Mdou Moctor 『Tears of Injustice』
![]() |
Label: Matador
Release: 2025年2月28日
Review 祖国ニジェールへの賛歌
『Tears of Injustice(不正義の涙)』は、Mdou Moctorが2024年に発表した『Funeral For Justice』のアコースティックバージョンによる再構成となっている。ハードロックを中心とする前作アルバムよりも音楽の旋律の叙情性とリズムの面白さが前面に押し出された作品である。このアルバムを聞くと、Mdou Moctorの音楽の旋律的な良さ、そして叙情的な側面がより明らかになるに違いない。『Funeral For Justice』の発売日前には本作の制作が決定していたというが、結局、彼等の故郷であるニジェールの国内の動乱ーー政権移行により、アルバムの制作は彼等にとってより大きな意義を持たせた。なぜなら、国境封鎖によりエムドゥー・モクターのメンバーは祖国ニジェールに帰国できなくなり、音楽によって望郷の歌を紡ぐ必要性に駆られたからである。
本作はブルックリンで録音されたが、遠ざかった故郷への郷愁、そして祖国への慈しみの感情が複数の民族音楽の中に渦巻いている。プロデューサー的な役割を持つコルトン、そして、ジミ・ヘンドリックスの再来とも称されるギタリストのモクターの他、四人組のメンバーの胸中はおだやかならぬものがあったはずだが、結果的に、彼等にとって象徴的なカタログが誕生したと見ても違和感がない。
ニジェールは西アフリカの砂漠地帯にある地域で、独特な民族衣装ーー古代ギリシアのチュニックのようなーー白い装束、ターバンのような帽子を着用するのが一般的である。しかし、最近では白い衣装だけではなく、他の色の衣装を身にまとうこともある。同時に、私達にとって彼等の衣装は奇異な印象を抱かせることがあるが、それはとりもなおさず、彼等の故郷の文化や風俗に対するリスペクトやスピリットを表し、それらを次世代に繋ごうという意味がある。例えば、「Takoba」を始めとする先行シングルのミュージックビデオでは原始的な情景をトヨタの車を運転して疾駆するという印象的な映像が出てくる。
こういったシーンを見ると、アフリカの原初的な光景を思い浮かべざるを得ないが、実際的な事実としては、ニジェール近辺の地域は2000年代以降、近代化が進み、デジタルデバイスが一般市民に普及し、市中をバスがふつうに走ったりしている。そして、エムドゥー・モクターというギタリストは、デジタルデバイスの一般的な普及を受けて登場したギタリストなのである。これらは、90年代以降の東アジアやドバイのような急速な発展を遂げた国家を彷彿とさせる。つまり、砂漠地帯というイメージだけでこの国家を語り尽くすことは難しい。それだけではなく、例えば、前作では、長らく植民地化されてきた西アフリカの代弁者として歯に衣着せぬ意見も滲んでいた。
それは領主国であったフランス(西側諸国)に対する辛辣な批評精神の表れでもあった。これらは、結局、アフリカ大陸や当該地域の国家の殆どが西側諸国に金融市場を牛耳られてきたこと、コートジボワールのような海岸地帯で象牙を過剰に乱獲したりと、生態系を破壊させる行為が行われてきたこと等、西側諸国の搾取の歴史を断片的に反映させた。無論、これはアフリカという地域がヨーロッパによって近代国家的な性質を付与されたことは相違ないが、同時に経済的な側面での搾取や文化破壊というあるまじき行為を助長させたのだった。(最近では、アフリカ諸国のBRICSへの参加により、世界情勢の均衡に変化が生じ、現在の世界は多極化している最中だという。つまり、覇権主義的な一国体制は過去の幻影へと変化しつつあるようだ)
結局のところ、それらがこのバンドの主要な音楽性であるエレクトリックを中心とする古典的な70年代のハードロックのアプローチによってストレートに展開されたのである。しかし、続く再構成バージョンは音楽的にも、全体に通底する文化的なメッセージにおいても、まったくその意を異にしている。これらの西アフリカの民族音楽の一つであり、アメリカのブルースやゴスペルのルーツとなった”グリオ”という祭礼で演奏される儀式音楽の要素が凝縮されている。これは、単独のメインシンガーを取り巻くようにし、複数の歌い手がコーラスの合いの手を入れる音楽形式である。日本の民謡等にもこの合唱の形式は発見することが出来る。例えば、ゴスペルは、アフリカの儀式音楽が海を越えて伝えられ、旋律的に洗練されていったものである。これらの正真正銘の伝統音楽は、アフリカの悠久の歴史を映し出すにとどまらず、大陸の国家や人々の様々な生き方や人生の一面をリアリスティックに描写する。このことにより、音楽的なエキゾチズム性はもちろんであるが、歴史や伝統性を反映させた作品に昇華された。もちろん、マタドールの現代性に重点を置いた録音技術も称賛に値するものとなっている。
しかし、長い時代、植民地化されてきたアフリカ、宗主国に翻弄されてきた国家、そういった複雑な歴史の流れを汲みながらも、Mdou Moctorは批判性だけに焦点を絞らず、それとは対照的にアフリカの伝統性の美しさと人類が進むべき建設的な未来に目を向ける。このアルバムは、前作では歴史の暗部に断片的に言及することのあったエムドゥー・モクターが原曲の再構成を通じて、祖国への郷愁という叙情的な感覚を基にし、世界の平和、国家の正常化、そしてまた、明るい未来への賛歌を歌うというコンセプトへと変容している。こういった音楽は、もし政権の転覆がなければ制作しえなかった。ハードロックソングが反体制的な意義を擁するとすれば、このアルバムはそれとは裏腹に保守的な表情をのぞかせる知られざるモクターの姿を映し出す。
さらに言えば、「国家」という共通概念を離れた場所から歌っていた前作のアルバムとはきわめて対象的に(地理的な録音場所はその限りではないにせよ)、ニジェールという国家に近い場所で音楽が鳴り響いているように思える。 いわば、近代以降、アフリカの諸国は国家として独立の歩みを続けてきたが、独立的な国家としての文化的な役割を探り、最終的に世界情勢に関して建設的な役割を持つ文化圏として歩むという、いかなる現代国家も通らざるを得ない役割を踏まえ、それらを代表者として演奏し、歌を紡ぎ、その伝統性を未来へと繋げる橋渡しの役割を司る。それがゆえ、このアルバムのモクターを中心とする歌声にはただならぬ覇気がこもっている。そしてアフリカの歴史に関心のない聞き手を引き付けるものが内在するのである。
無論、音楽的にも原曲とは主な印象を異にしている。70年代の古典的なハードロックをベースにしていた前作と比較すると、アコースティックギター、タブラ、ベースなどを中心に生の録音を活かし、アナログ性を最初の録音段階で重視した後、最終的には、現代的な要素であるデジタルレコーディングのプロセスを経て良質な録音作品に仕上がった。これらは伝統性と未来性という二つの文化的な精華の重なりを意味し、単なる音楽的なハイブリッドやクロスオーバーというテーマを乗り越え、本来はすべてが一つであるという神秘的な瞬間を体現している。
そして、それらが従来に培ってきたアフリカの民族音楽という形式を通じて、心地よくリズミカルな興趣に富んだ音楽が繰り広げられる。これらのニジェールの伝統音楽は、たしかに、西洋音楽の音階や旋法に慣れ親しんだ人々にとっては珍しい響きに聞こえる。リズム的にも変拍子が含まれ、多角的な旋律が縦横無尽に流れていく。これらは古典的な音楽の手法を通じて制作されているにもかかわらず、驚くべきことに、カウンターポイントとして非常に洗練されている。そして、本作の中には無数のアフリカの人々の営み、国家としての歴史の断片的な流れがまるで走馬灯のように流れ、一定のリズムやリフレインの多いアンセミックな響きを持つフレーズと合致し、音楽的な感覚、民俗的な感覚という二つの側面から見ても、極めて高い水準にある音楽として体現されている。そして、西アフリカに対する郷愁の感覚が複数のアコースティック楽器や歌声とぴたりと重なり合う瞬間、稀に見る美しい音楽がエキゾチズムという表向きの幕間の向こう側にたちあらわれ、本作のタイトルの冒頭に付与されている涙ーー人類全体に対する慈しみの思いーーが音楽の向こうにかすかに浮かび上がることに気づく。それは、音楽の表向きの魅力を示すにとどまらず、その向こう側にある芸術の本質的なコアの部分に肉薄したとも言えるかもしれない。彼等の音楽は一般的な評価軸から距離を置き、上や下、右や左、敵や味方、正と邪、そういった二元論における偏見的な概念を乗り越え、優れた音楽に欠かせぬ根源的な精神性を遺憾なく発揮している。だから聴いていて気持ちが癒される瞬間が込められているのかもしれない。
『Tears of Injustice』には、「Takoba」、「Imajighen」、前作のタイトル曲「Funeral For Justice」といった魅力的な曲が多い。そして編曲という観点から見ても、全く別の雰囲気を持つ曲に変身している。あらためてエムドゥーの魅力に触れる恰好の機会となるはずである。本作はエムドゥー・モクターというプロジェクトの編曲能力の高さを証明づけたにとどまらず、彼等が音楽的な核心を把握していることを印象付ける。本作ではエキゾチックであった音楽の印象が普遍的な感覚に変化する瞬間がある。要するに、遠くに鳴り響いていた彼等の音楽が身近に感じられる瞬間を体験することができる。そして、その音楽に耳を澄ました時、ないしは彼らの言葉を心から傾聴した時、まったく縁もゆかりもないはずのアフリカ、ニジェールという私達にとって縁遠い地域のことがなんとなく分かり、そして、人間の本質的な部分やその一端に触れることが出来るようになるのだ。
私達は日頃生きていて、画一的な価値観や思想に左右されることを避けられない。そういった固定概念をしばし離れて、音楽の持つ神秘性の一端に接することは、いわば未知なる扉を開くようなものである。しかし、未知の扉の先にある何かーーそれは実は、私達が物心付かない頃に持っていたのに、いつしか価値のないものとしてどこかに葬り去られてしまっただけなのかもしれない。
85/100