「Bank On」は、David Longstreth(デイヴィッド・ロングストレス)、Dirty Projectors(ダーティー・プロジェクターズ)、s t a r g a z eによるコ『Song of The Earth(ソング・オブ・ジ・アース)』の3rdシングルである。この曲には(皮肉な)メッセージが込められている。 視聴はこちら。
ダーティ・プロジェクターズのフェリシア・ダグラスのゴージャスなソロ、ハープシコードを使った『Songs In The Key of Life』(スティーヴィー・ワンダーによる1976年の傑作)のようなロングストレスのヴァース、ダーティ・プロジェクターズの特徴である女性ハーモニーのコーラス、グスタフ・マーラーのようなブラスのファンファーレ。
デイヴィッド・ロングストレスのオーケストラと声楽のための歌曲集『Song Of The Earth(ソング・オブ・ジ・アース)』は2025年4月4日にリリースされる。
ロングストレスと彼のバンド、ダーティ・プロジェクターズ(フェリシア・ダグラス、マイア・フリードマン、オルガ・ベル)、そして、ベルリンを拠点に活動する室内管弦楽団”s t a r g a z e”(アンドレ・ド・ライダー指揮)が共演するこのアルバムには、フィル・エルヴァーラム(マウント・イーリー)、スティーヴ・レイシー、パトリック・シロイシ、アナスタシア・クープ、ティム・ベルナルデス、アヨニ、ポートレイト・オブ・トレイシーが参加し、ジャーナリストのデイヴィッド・ウォレス=ウェルズが言葉を寄せている。
ダーティ・プロジェクターズの『Lives Above』が、そのベースとなったブラック・フラッグの『Dameged(ダメージド)』とは似ても似つかないように、『Song Of The Earth(ソング・オブ・ジ・アース)』もその名の由来とは似ても似つかない。グスタフ・マーラーの1908年の歌曲『大地の歌(Das Lied Von Der Erde)』とは似ても似つかない。 しかし、ロングストレスは "マーラーの作品のテーマ、感情、そして矛盾を解消する精神が飽和状態にある "と指摘している。
ロングストレスは、s t a r g a z eの依頼で『大地の歌』の初稿を6週間かけて "躁状態 "で書き上げた。
s t a r g a z eは、現代音楽家によるヨーロッパのオーケストラ集団で、現代的な作曲とオルタナティブな姿勢やサウンドを融合させ、著名なアーティストや場所との無数のコラボレーションを行いながら、クラシック音楽とポピュラー音楽の間にある冗長な溝を絶えず埋めながら、進化し続けるプロジェクトである。s t a r g a z eは、テリー・ライリー、ジョン・ケイル、ジュリア・ホルター、リー・ラナルド、ケイトリン・オーレリア・スミス等と過去に共演している。
アンドレ・デ・ライダーは、バロックから現代音楽まで、その多才なスタイルにより、多くの需要がある指揮者である。 2013年にs t a r g a z eを設立し、マックス・リヒター、ブライス・デスナー、ジョニー・グリーンウッドなどの作品を録音している。 デ・リダーは、アルバム『Africa Express Presents』に収録されたテリー・ライリーの『In C』のレコーディングを主導した。マリのミュージシャン、デーモン・アルバーン、ブライアン・イーノと共演している。
Goldmundがニューアルバム『Layers of Afternoon』を発表した。本作はウエスタン・ビニールから6月13日に発売され、国内盤も同時に発売予定です。キース・ケニフは、叙情的なピアノ作品を音楽的な特徴としている。『Sometimes』では、坂本龍一とコラボレーションをしたこともある。ニルス・フラーム、オーラヴル・アーノルズ、小瀬村晶のファンは必聴のアーティスト。
キース・ケニフは次のようにこのアルバムについて語る。「『Layers of Afternoon』はその“狭間”の場所を見つけ、そこから作曲することを目指しました。目標や音楽的な訓練、複雑な感情から解放された理想的な世界としての私の経験を表現したかった。この空間を訪れ、創作の中で自由に”瞬間”が浮遊するようにしたかった。」
Goldmundとして『Corduroy Road』(2005年)『、the malady of elegance』(2008)、『Famous Places』(2010)、『All Will Prosper』 (2011)、『Sometimes』(2015)『、Occasus』(2018)、『The Time It Takes』(2020)をリリース。
ピーター・クリストファーソン(COIL)、コージー・ファンニ・トゥッティ、アブール・モガード(COH Meets Abul Mogard)とのコラボレーションや、ラスター・ノトーン、エディションズ・メゴといった高名なレーベルからのリリースは、アヴァンギャルドなエレクトロニック表現への彼の影響力と、コラボレーションにおける彼の卓越した能力の両方を裏付けている。
『Sudden Fruit』で、CoHと平野みどりは没入感のあるキメラ的な作品を発表した。 1曲目の「Wave to Wave」から、オーガニックとデジタルの微妙なバランス、自然の流動性、そして平野のピアノが体現する詩情と、イワン・パブロフの機械の低周波の重厚さが並置されているのが感じられる。
平野みどりは、現代のデジタルサウンドをベースにし、モジュラーシンセを中心とする電子音楽、フィールドレコーディングを用いた実験的な作風で知られている。ピアノ作品としては、『Mirrors
In Mirrors』(2019)、『Invisible
Island』(2020)がある。ハロルド・バッドの音楽にも通じる澄んだ響きを持つ作品集。
すでにファースト・シングル「From Beneath」が公開となっているが、本日新たな新曲「A House, A City」が配信された。同楽曲は、エリオットにとっての最初のピアノで弾いた最後の即興演奏をiPhoneで録音したものから始まり、その後、彼の家と成長期の思い出にインスパイアされた個人的で繊細なソロ曲へと発展していく。
「祖母ミミの追悼式で”ヴァイオリンを弾いてほしい"と家族に頼まれた。この曲は、私たち家族の最愛の家長のために書いた。驚くべきことに、従兄弟のジョン・ドーランが追悼式でこの曲を聴いて、オルガンの伴奏を書く気になった。一方、同じ頃、もう一人の偉大なミミが亡くなった。Lowのエンジェル・ボイス、ミミ・パーカー。私は彼らの曲「Laser Beam」を学び、妹のヘザー・ウッズ・ブロデリックが親切にもハーモニーを歌ってくれた。この2曲で、私はこの世で失われた偉大なミミに敬意を表したいと思う"- Peter Broderick(ピーター・ブロデリック)
ピーター・ブロデリックは、モダンクラシカルからフォーク・ミュージックまで幅広い作風で知られている。最近はジャズ・シーンで活躍するベーシスト、Yosef Gutmanと共同制作を行い、ピアノ、バイオリン、コントラバスを融合させた『River Of Eden』をSoul Song Recordsからリリースした。このアルバムも素晴らしいので、ぜひチェックしてみていただきたい。
平野みどりは、卓越したサウンド・スカルプティングにより、映画やテレビの作曲家として著名なミュージシャンで、最近では『All or Nothing』、『Tokito』、プレミア・リーグのドキュメンタリーのサウンドトラックを手がけたほか、アンチ・ポップ・コンソーシアムのHprizm、パンソニックのIlpo Väisänenといったアーティストとコラボレーションも行っている。
「Breaking The Surface」は、サミュエル・バーバーの作風を思わせる重厚なストリングスのレガートで始まるが、その後には、映画音楽の演出的なスコアや、それとは対極にある室内楽のための四重奏のような変遷を辿っていく。ストリングスは、感情的な流れを象徴付け、悲しみや喜び、その中間にある複雑な感情性を、現代的な演奏効果を用いて表現している。まるでそれは、音楽的な一つの枠組みの中で繰り広げられる多彩性のようであり、それらが絵の具のようにスムーズに描かれる。表面的にはバーバーのように近代的な音響性が強調されるが、一方、その内側に鳴り渡る音楽は、JSバッハの室内楽やアントニオ・ヴィヴァルディのイタリアン・バロックである。この曲は、近年、ギリシア/アクロポリスの公演等の演劇的な音楽の演奏の系譜に属する。
ロジャー・イーノの音楽者としての作風は、現時点では、オーケストラとピアノという2つの側面に焦点が絞られているようだ。重厚で荘厳な雰囲気を帯びる最初の2曲でアルバムのイメージを決定付けたあと、 アメリカの伝説的な実験音楽家ハロルド・バッドの系譜にあるピアノ曲を展開させる。そして、現代的なポスト・クラシカルの系譜にある作曲技法を用い、反復的な音楽構造を作り上げる。しかし、「Through The Blue」は、平板なミニマリズムに陥ることなく、一連の流れのような構成を兼ね備えている。それは水の流れのように澄みわたり、聞き手の気持ちを和ませる。全体的な主旋律と伴奏となる和音の運行の中には、バッハの平均律クラヴィーアのプレリュードの要素が含まれている。しかし、それらは飽くまで、簡素化、及び、省略化された音楽として提示される。ここに、音を増やすのではなく、「音を減らす」という作曲家の考えがはっきりと反映されている。それは、気忙しさではなく、開放的なイメージを呼び起こすのである。
続く「Above and Below」は同様に、ブライアン・イーノとハロルド・バッドのアンビエント・シリーズの影響下にあるピアノ曲。しかし、おそらく制作者は、音楽の構造性ではなく、音楽の中にある概念的な核心を受け継ごうとしている。 アンビエントの核心は、単なる癒やしにあるのではなくて、松尾芭蕉の俳句のように、気づきや知覚、自己の実存と宇宙の存在の対比や合一にこそ内在する。つまり、抽象的なシークエンスの中に、一点の閃きのような音が導入されると、それまでの静寂に気づくという意味である。例えば、「サイレンス」を説明する際に、現代音楽家のジョン・ケージは、モーツァルトの楽曲に準えたことがあった。それは表向きの概念とは異なり、「内側の静けさ」に気づき、それはいかなる場合も不動であることを意味する。それはまた、哲学的にいえば、自己の本質に気づくということでもある。この点を踏まえて、ロジャー・イーノさんは、サイレンスという概念に迫ろうとしている。この曲に接すると、いかに自分たちが日頃、異質なほどの雑音や騒音の中で暮らしていることが分かるかもしれない。また、「本物の静けさ」とは外側にあるのではなく、心の内側にしか存在しえない。まるでそのことを弁別するかのように、制作者は内面的な静寂と癒やしを見事なまでに呼び起こすのである。
ピアノの演奏に関しては、フランツ・リストのような華やかな技巧が出てくることはない。しかしながら、ピアノ音楽の系譜を再確認し、それらを現代的な音楽としてどんな風に解釈するかという試作が行われていることに注目したい。 「Now And Then」は、ビートルズの新曲と同じタイトルだが、その曲風は全く異なる。フォーレの『シシリエンヌ』のような導入部のアルペジオから、表現力豊かな主旋律が導き出され、ドイツ・ロマン派と近代フランス和声の響きを取り入れ、スタイリッシュなピアノ曲を作り上げる。この曲はまた、ピアノ曲のポピュラー性という側面に焦点が当てられ、初歩的な練習曲のような演奏の簡素な技術性の範疇から逸れることはない。
それ以降も、サステインや休符を強調するピアノ曲が続いている。「Time Will Tell」でも同じように、減退音に焦点が置かれ、繊細な音の響きが強調される。曲風としては、坂本龍一に非常に近いものがある。何か外側から突くと、壊れそうに繊細なのだが、その内側に非常に強いエネルギーを持つ。こういった感覚的なピアノ曲が、シンプルな構成、即興演奏で展開される。 Hot Chipのジョー・ゴダードとの共同クレジットである「Into The Silence」は、まさしく、アルバムの重要な根幹となる一曲だろう。
この目的のために、『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』は、古代ギリシアのオルフェウス神話への2つの言及に取り組んでいる。1922年に発表されたライナー・マリア・リルケの詩集『オルフェウスへのソネット』と、1607年に発表されたクラウディオ・モンテヴェルディのバロック初期のオペラ『オルフェオ』である。
『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』に収録されているオルガン曲は、楽器のペダルに重きを置いており、ほとんどの楽器が持つ機械式トラッカー・アクションによって可能になったテクスチュアのバリエーションにも注目している。
特に、桜美林大学のブロムボー・オルガンは、17世紀初頭に設計されたオルガンに典型的な平均律の使用と、拡張された平均律におけるエンハーモニック等価性の欠如に対応するスプリット・アクシダメンタル・キーの使用の両方において、特に有意義な作曲の機会を与えてくれた。「Possente Spirto」は、『オルフェオ』のアリア「Possente spirto, e formidabil nume」に対する緩やかな概念的言及である。モンテヴェルディ版と同様に、私の作品も弦楽器と金管楽器の使用を強調し、それらが出入りする特定の順序を守り、一種の通奏低音の枠組みも取り入れている。私はそこから離れ、ゆっくりと動く和音進行に焦点を当てることにしたーーSara Davachi
『The Head As Form’d In The Crier’s Choir』/ Late Music --ギリシャ神話に対する概念的言及、時間のない無限のドローン音楽--
ロサンゼルスのSarah Davachi(サラ・ダヴァチ)の最新作『The Head As Form’d In The Crier’s Choir』は、いわゆるドローンミュージックの傑作であり、一般的なアナログシンセやプロデュース的な作品とは異なり、コンテンポラリー・クラシカルのライブ録音に近い作品となっている。
ドローン音楽は、基本的には複数のポリフォニーで構成され、パレストリーナ様式の教会音楽のように、あるいは、JSバッハの6声部の対旋律のように、独立した主旋律を他の旋律が強化するような形で展開される。しかし、基本的には、主旋律は存在せず、副次的な旋律もまた主旋律の役割を持つという点で、カウンターポイントの新しい形式の一つでもある。これらの基本的な構成に加えて、倍音の性質が加わる。つまり、今回、ダヴァチ教授(彼女は本当に講義を学生に対して行うことがある)がわざわざ4つの異なる時代のパイプオルガンを使用したのには理由があり、楽器の音響学としての異なる性質をかけ合わせ、特異な倍音を重ね、独特なハーモニーや調和を求めようというのが、このアルバムの制作の主な動機ではなかったかと思われる。実際的に聞けば、分かるように、『The Head As Form’d In The Crier’s Choir』は異なる独立した声部と、別の性質を持つ和音が織りなす長大なハーモニーによる作品と称せるかも知れない。
特に、パイプオルガンの楽曲、見方によれば鍵盤楽器による協奏曲のような意味合いを持つこのアルバムの音楽性が最も重力を持つ瞬間が「The Crier's Choir」、そして続く「Trio For A Ground」の2曲となる。前者は、古典的なイタリアンバロックやバロックの形式を基にして、重厚な通奏低音によって建築学的な構造を持つ前衛音楽を作り出す。そしてレビューの冒頭でも述べたように、複数の異なる鍵盤楽器の持つ倍音の特性が、(それは機械としての性質でもある)、ドローン音楽の重要な特徴であるイントロでは想像しえなかった音響学の構造変化、及び、倍音や音調の微細な変遷を、制作者が意図するギリシア神話の物語という動機を通じて敷衍させていく。この曲では、少なくとも、2つか3つのパイプオルガンの演奏が取り入れられているようだが、それは続く「Trio For A Ground」と同じように、ニューヨークの現代音楽家、モートン・フェルドマンの「Rothko Chapel」のようなドローン音楽の原点へと回帰していく。フェルドマンは、テキサスの礼拝堂の委嘱作品として「Rothko Chapel」を制作したが、同時に、これはアート作品を展示するための環境音楽の意味合いも込められていた。そして、世界で最初のインスタレーションは、間違いなく、モートン・フェルドマンの代表作だったのである。これらの現代音楽の系譜に準ずるかのように、ダヴァチは、ギリシア神話の黄泉の国への下りをテーマとし、漸次的に下降するドローンを複数重ね合わせ、圧巻の音響空間を物語に添える。「目的のための音楽」とも言えるが、結局、最後の演奏を終え、鍵盤楽器から手を離すとき、通奏低音が減退する瞬間に、演奏者として痛切な思いが込められ、音の停止、それはとりもなおさず、音楽に対する控えめな態度が、敷き詰められた音の連続に癒やしと安らぎをもたらす。もし、そうしていなければ、音楽という得難い化け物に飲み込まれていたかもしれない。
後者の「Trio For A Ground」は、中音域から高音域を強調する前曲と比べると、低音域を徹底して強調した厳粛な面持ちを持つパイプオルガンによる独奏曲とも言える。特に、平均律を基にした変則的な調律は、目の前に巨大な塑像のようなものが出現するかのごとき圧倒的な印象を受ける。それはギリシア神話というよりもダンテの神曲の地獄の門に入る時の作者の畏れのような感覚にも似ている。しかし、この曲では、2010年代中盤に、制作者が実験的に導入していた女性のクワイアが加わることにより、神話としての音楽的な動機を想起させ、そしてその枠組みの中で、幻想的な音楽の性質や、ミステリアスな感覚がありありと立ちのぼってくる。聞き方によっては、RPGの音楽や映画のワンシーンの効果的な音楽によるストーリーテリングの要素を持ち合わせ、アルバムの中盤の重要なハイライトを形成している。そして、ランタイムごとに、曲の表情は変化していき、暗鬱さ、神秘さ、神々しさ、そして精妙さ、透き通るような感覚、濁るような感覚、重苦しさ、悲しさ、そういった数しれない感情性の物語が、二人のギリシア神話の主人公のライトモチーフのような役割をなしている。また、曲の途中から加わる弦楽器のドローン、その上に微細に重ねられる高音部のパイプオルガン、複数の声部が幾つも折り重なり、増幅と減退を繰り返しながら、音響の持つ表情を変化させる。また、8分後半に出現するノイズは、まるで彼岸と此岸を隔てる幕のように揺れ動き、音楽的な効果は最高潮に達する。特筆すべきは、これらの音調の変容やドローン音の変遷は、抑揚的に高まると抑えられ、抑えられると高められるというように、一貫して、抑制と均整が取れ、必要以上にラウドになりすぎることもなければ、それとは反対にサイレンスになりすぎることもない。いわば、黄泉の「中つ国」の性質を反映させるかのように、中間領域の音楽としての性質を維持しつづける。そして、それらは、演奏者が明確に意図したアクセント、クレッシェンドやデクレッシェンドという手動による音響的な効果によって組み上げられる。これが最終的に、コントラバス、コントラファゴットの音域を強調するパイプオルガンの重厚な通奏低音により、物語の核心に迫る情景が暗示される。そして、前曲と同様、サラ・ダヴァチは、11分から12分にかけて、フェルドマンの「Rothko Chapel」のような霊妙なドローンを、パイプオルガンの複数の声部によって完成させる。間違いなく、現代の前衛音楽の至高の瞬間をこの一分間に見いだせるはずだ。音楽の正体が振動体であること、ウェイヴ、周波数であることは、この一分間で明示されている。実際的に、この曲は次の世紀に語り継がれてもおかしくない実験音楽である。
以降の2曲は、ダヴァチ教授の古典的なアートに対する趣味が色濃く反映されている。というのも、サラ・ダヴァチさんは古典的なヨーロッパ絵画にかなり熱心であり、それらの蒐集をしているかどうかは定かではないが、少なくとも、バロック主義の古典絵画のような世界を音楽により表現したいという欲求は、常日頃から持ち合わせているはずなのだから。これらの古典的な芸術に対する親しみは、「Res Sub Rosa」では、バロック主義のミサ曲のような形式をパイプオルガンで体現させ、他方、「Constants」では、イタリアン・バロックの宗教音楽のような古典的な世界観を構築する。これらの2曲は、音楽的な方向性としてマンネリズムに陥る場合もあるが、全般的には少しだけ重苦しくなりがちな作風に、ウィリアム・ターナーが描いた古典的なローマの情景のような安らいだ感覚や優雅な感覚を体現させる。それは現代人としての古典に対する憧れであり、また、それらのヨーロッパの苦難多き歴史の基底にある文化的な奥深さや多彩さに対するロマンチシズムを、厳粛なパイプオルガンの独奏で表現しているといえる。惜しむらくは、クラシック音楽のアリアのような優雅な声やクワイアが登場しなかったことが、作品全体に単一的な印象を及ぼしている。ただ、それとて、聞き手が制作者の手の内に転がされているに過ぎず、アートワークのモノトーンの体言化という制作者の意図の範疇にあるものなのかも知れない。しかし、最終盤に向けて、あちこちに拡散していたもの、あるいは、無辺に散らばっていたものが集まり、一つの中心点にゆっくり向かっていくような不思議な感覚、そして、先にも述べたように、音楽そのものが生きた有機体のようの蠢き始め、また、その果てに教会の鐘の残響のような余韻が残されていることが、何かしら遠いヨーロッパの異国を旅したときや、その土地土地で、まったく聞き慣れない異教の鐘の音をふと耳にするときのエキゾチズムを反映させている。制作者は、古典的なテーマに焦点が絞られていると指摘しているが、もしかすると、現代的な社会の気風や混乱など、副次的な主題も取り扱われているのかもしれない。少なくとも、この曲は最もモダンでアーバンな印象を持つ前衛音楽である。
ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。
ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。
ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。
冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。
「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。
この日の演奏は印象的なモノクロのトーンで放送され、演奏の合間に短いインタビューが収録された。作曲家の最後の闘病の様子を追ったドキュメンタリー番組も同放送局で放映された。プライベートピアノコンサートでは、「The Last Emperr」等の代表的な楽曲を中心に、モダンクラシカルやジャズの性質を反映させた楽曲が披露された。その中には、2023年始めに発表された日記のような形で書かれた生前最後のアルバム『12』の収録曲もパフォーマンスされた。