ラベル Features の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル Features の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

 ・Coachella Festival 2024



コーチェラ・フェスティバルは今年もカルフォルニアのインディオで開催中。ヘッドライナーにラナ・デル・レイ、タイラー・ザ・クリエイター、ドージャ・キャットを迎え、平日を挟んで4月21日までこのイベントは続く。今年も公式動画から注目のライブアクトをピックアップしていきます。!!

 

コーチェラでのサプライズは、アントノフ率いるザ・ブリーチャーズのライブにテイラー・スウィフトが登場。ラナ・デル・レイのライブのクライマックスにはビリー・アイリッシュが登場し、特設ステージで両者のアーティストはデュエットを披露し、トークする姿が確認されている。 他にも、オリヴィア・ロドリゴのライブにはノーダウトのグウェン・ステファニーが登場し、インディオのオーディエンスを沸かせた。

 

グラストンベリーフェスティバルに関してはポール・マッカートニーなど有名アーティストがお忍びで見に来ていたりするので、隠れたエピソードをご紹介できる場合がありますが、コーチェラに関しては人が多すぎ、それを確認することは不可能。全てのサプライズはステージで起こっている。注目のパフォーマンスをご紹介していきます。

 

 

・現在のライブストリーミング配信は以下をチェック。


・CH1:  

https://www.youtube.com/watch?v=dYTuZMRFhFY

 

・CH2: 

https://www.youtube.com/watch?v=F6A3iDbujrI

 

 

 

 

 Faye Webster

 


ニューヨーク・タイムズでも特集が組まれたアトランタ出身のシンガーソングライター、Faye Webster。


フェイ・ウェブスターは、アトランタ交響楽団のコンサートに出かけるときの浮き立った気分を可愛らしいポピュラー・ソングに昇華させた「Underdressed at the Symphony」を引っ提げてのコーチェラ・フェスティバルの出演となる。

 

アーティストはブルーの衣装を見にまとい、アルバムのハイライト曲「Thinking About You」を含む11曲をステージで披露した。



Setlist:

But Not Kiss

Wanna Quit All The Time

Thinking About You

Right Side of My Neck

He Loves Me Yeah

Johnny

Johnny(reprise)

In A Good Way

Lego Ring

Feeling Good Today

Kingston

 

 

The Beths


ニュージーランドで最もクールなバンドを知ってる? The BethsはカナダのAlvvaysと双璧をなすメロディックパンクアウトフィットである。


バンドはこの日、2022年の最新作『Expert In A Dying Field』の曲を中心にセットリストを組んでいる。このアルバムにはパワフルなパンクチューンも収録されていたのは周知の通りだが、この日のハイライトであるタイトル曲のパフォーマンスでは、もう一つの魅力である聞かせるポップソングをオーディエンスの前で披露している。



 

 

Setlist:

Future Me Hate me

Knees Deep

When You Know You Know

Out of Sight 

Little Death 

I'm Not Getting Excited

Jump Rose Gazers

Silence Is Golden

Expert In A Dying Field

 

 Sabrina Carpenter

 


ディズニー・シリーズのマヤ役でお馴染みの女優のサブリナ・カーペンター。先日ニューシングル「Espresso」をドロップしたばかり。

 

シンガーは、ニューポップスターの名に違わず、キャッチーかつ扇動的なポップソングを披露した。ステージの背景に青い家のセットを設え、空間性を意識したダンスパフォーマンスをオーディエンスの前で披露した。モダンなポップスとクラブチューンの融合は''新しいマドンナの登場''と見ても違和感がない。

 

アーティストはこの日、三部構成でセットリストを組み、映像のインタリュードを交え、11曲に加え、アンコール1曲という構成でライブをおこなった。


 


Setlist:

 

Act1:

Fast Times

Vicious

Read Your mind


Act2:

Tornade Warnings

Already Over

opposite

emails i can't send

 

Act 3:

because i liked boy

bet you wanna

Espresso

Feather


Ancore:

Nonsense


 The Japanese House

 



Dirty Hitの看板アーティストであるアンバー・ベインによるプロジェクト、The Japanese Houseはデビューアルバム『In The End It Always Does』の宣伝を兼ねてコーチェラに登場した。アルバム発売前には、当時、レーベルの取締役だったマティー・ヒーリーとの親密なセッションを公開した。


ライトなシンセ・ポップがデビュー・アルバムの売りだったが、バンドセットで構成されるライブアクトはアーティストの音楽のダイナミックな一面を表す。躍動感があり、音源よりも曲の魅力が伝わってくる。この日、アンバー・ベインはバンドとともにステージで7曲を披露した。




Setlist:

Sad To Breath

Touching Yourself

Something Has to change

Boyhood

You Seemed So Happy

Friends

Sunshine Baby

 

 

 Sublime


 

SUBLIMEは、Black Flag、Germs,Circle Jerks、Fifteenと並んで、西海岸の最初期のパンクシーンの最重要バンドに挙げられる。

 

1988年から活動し、ドラッグのオーバードーズにより、ブラッド・ノウェルが死去するという悲劇に見舞われたが、2023年にメンバーを入れ替え再結成、現在に至る。バンドは、スペシャルズと同じく、パンクにスカとレゲエ等を取り入れ、西海岸の気風を持つパンクサウンドを確立した。一時期、バンドはMCAと契約を結び、メジャーレコード会社に所属していた。

 

この日、バンドは心地よいスカサウンドをコーチェラの観客の前で披露した。あらためてスカパンクの魅力を体感出来るライブアクトとなっている。映像では観客の目に涙が浮かんでいるのがわかる。長い期間のファンのバンドに対する思い入れは、その人の人生を形作るのである。

 

 

 

Setlist:

Garden Grove

Wrong Way

Same In The End

STP

Pawn Shop

What I Got

Greatest-Hits

Date Rape

Badfish

Jailhouse

Romeo

Doin' Time

Santeria



Blur


 

昨年、久しぶりの再結成を果たし、新作アルバム『The Ballad Of Darren』を発表したブラー。2023年は彼らにとって復活の年を意味し、2015年以来初めてヘッドライン公演をウェンブリースタジアムで行った。また、もちろん、サマーソニックでも来日したことは記憶に新しい。バンドは少なくともこの年の活動に関して充実感を感じたという。

 

この年、アルバーンはゴリラズの新作を発表した。グレアム・コクソンは、ローズ・ピペットとのユニットを組み、The Waeveのセルフタイトルのデビューアルバム『The Waeve』をリリースした。また、デイヴ・ロウントゥリーは、20代の頃に遭遇したロンドン橋での数字にまつわるシンクロにテーマを置いたソロアルバム『Radio Songs』を2022年にリリースしている。

 

アルバーンは、この制作について、”ブラーとしての勘を取り戻すような意味があった”と語っている。彼は、ブリット・ポップという呼称をあまり快く思っていないようで、現在でもそれに関する嫌悪を口にすることも。ステージでの立ち振舞いを見るかぎり、90年代の面影はほとんどない。彼らはどちらかと言えば、普遍的なロックバンドとしての道を歩み始めているようだ。

 

今回、ブラーはコーチェラのステージで「Song 2」、「Girl And Boys」等のアンセムソングを交え、アンコールをのぞいて、全13曲のセットリストを組んだ。最新作『The Ballad Of Darren』から「St. Charles Square」、「The Narcissist」、「Goodbye Albert」が披露された。

 

特筆すべきは、アンコールでは、フレンチ・ポップの代表的なシンガーソングライター、Francois Hardy(フランソワーズ・アルディ)の「Le Temps de l'amour」のカバーをチョイスし、披露している。

 

 

Setlist:

St. Charles Square

Popscene

Trouble In The Message Centre

Beetlebum

Goodbye Albert

Trimm Trabb

Out Of Time

Bird Song

Death of a Party

Girl & Boys

Song 2

The Narcissist

Tender

 

Ancore:

Le Temps de l'amour(Francois Hardy's Cover)

 

 

©︎ Rahi  Rezvani


音楽ビジネスで成功するためには、才能、タイミング、運の3つが必要だと言われる。それに加えて、注目されるためのプラスアルファが必要だ。ユップ・ベヴィン(Joep Beving)には、その4つがすべて備わっている。

ワイルドな髪に流れるようなあごひげ、身長180センチ近いオランダ人ピアニストは、まるで童話に出てくる親しみやすい巨人のようだ。しかし、彼の演奏は、控えめで、心に染み入るような、メランコリックなもので、巨人の中でも最も優しく、その繊細なメロディーは、この困難な時代に魂を癒してくれる。

「今、世界は慌ただしい。私は、基本的な人間的なレベルで人々と再びつながりたいという深い衝動を感じている。世界共通語である音楽には団結する力がある。文化の違いに関係なく、私たちは人間であることの意味を生得的に理解していると思う。私たちには、それを示す感覚がある」

ユップの音楽は、不安と恐怖に満ちた慌ただしい世界への解毒剤であり、より優しく希望に満ちた未来へのサウンドトラックである。

「かなりエモーショナルなものなんだ。私はこれを "複雑な感情のためのシンプルな音楽 "と呼んでいる。イメージを引き立てる音楽であり、観客が自分の想像力でギャップを埋められるような空間を作り出す音楽なんだ」


ユップ・ベヴィンの物語は、幸運とタイミングに恵まれたものだ。ヨープ(「ユップ」と発音)は14歳で初めてバンドを結成し、地元のジャズフェスティバルでライブデビューを果たした。彼は音楽の道か行政の道かで悩みながら学校を去った。手首の負傷によりコンセルヴァトワールでのピアノの勉強を断念し、経済学の学位取得に専念することを余儀なくされたとき、音楽の損失は公務員の利益になるものと思われた。

しかし、彼にとって音楽の魅力はあまりにも強かった。「音楽は常に私の心の中にありました」と彼は言う。相反する2つの道の妥協点にたどり着いた彼は、10年間、成功した企業でマッチングやブランド音楽の制作に携わった。「しかし、私は常に広告と愛憎関係にあった。必要のないものを売りつけるために音楽を使うのは、決して心地よいものではなかった」

余暇には、成功したオランダのニュージャズ集団、ザ・スカリーマティック・オーケストラや自称 "エレクトロソウルホップジャズ集団 "のムーディー・アレンでキーボードを演奏し、ワンマン・プロジェクトのアイ・アー・ジャイアントでエレクトロニカに手を出していた。しかし、彼自身はこんなふうに認めている。「それは自分ではなかった。自分の声を見つけられなかったんだ」




それが変わり始めたのは、広告界のアカデミー賞と呼ばれるライオンズ・フェスティバルのためにカンヌを訪れたときのことだった。「自分の音楽が聴衆に感情的な影響を与えることを目の当たりにしたのは、そのときが初めてだった」

その反響に勇気づけられたユップは、アムステルダムの自宅で親しい友人たちを招いてディナー・パーティーを開き、2009年に亡き祖母が遺したピアノで自分の曲を演奏した。「友人たちが、リビングルームの外で聴くべきだと思う音楽を私が演奏するのを聴いたのは、そのときが初めてだった。自分の楽器だけでソロ・アルバムを出すという夢を追い求める後押しになったんだ」


その1ヵ月後、親友が不慮の死を遂げたため、ユップは彼の葬儀のために追悼曲を作曲した。「彼の火葬で初めてその曲を演奏したんだ。その後、彼の永久的な記念になるようにと、みんなにレコーディングするよう勧められたんだ。彼は並外れた人でした」




その反応に触発されたユップは、さらに曲を書き、それから3ヶ月間、自分のキッチンで、ガールフレンドと2人の娘が寝ている間に演奏し、1テイクずつ録音した。こうして完成したのが、彼のデビュー・アルバム『Solipsism』である。

彼がアプローチした唯一のレコード・レーベルには断られたが、彼は1,500枚のレコードをプレスするために金を払い、アートワークはラヒ・レズヴァーニ(彼は「The Light She Brings」の素晴らしいビデオも制作した)が担当した。ジョエップは2015年3月、アムステルダムの注目のファッションデザイナー、ハンス・ウッビンクのスタジオでアルバム発売を演出し、そこで初披露した。

最初のプレス盤はすぐに完売し、主に友人に売られた。曲はスポティファイで即座にヒットし、ニューヨークのチームが人気の『Peaceful Piano』プレイリストに1曲「The Light She Brings」を追加した。「人々はその曲を保存し始めたので、別の曲を追加した。そして、私のアルバム全体を気に入ってくれるようになった。やがて『Solipsism』はバイラル現象となり、もう1曲の "Sleeping Lotus "のストリーミング再生回数は3,000万回を超えた。そして、両アルバムを合わせた全曲のストリーミング再生回数は1億8000万回を超えた。

ネット上での大成功の結果、ユップはオランダのゴールデンタイムのテレビ番組に出演することになった。その翌日、彼のアルバムはワン・ダイレクションをチャートのトップから叩き落とした。「そして数日後、アデルがカムバックしたんだ」と彼は笑う。

アムステルダムの有名なコンセルトヘボウでの名誉あるソロ・リサイタルを含め、コンサート・プロモーターからショーのオファーが殺到し、別の友人が地元のバーで "夜中の2時にみんながタバコを吸いながらモスコミュールを飲んでいる中で "彼のアルバムを演奏したことから、彼のアルバムはベルリンに渡ることになった。

偶然にも、その夜ふかしのひとりがドイツ・グラモフォンの重役であるクリスチャン・バドゥラだった。ネットで連絡を取り合った後、ユップがベルリンのクリストフォリ・ピアノサロンで演奏したときに2人は出会い、世界有数のクラシック・レーベルと契約を結ぶことになった。

この新しいパートナーシップの最初の成果が『Prehension』である。『Solipsism』の自然な後継作である本作は、ヨープが彼の音楽に見出した音楽的・哲学的テーマを継承している。「私は、身の回りで起こっていることの絶対的なグロテスクさに反応しているのだ。そのような状況では、取るに足らない無力感に苛まれ、現実や周囲の人々から自分を遠ざけてしまう。私はただ、美しいと思うものを書き、多くの音符を省き、楽器を通して物語を語り、シンプルで正直で美しいもので私たちをひとつにしようとしている」


ドイツ・グラモフォンからリリースされた新曲「Pax」は前作『Hermetism』の音楽性の延長戦上にある。サティを髣髴とさせる美しいピアノ曲を書き上げた作曲家は今回もミニマリズムを基底とする摩訶不思議な世界をアコースティックピアノにより表現している。

「Pax」は色彩的な和音はサティの系譜にあるが、楽曲構成や作風はベートーヴェンの「Moonlight」を思わせる。今回のピアノのサウンドデザインも現在のポストクラシカルを踏襲し、ハンマーや鍵盤の音響を生かしながらも、その音階の連なりはダイヤモンドのごとき高貴な輝きを放ってやまない。


「Pax」


 

R.E.M


・カレッジロックの原点 ジョージアの大学のラジオ局

 

カレッジロックとは1980年代にアメリカやカナダで発生したカルチャーを意味する。明確な音楽的な特徴こそ存在しないが、大学のキャンバスの中にあるラジオ局でオンエアされたロックである。

 

このジャンルは90年代のオルトロックのブームへの流れを作った。カレッジロックは、マサチューセッツ、ミネソタ、ジョージア等がカレッジロックのシーンの出発点に挙げられる。最も最初の原点を辿ると、ローリング・ストーンが指摘しているジョージア州のアテネの大学ラジオ局に求められる。これらのラジオ局では、Sonic Youth等、ニューヨークのプロトパンクバンドの楽曲もオンエアされたが、 特にミネソタのバンドを中心にそれまで脚光を浴びてこなかった地域の魅力的なバンドをプッシュする効果があった。

 

カレッジロックは、実際に大学の寮のパーティー等で学生の間で親しまれることになったが、特にコマーシャリズムや商業主義に反する音楽を紹介する傾向にあった。特にインディペンデントでの活動を行うバンドを中心にプッシュすることが多かった。これは後に、リプレイスメンツやスミス等がメジャーレーベルからリリースを行うようになると、当初のインディーズのスノビズムの意義は薄れていくことになる。特に、R.E.M、リプレイスメンツやスミスは、ヒットチャートで上位を獲得したことがあるため、インディーズバンドというにはあまりにも有名すぎるのである。


現時点から見ると、インディーズミュージックというのは一昔前に比べると、本来の意義を失っているのは事実である。というのも、90年代以前にはインディーズレーベルが米国にはほとんど存在せず、カレッジラジオの曲のオンエアがレーベルの紹介やリリースの代役を果たしていたからである。そもそも、カレッジロックでオンエアされる音楽がすべて現在のストリーミングのように、リスナーが簡単に入手出来るとも限らなかったはずである。そこで、カレッジロックは、次世代の音楽シーンの橋渡しのような役割を担った。そして、この動きに続いて、サブ・ポップがシングル・コレクション(今も現役)等を通じて、アンダーグラウンドのバンドを紹介し、のちの世代のグランジやオルトロックへと繋がっていく。

 


・カレッジロックはオルトロックの原点なのか?

 

もしカレッジロックが一般的に大学生や若い世代に普及していなければ、その後の90年代のオルタナやミクスチャーロックは存在しなかったはずである。なぜなら、このラジオ曲のオンエアの中にはニルヴァーナやRHCP(マザーズ・ミルク等)の最初期の音楽もオンエアされていたからである。


当時、ラジオ曲を聴いたり、学生寮のパーティー等でこれらの音楽を自然に聴いていた学生が数年後、音楽を始め、それらのムーブメントを担っていったと考えるのが妥当である。また反商業主義的な音楽の宣伝と同時に、このカレッジロックというジャンルには何らかの音楽的な共通項がある。

 

演奏が上手いとは言えないが、ザラザラとしたギター、ときにエモの原点となる音楽的な叙情性、粗野なボーカル、そして音質こそ良くないが、純粋なエネルギーがこもっているということ。これらの長所と短所を兼ね備えたロックは、当時の若者の心を奮い立たせる効果があったかもしれない。そして、演奏がベテランバンドのように上手くなかったことも、当時のティーンネイジャー等に大きな触発を与えたものと思われる。そこには専門性の欠落という瑕疵こそあれ、これだったら自分でも演奏できるかもしれない、と思わせることはかなり重要だったのである。

 

カレッジ・ロックは1980年代からおよそ数年間でそのムーブメントの役割を終える。ある意味、オルト・ロックに飲み込まれていったのである。厳密に言えば、カレッジ・ロックが終わったのは92年で、これはその代表的なバンドのR.E.Mが商業的な成功を収めはじめ、ほとんどシアトルのバンドがメインストリームに引き上げられた年代と時を同じくしている。これらの対抗勢力として、アンダーグランドでは、スロウコアやオルトフォークがミレニアムの時代に向けての醸成期間を形成する。最初のオルトフォークの立役者は間違いなくエリオット・スミスである。

 

1992年以降、カレッジ・ロックが以前のような影響力を失い、宣伝力や求心力を急速に失った要因としては、アメリカのNPRなど次世代のラジオメディアが台頭し、前の世代のカレッジ・ラジオの文化観を塗り替えたことが要因に挙げられる。90年代の後半になると、依然として大学のラジオの影響下にあるインディーズバンドは数多く台頭し、その一派は、パンクという形で、または、エモという形で、これらのUSオルトを受け継いでいく。カレッジ・ロックは、インターネットの一般普及により、デジタルカルチャーの一貫として組み込まれることになる。


その後のインターネットの普及により、2000年前後からブログメディアが誕生し、かつてのカレッジ・ラジオのような影響力を持つに至る。それらが一般的となり、デジタルに勝機があるとみるや、それを大手企業のメディアも追従するという構図が作られた。以後の時代の音楽文化の宣伝はSNSやソーシャルという形に変わるが、以降の20年間は、その延長線上にあると言っても過言ではなく、それらの基礎はすべて90年代後半から00年代初頭にかけて構築されていった。

 

 


・カレッジロックの代表的なバンドとその音楽



・R.E.M

 



 

R.E.M.(アール・イー・エム)は、カレッジ・ロックの象徴的なバンドで大きな成功を収めた。米国、ジョージア州アセンズ出身のロック・バンド。1980年結成。2011年9月21日解散。バンド名はレム睡眠時の眼球運動(Rapid Eye Movement)に由来すると言われているが、本人らは明言しておらず諸説ある。

 

アメリカのインディ・レーベルIRSよりデビュー。6枚目のアルバム『グリーン』よりワーナーへと移籍。以後、現在に至るまでオルタナティブ・ロックの代表的なバンドの一つとして活動を続けている。


高い音楽性、歌詞にこめられたメッセージ性から「世界で最も重要なロックバンド」と称されることもある。デビュー当時は4人組のバンドだったが、1997年にドラムのビル・ベリーが健康上の理由により脱退。以後はメンバーを追加することなく3人で活動している。 2007年、ロックの殿堂入りを果たした。

 

 

 


・Sonic Youth

 



写真が大学生っぽいのは置いておくが、ソニック・ユース (Sonic Youth) は1981年に結成されたニューヨーク出身のバンド。1970年代後半から活動を開始する。現代音楽家グレン・ブランカが主宰するギター・オーケストレーションのグループでサーストン・ムーアとリー・ラナルドが出会いサーストンの彼女のキムを誘いソニックユースの原型が誕生した。ごく初期の数年間、ドラムにはあまり恵まれず、実力不足で何回か交代している。

 

グループ名は元MC5のギタリスト、フレッド “ソニック” スミス(パティ・スミスの亡き夫)が好きだったのと、サーストンが好きなレゲエのアーティストに”ユース”という言葉の付いた者が多かったので思いついた名前。本人曰くあまり意味は無いらしい。バンド名を変えてアルバムを出すことも多かったことから、それほどバンド名に執着は無い様子でもある。


ジャンルとしてはノイズロック、グランジ、オルタナに分類される。サーストン・ムーアは「エレキ・ギターを聞くということはノイズを聞くこと」との持論があり、ギターノイズだけの曲、リーディング・ポエトリーのような曲、実験的な曲も多い。自分でオリジナルのコードや変則的チューニングを考えたこともある。


当初、アメリカで人気が出ず、当時ニューウェイブが全盛期だったイギリスを始めとするヨーロッパで評価された。長年インディーズ・レーベルで活動。しかしアルバム「デイドリーム・ネイション」が傑作と評されメジャーへの足がかりとなる。自分たちがメジャーシーンに移行することでオルタナ全体の過小評価を上げたいとの思いが強かった。しかし「無冠の帝王」などと揶揄されることもあり、売れることより実験性を重んじるようなところがある。


メンバーであるスティーブ・シェリーは自主レーベル、スメルズ・ライク・レコードを運営するなどアンダー・グラウンドへ目を向け有能なアーティストをオーバー・グラウンドへ紹介することもあり「ソニック・ユースがお気に入りにあげている」といった冠詞はよく目にするものである。ニルヴァーナやダイナソーJr.といったバンドもソニック・ユースに見初められたバンドである。

 

 

 

 

 

・Husker Du(-Sugar)

 



 

Hüsker Dü(ハスカー・ドゥ)は、1979年アメリカ・ミネアポリスで結成されたハードコアバンド。Germs、Black Flag,X、Misfitsと並んで、USパンク/ハードコアの最重要バンドである。のちのALL、Discendentsを始めとするカルフォルニアのパンクの一部を形成している。

 

オルタナティヴ・シーンに強い影響を与えた最重要バンドとして知られる。バンド名はスウェーデンのボード・ゲームから。81年、地元で行われたライブ音源をCD化したアルバム『ランド・スピード・レコード(Land Speed Record)』でデビュー。

 

ロサンゼルス以外の北米パンク/ハードコアを吸収し、UKテイストをミックスしたサウンドである。初期の彼らはこういったカラーが濃く、とにかく「速い・やかましい・短い」の強行突破ぶりを見せつけていた。その後、激しい演奏にとことん美しいメロディと非反逆的な歌詞を乗せるという「脱・ハードコア」スタイルにシフト・チェンジする。楽曲の数々は、爆発と沈降を繰り返しながら、オーディエンスの支持を増やしていった。

 

だが、バンドの中心人物であったボヴ・モウルド(vo&g)が、「勢いで燃え尽きてしまったバンド」と自ら語っている通り、 87年のアルバム『ウェアハウス:ソングス・アンド・ストーリーズ』を最後に(86年にメジャーに移籍したばかりだった)、彼らは活動にピリオドを打った。

 

その後、ボブ・モールドはソロを通過してシュガー(Sugar)を結成、グラント・ハート(vo&dr)もソロを経てノヴァ・モヴで活動している。ソロ転向後は、スタンダードなロックに転じ、メロディック性が強まり、モールドのソングライターとしての性質が強まった。

 

  

 



・The Replacements

 


 

リプレイスメンツはミネソタ州ミネアポリスのバンドで、ハスカー・ドゥとともに中西部の最初のミュージック・シーンの立役者である。その野生味のあるロックサウンドは現在もなお得意な煌めきを放つ。

 

当初は荒削りなハードコアパンクやガレージロックを主体としていたが、84年の『Let It Be』からスイング・ジャズやロックンロール等多彩なジャンルを織り交ぜるようになった。バンドの商業的な成功はゲフィンからリリースされた「Don’t Tell A Soul」で訪れる。


以後、フロントマンのポール・ウェスターバーグのソングライティング性を押し出すようになり、インディーフォークやカントリーなどを音楽性の中心に据えるようになった。91年の解散後、ポール・ウェスターバーグはソロアーティストとして、カントリー/フォークロックの象徴的なアーティストとして目されるようになった。

 

 

 

 

・Pixies (-Breeders,Amps)

 

旧ラインナップ

ピクシーズ(Pixies)は、1985年に結成されたアメリカ合衆国のロックバンドである。初期オルタナティブ・ロックシーンに活躍したバンドのひとつであり、乾いた轟音ギターにブラック・フランシスの絶叫ボーカルが重なったサウンドは、後のインディーズミュージシャンに影響を与えた。


バンド名は、ギターのジョーイ・サンティアゴが適当に辞書を引いたところが「pixies」だったため。このバンドの正式名称は "Pixies in Panoply"であり、略してPixiesと読んでいる。
ピクシーズに影響を受けたバンドは数多く、ニルヴァーナのカート・コバーン、U2のボノ、ウィーザー、ブラー、レディオヘッド、ストロークス、the pillows、ナンバーガールなどが挙げられる。特にカート・コバーンがピクシーズを崇拝していたのは有名な話で、ニルヴァーナの代表曲ともいえる「スメルズ・ライク・ティーンスピリット」は、カート・コバーンがピクシーズの曲("Debaser"とも"WhereIs My Mind?"とも言われる)をコピーしている時に出来た曲だといわれている。

 

ニルヴァーナやナンバーガールといったバンドの特徴でもある、AメロやBメロは静かに、そしてサビ部分で絶叫というボーカルスタイルは彼らが発祥である。1曲1曲は短く、2分もない曲も多い。




・Throwing Muses

 



Throwing Musesはニューポートのバンドで、現在のオルトロックの源流を形成している。

 

同じ高校の同級生であり、異父姉妹でもあるクリスティン・ハーシュとタニヤ・ドネリーを中心に結成された。当初のバンド名は「Kristin Hersh and the Muses」だったという。その後ベーシストにエレイン・アダムデス、ドラマーにベッカ・ブルーメンが加入するが1983年に脱退。新ベーシストにレスリー・ランストン、新ドラマーにデヴィッド・ナルシーゾが加入した。


1984年に自主レーベルよりEP『Stand Up』をリリースしデビュー。その後バンドはアメリカのバンドとして初めて4ADと契約する。1986年にギル・ノートンプロデュースのセルフタイトルの1stアルバムをリリース。続けて1988年に2ndアルバム『ハウス・トルネード』をサイアー・レコードからリリース。1989年に3rdアルバム『Hunkpapa』を発表後、1990年にベーシストのランストンが脱退。新しくフレッド・アボンが加入し4枚目のアルバム『リアル・ラモーナ』を1991年にリリースするが、ドネリーがブリーダーズでの活動に専念するため脱退。


1992年にバンドは新ベーシストのバーナード・ジョージズを迎え5枚目のアルバム『レッド・ヘヴン』をリリース。アルバムには元ハスカー・ドゥのボブ・モールドがデュエット参加している[1]。1994年にハーシュはソロ・アルバム『Hips and Makers』を発表した。1995年発表の6枚目のアルバム『ユニヴァーシティ』の内容はプレスから賞賛されるが売れ行きは思わしくなく、その後サイアーを解雇される。

 

1996年に7枚目のアルバム『リンボー』をライコディスクよりリリース。1997年にバンドは解散し、ハーシュはソロ活動を本格化させる2003年にバンドは再結成を発表、同時期に8枚目のアルバム『スローイング・ミュージズ』をリリース。タニヤ・ドネリーもコーラスで参加した。2013年に10年ぶり9枚目のアルバム『Purgatory / Paradise』を発表した。 






・Guided By Voices

 




オハイオ州デイトン市の中学教師だったRobert Pollard率いるGuided By Voicesは、レコーディングに着手して以来大量の音楽を産み出してきた。

 

「ローファイ」というレッテルを貼られたおかげで、彼らの音楽が売上を伸ばしたことは間違いないが、彼らがほとんどの作品を安い機材で録音してきたのは、趣味の問題であると同時に予算の制約があったからだ。メジャー・レーベルと協力関係にあるインディー・レーベルから作品を発表するようになってからも、彼らは一貫してこの「ローファイ」というコンセプトにこだわっている。彼らのようなアンダーグラウンドのはぐれ者にとって、メインストリームでの成功は価値がないようだ。Pollardはつねに、現実のロックスターであるより、彼の空想のなかでロックスターであることを選んできた。

 

『Box』というそっけないタイトルの5枚組ボックス CDは、彼らの初期の作品を収録している。しかし、ほとんどの曲は、焦点が定まっていない。『King Shit And The Golden Boys』と題された付録CDは未発表作品を集めたものだが、このカルトバンドの未発表曲を聴きたいと待ち焦がれていたファンがそれほど大勢いたのだろうか。


なんらかの意味でPollardがポップの高みに達したのは、'92年の『Propeller』からである。このアルバムの数曲は、暗闇の前方に'60年代のハーモニーとパワーポップへの圧倒的な愛情が垣間見える。彼らは(と言っても、正式メンバー以外につねに何人かの酔っ払いが群がっているようだ・・・)『Vampire On Titus』をリリースすべくScat Recordsと契約した。しかし、そのように認知されただけで、Pollardは動揺した。彼は再び、AMラジオの夢の国というお得意のコンセプトで曲を作り出した。

 

それ以後Guided By Voicesがリリースした数枚のアルバムは、'60年代ポップ世界の再構築に関心がある者にとって貴重である。全米ツアーでの、Pollardと仲間たちは、歌の合間にビールを飲んでいた。ライヴが2時間に及ぶ頃には、彼らはたいてい出来あがっていて、最後にPollardが観客からリクエスト曲を募ったり、その場で曲を作ったりしていた。'96年には、Pollardと(元)メンバーのTobin Sproutがそれぞれソロアルバムを発表。'97年、Pollardは、クリーヴランド出身のロッカーCobra Verdeを新メンバーに迎え、『Mag Earwhig!』をリリースした。バンドは昨年、最新アルバム『Nowhere To Go But Up』をリリースし、変わらぬ健在ぶりをみせた。

 

 

 

 

・Superchunk

 


        

1989年にノースカロライナ州チャペル・ヒルで結成されたスーパー・チャンクは、マック・マコーガン(ギター、ヴォーカル)、ジム・ウィルバー(ギター、バッキング・ヴォーカル)、ジョン・ウースター(ドラムス、バッキング・ヴォーカル)、ローラ・バランス(ベース、バッキング・ヴォーカル)の4人組。

 

1989年に最初の7インチをリリースして以来、スーパーシャンクは、初期のパンク・ロック・ストンプ、キャリア中期の洗練された傑作、瑞々しく冒険的なカーブボールなど、さまざまなマイルストーンアルバムを発表してきた。 

 

Superchunkはピクシーズとともに90年代以降のオルタナティヴロックに強い影響を及ぼしている。また2000年代以降のメロディック・パンクバンドにも影響を及ぼしたという指摘もある。彼らの音楽の中には、現在のアメリカーナ、パンク、そしてロック、ポップに至るまですべてが凝縮されている。


 

 

・Dinosaur Jr.

 


 

 

Dinosaur Jrは1983年、マサチューセッツ州アムハーストにて、Deep Woundというハードコア・パンクバンドをやっていたJ Mascis(G/Vo)と、ハイスクールのクラスメートだったLou Barlow(B)により結成され、その後すぐに、Murph (Emmet Patrick Murphy/Dr)がメンバーに加わった。


Country Joe and The Fish、Jeffeson Airplaneの元メンバーのバンドがThe Dinosaurと名乗っており、法に抵触する可能性があったため、デビューアルバムである『Dinasour』(1985年)を発表後すぐに、バンド名を変えている(少なくとも1987年までは、Dinosaurの名前を使っていた。

 

1987年、彼らはSonic YouthからのすすめでSST Recordsと契約、彼らのベスト作とされている『Your' re Living All Over Me』をリリースした。次の年には『Bug』を発表する。イギリスで『Bug』は、Sonic YouthやBig Black、Butthole SurfersらのレーベルであったPaul SmithのBlast First Recordsからリリースされた。この時期、彼らは大音量のライブをやるバンドとして知られるようになった。

 

大きな商業的な成功はなかったものの、カルト的な熱狂を獲得していた。『Freak Scene』と『Just Like Heaven』の成功は、Sonic YouthやNirvanaと仲がよかったことも相まって、結果的にWarner Brothersとの契約に結びつくことになった。彼らの曲はギターノイズに包まれ、メロディックで構成も単純であったため、同時代のPixiesとともに、その後に登場してくるNirvanaに大きな影響を与えている。以後、『Green Mind』でようやく商業的な成功を収める。


面白いことに、ルー・バーロウとJ・マシスの音楽性はすべて1987年の「Little Funny Things」で完成されており、のちの商業的な成功はその付加物でしかないように思える。バンドの音楽は当初サイケデリックロックやフォークの融合という形で登場したが、それをよりスタンダードな音楽性へと変化させていった。


「Green Mind」の商業的な成功はその時代のグランジの影響下にあった。もちろん、「Flying Cloud」でのインディーフォークのアプローチや、「Muck」のサイケとファンク、そしてカレッジロックの融合というセンスの良さがあるとしてもである。それでも、やはり、Jマシスのギタリストとしての凄さは最初期や90年代にかけての音源にはっきりと見出すことが出来る。



                                  

 


・Built to Spill

 



                
Built to Spillはアイダホ州ボイシを拠点に活動するインディーロックバンド。キャッチーなギター・フックとフロントマンDoug Martschのユニークな歌声で有名だ。


元Treepeopleのフロントマンだったダグ・マートシュは、1992年にブレット・ネットソン、ラルフ・ユーツと共にビルト・トゥ・スピルを結成。GBVと並んで、オルタナティヴロックの源流にあるバンド。

 

当時のSpin誌のインタビューで、ダグ・マートシュは「アルバムの度にバンドのラインナップを変えるつもりだった」と語っている。


マートシュは唯一のパーマネント・メンバーだった。バンドのファースト・アルバムバンドのファースト・アルバム『アルティメット・オルタナティヴ・ウェイヴァーズ』(1993年)の後、ラインナップを変えるという考えは真実となった。ネッツォンとユッツの後任にブレットNelson(Netsonではない)とAndy Cappsに交代し、1994年の『There's Nothing Wrong With Love』をリリースした。コンピレーション・アルバム『The Normal Years、 というコンピレーション・アルバムが1996年にリリースされた。1995年のアルバム録音の合間に、バンドは ロラパルーザ・ツアーに参加。マーシュは1995年、ビルト・トゥ・スピルとワーナー・ブラザースと契約。


1997年、『Perfect From Now On』で初のメジャー・レーベルからのリリースを果たした。この時、バンドはマートシュ、ネルソン、ネットソン、スコット・プルーフで構成されていた。Perfect From Now On』は批評家からも高評価を受け、ビルト・トゥ・スピルはアメリカで最もステディなインディーロックバンドのひとつとなった。

 



・Sebadoh




Dinosaur.Jrに在籍していたルー・バーロウとエリック・ガフニーとの宅録テープ交換から生まれたバンド。ダイナソー脱退後、ルーはSebadohを中心とするソロ活動に専念するようになった。

 

安い機材でのレコーディングにこだわり、PavementやBeat Happening同様に、ロー・ファイを確立した重要なバンドと言われている。80年代前半から後半の宅録テープをリリースした後、92年からSUB POPに在籍。ルーのワンマンバンドというわけではなく、ルー以外のメンバーの曲も多い。メンバーチェンジを繰り返しながらも4枚のアルバムをリリースしている。

 

ルー・バーロウはSentridoやFolk Implosion 、ソロ名義などSebadoh以外のプロジェクトでも活動的だった。Sebadohは2000年頃に終止符が打たれ、ルーは他のプロジェクトに力を注ぐようになった。

 

2005年にはDinosaur Jrが再結成、2007年にはエリックを含むオリジナルラインナップでのSebadohでツアーをすると宣言。現在、ルーのメインバンドはDinosaur Jrのようだが、合間を縫って様々な活動を展開中らしい。

 

 

 

・上記で紹介したバンドのほか、カレッジロックの最重要バンドとして、Soul Asylum、The Smithereens、Buffalo Tomが挙げられる。他にも米国のラジオではUKロックがオンエアされており、その中にはThe La's,The Smith,The Cureといったバンドの楽曲がプッシュされていた。



今週はかなり多くの注目のリリースがありました。マーキュリー賞の受賞者、リトル・シムズの前作アルバムに続くサプライズリリースを行い、ラップファンを驚かせました。さらにスウェーデンのポップスター、ザラ・ラーソン、ブライトンのポストパンクバンド、プロジェクターズ、スウェーデンのドローン・ミュージックの音楽家、カリ・マローン、そしてブルーノートからもジョエル・ロスという才覚のあるジャズマンの新作が登場しました。「Kerrang!」のカバーアートを飾ったハイパーポップ/ゴシックポップの新星、チェルシー・ウルフにも注目です。

 


 


Zara Larsson 「Venus」


スウェーデンのシンガー、ザラ・ラーションのポップはどこまで世界を席巻するのか。「Venus」の制作過程は2021年6月頃に始まり、ラーションは自身のソーシャルメディアを通じて「アルバム3番のスタジオに戻る」というキャプションとともに自身の写真を投稿し、新しい時代の始まりを予告した。


その投稿からほぼ1年後、NMEとのインタビューで、アーティストはポスター・ガールの後継作が半分完成していることを明らかにしただけでなく、このプロジェクトが2023年初めにリリースされることも明らかにした。彼女は、サウンドはまだポップが中心だが、少しダークさもあり、傷つきやすさや恋にまつわるテーマもあると付け加えた。


2022年6月8日、彼女はTEN Music GroupのCEOであるOla Håkanssonとの合意により、自身の全音楽カタログを正式に買い戻したと発表した。この発表はまた、Epic Records(アメリカ)およびSony Music(スウェーデン)との提携による自身のレコードレーベルSommer Houseの立ち上げと同時に行われた。


プレスリリースの中で、レーベルのディレクターとザラは、この契約についてそれぞれの考えを語っている。


「アーティストとしてブレイクする機会を与えてくれ、私のキャリアをスタートさせてくれたオラとTENのみんなに本当にありがとうと言いたい。TENの皆さんは、音楽業界の女性にとってとてもとても稀なこと、つまり自分のカタログを持てるということを実現させてくれています。そうなれば、私が自分のレコード会社を立ち上げるのも納得がいく。自分の将来と、ソニーとの継続的なコラボレーションがとても楽しみです」


「これは、ザラの音楽キャリアにおける自然でエキサイティングな展開です。私たちは10年以上一緒に仕事をしてきましたが、ザラは若いにもかかわらず、今日の国際的な音楽シーンで豊富な経験を持ち、定評のある国際的なアーティストです。ザラの音楽キャリアを追うのはとてもエキサイティングなことでしょう。私は彼女の幸運を祈るとともに、彼女がすべての音楽的夢を達成し、その素晴らしい芸術性を世界最大の舞台で披露することを確信している」



 

Steaming Link:

https://zaralarsson.lnk.to/VENUS_preorder 

 

 

 

Little Simz 『Drop 7』 EP



一昨年、マーキュリー賞を受賞したイギリスのラッパー、リトル・シムズが1年以上ぶりにEPをリリース。今週初め、彼女のインスタグラムでトラックリストとスニペットで「Drop 7」を予告していたが、7曲入りのフル・プロジェクトが今、私たちの手の中にあると、この新作を予告した。


常に2歩先を行く未来志向のラッパーは、常にサウンドを進化させ、プロジェクトの度にファンに予想外のものを提示している。


このEPでリトル・シムズは、彼女のトレードマークである内省的なリリックを、これまでの彼女の作品の中で最も実験的でクラブ・インフューズされたビートの迷宮に通している。このEPは、シムズが2021年のシングル「Rollin Stone」、2015年の「Time Capsule」、「Devour」などで過去に何度か一緒に仕事をしているプロデューサーのJakwobとのコラボレーションの成果である。


ペーシーでハードなオープニングの「Mood Swings」から、レゲトンにインスパイアされた「Fever」、ダークでささやくような「I Ain't Feeling It」まで、「Drop 7」の各トラックは独自のサウンド領域で独立している。


「Drop 7」に収録されている曲は、1曲を除いてすべて、ほとんど閉所恐怖症のような急速なプロダクションを特徴としている。シムズは、EPの最終トラックであるピアノを中心としたジャズ調の「Far Away」では、特別な繋がりを失ったことを嘆きながら、バターのようなヴォーカルにスポットライトを当てている。 

 


Steaming Link:

https://littlesimz.ffm.to/drop7



Kali Malone 『All Life Long』



スウェーデンの実験音楽家、カリ・マローンのニュー・アルバム『オール・ライフ・ロング』は、マローン作曲のパイプオルガン、聖歌隊、金管五重奏のための楽曲集で、2020年~2023年の作品。


合唱曲はマカダム・アンサンブルにより演奏され、エティエンヌ・フェルショーがナントのノートルダム・ド・L'Immaculée-Conception礼拝堂で指揮。金管五重奏曲をアニマ・ブラスがニューヨークのザ・バンカー・スタジオで演奏。ローザンヌのサン・フランソワ教会、アムステルダムのオルゴールパーク、スウェーデンのマルメ・コンストミュージアムで、カリ・マローンとスティーブン・オマレーが歴史的なミーントーン・テンパー式パイプオルガンでオルガン音楽を演奏。


カリ・マローンは、稀に見る明晰なヴィジョンで作曲を行う。彼女の音楽は忍耐強く集中力があり、潜在的な感情的共鳴を引き出す進化する和声サイクルを土台としている。時間は極めて重要な要素であり、持続時間や広がりへの期待を手放すことで、内省と瞑想の空間を見出すチャンスを与えてくれる。


彼女の手にかかると、何世紀も前のポリフォニックな作曲法を実験的に再解釈したものが、音、構造、内省の新しい捉え方への入り口となる。畏敬の念を抱かせるような範囲ではあるが、マローンの音楽で最も注目すべき点は、それが促す耳を澄ませることによってかき立てられる親密さ。


2020年から2023年にかけて制作された『オール・ライフ・ロング』では、2019年の画期的なアルバム『ザ・サクリファイス・コード』以来となるオルガンのための作曲を、マカダム・アンサンブルとアニマ・ブラスが演奏する声楽と金管のための相互に関連する作品とともに紹介している。


12曲の作品の中で、和声的なテーマやパターンが、形を変え、さまざまな楽器のために繰り返し提示される。それらは、かつての自分のこだまのように現れては消え、見慣れたものを不気味なものにしていく。


ベローズやオシレーターではなく、ブレスによって推進されるマローンの合唱と金管楽器のための作品は、彼女の作品を定義してきた厳格さを複雑にする表現力を持ち、機械的なプロセスによって推進されてきた音楽に叙情性と人間の誤謬の美しさをもたらす。15世紀から17世紀にかけて製作された4つの異なるオルガンで、マローンがスティーヴン・オマリーの伴奏を加えて演奏する。

 


Steaming Link:

 

https://kalimalone.bandcamp.com/album/all-life-long 



Helado Negro 「Phasor」


『PHASOR』はランゲの最もタイトなコレクションで、深く、雰囲気があり、綿密に実行されている。 2019年の『This Is How You Smile』では、より前面に出たドラムとベース、集中したグルーヴを取り入れた。  


2021年のアルバム『Far In』では、部屋の向こう側ではなく、Zoomを通して母親と話すという隔離された状態に焦点を当てた。  『PHASOR』は、再び外に出ることへのオマージュである。  太陽がどんな風に感じるかを思い出し、肌を温めることで、人生を取り戻すためのレコードなのだ。


PHASORの種の一部は、2019年のランゲの39歳の誕生日に、イリノイ大学にあるサルバトーレ・マティラーノのSAL MARマシンを5時間見学した後に植え付けられた。このマシンは、ヴィンテージのスーパーコンピューターの頭脳とアナログオシレーターでジェネレーティブに音楽を作り出す複雑なシンセサイザー。  サウンド・シーケンスに無限の可能性を生み出すことができる。  「私はそれに魅了されました」とランゲは振り返る。SAL MARの経験がPHASORの基礎となった。サルマーの経験は、ランゲに自分自身について多くのことを教え、彼のクリエイティブ・プロセスの中心となった。  


「何が私を刺激するのか、特別な洞察を与えてくれた」とランゲは説明する。  「プロセスと結果における絶え間ない好奇心の追求なんだ。  曲は果実だけれども、私は土の下にあるものが大好きなのさ。 目に見えない魔法のようなプロセス。誰もがそれを見たいと思っているわけではないからだ。ただ果実を求める人もいる。 私はそうだ。 私は実も育てたいんだ」


ファー・インの後、ランゲはノースカロライナ州アッシュビルに移り住み、雲母が点在する結晶のような山々、野生のブルーベリーの茂み、そして漆黒の土が常に表面を覆っている風景が制作に欠かせないものとなった。  このコレクションは彼の妻でアルバム・アート・ドローイングを手がけたコラボレーター、クリスティ・ソードのスタジオの向かいにある彼のスタジオで制作された。

 



Steaming Link:

https://heladonegro.ffm.to/phasor 

 

 

Madi Diaz 「Weird Faith」


『Weird Faith』で、マディ・ディアスは、「ほんの少しの時間と空間があれば、どんなに揺るぎない感情さえも開かせる」(ピッチフォーク)。ディアスにとってその答えは、不安を探ることだった。


ディアスは2000年代後半からレコードを作り、プロとして曲を書いてきたが、2021年の『History Of A Feeling』をリリースするまで、彼女が広く知られるようになったと感じることはなかった。デビューアルバムではなかったが、確かにそう感じた。彼女は昼と夜のテレビデビューを果たし、2014年以来のソロツアーに乗り出し、ワクサハッチーやエンジェル・オルセンのツアーをサポート、レコードでは彼らとコラボレートした。ハリー・スタイルズは、ディアスを北米のアリーナやスタジアムでの前座に抜擢し、彼女の魅惑的なライブ・ショーに魅了され、彼のツアー・バンドのメンバーとして、ヨーロッパとイギリス全土で彼と共に歌い、さらに様々な都市でショーの前座を続けるよう依頼した。国際的なツアーを3ヶ月間行った後、ディアスはナッシュビルに戻り、ニュー・アルバム『Weird Faith』のリリースに向けて準備を進めている。

 

前作『History of a Feeling』でディアスは、長い交際の解消と微妙な別れに直面した。「あのアルバムを書くのは、感情のダーツ盤にダーツを投げるようなものだった」と彼女は言う。自分自身の悲しみを処理すること以外には何の目的もなく、自分が感じていることの核心に近づこうとしていた。その感情を消費するために外に出すのは怖かったが、ディアスはこのレコードをツアーに出す過程で不思議な癒しを感じた。ファンは彼女のセットに合わせて叫び、ウェンブリー・スタジアムのような場所で自分の言葉が反響してくるのを聞く力は、彼女を肯定するものだった。「女の子たちが思い切り大きな声で叫んでいるのを聞いて、部屋に立っていると力が湧いてくるの」と彼女は言う。


ケシャやリトル・ビッグ・タウンなどのアーティストのために曲を書く一方で、ツアー中の時間は、ディアス自身のプロジェクトや物語に対する興奮を新たにした。  

 

『Weird Faith』では、ディアスは再びロマンチックなパートナーシップについて考察している。今回は誰かを好きになること、そして新しい関係が引き起こす終わりのない自問自答について歌っている。


「このアルバムは、愛によって本当に火傷を負った後、勇気を出して再挑戦することを歌っている。勇気を出して、もう一度やってみること。そうやって勇気を出そうとするのは、私たちの本性なの。交通事故が起こるのは見えている。そうならないかもしれないけれど、とにかくそれに備えようとするの」


新しい恋の渦中で、彼女は繰り返し同じ疑問にぶつかった。「私はこの準備ができているのだろうか?自分にできるのだろうか?良いことと悪いことの区別がつく自分を信じていいのだろうか?

 

『Weird Faith』を書いているとき、ディアスは昔からソングライターを悩ませてきた問題に直面した。感傷的になったり、陳腐になったり、偽物になったりせず、ロマンスや愛について書くにはどうすればいいのか? ディアスにとってその答えは、恋に落ちるということが、屈辱的とまではいかずとも、いかに不安を誘うものであるかを探求することだった。『Weird Faith』はこれらの疑問に率直に応えている。ディアスはアルバムについて、「新しい恋愛の記録であると同時に、自分自身との新しい恋愛の記録でもある」と語っている。このアルバムは、あなたが「I Love You」と言ってから、相手が言い返す(あるいは言い返さない)までの合間に存在する。

 

 

 

Streaming Link:

https://madidiaz.ffm.to/weirdfaith



Projector 「Now We When Talk Violence」




2018年の結成以来、PROJECTORは、頑なに独自の道を歩んできた。フックのあるオルタナティヴロックに鋭利なインダストリアル・ドラム・マシン、そしてロンドンのシーンに触発された熱狂的なポストパンクにみずみずしいメロディを持ち込む。バンドはサウンドの幅広さとポップに対する実験的な姿勢をデビュー時から保持している。トリオはロック界の巨人、クレオパトリック(Cleopatrick)とヨーロッパツアーを行い、BBCラジオ6のスティーヴ・ラマック/エイミー・ラメの番組でオンエアされるようになった。それはこのクラフトに対する自信の賜物だった。


PROJECTORのサウンドを聴けば、現代のポストパンクがどうあるべきなのか、そして何をアウトプットすべきかを熟知しているかは瞭然だ。表現の微妙なニュアンス、現代生活、精神、政治の真の狂気と厳しさについて言及している。(彼らは歌詞について話したがらない)。レコーディングに対して一貫した姿勢を貫いてきたPROJECTORはこの数年、独力でプロデュースとレコーディングを行うことで、クリエイティブなアウトプットの手綱をしっかりと握っている。


PROJECTORのデビューアルバム「NOW WHEN WE TALK IT'S VIOLENCE」は2月9日に自主レーベルから発売。三者三様の芸術的な錯乱、鋭い攻撃性を持ち寄り、そして、バンドがメインストリームのロック・シーンに殴り込みをかける。ポップなフックの間を軽やかに行き来する。


ある時は、ジョイ・ディヴィジョン/インターポールを想起させるダークでインダストリアルなブルータリズムに染め上げられたかと思えば、またある時は、Squid風味のハイパーアクティブなラントポップのスペクタクルを織りなす。アルバムのクライマックスは、ドラムマシーンとみずみずしいハーモニーで歪んだアシッドに侵食されたカントリーに傾き、ラナ・デル・レイ風味のコーラスに乗せ、『Incesticide』時代のパラノイアなグランジ・ロックへと飛躍してゆく。


男女の双方のメインボーカルの個性が苛烈なポストパンク性、それとは対照的な内省的なオルトロック性を生み出す。ボーカルにはリアム・ギャラガーのようなフックと親しみやすさがある。かと思えば、対照的にアンダーグラウンドなカルト的な雰囲気を擁する。それはロックの持つ原初的な危険性である。なにより、バンドのテンションが、ピクシーズの初期のような奇妙な熱気を持ち、曲全般をリードする。それは彼らのライブのリアルなエネルギーを力強く反映している。

 


 

Steaming Link:

https://www.projectorprojector.co.uk/



Sonic Youth 「Wall Have Eyes」


このレジェンダリーなブートレグは、1985年のエポック的なツアーで行われた3つの重要なイギリス公演の録音をもとに制作された。1983年に英国を訪れたソニックユースは、耳を劈くような音量で会場をクリアにし、音楽プレスから賞賛を浴びた。2年後に再び訪れた1985年のツアーは、ソニック・ユースと英国との関係を確固たるものにし、永続的な影響力を持つことが証明された。


2月9日に発売される「Walls Have Ears」は、様々なブートレグで長期間入手困難だったライヴ音源を、原音に忠実に再現している。ソニック・ユースのドラマー、スティーヴ・シェリーがテープの入手に協力し、完全な形でリリースされることになった。


「Walls Have Ears」は、二枚組のヴァイナル、CD、カセット、デジタル・ダウンロードで入手可能だ。ファンに人気の「Expressway To Yr.Skull」が収録。長らくソニック・ユースのライヴ・セットで戦力となってきたこのヴァージョンは、荒々しく、縛られておらず、完全にストレートだ。





Streaming Link:

https://sonicyouth.bandcamp.com/album/walls-have-ears




Chelsea  Wolfe 「She Reaches Out To She Reaches Out To She」

 



ゴシック的な雰囲気を放つハイパーポップのニューフェイス、チェルシー・ウルフをご存じか。ウルフは、マルチ・インストゥルメンタリストのベン・チショルム、ドラマーのジェス・ゴウリー、ギタリストのブライアン・トゥーラオといういつものコラボレーターと曲作りに取り組み、2022年初頭にはプロデューサーのデイヴ・アンドリュー・シテックも参加した。ショーン・エヴェレットがミックスを担当し、エンジニアのヘバ・カドリーがマスタリングを行った。


アルバムについてウルフは、「過去の自分が現在の自分に手を差し伸べ、未来の自分に手を差し伸べて、変化、成長、導きを呼び起こすというレコード。自分を縛り付けている状況やパターンから解放され、自己啓発するための物語だ。自分らしさに踏み出すための招待状」と述べている。


チェルシー・ウルフの最新のソロ・スタジオ・アルバム『Birth of Violence』は2019年にリリースされた。2022年にはA24の映画『X』のサウンドトラックを手がけた。ダークなハイパーポップの新境地を切り開く。 
 
 


Streaming Link:




Joel Ross 「nublues」



「ナブルス」の起源は2020年に遡る。コヴィッド・パンデミックの最中、ライブ・パフォーマンスが閉鎖されたため、ジョエル・ロスは学位を取得するためにニュー・スクールに戻った。


アルト・サックス奏者のダリウス・ジョーンズが教えていた授業のひとつで、彼は学生にブルースの歴史を掘り下げるよう促した。


ロスは、ブルースとはどういうものなのか、単なる12小節の形式ではないと思い知らされた。単なる12小節の形式ではなかった。「これは精神やエネルギーのようなものなんだ」とロスは言う。「感情であり、表現だ。でも私たちがすでに発展させてきたリズムのアイデアに忠実でありたいとも思っている」


アルバムのリード・シングルとしてリリースされたタイトル曲「nublues」は、ブルースの精神とフリー・ジャズの奔放さを融合させている。「私はバンドにどう演奏するかは指示しない」とロスは言う。「僕が彼らに言っているのは、常につながっていること、そして僕らがやることすべてを互いに関連させることだ。そして、それがどうであれ、ブルースを演奏することだ」


そう考えると、「nublues」はさまざまな入り口がある広大なレコードであり、自分で冒険を選ぶように誘う。このLPで何を伝えたいのかと聞かれると、ロスは躊躇したのちにこう語った。「私の個人的な体験が、人々がそれを体験しているときに考えていることであってほしくないのです」と彼は言う。「音楽を聴きに来て、それぞれ自分のレンズを通して解釈してほしいんだ」


「ブルースについて学び、ブルースの歴史を理解し、バンドのサウンドとバンド構成を発展させることに集中する旅を楽しんでいた。私にとっては、あらゆる情報に触れ、それがどうあるべきかを見極めることから生まれる旅のようなものだった。それは常に続いている。これまでと同じことを続けてきて、それがどのように変化してきたかを知るためのスナップショットなんだ」

 




Streaming Link:

https://joelross.lnk.to/nublues

 

Donny Hathaway

 

現代のラップ/ヒップホップやネオソウルが政治的な主張、よりミクロな視点で見るなら、内的な問題の主張という内在的なテーマがあるように、R&Bミュージックが政治的な主張を持たぬ時代を見つけるほうが困難かもしれない。そもそもR&Bに関しては、公民権運動やブラックパンサー党の活動等の前の時代からブラックミュージックという音楽に乗せてミュージシャンが何らかの主張を交えるということは、それほどめずらしくはなかった。それは基本的に社会的な主張が許されなかった時代であるからこそ、有意義なメッセージを発信することが出来たのである。

 

R&Bは80年代に入ると、政治的な主張性における首座を、アイス・キューブを筆頭とするギャングスタ・ラップ勢に象徴される西海岸のグループに譲り、白人のロックやAORとの融合を試みた通称”ブラコン”(ブラック・コンテンポラリー)というジャンルが主流派となっていった。現地名ではUrban Contemporary(アーバン・コンテンポラリー)とも呼ばれている。


R&Bで「アーバンなサウンド」とよく評されるのは、このジャンルの余波を受けた評論用語と思われる。モータウン・サウンド等に象徴されるノーザン・ソウル、そして公民権運動に象徴されるニューソウルと呼ばれる、60年代と70年代にかけての動きの後に、黒人としての主張性が薄められ、ポピュラーなサウンドが主流となっていったのが80年代のR&Bであったらしい。

 

その時代、R&Bは死語になりつつあったが、このジャンルを節目に復活する。80年代のR&Bは日本では「ブラコン(ブラック・コンテンポラリーの略)」という名称で親しまれたのは有名で、スティービー・ワンダー、マイケル・ジャクソン、クインシー・ジョーンズ、マーヴィン・ゲイ、ダイアナ・ロスを始めとするミュージシャンがその代表的なアーティストに挙げられる。

 

上記のミュージシャンに共通するのは、それ以前の時代にジャクソン5としてニューソウルの運動の中心的な存在であったジャクソンを除いては、ポピュラー音楽との融合というテーマを持っていたことである。それは後にAORやソフト・ロックと合わさり、より軽やかなR&Bという形でメインストリームを席巻する。これらをプロモーションとして後押ししたのはMTVで、この放送局は24時間流行りの音楽をオンエアし続けていた。

 

やがて、R&Bはワンダーをはじめグラミー賞に多数のシンガーを送り出し、文字通り、スターシステムの中に組み込まれていったのは周知の通り。以後、R&Bはチャカ・カーンに代表されるようにプロデュース的なサウンドに発展し、また、90年代に入ると、ヒップホップとクロスオーバーが隆盛となる。その合間の世代にはDR. Dreなどの象徴的なミュージシャンも登場した。

 

2020年代のソウル・ミュージックを見ると、AORやジャズの影響を交えたR&Bが登場している。黒人のミュージシャンのみならず白人のアーティストにも好意的に受け入れられ、その影響を絡めたネオソウルというジャンルが2020年代のメインストリームを形成している。70、80年代のR&Bと現代のネオソウルは上辺だけ解釈してみると全然違うように聞こえるかも知れないが、実はそうではない。ブラックコンテンポラリーと現在のネオソウルの相違点を挙げるなら、現代的なポップス、テクノ、ハウスといったクラブミュージックの影響が含まれているか否かの違いしかない。そして、現代的なポップスとは、すでにハサウェイやチャカ・カーンが代表曲「Feel For You」で明示していたプロデュース的な視点を持つサウンドなのである。

 

リバイバルが発生するのは、何もロックやパンクだけにはとどまらない。スタイリッシュでアーバン、比較的、ライトな印象のあるブラック・ミュージックのジャンルが、2020年代中盤のR&Bに重要なエフェクトを及ぼす可能性は少なくない。ジェシー・ウェアをはじめとするアーティストにディスコサウンドの影響がハウスやテクノとともに含まれているのと同様である。

 

今回、ご紹介するブラック・コンテンポラリーの入門編とアーティストは、その最初期のウェイブを形成した先駆者で、80年代のR&Bシーンの音楽市場の土壌を形成した。以下のガイドは、アーバンなソウルとはどんな感じなのか、その答えを掴むための最良のヒントになるはずである。よりコアなブラコンのディスクガイドに関しては専門的な書籍を当たってみていただきたい。

 

 

Stevie Wonder  『Song In The Key Life』 1976




ブラックコンテンポラリーの先駆者として名高いのがご存知、スティービー・ワンダーである。モータウン時代はもとより、70年代のニューソウル運動を率い、現在でも大きな影響力を持つ。70年代のブラック・ミュージックの思想的な側面を削ぎ落とし、それらをライトで親しみやすい音楽にしたことが、ブラック・コンテンポラリーの最大の功績と言われている。

 

スティーヴィー・ワンダーといえば、ソウルバラードの達人であり、ピアノの弾き語りのイメージが強いが、このアルバムではファンクやホーンをフィーチャーしたご機嫌なファンクソウルサウンドが主体である。それはハサウェイと同じようにフュージョンジャズの音楽を取り入れている。代表曲「Sir Duke」はご機嫌なホーンのフィーチャーがマイルドなワンダーと声と見事な合致を果たしている。「I Wish」ではのちにジャクスンが80年代に試みたブラコンの商業的なイメージの萌芽を見出せる。80年代のメインストリームのR&Bの素地を作ったアルバムと見ても良さそうだ。

 

 

 


Donny Hathaway 『Extension Of a Man』 1973

 

 

ブラック・コンテンポラリーという趣旨に沿った推薦盤としては、『Robert Flick Feat. Donny Hathaway」が真っ先に挙げられることが多いのだが、ダニー・ハサウェイはやはりこのアルバムで、クロスオーバーの先駆的なアルバム。映画のような壮大なストリングスを交えたオープニング、ジャズやニューソウルの影響を交えた「Someday We'll All Be Free」はソウルミュージックの歴史的な名曲とも言えるだろう。


ファンク、フュージョン・ジャズの影響はもとより、このアルバムには、ブラジル音楽等の影響も取り入れられている。その合間に導入される現在のサンプリングやミュージックコンクレートのような手法を見る限り、現代の多くのアルバムは、今作の足元にも及ばない。発想力の豊かさ、卓越した演奏力、圧倒的な歌唱力、どれをとっても一級品であり、現在のデジタルの音質にも引けを取らない作品。ハサウェイの最高傑作と目されるのも頷けるR&Bの大作である。

 

 

 

 

Quincy Jones 『The Dude』 1981


アメリカのミュージシャン、プロデューサーのクインシー・ジョーンズによる1981年のスタジオ・アルバム。ジョーンズは多くのスタジオ・ミュージシャンを起用した。元々、トランペット奏者であったクインシーはジャズ、ソウル、ポップス、ロックと多角的な音楽性をもたらした。70年代には盛んだったクロスオーバーを洗練された音楽性へと昇華させたのがクインシーだ。元々プロデューサーとして活躍していたクインシーこそ、ブラコンの仕掛け人であるという。


『The Dude』はディスコサウンドの影響を残しながら、ポピュラー音楽寄りのアプローチをみせている。「Ai No Corrida」はどれくらいラジオやテレビでオンエアされたか計測不可能である。クインシーはこのアルバムを通じて、ロックやファンクを視点にして、グルーブ感のあるダンサンブルなソウルを追求している。AOR/ソフト・ロックに近いバラード「Velas」も必聴だ。

 

リード・シングル「Ai No Corrida」のダンス・エアプレイが多く、トップ40で28位、UKシングル・チャートで14位を記録。イギリスで11位を記録した「Razzamatazz」(パティ・オースティンがヴォーカル)も収録。同国におけるジョーンズのソロ最大のヒット曲となった。ルバム・オブ・ザ・イヤーを含むグラミー賞12部門にノミネートされ、第24回グラミー賞では3部門を受賞した。


 

 


 

Marvin Gaye 『Midnights』 1982


それまでモータウンの看板アーティストであった、マーヴィン・ゲイは、レーベルとの関係が悪化し、制作費を捻出できなったことから、いわゆるバンド主体のアプローチとは別のシンセ主体の音楽性へと突き進んだ。マーヴィンは、その後、CBSからの提案を受け入れ、コロムビアから三作のアルバムのリリースの契約を交わした。モータウンとの距離を置いたことが良い影響を及ぼし、ノーザン・ソウルから距離を置いたアーバンなソウルを生み出す契機となった。

 

享楽的ともいえるアーバンソウルの音楽には以前のマーヴィンのソウルから見ると、軽薄なニュアンスすら感じられるかもしれないが、レーベルとの契約の間で揺れ動いていたのを見ると、致し方無い部分もある。それ以前に対人のアルバムを制作したために、ファン離れを起こしていたマーヴィンはファンを取り戻すために、メインストリームの音楽を録音しようとした。前作『In Our Lifetime』のように内面に目を向けるのではなく、商業的なサウンドを追求することにした理由について、「今を逃すわけにはいかない。ヒットが必要なんだ」と語っていた。


 

 


Michael Jackson  『Off The Wall』 1971


 

 1979年の最大のベストセラーであり、ブラックコンテンポラリーの象徴的なアルバムと言われている。ソウルミュージックの評論家の中には、『Thriller』よりも高い評価を与える方もいるが、まったくの同意である。というか、マイケル・ジャクソンの最高傑作はこのアルバム。

 
『オフ・ザ・ウォール』(Off The Wall)は、1979年に発売されたマイケル・ジャクソンの5作目のオリジナル・アルバム。『ローリング・ストーン誌が選ぶオールタイム・ベストアルバム500』(2020年版)に於いて、36位にランクイン。


1979年、初めてクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎えて制作された。エピック・レコードからは初、モータウン・レコード時代を含めた通算では5作目のソロ・アルバム。



それまでのマイケルのソロ・アルバムは、制作サイドが主導して作られたもので、マイケルは用意された曲を歌うだけだったが、本作ではクインシーが主導権を持っていたものの、マイケルの自作曲やアイデアも随所に入れられている。ロッド・テンパートン、ポール・マッカートニー、スティーヴィー・ワンダーからの楽曲提供、バックの演奏もクインシーの息のかかった一流ミュージシャンを起用するなど、アルバムのクオリティがそれまでと比べて格段に洗練された。このアルバムから真の意味でのマイケルのソロ活動が始まったと言って良く、「『オフ・ザ・ウォール』こそ、マイケルの本当の意味でのファースト・アルバム」と言う人もいる。 




 


Whitney Houston 『Whitney Houston』 1985

 


なぜ、このアルバムを入れるのかというと、R&Bやポピュラー音楽としての影響力はもとより、現在のシンセ・ポップというジャンルにかなり深い影響を及ぼしている可能性があるということ。ホイットニー・ヒューストンは80年代の最高の歌手の一人であるが、このアルバムは基本的にはポピュラーアルバムで、ディープなソウルファンには物足りなさもあるかも知れない。


ただ、ポップスにソウルの要素をさりげなくまぶすというセンスの良さについては、現代のミュージシャンにとってヒントになりえる。アーバンソウルの都会的な雰囲気や、同年代に、ジョージ・ベンソンが試みた近未来志向のポップスという要素も散りばめられている。80年代の懐メロという印象があるかもしれないが、ケイト・ブッシュの再ヒットなどを見る限り、むしろ、現在こそ、ホイットニー・ヒューストンの再評価の機運が高まる可能性も予想される。

 

AOR/ソフト・ロック志向のR&Bポップスの名盤という意味では、ホイットニーは現代のリスナーの耳に馴染むようなアーティストと言えるのではないか。なぜなら現代のミュージックシーンはAORが重要視されているからである。ファルセットの美しさに関しては不世出のシンガーである。人を酔わせるメロディーとはいかなるものなのか、その模範的な事例がここにある。


 



Diana Ross 『Diana』 1980

 

 


 

シュープリームスを離脱後、ダイアナ・ロスはソロアーティストとして「Ain't Know Mountain High Enough」等、複数のヒット作に恵まれた。70年代には低迷期があったというダイアナ・ロスであるが、ナイル・ロジャースがプロデュースした『Diana』で第二の全盛期を迎える。反ディスコの気風の中、制作されたというが、その実、ファンクやディスコの影響も取り入れられている。それがロスの持つスタイリッシュかつアーバンな雰囲気と一致した一作だ。

 

 TV Oneの『Unsung』のエピソードでナイル・ロジャースは、曲の大半はロスとの直接の会話の後に作られたと語った。彼女はロジャースとバーナード・エドワーズに、自分のキャリアを "ひっくり返したい"、"もう一度楽しみたい "と言ったと伝えられている。結果、ロジャースとエドワーズは 「Upside Down」と 「Have Fun (Again)」を書いた。

 

クラブでダイアナ・ロスの格好をした何人かのドラッグ・クイーンに出くわしたロジャースは、「I'm Coming Out」を書いた。My Old Piano」だけが、彼らの通常の曲作りのプロセスから生まれた。「Upside Down」は全米チャート首位を獲得し、「I’m Coming Out」も5位以内にチャートインした。ロスの80年代のキャリアを決定づける傑作と言っても良いかもしれない。


 

 

Chaka Khan 『I Feel For You』 1984


 

 

今聴いても新鮮な感覚を持って耳に迫るチャカ・カーンの『I Feel For You』。カーンはルーファスのフィーチャリング・シンガーとして、70年代にヒットを飛ばしていた。ダニー・ハサウェイと同じようにゴスペルにルーツを持ちながらも、それをあまり表に出さず、叫ぶようなボーカルを特徴とするカーンのボーカルスタイルは70年代の女性シンガーに多大な影響を与えた。『I Feel For You』はプリンスのカバーで、スティーヴィー・ワンダーのハーモニカをフィーチャーしている。チャカ・カーンにとっての最大のヒット・ソングとなった。現在のプロデュース的な視点を交えたポップスに傾倒したR&Bのアルバムとして楽しむことが出来る。


現在、チャカ・カーンはローリングストーンのインタビューに答え、ツアーの引退を表明し、ガーデニングをしながら悠々自適の生活を送っている。単発のライブに関しては行う可能性があるという。





George Benson 『While The City Sleeps』 1986

 


ジョージ・ベンソンはソウル・ジャズのオルガン奏者、ジャック・マクダフとのバンドを経たギタリストで、76年にはフュージョンの先駆けのような曲「Breezin」を制作した。だが、この年代にはスティービー・ワンダーとダニー・ハサウェイの影響を受け始め、ブラックコンテンポラリーの道に入っていくことになる。

 

1986年のアルバム『While The City Sleeps』は驚くほどライトなポップで、アーティストのイメージを覆す。AOR/ソフト・ロックに、ベンソンが傾倒したことを裏付ける作品である。その中にはこのジャンルの中にある近未来的なシンセ・ポップの影響も伺い知ることが出来る。ジョージ・ベンソンというと、渋いソウルというイメージがあるが、それらのイメージを払拭するような作品である。この年代、前のニューソウルの時代から活躍していたシンガーの中で、最も時代に敏感な感覚を持つミュージシャンはこぞって、ロックやポップスとのクロスオーバーを図っていたことがわかる。今聴いても洗練されたポピュラー・アルバムと言えるのだ。 


 

 



Lionel Ritchie 『Dancing On The Ceiling』 1986



 

コモドアーズのメンバーでもあり、後にソロアーティストとして、そしてパラディ・ソウルの象徴的なシンガーに挙げられるライオネル・リッチー。彼の全盛期を知らない私のようなリスナーにとっては、ジャクソンやスティーヴィーと共演した「We Are The World」のイメージの人という感じだ。どうやら、リッチーが歌手としての実力に恵まれながらも、いまいちコアなソウルファンからの評価が芳しくないのは、白人の音楽市場に特化したことが理由であるらしい。


ダニー・ハサウェイのような黒人としてのアイデンティティ云々という要素は乏しいが、現在、メロウなポップスやAORというジャンルが取りざたされるのを見ると、今、まさに聴くべきアーティストなのではないかというのが印象である。確かにヒット曲でさえもその曲調はいくらか古びてしまったが、今なお彼の卓越した歌唱力、メロウな音の運びは現代的なリスナーにも親しまれる可能性を秘めている。『Can’t Slow Down』とともにリッチーの代表作に挙げられる。

 





Prince  『1999』  1982

 


 

プリンスといえば真っ先に『Purple Rain』のヒットにより、スターミュージシャンの仲間入りを果たした。ノーザンとサザン、サウスで別れていたR&Bの勢力図をスライ・ザ・ファミリーとともに塗り替えた。彼は10代の頃からすでにバンドにおいて、ダンスソウルの音楽性、そしてマルチインストゥルメンタリストとしての演奏力に磨きを掛けてきたが、その後のレコード契約、ひいてはスターミュージシャンとしての道のりはある意味では、付加物のようなものだったと思われる。


革新的とされたファンク・ソウルやシンセサイザーをフィーチャーしたスタイルは、それ以前の80年代にすでに行われていたものだったというが、彼のサウンドはエキセントリックかつエポックメイキングであるにとどまらず、現在のハイパーポップやエクスペリメンタルポップというジャンルの先駆者である。つまり、R&Bというのはプリンスにとって1つの装置のようなもので、その影響をもとに、様々な要素を取り入れ、それらの実験的でカラフルなイメージを持つポップスとして組み上げていった。

 

『1999』は今聴いても新鮮なアルバム。解釈によってはロジャー・プリンスの全盛期をかたどったアルバムと言えるだろうが、ボーカルから立ち上るスター性や独特な艶気はシアトリカルな要素を込めた「総合芸術としてのライブエンターテイメント」の始まりではなかったかと思われる。