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先週、ドキュメンタリーが6月にプライム・ビデオでプレミア上映されることが発表され、2月にはグラミー賞でプレゼンターを務めたセリーヌ・ディオンが、フランス版『VOGUE』2024年5月号の表紙を飾り、再びスポットライトを浴び始めている。


クロヴィス・グーとの幅広いインタビューの中でディオンは、2022年に診断された稀な神経疾患であるスティッフ・パーソン症候群(SPS)への対処について語った。その症状によって数年分のツアー計画のキャンセルを余儀なくされたこと、そしてファンなら誰もが気になる点はいつステージに戻れるのかということだろう。


「それは答えられないわ......。4年間、私は自分自身に、もう戻らない、準備はできている、できていないと言い続けてきたのだから......。現状では、ここに立ってあなたに言うことはできない。現状では、私はここに立って、『はい、4ヵ月後に復帰する』とは言えない」とディオンは説明した。「わからないわ...。体が教えてくれるはずよ。一方で、ただ待っていたくはないの。毎日を生きるのは道徳的に難しい。ハードだし、一生懸命働いているし、明日はもっとハードになる。明日はまた別の日だ。でも、決して止まらないものがある。それは情熱。夢。決意よ」


彼女はまた、治療の一環として、週に5日、運動療法、理学療法、発声療法を受けていると説明した。「私が思うに、私には2つの選択肢がある。アスリートのようにトレーニングに励むか、家で自分の歌を聴き、鏡の前に立って自分に向かって歌うか。"私は医療チームと一緒に、頭からつま先まで、全身全霊で取り組むことを選んだ」


筋肉のコントロールを取り戻すために自分を奮い立たせ続ける回復力とインスピレーションをどこから得ているのかと尋ねると、ディオンは家族、ファン、チームの愛を挙げた。「SPSに苦しむ人たちは、良い医者や良い治療を受けられるほど幸運でもないし、そのような手段を持ち合わせていないかもしれない。私はそのような手段を持っており、これは贈り物なのです」と彼女は認めた。「さらに、私にはこの強さがある。誰にも止められないとわかっています」


オスカー受賞者のアイリーン・テイラーが監督を務める『I Am: Céline Dion』は、6月25日に全世界でストリーミング配信される。既報の通り、この作品は、音楽ドキュメンタリーにありがちな長期にわたるキャリアの概観を避け、筋力のコントロールを妨げ、ツアーのキャンセルを余儀なくされた稀な神経障害に対処するディオンの人生における予期せぬ、極めて重要な瞬間をスナップショットすることに主眼が置かれている。


「この2、3年は私にとって挑戦のようなもので、自分の症状を発見してから、それと共存し、管理する方法を学ぶまでの道のりだった。


「パフォーマーとしてのキャリアを再開するための道のりが続く中、ファンの皆さんにお会いできないことがどれほど寂しかったことか。この不在の間に、同じ診断を受けている人たちを助けるために、私の人生のこの部分を記録したいと思うようになりました」

 

2月28日に発売されたシンガーソングライター、柴田聡子による新作アルバム『My Favorite Things』。ファンからは「良いアルバムだった」という声が上がっていました。この新作アルバムに続いて、ヴァイナル盤のリリースが決定しました。LPは5月25日にリリースされます。

 

追加情報として、アーティスト自身のプロデュースによるメガネフレーム第二弾「柴田セル」の発売も決定。”鯖江 opt duo Inc.”にて製作された、可愛くもあり洗礼されたスクエアのアセテートフレーム。3色展開で販売されます。こちらの情報も下記より合わせてチェックしてみましょう。

 

アルバムのリリース発表後、「白い椅子」「素直」「Side Step」が先行シングルとして配信されています。制作者のコメント等はこちら

 

 

 柴田聡子「Your Favorite Things [LP]」

 



2024.05.25 Release | DDJB-91243 | 4,000 Yen+Tax
Released by AWDR/LR2

A1. Movie Light
A2. Synergy
A3. 目の下 / All My Feelings are My Own
A4. うつむき / Look Down
A5. 白い椅子 / Sitting

B1. Kizaki Lake
B2. Side Step
B3. Reebok
B4. 素直 / Selfish
B5. Your Favorite Things

作詞・作曲:柴田聡子|All Lyrics & Music by Satoko Shibata

プロデュース、アレンジ:柴田聡子、岡田拓郎|Produced & Arranged by Satoko Shibata & Takuro Okada
ストリングス・アレンジ:香田悠真 (A1, B5)|Strings Arrangement: Yuma Koda (A1, B5)
コード・レスキュー:谷口雄|Chord Rescue: Yu Taniguchi

レコーディング・エンジニア:宮﨑洋一、岡田拓郎、柴田聡子|Recording Engineer: Yoichi Miyazaki, Takuro Okada & Satoko Shibata
レコーディング・スタジオ:IDEAL MUSIC FABRIK、DUTCH MAMA STUDIO、抹茶スタジオ、studio Aoyama、 OKD Sound Studio|Recorded at IDEAL MUSIC FABRIK, DUTCH MAMA STUDIO, Matcha Studio, studio Aoyama & OKD Sound Studio
ミキシング・エンジニア:岡田拓郎|Mixing Engineer: Takuro Okada
ミキシング・スタジオ:OKD Sound Studio|Mixed at OKD Sound Studio
マスタリング・エンジニア:Dave Cooley (Elysian Masters, LA)|Mastering Engineer: Dave Cooley (Elysian Masters, LA)



・柴田聡子オリジナルメガネフレーム第二弾「柴田のセル」

オリジナルメガネフレーム第二弾「柴田のセル」の販売が決定。
左右のレンズ形が違う2ポイントタイプだった第一弾「柴田の2ポ」に続き、今回は大ぶりでスクエアなセルフレームです。カラーも3種ご用意しました。
本日、3月18日(月)より予約販売の受付を開始いたします。事前予約分の発送予定は4月01〜05日となります。
生産数量限定品ですので、お早めのお申し込みをお勧めいたします。



柴田聡子 OFFICIALl WEB STORE
https://idealmusic.official.ec/items/84186585 ]

 

第一弾「柴田の2ポ」や鯖江周遊記でお世話になった鯖江 opt duo Inc.にて製作された、可愛くもあり洗礼されたスクエアのアセテートフレーム。
スクエアフレームのルーツは60年代、モードが生まれた頃に誕生したものですが、この「柴田のセル」はセルの厚みやデザインバランスにより、新しい表情を表しています。
大きめのレンズ径なのに、かけた時のしっくり感は絶妙。レンズを換えて眼鏡やサングラス、どちらとしても楽しめるフレームです。
さらに、今回も田中かえさんに「柴田のセル」を掛けた柴田聡子のイラストを描いて頂きました!
商品に同梱される眼鏡拭きや眼鏡ケース、ステッカーにプリントされています。



 カラー(フレームカラー X レンズカラー濃度)
・チャコールグレー X クリア
・クリア X グレー 15%
・アンバー X ブラウン 50%

サイズ(片レンズの左右径ー鼻幅 テンプルの長さ)
50ー20 145 [mm]

プライス
30.000 Yen [Tax in]

同梱物
柴田のセル|眼鏡ケース|眼鏡拭き|ステッカー|ジン

クレジット
Designed for 柴田聡子
Produced by 素敵眼鏡MICHIO @sutekimeganemichio
Manufactured by opt duo Inc. @optduoinc
Illustration 田中かえ @kaechanha24
Photo 伊藤香織 (Y's C) @i.kaori.d
Hair Makeup 長橋雪惠 @yukie69








柴田聡子 SATOKO SHIBATA

シンガー・ソングライター/詩人。北海道札幌市出身。武蔵野美術大学卒業、東京藝術大学大学院修了。
2010年、大学時代の恩師の一言をきっかけに活動を始める。
2012年、三沢洋紀プロデュース多重録音による1stアルバム「しばたさとこ島」でアルバムデビュー。以来、演劇の祭典、フェスティバル/トーキョー13では1時間に及ぶ独白のような作品「たのもしいむすめ」を発表するなど、歌うことを中心に活動の幅を広げ、2022年、6枚目のオリジナルアルバム「ぼちぼち銀河」をリリース。
2016年には第一詩集「さばーく」を上梓。同年、第5回エルスール財団新人賞<現代詩部門>を受賞。詩やエッセイ、絵本の物語などの寄稿も多数。2023年、足掛け7年にわたる文芸誌「文學界」での連載をまとめたエッセイ集「きれぎれのダイアリー」を上梓。
自身の作品発表以外にも、楽曲提供、映画やドラマへの出演、ミュージックビデオの撮影・編集を含めた完全単独制作など、その表現は形態を選ばない。


Novestaの生産ライン

旧チェコ・スロバキアのパルチザンスケという町がある。1939年、NOVESTA(ノヴェスタ)社はその小さな町にある歴史的な工業地区、BATA Industrial Parkの中にひっそりと誕生しました。


ラバーとキャンバスの製品に特化した靴工場は、第二次世界大戦、戦後の冷戦、社会主義時代や国家分裂の歴史の流れを経て現在まで、ミリタリー、ワーク、ラバーブーツ、ランニングシューズなど、純スロバキア産のフットウェアを創業から一貫して作り続けてきました。


チェコとスロバキアが分裂した後の1992年、創業から半世紀の間にヨーロッパを代表する工場として名を上げた工場は純スロバキア産スニーカーブランド、NOVESTAを立ち上げます。以来、NOVESTAはオリジナルブランドとして成長を続けながら世界各国のブランドと共に多様なコラボレーションプロジェクトを世界に発信しています。


Novesta社

ノベスタ社は、1939年に創業した靴製造の長い伝統を受け継ぐ会社である。数十年の間、工場ではゴム長靴やランニングシューズなど、軍用や作業用の靴を生産していた。また、OEMサプライヤーとして、大手ブランドにも製品や半製品を供給していました。


日本におけるノベスタのストーリーは、2013年9月、現在ノベスタの日本における流通とクリエイティブ戦略を担当しているクラインシュタイン(日本のデザイン・コンサルティング会社)の小石祐介氏がノベスタ・チームに声をかけたことから始まった。

 

当時、小石は日本を拠点とする世界的ファッション・ブランド、コム デ ギャルソンのスタッフだった。コム・デ・ギャルソンはノベスタに靴のOEM生産を依頼し、コラボレーションが始まった。ノベスタにとっては、世界的に有名なブランドとの初めての協業であった。それから3年後の2016年、クラインシュタインはノベスタのクリエイティブ・ディレクションをサポートするようになった。


業務提携で生産されたモデルは世界中に展開され、ブランドは徐々に市場で注目を集めるようになった。現在、日本では伊勢丹新宿店を含む70店舗以上、世界では250店舗以上で取り扱われている。  


ノベスタとそのパートナーであるクラインシュタインは、ノベスタ・ブランドはその独自性と、加硫設備を備えたゴムから靴までの垂直統合生産システムにより、強い可能性を秘めていると考えている。ノベスタの成功の鍵は、品質と美観の融合に焦点を当てることである。また、ノベスタ社とクラインシュタイン社の協力は、日本におけるスロバキア文化のより良い理解にも貢献した。例えば、ノベスタは、ブラチスラバを拠点とする有名な現代写真家マルティン・コラーなど、スロバキアのアーティストとのコラボレーションを通じて、スロバキアの美学と文化を伝えている。


アディダス、コンバースに飽きてきたユーザー、さらにデイリーユースのミリタリースニーカーをお探しの方におすすめ。



Main Product


 ・Star Master


ノベスタブランドのシグネチャーシューズであるスターマスターは、今もなお、紛れもないチャンキーソールとバルカナイズマークを受け継いでおり、過酷な試練にも耐えうる真のノベスタシューズであることを保証している。スターマスターは、スロバキアで半世紀にわたって生産されてきたミリタリー・スポーツシューズに端を発し、履き心地の良さと逞しい決意を兼ね備えている。一足一足、最高級の天然ゴムとキャンバスから手作りされている。そのスタイルは、世界中どこでも見分けがつく。この靴には、スロバキアの人々の靴の子孫であることを示す「Trampky」のロゴが入っている。一目でそれとわかるこのシルエットは、真のヨーロピアン・クラシックであり、ヨーロッパ大陸で最も不朽のスニーカー・シェイプのひとつである。



・Marathon



クラシックなランナー・スタイル、ノスタルジックでありながら生命力溢れるマラソンは、ノベスタのカノンにエレガントに加わります。ノベスタの特徴である最高級素材へのこだわりに支えられた豊富なスタイルバリエーションにより、Marathonは退廃的な雰囲気を漂わせる洗練された必需品となっています。履き心地がよく、控えめでありながら、他とは一線を画すMarathonは、長い目で見れば当然の投資である。1988年のオリンピックでソウルに遠征したチェコスロバキアチームのためにパルチザンスケで生産されたのが始まりで、マラソンは急速にスロバキアの主力商品となった。





・Itoh


 

時代を超越したシルエットのItohは、80年代から今日まで受け継がれるクラシックなデザイン。レザーの裏地が快適な履き心地をもたらし、象徴的なラインで構成されている。1980年代、ブランドにとって最も信頼できるテニスシューズ・メーカーのひとつとして、ノベスタは10年間を通じてドイツをはじめとするヨーロッパのブランドにシューズを供給した。そのクラシックなテニスシューズのフォルムはイトーにも反映されているが、このシューズは、現代人が求める技術的なアップデートを享受している。


 ファッションと音楽 時代の変遷とともに移り変わる音楽家の服装のスタイル

 
 
1,60年代 ミュージック界のファッション・アイコン ビートルズ

 
 


 
世界的なロックミュージシャンというのは、そのファッション性においても一般人から真似をされるような運命にあるのかもしれない。
 
少なくとも、一般的な市民にとって、ロックミュージシャンのファッションスタイルというのは大きな憧憬の対象となりえる。60年代から、ミュージシャンのファッションに対する影響性は幅広く、音楽愛好家にとどまらず、音楽にそれほど興味ない人まで巻き込み、大きなファッション・ムーブメントを形成してきた。いうまでもなく、バンドのTシャツを粋に着るというスタイルも、ファッションと音楽そのひとつに挙げられる。知らずしらずのうちに、ニルヴァーナ、ソニックユース、ブラック・フラッグのシャツを着ていて、音楽好きの人からそれについて指摘されて初めてバンドの存在を知ったというケースも少なくないかもしれません。
 
過去から今日まで、一般民衆にとってのロック・ミュージシャンというのは、ファッション的にもお手本にするべきイコン、偶像的な存在であり続けてきたいっても過言ではないでしょう。その異常なほどのファンの崇拝心というのは、二十七歳で死去した伝説的なミュージシャン(27 CLUB)、もしくは、ジョン・レノンのファンによる暗殺という二十世紀の中でも数奇な事件が起きたことにより、ビートルズの存在をアイコンのようにたらしめたがゆえ、彼らの存在感、カリスマ性というのは生前より一層強くなっていった側面もある。
 
ファッション性においても大きな影響を世界的に与えてきた、ビートルズという存在。彼等四人の与えた当時もしくは後世にも跨るファッション界へのインスピレーションというのは、図りしれないほど大きく、その影響というのは現在にいたるまで引き継がれている。 たとえば、世界的にも一世を風靡したマッシュルームカット、そして、シックな細身のスーツ姿で、クールに決めこんだビートルズの面々の格好よさは今でも通用する魅力がある。やはり、よく引き合いに出されるローリング・ストーンズとともに多大な影響を大衆に及ぼしてきた。以後、ビートルズの四人は、活動の中期を過ぎた頃から、個性的なファッションを独自に追求していくようになる。それは、アルバムジャケット写真の変遷を見ると顕著にあらわれている。その音楽性にとどまらず、彼等四人のファッションの集大成を示唆しているのは、「アビーロード」のスーツ姿で横断歩道を裸足で渡るというクールなスタイル。
 
ちょっとだけ興味深いのは、アビーロードの先をゆく三人は、これからまるで冠婚葬祭に臨むようなフォーマル・スタイルなのに対し、最後尾をいくハリスンは、我が道をいかんとばかりに、上下揃ってブルーデニムというアクの強い個性的ファッションに身を包む。そしてここに、ビートルズ四人それぞれのユニークな個性が絶妙な具合に溶け合い、服飾という形で表現されている。


全般的に言えば、マッカートニーのファンション的な影響は大きかったでしょうが、中期以降からファッションアイコンともいえる象徴的存在として頭角を現したのが、レノン、ハリスン。ヒッピースタイル”、長髪にたっぷりとしたひげ、そして、そこに、デニム姿をびしりとあわせるという形。後に若者の間で流行するようなスタイルを、一般的に普及させていったのは、他にも、ローリング・ストーンズ、もしくは、ジミ・ヘンドリクスあたりの影響も強かったでしょうが、やはりビートルズという存在が、民衆にとって一番のファッションイコン的な存在だった。

 
その後、ジョン・レノンの方は、例えば、カットソー姿にデニムをあわせて、その上に、ジャケットをラフに羽織り、フランスのテニス用スポーツシューズ、スプリング・コートをクールに履きこなす、カジュアルでいながらどことなすシックなスタイルをレノンは追求していきました。対し、ハリスンの方は、彼本人にしか醸し出せないだろう個性あふれるカルフォルニア的なヒッピースタイルとともに、イングリッシュ・トラディショナル的なファッションを独自に探求していった印象をうける。後者というのはハリスンのソロアルバム、「All  Things Must Pass」のジャケットでのファッションスタイルを見れば、なんとなくそのニュアンスのようなものが理解できるのではないでしょうか。
 
 
それまで、エルヴィス・プレスリーという「ロック界における民衆のイコン」ともいえるビッグスターは存在したものの、ビートルズ四人の及ぼした影響というのは、音楽にとどまらず、ファッションセンス、こういった着こなし方をするのがカッコ良いという、手本のようなものを大衆にしめしたという隠れた功績があったに違いありません。
 
 
 
 
2.70年代 ピストルズを中心としたロンドンパンクス 
 
 
 


クラシックでフォーマルなスタイルが浸透すれば、オルタネイト的な存在が出てくるのがこの世の常というもの。さて、次の話は、ビートルズの台頭から時を十年ほど経ち、1970年代。 ロンドンのマルコム・マクラーレンの経営するブティックパブ「セックス」に出入りするロック好きの若者達。その中に、ジョニー・ロットン、シド・ヴィシャスという、ひときわ目立つ若者が二人いた。のちに彼等はマルコム・マクラーレンの紹介を介し、出入りしていたブティックの名にちなんで、「セックス・ピストルズ」というロックバンドを結成することになった。
 
彼等、四人のファッションというのも独特。特にその個性が感じられるのは、レザージャケット、胸にはピンバッジ、インナーにTシャツ、そして、ジーンズに、シンプルなスニーカーという出立ち。これは今見ると、すごくシンプルに見えるが、彼等のファッションの問答無用のクールさ、格好よさというのは、当時の他のロックアーティストと比べても抜群だったといえるでしょう。おそらく、ロットンと共にピストルズのメンバー四人の中で、最も当時の若者、いや、現在の若者すらをも熱狂させ続けてやまないのが、シド・ヴィシャスというひときわ目を放つクールな青年。

シド・ヴィシャスは、黒髪のスパイキーヘアとよばれるヘアスタイル。黒い皮ジャンを着込み、首からは、太い鍵付きネックレスをぶら下げて、ときに、パブのビールを豪快にがぶ飲みしながら、そのすぐ横に、けばけばしい化粧をしたツイストパーマをかけた恋人ナンシーと写真に映り込んでいて、これは、なんともパンクという概念かけはなれた微笑ましい光景だと言えなくもない。恋人ナンシーもまた、ピストルズのメンバーと共に、彼ら四人にもまったく引けを取らないクールさ、個性味を兼ね備えた、女性の憧れの的となりえるイコン的な印象を当時の数多くのファンに与えたことでしょう。 

 
バンド結成当時から、シド・ヴィシャスというパンクロック界のカリスマ性は際立っており、当初、殆どまともにベースが弾けなかったにも関わらず、ステージ上でのひときわ輝いたシド・ヴィシャスの姿というのは、彼がこの世からになくなっても、多くのファンの目を惹きつけてやまない。当時から現在まで、ヴィシャスは、多くの世界のファンから多くの人気を博してきた。黒の革ジャンにデニム、そして、ときに、ラフなTシャツ一枚だけを着るというシンプルで洗練されたスタイルは、ジョニー・ロットンとともに、世界的なファッション・アイコン的な存在としてシーンに君臨し、音楽性にとどまらず、服装のカッコよさという特徴面においても、他のアーティストと比べものにならないほどの影響力を世の中にもたらした。
 
ここで、素朴な疑問として、革ジャン、ジーンズスタイルが、なぜにこれほどまで世界的に普及するに至ったのかという疑問が生じる。これは、五十年代のバイカーズ・スタイルをひそかに踏襲したものであり、またそのスタイルがミュージシャンにも普及していったのはなんらかの理由があると思われ、たとえば、デビッド・ボウイなどのビックスターに比べると、かなり顕著な特徴があり、ボウイの方は、たとえば、山本寛斎の手掛けた衣装を見れば分かる通り、あまりに奇抜すぎ、自分の日常的な服装の中に、その要素をうかつに取り入れづらいところがある。あくまでデイリーユースという観点から言うと、あまり常識的な服装とはいいがたい。
 
しかし、一方のピストルズをはじめとする、ロットン、ヴィシャスのような人物が好んでいたロンドン・パンクスのファッションスタイルというのは、全体的なコーディネート自体の値段というのもそれほど嵩む心配がなく、いわば「革ジャン」という一点豪華以外はとても簡素で、たとえ貧しい人であっても、数カ月もの間、汗水を垂らし、労働を頑張れば、手の届きそうな価格の範囲にある点で、自分もロックスターのような服装をし、あんなふうに輝いてみたい、そう願ってやまないささやかな人々に大きな夢を見させてくれる存在であったから、ミュージシャンをはじめ、一般的な音楽好きの人々にも、このスタイルが馴染んでいくようになった。
 
 彼等の格好というのは、全部を取り入れないまでも、ごく一部を取り入れることによって、デイリーユースにもしっかりと馴染みやすいというのが大きな利点でしょう。そして、見てくれの単純なかっこよさの中にも、ボウイのような「オンリーワン」にはなれない、けれども、もしかしたら、ロットンやヴィシャス、彼等のような存在なら、自分にも背伸びをしたらなれるかもしれない。
 
つまり、彼等は、労働者階級の期待の星のような存在で、束の間ではありながらも大きな希望をささやかな民衆達に与え、尚且、先にも述べたとおり、毎日着ている服装のなかにも溶け込みやすい要素があったので、そういったファッション性が後のパンクロッカー、音楽愛好家にも積極的に取りいれられていったのではないかと思われる。実は、当時のことを、ジョニー・ロットン本人が話しており、あるとき、ファンが自分と同じ格好をしはじめたと当時のファッションムーヴメントを回想している。興味深いところは、セックス・ピストルズというアイコンは、意外にも、これだけ音楽を知らない人たちにもその名を知らしめておきながら、実は、細々としたサイドリリース、ブートレッグという形質は数多く存在しながら、セックス・ピストルズ名義での正式な形でのスタジオ・アルバムは、有名な「Never  Mind The Bollocks」のみ。
 
 彼等の主要な活動期間というのも、わずか二年。その短い期間で、これほどの影響を後世に与えたというのは、他では考えがたい事象でもあります。その後、シド・ヴィシャスは、多くの人がご存知の通り、オーバードーズにより、若くして命を落とした。往時のロックスターらしい「太く短く」という生き方を体現した彼の生き様というのは、社会的あるいは道義的にも褒められたものではない。しかしながら、彼の最後の録音集のフランクシナトラのカバー、「マイウェイ」の素晴らしいオペラ風の歌唱とともに、シド・ヴィシャスという天才パンクロッカーの伝説的な姿、彼のファッションスタイルの格好良さというのは、これからも永遠に、世界中の人々の記憶に残りつづけることでしょう。ちなみに、彼の亡骸というのは、恋人と共に墓地に葬られていて、そこには、「Sid &Nancy」と、きわめて印象深く銘打たれているのは有名。
 
 
 
 3、80年代 マッドチェスター、ブリット・ポップ時代の立役者たちのファッション デイリーユースの融合

 

 
それ以前の時代には、ミュージシャンのファッションというのは、ステージ上の衣装に過ぎず、日常的なファッションとはあまりにもかけはなれていた。たとえば、シド・ヴィシャスのような格好をする人は現在きわめて少ないだろうし、ポール・マッカートニーの服装ですらカジュアルなデイリーユースとしてはあまりにもフォーマルすぎる。だが、80年代以降の時代は、デイリーユース、あるいはスポーティーなファッションをかけ合わせることがトレンドとなっていく。1980年代、産業革命の原点ともいえる工業都市マンチェスターから、様々な魅力あふれるバンドが数多く出てきた。クラブでの活動スタイルが主だった特徴で、ディスコムーブメントの再来のような経済的にもかなり大きな規模の音楽市場がつくられていったのだ。
 
このマンチェスター界隈で華々しく活躍したのは、現在、ソロ・アルバムを出すかでレーベルと揉めているモリッシー擁するザ・スミスを筆頭に、ハッピー・マンデーズ、ストーン・ローゼズ、もしくは、インスパイラル・カーペッツ。これは当時のブラックマンデーにはじまる社会不安、そして、サッチャーの長期政権にたいして少なからずの不満を抱く若者を心を惹きつけて、その退廃した日々の延長線上にあるパーティーなどの習慣とあいまって、一種の異質な狂乱にうかされた夜々を形作り、かつてザ・フーがマイ・ジェネレーションに歌いこめたような一大的ムーヴメントが、マンチェスターを中心として発展、英国全土に広がっていくようになった。
 
上記したアーティストの音楽の主だった特徴というのは、ダンサンブルな音楽性をロックの枠組みの中で再解釈している点でしょう。ちなみに、このインスパイラル・カーペッツというバンドは、若かりし頃のオアシスのノエル・ギャラガーがローディー(いわばバンドの機材をツアーに帯同して運ぶ手伝い)をつとめていたことは有名であり、オアシスの音楽にもかなり影響を与えていると思われる。ザ・スミスの登場後の一連の流れとして、雨後の竹の子のように続々とクラブ・ミュージックのテイストを感じさせるロックバンドがシーンに華々しく登場し、英国のミュージックチャートを次々に席巻していった現象は、マッドとマンチェスターを掛け合せて、後に「MADCHESTER」と呼ばれるようになる。その流れの一貫として、ジョイ・デイヴィジョンのマシンビートに象徴される冷ややかで無機質な印象の強い電子音楽のニュアンスの感じられるパンクロックを奏でるバンドも、マッドチェスター辺りの括りに入れられる。
 
1980年当時の英国の若者を中心とする熱狂というのは、ひとつの社会現象を形作りました。また、その時代背景を知るのに最適な映像作品があり、それは、このマッドチェスターと呼ばれるシーンを題材に選んだことで有名なカルト映画、ユアン・マクレガー主演の「トレイン・スポッティング」。ここには、マッドチェスターと呼ばれる界隈の世相、当時の英国の労働者階級の若者達の生々しい生き様というのが克明に描かれていて、歴史資料的な鑑賞の仕方もできる。この作品は、坊主頭で、白いTシャツ姿のユアン・マクレガーの絵画的なクールさもあいまって、傑作としかいいようがない白眉の出来となっています。

そこには、作中で演じているのはもちろん、本人ではなく別人ではありますが、ハッピー・マンデーズ、ジョイ・デイヴィジョンが登場しているので、このあたりのシーンの音楽ファンしても見逃せない。この作品でのユアン・マクレガーの演技というのは、何気ない仕草であっても何故かかっこよくみえてしまう、その配役になりきって自然に演じています。いわば超一流の俳優に欠かさざる素質がある点で、やはり、現在では映画界、そして演劇界の大御所と言っても差し支えない存在に至ったのは、何も不思議なところはなかったように思えます。
 
 
さて、話を元に戻しましょう。このマッドチェスターというシーンで最も有名なバンド、ストーン・ローゼズというバンドのフロントマンである、イアン・ブラウンという人物を、ファッションという観点から外すことはできません。そして、このバンドの四人のメンバーたちのファッションというのは、それまでのビートルズをはじめとする英国の古典的ロックバンドとは一線を画しており、彼等の格好というのは、主に、現在の若い人が好んで着るようなラフなルームウェア、カジュアルウェアの中間、もしくはスポーティウェアのような具合であり、たとえば、特徴的なところでは、ビック・シルエットのシャツであるとか、少し緩めのボトムス、もしくは、スタンダードなデニム、それから、つばのさほどひろくはないチューリップハットを被っていました。これは、ステージングやプロフィール写真の印象でもかなりの効果があり、顔の上半分の表情が影にかくれてよく見えづらく、ミステリアスな印象を受けます。それが、この四人の姿をかなり神格化めいた圧倒的な存在に見せていたところもあるでしょう。
 
ストーン・ローゼズの音楽性というのは、単純にいえば、ダブ、レゲエ、ファンク、もしくは、他のクラブミュージックをダンスフロアで体感したのちに生み出されたロックといえ、コード、メロディー、ギターの音作りの的な面では、モリッシー率いるザ・スミスからの影響が色濃いバンドです。

そして、この後の、ニュー・オーダー、プライマル・スクリームとともに、彼等が確立したクラプミュージック的な聴衆を踊らせる音楽のスタイル。これというのは、ロック史上では、ビートルズとビーチボーイズを比較するとわかる通りで、これまではアメリカとイギリスの音楽がどことなくリンクしていて、一律的であったものが、この八十年代あたりから、少しずつ違う方向に進んで行き、メインストリームという視点からいえば、それぞれ独自の進化を遂げていった。そして、米国のバンドとはまた異なる進化をとげた英国のクラブ的要素をまじえた音楽性というのは、二〇〇〇年代のシーンに華々しく登場するカサビアンまでめんめんと引き継がれている。

 
ストーン・ローゼズはデビュー当時からずっと、年相応な若い輝きがありながら、一貫して玄人好みの渋い音楽を奏でていた。ミュージシャンとしての職人気質な格好よさというのも当然のことながら、イアン・ブラウンの現在の若者のファッションにも通じるようなラフでいてカジュアルなスタイル、ぶかぶかのビックシルエットのシャツを着込み、そこに、たとえば、デニムを合わせたりしていた点が非常に魅力的。ヴォーカリストとしてのイアン・ブラウンのステージングというのも、それまでのロックミュージシャンとは異なり、ステージマイクの前に棒立ちになり、ふてぶてしく歌う姿も、どことなく今までになかったスタイルを生み出し、同じく彼の独特なファッションというのも、当時の英国の若者たちの目にはクールに映ったはず。
 
また、実はこのスタイルは、のちのオアシスのリアム・ギャラガーにも引き継がれています。ギャラガー兄弟は、1990年大のブリット・ポップという一大ロックムーブメントをブラーとともに牽引した存在であり、その後の英国の音楽シーンに与えた影響というのは計り知れないものがあった。また、リアムの上記のイアン・ブラウンのファッションスタイルを引き継いだような、ビックシエルエットとジャストサイズの中間にあるスタイルを粋に着こなしてみせるラフでカジュアルな格好も、今では珍しく魅力たっぷり。もちろん、ギャラガー兄弟の格好、渋いジャケット、もしくは、シャツ姿などを見るにつけ、どことなく、一時期流行ったようなアメリカンカジュアルとは対極にあるようなイングリッシュカジュアルともいうべきニュアンスが感じられ、個人的には今ではこれがなかなかカッコよく見えます。そして音楽的にもファッション的に完成されたのが、彼らの最高傑作と名高い「モーニング・グローリー」だった。
 
それ以前にも彼らはこのような雰囲気のスタイルを好んできて、そして、ここに、独特な風味のあるオアシスらしいファッションスタイルが確立されたものと思われ、当時から現代にかけてのファッション性にも、少なからず影響をもたらしたのではないでしょうか。現在も、リアム・ギャラガーは、ビックサイズの品の良いフィッシャーマンズ・コートを上から羽織り、(兄からは”漁師みたい”と言われている)デビュー時から大事にしている後ろに手を組み、首を突き出して涼しげな表情で歌うスタイルを貫いており、ロックミュージシャンとしてクールな服装はなんなのかというのを模索しつづけている。

 
 


 
 4. 90年代 グランジの台頭とその後のミクスチャー  ファッションにおけるマニアック性

 

 


 
90年代に入ると、ファッションという面で、大きな影響を及ぼした存在を探すため、表舞台をイギリスからアメリカに移し替える必要があるように思える。 そう、スケーター的なファッションと結びついて、実に泥のような格好をする連中が登場した。
 
アメリカのシアトルからほど近い、アバディーンという土地から、次なるファッション・イコンが登場。カート・コバーンはニルヴァーナというバンドがスターダムに進出する以前、地元で歯科助手として働いていた。その後、彼は、デイブ・グロールとクリス・ノヴォセリックとともに自費で、Sub  Pop からリリースをした「BLEACH」を引っさげて、ライブハウスを行脚しながら、いよいよインディーシーンにその名を轟かせはじめた。その後、91年、ゲフィン・レコードから「Nevermind」をリリースし、華々しくメジャーデビュー。マイケル・ジャクソンという不可侵的な存在、つまり、その年代においては、彼に肩を並べる存在はダンスミュージック界のビッグスターを、ビルボード・チャートの一位から引きずり下ろしたのだった。
 
この後、アリス・イン・チェインズ、ストーンテンプル・パイロッツ、グリーン・リバー、グリーンアップルズ、そして、なんといっても、クリス・コーネル率いるサウンドガーデンという傑出したバンド群を生み出し、この流れというのは、後にグランジ・ムーヴメントと呼ばれ、一世を風靡するに至ったというのは、当時としては驚愕的な事件のひとつだったはず。そして、一躍、時の人となったニルヴァーナという存在。この頃、すでにカート・コバーンはブロンドの長い髪とハリウッドスターを彷彿させる風貌になっていますが、デビュー以前の映像を見ると、黒髪の長髪であり、おそらく、このブリーチをリリースしたあたりから、金髪に染め始めたことがうかがいしれる。

そのファッション性というのは、幼い時代に家庭的な問題、に起因するものなのか、きわめて独特であり、たとえば、ぼさぼさの金髪、穴のあいたジーンズ、そして、ぶかぶかの淡緑のカーディガン、あるいは、現在の女性が着ているような、膝丈ほどもある白いロングシャツを好んで着用していました。

この服装の集大成ともいえるのが、英国のレディング・フェスティバル出演時のコバーンであり、この頃、オーバードーズのため、ほとんどギターをまともに弾くのもままなくなっていた。彼本人は、ときに、グラムロックの再来とばかりに、目の周りにメーキャップのような、黒いアイシャドウを施したり、奇抜さという面ではロック史的にも群を抜いており、元来のロックミュージシャンのファッション性の影響を受けつつも、ニルヴァーナ活動中期あたりから独自のセンスを突き出していくようになった。
 
彼の特徴的なファッションというのは、いわゆる有名なグランジファッションとも呼ばれるようになり、ファッション界にもかなりの影響を及ぼしたかと思われます。その後、この世界的なロックバンドは、イン・ユーテロ、MTVアンプラグド、とリリースをして、コバーン自身は、コットニー・ラブと結婚、一子をこの世にのこしたのち彼は最後の方でロックスターの生き方のマニュアル本のようなものがあったら良かったのに、そんなニュアンスの謎めいた言葉をこの世に残し、ジャニス・ジョップリンやヘンドリクスと同じように二十七という歳、そして上記したシド・ヴィシャスの最期をなぞらえるかのように、彼の場合は、その延長線上にある自死を遂げる。

94年のカート・コバーンの死後、グランジは急速に衰退、その代わりに、ミクスチャーロックという、さまざまな音楽をごった煮にしたロックムーブメントが到来、その文脈の中でとりわけファッション性という面において見過ごせない人物が、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンのトム・モレロでしょう。このロックバンドというのは、ファーストアルバムのジャケットにおいて、チベットの僧侶が中国共産党の占領に対し、強い抗議の意味を込めて、焼身自殺を市中で図った過激な写真を使用している点も、かなりセンセーショナル、鮮烈なイメージを音楽界に与えたことでしょう。
 
 
 
フロントマンのザック・デ・ラ・ロッチャのボブ・マーリーやジミー・クリフあたりを彷彿とさせるドレッドヘアをするロックミュージシャンが出てきたというのも、かなり斬新なものでしたが、やはり、このトム・モレロという存在はロックファッション的には欠かすことができないイコンといえます。

彼は、いつもステージ上において、軍人のような格好をし、たとえば、海軍基地にいるような職業軍人がかぶるような帽子。そして、ジャケットというのも、軍人の制服のような固い素材のものを着込んでいる。ファッション概念的には、このトム・モレロという人物は、今日のミリタリーファッションのリバイバルの先駆者のようにも思えます。そして、彼等の音楽スタイルと同じように、ヒップホップ的なファッション、オーバーサイズのトップを粋に着こなすようなスタイルの風味も感じられます。
 
さらに特筆すべきは、トム・モレロの使用するギターというのは、きわめて高いポジションに掲げられることが常であり、彼はギターのピックアップという場所に取り付けられている、かつてはジェフ・ベックがよく使っていましたが、いつしか演奏をする上で邪魔になるためにあまり使われなくなっていた”トレモロアーム”の特性をよく知った上で、その奏法を最大限まで活かしたギタリストとしてあまりに有名。トレモロアームの周辺には、「ARM THE HOMELESS」と手書きで書かれている。これはどことなくアメリカ的な手法、つまり、曲で彼の出すきわめて強いノイズのひとつの表現というのは、これこそが、アメリカという国家全体の苦悩である、そして、ホームレスのような弱い存在の代弁者としての強い慟哭のうねりであるということを、彼は音楽という形で芸術的に体現し、そのことを大衆に対してギターの音により、高らかに宣言しているといえるかもしれない。そのことがよく現れているのが、ファーストアルバムに収録されている「Know Your Enemy」という彼等を代表する楽曲なのでしょう。
 
トム・モレロはアメリカにおける社会的に無視されてきた内在的問題を音楽の土壌に挙げ、それを全く無視することなく、直視するといういわば実の父親譲りの覇気を持って、常にそういった経済的な弱者を支持し、彼等のような存在を、音楽という腕で支えるべく、今日に至るまで真摯に活動して来ています。トム・モレロの演奏中に掲げられる「ARM  THE  HOMELESS」のクールさというのは、ロック史、ひいては音楽史の中でも群を抜いており、そして、弱者の視点に立ってものを考えるアティテュードというのは、のちの二〇〇〇年代のエミネムにも、全く音楽性というのは違いながらも、少なからず影響を及ぼしていると思われる。
 
 

 5.2000年代 リアルな世界を歌うライムスター、そして現代のファッションアイコン エミネムからビリー・アイリッシュ



 もちろん、これまで述べてきたのはその多くが白人社会におけるファッションイコンとも呼ぶべきもので、正確を期すなら、八十年代のNYにおけるRUN   DMCあたりの黒人ファッションに対する影響というのはおよそ計り知れないものがあっただろうし、彼等のユニークなスタイル、Tシャツに太いネックレスをし、両手を突き出しながらラップをするという代表的なスタイルも白人社会におけるクールさとは全く異なる側面を追求したといえる。しかし、その辺りの知識に現在は乏しいので、ここではその代わりにエミネムあたりのアーティスト、それから現在のビリー・アイリッシュについて言及したい。上記のグランジ、ミクスチャーの台頭、そして、貧者やゲトゥー的な文化に対する共感を持ち、それを音楽の中にも取り入れるというスタイルは、アメリカという社会がそれまでの七十、八十年代に比べると、経済的にも貧富の差が激しくなってきたのが要因であると推測される。そして、それは2000年以降の日本も同様である。
 
 
それほどまでに、アメリカの社会的に内在していて表側にはあらわれない問題は深まり、音楽という側面でも、大きな経済に踏みつぶされたような悲劇的な存在が生まれたことからも、アメリカの社会問題というのは、すでに九十年頃にはもうはじまっていたものと考えられる。つまり、それ以前まではブラックカルチャーの存在をスケープゴートにすることもできたものの、2000年以後の年代においては、人種差別的問題が表面化してきたため、彼等のことを表向きにはスケープゴートとして見立てる事ができないようになっていったのでしょう。エミネムの、デビュー以前の、白人社会のはぐれものとしての生き様、いわゆる社会の落ちこぼれとしてのというのが、彼の強い個性を引き出して、そして、唯一無二の強固なライム・スターとしての音楽性を形成した。それはまた白人としてでもなく黒人としてでもなく、その両性質を併せ持った彼の特異なリリックにあらわれており、そこに見いだされるのは、アメリカという社会に顕在している内在的な問題でもある。
 
 
「やるせなさ、どうにもならなさ、空虚さ」そんなニュアンスの感じられるエミネムの歌詞というのは、かつてのフォーク・ロックの体現者であるボブ・ディランと同じように、アメリカ全土に蔓延している社会的な気風、あるいは問題をはっきりと音楽として描き出したものであったように思われる。彼の金髪の短い髪、どことなく何かを深く見つめるような瞳、そして生来のスター性、カリスマ性というのは、アメリカという社会の厳しい風にふきされされたがためにエミネムというイコンを形作り、それはまたたとえ、幻想であろうとも、民衆の時代の要請に応えるような形で生まれでたものでが、エミネムという形で最終的に完成されたのではないだろうかと思われます。そして、それは以前までのスターと聴衆という二つにはっきりと分かたれていた存在を緊密にさせた。もっといえば、以前のビートルズのような存在ではなく、聞き手の苦悩のようなものに対して、そっと寄り添うような形で音楽シーンに台頭してきたのがエミネムなのであり、これまでは親のような存在であったミュージシャンが兄弟の立ち位置まで降りてきたのがこの辺りの時代だった。それはファッション性においてもごく親しい人から影響を受けるような感じで、日常的な若者のファッションスタイルを感化したことは疑いがない。
 
この2000年代になると、すでに、スター・ミュージシャン、ファッション・アイコンとしてのミュージシャンというのは、以前のポール・マッカートニーやジョンレノンのように神々しい存在ではなくなり、普通の人々にとってもすぐ手の届くような、近しい、もしくは親しい存在に変わっていった。
 
テレビ、その後のインターネットをはじめとする複数のメディアのイノベーションにより、アーティストの人前への露出度が増えたので、最早、ミュージシャンの姿がそれほどミステリアスな存在ではなくなった点が大きいかもしれない。その後、ミュージシャンの神格化というのはすでに昔日の虚影となり、Discordなどのプラットフォームのバーチャルで知り合う友達というように接する雰囲気が一般的に浸透してきている。つまり、95年からのインターネットの一般家庭への普及は、従来、ほとんど接点のなかった音楽家と民衆という二つの隔たりに架橋をすることになる。もちろん、これは良い側面ばかりにとどまらず、以前ならば知らなくても済んだことを知ってしまうという弊害も、ミュージシャンとリスナーの両者にもたらしている。この動向は、Yard Actのジェームズ・スミスさんがよくご存知のことだろう。しかしながら、2010年代からは、有名な人にも、以前のように、コンサートに行かなくとも、なんらかの媒体に接続すれば、彼等の存在に非常に接近することができるようになってきた。もちろん、ソーシャルで接する際には、人間としての節度というのをわきまえねばいけないでしょう。
 
つまり、以前のビートルズのような面々のように、一生に一度会えるかどうかもわからない存在ではなくなり、朝起きて、パソコンを立ち上げ、ネット上というバーチャルな空間ではありながらも、ごく当たり前のように、有名なミュージシャンの演奏、また彼等のインタビュー、そして、賛美両論ありましょうが、彼等の私生活を知ることもさほど難しくなっているというのは、最初の六十年代当時の人々から見ると、驚天動地のような革新だったのである。その辺りで、華々しくシーンに出てきたのが、奇抜なファッション、SF的な風味のある奇抜なファッション性を打ち出したレディー・ガガ。彼女のような存在は例外的事例としても、さらに2015年代に時が進むと、音楽家と聴衆の一体化、無差別化という傾向はいよいよ顕著になっていく。
 
Twitter、Facebook,Instageram、(現在はそれに加え、ドイツのMastodonも強い影響力を持ちはじめている)一般的な浸透により、SNS文化は音楽シーンにも無関係ではなくなり、アーティストの私生活をほとんど以前よりも気軽に接近していくことができるようになり、それはファッションスタイルという観点においても、憧れの的といえるようなファッションイコンを参考にして、また自分のコーディネイトの中に、気楽に取り入れられる時代となりました。

 
 
一連の流れの中でシーンに登場したのが、ビリー・アイリッシュという際立った存在でした。彼女は自身の生み出す音楽という面での魅力もさることながら、ファッションリーダ的な立ち位置としても多くの人々に支持されているようなのが伺えます。アイリッシュは、積極的にインスタグラムにおいて、自分の私生活の一部を公開したりしながら音楽活動を続けています。金髪の写真が有名ですが、どちらといえば、個人的な印象として根強いのが、彼女の緑色の髪の姿でしょう。

このビリー・アイリッシュという人物はどことなくフェミニンな印象があり、女性的ではありながらも、中性的なファッション性を有しているのが特徴で、彼女の奇抜な髪の色というのは、彼女もレディー・ガガとは異なる現代的ファッションイコンとしてその筆頭として挙げられるでしょう。

彼女のファッション的なカリスマ性というのは主に十代を中心とした若い女性の心をしっかり捉えているように思われます。
 
 
 
 
 6.70年のミュージシャンのファション性から見える彼らの考え、そして普遍的なオリジナリティ

 
 
 
 1960年代から2020年代までかなり駆け足ではありましたが、音楽とファッションと言うように題して、その中に副次的なファションイコンというテーマを据え、一時代の中で、ミュージシャンたちがどのような思想を持ってファッションをし、そして、どのような形で民衆と関わり合って来たのかを説明してきた。およそ、エルヴィスからはじまったロックスターという概念は、ビートルズやストーンズのような存在により押し広げられました。
 
七十年のピストルズのような存在が生み出したそれまでのロックスターとはまったく異なる形でのファッションスタイル。 八十年のマッドチェスタの項目では、オーディエンスやファンの中にミュージシャンのスタイルを浸透させていくような形で推進されていった。さらには1990年代に入ると、色濃く社会的な問題を反映させたようなパンクスやハードコア・パンクスのファッション、その裏側には稀に政治的なメッセージも込められていくようになる。やがて、2000年代に差し掛かると、テクノロジーという媒体を通して、より緊密な形でそれまで完全に分離されていたように思える音楽家と民衆(リスナー)がひとつに繋げられていくような傾向が見られる。
 
この一つに近くなっていくという特徴というのは2023年でも継続していて、音楽家と聴衆が一体化がなされ、距離がさらに縮まってきているという印象をうける。また、ファッション面においても、さらに拍車がかかっていくと思われる。果たして、今後、どのような形で、音楽家のファッション、そして。それに対する民衆のリアクションというのは変遷をたどるのか?
 
最後に述べておきたいのは、この記事(最初の原稿が完成したのは2年前)を書いていてなんとなくわかってきたのは、音楽というのは、ただ聴くという側面のみで語られるべきではなくて、社会的に、また、思想的にも分かちがたくむすびついている文化形態のひとつだということ。そしてその概念とも呼ぶべきものが形をとって表面上に、よく目に見えるわかりやすい場所にあらわれたものが、「ファッション」といわれるものであり、上記に列挙したアーティストの魅力的な服装というのは、彼等、彼女ら自身の揺るがしがたい思想をあらわしているともいえる。
 
ファッション・アイコンともいうべき存在が最初に登場した時代から、およそ70年という月日が流れてもファッションは、並み居るアーティストたちの強い概念というのを、音とはまた異なる形質で表しつづけている。おそらく、この帰結というのは、最初のジョン・レノンから、現在のアイリッシュにいたるまで、なんら変わることのない普遍的な事実ではないだろかと思われる。



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JOHN PEEL(ジョン・ピール) イギリスBBCのラジオDJのパイオニア

 

その後に世界的なスターとして知られ、冷戦時代の世界の象徴的なアイコンとなったデヴィッド・ボウイは、左右の瞳の虹彩の色が違うオッド・アイの持ち主である。グレーとブルーの瞳を持つロックシンガーは、ブレイク以前、シンプルで内省的なポップソングを中心に書いていた。72年以前には大きな商業的成功に恵まれなかったが、五作目のアルバムで大変身を遂げることになった。彼は、この時代のことに関して、売れるための契約があったと冗談めかして語っている。

 

その真偽はさておき、1972年6月16日に発売されたデヴィッド・ボウイの「The Rise and Fall of Ziggy Stardust and the Spiders from Mars」は、架空のロックスター「ジギー・スターダスト」の物語を描いたコンセプトアルバムであ。このアルバムの楽曲をイギリスのテレビ番組、トップ・オブ・ザ・ポップスで初披露し、彼は一躍世界的なロックシンガーと目されるようになった。そして、モット・ザ・フープルやT-Rexと並んでグラムロックの筆頭格として認知されるようになった。そしてアルバムには、T-Rexのようなグラムロックの華美さとそれ以前に彼が書いていたような内省的なフォーク・ミュージックがバランス良く散りばめられている。

 

しかし、このコンセプト・アルバムに込められたミュージカルのテーマはフィリップ・K・ディックの作品のように奇想天外であり、人前にめったに姿を表さないことで知られるトマス・ピンチョンの作品のように入り組んでいる。デイヴィッド・ボウイは、ある意味では地球にやってきた異星人であるジギー・スターダストという救世主と自らの奇抜なキャラクター性をみずからの写し身とすることで、また俳優のようにその架空の人物と一体になることで、ルー・リードやイギー・ポップに比する奇抜なロックシンガーとして長きにわたりミュージックシーンに君臨することになった。もちろん、ボウイという人物の実像がどうであれ、彼はプロのミュージシャンでありつづけるかぎりは、その理想的な架空の人物を演ずることをやめなかったのである。

 

 

「ジギー・スターダスト」はデヴィッド・ボウイが架空のミュージカルとして書いたアルバムであるがゆえ、それが刺激的な音楽性とともに、舞台上で披露される演劇性を兼ね備えていることは首肯していただけるはずである。そしてボウイは、イギー・ポップやルー・リードのソングライティングに影響を受けつつも、SF的なストーリー性を音楽の中に取り入れ、そして彼自身が生まれ変わりを果たしたかのような華麗な衣装やメイクを施し、そしてクイアであることを表明し、それ以前のいささか地味なソングライターのイメージを払拭することに成功したのだった。

 

「ジギー・スターダスト」のストーリーは、天然資源の枯渇により、人類は最後の5年を迎え(「Five Years」)、唯一の希望は、エイリアンの救世主(「Moonage Daydream」)である。完璧なロックスターであるジギー・スターダスト(薬物を使用する、全性愛者である人間の異星人の姿)は、メッセンジャーとして、彼のバンドスパイダーズ・フロム・マーズとともに行動するという内容だ。

 

スパイダーズ・フロム・マーズは、"スターメン "と呼ばれる地球外生命体を代表して、メッセンジャーとして活動しているという設定である。そのメッセージは、快楽主義的な面もあるが、最終的には、平和と愛というロックンロールの伝統的なテーマを伝えるもので、スターマンが地球を救う。このメッセージを世界中の若者たちに伝え、ロックンロールへの欲求を失った若者たちは、その魅力にとりつかれていくようになった。70年代はサイケをはじめヒッピー・ムーブメントが流行しており、実際に物質主義的な利益を求める人々とは別の精神主義や理想主義を追い求める人々を生み出した。そして、これはジョン・レノンのソロ転向後の理想主義的なアーティスト像と一致しており、70年代初頭の時代の要求に答えたとも解釈できるだろう。

 

まさにデヴィッド・ボウイは、それ以前の内向的なフォークロックシンガーのイメージから奇抜な人物へと変身することにより、誰もいない場所に独自のポジションを定めることに成功したのである。しかし、このミュージカルで描かれるジギーという人物の最後は、ショービジネスの悲劇的な結末を暗示している。ジギーは名声のみがもたらす軽薄な退廃によって、最終的にステージで破壊されてしまう(「Rock 'n' Roll Suicide」)。(多くのロックスターが自ら破滅に向かうのと同じ手段である)。そしてこれは実際のミュージカルで強い印象を観衆に与えるのである。

   

結局のところ、このアルバムはヒーローの命運の上昇と下降の双方を描いている。ボウイは、1974年の「ローリング・ストーン」誌のインタビューで、この預言者に起因する自我を説明している。しかしこれらのプロットは非常に複雑怪奇で、その全体像をとらえることは非常に難しい。


時は地球滅亡まであと5年。天然資源の不足により世界が滅亡することが発表された。ジギーは、すべての子供たちが自分たちが欲しいと思っていたものにアクセスできる立場にあります。高齢者は現実との接触をまったく失い、子供たちは独り残されて何かを略奪することになります。ジギーはロックンロールバンドに所属していましたが、子供たちはもうロックンロールを望んでいません。再生するための電気がありません。

 

 ジギーのアドバイザーは、ニュースがないから、ニュースを集めて歌うように彼に言いました。

 

そこでジギーがこれを実行すると、恐ろしいニュースが流れる。「All the young dudes」はこのニュースについての曲です。これは人々が思っているような若者への賛歌ではない。それは全く逆です。無限が到着すると終わりが来る。本当はブラックホールなのですが、ステージ上でブラックホールを説明するのは非常に難しいので、人物にしました。


ジギーは、夢の中で無限からスターマンの到来を書くようにアドバイスを受け、人々が聞いた最初の希望のニュースである「スターマン」を書きます。それで彼らはすぐにそれに気づきました...彼が話しているスターマンは無限と呼ばれ、彼らはブラックホールジャンパーです。ジギーは、地球を救うために降りてくるこの素晴らしい宇宙飛行士について話している。彼らはグリニッジビレッジのどこかに到着します。

 

彼らは世界では何の関心も持たず、私たちにとって何の役にも立ちません。彼らはたまたまブラックホールのジャンプによって私たちの宇宙に偶然遭遇しただけなのです。彼らの一生は宇宙から宇宙へと旅をしている。ステージショーでは、そのうちの1人はブランドに似ており、もう1人は黒人のニューヨーカー。私はクイニー、無限フォックスと呼ばれるものさえ持っている... 今、ジギーはこれらすべてを自分自身で信じ始め、自分を未来のスターマンの預言者であると考えています。

 

彼は自分自身を信じられないほどの精神的高みに連れて行き、弟子たちによって生かされている。無限が到着すると、彼らはジギーの一部を奪って自分を現実にする。なぜなら、本来の状態では反物質であり、我々の世界には存在できないからだ。そして、"Rock 'n' Roll Suicide "の曲の中で、ステージ上で彼をバラバラにしてしまうのです。


 

ボウイの代名詞となっているジギーという救世主的なロックスターのキャラクターは、イギリスのロックスター、ヴィンス・テイラーにインスパイアされた部分もある。50年代から60年代にかけてプレイボーイズで活躍したロカビリーのフロントマン、ヴィンス・テイラーは、薬物乱用の末、自分が「イエス・キリストの息子マテウス」と宣言し、ステージからメッセージを説いた。(「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」は出席していた弟子である)。


また、デヴィッド・ボウイがアルバム『Heathen』(2002年)でカバーした「I Took a Trip on a Gemini Spaceship」という曲の「Legendary Stardust Cowboy」にも影響を受けている。

 

さらにこれらのキャラクター性を強化したのが、ジギー・スターダスト・ツアーでデザイナーを務めた山本寛斎である。

 

山本寛斎は、この時代について、「日本的な美しさを世界に広めたい」と回想しているが、この時代のボウイのファッションについて見てみると、寛斎が志向したところは、和の持つ個性と洋の持つ個性の劇的な合体であったように思える。以下は「Tokyo Pop」でデヴィッド・ボウイが着用した山本寛斎が手掛けた衣装である。(鶴田正義氏の撮影)これらを見れば、ファッション自体がボウイというキャラクターの一部であることがわかりやすく理解できると思う。

 


 

 

デヴィット・ボウイが山本寛斎とともに作り上げたジギー・スターダストのペルソナは、パフォーマンス的なメイクとコスチュームに依拠しており、グラム・ロックというジャンルに少なからぬ影響を及ぼすことになった。「ジギー」という名前自体、ボウイの衣装への依存と表裏一体の関係にある。ボウイは、1990年の『Qマガジン』のインタビューで、「ジギー」という名前は、電車に乗っているときに通りかかった仕立て屋「ジギーズ」に由来していると説明している。

 

最も印象的なのは、ミュージカルのステージ上でのジギーの死が、グラム・ロック・アーティストの仕事に対するボウイの認識を物語っていることだ。72年から76年までを振り返って、彼は後に語っている。「その頃までは、"What you see is what you get "という態度だったけれど、舞台上のアーティストが役割を果たすミュージカルのような、何か違うものを考案してみるのも面白いと思ったんだ」

 

この発言からも分かるように、デイヴィッド・ボウイは、この時代の自らの分身を創作のメタ構造における登場人物のように認識している。なおかつまた彼はグラム・ロックというジャンルにもそれほどこだわっていたわけではなかったに思える。その後の70年代後半には、ミュージカルでの自らの姿を崩壊させるのと同様に、グラムロック・アーティストとしてのイメージを覆し、ベルリン三部作を通じ、ポップネスを志向した音楽性へ舵を取った。そして、時代の流行を賢しく捉えるセンス、そして以前の成功のスタイルにまったくこだわらないこと、この身軽なスタイルこそが、その後のデヴィッド・ボウイのロックスターとしての地位を盤石たらしめたのだった。


「Starman」 Top Of The Pops(1972)

 

Ye(Kanye West)


昨年、アディダスがカニエ・ウェストとのパートナーシップを解消したことは今も同社にとって大きな負債となりつつある。同ブランドは売れ残ったカニエ・ウェストの専属ブランドであるYeezyの製品の在庫により、今年に入ってから4億ユーロ(約441億円)もの巨額損失を計上したというのだ。

AP通信によると、アディダスは、2022年9月にカニエ・ウェストが行った反ユダヤ主義的な発言を受けて、ラッパーに関連するすべてのアイテムを引き上げた後、まだ13億ドルのYeezy製品を保有しているという。

 

スニーカーとアパレルの大手は、アディダスの新CEOビョルン・ガルデンが、同社が「決断に近づきつつある」とし、さらに「選択肢は狭まっている」と述べたと報じられているが、この株式をどう処理するのかはまだ不明である。




在庫処分の方法としては、残りのYeezy製品をそのまま販売する、靴からYeezyのブランド名を消す、靴を譲る、破棄する、などが考えられる。しかし、それぞれの選択肢には、靴の販売でカニエウェストに支払われるロイヤリティや、二次市場での日和見的な転売など、デメリットが伴うという。


ガルデンは、アディダスがYeezyの在庫を破棄することを「避けようとした」と述べているが、現時点ではその可能性は残されている。同社は、消費者や市場に各スニーカーの評価額を知らせたくないため、Yeezyの在庫の残量を公表しておらず、製品への需要を提供する可能性があります。


アディダスとカニエ・ウェストの分裂は、ブランドにただならぬ余波を残し続けている。2022年には、数億円もの損失を計上した。そして、もしアディダスが売れ残ったYeezyの商品を消化することができなければ、2023年には総計5億ドル以上の負債を抱えることになるかもしれない。これはもちろん、同ブランドにとって大きな打撃となる。


さらに、カニエはロサンゼルスのメルローズ通りにYeezyのオフィスの開設を予定しているが、何とその隣の敷地にはアディダス・ストアが併設しているという。こちらの方も今後、ひと悶着ありそうだ。




 カニエ・"イェ"・ウェストの一連の反ユダヤ主義的な発言を受けて、何日も沈黙を守っていたアディダスは、ついに、このミュージシャンと彼のイージーブランドとの長年にわたる非常に有利なパートナーシップを直ちに打ち切ったと発表した。


"アディダスは反ユダヤ主義やその他のあらゆる種類のヘイトスピーチを許さない "と、ドイツの会社は10月25日に発表した。"イエの最近のコメントと行動は、受け入れがたい、憎しみに満ちた危険なものであり、多様性と包括性、相互尊重と公正という会社の価値観に違反している "と述べたのだ。


アディダスとウェストは2013年から共にビジネスを展開し、その3年後にはパートナーシップを拡大し、アーティストを億万長者にした。アディダスによると、イージー・ブランドの全商品の生産は停止し、「イェと彼の会社への支払いもすべて」停止しているが、「既存商品の全デザイン権と、パートナーシップに基づく前作と新作のカラーリングの唯一の所有者である」ことに変わりはない。


アディダスは今月初め、ウェストが公の場で「ホワイト・ライブズ・マター」Tシャツを着用した後、パートナーシップを「検討中」としたが、ウェストがインタビューの中で反ユダヤ的な発言を続けても、より決定的な行動を取らなかったと批判された。ウェストはその後、バレンシエガとタレント事務所CAAから降板させられ、メディア企業MRCは完成した彼に関するドキュメンタリーを棚上げにした。



アディダスは、本日の決定について、「第4四半期の高い季節性を考慮すると、同社の純2022利益に対して、最大で」2億4600万ドルの短期的なマイナスの影響を与える見込みであると述べている。

 

 

リアム・ギャラガーはadidasとのコラボレーション企画を発表した。新作スニーカー「LG2 SPZL」は、海外で7月14日、国内でも7月22日からadidasの直営店にて販売が行われる。今回のリアム・ギャラガー、adidasのコラボレーション企画は、2019年の「LG SPZL」に続き二回目となる。 

 
 
 
 
 
 
 
『LG2 SPZL(リアム・ギャラガー2 スペツィアル』は、今年4月に開催されたブラックバーンのキングジョージ・ホールでのコンサートのステージ(上記写真)で初めてお披露目となった。リアム・ギャラガーは、アディダスファンとして知られ、Spezialの創設者、Gary Aspdenの親友でもある。今回の刺激的なコラボレーションでは、ギャラガーがスリーストライプスに注ぐ愛情の深さを伺わせるものとなっている。
 
 
 

 

オリジナルの『LG SPZL』と同様に、『LG2 SPZL』は、アーカイブスカッシュと屋内モデルからのインスピレーションを組み合わせている。チョークホワイトのナイロンアッパーにライトグレーのストライプとオーバーレイを組み合わせ、シュータンには「Endorsed by Liam Gallagher」のテキストとギャラガーのポートレートグラフィックをデザインした。シューズにはカスタムパッケージおよびハングタグが付属する。

 

 adidas Spezialとのコラボレーションに続き、マンチェスターの伝説的シンガー、リアム・ギャラガーが、最新ソロアルバム『C'Mon You Know』を記念して、新たなコラボレーション・シリーズを立ち上げました。




今回のコレクションでは、Barbour、C.P. Company、Nigel Cabourn、Sage Nation、Snow Peakのアイテムに加え、マンチェスター・メトロポリタン大学のファッション学科の学生がデザインしたアイテムが登場します。


コレクションでは、リアム・ギャラガーが、Nigel Cabournのため、自らデザインしたアイテムや、Barbourのアップサイクルジャケット、C.P. Companyのスモールコレクションなどが目玉商品となっています。

 

また、Sage NationのスモックやSnow Peakのパーカー、アノラック、バケットハットなど、エクスクルーシブなアイテムも発表されました。

 

その他のアイテムは、Manchester Fashion Institureのコンペティションで選ばれたもので、CDをテーマにしたコラージュを制作したNiamh and Aoife Dobsonとアルバムキャンペーンからインスピレーションを受けたHaripraba Thavanendranの作品がグラフィックとして採用されています。


リアム・ギャラガーのマネージメント・チームのSam Eldridgeは、このコレクションを発表し、次のように述べました。


リアム・ギャラガーは、史上最も偉大なロックスターの一人であるだけでなく、真のファッションアイコンであり、パイオニアであり、そのスタイルと影響は、ハイストリートからフェスティバル会場まで、全国で見ることができます。私たちは、セルフリッジの象徴的な店舗とパートナーシップを組み、リアムのスタイルを称えるユニークなイベントを開催できることを嬉しく思います。

 

このイベントでは、リアムのストーリーの一部となっているBarbour、C.P.カンパニー、フィンレイ、ナイジェル・ケーボン、セージネーションといったブランドの限定アイテムが提供されます。また、マンチェスターファッションインスティテュートとのコラボレーションは、次世代のイノベーターやクリエイターを刺激するものであり、大変嬉しく思っています。

 

 

このコレクションは、5月27日にロンドンとマンチェスターのSelfridgesの店舗、およびSelfridgesのウェブストアで発売されます。


https://www.selfridges.com/JP/en/



Dr.Martens




 

 

モッズ、パンクロックの象徴としてだけではなく、VOGUEのファッションショーにも取り入れられた歴史を持つDr.Martens。現在、ドクター・マーティンはセールス堅調で、根強い人気を誇る革靴です。


ゴムソールという動きやすさを追求した画期的なブーツは、どのように生まれたのでしょうか、ドクター・マーティンが市場に流通するようになっていったあらましを今回追っていきます。

 

 

戦後の混乱の時代

 

そもそも、ドクター・マーティンは、現在、革靴生産の盛んなノーサンプトンシャーのシューメイカーとなっていますが、起源は第二次世界大戦後に求められます。当時、ドイツの軍医であったクラウス・マルティンス博士が1945年の休暇中、バイエルン地方のアルプス山脈でスキーをしていた際、足首に怪我を負った。彼は、その後、軍から支給されたミリタリーブーツは、自分の怪我をした足には適さないことに気が付きました。なにせ、当時の革靴の素材といえば、どれだけ履きつぶしても壊れない頑丈さを重視していたため、固く、重く、あるきにくい素材が主流だったのです。そこで、マルティンス博士は、怪我から回復する間、柔らかい靴底のゴムソールと空気を取り入れるためのホールを設けたブーツを生み出そうという計画を立て始めたのです。


高価な皮革の原材料の問題について、マルティンス博士は濡れ手に粟といった形で獲得してみせます。第二次世界大戦後の混乱の中で、ミュンヘンでは、ドイツ人の貴重品掠奪が始まった際、マーティン博士はチャンスを見出し、廃材中からゴムや革の素材を廃屋となった靴屋から奪取する。革の素材を用い、現在、有名なエアークッションの効いたゴムソールと組み合わせ、マルティンス博士は改良を重ねながら、新しいブーツを生み出しました。これがドクター・マーティンの始まりでした。

 

マルティンス博士は、この革靴を個人的なものにするだけではなく、一般の人々にも履いてもらいたいと考え、このブーツの製品化の計画を立てはじめました。 その後、彼はミュンヘンで大学時代の旧友だったハーバート・フンクに再会を果たす。この時、マルティンスはもの試しと新たな革靴をフンクに紹介しました。たちまち、フンク博士も、友人の制作した革靴に興味をそそられ、開発に協力し、尽力するために手を貸す。二人は、ドイツ空軍飛行場から廃棄されるコムタイヤを原料にして、ドイツのゼースハウプトにて、本格的なブーツの生産に乗り出します。


マルティンス博士とフンク博士

 

マルティンスとフンクは、1947年に正式な靴生産を開始し、クッション性に優れたゴムソールを生み出し、この製品はミリタリーブーツしか履いたことがなかった主婦や年配の女性の間で人気が高まり、次の十年間において、ドクターマーティンはビジネスとして、急激な成長を遂げていきました。最初の十年間のドクターマーティンの売上は、意外なことに、その80%が40歳以上の女性で占められていた。これらの人々は、頑丈で、軽く、動きやすい革靴を求めていたのです。

 

 

グリッグ社の買収、さらなる事業拡大 

 

ドクター・マーティンの売上は1952年、ミュンヘンに工場を開くほどに増大。1959年には、マルティンとフンクの両博士が、国際的な製靴市場を視野に入れる規模に成長した。マルティンは、この後、さらなる事業拡大を視野に入れ、ヨーロッパ中の雑誌で、マルティンスの靴の大々的な宣伝を打ち、ドクター・マーティンの名を広める。

 

同時期、イギリスの主要な靴製造メーカーであったR・グラッグス・グループLtd(当時、グリッグスは、英ノーサンプトンシャー州のウォラストンという街で創業したシューメイカーで、55年の長い歴史を持ち、頑丈なワークブーツを生産することで確固たる評判を獲得していた)のグリッグス社長が、ドクター・マーティンの雑誌広告に着目し、企業買収へと乗り出した。その後、グリッグLtdはイギリスでの特許権を所得。同時にドクター・マーティンのネームライセンスを買収した。

 

Griggs Ltdとの契約 マルティンス博士は左から二番目


 

買収後、グリッグは、ドクターマーティンの靴のデザインをそのまま採用し、フィット感を改良し、かかとを丸みを帯びた球根上のアッパーを追加し、現在の商標である対象的な黄色いステッチを施し、靴底をエアーウェアーという名称で商標登録を行った。グリッグは、1960年に、ドクター・マーティを伝説的な8ホールブーツ、「1460」として英国内で大々的に紹介し、このメーカーの代名詞的なモデルとなった。

 

 

8ホールブーツ、「1460」


「1460」は、1960年4月1日に、現在も稼働しているノーサンプトンシャーの工場で最初に生産された。この製品は、当初、イギリス国内で、二ポンドの低価格で売り出された。ドイツでは、主婦層に人気であったのに対し、イギリスでは、郵便局員、警察官、工場労働者など男性の労働者階級の間で大きな人気を博しました。

 

 

 

サブカルチャー、反逆の象徴としてのドクター・マーティンの浸透


最初に、このドクターマーティンを音楽業界にもたらしたのは、モッズシーンの代表格ともいえるザ・フーのギタリストであるピート・タウンゼントだった。彼は、ビートルズのはきこなしたチェルシーブーツよりも動きやすいライブ向きの革靴を探していたところ、この8ホールの「1460」を見つけて購入した。ピート・タウンゼントは、このドクター・マーティンを最初にライブステージ上では着こなした人物で、見事なジャンプをしている写真も残されています。

 

The Who Pete Townshend


 その後、スキンズと呼ばれるサブカルチャーがロンドンを席巻した時、ドクター・マーティンは、労働者階級のユニフォームの一部として取り入れられていく。ドクター・マーティンはパンクロックの若者のアイコン、特に、スキンズ、ハードコア・パンクの象徴と変化していきます。1970年頃になると、イギリスのパンクロックスターの間で人気を博し、彼らの取り巻きもこのドクター・マーティンを履き好むようになりました。この1970年代当時、特に、「God Saves The Queen」でおなじみのSex PistolsのSid Vicisio、「London Calling」でおなじみのThe Clashのジョー・ストラマーが、ドクター・マーティンを履き好んでいたようで、

 

The Clash

 

黒いライダースの革ジャンとともに、ドクター・マーティンの革靴をパンクロックのシンボル的な存在に引き上げています。また、ドクター・マーティンの名は、アレクセイ・セイルの歌の題名にも使われ、スカバンド、Madnessの「The Business」のカバーアートにも登場するようになります。

 

 

いわば、この1970年代のロンドンにおいて、ドクターマーティンとパンクスの若者は、深い関係を結び、靴をカルチャーの一部としてファッションを取り込んでいったのです。すぐに8ホールの1460と呼ばれるブーツは、デニムやスタプレストのズボン、ボタンダウンジャケットと組み合わさって、スキンヘッド文化の象徴ともなっていきます。1970年代後半になると,セックス・ピストルズを始めとするパンクバンドが挙って、大手のメジャーレーベルと契約を果たし、スターミュージシャンとなったのが要因となり、サブカルチャーとしての文化が急速に衰退していきます。

 

それに伴い、パンク文化は急速に衰退し、The Exploitedはそれを嘆き、「Punks Not Dead」と歌うようになりますが、ドクター・マーティンは、パンクロック文化はその後も、スキンズの復活、グラム・ロック、ゴス、ニューロマンティックらのバンドのファッションとして継承されていきます。そして、ひとつ重要なことは、これらのイギリスの若者がドクターマーティンを革ジャンとともに愛用しまくっていたのは、おそらく、このファッションアイテムを社会にたいする反逆の象徴としてみなし、その概念に、若者として、大きな賛同をしめしていたからなのです。

 


ドクターマーティンとグランジ


1980年代になると、ドクター・マーティンは、イギリスの若者文化と労働者階級の象徴として認めらました。当時、保守党が提案した緊縮財政と社会改革は、イングランド国内において、多くの不安と多くの若者たちの反感を巻き起こす。

 

そんな中、ロックンロールに代わるオルタナティヴロックがミュージック・シーンを席巻するようになる。そして、このことは海を隔てて遠く離れたアメリカも全然無関係ではなかったのです。いつしか、ドクター・マーティンはその反骨精神という概念を携えて、シアトル、アバディーンを中心に形成されたグランジシーンのバンドのファッションに取り入れられていくようになりました。

 

これらのグランジロックに属するアーティストは、そのほとんどがパンクロックにルーツをもち、好んでドクター・マーティンを履きこなして、アメリカにおけるドクター・マーティン人気に拍車をかけました。

 

Alice In Chains

 

 

メルヴィンズ、アリス・イン・チェインズ、パール・ジャム、サウンドガーデン、これらの1980年代のアメリカのロックンロールにノーを突きつけ、暗鬱で重苦しい雰囲気を持ち、不敵な雰囲気をたずさえたロックバンドたちが、アメリカのインディーロックシーンを席巻していく中、ドクター・マーティンは、これらのグランジアーティストのファッション面で重要な役割を果たし、アメリカにとどまらず、世界的な資本主義社会の完全な行き詰まりを暗示した1990年代のグランジロックの重要な概念のひとつである「敗者の子供」の美学と調和を果たしながら、この年代を通して、アメリカでのドクター・マーティン人気を高めていったのです。

 

 

近年のドクター・マーティンの事業

 

1990年代になっても、ドクター・マーティンは根強い顧客を持ち、高い収益率を保持するシューメイカーであることに変わりはありませんでした。ドクター・マーティンは、ロンドンのコベントガーデンに六階建てのデパートを持ち、毎年1000万ペア以上の靴を製造する生産ラインを所有していました。

 

しかしながら、2000年代前後、ミレニアムの変わり目に収益が落ち込み、2003年に利益が著しく急落し、破産申請を行っています。その後、ドクター・マーティンは、イギリス国内で1000人規模の雇用者を削減し、生産コストを極力抑えるため、ドクター・マーティンの主要な生産工場を、イギリス国内から、タイ、中国に移行しています。

 

この動向に関しては、 これまでのメーカーの理念、英国のミッドランドの中心部で作られた純英国製の高い品質のブーツを顧客に提供する、というドクターマーティンの考えにそぐわないものでしたが、これはこのメーカーの生き残りをかけて選択された苦渋の決断のひとつといえるでしょう。

 

その後、ドクター・マーティンはかつてのような勢いを取り戻し、2010年代には売上が再上昇。2021年現在も数々のコレボレーション企画のドクターマーティンモデルを発売しyたりと数々の試行錯誤を重ねながら、安定した販売数を獲得。 その中のコラボレーションの何はYohji Ymamoto,Nepenthes,Suprem Bathing Apeといった素晴らしいデザイナーが並んでいます。

 

また、近年は復刻版のクラシックモデルのDr.Martensの生産も行われています。1960年代のDr.Martensのモデルの再現に焦点を絞った「The Vintage Collection」、またオリジナルのR。Griggのスペシャルコレクション「Made In Rngland」など、現在も魅力的な製品ライナップが展開されています。

 

パンクロックの反逆の象徴としてでだけではなく、近年には、デイリーカジュアルとしても普及しているドクター・マーティン。その魅力は、実際に履いてみてこそ分かるといえるかもしれません。

 

 

今週に入ってから、グッと気温が下がってきた。いよいよ師走の足音がもうすぐそこまで聞こえてきそうな感じである。これから年末にかけて寒くなってくるものと思われるが、この時節になると、是非とも購入を考えたいのがダウンジャケット。

 

しかし、ダウンジャケットも近年、様々なブランドが台頭し、アパレル市場での群雄割拠というべき様相を呈し、どれを選ぶのか迷ってしまうかもしれない。

 

Woolrich、Herno,Pyrenex,といった比較的高級なブランドをはじめ、近年、日本のメーカーもアパレルマーケットに参入し、水沢ダウン、snow peakといったブランドもダウンジャケット市場で大きな存在感を見せている。イギリスのP.H.Designというブランドも良質なダウンジャケットの生産を行い、根強い人気を獲得している。

 

安価なダウンジャケットブランドとしては、ロシア、モスクワのSHUというメーカーをおすすめしたい。このブランドは何と、3万円台という破格の定価でダウンジャケット製品を販売している。

 

やはり、ダウンジャケットといえば、登山ウェアブランドが強い。そもそもダウンジャケットというのは登山のための装備品として開発された。古くから防寒性、撥水機能、耐久性を兼ね備えた製品を生産し、アパレルマーケットで根強い人気をほこっているのが、The north face、他にもpatagoniaといったブランドである。

 

そして、ダウンジャケットのブランドを語る上では、何と言っても、伝統的なブランドMONCLERを度外視するわけには行かない。

 

 

1・モンクレールの発祥

 

モンクレールは、どちらかといえば、HERNOに近い高級なファッションブランドの印象が強いが、実はこのメーカー、登山ウェアとしてのルーツを持つファッションブランドである。

 

モンクレールは、常に登山と深い関わりを持ってきたメーカであり、半世紀以上の伝統を持つブランドである。

 

そもそも同社は、現在は本社所在地をイタリアミラノに置いているが、フランスのモエスティエ=ド=クレルモンに、ルネ・ラミリオムとアンドレ・ヴィンセントが1952年に創業した登山メーカーである。 

 

 

Monestier-de-Clermontモンクレールが創業したグルノーブル近郊の山間地域 モエスティエ=ド=クレルモン  Par <a href="//commons.wikimedia.org/wiki/User:Jvillafruela" title="User:Jvillafruela">Jvillafruela</a> — <span class="int-own-work" lang="fr">Travail personnel</span>, CC BY-SA 4.0, Lien

 

当初は、冬の登山のための装備、寝袋、テント、フード尽きケープといった製品を製造していた。


Monclerというブランド名については、上記のフランスの小さな山間集落、モエスティエ=ド=クレルモンに因んで名付けられた。

 

 

 

 2・モンクレール創業秘話 二人の友人の冒険

 

フランスのブランド、モンクレールの物語は第二次世界大戦の時代にまで遡る。 当時、フランスはナチスに占領されていたため、登山の冒険など夢のまた夢であり、ごく少数の愛好者の贅沢な嗜みであった。

 

そして、このフランスのグルノーブル近郊の山あいにある小さな村落、モエスティエ=ド=クレルモンには、のちにモンクレールを創業することになる二人の登山愛好家の姿が見いだされる。アンドレ・ヴィンセント、レネ・ラミリオムだ。彼らは占領以来、友人となり、共に、山岳活動やスポーツを行うための組織「シャンティエ・ド・ジュネス」の一員であった。第二次世界大戦後、ヴィンセントとラミリオムは小さなスポーツ用品店を地元に開くことを思いつく。

 

第二次世界大戦後の世界は、様々な領土の問題により、フランスにおいても自由な移動や旅行が制限されていた。もちろん、高価な登山用品を購入する余裕は多くの人にはなかった。しかし、彼らはそのこと、つまり、テントや雪山の装備品を売りたいという情熱を人一倍持っていた。

 

苦肉の策として、ヴィンセントとラミリオリは、低コストのキャンプ用品の販売をはじめる。さらに、ここに彼らの友人のデュオが加わり、テントやスポーツ用品を売り出すことにより、モンクレールは長い歴史の道のりを歩みはじめた。

 

最初の年はなにもかもうまくいかなかった。戦争の後の経済的な困窮、そして、社会不安の中において、モンクレールは市場の不安定さに直面し、地元の数少ない顧客を頼りに、これらのスポーツ用品の販売を行っていた。



3.不死身の登山家、リオネルテレイとモンクレール


 

しかし、これらの登山用品を着々と生産を行っていく中、モンクレールの品質の良さ、そして機能面での秀逸さというのは徐々に雪山を踏破しようとする登山家によって支持されるようになる。

 

そしてモンクレールの名を最初に一般に広めたのが不死身の登山家と称されるリオネルテレイだった。

 

テレイは、ヒマラヤのマカルーやパタゴニアのアンデスのセロ・フィッツ・ロイなど多くの山の初登頂を果たしたフランスの登山家であり、ガストン・レビュファ、ルイ・ラシュナルと共に1950年代を代表するフランスの登山家で、上記二人とともに三銃士と呼ばれている。また、リオネル・テレイアンドレとラミリオリの共通の友人でもあった。


リオネル・テレイは、特に、モンクレール製品のアヒルの羽毛ジャケットに興味を持った。

 

フランスには、以前の時代に置いてモールスキンというモグラ皮に似た分厚い綿製品が労働者のウェアとして取り入れられていたが、このダウンジャケットの革新性、アヒルの羽毛の軽さ、そして、温かさに驚いたはずだ。

 

モンクレールのジャケットは、当初、低温環境で長い作業を続けなければならない労働者のために生み出されたが、登山ウェアとして、リオネル・テレイは時代に先んじてモンクレールジャケットを取り入れた。

 

実際、山登りをしている際、このジャケットは、驚くほど温かく、体を動かしやすく、快適であることを見出し、つまり、実用性のある登山ウェアとしての魅力を彼は見出したのである。

 

その後、アンドレとラミリオリは、登山家、リオネル・テレイをコンサルタント、企業アドヴァイザーとしてモンクレールに招聘する。ブランドの特別仕様モデル、モンクレールジャケットの製作に関する技術サポートを一任した。

 

彼らは、プロの登山家から実際の見地によるプロダクションの忠告を受けながら、さらにモンクレールジャケットを高性能なものに洗練させていく。

 

この後、「MONCLER pour Lionel Terray」という名前の製品ラインが生み出されて、様々な登山用品、寝袋、保護手袋、靴、テント、登山装備品、といったプロダクトをモンクレールは生産するようになる。

 

 

3・K2踏破に耐えうる登山ウェア 

 

第二次世界大戦後、様々な国の著名な登山家がエベレストをはじめとする踏破困難とされる冬山登山に挑戦し、歴史的な記録を打ち立てていく。

 

そして、以前、最も踏破が難しいとされていたインドのカシミール地方からウイグル自治区まで伸びるカラコルム山脈に位置する、通称K2の踏破にイタリア人登山家アルディト・デジオは挑む際、モンクレールのダウンジャケットを選んだ。

 

そして、アルディト・デジオは、地球史上最も頂上をきわめるのが困難とされていたK2踏破を1954年に成功させる。さらに、その翌年にモンクレールの登山ウェアは、フランスマカル踏破を後押しした。どのような激しい風雨を凌ぐ事ができる耐久性の高い登山ウェアとして、モンクレールのブランド名は一躍世界に知られるようになった。


その後、モンクレールは、リオネル・テイと協力し、製品開発を続け、彼が主宰した1960年代のアラスカの遠征へのウェアを提供した。

 

Lionel Terray

 

もちろん、その後も、モンクレールはK2遠征と長い関わりを持ち、登山家の登頂の成功を後押しし続けている。

 

人類のK2初踏破を支えたタフな登山ウェアブランドとしての矜持を保ちながら、現在まで長年、K2への遠征の際に登山ウェアを提供し、登山家のスポンサーとなっている。

 

 

4.モンクレールのロゴ

 

モンクレールの印象深いロゴについても説明しておきたいと思う。このロゴに取り入れられているトリコロールは、もちろんフランス国旗に因む。赤と青をあしらったデザインにMの文字が刻印されている。

 

シンボルマークの後ろには、フランスの国章のシルエット、そしてオンドリが描かれている。

 

 

 

Moncler Logo

 

このブランドロゴが使用されはじめたのは1968年。フランスのグルノーブルオリンピックスキーチームの公式スポンサーとして提携後、モンクレールのブランドロゴとして正式に使用されはじめた。

 

先述したように、モンクレールのカラーリングはフランス国旗のトリコロールに因んでいるが、この配色については、権力、権威、情熱、忠誠心を表し、これらの概念はモンクレールのブランドのコンセプトとして今も変わらず、当ブランドの欠かさざる精神として引き継がれている。

 

もちろん本拠をイタリアミラノに移転してからも登山ウェアブランドとしての品格を保ち続けている素晴らしいメーカーである。




Monrelerの製品情報は公式サイト似てご覧下さい

 

 https://www.moncler.com/ja-jp/?tp=67844&ds_rl=1290725&ds_rl=1290725&gclid=Cj0KCQiAzMGNBhCyARIsANpUkzPnbNuURBs1CYg6SprZ0WS5U77k0aPaAR0eW0JfuNx8IjBg6brFyFoaAoCDEALw_wcB&gclsrc=aw.ds

 

 

 

 



 

 

 ベレー帽は、古今東西、様々な政治家、画家、もしくは、漫画家が好んで着用してきたファッションアイテムでもあります。

 

 このベレー帽を19世紀から工業的に行ってきたのが、スペインのバスク、それから、ピレネー山脈を跨いだ所にあるフランスのバスク地方です。

 

 

Lulhereの本社があるOloron-Saint-Marie

 

 

 フランスで最も古い歴史を持つLaulhereは、1840年に創業し、王室や世界各国の軍にメリノウールを使用したベレー帽を支給しています。これらのメーカーは19世紀頃から羊やアンゴラの毛を使用し、自社工場において、ベレー帽のハンドクラフト生産を行ってきた経緯があります。 

 

 

 このロレールというメーカーは、この地域で最も古い歴史をもち、フランスベレーという名称を一般に浸透させたメーカーでもあります。現在もベレー帽製作の一部は人の手で行われています。ファッションとしての高級感やクラシカルな雰囲気をもちながら、価格の相場は一万円前後から二万円ほどで、他の高級ブランドの帽子に比べると、お手軽にクラシカルファッションを現代的なシルエットの中に取り入れることが出来ます。かぶり方についても、他の帽子よりも遥かに豊富なバリエーションがあって、ファッションとしての自由性が極めて高い帽子に挙げられます。

 

 もちろん、性別を選ばず、カジュアル、フォーマル双方のファッションの中に取り入れると、華やかな印象を与えるのがこのベレー帽というアイテム。現代では、一般的なレディスファッション、あるいは、メンズファッションの一貫として取り入れられるようになったベレー帽。実は、この帽子はフランスに起源を持ち、非常に古い歴史を持つファッションアイテムでもあるのです。

 

 

 

ベレー帽の起源

 

 

 服飾の文化史としては、15世紀から16世紀にかけて、キリスト教の聖職者が身につけていた上に飾りのついた角帽、カトリックの司祭がかぶるビレッタという帽子がベレーの発祥とされています。しかし、実はそれよりも古い旧約聖書、ノアの方舟の章を描いた絵画の中にこのベレー帽が登場しています。世界の洪水から動物たちを救い出す際、ベレー帽のような帽子をかぶっているノアの姿が見いだされるのです。また、芸術絵画や彫刻にもこのベレーの原型であるビレッタは数多く描かれています。

 

Imposition of the bonete on a new doctor. Anonymous copy of a 17th century original.
University of Alcalá. Quote:https://www.liturgicalartsjournal.com/2020/10/saint-teresa-of-avilas-biretta-brief.html

 

 

 

 ベレー帽が服飾の最初の資料的証拠として登場するのが、聖書時代よりもさらに古い、青銅器時代にさかのぼります。

 

 西ヨーロッパ、とくに、イタリア、および、デンマークに現存する彫刻、絵画中に、ベレー帽が描かれているのが見いだされます。

 

 少なくとも、この西ヨーロッパという土地は、イタリアのサン・ジョルジョ・マジョーレ、サンタ・クローチェをはじめとする修道院建築、キリスト教文化が非常に盛んな土地であり、聖職者がこのベレー帽に似た帽子を服飾として取り入れていたかもしません。

 

 そして、これら紀元前に生み出された芸術彫刻や絵画の一群には、様々なベレーのヴァリエーションが見みだされるのだという。科学者が、この考古学的な証拠から算出した結果、ベレー帽の原型というのは、少なくとも紀元前400年頃の西ヨーロッパには存在しており、その後、13世紀にかけて様々な形に枝分かれしていったのです。

 

 この青銅器時代の絵画彫刻に歴史資料として登場する最初期のベレー帽は現在のような羊毛ではなく、フェルトが素材として使用されていました。




 ベレー帽の意義の拡張

 

 

 およそ16世紀から17世紀の間に、ベレー帽の原型であるフェルト帽は、聖職者から一般市民へファッションアイテムとして浸透していきます。このアイテムを最初に浸透させたのが芸術家たちでした。

 

 農民の芸術家をはじめとするどちらかといえば、バスク地方の貧困層の画家たちが、このフェルト帽を好んで着用していたようです。

 

 つまり、後に、ピカソがスペインのエロセギ社の生産するベレー帽を好んで被り、自らのファッションアイコンに見立てたのは、これら最初期の農村風景を描く画家たちへの深い敬愛がこめられれいたともいえるのです。

 

 


 

 当初、これらのバスクの画家たちの時代には、ベレーは工業生産されていませんでしたが、ごく一部のクラフトマンが手作業でベレー帽を製造していたものと思われます。

 

 この前の年代の14世紀から15世紀においてのバスク地方で、農村の風景をカンバスに描く画家たちがこのフェルト帽を愛用したのは、髪をまとめやすいという利点に加え、機能的にもすぐれ、悪天候の中でも耐久性があったからでしょう。ピレネー山脈地方の農村画家は、地形的に天候不順に見舞われやすい地域であり、ベレーの原型であるフェルト帽を雨風を凌ぐために着用していたともいえるわけです。この後、レンブラントがこのフェルト帽を愛用していたのは多くの人がご存じかと思われます。

 

 

Detail of Self-portrait at 34, with modified background to make rectangular. Oil on canvas, 1020 x 800mm (40 1/8 x 31 1/2"). Signed and dated bottom right: Rembrandt f. 1640; inscribed: Conterfeycel [Portrait]. The National Gallery, London. London only.


 

 画家に始まり、音楽家にも独特なファッションアイテムとして親しまれるようになったフェルト帽。

 

 芸術家たちのファッションアイテムとしての地位を獲得した後、フェルト帽にいくらかの権威性が付加されるようになったのは19世紀初頭頃です。

 

 特に、赤いフェルト帽は、赤という色彩における心理学、アジテーションやパッションを見る人の印象に与えるという一般的なイメージを想定してか、スペインの政治家、カルロス主義者の主導者、トーマス・ズマラカレグが政治家として最初に赤いフェルト帽をファッションの中に取り入れています。

 

 この年代から、フェルトーベレー帽は、画家や音楽家といった芸術家たちのファッションアイコンとしてのイメージから切り離されていき、それとは全く対極にある「政治における革命の象徴」であったり、「軍隊における権威性、統率性の象徴」としての異なる意味合いを持つようになっていきます。

 

 特に、その「扇動性」という意義を持ち、これらのイメージを定着させる役割を担ったのが上記の赤いフェルト帽でした。

 

 この後の年代において、各国の軍用のファッション、軍用の制服として取り入れられたり、キューバの革命家チェ・ゲバラがベレーを着用してみたことでも分かる通り、

 

アメリカの爆撃で沈没した貨物船「ラ・クブル号」の犠牲者追悼行進に参加するカストロ(左端)とゲバラ(右から2人目、背広服の人物の向かって右側)

 

 フェルト・ベレー、また、フラットハットというアイテムに、これまでには見受けられなかった概念が加えられ、「ベレー=権威性、革命性」というイメージが徐々に定着していくようになるのです。この過程において、それまでのフェルト帽やフラットハットと呼ばれるものから、「ベレー帽」と名付けられたのは1835年のこと。その後、スペインのエロセギ、フランスのロレールとベレー帽の製造を専門とするメーカーが誕生し、ペレーの工業生産の歴史が始まり、ピレネー山脈を跨いでのバスクベレーは、スペイン、フランスの両地域の名産品として認知されていくようになります。



ファッションとしての確立

 

 

  レンブラントをはじめとする芸術家の権威性、チェ・ゲバラといった政治家の革命性、それから軍隊の統率性というそれぞれ異なるイメージを引き立てるために数多くの人々に愛用されたベレー帽。

 

 いよいよ、20世紀に入ると、ファッション性の意味合いが強まり、一般の人々のファッションにも取りいれられるようになりました。

 

 1920年、バスク原産のベレーはフランスのパリのファッション界を席巻し、パリの人々の象徴的な服装として組み込まれていった後は、絵画的なイメージを与えるファッションとして様々な分野でこの帽子が取り入れられ、ファッション界にとどまらず、映画界にもこのベレー帽が印象的なシーンで数多く使用されていくようになります。

 

とりわけ、1950年代のフランス映画「禁じられた遊び」において、神父がバスクベレーを着用し、この映画の象徴的なイメージを形作っています。さらには、1960年代のフランス映画界でニューウェイブが誕生した際、このベレー帽は映画そのものと分かちがたく結びついていて、ムービースター、カトリーヌ・ドヌーヴが愛用し、パリの街なかの人々がこれらの銀幕スターに憧れ、市井の人々がこぞってベレーを着用するようになったのは想像には難くないといえます。

 

 また、後にはファッションデザイナー、ココ・シャネルがフランスのロレールを好んで愛用していたのは有名な話です。

 

 



 

 特に、シャネルの生み出した概念、女性的なファッションの最高峰=ベレー帽というスタイルは、富裕層ではなく、一般的な人々に対するファッションの重要性を常に訴え続けてきたココ・シャネルらしいスタンスといえ、富裕層だけではなく一般的な人々にこの帽子をかぶる門戸を開いてみせたといえます。少なくとも、ココ・シャネルがベレー帽に対して、それまでより強いファッションという概念を与えたことについては疑いはないはずです。

 

 かつてジェームス・ディーンが映画「理由なき反抗」でTシャツを着、アメリカの市民に一般的にカットソーを普及させたのと同様、フランスの映画界のスター、ファッションスターがバスクベレーを服飾中に魅力的に取り入れたことにより、一部の限られた人々だけにとどまらず一般的な人々にベレー帽の見かけの素晴らしさを普及させることに成功し、中でも女性に対して、ベレー帽というアイテムをファッションにおける「憧れ」というイメージを定着させたといっても過言ではないのです。創業当初からのハンドクラフトのベレー製作専門ブランドとしての誇り、それは現在も、ロレールという老舗ブランドの重要なブランドカラーとして継承されています。

 

 

 Lulhere Offical HP


 https://www.laulhere-france.com/fr/