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▪️グラミー賞のはじまり ハリウッドから始まった米国最大の音楽賞

第1回グラミー賞の授賞式
 

音楽賞というのは、他の一般的な映画賞、文学賞と同じように、一定の商業的な効果や作品の販売促進を見込んで表彰者が決定されるものである。また、それとは別に、音楽的な貢献をもたらした制作者や文化人の功績が称えられるという意味も込められている。


そもそも、グラミー賞は、1958年に最初の受賞レコードが表彰された。これは米国映画界の最高の栄誉とされるアカデミー賞(オスカー賞)の創設から30年後のことだった。ハリウッドの映画産業とともエンターテイメント業界を発展させてきた米国であるが、少し遅れて同賞が開始されたのも、同じように経済効果を期待してのことだろう。もちろん、音楽産業が映画産業に付随するような媒体として一般的な市民のマインドに浸透させるという効果があった。

 

グラミー賞は、NARAS: ナショナル・アカデミー・オブ・ザ・レコーディング・アーツ・アンド・サイエンス(現在はレコーディングアカデミーの名称で親しまれている)によって優れた音楽作品に表彰される賞であり、アメリカの音楽界の最高の栄誉といえる。音楽を対象にしたアワードの一つで、当初はレコードだけを受賞対象としていた。当初は音楽作品に贈られる賞であったが、時代に沿った形で、アーティストや、それに付随する活動を表彰するようになった。

 

1958年に第一回の受賞レコードが発表され、1963年頃には39部門が表彰されていたが、受賞部門は増減を繰り返しながら、年々、拡大を続けている。1973年頃には、ジャズ、クラシック、ポップス部門が新設され、音楽ジャンルごとに細分化されていき、人気のあるジャンルを部門別に分けて表彰するようになった。2025年現在では91部門があり、そのうち4つの主要部門は「ビッグ4」と称されている。このうち最も栄誉があるとされているのが、アルバム賞だ。今年度はビヨンセがカントリー・アルバム『Cowboy Carter』で受賞している。

 

特に、日本でグラミー賞自体が知名度を上げるようになったのは、1970年代前半、およそ1973年頃である。例えば、同年の受賞者は、レコード・オブ・ザ・イヤーがロバータ・フラック「The First Time Ever I Saw Your Face(邦題: 愛は面影の中に)」、アルバム・オブ・ザ・イヤーには、ジョージ・ハリソンとラヴィ・シャンカールによるコラボレーション・アルバム「バングラデシュ・コンサート」が選ばれた。

 

現在でも注目を浴びるその年の象徴的な楽曲を紹介するソング・オブ・ザ・イヤーには、レコード・オブ・ザ・イヤーのロバータ・フラックによる「The First Time Ever I Saw Your Face(愛は面影の中に)」がダブル受賞を果たしている。当初から一人のアーティストに複数の賞を授与するという伝統は70年代から引き継がれているようだ。そして、この年のベスト・オリジナルスコアには「ゴッドファーザーのテーマ」が選ばれている。そして一般的には、洋楽には興味を持たない日本の一般層に、この名画がグラミー賞を浸透させる契機をもたらしたのである。

 

ちなみに、ベスト・ポップ・ボーカルには男性歌手として、「ウィズアウト・ユー」を歌ったニルソン(ハリー・ニルソン)が選出されている。女性歌手として、ヘレン・レディの「I Am A Woman(私は女)」が選ばれた。ニルソンの不朽のポピュラーソングに比べると、レディの楽曲はやや時代に埋もれてしまった感もあるかもしれない。しかしながら、この年のポピュラーの充実感は、日本の音楽ファンのみならず、業界全体に洋楽の最大の音楽賞に興味を惹きつける要因になったのである。

 

また、メディアのバックアップもグラミー賞の一般的な認知度を高める要因となった。ビルボード誌、そして、キャッシュ・ボックス誌などがグラミー賞を報道し、当該賞の華やかさを一般的に知らしめることになった。そして70年代はじめ頃には、受賞者にとどまらず、ノミネート作品にも大いに注目が集まるようになった。これは一つ、世界的な音楽賞が他に存在しなかったのも理由であろう。つまり、グラミー賞の開催そのものが音楽の重要なプロモーションのチャンスになったのである。グラミー賞は、当初から委員の投票形式で選考され、すでに70年代においてNARASのメンバーは2000人以上に膨れ上がっており、厳密な投票が行われるのが慣例だった。


グラミー賞は大きな専門機関から始まったわけではない。”1957年、ハリウッドの商工会議所がハリウッドと関連業界を発展させるために始まった”と日本の音楽評論家の岩波洋三氏は指摘している。要するに、映画音楽の宣伝のようにキャンペーン色が強いイベントであることは明らかである。


そして、1957年の最初のミッションは、五大レコード会社の有力者を集めて、選考の計画を立てるように依頼するというものだった。当時のアメリカの主要レーベル、及び、責任者は、ソニー・パーク(Decca)、ロイド・ダン(Capital)、ジェシー・ケイ(MGM)、デニス・ファーノン(RCA)、ポール・ウェストン(CBS)であった。つまり、レコード会社による干渉があったのは創設当初からであり、なにも今始まったというわけではない。しかも、近年はメジャーアーティストだけではなく、インディーアーティストも表彰する場合があることを考えると、主要なキャンペーンの他にも、公平性を重視した選考を行うようになっているのは事実だろう。ちなみに、現在の五大レコード会社とは勢力図がかなり異なることにご留意いただきたい。

 

しかし、彼らにとってこの選考はあまりに荷が重すぎたため、引退したCBSの社長であったジム・コンクリングを抜擢し、NARASが結成され、本格的な機関としての活動を始めるにいたった。現在でも、CBSのプロモーション広告があるのはそのためである。以後、1957年5月には、委員会とノミネート委員会が発足し、本格的な機関が創設される。そして、ハリウッド支部は、初代の会長に、ポール・ウェストン氏が選ばれ、この賞の責任者に就任した。同年にはNARASののニューヨーク支部も発足し、ガイ・ロンバート氏が選ばれた。

 

1958年には第一回のグラミー賞が開催され、前年度のレコードを対象として優れた作品にトロフィーが授与された。この第一回の受賞者には、ドメニコ・モデューノンの「ボラーレ」、ヘンリー・マンシーニの「ピーター・ガン」が受賞している。また、1960年には、パーシー・フェス・オーケストラの「シーム・フロム・サマー・プレイス」がレコード・オブザ・イヤーを獲得し、マイルス・デイヴィスの「スケッチ・オブ・スペイン」なども受賞した。

 

当初、グラミーが映画音楽に注力していたのは前述の通りで、1961年にはヘンリー・マンシーニの「ムーン・リバー」、62年には「ハロー・ドリー」が受賞している。その後、フィフス・ディメンション、ディオンヌ・ワーウィックが受賞した。グラミー賞は、その年の音楽の流行を反映している。70年代以降は、日本の音楽業界でもグラミー賞が注目されるようになった。例えば、1973年には日本のテレビで授賞式の模様が放送されたことがあった。





ミュージックフェスティバルが商業的なイベントとして確立され始めたのは、1960年代後半のことでしょう。ロックやポピュラー音楽の世界的な普及とともに、ライブ興行として楽しみたいというファンが増えてきました。このフェスティバルは、日頃、ソロ公演に行く機会の少ない音楽ファンを取り込み、一大的な商業イベントとして発展してきた経緯がある。

 

モントレー・ポップ・フェスティバル、ウッドストック、ワイト島など、ハードなロックが人気を獲得する中で、大音量のPAシステムを組み上げることも可能になりました。特に、ライブ・フェスの普及に関しては、ビートルズ時代までは、音量やモニターの返しに限界があったため、満足のいくライブパフォーマンスになることは稀でした。当時は、マーシャルのアンプを渦高く積み上げ、ギターを鳴らすギターヒーローの姿も映像の中でご覧になったこともあるでしょう。それがPAシステムの機能の工場、そしてオーディオの進化により、大規模な観衆全体に聴取可能なサウンドシステムが構築された。

 

特に、音楽フェスティバルの発展と合わせてロック、ダンスミュージックがよりダイナミックな意味を持ち始めたのは事実でしょう。それまでは数千人規模にしか鳴り響かなかったサウンドが70年代ごろになると、数万人規模のライブ空間へと広がっていきました。1980年代にはニール・ヤングのファーム・エイドなど、慈善的な意味を持つフェスティバルも開催されるようになりました。以降、音楽フェスティバルは、多くのプロモーターが夢見る空間となり、商業的なベースを拡大し、エンターテイメントの中核を担うようになったといえるでしょう。

 

近年、顕著なのは、根幹となる地域とは別の地域や海外でサブ的なミュージックフェスバルが開催される傾向にあるようです。ロラパルーザ、プリマヴェーラなどはこの代表的な事例です。


日本でも90年代頃から、大型フェスティバルが開催されるようになりました。自然一体型の音楽祭、フジロックフェスティバル、レディングの都市型を受け継いだサマーソニック、またそれに付随する補足的なフェスティバルなど、例を挙げるときりがありません。近年、日本では独立系の音楽祭も増加しており、注目すべきフェスも開催されるようになっています。ジャンルも多岐にわたり、ポピュラー、ダンス、クラシカルに特化したイヴェントも開催されるようになってきています。


音楽祭を楽しむ上では、観光的な楽しみとグルメ、グッズ販売などは切り離せません。現地の独特の空気感や風景、そして会場で楽しめる食事等、アーティストやイベントのグッズ等、その時にしか購入できないグッズもあります。ぜひ会場でこういったスペシャルな楽しみを探ると良いかもしれません。今回のセレクションでは、世界の10大ミュージックフェスティバルを選びました。




1. Lollapalooza (US)


8月上旬にシカゴのグラント・パークにて開催されるイベント。トレンドのポピュラーからロック、ダンス、パンク、ヒップホップまでジャンルレスに網羅している。US版グラストンベリーといえるでしょう。

 

ロラパルーザ(Lollapalooza)はアメリカ合衆国イリノイ州シカゴで毎年開催されるロック・フェスティバル、及び同名を冠した世界各地で開催されているフェスティバル・ブランド。現在は、シカゴの他に、チリ、ブラジル、アルゼンチン、ベルリン、パリ、ストックホルムで開催されています。


 

ミュージシャンの出演のほか、バラエティに富んだイベントが開催される。ダンスパフォーマンスやコメディなどの公演も行われる。1991年にジェーンズ・アディクションのボーカル、ペリー・ファレルが組織したロラパルーザは北米各地をツアーする形態をとったロックフェスティバルで、オルタナティブ・ミュージックの隆盛に伴い、1990年代のアメリカの若者文化の重要な一部を担いました。



1997年で終了した後、2003年に復活したが、チケットの売り上げが思わしくなかったこともあり2004年は開催されなかった。2005年以降、テキサス州オースティンに本拠をおくキャピタル・スポーツ・エンタテインメントが運営を行い、シカゴ都心の大規模公園グラント・パークを毎年の会場とする週末開催型の野外フェスティバルに変更された。2011年から国外進出をはじめ、シカゴの他にも世界各地で開催されるようになりました。 



2. Coachella(US)


コーチェラはカルフォルニアのインディオで開催される文字通り砂漠のミュージックフェスティバル。4月11日から三週にわたって開催され、一年の中で最も早い時期の音楽祭のひとつとなっています。米国内でも最大規模を誇る。毎年のように凄まじい総数のミュージシャンが出演するが、ヘッドライナーに注目が集まります。その年のアメリカのミュージック・シーンを占うような意味が込められている。また、例年、Youtubeで公式パフォーマンスが生中継される。

 

コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル(Coachella Valley Music and Arts Festival)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州インディオの砂漠地帯“コーアチェラ・バレー”(コロラド砂漠の一角)にて行なわれている野外音楽フェスティバルである。正式名称は「コーチェラ・バレー・ミュージック・アンド・アーツ・フェスティバル」だが、一般的にはコーチェラ・フェスティバル、あるいは単にコーチェラ(Coachella)と簡略化されて呼称される。



1993年にパール・ジャムが行ったインディオでの大規模野外ライブを前身として、その興行ノウハウを整えた運営組織がアメリカ合衆国西海岸のロックフェスとして1999年に開催をスタートさせました。当初は、2日間の開催(2000年は開催せず、2001年の第2回のみ1日開催)でしたが、2007年より3日間開催に移行。さらに2012年より金・土・日のラインナップを固定して行う2週間開催に拡大した。現在その開催規模はロラパルーザ、ボナルーと並びアメリカ合衆国最大を誇り、今や世界屈指の音楽フェスとして認知される。イギリスのグラストンベリー、日本のフジロックと同様に大自然の中で開催される巨大フェスティバルです。 

 

 

3.Primavera Sound (Spain)


スペイン最大級のミュージックフェスティバル。主要開催地のバルセロナのほか、ポルト、サンパウロでも開催されます。

 

解釈の仕様によっては最もヨーロッパ的な音楽イベントのひとつに挙げられます。特に、ダンスミュージックに力を入れまくっている印象を受けるが、全般的なラインナップはオルトロック、メタル、ジャズ、ヒップホップとジャンルレス。現在は6月5日から7日に開催されます。フェスティバルの参加と合わせて、フェスティバル主催側はバルセロナ観光も推奨しています。

 

当初、プリマヴェーラ・サウンドは1990年代からバルセロナで小規模なイベントとして開催されていました。2001年にPoble Espanyolで大規模イベントとして複数のステージで開催されるようになり、約7,700人がこのイベントに集まるようになりました。それ以降、スペインで最も規模の大きいフェスティヴァルへと成長した。2010年には10万人、2017年には20万人を超える観客を動員した。 現在ではヨーロッパの最大規模のイベントへと発展しています。



4.Rock In Rio(Brazil)


南米で最も情熱的なミュージックフェスティバル、ロックインリオ。メタルやロックの大御所が出演し、時々、伝説的なライブ・アルバムもこの音楽祭からは登場することも。ただ、隔年で開催されることが多く、不定期のイベントとして知られている。22年に開催されてから音沙汰がありません。

 

最初の開催は1985年1月11日から20日までの10日間開催され、クイーン、アイアン・メイデン、ジョージ・ベンソン、ジェームス・テイラー、ロッド・スチュワート、ゴーゴーズ、ニーナ・ハーゲン、AC/DC、スコーピオンズ、オジー・オズボーン、イエス、B-52'sらが出演、特にクイーンが出演した11日と19日の公演はグローボを通じ世界60カ国で中継され、2億人が視聴したとも言われています。


第2回は1991年1月18日から27日まで開催。プリンス、ガンズ・アンド・ローゼズ、ジョージ・マイケルらが出演した。第3回は2001年1月に開催。スティング、R.E.M.、オアシス、ブリトニー・スピアーズ、ニール・ヤング、レッド・ホット・チリ・ペッパーズらが出演しました。

ロック・イン・リオは2004年にポルトガルのリスボンにて海外初公演を実施。その後マドリード、メキシコシティでも開催された。2011年9月には第4回ロック・イン・リオが開催されました。

 

 

5.Glastonbury(UK)



1980年代から世界的なミュージックフェスティバルとして知られてきたグラストンベリー。ヘッドライナーの3日目には伝説的なミュージシャンが抜擢され、注目が集まります。元々はイギリスのロックミュージシャンが強かったが、近年ではアメリカのヒップなミュージシャンがサブヘッドライナーに抜擢されることも。特色を挙げるとすれば、キリスト教区で開催され、キャンプを設営したりというように、自然との一体型フェスティバルの原型でもある。間違いなくイギリス国内では最も人気がある音楽祭です。チケットは販売開始後、一時間ほどでソールドアウト。サイトがダウンするときもあり、ファンは緊張した一時間を過ごすことになる。

 

近年ではチケットの高騰やヘッドライナーの選出に関して問題視されることもあるが、私自身最も好きな音楽フェスの一つ。近年では、BBCが放映権を所有し、Youtubeの公式チャンネルで動画が分割して公開されます。 とくに、メインとなるピラミッドステージの他、複数のステージでタイムテーブルが組まれる。特に面白いのは、イベントの開始時にはピントンの門が開かれ、主催者がフェスティバル開始の合図を行う。大物ミュージシャンがお忍びで参加しているのも確認される年もある。ピントンの丘であの有名ミュージシャンに出会うことも不可能ではありません。


6.South By Southwest(US)



テキサス州オースティンで開催されるイベント。 一般的な音楽フェスティバルが音楽に特化したイベントを組む中で、音楽という枠組みにとらわれない多彩な企画を発案し、フェスティバルという考えに革新性をもたらしています。都市型フェスティバルに位置づけられ、ミュージシャンやバンドも多数出演しますが、サウスバイサウスウェストの魅力はそれだけにとどまりません。

 

サウス・バイ・サウスウエストの特色は、ビジネスの側面で新しさをPRすることにある。起業家が集う対話型のカンファレンスも開催されるほか、TVやフィルムも上映されるという多面体のイベントである。どの分野に注目するのかは参加者次第で、また見え方というのも異なる。特に、このイベント内のインタラクティヴフェスティバルでは、注目のマルチメディアがPRされる。サウス・バイ・サウスウエストは2007年にTwitterを表彰し、このメディアの普及に貢献しました。

 

サウス・バイ・サウスウエストは音楽だけではなく、マルチメディアとしての核心的なイベントの一つであり、今後も注目が集まりそう。ロンドンでの開催を発表しており、今後複数の都市での開催が期待されます。


 

7.Fuji Rock Festival(Japan)


グラストンベリーの自然一体型をより強調付けたイベントがフジロックである。通例では、7月26日から28日にかけて開催される。日本の夏を象徴するようなイベントの一つ。海外の有名アーティストから日本の新人アーティストまで幅広く出演します。

 

自然を楽しみながら音楽に夜中まで浸ることが出来る。例年、南魚沼の苗場スキー場で開催され、音抜けの良いイベントとして知られています。例年ではスペシャルグッズが販売され、かわいらしいマスコットみたいなのも登場します。サマーソニックと並んで、アーティストの招聘も素晴らしく、近年ではコーチェラやグラストンベリーに匹敵する豪華なラインナップが組まれる。また、同時並行型のタイムテーブルが組まれるのは、サマーソニックと同様である。苗場まで遠くてアクセスしづらいという方には朝霧JAMへの参加がおすすめ。こちらは10月に開催されます。

 

 

8.Summer Sonic(Japan)



こちらも日本の夏を象徴するライブ・イベント。東京・大阪の二都市で例年は8月17日から18日に開催されます。東京は、メイン会場であるZOZOマリンスタジアムの他、幕張メッセでも同時開催されます。大阪は、万博記念公園に会場を移転しました。自然一体型のフジロックとは対象的にレディング・フェスティバルの都市型をより強調付けるイベントとなっている。

元々はインディーズミュージックを推進しており、当時一般的に知られていなかったレディオヘッドを国内に紹介し、知名度を高めました。フジロックのラインナップとかぶる点もあるが、ヘッドライナーに関しては、主催者側の特色が力強く反映されるという印象を受けます。ある意味では、その年の洋楽を占うようなイベントに位置づけられるでしょう。もちろん邦楽の注目アーティストも出演します。

 

昨年、東京/大阪の主要都市に加え、アジア開催を行い、話題を呼んだ。最近では、ソニックマニアのほか、パンクロックに照準を絞ったパンクスプリング、ロッキング・オン誌との共催で行われるロッキング・オン・ソニックとジャンルごとに狙いを絞ったイベントを開催しています。基本的にはフジロックと同様にジャンルレスで楽しめますが、伝統的にロックに力を入れている印象を受けます。


 

 

9.Tomorrow Land (Belgium)


2000年代はヨーロッパを中心にダンスミュージック、EDMが流行した。その流れを受けてか、2010年代にはヨーロッパでダンスミュージックに特化したイベントが注目を浴びるようになってきた。その流れを決定付けたのがベルギーのトゥモローランド・フェスティバル。アントワープは歴史あるヨーロッパ建築が多く、観光がてらフェスティバルに参加するのもおすすめ。

 

このイベントはマニュ・ベアーズとマイケル・ベアーズの兄弟によって発案され、2005年にデ・ショール州立レクリエーション公園内で開催。インターナショナル・ダンス・ミュージック・アワードでは、5回連続で「年間最優秀音楽イベント」に選ばれるなど、数々の賞賛や賞を受賞しています。



Tomorrowlandの成功は、スピンオフ・フェスティバルの創設につながった。2013年から2015年にかけて、このコンセプトは、TomorrowWorldという名前でアトランタ近郊のアメリカに短期間輸出されました。 2015年には、Tomorrowland Brasilとして知られるフェスティバルが第三国のブラジルで始まりました。2019年からは、フランスのアルプ・デュエズというオリンピック・リゾートの中心部で、冬季版「Tomorrowland Winter」が開催されるようになりました。


 

10.Green Man Festival(Wales)


グリーンマン・フェスティバルは、ウェールズのブレコン・ビーコンズで毎年8月中旬に開催される音楽、科学、アートを中心とする独立系のフェスティバル。グラストンベリーと同じように、自然一体型のイベントに位置づけられます。ウェールズらしさのあるお祭りといった感じで、独特な巨大な人形が登場します。総合型マルチメディアのイベントとして注目したいところでしょう。

 

グリーン・マンはオルタナティブ、インディー、ロック、フォーク、ダンス、アメリカーナを中心にライブミュージックを紹介する、25,000人収容の1週間にわたるイベントに発展しました。フェスティバル会場は10のエリアに分かれ、文学、映画、コメディ、科学、演劇、ウェルネス、ファミリー向けのアクトが催されます。

 

このフェスティバルは、グリーンマン・トラスト(Green Man Trust)と呼ばれる慈善事業部門を設立したり、グリーンマン・グロウラー(Green Man Growler)と呼ばれる独自のビールシリーズを発売するなど、他の事業にも進出しています。これまでのヘッドライナーは、クラフトワーク、ビセップ、ローラ・マーリング、ヴァン・モリソン、マイケル・キワヌカなどが務めています。

 お正月の定番曲 宮城道雄 「春の海」 瀬戸内海の鞆の浦との関わり

瀬戸内海 鞆の浦 国立公園に指定されている

 

 「風物」という言葉を使おうとすると、少しだけ古風な印象を覚えざるをえない。というのも、結局、日本的な光景という不確かな感覚が、今やどこかに忘れさられつつあるからなのだろうか。そこでつくづく思うのは、現代の日本において「日本的」とされているものの多くが、人為的に作られた文化であり、それはまた上辺の景物と言わざるを得ない。日本的な情緒を感じることは、年々少なくなりつつある。もしかりに、そういったものが見つかるとすれば、例えば、一般的に旅行のガイドブックやパンフレットには掲載されることの少ない「人の手の入らない原初的な場所や地域」であろう。もちろん、日本文化とて、多くの大陸国家と同様に、完全に独自の島国のカルチャーとして存続してきたわけではない。たえず、大陸との交流により発展し、例えば、清や唐、南蛮との貿易によって、文化の混交として成立してきたのだから、結局のところ、クロスオーバーという考えによって文明が構築されてきた経緯があるのだ。

 

 

写真: 田村茂
 宮城道雄は、1930年に日本音楽の名曲「春の海」を作曲した。彼は「検校」という盲目の最高官職にあり、また数々の文化的な貢献を認められた文化人で、箏曲の作曲を専門とし、東京藝術大学の前身である東京音楽学校の教師も歴任した。

 

 おそらくは、宮城道雄もまた、岡本天心、横山大観といった日本の芸術のアカデミズムの先鋭的な気風を形作った派閥の系譜であると言っても良いのではないか。また、生花や能楽といった師範制度にある日本の伝統音楽の教育にも注力し、多くの弟子を育てた。宮城は、9歳の頃から盲目であったが、弟子の心を読む天才でもあった。弟子は、師匠が自分の考えていることをピタリと当てるのをおかしがったという。

 

 

 そもそも、宮城は、日本の音楽的な文化に多大な貢献をしたことは確かなのだが、月次な日本人ではあるまい。神戸の外国人居留地で生まれ育ち、海外の輸入文化に強い触発を受けた人物である。外国人居留地は、横浜や長崎といった港湾地域で発展した外国人のための居住地である。後に「異人館」と称される、神戸の居留地で育った宮城が様々な西洋の魅惑的な文化を真綿のように吸収したことは想像に難くない。彼はまた、最も日本的な音楽を作曲して後世に伝えたが、かなりの洋楽マニアであったことが知られている。ラヴェル、ドビュッシー、ミヨー、ストラヴィンスキーをこよなく愛し、まごうかたなき文明開化後の文化人としての道を歩もうとしていた。当時、こういった音楽を聴いていたというのは、先進的な人物像であったことが伺える。彼の音楽的な表現方法が自然味に溢れていながらも、モーツァルトのように研ぎ澄まされ、洗練されている(無駄な音を徹底して削ぎ落とす)のは、こういった理由なのである。

 

「春の海」は、個人的な作曲とは言いがたい。語弊があるかもしれないが、公曲の一部として献呈された。1930年の宮中の歌会始の儀(宮中で天皇や皇后に捧げられるのが伝統となっている)の勅題「海辺巌」のために作曲された。 それゆえ、宮城は、この音楽が厳正な日本音楽の伝統に則っていないとしても、格式高い邦楽を制作しようとしたのは疑いない。そして、歌会始めの課題曲として提出されたということから、和歌を念頭に置いたのも事実であろう。与謝蕪村の「春の海」の一節「春の海 ひねもすのたり、のたりかな」というユニークな興趣が専門的な研究者によって比較対象に挙げられるのにも相応の理由がある。とりもなおさず、宮城の「春の海」もまた、ゆったりとして、のどかで、おだやかな、日本の海を思わせるからである。

 

 

 



 

 春の海を作曲するにあたって、宮城道雄は祖父の故郷で墓地がある福山の「鞆の浦(とものうら)」を題材に選んだ。 おそらく、失明する以前に彼は祖父の故郷を訪れ、その景観の美しさに心をほだされたのではないか。この曲において、日本的な情緒を表現するに際して、幼少期に見たであろう鞆の浦の穏やかさと活気という、彼の心の深くに刻まれた瀬戸内海の二つの麗らかな心象風景を音楽で表現しようとした。発表当時、音楽評論家から「伝統的な日本の音楽の形式に則っていない」と批評されたのは、この曲が基本的にはソナタ形式の三部構成から成立しており、バッハやヴィヴァルディ以前の西洋音楽のポリフォニーに触発されているからである。

 

 しかし、例えば、雅楽の例を見ても、厳密な和声進行というホモフォニックの構成が登場しないように、「春の海」の作曲を手掛けた時、宮城はおそらく、対旋律の構造にこそ日本音楽の源流が求められ、なおかつ、日本音楽独自の核心が存在すると見ていたのではないか。彼は西洋のソナタ形式に則って、日本的な文学のイディオムを登場させ、「緩ー急ー緩」という三部構成に組み直した。そして、バッハ以前のバロック音楽の対旋律法を踏まえ、それらを日本音楽の伝統様式の陰旋法に置き換えた。特筆すべきは、春の海にはフーガ的な技法の影響もわずかに見いだせる。そして、彼が幼少期に過ごした神戸の外国人居留地という風変わりな環境や物心つく頃に体験した「日本と西洋の文化の混交」という視点、そして、「西洋から見た日本的な文化(その反対も)」という視点にも、この人物にしかなしえない独自の音楽性を発見出来る。


 昨日、楽譜を見てみたところ、この曲は、尺八と箏という日本の伝統的な楽器が、二つの潮流を形作るように交互に配置されていることがわかった。そして彼は、この器楽曲が宮中の歌会にそぐうように、曲の中に和歌に準じた文学的な表現を込め、大和人の詩情を織り交ぜることも忘れなかった。三部構成の一部では、先述したように、ゆったりとして、のどかで、おだやかな内海の情景が描かれたと思えば、第二部へと移行し、船の櫂をこぐ様子や海鳥が空を優雅に舞うという一部の対比的な楽章へと移ろい、活気に充ちた動的な印象を持つ海際の風景が描かれる。日本の古典文学の副次的な主題にも登場する「益荒男」の表現性を見出すこともできるだろう。そして、最後には、再び導入部にあるおだやかな海の風景に帰っていくという一連の構成である。これは長大な海の流れが一つの海流を経て、元の流れに戻る様子を織り交ぜたかのようだ。確かに対比性という西洋的な美の観念が取り入れられているにせよ、その枠組の中で宮城は苦心し、日本的な情景や風物の美しさを音楽によって描写しようと試みたのだった。

 

 当初、「春の海」は日比谷で初演され、NHK広島のラジオで初放送されたが、大きな反響を呼んだとは言いがたかった。しかし、フランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーが編曲すると、一躍、日本国内でも人気曲となった。シュメーは宮城に会い、彼もその熱意に押されるようにして編曲の旨を了解し、琴とバイオリンで共演するに至り、「春の海」がアメリカやフランスでレコードとして発売されるための重要な契機を作った。ルネ・シュメーは、BBC Promsへの出演記録が残っているが、フランスに帰国してから著名な演奏家として認知されたとは言いがたい。しかしながら、ヴァイオリンを中心として西洋風な編曲を施したこの曲の編曲バージョンは、以降のお正月の定番曲として知られるための文化的な素地を形成したのである。 

 

 瀬戸内海の鞆の浦は、日本で最初に国立公園として制定され、景勝地として名高い。風景の美しさには往古から定評がある。江戸時代から北前船の寄港地として栄え、以降、朝鮮通信使が徳川幕府への慶賀のため度々寄港した。福禅寺は古くから迎賓の場として使用され、本堂隣りにある対潮楼は名所として知られている。1690年に客殿として建立し、座敷からは内海の絶景が広がる。朝鮮通信使として当地に招かれた李邦彦は、その眺望を見るにつけ、「日東第一景勝(日本で最も美しい風景)」と評したほど。宮城道雄は、「春の海」を作曲するにあたって、この海岸の風景を思い浮かべだのたろうか。それは映像的な景物としては彼の目から失われたけれど、その美しさ、そして日本的な感覚は、その後も彼の心のどこかに残り続けたのである。

 


 ・有名ミュージシャンに愛されたロードトリップの象徴  Route 66  


 シカゴからカルフォルニアに続く「Route 66」は、カーマニアには聖地のような場所である。かつてジョン・スタインベックが『The Grape of Wrath(怒りの葡萄)』でこのハイウェイを題材に取り上げた。

 

 作中では、オクラホマの農民がカルフォルニアに向かい、ハイウェイを横断する話が書かれている。スタインベックは風景描写に定評があり、市民の暮らしとアメリカの風物の美しさを社会的な時代背景とリンクさせながら丹念に描いた。今やルート66は過去の遺構となり、現在ではカーマニアが集い、マザーロード・フェスティバルが毎年9月に開催される。その道半ばには、ダイナー、モーテルが点在し、今なアメリカのロマンティシズムを地政学的に象徴付けている。


 つくづく思うのが、アメリカは自動車産業とともに発展していった国家でもある。その遺産はテスラ・モーターズに受け継がれているが、このルート66が愛された理由も、余暇に大陸を横断するハイウェイをクラシックカーで何日もかけて走るという営為が、アメリカ的なロマンティシズムの象徴でもあった。

 

 そして、「American Graffiti(アメリカン・グラフィティ)」で描かれるような富裕感覚ーー収入を車に費やすということ自体が、大きな憧れのようなものでもあったのである。自動車を個が所有する行為自体が、経済発展の象徴を意味し、これはシンクレア・ルイスが自動車に夢中になる若者と、家族制度の変化、教会制度の崩壊、という鋭いテーマを交え描いた。そして、アメリカ人が変化していく現状を、社会学の観点からシニカルに切り取ったのだった。この時代、明らかにアメリカは世界一の経済国家になる過程にあり、それはまた物質的な価値観が隆盛を極め、旧来の価値観が崩壊していくという新しい生活様式を予見していたのだった。

 

 

 ルート66は産業発展の象徴である。オクラホマの実業家であるサイラス・エイブリーはドイツのアウトバーンのような幹線道路を建設を思いつく。1910年には、一般道路の自動車の通行が増加しつつあった。実業家のエイブリー氏は、道路整備の重要性を提唱していた。彼は幼い頃、よくワゴンでオクラホマから西に向かった。そのときに見た光景から理想的なルートが脳裏に浮かんだ。シカゴからロサンゼルスにかけて2448マイルを横断する壮大なハイウェイの建設である。時代の需要も要因だった。1910年、米国では50万台の自動車が登録されていた。1920年頃には爆発的な普及を見せ、1000万台に到達した。この統計だけでもいかに一般家庭に自動車が普及しつつあったのか、手に取るように分かるのではないだろうか。

 

 1926年に最初の区画が開通した。しかし、1929年にはウォール街に端を発する恐慌が起こり、中西部から数十万人もの移民が発生した。彼らは出稼ぎのために、より大きな街を目指した。そして、1933年から37年にかけて、ルーズベルト大統領は不況解消法を制定し、失業者を中心にハイウェイの建設が進められた。幹線道路が建設された後、中西部から多くの農業従事者がカルフォルニアへと向かった。それはスタインベックの「怒りの葡萄」にも描かれているような情景であったに違いない。しかし、こういった重要な交通網としての役割の他にも、ルート66はもうひとつの役割を持っていた。この幹線道路は観光名所として親しまれたのだった。

 

 そうした中、世界大戦中、アメリカ人の一般的な娯楽が自動車とロードトリップに費やされたのは当然の成り行きだった。ビートニクスの象徴的な作家、ジャック・ケルアックが「オン・ザ・ロード」で、ルート66を取り上げたことによって、ある意味ではポップ・カルチャーの象徴ともなり、インテリ層の注目を惹きつけることになった。それ以降、1985年にハイウェイが廃止されるまで、 アメリカの経済成長の象徴でもあり、ロードトリップの象徴として、ルート66は多くの人々に親しまれた。写真に見られるように、いかにもアメリカ的な風物である。

 

 

 

・音楽的な題材としての「Route 66」 ナット・キング・コールからチャック・ベリー、ローリング・ストーンズ 時代とともに移り変わるテーマの変化

 


 

 まず最初にルート66に注目したのは、アラバマ出身のジャズ・ボーカリストの巨匠、ナット・キング・コールだった。1946年、戦争が終わった直後、ボビー・トゥループという人物が「Route 66」を作曲し、それをナット・キング・コールが歌った。彼は、出稼ぎ労働者のロマンを情熱的に歌った。新天地を目指す市民の憧れをこの曲でムードたっぷりに歌い上げている。

 

 曲としては、スタンダードなジャズであることが分かる。歌詞はご当地ソングのようでもある。旅に誘う内容で、途中には沿線各地の地名が登場する。シンプルなリフを基調とする親しみやすい曲調、軽快かつコミカルな歌詞とが好まれ、キング・コールのヒット以来、半世紀以上に渡って歌い継がれることに。 音楽的に言えば、渋く、古典的なジャズのリズムが特徴となっている。

 

 原曲を聴くと分かるが、歌詞の内容も情緒と興趣にあふれている。田舎から都会に出稼ぎ労働のために出ていこうとする若者の心の機微とうまく呼応している。そして、歌詞の重要なポイントは、「シカゴからロサンゼルスに向けて車を走らせようぜ。きっとワクワクする冒険が待っている」という箇所である。ナット・キング・コールは「西海岸に向かうと良いことがある」とも歌っている。 本当に良いことがあったかは分からないが、西海岸は、憧れの象徴の土地でもあったことが分かる。現在では、その土地のことが容易にわかってしまうこともあるが、当時ではそうではなかったのだろう。そういった側面では、想像の余地がこの曲のロマンティシズムを与えた。必ずしも知っているということばかりが、良いとはかぎらないということがわかる。 

 

 

Nat King Cole 「(Get Your Kicks On)Route 66」 (Original)

 

 

  「Route 66」はそれ以降、カバーソングの重要なレバートリーとして語り継がれることになった。また、次にこの曲のカバーに取り組んだのが、ご存知、ロックンロールの帝王、チャック・ベリーである。この曲は、ロックンロール最盛期(1955~56年)のあとにカバーソングとして発表された。

 

 チャック・ベリーはエルヴィス・プレスリーと同じく、RCAからデビューし、一躍「ロックン・ロールの帝王」として知られるようになった。ベリーがテレビに出演した時、88%もの視聴率を記録した。彼はまさしく、1958年までに国民的な歌手として知られるようになった。しかし、実は、全盛期以降の活躍に関しては賛否両論がある。1960年以降、ベリーは、R&Bに傾倒することもあり、国民的なスターではなく、本格派のプロミュージシャンとして活動を続けた。そんな中、このカバーソングは、ロックンロールの魅力を余すところなく凝縮している。 

 

 

Chuck Berry 「Route 66」

 

 

 

 最も注目すべきは、ナット・キング・コールの原曲は、出稼ぎ労働に出かける人々のロマンに焦点を当てている、他方、チャック・ベリーのカバーは、より都会的なムードを醸し出している。つまり、このカバーは、1961年のアメリカの都会的に洗練されていく若者を歌っているのではないか、ということ。つまり、チャック・ベリーは、幹線道路にまつわる時代の変化の推移をストレートなロックソングに込めて、それをリアリスティックに歌い上げたということである。

 

 続いて、この曲はローリング・ストーンズによってカバーされた。しかも1964年のデビューアルバム『The Rolling Stones』の一曲目でである。ある意味では、この一曲目のカバーが後のストーンズの運命を決定付けた可能性があると指摘しておきたい。というのも、1960年代のロックバンドは、最初、カバーから出発するのが王道であった。ビートルズはいわずもがな、ローリング・ストーンズもカバーから出発した。


 つまり、当時は、カバーから始まり、その後、ライブ等で実力をつけ、オリジナルを増やすというのがスターを生み出すための戦略だった。


 しかし、どの曲をカバーするかによって、そのバンドのキャラクターのようなものがはっきりと浮かび挙がってくる。「Route 66」のカバーでのミック・ジャガーの歌い方は、チャック・ベリーを少し意識している。このカバーは、海外から見た異国への憧れを暗示しているように思える。最初は、出稼ぎ労働者、都会的に洗練される若者、そして、海外から見た憧れの象徴というように、ルート66は、その時代ごとに、地政学的な意味合いを変化させていった。

 


The Rolling Stones 「Route 66」

 

 

・「Route 66」の意義の変化 父の世代の象徴としてのロード

 



 

 「Route 66」は長らく忘れ去られていたように思えた。そしてそれは、実際的には当然の成り行きでもあった。現実的に言えば、アイゼンハワー大統領の時代に、「ルート66」は幹線道路としての意義ーー人や物資の移動手段ーーを完全に失い、1985年以降は交通手段として一般的に廃止された。つまり、以降の時代は、飛行機での移動が当たり前となり、自動車での移動をする意味が乏しくなった。しかし、突如、最初のオリジナルソングのリリースから45年の歳月を経た1991年になって、この不朽の名曲が再び世の脚光を浴びることになった。

 

 曲を蘇らせたのは、ナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールだった。彼女は、ジャズアルバムでありながら、ポップチャートを席巻した代表的な傑作『Unforgettable』で父親キング・コールの原曲を見事に蘇らせた。しかも、亡き父の歌声とのオーバーダブによって。このカバーにおいて、ナタリー・コールは父の魂を畏れ多く歌い、父親の本当の姿を探ろうとした。


 曲のカバーは、モダン・ジャズ風の洗練された編曲が施され、半世紀ほどを経て、新たなジャズ・スタンダードに生まれ変わることになった。ルート66は、1991年になると、次世代の「父の象徴」へと変化していったのである。以降、この曲はジャズスタンダードの定番になった。また、ナタリー・コールが終生にわたり、ロサンゼルスにこだわったのには理由がある。なぜなら彼女の父親はこう歌ったのだから。「西海岸に向かうと良いことがある」というように。


 カバーソングというのは簡単なようでいて難しい。それでもそれぞれ違った楽しみ方があって本当に素晴らしい。音楽的なバリエーションの変化にとどまらず、どのようなテーマを盛り込むのか、そして、独自の価値観を付与することが大切なのかもしれない。

 

 

Natalie Cole 「Route 66」

 ・ブラジルのトロピカリア  ポスト・コロニアニズムと創造的な自由の獲得


 アフリカの国々の事例を見ると分かる通り、従来の植民地支配から脱出した国家は、西洋主義による支配から離れ、独立した文化を構築する必要性に駆られる。結局のところ、海外文化に触発された後、独自のスペシャリティを探ることなくして、国家の文明は確立しえないことを象徴づけている。そして、ここで大切なのは、外側の文化や文明に揺さぶられることなくしては、本当の意味での独自の文明を獲得することは困難であることである。

 

 例えば、今回のテーマとなる南米のブラジルの場合は、音楽や芸術運動、舞台、文学活動とならび、1960年代後半に独立的な意義を求め、こういった急進的なムーブメントが若者を中心に沸き起こった。それがトロピカリア(トロピカリズモとも称される)ーー熱帯主義ーーであった。例えば、音楽に関しては、旧来のブラジルの伝統的なボサ・ノヴァに否定的な趣旨もあるという見解も見受けられるが、必ずしもそうとはいいがたい。当時、流行したビートルズのロックと合わせて、ボサノヴァをよりアーバンにという趣旨も含まれていた。これは西洋的な音楽的な感性や感覚を踏まえた上で、ブラジル独自の音楽表現を追求するという動きであった。

 

 1960年代後半に始まったトロピカリアは、軍事政権下のブラジルにおいて、およそ5年ほどの短いムーブメントで終わった。その理由は、これらの運動の政治的な弾圧が始まり、トロピカリアの中心人物、ジルベルト・ジル等がイギリスへの亡命したからである。(後に、ジルベルト・ジルは1969年に短期間の投獄という憂き目にあったが、社会的な信頼は回復し、2003年から2008年にかけて、ブラジル国内の文化大臣を務めた)しかし、この考え自体は次世代にも受け継がれ、ネオ・トロピカリアとして新しいアートの形式を支えることになった。

 

 こういった新しい運動や主義が発生する要因として、”成熟した社会意識”というものが不可欠になってくる。つまり、大きな観点から言えば、個人、大小の組織、社会がどのように繋がるべきか、そして社会的に置かれている環境や立場を把握し、国家の文化、海外の文化や政治的な動向を鑑みた上で、自分たちがどのような位置にあるのか、そして、上記の二つの観点を踏まえた上で、どのようなアクションを起こすべきかという意味である。


 結果として、社会に反映されるのは、文化活動の諸般ーー音楽、演劇、文学、建築、芸術、ジャーナリズムーーなどである。個人的な能力や役割によって、成熟した社会意識が多彩な形で出現するのは言うまでもない。これはたぶん、広義の意味での企業活動においても共通する事項ではないだろうか。そして、全体的な社会構造を鑑みたとき、個人的な立場、あるいは組織的な立場がそれぞれまったく異なるため、外側に出てくるものは必ずしも同じ内容にならない、ということである。

 


・成熟した社会意識とは何か ブラジルの60年代のトロピカリアの事例

 

オズワルド・デ・アンドラーデ


 この点において、60年代から70年代にかけてブラジルで発生した”トロピカリア”という運動は画期的だった。 それは社会に生きる人々が、自分たちが置かれている状況を明確に把握し、認識しているということでもあった。そして、実際的にどんなアクションを起こすべきかを考え、出来る範囲において実践したことである。これは上手い例えが見つからないが、自分たちが置かれている立場に無自覚な人々には、成熟した社会意識というのが芽生えることは稀である。なぜならもし、集団や組織に対し、個人(自分)がどのような存在であるのかを考えることなくしては、より良い提言をもたらすこと難しいし、また、アクションを起こすことも出来ないだろう。つまり、成熟した社会意識を持つために必要なのは、自己、集団、組織を俯瞰する視点であり、外側からそれが明瞭に見えたときはじめて、意義のある行動が可能になる。

 

 60年代のブラジルでは、急進的な表現が生み出されるための素地が整っていた。戦後のブラジルでは急速に経済発展が進む。しかし、2000年以前の中国の都市部と農村部の貧富の差という事例を見ると分かるように、ブラジルでも貧富の差が拡大していた。 経済発展は富裕層やエリートに恩恵を与えたが、一般的には経済的な恩恵が降り注ぐことはなかった。こんな中、1961年にジョアン・ゴウラ―トが大統領に選出されると、急激に社会の風向きが変化した。当時、ゴウラ―トは、多くの社会政策とソビエトとの和解を提唱していた。これが冷戦下、アメリカとソビエトという覇権争いに緊張関係をもたらした。事実としては、ゴウラート政権は短命に終わる。カステロ・ブランコ元帥がクーデターを起こし、軍事政権へと移行した。


 

 こうした中、新しい軍事政権がいくつかの音楽を「左翼的」であるとし、制限をかけたのはソビエトと同様だった。1950年代を通じて、ブラジルでは伝統的なサンバに続いて、ボサノヴァが流行していた。これは、ブラジルのバッハと言われるヴィラロボスに始まり、ヴィニシウス・モラエス、カルロス・ジョビン、ジョアン・ジルベルトが推進した音楽運動であった。だが、新しい軍事政権はボサノヴァを知的で左翼的であると見なし、国内外に影響力が広がるのを抑制し始めた。この流れの中で、トロピカリアの中心人物であったジルベルト・ギル、チコ・ブアルケ、カエターノ・ヴェローゾは、政権が創造的自由を侵害していると考え、 ボサノヴァに続く新しい音楽運動への道筋を切り開こうとした。そのためのヒントになったのが、ヨーロッパからの輸入音楽だった。彼らはイギリスなどのポップ・ミュージックを起点にし、ロック、サイケ、ソウルの領域を押し広げながら、「トロピカリア」という形式を生み出した。

 

 その音楽運動の発端となったのは、オズワルド・デ・アンドラーデというサンパウロの小説家/文化評論家が提唱した食人主義、より穏当に言い換えれば「文化を吸収する」という概念であった。オズワルドは、1928年に「O Manifesto Antropófago(マニフェスト・アントロフォギコ)」を出版し、ポスト・コロニアリズムの観点から自国の文化の変遷を鋭い目で直視していた。オズワルドが主だって提唱したのは、「文化的な共食い」という概念であった。これは出来れば悪い意味だけで捉えてほしくない。そこには中間主義という考えが出てくるからである。


 要約してみると、外国文化を吸収しながら、自国の文化と重ね合わせるという考えで、これはブラジルでは自国の文化を形成するための基盤のような概念でもある。特に、トロピカリアの概念の中でも、重要視したいのが、二分化を超越するという考えとなるだろうか。ブラジル文学を専門とするジュリオ・セザール・デイニッツは、トロピカリアという表現運動が発生した要因について、「古風ー現代、国内ー海外、エリートー大衆という対極的な考えを克服する」ためだったと指摘している。 つまり、重要なのは、二元的な考えを離れていき、それらの融合を目指そうという考えが、トロピカリアの根底にあったのである。さらに、アナ・デ・オリベイラは、トロピカリアについて説明している。「歌は伝統的で古風なブラジル、大衆的な文化を持つブラジル、そして、宇宙飛行士、空飛ぶ円盤を持つブラジルの連合という、国家の批評的で複雑なイメージを示した。彼らは、私たちのポピュラー音楽の洗練された事例を示した。彼らは、それまで前衛主義にしか通用しない考えを、商業音楽としてもたらしてくれました」

 

 

 1968年に、カエターノ・ヴェローゾとジルベルト・ギルは『Tropicalia: ou Panis Et Cercencis』を発表し、正式にトロピカリアという名称が音楽的な活動の一環として組み込まれた。本作はオムニバス形式で発売され、ブラジル国内の最初のコンセプト・アルバムだと見なされている。国内のムーブメントを担う有名ミュージシャンが参加したビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(1967)に触発されて制作され、セルソ・ファヴァレットは本作を「トロピカリアの集大成」と評する。ただし、後年、ムタンチスのセルジオ・ヂアスは、同作について「政治的には意味はあったが、『サージェント・ペパーズ』のような音楽的な記念碑となるまではいかなかった」と自省的に語っている。しかし、商業的にはかなりの成功を収め、1968年10月の時点で2万枚を売り上げる大ヒット作となった。

 

 実際的な音楽については、 意外とビートルズっぽくないのが分かる。それ以前のヴィラロボスの作風を受け継いだ古典的なブラジルの音楽、そしてフランスのイエイエ等を交えた楽曲もある。むしろ、ビートルズに触発された点があるとすれば、それは音楽の雑多性にあると言えるだろう。これらのヨーロッパとブラジルの音楽を融合させた形がトロピカリアの魅力でもある。

 

 

 

 しかし、トロピカリアは全般的に国内ですんなり受け入れられたとは言いがたい。新しい運動に同調する人々を惹きつけた一方、伝統的な人々には反感をもたらすことになる。これはビートルズが初来日した時と同じ類いの現象である。また、日本の音楽でも、それまでは演歌や歌謡が中心だったが、ロックやジャズのイディオムが、自然に民衆音楽の中に入り込んだ現象と同様だ。しかし、ブラジルで発生したトロピカリアーー熱帯主義ーーは、国内で好意的に受け入れられたとは限らなかった。当初、賛否両論を巻き起こし、右派、左派の双方に敵を作ることになった。明確な政治的な立場をとる人々にはあまり評判が良くなかったというのである。

 

 その後、トロピカリアは軍事政権によって、1968年に運動を鎮圧されることになった。ジルベルト・ギルはロンドンに亡命し、この運動の推進者の一人、カエターノ・ヴェローゾも同じく亡命した。しかし、影響力は収まらず、ガル・コスタ、ホルヘ・ベン、ジャーズ・マカレ、トム・ゼなどがトロピカリアの風潮を受け継ぎ、ブラジル音楽に新しい気風をもたらした。

 

 トロピカリアは、フェラ・クティがアフリカで体現した小さな王国、アフロ・フューチャリズムと奇しくも大きな共通点がある。フェラ・クティの場合は、レコード会社や政府に管理されぬ独自の王国という形で、独創的な表現形式として表れ出た。他方、トロピカリアに関しても、ポスト・コロニアリズムの観点から、本来であれば反目するはずの二つの要素ーー海外主義と国内主義ーーという対極の概念を結びつけようとしたのだった。 これはグローバリズム、ナショナリズムという対極の概念しか存在しえないと考える現代人に大きなヒントがある。ここには、ブラジルらしい「折衷主義」という新しい概念を見て取ることも出来るかもしれない。西洋主義の観点から言えば、物事は白か黒であるが、実は物事は他にも多彩な中間色がある。

 


・アートから見るトロピカリア  ヘリオ・オイチシカの立体主義 

 


 トロピカリアという表現運動は、表面的な形式とは言いがたく、一つのイデアのような形で後のブラジルの文化のある側面を形成していくことになった。その後、必ずしも音楽の範疇にとどまらず、絵画、演劇、映画を中心とするブラジル国内の主要なアートや文化運動全般に強い影響を及ぼし続けた。それはベアトリアス・ミリャーゼズの活躍を象徴されるように、コンセプチュアル・アートの領域に属し、「ネオ・トロピカリア」という呼称で知られている。 2000年代以降もトロピカリア(熱帯主義)は、何らかの形で現代のブラジルに受け継がれている。

 

 1960年代後半にトロピカルイズム運動と共鳴したのが、美術家のヘリオ・オイチシカである。彼の芸術は、コンクリート・アート(コンクリート主義)とも言われ、図形主義を基にするという点で、カンディンスキーとの共通点も見出される。しかし、カンディンスキーが平面的な図形主義を中心にアート活動を展開したのに対し、オイチシカの芸術は立体主義の範疇に表現領域を広げ、パブロ・ピカソの象徴主義を立体化し、建築的、空間的な造形芸術を展開させた。

 

 この中には、インスタレーションの形式も含まれ、ヘリオ・オイチシカの場合は、ペネトラブルと呼ばれている。オイチシカの芸術形式は、従来のアートが平面的であり、静的な表現主義に留まるのに対し、ピカソや太郎の芸術的な主題である「生きている有機物」という側面をより強調させている。実際的に、平面という二次元の形態を飛び出し、三次元の立体性へとアートを変化させた。1960年代後半まで、オイチシカの芸術は平面主義にとどまっていたが、それ以降、立体主義へと移行する。その中で、色彩的な要素という側面を強調させ、原色を中心とした目の覚めるような色彩を導入した。オイチシカは「複雑な人間の現実性を表現する」というテーマを自身の作品の中に組み込もうとした。また、文化的なものを生み出すという彼の主題は、現代的なアートが社会的な意味と密接な関係を持つことを象徴付けている。ただ、オイチシカの場合は、必ずしも客観主義を是認するものとはかぎらないことを付言しておきたい。

 

 「トロピカリア」という呼称は、国内のミュージックシーンで使用される以前に、オイチシカが芸術作品で使用したことがあった。1967年にリオデジャネイロで展示したアートワークに「トロピカリア」の名称を用いた。この言葉は、熱帯の楽園としてのブラジルの典型例として取り入れられた。ある意味では、オイチシカは「トロピカリア」を地上の楽園のシンボルとして広めようとした。その後、カエターノ・ヴェローゾがこのトロピカリアを曲のタイトルとして借用し、熱帯主義を象徴付けるに至った。これは全般的には、ミュージシャン、アーティスト、作家等が連動して、政治的な抑圧に際して、自由を獲得するための道のりの始まりであった。

 

 カエターノ・ヴェローゾは、最初のブラジルのトロピカリアの動向について、後に次のように回想している。「ヘリオがしていたことは、自由への欠如、そして自由への敬意にかけたものに対する過激な反応のようでした」これもまた、熱帯運動を推進したアーティストに、成熟した社会意識があったからこそ、こういった表現主義が沸き起こったわけである。もちろん、本記事は、過激な行動を推進するものではない。だが、芸術や音楽運動は、既存の見解や風潮とは別軸の側面を示すことなくしては、未知の表現主義が生み出されることはないとも言える。



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 フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」とは



ロネッツに始まり、ビートルズ、ビーチ・ボーイズ、そして、ブルース・スプリングスティーン、ラモーンズに至るまで、60年代以降の録音技術に革新をもたらしたフィル・スペクター。彼は、パンデミックの最初期に亡くなっている。日本のポップスにも影響を与え、大瀧詠一や山下達郎の録音作品にも影響を与えたとの諸説がある。フィル・スペクターが生み出した録音技術の中で、最も有名なのが「Wall of Sound(ウォール・オブ・サウンドー 壁に反響するサウンド)」である。

 

 フィル・スペクターは人物的には映画監督の黒澤明に近く、ワンマンに近い完璧主義のディレクションを採用した。そして、ディレクションなくして作品が成立しえないという点では、かなり限定的な録音手法だと言えるかもしれない。フィル・スペクターは、マイクの位置に徹底的にこだわり、演奏者が触れることさえ許さなかった。そして短い楽節を演奏を何度も繰り返させたことから、ミュージシャンからはあまり受けが良かったとは言えないかもしれない。


つまり、「ウォール・オブ・サウンド」の難点を挙げるとするなら、ミュージシャンの自由性や遊びの部分をほとんど許さず、演奏者の苦心をすべて録音作品の成果として吸収してしまうのである。これは彼がリヒャルト・ワーグナーに傾倒していた点からも分かる通り、ベルリン・フィルのカラヤンの名演のような演奏を生かしたエコーチェンバー(自然の反響)を組み上げようとしていたことが理解出来る。ちなみに、カラヤンは作曲者の指示を無視してストリングスの編成を増やし、重厚なサウンドを作ることがあった。チェイコフスキーのライブ等を参照。

 

 一般的な解釈としては、スタジオの壁に反響する音響(エコーチャンバー)を用いた録音技術として知られている。この名称「Wall Of Sound」を聴くと、彼が多重録音、つまりジャマイカで発生したダブのような形式で数々の名作を録音したと思う方もいるかもしれないが、事実はどうやら少し異なるようだ。どころか実際はそれとは正反対だ。フィル・スペクターは3トラックのマルチトラックレコーダーを使用して、彼はピアノ、ベース、ギター、コーラス、それからオーケストラをユニゾンで重ね、壁に反響するような重厚なサウンドを構築していったのだった。

 

 驚くべきことに、フィル・スペクターは、限定的な録音環境で重厚なエコーチャンバーを生み出したのである。彼は一般的に狭いレコーディングスタジオの四壁の反響の特性を活かして、音量、音圧、音の奥行きといった録音的なアンビエンスを見事に作り出したのだった。しかも、フィル・スペクターのカラヤン的な録音技法は徹底していた。18人から23人ものミュージシャンを比較的狭いスペースに集めて、演奏をさせ、それを一挙に録音したのである。彼の代名詞であるホーンセクション、リズム・セクションに関しては、一発録りで録音し、それらをミキサーで最終的な調節をかけるというものだった。これは実際的には彼の手掛けた録音作品に、ダイナミックさと生々しさを及ぼすことになった。しかし、同時に最終的な調整では、リバーヴ、ディレイ、ダイナミックレンジの圧縮(リミター的な処理)をミキサーで施した。

 

 

 フィル・スペクターのプロデュース作品は、ギター、ピアノ、ベース、ドラムといったシンプルな楽器編成に加えて、オーケストラ等のポピュラーミュージックとしては大編成の楽器が加わることもある。フィルハーモニーのような大編成の録音をどのように組み上げていったのか。 スペクターのウォール・オブ・サウンドの構築は、それらの基礎を担うシンプルなバンドのアンサンブルから始まる。ソングライターのジェフ・バリーによると、最初はギターの録音から始まることが多いという。


「4つまたは5つのギター、2つのベース、同じタイプのライン(ユニゾン)を加えて、それから弦を録音し、最終的に6つか7つのホーンセクションを加え、楽曲にパンチをもたらした。その後、パーカッションの録音に移行し、打楽器、小さなベル、シェーカー、タンバリンを付け加えた」 また、スペクターと頻繁に共同作業を行ったエンジニアのラリー・レヴィンも同じような証言を残している。「ギターから始めて、一時間の間に4-8の小節の録音を繰り返し、スペクターが納得するまで何度も反復する」というものだった。ビートルズの録音等では10テイクくらいまでが残されているが、実際には、20回から50回もの演奏に及ぶこともあったという。


 


レコーディングスタジオの音響  


 

 レコーディング・スタジオの空気感(アンビエンス)が作品全体に影響を及ぼすことがある。あるスタジオで録音された音源は音が敷き詰められているように思えるし、別のスタジオで録音された音源は、ゆったりとした間延びしたような音の印象を覚えることがある。言い換えれば、それは、建物や部屋のアンビエンス(音響や残響の全般のこと)の特性、マイクの位置、そして演奏者の距離が出力されるサウンドにエフェクトを及ぼすということである。フィル・スペクターは、実際的な録音の完成度の高さを目指したのは事実だと思うが、一方、彼はスペースのアンビエンスに徹底してこだわった。つまり、彼はレコーディングルームの空気感をマイクで録音し、モノラルでミックスしたのだった。そして、ウォール・オブ・サウンドの完成のために、不可欠だったのがロサンゼルスにある「Gold Star Studio」である。


 音の特性にこだわれば際限がなくなる。けれど、空間的な特性が録音に影響を与えることは実のところ免れないことである。例えば、メジャーリーグのスタジアムでも打球が飛びやすい球場とそうでない球場がある。また、フットボールのスタジアムでは、ボールがハネやすかったり、そうでなかったり、高地にあるので、スタミナを過剰に消耗しやすいフィールドもある。音楽も同じで、空気の乾燥、つまり湿度や温度、密度、壁や建材の材質までもが実際の録音に影響を与える。もちろん、コンクリートの壁であれば音は硬く聴こえるはずだし、反対に木材中心のスタジオでは反響は吸収されるが、コンクリートよりも柔らかいサウンドが得られるだろう。もちろん、レンガ壁等の特殊な録音空間では、予想も出来ない反響の結果が得られるに違いない。

 

 特に、フィル・スペクターが好んで使用し、ウォール・オブ・サウンドという名称が生み出されたゴールド・スター・スタジオもまた、現代的なレコーディングスタジオという観点から言うと、きわめて異質な環境であった。このスタジオからはビーチ・ボーイズ、ブライアン・ウィルソン、ジョン・レノンの名作が誕生した。伝説的なレコーディングスタジオとして知られている。




 ゴールド・スター・スタジオは、デヴィッド・S・ゴールド、スタン・ロスによって1950年に設立された。このスタジオの設備には、反響効果を及ぼす装置、エコーチェンバーが付属し、音の壁からボーカルが浮き出るような特異な感覚があったため、ウォール・オブ・サウンドの名称が誕生した。


このスタジオからはロネッツの「Be My Baby」、ビーチ・ボーイズの「Good Vibration」、ラモーンズの「Do You Remember Rock n' Roll Radio?」などが制作され、数々のグラミー賞ヒットナンバーを世に送り出したのは最早周知のことではないかと思われる。 

 

 本来であれば、フィル・スペクターが用いた録音の方法は理に叶ったものとは言えない。例えば、近距離で演奏すれば他のパートの楽器のノイズを拾ってしまう。しかし、フィル・スペクターは、この欠点を活かし、独特のアンビエンスを作り出すことに成功したのだった。特に、スタジオに付属しているエコーチェンバー(ルームエコー)の装置が、ウォール・オブ・サウンドの完成には不可欠だった。

 

 スペクターは、エコーマシンをディレイさせ、それをチェンバーに通した。その結果として生み出されるのは、個々の楽器の特性を掴みがたいような抽象的でありながら凄まじい密度を持つ重厚なサウンドであった。さらに、スペクターは最終のミックス時に、個々のトラックにエコーを掛け、何台ものテープマシンを回した。そして、同時にユニゾンで同じフレーズを演奏者に演奏させ、録音し、それらを組み合わせ、ミックスを加えていった。フィル・スペクターのサウンドは帰納的なものと言え、結果や結末から最初に行うべき録音を逆算していったのではないか。つまり彼の頭には理想的なサウンドがあり、どうすればその結果に辿り着くのかを試行錯誤していった。


 ゴールドスタジオはパラマウントの近くにあり、1950年代にハリウッドの音楽作家、そして映画、TV制作者のデモづくりのスタジオとして始まった。つまり、映画やドラマのサウンドトラック的な意味を持つ音源を制作するために作られたスタジオだった。これは大手レコード会社とは異なる運営方法を可能にしたにとどまらず、映画的なサウンドを作るための基盤になった。

 

 特に、スタジオにあるミキシングコンソールは、設立者のデイヴィッド・ゴールドが自作したものである。音響効果の装置を熟知した開発者が在籍していたことは、録音の特性を最大限に発揮させるための手助けともなった。また、このスタジオには優れたエンジニアが在籍していた。ラッカー盤に刻むカッティング・マシーンは、創設者のゴールドが自作し、アナログとは思えない卓越した音圧を得ることが可能になった。その他、エンジニアのラリー・レヴィンは、カッティング技術者として優れた技術を持っていた。つまり、こういった技術者の活躍があったおかげで、レコードとして高性能の再現力を持つ音源が完成した。それは芸術的な側面だけではなく、工業的な側面を併せ持つレコードの清華でもあったのだ。

 

 

ウォール・オブ・サウンドの以降



 

 果たして、ウォール・オブ・サウンドは時代遅れの録音技術なのだろうか。しかし、少なくとも、以降の大瀧詠一や山下達郎のような複数のアーティストにより、再現が試みられたことを見ると、まだまだ無限の可能性が残されているように思える。そして少なくとも、この録音技術は、機材の機能の制限から生み出された産物であったということである。もちろん、技術者として卓越したコンソール制作者がいたことは忘れてはいけない。そして事実、1960年以降、ウォール・オブ・サウンドの代名詞であったモノラル録音からステレオ録音に移り変わり、マルチトラック数が4から8、16へと増加していき、録音機器の可能性がエンジニアによって追求されていく過程で、この録音技術は時代に埋もれていった側面もある。しかし、ポピュラーミュージックの歴史を見る上で、限定的な数のトラックを用いた録音というのは、何らかの可能性が残されているかもしれない。ウォール・オブ・サウンドの演奏者が同じスペースで一発録りをする録音方法は現代でも取り入れられる場合があり、まだまだ何らかの可能性が残されているような気がする。

 

 以降、同時に録音出来るトラック数が増えたことは、実際的にソロアーティストが活躍する裾野を広げていった。 実際的に多数の演奏者が一つのレコーディングルームで演奏する必要がなくなったことが、グループサウンドやバンドサウンドがその後、いっとき衰退し、ソロアーティストの活動が優勢になっていく要因となったという話もある。つまり、録音技術の拡大は、必ずしもバンドやグループというセクションの録音にこだわらなくても良くなったというわけである。ビートルズやビーチボーイズの主要メンバーが以降、ソロ活動に転じたのは、最早バンドで録音を続ける意義を見出しづらくなったという要因があった。

 

 しかし、同時に、フィル・スペクターがエンジニアと協力して構築した「ウォール・オブ・サウンド」の最大の魅力や価値を挙げるとするなら、それは複数の演奏者が一同に介し、その瞬間にしか得られないような生のサウンドをリアルタイムで追求するということであった。結果的に、「同時に録音する」という行為は、想定した録音の結果が得られるとはかぎらず、偶然の要素、チャンス・オペレーションが発生する。そして、予測出来ない箇所にこそ、録音の可能性が残されているかもしれない。

 

 テクノロジーは、日々、革新を重ね、新しい録音システムが次々と生み出されている。旧来の可能性と未来の可能性が合致したとき、ウォール・オブ・サウンドに代わる新しい代名詞がどこからともなく登場するかもしれない。そして、その画期的な録音方法にはどんな名称が与えられるのだろう。考えるだけでワクワクするものがある。