La Vida Or Death And All His Friends』 はブライアン・イーノがプロデュースを手掛け、この作品の中でオブリーク・ストラテジーズが使用されているようです。他にも、フランスのロックバンド、フェニックスも2009年のアルバムでカードを使用した。さらに、MGMTは、『Congratulations』に収録されている「Brian Eno」の制作時に、スタジオにオブリーク・ストラテジーズのカードデッキを用意していたが、それを正しく使用出来たかは分からないという。他にもバウハウスも作曲時にこのカードを使用しています。

 最も有名な事例では、デヴィッド・ボウイのベルリン三部作(『Heroes』、『Low』、『Lodger』、1976年から79年にかけて制作)の中で、ブライアン・イーノがこのカードを使用しています。「Heroes」のインストのレコーディングに使用されただけでなく、「Lodger」ではより広範囲に使用された。ボウイの1995年のアルバム「Outside」で、再びイーノはこのカードを使用しています。

 アルバムの制作に関わったカルロス・アルマーは、このカードを使用するのが大好きらしく、後に「私が教えているスティーヴンス工科大学の舞台芸術センターの壁にはブライアン・イーノのオブリーク・ストラテジーズが飾ってある」と述べています。「もし、生徒たちがブロックに陥ったときは、私はその壁に向かって生徒たちを誘導する」という。
 
 もし、何かの考えに煮詰まった時、ライターズブロックに直面した時、別の考えがあることに気づくことはとても重要です。そこで、それまでとは異なる考え方や可能性があると気づくため、オブリーク・ストラテジーズは最適かもしれません。現在、このカードは、小売店などでも販売中です。



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  60年代半ばはサイケデリックな時代の幕開けとなり、急成長を遂げたロンドンのアンダーグラウンド・シーンでは、当時のムードに合ったドリーミーでトリップしたようなサウンドを生み出すバンドが数多く登場した。

 

60年代のサイケデリック・シーンのあまり魅力的でなかった特徴のひとつは、一部のパフォーマーたちが自分たちのことをあまりにも真剣に考えすぎていたことだ。新しいバンドが次々と登場しては消えていく様子は、すぐに地元の図書館の神話コーナーでビックバンが起こったかのような印象を与えた。

 

このシーンから、「ダンタリオンの戦車」、「ヤコブの梯子」、「アフロディーテの子供」、「神々」といったありそうもないタイトルのバンドが次々と登場したのだ。幸運なことに、アクエリアスの時代を祝うために真剣に努力する、前兆のある名前のグループの流れの中で、このシーン全体が少し真剣すぎるのではないかという考えに、喜んで首肯する人たちが何人かいた。いくつかのバンドは、アンダーグラウンド・シーンは単なる一過性のジョークに過ぎないかもしれないと認識し、グループ名にやんわりと自嘲的なダジャレを取り入れることで、出口をしっかりと見据えていた。

 

 

  1965年、あるバンドは、イギリスのケンブリッジ出身の友人たちにロンドンの建築大学出身の新しい知り合いを加え、結成された5人組のラインナップを擁していた。当初、グループは、小さなクラブやプライベートなパーティー、そして、自分たちの大学の安全な場所でギグを演奏していた。「RAFノースホルト」で行われた広い世界でのギグに飛び出してみると、意外なことに、ロンドン・サーキットに「ティー・セット」と名乗る2つのグループがいることがわかった。

 

ライブ会場の必然的なダブル・ブッキングを避けるため、新参グループたちはその場で代案を出すことになった。彼らのリード・シンガーがすぐに決めた名は、「ピンク・フロイド・ブルース・バンド」だった。1965年の初夏から、この名前はポスターやフィルターに登場するようになった。ピンク・フロイド・ブルース・バンドには当初、ボブ・クロースがギターとヴォーカルで参加していた。ボブはあまり長くは活動せず、バンド名のブルースの要素もなかった。1965年の夏までにバンドは4人編成にスリム化され、バンド名もそれに合わせて縮小された。その後数年間、バンドは「ザ・ピンク・フロイド』として知られることになる。バンドがようやく定冠詞の『The』を振り払うことができたのは、1970年代初頭のことだったが、1971年までには、彼らは単にピンク・フロイドとして広く認知されるようになっていた。

 

  ピンク・フロイドとして知られる4人組の初期メンバーは、ベースのロジャー・ウォーターズ、キーボードのリチャード・キース、ドラムスのニック・メイスンだった。リード・ギターとヴォーカルを担当したのは、ロジャー・キース・バーネットで、シド・バレットとしてよく知られている。シドのグループにとって、報われない無名の長い年月はなかった。バンドは、初期のリズム・アンド・ブルースのスタンダードを捨て去り、次のようなスタイルで活動していた。1966年11月までに、このバンドに関する情報は首都の居心地の良い世界を超えて広く伝わり始めていた。

 
  ケント州で発行されている地元紙『ヘラルド』は、ピンク・フロイドのメンバーへのインタビューをいち早く掲載した。リック・ライトは、この特別なインタビューを担当し、バンドの音楽が急速に拡大する聴衆に与えた影響を説明する仕事を任された。

 

「それは時々、驚嘆に値するポイントに到達します。それはうまくいったときで、いつもというわけではありません。そのとき、楽器が私たちの一部になるのではなく、音楽が私たちから出ていることを実感するんだ。私たちの背後にある照明やスライドを見て、そのすべてが私たちと同じように観客に影響を与えることを願っています」

 

「完全に自然発生的なものなんだ。私たちはただアンプリファスターを上げ、それを試してみた。でも、私たちが望むものを正確に手に入れるまでには、まだ長い道のりがある。さらに発展させなければならない。私たちのグループは、どのポップ・グループよりもメンバー間の協調性が強いと思います。もちろん、ジャズ・グループのような演奏も出来る」「正しい音を出すためには一緒にいなければならないから、私たちは音楽的に一緒に考えるようになった。私たちの演奏のほとんどは、自然発生的でリハーサルのない即興的なものなんだ」

 

「私たちは比較的新しいグループで、本当に新しいサウンドを発信しているので、ほとんどの人は最初はただ立って聴いているだけです。私たちが、本当に望んでいるのは、音楽に合わせて、音楽と一緒に踊って、私たちの一部になってもらうことです。私たちが望んでいることを体験してくれる人がいると、ちょっとしたジャングルになるけれど、彼らは音楽と自分自身に夢中になっているから、それほど害はないわけです」「それは感情の解放であるが、外向きのものではなく、内向きのものであり、ですから誰もトランス状態になったりすることはないのです」



  アンダーグラウンド・シーンの口コミが急速に広まった結果、バンドはすぐに、権威あるサンデー・タイムズ紙を含む主要メディアの注目を集めるようになった、 1966年末、同紙はアンドリュー・キングにインタビューしたバンドに関する最初の全国的な特集のひとつを掲載した。


サイケデリックバンドと呼ばれることについて、マネージャーのアンドリュー・キングは次のように答えた。「自分たちをサイケデリックとは言わない。でも否定はしないよ」


ベース奏者のロジャー・ウォーターズはこう付け加えた。「しかし、それは協力的なアナーキーであり、私の言っている意味がわかるなら、それは間違いなくサイケデリアの目的を完全に実現していると思う。でも、もし、LSDを飲んだとしたら、何を経験するかはあなた次第。たいていは後者で、聴衆が踊らなくなると、口を開けたまま立ち尽くし、完全にグルーヴしてしまうんだ」


改善された音楽はもちろん好評で、渦巻くサイケデリックな光のショーが加わったことで、全体的な体験にアクセントが加わり、音楽がポイントを外れる瞬間がたびたびあったが、それもまた必要な気晴らしとなった。バンドが多大な時間と労力を費やしたのは、観客を引き離し、音楽を引き立て、時にはそれを凌駕するような、真に心を揺さぶるライト・ショーだったのだ。

 

このパワフルで即効性のあるインパクトの結果、ピンク・フロイドは、発売直後からすぐに聴衆の心をつかんだ数少ないバンドのひとつとなった。瞬く間にザ・バンドは、ロンドンで爆発的な人気を誇るサイケデリック・シーンの寵児となった。 

 

フロイドは1966年、伝説的なクラブ、マーキーへのレギュラー出演から始まった。その年の暮れには、同じく有名なUFOクラブがオープンし、ピンク・フロイドは急速にこのクラブのハウス・バンドとなり、ヒップでトレンディとされるものすべてのバロメーターとして広く認知されるようになった。



  1969年の9月、リック・ライトはUFOのクラブでの体験について、Top Pops and Music誌に次のように解き明かした。

 

「僕らが駆け出しの頃は、ヒットシングルを出さないと誰も聴いてくれなかった。当時は、音楽は踊るものだった。でも、踊らない人が多いのは残念だね。今のところ、観客は頭で考えているだけで、身体で感じていない。でも、これから変わっていくだろうね。私たちはUFOでこのことに気づいた。僕らが始めたころは、観客全員が踊っていたんだけど、だんだん踊らなくなり、聴くようになった。UFOはその変化にとても大きな役割を果たしたと思うね」

 

「以前はPowis Gardensの教会ホールで開催されていた、ワークショップのような雰囲気だった。すべてがオープンになり、とてもいい気分だった。すべて実験的なもので、当時は音楽と照明で何とかしていた」

 

「当時、私たちの生活の中心はUFOだった、すべてがオープンになり、とてもいい気分だったよね。フロイドはステージの上にいたけれど、観客や他のすべての出来事も同じくらい重要だった。お金は関係ないんだ。今はもっとプロフェッショナルな態度を取らなければならない。今でもたくさんの実験をしているが、同じではない。みんな私たちのことを知っているし、何を期待するかもわかっている。その 今の観客の感じはいいけれど、僕らの背後には、確立するために戦い抜かなければならなかったことがある。結成したてのころは、基本的に音楽を聴くために演奏していただけで、将来のことは考えていなかった。でも今は、しばらくはやっていけるという自信がある」

 

 




  1967年1月14日、UFOでの体験に近い時期に、ニック・メイソンとロジャー・ウォーターズはMelody Maker誌のインタビューを受けた。

 

「マネージャーが現れ、フルタイムで照明を担当する人を探し始めるまでは、私たちはとても混乱していた。その照明係は文字通りグループの一員でなければならない。初期の頃は、エレクトロニックな音楽はあまり演奏していなかったし、スライドもまだアマチュアっぽかった」

 

「しかし、今ではそれが発展し、主に改良されたエレクトロニックシーンへの "テイクオフ "はより長くなり、もちろん、私の意見では、スライドはとんでもないものに発展した。彼らは本当に素晴らしい。自分たちをサイケデリック・グループと呼んでいるわけでも、サイケデリック・ポップ・ミュージックをやっていると言っているわけでもない。ただ、みんな僕らをサイケデリックと結びつけて、ロンドンのいろんなフリークアウトやハプニングでよく起用されるんだ」

 

「サイケデリックという言葉に定義はないよ。サイケデリックという言葉はそもそも、私たちの中にあるのではなく、私たちの周りにあるものなのだから」とロジャー・ウォーターズ。「それは私達が数多くの機材と照明を持っているからであり、プロモーターがグループのために照明を雇う必要がないからだと思います。とにかく、フリークアウトは非公式かつ、自発的であるべきです。これまで最高のフリークアウトは、何百人もの人々が集まるパーティーにいるときだった。フリーアウトは、ビンを投げつける野蛮な暴徒であってはいけないんだ」

 

 





  もちろん、フロイドには誇大広告やフリークたち以上のものがあった。当時、光と音を組み合わせて本物のオーディオ・ビジュアル体験を提供する最前線にいた彼らは、そのステージ・ショーにも気を配っていた。

 

初期の実験は、大学の講師であり、家主でもあるマイク・レナードの協力を得て行われた。当時の基準では、パフォーマーや観客に投げかけられた渦巻くような色彩のパターンは、革新的で実に印象的だった。 刻々と変化する照明ショーは、催眠術のように脈打つ音楽のリズムに合わせて手作業でシンクロされ、結果、純粋に不穏なインスピレーションと催眠術のような効果が生まれた。レオナードのライトショーは、BBCの人気の科学番組『Tomorrow's World』のピンク・フロイドを特集したエピソードに収録されるほど、アヴァンギャルドであった。 


これらの初期のテレビ放送はもちろん白黒だったので、イベントは何か訳がわからなくなってしまった。コンサートの観客の薬漬けの部分にとって、ショーは確かに衝撃的だった。しかし、先入観を捨て、即興演奏の実験的な側面を受け入れる準備ができていたストレートな観客にとっても、このショーは同じように効果的だった。



  バンド結成当初の原動力となったのは、もちろんシド・バレットだった。しかし、当時のアンダーグラウンド・シーンがいかに小さく、ロンドンに集中していたかは興味深い。ピンク・フロイドがスウィングするロンドン・シーンの高みに上り詰めていくのに忙しかった頃、『アトム・ハート・マザー』の共作者であるロン・ジーシンのような未来のフロイドの共同制作者たちは、この高まりつつある現象にまったく気づいていなかったと、後になって回想している。

 

「シド・バレットとのピンク・フロイドは私の視野の外だったよ。彼自身の音楽に関しては、ちょっとボロボロで個性的だと言えるかもしれないね。実際、シド・バレットを見たのは、私たちが『アトム・ハート・マザー』をやっているときに、アビー・ロードのセッションにひょっこり顔を出したときだけだった。彼はスローモーションで2、3回転してまた出て行ったよ」


ロン・ジーシンはフロイドのことをあんまり知らなかったかもしれないが、常に次のセンセーションに目を光らせていたロンドンの流行に敏感な観客たちは、パワフルなライヴ・ショウを繰り広げる彼の素晴らしい新バンドの音楽をよく知っていた。

 

  1967年初頭には、フロイドはアンダーグラウンド・シーンで大きな話題となり、フロイドの体験を初めてフィルムに収めたインディペンデント・フィルム・メーカー、ピーター・ホワイトヘッドの注目を集めた。彼は、サウンド・テクニック・スタジオで「Interstellar Overdrive」を演奏するバンドを撮影し、1968年1月13日のUFOクラブでのパフォーマンスと、1967年4月29日にロンドンのアレクサンドラ広場で行われた24時間の "ハプニング "と称された24 hours Technicolour Dreamをモンタージュした映像に切り替えた。


  数週間後、『Record Mirror』のインタビューに応じたロジャー・ウォーターズは、フロイドの音楽とこれらの出来事との関連性を説明しようとした。「俺たちは好きなものを演奏するし、演奏するものは新しいんだ。 ファンが聴きたいものをやっているのは、俺たちだけだから、俺たちをこの新しい時代のハウス・オーケストラと表現することもできるだろう。私たちは、自由と創造性を含む現在のポップス全体の一部であり、楽しませることだけをやっている。私たちは、通常、リンクされない音をリンクさせるし、通常、リンクされない光をリンクさせる。自分たちが本当に言いたいことを示すため、アルバムに多くを頼っているんだ。私たちは、発展させようとしている。ただ、他のアーティストのコピーをしたり、アメリカのレコードを手に入れて、一音一音書き写していくような人たちに、私たちはあまり時間を割けない」


このような強力なビジュアル・ストーリーによって、テレビ局もアンダーグラウンド・シーンのワイルドで素晴らしい世界に興味を持ち始めるのに時間はかからなかった。1967年1月下旬、グランダ・テレビジョンは『Scene Special』というドキュメンタリー番組のために、UFOクラブで『Interstellar Overdrive』を演奏するバンドを撮影した。このエピソードのタイトルは "It's So far Out It's Straight Dawn "であったが、これはフロイドの音楽のクオリティを揶揄したものであったかもしれない。

 


  新たにプロとなったフロイドは、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント会社を設立。マネージャーのピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは、以前はバンドのためにギグをブッキングしており、初期のフロイドの活動の原動力となっていた。時代の真の精神を反映し、ジェナーとキングは後にBlackhill Enterpirsesの所有権を自分たちとグループの間で等分した。グループのもう一人の初期の支持者は、ジョー・ボイドというアメリカのA&Rマンだった。


新生のプロフェッショナル・フロイドは、ブラックヒル・エンタープライズというマネージメント会社を彼らの代理人として指名した。マネージャーのピーター・ジェナーとアンドリュー・キングは以前、バンドのためにギグをブッキングしており、初期のフロイドの活動の原動力となっていた。

 

グループのもう一人の初期の支持者は、ジョー・ボイドというアメリカのA&Rマンだった。ジョーは、ブラックヒルをDoors以前のエレクトラ・レコードとの契約に誘うことに熱心だった。エレクトラはレーベルとして断られたが、ボイドは代替案としてポリドールを提示した。1967年2月、バンドはポリドールを念頭に置いて、ジョー・ボイドがサウンド・テクニック・スタジオでプロデュースした「アーノルド・レイン」のファースト・シングルをレコーディングした。このキャッチーなサイケデリアは、ポップ・ビデオの時代よりもずっと前に、プロモーション・フィルムまで制作されている。

 

デレク・ナイスがプロデュースと監督を務めたこの素朴で小さな短編映画は、基本的に流行のビートルズ・スタイルで撮影されており、4人のフロイドが仕立て屋のマネキンと浜辺ではしゃぎまわるという内容だ。このフィルムが1967年3月10日にUFOクラブで世界初公開された時、この地味なフィルムが、セルロイドに記録されたロック音楽の中で最も強烈なオーディオ・ビジュアル体験の先駆けになるとは、誰も思いもよらなかっただろう。


アーノルド・レインのポリグラムへの前進は、ロンドンのエージェント、ブライアン・モリソンの介入によってハイジャックされた。EMIは、すでにレコーディングされ準備の整った興味深いネス・イングルを携えていたため、このバンドが勝者であることを知っていた。ザ・バンドは、ビートルズの本拠地として誰もが認める名門レーベルと契約できたことを同様に喜んだ。とても "英国的 "な曲であるアーノルド・レインは、ロジャー・ウォーターズとシド・バレットが彼らの故郷ケンブリッジで実際に遭遇した出来事にインスパイアされた。シドとロジャーの母親はともに女子学生を下宿させており、下着の洗濯物干し場は定期的に下着泥棒に荒らされていた。


「Arnold Layne」Music Video

 

  バレットは1967年、メロディ・メーカー誌にこの曲の背景をこう語っている。「最近書いたんだ。アーノルド・レインっていい名前だと思ったし、すでに作曲していた曲にもぴったりだった。ベースのログの家の裏庭に巨大な洗濯物干し竿があったんだ。それで、アーノルドには趣味があるに違いないと思ったんだ。アーノルド・レインはたまたま女装が好きだったんだ。誰もが反対できる歌詞は、この部分だけだろうね。でも、もし彼らのような人たちが僕らを嫌うのなら、アンダーグラウンドの人たちのような人たちが僕らをディグすることになる」

 

B面はキャンディ・アンド・カレント・バン(Candy And A Current Bun)で、これもバレット作曲。原題は『Let's Roll Another One』で、EMIはタイトルを変更することを条件にリリースを承諾した。バンドはまだ初期で、党派的な路線に従うことを望んでいたため、タイトルは正式に変更された。

 

A面という珍しい題材にもかかわらず、バンドがEMIと契約して最初にリリースしたこの作品は、レコード購入者の間で意外なヒットとなった。しかし、ブラックヒル・エンタープライズのオフィスでは、サプライズの要素はやや薄かった。後にアンドリュー・キングが明かしたように、この曲をシングル・チャートで20位という立派なポジションに押し上げたのは彼らだった。歌詞に対する俗物的な反応から、このシングルは発売禁止にすべきだという声が一部から上がっていたことを考えると、シングルを宣伝するという決断は賢明なものだった。しかし、海賊ラジオ局ラジオ・ロンドンは、このシングルを正式に放送禁止にしたのだ。


ロジャー・ウォーターズ、リック・ライト、シド・バレットは、このシングルのリリース時にインタビューに答えている。ロジャーは「現実を直視しよう、海賊局はアーノルド・レインよりもずっと "スマート "なレコードをプレイしているんだ。実際、この曲を流しているのはラジオ・ロンドンだけだ。政治が違うだけで、僕らに恨みがあるわけじゃない。リック・ライトは彼自身の見解を付け加えた。「政治が違うだけで、反対するようなことは何もない」バレットは「どうせ、ビジネスライクな商業的侮辱にすぎない。私たちに個人的な影響はないんだ」と一蹴した。

 

 幸運なことに、アーノルド・レインに続くシングル『シー・エミリー・プレイ』は物議を醸すこともなく、商業的にも成功した。『シー・エミリー・プレイ』はチャート6位を記録し、60年代の短い花の期間に制作されたサイケデリック・ソングの中でも間違いなく最高傑作のひとつとなった。 

 

 

「See Emily Play」 

 

 

  この曲は、バンドが1967年春にクイーン・エリザベス・ホールで行った特別コンサート『Games for May』のために書かれたもので、歌詞の中でもそのイベントの名前がチェックされている。

 

その直後、『Record Mirror』はロジャー・ウォーターズのインタビューに基づいた記事を掲載し、このイベントについて触れている。「私たちは、彼らが聴きたいと思うものを演奏した最初の人たちの1人だから、ムーヴメントのハウス・オーケストラと表現できるかもしれない。私たちは、自分たちが好きなものを演奏することから始めただけで、現在のポップ・ムーヴメント全体の一部なんだ。僕らは、アナーキストじゃない。でも、私たちがやっているようなことは、クラブやダンスホールでやるよりも、コンサートでやるのが一番伝わるから、とても難しい立場にいるんだ。少し前にロイヤル・フェスティバル・ホールでコンサートを開いたとき、そこから多くのことを学んだが、同時に大損もしてしまった。すべてを手配するために、1週間の仕事をあきらめなければならなかった。Game for Mayと呼ばれるコンサートは夕方からで、私たちは午前中にステージに上がり、演技を練った。それまでは何をするか考えていなかった。それでも、個々のナンバーのリハーサルと照明の調整くらいしかできなかった」


『Games For May』はピンク・フロイドの発展における重要なマイルストーンとなり、バンドがライヴの音質に気を配るようになった最初の兆しを示すものとなったが、ニック・メイソンが当時のインタビューでこう振り返っているように、音楽に対する配慮はあまりなかったようだ。

 

「私たちはステージにたくさんの小道具を持っていき、即興で演奏したんだ。私たちがやったことのかなりの部分はうまくいったけど、多くのことは完全に失われてしまった。私たちは素晴らしいステレオフォニック・サウンド・システムを完成させ、それによって音がホールを一種のサークルのように巡り、観客はこの音楽に完全に包まれているような不気味な効果を得ることができた。もちろん、私たちは照明を使ってその効果を助けようとした。 残念なことに、それはホールの前の方に座っている人にしか効果がなかった」

 

「あのコンサートでは多くのミスを犯したが、この種のコンサートでは初めてのことだった。そして私たち個人も、そこから多くのことを学んだ。でも、自分たちがやっていること、過去3年間やってきたことが受け入れられ、他のグループが今やっているようなことに大きな影響を与えたと思うと、とてもいい気分だ。今年の2月になってから、僕らにとってすべてが起こり始め、プロに転向することを決意させた」


「しかし、待った甲斐があったよ。3年前は、それが何なのか誰も知らなかった。でも今、観客は私たちを受け入れてくれている。私たちは一般大衆を教育しようとは思っていない。もちろん何かを押し付けようとは思わない。でも、私たちが提供するものを受け入れてくれるのなら、そして今のところ受け入れてくれているようなら、それはとても素晴らしいことだと思う。私たちの考えが多くの人々に伝わっているのだからね」

イパネマの海岸


ボサノヴァは1950年代のブラジルを発祥とする音楽で、リオデジャネイロのビーチに隣接するコパカバーナとイパネマの2つの地区の中流階級の学生とミュージシャンのグループにより始まった。


このジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンとヴィニシウス・デ・モラレスが作曲し、後にはジョアン・ジルベルトが演奏した「チェガ・デ・サウダージ」のレコーディングにより一躍世界的に有名になった。


もちろん、知名度で言えば、「イパネマの娘」も世界的な知名度を持つヒット・ソング。くつろいだアコースティックギターの演奏、甘いボーカル、パーカッションの心地良い響きなど、心を和ませる音楽は、今も世界のファンに親しまれている。

 

 

ボサはサンバとともにブラジルを象徴する音楽でありつづけたのだったが、同時にその誕生は、政治的な意味と文化的な表現が融合されて完成されたものだった。これはスカやレゲエの前身であるカリプソが当初、トリニダード・トバゴの軍事的な意味を持つ政府お抱えの音楽としてキャンペーンされたのと同様である。1956年から61年にかけてのジュセリーノ・クビチェック政権は、ボサノヴァの文化的な運動の発生を見るや、政権としてこの音楽を宣伝し、バックアップしたのだった。クビチェック政権がもたらした成果はいくつもある。ブラジルの国家の近代性の立ち上げ、全般的な産業の確立、それから自国での石油の生産と供給の権限である。もちろん、ブラジリア市建設の主導権を握り、国家の独立性の重要な立役者となった。


芸術運動は、そもそも経済産業の余剰物であり、経済産業の一部にはなっても、根幹となることは稀である。果たして、政治的、経済的の基礎的な安定なくして、国家の文化事業を生み出すことが可能だろうか? 


つまり、これこそが経済的に安定した国家から優れた音楽が登場する理由なのだ。幸運にも、50年代後半のブラジルは、上記の条件を満たしていたこともあり、比較的経済的に恵まれた若者の気分に余裕が出来た。つまり、余剰の部分が後の世界的な文化を生み出すことに繋がった。当時のリオデジャネイロが生み出したのは、何も音楽だけではない。リオは、その当時の世界の中心地である、パリやニューヨークに向けて、最新のファッショントレンドを発信した。

 

そして、この大統領政権時代には、無数の文化が世界に向けて輸出され、それらがブラジルの固有のカルチャーとなったのである。文学的な活動、また、そこから生まれた詩、シネマ・ノボ、自由劇場、新式の建築、音楽が世界に向けて発信された。ボサノヴァは、ブラジル音楽の歴史で重要な役割を果たし、サンバの音楽から熱狂的な打楽器の要素を取り除き、対象的に静かで落ち着いたサウンドに変化させ、米国のジャズやフランク・シナトラのジャズ・ボーカルの影響をもとに、それらを最終的にジャジーなムードを漂わせる大衆音楽へと昇華させたのだった。

 

 

Antnio Carlos Jobin


当初、リオの海岸の街で生み出されたブラジルのジャズとも言えるこのジャンルは、アントニオ・カルロス・ジョビンによって磨きがかけられた。 ジョビンはリオデジャネイロのチジュッカ地区に生まれたが、14歳の頃からピアノをはじめた。音楽で、生計を立てたいと若い時代から考えていたが、家族を養うため、建築学の道に進むことを決意した。


しかし、建築学校に入学後、どうしても夢を捨てきれず、ラジオやナイトクラブでピアノ演奏家として働いていた。その後、ハダメス・ジナタリによって才覚を見出され、コンチネンタル・レコードに入社し、譜面起こしや編曲の仕事に携わった。カルロス・ジョビンの音楽にプロデューサー的な視点があるのは、これらの若い時代の経験によるものだ。その時代から、幼馴染のニュートン・メンドゥーサと一緒に音楽活動を始め、これが後に、「想いあふれて(Chega De Saudade)」で完成を見た。このレコードが世界で最初のボサノバ・ソングと言われている。

 

 

 

アントニオ・カルロス・ジョビンの音楽には、幼少期からのクラシック音楽の薫陶、クロード・ドビュッシーのフランスの近代印象派に加え、ブラジルの作曲家、ヴィラロボスの影響があった。それに彼は米国のジャズの要素を加えて、ボサノバの代名詞となるサウンドを構築していく。歌詞についても、音楽と密接な関係があり、ブラジルのルートリズムに根ざしている。

 

「イパネマの娘」 はカルロス・ジョビンが1962年に録音したボサノバソングで、このジャンルの最大のヒット作である。この曲はヴァイニシウス・モライスが作詞を手掛けた。ビートルズの「ハード・デイズ・ナイト」に続いて、世界で最もカバーされた曲でもある。


イパネマとはリオの南部の海岸筋にある地区を指し、現在では名高いサーフィン・スポットとして知られている。海岸にある半島には遊歩道があり、素晴らしい夕暮れの景観を楽しめる。


イパネマ地区の近隣には、 緑の多い通り、ファッション・ブティック、ダイニング・レストランなどがずらりと並ぶ。現在でも、ボサノバのアコースティック演奏を楽しめる、くつろいだスペースもある。

 

 

Marcus Vinícius da Cruz e Mello Moraes


この曲は音楽家として知られるようになっていたジョビンと外交官/ジャーナリストのモライスが共作した。1957年頃から二人は、コンビを組んで活動を行っていた。両者はボサノバの最初のムーブメントを牽引した。

 

「イパネマの娘」の曲の誕生にまつわる面白いストーリーがあるので、ここでひとつ紹介しておこう。当時、ジョビンとモライスを始めとするボサノバのアーティストは、リオのイパネマ海岸近くにあるバー「ヴェローソ(ガロータ・デ・イパネマ)」に通い、酒を飲んでいたという。そこへ、エロイーザという少女が現れ、母親のタバコを買いに来た。10代後半の女、比較的背が高く、近隣でも有名であった。好色家の二人は、この女性にインスピレーションを得た。その場で即興で作られた曲という説もあるが、実際は作詞作曲ともに、二人の自宅で制作された。

 

1962年、この曲は正式にお披露目となった。そのお披露目には、ジョビン・ジルベルト、モライスとボサノヴァのスターが共演した。しかし、懸念すべき事項があった。この曲が初演されたのは、リオのナイトクラブ「オ・ボン・グルメ」で8月2日から45日間にわたって開催されたショーだった。外務省から「外交官がナイトクラブに出演するなど言語道断である!」との通告を受けたモライスは、報酬は貰わないと決めた上でステージに出演し、クラブに来客した友人の飲食代を肩代わりした。しかし、モライスは終始酒に酔い続け、飲み代がかさみ、あげくはナイトクラブのショーの後には出演者の料金まで受け持つことになったという。


 

『Getz / Gilberto』1964


後に、「イパネマの娘」は、スタン・ゲッツ、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルト、アストラッド・ジルベルトのバージョンで世界的に有名になった。1964年のアルバム『GETZ / GILBERT』は、ボサノバ・ブームの火付け役となった。本作は、ビルボード誌のアルバム・チャートで2位に達する大ヒット作となり、「イパネマの娘」もシングルとして全米5位に達した。


そして、グラミー賞では、アルバムが2部門(最優秀アルバム賞、最優秀エンジニア賞)を受賞し、「デサフィナード」が最優秀インストゥルメンタル・ジャズ・パフォーマンス賞を受賞、「イパネマの娘」が最優秀レコード賞を受賞した。本作の音楽は本来のボサ・ノヴァとは別物であると主張する声も多かったが、結果的には、アメリカにおけるボサ・ノヴァ・ブームを決定づけた。

 

「イパネマの娘」のリリース後、ブラジルと米国を中心に大ヒットを記録し、続いて、日本、フランス、イタリアで知られるようになり、世界的なヒット・ソングとなった。

 

スタン・ゲッツやチャーリー・バードといった米国のジャズ演奏家がボサをカバーしたのをきっかけに、米国にもこのジャンルが一般的に浸透した。優れたジャズ演奏家がボサノバを発見したことで、音楽的にも磨きがかけられた。シンコペーションが取り入れられ、洗練された響きを持つようになった。

 

De La Soul

・サンプリングはどのように発展していったのか?

サンプリングというのは、すでに存在する音源を利用して、それらをコラージュの手法で別の意味を持つ音楽に変化させるということである。つまり、再利用とか、リサイクルという考えを適用することができる。それはクリエイティヴィティの欠如という負の印象をもたらす場合もあるにせよ、少なくとも、ヒップホップミュージシャンやレーベル関係者にとっては、再利用という考えは、「音楽の持つユニークな側面」として捉えられていたことが想像できる。そして、すでにあるものを使うという考え、それはそのままラップのひとつの手法となっていった。

 

ヒップホップ・シーンでのサンプリングに関しては、70年代後半にはじまった。


1979年、シュガーヒル・ギャング(The Sugarhill Gang)の「Rapper’s Delight」のサウンドトラックを制作するにあたり、レーベルの経営陣は苦肉の策として、シック(Chic)の「Good Times」をコピーさせるという手法を選んだ。

 

そして、その18年後、ノートリアス・BIGの「Mo Money Mo Problems」の曲を制作するさい、ション・パフィ・コムズが選んだのはダイアナ・ロスの「I Coming Out」をただサンプリングしただけだった。どちらの原曲もナイル・ロジャースによって書かれた。


当初、こういったサンプリングとかチョップの試みは、シュガーヒル、エンジョイといったラップアーティスト、スタジオでバンドを使った初期のラップレコードの多くによってもたらされた。それは、ブレイクビーツの手法を用いず、こういったサンプリングを使用すると、ラジオ曲でオンエアされやすいという事情もあったため、積極的に使われていくようになった。そして当時はソウル全盛期に音楽的なルーツを持つミュージシャンの象徴的なメンタリティでもあった。

 

以降、サンプリングの手法がひろまると、この技法はソウルの後のヒップホップを聴いて育ったミュージシャンのトラックメイクの重要なファクターになり、ヒップホップの新しい可能性を開くための道筋を開く。ライブステージでしか生み出し得ないと思われていたリアルな音楽をレコーディングやレコード・プロダクションの過程で生み出すことが可能になった。これはレコードという媒体が、単なる記録の集積以上のものとなり、以前に演奏されたサウンドや再発見されるサウンドの集合体という、今までとは違った意義を持つようになった。

 

ただ、この時点では、サンプリングは、ミュージシャンだけの特権ともいうべきものにすぎず、一般的なリスナーにはあまり知られていなかった。この手法を一般に普及させたのが、パブリック・エネミー(Public Enemy)、そして、昨年、サブスクリプションで全作品を公開したデ・ラ・ソウル(De La Soul)である。

 

(昨年末、ビースティ・ボーイズ、デ・ラ・ソウルのプロデューサーと制作を作ったイギリスのDef. foというミュージシャンとメールでやりとりとしていたが、こういったミュージシャンに関しては、新しいものにこだわっておらず、良い音楽を再発見するというサンプリング的な意義を見出そうとしている。彼の作品には、ベル・アンド・セバスチャンのキーボード奏者も参加している)

 

ちなみに、デ・ラ・ソウル、そしてパブリック・エネミーは両方とも、ロングアイランド出身のグループである。とくに、パブリック・エネミーの代表作『Public Enemy Ⅱ』は、ブラック・パンサー党の思想、そして、ネイション・オブ・イスラームの理念をかけあわせ、黒人を排除する冷血な社会構造と対決する姿勢が示されていた。これが同じような思いを持つブラザーに大きな共鳴をもたらしたのである。そして、サンプリングという観点から言うと、現在のヒップホップミュージシャンがそうであるように、ヘヴィメタルの再利用が行われ、スラッシュ・メタルの先駆的なバンド、アンスラックス(Anthrax)の音源が彼らのトラックに取り入れられていた。最近でも、JPEGMAFIA、Danny Brownが、SlayerやMayhemのTシャツを着ていたのは、詳しいファンならばご存知と思われる。彼らがスラッシュメタルやブラック・メタルに入れこんでいるらしいのは、パブリック・エネミーからの時代の名残り、あるいはその影響と言える。

 

Public Enemy

そして、サンプリング・ミュージックの今一つの立役者がヴィンテージ・ソウルをブレイクビーツ的な手法で取り入れたのが、デ・ラ・ソウルである。デ・ラ・ソウルのデビューアルバム『3 Feet High and Rising』で、ラップはもちろん、歌やジョーク、寸劇などが爽快に散りばめられた24曲入りの超大作だった。

 

このアルバムは、パブリック・エネミーの『Ⅱ』の一年後に発売された。パブリック・エネミーの作品がストリートギャングの余波を受けた黒人としての怒りとアジテーションを集約した作品であったとするなら、デ・ラ・ソウルのデビュー作は、それとは対比的に、子供っぽさ、無邪気さ、可愛らしいサウンドが織り交ぜられた作品だった。デ・ラ・ソウルのデビュー作の中には、彼らのソウル・ミュージックに対する愛情が余さず凝縮されていた。スティーリー・ダン、オーティス・レディング、スライ・ストーン、ダリル・ホール&ジョン・オーツ等、ネオソウルからモータウンのソウルまで幅広い引用が行われている。そして、デ・ラ・ソウルは、これらのミュージシャンの曲を見事に組み合わせた。それは「拡散的なサウンド」ともいえるし、ブレイクビーツの系譜の重要な分岐点となったことは想像に難くない。そして、トゥルーゴイとポスダナスが繰り出したのは、ジョークとウィットに富んだリラックスしたリリックだった。

 

彼らの音楽は、ソウルミュージックの系譜にあると同時に、ヒップホップの友愛的な側面を示していた。80年代に活躍したプロデューサーは、こぞってサンプリングに夢中になり、権利関係を度外視し、音楽のサンプルをかなり自由に使用していた。しかし、サンプリングが商業音楽として普及していくと、同時に著作権やライセンスに関する問題が生ずるようになり、以降は音楽業界全体が、著作権というものに関して一度十分な配慮をおこなう必要性に駆られた。

 

 

・サンプリングと権利問題  利益性とライセンスの所在

 

著作権におけるサンプリングの問題を提起する契機を与えたのが、他でもない冒頭で紹介したシュガーヒル・ギャングの「Rapper's Delight」であり、このシングルがチャートで大ヒットを記録した時だった。

 

このシングルが大ヒットすると、元ネタとなった「Good TImes」を書いたバーナード ・エドワーズ、及び、ナイル・ロジャースは訴訟を起こし、シュガーヒル・ギャングのソングライターのクレジットと印税を獲得することで、この話は収まったのだった。このライセンスに関する問題は、1979年に、報道で大きく取り上げられたというが、それでもサンプリングはこの年以降も比較的自由に使われ続けていた。楽曲のサンプルの元となったソングライターにとって、サンプリングされるということは、経済的に美味しい話をもたらす格好の機会となった。そして、サンプリングは事実、それ以降は弁護士の間で、大儲けのネタになるという話が盛り上がったのである。現在でも、レーベルの方からミュージシャンに、サンプリングやリミックスをしないか、という提案がある場合があるというが、これは早くいえば利益を生むからである。


金銭的な問題や争点と合わせて、一般的な解釈として、サンプリングに対する警戒感が強まった要因には、人種に関する差別意識も含まれていた。サンプリングそのものが、一般的に嫌悪感を持って見られるようになったのは、パブリック・エネミーやデ・ラ・ソウルといった、ブラック・ミュージックの一貫として、オリジナル曲が使用されるようになってからのことである。

 

サンプリングの一番の問題とは、サンプリングされた後に、元ネタとなるミュージシャンの楽曲の価値がどれくらい残されているかという点にある。つまり、音楽的な貢献度の割合自体にクレジットの付与を行うべきかどうかの判断基準が求められるはずだ。もしかりに、元ネタの曲が、有名でもヒット・ソングでもなければ、クレジットする必要はきわめて低いと明言しえるが、デ・ラ・ソウルなどの上記のサンプリングの問題は、有名な音楽が引用元として使用されたことが争点となった。しかし、ここでも矛盾点が生じる。例えば、有名ではない音楽、ヒット・ソングではない音楽そのものが、そうではない音楽よりも価値が乏しいのかという問題だ。

 

1979年の問題に関しては、いわば楽曲を使用された側の感情的な側面が、法律的な騒動を惹起するように働きかけたと考えられる。一例では、ヒップホップという音楽自体を嫌悪していたロック・ミュージシャン、ポップ・ミュージシャンが、自分の楽曲がネタとして使用されていると気がついた時、こういったミュージシャンは、そのことを糾弾するばかりか、ラップそのものに対する敵意すらむき出しにしたのである。しかし、サンプリングに対して問題視しなかったのが、ベテランのR&Bミュージシャンであった。ただ、この点については、彼らが音楽業界で、騙されたり、マージン等をごまかされていたため、それほど権利自体に配慮しなかったのが要因だったという指摘もある。こういった流れが沸き起こった後、プリンス・ポールは、デ・ラ・ソウルと「Transmisitting Live From Mars」で知られるポップバンド、タートルズの曲の一部を使用したということで訴訟が起こり、そして示談金で自体の収束を図ったのである。

 

ただ、これ以降もサンプリングは受け継がれていった。しかし、デ・ラ・ソウルの時代に比べると、攻めのサンプリングはできなくなり、守りのサンプリングという形でひっそりと継続された。以後は、パブリック・エネミーのような鋭角でハードなサウンドは鳴りを潜め、耳慣れたビートやボーカルの一部のフックを織り交ぜた単純なサンプリングが使用されることになった。

 

単純なループサウンドが主流になると、音楽的にもシーンの新しい存在を生み出すことに繋がった。ハマー、クーリオ、ショーン・パフィー・コムズの曲が大ヒットを記録する過程で、その元ネタとなったR&Bの古典的なカタログは、金のなる木、もしくは資金的な鉱脈と見なされるようになった。

 

この点においては、サンプリングの良い側面が存在する。それは、サンプリングされてヒットすると、元ネタとなるミュージシャンの楽曲も同時に売れるということである。たとえば、スターミュージシャンが、それほど有名ではないミュージシャンの曲のサンプリングを行うと、元ネタの曲もヒットするという相乗効果が求められる。ただ、これに関しては、引用を行ったアーティストがわかりやすい形で、なんらかの表記かリスペクトを示す必要があるように思える。

 

 

・以後の時代 他ジャンルへのサンプリングの普及 

 

Beastie Boys

1990年代に入ると、サンプリングという考えは、音楽業界ではより一般的なものとなった。そして、これらの土壌は、むしろヒップホップを聴いて育った第2世代ともいうべきミュージシャンによって受け継がれていく。ビースティ・ボーイズ、トリッキー、ベックといった90年代のミュージックシーンの象徴的な存在はもちろん、ダンス・ミュージックシーンでも、ケミカル・ブラザーズ、プロディジーといったグループがサンプリングの手法を用いた。定かではないが、ゴリラズもおそらく、それらのグループに入っても違和感がないように思える。


その後、サンプリングという考えは、電子音楽に対するテクノロジーの一貫として、以後の世代に受け継がれていくことになった。現在では、インディーロックやオルタナティヴロックで、このサンプリングの手法を用いるケースが多い。例えば、それらをコラージュのように組み合わせ、別の音楽として再構築するというのが、現在のサンプリングの考えである。代表的な事例が、Alex Gであったり、Far Caspianという優れたソロミュージシャンである。彼らの素晴らしさは、元ある表現性を踏まえた上で、それを全然別のニュアンスを持つ音楽として昇華することにある。それはオルトロックという範疇に、新しい表現性をもたらしたと考えることができる。

 

もちろん、サンプリングのやり方というのも重要で、なんでもかんでもやって良いというわけにはいかないだろう。どの程度、原曲やその楽曲を制作したアーティストに敬意を示しているのか、もし、単なるネタとして原曲を捉えているとなれば、これはちょっと問題である。影響を受けることは仕方ないが、他のものに触れないでも、優れた音楽を生み出すことができるかもしれない。

 

現代のミュージシャンは、そもそも、広汎に音楽を聞きすぎている、という印象を受ける。なぜなら、ダイアナ・ロス、マイケル・ジャクスン、プリンスの時代には、音楽の総数はもっと少なく、音楽の影響も限定的だったと推測される。しかし、上記のミュージシャンが現在のミュージシャンに劣っているとは到底思えない。従って、そのことを照らし合わせてみれば、現代のミュージシャンは、他の音楽を厳しく選り分けて聞くべきかもしれない、というのが私見である。 


私自身は、サンプリングという技法を用いることに賛成したいが、それはミュージシャンの美学を元にし、条件的かつ限定的に使用されるべきと考えている。厳密に言えば、サンプルの素材を「なぜ、そこで引用する必要があるのか?」を明示しなければいけないと思う。次いで、そのサプリングではなく、「他のサンプリングでも代替できる」という場合、理想的なものとは言いがたい。サンプリングは、そうでなければいけない素材を最適な場所で使用せねばならないという、限定的な音楽形式ということを把握した上で、クリエイティビティを誰よりもクールに発揮すべきである。 以上の考察を踏まえて、サンプリング音楽の更なる発展に期待したい。



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