特に、日本でグラミー賞自体が知名度を上げるようになったのは、1970年代前半、およそ1973年頃である。例えば、同年の受賞者は、レコード・オブ・ザ・イヤーがロバータ・フラック「The First Time Ever I Saw Your Face(邦題: 愛は面影の中に)」、アルバム・オブ・ザ・イヤーには、ジョージ・ハリソンとラヴィ・シャンカールによるコラボレーション・アルバム「バングラデシュ・コンサート」が選ばれた。
現在でも注目を浴びるその年の象徴的な楽曲を紹介するソング・オブ・ザ・イヤーには、レコード・オブ・ザ・イヤーのロバータ・フラックによる「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」がダブル受賞を果たしている。当初から一人のアーティストに複数の賞を授与するという伝統は70年代から引き継がれているようだ。そして、この年のベスト・オリジナルスコアには「ゴッドファーザーのテーマ」が選ばれている。そして一般的には、洋楽には興味を持たない日本の一般層に、この名画がグラミー賞を浸透させる契機をもたらしたのである。
ちなみに、ベスト・ポップ・ボーカルには男性歌手として、「ウィズアウト・ユー」を歌ったニルソン(ハリー・ニルソン)が選出されている。女性歌手として、ヘレン・レディの「I Am A Woman(私は女)」が選ばれた。ニルソンの不朽のポピュラーソングに比べると、レディの楽曲はやや時代に埋もれてしまった感もあるかもしれない。しかしながら、この年のポピュラーの充実感は、日本の音楽ファンのみならず、業界全体に洋楽の最大の音楽賞に興味を惹きつける要因になったのである。
コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル(Coachella Valley Music and Arts Festival)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州インディオの砂漠地帯“コーアチェラ・バレー”(コロラド砂漠の一角)にて行なわれている野外音楽フェスティバルである。正式名称は「コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル」だが、一般的にはコーチェラ・フェスティバル、あるいは単にコーチェラ(Coachella)と簡略化されて呼称される。
このフェスティバルは、グリーンマン・トラスト(Green Man Trust)と呼ばれる慈善事業部門を設立したり、グリーンマン・グロウラー(Green Man Growler)と呼ばれる独自のビールシリーズを発売するなど、他の事業にも進出しています。これまでのヘッドライナーは、クラフトワーク、ビセップ、ローラ・マーリング、ヴァン・モリソン、マイケル・キワヌカなどが務めています。
続いて、この曲はローリング・ストーンズによってカバーされた。しかも1964年のデビューアルバム『The Rolling Stones』の一曲目でである。ある意味では、この一曲目のカバーが後のストーンズの運命を決定付けた可能性があると指摘しておきたい。というのも、1960年代のロックバンドは、最初、カバーから出発するのが王道であった。ビートルズはいわずもがな、ローリング・ストーンズもカバーから出発した。
1968年に、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ギルは『Tropicalia: ou Panis Et Cercencis』を発表し、正式にトロピカリアという名称が音楽的な活動の一環として組み込まれた。本作はオムニバス形式で発売され、ブラジル国内の最初のコンセプト・アルバムだと見なされている。国内のムーブメントを担う有名ミュージシャンが参加したビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)に触発されて制作され、セルソ・ファヴァレットは本作を「トロピカリアの集大成」と評する。ただし、後年、ムタンチスのセルジオ・ヂアスは、同作について「政治的には意味はあったが、『サージェント・ペパーズ』のような音楽的な記念碑となるまではいかなかった」と自省的に語っている。しかし、商業的にはかなりの成功を収め、1968年10月の時点で2万枚を売り上げる大ヒット作となった。
ロネッツに始まり、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、そして、ブルース・スプリングスティーン、ラモーンズに至るまで、60年代以降の録音技術に革新をもたらしたフィル・スペクター。彼は、パンデミックの最初期に亡くなっている。日本のポップスにも影響を与え、大瀧詠一や山下達郎の録音作品にも影響を与えたとの諸説がある。フィル・スペクターが生み出した録音技術の中で、最も有名なのが「Wall of Sound(ウォール・オブ・サウンドー 壁に反響するサウンド)」である。
一般的な解釈としては、スタジオの壁に反響する音響(エコーチャンバー)を用いた録音技術として知られている。この名称「Wall Of Sound」を聴くと、彼が多重録音、つまりジャマイカで発生したダブのような形式で数々の名作を録音したと思う方もいるかもしれないが、事実はどうやら少し異なるようだ。どころか実際はそれとは正反対だ。フィル・スペクターは3トラックのマルチトラックレコーダーを使用して、彼はピアノ、ベース、ギター、コーラス、それからオーケストラをユニゾンで重ね、壁に反響するような重厚なサウンドを構築していったのだった。
レコーディング・スタジオの空気感(アンビエンス)が作品全体に影響を及ぼすことがある。あるスタジオで録音された音源は音が敷き詰められているように思えるし、別のスタジオで録音された音源は、ゆったりとした間延びしたような音の印象を覚えることがある。言い換えれば、それは、建物や部屋のアンビエンス(音響や残響の全般のこと)の特性、マイクの位置、そして演奏者の距離が出力されるサウンドにエフェクトを及ぼすということである。フィル・スペクターは、実際的な録音の完成度の高さを目指したのは事実だと思うが、一方、彼はスペースのアンビエンスに徹底してこだわった。つまり、彼はレコーディングルームの空気感をマイクで録音し、モノラルでミックスしたのだった。そして、ウォール・オブ・サウンドの完成のために、不可欠だったのがロサンゼルスにある「Gold Star Studio」である。
全般的には、キング・タビー、リントン・クウェシ・ジョンソン、リー・スクラッチ・ペリー、マッド・プロフェッサー等が、ダブの先駆的なプロデューサーと見なされている。そして、これらのプロデューサーの多くは、アナログの録音のプロセスを経るうち、ターンテーブルの音飛び、スクラッチに拠る”キュルキュル”というノイズーーブレイクビーツのような効果が得ることを面白がり、ダブという不可解な未知の音楽的な手法を探求していったのかもしれない。また、ポスト・パンク/ニューウェイブの先駆的な存在であるキリング・ジョークがかつて語ったように、イギリスには、スカを除けば、当初、固有のリズムや音楽性が求められなったため、編集的な録音やミックス技術を用い、英国の独自のビートを求めたとも言えようか。つまり、以後のGang Of Fourのアンディ・ギルのギターに見出せるように、リズム性の工夫に加え、''古典的なリズムからの脱却''というのが、イギリスの音楽の長きにわたる重要なテーマでもあったのだ。