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Eagles
70年代のウエストコーストロックの立役者であるイーグルス レコードの総売り上げは2億枚を誇る
 

ウェスト・コースト・ロック、イーグルスやジャクソン・ブラウン、ドゥービー・ブラザーズに象徴される70年代の西海岸のロックサウンドは、今でもなお魅力的な輝きを放ってやまない。サーフロックと並行して登場したウェスト・コースト・ミュージックは、カントリー・ロックやサーフ・ロック、そしてR&Bのファンクやソウルをロックという枠組みの中で体現しようという試みでもあった。ビーチボーイズで始まった西海岸のロックの流れは、CSN&Yのフォークロック、カントリーロックを経たのち、より純化され洗練化されていくことになった。もちろん、その過程で他のジャンルとのクロスオーバーが試みられたのは言うまでもない。

 

特に、イーグルスはカントリー・ロックを中心に制作し、ウェスト・コースト・ロックを牽引した。およそ10年間の間で、6作のフルアルバムをリリースした。レコードの総売上は2億枚にのぼる。代表作『Hotel Calfornia』でUSロックの金字塔を打ち立てた。『Hotel Calfornia』において、田舎町にやって来た新参者へ向けられた地元民の一時的な強い好奇心と彼が飽きられていく様を唱った「New Kid In Town」、エゴ社会に警鐘を鳴らすかのように、好き勝手にふるまう無頼者が実のところ虚勢に満ちており、内面に苦悩を持つことを言外ににじませた「Life In The Fast Lane」などが有名。1981年に一度活動を休止し、ドン・ヘンリーは80年代に入り、AORやソフトロック、カントリーの系譜にあるロックから、アーバンなポピュラー音楽へとシフトチェンジを図り、時代の変化に対応し、新しい音楽をリードしていった。

 

 

ウェスト・コースト・ロックの双璧をなすドゥービー・ブラザーズは、これに対して、カントリー・ロックや南部のサザン・ロックをベースにしながらも、明らかにブラック・ミュージックの系譜にあるファンクやソウルの影響をうまく取り入れていた。スライ&ザ・ファミリーストーンが人種混合のバンドで、ロックとソウルを結びつけたように、ドゥービー・ブラザーズも同じ役割を果たした。ダンス/ソウルミュージックとして聴いても一級品で、わかりやすくそれほど音楽に詳しくなくても口ずさめる、ダンサンブルなロックで70年代を象徴するグループとなった。一方、ウェスト・コーストロックの一角をなす音楽としてフォーク・ロックも見過ごすことはできない。CSN&Yはウェスト・コーストの最初の流れを形成し、人間の友愛的な側面を尊重し、フォーク・ミュージックとグループサウンドを結びつける重要な役割を担った。

 

 

一方、バンドやグループにとどまらず、ソロアーティストの活躍もこの時代のアメリカのロックシーンの特徴と言える。イーグルスとの共作で知られるジャクソン・ブラウンは、ソロシンガーとして大成功を収めた。また、後に、KISSのような過激なメークアップを施して人気を博すアリス・クーパーは一般的に80年代のハードロックの代表格であるが、元はウェスト・コーストロックの出身者であることは再確認すべきかもしれません。女性シンガーの活躍も見過ごせない。後のフォークロックの大家とみなされるミッチェル、27クラブの出身者ジャニス・ジョップリン等、のちの音楽界の大家と呼ばれるアーティストが数多く台頭した時代。今回は、70年代の西海岸のロックのアーティストと代表的な名盤を以下に大まかにご紹介します。


 

・Eagles



1971年にデビューしたアメリカのカントリー・ロック・バンド。アメリカ西海岸を拠点に活動しながら、全世界的人気を獲得した米国のトップ・バンドのひとつ。

 

イーグルス(Eagles)はヴォーカリスト、リンダ・ロンシュタット(Linda Ronstadt )のバンド、Linda Ronstadtのメンバーとして集められたグレン・フライ(Glenn Frey )、ドン・ヘンリー(Don Henley )、ランディー・マイズナー(Randy Meisner)、バーニー・リードン(Bernie Leadon)の4名が独立して1971年8月に結成され、リンダ・ロンシュタットが所属していたアサイラム(Asylum)レコード(拠点・ロサンゼルス)からデビューしたバンドである。

 

メンバーのグレン・フライが当時同一のアパートに居住していたシンガー・ソングライターのジャクソン・ブラウン(Jackson Browne)と共作した、デビューアルバム『Eagles (イーグルス~邦題:「イーグルス・ファースト」)』のタイトル曲となった軽快なナンバー「Take It Easy(テイク・イット・イージー~「気軽に行こう」の意)」がいきなりヒットし、瞬く間に1970年代に一世を風靡したウエストコースト・サウンドの代表の仲間入りを果たした。

 

『One Of These Nights』 Asylum  1975 

 

 

ウェスト・コースト・ロックのサウンドを掴むためには、まずこのアルバムを抑えておきたい。1970年代半ばのある夜、ギタリストのグレン・フライは友人のソングライター、J.D.サウザーとディナーに出かけた。ロサンゼルスのクラブ、トルバドールに隣接する彼らの行きつけのレストランで、フレイは魅力的なブロンド女性がかなり年上の男性と食事に出かけているのに気づいた。「あの嘘つきの目を見てみろ」とフレイは言い、すぐにペンを取った。もちろん、この瞬間がイーグルスの「Lyin' Eyes」の起源であり、RCAレコードの元社長ボブ・ブジアックは、「これまで書かれた中で最高のLAロックンロール・ソングのひとつ」と呼んだという。



1975年にリリースされた『One of These Nights』は、ドン・ヘンリーとのソングライティング・パートナーシップが新たなピークを迎えていたフレイ曰く、イーグルスで最も「痛みのない」アルバムだった。ビバリーヒルズの自宅をシェアしながら、2人は次々と名曲を書き上げた: 淫らなダンスフロアの定番曲 「One of These Nights」、ランディ・マイズナーとの共作で路上生活の弊害を歌った 「Take It to the Limit 」などだ。名声の暗黒面を描くのは飽き飽きした手法かもしれないが、ヘンリーとフレイは高速道路での生活を鋭く観察していたことを証明した。「このグループで同じように考える傾向があるのは、グレンと私の2人だけだった」



プロデューサーのビル・シムジークと協力して、バンドは新たなリスクを冒した。Too Many Hands 「では複雑なギター・リフを重ね、バーニー・リードンのバンジョー・インストゥルメンタル 」Journey o 「では、」Too Many Hands 「と 」Too Many Hands "の中間をとった。


「Take It To The Limit」

 

 

 

 『Hotel Calfornia』 1976   Elektra


1976年初頭、イーグルスはコンピレーション・アルバム『The Greatest Hits 1971-1975』をリリースした。このコンピレーション・アルバムは、その後半年間ビルボード・トップ200にランクインし続け、20世紀アメリカで最も売れたアルバムとなった。

 

しかし、おかしなことに、このバンドで最も人気があり、キャリアを決定づけた代表曲が登場するのをファンはもう少し待たねばならなかった。その栄誉はもちろん、1976年の大ヒット作『ホテル・カリフォルニア』のタイトル・トラックにある。このアルバムでイーグルスは、カントリー・ロックのルーツの残り香を消し去り、世界中のフットボール・スタジアムに居を構えた。



この変化は、この町の新人のおかげだ。ジョー・ウォルシュは、脱退した結成時のギタリスト、バーニー・リードンの後任である。オープニングの「Hotel California」で、ウォルシュは6弦のウイングマンであるドン・フェルダーとともに、ドン・ヘンリーによる不気味で謎めいた語りに、ロック史上最もドラマチックで指に響くギター・ソロを加えた。その闊達さは、「Victim of Love」(このバンドがヘヴィ・メタルに最も近づいた曲)のブロントサウルスのようなストンプや、ディスコ調の「Life in the Fast Lane」(オープン・バーのあるペントハウスの仮面舞踏会のように魅惑的で退廃的なハリウッドの快楽主義)にも波及している。しかし『ホテル・カリフォルニア』は、ベルベットのロープの向こう側から見た70年代の過剰な肖像画でもある。


 

 ・The Doobie Brothers


 

ドゥービー・ブラザーズ (The Doobie Brothers) はアメリカのバンド。1970年代に人気を博したウエストコースト・ロックを代表する。



1970年にトム・ジョンストンを中心に結成、翌1971年にデビュー。1972年に「リッスン・トゥ・ザ・ミュージック」のヒットを放つ。サザン・ロック色の濃い音楽性に加え、二人のドラマーに黒人のベーシストを加えた、力強いファンキーなリズムセクションは評判を呼び、1973年のアルバム『The Captain And Me』からは「Long Train Running」、「China Grove」、1974年のアルバム『What Were Once Vices Are Now Habits(邦題: ドゥービー天国)』からは「Black Water」といったヒット曲が生まれ、一躍アメリカン・ロックを代表する人気バンドの一つとなった。



1974年、度々ゲスト参加していたスティーリー・ダンを脱退したジェフ・バクスターが正式加入する。その頃からバンドの顔であり、ヒット作を数多く作曲していたジョンストンの健康状態が悪化し、バンドを一時脱退してしまう。間近に控えたツアーのため、ジョンストンの代役としてバクスターの紹介により、スティーリー・ダンのツアーメンバーだったマイケル・マクドナルドが正式加入する。卓越した歌唱力に加え、スティーリー・ダンに培った作曲能力を持ったマクドナルドの存在は大きく、バンドの音楽性はトム・ジョンストン期の野性味あふれる快活なギターロックから、R&Bの影響を受けた洗練されたAOR色の強いものへと変化していった。



こうした音楽性の変化はファンの間で賛否が分かれたが、1978年のアルバム『Minute By Minute』とシングルカットされた「What A Fool Believes」はともに全米1位を獲得、その年のグラミー賞でアルバムタイトル曲は最優秀ポップ・ボーカル(デュオ、グループまたはコーラス部門)賞、「ホワット〜」は最優秀楽曲に輝くなど、高い人気と評価を確立した。

 

 

『The Captain And Me』 Warner  1973


『Hotel Calfornia』と並んで70年代のロックの普及の名作である。『The Captain And Me』は、1973年3月2日にワーナー・ブラザース・レコードからリリースされた、アメリカのロックバンド、ザ・ドゥービー・ブラザースの3枚目のスタジオ・アルバム。レコードから1973年3月2日にリリースされた。「Long Train Runnin'」、「China Grove」、「Without You」など、バンドの代表曲が収録されている。全米レコード協会(RIAA)より2×プラチナ認定。Colin Larkin's All Time Top 1000 Albums』(2000年)の第3回では835位に選ばれている。


このバンドの持ち味はウェスト・コーストロックを代表するワイルドなサウンドにあるが、このアルバムを聴くとそれだけではない。ウェスト・コーストロックがサザン・ロックなどのブルースの系譜にあること。スライ&ザ・ファミリー・ストーンのように白人と黒人の音楽を結びつける重要な役割を担ったことが分かる。ドゥービー・ブラザーズのロックには、ディスコ、ファンク、ソウル等ブラック・ミュージックからの影響がきわめて大きいのである。上記でも述べたようにソウルロックとして聴いても、珠玉のアルバムであることに違いはない。



 

 

・Jackson Browne


クライド・ジャクソン・ブラウンは、アメリカのロックミュージシャン、シンガー、ソングライター、政治活動家であり、アメリカ国内で1,800万枚以上のアルバムセールスを記録している。



1960年代半ばのロサンゼルスで10代のソングライターとして頭角を現し、他人のために曲を書いて最初の成功を収めた。この曲は1967年にドイツ人シンガーでアンディ・ウォーホルの弟子でもあるニコのマイナー・ヒットとなった。また、同じ南カリフォルニアのバンドであるニッティ・グリッティ・ダート・バンド(1966年に短期間メンバーとして参加)やイーグルスにも曲を提供し、イーグルスは1972年にブラウンとの共作「Take It Easy」で初のビルボード・トップ40入りを果たした。



他人のために曲を書いて成功したことに勇気づけられたブラウンは、1972年にセルフ・タイトルのデビュー・アルバムをリリースし、「Doctor, My Eyes」と「Rock Me on the Water」という自身の2曲のトップ40ヒットを収録した。デビュー・アルバムをはじめ、その後の数枚のアルバムやコンサート・ツアーのために、ブラウンは当時の著名なシンガー・ソングライターたちとも仕事をしていた多作なセッション・バンド、ザ・セクションと密接に仕事をするようになった。


セカンド・アルバム『For Everyman』は1973年にリリースされた。サード・アルバム『Late For The Sky』(1974年)は、ビルボード200アルバム・チャートで14位を記録し、それまでで最も成功を収めた。4枚目のアルバム『The Pretender』(1976年)は、各アルバムが前作を上回るというパターンを継続し、アルバム・チャートで5位を記録した。

 

 

『Running on Empty』 Elektra/Asylum    1977


ジャクソン・ブラウンは他の西海岸のバンドが80年代に向けて、アーバンなサウンドや他のジャンルとの融合を図る中で、古き良きフォークロックやカントリー・ロックを70年代に発表していた。特に70年代後半の作品は、すべてアルバムジャケットが素晴らしく、見ているだけで惚れ惚れとするようなデザインが多い。つまりデザインの中に無限のロマンがあるのだ。

 

『孤独なランナー』 (こどくなランナー、Running on Empty) は、1977年に発売されたジャクソン・ブラウンの5枚目のアルバム。ブラウン初のライブ・アルバムである。通常のライブ・アルバムとは趣が異なり、ステージでのパフォーマンスはもちろん、ホテルやバスの中など、ツアーの様々な場所での演奏が収録されている。収録曲もすべて新曲とカヴァー曲で構成されている。


全米第3位で700万枚の売上を記録し、ブラウンのキャリアの中で最高のヒット作となった。1978年のグラミー賞「Album of the Year」にもノミネートされた。また、映画『フォレスト・ガンプ/一期一会』の劇中で表題曲「Running On Empty」が使用された。 歌声も澄んでいて素晴らしい。

 

 「The Road」

 

 

 

・CCR(Creedence Clearwater Revival)



クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル(Creedence Clearwater Revival、略称CCR)はアメリカのバンド。アメリカ南部特有の泥臭いサウンドを持ち味としたサザンロックの先駆者的存在。活動期間は短いながらもロック界に大きな足跡を残し、1993年には見事にロックの殿堂入りを果たした。1959年にジョン・フォガティ、スチュ・クック、ダグ・クリフォードの3人で結成されたブルー・ベルベッツを前身とする。後にジョンの兄のトム・フォガティが加入する。

 

1967年にサンフランシスコのファンタジー・レコードと契約し、バンド名をゴリウォッグスと変えてデビュー。1968年にバンド名をクリーデンス・クリアウォーター・リバイバルと改めた。同年にスワンプロック(南部のロック)のカバー曲「スージーQ」がヒットし、当時ヒッピー文化が全盛だったサンフランシスコでは異色の存在として脚光を浴びる。

 

1969年から1970年にかけて、彼らの代表曲となる「プラウド・メアリー」、「ダウン・オン・ザ・コーナー」、「雨を見たかい」といったヒットを飛ばす。

 

ところが「プラウド・メアリー」(3週連続)、「バッド・ムーン・ライジング」、「グリーン・リヴァー」、「トラヴェリン・バンド」(2週連続)、「ルッキン・アウト・マイ・バック・ドア」という、この5曲は全てビルボード・シングルチャートで全米第2位に泣かされている。全米No.1を獲得出来なかったアーティストの中で最多5曲の全米第2位楽曲を持つという珍記録になっている。

 

前途洋々かと思われたバンドだったがジョンに注目が集まりすぎたゆえにメンバーの仲がぎくしゃくし、1971年にトムが脱退。翌1972年に発表したアルバム「マルディ・グラ」は各メンバーの曲やボーカルも取り入れた民主的な作品であったが失敗に終わり、バンドはあっけなく解散した。

 

ジョンはソロ作『ブルー・リッヂ・レインジャーズ』(1973年)、『ジョン・フォガティ』(1975年)を発表するが、楽曲の著作権にかかわる訴訟に巻き込まれたため、CCR時代の楽曲が唄えなくなってしまった。また訴訟関連に嫌気が差したことも影響して、音楽活動に消極的になり隠遁状態が続いた。しかし、1985年には『センターフィールド』を発表、同作はミリオン・セラーを記録し、1997年に発表した『Blue Moon Swamp』では、 キャリアの集大成的なサウンドを披露しグラミー賞を獲得した。

 

 

 『Cosmo's Factory』 Concord 1970

 

CCRのロックはイーグルスの最初期のアルバムと聴き比べてみると分かるが、きわめてサザン・ロック色が強い。オールマン・ブラザーズやジョニー・ウィンターの系譜にある南部特有の泥臭いブルース・ロックで、バーボンのような渋さがあり、パブロックにも近い。それに加えて、このバンドは、Big Starと並んで最初のインディーズバンドの先駆的な存在とも言える。もちろん、彼らはキャリアを総じて、メジャーから作品をリリースしたが、楽曲のスタイルはアリーナのロックではなく、小規模なライブハウスで映えるようなインディーズロックである。

 

 『Cosmo's Factory』はCCRの絶頂期の瞬間的な記録である。1969年、彼らは3枚のアルバムをリリースし、絶えずツアーを行っていた。1970年初頭には、『Cosmo's Factory』からの最初のシングルがチャートを駆け上がり始めた。ロイ・オービソンの「Ooby Dooby」やマーヴィン・ゲイの「I Heard It Through the Grapevine」のカヴァーから、オリジナルの「Travelin' Band」、「Lookin' Out My Back Door」、「Who'll Stop The Rain」まで、このアルバムには名曲が凝縮されている。ロックソングの本来の楽しさを体感出来る佳作となっている。また、このアルバムは、80年代以降のハードロックバンドに強い影響を及ぼしている。

 

 「Travelin' Band」

 

 

 

・ Fleetwood Mac



フリートウッド・マック(Fleetwood Mac)はイギリス、アメリカのバンド。ブルースロックのバンドだった初期とポップバンドとして大成功を収めた後期で音楽性が大きく異なる。


1967年、ジョン・メイオールの門下生だったピーター・グリーン(ギター)、ミック・フリートウッド(ドラム)、ジョン・マクヴィー(ベース)らでバンドを結成。初期のバンド名はピーター・グリーンズ・フリートウッド・マック(Peter Green's Fleetwood Mac)。グリーンのギターをフィーチャーし、当時イギリスで勃興していたブルースロックのブームに乗って成功を収めた。なおアルバム「英国の薔薇」収録の「ブラック・マジック・ウーマン」は、後にサンタナにカバーされてヒットしている。他にもジューダス・プリースト、ゲイリー・ムーア、エアロスミスが、この時期のフリートウッド・マックの曲をカバー。


ピーター・グリーンは麻薬に溺れて精神に異常をきたし、1970年にバンドを脱退した。新しいメンバーとしてアメリカ人のボブ・ウェルチ、加入後にジョン・マクヴィーの妻になったクリスティン・パーフェクトが加入し、バンド名をフリートウッド・マックと改めた。この時期のマックはややジャズロック的アプローチをとり、3枚のアルバムを発表して安定した活動を続ける。しかし1974年にフロントマンのウェルチが脱退してしまい、バンドは再び存続の危機を迎える。


ウェルチに代わるフロントマンを探していたフリートウッドは、バッキンガム・ニックスというアメリカ人の男女デュオを見出し、この二人(リンジー・バッキンガム、スティービー・ニックス)を新しいメンバーとして迎え入れた。再び生まれ変わったマックは、1975年にアルバム「ファンタスティック・マック」を発表した。「セイ・ユー・ラブ・ミー」、「リアノン」といったヒット曲が生まれ、アルバムは全米1位を獲得、それまでにない成功を収めた。穏やかで安心感を醸し出すクリスティン、ポップで張りのあるリンジー、ワイルドなダミ声かつ哀愁味を帯びた個性派のニックスという三者三様のボーカルはこのバンドの大きな個性となった。



1977年には最大のヒット作となるアルバム「噂」を発表。シングルカットされた「ドント・ストップ」、「ドリームス」などの大ヒットとともに、アルバムは31週間に渡って全米1位に輝き、1000万枚といわれる史上空前のセールスを記録する。マックは一躍スーパースターの座に上り詰めた。この後はメンバー各自のソロ活動も並行しながら3枚のアルバムを発表、引き続きヒットを持続した。しかし1987年にバッキンガムが脱退し、新しいメンバーを加えたものの1990年にニックスとクリスティンが脱退したことによってバンドは活動停止を余儀なくされた。

 

 

『Rumor』 Warner 1977


この年代のワーナー・ブラザーズのリリースは神がかっている。他のウェスト・コーストロックを聴くと、70年代らしいヴィンテージなサウンドを楽しむことが出来るが、フリートウッド・マックは異色のポップバンドである。ウェスト・コーストロックを吸収していることは事実だろうが、モダンなテイストが匂い立ち、それはアーバンコンテンポラリーやAORに近い80年代を予見するサウンドである。現代のポップバンドが参考にすべきバンドは、このフリートウッド・マックかもしれない。そして実はジャクソン・ブラウンと並んで一番好きなグループだ。


『Rumours』の何がこれほどまでに衝撃的だったのかを理解するには、その前後に発表された音楽を見る必要がある。フリートウッド・マックのように、シンガー・ソングライターの親密さとロックンロールの柔らかさを併せ持つアーティスト、イーグルスとリンダ・ロンシュタットの時代だった。


ドゥーワップや初期のビートルズのレコードが好きだった親は気に留めないかもしれないが、何百万人ものティーンエイジャーは気に留めるだろう。バリー・マニロウとニール・ダイアモンド、ABBAとビージーズ、ザ・クラッシュとパティ・スミスは言うまでもないが、彼らはみな全く異なる存在でありながら、ポップ・ロックをショーマンシップ、洗練、反抗の極みへと引き上げた。



そしてその中間地点にいるのがルーマーズ。ロックするときは優しく(「The Chain」)、しかし噛みしめるような歌い方で、アダルト・コンテンポラリー・コンテンポラリーとは一線を画している(「Go Your Own Way」)。そして彼らは、良い人生(そしてそれを生きるベビーブーマーたち)の屈託のない前向きさを捉えながらも、そこに至るまでにかかった苦悩からも逃げることはなかった(「Don't Stop」、「Dreams」)。彼らの音楽的個性(ミック・フリートウッドとジョン・マクヴィのブルース育ちのリズム隊、クリスティン・マクヴィのロマンティシズム、リンゼイ・バッキンガムのポップな完璧主義、スティーヴィー・ニックスの神秘主義)が見事に融合しているのと同様に、彼らはいつもお互いを優しく引っ張り合っているのが聞こえる。



「Go Your Own Way」

 

 

 

・Carol King 



 

本名・キャロル=クライン(Carole Klein)。ニューヨーク市・ブルックリン生まれ、1958年に歌手デビューした。大学在学中にポール・サイモンからデモ・テープの作り方を教わった彼女は、自分で作ったデモ・テープを売り込んで1958年、ABCパラマウント・レコードからシングル・デビュー。しかしながらその後ABCやRCAなどに残した4枚のシングルは何れも失敗に終わり、一旦歌手としてのキャリアは頓挫することとなる。


1960年代には当時の夫ジェリー・ゴフィンとのソングライター・コンビで、「ロコ・モーション」「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロウ」など後々まで歌い継がれている数々の名曲を生み出した。1960年から1963年にかけての三年間で、ふたりは延べ20曲あまりの全米トップ40ヒットを世に送り出している。彼女自身もシンガーソングライターとして1曲だけこの時期に「イット・マイト・アズ・ウェル・アズ・レイン・アンティル・セプテンバー」という曲で全米トップ40入りを果たしている。しかし、飛ぶ鳥を落とすような勢いもビートルズの全米進出を機に翳りを見せ始め、仕事上の不和がプライヴェートにまで影響を及ぼしたらしく1968年にジェリーとキャロルは離婚する(仕事上ではその後もたびたびパートナー関係を続けている)。


1970年代に入ってからはシンガー・ソングライターとしての活動を本格的に開始。1970年にファースト・ソロ・アルバム『ライター』を発表、翌1971年に発売された彼女のセカンド・ソロ・アルバム『つづれおり』(Tapestry))は、グラミー賞4部門制覇、全米アルバムチャートで15週連続1位、その後も302週連続でトップ100にとどまるロングセラーとなる。現在もなお多くの人々に愛され、世界中で延べ2200万枚を超える驚異的なヒットを記録している歴史的名盤だ。

 

その中の1曲であるシングル「It's Too Late」は1971年6月19日から5週連続全米No.1を獲得している(シングル年間チャートでは第3位)。同じアルバムから「きみの友だち」をジェームス・テイラーがカバーし同年7月31日にシングルチャートでNo.1を獲得している。その後もアルバム『ミュージック』『喜びにつつまれて』、シングル「ジャズマン」など順調にヒットを連発。彼女は1970年代前半から中期を代表するヒットメーカーの一人となり、2つの年代にわたって天下を取った。

 

キャロル・キングは、70年代のフォーク・ロックには珍しい優しさと闊達さをもって、愛の複雑な現実を考察している。60年代初頭、ニール・ダイアモンドや当時の夫ジェリー・ゴフィンらと並んで、キングは限りなく多才なブリル・ビルディングのソングライターだった。そこで彼女は、シャイレルズの「Will You Still Love Me Tomorrow」のようなガールズ・グループのアンセムを単なるバブルガムの域を超え、若きアレサ・フランクリンとともにゴスペルの火山的なパワーを取り入れ、モンキーズの大ヒット曲「Pleasant Valley Sunday」のカウライティングを手がけるなど、切ないサイケデリアを取り入れた。その後、傷つきやすいロックと直感的なソウルのミックスで独立を宣言したニューヨーカー出身の彼女は、1971年のソロデビュー作『Tapestry』などのアルバムで、シンガー・ソングライター時代の感情的な親密さを定義づけた。

 

彼女はまた、縁の下の力持ち的なソングライターから一人前のスターへと転身するための雛形も書いた。ほころびゆくロマンスへの痛切な探求を、クラシックなR&Bバラードの魅惑的な憧れと組み合わせたり(「It's Too Late」)、ブルース・シンガーのように闊歩しながら欲望が人生を変える力を讃えたり(「I Feel the Earth Move」)、キングは、トリ・エイモス、エリカ・バドゥ、エイミー・ワインハウス、アデルのようなワイルドで個性的な告白型シンガーの複数の世代を形作った。

 

 

『Tapestry』 Sony Music  1971


 最近、マーゴ・ガリアンの方が存在感を持ち始めているが、少なくとも、キャロル・キングは70年代のポップスを語る上で欠かすことの出来ない偉大な歌手である。現代の多くのポップシンガーがお手本にすべきであり、基本的な資質をすべて持ち合わせている。1960年代後半、ニューヨークの熟練したプロのソングスミスがローレル・キャニオンに移り住み、まったく新しい方法で自分の声を見つけ、1970年代の最高のポピュラーのレコードのひとつを世に送り出した。

 

これが、キャロル・キングの1971年のヒット曲『タペストリー』にまつわる略史であり、ジャンルにとらわれないシンガー・ソングライターの規範を象徴する作品であり、キングの第二の活動の幕開けとなったアルバムである。志を同じくする西海岸のアーティスト、ジェイムス・テイラーや、ジョニ・ミッチェルとともに活動したこのヒットメーカー・シンガーは、ソングライターとして、またパフォーマーとして、パーソナルな部分を削ぎ落とし、その結果、告白的表現の不朽のスタンダードを生み出した。一枚岩のポップ・アルバムに支配された10年間で、『Tapestry』は最大級のモンスターアルバムとなり、最終的に1,400万枚以上を総売上を記録した。
 

アルバムがリリースされる以前から、キャロル・キングはソングライターとしてアメリカン・ポップ・ミュージックの再構築に貢献しており、彼女の作品は女性グループの代弁者となっていた。シャイレルズの「ウィル・ユー・ラヴ・ミー・トゥモロー」では、これまで覆い隠されていた弱さを表現し、アレサ・フランクリンの「(ユー・メイク・ミー・フィール・ライク)ア・ナチュラル・ウーマン」では、大胆な官能性を表現した。ソロとして2作目となるアルバム『Tapestry』では、キャロル・キングはこれらの楽曲を再生させ、新曲の数々とともに彼女自身の物語を語った。それまでのヒット曲は元夫のジェリー・ゴフィンとの共作だったが、本作ではキングは新たなソングライティングのコラボレーターを一人受け入れた。トニ・スターンだった。

 

 「It's Too Late」

 

 

・James Taylor 

 

ジェイムズ・ヴァーノン・テイラー(1948年3月12日生まれ)は、アメリカのシンガーソングライター、ギタリスト。グラミー賞を6度受賞し、2000年にロックの殿堂入りを果たした。当初は、ビートルズのアップル・レコードからデビューした。さらりとした歌声と良質なソングライティングを特徴とする。


1970年にシングル「Fire and Rain」で3位を獲得し、1971年にはキャロル・キングが作曲した「You've Got a Friend」で初の1位を獲得した。1976年のグレイテスト・ヒッツ・アルバムはダイヤモンドに認定され、アメリカ国内だけで1,100万枚を売り上げ、アメリカ史上最も売れたアルバムのひとつとなった。


1977年のアルバム『JT』に続き、彼は数十年にわたって多くの聴衆を惹きつけてきた。1977年から2007年まで、彼がリリースしたアルバムはすべて100万枚以上のセールスを記録している。1990年代後半から2000年代にかけてチャートで復活を遂げ、代表作(『Hourglass』、『October Road』、『Covers』など)をレコーディングした。2015年には『Before This World』を収録したアルバムで初の全米1位を獲得した。

 

ジェームス・テイラーは「How Sweet It Is (To Be Loved by You)」や「Handy Man」などのカヴァーや、「Sweet Baby James」などのオリジナルでも知られている。 モンテ・ヘルマン監督の1971年の映画『Two-Lane Blacktop』では主役を演じた。2024年現在も精力的に活動を行っている。

 

 

『Sweet Baby James』 Warner  1970

 

フォーク・ロックやカントリー・ロックをベースとした良質なソングライティングで知られるジェームス・テイラー。ボストン出身のシンガーは、紆余曲折のある人生をギターやピアノに合わせて親しみやすく心に響く曲を歌う。男性のシンガーは特に、個人的あるいは近しい友人のことを歌った時に、その真価が出てくる。シンガーソングライターのジェームス・テイラーは、レコーディングする曲の選び方についてアップル・ミュージックに語っている。「単純に、自分が本当につながりを感じる曲を選び、それをギターで弾き、自分の声で歌うだけなんだ」

 

アレンジ、技術、フィーリングといったテイラーのシンプルな抽出は、1970年の爽やかなヒット曲 「Fire and Rain 」以前から、彼の音楽を決定づける要素だった。ボストンで生まれ、ノースカロライナのチャペル・ヒルで育ったテイラーは、カリフォルニアの有名なローレル・キャニオンで作り上げた穏やかで控えめなフォークで、60年代末のアメリカの集団的な落ち込みを捉えた。青春の雰囲気、人生をそのまま音楽にそのまま転化させたことがこのアルバムの音楽に普遍性を付与している。ひとつひとつの楽曲を真心を込めて制作することで知られているが、それはこのフォークロック、カントリー・ロックを基調とするアルバムを聞けば明らかである。

 

「Sunny Skies」

 

 

・America


 

1970年代にビックヒットを飛ばしたアメリカは、フォーク・ロックのハーモニーとカントリー・ロックのツワモノを、ポップ・ソングライティングの優れた才能で濾過し、不朽のトップ40チューンを次々と生み出した。皮肉なことに、アメリカン・ポップのサブセットを定義するようになったバンドはイギリスで始まった。

 

デューイ・バンネル、ジェリー・ベックリー、ダン・ピークは空軍の子供で、1970年にロンドンで出会い、一緒にバンド活動を始めた。1972年のデビュー・シングル「A Horse With No Name」で大成功を収めた後、3人はロサンゼルスに移り住み、「Ventura Highway」、「Tin Man」、「Sister Golden Hair」などの名曲を連発し、当時の爽やかな西海岸ポップ・サウンドを体現しながら、アメリカのチャートを席巻した。ビートルズのプロデューサー、ジョージ・マーティンは数枚のアルバムで彼らのポップ・マジックを生み出す手助けをした。10年代後半の頃には状況は冷え込んだものの、1982年の『You Can Do Magic』でアメリカ(ピークを除く)は復活を遂げた。

 

 

『A Horse With No Name』 Warner  1972


この1971年のフォーク・ロックの名作『名前のない馬』をトリオがレコーディングしたとき、海外にいる空軍出身の3人のうち2人はまだティーンエイジャーにすぎなかった。緊密なヴォーカル・ハーモニー、親密なプロダクション、インスパイアされたメロディーが、映画のような「A Horse with No Name」、キャッチーでチープな「I Need You」を特徴づけている。Here 「では実存的な問いかけの中で洒落たギター・ソロが聴けるし、ダン・ピークの 」Donkey Jaw "は、彼のクリスチャン・ロックでのキャリアとアメリカのエレクトリックな作品を予感させる。

 

 ウェスト・コーストロックのカントリー・ロックの側面を巧みに押し出した作品で、イーグルスの最初期の作風にも近い。考えようによっては、90年代始めのR.E.Mのカレッジロックの先駆的な作品とも考えられる。戦争という複雑な時代に生きながらも、牧歌的なスピリットを持つことにこの作品の意義がある。もちろん、その中にはディランの代表作のような青春味が滲む。

 

 

「Riverside」 

 

 

・ Janis Joplin



ジャニス・ジョプリン(Janis Joplin、本名 Janis Lyn Joplin、1943年1月19日 - 1970年10月4日)は、アメリカのロックシンガー。魂のこもった圧倒的な歌唱力と特徴のある歌声により、1960年代を代表する歌手として活躍。また死してなおロックの歴史を代表する女性シンガーとして現在に至るまで人気を博している。

 

ジャニス・ジョプリンは、テキサス州ポート・アーサーに生まれた。父セス・ジョプリンはテキサコに勤める労働者。家族は両親とマイケル、ローラの三人兄妹であった。ジョプリンは小さな頃からベッシー・スミスやオデッタ、ビッグ・ママ・ソーントンなどのブルースを聞いて育つ一方、地元の聖歌隊に参加している。1960年にポート・アーサーのトーマス・ジェファーソン・ハイスクールを卒業し、テキサス大学オースティン校に入学した。高校では他の生徒から孤立しがちであったが、仲の良かったグラント・リオンズという生徒にレッドベリーのレコードを聞かされたのを契機にブルースやフォーク・ミュージックにのめり込むようになった。

 

大学をドロップアウトしたジョプリンは、1963年にテキサスを離れて、サンフランシスコへと向かった。フォーク・シンガーとして生計を立てていたが、この頃から麻薬の常習が始まったとされる。覚醒剤やヘロインの他にアルコールも大量に摂取していた。彼女のお気に入りの銘柄は「サザン・コンフォート」であった。当時の女性シンガーについて当てはまることであるが、ジョプリンの外的なイメージと内面には大きな隔たりがある。後に彼女の姉妹が著わした手記『Love, Janis』には彼女が知的でシャイ、繊細な家族思いの人物であったことが記されている。


ビッグ・ブラザーから離れた彼女は、新しいバンドであるコズミック・ブルース・バンドを結成した。ブラス・セクションを加えた、よりソウル・ミュージックを意識した編成である。1969年に『I Got Dem Ol' Kozmic Blues Again Mama!』をリリースして、ウッドストック・フェスティバルにも出演したが、このバンドもほどなく解散した。この後ジョプリンは新しいバック・バンドであるフル・ティルト・ブーギー・バンドを結成する。こちらは、2人のキーボード奏者を含んだ編成。このバンドにおける演奏をもとに、ジョプリンの死後制作された1971年発表のアルバム『Pearl』は、彼女の短いキャリアにおける最高の売り上げを記録した。このアルバムからはクリス・クリストファーソンのカバー曲「Me and Bobby McGee」と、ビートニク詩人マイケル・マクルーアとジョプリンにより作曲された「Mercedes-Benz」がヒットを記録している。

 

 

『Pearl』 Sony Music  1971



ジョップリンはジャック・ケルアックに象徴されるビートニクの世代に属し、女性ロックシンガーとしては伝説的な存在である。ヘンドリックスと同じように彼女が27歳で死去し、27クラブの仲間入りを果たしたのは、ある側面では、ビートニクの暗い時代を反映させた象徴とも言える。その音楽は対象的に溌剌としたロックで、そういった負の一面をまったく感じさせない。歌唱力については、ブラック・ミュージックの象徴的な歌手にも引けを取らない。ソウルフルな歌唱で、ウェスト・コーストロックの象徴的なアルバムをジョップリンは残すことになった。

 

ジャニス・ジョプリンが70年代初頭に『Pearl』のセッション中に亡くなったとき、「Buried Alive in the Blues」にはヴォーカルが入らなかった。シンガーソングライターの失われた人生の悲劇は、自分自身の中に新たな力を感じていたアーティストの不在によって倍加された。新しいフル・ティルト・ブギー・バンドのおかげで、チープ・スリルのサイケデリック・ブルースよりもコントロールされていたが、それでも『パール』にはジョプリンを偉大にした何かがあふれていた。たとえ彼女が生きていたとしても、エレガントな 「Me and Bobby McGee 」やハワード・テイトの賢明なソウル・バラード 「Get It While You Can 」のカヴァーは、大きな感情的共鳴をもたらしただろう。彼女がいなければ、冗談のようなアカペラの 「Mercedes Benz 」でさえ胸に刺さっただろう。このアルバムを聴くとわかるように、「パール」はあまりにも偉大である。

 

 

「Get It While You Can」

 

 

・Joni Mitchell 



シンガー・ソングライター時代のパイオニア的存在であるジョニ・ミッチェルは、より大きく、より曖昧で、しかし外の世界と同じくらいリアルに感じられる内的世界を描き、人間関係や自己探求を、彼女以前には考えられなかった率直さ、ユーモア、知恵で表現した。カナダ生まれのミッチェル(1943年、ロバータ・ジョーン・アンダーソン生まれ)は、60年代半ばにアメリカに進出し、ジュディ・コリンズやトム・ラッシュといったアーティストにカバーされた後、ロサンゼルスのローレル・キャニオンに落ち着いた。

 

60年代後半、反体制的なフォーク・シーンでソロ・キャリアをスタートさせたにもかかわらず、彼女はカウンターカルチャーに対して懐疑的な態度をとり、ジャズへの進出(チャールズ・ミンガスやジャコ・パストリアスとのコラボレーションを含む)、詩や絵画への時折の隠遁など、アイコノクラスムとミューズへのこだわりを何十年も持ち続けた。(私はいつも、自分自身を状況によって脱線した画家だと考えてきた」と彼女はかつて語っている)。

 

2015年の脳動脈瘤でミッチェルは身体的に衰弱し、集中的なリハビリを必要とした。2022年のニューポート・フォーク・フェスティバルで公の場に復帰し、翌年にはワシントンで初のフル・コンサートを行った。2024年のグラミー賞での初パフォーマンスは、彼女の遺産を思い出させた。フォーク、ポップス、ジャズの間を自由に行き来しつつも、それを誇示することなく、彼女のたゆたうような歌声とアドバイス、そして鋭く、時に辛辣なウィットを並置している。 

 

 

『Blue』 1971  Warner


最近のリスナーにとって、ジョニ・ミッチェルはジャズ系のシンガーとして認知されているかもしれないが、当初はフォーク・ロックの音楽性が魅力だった。もし、ミッチェルの音楽の素晴らしさを知りたいのなら、彼女の4枚目のアルバム『Blue』(1971年)をおすすめしておきたい。このシンガーソングライターの歌の繊細さと美しさを体験するのに最適な名盤である。まるで個人的な日記を綴るように、ささやかで、温和なフォーク・ミュージックが繰り広げられる。

 

2曲目に収録されている「My Old Man」では、シンガー・ソングライターはピアノを弾きながら、憂鬱な気分を抑えてくれる「公園で歌う人」「暗闇で踊る人」と分かち合った人生への晴れやかな賛歌を歌う。彼女は、強い二人の絆を自慢し、ミュージシャンが彼に贈る最高の賛辞を添えている。そして、「My Old Man」のブリッジでは、ミッチェルの温かい愛情の中に、冷ややかな無調の変化が現れることに注目しておきたい。 


「しかし、彼がいなくなると、私と孤独なブルースは衝突する/ベッドは大きすぎるし、フライパンは広すぎる」
 

傑作『Blue』にはこのようなミラクルな瞬間があふれている。ミッチェルが永遠のものにした、他愛のないスナップショットだ。恋人が去っていくとき、彼女は寂しいと言うだけでは十分ではない。彼女の痛みは、彼がベッドシーツのもつれの中に残していく空間と、2人ではなく1人の朝食を作るスキレットに感じられる、直感的なものである。ミッチェルが『Blue』を書いたとき、彼女は初期のサスカチュワンのステージやトロントのフォーク・シーンから遠ざかって久しかった。その後、3枚のアルバムを発表しキャリアを深めた彼女は、そのソングライティングと雲をつかむように抽象的な歌唱力で、世界的な人気を築こうとしていた。1971年のことであった。



「Little Green」

 

 

・Neil Young 



ニール・ヤングNeil Young, 1945年11月12日 - )は、カナダ・トロント出身のシンガーソングライター。クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングやバッファロー・スプリングフィールドのメンバーとしても活躍。1969年にソロデビューし、1995年にはロックの殿堂入りを果たした。

 

「ウッドストック」世代の1人として、アメリカ国内の保守化や右傾化に対して「異議申し立て」の姿勢を貫いている。1990年の湾岸戦争の際には、コンサート会場でボブ・ディランの「風に吹かれて」を歌い、また2001年の「9月11日事件」直後に、放送が自粛されていたジョン・レノンの「イマジン」を歌った。イラク戦争後は、ブッシュ政権打倒の姿勢を鮮明にしている。

 

同世代のミュージシャンから後進の若いミュージシャンたちまで交友範囲は広い。ただ、それだけに、音楽界での悲劇的な死の多くを見つめ続けてきた。また、ニルヴァーナのカート・コバーンの自殺にも深く心を痛めた(コバーンの遺書には、ニールの歌詞の一節が引用されていた)。

 

ソロ活動で行動を共にすることが多いのが、クレイジー・ホース(Crazy Horse)。もともとは6人編成のバンドだったザ・ロケッツから、ダニー・ウィットン(ギター)、ラルフ・モリーナ(ドラムス)、ビリー・タルボット(ベース)の3人がニールに見初められ、彼のバックバンドとしてクレイジー・ホースが結成された。しかし、1972年12月、ギタリストのダニーが死亡したため(ヘロイン中毒による)、新メンバーとしてギタリストのフランク・サンペドロが加入した(なお、ニールとの活動とは別に、クレイジー・ホースとしてのアルバムも発表している)。

 

しかし、このクレイジー・ホースとともに作り出す、ハードで豪快なロック・サウンドが、ニール・ヤングのすべてではない。時として、サポートメンバーを入れ替え、フォーク、カントリー、ロカビリー、テクノ、グランジ等、発表作品ごとに作風が変化する。一芸に安住せず、巷の評価に拘泥することなく、新しいものに挑戦し続ける姿勢こそ、ニールの真骨頂である。新作発表が伝えられるたび、「次はどんな作品になるのか」と期待してしまうファンも少なくない。

 

ボーカルも個性的で、その鼻にかかったような印象のハイトーンの声は、バラードには無垢な繊細さ、ハードなロック・ナンバーには悲痛な表情を与えている。 ギタープレイに関してはいわゆる「ヘタウマ」という評価があるが、過剰に歪ませた爆音サウンドを引き出す激情的なプレイはオンリー・ワンと言うべきで、根強い人気がある。 無骨かつ繊細なアコースティック・ギターのプレイも人気が高い。

 
1945年にトロントで生まれた彼は、60年代半ばにロサンゼルスに移り住み、1970年の『After the Gold Rush』や1975年の『Tonight's the Night』のような内省的なソロ・アルバムからクレイジー・ホースとのグループ活動まで、彼の音楽はポスト・ビートルズのロックンロール・サウンドを定義するのに貢献した。カントリー、グランジ、フォーク、ノイズ......、ヤングがこれほど多くの音楽的系譜に馴染むとすれば、それは彼があまりに多くの領域を確かな信念でカバーしてきたからに他ならない。伝記作家のジミー・マクドナーが、ヤングに「宇宙へ行きたいと思うか」と訊ねた時、ヤングは「自分がずっと宇宙へ行くと分かっている時だけそうする」と答えた。

 

 
『Harvest』Reprise 1972

 

グラハム・ナッシュは、1971年に北カリフォルニアの牧場にニール・ヤングを訪ねたときの話をしたことがあった。ヤングがナッシュに何か聴きたいと言うと、ナッシュはいいよと答えた。

 

ヤングはナッシュを湖へと案内し、2人は手漕ぎボートに乗って漕ぎ始めた。ナッシュは、ヤングは彼にとって謎の存在だったので、湖の真ん中まで漕ぎ出して会話をするのは理にかなっていると言った。ヤングは自宅と隣接する納屋に巨大なスピーカーを設置していたことがわかり、2人は水上に座って『Harvest』を聴いた。



このアルバムはヤングに最大の商業的成功をもたらし、「Heart of Gold」は70年代フォーク・ロックの色あせた美しさを決定づけた曲で、ヤングの唯一のNo.1シングルとなる。しかし、その乏しさと内省感は、1960年代後半の市民意識から離れ、エリオット・スミスのようなインディーズ・アーティストやニルヴァーナの『Unplugged』のようなアルバムの基盤としても機能した。

 

「ハート・オブ・ゴールド」と「オールド・マン」のバック・ボーカルを務めたリンダ・ロンシュタット(同じくウエストコーストの代表格)は、ニール・ヤングをスケッチ・アーティストと評した。もちろん、手漕ぎボートの中で聴く必要はないが、ヤングがなぜそうしたかったのかは理解できるだろう。『ハーベスト』は、シンプルであり続けるというファンタジーについて歌っているだけでなく、ひとりで、あるいは少なくとも岸から離れ、シンプルであり続けるというファンタジーについて歌っている。だから、彼が失った友人を悲しむ場所を与えるというわけなのである。

 

フォーク、カントリーの重要なアイコンであるが、このアルバムを聴くと、あらためてヤングのソングライティングの凄さが際立っているのが分かる。「A Man Needs a Maid」はオーケストラの演奏をフィーチャーした長大なスケールを持つ後の時代を先駆ける名曲であり、ウェストコーストロックにとどまらず、70年代を代表する素晴らしいポピュラー・ソングの一つである。

 

 

「A Man Needs a Maid」

■ 90年代のテクノ・ミュージック  

Plaid  90年代のテクノの立役者

デトロイトで始まり、隣接するシカゴを経て、海を渡り、イギリスに輸出されたテクノミュージック。現在でもハウスと並んで人気のあるダンス・ミュージックである。Kraftwerkから始まった電子音楽のイノベーションは、NEUの実験的な音楽の位置づけを経て、アメリカ、イギリスに渡り、それらの前衛的な性質を残しつつも、ベースメントの領域で独自の進化を辿るようになった。元々、アメリカではブラックミュージックの一貫として始まったこのジャンルがイギリスに渡ると、白人社会の音楽として普及し、80年代の後のクラブカルチャーを後押しした。


1990年代のテクノ・ミュージックは、新しもの好きのミュージシャンがラップトップで制作を始めた時期に当たる。90年代のテクノが以前のものと何が異なるのかといえば、その音楽的な表現を押し広げ、未知の可能性を探求するようになったことだろうか。

 

このジャンルを一般的に普及させたデトロイトのDJ、ジェフ・ミルズは、この年代において「テクノはストーリーテリングの要素を兼ね備えるようになった」と指摘している。いわば、それまでは4つ打ちのハウスのビートのリズムをベースに制作されるDJの音楽という枠組みにとどまっていたテクノは、ナラティヴな性質を擁するに至る。そのおかげか、たとえ全体的なイメージが漠然としていたとしても、制作者やDJは、音楽の概念的なイメージをリスナーに伝達しやすくなった。

 

近年でも、これらの「ストーリーテリングの要素を持つテクノ」という系譜は受け継がれていて、Floating Pointsの最新作『Cascade』、ないしは、Oneohtrix Point Neverの『Again』ということになるだろうか。さらに言えば、それは、単にサンプラーやシンセで作曲したり、DJがフロアで鳴らす音楽が、独自形態の言語性を持ち、感情伝達の手段を持ち始めたということでもある。

 

さらに、ジェフ・ミルズの指摘と合わせて再確認しておきたいのが、(Four Tetが今でもそういった制作方法を行うことがあるように)電子音楽がサウンド・デザインの要素を持ち始めたということだろう。これらは、シンセのプリセットや製品の進化と並行して、従来になかったタイプの音色が付け加えられるようになり、純粋なリズムのための音楽であったテクノが旋律の要素を殊更強調し、多彩な表現性を持つようになったことを意味している。「カラフルな音楽」とも換言できるかも知れない。その過程で、幅広い音楽の選択肢を持つようになったことは事実だろう。

 

ご存知の通り、2020年代では、オーケストラのような壮大なスケールを擁する電子音楽を制作することも無理難題ではなくなりつつある。これは、1990年代のプロデューサー/DJの飽くなき探究心や試作、そして、数々の挑戦がそれらの布石を形作ったのである。また、実験音楽としての電子音楽が街の地下に存在することを許容する文化が、次世代への道筋を作った。もちろん、これらのアンダーグランドのクラブカルチャーを支えたのは、XL、Warp、Ninja Tune((90年代はヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブが多い)、そしてドイツ/ケルンのKompaktとなるだろう。

 

現在でも、上記のレーベルの多くは、主要な話題作と並び、アンダーグラウンドのクラブミュージックのリリースも行っている。要するに、売れ行き重視の商業的な音楽を発表することもあるが、基本的には、次世代の音楽の布石となる実験性の余地、ないしは、遊びの余白を残している。例えば、もしかりに、90年代のテクノミュージックが全く非の打ち所がなく、一部の隙もない音楽だったとしたら、次世代のダンスミュージックは衰退に向かっていたかも知れない。これらのレーベルには、欠点、未達、逸脱を許容する懐深さをどこかに持っていたのだ。

 

下記に紹介するプロデューサー、DJの作品は、彼らの前に何もなかった時代、最初のテクノを波を作った偉大な先駆者ばかりである。それは小さなさざなみに過ぎず、大きなウェイブとならなかったかもしれないが、2000年代以降のダンスミュージックの基礎を作ったのみならず、現代のポピュラーミュージックの足がかりを作る重要な期間でもあった。しかし、これらの解釈次第では「未知への挑戦」が次世代の音楽への布石となったのは事実ではないだろうか。




1.  SL2 『DJs Take Control』1991  XL

 

SL2は、ロンドン出身のブレイクビーツ・ハードコア・グループ。Slipmatt & LimeやT.H.C.名義でもレコーディングやリミックス、プロデュースを行っている。

 

SL2は当初、DJのマット・「スリップマット」・ネルソンとジョン・「ライム」・フェルナンデス、ラップボーカリストのジェイソン・「ジェイ・J」・ジェームスの3人で結成された。SL2という名前は、創設者たちのイニシャルに由来する。1985年に活動を開始し、93年に解散するも、1998年に再結成し、現在に至る。

 

『DJs Take Control』は、Food MusicとXLの2つのバージョンが存在する。'89年にイギリスで合法的に開催されたオリジナル・レイヴ「RAINDANCE」のレジデントであったSLIPMATTとLIMEを中心とするハードコア・ユニット・SL2が'91年にリリースした作品。Food MusicからのリリースとXLのリリースの二バージョンが存在する。Food Musicのオリジナル・バージョンは2018年に再発された。


レイヴミュージックをベースにしたサウンドであるが、ハードコア、UKブレイクビーツの先駆的な存在である。以降のJUNGLEのようなサンプルとしてのダンスミュージックの萌芽も見出だせる。クラブ・ミュージックの熱気、そしてアンダーグラウンド性を兼ね備えた画期的な作品だ。

 

 


 

 


 

2. Kid Unknown 「Nightmare」1992 Warp

 

 Kid Unknownは、ポール・フィッツパトリックのソロプロジェクト名で、マンチェスターの伝説的ナイトクラブ、ハシエンダのレギュラーDJだった。

 

1992年にワープから2枚のシングルをリリースした後、ニッパー名義でレコーディングを行い、LCDレコーズを共同設立している。

 

 1992年にWarpから発売されたEPで、イギリス国内とフランスで発売された作品であると推測される。当初は、ヴァイナルバージョンのみの発売。イギリスのブレイクビーツ/ダブの最初期の作品で、おそらくハシエンダのDJであったことから、マンチェスターのクラブミュージックの熱気が音源からひしひしと伝わってくる。DJのサンプラーやシンセの音色もレトロだが、原始的なビートやフロアの熱気を音源にパッケージしている。

 

このEPを聞くかぎりでは、最近のEDMはパッションやエネルギーが欠落しているように思える。知覚的なダンスミュージックというより、どこまでも純粋な感覚的なダンスミュージック。

 

 

 

 

3. John Bertlan 『Ten Days Of Blue』1996   Peacefrog Holding  

 


デトロイト・スタイルのテクノをレコーディングするプロデューサーとして、ジョン・ベルトランほど優れた経歴を持つ者はいない。

 

ミシガン/ランシング近郊を拠点に活動するベルトランは、デリック・メイ(インディオ名義)と仕事をし、カール・クレイグのレーベル、レトロアクティブから数枚のレコードをリリースしている(マーク・ウィルソンと共にオープン・ハウス名義)。ジョン・ベルトランは、ワールド・ミュージックやニューエイジ・ミュージックから着想を得て、PeacefrogやDot(Placid Anglesとして)といったホームリスニング志向のレーベルから作品をリリース。90年代初頭にアメリカのレーベル”Fragmented”と”Centrifugal”からシングルをリリースした後、1995年にR&Sレコードからデビューアルバム『Earth and Nightfall』をレコーディングした。

 

『Ten Days Of Blue』は2000年代以降のテクノの基礎を作った。ミニマル・テクノが中心のアルバムだが、駆け出しのプロデューサーとしての野心がある。現在のBibloのような作風でもあり、他のアコースティック楽器を模したシンセの音色を持ちている。かと思えば、アシッド・ハウスや現在のダブステップに通じるような陶酔的なビートが炸裂することもある。サウンド・デザインのテクノの先駆的な作品であり、時代の最先端を行く画期的なアルバムである。


 

 


 4. Plaid 『Not For Threes』1997  Warp

  

エレクトロニック・ミュージックの多様なサブジャンルを探求する時でさえ、イギリスのデュオPlaidは繊細なタッチを保っている。アンディ・ターナーとエド・ハンドリーは、UKのパイオニア的レーベルであったワープ・レコードの初期に契約し、ザ・ブラック・ドッグの後継者として、1991年にロンドンでこのプロジェクトを立ち上げた。

 

プレイドは、1997年の『Not For Thees』を皮切りに、カタログの大半をワープからリリースしている。このアルバムでは、メロウなブレイクビーツと格子状に脈打つメロディーをバックに、ビョークが歌い、「Lilith」では狼のように戯れに吠える。常に微妙に形を変えながら、

 

プレイドはその後、バブリーなアンビエンス(2001年の『Double Figure』)、シネマティックなムード(2016年の『The Digging Remedy』)、グリッチ的な複雑さ(2019年の『Polymer』)に及んでいる。ターナーとハンドリーは、2022年の『Feorm Falorx』で、架空の惑星で無限のフェスティバルを演奏する自分たちを想像し、これまでで最も弾力性のある作品を制作した。アルバムでは、ニューエイジサウンドに依拠したテクノ、ドラムンベース、アシッド・ハウス、トリップ・ホップ等、多角的なダンスミュージックを楽しむことが出来る。

 

 

 

 

 

5.  Aphex Twin 『Digeridoo』 1993  Warp


テクノの名作カタログを数多くリリースしているAphex Twin。メロディアスなテクノ、ドラムンベースのリズムを破砕し、ドリルに近づけたダンスミュージックの開拓者である。


最近では、「Come To Daddy EP」、『Richard D Jamse』等のテクノの名盤を90年代に数多く残したが、実のところ、ハウス/テクノとして最も優れているのは『Digeridoo』ではないか。ゴア・トランス、アシッド・ハウスといった海外のダンスミュージックを直輸入し、それらをUK国内のハードコアと結びつけ、オリジナリティ溢れる音楽性へと昇華させている。いわば最初期のアンビエント/チルウェイブからの脱却を図ったアルバムで、むしろ90年代後半の名作群は、この作品から枝分かれしたものに過ぎないかもしれない。2024年にはExpanted Versionがリリースされた。名作が音質が良くなって帰ってきた!!





6. Oval 『94 Diskont』 1996   Thrill Jockey

 

オーバルは1991年に結成された。マルクス・ポップ、セバスチャン・オシャッツ、フランク・メッツガー、ホルガー・リンドミュラーによるカルテットとしてスタートし、2年後にリンドミュラーが脱退した後、95年にマーカスポップによるプロジェクトになった。彼のソフトウェアベースの音楽は、ライブボーカルやクラブ対応ビートなどの要素が最終的に追加され、より従来の美しさとより混沌としたアイデアの両方を含むようになる。


1994年の『Systemisch』でCDをスキップする実験を行ったが、この1995年の続編では、そのテクニックを本当に叙情的に表現している。24分に及ぶ「Do While」はベル・トーンとスタッカート・チャイムで表現され、「Store Check」のラジオスタティックから「Line Extension」のシューゲイザーに至るまで、アルバムの他の部分も同様に催眠術のよう。これほど実験的な音楽が、温かな抱擁のように聴こえるのは珍しい。このアルバムはIDMの先駆的な作品であり、ダンスミュージックをフロアにとどまらず、ホームリスニングに適したものに変えた。2000年代以降のグリッチサウンドの萌芽も見出されるはずだ。

 



7. Dettinger 『Intershop』1999   Kompakt    * 2024年にリマスターで再発

 

Dettinger(デッティンガー)はドイツのレコード・プロデューサーで、ケルンを拠点とするレーベルKompaktと契約している。1998年の『Blond 12「』、1999年のアルバム『Intershop』(Kompakt初のシングル・アーティストLP)、『Puma 12」』、『Totentanz 12"』、2000年のアルバム『Oasis』などをリリース。


デッティンガーのトラックは、KompaktのTotal and Pop AmbientシリーズやMille PlateauxのClick + Cutsシリーズなど、様々なコンピレーションに収録されている。ペット・ショップ・ボーイズ、クローサー・ムジーク、ユルゲン・パーペなどのアーティストのリミックスも手がけている。また、フランク・ルンペルトやM.G.ボンディーノともコラボレーションしている。


『Intershop』については、アンビエントテクノの黎明期の傑作とされる。いかにもジャーマンテクノらしい職人的な音作りが魅力。それでいて天才的なクリエイティビティが発揮されている。Krafwerkの末裔とも言えるような存在。現在のテクノがこの作品に勝っているという保証はどこにもない。すでに2000年代のグリッチノイズも登場していることに驚く。テクノの隠れた名盤。

 

 

 


8.Orbital 『Orbital』(The Green Album)1991  London Records

 

表向きの知名度で言えば、Autechreに軍配があがるが、個人的に推すのがオービタル。アンダーワールド、ケミカル・ブラザーズ、プロディジーらと並び、1990年代のテクノシーンを代表するアーティストのひとつである。ライヴではライト付きの電飾メガネを付けてプレイするのが大きな特徴。

 

1990年代以来、ケント州のデュオ、オービタルは、複雑でありながら親しみやすいエレクトロニック・ミュージックを提供し、ダンスフロアのために作られた曲のために、渋いテクノと陽気なディスコの間を揺れ動いてきた。フィルとポールのハートノール兄弟は、M25に敬意を表して自分たちのプロジェクトを名付け、最初のシングル「Chime」を父親の4トラック・レコーダーで制作した。

 

1993年の『Orbital 2』でブレイクした彼らは、ディストピア的なサウンドと複雑なリズムを組み合わせたテクノ・アルバムを発表。その後のLP『The Middle of Nowhere』(1999年)や『Blue Album』(2004年)では、ハウスやアンビエント・テクノの実験を続け、2004年に解散。2012年に再結成された『Wonky』は、彼らの最もダイナミックな作品を生み出した活気に満ちたLPで、この傾向は2018年の『Monsters Exist』でも続いている。技術的に熟達しながらも果てしない好奇心を持つオービタルは、エレクトロニック・ミュージックの柱として君臨している。

 

グリーンアルバムはシンプルなミニマル・テクノが中心となっているが、このジャンルの感覚を掴むために最適なアルバムなのではないか。音色の使い方のセンスの良さ、そして発想力の豊かさが魅力。


 




9.  横田進  『Acid Mt.Fuji』1994 Muscmine Inc.


横田は日本出身の多彩で多作な電子音楽家・作曲家である。当初は1990年代を通じてダンス・ミュージックのプロデュースで知られていたが、2000年代に入ると、舞踏のように忍耐強く、小さなジェスチャーと徐々に移り変わる静かな音のレイヤーで展開するアンビエントで実験的な作品で、世界的なファンを獲得した。

 
初期のリリースは、アシッドトランスの『The Frankfurt-Tokyo Connection』(1993)から、デトロイトにインスパイアされた爽やかなテクノやハウスの『Metronome Melody』(Prismとして1995)まで多岐にわたる。

 
1999年に発表されたループを基調とした幽玄な瞑想曲『Sakura』は批評家から絶賛され、以来アンビエントの古典とみなされるようになった。その後、2001年の『Grinning Cat』や2004年のクラシックの影響を受けた『Symbol』など、アンビエントやダウンテンポの作品が多く発表されたが、2009年の『Psychic Dance』など、テクノやハウスのアルバムも時折発表している。


後には、ミニマル音楽等実験音楽を多数発表する横田さん。このアルバムではテクノとニューエイジや民族音楽等を結びつけている。心なしか東洋的な響きが込められているのは、ジャパニーズテクノらしいと言えるだろうか。日本のテクノシーンは、電気グルーヴやケン・イシイだけではないようだ。

 

 

 


10.   Thomas Fehlman   『 Good Fridge. Flowing: Ninezeronineight』1998  R&S


トーマス・フェールマンは、ポスト・パンクやハードコア・テクノ等、長年にわたってさまざまなスタイルでプレイしてきたが、アンビエント・ダブの巨人として最もよく知られている。

 

1957年、スイスのチューリッヒに生まれた彼は、1980年にハンブルクでホルガー・ヒラーとともに影響力のあるジャーマン・ニューウェーブ・グループ、パレ・シャウムブルクを結成。


90年代初頭には、モリッツ・フォン・オズワルド、フアン・アトキンス、エディ・フォウルクスらとともに2MB、3MBというグループでスピード感のあるストリップダウンしたレイヴを作り始め、デトロイトとベルリンのそれぞれのテクノ・シーンのつながりを正式に築くことに貢献した。

 

1994年にリリースした『Flow EP』などで、フェールマンはよりアンビエントなテクスチャーの探求を始め、ケルンのレーベル”Kompakt”からリリースした数多くのアルバムに見られるような瑞々しいパレットを確立した。パートナーのグドゥルン・グートとのマルチメディア・プラットフォーム「Ocean Club」のようなサイド・プロジェクトの中でも、フェールマンはアレックス・パターソンのアンビエント・プロジェクト「The Orb」の長年のコラボレーターであり、時にはゲスト・ミュージシャンとして、時には(2005年の『Okie Dokie It's The Orb On Kompakt』のように)グループの正式メンバーとして参加している。


『 Good Fridge. Flowing: Ninezeronineight』はベテランプロデューサーの集大成のような意味を持つアルバム。ジャーマンテクノの原点から、UKやヨーロッパのダンスミュージック、そしてテクノ、アンビエント、ハードコアテクノ、アシッド・ハウスまでを吸収したアルバム。98年の作品とは思えず、最近発売されたテクノアルバムのような感じもある。ある意味ではジャーマンテクノの金字塔とも呼ぶべき傑作。

 


 

◾️2000年代のテクノミュージックをより良く知るためのガイド

 John Coltrane 稀代のサクスフォン奏者  コルトレーンの代表作



ジョン・コルトレーンは、いかなる分野であれ、天才的な人物は驚くほど早く世を去ることがあるという、歴史的に惜しむべき事実を明確に反映している。他の人が気づいたときには、そういった人物は、普通の人々のはるか先を歩いているものだ。一般的な人々がその人を追いかけ始はじめた時、その人は踵を返し、別の道を歩み出す。そして一般の人々がそのことに注目するようになると、全然違うことを始める。だから、一般的な人々の理解に及ばない部分がある。


コルトレーンの十年のジャズの作曲法、及び、主要な演奏法には、古典的なものから、対象的に、まったく以前の形式とは異なる前衛的なものまで幅広いスタイルが含まれている。ハード・バップからモード奏法へのこだわりなど...。もちろん、前衛的な演奏法についても、アリス・コルトレーンと併せて称賛されて然るべきだが、サクスフォン奏者としては、ブルー・ジャズにこそ彼のプレイの醍醐味がある。ミュート奏法を用いたコルトレーンの演奏は、ブレスに神妙な味わいがあり、トランペットに近い深みのある音響性をもたらすことがある。


セロニアス・モンクとのコラボレーションでは、前衛的な奏法にも挑戦しているコルトレーン。それと同時に、彼はまた、スタンダードジャズの普及に多大なる貢献を果たした演奏家でもあった。特に、現代的なサクスフォニストとは異なり、彼の演奏の核心には、メロウなサックスというテーマを発見できる。コルトレーンは、無名の時代が長く、有名になったのは十年ほどであったという。それは、彼が従来のハード・バップから離れ、前衛的なジャズを探訪していたからである。ではなぜ、後世に名を馳せたかを推察してみると、彼の演奏は、それ以後、新しい形式を捉えつつも、「古典性の継承」という重要なサブテーマを掲げていたからである。もしかりに、コルトレーンの演奏法が前衛性だけに焦点を絞っていたとするなら、「ジャズの巨匠」と呼ばれるまでには至らなかったのではないだろうか.......。そして、いついかなる時代のコルトレーンの演奏についても、彼の演奏には慎み深さがある。要するに、音楽に対する一歩引いた感覚があり、音楽をいつも主体とし、多彩なサックスの演奏を披露するのである。

 

つまり、それがセロニアス・モンクやマイルス・デイヴィス、ビル・エヴァンスといった数々の名だたるプレイヤーとのコラボレーションでも重要な役割を果たす要因ともなった。もし、彼が存在感を出しすぎたり、プレイヤーとしての自分自身のキャラクター性を重要視するような演奏家であったなら、どうなっていただろう。もしかすると、数々の共同制作の名盤は秀作の域にとどまっていた可能性もあるかもしれない。コルトレーンは、前に出たり、後ろに退いたり、いつも柔軟性のあるスタンスを取っている。だから、彼の演奏は作品ごとにまったくその印象が異なる。古典的であるかと思えば、前衛的。前衛的かと思えば、古典的。そして、脇役かと思えば、主人公になる。主役になったかと思えば、名脇役にもなる。つまり、彼は10年に及ぶジャズの系譜において、自分の演奏者としての立ち位置を固定したことは一度もなかったのだ。

 

ジョン・コルトレーンの演奏はたいてい、レコーディングであれ、ライブであれ、その空間に鳴っている音楽に対して謙虚で慎ましい姿勢を堅持している。それが音楽としての心地良さをもたらし、このプレイヤーしか持ち得ない霊妙な感覚、そして、人々を陶酔させるジャズを構築したのである。

 

クラシックであれ、ジャズであれ、超一流の音楽家はプレイスタイルを持つようでいて持たない。いつも、彼らは苦心して築き上げたものを見放し、ときには壊してしまう。世に傑出した芸術家はたいてい、自分の築き上げたものが「砂上の楼閣」に過ぎぬか、「現実の影」に留まると認識しているのである。こういった「天才」と称される人々は、一つのやり方に固執することはほとんどなく、変幻自在な性質を持つことを特徴としている。しかしながら、同時に、 演奏や作曲性に関しては、その人物しか持ち得ないスペシャリティ(特性)が出現することがある。

 

その作品を見れば、制作者の人となりが手に取るように分かる。同じように、演奏についても表現者の人柄を鏡のごとく鮮明に映し出す。残酷なまでに.......。不世出のサクスフォニスト、ジョン・コルトレーンは、薬物問題に絡め取られることもありながら、紳士性を重んじ、何より敬虔なる人物であったと推察される。それがゆえ、ジャズの未来を塗り替えることが出来たのだ。また、だからこそ、彼の演奏は時代を越えて、多くの聞き手を魅了しつづけるのだろう。

 

 ・Vol.1を読む BILL EVANS   ビル・エヴァンスの名曲  クラッシックとジャズを繋げた名ピアニスト


 

・「Blue Train」/ Blue Note 1958

 

マイルス・デイヴィス・クインテットを1957年に離脱したジョン・コルトレーンがその翌年に発表したアルバム。3管編成で録音。タイトル曲には、モード奏法からのフィードバックも含まれている。コルトレーンは、この作品において、作曲全体の規律性を重視し、ジャズの概念を現代的に洗練させている。ただ、「Lady Bird」に代表付けられるように、従来の自由度の高いベースに支えられるハードバップに重点が置かれている。また、「I'm Old Fashioned」には、古典派への回帰という、以後の時代の重要な主題も発見できることにも着目したい。

 

 

 

・「Giant Steps」/ Atlantic  1960

 

 

「Love Supreme」、「Bluetrane」、「My Favorite Things」等、名盤に事欠かないコルトレーン。しかし、ジャズそのものの多彩さ、音楽の幅広さを楽しめるという点において「Giant Steps」を度外視することは難しい。このアルバムは「Blue Train」と並び、稀代のジャズの名盤として名高い。

 

本作は、中期に向けての変遷期に録音。チャーリー・パーカーのビバップの形式を元に、「コルトレーン・ジャズ」という代名詞を作り上げた作品でもある。演奏法を見ると、70年代のフリー・ジャズを予見したアルバムと称せる。ただ、ジョン・コルトレーンの演奏法が従来のスケールや和音に束縛されていないとしても、全体的な作曲はスタンダード・ジャズを意識している。これが自由で開放的な気風を感じさせるとともに、聞きやすい理由である。現在のブルーノートのライブハウスで聴けるようなジャズグループの演奏の基礎が集約され、ジャズ・ライブでお馴染みのコール・アンド・レスポンスの演奏も含まれている。世紀の傑作「Blue Train」と並んで、「ジャズの教科書」として見なされるのには、相応の理由があるわけなのだ。

 

 

 

・「Ballads」/ Impulse!  1963



コルトレーンがハード・バップ/ビバップから脱却を試みた作品。そして、次なる形式は「古典性への回帰」によって生み出されることに。現在のスタンダードジャズの基本的な形式の基礎は、このアルバムに全て凝縮されている。また、以降の時代の多くのサックス奏者の演奏法の礎を確立した作品でもある。「Ballads」では、ニューオリンズの「ブルー・ジャズ」の古典性に回帰しながら、モード奏法を異なる形に洗練させている。もちろん、遊び心もある。「All Or Nothing At All」では、アフリカのリズムを織り交ぜ、率先してアフロ・ジャズに取り組んでいる。彼の代表的なナンバー「Say It(Over and Over Again)」はジャズ・スタンダードとして名高い。


ジョン・コルトレーンは、新しい形式を生み出すために、古典に回帰する必要があることを明示している。これはデイヴィスが教会旋法からモード奏法を考案したことにヒントを得たと考えられる。(モード奏法は、ドリア、フリギア、リディア、ミクソリディアという旋法の基礎からもたらされた)さらに、現行の米国のミュージシャンが取り組む「古典性の継承」というテーマ、それはすでに1963年にジョン・コルトレーンが先んじて試みていたことであった。

 

 


【JAZZ AGE】 BILL EVANS   ビル・エヴァンスの名曲  クラッシックとジャズを繋げた名ピアニスト

 Jazz Age:  Vol.1  Bill Evans



 ジャズ・ピアニスト、ビル・エヴァンス(Bill Evans)は、1929年にニュージャージー州ブレインフィールドで生まれた。スラブ系の母親、そしてウェールズ系の父親の間に生まれた。彼の父親はエヴァンスに幼い頃から音楽を学習させた。

 

クラシック音楽からの影響が大きく、セルゲイ・ラフマニノフやイゴール・ストラヴィンスキーなど、ロシア系の古典音楽に親しんだ。かれがジャズに興味を持つようになったのは10代の頃。兄とともにジャズのアマチュアバンドで演奏するようになった。1946年にサウスイースタン大学に通い始め、音楽教育を専攻した。学生時代にはのちの重要なレパートリー「Very Early」を作曲した。

 

 1950年、大学を卒業すると、翌年には陸軍に入隊。朝鮮戦争の前線に赴く機会はなく、陸軍のジャズバンドで演奏するだけだった。 この頃の不本意な時期に、後に取りざたされる麻薬乱用を行うようになった。1954年に兵役を終え、折しもジャズシーンが華やかりしニューヨークで音楽活動を開始する。バックバンドとしての活動にとどまったが、作曲家のジョージ・ラッセルの録音に参加。その活動をきっかけにスカウトの目に止まり、リバーサイド・レーベルからデビュー・アルバム『New Jazz Conceptions』をリリースするが、売上はわずか800枚だった。

 

1958年にはマイルス・デイヴィスのバンドに加わり、録音とツアーを行った。彼はバンドで唯一白人であったこと、そして薬物乱用の問題、さらにはエヴァンス自身がソロ活動を志向していたこともあり、バンドを離れた。しかし、マイルス・デイヴィスの傑作『Kind of Blue』の録音に参加し、旧来盛んだったハードバップからモード奏法を駆使したスタイルでジャズに清新な息吹をもたらす。モード奏法はこのアルバムの「Flamenco Sketches」に見出すことができる。


1959年になると、ドラマーのポール・モチアン、ベースのスコット・ラファロをメンバーに迎え、ジャズトリオを結成。ジャズの系譜におけるトリオの流行は、この三人が先駆的な存在である。テーマのコード進行をピアノ、ベース、ドラムスがそれぞれ各自の独創的な即興演奏を行い、独特な演奏空間を演出した。後のモダンジャズのライブではこのソロがお約束となる。

 

ビル・エヴァンス・トリオで収録した『Portrait In Jazz- ポートレイト・イン・ジャズ』(1960)『Explorations- エクスプロレイションズ』(1961)『Waltz For Debby -ワルツ・フォー・デビイ』および、同日収録の『Sandy At The Village Vanguard- サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』(1961)の4作は、「リバーサイド四部作」と呼ばれる。


しかし、『ワルツ・フォー・デビイ』および『サンデイ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』の収録からわずか11日後、ベーシストのスコット・ラファロが1961年7月6日に25歳の若さで交通事故死する。エヴァンスはショックのあまりしばらく、ピアノに触れることすらできなくなり、レギュラー・トリオでの活動を休止することとなり、半年もの間、シーンから遠ざかった。


1966年にエヴァンスは、当時21歳だった若きエディ・ゴメス(Eddie Gomez)を新しいベーシストとしてメンバーに迎える。エディ・ゴメスは、スコット・ラファロの優れた後継者となり、以降、1978年に脱退するまでレギュラー・ベーシストとして活躍し、そのスタイルを発展させ続け、エヴァンスのサポートを務めた。


 1968年にマーティー・モレル(Marty Morell)がドラマーとしてトリオに加わり、家族のため1975年に抜けるまで活動した。モレル、そしてのちに加入したエディ・ゴメスによるトリオは歴代最長の活動期間に及んだ。従って現在に至ってもなお発掘され発売されるエヴァンスの音源は、ゴメス・モレル時代の音源が圧倒的に多い。

 

このメンバー(セカンド・トリオ)での演奏の質は、初期の録音でずっと後に発売されたライブ版『枯葉』(Jazzhouse)にも反映されている。『Waltz For Debby ~ Live In Copenhagen - ワルツ・フォー・デビイ〜ライヴ・イン・コペンハーゲン』(You're Gonna Hear From Me)、『Montreux II- モントルーII』、『Serenity- セレニティ』、『Live In Tokyo- ライヴ・イン・トーキョー』、『Since We Met - シンス・ウイ・メット』と、メンバー最後のアルバムである1974年にカナダで録音した『Blue In Green-ブルー・イン・グリーン』などがある。この時期、特に1973年から1974年頃までのエヴァンス・トリオは良し悪しは別として、ゴメスの演奏の比重が強い傾向にある。 


1976年にドラムをマーティー・モレルからエリオット・ジグモンド(Eliot Zigmund)に交代する。このメンバーでの録音として『Cross Currents- クロスカレンツ』、『I Will Say Goodbye- アイ・ウィル・セイ・グッドバイ』、『You Must Bilieve In Spring- ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』が挙げられる。麻薬常習や長年の不摂生に加え、肝炎など複数の病気を患っていたエヴァンスの音楽は、破壊的内面や、一見派手ではあるが孤独な側面を見せるようになる。

 

ビル・エヴァンスの死後に追悼盤として発売された『You Must Believe In Spring- ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』収録の「Suicide Is Painless(もしも、あの世にゆけたら)」は、映画『M*A*S*H』(1970年)及びTVシリーズ版『M*A*S*H』のテーマとして知られている。



Bill Evans' Masterpiece :

 

・Peace Piece(1959)/『Everybody Digs Bill Evans』

    

「ピース・ピース(Peace Piece)」は、1958年12月にビル・エヴァンスがアルバム『Everybody Digs Bill Evans-エブリバディ・ディグス・ビル・エヴァンス』のために録音した。

 

ソロ時代のエヴァンスの名曲で、モード奏法のルーツをうかがい知ることができる。他にも彼のウクライナのスラブ民族としてのルーツやクラシックからの影響、その他にもスクリアビンのような神秘和音をゼクエンス進行によって活用している。いわばクラシックのピアニストとしてのエヴァンスの作曲性を反映させている。もちろん、演奏に関しては以降のデイヴィスとのモダン・ジャズの作風の萌芽を見ることもできる。

 

レコーディング・セッションの最後に演奏された即興曲で、レナード・バーンスタインのミュージカル『On The Town- オン・ザ・タウン』の「Some Other Time- サム・アザー・タイム」のヴァージョンでエヴァンスがセッション中に使用していた。Cmaj7からG9sus4への進行をベースにしたスタンダードな曲。


翌年にマイルス・デイヴィスと録音したアルバム『Kind of  Blue-カインド・オブ・ブルー』に収録された「Flamenco Sketches- フラメンコ・スケッチ」のオープニングにもモチーフが再登場する。


「Peace Piece」



「Autumn Leaves」(1960)/ 『Portrait In Jazz』


マイルス・デイヴィスとのアルバム『Kind Of Blue』でのコラボレーションの成功から8ヵ月後、エヴァンスは新しいグループ、ビル・エヴァンス・トリオで『ジャズの肖像』の録音に挑み、以後のモダン・ジャズの潮流を変える契機をもたらす。

 

最も注目すべきは、ラファロのウッドベースが単なる伴奏のための楽器から、後のアルバム『Sunday at the Village Vanguard』ほどではないにせよ、ピアノとほぼ同等の地位に昇格したことだろう。

 

ビル・エヴァンスはラファロとの最初の出会いについて、「彼の創造性にはほんとうに驚かされた。彼の中にはたくさんの音楽があり、それをコントロールすることに問題があった。... 彼は確かに私を他の分野へと刺激したし、おそらく私は彼の熱意を抑える手助けをしたのだろう。それは素晴らしいことで、後にエゴを抑えて共通の結果を得るために努力した甲斐があった」

 

ポール・モチアンはビル・エヴァンスのデビュー・アルバム『New Jazz Conceptions』や、トニー・スコット、ジョージ・ラッセルなどが率いるグループでエヴァンスとレコーディングしたことがあった。


エヴァンスの伝記作家であるキース・シャドウィックは、この時期のモチアンは標準的なバップの定型を避ける傾向があり、「代わりに他の2人のミュージシャンから実際に聞こえてくるものに反応」していたと述べ、それが「エヴァンスの最初のワーキング・トリオのユニークなクオリティに少なからず貢献した」と指摘している。

 

”枯葉”という邦題で有名な「Autumn Leaves」は、戦後のシャンソンの名曲だ。1945年にジョゼフ・コズマが作曲し、後にジャック・プレヴェールが詞を付けた。ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラード。6/8拍子の長いヴァース(序奏)と、4拍子のコーラス部分から構成される。 またジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどの録音が存在することでも知られる。 1955年の全米ビルボード・チャートで1位のベストセラーとなった。「Autumn Leaves」はジャズのスタンダードとなり、最も多くレコーディングされた曲のひとつ。


ビル・エヴァンスの録音はポール・モチアンとスコット・ラファロとのジャズトリオの全盛期の気風を反映させている。シャンソンの定番を当時盛んであったハードビーバップ風にアレンジした。リバーサイド四部作のうちの一つ『Portrait In Jazz』には2つのテイクが収録されている。

 

 「Autumn Leaves」





「Waltz For Debby」 「Porgie(I Loves You Porgie)」(1961)/ 『Waltz For Debby』



ビル・エヴァンス・トリオとして活動していたベーシストのスコット・ラファロが不慮の自動車事故により死去する10日前、ニューヨークのヴィレッジ・ヴァンガードでのライヴをリバーサイドレコードが収録していたことは、ほとんど奇跡的と言える。

 

1961年、エヴァンスのトリオはヴィレッジ・ヴァンガードに頻繁に出演していた。この年の6月のライブのレコーディングは、ビル・エヴァンスのライブ・アルバム『Sunday At The Village Vaunguard』としてラファロの死後に発売された。これはベーシストの追悼盤の意味を持つ。

 

後に発売された『Waltz For Debby』は追悼盤に比べると、音に艶があり、バランスの良いレコーディングとなっている。特に、このアルバムに収録されている「Porgie(I Loves You Porgie)はジョージ・ガーシュウィンのカバーで、後にキース・ジャレットがカバーしている。「Waltz For Debby」はヴィレッジ・ヴァンガードでのライブで披露されたビル・エヴァンスの定番曲である。

 

 

「Waltz For Debby」

 

 

 「Porgie (I Loves You Porgie)」

   

 

 


「We Will Meet Again」(1977) /『We Must Believe In Spring』


 

1980年、ビル・エヴァンスは、同タイトルのアルバムを名に冠した遺作を発表した。このラストアルバムのバージョンは、ピアノ・ソロで、曲の後半では、妻との別れ、彼の晩年の孤独と哀愁を込めた切ない感覚をジャズ・ピアノで収めている。

 

そして、一方、彼の死後に追悼盤としてリリースされた『We Must Believe In Spring』の収録バージョンでは、ジャズトリオとしての白熱した瞬間を録音の形で残している。


エディ・ゴメスのウッドベースとエヴァンスのピアノの演奏の兼ね合いは、後のニューヨークのモダンジャズの流れを形作ったといえるだろう。曲のタイトルからも分かる通り、エヴァンスはやや硬派の人物であったことが伺い知れる。この曲には泣けるジャズピアノの要素が満載である。涙ぐませるもの……、それはいつも白熱した感情性から生み出されるものなのである。

 

最後のスタジオ録音が残した奇跡的な演奏を収録しているが、「We Will Meet Again」では気迫あふれるトリオの演奏が聞ける。生前のエヴァンスがジャズトリオという形式を最も重視していたことが伺える。また、最後のスタジオ録音の中での演奏で、エヴァンスは彼の音楽的な出発となったクラシックピアノからの影響を込めている。


ジャズとクラシックを繋げる演奏家としての役割は、JSバッハの作品の再演で知られるキース・ジャレットへと受け継がれていった。またエヴァンスは、現在のジャズのライブでお馴染みの各々のプレイヤーが即興演奏を曲で披露するという最初の形式を確立させた人物でもある。

 

 

 「We Will Meet Again」

AORの名盤をピックアップ





AORとは?? 


AOR/ソフト・ロックとは、タワーレコードによると、”大人向けのロック”と説明されています。AORはよく言われるように、''Adult Oriented Rock''の省略形で、直訳すると、大人を方向づけるロックという意味がある。つまり、少し着飾ったオシャレなロックと定義づけられます。一方、このジャンルの補足的な意味で使用されるSoft Rockに関しても、その名の通り、ソフトなロックを意味し、ロックンロール性を薄めたポップ寄りのロックという意味でラベリングされることがある。これらは厳格にハードロックやメタルが隆盛だった80年代頃のロック運動の対極にある聞きやすい音楽を提供しようとするニューウェイブの後のシーンを象徴していました。


2000年初頭に同レコード・ショップが配布していたフリーペーパーでも同様の趣旨の説明がなされていた記憶があります。シンセサイザーの演奏を押し出したサウンドは、T~Rexのグリッターロックや、70年代後半のニューウェイブ/テクノとも共通項がありそうです。音楽的に言及すれば、現在のシンセポップに該当し、軽めの音やビートが特徴です。これはハードロックやメタルが徐々に先鋭化していく時代、それに対するカウンターの動きであったと定義付けられます。

 

この音楽運動は80年代前後に隆盛をきわめ、白人を中心とするロックカルチャーのメインストリームを形成し、MTVの全盛期の華やかりし商業音楽のイメージを決定づけました。もっとも象徴的なところでは、デュラン・デュラン、カルチャー・クラブ、TOTO、JAPAN等がその代表例となるでしょう。確かにこのシーンで活躍したのは白人のグループが多い。しかし、AORやソフトロックが白人音楽というのは極論かもしれません。少なくとも、1978年頃にはブラック・ミュージックの一貫として、クインシー・ジョーンズの1976年の傑作『Mello Madness(メロー・マッドネス)』など、以降のソフト・ロックによく似たジャンルが登場していたからです。

 

同様に、スティーヴィーやマーヴィンの音楽が併行して、これらの白人音楽になんらかの影響を及ぼした可能性があると指摘したとしても、的外れとはならないはず。さらに詳細な指摘をしておけば、AOR/ソフト・ロックに該当するバンドが英国のニューウェイブに傾倒していた可能性があるとしても、このジャンルのグループの音楽にはソウルフルな香りが漂っていました。


分けても、スティング擁するPOLICE(ポリス)の初期から中期の作品や、ポール・ウェラー擁するThe Style Councilのデビュー・アルバムを聴くと、より分かりやすいのではないでしょうか?  昨今でも、白人のアーティストが黒人のスポークンワードやフロウのスタイルをポップの歌唱法の中に取り入れる(Torres、Maggie Rogersの楽曲を参照)場合もあるように、どんな時代においても、人種的な垣根を越えて、お互いに音楽的な影響を分かち合ったと見るべきなのでしょうか。

 

これらの音楽は後に、シンセ・ポップやアヴァン・ポップという形で2010年代や以降の20年代に受け継がれていきますが、その本質的な意義は変わっていないようです。 AORの音楽はよく「アーバン」とか「メロウ」という作風が代表例として挙げられますが、これはブラックミュージックの1970年代後半の象徴的なアーティストが、時代に先んじて試作していた音楽でもありました。


そう考えてみますと、AOR/ソフト・ロックというジャンルの正体は、ローリング・ストーンズやエリック・クラブトンがブラック・ミュージックをロックの文脈にセンスよく取り入れたように、80年代のロックの流れに、以前のR&Bやソウルのニュアンスを取り入れて、それらを以前のグリッターロックやニューウェイブと関連付けたと見るのが妥当なのかもしれません。

 

少なくとも、2024年の音楽を楽しむ上で、AORを抑えておけば、現代の音楽に対する理解も深まるに違いありません! 2020年代以降の音楽では、多かれ少なかれ、この音楽ジャンルの要素を取り入れる事例は稀有ではありません。それは実験的なロックやポップスとは対蹠地にある”親しみやすいポピュラー音楽”という形で、現在も多数のリスナーに親しまれているのです。



*下記に取り上げる9つの名盤はこのジャンルの入門編に過ぎません。ぜひ皆さまの''オンリーワン''のアルバムを探す一助となれば幸いです。



・AORの名盤



Tears For Fears  『Songs From The Big Chair』 1985



『Songs From The Big Chair』は、英国のバンド、Tears For Fears(ティアーズ・フォー・フィアーズ)のセカンドアルバムで、1985年2月25日にマーキュリー・レコードからリリースされました。

 

前作のダークで内省的なシンセポップから脱却し、メインストリームな軽妙なギターを基調としたポップロックサウンド、洗練されたプロダクション・バリュー、多様なスタイルの影響を特徴としています。ローランド・オルザバルとイアン・スタンリーの歌詞は、社会的、政治的なテーマを表現しています。


このアルバムは、ユニットは全英で2位、全米で1位を獲得し、一躍スターダムに躍り出ました。収録曲「Everyone Wants To Rule The World」は普遍的な魅力がある。後にデラックスバージョン、及びスーパーデラックスバージョンが再発されています。



「Everyone Wants To Rule The World」

 

 

 

 

The Cars 『Heartbeat City』1984




リック・オケイセック擁するカーズの1984年の代表作『Heartbeat City』はAOR/ソフト・ロックを知るのに最適な一枚。米国の同バンドのリリースしたアルバムの中で最も商業的成功を収めています。ポップなアルバムとして知られていますが、たまにシニカルな陰影のある歌詞も織り交ぜられる。

 


ロックな印象を押し出した前々作『Panorama』、前作『Shake It Up』に比べると、全体的にポップでキャッチーな仕上がりになっています。『ラジオ&レコーズ』の年間アルバムチャートでは1位を獲得しています。「Drive」「Hello Again」「Magic」「You Might Think」がトップ20に入るなど、シングル・カットでヒットを連発しました。アメリカのチャートで最高3位、イギリスでは25位を獲得。後に本作で、カーズはロックの殿堂入りを果たした。爽やかなアルバムではないでしょうか。



「Drive」




The Police 『Synchronicity』 1983

 



スティング擁するポリスは当初、レゲエやダブサウンドを絡めた気鋭のロックバンドとしてニューウェイブの真っ只中に登場したが、年代と併行してよりポップなバンドに変化していきました。5作目のアルバムは彼らの実験的な音楽とポピュラー性が劇的に融合しています。その後の活動休止を見ると、バンドとしてかなり危ういところでバランスを保っている緊張感のある作品です。

 

『シンクロニシティ』は、1983年6月にA&Mレコードから発売されました。バンドで最も成功を収めたともいえる本作には、ヒットシングル「Every Breath You Take」、「King of Pain」、「Wrapped Around Your Finger」、「Synchronicity II」が収録。アルバムのタイトルと曲の多くは、アーサー・ケストラーの著書『偶然の根源』(1972年)にインスパイアされている。


1984年のグラミー賞では、アルバム・オブ・ザ・イヤーを含む計5部門にノミネート、3部門を受賞しました。リリース当時、そして、シンクロニシティ・ツアーの後、ポリスの人気は最高潮に達した。BBCとガーディアン紙によれば、彼らは間違いなく「世界最大のバンド」だったとか!?




「Every Breath You Take」

 

 

 

 

TOTO 『Ⅳ』 1982

 


 

 

『Toto IV』は、1982年3月にコロムビア・レコードから発売されたアメリカのロックバンドTotoの4枚目のスタジオアルバムです。「Rosanna」を始め、シンセの演奏を押し出したポピュラーアルバムですが、異文化へのロマンが表明されていて、それはアルバムのクローズ「Africa」で明らかになります。

 

リードシングルの「Rosanna」はビルボードホット100チャートで5週間2位を記録し、アルバムの3枚目のシングル「Africa」はホット100チャートで首位を獲得し、グループにとって最初で唯一のナンバー1ヒットとなりました。アルバム・オブ・ザ・イヤー、プロデューサー・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤーを含む3つのグラミー賞を受賞しました。

 

発売直後、アメリカのビルボード200アルバムチャートで4位を記録。また、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、オランダ、イタリア、ノルウェー、イギリス、日本を含む他の国々でもトップ10入りしました。


今作は、ベーシストのデヴィッド・ハンゲイトが2014年に復帰するまで(2015年のアルバム『TOTO XIV』のリリースで)、オリジナル・ベーシストをフィーチャーした最後のアルバム。リード・ヴォーカリストのボビー・キンボールが1998年にカムバックするまで(『TOTO XIV』のリリースで)、オリジナル・リード・ヴォーカルをフィーチャーした最後のアルバムでもありました。

 


「Africa」

 

 

 

 

Daryl Hall &  John Oates 『Private Eyes』 1981



 

AOR/ソフト・ロックの中でも、R&Bに根ざしたアルバムがあります。それが意外なことにダリル・ホール & ジョン・オーツの1981年の『Private Eyes』です。この年のデュオのアルバムには、1980年代前後のアーバン・コンテンポラリーからの影響が大きく、ファンクやソウルに触発を受けながら、それらを親しみやすく軽快なシンセ・ポップとしてアウトプットしていますよ。

 

『プライベート・アイズ』(Private Eyes)は、1981年9月1日にRCAからリリースされたホール&オーツの10枚目のスタジオアルバム。


アルバムには、2枚のナンバーワン・シングル、タイトル曲と "I Can't Go for That (No Can Do)"、トップ10シングル "Did It in a Minute "が収録。「I Can't Go for That (No Can Do)」はR&Bチャートでも1週間首位を獲得。この曲は現在でも古びていない。2020年代の商業音楽にも共鳴する何かがある!?

 

 「I Can't Go for That (No Can Do)」

 

 

 

Christpher Cross 『Christpher Cross』 1979

 



クリストファー・クロスは、テキサス/アントニオ出身のシンガーソングライター/ギタリスト、フラミンゴをトレードマークにしています。知る人ぞ知るロックギタリストで、この音楽家を畏れるファンは多いはず。

 

本作はクリストファー・クロスのデビュー・アルバムで、1979年半ばにレコーディングされ12月にリリースされました。どうやらこのアルバムは、3M デジタル・レコーディング・システム (3M Digital Recording System) を活用した初期のデジタル・レコーディング・アルバムのひとつのようです。


1981年のグラミー賞では、ピンク・フロイドの『The Wall』を抑えて最優秀アルバム賞を受賞し、1970年代末から1980年代初めにかけての最も影響力のあったソフトロックのアルバムのひとつと評されています。『Christpher Cross』は、アルバム・オブ・ザ・イヤー、レコード・オブ・ザ・イヤー、ソング・オブ・ザ・イヤー、最優秀新人賞を含む5部門でグラミー賞を受賞した。この驚異的な記録は2020年のビリー・アイリッシュの時まで破られることがなかったそうです。


 

「Ride Like The Wind」

 

 

The Aran Persons Project 『Eye In The Sky』 1982

 



『Eye In The Sky』は、1982年5月にアリスタ・レコードからリリースされたイギリスのロックバンド、The Aran Persons Project(アラン・パーソンズ・プロジェクト)の6枚目のスタジオアルバム。アルバムジャケットはファラオの目!?

 

1983年の第25回グラミー賞で、『Eye In The Sky』はグラミー賞の最優秀エンジニア・アルバム賞にノミネートされました。2019年、このアルバムは第61回グラミー賞で最優秀イマーシヴ・オーディオ・アルバム賞を受賞しています。

 

『Eye In The Sky』には、最大のヒット曲であるタイトル曲が収録。リード・ヴォーカルはエリック・ウルフソン。アルバム自体も大成功を収め、多くの国でトップ10入りを果たしました。


このアルバムにはインストゥルメンタル曲「Sirius」が収録されており、北米中の多くの大学やプロのスポーツ・アリーナの定番曲となっています。このなんとも勇ましい感じの曲は、1990年代にシカゴ・ブルズが優勝した際に、スターティング・ラインナップを紹介するために使用されました。



もう1つのインスト曲「Mammagamma」は、1980年代半ばにニュージーランドのTVNZとBBCウェールズでスヌーカー中継のために個別に使用され、1989年から1990年にかけてアイルランドのトニー・フェントンの深夜2FM番組で「My Favourite Five」特集として使用された。また、このインストゥルメンタルはイタリアのIvecoのインダストリアル・ビデオでも使用されたのだとか。


「Eye In The Sky」

 

 

 

 

Don Henley 『Actual Miles: Henley’s Greatest Hits』 1995

 



 

『Actual Miles:Henley’s Greatest Hits』は、1995年にリリースされたアメリカのシンガー・ソングライター、ドン・ヘンリーによる初のコンピレーション・アルバムです。

 

このコンピレーションは1980年代を通した3枚のソロ・アルバムのヘンリーのヒット曲を網羅しています。3曲の新曲、「The Garden of Allah」、「You Don't Know Me at All」、ヘンリーによる「Everybody Knows」のカヴァーが収録。この作品集はチャート最高48位を記録、プラチナに達した。「The Garden of Allah」はメインストリーム・ロック・トラックス・チャートで16位を記録。

 

ジャケットの写真には、葉巻を吸う中古車セールスマンのドン・ヘンリーがジョーク混じりに描かれています。デザインの由来は1995年の『Late Show』出演後、デヴィッド・レターマンに質問されたドン自身が語っています。写真とタイトルについて「レコード業界に対する微妙な風刺」と説明しています。 アメリカの黄金時代を思わせるワイルドなジャケットも素晴らしいのでは??

 

 

 「The Boys Of Summer」

 

 

 

The Go-Betweens 『16 Lovers Lane』

 


The Go-Betweensは1977年にクイーンズランド州ブリスベンで結成されたオーストラリアのインディー・ロックバンド。

 

シンガー・ソングライターでギタリストのロバート・フォースターとグラント・マクレナンが共同で結成し、バンドを率いた。1980年にドラマーのリンディ・モリソンが加入し、後にベース・ギタリストのロバート・ヴィッカーズ、マルチ・インストゥルメンタリストのアマンダ・ブラウンとラインナップを広げていく。ヴィッカーズは1987年にジョン・ウィルスティードと交代した。その2年後。フォースターとマクレナンは2000年にバンドを再結成した。フォースターとマクレナンは2000年にバンドを再結成した。マクレナンは2006年5月6日に心臓発作で亡くなり、ゴー・ビトゥイーンズは再び解散した。

 

2010年、彼らの出身地であるブリスベンの有料橋が、彼らにちなんでゴー・ビトウィーンズ・ブリッジと改名された。1988年、『16 Lovers Lane』からのファースト・シングル「Streets of Your Town」は、オーストラリアのケント・ミュージック・レポート・チャートとイギリスのUKシングル・チャートの両方でトップ100入り。

 

シングル 「Was There Anything I Could Do?」は、アメリカのビルボード・モダン・ロック・チャートで16位のヒットを記録した。2001年5月、1983年の『Before Hollywood』に収録された「Cattle and Cane」が、オーストラリア演奏権協会(APRA)により、オーストラリアの歴代トップ30曲に選ばれた。2008年、スペシャル・ブロードキャスティング・サービス(SBS)TVの『The Great Australian Albums』シリーズで『16 Lovers Lane』が取り上げられた。


上記に紹介してきたバンドやアーティストに比べると、現在はそれほど知名度に恵まれているかは不明であるThe Go Betweensであるものの、男女混合のボーカルはティアーズフォーフィアーズの清涼感のあるポップスに匹敵する。

 

特に、名盤と名高い1988年のアルバム『16 Lovers Lane』ではバンドとしての試行錯誤の痕跡が見出される。彼らはこのアルバムで、ネオ・アコースティック、シンセ・ポップ、そしてMTV全盛期のダンス・ポップ等、その当時のトレンドの音楽を咀嚼しながら、The Go Betweensとしての独自の音楽的な表現性を追求している。16曲の収録曲は1980年代後半の時代を巧みに反映させており、どことなく浮足立ったような空気感を味わうことができる。

 

いわば1980年代は、アナログの時代からデジタルの時代へと移り変わる最後の年代であったことは確かなのであるが、上記のバンドやアーティストと同様に人間が次の時代に移行する過渡期を親しみやすいポピュラーミュージックという形で表現したことに関しては、再評価されるべき点もあるかもしれない。特に、そういった試行錯誤の中で生み出されたヒット曲「The Streets of Your Own」は、ティアーズ・フォー・フィアーズの名曲に比肩すると見ても違和感がない。ギター・ポップとシンセ・ポップを組み合わせたスタイルは時代を先取りするもので、現代のミュージック・シーンの音楽とも共鳴するものが含まれているように感じられる。

 

「The Streets of Your Own」

 

 

 

A0R/ソフト・ロックをどう楽しむ??

 

近年では、ケイト・ブッシュのStranger Thingsに使用された楽曲の再ヒット等の事例を見るかぎり、1980年代のポピュラー・ソングが再び大きな人気を獲得する可能性はまだ残されているように思える。

 

特に、現代の2020年代のミュージックシーンの動向を見るかぎり、「ソフィスティポップ」とも称されることがあるAOR/ソフト・ロックの再評価の機運は高まっていると言えるのではないだろうか。例えば、ロックアーティスト、ないしは現代的なポピュラーアーティストに関しても、先行の音楽を何らかの形で受け継ぎ、モダンなスタイルにアップデートしているからである。またお気に入りのアーティストとの音楽性の共通点を探してみるという楽しみもある。

 

音楽は、つい現行のものだけをチェックしがちだが、もちろん、クラシカルな作品にも味わい深さがあることは明らかなのではないだろか。ぜひ上記のAOR,ソフト・ロックのエッセンシャル・ガイドをご参考にしていただき、あなたなりのスペシャルワンの名盤を探してみて下さい。