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 【Jazz Age】Vol. 3  Sonny Rollins  ハード・バップ、ビバップの飽くなき開拓者 カリプソとジャズのクロスオーバー


  モダンジャズの開拓者、ソニー・ロリンズは、当初、マイルス・デイヴィスの人脈から登場したプレイヤーという側面では、先に紹介したビル・エヴァンス、そしてジョン・コルトレーンに近い人物である。

 

  そして、ドラッグ関連での私生活の悪辣っぷりは、この当時のジャズ・プレイヤーの象徴的なエピソードと言えるだろう。もうひとつ現実的な側面では、駆け出しのミュージシャンにはそういったものは高価で彼の給料ではまかないきれなかったのだろう。しかし、必ずしもソニー・ロリンズは生涯にかけて品行方正であったなどとは言えないが、やはり音楽家、演奏家としては傑出していたといわざるをえない。


  ソニー・ロリンズの最も優れた点を挙げるとするなら、ジャズの文脈でいえば、ハードバップ、そして、ビバップを生涯に渡って探求しつづけたこと、さらにリズムやビートに核心をもたらしたこと、次いで、彼のルーツであるカリプソやボサノヴァをはじめとするラテン音楽をジャズの文脈に引き入れたことだろう。


  これはソニー・ロリンズが現代のヒップホップミュージシャンのようにビートの革新性に夢中になっていたことを裏付ける。また、ロリンズはいっとき、クラシカルなニューオリンズ・ジャズに傾倒したこともあったが、基本的には、ハード・バップ、そして時々気まぐれに、モード奏法をベースにしたジャズをレコーディングしたのだった。そしてまた、ソニー・ロリンズの作品を語る上で最重要なのは、アーカイブやコンピレーションは例外として、彼が作品として冗長なものをほとんど残さなかった。ライブ録音を含めて基本的には、現在のミニアルバムやEPのような小規模の構成を持つ作品がきわめて多いことに気がつく。ここにロリンズの作曲家としての流儀が込められている。簡潔さを重視し、退屈なものはいらないということだ。

 

  そういった他人には譲れないプライドにも似た感覚、わが道を行くというような矜持にも似た思いは、流動的なリズムを持ち、そして絶えず調性や旋法が移り変わるバップ/ハードバップのジャズの形式に、彼の心を惹きつけた主な要因でもあったのだろう。もちろん、作曲家の音楽と人生が無関係であることはないことを見ると分かる通り、実際的に、そういった冒険心やアバンチュール好きの精神は、彼の転変多き人生に色濃く反映されていると見ても違和感がない。


  ロリンズは音楽の英才教育を受けた。9歳のとき、ピアノを習い始め、11歳の頃には、アルト・サックスを演奏しはじめ、ハイスクールではテナー・サックスを演奏しはじめた。派手さ、そしてなにより華美な感覚を愛する心は、ソニー・ロリンズのサックス・プレイヤーとしての基礎や素地を形成することになる。19歳になろうというとき、ソニー・ロリンズは最初のレコーディングを行い、自作曲「Audobon」を制作した。すでにこの頃にはバド・パウエルと共演を果たしている。若い頃、ロリンズは英雄にあこがれていた。彼の若い頃のメンターは、チャーリー・パーカー。その後、マイルス・デイヴィスのバンドに参加し、バンドリーダーとして録音を行う。1951年。デイヴィスと出会って一年後のことだった。最初の年代では、憧れのチャーリー・パーカーと共演を果たす。ようやく念願がかなったのは、二年後のことである。これもやはりマイルス・デイヴィスとの共演から発生した偶発的な出来事であった。


  ビル・エヴァンスの私生活のスキャンダラスな薬物問題とおなじように、最も流れに乗っていたロリンズの人生に暗雲が差し込んだことがあった。それがすなわち、「音楽家としての生命の危機」である。マイルス・デイヴィスのバンドでジャズプレイヤーとして活躍後、彼はヘロインの依存治療に追われる。実際的には、薬物依存を克服するまで、音楽家としてのキャリアを中断させる。その頃のロリンズにとって、ニューヨークはあまりに巨大で手に負えない都市だったのか。ニューヨークからシカゴに移んだソニー・ロリンズは、ほどなくタイプライター修理工場で勤務した。肉体労働者に混じり汗水を流すロリンズの目の端を幻影がかすめる。数年前、彼は音楽家であったが、その頃は何者でもなくなっていた。ジャズ・プレイヤーとして最も注目を浴びていた数年前のことが、まるで幻や夢のように背後に遠ざかっていく。


  しかし、そういった実際的な暮らしから汲み出されたきたもの、泥臭い感覚や地に足が付いた感覚、何かの完成させるためには近道はありえず、一歩ずつ足取りを進めていく意外の道はひとつも存在しないこと。こういった工場勤務時代のロリンズの経験は間違いなく、その後のジャズ・プレイヤーとしての大成への布石となったと言える。


  彼は、この時代、着実に何かを積み重ね、成功を掴むためには小さな体験を繰り返すことを学んでいたのだろう。1956年、初のリーダーとして録音したアルバム「サキソフォン・コロックス」で最初の成功を掴み、ジャズプレイヤーとしてようやく日の目を見ることになる。ブルーノート、コンテンポラリー、そしてリバーサイドなど名門のレーベルにカタログを残し、そしてカーネギーホールでのコンサートを成功させた。ロリンズの最初の黄金時代である。

 

 

  その後、ロリンズはしばらく表舞台から姿を消した。一般的な理由は「自分の演奏を見つめなおす」という他の人々から見ると、解せないようなものだった。1950年代後半には、まったくライブや録音から遠ざかり、数年間、みずから練習に精励していたという。以後、再び、1960年代に入り、RCAと契約を結び、ジム・ホールなどを招聘し、彼の代表作の一つである『The Bridge』に制作に取り掛かる。同年、『What’s New』を発表し、量産体制に入った。この頃、ちょうどアヴァンギャルド・ジャズの最初のウェイブが沸き起こったが、新し物好きのロリンズはもちろん、その流れに無関心ではいられなかった。ドン・チェリーとの共同作業は、『Our Man In Jazz」という目に見える形になり、以降のフリージャズ運動の先駆けとなった。


◾️「フリージャズ」の開拓者たち オーネット・コールマンからジョン・コルトレーンまで


  以降は、ライブ活動もより旺盛になった。カナダのニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演後、日本に来日し、モヒカン・ヘアの斬新さで人気を獲得する。当時、ロリンズがこういったモヒカンの髪型にしたのは、明確な理由があるらしく、当時マイノリティであったアフリカ系アメリカ人としての誇りを示すと共に、ネイティヴアメリカンの苦悩に無関係ではいられなかったという理由による。以降、インパルス!、マイルストーンなど、名門ジャズレーベルを渡り歩く中、映画音楽やコラボレーターとしての才覚を遺憾なく発揮するようになる。ローリング・ストーンズの『Tattoo』にも参加し、ミック・ジャガーをして「ロリンズこそ最高のサックス奏者」と言わしめた。彼の全盛期の音楽的な貢献には、ジャズを他のジャンルと融合させ、単一の表現から解放するという趣旨があった。もちろん、ストーンズの代表的なカタログへの参加により、ロックとジャズを架橋しただけではなく、クラシックとジャズのクロスオーバーにも取り組んだ。1986年、読売交響楽団とコラボし、「テナー・サックスとオーケストラのための協奏曲」でジャズとクラシック音楽の垣根を取り払うことに一役買ったのである。

 

  WW2の以前から大きな世界の政変の流れを見てきたソニー・ロリンズにとって、時代の変遷と音楽は常に連動しており、無関係ではありえなかったように思える。もちろん、2024年現在もまた、ソニー・ロリンズにとって、これは未来に引き継がれるテーマなのかもしれない。特に、21世紀初頭の同時多発テロは、演奏家に大きな衝撃をもたらした。数ブロック先で事件を目撃したというロリンズ。音楽家は、20世紀の資本主義の象徴であるワールドトレードセンタービルの崩壊をどのように見ていたのだろう。噴煙が上がり、一帯が封鎖され、無数のパトカー、警官、崩落するビルから命からがら逃れる人々。濛々たる噴煙がニューヨークのブロック全体に立ち込める中、ブルックリン橋を足早に渡っていく人々。崩れ落ちたビルの最下層で救出にあたる救急職員。その合間に取材を行う独立ジャーナリストたち……。少なくとも、アメリカという国家が大きく転変したのは、2001年だった。当時、ロリンズは素晴らしいことに、音楽の持つ生命力で人々に勇気を与えることを選んだ。その後予定していたボストンのライブを続行、2005年には、9.11の追悼的な意味を持つコンサートアルバムを発表している。現在でもロリンズが偉大である理由は、音楽の力によって世界を変えようとしたことだ。

 

 

 

■ソニー・ロリンズの代表作 ビバップ、カリプソ曲から映画のサウンドトラックまで

 

 

『Saxopohone Colossus』 Concord Music Group 1957

 


1956年6月22日、ニュージャージー州ハッケンサックのスタジオで、プロデューサーのボブ・ワインストックとエンジニアのルディ・ヴァン・ゲルダーと共にモノで録音された。ロリンズは、このアルバムで、ピアニストのトミー・フラナガン、ベーシストのダグ・ワトキンス、ドラマーのマックス・ローチを含む、カルテットを率いた。ロリンズはレコーディング当時、クリフォード・ブラウン/マックス・ローチ・クインテットのメンバー、レコーディングはバンドメイトのブラウンとリッチー・パウエルがシカゴでのバンド活動に向かう途中で交通事故で亡くなる4日前に行われた(ブラウンとパウエルを乗せた車にロリンズは同乗していなかった)。


母方がヴァージン諸島出身で、若い時代からロリンズはカリプソ「トリニダード・トバゴの音楽で、レゲエの元祖)に親しんできた。本作ではカリブの陽気なリズムや音楽、そしてカーニバル音楽の性質を持つ。「St.Thomas」を中心に5曲というシンプルな構成でありながら、ソニー・ロリンズの陽気なバップをベースにした流動的なフレージングやブレスがきらりと光る。一方、メロウなニューオリンズジャズを踏襲した「You Don't Know What」もジャズバラードとして秀逸。また、マイルス・デイヴィスバンドのモード奏法を踏まえた「Moritat」もスタイリッシュで洗練された響きがあり、モダン・ジャズの流れの基礎を作った必聴ナンバー。

 

 

  

 

 

 

『The Bridge』 Sony Music 1962


ソニー・ロリンズは1959年から活動を停止したが、ウィリアムズバーグ橋で人知れずサックスの練習を重ねていたというエピソードがある。「The Bridege」及びアルバム・タイトルは、その練習場所にちなんでいる。

 

そして、1961年11月、公衆の面前での演奏を再開した。ほどなく、RCAビクターのプロデューサー、ジョージ・アヴァキャンがロリンズとの契約を取り付けた。「Without A Song」は、ロリンズのコンサートでしばしば演奏された曲で、アメリカ同時多発テロ事件から4日後のボストン公演でも披露され、同公演を収録したライブ・アルバムのタイトルにもなった。「ゴッド・ブレス・ザ・チャイルド」は、ビリー・ホリデイが1941年に発表した曲のカバー。


本作では、エラ・フィッツジェラルドの伴奏ギタリストとして知られていたジム・ホールが重要な役割を果たしている。ホールの1999年のインタビューによれば、ロリンズはピアノの和音よりもギターの和音の方が隙間があって触発されやすいと考え、サックス・ギター・ベース・ドラムのカルテットで制作することを決めたという。 


『The Brigde』はチャーリー・パーカーの後の世代のビバップの作風が色濃いが、この作品ではジャズそのものの持つメロウな響きに焦点が置かれている。いわば、ロリンズのジャズ作品の中では落ち着いた雰囲気があり、ゆったり聴くことができる。

 

アルバムの冒頭では、「Without A Song」に象徴されるように、ビバップの楽しげな響きが特徴となっているが、アルバムの中盤では、ジャズバラードに近いR&Bに近い響きが押し出されている。タイトル曲のハード・バップに属する旋法や調性の運び、そして演奏の持つ強烈な個性も捨てがたいものがあるが、他方、ギターとの室内楽のような上品な響きを持つ「Where Are You」のようなナンバーにこそ、ロリンズのサックス奏者の醍醐味が凝縮されている。「God Bless The Child」のコントラバスの精細感のある演奏、モンゴメリーの系譜にあるギター、それらをリードするロリンズのサックスの演奏もジャズの潤沢な時間をもたらすアルバムのラストを飾るスイング・ジャズ「You Do Something To Me」はジャズライブなどで映えるような曲で、楽しげな雰囲気がある。一つも蛇足がなく、完結な構成でまとめ上げられている。

 

時代感を失わせるようなジャズの陶酔感のある響きを体験することができる。1950年代、ウィリアムズバーグ橋でサックスの演奏をしていたジャズの巨人の姿が目に浮かんできそうである。

 

 



『What's New?』 BMG France   1962 

 

ハードパップなどの新しいジャズの形式を追求する中で、ソニー・ロリンズの重要な音楽的なルーツであるカリプソやラテン・ミュージックに回帰したのが本作である。ロリンズが1970年代に展開させていくファンク・ソウルやマーヴィンやクインシーに代表されるアーバン・コンテンポラリーとジャズの「クロスオーバーの原点」を今作には発見できる。アルバムの冒頭を飾る「If Ever I Would Leave You」ではカリプソのリズムとビバップのスケールやリズムを結びつけようという試みが見受けられる。さらに、「Don't Stop the Carnival」ではカリプソのカーニバルの音楽とマイルス・デイヴィスのモード奏法を融合させ、エスニックジャズを予見している。

 

さらに本作の中盤でも、南米のラテン音楽の陽気で開放的な音楽性が色濃く反映されている。「Jungoso」、「Bluesongo」では、彼のアフリカ系アメリカ人のルーツを音楽という形で押し出し、それらを楽しげな演奏によって彩っている。さらに1948年公開の映画の主題歌「The Night Has a Thousand Eyes」ではボサノヴァをジャズと融合させ、クロスオーバーの飽くなき可能性を探求している。もちろん、陽気なサックスフォンの響きを心ゆくまで堪能できるはず。


発売当時は、アメリカ盤が「Don't Stop the Carnival」を除く5曲入り、イギリス盤や日本盤が「If Ever I Would Leave You」を除く5曲入りだったが、現行の日本盤CDは6曲入りの完全版として販売されている。また、日本では『ドント・ストップ・ザ・カーニバル』という邦題がついていた時期もあったという。 「Don't Stop the Carnival」は、『Saxpohone Colossus』の一曲目に収録されている「St. Thomas」と並ぶ、ロリンズの代表的なカリプソ曲。ライブでもしばしば演奏された。





『Alfie』 (Original Music From The Score) GRP/UMG   1966

 

 

すでにミュージカルという側面では、映画音楽とジャズはその成り立ちからして密接に結びついているが、あらためてジャズが映画音楽として有効であることを示したのが「Alfie」のサウンドトラックである。特に、「He's Younger Than You Are」は映画音楽として秀逸である。


今作『Original Music From The Score “Alfie”』は、1966年に公開されたイギリス映画「アルフィー」のために作曲されたソニー・ロリンズのオリジナル盤であると同時にサウンドトラックである。編曲と指揮はオリバー・ネルソンが担当し、バックメンバーにはケニー・バレル(ギター)、J.J.ジョンソン、ジミー・クリーブランド(トロンボーン)、フランキー・ダンロップ(ドラム)、ロジャー・ケラウェイ(ピアノ)らが参加。このアルバムはR&Bビルボード・チャートで17位を記録し、評論家のロヴィ・スタッフはオールミュージックで5つ星のうち星4.2の評価を与えている。映画としては評価が芳しくない作品だが、ロリンズの音楽が映像に最適であることを象徴付けるサウンドトラック。もちろん、ソニー・ロリンズのジャズはBGMとしても十分楽しめる。

 

 

 

 『Old Flames』 Fantasy Inc.  1993


70年代以降は、ファンク・ソウルやアーバン・コンテンポラリー、そして当世のポップスなど様々な音楽とジャズとの融合を試み、少しだけライトでポップな音楽家になったかと思えたロリンズ。

 

突如、1990年代のアルバムで再びジャズのスタンダードな響きを刻印したアルバムを発表する、それが『Old Flames』である。 ロリンズがクリフトン・アンダーソン、トミー・フラナガン、ボブ・クランショウ、ジャック・デジョネットと共演し、ジョン・ファディス、バイロン・ストリップリングス、アレックス・ブロフスキー、ボブ・スチュワートがアレンジした2曲を加えた。

 

依然として、コンパクトな構成のアルバムをリリースするというロリンズの流儀に変更はない、シンプルな7曲が収録されている。そして、ビバップ、ハード・バップを徹底的に追求したサクスフォン奏者の集大成のような意味を持つアルバム。長い歳月を経て、チャールズ・ロイドのように渋さのある演奏法をロリンズは選び、円熟味のあるモダン・ジャズを完成させている。それに加えて、ロリンズは20世紀のミュージカルのような音楽性をジャズに付加している。取り分け「I See Your Face Before Me」は、静謐な味わいを持った素晴らしいナンバーである。

 








 John Coltrane 稀代のサクスフォン奏者  コルトレーンの代表作



ジョン・コルトレーンは、いかなる分野であれ、天才的な人物は驚くほど早く世を去ることがあるという、歴史的に惜しむべき事実を明確に反映している。他の人が気づいたときには、そういった人物は、普通の人々のはるか先を歩いているものだ。一般的な人々がその人を追いかけ始はじめた時、その人は踵を返し、別の道を歩み出す。そして一般の人々がそのことに注目するようになると、全然違うことを始める。だから、一般的な人々の理解に及ばない部分がある。


コルトレーンの十年のジャズの作曲法、及び、主要な演奏法には、古典的なものから、対象的に、まったく以前の形式とは異なる前衛的なものまで幅広いスタイルが含まれている。ハード・バップからモード奏法へのこだわりなど...。もちろん、前衛的な演奏法についても、アリス・コルトレーンと併せて称賛されて然るべきだが、サクスフォン奏者としては、ブルー・ジャズにこそ彼のプレイの醍醐味がある。ミュート奏法を用いたコルトレーンの演奏は、ブレスに神妙な味わいがあり、トランペットに近い深みのある音響性をもたらすことがある。


セロニアス・モンクとのコラボレーションでは、前衛的な奏法にも挑戦しているコルトレーン。それと同時に、彼はまた、スタンダードジャズの普及に多大なる貢献を果たした演奏家でもあった。特に、現代的なサクスフォニストとは異なり、彼の演奏の核心には、メロウなサックスというテーマを発見できる。コルトレーンは、無名の時代が長く、有名になったのは十年ほどであったという。それは、彼が従来のハード・バップから離れ、前衛的なジャズを探訪していたからである。ではなぜ、後世に名を馳せたかを推察してみると、彼の演奏は、それ以後、新しい形式を捉えつつも、「古典性の継承」という重要なサブテーマを掲げていたからである。もしかりに、コルトレーンの演奏法が前衛性だけに焦点を絞っていたとするなら、「ジャズの巨匠」と呼ばれるまでには至らなかったのではないだろうか.......。そして、いついかなる時代のコルトレーンの演奏についても、彼の演奏には慎み深さがある。要するに、音楽に対する一歩引いた感覚があり、音楽をいつも主体とし、多彩なサックスの演奏を披露するのである。

 

つまり、それがセロニアス・モンクやマイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンスといった数々の名だたるプレイヤーとのコラボレーションでも重要な役割を果たす要因ともなった。もし、彼が存在感を出しすぎたり、プレイヤーとしての自分自身のキャラクター性を重要視するような演奏家であったなら、どうなっていただろう。もしかすると、数々の共同制作の名盤は秀作の域にとどまっていた可能性もあるかもしれない。コルトレーンは、前に出たり、後ろに退いたり、いつも柔軟性のあるスタンスを取っている。だから、彼の演奏は作品ごとにまったくその印象が異なる。古典的であるかと思えば、前衛的。前衛的かと思えば、古典的。そして、脇役かと思えば、主人公になる。主役になったかと思えば、名脇役にもなる。つまり、彼は10年に及ぶジャズの系譜において、自分の演奏者としての立ち位置を固定したことは一度もなかったのだ。

 

ジョン・コルトレーンの演奏はたいてい、レコーディングであれ、ライブであれ、その空間に鳴っている音楽に対して謙虚で慎ましい姿勢を堅持している。それが音楽としての心地良さをもたらし、このプレイヤーしか持ち得ない霊妙な感覚、そして、人々を陶酔させるジャズを構築したのである。

 

クラシックであれ、ジャズであれ、超一流の音楽家はプレイスタイルを持つようでいて持たない。いつも、彼らは苦心して築き上げたものを見放し、ときには壊してしまう。世に傑出した芸術家はたいてい、自分の築き上げたものが「砂上の楼閣」に過ぎぬか、「現実の影」に留まると認識しているのである。こういった「天才」と称される人々は、一つのやり方に固執することはほとんどなく、変幻自在な性質を持つことを特徴としている。しかしながら、同時に、 演奏や作曲性に関しては、その人物しか持ち得ないスペシャリティ(特性)が出現することがある。

 

その作品を見れば、制作者の人となりが手に取るように分かる。同じように、演奏についても表現者の人柄を鏡のごとく鮮明に映し出す。残酷なまでに.......。不世出のサクスフォニスト、ジョン・コルトレーンは、薬物問題に絡め取られることもありながら、紳士性を重んじ、何より敬虔なる人物であったと推察される。それがゆえ、ジャズの未来を塗り替えることが出来たのだ。また、だからこそ、彼の演奏は時代を越えて、多くの聞き手を魅了しつづけるのだろう。

 

 ・Vol.1を読む BILL EVANS   ビル・エヴァンスの名曲  クラッシックとジャズを繋げた名ピアニスト


 

・「Blue Train」/ Blue Note 1958

 

マイルス・デイヴィス・クインテットを1957年に離脱したジョン・コルトレーンがその翌年に発表したアルバム。3管編成で録音。タイトル曲には、モード奏法からのフィードバックも含まれている。コルトレーンは、この作品において、作曲全体の規律性を重視し、ジャズの概念を現代的に洗練させている。ただ、「Lady Bird」に代表付けられるように、従来の自由度の高いベースに支えられるハードバップに重点が置かれている。また、「I'm Old Fashioned」には、古典派への回帰という、以後の時代の重要な主題も発見できることにも着目したい。

 

 

 

・「Giant Steps」/ Atlantic  1960

 

 

「Love Supreme」、「Bluetrane」、「My Favorite Things」等、名盤に事欠かないコルトレーン。しかし、ジャズそのものの多彩さ、音楽の幅広さを楽しめるという点において「Giant Steps」を度外視することは難しい。このアルバムは「Blue Train」と並び、稀代のジャズの名盤として名高い。

 

本作は、中期に向けての変遷期に録音。チャーリー・パーカーのビバップの形式を元に、「コルトレーン・ジャズ」という代名詞を作り上げた作品でもある。演奏法を見ると、70年代のフリー・ジャズを予見したアルバムと称せる。ただ、ジョン・コルトレーンの演奏法が従来のスケールや和音に束縛されていないとしても、全体的な作曲はスタンダード・ジャズを意識している。これが自由で開放的な気風を感じさせるとともに、聞きやすい理由である。現在のブルーノートのライブハウスで聴けるようなジャズグループの演奏の基礎が集約され、ジャズ・ライブでお馴染みのコール・アンド・レスポンスの演奏も含まれている。世紀の傑作「Blue Train」と並んで、「ジャズの教科書」として見なされるのには、相応の理由があるわけなのだ。

 

 

 

・「Ballads」/ Impulse!  1963



コルトレーンがハード・バップ/ビバップから脱却を試みた作品。そして、次なる形式は「古典性への回帰」によって生み出されることに。現在のスタンダードジャズの基本的な形式の基礎は、このアルバムに全て凝縮されている。また、以降の時代の多くのサックス奏者の演奏法の礎を確立した作品でもある。「Ballads」では、ニューオリンズの「ブルー・ジャズ」の古典性に回帰しながら、モード奏法を異なる形に洗練させている。もちろん、遊び心もある。「All Or Nothing At All」では、アフリカのリズムを織り交ぜ、率先してアフロ・ジャズに取り組んでいる。彼の代表的なナンバー「Say It(Over and Over Again)」はジャズ・スタンダードとして名高い。


ジョン・コルトレーンは、新しい形式を生み出すために、古典に回帰する必要があることを明示している。これはデイヴィスが教会旋法からモード奏法を考案したことにヒントを得たと考えられる。(モード奏法は、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアという旋法の基礎からもたらされた)さらに、現行の米国のミュージシャンが取り組む「古典性の継承」というテーマ、それはすでに1963年にジョン・コルトレーンが先んじて試みていたことであった。

 

 


【JAZZ AGE】 BILL EVANS   ビル・エヴァンスの名曲  クラッシックとジャズを繋げた名ピアニスト

 Jazz Age:  Vol.1  Bill Evans



 ジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンス(Bill Evans)は、1929年にニュージャージー州ブレインフィールドで生まれた。スラブ系の母親、そしてウェールズ系の父親の間に生まれた。彼の父親はエヴァンスに幼い頃から音楽を学習させた。

 

クラシック音楽からの影響が大きく、セルゲイ・ラフマニノフやイゴール・ストラヴィンスキーなど、ロシア系の古典音楽に親しんだ。かれがジャズに興味を持つようになったのは10代の頃。兄とともにジャズのアマチュアバンドで演奏するようになった。1946年にサウスイースタン大学に通い始め、音楽教育を専攻した。学生時代にはのちの重要なレパートリー「Very Early」を作曲した。

 

 1950年、大学を卒業すると、翌年には陸軍に入隊。朝鮮戦争の前線に赴く機会はなく、陸軍のジャズバンドで演奏するだけだった。 この頃の不本意な時期に、後に取りざたされる麻薬乱用を行うようになった。1954年に兵役を終え、折しもジャズシーンが華やかりしニューヨークで音楽活動を開始する。バックバンドとしての活動にとどまったが、作曲家のジョージ・ラッセルの録音に参加。その活動をきっかけにスカウトの目に止まり、リバーサイド・レーベルからデビュー・アルバム『New Jazz Conceptions』をリリースするが、売上はわずか800枚だった。

 

1958年にはマイルス・デイヴィスのバンドに加わり、録音とツアーを行った。彼はバンドで唯一白人であったこと、そして薬物乱用の問題、さらにはエヴァンス自身がソロ活動を志向していたこともあり、バンドを離れた。しかし、マイルス・デイヴィスの傑作『Kind of Blue』の録音に参加し、旧来盛んだったハードバップからモード奏法を駆使したスタイルでジャズに清新な息吹をもたらす。モード奏法はこのアルバムの「Flamenco Sketches」に見出すことができる。


1959年になると、ドラマーのポール・モチアン、ベースのスコット・ラファロをメンバーに迎え、ジャズトリオを結成。ジャズの系譜におけるトリオの流行は、この三人が先駆的な存在である。テーマのコード進行をピアノ、ベース、ドラムスがそれぞれ各自の独創的な即興演奏を行い、独特な演奏空間を演出した。後のモダンジャズのライブではこのソロがお約束となる。

 

ビル・エヴァンス・トリオで収録した『Portrait In Jazz- ポートレイト・イン・ジャズ』(1960)『Explorations- エクスプロレイションズ』(1961)『Waltz For Debby -ワルツ・フォー・デビイ』および、同日収録の『Sandy At The Village Vanguard- サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1961)の4作は、「リバーサイド四部作」と呼ばれる。


しかし、『ワルツ・フォー・デビイ』および『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の収録からわずか11日後、ベーシストのスコット・ラファロが1961年7月6日に25歳の若さで交通事故死する。エヴァンスはショックのあまりしばらく、ピアノに触れることすらできなくなり、レギュラー・トリオでの活動を休止することとなり、半年もの間、シーンから遠ざかった。


1966年にエヴァンスは、当時21歳だった若きエディ・ゴメス(Eddie Gomez)を新しいベーシストとしてメンバーに迎える。エディ・ゴメスは、スコット・ラファロの優れた後継者となり、以降、1978年に脱退するまでレギュラー・ベーシストとして活躍し、そのスタイルを発展させ続け、エヴァンスのサポートを務めた。


 1968年にマーティー・モレル(Marty Morell)がドラマーとしてトリオに加わり、家族のため1975年に抜けるまで活動した。モレル、そしてのちに加入したエディ・ゴメスによるトリオは歴代最長の活動期間に及んだ。従って現在に至ってもなお発掘され発売されるエヴァンスの音源は、ゴメス・モレル時代の音源が圧倒的に多い。

 

このメンバー(セカンド・トリオ)での演奏の質は、初期の録音でずっと後に発売されたライブ版『枯葉』(Jazzhouse)にも反映されている。『Waltz For Debby ~ Live In Copenhagen - ワルツ・フォー・デビイ〜ライヴ・イン・コペンハーゲン』(You're Gonna Hear From Me)、『Montreux II- モントルーII』、『Serenity- セレニティ』、『Live In Tokyo- ライヴ・イン・トーキョー』、『Since We Met - シンス・ウイ・メット』と、メンバー最後のアルバムである1974年にカナダで録音した『Blue In Green-ブルー・イン・グリーン』などがある。この時期、特に1973年から1974年頃までのエヴァンス・トリオは良し悪しは別として、ゴメスの演奏の比重が強い傾向にある。 


1976年にドラムをマーティー・モレルからエリオット・ジグモンド(Eliot Zigmund)に交代する。このメンバーでの録音として『Cross Currents- クロスカレンツ』、『I Will Say Goodbye- アイ・ウィル・セイ・グッドバイ』、『You Must Bilieve In Spring- ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』が挙げられる。麻薬常習や長年の不摂生に加え、肝炎など複数の病気を患っていたエヴァンスの音楽は、破壊的内面や、一見派手ではあるが孤独な側面を見せるようになる。

 

ビル・エヴァンスの死後に追悼盤として発売された『You Must Believe In Spring- ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』収録の「Suicide Is Painless(もしも、あの世にゆけたら)」は、映画『M*A*S*H』(1970年)及びTVシリーズ版『M*A*S*H』のテーマとして知られている。



Bill Evans' Masterpiece :

 

・Peace Piece(1959)/『Everybody Digs Bill Evans』

    

「ピース・ピース(Peace Piece)」は、1958年12月にビル・エヴァンスがアルバム『Everybody Digs Bill Evans-エブリバディ・ディグス・ビル・エヴァンス』のために録音した。

 

ソロ時代のエヴァンスの名曲で、モード奏法のルーツをうかがい知ることができる。他にも彼のウクライナのスラブ民族としてのルーツやクラシックからの影響、その他にもスクリアビンのような神秘和音をゼクエンス進行によって活用している。いわばクラシックのピアニストとしてのエヴァンスの作曲性を反映させている。もちろん、演奏に関しては以降のデイヴィスとのモダン・ジャズの作風の萌芽を見ることもできる。

 

レコーディング・セッションの最後に演奏された即興曲で、レナード・バーンスタインのミュージカル『On The Town- オン・ザ・タウン』の「Some Other Time- サム・アザー・タイム」のヴァージョンでエヴァンスがセッション中に使用していた。Cmaj7からG9sus4への進行をベースにしたスタンダードな曲。


翌年にマイルス・デイヴィスと録音したアルバム『Kind of  Blue-カインド・オブ・ブルー』に収録された「Flamenco Sketches- フラメンコ・スケッチ」のオープニングにもモチーフが再登場する。


「Peace Piece」



「Autumn Leaves」(1960)/ 『Portrait In Jazz』


マイルス・デイヴィスとのアルバム『Kind Of Blue』でのコラボレーションの成功から8ヵ月後、エヴァンスは新しいグループ、ビル・エヴァンス・トリオで『ジャズの肖像』の録音に挑み、以後のモダン・ジャズの潮流を変える契機をもたらす。

 

最も注目すべきは、ラファロのウッドベースが単なる伴奏のための楽器から、後のアルバム『Sunday at the Village Vanguard』ほどではないにせよ、ピアノとほぼ同等の地位に昇格したことだろう。

 

ビル・エヴァンスはラファロとの最初の出会いについて、「彼の創造性にはほんとうに驚かされた。彼の中にはたくさんの音楽があり、それをコントロールすることに問題があった。... 彼は確かに私を他の分野へと刺激したし、おそらく私は彼の熱意を抑える手助けをしたのだろう。それは素晴らしいことで、後にエゴを抑えて共通の結果を得るために努力した甲斐があった」

 

ポール・モチアンはビル・エヴァンスのデビュー・アルバム『New Jazz Conceptions』や、トニー・スコット、ジョージ・ラッセルなどが率いるグループでエヴァンスとレコーディングしたことがあった。


エヴァンスの伝記作家であるキース・シャドウィックは、この時期のモチアンは標準的なバップの定型を避ける傾向があり、「代わりに他の2人のミュージシャンから実際に聞こえてくるものに反応」していたと述べ、それが「エヴァンスの最初のワーキング・トリオのユニークなクオリティに少なからず貢献した」と指摘している。

 

”枯葉”という邦題で有名な「Autumn Leaves」は、戦後のシャンソンの名曲だ。1945年にジョゼフ・コズマが作曲し、後にジャック・プレヴェールが詞を付けた。ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラード。6/8拍子の長いヴァース(序奏)と、4拍子のコーラス部分から構成される。 またジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどの録音が存在することでも知られる。 1955年の全米ビルボード・チャートで1位のベストセラーとなった。「Autumn Leaves」はジャズのスタンダードとなり、最も多くレコーディングされた曲のひとつ。


ビル・エヴァンスの録音はポール・モチアンとスコット・ラファロとのジャズトリオの全盛期の気風を反映させている。シャンソンの定番を当時盛んであったハードビーバップ風にアレンジした。リバーサイド四部作のうちの一つ『Portrait In Jazz』には2つのテイクが収録されている。

 

 「Autumn Leaves」





「Waltz For Debby」 「Porgie(I Loves You Porgie)」(1961)/ 『Waltz For Debby』



ビル・エヴァンス・トリオとして活動していたベーシストのスコット・ラファロが不慮の自動車事故により死去する10日前、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴをリバーサイドレコードが収録していたことは、ほとんど奇跡的と言える。

 

1961年、エヴァンスのトリオはヴィレッジ・ヴァンガードに頻繁に出演していた。この年の6月のライブのレコーディングは、ビル・エヴァンスのライブ・アルバム『Sunday At The Village Vaunguard』としてラファロの死後に発売された。これはベーシストの追悼盤の意味を持つ。

 

後に発売された『Waltz For Debby』は追悼盤に比べると、音に艶があり、バランスの良いレコーディングとなっている。特に、このアルバムに収録されている「Porgie(I Loves You Porgie)はジョージ・ガーシュウィンのカバーで、後にキース・ジャレットがカバーしている。「Waltz For Debby」はヴィレッジ・ヴァンガードでのライブで披露されたビル・エヴァンスの定番曲である。

 

 

「Waltz For Debby」

 

 

 「Porgie (I Loves You Porgie)」

   

 

 


「We Will Meet Again」(1977) /『We Must Believe In Spring』


 

1980年、ビル・エヴァンスは、同タイトルのアルバムを名に冠した遺作を発表した。このラストアルバムのバージョンは、ピアノ・ソロで、曲の後半では、妻との別れ、彼の晩年の孤独と哀愁を込めた切ない感覚をジャズ・ピアノで収めている。

 

そして、一方、彼の死後に追悼盤としてリリースされた『We Must Believe In Spring』の収録バージョンでは、ジャズトリオとしての白熱した瞬間を録音の形で残している。


エディ・ゴメスのウッドベースとエヴァンスのピアノの演奏の兼ね合いは、後のニューヨークのモダンジャズの流れを形作ったといえるだろう。曲のタイトルからも分かる通り、エヴァンスはやや硬派の人物であったことが伺い知れる。この曲には泣けるジャズピアノの要素が満載である。涙ぐませるもの……、それはいつも白熱した感情性から生み出されるものなのである。

 

最後のスタジオ録音が残した奇跡的な演奏を収録しているが、「We Will Meet Again」では気迫あふれるトリオの演奏が聞ける。生前のエヴァンスがジャズトリオという形式を最も重視していたことが伺える。また、最後のスタジオ録音の中での演奏で、エヴァンスは彼の音楽的な出発となったクラシックピアノからの影響を込めている。


ジャズとクラシックを繋げる演奏家としての役割は、JSバッハの作品の再演で知られるキース・ジャレットへと受け継がれていった。またエヴァンスは、現在のジャズのライブでお馴染みの各々のプレイヤーが即興演奏を曲で披露するという最初の形式を確立させた人物でもある。

 

 

 「We Will Meet Again」