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 ・ブラジルのトロピカリア  ポスト・コロニアニズムと創造的な自由の獲得


アフリカの国々の事例を見ると分かる通り、従来の植民地支配から脱出した国家は、西洋主義による支配から離れ、独立した文化を構築する必要性に駆られる。結局のところ、海外文化に触発された後、独自のスペシャリティを探ることなくして、国家の文明は確立しえないことを象徴づけている。そして、ここで大切なのは、外側の文化や文明に揺さぶられることなくしては、本当の意味での独自の文明を獲得することは困難であることである。

 

 例えば、今回のテーマとなる南米のブラジルの場合は、音楽や芸術運動、舞台、文学活動とならび、1960年代後半に独立的な意義を求め、こういった急進的なムーブメントが若者を中心に沸き起こった。それがトロピカリア(トロピカリズモとも称される)ーー熱帯主義ーーであった。例えば、音楽に関しては、旧来のブラジルの伝統的なボサ・ノヴァに否定的な趣旨もあるという見解も見受けられるが、必ずしもそうとはいいがたい。当時、流行したビートルズのロックと合わせて、ボサノヴァをよりアーバンにという趣旨も含まれていた。これは西洋的な音楽的な感性や感覚を踏まえた上で、ブラジル独自の音楽表現を追求するという動きであった。

 

 1960年代後半に始まったトロピカリアは、軍事政権下のブラジルにおいて、およそ5年ほどの短いムーブメントで終わった。その理由は、これらの運動の政治的な弾圧が始まり、トロピカリアの中心人物、ジルベルト・ジル等がイギリスへの亡命したからである。(後に、ジルベルト・ジルは1969年に短期間の投獄という憂き目にあったが、社会的な信頼は回復し、2003年から2008年にかけて、ブラジル国内の文化大臣を務めた)しかし、この考え自体は次世代にも受け継がれ、ネオ・トロピカリアとして新しいアートの形式を支えることになった。

 

 こういった新しい運動や主義が発生する要因として、”成熟した社会意識”というものが不可欠になってくる。つまり、大きな観点から言えば、個人、大小の組織、社会がどのように繋がるべきか、そして社会的に置かれている環境や立場を把握し、国家の文化、海外の文化や政治的な動向を鑑みた上で、自分たちがどのような位置にあるのか、そして、上記の二つの観点を踏まえた上で、どのようなアクションを起こすべきかという意味である。


 結果として、社会に反映されるのは、文化活動の諸般ーー音楽、演劇、文学、建築、芸術、ジャーナリズムーーなどである。個人的な能力や役割によって、成熟した社会意識が多彩な形で出現するのは言うまでもない。これはたぶん、広義の意味での企業活動においても共通する事項ではないだろうか。そして、全体的な社会構造を鑑みたとき、個人的な立場、あるいは組織的な立場がそれぞれまったく異なるため、外側に出てくるものは必ずしも同じ内容にならない、ということである。

 


・成熟した社会意識とは何か ブラジルの60年代のトロピカリアの事例

 

オズワルド・デ・アンドラーデ


 この点において、60年代から70年代にかけてブラジルで発生した”トロピカリア”という運動は画期的だった。 それは社会に生きる人々が、自分たちが置かれている状況を明確に把握し、認識しているということでもあった。そして、実際的にどんなアクションを起こすべきかを考え、出来る範囲において実践したことである。これは上手い例えが見つからないが、自分たちが置かれている立場に無自覚な人々には、成熟した社会意識というのが芽生えることは稀である。なぜならもし、集団や組織に対し、個人(自分)がどのような存在であるのかを考えることなくしては、より良い提言をもたらすこと難しいし、また、アクションを起こすことも出来ないだろう。つまり、成熟した社会意識を持つために必要なのは、自己、集団、組織を俯瞰する視点であり、外側からそれが明瞭に見えたときはじめて、意義のある行動が可能になる。

 

 60年代のブラジルでは、急進的な表現が生み出されるための素地が整っていた。戦後のブラジルでは急速に経済発展が進む。しかし、2000年以前の中国の都市部と農村部の貧富の差という事例を見ると分かるように、ブラジルでも貧富の差が拡大していた。 経済発展は富裕層やエリートに恩恵を与えたが、一般的には経済的な恩恵が降り注ぐことはなかった。こんな中、1961年にジョアン・ゴウラ―トが大統領に選出されると、急激に社会の風向きが変化した。当時、ゴウラ―トは、多くの社会政策とソビエトとの和解を提唱していた。これが冷戦下、アメリカとソビエトという覇権争いに緊張関係をもたらした。事実としては、ゴウラート政権は短命に終わる。カステロ・ブランコ元帥がクーデターを起こし、軍事政権へと移行した。


 

 こうした中、新しい軍事政権がいくつかの音楽を「左翼的」であるとし、制限をかけたのはソビエトと同様だった。1950年代を通じて、ブラジルでは伝統的なサンバに続いて、ボサノヴァが流行していた。これは、ブラジルのバッハと言われるヴィラロボスに始まり、ヴィニシウス・モラエス、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトが推進した音楽運動であった。だが、新しい軍事政権はボサノヴァを知的で左翼的であると見なし、国内外に影響力が広がるのを抑制し始めた。この流れの中で、トロピカリアの中心人物であったジルベルト・ギル、チコ・ブアルケ、カエターノ・ヴェローゾは、政権が創造的自由を侵害していると考え、 ボサノヴァに続く新しい音楽運動への道筋を切り開こうとした。そのためのヒントになったのが、ヨーロッパからの輸入音楽だった。彼らはイギリスなどのポップ・ミュージックを起点にし、ロック、サイケ、ソウルの領域を押し広げながら、「トロピカリア」という形式を生み出した。

 

 その音楽運動の発端となったのは、オズワルド・デ・アンドラーデというサンパウロの小説家/文化評論家が提唱した食人主義、より穏当に言い換えれば「文化を吸収する」という概念であった。オズワルドは、1928年に「O Manifesto Antropófago(マニフェスト・アントロフォギコ)」を出版し、ポスト・コロニアリズムの観点から自国の文化の変遷を鋭い目で直視していた。オズワルドが主だって提唱したのは、「文化的な共食い」という概念であった。これは出来れば悪い意味だけで捉えてほしくない。そこには中間主義という考えが出てくるからである。


 要約してみると、外国文化を吸収しながら、自国の文化と重ね合わせるという考えで、これはブラジルでは自国の文化を形成するための基盤のような考えでもある。特に、トロピカリアの概念の中でも、重要視したいのが、二分化を超越するという考えとなるだろうか。ブラジル文学を専門とするジュリオ・セザール・デイニッツは、トロピカリアという表現運動が発生した要因について、「古風ー現代、国内ー海外、エリートー大衆という対極的な考えを克服する」ためだったと指摘している。 つまり、重要なのは、二元的な考えを離れていき、それらの融合を目指そうという考えが、トロピカリアの根底にあったのである。さらに、アナ・デ・オリベイラは、トロピカリアについて説明している。「歌は伝統的で古風なブラジル、大衆的な文化を持つブラジル、そして、宇宙飛行士、空飛ぶ円盤を持つブラジルの連合という、国家の批評的で複雑なイメージを示した。彼らは、私たちのポピュラー音楽の洗練された事例を示した。彼らは、それまで前衛主義にしか通用しない考えを、商業音楽としてもたらしてくれました」

 

 

 1968年に、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ギルは『Tropicalia: ou Panis Et Cercencis』を発表し、正式にトロピカリアという名称が音楽的な活動の一環として組み込まれた。本作はオムニバス形式で発売され、ブラジル国内の最初のコンセプト・アルバムだと見なされている。国内のムーブメントを担う有名ミュージシャンが参加したビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)に触発されて制作され、セルソ・ファヴァレットは本作を「トロピカリアの集大成」と評する。ただし、後年、ムタンチスのセルジオ・ヂアスは、同作について「政治的には意味はあったが、『サージェント・ペパーズ』のような音楽的な記念碑となるまではいかなかった」と自省的に語っている。しかし、商業的にはかなりの成功を収め、1968年10月の時点で2万枚を売り上げる大ヒット作となった。

 

 実際的な音楽については、 意外とビートルズっぽくないのが分かる。それ以前のヴィラロボスの作風を受け継いだ古典的なブラジルの音楽、そしてフランスのイエイエ等を交えた楽曲もある。むしろ、ビートルズに触発された点があるとすれば、それは音楽の雑多性にあると言えるだろう。これらのヨーロッパとブラジルの音楽を融合させた形がトロピカリアの魅力でもある。

 

 

 

 しかし、トロピカリアは全般的に国内ですんなり受け入れられたとは言いがたい。新しい運動に同調する人々を惹きつけた一方、伝統的な人々には反感をもたらすことになる。これはビートルズが初来日した時と同じ類いの現象である。また、日本の音楽でも、それまでは演歌や歌謡が中心だったが、ロックやジャズのイディオムが、自然に民衆音楽の中に入り込んだ現象と同様だ。しかし、ブラジルで発生したトロピカリアーー熱帯主義ーーは、国内で好意的に受け入れられたとは限らなかった。当初、賛否両論を巻き起こし、右派、左派の双方に敵を作ることになった。明確な政治的な立場をとる人々にはあまり評判が良くなかったというのである。

 

 その後、トロピカリアは軍事政権によって、1968年に運動を鎮圧されることになった。ジルベルト・ギルはロンドンに亡命し、この運動の推進者の一人、カエターノ・ヴェローゾも同じく亡命した。しかし、影響力は収まらず、ガル・コスタ、ホルヘ・ベン、ジャーズ・マカレ、トム・ゼなどがトロピカリアの風潮を受け継ぎ、ブラジル音楽に新しい気風をもたらした。

 

 トロピカリアは、フェラ・クティがアフリカで体現した小さな王国、アフロ・フューチャリズムと奇しくも大きな共通点がある。フェラ・クティの場合は、レコード会社や政府に管理されぬ独自の王国という形で、独創的な表現形式として表れ出た。他方、トロピカリアに関しても、ポスト・コロニアリズムの観点から、本来であれば反目するはずの二つの要素ーー海外主義と国内主義ーーという対極の概念を結びつけようとしたのだった。 これはグローバリズム、ナショナリズムという対極の概念しか存在しえないと考える現代人に大きなヒントがある。ここには、ブラジルらしい「折衷主義」という新しい概念を見て取ることも出来るかもしれない。西洋主義の観点から言えば、物事は白か黒であるが、実は物事は他にも多彩な中間色がある。

 


・アートから見るトロピカリア  ヘリオ・オイチシカの立体主義 

 


 トロピカリアという表現運動は、表面的な形式とは言いがたく、一つのイデアのような形で後のブラジルの文化のある側面を形成していくことになった。その後、必ずしも音楽の範疇にとどまらず、絵画、演劇、映画を中心とするブラジル国内の主要なアートや文化運動全般に強い影響を及ぼし続けた。それはベアトリアス・ミリャーゼズの活躍を象徴されるように、コンセプチュアル・アートの領域に属し、「ネオ・トロピカリア」という呼称で知られている。 2000年代以降もトロピカリア(熱帯主義)は、何らかの形で現代のブラジルに受け継がれている。

 

 1960年代後半にトロピカルイズム運動と共鳴したのが、美術家のヘリオ・オイチシカである。彼の芸術は、コンクリート・アート(コンクリート主義)とも言われ、図形主義を基にするという点で、カンディンスキーとの共通点も見出される。しかし、カンディンスキーが平面的な図形主義を中心にアート活動を展開したのに対し、オイチシカの芸術は立体主義の範疇に表現領域を広げ、パブロ・ピカソの象徴主義を立体化し、建築的、空間的な造形芸術を展開させた。

 

 この中には、インスタレーションの形式も含まれ、ヘリオ・オイチシカの場合は、ペネトラブルと呼ばれている。オイチシカの芸術形式は、従来のアートが平面的であり、静的な表現主義に留まるのに対し、ピカソや太郎の芸術的な主題である「生きている有機物」という側面をより強調させている。実際的に、平面という二次元の形態を飛び出し、三次元の立体性へとアートを変化させた。1960年代後半まで、オイチシカの芸術は平面主義にとどまっていたが、それ以降、立体主義へと移行する。その中で、色彩的な要素という側面を強調させ、原色を中心とした目の覚めるような色彩を導入した。オイチシカは「複雑な人間の現実性を表現する」というテーマを自身の作品の中に組み込もうとした。また、文化的なものを生み出すという彼の主題は、現代的なアートが社会的な意味と密接な関係を持つことを象徴付けている。ただ、オイチシカの場合は、必ずしも客観主義を是認するものとはかぎらないことを付言しておきたい。

 

 「トロピカリア」という呼称は、国内のミュージックシーンで使用される以前に、オイチシカが芸術作品で使用したことがあった。1967年にリオデジャネイロで展示したアートワークに「トロピカリア」の名称を用いた。この言葉は、熱帯の楽園としてのブラジルの典型例として取り入れられた。ある意味では、オイチシカは「トロピカリア」を地上の楽園のシンボルとして広めようとした。その後、カエターノ・ヴェローゾがこのトロピカリアを曲のタイトルとして借用し、熱帯主義を象徴付けるに至った。これは全般的には、ミュージシャン、アーティスト、作家等が連動して、政治的な抑圧に際して、自由を獲得するための道のりの始まりであった。

 

 カエターノ・ヴェローゾは、最初のブラジルのトロピカリアの動向について、後に次のように回想している。「ヘリオがしていたことは、自由への欠如、そして自由への敬意にかけたものに対する過激な反応のようでした」これもまた、熱帯運動を推進したアーティストに、成熟した社会意識があったからこそ、こういった表現主義が沸き起こったわけである。もちろん、本記事は、過激な行動を推進するものではない。だが、芸術や音楽運動は、既存の見解や風潮とは別軸の側面を示すことなくしては、未知の表現主義が生み出されることはないとも言える。

 フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」とは



ロネッツに始まり、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、そして、ブルース・スプリングスティーン、ラモーンズに至るまで、60年代以降の録音技術に革新をもたらしたフィル・スペクター。彼は、パンデミックの最初期に亡くなっている。日本のポップスにも影響を与え、大瀧詠一や山下達郎の録音作品にも影響を与えたとの諸説がある。フィル・スペクターが生み出した録音技術の中で、最も有名なのが「Wall of Sound(ウォール・オブ・サウンドー 壁に反響するサウンド)」である。

 

 フィル・スペクターは人物的には映画監督の黒澤明に近く、ワンマンに近い完璧主義のディレクションを採用した。そして、ディレクションなくして作品が成立しえないという点では、かなり限定的な録音手法だと言えるかもしれない。フィル・スペクターは、マイクの位置に徹底的にこだわり、演奏者が触れることさえ許さなかった。そして短い楽節を演奏を何度も繰り返させたことから、ミュージシャンからはあまり受けが良かったとは言えないかもしれない。


つまり、「ウォール・オブ・サウンド」の難点を挙げるとするなら、ミュージシャンの自由性や遊びの部分をほとんど許さず、演奏者の苦心をすべて録音作品の成果として吸収してしまうのである。これは彼がリヒャルト・ワーグナーに傾倒していた点からも分かる通り、ベルリン・フィルのカラヤンの名演のような演奏を生かしたエコーチェンバー(自然の反響)を組み上げようとしていたことが理解出来る。ちなみに、カラヤンは作曲者の指示を無視してストリングスの編成を増やし、重厚なサウンドを作ることがあった。チェイコフスキーのライブ等を参照。

 

 一般的な解釈としては、スタジオの壁に反響する音響(エコーチャンバー)を用いた録音技術として知られている。この名称「Wall Of Sound」を聴くと、彼が多重録音、つまりジャマイカで発生したダブのような形式で数々の名作を録音したと思う方もいるかもしれないが、事実はどうやら少し異なるようだ。どころか実際はそれとは正反対だ。フィル・スペクターは3トラックのマルチトラックレコーダーを使用して、彼はピアノ、ベース、ギター、コーラス、それからオーケストラをユニゾンで重ね、壁に反響するような重厚なサウンドを構築していったのだった。

 

 驚くべきことに、フィル・スペクターは、限定的な録音環境で重厚なエコーチャンバーを生み出したのである。彼は一般的に狭いレコーディングスタジオの四壁の反響の特性を活かして、音量、音圧、音の奥行きといった録音的なアンビエンスを見事に作り出したのだった。しかも、フィル・スペクターのカラヤン的な録音技法は徹底していた。18人から23人ものミュージシャンを比較的狭いスペースに集めて、演奏をさせ、それを一挙に録音したのである。彼の代名詞であるホーンセクション、リズム・セクションに関しては、一発録りで録音し、それらをミキサーで最終的な調節をかけるというものだった。これは実際的には彼の手掛けた録音作品に、ダイナミックさと生々しさを及ぼすことになった。しかし、同時に最終的な調整では、リバーヴ、ディレイ、ダイナミックレンジの圧縮(リミター的な処理)をミキサーで施した。

 

 

 フィル・スペクターのプロデュース作品は、ギター、ピアノ、ベース、ドラムといったシンプルな楽器編成に加えて、オーケストラ等のポピュラーミュージックとしては大編成の楽器が加わることもある。フィルハーモニーのような大編成の録音をどのように組み上げていったのか。 スペクターのウォール・オブ・サウンドの構築は、それらの基礎を担うシンプルなバンドのアンサンブルから始まる。ソングライターのジェフ・バリーによると、最初はギターの録音から始まることが多いという。


「4つまたは5つのギター、2つのベース、同じタイプのライン(ユニゾン)を加えて、それから弦を録音し、最終的に6つか7つのホーンセクションを加え、楽曲にパンチをもたらした。その後、パーカッションの録音に移行し、打楽器、小さなベル、シェーカー、タンバリンを付け加えた」 また、スペクターと頻繁に共同作業を行ったエンジニアのラリー・レヴィンも同じような証言を残している。「ギターから始めて、一時間の間に4-8の小節の録音を繰り返し、スペクターが納得するまで何度も反復する」というものだった。ビートルズの録音等では10テイクくらいまでが残されているが、実際には、20回から50回もの演奏に及ぶこともあったという。


 


レコーディングスタジオの音響  


 

 レコーディング・スタジオの空気感(アンビエンス)が作品全体に影響を及ぼすことがある。あるスタジオで録音された音源は音が敷き詰められているように思えるし、別のスタジオで録音された音源は、ゆったりとした間延びしたような音の印象を覚えることがある。言い換えれば、それは、建物や部屋のアンビエンス(音響や残響の全般のこと)の特性、マイクの位置、そして演奏者の距離が出力されるサウンドにエフェクトを及ぼすということである。フィル・スペクターは、実際的な録音の完成度の高さを目指したのは事実だと思うが、一方、彼はスペースのアンビエンスに徹底してこだわった。つまり、彼はレコーディングルームの空気感をマイクで録音し、モノラルでミックスしたのだった。そして、ウォール・オブ・サウンドの完成のために、不可欠だったのがロサンゼルスにある「Gold Star Studio」である。


 音の特性にこだわれば際限がなくなる。けれど、空間的な特性が録音に影響を与えることは実のところ免れないことである。例えば、メジャーリーグのスタジアムでも打球が飛びやすい球場とそうでない球場がある。また、フットボールのスタジアムでは、ボールがハネやすかったり、そうでなかったり、高地にあるので、スタミナを過剰に消耗しやすいフィールドもある。音楽も同じで、空気の乾燥、つまり湿度や温度、密度、壁や建材の材質までもが実際の録音に影響を与える。もちろん、コンクリートの壁であれば音は硬く聴こえるはずだし、反対に木材中心のスタジオでは反響は吸収されるが、コンクリートよりも柔らかいサウンドが得られるだろう。もちろん、レンガ壁等の特殊な録音空間では、予想も出来ない反響の結果が得られるに違いない。

 

 特に、フィル・スペクターが好んで使用し、ウォール・オブ・サウンドという名称が生み出されたゴールド・スター・スタジオもまた、現代的なレコーディングスタジオという観点から言うと、きわめて異質な環境であった。このスタジオからはビーチ・ボーイズ、ブライアン・ウィルソン、ジョン・レノンの名作が誕生した。伝説的なレコーディングスタジオとして知られている。




 ゴールド・スター・スタジオは、デヴィッド・S・ゴールド、スタン・ロスによって1950年に設立された。このスタジオの設備には、反響効果を及ぼす装置、エコーチェンバーが付属し、音の壁からボーカルが浮き出るような特異な感覚があったため、ウォール・オブ・サウンドの名称が誕生した。


このスタジオからはロネッツの「Be My Baby」、ビーチ・ボーイズの「Good Vibration」、ラモーンズの「Do You Remember Rock n' Roll Radio?」などが制作され、数々のグラミー賞ヒットナンバーを世に送り出したのは最早周知のことではないかと思われる。 

 

 本来であれば、フィル・スペクターが用いた録音の方法は理に叶ったものとは言えない。例えば、近距離で演奏すれば他のパートの楽器のノイズを拾ってしまう。しかし、フィル・スペクターは、この欠点を活かし、独特のアンビエンスを作り出すことに成功したのだった。特に、スタジオに付属しているエコーチェンバー(ルームエコー)の装置が、ウォール・オブ・サウンドの完成には不可欠だった。

 

 スペクターは、エコーマシンをディレイさせ、それをチェンバーに通した。その結果として生み出されるのは、個々の楽器の特性を掴みがたいような抽象的でありながら凄まじい密度を持つ重厚なサウンドであった。さらに、スペクターは最終のミックス時に、個々のトラックにエコーを掛け、何台ものテープマシンを回した。そして、同時にユニゾンで同じフレーズを演奏者に演奏させ、録音し、それらを組み合わせ、ミックスを加えていった。フィル・スペクターのサウンドは帰納的なものと言え、結果や結末から最初に行うべき録音を逆算していったのではないか。つまり彼の頭には理想的なサウンドがあり、どうすればその結果に辿り着くのかを試行錯誤していった。


 ゴールドスタジオはパラマウントの近くにあり、1950年代にハリウッドの音楽作家、そして映画、TV制作者のデモづくりのスタジオとして始まった。つまり、映画やドラマのサウンドトラック的な意味を持つ音源を制作するために作られたスタジオだった。これは大手レコード会社とは異なる運営方法を可能にしたにとどまらず、映画的なサウンドを作るための基盤になった。

 

 特に、スタジオにあるミキシングコンソールは、設立者のデイヴィッド・ゴールドが自作したものである。音響効果の装置を熟知した開発者が在籍していたことは、録音の特性を最大限に発揮させるための手助けともなった。また、このスタジオには優れたエンジニアが在籍していた。ラッカー盤に刻むカッティング・マシーンは、創設者のゴールドが自作し、アナログとは思えない卓越した音圧を得ることが可能になった。その他、エンジニアのラリー・レヴィンは、カッティング技術者として優れた技術を持っていた。つまり、こういった技術者の活躍があったおかげで、レコードとして高性能の再現力を持つ音源が完成した。それは芸術的な側面だけではなく、工業的な側面を併せ持つレコードの清華でもあったのだ。

 

 

ウォール・オブ・サウンドの以降



 

 果たして、ウォール・オブ・サウンドは時代遅れの録音技術なのだろうか。しかし、少なくとも、以降の大瀧詠一や山下達郎のような複数のアーティストにより、再現が試みられたことを見ると、まだまだ無限の可能性が残されているように思える。そして少なくとも、この録音技術は、機材の機能の制限から生み出された産物であったということである。もちろん、技術者として卓越したコンソール制作者がいたことは忘れてはいけない。そして事実、1960年以降、ウォール・オブ・サウンドの代名詞であったモノラル録音からステレオ録音に移り変わり、マルチトラック数が4から8、16へと増加していき、録音機器の可能性がエンジニアによって追求されていく過程で、この録音技術は時代に埋もれていった側面もある。しかし、ポピュラーミュージックの歴史を見る上で、限定的な数のトラックを用いた録音というのは、何らかの可能性が残されているかもしれない。ウォール・オブ・サウンドの演奏者が同じスペースで一発録りをする録音方法は現代でも取り入れられる場合があり、まだまだ未知の可能性が残されているような気がする。

 

 以降、同時に録音出来るトラック数が増えたことは、実際的にソロアーティストが活躍する裾野を広げていった。 実際的に多数の演奏者が一つのレコーディングルームで演奏する必要がなくなったことが、グループサウンドやバンドサウンドがその後、いっとき衰退し、ソロアーティストの活動が優勢になっていく要因となったという話もある。つまり、録音技術の拡大は、必ずしもバンドやグループというセクションの録音にこだわらなくても良くなったというわけである。ビートルズやビーチボーイズの主要メンバーが以降、ソロ活動に転じたのは、最早バンドで録音を続ける意義を見出しづらくなったという要因があった。

 

 しかし、同時に、フィル・スペクターがエンジニアと協力して構築した「ウォール・オブ・サウンド」の最大の魅力や価値を挙げるとするなら、それは複数の演奏者が一同に介し、その瞬間にしか得られないような生のサウンドをリアルタイムで追求するということであった。結果的に、「同時に録音する」という行為は、想定した録音の結果が得られるとはかぎらず、偶然の要素、チャンス・オペレーションが発生する。そして、予測出来ない箇所にこそ、録音の未知の可能性が残されているかもしれない。

 

 テクノロジーは、日々、革新を重ね、新しい録音システムが次々と生み出されている。旧来の可能性と未来の可能性が合致したとき、ウォール・オブ・サウンドに代わる新しい代名詞がどこからともなく登場するかもしれない。そして、その画期的な録音方法にはどんな名称が与えられるのだろう。考えるだけでワクワクするものがある。

 音楽に治癒効果はあるのか 音の周波数が与える人体への影響


音楽の複合的な性質

 

音楽そのものは、物理学の観点から言えば、音の周波数や振動数から成立していることは明らかである。そして、光と同様に物理学的な性質を擁する。

 

一般的に言えば、周波数が高くなれば、波長が短く小刻みになり、低くなれば、長く緩やかな波長を作る。そして、無線/有線等の技術にも応用されるように、電波を送るための伝達装置として使用される場合には、両方の周波数の音の伝わる性質が適用され、周波数が高い場合、特定の方向に対し、より多くの情報を伝達することが可能になる。

 

それとは対象的に、周波数が低い場合、広い方向に対し、情報が伝達することが出来るが、反面、伝えられる情報数は減少する。周波数の高低のそれぞれの特性を上手く活用しながら、技術者は人類のテクノロジーを進化させて来た。この磁石のような両極的な伝達手段の手法は、ラジオ短波やFMラジオを比較すると、より分かりやすいのではないか。


音の周波数の理論は、無線/有線の技術として適用されるにとどまらない。例えば、物理学者のニコラ・テスラは、振動数が物質に与える影響について指摘し、実際的に音の振動数が物理学的に大きな力学を及ぼすことがあり、地球を真っ二つにするほどの力を有することを指摘している。これは実際的な実験が行われていて、音の周波数が物質を形作る結晶を変化させる力を持つという研究結果にも表れている。例えば、より一般的な話題では、人間から発せられる言葉が物質の構造を変化させるという実験も行われている。これはなかなか見過ごせない話題だ。

 

音楽的な視点からこのことを見ていきたい。一般的には、クラシック音楽が全般的に周波数が高いと言われ、例えば、JSバッハ、モーツァルトの楽曲には頻繁に高い周波数が取り入れられているというのが通説である。それが時々、クラシック音楽を聴いていると、心地よく眠たくなる理由であると言われている。

 

例えば、退屈だから眠気を催すとは限らず、音楽の力学としての周波数が人体の意識より高い場合に眠たくなる場合があるという説もある。これらはアンビエント・ミュージックに癒やしや眠気を催す要素があるのと同様である。しかし、一般的には周波数が低いと言われているノイズやメタル、ロックミュージックが、必ずしも人体に悪影響を及ぼすとも限らないのが不思議である。

 

例えば、こういった音楽を聴いて、不思議とパワーがみなぎってきたことはないだろうか。上記のような音楽には、電流のような力学的なエネルギーを発生させる力があり、それが「グルーヴ」の正体なのである。これらは、例えば、ジャンルごとに振動数や周波数の偏りがあるだけで、本質的にはすべてが同類の性質を有することを表し、音楽自体が複数の周波数から同時的に成立している証ともなる。

 

つまり、実際的には、クラシック音楽にも、低い周波数を持つ音楽が存在し、さらに、ロックのような音楽にも高い周波数が存在する。表向きには、ロックにはノイズのような振動数の低い要素が含まれていることは明確だが、しかし、対象的に、複数の楽器の発生させる振動数が折り重なったとき、現象学として異なる周波数が発生し、稀に、高い周波数を保持することがある。これがロック・ミュージックなどに見受けられる快適さ、治癒の効果なのであり、こういった一般的な音楽に大きな感動を覚える理由でもある。つまり、低い周波数と高い周波数が混在する森羅万象の音楽と言えるのである。



単一の周波数という考え ソルフェジオ周波数音楽

 

以上のように、こういった複数の周波数を持つ音楽という概論を踏まえた上で、単一の周波数を抽出し、それらを治療効果があるのではないかとする考えもある。近年、 注目されているのがソルフェージュの言葉を転用したソルフェジオ周波数と呼ばれるものだ。

 

この神秘学の提唱者のホローヴィッツは、一般的な音楽フォーマットで使用されている440Hzの周波数が人体に悪影響を及ぼすものではないかと推論付け、その反証として、以下の特定の周波数を取り上げている。そして、これらの周波数は、神秘的な治療効果を人体に及ぼすという推論を展開している。ソルフェジオ周波数には、主な6つの周波数以外に、一般的に知られていない3つの周波数が存在するという。


396 Hz - 解放の周波数


396Hzの周波数の音は、ネガティブな思考、感情、エネルギーパターンを解放し、解放感と自由を促します。


417 Hz - 共鳴周波数


417Hzの音は、ネガティブなエネルギーや影響をクリアにし、ポジティブな変化と変容を促します。


528 Hz - 愛の周波数


愛の周波数は、リラクゼーションを促し、ストレスや不安を軽減し、睡眠の質を高め、創造性を高め、幸福感を促進します。


528Hzのチューニングされた音楽とサウンドの効果について、さらに詳しくご覧ください。


639 Hz - つながる周波数


639Hzは、調和のとれた人間関係を促進し、コミュニケーションを増やし、感情の癒しとバランスを促進することを目的としています。


741 Hz - 目覚めの周波数


代替医療では、741Hzの音はより深いレベルの気づきを促し、直感力を高め、スピリチュアルな成長を促進すると信じられている。


852 Hz - 直感周波数


852Hzの周波数は、スピリチュアルな意識や直感を高めるだけでなく、明晰な思考を確立し、コミュニケーションを向上させるのに役立ちます。


174 Hz - 基礎周波数


この周波数は、痛みを軽減し、安全感と安心感を促進し、肉体的・精神的な癒しをサポートすると信じられている。


285 Hz - ヒーリング周波数


この周波数の音は、特に傷や怪我の肉体的治癒を促進すると信じられている。


963 Hz - 宇宙の周波数


より高い963Hzの周波数は、スピリチュアルな目覚めを促し、松果体を活性化させ、直感やサイキック能力を高める。


1074Hz - スピリチュアル周波数


この高音周波数は、スピリチュアルな成長と気づきを助け、直観力を高め、高次の意識とのコミュニケーションを向上させる。


1174 Hz - バランス周波数


528Hzに代わる高い周波数は、体内のエネルギーセンターのバランスを整え、精神の明晰さと覚醒を促し、創造性と生産性を高める働きがある。 

 


音楽を楽しむ上で重要視したいこと

 

一般的に、こういった周波数が癒やしの効果を持つと言われているが、結論としては、これらの治癒効果は、検証実験の回数が少ないため、実際の効果は限定的であると言わざるを得ない。そもそも音楽自体は、異なる周波数が複合して成立しており、一つの周波数から構成されることは稀有であるため、単一の周波数の効果を抽出することは妥当ではない。

 

単一の音から倍音が発生するという性質を考えると、音楽は「多次元の周波数から成立する」と考えるのが妥当である。単一の周波数から構成される連続音は、音波であり、音楽とは言えない。ここで言いたいのは、現時点の科学的には検証しえない音楽の神秘的な領域が残されているということである。さらに言えば、現時点の科学では測定不可能な領域にある周波数も存在する可能性もある。

 

さらに、私達が信頼してやまない科学という分野が日夜、それまで常識とされていた一般的な学説や推論が覆されることでる定説が成立されるということを鑑みるに、科学的な検証が行われたというのも、都合の良い検証結果が恣意的に抽出されたに過ぎず、一般的なエヴィデンスに対する反証や疑義が含まれていることを付言しておきたい。

 

そこで、音楽ファンに対して推奨したいのは、ジャンルを問わず、自分たちが心地よいと感じたり、癒やされたり、心から熱中出来るような音楽を、鉱脈にある金を掘り当てるように、「自ら探しあてる」ということである。そもそも、人間には直感が備わっており、何らかの外的な効果を及ぼさずとも、自分の体に合ったものがおのずとわかるはずである。一般的に心地よいと言われているものが、必ずしもある個人にとって最善とは限らないように、それぞれの各個人の意識に合った音楽を聴くことが重要ではないかと結論付けたい。あくまで上記の周波数は、一般的に科学的な効果があると言われている俗説に過ぎず、治療効果を保証するものではないということを留意しておくことが大切である。治療法というのも、一つの手法から成り立つのは稀なのであり、一般的な定説を過信せず、時宜にかなった処置を図ることが最善である。

バロックポップとチェンバーポップの原点

 

The Beatles-Strawberry Fields

他のジャンルと同様に、ポピュラーミュージックの中には、数えきれないほど無数のジャンルがある。例えば、この中にチェンバーポップ、バロックポップというジャンルが存在するのを皆さんはご存知だろうか。


大まかに言えば、これらの2つの専門用語ともに古典音楽の影響を含めるポピュラー音楽を意味する。チェンバーポップ、バロックポップの原点は間違いなくビートルズにある。そう、勘が鋭い読者はお気づきのことだろう、「Strawberry Fields Forever」である。


「Strawberry Fields Forever(ストロベリー・フィールズ・フォーエバー)」は、ビートルズの楽曲である。1967年2月に「Penny Rain(ペニー・レイン)」との両A面シングルとして発売され、ビートルズのサイケデリック期における傑作。


レノン=マッカートニー名義となっているが、実質的にはジョン・レノンの作った楽曲といわれ、レノンが幼少期に救世軍の孤児院「Strawberry Fieldsr」の庭園で遊んでいた思い出をモチーフにしている。

 

1966年11月にレコーディングを開始し、スタジオで5週間に渡って異なる3つのバージョンを制作し、最終的にテンポやキー、使用される楽器の異なる2つのバージョンを繋ぎ合わせて完成した。


現代の「編集的なサウンド」、及び現代のWilcoがレコーディングで使用するような音楽のレコーディングはすべてここから始まったといえる。

 

この曲にはメロトロンやストリング、ホーンセクション、逆再生、そしてポピュラー音楽の範疇を越えたクラシック音楽の構成など、現在でもレコーディングやソングライティングの教科書とも言えるマスターピースであり、チェンバーポップやバロックポップの出発点とみても大きな違和感がない。


しかも、この音楽にはバロック音楽の要素が取り入れられている。しかし、教会のポップ、そして、バロックのポップとはいったい何を意味するのか。それを始まりから現在に至る系譜を大まかに追っていきたい。



バロック音楽



そもそも「チェンバー」は教会の意味である。これは教会で演奏されるクラシック音楽を模したポピュラー音楽を意味すると推測できる。その一方、「バロック」というジャンルも音楽の専門用語で使用され、クラシック音楽の一ジャンルをポピュラーの中に組み入れることを意味していると思われる。バロックはポルトガル語で「不整形の真珠」を意味している。バロックというジャンルは、中世の古典音楽のジャンルで、イタリアからフランス、ドイツまでヨーロッパの音楽様式として栄華をきわめた。

 

バロックは、音楽という観点で言えば、イタリアのヴィヴァルディに始まり、フランスのクープラン、ドイツのJSバッハまでの中世ヨーロッパの音楽形式を示すのが一般的と言える。音楽としては、ハープシコードを用いたり、トランペット(ピッコロ)やフレンチホルン、さらには木管楽器を弦楽曲と共に組曲の中で使用した。テンポとしては、ゆったりとしたアンダンテから、性急に駆け抜けていくプレストまで様々である。これらのバロックやチェンバーという様式の原点は、そのほとんどが宗教的なモチーフや宮廷などの委嘱作品として制作される場合が多かった。詳述するには音楽家が宮廷お抱えの演奏家や作曲家であった時代にまで遡る必要がある。


中世の音楽家は、そもそも教会組織に使える人物であり、王族や教会のためのミサ、及び、宗教的な儀式のための音楽を制作し、教会の組織から特別な「サラリー(給与)」を得ていたのである。(サラリーは、塩から派生した言葉で、仕事の定期的な報酬は「塩」という貨幣の代替品により始まった。塩が最も貴重であった時代の話である)それらのバックアップを得て、ヨーロッパの近隣諸国の演奏旅行に出かけることもあった。現在で言う''ライブツアー''の原点である。つまり、現在のプロモーターやレーベルのスポンサーの役割は、中世音楽という観点からいうと、教会の組織やコミュニティ、もしくはその背後にある国家が司っていたと見るべきだろうか。


これらの作曲家、演奏家の多くは教会専門の音楽家として生計を立てていたが、もしその契約を打ち切られると、かなり大変だった。たちどころにスポンサーを失い、みずからの音楽が演奏される機会が少なくなり、最終的にはモーツァルトのように借金をしてまで生計を立てねばならなくなる。晩年、ザルツブルグの教会内部との軋轢があってのことなのか、モーツァルトは晩年には無宗教者として墓に入ることを決意した。しかし、彼の遺作が宗教音楽のレクイエムであることはかなり皮肉にまみれている。

 

時代が変わり、楽譜(スコア)が出版されるようになると、現在でいうCD/LPの販売のような商業的な形態の初歩的な構造が出来上がっていった。当初は銅板の印字のような出版形式で、後に現在のスコアのような紙の出版へと移行していく。すると、ドイツや旧ワイマール帝国、あるいはオーストリアの作曲家は楽譜を書店などで売ることで、ようやく生計を立てられるようになった。

 

しかし、現在のようなライブツアーや物販という営業形態までは至らず、依然として教会や国家に仕える比較的経済に余裕がある場合を除いては、音楽家のほとんどはどのような時代も貧困にあえいでいたと見るべきだろう。現在のようなスターシステムは当然ながら、グッズ販売などの付加要素がないため、楽譜の売上だけではなく、ピアノ教師をやりながら生計を立てていかなければならなかった。現在でいう専門のインスティテュート、ピエール・ブーレーズが設立したIRCAMのような研究の専門機関もまだ存在しないので、それはほとんど個人的な音楽教師の範疇にとどまっていた。

 

ロベルト・シューマンと並んで世界最初の音楽評論家であるロマン・ロランによるベートーヴェンの伝記にも出てくるが、音楽室の壁に飾ってある大作曲家の半数は、中世においては社会的な地位に恵まれることは少なかった。フランスでは、だいたいのところ国立音楽院で学んだ後、教授職に就いたり、ガブリエル・フォーレのように学長に歴任するというケースはきわめて稀だった。これは彼が出世コースを歩み、アカデミズムの世界の人物であったからである。

 

音楽家が独立した職業として認められ、一般的に生計を立てられるようになったのは、少なくとも19世紀の終わりか、もしくは20世紀のはじめと推測される。後にはマーラー、ブーレーズ、ストラヴィンスキーなど、指揮者と作曲家を兼任し活動を行う人々も出てくる。この時代からようやく音楽家の地位も一般的な水準より高まり、つまり文化人として認識されるようになる。

 


 

ジャズとポピュラーの融合 大衆のための音楽

 

Mourice Ravel & George Gershwin USTour

こういった流れを受け継いで、近代文明の中にクラシックとともに''ジャズ''という音楽が台頭した。ニューオリンズの黒人の音楽家を中心とするブラック・ミュージックの一貫にあるコミュニティとは別に、クラシックの系譜に属するジャズが出てくる。ニューヨークでジャズが盛んになった経緯として、ジョージ・ガーシュウィンの大きな功績を度外視することは難しいだろう。

 

ジョージ・ガーシュウィンはオーケストラとジャズを結びつけ、フランク・シナトラと合わせて米国のポピュラー音楽の最初の流れを形作った人物といえるかもしれない。


そして、バロックポップやチェンバーポップの中には、クラシック音楽と合わせて、古典的なジャズの要素が入る場合があることを忘れてはいけない。これは、以降のMargo Guryanというソングライターに受け継がれ、現代的な米国のポピュラー・ミュージックの一部を形成していると見るのが妥当である。

 

もう一つ、ポピュラー・ミュージックの文脈の中に組み込まれるバロックやチェンバーという様式の中に、別のルーツがヨーロッパのクラシックに存在する。それがフランスの著名な近代の作曲家であり、クロード・ドビュッシー、モーリス・ラヴェル。特にラヴェルに関しては、『ボレロ』などミニマル・ミュージックの元祖を制作しているし、アメリカへのツアー旅行の過程でガーシュウィンと交流を持った。彼は音楽にスタイリッシュさをもたらした作曲家である。


また、フランスのサロン文化やジャポニズム、また絵画芸術が発祥の印象派の作曲家、クロード・ドビュッシーは同じように古典音楽という形式の中に洗練されたスタイリッシュさをもたらした人物だ。彼はロシアからアメリカに亡命したイゴール・ストラヴィンスキーと交友関係にあった。これらのエピソードはアメリカのポピュラー音楽がフランスの近代音楽やロシアの古典音楽からの影響を元に原初的なポピュラーという形態を作り上げていったことを証立てている。


そして、上記二人の作曲家に強い触発を与えたパリ音楽院を十数年かけて卒業した作曲家、エリック・サティの存在も重要となるだろう。


元々は、サロン文化華やかし時代の花の都パリで、フレドリック・ショパンをサロンのような場所でカバーを演奏していたが、ドビュッシーが彼の音楽を取り上げはじめたおかげで彼の名は歴史に埋もれずに済んだ。サティはのちのハロルド・バッドのような現代的なミュージシャンに影響を及ぼし、オーケストラ音楽やピアノ曲をポピュラーとして編曲した。


和音法の革新性という側面でもエリック・サティは度外視することができず、フォーレのアカデミズム一派と並んで、フランスの近代和声の一部を形成していることは事実である。''その場のムードを重んじる''という意味で、環境音楽やアンビエントのルーツでもある。そしてそれは以降のコクトー・ツインズのように、絵画や建築、服飾などの他分野を発祥とする美学やイデアを元に構成される音楽の一派に直結する。いわばサティは、クラシックという領域でポピュラー(大衆のための音楽)というテーマを最初に意識づけた作曲家である。それ以前から、クラシックとポピュラーのクロスオーバーは、歌曲や大衆向けのオペラでも頻繁に行われていたのは事実だが、この時、古典音楽の意義が変わり、一部の共同体のためのものから大衆の音楽へと移行した。

 

 

ロックやポップスのレコーディングの中で組み込まれるオーケストラ楽器

 


音楽が「大衆のための娯楽」として確立されたのち、ミュージック・スターが誕生するのは当然の成り行きだったのかもしれない。1950年代に入ると、レコード会社が米国各地に乱立するようになり、音楽産業が確立されると、ヒーローが数多く登場するようになった。チャック・ベリーやリトル・リチャード、エルヴィスを中心とするロックンロール、これは明らかにブルースやゴスペルをはじめとするブラックミュージックを出発点として発展していった。


その一方、ポピュラー・ミュージック全般は、明らかに以前の時代のクラシックやジャズ、それからミュージカルやオペラのような形態を元に発展していった。イギリスでは、アイルランドやスコットランドのデーン人のフォーク音楽、そして米国ではゴスペルやアパラチア発祥のニューイングランドを意味するフォークミュージックを吸収し、教会音楽の格式高さを受け継いだものから、それとは別の完全なショービジネスとして君臨するものまでかなり広汎に及んだ。

 

しかし、少なくとも、現在のような商業的な音楽の流れを決定づけたのはやはりビートルズである。そしてチェンバーポップやバロックポップというジャンルもまたリバプールのバンドから出発したと考えるのが妥当だろう。今回、クラシック音楽をポピュラー・ソングに取り入れた最初の成功例として注目したいのが、ザ・ビートルズの名曲「Strawberry Fields Forever」である。


この曲は『Rubber Soul』時代のサイケデリック文化からの影響をうかがわせつつも、チェンバーポップとバロックボップの最初の出発点だ。ビートルズの中期の曲ではお馴染みのメロトロンの使用という要素は、現在のリスナーから見ると、ノスタルジックな印象をおぼえるはずである。

 


 

これは同時期に、サイケデリック・ムーブメントやフラワー・ムーブメントの一貫として登場したザ・ローリンズ・ストーンズの『Their Satanic Majesties Request』の収録曲「In Another Land」にもチェンバロ(ハープシコード)というオーケストラ楽器が登場する。これらの2曲が一般的な意味でのバロックポップ/チェンバーポップの出発点と見るのが妥当であるといえるかもしれない。


またこの要素はジョージ・ハリソンやレノンがインドでシタールなどの民族楽器を学んだこともあり、チェンバー・ポップの文脈にくみこまれたり、さらに独立した音楽ジャンルとしてエスニックのロック/ポップという、以後のニューエイジ系の先駆けとなったことは想像に難くない。

 

 

そして、バンドのレコーディングという側面では、ビートルズがオーケストラ音楽の要素をポピュラーの中に組み込み、それらをリスナーの期待に応えるような形式に仕上げたことは明らかである。他方、ローリング・ストーンズは、これらをサイケデリックやミュージカル、もしくは映像的な音楽効果と結びつけ、ビートルズとは異なる音楽の新しい様式を作り上げることになった。


これは続く、80年代から90年代のブリット・ポップに直結している。ブリット・ポップの正体とは、「バロック・ポップ/チェンバー・ポップの継承」である。それらを前の年代のニューウェイブやポストパンク、ロンドンやマンチェスターのダンスミュージック、及び、エレクトロニックと結びつけるという意義があった。ブリット・ポップのレコーディングにオーケストラのストリングが必須であるのは、こういった理由によるのかもしれない。そして、商業的なロックソングという観点でも、オーケストラのストリングやエレクトロニックの要素が複合的に取り入れられると、それがブリット・ポップとなり、その影響下にあるポスト世代の音楽となる。

 

 

 

 

もう一つの系譜 女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップの発展


Murgo Garyan

 

ビートルズやストーンズのバンドという形態で築き上げられるバロックポップとチェンバーポップは以降のブリットポップに直結した。そして、もう一つの系譜として女性シンガーソングライターを中心とするチェンバーポップが台頭する。それらの音楽は独特のふんわりした音楽性が特徴となっている。

 

例えば、その原点として、元々はクラシックやピアノの演奏に親しんだMargo Guryanがいる。女性シンガーとしては傑出していたが、寡作のシンガーソングライターであったこと、所属レーベルとの関係の悪化、さらに家庭の人生を重んじたため、生涯の作品こそ少ないが、ポピュラー音楽の中にクラシック音楽やジャズを本格的に組み入れようとした最初のシンガー/作曲家である。

 

米国では著名な女性のシンガーソングライターがレコード会社やプロデューサーと協力し、チェンバロやメロトロン、そしてオーケストラ楽器を曲の中に導入し、シンガーソングライターとしてのチェンバーポップ、バロックポップの様式を作り上げていった。

 

このジャンルが盛んだったのは何もアメリカのニューヨークだけにとどまらない。もう一つの文化の重要な発信地であるフランスでは、イエイエが盛んになり、パリの音楽シーンは映画やファッションと連動するようにして、ジェーン・バーキンやシルヴィ・バルタンを筆頭とするフランス版のチェンバーポップの象徴的なシンガーを輩出する。イエイエの系譜にありながらボーカルアートの領域まで表現形態の裾野を広げて、アートポップやスポークンワードの先駆的な存在として活躍したシンガーソングライター、Brigitte Fontaineも忘れてはいけないだろう。

 


現代のチェンバーポップ/バロックポップの音楽がおしゃれでスタイリッシュな印象があるのは、60年代頃のフレンチ・ポップ、つまりイエイエからの影響が大きい。シルヴィ・バルタンやジェーン・バーキン、これらのシンガーはそのほとんどがモードファッションに身を包み、ファッションリーダーとしても活躍した。現在のアートポップやバロックポップの歌手がファッションに関して無頓着ではなく、新しい文化性を感じさせるのはパリ文化からの影響がある。

 

 

 

 

現在のバロックポップ、チェンバーポップ 無数に細分化する先に見えるもの

 

Melody's Echoes Chamber

もう一つ、現代的なサブジャンルとしてドリーム・ポップというジャンルがある。Cocteau Twins(コクトー・ツインズ)、Pale Saints(ペール・セインツ)などを中心とする4ADが得意とする音楽である。これらはよく知られているように、上記のバロックポップやチェンバーポップをニューウェイブやソフィスティポップというレンズを通して再度見つめ直したものである。

 

音楽的な特徴としては、甘いメロディーや、柔らかい感覚のボーカル、ソフィスティポップの系譜にあるうっとりとさせるような雰囲気がある。これらもMargo Guryanやイエイエの系譜にあるものを英国らしい音楽として昇華させたということができるかもしれない。さらに言えば、これらのジャンルの原点である建築様式のゴシックという要素でやや暗鬱な音楽で包み込んだ。

 

これらは現在のアートポップの原点となったにとどまらず、80年代のグラスゴーのギターポップ/ネオ・アコースティック、そして80年代のロンドンやマンチェスターのダンスミュージック/クラブミュージックと組み合わされて、90年代のシューゲイズやエレクトロポップ、それ以後の2000年代のオルタナティヴロックの流れを形づくることになった。(これは後に日本の渋谷系[shibuya-kei]というジャンルに直結している。詳しくはコーネリアスやカヒミカリィの音楽を参照)


現在のバロックポップやチェンバーポップというのは、以前よりもさらに細分化されつつあり、他のジャンルの音楽と同じく、他文化からの干渉をまぬがれない。音楽自体も懐古的なものから、現代の需要に応えるようなスタイリッシュなポップソングに変遷しつつある。最近の事例ではアークティック・モンキーズの『The Car』、あるいはピーター・ガブリエルの最新作『i/o』という例外はあるにせよ、このジャンルは、男性中心のロックバンド、及び、ソロシンガーから女性シンガーソングライターの手に移りつつあるようだ。


ウェールズのCate Le  Bon、フランスのMelody"s Echoes Chamber、アメリカのKate Bollingerが現代版のバロックポップ、チェンバーポップの筆頭格だ。


これらはオルタナティヴの系譜にあるドリームポップやシューゲイズ、クラブミュージックにも部分的に取り入れられる場合がある。また、これらの音楽は全般的にエクスペリメンタルメンタルポップ、つまり、実験的なポピュラー・ミュージックと称されることもある。


以降、チェンバーポップには、把握しきれないほど多種多様なスタイルが登場している。例えばサンフランシスコや西海岸のサイケデリックを吸収したり、ヒップホップのローファイサンプリング、ブレイクビーツからの影響を交え、より洗練された未来志向の音楽に変化しつつある。ラップトップの一般的な普及により台頭したベッドルームポップという新世代の録音の象徴的な音楽と融合し、Clairo(クレイロ)のような現代的な音楽に変わることもある。それとは対象的に、全般的なオルタナティヴロックという文脈に部分的に取り入れられる場合もある。


最近のレコーディングでは、ポピュラー音楽にオーケストラを導入することは日常的となりつつあり、さまざまな形が混在し、そしてまだ完成されていないジャンルでもある。


もしかすると、現在最も注目すべきジャンルの一つが、バロックポップ、チェンバーポップなのかもしれない。



 Dub Musicの系譜  レゲエから始まったダビング録音

Dub Tech

 

ダブ・ミュージックは、当初は、レゲエの派生ジャンルとして始まった。そして、現在、ドキュメンタリー映画の上映で話題になっているボブ・マーリー(&ウェイラーズ)も実は、このダブ(ダビング)という手法に注目していたというのである。

 

そして、このダブにおける音楽制作のプロセスは、エレクトロニックのグリッチノイズと類似していて、音をダビングすることにより、本来の意図した出力とは相異なる偶発的な音響効果が得られることを最初のダブのクリエイターらは発見したのである。他にも、例えば、昔のアナログビデオテープ、音楽のテープのように、再生を重ねたリールは擦り切れると、映像や音が正常に再生されなくなり、''セクションの映像や録音が飛ぶ''というエラーによる現象が発生することがある。これは映像や音が瞬間移動するような奇妙な感覚があったことを思い出させる。

 

ダブ・ミュージックの特徴はこれによく似ている。音を正常に再生するのではなく、”音が正常に発生しない”ことに重点を置く。音の誤った出力・・・、それは制作者が意図した音とは異なる音が現象学として発生することである。予期したものが得られない、その偶然性から発生するサプライズに音楽制作の醍醐味が求められるのではないか? つまり、ダブ・ミュージックは、ギターにしろ、アナログシンセにしろ、リズムトラックにしろ、アナログ録音やテープのリールを巻き付けて重ねていくうち、サウンドのエラーが生じたことから始まった偶然性の音楽ーーチャンス・オペレーションーーの系譜にある実験音楽として始まったと言えるのである。

 

全般的には、キング・タビー、リントン・クウェシ・ジョンソン、リー・スクラッチ・ペリー、マッド・プロフェッサー等が、ダブの先駆的なプロデューサーと見なされている。そして、これらのプロデューサーの多くは、アナログの録音のプロセスを経るうち、ターンテーブルの音飛び、スクラッチに拠る”キュルキュル”というノイズーーブレイクビーツのような効果が得ることを面白がり、ダブという不可解な未知の音楽的な手法を探求していったのかもしれない。また、ポスト・パンク/ニューウェイブの先駆的な存在であるキリング・ジョークがかつて語ったように、イギリスには、スカを除けば、当初、固有のリズムや音楽性が求められなったため、編集的な録音やミックス技術を用い、英国の独自のビートを求めたとも言えようか。つまり、以後のGang Of Fourのアンディ・ギルのギターに見出せるように、リズム性の工夫に加え、''古典的なリズムからの脱却''というのが、イギリスの音楽の長きにわたる重要なテーマでもあったのだ。

 

今や電子音楽やラップ、ロックでも、このダブ音楽の手法が取り入れられることもあるのは知られているところであると思う。分けても、2000年代に顕著だったのは、スネアやハイハットに強烈なディレイ/リバーブをかけることで、アコースティック楽器の音飛びのような効果を引き出すことが多かった。このジャンルは、生楽器で使用されるにとどまらず、打ち込みのドラムに複数のプラグインを挿入し、トラックメイクのリズムの全体をコントロールする場合もある。

 

ダビング録音は、最終的に、2000年代以降のエレクトロニックやクラブミュージックで頻繁に使用されるようになり、ロンドンのベースラインやドラムンベースの変則的なリズムと掛け合わされて、”ダブステップ”というジャンルに至ると、シンセの音色やボーカルの録音をリズム的に解釈する、という形式まで登場した。

 

それ以降、レゲエやロック・ステディの性質は薄まり、ロンドンのダンス・ミュージックやドイツのECMのニュージャズ/フューチャージャズと結びつき、特異なサウンドが生み出されるよになった。今や、レゲエの系譜にある古典的なダブの音楽性を選ぶケースは、比較的減少したという印象を受ける。他方、ジャマイカのロックや民族音楽の性質が弱まったとは言え、スカやレゲエのリズムの主な特徴である、2拍目や4拍目にアクセントを置くという、いわゆる裏拍重視のビートは、依然としてダブやそれ以降の系譜の音楽ジャンルの顕著な特徴となっている。

 

 

 

・ダブの出発点 1960's  レゲエ/ロック・ステディの後に始まった島国ジャマイカの音楽

 

1960年代のジャマイカのキングストンの町並み カラー加工が施されている

1960年代のジャマイカの首都キングストンでは、社会的な文化背景を持つ音楽として隆盛をきわめており、スカとロック・ステディのリズムは裏拍の強調を基本としていた。つまりロック・ステディのゆったりしたリズムが、ダブの基礎を形成したというのである。ジャマイカでは大型のPAシステムを導入し、地元のコミュニティやイベントでこれらの音楽がプレイされる事が多かった。

 

こういった背景のなかで、PAという音響エンジニアの職にある人物が最初のダブの礎を築き上げた。サウンドシステムのオペレーターで、エレクトロニックエンジニアであったオズボーン”キングダビー”ラドックは、ジャマイカ音楽に革新をもたらした。ダビーの専門的な知識は、彼の芸術的な感性と掛け合わされ、従来になかった方法でトラックを操作し、ミキシングデスクをアコースティック楽器のように操作することを可能にした。彼のリミックスのアプローチは革新的であり、ベースやドラムのリズムセクションに焦点を絞った。これは「リディム」と後に呼ばれるに至る。彼はボーカルとホーンをサンプリングとして抽出し、それにエフェクトを掛け、独特な音響効果をもたらした。 その後、キングタビーはリバーブとエコーをトラックに掛け、これまでには考えられなかったような斬新な音響効果を追求するようになった。

 

もうひとりの立役者がプロデューサーを当時務めていた、バニー・リーだった。リーはダンスのムーブメントを介して、インストゥルメンタルの箇所で観客の良い反応が得られたことにヒントを得た。リーはキング・ダビーと共同制作を行い、ポピュラーヒット曲のリミックスを手掛けるようになる。このコラボレーションはリミックスの意義を広げたにとどまらず、既存曲からは想像も出来ぬようなエキセントリックなリミックスを作り出す手段を生み出したのだった。

 

 

これらのレコーディングの過程で必要不可欠となったのが、ダビーがスタジオで使用した4トラックのミキサー。この機材によってダビーは、音楽の多彩な可能性を追求し、録音したものを繋ぎ合わせて新しいサウンドスケープを作り出すようになった。エコー、ディレイ、リバーブなど、現在のダブミュージックにも通じるエフェクトはダビーが好んで使用していた。この最初のダブのシーンからリー・スクラッチ・ペリーも登場する。彼はスタジオバンドアップセッターズと協力し、ダブミュージックの先駆的な存在として活躍する。この60年代の十年間は続く世代へのバトンタッチや橋渡しのような意味が求められる。少なくとも、上記のプロデューサーたちは自由闊達に面白いサウンドを作り、音楽の未知の可能性を追い求めたのだった。

 

 

・ダブの黄金時代の到来 1970's  プロデューサーの遊び心がもたらした偶然の結果

 

リー・スクラッチ・ペリーとブラック・アーク・スタジオ

1970年代は一般的に旧来のレゲエからダブが分離し、独自の音楽として確立された時代とされている。60年代のキングダビーの録音技術は次世代に受け継がれ、とんでもないモンスターを生み出した。リー・スクラッチ・ペリー、そして、オーガスタス・パブロの二人のミュージシャンである。さらにスクラッチ・ペリーが1973年に設立した”ブラック・アーク・スタジオ”はダブ音楽のメッカとなった。ペリーの天才性は、高度な録音技術に加えて、彼自身の独創的なクリエイティビティを組み合わせるという点にある。渦巻くようなディレイ、創造的なリバーブ、具象的なサウンドスタイルによって特徴づけられるペリーの音楽は、ダブというジャンルを象徴づけるようになった。とくに1976年の「スーパーエイプ」はペリーの革新的な製作技術とワイアードな音楽のヴィジョンが特徴で、このジャンルの金字塔ともなったのである。

 

 

一方のオーガスタス・パブロは、どちらかと言えば、楽器の音響効果やその使用法にイノベーションをもたらした。特に、その時代真新しい楽器と捉えられていたメロディカを使用し、ダブ音楽にちょっとしたチープさとユニークな印象を付け加えた。 シリアスと対極に位置する遊びゴコロのようなものは、ダブミュージックの制作を行う際に必要不可欠なものになった。パブロの代表的な作品には、1974年の「キング・ダビー・ミーツ・ロッカーズ・アップタウン」が挙げられる。これも画期的なレコードで、キング・ダビーのミキシングの技術とパブロのメロディカの演奏がフィーチャーされた。このアルバムはダブの未知の可能性を示唆した傑作である。

 

それまで、ダブはジャマイカ発祥の音楽だったが、1970年代以降になると、海外にもこのジャンルは波及するに至った。


とくに、最初にこの音楽が最初に輸入されたのが英国だった。移民などを中心とする多国籍のディアスポラ・コミュニティが他国よりも発展していたイギリスでダブが隆盛をきわめたことは当然の成り行きだったと言える。ポスト・パンクやニューウェイブに属する新しいものに目がなく、流行に目ざとい(今も)ミュージシャンがこぞってダビングの技法を取り入れ始めた。


ダブをパーティーサウンドとして解釈したThe Slits、英国独自のリズムを徹底して追い求めようとしたKilling Joke、ジョン・ライドン擁するPIL、The Clash、The Members等のパンクバンドを中心にダブ音楽は歓迎を受けた。また、Gang Of Fourは、ファンクの要素と併せてダブサウンドを取り入れていた。もちろん、この流れはオーバグラウンドのミュージックにも影響を与え、POLICEのようなバンドがレゲエと合わせてロックミュージックの中にセンスよく取り入れてみせた。

 

そしてダブ・ミュージックを一般的に普及させる役目を担ったのが、「Yard Party」と呼ばれるストリートパーティーのため設置されたモバイル型のディスコだった。セレクターが運営したこれらのジャマイカ仕込みのサウンドシステムは、しばしばオリジナルの歌詞をフィーチャーしたトラックやダブプレートという形になった。ダブ・プレートは、サウンドシステムの構築には必須の要素となり、イギリスでのダブの普及に多大なる貢献を果たした。この1970年を通じて、一部の好事家のプロディーサーだけの専売特許であったダブがいよいよ世界的なジャンルと目されるようになり、それと同時に一般的なポピュラー音楽と見なされるようになった。


 

・アナログの時代からデジタルの時代  1980's  イノベーションを取るか、ドグマを活かすか?  

 

 

Sly & Lobbie

続く、1980年代は、ダブ音楽がより洗練されていった時代であり、サイエンティスト、 キング・ジャミー、スライ&ロビーという代表的なミュージシャンを輩出した。この時代、ドラムマシンやシンセサイザーが録音機材として使用され始めると、旧来のアナログのサウンドからデジタルのサウンドへと切り替わっていくことになった。

 

たとえば、キング・ダビーの薫陶を受けたキング・ジャミーは1985年のアルバム「Steng Teng」は、デジタルへの転換点を迎えたと言われている。このアルバムは、レゲエ音楽が最初にコンピューター化されたリディム(Riddim: 厳格に言えば、レゲエのリズムの一形態を意味する)として見なされる場合もある。また、リズムセクションを主体とするプロデューサーのデュオ、スライ&ロビー(Sly & Lobbie)も、この年代のアナログからデジタルへの移行をすんなり受け入れた。ドラムマシンと電子楽器を併用し、彼らはジャンルに新しい意義を与えたのである。1980年代を通じての彼らの仕事は、その時代の実験性の精神をありありと示している。

 

 しかし、このデジタルサウンドへの移行は、ダブ音楽がマスタテープ等のリールを編集したり、アナログのエフェクトを中心に構成されることを考えると、旧来のアナログ派にとっては受け入れがたいものであった。デジタルのダブの出現は、むしろアナログ原理主義者の反感を買い、これらの旧来のサウンドの支持者は、かえってアナログ派としての主張性を強める結果となった。この年代には、アナログ派とデジタル派の間での分離も起きた。しかし、結果的にデジタルへの移行は良い側面ももたらしたことは併記すべきか。ヘヴィーで温かい雰囲気を持つベースライン、そして、ライブ録音のアコースティックドラムは、このジャンルを次の段階に進める契機を形作った。同時に、デジタルサウンド特有のシャープなサウンドも作り出された。

 

その後もマーク・スチュアートはこのレーベルと関わりを持ち続けた
この技術的な核心は、新しいプロデューサーを輩出する糸口となる。この年代の第一人者であるマッド・プロフェッサー(Mad Professor)が、ダブの最重要人物として台頭させる。彼は、ロンドンのダブミュージックのレーベル ”On U Sound Records"の創設者でもあった。

 

このレーベルのリリースには、タックヘッド、ダブシンジゲート、アフリカンリトルチャージ、リトルアニー、マーク・スチュワート(ポップ・グループ)、ゲイリー・クレイル等といった錚々たるアーティスト名がクレジットされた。

 

1980年代は前の年代よりもダブが国際的な音楽として認識された。このジャンルは英国にとどまらず、アメリカ、日本など世界の音楽シーンにも浸透していくようになる。とりわけ、日本では英国と同じようにパンクシーンに属するミュージシャンが、これらのダブをパンクサウンドの中に組み込んだ。これら当然イギリスのニューウェイブからの影響もあったと推測される。

 

 

 

・エレクトロニックとの融合の成果   1990's  ポピュラーミュージックへの一般的な浸透

 

Massive Attack


2000年代以降、イギリスでは、”ダブステップ”という、このジャンルの次世代のスタイルが登場し、Burial、James Blakeの一派によって推進されると、 古典的な意味合いを持つダブミュージックの意義は徐々に薄れる。2010年代以降、ロンドンやマンチェスターのコアなベースメントのプロデューサーを中心に、リズム自体も複雑化してゆく。しかし、その後のダブをクラブミュージック等のジャンルと融合させるという形式は、すでに1990年代に始まっていた。


1990年代の世界のミュージック・シーンの至る場所で見いだせる”クロスオーバー”という考えは、ジャマイカ生まれの音楽にも無関係ではありえなかった。ダブは、アンビエント、ドラムンベース、トリップ・ホップ、そして、その後のダブステップという複合的なジャンルに枝分かれしていく。この年代は、古典的なダブと異なり、ベースとリズムの低音域を徹底して強調し、リズムの要素を付け加え、重層的なビートを構築する形式が主流になる。この過程で原初的なシンプルなレゲエのリズムや、カッティングギターの性質は薄れていくことになるが、依然としてマンチェスターのAndy StottやスウェーデンのCalmen Villan等の才気煥発なプロデューサーの作り出すダブは一貫して、裏拍に強調が置かれている。もちろん、シンコペーション(強拍の引き伸ばし)の技法を用いることにより、よりカオスなリズムを作り出すようになった。

 

 

1990年代は、2000年代にラップトップでの音楽制作が一般的になっていくため、デジタルレコーディングのオリジナルダブの最後の世代に位置付けられる。これは、以降、自宅のような場所でもレコーディングシステムを構築することが可能になったためだ。1990年代のダンスミュージックとダブを結びつける試みは、イギリスで始まった。ジャマイカからのPAシステムの導入は、ジャングル、ドラムンベース等のジャンルに導入されていた。この時代は、ハウスミュージックは、シンプルな4つ打ちのビートから、より複雑なリズムを持つ構造性に変化していったが、言うまでもなくダブもその影響を免れるというわけにはいかなかった。

 

この動向は、Massive Attackに象徴づけられるイギリスのクラブミュージックの余波を受けたブリストルのグループにより”トリップ・ホップ”というジャンルに繋がっていく。Portisheadにせよ、Trickyにせよ、Massive Attackにせよ、ヒップホップからの引用もあるが、同時に彼らは遅めのBPMを好んで使用する傾向にあった。これは、このジャンルが比較的ゆったりとしたテンポで構成されるダンスフロアのクールダウンのような要素を持ち合わせていたことを象徴付ける。また、テクノとダブを結びつける動きもあり、ダブテクノというジャンルへと分岐していく。

 

この時期、ポピュラーミュージックを得意とするプロデューサーがダブのレコーディング技術を取り入れる場合もあった。マスタリング時に低音域の波形を徹底して持ち上げ、リズムを徹底して強調し、波形に特殊な音響効果を与えることで、渦巻くようなサイケデリックな音響を作り出すという手法は、ダブの制作における遊びの延長線上にあると言えるか。勿論、ジャマイカで始まったフィーチャーやリミックスという概念は現代の音楽業界の常識ともなっている。

 

1990年代には日本にもダブ音楽が輸入されるようになり、Dry& Heavy、Audio Activeというように、個性派のエレクトロニックアーティストを輩出する。彼らはミックスという観点からこれらの音楽にユニークな要素を及ぼし、日本のベースメントのクラブ音楽に良い刺激をもたらしている。

 

ミレニアム以降の年代は、WindowsやMacなどの一般家庭への普及もあってか、PC(ラップトップ)での個人的な音楽制作が一般的となったため、レコーディングシステムを所有していなくとも、ダブの制作のハードルはグッと下がった。


そして、これらの音楽は、よりワールドワイドな意味を持つに至り、イギリス以外のヨーロッパ各国でも親しまれる。しかし、アウトプットの手段が黄金期の1970年代から大きく変わったとはいえ、ダブの制作の醍醐味は現在でもそれほど大きく変わっていないようだ。ダブミュージックの面白さとは、”予期したものとは異なるフィードバックが得られる時”にある。換言すれば、制作者やプロデューサーが予め想像もしなかった奇異なサウンドが得られるとき快感がもたらされる。その意外性は制作者だけにかぎらず、リスナーにも少なからず驚きをもたらす。

 

ダブ音楽の本質にあるものとは何なのか。それは、1970年代以降、キング・ダビーとスクラッチ・ペリーが試行錯誤のプロセスで見出したように、遊び心満載で、サプライズに充ちた音楽性にあり、なおかつアートのイノベーションの瞬間に偶然立ち会える僥倖を意味しているのである。



ジョニー・キャッシュは不思議な魅力のあるシンガーであり、カントリー歌手の代表格としても知られるが、その音楽にはロックテイストが漂う。ハンク・ウィリアムス等の古典的なカントリーは少し苦手でも、キャッシュはかっこいいと言う人がいる。キャッシュは本質的にはアコースティックギターを使用したロックミュージシャンだったのではないだろうか。彼はエルヴィスの在籍したサン・レコードからデビュー、レッド・フォーリーと並んで戦後のカントリーミュージックのアイコンとなった。ある意味では、そのエルヴィスのように破天荒な生き方も、古典的なロックミュージシャンのイメージに近い。彼の生家はアーカンソーの綿畑の農家であり、貧しい農業コミュニティで育った。中期は、フランク・ザッパやリック・ルービンからの薫陶を受けたこともあり、必ずしも、カントリー・ウェスタンの形式にこだわらなかった。彼の音楽はむしろカントリーの先にあるロカビリーというスタイルを生み出すことになった。

 

 

多くの善良なアメリカ人と同じく、ジョニー・キャッシュの音楽的な概念の中にはキリスト教の題材がある。晩年、ジョニー・キャッシュの音楽は人間的な悲哀、道徳的な試練、贖罪をテーマに取ることが多かった。これらのテーマは20世紀の多くのヨーロッパのキリスト教圏で生活する文学者が題材にした。つまり、キリスト教における一神という存在と人間の存在がどのような関係性を持つのかについてである。それは形而下としての表現に至る場合もあれば、それとは正反対に、なんの変哲もない日常生活、あるいはカソリック的な概念から見た貞節と放埒というものまで実に広汎である。例えば、フランソワ・モーリヤックや北欧のノルウェーやスウェーデンの作家はほとんど、キリスト教的な試練を人生と結びつけ、それらを農民の生活や、それとは対極にある近代の都市生活、職業分化の生活と合わせて描いていたのだった。


多くのアメリカ人が戦前から戦後の時代にかけて、裕福になり、キリスト教の地域コミュニティが優勢になるにつれ、それとはまた異なる近代的な生活形態が出てきた。シンクレア・ルイスは「バビット」という著作のなかで、これらの経済的に裕福になり、フォードのような車に乗ることに夢中になり、しだいに軽薄な生活を送るようになるアメリカ人と、旧来のキリスト教社会に絡め取られる市民生活をコミカルに描いている。スタインベックの「怒りの葡萄」が取りざたされることが多いが、実はシンクレア・ルイスの小説の方が圧倒的な内容なのである。

 

ジョニー・キャッシュが見たアメリカの変遷というのも、これによく似たものであった可能性がある。彼は、アメリカの社会が戦前から戦後にかけてどのように移ろっていたのかをその目で捉え、そしてそれらをリアリティーのあるカントリー・ウェスタン、ロカビリー、あるいは純粋なロックとして昇華してきた。そして彼は純粋な音楽制作と並行し、自分の音楽が社会的な影響を及ぼすのかについても軽視することはなかった。”Man In Black"の代名詞に違わず、シンプルな黒服を着用し、急進的なイメージを掲げ、コンサートのMCでは自分の名を名乗るだけ、そして刑務所での無料コンサートを行ったり、慈善的な活動にも余念がなかったイメージ。彼の音楽の中には、ある意味では、古典的なスタイルのダンディズム、そして男らしさというのがある。それは低いロートーンのバリトンの声、そして徹底して脚色を嫌うというのが特徴だ。今ではジョニー・キャッシュのような姿は映画の中にしか見出すことが出来まい。


ジョニー・キャッシュは、ダイスという定住植民地の地域の綿畑農場で少年時代を過ごした。フランクリン・ルーズベルト大統領が制定したニューディール農業プログラムを活用し、キャッシュが3歳の時、彼らの一家はキングスランドからダイスへと転居した。キャッシュ一家は、五部屋の家に住まい、20エーカーを持つ農場で綿花や作物を収穫した。キャッシュはこの農家で15年の青春時代を過ごす。その間、家族が抱えていた負債は返済していく。しかし、財政難の生活は楽なものではない。キャッシュ一家の癒やしともなったのが、他でもない音楽だった。彼の母親は素晴らしい音楽のバックグランドを持っていた。賛美歌、プランテーションソングをキャッシュ少年は聴いた。カントリー、ブルース、そしてゴスペル。彼の生活には音楽がいつも流れていた。彼の母親は、夜に食卓の周りで歌ったのか、はたまた寝る前に子守唄代わりに賛美歌を歌ったのか。きわめて硬派な音楽であるにも関わらず、キャッシュの音楽に夢想的な音楽性が含まれているのは、彼の少年時代にその要因が求められるのかもしれない。

 

その後、ジョニー・キャッシュは日曜の教会に通い、ゴスペル音楽を吸収した。彼の母親はペンテコステ教会に属しており、また純粋なキリスト教信仰者でもあった。彼の母のキャリーはキャッシュに歌手としての才能を見込むと、実際にそれほど裕福とはいえないのに、お金をかき集め、彼にレッスンを受けさせた。最初の三度のレッスンで、彼の先生は歌に関しては何も教えることはないと言った。すでに12歳の頃に曲を書き始めていたキャッシュ少年はその後、ポピュラー音楽の薫陶を受ける。以後、ラジオから流れてくるカントリーミュージックが音楽的な啓示となる。カントリーウエスタンは、当時のポピュラー音楽であった。彼の家族はバッテリー式のラジオを家の中に置いていたが、キャッシュ少年はその不思議な箱から不思議な音楽が流れてくるのを耳にする。彼は若い時代を通じて、メンフィス、カーターファミリー、グランドールオープリー、それらの歌手のホスト役からカントリー音楽の薫陶を受けたのだ。

 

音楽というのは、そもそもその制作者が持つ最初の音楽体験と、それにまつわる思想形態が複雑に混ざり合う。それは記憶と概念の融合でもある。ジョニー・キャッシュのいちばんはじめの体験は、カントリー・ミュージックの素朴さと黒人霊歌の持つバックグラウンドの深さ、そしてそれはそのままアメリカという国家の歴史的な背景の重みでもあった。彼はテネシー・ワルツやそれとは対極にある宗教音楽としてのゴスペル、あるいはその中に含まれるキリスト教的な概念、そういったものに触発され、あるいは薫陶を受け、最初の音楽的な土壌を精神的に培っていったのだ。もうひとつのダンディズムや映画俳優のような硬派な歌手のイメージはその後の軍隊生活を送った期間に培われた。音楽活動のはじまりとして、アーカンソー州のブライスビルの高校集会でライブパフォーマンスの経験を積む。

 

高校の卒業後、彼はミシガンのボンティアックで短期間の労働を経た。彼は自動車工場で車のボディの組み立てをした。ブルーワーカーの肉体的な強靭さはすでに若い時代の農場で培われていた。その夏、彼は米軍に入隊する。John R Cashとして空軍に所属し、サンアントニオのラックランド空軍基地の訓練兵として派遣される。そこで、将来の妻、ビビアン・リベルトと運命的な出会いを果たす。空軍での四年をドイツのランツベルクで過ごしたこともあった。彼は無線の迎撃官、ソ連の無線トラックの盗聴等あらゆる米軍の任務を忠実に遂行したのだった。

 

 

これらの時代において、キャッシュはのちにサン・レコードからリリースする「フォルサム・プリズン・ブルース」、「ヘイ・ポーター」を作曲している。彼は、このドイツの時代に、空軍の仲間とバンドを結成し、ランズバーグ・バーバリアンとして活動している。ジョニー・キャッシュは、後にこのドイツの時代をドイツビールにかこつけて、少しジョーク交じりに回想している。「わたしたちの演奏はひどかった」と。「楽器をホンキートンクにもっていって、観客がわたしたちを追い出すか、それか、戦いがはじまるまで演奏を続けていたんだ」

 

1954年、キャッシュは空軍を退いた後、なんと家電のセールスマンへと転職する。空軍での肉体的なタフネスを身につけた後のセールスマンとしてのキャッシュの来歴は、音楽業界で生き残るための強かさを与えた。彼はメンフィスに定住し、ルーサー・パーキンス、マーシャル・グラントとギター、ウッドベースのバンドを結成し、教会や地元のラジオ局でライブ演奏を行う。キャッシュはこの頃、ドイツで購入した安い5ドルのギターを手に演奏した。最初の本格的なバンド活動は、ゴスペルに合わせて、カントリーウエスタンのスタイルを探求する契機となった。同じバンドにいたマーシャル・グラントはのちに2006年の自叙伝で、キャッシュのボーカルについて回想している。「彼はスタンダードな歌手であり、さほど素晴らしい歌手ではなかった」「しかし、不思議なことにその頃から彼の声には力強さと存在感があったのです」

 

 

1955年前後はエルヴィス・プレスリーがサン・レコードから登場し、ロック・ミュージックの誕生した記念すべき時代でもある。いわば、それ以前のブルース、ソウル、カントリー・ウェスタン等旧来の音楽が古典的なものに切り替わりつつある時代に、キャッシュは音楽シーンに登場している。つまりキャッシュは、急進的なイメージを持って登場したプレスリーとは異なり、古い時代の音楽とそれ以後の時代の音楽の橋渡し役としてシーンに現れた。当時、メンフィスのエルヴィスは、最初のレコードをリリースし、すでにローカルなヒーローとなりつつあったが、この最初の現象は彼のプロデューサーであるサム・フィリップスに対する世間的な関心を引き起こした。キャッシュの脳裏にあったのは、自分のレコードを出したいという思いと、もしかするとエルヴィスのようなローカルスターになれるかもしれないという切望だった。その年の後半、キャッシュはパーキンスとマーシャル・グラントを引き連れ、なんとサン・レコードのオフィスを連絡もとらずに訪れ、そしてサム・フィリップスのオーディションを受けた。フィリップスは、ジョニー・キャッシュのバンドの曲が好きだったというが、市場がロックへと移行しつつあるのを鑑みて、ゴスペルの選択はベストではないと考えた。サム・フィリップスはジョニー・キャッシュにオリジナルの曲を書いてまた戻ってくるように伝えた。

 

トリオはサム・フィリップスの助言を忠実に遂行する力があった。ジョニー・キャッシュによって書かれた「ヘイ・ポーター」の制作に取り掛かり、最初のサン・セッションを無事に終えたのだった。フィリップスはこの曲とフォローアップ曲「Cry, Cry, Cry」を痛く気に入り、ようやく彼はトリオとの契約にサインする。サン・レコードの契約名義は、Johnny Cash& Tennesse Twoだった。ヒット作請負人ともいえるフィリップスの見込みは大当たりだった。1955年にリリースされたジョニー・キャッシュの最初のシングル「Hey Porter」は圏外だったが、2ndシングル「Cry, Cry, Cry」はビルボードチャートで14位にランクインした。

 

サン・レコードからデビューした当初のジョニー・キャッシュ・バンドの快進撃は留まることを知らなかった。 「So Doggone Lonesome」「Folsom Prison Blues」等ヒット・ソングが続いた。キャッシュの最初の大きな成功が舞い込んできたのは、それから二年後の1956年のことだった。「I Walk The Line」はカントリー・ミュージックチャートで一位を獲得し、200万枚を売り上げた。シングルリリースとしては驚異的な数字であり、彼の人気の凄さがうかがえる。

 

 

「I Walk The Line」

 

 

 

 

音楽的な成功を手にしたジョニー・キャッシュは私生活での幸福にも恵まれた。後にグラミー賞を受賞するカントリー歌手、ジューン・カーターと結婚したキャッシュは、四人の子供に恵まれた。おそらくこれらの幸福な期間は数年は間違いなく続いたのだった。しかし、1960年代頃、プロミュージシャンとしての過密なスケジュールに加え、商業的な音楽の成功へのプレッシャーは計り知れないほど大きくなっていた。プロミュージシャンと家庭生活のバランス感覚を失ったキャッシュは、しだいに家庭内で威圧的な態度を取るようになっていった。その間、彼は家族とともに気分を変えるために、カルフォルニアに引っ越し、そしてグループとしても年間300日もの外泊をすることを余儀なくされた。彼と家庭との間に何が起きたのか。少なくともこの時代のことについては晩年の贖罪というテーマにも繋がってくる。キャッシュは家庭内の不和により、徐々に薬物やアルコールに依存しはじめた。こういった生活が数年続いた後、夫の不在に不満を抱くようになったカーターはついに二年後の1966年に離婚を決意する。当時のことについて、キャッシュは、「私は、飲むべきすべてのドラッグを飲んでいた」と振り返っている。「私が150ポンドもの距離を歩いたため、乗り越えたといった。その頃の私は歩く死のようだった」

 

 

そんなキャッシュに復活のチャンスが訪れた。彼はボブ・ディラン、ルイ・アームストロングまで当時の流行のミュージシャンを紹介するテレビバレエティ番組「ジョニー・キャッシュ・ショー」の司会に抜擢される。また彼はそれ以前の時代の反映を踏まえて、音楽活動と並行してより啓発的な活動に取り組むようになった。彼は多くの社会問題を定期するフォーラムを提供したり、ベトナム戦争から刑務所の環境改革、そして、ネイティブ・アメリカンの権利に至るまで多角的な議論の場を提供した。この時代、ジョニー・キャッシュが取り組んだのはアメリカの社会を善良な視点から捉え、それらの現実的な解決策を用意するように、対外的に働きかけるという内容であった。テレビ番組での司会と合わせて、キャッシュはフォルサム刑務所でのライブ・アルバムとしてリリースした。

 

 

この1968年のアルバムでキャッシュはグラミー賞を獲得するが、作品自体は批判と称賛の双方を巻き起こした。しかし、少なくともこのアルバムは商業的な成功に見舞われ、彼の人気を復活させる要因となったと言われている。その後も、キャッシュは立て続けにヒットシングルを連発した。

 

「A Thing Called Love」(1972)、「One Piece at a Time」(1976)である。ミュージシャンとしての着実な成功を手にする傍ら、彼は活動の領域を制限することはなかった。「Gunfight」(1970)で映画俳優として出演、さらには「Little Fauss and Big Halsy」(1970)のオリジナルサウンドトラックを手掛け、映画音楽の作曲も手掛けた。

 

また執筆活動も行うようになり、その中にはベストセラーとなった自伝「Man In Black」を出版した。その中で文化的な功労者としてのイメージも高まり、1980年代にはカントリー・ミュージックの殿堂入りを果たした。キャッシュはその後も、さまざまな活動を行うように鳴り、バンドでの活動と合わせてコラボレーションや他のプロジェクトに取り組むこともあった。ジェリー・リー・ルイス、ロイ・オービンソンとのバンド活動や、一般的な人気を獲得した「The Class of '55」をレコーディングした。また、クリス・クリストファーソン、ウィリー・ネルソン、ウェイロン・ジェニングスとハイウェイマンを結成し、1985年から1995年にかけてスタジオアルバムを三枚リリースしている。有名なロックアーティストとのコラボも行い、1990年代には、U2とスタジオ制作を行い、1993年の「Zooropa」に収録されているトラックに参加している。これほど広汎な活動を長期間に渉って続けたアーティストというのは他に類を見ないほどである。

 

その後、キャッシュは健康問題を抱えるようになり、心臓バイパス手術の治療を受けながらも、音楽活動を断念することはなかった。これほどまでに彼を音楽に駆り立てた理由はなんだったのだろうか。1992年にロックの殿堂入りを果たした後、1994年にはリック・ルービンと組んで、「American Recordings」を発表した。このアルバムでは古典的なフォークバラードと現代のプロダクションを融合させ、彼の音楽がまだ色褪せていないことを証明した。このアルバムは、1995年のグラミー賞最優秀コンテンポラリーフォークアルバムを獲得している。その時のキャッシュの60過ぎという年齢を見るとほとんどこれは驚異的なことである。また同時の執筆活動も継続させ、1997年には二度目の回顧録「Cash: Autobiography」を出版した。やはりその後、神経疾患により入退院を繰り返した後、2000年代に入っても音楽を制作し続けた。ビートルズからナイン・インチ・ネイルズのオリジナルカバーとミックスを収録した「American Ⅳ・The Man Comes Around」を発表した。NINのトレント・レズナーは当初、それほどこのカバーに積極的ではなかったというが、最終的にはジョニー・キャッシュの熱い思いに降参した。「それは温かい抱擁のように感じた。私はそれについて考えると鳥肌が立つようでした」




ゴスペルやカントリーに始まり、そしてロックへと変遷していったジョニー・キャッシュの人生はその自伝を当たってみるの一番だ。しかし、彼は音楽の伝道師であり、その歌声を通じてさまざまな人々に感動をもたらし、そして音楽的な啓示を与えてきた。アーカンソーの農場で始まり、そして、12歳のときに作曲を始め、軍隊への入隊、そして、エルヴィスと並んでロックのヒーローでもあり続けた。もちろん、彼の音楽に対する欲求や創作意欲は晩年になっても薄れるどころか、強まる一方だった。ジョニー・キャッシュの音楽とは、彼が見たアメリカの時代の変遷の記録なのであり、また、その国家の歩みを音楽やアーカイブという形に留めるということである。

 

最後のアルバム「American Ⅴ」の録音に協力したリック・ルービン。そして、その傍らにいたであろうキャッシュの脳裏にはさまざまな光景がよぎる。アーカンソーの農場の生活が途絶え、グラミーの華やかな世界に変わる。ステージでカントリーとロックを歌う自分の姿、妻との離婚、必ずしも良い夫ではなかったこと。刑務所での慈善コンサート、また、彼自身も麻薬問題により人生の中で複雑な暮らしを送ったこと。贖罪の思いに駆られる。原初的なキリスト教の教えは、最終的にロック、カントリーと同時に、同じような弱い境遇にある人々に対する讃歌へと変わる。幼き日に歌ってくれた母の賛美歌。そして、教会で聴いた聖歌が脳裏からうっすらと遠ざかっていった。

 

2003年にジョニー・キャッシュの死の傍らにいた名プロデューサー、リック・ルービンは次のように回想している。「6月がすぎても、彼は何かを記録するのに充分なくらい生きる気力を持っていました。しかし、生きるのに精一杯だったのです」とリック・ルービンは言った。「6月が過ぎた明くる日、彼はこんなことを言いました。私は毎日何かをする必要があるって」ルービンは言った。「もし、そうでなければ、私がここにいる理由などないのですから」

・チャック・ベリーと1955年以降の数年間 クロスオーバーの流れを作る



 

ロック・ミュージックの成立に関しては、どちら側の観点からその音楽を検討するかによって変化してくる。例えば、エルヴィス・プレスリーのようなミュージシャンを思い浮かべる人ならば、ロックはカントリーやウェスタンの延長線上にある音楽と言うかもしれない。それとは正反対に、リトル・リチャードやチャック・ベリーを最初のロックのアイコンとして見るなら、当然、ゴスペル、ブルース、ロカビリー、ドゥワップの以降の音楽、及び、ブラックミュージックの重要な定義である”ダンスカルチャーの中に組み込まれた音楽、及びその文化形態”と言うはずなのだ。

 

この場合はロックではなくて、厳密に''ロックンロール''という今や廃れかけた言葉を使用する必要があるかもしれない。ロールというのは”転がす”の意味で、つまり、2ビートの音楽の原始的なスタイルを示すと同時に、ダンスカルチャーの一形態のことを示唆しているのである。そして、もし、エルヴィス・プレスリーをロックの先駆者として解釈するならば、当然、SUNレーベルのリリースやヒット・ソング、チャートの推移データを検討する必要がある。もしエルヴィスから話を広げる場合は、音楽ビジネスや業界の形態の動向を度外視することは出来ない。

 

他方、もし、チャック・ベリーをロックの先駆者としてみるなら、彼の全盛期である1955年からの数年間の軌跡を追っていく必要がある。しかし、ロックが白人音楽のものなのか、それとも黒人音楽のものなのかというのは、ナーバスな問いで、いつまで経っても結論が出そうもない。これはバスケットボールとベースボールのどちらが凄いかという無益な論争にもよく似ている。どちらも凄いで良いのではないだろうか。少なくとも、ロックはどちらの音楽でもあるというのが著者の拙い私見なのである。

 

音楽のセンセーショナル性やスター性では、リトル・リチャードやプレスリーに軍配が上がるに違いない。しかし、私自身がチャック・ベリーがロックミュージックを概観する上で重要視したいのは、彼の音楽がロックの基本的なスタイルや素地を作ったからなのではなく、単純に彼が前の時代のマディー・ウォーターズからギターの演奏の薫陶を受けており、ベリーがモンゴメリーのような優れたプレイヤーだからである。そしてベリーの音楽は、ブラックミュージックとしてもクールだ。それはなぜなのか? それは彼がマディー・ウォーターズのバックバンドで演奏した経歴があり、いわゆるサポート・メンバーからスターダムへとのし上がった人物だからである。そして彼のロックの系譜の中には、やはりブルースの泥臭さがあるというべきなのだ。

 

チャック・ベリーは一貫して、ギタープレイヤーとして、シカゴのブルースマンや、それ以前のブルージャズのギタリストに習って、ギブソンの大型のカスタムギターを使用してきた。これは晩年になっても不変だったはずである。少なくとも、ベリーの頭の中には自分が単なるロックで終わったミュージシャンではなく、普遍的なジャズギタリストやブルースマンと同じように”時代に古びないプレイヤー”として見てもらいたいという思いがあったのではなかったか。

 

 

 

 チャック・ベリーの軌跡

 

 1928年10月18日、チャック・ベリー「本名: チャールズ・エドワード・アンダーソン・ベリー)は、カルフォルニアのサンホセに生まれたとされている。

 

ただし、これは俗説に過ぎず、 セントルイスの出身という説もある。すくなくとも、ベリーは幼年時代にミズーリ州に移り、そして少年時代を過ごしたと言われている。

 

ギターを演奏するようになったのは、中学時代で、卒業後、紆余曲折を経験し、ミュージシャンを志すようになった。彼はその後、当時、ブルースの聖地であったシカゴへ向かい、マディー・ウォーターズと出会った。その後、ベリーはウォーターズのバックバンドで演奏をはじめた。これがチャック・ベリーのプロミュージシャンとしての出発だった。そしてシカゴの名門のブルースレーベル、CHESSのオーディションを受け合格。チャック・ベリーはソロアーティストとしての契約にこぎ着けたのだった。

 

チャック・ベリーは、その後の2年間で驚くべき多作ぶりを見せている。1955年8月20日にはデビュー・シングル「Maybellene / Wee Wee Hours」 を発表した。この曲はベリーにとって最初のチェスレコードの録音だったが、驚くべきエフェクトを音楽業界に及ぼしている。そして彼の音楽はポップとして受けいれられることになった。いきなり、全米ポップチャートの五位にランクインし、チェック・ベリーという代名詞を広める要因ともなったのである。また同年、ベリーは同じくシングル「Thirty Days/Together」を発表した。惜しくもこのシングルは、ヒット作とはならなかったが、少なくとも、彼の知名度を上昇させる要因となったと見て良さそうである。

 

1955年は音楽評論の観点から言うと、ロックンロールが始まった年と言われることが多い。例えば、アメリカでエルヴィスがSUNレーベルに所属していた時代で、まだこの頃にはロックブームははじまっていない。もちろん、全米を代表するようなスターは誕生していない。さらに、厳密にいえば、のちのクロスオーバー現象もまだ起こってはいなかった。最初のブームが起きたのは、エルヴィスがRCAと契約した翌年であると言われている。ただ、この頃のチャック・ベリーの音楽は、まだ以降のような洗練されたスタイルと言い難かった。つまり、彼の音楽は、2ビートのシャッフルが基本であり、ロカビリーの延長線上にあったのである。そしてロカビリーは、カントリー/ウェスタンが派生したものであるというのが一般的な説である。つまり、ロックの最初は、ロカビリーをどのようにして次のモダンなスタイルに繋げていくのかがミュージシャンの間での論点だったわけだ。サム・フィリップスをはじめとするSUNのブレインは白人側からこの点に着目し、ベリーは黒人側からこの点を注目していたのだった。

 

ロカビリーというジャンルは、現在ではパンクと融合して”パンカビリー”というジャンルに転訛している。歌詞にも、現代に通じる特徴があり、ごく普通に現代のラップのようなスラングを使用していたという。その中には、少し際どい表現もあり、セクシャルな表現も散りばめられていた。ところが、ベリーはその限りではなかった。彼はどちらかといえば、十代の青春や純粋さを歌ったエバーグリーンな表現をロック・ミュージックに乗せて情熱的に歌ったのである。彼の歌詞のテーマは現代のラップミュージックにも近いもので、思春期の悩み、欲望等をストレートに表現していた。

 

 

・ロックンロールの最盛期

 

1956年に入ると、ロックンロールはアメリカで全国的な人気を獲得するようになった。その流れに乗って、チャック・ベリーはこの一年間で四作ものシングルを発表している。そのなかで彼のヒット作も誕生した。


「No Money Down / Download Train」、「Roll Over Beethoven/ Drifting Heart」、「Too Much Monkey Business/ Brown Eyed Handsome Man」、「You Can't Catch Me/Havana Moon」である。

 

これらのタイトルはカントリーのようなタイトルもあるが、「Roll Over Beethoven」、「Too Much Monkey Business」のような以降のクラシックなロックのヒントになり、ウィットに富んだタイトルがある。

 

このなかで、6月30日に発売された「Roll Over Beethoven」はチャック・ベリーの代表曲であり、以後のロックのクラシックとなるが、実際は、商業的にはいまいち成功していない。このシングルは発売当初、全米チャート29位に一週間だけランクインしただけにとどまった。後にヤードバーズやホリーズがカバーした「Too Much Monkey Business」はチャートインすらしていない。いわばミュージシャンズ・ミュージシャンの代表作にみなされている曲である。

 

1956年は、エルヴィスがRCAとサインし、ローカルなロカビリースターとして名を馳せた年だった。むしろチャック・ベリーのような黒人のロックミュージシャンは、チャートや商業主義とは別軸にあるロックブームの基礎をリリースと合わせて着実に積み重ねていった印象がある。


特に、この年代のベリーの音楽的な功績には注目すべき点がある。ブルース/R&Bを白人のウェスタン・スイングのリズムと掛け合わせ、さらに以降のロックの重要なリズムとなる4ビートと重ね合わせ、最終的にギターソロの原型をその中に付与することになった。これは間違いなく、彼がシカゴのブルースシーンのバックバンドで活躍していたのが理由で、セッションとしてのソロが後のロックやメタル、ハードロックの布石となったことは想像に難くない。 また、ベリーの歌詞にも、個性的な特徴がある。彼はオリジナルソングに、のちのラップに見受けられる韻を率先して取り入れたりと、人種的な枠組みにとらわれない自由な歌詞や歌の表現方法を模索していたのである。

 

 

1957年、 ロックはついに最大のムーブメントと目されるようになった。この年、ベリーは三作のシングルを発表している。「School Days/ Deep Feeling」、「Oh ,Baby Doll /Oh, Juanda」という青春やナーバスなラブソング、そして「Rock’N' Roll Music /Blue Feeeling」というブルースの後の時代にこの音楽を位置づける彼の考えが反映されたものまである。そしてチャック・ベリーは、この年、音楽映画にも俳優として出演を果たし、まさにロックブームの人気に一役買った。


ロックミュージックは文字通り、最盛期を迎えるが、これが保守層の反感を買ったのは周知の通りである。特にロックンロールは、のちのビートルズが登場した時代のような感じで、”不良性を誘発する”とされ、ポピュラーシーンから締め出しを食らうことになった。先鋭的なものや前衛的なものが受け入れられるまでには、それ相応の時間を必要とするのである。

 

エルヴィスがテレビ出演を果たすと、88%の視聴率を獲得し、彼は押しもおされぬスターへと上り詰める。しかし、純粋な音楽的な価値は大きく変わらないにもかかわらず、チャック・ベリーはこれ以降の年代に受難の時を迎える。ちょうどこの年から黒人排斥運動が沸き起こった。つまり、彼のようなロックは保守層からの反発を受け、「黒人音楽が白人文化を堕落させる」というのが社会的なコモンセンスとなったのである。 ここには、音楽が、政治や社会以上の影響力を持つようになることへの社会的な恐れが反映されている。これもまたレノンがプレスに対して過激な発言を行い、ボイコットを受けた時代のエピソードと重なるものがある。そしてこれは、見方を変えると、チャック・ベリーをはじめとする黒人音楽が、ひとつの社会現象のようになりつつあり、それが保守層の反感を呼び、排斥運動に繋がっていったとも解釈出来る。

 

 

・ロックミュージックの2年のブームの終焉 クロスオーバーへの流れ

 

 




こういった流れのなかで、チャック・ベリーはヒットソングに恵まれなかった。58年と翌年の2年間にかけて、彼は以前と変わらぬ多作ぶりを見せ、実に10枚ものシングルを発表している。

 

ポップチャートの上位には白人のスウィートなポップスが独占することになり、本格派ミュージシャンとしてのベリーの音楽は本物であるがゆえに受け入れられがたかったのか。しかし、この2年の間において、のちのロックの定番曲「Johhny B Goode」が全米チャートの5位を記録し、他にも「Sweet Little Sixteen」が2位を記録しているのはさすがと言えるだろう。他にもこの時代、チャック・ベリーは同じく定番曲「Back In The U.S.A」をリリースしている。 


評論筋によると、チャートでは最大の成功を収めたとはいいがたいが、この2年間はチャック・ベリーの代名詞的な曲が多く、この時代にこそ、彼の音楽の独自の世界観を形成したとみなされているようだ。そして、1950年代後半に差し掛かると、最初のロックブームは終焉を迎え、以降のT-RexやNew Yorlk Dolls、あるいはデヴィッド・ボウイのような最初期のグラムロック/グリッターロック、及び、Mott The HoopleやKinksのようなハードロックの元祖ともいうべき原初的なハードロックシーンへと受け継がれていくことになった。


一般的には、チャック・ベリーの伝説もこの2年の後、ロックブームの鎮火とともに1958年から以前のような切れ味が見られなくなった。そしてスキャンダルに見舞われ、女性との揉め事によりムショ暮らしを強いられる。同時に同じく、ロック・ミュージックの代名詞的な存在であるリトル・リチャードもまた”ゴスペル宣言”を行い、異なる音楽へシフトチェンジを図る。唯一、この年代で活躍したBo Diddley(ボ・ディドリー)にしても、彼独自のビートがあったが、どちらかと言えば、古典的なR&Bの流れに組み込まれていくことになった。同年代から、プラターズを始めとするいわゆるコーラス・グループやドゥワップの一派が登場したことにより、ブラックミュージックとしてのロックンロールは、わずか2年でその役割を終えることになった。


その後のポップ・ミュージックの動向は上記の人種間の音楽的な性差が薄くなり、俗に言うクロスオーバーという考えが出てくる。以降の年代には、ストーンズのリチャーズがブルースやブギーからの音楽的な影響を掲げたり、エリック・クラプトンがブルースへの回帰を果たしたり、あるいはボウイがソウルや古典的なR&Bをポップの文脈の中に取り入れたりという流れが起こった。

 

音楽のクロスオーバーという考えは1960年代に始まり、それ以降の20年、もしかすると30年のポピュラー音楽を象徴づけることになったが、それと同時に弊害もあった。音楽が作品のクオリティによって評価づけられるようになったのだ。この60年代に起きたのは”評価概念の平均化”であり、その考えを基底に音楽も制作されるようになっていったのである。そして現代の音楽業界にいたっても、それはストリーミング再生数という指標に取って代えられたに過ぎない。


チャック・ベリーについては、60年代以降の作品に関しては一般的な評価はそれほど芳しくない。しかし、それはもしかすると、以降の評価概念の平均化という考えに彼の音楽がそぐわなかっただけなのかもしれず、カタログの中にはもしかすると、時代に古びない普遍的なものが残されている可能性もある。60年代以降のベリーの作品もあらためて再検討する必要がありそうだ。

 


 

1950年代、ビック・スリーと呼ばれる、ジェイムス・ブラウン、ジャッキー・ウイルソン、サム・クックが登場した後、新しいタイプのR&Bシンガーが登場した。ニューヨーク、ニューオーリンズ、ロサンゼルスを舞台に多数のシンガーが台頭する。ファッツ・ドミノ、ルース・ブラウン、ファイブ・キーズ、クローヴァーズがその代表格に挙げられる。この時代は、ビック・スリーを筆頭に、必ずといっていいほど、ゴスペル音楽をルーツに持っているシンガーばかりである。


近年、ヒップホップを中心に、ゴスペル音楽を現代的なサウンドの中に取り入れるようになったのは、考え方によっては、ブラックミュージックのルーツへの回帰の意味が込められている。そしてこの動向が、2020年代のトレンドとなってもそれほど不思議ではないように思える。

 

そもそも、「R&B(リズム&ブルース)」というのは、ビルボードが最初に命名したもので、「リズム性が強いブルース」という原義があり、第二次世界大戦後すぐに生まれた。その後、ソウルミュージックというワードが一般的に浸透していき、60−70年代の「R&B」を示す言葉として使用されるようになった。しかしながら、この年代の前には、R&Bではなく、「レイス・レコード」、「レイス・レーベル」という呼称が使われていたという。これはなぜかというと、戦前のコロンビアやRCA、ブルーバード、デッカなどのレーベルは、白人音楽と黒人音楽を並行してリリースしており、作品を規格番号で区別する必要があったからである。レーベルのカタログから「レイス・シリーズ」というのも登場した。現在の感覚から見ると、レイシズムに根ざした言葉ではあるが、コロンビア、RCAの両社は、戦後もしばらくこの方針を継続していた。

 

その後、1970年代に入ると、一般的に見ると、ブラック・ミュージックは商業化されていき、R&Bシンガーは軒並み大手のメジャー・レーベルと契約するようになる。 80年代になると、MTVやメディアの台頭により、ブラック・ミュージックの商業化に拍車がかかり、この音楽全体が商業化されていったという印象がある。しかし、それ以前の時代に、ブラックミュージック全体の普及に貢献したのは、全米各地に無数に点在するインディペンデント・レーベルであったのだ。

 

多くはメジャーレーベルの傘下という形であった。しかし独立したセクションを持つということは、比較的、攻めのリリースを行うことが出来、同時に、採算を度外視した趣味的なリリースを行えるというメリットがある。そして意外にも利益率を第二義に置くレーベルのリリースが主流になった時に、それが初めてひとつのムーブメントの形になる。メジャーレーベルではなく、独立レーベルがカルチャーを一般的に浸透させていったという点については、ヒップホップのミックステープやカセットテープのリリースと重なるものがある。

 

1950年代には、全米各地に無数の独立レーベルが誕生し、ブラックミュージックのリスニングの浸透に一役買った。R&Bの独立レーベルの動きは、実は最初に西海岸で発生した。モダン/RPM,スペシャルティ、インペリアル、アラディンは、この年代の最も有力なレーベルである。他にも、エクスクルーシブ、クラス、フラッシュなど無数の独立レーベルが乱立していった。

 

一方、東海岸でも同様の動きが湧き起こった。アトランティック・レコードがその先陣を切り、アトコ、コティリオンが続いた。 さらにメジャー傘下には無数のレーベルが設立された。サヴォイ、アポロ、ジュビリー、ヘラルド/エムバー、ラマ/ジー/ルーレット、レッド・ロビン/フュリーなど、マニアックなレーベルが登場した。続いて、シカゴでも同様の動きが起こり、前身のレーベル、アリストクラットに続いて、有名なチェス/チェッカー/アーゴが登場。リトル・リチャードでお馴染みのレーベルで、ロックンロールの普及に貢献した。

 

以上のレーベルは、音楽産業の盛んな地域で設立されたが、特筆すべきは、他地域でも同じようなブラックミュージックのレーベルが立ち上げられたこと。オハイオ/メンフィスでも有力なレーベルが登場した。特にオハイオのキング、メンフィスのサンは、R&Bファンであれば避けては通れない。その他、メンフィスといったレーベル、スタックス/ヴォルト、ハイが続いた。テキサス/ヒューストンでも同様に、デューク/ピーコックが設立、ナッシュビルでは、ナッシュボロ/エクセロなどが登場する。まさにR&Bの群雄割拠といった感じだ。

 

これらのレーベルは、新しいタイプのR&Bもリリースしたが、同時にそれ以前のゴスペル的な音楽やブルースの作品もリリースしている。この点については、それ以後と、以前の時代のブラック・ミュージックの流れを繋げるような役割を果たしたと見るべきかも知れない。

 

60年代に入ると、デトロイトからモータウンが登場し、のちのブラックミュージックの商業化への布石を作った。それ以降も独立レーベルの設立の動きは各地で続き、フィラデルフィア・インターナショナル、ニューヨークのカサブランカ、ニュージャージーのシュガー・ヒルといったレーベルが設立された。


70年代に入ると、ソウルミュージックをメジャーレーベルが牽引する。しかし、これは独立レーベルによる地道な普及活動が後に花開き、ジャクソン5、ライオネル・リッチー、マーヴィン・ゲイ、フランクリン、チャカ・カーンといった大御所のスターの登場への下地を作り上げていったことは言及しておくべきだろうか。


 

 多くのアーティストや音楽ファンにとって、ドルビーの没入型オーディオフォーマットは、ポッドキャスティングと同様、現代の音楽システムに必要不可欠なものとなっています。そして今、主要アーティストのリリースにより、ストリーミング時代におけるDolby Atmosの大きな可能性が見出され、このシステムはより広範囲に採用されつつあるのが現状です。では、Dolby Atmosとは一体何なのでしょう?

 

 ”イマーシブオーディオフォーマット”という言葉は一般の方には聞き慣れないかもしれません。これはアーティストが自分のビジョンを実現する音楽を作るための重要な機会を提供する、サウンドシステムの新たな構築方法の一つ。”Immersive”というのは、「没入感」という意味で、つまり「イマーシブ・オーディオ」とは「没入感の高いオーディオ」。一般的には、多くのスピーカーを配置し、ヘッドフォンの再生でも特殊な処理を行い、360度、全方位から音が聞こえるコンテンツを「イマーシブ・オーディオ」と呼びます。「立体音響」「3Dサラウンド」「Spacial Audio」など様々な呼称がありますが、基本的に全て同義語と考えて間違いないです。
 
 

 「イマーシブ・オーディオ」が、「立体音響」「3Dサラウンド」と呼ばれるケースがあるということは、つまり、「イマーシブ・オーディオ」とは、従来の「サラウンド」の一手法ということもできるでしょう。従来の「サラウンド」というと、5.1や7.1といった平面にスピーカーを配置した「2Dサラウンド」でしたが、「イマーシブ・オーディオ」すなわち「3Dサラウンド」は、上部にもスピーカーを配置し、空間に半球面や全球面を表現する立体的なサラウンド手法となります。

 

 180度の音響に限られていた従来のステレオシステムから360度から音響を楽しめるサラウンドシステムへの移行は、各々の家庭でも映画館のような豊潤な音響をお手軽に楽しめるようになりました。しかし、このサラウンドシステムは、音楽や映像の製作者の間ではお馴染みものでしたが、ひとつ難点を挙げると、どうしてもオーディオファイルとして書き出す際、ステレオ化してしまうということでした。しかし、近年、このドルビー・システムがアップル・ミュージックをはじめとするオーディオプラットフォームに取り入れられたことにより、リスナーは製作者が音源作製時に聴いているものとほとんど同じか、それに近い素晴らしい音質で音楽を聴くことが出来るようになったのです。

 

 近年、サブスクリプリョンでも導入されつつある、 Dolby Atmos Musicでは、ステレオでは不可能な3次元の音響空間に、個々のオーディオやオブジェクトを自由自在に配置することができる。さらに、ドルビー・アトモスのシステムは、4方向のスピーカーの機能を持つ5.1時代のサラウンドシステムの音響を可能性を押し広げ、より多くの音を鮮明に聞き取ることが出来るようになりました。ドルビー・アトモスの特性は、空間の天井の反響により、それまでの平面的な音響性を、球体の音響性へと拡張することにある。この革新性によって、音を聴いている場所から再生された音の波形は、聞き手のいる空間に届くまでに立体的な球体のような図形を描く。言い換えれば、このフォーマットが広まったことで、ファンはスタジオでアーティストのオリジナルなビジョンに合致した、これまでになくクリアな音で音楽を聴くことを可能にしたのです。


 ドルビー・アトモスのシステムは、何も音楽の需要者であるリスナーだけに利便性をもたらしたというわけではありません。音楽の供給者であるアーティストやプロデューサーにとってもこのシステムは比較的手軽に導入出来ます。例えば、一般的に親しまれているレコーディング・ソフトウェア、Logic Pro、ProTools、Nuendoなど、同じレコーディングのツールで動作するので、Dolby Atmosでの制作の利用自体はそれほどハードルが高くありません。つまり、アーティストは自分のレコーディングシステムを、共同制作者と簡単に共有できるほか、一度そのシステムを導入すれば、将来まで維持することが出来ると言う利点があるわけです。

 

 

 実際、ドルビーアトモスの録音システムは、著名なレコーディングスタジオに導入されはじめています。中でも、ロンドンの伝説的なレコーディングスタジオであるアビーロード、イーストコート、ディーンストリートは、プロデューサーとアーティストのために最先端のDolby Atmosミキシング施設を備え、サラウンド・サウンドの革命に貢献した。ポーキュパイン・ツリーのスティーブン・ウィルソンやマックス・リヒターなどの著名なアーティストは、自身のプロジェクトを通じて没入型オーディオ・フォーマットの威力を既に実感しています。

 

アビーロードスタジオのドルビーアトモスの導入事例

 また、このシステムは既存作品のリイシューの際に有効的に活用されています。以前にはステレオの指向性しか持たなかった録音に多くの指向性を与えることで、オリジナル作品よりも鮮明な音質を実現しています。ドルビーシステムが最初に業界内に浸透したのは、2017年に発表されたREMの『Automatic For The People』のリイシュー(再編集)でした。このオーディオ・フォーマットを発表して以来、ドルビーアトモスは音楽業界全体で受け入れられるようになったのです。

 

 プロデューサーのジャイルズ・マーティンによる新しいアトモス・ミックスでのビートルズの『リボルバー』をはじめとするクラシック・カタログだけでなく、数カ月のこのフォーマットでの主要リリースにはロビー・ウィリアムスの『No.1 XXV』、イージー・ライフの『Maybe In Another Life』、ホット・チップの『Freakout Release』等が含まれています。また、現在のダンスミュージックブームにより、Apple Musicのカタログをドルビーアトモスで聴くことができるようになった。


 Dolby Atmos Musicによって、アーティストは音楽をキャプチャし、個々のタイプのデバイスで可能な限り最高のリスニング体験を提供するため、拡張性のある完全没入型ミックスを作成出来る。つまりリスナーは、このシステムの導入により、意図されたとおりの音楽、製作者がレコーディングの際に聴いている音と同じクオリティーを楽しむことできるようになったのです。



 それでは、このドルビー・アトモスに関して、実際の音楽制作者はどのように考えているのでしょうか?

 

 例えば、U2やトーキング・ヘッズの名作を手掛けた伝説的なプロデューサー、そしてロキシー・ミュージックにキーボード奏者として在籍し、ソロ転向後にはハロルド・バッドやジョン・ハッセルと共同制作を行い、アンビエント・ミュージックを確立したことでも知られるイギリスのミュージシャン、ブライアン・イーノは、ドルビーとのインタビューで、新作アルバム『FOREVERANDEVERNOMORE』をアトモスで録音する際のアプローチについて次のように語っています。


 「私がレコードを作るのは、人々を何らかの形で変えたいと思うからです」とイーノは言います。「つまり、今までにない組み合わせの感情を与えたいんだ」さらに、作業プロセスについて、イーノは次のように語っている。「アトモスとの共同作業で私が心から興奮したのは、音を空間に、つまり適切な空間に配置することができるというアイデアです。このレコードをアトモスのためにミキシングし始めたとき、『私は目の前にある何かを見ている観客ではなく、何かの真ん中にいる訪問者なのだ』と思った。だから、この音楽システムを全面に出したいと思った」また、最新アルバム『FOREVERANDEVERNOMORE』についても、「このアルバムでは、ほとんど何もしていないのに、まったく違う場所にいて、その間に海が広がっているような感覚になることがあった。ステレオではそのような感覚は得られなかった。密度が高い時代と低い時代。レンジが変わったという感じです。ミニマリズムの選択肢が増えたんです」


 ドルビー・アトモスの革新的なシステムを手放しに称賛するのはブライアン・イーノにとどまりません。その他、2022年10月、電子音楽の伝説的存在であるフランスのジャン=ミシェル・ジャールは、ニューアルバム『Oxymore』をドルビー・アトモスでリリースしました。彼もまた、実際に音響の変化を体感したときの感動を以下のように述べています。「私は、この新しいシステムで自分の音を周囲にいつものように配置することから始めましたが、それはもちろん、あらかじめ予期していた結果を全く塗り替えてしまうものでした」とジャン=ミシェル・ジャールはドルビーに語っています。「このプロジェクトを本当に制作した最初の率直な反応というのは、いまだ開拓されていない土地のドアを開けるような感覚でした」そして彼は、さらに以下のように述べています。「ドルビー・アトモスが提供する技術では、自然な音の聴き方に戻ることができる。360度の音響の美しさは、たくさんの音、より多くの音を入れることができ、それらが存在するための十分なスペースがあるという事実なのです」

 

また、「”イマーシブ”と呼ばれる音響技術は、未来の音楽を創造するための大きな鍵となるでしょう。イマーシブ・サウンド、つまり没入型サウンドの最大のポイントは、新しいスタイル、新しいタイプのミュージシャン、サウンドエンジニア、プロデューサー、ミュージシャンにまったく新しいエコシステムを生み出すということ。レコーディングの初日からイマーシブを意識すれば、ミュージシャンにとって新しい銀河のように未知の可能性を秘めているのです」とも語っています。


 さらに、レコーディングアーティスト、プロデューサー、プログレッシヴ・ロックのミュージシャン、スティーブン・ウィルソンは、ビートルズのアビーロードの50周年記念リイシューを新しいフォーマットで聴いて圧倒された後、アトモス用に自分のスタジオを設計しました。「バック・ボーカルなど、いろいろなものを後ろのスピーカーで再生していた。最初の頃は、ちょっとギミック的なことをやっていました。でも、今はそれを抑えることにして、より効果的なもの、何度聴いても飽きないようなものを深く理解するようになりました。そうやって、失敗から学んできたんです」



 現在、ドルビー・アトモスの革新的なシステムは、音楽のデジタルプラットフォームや映画館だけではなく、より実用的な日常のシーンに導入されるようになり、私たちの生活に溶け込んでいます。スマートスピーカー、ストリーミング・プラットフォーム、スマートフォン、そして車内のオーディオシステムなど、多岐にわたる業界全体で包括的に採用されつつあります。今、このシステムに注目しているのが、自動車メーカーのメルセデス・ベンツです。同社はユニバーサル・ミュージックグループおよび、アップル・ミュージックと緊密に提携することによって、車載オーディオ体験の一環としてドルビー・アトモスのシステムを導入しています。


 Tidal、Amazon Music、Apple Musicなどのグローバルなストリーミング・プラットフォームは、近年、サブスクリプリョン加入者に追加料金を支払わせることなしに、アトモスのシステムを提供しています。これによって、多くの音楽ファンは、お気に入りのアーティストの音楽をレコーディングスタジオさながらに臨場感あふれるオーディオフォーマットで聴くことが出来るようになりました。また今後、ドルビー・アトモスを有効的に活用した複数の音楽がリリースされる予定です。例えば、Pinkの「Trustfall」、Sam Smithの「Gloria」、Ava Maxの「Diamonds & Dancefloors」、KSI (feat. Oliver Tree) の『Voices』、Maise Petersの「Body Better」、Tom Grennanの「Here」といったシングルのほか、Atmosを使用した楽曲が収録されています。

 

 音響技術の革新は日進月歩。高い能力を持つ技術者の試行錯誤により、20世紀のモノラルからステレオ、以後の時代では、5.1サラウンド、7.1サラウンドと目に見えるような形で大きく進化してきました。そして、最近注目を浴びつつある没入型の音楽システム、ドルビー・システムはリスナーのオーディオ体験を刷新し、音楽や製作者の環境をも変化させ、そして、私達の日常の世界の音楽の楽しみ方にも革新をもたらしつつある。これらの技術は現在も進化を続けていて、その終着点のようなものは見えません。既に空を車が飛び始めるような時代……、もしかすると今後、音楽は私達が予測もつかない形に変貌していくかもしれませんね。

ビリー・ホリデイの奇妙な果実 1937

--プロテストソングに見る人権の主張性--


Protest-Song(プロテスト・ソング)というのは、現行のミュージック・シーンにおいて流行りのジャンルとは言い難い。しかし、近年でも人権の主張のための曲は、それほど数は多くないが書かれているのは事実である。これらは時代的なバックグラウンドを他のどの音楽よりも色濃く反映している。代表的な例としては、Bartees Strangeが作曲した「Hold The Line」が挙げられる。この曲は、ミネアポリスの黒人男性の銃撃事件、ジョージ・フロイドの死に因んで書かれ、バーティーズが追悼デモに直面した際、自分に出来ることはないかと考えて生み出された。アーティストが黒人の権利が軽視されるという問題をメロウなR&Bとして抉り出している。


 

米国の世界的な人気を誇るラッパー、ケンドリック・ラマーもまた、『Mr. Morales & The Big Steppers』の「Mother I Sober」において、自分の母親の受けた黒人としての心の痛みに家族の視点から深く言及している。これらの二曲には、ブラックミュージックの本質を垣間みることが出来る。

 

勿論、上記のような曲は、古典的なブラック・ミュージックの本質的な部分であり、何も最近になって書かれるようになったわけではない。それ以前の時代、60年代には、マーヴィン・ゲイ、スティーヴィー・ワンダーといった面々がモータウンでヒットメイカーとしてキャリアを積んでいた時代も、黒人としての権利の主張が歌詞に織り込まれていたわけなのだが、その後のディスコ・ミュージックの台頭により、これらのメッセージ性は幾分希薄になっていかざるをえなかった。それは、ブラック・ミュージックそのものが商業性と同化していき、その本質が薄められていったのである。


 

その後の流れの反動として、このディスコの後の時代にニューヨークのブロンクス地区で台頭したラップ・ミュージックは、2000年代からトレンドとなり、それらは初期のブルースやR&Bと同じく、直接的、間接的に関わらず、スラングを交えつつ黒人としての主張性が込められた。もちろん、それ以前の19世紀から20世紀初頭にかけての最初期のブルースというジャンルを見ると、広大な綿畑ーープランテーションで支配層に使役される黒人労働者としてのやるせなさを込めた暗示的なスラングが多少なりとも含まれているけれど、これらはまだ後世の60年代のソウル・ミュージックのように、政治的な主張性が込められることは稀有な事例であった。


 

Billy Holiday

しかし、その黒人としての人権の主張を歌ったのが、20世紀初頭に登場した女性シンガー、上記写真のBille Holiday(ビリー・ホリデイ)だ。このアーティストは、本質的にはジャズに属する場合が多い歌手ではあるが、このアーティストの歌詞の中には、一連のプロテスト・ソングの本質(反戦、人権の主張、性差別)または、その源流が求められると言われている。特に、現代的な視点から注目しておきたいのが、このアーティストの代表曲「Strange Fruit(奇妙な果実)」という一曲だ。

 

ビリー・ホリデイが初めて録音した「奇妙な果実」は、20世紀前半のアメリカ南部で起こった黒人リンチ事件を歌ったものである。


 

この曲「奇妙な果実」は、教師/アベル・ミーアポールが詩として書き、1937年に発表された。ミールポールはアメリカ共産党に所属するユダヤ系白人であり、黒人リンチの凄惨な写真を見て、この歌を作った。1930年代、アメリカ南部ではリンチが高潮していた。控えめに見積もっても、1940年までの半世紀で約4000件のリンチが発生し、その大半は南部で、被害者の多くは黒人であった。


シンプルな歌詞の中に、大きな力が込められていて、曲が終わっても心に残る。美しい風景、花や果物の香りと、残酷に殴られた人間の血や骨が並置され、この曲に力強さと痛々しさを与えている。この曲は、アメリカの人種差別の残忍さを露呈しており、それ以上言葉を増やす余地はない。この曲の意味を理解したとき、人はそのイメージに衝撃を受け、怒り、嫌悪感を抱かざるをえない。


 

1939年にカフェ・ソサエティでこの曲を初演したBillie Holiday(ビリー・ホリデイ)は、この曲を歌うことで報復を恐れていたというが、そのイメージから父親を思い出し、この曲を歌い続け、後にライブの定番曲となった。あまりに強烈な歌なので、ショーの最後にはこの曲で締めくくるしかなく、バーテンダーはサービスを中止、部屋を暗くせばならない、という規則ができた。バーテンダーがサービスを止めて、部屋を暗くして、ビリー・ホリデイのパワフルな歌声でライブは終わるのである。このように、曲の成り立ちや歌詞の説得力が、演奏の仕方にも顕著な形で表れていた。


当時、政界を支配していたアメリカの反共産主義者や南部の人種差別主義者の間で悪評が立つことを恐れたレコード会社がほとんどであり、この曲のレコーディングは容易ではなかった。しかし、1939年にコモドール社によってようやく録音されると、たちまち有名になった。この曲は、知識人、芸術家、教師、ジャーナリストなど、社会の中でより政治的な意識の高い人たちの関心を集めた。その年の10月、『ニューヨーク・ポスト』紙のあるジャーナリストは、この曲を「南部の搾取された人々が声をあげるとしたら、その怒りの賛歌であり、またその怒りそのものだ」と評した。



政治的な抗議を音楽で表現することが少なかった1939年の当時、この曲はあまりに画期的だったため、ラジオではめったにオンエアされなかった。この時代、ルーズベルト政権だけでなく、民主党でも隔離主義者の南部ディキシーラットが主役だった時代。リンチの舞台となったアパルトヘイト制度を崩壊させるには大衆の運動が必要だった。

 

また、この歌は、プロテスト・ソングの元祖とも言われている。歌詞の内容は、暗喩が表立っているが、現代の音楽よりも遥かに痛烈だ。当代の合衆国の社会問題を浮き彫りにするとともに苛烈な情感が表現されている。以下の一節は、「奇妙な果実」で、最も有名な箇所であるが、この時代、女性歌手として、こういった南部の暴力を暴く曲をリリースすることがどれほど勇気が必要であったか・・・。それは現代社会を生きる我々にとっては想像を絶することなのである。


 


南の木は、奇妙な実をつける。

葉には、血、根には、血。

南部の風に揺れる黒い体

ポプラの木に、奇妙な果実がぶら下がっている。

勇壮な南部の牧歌的な情景。

膨らんだ目、ゆがんだ口。

甘く爽やかな木蓮の香り。

そして、突然の肉の焼ける匂い!

ここにカラスが摘み取る果実がある。

雨にも負けず 風にも負けず

太陽の光で腐り、木が倒れる。

ここには、奇妙で苦い作物がある。