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Roger Eno 『The Skies: Rarities』 

 


Label: Deutsche Grammophon

Release: 2024年9月27日

 

 

Review

 

 

ロキシー・ミュージックのメンバーであり、その後、名プロデューサー、そして、アンビエントの先駆的な活動、あるいは環境音楽の制作等、近年では、インスタレーション展など多岐にわたる分野で活躍するブライアン・イーノと、その弟であるロジャー・イーノは、ギリシャ/アクロポリスでのライブを共に行ったりというように、単なる肉親以上の強いきずなで結ばれているのかもしれない。しかしながら、両者の経歴はまったく異なる。いわば、ベルリン三部作などボウイのプロデューサーとしての表情を持つブライアンとは異なり、ロジャー・イーノは華々しさとは無縁の一般的な人生を歩んできた。肉屋で勤務した給料を基にアップライトピアノを購入し、それで演奏を始めた。おそらく、音楽を始めたのは一般的な人々よりもおそかったはずだ。

 

 

ロジャー・イーノという作曲家は、とても不思議な人物である。いわば、それほど専門のミュージシャンとしては華々しい経歴を持つわけではないにもかかわらず、それに近い活躍をしてきた音楽家のような風格がある。それはもしかすると、いついかなる時代も、兄弟の音楽に耳を澄ませてきたからなのかもしれないし、また、その他にも多様な音楽を聴いてきたからなのかもしれない。少なくとも『Rarites』は、無類の音楽ファンとしての姿、そして音楽者としての姿、この2つを持ち合わせる作品である。このアルバムには、ベルリン・スコアリングの協力のもと制作されたオーケストラのための楽曲、クワイアを元にした重厚な声楽作品、それから、Harold Budd(ハロルド・バッド)やPeter Broderick(ピーター・ブロデリック)の主要な作品を彷彿とさせるピアノの細やかな小品が収録されている。そして、このアルバムのリスニングを行う上で、音楽そのものの純粋な楽しみのほかに、もうひとつ見過ごせない箇所や、素通り出来ない点があるのにお気づきだろうか?


それは、これらの作品は、基本的には即興演奏により制作されたこと、そして今一つは、その後の「クリア」という作曲家の考えを経て制作され、余計な付加物や夾雑物を削ぎ落とすというプロセスである。近年の音楽で問題視すべきは、選択肢があまりに増えすぎたせいで、猫も杓子も音をゴテゴテにし、派手にし、脚色しすぎるということだろう。それらの変奏的な作法やプロデュース的な脚色は、確かに現代のレコーディングの醍醐味でもあるのだが、物事を核心を覆い隠したり、本質を曇らせたり、濁らせたりすることに繋がる。それらが昂ずると、いわば音楽は濁った水になり、さらには薄汚い不純物だらけになる。例えば、川や海にたくさんのゴミがプカプカ浮かんでいるのを見て、「美しい」と言う人はいるだろうか? ジャンルを問わず、多彩な脚色を施すことは避けられぬが、少なくとも、本質を暈したりするのは得策とは言えまい。また、それらを覆い隠したりするのもまた言語道断と言うべきだろう。プロデュースや編曲は、本質を強調するためにあり、本質をすげ替えたりはできないのだ。

 

 

ロジャー・イーノは、一般的な音楽家であるにとどまらず、「純粋な表現者」であると言える。それは、彼の音楽が単なる未然の時代の復権や模倣に終わらず、制作者としての概念を音楽に浸透させているから。それは思考形態としての塑像が音楽を通じて作り上げられるかのようであり、見方を変えれば、音楽全体がそれらの概念形態の象徴となる役割を持つのである。こう言うと、大げさになるが、少なくとも、それがモダン・クラシカルとして聴きやすい形に昇華されているのは事実だろう。現代的なクラシックの一つの潮流である「ポスト・クラシカル」の流れを汲み、アンビエントや電子音楽と結びつけるという意味では、坂本龍一のピアノ作品に近いニュアンスがある。もちろん、これらのポスト・クラシカルの作風の普及に率先して取り組む演奏家の多くは、古典音楽を博物的なアーカイヴに収めるのを忌避し、現代的な枠組みの範疇にある一般的な音楽として普及させようと試みる。要約するに、彼らは古典音楽が「現代の音楽」ということを明示するのである。換言すれば、坂本龍一の遺作『12』のレビューで書いたように、「ポピュラーのためのクラシック」に位置付けられるかも知れない。これは実は、一般的にフォーマルなイメージがあるクラシック音楽は、時代の流れの中で、王族の権威付けや教会組織のための音楽から、一般大衆のための音楽へと変遷してきた経緯があるわけなのだ。そのことをあらためて踏まえると、ポピュラーのためのクラシック音楽が台頭したのは、自然の摂理と言えるかも知れない。今やクラシックは、一部の権力者のためだけの音楽ではなくなったのである。


「Breaking The Surface」は、サミュエル・バーバーの作風を思わせる重厚なストリングスのレガートで始まるが、その後には、映画音楽の演出的なスコアや、それとは対極にある室内楽のための四重奏のような変遷を辿っていく。ストリングスは、感情的な流れを象徴付け、悲しみや喜び、その中間にある複雑な感情性を、現代的な演奏効果を用いて表現している。まるでそれは、音楽的な一つの枠組みの中で繰り広げられる多彩性のようであり、それらが絵の具のようにスムーズに描かれる。表面的にはバーバーのように近代的な音響性が強調されるが、一方、その内側に鳴り渡る音楽は、JSバッハの室内楽やアントニオ・ヴィヴァルディのイタリアン・バロックである。この曲は、近年、ギリシア/アクロポリスの公演等の演劇的な音楽の演奏の系譜に属する。


「Patterned Ground」は重厚なクワイアを用いた楽曲で、楽曲の表面的なモチーフは、聴き方によってはブライアン・イーノのアルバム『FOEVEREVERNOMORE』の作風に近い。しかし、同時に独自の音楽的な表現が見出せる。メディエーションやドローン風の通奏低音を強調する声楽、対旋律を描く低音部のストリングスの対比的な構造性が瞑想的な雰囲気を帯びる。この曲は、アンビエントをクラシック側から見たようなもので、電子音楽の未来が予兆されている。

 

ロジャー・イーノの音楽者としての作風は、現時点では、オーケストラとピアノという2つの側面に焦点が絞られているようだ。重厚で荘厳な雰囲気を帯びる最初の2曲でアルバムのイメージを決定付けたあと、 アメリカの伝説的な実験音楽家ハロルド・バッドの系譜にあるピアノ曲を展開させる。そして、現代的なポスト・クラシカルの系譜にある作曲技法を用い、反復的な音楽構造を作り上げる。しかし、「Through The Blue」は、平板なミニマリズムに陥ることなく、一連の流れのような構成を兼ね備えている。それは水の流れのように澄みわたり、聞き手の気持ちを和ませる。全体的な主旋律と伴奏となる和音の運行の中には、バッハの平均律クラヴィーアのプレリュードの要素が含まれている。しかし、それらは飽くまで、簡素化、及び、省略化された音楽として提示される。ここに、音を増やすのではなく、「音を減らす」という作曲家の考えがはっきりと反映されている。それは、気忙しさではなく、開放的なイメージを呼び起こすのである。

 

続く「Above and Below」は同様に、ブライアン・イーノとハロルド・バッドのアンビエント・シリーズの影響下にあるピアノ曲。しかし、おそらく制作者は、音楽の構造性ではなく、音楽の中にある概念的な核心を受け継ごうとしている。 アンビエントの核心は、単なる癒やしにあるのではなくて、松尾芭蕉の俳句のように、気づきや知覚、自己の実存と宇宙の存在の対比や合一にこそ内在する。つまり、抽象的なシークエンスの中に、一点の閃きのような音が導入されると、それまでの静寂に気づくという意味である。例えば、「サイレンス」を説明する際に、現代音楽家のジョン・ケージは、モーツァルトの楽曲に準えたことがあった。それは表向きの概念とは異なり、「内側の静けさ」に気づき、それはいかなる場合も不動であることを意味する。それはまた、哲学的にいえば、自己の本質に気づくということでもある。この点を踏まえて、ロジャー・イーノさんは、サイレンスという概念に迫ろうとしている。この曲に接すると、いかに自分たちが日頃、異質なほどの雑音や騒音の中で暮らしていることが分かるかもしれない。また、「本物の静けさ」とは外側にあるのではなく、心の内側にしか存在しえない。まるでそのことを弁別するかのように、制作者は内面的な静寂と癒やしを見事なまでに呼び起こすのである。

 

ピアノの演奏に関しては、フランツ・リストのような華やかな技巧が出てくることはない。しかしながら、ピアノ音楽の系譜を再確認し、それらを現代的な音楽としてどんな風に解釈するかという試作が行われていることに注目したい。 「Now And Then」は、ビートルズの新曲と同じタイトルだが、その曲風は全く異なる。フォーレの『シシリエンヌ』のような導入部のアルペジオから、表現力豊かな主旋律が導き出され、ドイツ・ロマン派と近代フランス和声の響きを取り入れ、スタイリッシュなピアノ曲を作り上げる。この曲はまた、ピアノ曲のポピュラー性という側面に焦点が当てられ、初歩的な練習曲のような演奏の簡素な技術性の範疇から逸れることはない。


分けても、ピアノ曲として強く推薦したいのが、続く「Changing Light」である。ピーター・ブロデリックの作風に近いものがあるが、二声の旋律を基に休符を取り入れて、瞑想的な感覚を生み出す。この音楽の主役は、音の間にある休符、つまり「間」であり、空間性が補佐的な役割を持つモチーフと、その間に入る低音部と組み合わされて、シンプルな進行を持つ主旋律が音楽の持つ雰囲気を強調づける。そして音の減退音を維持し、ペダルで強調させ、余韻や余白という側面を演奏を通じて強調している。これらの音の減退の過程が美麗なハーモニーを生み出す。内的な世界と宇宙の持つ極大の世界が一つに結びつくような感じで、広やかで神秘的な響きがある。この曲を聞く限りでは、必ずしも現代のピアノ曲に超絶的な技巧は必要ではないことが分かる。

 

それ以降も、サステインや休符を強調するピアノ曲が続いている。「Time Will Tell」でも同じように、減退音に焦点が置かれ、繊細な音の響きが強調される。曲風としては、坂本龍一に非常に近いものがある。何か外側から突くと、壊れそうに繊細なのだが、その内側に非常に強いエネルギーを持つ。こういった感覚的なピアノ曲が、シンプルな構成、即興演奏で展開される。 Hot Chipのジョー・ゴダードとの共同クレジットである「Into The Silence」は、まさしく、アルバムの重要な根幹となる一曲だろう。


現在、ゴダードはバンドのほかにも、プロデュースやリミックス等を中心に活躍目覚ましいが、彼の参加は現代的な電子音楽の要素をもたらしている。空のように澄明で艶やかなイーノさんのピアノ演奏に、ジョン・ゴダードは果たしてどのようなエレクトロの効果を付与したのだろうか。ぜひ、実際の作品を聴いて確かめてみていただきたいと思う。少なくとも、ロジャー・イーノは古典的な音楽をよくよく吟味した上で、それらに現代的なエッセンスを付与しようとしている。ジョー&ロジャー……。両者の息の取れたコンビネーションは本当に素晴らしい。もしかすると、ハロルド&ブライアンという伝説的なコラボレーションの次世代のシンボルとなるかもしれない。



 

86/100

 

 

  

「Changing Light」




 Sarah Davachi



 サラ・ダヴァチ(1987年カナダ生まれ)は、テクスチャー、倍音の複雑さ、音響心理現象、チューニングとイントネーションの緩やかな変化を強調するために、長時間の持続と考慮された和声構造を利用し、音色と時間空間の密接な複雑さに関心を寄せる作曲家であり演奏家である。


 彼女の作曲は、ソロ、室内アンサンブル、アコースティック形式と多岐にわたり、アコースティック楽器や電子楽器を幅広く取り入れている。 ミニマリズムやロングフォームの信条、フォルムやハーモニーに関する初期音楽の概念、スタジオ環境における実験的な制作手法からも同様に影響を受けており、彼女のサウンドは、忍耐強い体験であり、慣れ親しんだものや遠いものに対する知覚を緩和する。


 高く評価されている彼女のレコーディング作品に加え、ダヴァチは、エレン・アークブロ、オーレン・アンバーチ、グルーパー、タシ・ワダ、ロバート・アイキ・オーブリー・ロウ、シャルルマーニュ・パレスティン、映画監督ディッキー・バトなどのアーティストとともに、幅広くツアーを行っている。 委嘱作品には、クアトゥオール・ボッツィーニ、ロンドン・コンテンポラリー・オーケストラ、ヤーン/ワイヤー、アパートメント・ハウス、ゴースト・アンサンブル、ワイルド・アップ、室内合唱団アイルランド、BBCスコットランド交響楽団、ラジオ・フランス、コンテンポラリー・アンサンブル、チェロ八重奏団アムステルダム、カナダ国際オルガン・コンクール、ウェスタン・フロントなどがある。 彼女の作品は、サウスバンク・センター(ロンドン、イギリス)、バービカン・センター(ロンドン、イギリス)、コントラクラング(ベルリン、ドイツ)、INA GRM(パリ、フランス)、イシュー・プロジェクト・ルーム(ニューヨーク、アメリカ)、ランポー(シカゴ、アメリカ)などで国際的に紹介されている。


ーー2022年から2024年にかけて作曲されたこのアルバムに収録された7曲は、コンセプチュアルな組曲を形成し、通過行為を理解するために構築される精神的なダンス、私たちが交わり、記念し、象徴を表象を超えた世界に持ち帰る方法を観察している。


この目的のために、『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』は、古代ギリシアのオルフェウス神話への2つの言及に取り組んでいる。1922年に発表されたライナー・マリア・リルケの詩集『オルフェウスへのソネット』と、1607年に発表されたクラウディオ・モンテヴェルディのバロック初期のオペラ『オルフェオ』である。


オルフェウスの神話は、妻エウリディーチェの死によって悲しみに打ちひしがれた音楽家が、死者の神に彼女の帰還を説得するため、黄泉の国へと下っていく物語である。その道すがら、オルフェウスは竪琴から奏でる深く嘆き悲しむ音楽で、彼の行く手を阻む者たちを誘惑する。ハデスは承諾するが、ひとつだけ条件がある。オルフェウスは、ふたりが再び生者の世界に戻るまで、エウリュディケを振り向かせないこと。驚くなかれ、二人が地表に近づくにつれ、オルフェウスは不安を募らせて、振り向いて背後にいるエウリュディケの存在を確認する。そしてオルフェウスは、死が自分を連れ去ってくれるようにと歌う。マエナドの一団によってようやく願いが叶ったオルフェウスは、切り離された頭部と竪琴を川に流し、悲痛な歌を歌い続ける。


長年、私はスタジオでの練習とライブ・パフォーマンスの練習を大きく分けようと努めてきた。


このアルバムには4つのパイプオルガンが収録されている。イタリア、ボローニャのサンタ・マリア・デイ・セルヴィ教会にある、1968年にタンブリーニによって製作された機械式アクション楽器、フィンランド、ヘルシンキのテンペリアウキオ教会にある、1969年にヴェイッコ・ヴィルタネンによって製作された電気式アクション楽器; ジョン・ブロムボーが1981年に製作した機械式アクション楽器(アメリカ、オハイオ州オバーリンにあるオバーリン・カレッジのフェアチャイルド・チャペルにある)、そしてアリスティド・カヴァイエ=コールが1864年に製作した機械式アクション楽器(フランス、トゥールーズのゲス教会にある)。


『THE HEAD AS FORM'D IN THE CRIER'S CHOIR』に収録されているオルガン曲は、楽器のペダルに重きを置いており、ほとんどの楽器が持つ機械式トラッカー・アクションによって可能になったテクスチュアのバリエーションにも注目している。


特に、桜美林大学のブロムボー・オルガンは、17世紀初頭に設計されたオルガンに典型的な平均律の使用と、拡張された平均律におけるエンハーモニック等価性の欠如に対応するスプリット・アクシダメンタル・キーの使用の両方において、特に有意義な作曲の機会を与えてくれた。「Possente Spirto」は、『オルフェオ』のアリア「Possente spirto, e formidabil nume」に対する緩やかな概念的言及である。モンテヴェルディ版と同様に、私の作品も弦楽器と金管楽器の使用を強調し、それらが出入りする特定の順序を守り、一種の通奏低音の枠組みも取り入れている。私はそこから離れ、ゆっくりと動く和音進行に焦点を当てることにしたーー Sara Davachi 



『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』/ Late Music  --ギリシャ神話に対する概念的言及、時間のない無限のドローン音楽--




 

 

ロサンゼルスのSarah Davachi(サラ・ダヴァチ)の最新作『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』はいわゆるドローンミュージックの傑作であり、一般的なアナログシンセやプロデュース的な作品とは異なり、コンテンポラリー・クラシカルのライブ録音に近い作品となっている。

 

2022年には、スウェーデンのKali Malone、2023年には、ロサンゼルスのLaurel Halo、カナダのTim Hecker、そして、すでに今年、トルコからEkin Fil、カナダのLoscilの傑作が出ている。Sara Davachiの最新作は、それに続く前衛音楽の注目作ということになる。上記の作曲家を見て分かることは、カナダのティム・ヘッカー、ロスシルを除けば、ドローンミュージックは、女性中心によるウェイヴであること、そして、全般的には、いずれの作曲家も対外的な評価を度外視し、長期間にわたって辛抱強く音楽作品を作り続けてきたことである。

 

長い期間、女性のアーティストが正当な評価を受けてこなかったことは、すでによく知られていることであり、社会的な風潮としては致し方ない側面もあったかもしれないが、近年、優れたエレクトロニック・プロデューサーが登場し、男性優位であったこれらのシーンに一石を投じていることは喜ばしく、時代の流れを反映しているといえるだろう。クラシックでいえば、クララ・シューマン以外、ほとんど著名な女流作曲家が出なかったこと、長い間、男性優位のヨーロッパ社会において、女性が芸術家として正当な評価を受けるまでに数世紀を要したことへの反動や揺り戻しであり、また、それらの不均衡であった秤が、21世紀になり、まっすぐつまり直立に戻ったことを意味している。加えて、功利主義に陥りがちな男性音楽家とは明らかに異なり、女性の作曲家には、じっくり腰を据えて制作を行う、胆力や精神力が備わっている。男性というのは、元をたどれば、農耕民族以外は狩猟や漁をしなければならなかったため、目移りしたり落ち着きがないものである。私自身は、フェミニストというわけではないのだが、どうやら忍耐強さという側面では、女性の作曲家の方が上手のようである。それは「世間的な評価」という男性的な基準とは別に「内的な評価を重視する」という側面が、女性には備わっているのではないかと推測される。その反面、どうしても男性の作曲家は社会的な生き方を長い間強いられてきたので、外面的な評価という基軸から容易には逃れられないのである。

 

サラ・ダヴァチは、特に上記の傾向を象徴付けている。2010年代始めにエレクトロニックプロデューサーとして登場したときは、取り立てて「派手な音楽家」というわけではなかった。しかし、2015年頃からモダン・クラシカルの作風を従来のシンセを中心とする電子音楽の作風に取り入れ始めたころ、何かが劇的に変わりはじめた。2022年には傑作「Two Sisters」を発表し、ドローン・ミュージックの象徴的な作曲家になりつつある。2015年頃から、クワイアの導入に加え、パイプオルガンの演奏を重視してきた。特に、ダヴァチの中世ヨーロッパの楽器に対する好奇心は尋常ではない。まるで彼女の前世が中世ヨーロッパの器楽家であったか、もしくは、調律師であったかとおもわせるほど。ダヴァチは、イタリアの古い時代のベルを導入したり、作曲家、演奏家という二つの表情と合わせて器楽研究家の性質を持ち合わせている。そして、今回の新作アルバムでは、イタリアの中世の楽器を始めとする、4つのパイプオルガンが演奏に導入されている。その中には、日本の桜美林大学の鍵盤もある。まさに、世界中の楽器の蒐集、そして、それらの展覧会とも呼ぶべき内容の豊富さである。4つもパイプオルガンを使用する必要があったのか、と思うかもしれないが、実際の録音を聞けば分かる通り、それ以上の価値がある。このアルバムはまるで、倍数以上のオルガンを使用したような重厚な作風で、その中にはバッハのミサ曲を思わせる心痛な面持ちを持つ楽曲もある。

 

ギリシア神話のモチーフは、このアルバムに度々登場し、それはリヒャルト・ワーグナーの歌劇のライトモチーフのような働きをなし、「妻エウリディーチェのために黄泉の国に下る」という、恐ろしくもロマンチックな物語の主人公の実際的な行動が「トーンが少しずつ下降していくドローンの通奏低音」に明瞭に表れ出ていることがわかる。このドローンによるライトモチーフは何度も出現し、上記のギリシア神話のロマンティックな物語性をペーソスや悲哀のような感情性で縁取っている。例えば、Sub Popのナタリー・メリングは、ナルキッソスの物語をポピュラー音楽という側面において散りばめたことがあるが、ダヴァチの場合は、ドローン音楽により、黄泉の国に下るというミステリアスな物語を体現させようと試みる。その一方、制作者は、モンテヴェルディの「オルフェオ」にも言及しているが、これらは作品の効果や表情付けのようなものに過ぎないと推測される。イタリアン・バロックに欠かさざる音階的な優雅さや嫋やかさはほとんど登場せず、一貫して、JSバッハのミサ曲やマタイ受難曲のような宗教曲を彷彿とさせるパイプオルガンの重厚な和音構造、そして、別の鍵盤による通奏低音、ないしは弦楽器、金管楽器といった副次的な器楽が、主流となるパイプオルガンに異なる倍音の性質を付け加える。

 

ドローン音楽は、基本的には複数のポリフォニーで構成され、パレストリーナ様式の教会音楽のように、あるいは、JSバッハの6声部の対旋律のように、独立した主旋律を他の旋律が強化するような形で展開される。しかし、基本的には、主旋律は存在せず、副次的な旋律もまた主旋律の役割を持つという点で、カウンターポイントの新しい形式の一つでもある。これらの基本的な構成に加えて、倍音の性質が加わる。つまり、今回、ダヴァチ教授(彼女は本当に講義を学生に対して行うことがある)がわざわざ4つの異なる時代のパイプオルガンを使用したのには理由があり、楽器の音響学としての異なる性質をかけ合わせ、特異な倍音を重ね、独特なハーモニーや調和を求めようというのが、このアルバムの制作の主な動機ではなかったかと思われる。実際的に聞けば、分かるように、『The Head As Form​’​d In The Crier​’​s Choir』は異なる独立した声部と、別の性質を持つ和音が織りなす長大なハーモニーによる作品と称せるかも知れない。 



 

重要なことは、このアルバムは単なる電子音楽ではなく、モダンクラシカルという側面に焦点が絞られ、また、ミサ曲のような本格的な儀式音楽の性質が色濃い。同時に、ライブレコーディングの性質が強調されている。本作のオープナー 「Prologo」は、厳かなパイプオルガンの演奏で始まる。以前の作風と明らかに異なる点は、低音域が強調され、実際的に、鍵盤楽器の低音部の和音構造が重視されている。これが音楽的な気風として重厚な感覚を付与し、さらには厳粛さ、敬虔さ、宗教音楽の重要な動機である「頭の上にある存在に対する畏れ」を明瞭に体現させるのである。ときどき、AIの文明が発展したことにより、人間は過度に傲慢になったり、他者に対する配慮を見失うことがあるが、この序曲では、中世の時代にはたしかに存在した人間的な感覚の発露、そして、生命の動機、あるいはその緩慢な変遷、さらには人間的な本質がスピリットにあること、そういった現代文明の中で多くの人々が見失った真実を思い出させ、現実を虚像のように映し出し、その向こうに幻想的な古典性ーーギリシア神話の「オルフェウス」の竪琴の物語を立ち上げる。これらの映像的な音楽の効果は、間違いなく、ダヴァチさんのアカデミックな学識が明確に反映されている。これはまた、20世紀までは、女性が教育の中で抑圧されてきた史実を鑑みると、いよいよ女性的な知性が活躍する時代が到来したという風潮を把捉出来る。また、音楽的な側面でも、この序曲は、マスタリングの素晴らしさが際立ち、重厚感のあるサウンド、360度のサラウンド・システムで試聴するような音の奥行き、そして、全体的な音の艶やかさと、独立レーベルでこのようなハイクオリティの音質を生み出したことは、信じがたい偉業といえる。一貫して通奏低音が強調されるという側面では、現行のドローン音楽との共通項も多いが、他方、7分50秒からの別の鍵盤楽器による不協和音の追加は、独特な倍音を発生させ、音楽を可視化されたデータではなく、「生きた流動体」のように鋭く変化させる。つまり、音楽そのものが、生命としての息吹を与えられ、動き始め、そして、組み上げられたギリシア神話の物語の中を動き出す。そして、古典的なもの、現代的なものがたえず交錯するかのように、複数の次元から、あるいは、複数の地点から、旋律という光を照射し、見果てることの叶わぬ一大的なエネルギー体を構築していく。最早、この序曲の段階において制作者は、音楽が単なるデータでもなければ、マテリアルでもないことを確知し、生きた有機体としての役割を司ることを明示してみせる。


現実的な側面を反映させるでもなく、幻想的な側面を反映させるわけでもない。此岸から見た音楽は多数存在するが、彼岸から見た音楽というのはあまり前例がない。サラ・ダヴァチの音楽は、主観の音楽ではなく、客観の音楽である。「Possente Spirito」 では、2010年代から追求してきたモジュラーシンセの演奏を竪琴に見立て、簡素な分散和音をモチーフに、その後、通奏低音を挟み、アルバムの音楽は一連の流れを形作りはじめる。金管楽器の通奏低音、ないしはドローン音楽の範疇にある前衛的な手法は、このジャンルが当初、スコットランドのバクパイプの音響の発展から始まったことを思い起こさせる。つまり、鍵盤楽器ではなく、吹奏楽器から始まったのがドローンの形式である。ラ・モンテ・ヤング、ヨシ・ワダの最初期の作風を踏襲した上で、ダヴァチは祭礼時の儀式的な音楽、哀悼の意味を持つ宗教音楽を現代に復刻させる。これらはミニマル音楽の系譜、そして、ドローンの系譜という二つの視点を基に、音響学の可能性、次いで金管楽器の倍音の可能性という未知なる領域を切り開こうとするのである。

 

 

特に、パイプオルガンの楽曲、見方によれば鍵盤楽器による協奏曲のような意味合いを持つこのアルバムの音楽性が最も重力を持つ瞬間が「The Crier's Choir」、そして続く「Trio For A Ground」の2曲となる。前者は、古典的なイタリアンバロックやバロックの形式を基にして、重厚な通奏低音によって建築学的な構造を持つ前衛音楽を作り出す。そしてレビューの冒頭でも述べたように、複数の異なる鍵盤楽器の持つ倍音の特性が、(それは機械としての性質でもある)、ドローン音楽の重要な特徴であるイントロでは想像しえなかった音響学の構造変化、及び、倍音や音調の微細な変遷を、制作者が意図するギリシア神話の物語という動機を通じて敷衍させていく。この曲では、少なくとも、2つか3つのパイプオルガンの演奏が取り入れられているようだが、それは続く「Trio For A Ground」と同じように、ニューヨークの現代音楽家、モートン・フェルドマンの「Rothko Chapel」のようなドローン音楽の原点へと回帰していく。フェルドマンは、テキサスの礼拝堂の委嘱作品として「Rothko Chapel」を制作したが、同時に、これはアート作品を展示するための環境音楽の意味合いも込められていた。そして、世界で最初のインスタレーションは、間違いなく、モートン・フェルドマンの代表作だったのである。これらの現代音楽の系譜に準ずるかのように、ダヴァチは、ギリシア神話の黄泉の国への下りをテーマとし、漸次的に下降するドローンを複数重ね合わせ、圧巻の音響空間を物語に添える。「目的のための音楽」とも言えるが、結局、最後の演奏を終え、鍵盤楽器から手を離すとき、通奏低音が減退する瞬間に、演奏者として痛切な思いが込められ、音の停止、それはとりもなおさず、音楽に対する控えめな態度が、敷き詰められた音の連続に癒やしと安らぎをもたらす。もし、そうしていなければ、音楽という得難い化け物に飲み込まれていたかもしれない。

 

後者の「Trio For A Ground」は、中音域から高音域を強調する前曲と比べると、低音域を徹底して強調した厳粛な面持ちを持つパイプオルガンによる独奏曲とも言える。特に、平均律を基にした変則的な調律は、目の前に巨大な塑像のようなものが出現するかのごとき圧倒的な印象を受ける。それはギリシア神話というよりもダンテの神曲の地獄の門に入る時の作者の畏れのような感覚にも似ている。しかし、この曲では、2010年代中盤に、制作者が実験的に導入していた女性のクワイアが加わることにより、神話としての音楽的な動機を想起させ、そしてその枠組みの中で、幻想的な音楽の性質や、ミステリアスな感覚がありありと立ちのぼってくる。聞き方によっては、RPGの音楽や映画のワンシーンの効果的な音楽によるストーリーテリングの要素を持ち合わせ、アルバムの中盤の重要なハイライトを形成している。そして、ランタイムごとに、曲の表情は変化していき、暗鬱さ、神秘さ、神々しさ、そして精妙さ、透き通るような感覚、濁るような感覚、重苦しさ、悲しさ、そういった数しれない感情性の物語が、二人のギリシア神話の主人公のライトモチーフのような役割をなしている。また、曲の途中から加わる弦楽器のドローン、その上に微細に重ねられる高音部のパイプオルガン、複数の声部が幾つも折り重なり、増幅と減退を繰り返しながら、音響の持つ表情を変化させる。また、8分後半に出現するノイズは、まるで彼岸と此岸を隔てる幕のように揺れ動き、音楽的な効果は最高潮に達する。特筆すべきは、これらの音調の変容やドローン音の変遷は、抑揚的に高まると抑えられ、抑えられると高められるというように、一貫して、抑制と均整が取れ、必要以上にラウドになりすぎることもなければ、それとは反対にサイレンスになりすぎることもない。いわば、黄泉の「中つ国」の性質を反映させるかのように、中間領域の音楽としての性質を維持しつづける。そして、それらは、演奏者が明確に意図したアクセント、クレッシェンドやデクレッシェンドという手動による音響的な効果によって組み上げられる。これが最終的に、コントラバス、コントラファゴットの音域を強調するパイプオルガンの重厚な通奏低音により、物語の核心に迫る情景が暗示される。そして、前曲と同様、サラ・ダヴァチは、11分から12分にかけて、フェルドマンの「Rothko Chapel」のような霊妙なドローンを、パイプオルガンの複数の声部によって完成させる。間違いなく、現代の前衛音楽の至高の瞬間をこの一分間に見いだせるはずだ。音楽の正体が振動体であること、ウェイヴ、周波数であることは、この一分間で明示されている。実際的に、この曲は次の世紀に語り継がれてもおかしくない実験音楽である。

 

 

以降の2曲は、ダヴァチ教授の古典的なアートに対する趣味が色濃く反映されている。というのも、サラ・ダヴァチさんは古典的なヨーロッパ絵画にかなり熱心であり、それらの蒐集をしているかどうかは定かではないが、少なくとも、バロック主義の古典絵画のような世界を音楽により表現したいという欲求は、常日頃から持ち合わせているはずなのだから。これらの古典的な芸術に対する親しみは、「Res Sub Rosa」では、バロック主義のミサ曲のような形式をパイプオルガンで体現させ、他方、「Constants」では、イタリアン・バロックの宗教音楽のような古典的な世界観を構築する。これらの2曲は、音楽的な方向性としてマンネリズムに陥る場合もあるが、全般的には少しだけ重苦しくなりがちな作風に、ウィリアム・ターナーが描いた古典的なローマの情景のような安らいだ感覚や優雅な感覚を体現させる。それは現代人としての古典に対する憧れであり、また、それらのヨーロッパの苦難多き歴史の基底にある文化的な奥深さや多彩さに対するロマンチシズムを、厳粛なパイプオルガンの独奏で表現しているといえる。惜しむらくは、クラシック音楽のアリアのような優雅な声やクワイアが登場しなかったことが、作品全体に単一的な印象を及ぼしている。ただ、それとて、聞き手が制作者の手の内に転がされているに過ぎず、アートワークのモノトーンの体言化という制作者の意図の範疇にあるものなのかも知れない。しかし、最終盤に向けて、あちこちに拡散していたもの、あるいは、無辺に散らばっていたものが集まり、一つの中心点にゆっくり向かっていくような不思議な感覚、そして、先にも述べたように、音楽そのものが生きた有機体のようの蠢き始め、また、その果てに教会の鐘の残響のような余韻が残されていることが、何かしら遠いヨーロッパの異国を旅したときや、その土地土地で、まったく聞き慣れない異教の鐘の音をふと耳にするときのエキゾチズムを反映させている。制作者は、古典的なテーマに焦点が絞られていると指摘しているが、もしかすると、現代的な社会の気風や混乱など、副次的な主題も取り扱われているのかもしれない。少なくとも、この曲は最もモダンでアーバンな印象を持つ前衛音楽である。

 

 

続く「Constants」は、金管楽器で構成されるドローン音楽で、通奏低音を重視していることは事実だが、同時に、倍音を基に構成されるハーモニーにも焦点が置かれていることが分かる。これらは音楽的な効果として、本来は、なしえないはずの古典的な時代への旅、あるいは私達が生きていない時代への蘇り、また、その空想の空間の中で生きること、こういった普通では考えられないような音楽の醍醐味を体現させる。それは物語を見る第三者の視点が突如として登場したことを表し、メタ的な構造の変化を及ぼす。器楽的な観点から言えば、金管楽器の通奏低音の増幅、及び減退は、厳粛な音楽というアルバム全体のテーマを力強く反映させている。そして全体的な構成から言うと、この曲は、終曲にむけての布石や連結部のような役割を司る。主題と副題がたえず交差するようにし、このアルバムの音楽はクライマックスへと向かう。

 

終曲「Night Horns」は、基本的には、2つのパイプオルガンを中心に構成される。しかし、この曲では、日頃あまり指摘されないパイプオルガンの吹奏楽器としての音響的な性質が色濃く立ち現れる。撥音は鍵盤、音響効果はペダルであるが、出力はパイプ、つまり吹奏であるという音響学的な性質は、実際的に聞き手を音楽の最深部へと誘う力を持ち合わせている。最も和声構造の性質が強調され、それはやはり一貫して、ミニマル・ミュージックの次世代の音楽であるドローン・ミュージックという形式の範疇にあるが、和音の構成音の一音を丹念に、そして辛抱強く動かすことにより、音の流動性やうねりを作り出し、それらを建築物のような圧倒的な印象を持つ構造体へと作り上げる。それは、作曲のモチーフが上手く運び、ギリシア神話の物語のクライマックスを暗示しているのかもしれない。また、それは、人類史の無限への憧憬を表すバベルの塔の建築を思わせ、聞き手の興味を現実の世界から神話の世界へと接近させる。ある意味では、古典性と現代性という、2つの対極的なテーマを結びつけ、呆れるほど強度の高いドローン・ミュージックを構築したことに、このアルバムの最大の成果が込められている。

 

しかし、これは一年や二年で生み出されたものではない。2013年頃からたえず、サラ・ダヴァチは誰からも注目を受けなかった時代から、飽くなき探究心を持ち、電子音楽と前衛音楽を制作してきた。その11年目の成果が、ようやく傑作を出現させたのだ。最後の建物が振動する音と共に録音されたパイプオルガンの高音部の通奏低音は、レコーディングの歴史的な瞬間であり、今日までの音楽の中で最も崇高性を感じさせる。それはまた、現代の音楽が持つ一般的な意味を塗り替え、「スピリットを体現する音楽」という、哲学、数学と合わせて、最古の歴史を持つ人類が生み出した最高のリベラルアーツの本来の核心に最接近した瞬間なのである。

 

 

 

100/100



 




世間の喧騒から離れ、静けさと本当の言葉に耳を傾ける。フランスの音響作家、Felicia Atkinsonは、ピアノ、ギター、パルス音を用いたダンスミュージックまで多角的な音楽を制作し、上述したことを実践してきた。


本日、フェリシア・アトキンソンは、ニューシングル「The Healing」を彼女自身の自主レーベル、Shelter Pressからリリースした。


ポストクラシカル調のピアノ、フィールドレコーディング、そしてスポークワードを交えた知的な音楽を楽しむことが出来る。
 
 
以前、アトキンソンは、The Quietusの「目をつむり、見て」と題された過去のインタビューにおいて、アンリ・ルソー、高田みどりからの影響、日本の切り花や生花からの影響を参照している。それはアトキンソンの音楽制作の道しるべとなり、ある空間の中でどのように音楽が聞こえるべきなのか、音の各々のマテリアルがどこに配置されるべきか、という考えに反映されている。


これらはすべて、印象派/抽象派としての美しい音楽をアトキンソンが作曲するための足掛かりとなるイデアでもあろう。そしてまた、「そこにあるべきものが自然な形で存在する」、あるいは、「過度な脚色や華美さを平すように削ぎ落としていく」という日本の伝統的な建築形式や芸術様式の美学の反映を意味する。これはまた、侘び寂びと呼ばれる日本の美学の原点でもある。


ニューシングル「The Healing」のピアノの瞑想的な響きはほのかなペーソスが伴うが、それはミュージシャンの美学と結びつけられると、ふしぎと凛とした響きに変わり、聞き手に癒しと安らぎのひとときをもたらす。過剰な表現からの逃避。それはまた眩い光の裏側にある影の心地よさでもある。



「The Healing」

Roger Eno ©Cecily Eno

 

近年、気候変動をテーマにしたアルバム、Fred Again..とのコラボレーションなど幅広い分野で活躍するブライアン・イーノとともに、音楽家として存在感を示しつつあるのが、彼の弟であるロジャー・イーノである。

 

2023年、ギリシャ・アテネのアクロポリスでのライブをブライアンと一緒に行い、音楽ファンを驚かせた。このライブの模様はコンサート・フィルム『Live At The Acropolis』に収録されている。


最近の幾つかのソロ・アルバムでは、様々なコンセプチュアルな試みが行われている。「Mixiing Colours」においてブライアンと音による対話を行い、続く『The Turning Year』では、個々のシーンを持つ短編小説、そして、写真のコレクションのような意味を持つコンセプト・アルバムに取り組んでいる。いずれの作品も、音楽の中に何らかの意図が込められている。

 

今回、ロジャー・イーノは、ドイツ・グラモフォンから新作アルバムのリリースを発表した。タイトルは「The Skies : Rarities」。2枚目のソロ・アルバム『the skies, they shift』のレコーディング・セッションで録音された未発表曲が収録されている。音と静寂の中で、喚起的で示唆に富んだ道筋をたどる。メランコリックなトーンは、『Rarities』でも聴くことができる。


このアルバムは、集約的な農業と気候変動が環境にもたらす脅威と大いに関係があった。(「単なるエコロジカル・スレノディになりかねなかったこのレコードは、その代わりに、今、ここ、そして、気候変動に対する美しい考察となった」- The Line Of Best Fit


「アルバムとなる作品を録音する際、私はたいていアイデアがあり余っている」とロジャー・イーノは言う。

 

「こうすることで、プロセスの最後に、深く検討した順序で決定的な 「コレクション 」を作ることができるんだ。後者は私にとって非常に重要だ。こうして、私はしばしば、1枚だけでなく2枚分の満足のいく音源を持っているという贅沢な立場にいることに気づく」



ベルリン・スコアリングの楽器奏者はスコアを元に即興演奏をするよう依頼された。一方、ギタリストのジョン・ゴダードは 「Into Silence 」で参加。イーノは 「Into Silence 」について「特別な曲」と呼ぶ。この曲は、イーノ曰く「そうでなければ欠けていた特別な風味」を添えている。

 

アルバムのリードシングルとして公開された「Changing Light」は、リスナーの心をその場に留め、静かな瞑想を促すピアノ曲となっている。Peter Borderickのピアノの小品を彷彿とさせる美しい一曲。

 

 

「Changing Light」



 
Roger Eno  『The Skies : Rarities』


 
Label: Deutsche Grammophon
 
Release: 2024年9月27日
 

Tracklist:  

 
1.Breaking the Surface
2.Patterned Ground
3.Through The Blue (Piano Version)
4.Above and Below (Amazon Original)
5.Now and Then
6.Changing Light
7.Time Will Tell
8.Into Silence
 
 
 

Roger Eno: 

 

ロジャー・イーノは、イギリス・サフォークのマーケットタウンであるウッドブリッジで生を受けた。彼は学校で音楽に没頭し、毎週土曜日に精肉店で稼いだお金でボロボロのアップライトピアノを購入しました。その後、ロジャー・イーノの音楽教育は、コルチェスター・インスティテュート・スクール・オブ・ミュージックへと引き継がれた。ロンドンのプライベートクラブでジャズ・ピアノを弾く短い活動を行った後、彼はイースト・アングリアに戻った。 


1983年、兄のブライアンとダニエル・ラノワと「Apollo」で最初にコラボレーションを行ない、ピーター・ハンミル。オーブ、そして 彼の最初のバンドである、ララージ、ケイト・セント・ジョエル、ビル・ネルソン、日本のチェロ奏者である橘真弓をメンバーに擁するアンビエント・グループのチャンネル・ライト・ベッセルをその後に結成した。
 
 
彼はまた、セッションミュージシャン、バンドメンバーとして、オーブ、ルー・リード、ジェービス・コッカー、ベックをはじめとする著名なミュージシャンとチームを組み、ティム・ロビンスと彼のバンドであるローグギャラリーの音楽監督として活躍した。 
 
 
今日では、演劇、映画の双方の作曲家として知られるロジャーは、ロンドンの国立劇場でのハロルド・ピンターの作品、さらには、スティーヴン・フリアーズ監督のテレビシリーズ「State of The Union」ではエミー賞を獲得し、何年にもわたって多くの映画のサウンドトラックを提供してきた。

Weekly Music Feature:  Joep Beving(ユップ・ベヴィン)& Maarten Vos(マーテン・ボス)


Joep Beving & Maarten Vos

 

 

ピアニストのユップ・ベヴィンとチェリストのマーテン・ボスは、2019年の『Henosis』以来二度目のコラボレーションを実現させる。最初の共同作業は2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演した後に実現しました。


新作アルバム『vision of contentment』は、マーテン・ボスもスタジオを構えるドイツの東西分裂時代の遺構で、第二次世界大戦まで旧ドイツの国営放送局であったベルリンのファンクハウス複合施設にあるLEITERスタジオでニルス・フラームがミックスした。

 

現在、ベルリン・ファンクハウスは、観光施設となっており、内部にはレコーディングスタジオとコンサートホールが完備されている。エイフェックス・ツインがイベント行ったり、あるいはニルス・フラームをはじめ、実験音楽をメインフィールドとする音楽家が録音を行ったり、オーケストラのコンサートが行われることもある。旧ドイツ時代の施設の名残りがあり、ロシアのビザンチン建築を継承した踊り場の階段のデザイン、1940年代の奇妙な機械設備が残されています。

 

ベヴィンは、これまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんでしたが、ヴォスは定期的にそのような活動をしており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。

 

「時折、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになる」とマーテン・ボスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことは刺激的で、私の成長に大きく貢献している」


もちろん、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップであり、遅きに失したと言っても過言ではありませんでした。「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことだった」


「私の契約(ドイツ・グラモフォンとのライセンスのこと)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。私はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとしている。マーテンとニルスと一緒に仕事をすることは、これを達成するのに非常に役立っている。マーテンは音の彫刻家であり、ニルスはその...音の達人なんだ!」


ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。


この友人たちは、ベヴィンのアムステルダムのスタジオとボスのファンクハウスですでに一緒に時間を過ごしており、そこからさらに2曲のアルバム・トラック作り出された。

 

時におびただしい数の作業から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれました。

 

しかし、このアルバムはそれ以上のものを表現している。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚愕すべき個人的トリビュートでもある。


ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。


確かに、このアルバムは、私たちの住まう生の世界であれ、反対にある死の世界であれ、平穏という複数のアイデアに根ざしている。ベヴィン曰く、「嵐の後の朝、潮の満ち引きの評価、過ぎ去ったことの受け入れ、そして、新しい日の夜明け、新しい人生を意味している」という。


これらの繊細なブックエンドの間には、亡霊のような無調の「Penumbra」、くぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダース(6曲)のトラックが収録されている。


一方、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、ほとんどありえないほど豪華なピアノの旋律に引き立てられるのみで、部屋の中にいる得体の知れないノイズのようなものによってすぐに明るくなる。さらに、「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立っていく瞬間を表し、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのようです。


ベヴィンとボスがビルトホーフェンにほど近い森の小屋に落ち着いた頃には、べヴィンのマネージャーで旧友のブルーネンは3年間がんと闘っている最中でした。しかし、彼の死が間近に迫っていたため、制作の進行に影を落としていたとしても、それは悲しみだけが要因ではなかった。「ここでの中心テーマは "ブルー・アワー"、黄昏時だったのです」とベヴィンは説明します。


「それはつまり、ある状態から別の状態への移行、そして暗さを受け入れること。友人のマークは自分の病気と差し迫った最期に対して驚くべき対処法を示していました。彼は自分の運命と平穏に過ごしていました」



『visions of contentment』 Leiter      


オランダの鬼才 ユップ・ベヴィン、マーテン・ボスによる耽美主義のクラシカル

 


オランダのピアニスト、ユップ・べヴィンは、現代のコンテンポラリー・クラシックを語る上では欠かすことが出来ない音楽家でしょう。べヴィンのピアノ曲は、Olafur Arnoldsの系譜にある”叙情的なミニマルミュージック”の系譜にあるものとなっていますが、彼の音楽的な興味は、ロマン派や、それ以降のジャズとの架け橋を形作ったフランスの近代和声に向けられています。

 

べヴィンのピアノ曲の基礎にはショパンのロマン派に対する親しみが込められ、それはポーランドの作曲家の「ノクターン」に近い。それに加え、音楽家のエスプリ(日本語でいう”粋”という概念)を求めるとするなら、エリック・サティのような無調に属する和音と、旧来の和声法の常識を覆すような前衛的な和音法の確立にある。これは、基音の11度、13度、15度といった、ジャズの和音の基本となったのは言うまでもありません。これらの7度以降の和音構造にラヴェルやドビュッシーが興味を抱いたのは、それらの和音が涼し気な印象を及ぼし、旧来のドイツ発祥の厳格な和声法を完全に払拭するものであったからなのです。

 

より端的に言えば、ユップ・べヴィンという作曲家が傑出しているのは、これらの前衛的な和声法と旧来のクラシックのロマン派の夜想曲のような神秘的な雰囲気を持つ楽曲構造を組み合わせているからでもある。

 

今回、ベヴィンのアルバムに新たに共同制作者として参加したマーテン・ボスは、チェロ奏者でありながら、アナログシンセサイザー奏者でもある。このコラボレーションは、チェロとピアノの合奏にとどまらず、シンセサイザーとピアノの融合が主眼となっている。それに加えて、ニルス・フラームが、ベルリン・ファンクハウスのスタジオで最終的なミックスを行っています。


聞けば分かる通り、この作品の制作に携わったニルス・フラームは音響効果をてきめんに施しており、単なる合奏曲ではなく、エレクトロニックやダブステップのような先鋭的なサウンドワークの意味を持つ作風として仕上げられています。全体的な録音の割合で言えば、べヴィンとボスが7、8割、フラームが2、3割くらい関与する内容となっている。もしかすると、1割ほどその割合は前後するかも知れない。つまり、このアルバムは、ユニットやデュオの作品とは言いづらい。むしろ、Leiter(ライター)主導の”トリオの作品”として聴くこともできるようなアルバムになっています。

 

 

ジブリ音楽を手掛けた日本の作曲家、池辺晋一郎氏は、音楽を制作する上で欠かさざるものが2つあると仰っていました。それは作曲の技法の一貫である「メチエ」、つまり、音楽的な蓄積や技法。もう一つが「イデア」であるという。それらはモチーフとか、ライトモチーフという形で作品に取り入れられ、最初に始まった音楽の動機を動かしたり、別の大きな楽節を繋げたり、より大きな枠組みで言えば、幾つかの章やセクションを繋げるような働きをなしています。

 

いわば制作者の頭の中に描かれた構想や着想が、音楽的な設計やデザインと組み合わされることにより、良質な作品が作り出される場合が多いのです。これらは何も、純正音楽だけに限った話ではないように思えます。たとえば、優れたエレクトロニック、優れたロック、優れたポピュラーというのは、イデアとメチエがぴったりと合わさるようにして生み出される。そのどちらかが優勢になっても、均衡の取れた作品にはならない時がある。加えて、現代の指揮者やエンジニアのような役割を担うのがレーベルの仕事であり、そして、プロデューサーの役割でもある。レーベルならば、そのレコード会社らしい音質や録音、一方、プロデューサーならば、そのエンジニアらしいマスタリング。こういった複合的な要素から、現代のレコーディングは成立しており、一人だけの力でそれらが完成することは、ほとんどあり得ないかもしれません。

 

ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。


これらのピアノ曲とチェロの演奏に、瞑想的な気風が含まれているとすれば、べヴィンにせよ、ボスにせよ、そういった考えを十分に汲み取り、暗さから目を背けず、安らかなものとして受け入れるという「治癒」が内包されているがゆえなのです。さらに言えば、今作はオランダの森の中で制作されたことによる中世的な雰囲気と、ベルリン・ファンクハウスの旧ドイツの機械産業を象徴づける近代的な気風が掛け合わされ、クラシックとエレクトロニックが融合した画期的なアルバムとして音楽ファンの記憶に残るかもしれません。

 

実際、レコーディングの過程で制作された楽曲が時系列順に収録されることは多くはないものの、アルバムは何らかの音楽的な流れーーMovement(ムーヴメント)ーーを形成しているのは事実のようです。それは、物語のようなフィクションではなく、現実にある時間の流れ、ある人の一生や、それに纏わる人々の複雑な感情の流れを、主な演奏家で制作者でもあるユップ・ベヴィンとマーテン・ボスがピアノやシンセ、チェロにより的確に捉え、そしてプロデューサーやエンジニアとして、時おり作曲家に近い形で関わるニルス・フラームという3つの人間関係を中心に構築されている。彼等のうち一人が音楽的な主役になったり、脇役に扮したり、それとは対象的に、舞台袖に控える黒子のような「影の人物」を演ずる場合がある。つまり、このアルバムでは、ほとんど''中心的な人物''というのを挙げることは無理難題のようにも思えるのです。

 

これは音楽という枠組みの内側で繰り広げられる劇伴音楽のようでもある。架空のものでありながら、真実であり、真実でありながら、架空でもある。そして、その演劇的な音楽の向こうから、第四の人物である"マーク・ブルーネン"という、ほとんどのリスナーが見知らぬ人物が登場する。しかし、そういったリヒャルト・ワーグナーの主要な歌劇のライトモチーフのような動きは、飽くまで「暗示」の範疇に留められている。つまり、音楽の基底にレクイエムのようなモチーフが立ち上ってきても、音楽的な立脚点に固執することなく、楽曲ごとに、ないしは曲の中のセクションごとに、そのモチーフが”黄昏時のように”ゆっくりと移ろい変わっていくのです。

 

どのような人生においても、一方方向で進む生き方が存在しえないように、このアルバムの音楽はストレートではなく、時おり曲がりくねったりすることがある。それらは、実際的に音楽的なモチーフやフレーズの中で示される場合もあるものの、特にサンプリングやシンセサイザー、ミックスの音響効果の側面(アンビエンスを活用したエフェクト)で顕著な形で出現する場合がある。

 

冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。


続く「Penumbra」はシンプルに言えば、ベートーヴェンの「Moonlight」のミニマルミュージックとしての構造、そして音楽における雰囲気を受け継いで、ショパンのノクターンのような叙情的な気風溢れるピアノ曲として昇華しています。しかし、この曲は月の光に照らし出されるかのような神秘的な瞬間を収めていますが、それとは異なる亡霊的な雰囲気が微かに捉えられる。

 

これは、最終的なミックスを手掛けたニルス・フラームの貢献であるかも知れませんし、もしくは、サティの系譜にある古典的な和声法とは異なるベヴィンの不安定な和音の構造に要因が求められるかも知れません。そして私たちがふだん見ることのかなわない生と死の狭間--アストラルの領域--を彷徨うかのように、曲はミステリアスな雰囲気を漂わせ、ときおり、マーテン・ボスのチェロの微細なトレモロと淡麗なレガートの演奏を交えながら、奇妙なイメージを形づくる。

 

「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。



「Hades」-  Best Track

 



それに続く「Hades」は、この世とあの世の間をさまようかのような奇妙な印象を擁するピアノ曲で、オリヴィエ・メシアンや、坂本龍一、アルヴァ・ノトとのコラボレーションの系譜に位置づけられる。もちろん、前衛的なエレクトロニックとしても聴くこともできるでしょう。ニルス・フラームの代表曲「All Armed」で使用されたような前衛的なモジュラーシンセで始まり、その後、協和音と不協和音の双方を活かしたべヴィンのピアノの演奏、プリペイド・ピアノの要素を交えたモダン・クラシックとエレクトロニックの中間点に位置するような楽曲です。

 

 

アルバムの中盤では「The heron」が強い印象を擁する。曲のイントロには、足音が遠ざかるサンプリングが取り入れられている。つまり、友人が死にゆくというメタファー(暗喩)が込められ、モートン・フェルドマンがテキサスの礼拝堂のために制作した代表的な作品『Rothko Chapel』に見いだせるようなマーテン・ボスのチェロの主旋律の演奏で始まり、その後、ユップ・べヴィンによるエリック・サティの系譜に位置づけられる物悲しいピアノの演奏が続いています。 



これらは、べヴィンの音楽の核心にある簡潔性とロマン派の系譜にあるエモーションや憧れ、そして夢想を体現している。彼はまた従来の作品と同じように、それらを悲哀を込めて情感たっぷりに演奏しています。

 

「02:07」は、先行シングルとして公開され、前の曲の悲しみやペーソスといったイメージとは対極にある、やや明るい印象に縁取られている。友人の死の時刻がタイトルになっていますが、友人の死を悲しみではなく、明るく送り出すような意図が込められているのかもしれません。そして同時に、この曲には制作者の友人への追憶が含まれているという気がする。それは実際的に深みのある情感を聞き手にもたらす。曲の最後は次のタイトル曲の伏線となっています。

 

タイトル曲は、ブライアン・イーノの系譜にあるアンビエント風の一曲で、移ろい変わる魂の変遷のような神秘的な瞬間が体現されている。実際的には、アルバムの序盤から中盤で描き出された暗さや闇といった概念から、その対極にある明るさと光のような瞬間が切り取られています。そして全体的には霊的な瞬間をエレクトロニックから解釈したような作風になっている。

 

アルバムのクローズ「The boat」では、「Hades」におけるシンセのパルス音が再登場し、今作の中では最も神秘的な瞬間がエレクトロニックによって体現されている。アルバムの最後では端的なピアノ曲がロマンチックな雰囲気を帯びる。簡素なミニマルミュージックの系譜にあるささやかなピアノ曲は、ニルス・フラームのプロデュースにより美麗な印象が付与されています。


本作には、不世出の偉大な音楽家、モートン・フェルドマン、坂本龍一、アルヴァ・ノトに対するオマージュやリスペクトが示されているため、音楽の基底にそれらを探し求めるという醍醐味も見出せるかも知れません。また、友人の死の時刻をタイトルに据えたのは、坂本龍一さんの遺作『12』への敬意が含まれているからなのでしょうか。厳粛さと前衛性の融合が図られた一作。反復の構造が多いため、すぐ飽きるかと思いきや、底知れぬ魅力を湛えた耽美的なアルバム。

 

 

 

「02:07」 -Best Track

 


 


86/100



 

Joep Beving & Maarten Vosの新作アルバム『vision of contentment』はLeiterから本日発売されました。ストリーミング等はこちらから。 

 


坂本龍一が亡くなられてから1年以上が経過し、新曲がリリースされる。本日、彼の遺族とミラン・レコードは『Opus』というタイトルの遺作アルバムを発表し、リード・シングルとして "Tong Poo "の瞑想的な新曲を発表した。


2022年に東京のNHK509スタジオで行われた生前最後のプライベート・ピアノ・コンサートの音源を収録した『Opus』には、映画音楽、イエロー・マジック・オーケストラのヒット曲など、坂本のキャリアを通して演奏された楽曲が収録されている。

 

このコンサート・フィルム/ドキュメンタリーは、「RYUICHI SAKAMOTO | OPUS」というタイトルで、6月30日にクライテリオン・チャンネルで初公開される。

 

この日の演奏は印象的なモノクロのトーンで放送され、演奏の合間に短いインタビューが収録された。作曲家の最後の闘病の様子を追ったドキュメンタリー番組も同放送局で放映された。プライベートピアノコンサートでは、「The Last Emperr」等の代表的な楽曲を中心に、モダンクラシカルやジャズの性質を反映させた楽曲が披露された。その中には、2023年始めに発表された日記のような形で書かれた生前最後のアルバム『12』の収録曲もパフォーマンスされた。


坂本は生前に書いた声明の中で、「Opusは私がまだ演奏できるうちに、私の演奏を未来に残す価値のある形で記録する方法として考案された」と説明している。


坂本は、限られた時間の中で新たに発見された曲の意味を振り返り、「ある意味、これが最後の演奏の機会だと思うと同時に、新たな境地を切り開くことができた気がします。一日数曲、集中して演奏するだけでも精一杯だった。その苦労がたたったのか、終わった後はまったく虚脱感に襲われ、1カ月ほど体調が悪化した。それでも、生前にレコーディングができたことに安堵しています。納得のいく演奏ができた」


シングルの「Tong Poo」は、坂本の作曲家としての意図を完璧に反映している。1978年のYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の名曲を瞑想的なピアノ・バラードとして再構築し、曲のハーモニーの複雑な美しさを強調する一方、そのメロディの崇高なシンプルさを輝かせている。

 

 

「Tong Poo」



坂本龍一 『Opus』 

Label: Milan

Release: 2024年8月9日

 

Tracklist:

1. Lack of Love

2. BB

3. Andata

4. Solitude

5. for Jóhann

6. Aubade 2020

7. Ichimei – small happiness

8. Mizu no Naka no Bagatelle

9. Bibo no Aozora

10. Aqua

11. Tong Poo

12. The Wuthering Heights

13. 20220302 – sarabande

14. The Sheltering Sky

15. 20180219 (w/prepared piano)

16. The Last Emperor

17. Trioon

18. Happy End

19. Merry Christmas Mr. Lawrence

20. Opus – ending


 

ウクライナ出身のフィンランド人、ダリア・スタセフスカ(Dalia Srasevska)は、彼女が首席客演指揮者を務めるBBC交響楽団とともに、10人の現代作曲家の10曲を録音し、数ヶ月の間にプラトゥーンから1作ずつリリースされる。


グラモフォンによると、すべてのトラックには、アンドリュー・メラーがホストを務めるポッドキャストが付き、ダリア・スタセフスカと当該作品の作曲家が出演している。これからの数ヶ月間、非常に印象的で個性的な作曲家たちが登場するエキサイティングな旅になるという。


ダリア・スタセフスカとBBC交響楽団によるヨハン・ヨハンソンの「They Being Dead Yet Speaketh - 彼らは死者でありながら語る」の録音がリリースされました。ストリーミングはこちらから。 


BBC交響楽団の重厚なストリングス、ホーンセクションのドローンの融合はアイスランドのコンテンポラリークラシックの象徴的なコンポーザー、ヨハン・ヨハンソンの音楽を次世代に進める。


音楽の総監督を務めたダリア・スタセフスカはこの曲集に関してソーシャルメディアで次のように述べている。


「この深く感動的な曲は、もともと、映画監督ビル・モリソンの映画『The Miners' Hymns』に登場した。この曲でヨハンソン監督の遺産をBBC交響楽団と共に称えることができて非常に光栄です。"They Being Dead Yet Speaketh "をお楽しみください」

 

 

 

 


ニューヨークのコンポーザー・ギタリスト、Ezra Feinberg(エズラ・ファインバーグ)がサード・アルバム『Soft Power』を5月31日(金)にTonal Unionからリリースした。

 

本作には、メアリー・ラティモア、デヴィッド・ムーア(ビング&ルース)、ジェフレ・カントゥ=レデスマ、ロビー・リーといった豪華なミュージシャンが参加している。タイトル曲のビデオが公開されています。下記より。


本作はすでにピッチフォーク、フェイダー、ガーディアン、アンカット、モジョから支持されている。


豊富なメロディー、繰り返される図形、そして恍惚とした即興演奏によって定義されるSoft Powerは、聴き手を力づける啓蒙的で変容的な精神を醸し出している。ファインバーグはリスナーを芸術的に豊かな場所へと超越させ、彼の作曲はその核にある深い人間性によって際立ち、リスナーを目を見開き、開放的で生き生きとした状態へと導く。

 

『ソフト・パワー』は、エズラ自身のマントラであると同時に、色彩豊かなカタルシスを音楽に変換した、パワーを与えるマントラでもある。


 
エズラ・ファインバーグの音楽は常に聴き手に語りかけてくるが、「Soft Power」はささやくように最も大きな声で語りかけてくる。




「Soft Power」

 

 

 

 Ezra Feinberg 『Soft Power』

 


Label: Tonal Union

Release: 2024/5/31     

 

Tracklist:

 
1.Future Sand (feat. David Lackner)
    
2.Soft Power (feat. David Lackner)
    
3.Pose Beams (feat. Jefre Cantu-Ledesma, Robbie Lee)
    
4.Flutter Intensity (feat. Russell Greenberg)
   
5.The Big Clock (feat. David Moore, Britt Hewitt)
   
6.There Was Somebody There (feat. David Moore, Jefre Cantu-Ledesma)
    
7.Get Some Rest (feat. Mary Lattimore) 



アルバムのストリーミング/ご購入はこちらから。

 

 

Ezra Feinberg:

 



精神分析医であり、サンフランシスコのサイケデリック集団、Citay(Dead Oceans / Important Records)の元創設メンバーでもあるエズラ・ファインバーグは、ニューヨーク州北部のハドソン川流域の芸術的飛び地に住んでいる。ファインバーグは、リスナーを芸術的に豊かな場所へと超越させる。彼の作曲は、その核にある深い人間性によって際立ち、リスナーの目を見開き、開放的で生き生きとした状態へと導く。ソフト・パワーは、エズラ自身のマントラであると同時に、色彩豊かなカタルシスを音楽に変換した、パワーを与えるマントラでもある。
 
ファインバーグの音楽は常に聴き手に語りかけてくるが、ソフト・パワーはささやくように、最も大きな声で語りかけてくる。
 
「日常生活と同じように、とても平凡で、シンプルで、静謐で、ほとんど日常的な側面を伝えたかった。しかし、それぞれの作品には、その形が拡張したり、そこから抜け出したりする弧がある」

 

 

Press Information:


Released in full yesterday - Friday May 31st is the new album 'Soft Power' by New York composer-guitarist - Ezra Feinberg’s whose third album Soft Power sees the composer-guitarist enlist an impressive array of fellow musicians including Mary Lattimore, David Moore (Bing & Ruth), Jefre Cantu-Ledesma, Robbie Lee.

Already supported by Pitchfork, The Fader, The Guardian, Uncut, Mojo.

Defined by its abundance of melodies, repeating figures and ecstatic improvisations, Soft Power exudes an enlightened and transformative spirit to empower the listener. Feinberg artfully transcends the listener to an enriched place, his compositions distinguished by the deep humanity that lies at their core, plugging the listener into a state of wide eyed being, open and alive. Soft Power then is Ezra’s own mantra but also one of power giving - a colourful catharsis translated into music.
 
Feinberg’s music always speaks to the listener, but Soft Power, in whispering, speaks loudest.

 

 

Ezra Feinberg:

 

Feinberg, a practising psychoanalyst and former founding member of the San Francisco psychedelic collective Citay (Dead Oceans / Important Records) resides in the artistic enclave of upstate New York's Hudson River valley. Feinberg artfully transcends the listener to an enriched place, his compositions distinguished by the deep humanity that lies at their core, plugging the listener into a state of wide eyed being, open and alive. Soft Power then is Ezra’s own mantra but also one of power giving - a colourful catharsis translated into music.
 
Feinberg’s music always speaks to the listener, but Soft Power, in whispering, speaks loudest.
 
“Much like everyday life, I wanted to convey these very plain, simple, tranquil, nearly quotidian aspects, but each piece contains this arc in which that form expands, is broken out of, so what starts out like a painting of flowers in a seaside motel turns into a riot of color and sound, or you feel slipped into a dream that feels like it could go on forever”


ピアニストのJoep Beving(ユップ・ベヴィン)とチェリストのMartin Vos(マーテン・ヴォス)は、ニルス・フラームが主催するドイツのレーベルLeiterから7月19日にリリースされる初のコラボレーションアルバム「vision of contentment」の詳細を発表しました。両者ともオランダのコンテンポラリークラシックの象徴的なミュージシャンです。


「vision of contentment」は、Joep Beving(ユップ・ベヴィン)の3作目のアルバム「Henosis」(2019)での共同作業に続く作品で、2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演したことから生まれました。


マーテン・ヴォスもスタジオを構えるベルリンの有名なファンクハウス複合施設にあるLEITERのスタジオでニルス・フラームがミックスした本作には、8曲の新曲が収録されます。バイナル盤のほか、すべてのデジタル・プラットフォームで発売されます。


ユップ・ベヴィンはこれまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんが、ヴォスは定期的にそれに類する活動を行っており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。


「ときどき、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになるものです」とマーテン・ヴォスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことはとても刺激的であり、私の成長に大きく貢献しています」


他方、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップで、コラボレーションは遅きに失したと言っても過言ではありません。


「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことでした。私の契約(ドイツ・グラモフォン)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。僕はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとする。マールテンとニルスと一緒に仕事をしたことは、これを達成するのに非常に役立ってくれました。マールテンは音の彫刻家でもあるのです」


時におびただしい総数の作品から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれましたが、本作はそれ以上の概念を表現しています。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚くべき個人的トリビュートでもある。


マーテン・ヴォスは、『vision of contentment』の心に響くサウンドを「イマジネーション豊かな探求を促す音の風景」と考えており、デュオは音楽のガイドとしてモートン・フェルドマン、そして「メンター」として坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げてます。


一方、ユップ・ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりだと語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に批判的な意見」も届けたいと付け加えています。確かに、このアルバムは、我々の世界であれ、死後の世界であれ、平穏というアイデアの上に成り立っているようです。「on what must be」の生意気なサウンドで始まり、それに続くイーノとバッド風のミニマリズムは、悲しみ、諦め、美しさとさまざまな感覚をかけあわせています。


ベヴィン曰く、「嵐の翌朝、潮の満ち引きを見極めながら、過ぎ去ったことを受け入れ、新しい日、新たな人生の夜明けを迎える」 


そう、とても繊細なブックエンドの間には亡霊のような無調の「Penumbra」、さらにくぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダースのトラックが収録されています。


そのほかにも、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、豪華なピアノの旋律にささえられながら、空間の中に偏在する得体の知れないノイズのようなものによってやや明るくなります。「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立つ音であり、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのよう。ベヴィンとヴォスが森に落ち着いた頃には、友人のブルーネンは3年間がんと闘っていた。しかしながら、彼の "逝去 "が間近に迫っていたことが、このプロジェクトに暗い影を落としていたとしても、それは悲しみだけが原因ではなかったのです。



「02:07」

 


「ここでの制作の中心テーマは "ブルー・アワー"、ようするに黄昏時です」とベヴィンは説明します。


彼の言葉には刻限だけではなく、私たちの人生に訪れる夕暮れや黄昏の時もまたその概念の中に含まれています。それはふいに友人の死からもたらされたものでした。ある意味では、目を背けたくなるような出来事が、その後、受け入れや受容に変わっていく道筋が音楽に原動力をもたらしたのです。彼は友人の死を「黄昏」と捉えました。


「黄昏とは、ある状態から別の状態への移行や、そして暗闇を受け入れることについて意味しています。マークは自分の病と差し迫った人生の最期に際して、驚くべき対処法を示していました。彼は、自分の運命の最後をとても安らかに過ごしていました」


それから、ヴォスとベヴィンは、彼が亡くなるまでの数日間、ようやく友人と会うことができた。そして、彼が亡くなったことを知ったときも、スタジオで一緒にいたのです。


その瞬間は、多くのリスナーに深い感銘を与えるであろう「02:07」に収められており、この曲はその知らせが届いた時間にちなんで名付けられましたが、「vision of contentment」の各作品も同様、彼らの人生における彼の存在に照らし出される。実際のところ、かけがえのない友人ブルーネンとの家族のように温かな心の触れ合いに加え、アルバムジャケットには、カナダのアレックス・コマの印象的な絵が描かれています。


「このレコードを象徴するイメージだとすぐにわかりました。白鷺は知恵、内面的な認識、そして精神的な成長の象徴であり、マークが生涯を終えるときの心境を表しています。ボートは私たちを別世界に運んでくれる船を意味している。『ブルー・アワー』は、黄昏、それから暗闇から光への移ろい、そして、その逆を象徴しています。最も幸福であり、最も悲しい時間……。このことを知り、無常を理解し、人生の美しく本質的な部分として受け入れることが、人生を生きる上での満足感につながるのです」


このアルバムは、ヴィニ・ライリーが自身のマネージャーであり、ファクトリー・レコードのオーナーであるアンソニー・ウィルソンに捧げた『ウィルソンへの賛歌』(The Durutti Column's A Paean to Wilson)と同じくらい感動的な作品となっています。




Joep Beving  & Martin Vos「vision of contentment」



Label: Leiter
Release: 2024年7月19日


Tracklist:

1.on what must be

2.Penumbra

3.A night in Reno

4.Hades

5.The heron

6.02:07 

7.vision of contentment

8.The boat

 

Pre-order: https://ltr.lnk.to/visionofcontentment


英国の現代音楽家、マックス・リヒター(Max Richter)が新作アルバム「In A Landscape」を9月6日にリリースする。ジョン・ケージの名曲と同名で、リヒターは内的な静けさを基にしたピアノアルバムを提供する。リスナーとの会話を誘うこのレコードは、彼の作品のさまざまな側面を融合させている。

 

リヒターはイギリスで最も著名な現代音楽家であり、ポスト・クラシカルという音楽の普及に貢献してきた。クラシック音楽をポピュラー的な観点から見つめ直すことは、敷居が高いと思われがちなこの音楽の扉を一般的なリスナーに開放させるような意味があった。没入感のあるサウンドスケープは他のアーティストにインスピレーションを与えつづけ、現代クラシック音楽を定義するのに貢献してきた。リヒターの記念すべき「SLEEP」は、史上最もストリーミングされたアルバムであり、創造性に対する彼のコンセプチュアルなアプローチを象徴している。

 

「僕にとって、このアルバムの音楽は、両極を結びつける、あるいは和解させるということなんだ」

 

マックス・リヒターは続けて次のように說明している。「エレクトロニクスとアコースティック楽器、自然界と人間界、人生の大きなアイデアと個人的な親密さの融合。これは、『The Blue Notebooks』で私が探求し始めたダイナミックなもので、新しいプロジェクトはそのアルバムの懸念の多くを共有しているんだ。ある意味、このアルバムは、以前の作品のテーマを、2024年の私たちの世界と私たちの生活という視点から、もう1度見つめたなおしたものなんだ」


リードシングル「Movement Before All Flower」はリヒターのピアノの演奏に気品に満ち溢れたチェロの演奏が加わる。演奏の簡素化や単純化に焦点を当ててきたマックス・リヒターの音楽は、今回もやはり質実剛健である。2000年代の名作アルバム『The Blue Notebook』からそうであったように、聞き手を平穏と静けさ、内的な安らぎに導き、感覚が最も大切であることを示す。彼の音楽は、喧騒から人々を解き放つ力があり、その音楽に静かに耳を傾けていると、自分自身が誰であるのかを思い出させてくれる。

 

現在発売中のシングルは、マックス・リヒターにとって初の海外ツアーの前に発表された。ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでの2夜公演を含む、多数のUKヘッドライン公演が予定されている。(リードシングルのストリーミングはこちら

 

 

「Movement Before All Flower」





 F.S Blumm 『Torre』

 


Label: Leiter

Release: 2024/04/26

 


ベルリンのギタリスト、F.Sブラームが提供する大人のための癒やしの時間



F.Sブラームはベルリンのミュージシャンであり、同地の数少ないダブプロデューサーでもある。彼はアコースティックギタリストとしても活動し、ジャズとコンテンポラリークラシックの中間にある音楽も制作しています。さらにベルリンの鍵盤奏者/エレクトロニックプロデューサー、ニルス・フラームと音楽的な盟友の関係にあり、共同活動も行っています。両者のコラボレーションは、2021年のアルバム「2×1=4」に発見することが出来ます。 最新作「Torre」はフラームが手掛けるレーベル、Leiterからのリリースで、大人のための癒やしの時間を提供します。


このアルバムは、ミュージシャンによるアコースティックギターの柔らかな演奏に加え、ミヒャエル・ティーネによるクラリネット、アンネ・ミュラーによるチェロのトリオの編成にささやかなクワイア(声楽)が加わり、緩やかで落ち着いたジャズ/コンテンポラリークラシックが繰り広げられる。ブラームは、2022年のシングル「クリストファー・ロビン」でリゾート地のためのギターアルバムを制作していますが、その続編のような意味を持つ作品と言えるかも知れませんね。実際、ブラームは、このアルバムの制作前にイタリアのリベエラで数カ月間を過ごしたのだそうで、そのリゾート地の空気感をコンポジションやトリオ編成の録音の中にもたらそうとしています。

 

これまでブラームはダブやエレクトロニック、ほかにもヒーリングミュージックにも似た音楽を制作していますが、最新作では、モダンジャズからの影響を基にし、喧騒から解き放たれるための音楽を制作しています。解釈の仕方によっては、リベエラに滞在した数カ月間のバカンスの思い出を音楽で表現したかのようでもあり、ミヒャエルのクラリネットの響きとブラームのアコースティックギターの間の取れた繊細なアルペジオを中心とする演奏は、忙しない現代人の心に余白を与えてくれるのです。特に、作曲の側面での新しい試みもいくつか見出すことが出来、それは室内楽やジャズトリオの形で、まるで目の前にいる演奏者、ミヒャエル、アンネとアイコンタクトを送りながら、ノート(音符)を丹念に紡いでいくのが特徴です。今作のオープニングを飾る「Da Ste」では、トリオ編成の演奏の絶妙なタイミングの取り方によって、ジャズともクラシックとも付かない潤沢な時間がリスナーに提供されるというわけなのです。

 

また、ドイツのジャズシーンにはそれほど詳しくないですが、F.Sブラームの音楽はどちらかと言えば、ノルウェージャズからの影響が強いように感じられます。例えば、Jagga Jaggistのクラリネット奏者であるLars Horntvethが「Pooka」で提示したようなクラリネットとギターの演奏を通じて繰り広げられるエレクトロニカに近い印象もある。ただ、ブラームの場合は、この作品で一貫してアコースティックの演奏にこだわっており、生楽器が作り出す休符やハーモニーの妙に焦点が絞られています。このことがよく分かるのが続く#2「Aufsetzer」となるでしょうか。

 

アルバムは基本的に、ギター、チェロ、クラリネットによるトリオ編成でレコーディングされていますが、収録曲毎にメインプレイヤーが入れ替わるような印象もある。#4「Di Lei」でのアンネ・ミュラーによる演奏は、バッハの無伴奏チェロ組曲のような気品に満ち溢れ、ミュラーのチェロの演奏は凛とした雰囲気のレガートから始まり、その後、ギター、クラリネットの音色が加わると、色彩的なハーモニーが生み出されます。トリオのそれぞれの個性が合致を果たし、ジャズともクラシカルともつかないアンビバレントな作風が作り出されるのです。

 

近年、リゾートのための理想的な音楽とはどのようなものであるのかを探求してきたギタリストによる端的な答えが、アルバムの中盤から終盤の移行部に収録される「Wo du Wir」に示されています。この曲では、クラリネットの演奏は控え目、むしろミュラーによるチェロのレガートの美しさ、ボサノヴァのような変則的なリズムを重視したF.Sブラームの演奏の素晴らしさが際立っています。実際、リスナーをリゾートに誘うようなイメージの換気力に満ち溢れている。この曲の補佐的な役割を果たすのが続く「Frag」で、ブラームの演奏はハワイアンギターのような乾いたナイロンのギターの音響をもとに贅沢なリスニングの時間を作り出しています。


序盤のいくつかの収録曲と合わせて、アイスランドやノルウェーを中心とする北欧のエレクトロニックジャズに触発された音楽も発見できます。例えば、ミヒャエルのクラリネットの巧緻なスタッカートの前衛的な響きが強調される「kurz vor weiter Ferne」/「Hollergrund」は、ブラームトリオの音楽のユニークな印象を掴むのに最適となるかもしれません。ここでは、リゾート地に吹く涼やかな風を思わせる心地よさが音楽という形で表現されているようにも思えます。

 

アルバムはトリオのソロ、アンサンブルを通じて、リゾート地の風景やその土地で暮らす感覚をもとにしたコンセプト・アルバムのように収録曲が続いていき、これらのスムーズな流れが阻害されることはほとんどありません。それはブラームが演奏者ないしは作曲家としてムードやその場所の空気感を重んじているからであり、トリオの演奏は、さながらイタリアの避暑地を背景にしたバックグランドミュージックのような形でアルバムの終盤まで続いているのです。

 

もう一つ、このアルバムでブラームの作曲家としての新しい試みが示されたことに気づく方もいるかもしれません。例えば、アルバムの終盤に収録されている「Daum」においてはジャズギタリストのドミニク・ミラーのような作風に取り組んでおり、F.Sブラームがモダンジャズの領域へと新しい挑戦を挑んだ瞬間を捉えることが出来ます。

 

その後、幻想的な物語のような印象を持つエレクトロニックのフレーズがトリオ編成とは思えないようなダイナミックなスケールを持つ音楽世界を少しずつ構築していきます。また、チェロの演奏をフィーチャーし、アンサンブルの形を通じて、マクロコスモスを作り出す「Shh」もブラームの作曲家としての非凡なセンスが光り、それらが、Lars Horntvethのアルバム「Kaleidscope」で描き出された電子音楽の交響曲のようなスケールを持つ音響空間を作り出していく。


アルバムの音楽は静けさから激しさへと移り変わり、最終的に始まりのサイレンスへと帰っていく。さながらイタリアのリゾート地の港町の海際の波がおもむろに寄せては返すかのように、抑揚や微細なテンションの変化を通じて音楽が繰り広げられ、巧みなサウンドスケープを描いていき、アルバムの序盤ではわかりづらかったことが明らかになる。今作『Torre』が、ブラームトリオのアンサンブルによるリゾートをモチーフにしたオーケストラの交響曲のような形式で作曲されており、それが制作者、ひいてはトリオのメッセージ代わりとなっていることを……。


クラシック音楽において作者が言い残したことを付け加えるコーダの役割を持つ「Da Ste」は、クラリネットの微弱なブレスを活かし、現代音楽のようなモダニズムの音響性を構築した上で、ブラームはアコースティックギターをオーケストレーションの観点から演奏しています。スタッカートを強調したギターの演奏は先鋭的な作風を重じているとも言えますが、他方、聞きやすさもあるようです。今作の重要なテーマ”大人のための癒やし”という概念は、それが異なる形で実際の音楽に表れるということを加味しても、全13曲を通じて一貫しています。アルバムをぼんやり聞き終えた後、リゾートでのバカンスを終えたような安らかな余韻に浸れるはずです。 


 

86/100

 

 

 Weekly Music Feature ‐ Demian Dorelli 

 


ロンドン出身で、ケンブリッジ大学出身のDemian Dorelliは、音楽と足並みを揃えて人生を歩んできた。


主にクラシックで音楽の素地を形成したデミアン・ドレリは、その後もジャズ・ミュージックやエレクトロニック・ミュージックへのアプローチを止めることなく、その制作経験を豊富にしていった。


彼はこれまでに、パシフィコ(2019年のアルバム『Bastasse il Cielo』から引用された曲「Canzone Fragile」)において、アラン・クラーク(Dire Straits)、シモーネ・パチェ(Blonde Redhead)といった名だたるアーティストとコラボレーションしている。


デミアン・ドレリはまた、ポンデローザ・ミュージック&アートから『Nick Drake's PINK MOON, a Journey on Piano』を発表している。このアルバムは、ピーター・ガブリエルのリアルワールド・スタジオでティム・オリバーと共にレコーディングされ、ドレリがピアノを弾きながら故ニック・ドレイクに敬意を表し、過去と現在の間で彼との対話を行う11曲で構成されている。


前作『My Window』はドレリのサイン入り2枚目のアルバムで、ポンデローザ・ミュージック・レコードからリリースされた。彼の長年の友人であるアルベルト・ファブリス(ルドヴィコ・エイナウディの長年の音楽協力者・プロデューサー、ドレッリの「ニックス・ドレイク ピンクムーン」というデビュー作品の時にすでにコントロール・ルームにいた)がプロデュースを手掛けた。


イタリアのレーベルのパンデローサは、このアルバムについて、「イタリア人ファッション写真家とイギリス人バレエダンサーの間に生まれたもう一人のドレッリ(わが国のクルーナー、ジョニーの人気と肩を並べることを望んでいる)は、非常に高いオリジナリティを持つピアノソロアルバムを作るという難題に成功している」と説明する。


デミアン・ドレリのピアノ音楽は、現在のポスト・クラシカルシーンの音楽とも共通点があるが、ピアノの演奏や作品から醸し出される気品については、Ludovico Einaudi、Max Richter,Hans Gunter Otte、John Adamsの作品を彷彿とさせる。デミアン・ドレリの紡ぎ出す旋律は、軽やかさと清々しさが混在する。まるで未知の扉を開き、開放的な世界へリスナーを導くかのようだ。


現代音楽のミニマリズムのコンポーザーとしての表情を持ちながらも、その範疇に収まらないのびのびとした創造性は、軽やかなタッチのピアノの演奏と、みずみずしい旋律の凛とした連なり、そして、それを支える低音部の迫力を通じて、聞き手にわかりやすい形で伝わってくる。


本日(4月19日)、ピアノ(デミアン・ドレリ)、チェロ(キャロライン・デール)、フレンチ・ホルン(エリサ・ジョヴァングランディ)のための長編作品を収録した、これまでの作風とは異なる3枚目のレコードが発売される。「A Romance of Many Dimensions(多次元のロマンス)」は、エドウィン・A・アボットによる1884年の小説「Flatland(平地)」の要素を刺激として取り入れつつ、タペストリー空間を自在に旅する7部のパートのエモーショナルな作品に仕上がっている。

 


 

『A Romance of So Many Dimensions』‐ Ponderosa Music Recordings Sri


 

 

英国のピアニスト/作曲家であるデミアン・ドレリは『My Window』において内的な世界と外的な世界をピアノの流麗な演奏を介し表現した。前作はモダンクラシックやミニマルミュージックの系譜に属する作品であったが、三作目のアルバムは必ずしも反復的なエクリチュールにとどまらず、モチーフを変奏させながら、発展性のあるコンポジションの技法が取り入れられている。

 

今回、ロンドンを拠点に活動するデミアン・ドレリは、デイヴィッド・ギルモア、ピーター・ガブリエル、オアシス、U2の作品にも参加している英国人チェリスト、キャロライン・デール、そして、イタリア人のフレンチ・ホルン演奏家で、カイロ・シンフォニー・オーケストラとの共演を行っているエリサ・ジョヴァングランディが参加し、壮大な世界観を持つ室内楽を提供する。

 

 

 

本作はデミアン・ドレリのピアノ・ソロを中心に組み上げられる。その中に、対旋律やフーガのような意味合いを持つフレンチ・ホルン、チェロのレガート、スタッカート、トレモロが多角的に導入される。表向きには、上記の二つのオーケストラ楽器が紹介されているのみであるが、終盤の収録曲には、ウッドベース(コントラバス)の演奏が入り、ジャズに近いニュアンスをもたらす場合もある。もちろん、ドレリの場合は、クラシックにとどまらず、ジャズやエレクトロニックといった幅広い音楽性に触発を受けていることからもわかるとおり、音楽の多彩性、及び、引き出しの多さが三作目のアルバムの重要なポイントを形成している。そして、このアルバムでは、涼やかな印象を持つピアノのモチーフを元に、アルペジオに近似する速いジャズ風のパッセージのバリエーションを通じて、ルドヴィコ・エイナウディを彷彿とさせるシネマティックな趣向を持つクラシックミュージックを作り上げる。考え方によっては、デミアン・ドレリのピアノソロが建築の礎石を築き、その次に二人の演奏家が建築に装飾を施していく。

 

前作に比べると、明らかに何かが変わったことがわかる。オープニングを飾る「Houses」はイントロの早めのピアノのパッセージの後、ドレリは華麗なモチーフの変奏を繰り返しながら、楽曲をスムーズに展開させていく。

 

ドレリのピアノは、安らかな気風を設けて、癒やしの質感を持つ緻密な楽節を作り上げる。楽曲の構成としては、米国の現代音楽家、アダムズの系譜にあるミニマリズムであるが、必ずしもドレリの場合は、”反復”という作曲技法が最重視されるわけではない。古典音楽の著名な作曲家がそうだったように、細かな変奏を繰り返しながら、休符をはさんで''間''を設け、チェリストの感覚的なレガートの演奏を織り交ぜ、贅沢な音の時の流れをリスナーに提供しようと試みる。これは、ジョン・アダムズが自分自身の音楽性や作風について、「ミニマリズムに飽きたミニマリスト」と表現したように、この音楽の次なるステップが示されているといえるかもしれない。 

 

 

 「Houses」

 

 

 

例えば、マックス・リヒター、ルドヴィコ・エイナウディ、オーラヴル・アルナルズ、アイディス・イーヴェンセン、昨年死去した坂本龍一、(Room 40のローレンス・イングリッシュとコラボレーションしている)小瀬村さんにしても同様であるが、近年の現代音楽家は音楽という表現を内輪向けにするのを良しとせず、クラシック音楽にポピュラリティをもたらそうと考えているらしい。クラシックをコンサートホールだけで演奏される限定的な音楽と捉えず、一般的なポピュラーミュージックの形で開放している。これは例えば、権威的な音楽家から軽薄とみなされる場合もあるにせよ、時代の変遷を考えると、当然の摂理といえ、クラシックに詳しくないリスナーに音の扉を開く意味がある。デミアン・ドレリの音楽についても同様で、彼の音楽はポピュラーやジャズのリスナーに対し、クラシックの扉を開く可能性を秘めているのだ。

 

デミアン・ドレリの音楽には、ドビュッシー以降の色彩的な和音の影響があり、朝の太陽の光のような清々しさがある。音楽に深みを与えているのが、キャロラインのチェロ、そして、エリサのフレンチ・ホルンの情感を生かした巧みな演奏である。特に、二曲目の「Theory Of Three」はマックス・リヒターの楽曲性を思わせ、曲の終わりに、ソロ・ピアノの演奏を止め、チェロとフレンチ・ホルンの演奏をフィーチャーすることで、一瞬の音の閃きを逃すことはない。

 

「Universal Color BB」はマックス・リヒターの系譜に位置する曲で、 ドビュッシーの「La cathédrale engloutie - 沈める寺」の縦構造の和音にジャズの和声法を付加している。これらの重厚かつ色彩的な和音を微妙に変化させながら、安らいだ音楽空間を作りだす。しかし、イントロではミニマリズムに属すると思われた曲風は中盤において、チェロとフレンチホルンの演奏、アラビア音楽のスケールを織り交ぜたジャズピアノのパッセージによって、ストーリー性のある音楽へと変遷を辿ってゆく。


この曲のエキゾチック・ジャズの影響も音楽的な魅力となっているのは明らかだが、特に、ホルンの芳醇な音の響きには目が覚めるような感覚があり、その合間のドレリのピアノは落ち着きと安らぎをもたらし、ルチアーノ・ベリオを思わせる現代音楽の範疇にあるピアノのパッセージ、フレドリック・ショパンやフランツ・リストのような音階の駆け上がりを通じて、現代音楽とロマン派の作風の中間に位置するアンビバレントな領域に差し掛かる。曲の最後では、Ketil Bjornstadが最高傑作『River』で表現したような音の流れーーウェイブを表現する。ここでは、音楽の深層にある異なる領域が立ち上ってくる神秘的な瞬間を捉えられる。

 

 

「Universal Color BB」

 

 

 

続く「Stranger from Spaceland」を聴いて、フランツ・リストの『Anees de pelerinage: Premiere anee: Suisse‐ 巡礼の年 スイス』に収録されている「Au Lac de Wallenstadt‐ ワレンシュタットの湖で」を思い浮かべたとしても不思議ではない。ただ、デミアン・ドレリの場合は、それを簡素化し、マックス・リヒターの系譜にあるミニマリズム構造に置き換える。ただ、単なる和音構造のミニマリズムで終わらない点にデミアンの音楽の魅力がある。ジャズピアノの即興的な遊びの要素を取り入れ、構成に水のような流れをもたらし、映画音楽のサントラに象徴される視覚性に富む音楽的な効果を促す。途中、やや激したパッセージに向かう瞬間もあるが、クライマックスでは、ジャズの和声法を交え、基本的なカデンツァを用い、落ち着いた終止形を作り上げる。 

 

「A Vision」はミニマリズムの要素をベースに、ジャズのライブセッションの醍醐味を付け加えている。短いパッセージを元にして、フレンチホルンが前面に登場したり、チェロが現れたりと、現代的なロンドンのロックに近い新しいミニマルミュージックの形を緻密に作りあげていく。反復的な構造を持ちながら、細部にわたって精妙な工芸品のように作り込まれているため、じっと聞き入らせる何かがある。これは例えば、Gondwanaのレーベルオーナーであるマシュー・ハルソールのモダン・ジャズに近い雰囲気がある。上記のジャズとクラシックとポピュラーの融合性は、古典音楽に近寄りがたさを感じるリスナーにとって最上の入り口となりえる。

 

 

 

その他にもこのアルバムではタイトルに象徴されるように多次元的な音楽とロマンスの気風が込められている。「The King’s Eyes」は現代的な葬送曲/レクイエムのような意義を持ち、例えば英国のエリザベス女王の葬送に見受けられる由緒ある葬送のための音楽と仮定づけたとしてもそれほど違和感はない。また、この曲に英国の古典文学の主題が最もわかりやすく反映されているとも考えられる。エリサ・ジョヴァングランディによるフレンチホルンの演奏は、Kid Downesがシンセで古楽のオルガンの音響性を追求したのと同じく、音楽本来の崇高な音響性をどこかに留めている。特に、フレンチホルンの神妙なソロの後に繰り広げられるドレリのピアノとデールのチェロは、さながら二つで一つの楽器の音響性を作るかのように合致している。これらの複数の方向からの音のハーモニクスは、音楽そのものが持つ奥深い領域に繋がっている。

 

前作では簡素なミニマリストのピアノ演奏家としての性質が押し出されていたが、三作目のアルバムは映画音楽さながらにドラマティックな雰囲気のある音楽が繰り広げられる。とくにクローズ「Thoughtland」は神秘主義的な音楽であり、モダンクラシックをジャズやエレクトロニックという複数のジャンルへ開放させる。イントロの和風のピアノのアルペジオの立ち上がりから、ベートーヴェンの後期のピアノソナタ、モダンジャズによく見受けられる単旋律のユニゾンによる強調、そして、ジャズの即興演奏に触発されたアルペジオ……、どこを見ても、どれをとっても''一級品''というよりほかない。その上、本曲は、ミニマリズムの最大の弊害である音楽の発展性を停滞させることはほぼなく、音階の運びが驚くほど伸びやかで、開放的で、創造性を維持している。ソロピアノの緻密な音階の連続は、”次にどの音がやってくるか”を明瞭に予期しているかのように、スムーズに次の楽節に移行してゆく。音楽そのものもまた、平面的になることはほとんどなく、次の楽節に移行する際に、多次元的な構造性を作り上げている。


クローズ「Thoughtland」では、古楽やイタリアン・バロックに加え、ドイツ/オーストリアの古典派やロマン派、以降のフォーレからラヴェル、プーランク、メシアンまで続くフランスの近代和声、作曲家が親しむジャズ、ポピュラー、エレクトロニックという多数のエクリチュールを用い、開放感のある音楽に昇華させる。


デミアンの手腕は真に見事である。もちろん、その中には、今回の録音に参加した、二人の傑出したコラボレーター、キャロライン・デール、それから、エリサ・ジョヴァングランディの多大なる貢献が含まれていることは言うまでもない。特に、抽象的なピアノの音像とジャズのパッセージ、フレンチホルンが生み出すハーモニーの美しさは、現代のモダンクラシックの最高峰に位置づけられる。アルバムのクライマックスで、音楽が物質的な場所を離れ、別次元に切り替わる瞬間がハイライトとなる。"モダンクラシックのニュースタンダード"の登場の予感。

 

 

 

 

100/100(Masterpiece)

 


Demian Dorelli(デミアン・ドレリ)の『Romance of The So Many Dimensions(ロマンス・オブ・ザ・ソーメニー・デメンションズ)』はPonderosa Music Recordingsから本日発売。楽曲のストリーミング/ご視聴、海外のヴァイナル盤の購入はこちらより

 


Best Track-「Thoughtland」

Maria W. Horn


 マリア・W・ホーン(1989)は、音に内在するスペクトルの特性を探求する作曲家。芸術活動に加え、スウェーデンのレーベル、XKatedralの共同設立者でもある。彼女の作品は、アナログ・シンセサイザーから合唱、弦楽器、パイプオルガン、様々な室内楽形式まで、様々な楽器を用いている。シンセティック・サウンドは、しばしばアコースティック楽器と組み合わされ、音色、チューニング、テクスチャーを正確にコントロールすることで楽器の音色的能力を拡張する。


 マリアは、建物や物体、地理的な地域に内在する記憶を探求するために、スペクトラリストのテクニックとその土地特有の音源を組み合わせている。


 最近の作曲では、物理的な空間から音響的な人工物を用い、作曲のための音楽的枠組みを創り上げている。これらの音響的痕跡を出発点として、マリアは複雑なハーモニック・パターンを織り成し、親密な儚さから灼けるような高密度のオーラル・モノリスへとゆっくりと変化していく。


 デビューアルバム『Kontrapoetik』(2018年)は、歴史的な調査であり、彼女の故郷であるスウェーデン北部のÅngermanlandの欺瞞に満ちた、穏やかな、しかし混乱した過去に取り組む一種の対悪魔祓いである。


 『Dies Irae』(2021年)は、ベルクスラーゲンの鉱山地帯にある空の機械ホールの共鳴周波数に由来し、『Vita Duvans Lament』(2020年)は、スウェーデンで唯一建設されたパノプティック監房の刑務所を音で発掘したものである。


ーー『Panoptikon』は、ルレオにある解体されたVita Duvanというパノプティック刑務所(白い鳩刑務所)でのインスタレーションのために2020年に作曲された。ボーカルとエレクトロニクスのための音楽による音の発掘である。今作は当初、マルチチャンネルのサウンドと光のインスタレーションとして発表され、監獄の独房に設置されたラウドスピーカーから受刑者の想像上の声が送信された。


アルバムのヴォーカルは、サラ・パークマン、サラ・フォルス、ダヴィッド・オーレン、ヴィルヘルム・ブロマンダー。


タイトルの『Omnia citra mortem』は法律用語であり、「死ぬまでのすべて」あるいは「死のこちら側のすべて」と訳せる。この作品では、囚人同士のコール・アンド・レスポンス構造が用いられており、まばらな声の断片から始まり、次第に声の網の目のように広がっていくーー


 

『Panoptipkon』 - XCathedral


 

 「パノプティコン」とは、そもそもフランスの哲学者のミシェル・フーコーが指摘しているように、「中央集権的な監獄のシステム」のことを指す。昨年、イギリスのジェネシスのボーカリスト、ピーター・ガブリエルがこの概念にまつわる曲をリリースしたことをご存知の方も少なくないはず。

 

 「パノプティコン」の定義を要約すると、建築構造の中央に塔のような建物があり、その周囲に官房が張り巡らされ、常に囚人たちがその中央の塔から監視されることを無意識に意識付けられることによって、いつしかその人々は、反乱を企てる気もなくなれば、もちろん、脱走する気も起きなくなるというわけである。そうして権力構造というのを盤石たらしめるというわけである。これは支配的な構造を作るために理に適った方法であるとフーコーは指摘している。

 

 パノプティコンという構造が罪人たちだけに用意された限定的なシステムであるとは考えない方が妥当かもしれない。フーコーは、パノプティコンの定義を「権力の自動化」であるとし、これらの考えが近代の学校教育に適用され、「規律や訓練」という概念に子供たちを嵌め込み、「学校という一種の権力に自発的に服従する主体を作り出してきた」と指摘する。また、東京大学教育科のある先生は、この考えが日本の教育にも無縁ではないのではないかと指摘している。「近代学校の権力の自動化というシステムも、その学校や建築構造に表れている」とした上で、このように続けている。


「わたしたちが小学校、中学、高校と過ごしてきたなかで、学校という建物は、いつもどこか堅苦しく、威圧的であったように思う。画一化された教室設計、整然と並べられた机、閉鎖的な職員室などがその原因となっているようだ。学校の建築自体が、秩序や規律といったものを無意識的に子供たちに植えつけてしまっているのではないか」


 このパノプティコンは、私たちの日常のいたるところに存在している。有史以来の社会における中央集権的な政治の基盤を形作る諸般の権力構造や支配構造に適用され、すなわち、人間の考えに資本的な概念を刷り込ませて、服従する対象者、あるいは対象物を設けることにより、被支配者は、その中央集権的な存在に対し、独立性を持つことはおろか、そこから逃れることさえできなくなるという次第である。これは、20世紀の世界全体として、社会主義/資本主義社会の中にある「監獄の構造」を浸透させることによって、それらの中央集権的な存在が支配下に置く被支配者たちを思いのまま手なづけ、その支配構造を強化してきた。これは、資本主義やそれと対極に位置する社会主義もまたその方向性こそ違えど、共通している事項なのである。

 

 その中央集権的な権力の基盤構造が揺らぐや、武力をちらつかせたり、動乱やショッキングな事件、時に、紛争を起こすことにより、20世紀の社会全体は、パノプティコンという巨大な社会の権力構造の中に築き上げられてきた。そして、ジョージ・オーウェルが指摘するように、その中央集権的な存在の正体がよくわからない、謎に包まれた存在であるということが肝要である。民衆はいつまでたっても、その中央集権を司る「絶対的な支配者」に一歩も近づくことも出来なければ、その存在すら明確に確認しえないということが、パノプティコンの重要な概念になっている。つまり、その存在がいてもいなくても、被支配者はその中央集権的な存在にいつも怯え、そして、時にはその存在に服従せざるを得ないという次第である。これは2000年代にレディオヘッドがいち早く音楽の中で「監視社会」という問題を提起していたし、JK・ローリングは「ヴォルデモート卿」という不可視の存在を作中に登場させたのは周知の通り。

 

 しかし、翻ってみると、長らく、このパノプティコンという建築構造がフーコーの哲学的なメタファーを表現するという役割にとどまるか、単なるフィクションのテーマに過ぎないと考えられてきた。しかし、パノプティコンの構造を持つ建築がスウェーデンにあり、実際、歴史的な遺構--アウシュビッツ収容所のような不気味な雰囲気を持つ、人類の歴史の暗所--として残されているという。現代音楽家のマリア・W・ホーンは、これまで歴史的な考察を交えて、ドローン・アンビエントやエレクトロニックという形を通じて、作曲活動を行ってきた。そして、最新作『パノプティコン』は、実際に同地にある中央集権的な構造を持つ監獄の遺構の中で録音されたというのである。

 

 そして録音場所のアコースティックな響きを上手く活用した作品が近年、ジャンルを問わず数多く見受けられることは何度か指摘している。一例では、ベルリンのファンクハウスの東西分裂時代のアンダーグラウンドな雰囲気を持つ録音や、イギリスの教会建築の中で録音された作品などである。これらの作品群は、たいてい、その録音された場所の空気感というべきものを吸収し、他では得難い特別な音楽の雰囲気を生み出す。それは、アビーロード・スタジオを使用するミュージシャンがどうしても、ビートルズの亡霊に悩まされるようなものであり、ピーター・ガブリエルの所有するスタジオでスターミュージシャンの音楽を意識せずにはいられないのと同様である。

 

 音楽的な出発として、空間が持つ空気感に充溢する奇妙な雰囲気を表現しようとしたのは、ハンガリーの作曲家、ゲオルグ・リゲティの「Atmospheres」が挙げられる。


独特な恐怖感と不気味さに充ちた現代音楽の傑作で、これはリゲティのユダヤ人としての記憶と、彼の親類が体験したアウシュビッツでの追体験が、不気味な質感を持って耳に生々しく迫るのである。それがどの程度、真実に根ざしたものなのかは別にしても、それらの記憶は確実に、作曲家の追体験という形で定着し、また生きる上での苦悩の元ともなったことは想像に難くない。

 



 ストックホルムを拠点に活動するマリア・W・ホーンの「Panoptikcon」も、基本的には同じ系譜にある独特な緊張感を持つアヴァンギャルドミュージックに位置づけられる。

 

スウェーデンにある監獄の遺構の空気感、その人類の歴史的な暗所の持つ負の部分を見つめ、それらを精妙なレクイエムのようなクワイアやアナログ・シンセサイザーを用いたドローンミュージック、エレクトロニックで浄化させようというのが、制作者の狙いや意図なのではなかったかと思われる。


これはまた、スウェーデンのカリ・マローンが制作した映画のサウンドトラックでのイタリアの給水塔のアンビエンスを用いた録音技術の概念性の継承でもある。「Panoptikon」はダークな雰囲気に浸されているが、同時に、その遺構物の上から、賛美歌のように精妙な光が差し込み、その暗部の最も暗い場所を聖なる楽音で包み込もうとする。この遺構こそ現代的に洗練された考えを持つスウェーデンという国家にとって、歴史の暗部であり、安易に触れることが難しいタブーでもあるのかもしれない。

 

 

 冒頭を飾る「Ominia Citra Mortem」は、四声の混声合唱、アナログシンセによって構成されている。オープニングの冒頭は、重低音のドローンで始まり、通奏低音を元にしてAlexander Knaifel(アレクサンダー・クナイフェル)、Valentin Silvestrov(ヴァレンティン・シルベストノフ)、Sofia Gubaidulina(ソフィア・グバイドゥーリナ)の作風によく見受けられるような、現代音楽の主要なコンポジションの1つである最初の重低音のドローンの通奏低音の後、パレストリーナ様式を始めとする教会旋法やポリフォニー構造に支えられた声楽の進行が加わる。

 

 しかし、マリア・W・ホーンの作風は、上記の現代作曲家の形式を受け継ぎながらも、シュトゥックハウゼンの電子音楽のトーン・クラスターの技法を用い、音色の揺らぎを駆使しながら、特異な音響性やそのスペシャリティーを追求している。フィリップ・グラスやライヒに象徴されるミニマル・ミュージックの構成が用いられているのは、他の現在の現代音楽と同様であるが、それは必ずしも反復という意味を持たず、反復の中にある矛盾的な変化が強調される。教会音楽の重要な形式であるユニゾンを用いた、四声によるクワイアの繰り返しの中に、スポークンワードを挟み、そして、最下部のドローンの重低音を意図的に消したりし、音の余白や空間を作り、クワイアの精妙な印象を際立たせる。これは数学的な足し算の手法ではなく、引き算の手法により、音の妙が構築されているところに、作曲家としての崇高性が宿っている。

 

 マリア・ホーンの生み出す表現の美の正体は、鈴木大拙に学んだジョン・ケージが提唱した禅(臨済宗)における「サイレンス」の観念を体現する「休符による音の空白」によって強調されることもある。と同時に、この曲の場合は、歴史的に触れられなかったタブーや社会の暗部に関するメタファーの役割が込められているように感じる。それらの空間のアンビエンスや亡霊的な合唱を、パノプティコン構造を持つ監獄のアコースティックな音響で増幅させる。それは何処かへ消しさられた人々への追悼を意味するのだろうし、その魂に対するレクイエムでもある。マリア・ホーンはコンポーザーとして、クワイアの最も崇高な印象を放った瞬間を見逃さず、声を消失させ、シンセによる重低音を再発生させ、エネルギーを徐々に、丹念に上昇させる。これらの声が途絶えた瞬間に、この曲の持つ凄みが現れ、そして圧倒的な感覚に打たれる。



 二曲目「Haec Est Regular Recti」は同様にアナログシンセの重低音により始まるが、重厚ではあるものの心苦しい雰囲気で始まった一曲目とは対象的に、開放的なメディエーションの作風に変化する。解釈の仕方によっては、ヨーロッパのチロル地方やその隣接地域のフォーク音楽の源流に近づきながら、同じように、混声のクワイアによって全体的なアンビエンスを作り出す。

 

 クワイアの印象が強かった全曲に比べると、シンセと合唱によるオーケストレーションのような印象がある。それはパイプオルガンの音色を持つシンセの演奏を1つのモチーフとしてコール・アンド・レスポンスやモード奏法のようなデイヴィスのモダン・ジャズの形式を取り入れ、オーケストラスコアとして組み上げていったかのようである。ひとつだけ確かなのは、マリア・ホーンにとっては、一見して分離されがちな、合唱、オルガン、シンセといった作曲のための手段は、現代音楽のオーケストレーションの一貫として解釈され、コンポジションに組み込まれているらしく、電子音楽でもなければ、ニュージャズでもない、ヨーロッパ民謡でもない、特異な印象のある楽音として昇華されるということなのだ。

 

 そして、同じくスウェーデンのCarmen Villan(カルメン・ヴィラン)がダブ・ステップやECMのニュージャズをドローン音楽に取り入れるのと同じように、必ずしも実験音楽の表現内にコンポジションの可能性を収めこもうとはしていない。むしろ、ひとつの表現を主体として、無限の可能性に向けて、音を無辺に放射していくかのようである。これは製作者が従来から、ピアノを用いたポスト・クラシカル、エレクトロニック、というように、ひとつのジャンルにこだわらず、多岐に渡る音楽を制作してきたことに理由がある。曲の終盤では、ダンスミュージックのビートに近づく場合があり、当初、メディエーションやヨーロッパの原始的なフォークミュージックが、現代的な質感を帯びる洗練された音楽へと変遷を辿っていく様子は、圧巻と言える。そして、アルバムの当初は、重苦しい印象だった音楽がループサウンドにより、崇高さと神聖さをあわせ持つエレクトロニック/IDMへと驚くべき変遷を辿っていくのである。

 




 アルバムの序盤の2曲は荘厳さと崇高さをあわせ持つが、タイトル曲「panoptikon」では低音部の重厚さを生かしたアンビエントが展開される。しかし、その静謐な印象の中に、トーン・クラスターの音色の変容の技法を散りばめ、従来にはなかったドローン音楽を追求していることがわかる。


 前の2曲では、パノプティコンという建築物が持つ独自の音響性を強調しているが、それと対比的に、タイトル曲では、DJセットのライブで聞かれるような現代的なエレクトロの音楽性が選ばれている。実験音楽の領域にありながら、その響きの中には、クラークやダニエル・ロパティンのような洗練されたアプローチを見出すこともできる。また、これは、現代音楽や実験音楽の範疇にある表現者とは異なる、DJとしてのマリア・ホーンの意外な姿を伺い知ることも出来よう。前2曲に比べ、五分というコンパクトな構成となっているが、シンセのトーンの変容の面白さ、それにときおり交わるノイズという部分にこのアルバムの真骨頂が垣間見える。


 アルバムは、声楽をもとにした合唱曲、エレクトロニック、アンビエント、そしてトーン・クラスター等、マリア・ホーンが持ちうる音楽的な蓄積が表れているが、その後、クローズ曲では、男女混声による声楽を基調とした柔らかい印象を持つ、二分ほどの簡潔なクワイアが収録されている。アルバムの最後を飾る「Langtans Vita Duva」 では、驚くべき音楽的な転換点を迎える。

 

 その純粋な響きの中には、西洋の賛美歌の伝統性の継承の意味が求められながらも、映画音楽やポピュラー音楽の色合いが僅かに加えられる。2つのコーラスのメロディーの進行の中には、ポピュラー音楽の旋律進行を持つ女性のボーカルと、それとは対比的に、賛美歌のような旋律進行を持つ男性のボーカルが交差し、柔らかなコントラストを形成する。つまり、これは『Panoptikon』が単に不可解な現代音楽ではなく、メディエーションに映画音楽と現地のポピュラー音楽を織り交ぜた新しい音楽の形式により構成されていることを表している。何より、マリア・ホーンが実験音楽を限られたファンに用意された閉鎖的な音楽と捉えず、それらを一般的に開けた表現法にするべく努めていることも真実の音楽を生み出す契機となったと考えられる。


 少なくとも、アルバム全体からは、パノプティコンの囚われからの解放というテーマにとどまらず、国家やその社会構造、ひいては、歴史の持つ負のイメージをどのように以後の時代に建設的に受け継いでいくのかという、表向きの暗鬱なイメージとは異なる、未来の社会に対する明るいメッセージを読み取ることもできる。しかし、これは国家や社会構造の持つ負の側面から目を背けるのではなく、その暗部を徹底して直視できたからこそ成し得た偉業なのである。

 


 



96/100

  

『Panopiticon』 はMaria・W・Hornのレーベル、XCathedralから2月2日から発売中。ご購入はこちら

 

20世紀の作曲家は、特に古典派やウイーン学派に属する作品に一定の評価が与えられており、同時に主要な楽団やオーケストラにより再演される機会が多い。また、それ以後のコンテンポラリー・クラシック、すなわち現代音楽家を見ると、グラスやライヒなどの現代のポピュラーミュージックに強い触発を及ぼした音楽家のスコアは一般的に、日の目を見る機会が多いように思える。

 

けれども、他方、その中間の年代にある作曲家、例えば、ベルク、ウェーベルンを除いては、以後の年代に属する作曲家は、現代的な観点から軒並み不当な評価を受けている場合が多い。例えば、バルトーク・ベーラに興味を持つオーケストラやコンダクターはいるにせよ、その東欧近辺の20世紀の作曲家のスコアが軽視されるケースは、それほど少なくないように思えてならない。しかし、ソビエト連邦/ドイツのアルフレート・シュニトケ、そして、ポーランドのヘンリク・グレツキなど、20世紀のクラシックからポピュラー・ミュージックへと主要な音楽の舞台が変遷する時代に、良質なオーケストラによるスコアを書いた作曲家は数多く存在する。

 

ヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki)は、バルトークと同様、ブルックナーやマーラーの系譜にある管弦楽法にポーランドの民謡の要素を取り入れた作曲家だ。しかし、オーケストレーションにおける技法の巧緻さは、同年代の作曲家の中でも傑出している。グレツキは晩年になると、指揮者も務めるようになったが、これはパリでの音楽教育の賜物であると解釈できる。特に、彼が遺したオーケストラのスコアの中では、クワイア(混声合唱)やオペラに属する楽曲に名作が多い。合唱曲では、ポール・ヒリアーが指揮した『5 Kurpian Songs:Op.75』 がある。この曲集はポーランドの「Kurpie」という地域の独自の民族性や文化性にスポットライトを当てている。

 

今回、言及する「交響曲第三番 (別名:悲歌のシンフォニー)」は、ヘンリク・グレツキの代表的な傑作として知られる。一楽章のブルックナーの系譜にある巧みな管弦楽の流れは序章的な内容を暗示し、二楽章のオペラを思わせるストリングスとオペラの融合の見事さ、そして二楽章の余韻を補佐するような形で続く同じく三楽章は、現代の東欧圏の主要な作曲家と比べても遜色がない。この作品こそ、主要な楽団や指揮者に再評価されるべきものであるかもしれない。

 

1977年の「ワルシャワの秋」音楽祭で、ヘンリク・グレツキの独唱ソプラノと管弦楽のための交響曲第3番「悲歌の交響曲」作品36(1976年)がポーランドで初演されると、大きな感動を呼んだ。当時の反応はいかなるものだったのか??

 

 

聴衆は混乱した。ある者は「傑作」と評価し、また、ある者は「作曲家の創作意欲のなさの現れ」と見なした。聴衆は、いくつかの和音と繰り返される旋律に還元された音楽言語の手段の単純さに感動した。グレツキの以前の、極めて洗練された工房での作品と比較すれば、これは真の革命だった。作曲家は批評家の意見に対して自らを弁護する必要があったーー



実際、交響曲第3番の前には、16年前の「ワルシャワの秋」と銘打たれた音楽祭で演奏された極めて前衛的な作品『スコントリ』に象徴されるように、作曲家の創作態度がそれ以前へと急進的に変化することを予感させる作品がいくつかあった。しかし、交響曲第3番を聴いた聴衆は、言葉の異常な単純化、「受け入れがたい」までの表現手段の削減、ブルックナーのような「原始的な調性」への回帰に衝撃を受けたのだ。

 

これらと同じ要素に、ヘンリク・グレツキの作品の熱狂的なファンは、新たな作曲コンセプトとこの作曲家の天才の証しを感じ取ったのである。その一方で、この音楽の特徴は、やはり表現の膨大な負荷にあることを誰もが認めざるを得なかった。交響曲第3番では、そして、それ以前のアド・マトレムと交響曲第2番では、この表現は異なる色調を帯びている。交響曲第3番が初演から16年後に驚異的な大成功を収めたのは、祈りにも似た熱情があったからなのだろうか。

 

交響曲第3番の初演時に、ヘンリク・グレツキは以下のようなコメントをプログラムのブックレットに添えている。


「1976年10月30日から12月30日にかけて、バーデンバーデンのラジオ局Südwestfunkの委嘱で『交響曲第3番』を作曲しました。1977年4月4日、第14回国際現代芸術祭の一環として初演された。歌はステファニア・ヴォイトヴィッチ、演奏は、エルネット・ブール指揮シュトヴェストフンク放送交響楽団。交響曲は3曲からなる」

 

「一番長い(約27分)第1曲は、ソプラノの呼びかけによって中断される厳格なカノンである。カノンのテーマには、ヴワディスワフ・スキエコフスキ師のコレクションにある”クルピーの歌”の断片を用いた。第2曲は、ABABCの構造 を持つソナタ形式の一種の哀歌である。第3曲では、アドルフ・ディガツ師のコレクションから、オポーレ地方の本格的な民謡の変奏曲を使用した。この交響曲はヘンリク・グレツキの妻に捧られたものである。演奏時間は約55分。ーー(1977年、音楽祭「ワルシャワの秋」のプログラムブックレットに収録された作曲家のコメント)」 

 

 

 「Symphony No.3」ーMovement 2

 

 

しかし、これらのセンセーショナルな聴衆の反応については、当初、ポーランドを始め、東欧圏に限定されていたことを付け加えねばならない。三楽章から構成されるこの交響曲には、ヴェルディのオペラに象徴される華やかさがあり、さらに以後のミニマル学派の予兆となる楽節や全体的な構成の簡素化、そして、新古典派以降の作曲家、及び新ウイーン学派の作曲家らが複雑的な構造を用いるようになったことに対する反駁の意図が見受けられ、ソナタ楽章の原始的な回帰という意味も込められている。そしてバルトーク・ベーラのように、土地固有の民謡、現在でいえばフォーク・ミュージックの要素をオーケストラスコアの中に導入しようと試みた。

 

また、交響曲第三番の第2楽章における「叙情的なテーマ」は、シューベルトやブラームスに代表されるウイーン/ドイツ圏のロマン派の持つテーゼへの回帰という意図も読み解くことが出来る。ヘンリク・グレツキは、アルフレート・シュニトケと並んで、以降の時代のミニマル学派への架橋を行った重要な作曲家であり、映画音楽なども含めて現代的な音楽へ与えた影響は図りしれないものがある。古典的なソナタ形式に回帰しながらも、ポピュラーミュージックのような簡素な構成を選んだことも、このスコアを今なお音楽的に意義深いものにしている理由だ。




ヘンリク・グレツキ(Henryk Mikołaj Górecki):

 

 (1933年12月6日ツェルニツァ生まれ、2010年11月12日カトヴィツェ没):ポーランドの作曲家、教育学者。


1960年にカトヴィツェの国立高等音楽学校を卒業し、作曲をボレスワフ・シャベルスキに師事。後に同大学の学長を務める。その後、パリで音楽の勉強を続ける。PAUの全国的な正会員。


1958年のワルシャワ秋音楽祭で、ジュリアン・トゥヴィムの詞による混声合唱と器楽アンサンブルのための「エピタフィウム」を発表し、初めて認められた。


1960年の「ワルシャワの秋」での《スコントリ》の発表により、グレツキの音楽への関心がさらに高まった。この曲は、ポーランドのソノリズムを代表する作品のひとつである。タイトルの「zderzenia」は、ぶつかり合う音の塊と訳すことができる。この作品の音の密度は並外れて高く、88音群にも達する。同時に、ポーランド音楽における連弾技法の最も一貫した応用例のひとつでもある。


同年、ソプラノと3群の楽器のための《モノローギ》でポーランド青年作曲家連盟コンクール(1960年)第1位を受賞。この賞のおかげで、彼は初めての海外旅行(フランス)に出かけることができた。


『リフレイン』(1965年)では、作曲家は伝統的な演奏技法、さらには和声に立ち戻った。曲の最初と最後の短いエピソードでは、旋律さえも聴くことができる。初期の作品の典型であったコントラストは弱まった。この作品は1967年、パリのユネスコ国際作曲家コンクールで受賞した。


1969年、彼は金管楽器と弦楽器のための《古いポーランドの音楽》を作曲した。この曲の特徴は、その後、グレツキの音楽の典型となった。また、別の変化もあった。作曲家は声楽と楽器のジャンルや、(一般的には)聖なるテキストに目を向けた。彼は、主にポドヘール地方の古楽や民俗音楽を明確に参照することが多く、明確な旋律と伝統的で単純な和声、モチーフやフレーズが何度も繰り返される作品を生み出している。ゴレツキの音楽がしばしばミニマリズムと結びついたり、「新しいシンプルさ」と呼ばれたりするのは、このような特徴があるからである。


これがグレツキの代表作である交響曲第3番、別名「悲歌の交響曲」の特徴である。1976年にワルシャワの秋の現代音楽祭で初演され、その後海外でも演奏されたが、当時はあまり関心を集めなかった。


1992年、非常に効果的なプロモーション・キャンペーンにより、アメリカの歌手ドーン・アップショーによって録音された後、この曲はクラシック音楽のみならず、世界のヒットチャートに登場した。交響曲第3番は、とりわけポーランドの優れた歌手ステファニア・ヴォイトヴィッチとゾフィア・キラノヴィッチによって録音された。ゴレツキは一夜にして国際的な有名人となった。


2005年10月15日、ビエルスコ=ビャワで開催された第10回ポーランド作曲家フェスティバルで、アメリカの弦楽四重奏団クロノス・クァルテットによって弦楽四重奏曲第3番作品67『歌は歌う』が初演された。スタイル的には、弦楽四重奏曲第3番は、前作と大きな違いはないが、瞑想的なものへと大きくシフトしていることが見て取れ、第3楽章(最も調性的な楽章)だけが、単純な遊びの要素を取り入れている。


2003年にルクス・エクス・シレジア賞を受賞したほか、数々の国際コンクールや国内賞を受賞している。ワルシャワ大学(1994年3月10日)、ヤギェウォ大学(2000年)、ルブリン・カトリック大学(2004年)などから名誉博士号を授与さふすふすれ、上シレジアのカトヴィツェ市(2008年)とリブニク市(2006年)の名誉市民でもある。2003年、ポロニア・レスティトゥータ勲章星付中佐十字章を受章。