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 Mdou Moctor 『Tears of Injustice』

 


 

Label: Matador

Release: 2025年2月28日

 

 

Review  祖国ニジェールへの賛歌

 

 

『Tears of Injustice(不正義の涙)』は、Mdou Moctorが2024年に発表した『Funeral For Justice』のアコースティックバージョンによる再構成となっている。ハードロックを中心とする前作アルバムよりも音楽の旋律の叙情性とリズムの面白さが前面に押し出された作品である。このアルバムを聞くと、Mdou Moctorの音楽の旋律的な良さ、そして叙情的な側面がより明らかになるに違いない。『Funeral For Justice』の発売日前には本作の制作が決定していたというが、結局、彼等の故郷であるニジェールの国内の動乱ーー政権移行により、アルバムの制作は彼等にとってより大きな意義を持たせた。なぜなら、国境封鎖によりエムドゥー・モクターのメンバーは祖国ニジェールに帰国できなくなり、音楽によって望郷の歌を紡ぐ必要性に駆られたからである。

 

本作はブルックリンで録音されたが、遠ざかった故郷への郷愁、そして祖国への慈しみの感情が複数の民族音楽の中に渦巻いている。プロデューサー的な役割を持つコルトン、そして、ジミ・ヘンドリックスの再来とも称されるギタリストのモクターの他、四人組のメンバーの胸中はおだやかならぬものがあったはずだが、結果的に、彼等にとって象徴的なカタログが誕生したと見ても違和感がない。


ニジェールは西アフリカの砂漠地帯にある地域で、独特な民族衣装ーー古代ギリシアのチュニックのようなーー白い装束、ターバンのような帽子を着用するのが一般的である。しかし、最近では白い衣装だけではなく、他の色の衣装を身にまとうこともある。同時に、私達にとって彼等の衣装は奇異な印象を抱かせることがあるが、それはとりもなおさず、彼等の故郷の文化や風俗に対するリスペクトやスピリットを表し、それらを次世代に繋ごうという意味がある。例えば、「Takoba」を始めとする先行シングルのミュージックビデオでは原始的な情景をトヨタの車を運転して疾駆するという印象的な映像が出てくる。

 

こういったシーンを見ると、アフリカの原初的な光景を思い浮かべざるを得ないが、実際的な事実としては、ニジェール近辺の地域は2000年代以降、近代化が進み、デジタルデバイスが一般市民に普及し、市中をバスがふつうに走ったりしている。そして、エムドゥー・モクターというギタリストは、デジタルデバイスの一般的な普及を受けて登場したギタリストなのである。これらは、90年代以降の東アジアやドバイのような急速な発展を遂げた国家を彷彿とさせる。つまり、砂漠地帯というイメージだけでこの国家を語り尽くすことは難しい。それだけではなく、例えば、前作では、長らく植民地化されてきた西アフリカの代弁者として歯に衣着せぬ意見も滲んでいた。


それは領主国であったフランス(西側諸国)に対する辛辣な批評精神の表れでもあった。これらは、結局、アフリカ大陸や当該地域の国家の殆どが西側諸国に金融市場を牛耳られてきたこと、コートジボワールのような海岸地帯で象牙を過剰に乱獲したりと、生態系を破壊させる行為が行われてきたこと等、西側諸国の搾取の歴史を断片的に反映させた。無論、これはアフリカという地域がヨーロッパによって近代国家的な性質を付与されたことは相違ないが、同時に経済的な側面での搾取や文化破壊というあるまじき行為を助長させたのだった。(最近では、アフリカ諸国のBRICSへの参加により、世界情勢の均衡に変化が生じ、現在の世界は多極化している最中だという。つまり、覇権主義的な一国体制は過去の幻影へと変化しつつあるようだ)

 

結局のところ、それらがこのバンドの主要な音楽性であるエレクトリックを中心とする古典的な70年代のハードロックのアプローチによってストレートに展開されたのである。しかし、続く再構成バージョンは音楽的にも、全体に通底する文化的なメッセージにおいても、まったくその意を異にしている。これらの西アフリカの民族音楽の一つであり、アメリカのブルースやゴスペルのルーツとなった”グリオ”という祭礼で演奏される儀式音楽の要素が凝縮されている。これは、単独のメインシンガーを取り巻くようにし、複数の歌い手がコーラスの合いの手を入れる音楽形式である。日本の民謡等にもこの合唱の形式は発見することが出来る。例えば、ゴスペルは、アフリカの儀式音楽が海を越えて伝えられ、旋律的に洗練されていったものである。これらの正真正銘の伝統音楽は、アフリカの悠久の歴史を映し出すにとどまらず、大陸の国家や人々の様々な生き方や人生の一面をリアリスティックに描写する。このことにより、音楽的なエキゾチズム性はもちろんであるが、歴史や伝統性を反映させた作品に昇華された。もちろん、マタドールの現代性に重点を置いた録音技術も称賛に値するものとなっている。

 

しかし、長い時代、植民地化されてきたアフリカ、宗主国に翻弄されてきた国家、そういった複雑な歴史の流れを汲みながらも、Mdou Moctorは批判性だけに焦点を絞らず、それとは対照的にアフリカの伝統性の美しさと人類が進むべき建設的な未来に目を向ける。このアルバムは、前作では歴史の暗部に断片的に言及することのあったエムドゥー・モクターが原曲の再構成を通じて、祖国への郷愁という叙情的な感覚を基にし、世界の平和、国家の正常化、そしてまた、明るい未来への賛歌を歌うというコンセプトへと変容している。こういった音楽は、もし政権の転覆がなければ制作しえなかった。ハードロックソングが反体制的な意義を擁するとすれば、このアルバムはそれとは裏腹に保守的な表情をのぞかせる知られざるモクターの姿を映し出す。

 

さらに言えば、「国家」という共通概念を離れた場所から歌っていた前作のアルバムとはきわめて対象的に(地理的な録音場所はその限りではないにせよ)、ニジェールという国家に近い場所で音楽が鳴り響いているように思える。 いわば、近代以降、アフリカの諸国は国家として独立の歩みを続けてきたが、独立的な国家としての文化的な役割を探り、最終的に世界情勢に関して建設的な役割を持つ文化圏として歩むという、いかなる現代国家も通らざるを得ない役割を踏まえ、それらを代表者として演奏し、歌を紡ぎ、その伝統性を未来へと繋げる橋渡しの役割を司る。それがゆえ、このアルバムのモクターを中心とする歌声にはただならぬ覇気がこもっている。そしてアフリカの歴史に関心のない聞き手を引き付けるものが内在するのである。

 

 

無論、音楽的にも原曲とは主な印象を異にしている。70年代の古典的なハードロックをベースにしていた前作と比較すると、アコースティックギター、タブラ、ベースなどを中心に生の録音を活かし、アナログ性を最初の録音段階で重視した後、最終的には、現代的な要素であるデジタルレコーディングのプロセスを経て良質な録音作品に仕上がった。これらは伝統性と未来性という二つの文化的な精華の重なりを意味し、単なる音楽的なハイブリッドやクロスオーバーというテーマを乗り越え、本来はすべてが一つであるという神秘的な瞬間を体現している。

 

そして、それらが従来に培ってきたアフリカの民族音楽という形式を通じて、心地よくリズミカルな興趣に富んだ音楽が繰り広げられる。これらのニジェールの伝統音楽は、たしかに、西洋音楽の音階や旋法に慣れ親しんだ人々にとっては珍しい響きに聞こえる。リズム的にも変拍子が含まれ、多角的な旋律が縦横無尽に流れていく。これらは古典的な音楽の手法を通じて制作されているにもかかわらず、驚くべきことに、カウンターポイントとして非常に洗練されている。そして、本作の中には無数のアフリカの人々の営み、国家としての歴史の断片的な流れがまるで走馬灯のように流れ、一定のリズムやリフレインの多いアンセミックな響きを持つフレーズと合致し、音楽的な感覚、民俗的な感覚という二つの側面から見ても、極めて高い水準にある音楽として体現されている。そして、西アフリカに対する郷愁の感覚が複数のアコースティック楽器や歌声とぴたりと重なり合う瞬間、稀に見る美しい音楽がエキゾチズムという表向きの幕間の向こう側にたちあらわれ、本作のタイトルの冒頭に付与されている涙ーー人類全体に対する慈しみの思いーーが音楽の向こうにかすかに浮かび上がることに気づく。それは、音楽の表向きの魅力を示すにとどまらず、その向こう側にある芸術の本質的なコアの部分に肉薄したとも言えるかもしれない。彼等の音楽は一般的な評価軸から距離を置き、上や下、右や左、敵や味方、正と邪、そういった二元論における偏見的な概念を乗り越え、優れた音楽に欠かせぬ根源的な精神性を遺憾なく発揮している。だから聴いていて気持ちが癒される瞬間が込められているのかもしれない。

 

『Tears of Injustice』には、「Takoba」、「Imajighen」、前作のタイトル曲「Funeral For Justice」といった魅力的な曲が多い。そして編曲という観点から見ても、全く別の雰囲気を持つ曲に変身している。あらためてエムドゥーの魅力に触れる恰好の機会となるはずである。本作はエムドゥー・モクターというプロジェクトの編曲能力の高さを証明づけたにとどまらず、彼等が音楽的な核心を把握していることを印象付ける。本作ではエキゾチックであった音楽の印象が普遍的な感覚に変化する瞬間がある。要するに、遠くに鳴り響いていた彼等の音楽が身近に感じられる瞬間を体験することができる。そして、その音楽に耳を澄ました時、ないしは彼らの言葉を心から傾聴した時、まったく縁もゆかりもないはずのアフリカ、ニジェールという私達にとって縁遠い地域のことがなんとなく分かり、そして、人間の本質的な部分やその一端に触れることが出来るようになるのだ。

 

私達は日頃生きていて、画一的な価値観や思想に左右されることを避けられない。そういった固定概念をしばし離れて、音楽の持つ神秘性の一端に接することは、いわば未知なる扉を開くようなものである。しかし、未知の扉の先にある何かーーそれは実は、私達が物心付かない頃に持っていたのに、いつしか価値のないものとしてどこかに葬り去られてしまっただけなのかもしれない。

 

 

 

85/100 

 

 

「Takoba」

 Saya Gray 『Saya』

Label:Dirty Hit

Release: 2025年2月21日


 

Review

 

サヤ・グレイの記念すべきデビューアルバムの制作は2023年の日本への旅行が一つの契機となっている。もちろん、日本人のルーツを持つシンガーにとって、大きな意味を持つトリップになったに違いない。グレイは、EP作品において独創的なソングライティングや演奏、ボーカルを披露してきた。考えようによっては、少し移り気のある音楽性、どこに行くかわからない見ていてハラハラするシンガーソングライターである。このアルバムはレッド・ツェッペリン、ジョニ・ミッチェル、ビートルズといった彼女が愛してやまぬアーティストへのリスペクト代わりでもある。「Qwenty」シリーズでは気鋭のエレクトロニックプロデューサーとして、あるいはプログレッシヴロックやハードロック好きの意外な一面が伺えたが、デビューアルバムではそれらの中間点を行く音楽性が顕著である。つまり、ソングライティングや曲構成において非常にバランスの取れた内容となっている。従来の作品よりも聞きやすさがあるはずである。

 

 

インディーポップからダンス、ロック、ジャズ、ソウル、他にも広汎な音楽的な知識を伺わせるサヤ・グレイはデビュー作において、クワイアとエレクトロニックの融合、ネオソウルのポップ風のアレンジ、そして従来としては珍しくアメリカーナへの音楽的な言及も見出せる。グレイのソングライティングは基本的にはBon Iver、The Vernon Spring以降のコラージュのサウンド、サンプリング的な組み合わせが中心となっている。前作の「Qwenty」シリーズでは他の媒体からのサンプリングや自身のボーカルやギターの録音のリサンプリングなどが刺激的な楽曲として組み上げられていたが、依然としてデビュー・アルバムでもこれらのカットアップ・コラージュ、クラシック風に言えばミュージック・コンクレートの要素が楽曲の中心となっている。

 

これらの制作スタイルは例えば、JPEGMAFIAのようなラッパーが新しいヒップホップ、アブストラクト・ヒップホップの領域で実験的に導入しているが、それらをインディーズ系のポピュラーでやろうと試みているのがサヤ・グレイだ。こういったコラージュサウンドは、一般的に見ると、豊富な音楽的な知識が必要で、生半可に手を出すとダサいサウンドに陥るかも知れない。ある意味、ミュージシャンとしての自負が必要であり、自分が最もクールな音楽を知っているという強固な自意識が必要になってくる。そしてそれらを実現させるための高い演奏技術、ボーカルのセンス、全般的な音楽のディレクションなど、プロデューサー的な才能も必要になってくる。素人が手を出すような音楽ではなく、それ以前にジャズやクラシック、もしくはポピュラーやロックバンドで相当な経験を積まないと、洗練された作品を創り出すことはむつかしい。

 

一、二年前にはこのシンガーソングライター/作曲家が天才的な才覚を持つことに気がついていたが、それはある意味では無謀ともいうべき音楽の過剰な情報量と末恐ろしいようなインパクトが込められているのを感じたからである。このデビューアルバムでは過剰さや余剰の部分は削ぎ落とされ、フラットな音楽が出来上がったと言えようが、これはアーティスト自身がカルト的なポップシンガーの領域に収まりたくないという隠れた欲求を持っているからなのだろう。結果的にバランスの取れたインディーポップソングが収録されている。「Qwenty」シリーズほどの強烈さはないし、音楽的に散漫になるときやAIっぽい音楽すら登場するが、それもある意味では狙ってやっている部分があるのではないかと思う。半ば計算づくといったアルバムである。

 

 

サヤ・グレイの音楽は、枠組みや構成、もしくは前例といった既存の概念から読み解いても無駄である。また、他のミュージシャンがこの人の音楽を真似しようとしても徒労に終わる。それどころか、自分の不甲斐なさに愕然とするかもしれない。サヤ・グレイの音楽はきわめて感覚的なので、論理的な分析を行うのは無粋となるだろう。例えば、ロンドンのNilfur Yanyaはなんとなく良い感じの音楽を作っていると言っていたが、グレイの曲もまたそれに近い趣きがある。自分の感情やインスピレーション、それは絵画のスケッチや詩の断片のようなものをコラージュのように組み合わせていったらこうなったという感じかもしれない。だから他の人には作ることもできなければ模倣することもできない。なおかつ解釈次第では、音楽というリベラルアーツの記憶の集積、つまりダニエル・ロパティンの『Again』もそのような感じがあったのだが、制作者が見てきたもの、体験したもの、出来事に対する心の機微、そういった目に映らない要素の集積や積み重ねの作品といえるかもしれない。だから、音楽は一定ではなく、形態のようなものを持つことなく、ランタイムごとに音楽の表情がくるくると変わっていく。これは音楽を聞くというより、ある種のバーチャルな体験のような意味を持つ。だから決まった法則のようなものはない。聞き手側が自由に発想をふくらますことが出来るアルバムなのである。

 

その中にはクワイアとエレクトロニックやダンスを結びつけたもの、フォークやカントリーからの引用、ハードロックやベタなロックからの影響、アヴァンジャズの進行、もしくは遠くに鳴り響く日本的な音楽(これは制作者にとってエキゾチズムそのものである)が組み合わされ、オリジナリティの高い音楽が作り上げられる。ただ、映画のシークエンスのような興趣を持つインタリュードも収録されているとはいえ、表向きにはフォークミュージックの要素が強い。Big Thiefのようなインディーのモダンからの影響を基にし、それらをロンドン風のインディーポップソング(クロスオーバー化したポップソング)に落とし込む手腕はさすがと言うしかない。


例えば、アルバムの二曲目「SHELL」、そしてアルバムの終盤に収録されている「H.B.W」がこれに該当するかもしれない。その他の曲は多くがハイパーポップやエクスペリメンタルポップを通じた音楽家のアヴァンチュールの表れである。日本的な概念はかなり薄いというか、ほとんどないと思う。たぶん来日した時にアーティストが日本からかなり遠ざかったことを実感したものと思われる。しかし、その反面、逆説的になってしまうが、歌手の郷愁のような響きをこのアルバムのどこかに発見出来たとしてもそれは偶然ではないのである。

 

 

74/100

 

 

 

 「H.B.W」

Sam Fender 『People Watching』


Label: Polydor

Release: 2025年2月21日

 


Review

 

才能というものの正体が何なのか、本作を聴くとよりよく理解できる。『Seventeen Going Under』で大きな成功を掴んだ後、サム・フェンダーは地元ニューカッスルのセント・ジェームス・パークで公演を行う予定だったが、精神的な披露を理由にキャンセル。しばらくシンガーはお休みを取っていた模様であるが、ライブも再開し、徐々に本来の調子を取り戻しつつある。

 

前作ではメンタルヘルスなどの危機にある若者に対する応援ソングを中心に発表し、イギリス国内で不動の人気を獲得したサム・フェンダー。二作目のアルバムも良盤と言っても良いのではないか。スティングのような音域の広いボーカルは前作から引き継がれ、そしてそれらがドン・ヘンリーのような軽快なAORと巧みに合致している。こういった音楽を倦厭する人は少ないのではないか。ソングライターというのは、毎回のように何らかのテーマを探さねばならないので非常に大変であるが、どうやら傑出した歌手のもとには主題が向こうからあらわれるらしい。テーマというのは探すのではなく、すでに日常のどこかに偏在するものである。今回、サム・フェンダーは家族の問題、分けても彼にとって代理母のような存在をテーマにしている。

 

「タイトル曲『People Watching』は、僕にとって代理母のような存在で、昨年11月に亡くなった人のことを歌っています。私はその最期、彼女の側にいて、彼女の隣の椅子で眠っていたんだ。この曲は、その場所と家への往復で、私の頭の中をよぎっていたことを歌っている。彼女は僕にステージに上がる自信を与えてくれた人だし、いつも『なんで受賞スピーチで名前を出さないんだ』って言われていた。でも今は、曲(とアルバム)全体が彼女につながっている。彼女が今どこにいようと、『そろそろ坊や』と言って見守ってくれていることを願っている」

 

身近な人の死というのはかなり重い主題のように思えるが、生と同じく誰もが通らざるをえない扉である。ここでフェンダーは愛する人の彼岸への旅立ちを悲嘆で包むのではなく、温かい慈しみの心で送り出そうとしている。死とは今生から見た悲しみであるが、もちろん、そのなかに肯定の意味も見出すことが出来る。そこには現世的な概念からの魂の開放という前向きな考えも込められている。そして、それらの考えがアルバムのオープナーからほの見える気がしてならない。おそらく、タイトル曲を聴けば、本作が十分にポピュラーとして応力を持ち、多くの人々にとって普遍的な内容であることが理解していただけるだろう。それは死というレンズを通して生きる人が何をするべきなのかが暗示されている。軽やかに前進し、走り出すような感覚を持ったライトなロックソングは、彼が暗闇から立ち上がり、そして明るい方へ向かってゆっくりと歩き出す様子を捉えている。つまり、それが何らかの明るい感覚に縁取られている理由なのだろう。彼のポップ/ロックソングからは、走馬灯のように愛する人との記憶が立ち上ってくる。それがつまり、音楽として説得力を持ち、何らかの意義深さがある要因でもある。

 

 

特にサム・フェンダーのボーカルは、中音域から高音域に切り替わる時に、最も感動的な瞬間が訪れる。これはライブではすでにおなじみと言えるが、そういったボーカリストとしての素晴らしさを続く「Nostalgia's Lie」で確認することが出来る。ビリー・ジョエルを彷彿とさせるクラシカルなバラードソングは、サム・フェンダーの手にかかると、モダンなポピュラーへと変容する。それらがアコースティック/エレクトリックのギターの多重録音という、スコットランドのネオ・アコースティックなどでの象徴的なギターロックの要素と結び付けられる。サビの部分では、郷愁的な感覚が生み出され、やはりそこには温和な感覚がにじみ出ているのである。

 

前回のアルバムでは''懐古主義''と書いた覚えがあるが、それはフェンダーの楽曲に80年代から90年代のポピュラーの影響が感じられたからである。そして、二作目では2020年代にふさわしいポピュラーソングを書いたという印象を抱く。ただ、それもやはり オアシスのようなブリットポップの象徴的な音楽、そしてヴァーヴのようなポスト・ブリット・ポップの世代からの色濃い影響をうかがわせる。「Chin Up」はオアシスのヒット曲「Woderwall」を彷彿とさせるギターワークが光る。一方でボーカルの方はヴァーヴのリチャード・アシュクロフトのソングスタイルを彷彿とさせる。これらの組み合わせに、彼の音楽的な背景の一端を確認することも出来る。そして、何らかの影響こそ受けているが、それらをフェンダーらしいソングライティングや歌唱に昇華している。つまり、彼の歌は、やはり2020年代の象徴とも言えるのだ。2ndアルバムでは少し風変わりな音楽も含まれている。アコースティックギターの演奏をフィーチャーし、起伏に富んだ音楽を擁する「Wild Long Lie」はシンガーソングライターの新しい方向性を象徴づける楽曲といえるかもしれない。ゆったりしたテンポに戯れるように歌うフェンダーだが、この曲は途中シンセサイザーのアレンジを通して、ダイナミックな変遷を描く。

 

「Arm's Length」はオープニングと同様に、80年代のAORやニューウェイブのサウンドを活用し、シンプルなコード進行のロックソングに昇華している。近年、複雑化しすぎた音楽をより省略したり簡素化する一派が出てきている。昨年のファビアーナ・パラディーノのようにゆったりとしたスケールの進行やシンプルな曲作りは、POLICEのヒットソングのソングライティングのスタイルと組み合わされ、2020年代のUKロックのベースになったという気がしている。これはスティングだけではなく、The Alan Person's Project、Tears For Fearsのヒットソングの系譜に属している。これはもちろん類似性を指摘したいというのではなく、ヒットソングには必ずステレオタイプが存在し、過去の事例を活かすことが大切だということである。もちろん、それを現代の歌手としてどのように表現するのかが、2020年代に生きる人々の課題なのである。そして何かに似すぎることを恐れずに、自分なりの表現をつきつめていくのが最善であろう。

 

 

前作を聴いたかぎりでは、フェンダーの音楽が何年か経つと形骸化するのではないかという不安要素もあった。しかし、このアルバムではそういった心配は無用である。彼は、依然として80年代のディスコやダンスミュージック、華やかなMTV時代のポピュラー音楽に背を支えられ、軽妙で味のある2020年代の音楽を作り上げている。よく個性とは何かと言われることもあるが、それは端的に言えば、他者とは相異なる性質を示すことである。そして、それが意外なものであればあるほど、多くの人に受け入れられる可能性がある。音楽にちなんで言えば、他の一般的な人々とは異なる音楽的な背景がその人物の個性をはっきりと浮かび上がらせる。


例えば、一般的な音楽と相容れない性質を示すことを恐れていると、だんだんと音楽は無個性になり、均一化せざるを得ない。そして、一般的な要素を肯定しながらも、何かしら特異点を設けることが重要になってくる。それは音楽を演奏したり歌う人にとっては、その人が育った土地、環境、人生そのものを意味する。その点では、サム・フェンダーは本当の意味での他者が持たないスペシャリティを示しつつ、それをマイルドな方法で提示することに長けている。そしてそれこそが、ポピュラーミュージックでの大きな成功を掴むための秘訣でもあると思う。「Crumbing Empire」は、今多くの人が求めているタイプのポピュラーソングだと思う。それは聞きやすく、そして口ずさみやすいという商業音楽の基礎をしっかりと踏まえたものである。

 

『People Watching』は文句のつけようのない完成度だと思う。これらの楽曲の中では、苛烈なライブツアーの中で掴んだ手応え、大多数のオーディエンスとの共鳴する瞬間など、実際の体験者しかわからない感覚を踏まえて、的確なポピュラー/ロックソングとして昇華させているのが素晴らしい。

 

中盤ではビートルズのアートロックからの影響を感じさせる「Rein Me In」など、前作にはなかった実験的な音楽の方向性が選ばれている曲もあり、今後の制作にも期待したい。また、本作の中で最も力強くパワフルな「TV Dinner」は、フェンダーの新しいアンセム曲が誕生したと言えるかも知れない。この曲は、アリーナのスタジアムのライブパフォーマンスのために書かれた曲ではないかという推測も出来る。少なくともライブで素晴らしい効果を発揮しそうなトラックだ。


きわめつけは、クローズを飾る「Remember My Name」となるだろう。シンガーとしての圧倒的なスケールの大きさを感じさせるし、彼はこの曲で内側に秘めるタレントを惜しみなく発揮している。これまでで最もドラマティックなバラードソングである。ホーンセクションとサム・フェンダーのボーカル融合は新たな「ウォール・オブ・サウンド」が台頭したことを印象付ける。

 


 

95/100

 

 

 Best Track 「Remember My Name」

 Bartees Strange 『Horror』


Label: 4AD

Release: 2025年2月14日

 

 

Review

 

前作では「Hold The Line」という曲を中心に、黒人社会の団結を描いたバーティーズ・ストレンジ。2作目は過激なアルバムになるだろうと予想していたが、意外とそうでもなかった。しかしやはり、バーティーズ・ストレンジは、ブラックミュージックの重要な継承者だと思う。どうやら、バーティーズ・ストレンジは幼い頃、家でホラー映画を見たりして、恐怖という感覚を共有していたという。どうやら精神を鍛え上げるための訓練だったということらしい。

 

ということで、この2ndアルバムは「Horror」というタイトルがつけられたが、さほど「ホラー」を感じさせない。つまり、このアルバムは、Misfitsのようでもなければ、White Zombieのようでもないということである。アルバムの序盤は、ラジオからふと流れてくるような懐かしい感じの音楽が多い。その中には、インディーロック、ソウル、ファンク、ヒップホップ、むしろ、そういった未知なるものの恐怖の中にある''癒やし''のような瞬間を感じさせる。もしかすると、映画のワンシーンに流れているような、ホッと息をつける音楽に幼い頃に癒やされたのだろうか。そして、それが実現者となった今では、バーティーズがそういった次の世代に伝えるための曲を制作する順番になったというわけだ。ホラーの要素が全くないとは言えないかもしれない。それはブレイクビーツやチョップといったサンプルの技法の中に、偶発的にそれらの怖〜い感覚を感じさせる。しかしながら、たとえ、表面的な怖さがあるとしても、その内側に偏在するのは、デラソウルのような慈しみに溢れる人間的な温かさ、博愛主義者の精神の発露である。これはむしろ、ソングライターの幼少期の思い出を音楽として象ったものなのかもしれない。

 

バーティーズ・ストレンジは、オペラ歌手と軍人という特異な家庭に育ったミュージシャンであるが、結局、彼はギタリストとしての印象が強い。例えば、数年前にはロンドンにあるカムデンのマーケットでギターを選んでいる様子をドキュメント映像として残している。ギターに対する愛情は、アルバムの始めから溢れ出ている。そして、彼の家でかかっていたというパーラメント、ファンカデリック、フリートウッド・マック、テディ・ペンダーグラス、ニール・ヤング、そういった懐かしのR&B、そしてロック、さらにコンテンポラリーフォークまでもがこのアルバム全体を横断する。

 

「Too Much」のイントロはツインギターの録音で始まり、その後、まったりとしたR&Bへと移り変わる。それは、通勤電車やバスの向こうに見える人生の景色の変化のようである。そしてバーティーズはデビューの頃から培われたソウルフルなヴォーカルで聞き手を魅了する。ラフな感じで始まったこのアルバムだが、続く「Hit It Quit It」ではヒップホップとR&Bの融合というブラックミュージックの重要な主題を受け継いでいる。しかし、バーティーズのリリックは、それほど思想的にはならない。音楽的な響きや表現性が重要視されているので、言葉が耳にすんなり入ってくる。ファンカデリック、パーラメント好きにはたまらないナンバーとなるだろう。バーティーズはまた、哀愁のあるR&Bやソウルのバラードの系譜を受け継いでいる。「Sober」は、デビュー作に収録されている「Hold The Line」と同じ系統にある楽曲だが、しんみりしすぎず、リズムの軽やかさを感じさせる。エレクトリック・ピアノ(ローズピアノ)とセンチメンタルなボーカルが融合する。この曲は、ジャック・アントノフ&ブリーチャーズが志向するようなAOR、ソフィスティポップといった80年代のUSポップを下地にした切ないナンバーだ。


米国のトレンドに準じた形でアメリカーナを取り入れた曲が続く。「Baltimore」は、もしかすると、この土地に対するアーティストの何らかの繋がりのようなもの描いているのかもしれない。しかし、それほど、バーティーズの音楽はモダンにならず、70年代のUSロックの懐かしさに留まっている。これは彼の音楽観のようなものが幼い頃に出発しており、それらを現代のアーティストとして再現するのが理想だと考えるからなのだろうか。そして、アメリカーナ(カントリー)の要素は、バーティーズ・ストレンジが子供の頃に聴いていたニール・ヤングの世界観と結びつき、普遍的な響きのあるポップスとして蘇る。そして、それらは、南部のブルースの影響下にある渋いギターや曲調と繋がっている。むしろ、前作では、黒人社会について誰よりも真摯に考えていたシンガーであるが、この二作目では、人種的な枠組みを超えるような良質な曲を書いている。これは、明らかにシンガーソングライターとしての大きな成長といえる。なぜなら、この世界に住んでいるのは一つや二つの人種だけではないのだから。

 

「Lie 95」は、たぶんマイケル・ジャクソンのようなナンバーにすることも出来たかもしれない。しかし、この曲は少し控えめな感覚が維持されている。見え透いたようなきらびやかなポップスからは距離を置いているのが分かる。それが、渋さや深みのような奥深い感覚を漂わせている。もちろん、ポップソングとしての分かりやすさや聞きやすさという点はしっかりと維持した上で、深い感覚がしっかりと宿っている。従来のポピュラーソングの聞き方が少し変わるような面白い音楽である。結果的に、この曲は80年代のディスコとYves Tumorのハイパーポップのセンスを巧みに結びつけて、古さと新しさを瞬時にクロスオーバーするようなユニークな感じに仕上がっている。

 

中盤にもハイライト曲がある。最もロックソングの性質を前面に押し出した「Wants Need」は、ブリーチャーズとも共通点のあるナンバーである。 この曲はスプリングスティーンから受け継がれる定番のようなロックソング。しかし、それほどマッチョイズムにそまらず、中性的な感じが生かされているのが新しい。この曲でも、古典的な観念に染まりきらず、現代的な考えを共有しようという、ソングライターの心意気のようなものが伝わってくる。歌詞に関しても、無駄な言葉を削ぎ落としたような洗練性があり、耳にすんなり入ってくることが多い。「Love」は、アーティストがこれまでに作ったことが少ないタイプの曲ではないかと推測される。EDMに依拠したダンストラックで、この曲の全体に漂うダブステップの感覚に注目してもらいたい。

 

『Horror』は単なる懐古主義のアルバムではないらしく、温故知新ともいうべき作品である。例えば、エレクトロニックのベースとなる曲調の中には、ダブステップの次世代に当たる''フューチャーステップ''の要素が取り入れられている。こういった次世代の音楽が過去のファンクやヒップホップ、そしてインディーロックなどを通過し、フランク・オーシャン、イヴ・トゥモールで止まりかけていたブラックミュージックの時計の針を未来へと進めている。おそらくバーティーズ・ストレンジが今後目指すのは"次世代のR&B"なのかもしれない。


終盤のハイライト曲「Loop Defenders」「Norf Gun」には、未知なるジャンルの萌芽を見出すことが出来るはずだ。後者の曲については、Nilfer Yanyaが2022年のアルバム『Painless』で行ったR&Bの前衛性を受け継いだということになるだろうか。こういったフレッシュな音楽が次の作品ではどのように変容していくのかとても楽しみだ。

 


 

85/100 

 


 

 Best Track-「Norf Gun」

Horsegirl 『Phonetics On and On』

 

Label: Matador

Release: 2025年2月14日

 

Review

 

シカゴの三人組ロックバンド、ホースガールは正真正銘のハイスクールバンドとして始まり、同時にシカゴのDIYコミュニティから台頭したバンドである。

 

ファーストアルバムで彼女たちは予想以上に大きな成功を掴み、そしてコーチェラなどの大規模なフェスティバルにも出演した。現時点ではバンドは大成功を収めたと言えるが、問題は、そういった大きなイベントに出演しても当初のローファイなギターロックサウンドを維持出来るのかがポイントであった。それはなぜかと言えば、他のバンドやアーティストの音楽に目移りしてしまい、ホースガールらしさのようなものが失われるのではないかという一抹の懸念があったのである。大きなフェスティバルに出演した後でもホースガールは自分たちの音楽に自負を維持出来るのか。まだ若いので色々やってみたくなることはありえる。しかし、結果的には、周囲に全く揺さぶられることがなかった。ホースガールは、周りに影響されるのではなく、自分たちのリアルな経験や手応えを信じた。ファースト・アルバムほどの鮮烈さはないかもしれないが、本作の全編にはホースガールらしさが満載となっている。荒削りなサウンド、温和なコーラス、ラモーンズからヨ・ラ・テンゴまで新旧のパンク/オルタナ性を吸収し、的確なサウンドが生み出された。そして、今回はシカゴ的な気鋭の雰囲気だけではなく、西海岸のバーバンク、ウェスト・コーストやヨットロックを通過した渋さのある2ndアルバムが誕生した。

 

特に、コーラスの側面ではデビュー当時よりも磨きがかけられており、これらはホースガールのチームワークの良さを伺わせるもので、同時に現在のバンドとしての大きなストロングポイントとなっていると思われる。それらがノンエフェクトなギターサウンドと合致し、 心地良いサウンドを生み出す。ローファイなロックサウンドはマタドールが得意とするところで、Yo La Tengoの最新作と地続きにある。しかし、同じようなロックスタイルを選んだとしても、実際のサウンドはまったく異なるものになる。もっと言えば、ホースガールの主要なサウンドは、ヨ・ラ・テンゴやダイナソー・Jr.の90年代のサウンドに近いテイストを放つ。カレッジロックやグランジ的なサウンドを通過した後のカラリとした乾いたギターロックで、簡素であるがゆえに胸に迫るものがある。そして、適度に力の抜けたサウンドというのは作り出すのが意外に難しいけれど、それを難なくやっているのも素晴らしい。「Where'd You Go?」はラモーンズの系譜にあるガレージロック性を踏襲し、ラモーンズの重要な音楽性を形成しているビーチ・ボーイズ的なコーラスを交え、ホースガールらしいバンドサウンドが組み上がる。特にドラムの細かいスネアの刻みがつづくと、サーフロックのようなサウンドに近づくこともある。これは例えば、ニューヨークのBeach Fossilsのデビュー当時のサウンドと呼応するものがある。

 

最近では、インディーポップ界隈でもアナログの録音の質感を押し出したサウンドが流行っていることは再三再四述べているが、ホースガールもこの流れに上手く乗っている。厳密に言えば、アナログ風のデジタルサウンドということになるが、そういった現代のアナログ・リヴァイヴァルの運動を象徴付けるのが続く「Rock City」である。イントロを聴けば分かると思うが、ざらざらとして乾いた質感を持つカッティングギターの音色を強調させ、ピックアップのコイルが直に録音用のマイクに繋がるようなサウンドを作り上げている。これが結果的には、ブライアン・イーノがプロデュースしたTalking Heads(トーキング・ヘッズ)の『Remain In Light』のオープニングトラック「Born Under The Punches」のようなコアでマニアックなサウンドを構築する要因となった。しかし、ホースガールの場合は、基本的には、ほとんどリバーブやディレイを使わない。拡張するサウンドではなく、収束するサウンドを強調し、これらが、聴いていて心地よいギターのカッティングの録音を作り出している。いわば、ガレージロックやそのリバイバルの系譜にあるストレートなロックソングとしてアウトプットされている。そしてトーキング・ヘッズと同様にベースラインをギターの反復的なサウンドに呼応させ、さらにコーラスワークを交えながら、音楽的な世界を徐々に押し広げていく。まさしく彼女たちがデビュー当時から志向していたDIYのロックサウンドの進化系を捉えられることが出来る。 


「In Twos」では、デビュー当時から培われた神秘的なメロディーセンスが依然として効力を失っていないことを印象付ける。ゆったりとしたリズムで繰り広げられるサウンドは、温和なメロディーとニューヨークパンクの原点であるパティ・スミスのようなフォークサウンドと絡み合い、個性的なサウンドが生み出される。この曲でも、トラック全体の印象を華やかにしたり、もしくは脚色を設けず、原始的なガレージロック風のサウンドが、それらの温和な雰囲気と絡み合い、独特なテイストを放つ。

 

弦楽器のスタッカートやピチカートのようなサウンドをアンサンブルの中に組み込もうとも、やはりそれはヴェルヴェッツやテレヴィジョンの最初期のニューヨークパンクの系譜に位置づけられるサウンドが維持され、Reed & Nicoのボーカルのようなアートロックの範疇に留まっている。これらは結局、パッケージ化されたサウンドに陥らず、商品としての音楽という現代の業界のテーゼに対して、演奏の欠点をそのまま活かしたリアリスティックなロックサウンドで反抗しているのである。言い換えれば、それは上手さとか巧みさ洗練性というものに対する拙さにおけるカウンターでもある。これは結局、実際のサウンドとしては「Marquee Moon(マーキー・ムーン)」のポエティックな表現下にあるアートロックという形に上手く収まる。改めて、商業的なロックとそうでないロックの相違点を確かめるのに最適な楽曲となっている。

 

「2468」も同様に、フィドルのようなフォークソングの楽器を取り入れて、アメリカーナの要素を強調しているが、依然としてハイスクールバンドらしさが失われることはない。この曲には、学生らしさ、そして何かレクリエーションのような楽しさと気やすさに満ちている。 これらのサウンドは超越性ではなく、親しみやすさ、リスナーとの目線が同じ位置にあるからこそなしえる業である。ホースガールのサウンドは、これなら出来るかもしれない、やってみようという思いを抱かせる。それは、パティ・スミス、テレヴィジョン、ラモーンズも同じであろう。

 

続く「Well I Know You're Shy」は、ポエティックなスポークンワードと原始的なロックの融合性がこの曲の持ち味となっている。アルバムの序盤の複数の収録曲と同様に、ニューヨークの原始的なパンクやロックのサウンドに依拠しており、それはヴェルヴェットの後期やルー・リードのソロ作のような古典的なロックサウンドの抽象的なイメージに縁取られている。意外とではあるが、自分が生きていない時代への興味を抱くのは、むしろ若い世代の場合が多い。それらは、同時に過去の人々に向けた憧憬や親しみのような感覚を通じて、音楽そのものにふいに現れ出ることがある。この曲までは、基本的にはデビューアルバムの延長線上にある内容だが、ホースガールの新しい音楽的な試みのようなものが垣間見えることもある。「Julie」は、その象徴となるハイライトで、外側に向けた若さの発露とは対象的に内省的な憂鬱を巧みに捉え、それらをアンニュイな感覚を持つギターロックに昇華させている。比較的音の数の多いガレージロックタイプの曲とは異なり、休符や間隔にポイントを当てたサウンドは、ホースガールの音楽的なストラクチャーや絵画に対する興味の表れでもある。ベースの演奏のほかは、ほとんどギターの演奏はまるでアクション・ペインティングのようでもあり、絵の具を全体的なサウンドというキャンバスに塗るというような表現性に似ている。これらはまた、ホースガールのアーティスティックな表現に対する興味を浮き彫りにしたようなトラックとして楽しめる。

 

ニューヨークの原始的なロックの向こうには、マタドールのレーベルメイトのヨ・ラ・テンゴがいるが、最もカプラン節のようなものが炸裂する瞬間が続く「Switch Over」である。ミニマルなギターの反復というのはまさしくヨ・ラ・テンゴの系譜にあり、ホースガールがポスト世代にあることを印象付ける。 同時にコーラスやボーカルも一貫して言葉遊びのような方法論を活かし、心地よいロックサウンドが組み上がる。ホースガールのメンバーは基本的に、歌詞そのものを言語的にするのではなく、音楽的な響きとして解釈する。結果、ボーカルの声は器楽的な音響に近づき、英語に馴染みのない人にも調和的な響きを形成するのである。そしてミニマリズムの構成を通じて、モチーフの演奏を続け、曲の終盤にはより多角的なサウンドや複合的なサウンドを作り上げる。これらは毛織物の編み込みのように手作りなサウンドの印象に縁取られ、聴いていて楽しい印象を抱くに違いない。最初は糸に過ぎなかったものが、ホースガールの手にかかると、最終的にはカラフルでおしゃれなセーターが作り上げられるという次第だ。

 

基本的にはこのアルバムはニューヨークの印象とシカゴのDIYの趣向性に縁取られている。しかし、稀に西海岸のサウンドが登場する。これらのサウンドは現代の北米のミュージックシーンの流れに沿ったもので、基本的にはホースガールは流行に敏感なのである。そして、それらはまだ完成したとは言えないが、次のバンドの音楽の暗示ともなっているように感じられる。「Information Sound」、「Frontrunner」はイギリスのフォークムーブメントと呼応するような形で発生したバーバンクサウンドや最初期のウェスト・コーストサウンドの系譜にあるノスタルジックなフォークサウンドである。これらは70年代初頭のカルフォルニアのファン・ダイク・パークスといったこのムーブメントの先駆的なミュージシャンと同じように、 フォークとロックの一体化というイディオムを通して、アメリカ的なロックの源流を辿ろうとしている。

 

アルバムの最後には、ホースガールらしいサウンドに回帰する。これらはニューヨーク、シカゴ、西海岸という複数の地域をまたいで行われる音楽の旅行のようで興味をひかれる部分がある。「Sports Meets Sound」では、ローファイなロックとコーラスワークの妙が光る。しかし、それはやはりハイスクールバンドの文化祭の演奏のようにロック本来の衝動的な魅力にあふれている。そして最もソングライティングの側面で真価が表れたのが、続く「I Can't Stand to See You」であり、サーフロックの系譜にあるサウンドを展開させ、海岸の向こうに昇る夕日のようなエンディングを演出する。本作を聴いた後に爽やかな余韻に浸ることが出来るはずである。

 

 

80/100 

 

 

「Julie」

Helen Ganya 『Share Your Care』


Label: Bella Union

Relase: 2025年2月7日

 


Review



スコットランド在住で、タイにルーツを持つシンガー、ヘレン・ガーニャはベラ・ユニオンから発売された新作で摩訶不思議なポピュラーワールドを展開している。祖母の死をきっかけに書かれたアルバムで、タイとの繋がりが断ち切られるおそれを抱いたヘレン・ガーニャは、前作の発売前にこの新作に着手しはじめました。日記を手に入れ、タイでの思い出にまつわる子供の頃についての楽曲を書き始めた。結果的には、西洋側から見たアジアではなく、アジアそのものの奥深いルーツを辿ることになった。そのプロセスでシンガーは大切なことに気がつきました。家族や伝統的な概念に対する愛情、現代社会における過度な個人主義の歪みでした。

 

そういった社会的な問題は、家族愛やタイやシンガポールとの関係によって演繹され、温かく朗らかな愛情のひと雫に変化しています。それはとりもなさず、幼少期に彼女を育ててくれた祖母をはじめとする家族という概念がアルバムの音楽に通底しているからなのでしょうか。音楽としてはタイの民族楽器であるラナットエット、フルート、サックスが登場しますが、これらは西洋主義に慣らされた人々にとってはエキゾチックに聞こえるに違いありません。ときどき、それはタイのボクシングを観戦するときの「チャイヨ!」という掛け声にたちあらわれます。

 

本作は、音楽的にはシンセポップが中心となっており、ビョークの最初期やミツキの初期のアプローチに重なるものがある。しかし、同時に、それらのシンセポップは、タイの民族音楽や祭礼の音楽によって強められ、独自の音楽に変化しています。いわば、アジアの音楽に詳しくない方にとっては、これらの音楽は摩訶不思議に聞こえるでしょう。しかし、これらはアジア発祥の音楽がベースになっています。西洋主義が優勢になるにつれ、多くの人はアジア的な概念がなんであるのかを忘れてしまった。そんな中で、アジア出身の歌手が西洋びいきのポップスを制作する中で、ヘレン・ガーニャは西洋音楽と東洋音楽の融合に取り組んでいる。これが結果的に、心地よいサウンドとオリジナリティの高い音楽性を生み出すことになったのでした。 


アルバムは流行りのインタリュードの形式を各所に設け、物語性を付与し、起承転結のあるポピュラーソングが展開されます。これは例えば、YMOのようなアジアのサウンドがギターを中心としたモダンなポップスに生まれ変わり、タイやシンガポールのような地域の原初的な音楽と結びついたらどうなるのか、という空想でもあるのです。しかし、その空想は、タイの楽器演奏者、Artit Phoron、Chinnathip Poolapという現地の音楽をよく知るコラボレーターに恵まれたことで現実に近づいた。ヘレン・ガーニャの音楽的な構想には''ファンタジア''の要素が求められますが、実際的には現実性に富んだ音楽性が組み込まれている。まさしく、彼女がこれらの音楽の制作や歌唱を通じて、幼少期の思い出に近づいたとき、温かな感覚が蘇る。それは私たちが見る現実以上にリアルです。そして、その音楽という端緒を通じて、タイとのつながりを取り戻す。''無くしたと思っていたものが、実は身近にあったことに気がつく''という次第なのです。

 

アルバムのオープナーから軽快な印象です。「Share You Care」ではファジーなシンセポップにヘレン・ガーニャの華麗なボーカルが乗せられる。全体的な音楽の枠組みが西洋に依拠しているからと言えども、そのメロディーの節々にはアジアのテイストが漂う。聴く人にとっては少しエキゾチックにも聞こえるかもしれませんが、懐かしい感覚が蘇る。それらをスタイリッシュな感覚に充ちたポップスに落とし込むという点では、ニューヨークのインディーポップシーンに呼応するもので、セイント・ヴィンセントのデビューアルバムを彷彿とさせます。アジアのよな抜き音階を踏襲したシンセのベースライン、そしてボーカルが心地良いサウンドを生み出している。ダンス・ポップ、ないしはシンセ・ポップとして申し分のないナンバーでしょう。

 

ファンタジックな音楽性は「Mekong」に登場します。ギターのアルペジオを中心に組み上げられるポップソングはやがてビョークの系譜にあるアートポップの手法においてその壮大さを増していき、アーティストの持ちうる音楽的な世界が序盤から見事に花開いています。プレスリリースで紹介されている通り、これらのポップスはシネマティックであるばかりか、映像的な側面を持つ。実際的にリスナーは音楽の持つ換気力により何らかのイメージを膨らますことが出来ます。ベースラインの進行が秀逸であり、ボーカルの主旋律を上手く補佐し、なんらかの切ないイメージのような感覚を聞き手の脳裏に呼び覚ます。音楽の持つ想像性が発揮された瞬間です。この曲にはプロデューサーとシンガーのイメージが巧みに合致した瞬間を捉えられます。

 

「Intelude-1」を挟んで、 Zitherのような楽器の華麗なアルペジオが登場する「Fortune」はエキゾチックな民族音楽とポピュラーの融合を意味します。Zitherは、フォルテ・ピアノの原型とも言われ、日本の琴の音にも近似している。少なくとも、この曲では、タイの象徴的な仏教寺院などで聞かれる祭礼の音楽を、親しみやすく聞きやすいサウンドに編曲しています。エスニックなサウンドにビョークの系譜にあるアートポップの要素を結びつけて、新鮮味溢れる音楽性を作り上げている。これらのサウンドには、例えば、ニューヨークの伝説的な歌手、Murgo Garyanの象徴づけられるバロックポップからの影響がうかがえ、チェンバロのような背景のサウンドと上手くマッチしています。近年の米国のポップスの懐古的なサウンドを踏襲しつつ、それらにエキゾチズム(アジアのサウンド)を付与したことが、曲にささやかな楽しみをもたらす。


「Horizon」は、ピアノとヨットロックのようなギターを結びつけたナンバーです。ペシミスティックな雰囲気を持つバラードソングで、ここではおそらく亡き祖母との思い出、そしてタイという土地のつながりについて追憶します。つまり、全体的に見ると、オペレッタの作風が取り入れられ、セイント・ヴィンセントやビョークのアートポップの音楽性に直結しています。そして驚くべきことに、それは単なるエンターテインメント以上の意味を擁する。とりもなおさず、消えかけた記憶の糸をたぐりよせる……、それこそ歌手にとってのリアリティを意味するのでしょう。これらは聞き手を追体験のような瞬間に誘い、感情的な気分にさせることがある。

 

「Morlam Plearn」は、推察するに、タイの民族音楽ということになるでしょうが、例えば、アイルランドのLankumの音楽性と相通じるものがあります。あまり詳しくありませんが、タイの吹奏楽器や弦楽器が登場し、これらはスペインのアルフォンソ国王の御代の中世ヨーロッパの音楽を彷彿とさせる。アルフォンソは、トルコや北ヨーロッパとの交易を通じて原初的な民族音楽を確立しました。後にコーカサスの音楽と結びつき、例えば、ゲオルギイ・グルジェフのような音楽家/舞踏家が「アルメニアの民族音楽」として紹介しました。タイとの関連性は不明なのですが、少なくとも、この曲においてリズムミカルな舞踏音楽と結びつけ、祭礼的な意味合いの強い楽曲として昇華している。二つ目のインタリュード「Interlude-2」は、子供の頃の思い出を呼び覚ますためのもの、過去の声の日記(ボイスメモ)のような意味合いがあるのでしょうか?

 

分けても、アジアの音楽のテイストとシンセ・ポップやダンス・ポップと上手く結びつけたのが終盤の収録曲で、これらは単なる奇異の目をもってアジアの音楽を聴く以上の魅力が感じられる。「Bern Nork」ではタイで流行しているポピュラーソングがかくなるものではないかと想像させる。それが、実際、モダンでスタイリッシュな感覚を持つポップソングに昇華されている。そして、ヘレン・ガーニャの歌声には、ちょっとした可愛らしさと可笑しみが含まれていて、これもファンタジーに登場する妖精のようにファニーな雰囲気を持ち合わせている。特に、このアルバムで完成度が最も高い曲が続く「Hell Money」でしょう。この曲では、アルバムの全体的なシンセ・ポップという枠組みの中で、歌手のメロディーセンスが光る瞬間でもある。そして、この曲には開放的な感覚に充ちていますが、それはケルト民謡の要素が含まれており、この音楽の特徴である牧歌的な雰囲気がモダンなアートポップの中で個性的な魅力を放つ。

 

終盤にも素敵な曲が収録されています。タイのボクシング観戦の時に言うセリフ「チャイヨ!」という掛け声は、YMO、JAPANのようなニューロマンティックの系譜にあるサウンドと結びついて、懐かしくレトロな響きを生み出す。最後のインタリュード「Interlude 3」では、子供の遊び場のサウンドスケープが呼び覚まされる。続くアルバムのクローズを飾る「Myna」は、クライマックスを飾るに相応しいダイナミックなバラードソング。歌手としての存在感を示すにとどまらず、歌唱の表現力の豊かさを発揮しています。今後がとても楽しみなシンガーソングライターがスコットランドから登場しました。ヘレン・ガーニャの今後の活躍に注目です。

 

 

80/100

 

 

 

 

「Hell Money」

 Squid  『Cowards』

 

Label: Warp

Release: 2025年2月7日

 

 

Review

 

最もレビューに手こずった覚えがあるのが、Oneohtrix Point Never(ダニエル・ロパティン)の『Again』だったが、ブリストルのポストパンクバンド、Squidの『Cowards』もまた難物だ。いずれも、Warpからの発売というのも面白い共通点だろう。


そして、いずれのアルバムも成果主義に支配された現代的な観念からの脱却を意味している。スクイッドは無気力と悪魔的な考えがこのアルバムに通底するとバンドキャンプの特集で語った。また、サマーソニックの来日時の日本でのプロモーション撮影など、日本に纏わる追憶も織り交ぜられており、日本の映像監督が先行曲のMVを制作している。従来、スクイッドは、一般的なロンドンのポストパンクシーンと呼応するような形で登場。同時に、ポストパンクの衝動性というのがテーマであったが、ボーカルのシャウトの側面は前作『O Monolith』から少し封印されつつある。それとは別のマスロックの進化系となる複雑なロックソングを中心に制作している。さて、今回のイカの作品は音楽ファンにどのような印象をもって迎え入れられるのだろう。

 

 

近年、複雑な音楽を忌避するリスナーは多い。スクイッドも、時々、日本国内のリスナーの間でやり玉に挙げられることもあり、評論家筋の評価ばかり高いという意見を持つ人もいるらしい。少なくとも、最新の商業音楽の傾向としては、年々、楽曲そのものが単純化されるか、省略化されることが多いというデータもあるらしい。また、それはTikTokのような短いスニペットで音楽が聞かれる場合が増加傾向にあることを推察しえる。ただ、音楽全体の聞き方自体が多様化しているという印象も受ける。以前、日本のTVに出演したマティ・ヒーリーは短いスニペットのような音楽のみが本質ではないと述べていた。結局、音楽の楽しみ方というのは多彩化しており、簡潔な音楽を好む人もいれば、それとは反対に、70年代のプログレッシヴロックのような音楽の複雑さや深みのような感覚を好き好むと人もいるため、人それぞれであろう。ちゃちゃっとアンセミックなサビを聞きたいという人もいれば、レコードで休日にじっくりと愛聴盤を聞き耽りたいという人もいるわけで、それぞれの価値観を押し付けることは出来ない。

 

一方、スクイッドの場合は、間違いなく、長い時間をかけて音楽を聞きたいというヘヴィーなリスナー向けの作品をリリースしている。また、『Cowards』の場合は、前作よりも拍車がかかっており、まさしくダニエル・ロパティのエレクトロニクスによる長大な叙事詩『Again』のポストロックバージョンである。スクイッドは、このアルバムの冒頭でチップチューンを絡めたマスロックを展開させ、数学的な譜割りをもとに、ミニマリズムの極致を構築しようとしている。

 

スクイッドはアンサンブルの力量のみで、エキサイティングなスパークを発生させようと試みる。バンドが語るアパシーという感覚は、間違いなくボーカルの側面に感じ取られるが、バンドのセッションを通じてアウトロに至ると、そのイメージが覆されるような瞬間もある。それは観念というものを打ち破るために実践を行うというスクイッドの重要な主題があるわけだ。激動ともいえるこの数年の大きな流れからしてみれば、小市民は何をやっても無駄ではないのかという、音楽から見た世界というメタの視点から、無気力に対して挑もうとする。これが「Crispy Skin」という日常的な出来事から始まり、大きな視点へと向かっていくという主題が、ミニマリズムを強調した数学的な構成を持つマスロック、そしてそれとは対象的な物憂げな雰囲気を放つボーカルやニューウェイヴ調の進行を通じて展開されていく。この音楽は結果論ではなく、「過程を楽しむ」という現代人が忘れかけた価値観を思い出させてくれるのではないか。

 

以前、ピーター・ガブリエルのリアル・ワールド・スタジオ(実際はその近くの防空壕のようなスタジオ)で録音したとき、スクイッドは成果主義という多くのミュージシャンの慣例に倣い実践していたものと思われる。だが、このアルバムでは彼等は一貫して成果主義に囚われず、結果を求めない。それがゆえ、非常にマニアックでニッチ(言葉は悪いが)なアルバムが誕生したと言える。その一方で、音楽ファンに新しい指針を示唆してくれていることも事実だろう。

 

そして「プロセスを重視する」という指針は、「Building 500」、「Blood On The Boulders」に色濃く反映されている。ベースラインとギターラインのバランスを図ったサウンドは、従来のスクイッドの楽曲よりも研ぎ澄まされた印象もあり、尚且つ、即興演奏の側面が強調されたという印象もある。いずれにしても、ジャジーな印象を放つロックソングは、彼等がジャズとロックの融合という新しい節目に差し掛かったことを意味している、というように私自身は考えた。


続く「Blood On The Boulders」では、ダークな音楽性を通して、アヴァンギャルドなアートロックへと転じている。ハープシコードの音色を彷彿とさせるシンセのトリルの進行の中で、従来から培われたポストパンクというジャンルのコアの部分を洗い出す。この曲の中では、女性ボーカルのゲスト参加や、サッドコアやスロウコアのオルタネイトな性質を突き出して、そしてまるで感情の上がり下がりを的確に表現するかのように、静と動という二つのダイナミクスの変遷を通じて、スクイッドのオリジナルのサウンドを構築するべく奮闘している。まるでそれは、バンド全体に通底する”内的な奮闘の様子”を収めたかのようで、独特な緊張感を放つ。また、いっとき封印したかと思えたジャッジのシャウトも断片的に登場することもあり、これまで禁則的な法則を重視していたバンドは、もはやタブーのような局面を設けなくなっている。これが実際的な曲の印象とは裏腹に、何か心がスッとするような快感をもたらすこともある。

 

 

同じように、連曲の構成を持つ「Fieldworks Ⅰ、Ⅱ」では、ハープシコードの音色を用い、ジャズ、クラシックとロックが共存する余地があるのかを試している。もっとも、こういった試みが出来るというのがスクイッドの音楽的な観念が円熟期に達しつつある証拠で、アンサンブルとしての演奏技術の高いから、技巧的な試みも実践出来る。しかし、必ずしも彼等が技巧派やスノビズムにかぶれているというわけではない。


例えば、「Ⅰ」では、ボーカルそのものはスポークワンドに近く、一見すると、回りくどい表現のように思えるが、ハープシコードの対旋律的な音の配置を行い、その中でポピュラーソングやフォーク・ソングを組み立てるというチャレンジが行われている。そして「Ⅰ」の後半部では、シンセによるストリングスと音楽的な抑揚が同調するようにして、フィル・スペクターの「ウォール・オブ・サウンド」のオーケストラストリングを用いて、息を飲むような美しい瞬間がたちあらわれる。この曲では必ずしも自己満足的なサウンドに陥っていないことがわかる。ある意味では、音楽のエンターテインメント性を強調づけるムーブメントがたちあらわれる。

 

また、「Ⅱ」の方では、バンドによるリズムの実験が行われる。クリック音(メトロノーム)をベースにして、リズムから音楽全体を組み上げていくという手法である。また、その中にはジャズ的なスケール進行から音楽的な細部を抽出するというスタイルも含まれている。一つの枠組みのようなものを決めておいて、そのなかでバンドメンバーがそれぞれ自由な音楽的表現を実践するという形式をスクイッドは強調している。それらがグラスやライヒのミニマリズムと融合したという形である。それが最終的にはロックという視点からどのように構築されるかを試み、終盤に音量的なダイナミクスを設け、プログレやロック・オペラの次世代にあるUKミュージックを構築しようというのである。試みはすべてが上手くいったかはわからないけれども、こういったチャレンジ精神を失えば、音楽表現そのものがやせほそる要因ともなりえる。

 

以後、楽曲自体は、聞きやすい曲と手強い曲が交互に収録されている。「Co-Magnon Man」ではロックバンドとしてのセリエリズムに挑戦し、その中でゲストボーカルとのデュエットというポピュラーなポイントを設けている。シュトックハウゼンのような原始的な電子音楽の醍醐味に加えて、明確に言えば、調性を避けた十二音技法の範疇にある技法が取り入れられるが、一方で、後半では珍しくポップパンクに依拠したようなサビの箇所が登場する。明確にはセリエリズムといえるのか微妙なところで、オリヴィエ・メシアンのような「調性の中で展開される無調」(反復的な楽節の連続を通して「調性転回」の技法を用いるクラシック音楽の作曲方法で ''Sequence''と言う)というのが、スクイッドの包括的なサウンドの核心にあるのだろう。これらの実験音楽の中にあるポップネスというのが、今後のバンドのテーマになりそうな予感だ。また、ギターロックとして聞かせる曲もあり、タイトル曲「Cowards」はそれに該当する。ここでは、本作のなかで唯一、ホーンセクション(金管楽器)が登場し、バンドサウンドの中で鳴り響く。アメリカン・フットボールの系譜にあるエモソングとしても楽しめるかもしれない。

 

どうやら、アルバムの中には、UKの近年のポストロックやポストパンクシーンをリアルタイムに見てきた彼等にしか制作しえない楽曲も存在する。「Showtime!」は、最初期のBlack Midiのポスト・インダストリアルのサウンドを彷彿とさせ、イントロの簡潔な決めとブレイクの後、ドラムを中心としたスムーズな曲が繰り広げられる。そして、アルバムの序盤から聴いていくと、観念から離れ、現在にあることを楽しむという深い主題も見いだせる。そのとき、スクイッドのメンバーは、おそれや不安、緊張から離れ、本来の素晴らしい感覚に戻り、そして心から音楽を楽しもうという、おそらく彼等が最初にバンドを始めた頃の年代の立ち位置に戻る。


アルバムの最後では、彼等のジャンルの括りを離れて、音楽の本質や核心に迫っていく。ある意味では、積み上げていったものや蓄積されたものが、ある時期に沸点のような瞬間を迎え、それが瓦解し、最終的には理想的な音楽に立ち返る。その瞬間、彼等はアートロックバンドではなくなり、もちろんポストパンクバンドでもなくなる。しかし、それは同時に、心から音楽をやるということを楽しむようになる瞬間だ。「Cowards」は、音楽的に苦しみに苦しみ抜いた結果にもたらされた清々しい感覚、そして、次なるジャイアント・ステップへの布石なのである。

 

 

 

 

 82/100

 

 

Best Track 「Blood On The Boulders」

Mogwai 『The Bad Fire』 

 

Label: Rock Action

Release: 2025年1月24日

 

Review  モグワイの復活の狼煙

 

この数年間、スコットランドのモグワイは、2020年のEP『Take Side』を除いては、その仕事の多くがリミックスや映像作品のサウンドトラックに限定されていた。見方によっては、バンドではなくスタジオミュージシャンに近い形で活動を行っていた。(ライブパフォーマンスを除いては)『The Bad Fire』は、四人組にとって久しぶりの復帰作となる。以前はポストロックの代表的な存在として活躍したばかりではない。モグワイは音響派の称号を得て、オリジナリティの高いサウンドを構築してきた。

 

『The Bad Fire』は、”労働者階級の地獄”という意味であるらしい。これらは従来のモグワイの作品よりも社会的な意味があり、世相を反映した内容となっている。モグワイのサウンドは、シューゲイズのような轟音サウンド、そして反復構造を用いたミニマリズム、それから70年代のハードロックの血脈を受け継ぎ、それらを新しい世代のロックへと組み替えることにあった。ミニマリズムをベースにしたロックは、現代の多くのバンドの一つのテーマともいえるが、モグワイのサウンドは単なる反復ではなく、渦巻くようなグルーブ感と恍惚とした音の雰囲気にあり、アンビエントのように、その音像をどこまで拡張していけるのかという実験でもあった。それらは彼らの代表的な90年代のカタログで聴くことができる。そして、この最新作に関して言えば、モグワイのサウンドはレディオヘッドの2000年代始めの作品と同様に、イギリスの二つの時代の音楽を組み合わせ、新しいハイブリッドの音楽を生み出すことにあった。エレクトロニックとハードロック。これらは、彼らがイギリスのミュージック・シーンに台頭した90年代より以前のおよそ二十年の音楽シーンを俯瞰して解釈したものであったというわけなのだ。

 

 

おそらくモグワイは、何らかの作品をもう少し早くリリースすることも出来たかもしれないが、じっくりと時間をかけてバンドサウンドを熟成させ、一流プロデューサー、ジョン・コングルトンとともに制作に取り組んだ。このことは、アルバム全体のイメージ、そしてタイトルにも只ならぬ迫力をもたらし、様々な観点から音楽を聴くことを可能にしている。そして、モグワイの代名詞的な音響派/ポストロックのサウンドとともに、復活の狼煙を上げることになったのだ。彼らのサウンドは、決して時代に先行しているわけではない、いや、新しさや新奇性という側面では、同レーベルに所属する彼らの弟分であるbdrmm、もしくは、Squidの方がはるかに上手だろう。しかしながら、新しい作品をリリースせずにはいられないなにかがあったにちがいない。

 

モグワイの新作アルバムは奇妙な作品である。上記で述べたような、以前の世界、そして以後の世界を繋ぐようなロックミュージックが展開され、それは新しいとも古いともつかない奇異な印象を与える。また、彼らのロックソングは、90/00年代のエレクトロニックに寄りかかっているようでいて、2020年代の雰囲気を持ち合わせている。むしろ、『The Bad Fire』は、時間の感覚が薄れ、聞き手が所在する時代の感覚を希薄にするような魅力が随所に散りばめられている。モグワイの王道のマーチングのような勇壮なリズムが現代的なコングルトンのデジタルサウンドの中に見つかったかと思えば、それは必ずしも90年代のループサウンドやミニマリズムのように持続せず、夢想的、幻想的な雰囲気に留まることなく、痛烈なリアリズムが出現する。

 

例えば、オープニングトラック「God Gets You Back」では、従来のモグワイの幻想的なサウンドの向こうから、なにかリアリティのあるバンドセッションが浮かび上がってくる。二つの世界を組み込んだメタフィクションの音楽は、明らかに従来のモグワイのものではない。そして、モグワイはインストゥルメンタル中心の音楽性で知られているが、この曲は珍しくボーカル付きである。浮遊感のあるボーカルトラックはキュアーの最盛期、ブリットポップの最盛期の90年代前半に聞き手を誘う。しかし、一貫して恍惚としたサウンドは維持されている。お馴染みの巧緻なミニマリズムを基調にしたサウンドの向こうに浮遊感のある夢想的なボーカルが登場する。これらは、単なる轟音性や映像的な質感を持ち合わせていた、かつてのモグワイのサウンドとは明らかに一線を画していることに、勘の鋭いリスナーはお気づきになられるに違いない。


そういった中で、2曲目「Hi Chaos」は、対象的にポストロックや音響派の象徴的なサウンドとなっている。しかし、最初から音像を闇雲に拡大するのではなく、バンドセクションや録音スタジオの空気感やテンションを重視しているという点においては、従来のモグワイのサウンドとは異なる。しかし、イントロから中盤までは、対比的なロックソングーーディストーションとクリーントーンーーという彼らの独自のサウンドスタイルは維持されている。これがドラマや映画のサウンドトラックとは異なる''バンドの録音作品''という性質が色濃く立ち上ってくる。中盤以降は、そのなかで、70年代のUKハードロックサウンドをベースにした白熱したバンドセッションが展開される。アルバムの冒頭から、このアルバムが必ずしもプロデュース的な作品に属さず、バンドサウンドのリアリズムを濃縮させたものであるということがはっきりと伝わってくる。さらにループサウンドを用いながら、バンドの音楽の熱量を少しずつ引き上げていき、最終的には4分以降は、GY!BEを彷彿とさせる、うねるような轟音のロックミュージックが展開される。


「What Kind Of Mix This Is」は、ポストロックの原初的なサウンドに回帰している。例えば、オーストラリアのDirty Three、米国のRed Stars Theory、Mineralなどに代表されるエモ/スロウコアのニュアンスを含んだアルペジオがイントロに配され、叙情的なサウンドが広がりを増していく。その中で、レディオヘッドの系譜にあるエレクトロニックを吸収したロックは、モグワイの手にかかると、ゆったりとしていながらも勇壮なイメージを持つ楽曲へと変化していく。そして、やはり、彼らの特徴的なリズムがベースとなり、それらを反復的に続けながら、徐々にバンドサウンドとして白熱する瞬間を探求していこうとする。つまり、バンドセッションを辛抱強く続けながら、心地よい沸点を迎える瞬間を探しあてていくのである。しかし、すでにこのバンドのファンはご存知の通り、モグワイのサウンドの一番の迫力は、内的に静かに燃え上がるような激しさにある。これらは、以降、むしろ単なるポストロックやスロウコアというよりも、プログレッシヴロックに近い曲調へと変遷を辿る。YES、Pink FloydのようなUKミュージックの元祖に近くなる。


アルバムは、少しマニアックに傾きかけるが、どうやらモグワイの新作に見いだせるのは、ニッチさだけではない。彼らは『 The Bad Fire』においてロックソングの核心のようなものを提示することもある。例えば、続く「Fanzine Made of Flesh」ではシンプルな8ビートをもとにダフト・パンク的なロックを展開させる。ボーカルトラックにはボコーダー/オートチューンをかけ、近未来的なサウンドを突き出す。また、そこにはAIテクノロジー優勢の時代の感覚が反映されている。かと思えば、続く「Pale Vegan Hip Pain」においては、フロイドの『Dark Side Of The Moon』の作風を下地にしたペーソスのある静かで瞑想的なギターロックソングで聞き手を魅了する。しかし、その中で、オムニコードのようなチープでレトロなシンセが最初期のモグワイの感覚をありありと蘇らせる。さらに続く、「If You Find This World Bad,You Should See Some of The Others」は、静謐なロックソングから轟音へと移行していく。いかにもモグワイらしい一曲となっている。


モグワイとしての新機軸を示したのが、続く「18 Volcanoes」である。背景となるシューゲイズ的なフィードバックの轟音を活かしているが、ボーカルそのものはポピュラーに根ざしており、コントラストを活かしたロックソングを組み上げている。ここには、モグワイのMBV的な性質が出現する瞬間を捉えられる。終盤の三曲は、いずれも実験的なロックバンドとして、未知なるサウンドの追求を意味する。ただ、それはモグワイとしての唯一無二の境地に辿りついたかはまだわからない。「Hammer Room」では、The Smileを彷彿とさせるエレクトロニックたダンスミュージックを反映させたロックソング、「Lion Rumpus」では、ハードロックとエレクトロニックの融合、そして、クローズ「Fact Boy」では、クレスタを用いて、オーケストラ楽器がロックバンドのアンサンブルの中でどのように響くのかを探求している。アウトロでは、近年のドラマなどの映像作品へのサウンドトラックの提供という貴重な経験を活かし、映像的なエンディングを構築する。この点においては、Explosions In The Skyとの共通点も発見できるかもしれない。

 

 

 

 


78/100



 

 

「What Kind Of Mix This Is」

Franz Ferdinand 『The Human Fear』

Label: Domino

Release: 2025年1月10日


Review


スコットランドのフランツ・フェルディナンドは、2000年代からイギリスのロックシーンを牽引してきたリーダー的な存在であり、アークティック・モンキーズとデビューの時期が被っている。その両バンドが同レーベル、Dominoに所属しているというのは、なにかの奇縁としか言いようがない。フランツ・フェルディナンドは、ダンスロックという2000年代初頭のムーブメントを牽引したが、この最新アルバムでも、たとえ若干のメンバーチェンジがあったにせよ、彼らのアプローチには大きな変更はない。しかし、アレックス・カプラノスをはじめとするバンドメンバーの胸中には、アルバムのタイトルにあるように、恐怖という感情があったという。制作に関して、ビックネームのバンドにも、おそれという感情が湧き出るというのは驚きであるが、ある意味ではそれを乗り越えるためのアルバムではないかと思われる。

 

アルバムはドラムのカウント代わりに、アレックス・カプラノスの掛け声とともに始まり、ライブセッションのような感じで始まる。オープナーを飾る「Audacious」からフランツ節が炸裂し、軽快なディスコロック風のナンバーが繰り広げられる。まるで長年のモヤモヤした感覚を振り払うかのようなシンプルで親しみやすいロックソングによって新旧のロックファンの心を掴む。しかし、以前と大きく変わらないように見えるが、実際はサビにおいてスタジアムアンセムへと移行し、長らくライブ・バンドとしてのキャリアを歩んできたバンドとしての迫力を見せる。変拍子の展開を交えているが、シンプルでフックのある曲作りでシンガロングを誘発する。また、ロックソングの安心感やメロディアスという側面も今回のアルバムでは強調されている。「Everydaydremaer」ではやはりダンサンブルなロックソングの側面を押し出しているが、リバティーンズの最新作と同様に、バラード的な叙情性がボーカルから湧き上がり、それらがベースラインと絶妙に重なり合っている。また、バンドサウンドの側面でも工夫が凝らされ、メロトロン風のシンセとベースがボーカルの合間に入り、良い空気感を創り出している。

 

「The Doctor」は明らかに80年代のシンセ・ポップやポピュラー・ソングに根ざしていて、懐古的な雰囲気を漂わす。しかし、バンドサウンドとしては、モダンなロックサウンドを意識しており、タイトな楽曲に仕上がっている。特に続く「Hooked」はフランツ・フェルディナンドの復活を告げるハイライトである。サブベースの強いエレクトロサウンドをディスコのビートと組み合わせて軽快なロックソングに仕上げている。この曲には、アルバムのテーマである恐怖を打ち破るような力があり、聴いているだけで活力がみなぎってくるような効果がある。デビューアルバムの頃から培われたジプシー音楽のスケールを生かしたロックソングもある。「Built Up」において哀愁のある旋律性を活かし、アンセミックな楽曲性を強調する。同じく、「Night Or Day」ではハードロック風の楽曲のスタイルを選んでいるが、やはり南欧の哀愁のあるサウンドがシンプルな構成の中で個性的を雰囲気を醸成している。相変わらずカブラノスのボーカルはクールさとシニカルな印象を持つが、やはり彼らの音楽は不動のものという気がする。簡単に模倣出来るようでいて、そうではない唯一無二のサウンドが貫流している。

 

このアルバムは押しも押されぬフランツらしい作品として十分に楽しめるような内容となっている。しかし、新たに ポピュラー・ソングやワールド・ミュージックの要素が以前よりも色濃くなったという点を言及しておきたい、それは実際にアルバムを楽しむ上で、一度聴いただけでは掴み難い、渋さや奥深さという魅力にも成りえる可能性がある。例えば、前者は、「Tell Me What I Should Stay」では、Wham!を彷彿とさせる年代を問わず楽しめるポップソングとして、スコットランドのケルト民謡のリズムが登場する「Cats」では、電子音楽とは異なる民族音楽を要素がダンスミュージックの色合いを強調させ、心楽しいサウンドが立ち現れている。

 

また、アルバムの終盤でもワールド・ミュージックの要素が一つのキーポイントとなりそうだ。「Black Eyelashes」では奇妙なサーカスのようなサウンドが登場する。そしてそれらをフランツ・フェルディナンドはパブロックのような渋いロックサウンドと結びつける。ボーカルやバンドアンサンブルから立ち上る哀愁やペーソスのような感覚がこの曲を個性的にしている。最近、2000年代に登場したバンドは、ガレージロックを忘れつつあるが、フランツに関してはそうではなかった。「Bar Lonely」では、ガレージロックの風味をどこかに残しつつ、彼らの得意とするダンスロックのようなサウンドを織り交ぜ、それらを最終的ポピュラー的なフィルターに通している。ここにはやはり、ライブ・バンドとして名を馳せてきたバンドの真骨頂のようなものを見出すことも出来るかもしれない。意外とかっこいいと思ったのがクローズに収録されている「The Birds」である。70年代のThe Byrdsのサウンドを彷彿とさせるコアなハードロックソングは懐かしさとともに普遍性を感じとることが出来る。さまざまな角度から楽しめるロックアルバム。フランツは今なお良質なバンドであることを証明付けている。




76/100


 

 

Best Track 「The Hooked」

  Lambrini Girls 『Who Let The Dogs Out』

 

Label: City Slang

Release: 2025年1月10日


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Review


ブライトンのノイズパンクデュオ、ランブリーニ・ガールズのデビュー・アルバム『Whor Let The Dog Out』は年明け早々、痛撃だったと言える。デビュー・アルバムらしからぬ完成度、あるいはデビューアルバムらしい初期衝動を収めこんだ正真正銘のハードコア・パンクアルバムとなっている。ランブリーニ・ガールズこと、フィービー(ボーカル)、リリー(ベース)は、Banksyという謎めいたドラマーとレコーディングに挑んでいる。ランブリーニ・ガールズはライオット・ガールパンクの先駆者的な存在、Bikini Kllを聴いて大きな触発を受けたという。そして、彼女たちもまた次世代のライオット・ガールのアティテュードを受け継いでいるのは間違いない。

 

プレスリリースでは、すでに家父長制度や女性に対する性的搾取など、現代の社会が抱える病理のようなものに対し唾を吐きかける。吐きかけるというのは、実際的に、ランブリーニ・ガールズのボーカル(実際にはスポークンワードとスクリームによる咆哮)にはっきりと乗り移り、すさまじい嵐のようなハードコアサウンドが疾駆する。実際的には、ランブリーニガールズのパンクは、現在のポスト・パンクの影響がないとも言いがたいが、Gorlilla Biscuits、Agnostic Frontといったニューヨークのストレート・エッジがベースにありそうだ。ゴリゴリというべきか、無骨なパンクサウンドは、ベースとギターの唸るようなハイボルテージにより、地獄の底から業火が吹き上がるようなサウンドがオープナー「Bad Apples」から炸裂する。ランブリーニ・ガールズは実際的なサウンドにとどまらず、ウィットに富んだ表現を兼ね備えている。さらにタブーをタブとも思わない。続く「Company’s Culture」において悪しき企業文化(どのような国家にも存在する)をチクリとやり、オフィスで性的な視線を向ける男性社員をシニカルに描写し、アメリカンコミック的な雰囲気でやり込める。実際的に、バンドの二人はステージでセクハラを受けたこともあるというが、これらもまた人生から引き出された個性的なサウンドである。そしてヴォーカルのフレーズごとに抑揚を変化させ、怒りを巧みに表現する。



ランブリーニ・ガールズは、ウィットとユーモアも忘れていない。「Big Dick Energy」は、下卑た笑いを湧き起こすが、実際的に風刺的なシニカルさは乾いたような笑いを巻き起こす。しかしながら、両者は、パンクという枠組みの中で、空想や絵空事を描こうというのではない。実際的な恐怖や腐敗、退廃等を相手取り、それらに痛快な一撃をお見舞いする。それらはオールドスクール・ハードコアの領域に属した荒削りなパンクソングーーBad Brains、Gorlilla Biscuitsーーといった原初的なハードコアパンクのイディオムの中で繰り広げられる。そのサウンドは、Black Flagのようなカルフォルニアパンクの元祖から、ストレイトエッジの原点に迫る場合もあり、このジャンルの祖であるTeen Idlesのような衝動に任せたパンクソングが組み上がる。Bad Religionのように政治的でないがゆえ、むしろ直情的なパンクとも言える。しかし、曲の途中では、スポークンワードというよりも、ステートメントのように変わるのも面白い。フィービーはヴォーカルの性格を曲の途上でたえず変化させ、別人のように変わることもある。

 

 

パンクソングという側面から見ると、Bikini Killの系譜にある「No Homo」もかなり楽しめるはずだ。カルフォルニアパンクの文脈を受け継いだ上で、同じ海岸沿いという都市の性質を活かし、それを見事にブライトン一色に染め上げる。この曲では、彼女たちはパンクというよりも、それ以前のロックンロール性に照準を絞り、タイトなロックソングに昇華している。ギターのプレイに関しては、グレッグ・ギンの系譜にあり、スリーコード中心であるが、ザラザラとした音作り、分厚い音像を徹底的に突き出し、ライブサウンドに相応しいサウンドを創り出す。ライブアクトとして国内で旋風を巻き起こしているランブリーニガールズの象徴的なトラックと言える。中盤でも、モチベーションを保持しながら、バランスの取れたサウンドで勢いを維持している。特に、「You're Not From Around Here」はロックソングとして聴いてもかっこいいし、ライブでも映えるようなナンバーであると思う。ローファイの側面を強調した分厚いギターで始まり、ハイハットの裏拍の強調により、この曲は見事なほどまでにドライブ感を増す。さらに、それらのサウンドにフィービーのボーカルは引けを取らない迫力で聴覚を捉える。

 

全般的にはオールドスクールハードコアをベースにしたサウンドであるが、「Filthy Rich Nepo Boy」は、どちらかといえば、メタルをクロスオーバーさせたニュースクールハードコアに属する。基本的には、オールドスクールとニュースクールの相違点は、縦ノリか横ノリかという違い、もしくは観客のダンスという点でモッシュ的な動きか、腕を振り回しながら踊るという違いでしかないが、ここではカオティックハードコアの系譜を踏まえ、これらの二つの乗りを同期させ、曲の構成ごとに異なるビート感覚を組み上げる。これらはむしろ、ストップ&ゴー(ブレイクを挟んで早いテンポに変わる)が満載だったストレイトエッジのサウンドの次世代の象徴とも成りうる。表面上はストレートで直情的なようでいて、入念にサウンドが作り込まれているのに驚き。さらに不協和音を生かしたギターはグレッグ・ギンに匹敵するかっこよさ。

 

ランブリーニ・ガールズにとって「ノイズ」というのは、この世に蔓延る仕来り、倫理観、常識といった道徳とは正反対にある概念に対する違和感である。それらが内側に蓄積され、そしてそれらが長いあいだ堆積を経たのち、怒りによってメラメラと燃えあがると、表面上にハードコア・パンクという形で現出することになる。ノイズ、軋轢、退廃、アナーキズムといったパンクの原初的なイデアを濾過し、現代的な感覚に置き替えたともいえるだろう。アルバムの終盤にも興味をひかれる曲が満載となっている。「Special Different」ではランブリーニ・ガールズが他の並み居るバンドとは一線を画すことを示し、最初期のデイヴ・ムスティンのようなスラッシーでメタリックなサウンドが炸裂。この瞬間、多くの現代のパンクバンドが見失いかけていた”重力”をランブリーニ・ガールズは手中に収めることになった。これらのヘヴィネスは、アルバムの終盤でも維持され、そしてやはり十分な勢いを保ったまま突き進んでいく。「Love」はニューメタルの代名詞的なトラックで、今後のランブリーニの布石となりそうだ。デュオは、ニューメタルの止まりかけた時計の針を一秒だけすすめ、去り際に痛烈なポストメタルソングをリスナーにお見舞いする。最後はエレクトロポップな感じでサラッと終わるのも◎。

 

 

 

85/100

 


Best Track 「You're Not From Around Here」

Yoshika Colwell・The Varnon Spring  『This Weather(E.P)』

 

Label: Blue Flowers Music

Release: 2024年12月6日



Review  エクペリメンタルポップのもう一つの可能性 

 

ロンドンをベースに活動するYoshika Colwell(ヨシカ・コールウェル)の新作『This Weather』はThe Vernon Spring(ヴァーノン・スプリング)が参加していることからも分かる通り、ピアノやエレクトロニクスを含めたコラージュ・サウンドが最大の魅力である。単発のシングルの延長線上にある全4曲というコンパクトな構成でありながら、センス抜群のポップソングを聴くことが出来る。

 

ヨシカ・コールウェルは、イギリスの伝統的なフォークサウンドから影響を受けており、同時にジョニ・ミッチェルに対するリスペクトを捧げている。例えば、ミッチェルの1971年の名作『Blue』のようなコンテンポラリーフォークの風味を今作に求めるのはお角違いと言える。しかしながら1970年代の西海岸の象徴的な音楽性、ジャズシーンでも高い評価を受けた名歌手の影響をコールウェルのボーカルに見出したとしても、それは気のせいではない(と思う)。


それに加えて、ポスト・クラシカルともエレクトロニックとも異なるヴァーノン・スプリングの制作への参加は、このささやかなミニアルバムにコラージュサウンドの妙味を与えている。Bon Iver以降の編集的なポップスであるが、その基底には北欧のフォークトロニカからのフィードバックも捉えられるに違いあるまい。また、感の鋭いリスナーはLaura  Marling(ローラ・マーリング)のソングライティング、最新作『Patterns In Repeat』との共通点も発見するかもしれない。


EPの収録曲に顕著なのは、エレクトロニカとフォークトロニカのハイブリッドであるフォークトロニカをポップネスとして落とし込むという点である。オープニングを飾る「No Ideology」を聴くと分かる通り、グロッケンシュピール等のオーケストラの打楽器をサンプリング的に配し、ジャズ的な遊び心のあるピアノの短い録音をいくつも重ね合わせ、コラージュサウンドを組み上げていく。聴いているだけで心が和みそうなサウンドの融和は、コンテンポラリーフォークを吸収したヨシカ・コールウェルのボーカルと巧みに折り合っている。現代的な「ポップスの抽象化」(旋律や和音、そして全般的な楽曲の構成の側面に共通している)という観点を踏まえ、自然味に溢れ、和らいだポピュラーワールドが構築されていく。そして、ピアノの演奏の複数の録音やグロッケンシュピールの音色が、アンビバレント(抽象的)なボーカルと重なりあうとき、曲のイントロからは想像だにしないような神秘的なサウンドが生み出される。ここには構築美というべきか、音を丹念に積み上げることによって、アンビエント風のポップスが完成していく。この曲は近年の実験的なポップスの一つの完成形でもあるだろう。



ヴァーノン・スプリングのエレクトロニカ風のサウンドは次の曲に力強く反映されている。「Give Me Something」は前の曲に比べると、ダンサンブルなビートが強調されている。つまり、チャーチズのようなサウンドとIDMを融合させたポピュラー・ミュージックである。この曲ではイギリスのフォーク・ミュージックからの影響を基にして、エレクトロニカとしてのコラージュ・サウンドに挑んでいる。Rolandなどの機材から抽出したような分厚いビートが表面的なフォークサウンドと鋭い対比を描きながら、一曲目と同じように、グロッケンシュピール、ボーカルの断片が所狭しと曲の中を動き回るという、かなり遊び心に富んだサウンドを楽しめる。また、サウンドには民族音楽からのフィードバックもあり、電子機器で出力されるタブラの癒やしに満ちた音色がアンビバレントなサウンドからぼんやり立ち上ってくる。色彩的なサウンドというのは語弊があるかもしれないが、多彩なジャンルを内包させたサウンドは新鮮味にあふれている。ボーカルも魅力的であり、主張性を控えた和らいだ印象を付与している。

 

「Your Mother’s Birthday」はローラ・マーリングとの共通点が見いだせる。クラシックを基にしたピアノ、そしてエレクトロニカを踏襲したシンセ、そしてボーカルが見事に融合し、上品さにあふれる美しい音像が組み上げられていく。結局のところ、この曲を聞くかぎり、2020年代の音楽においては、北欧のエレクトロニカもポスト・クラシカルも旧来のフォークやポップスと影響を互いに及ぼしながら、新しいポップスの形として組み込まれつつあるのを実感せざるを得ない。こういったサウンドは、今後、主流のポピュラーの重要な基盤を担う可能性もありそうだ。そして楽曲は、旋律の側面においても、構成的な側面においても、緩やかな波を描きながら、曲の後半では、ドラマティックな瞬間を迎え、そしてアウトロにかけてクールダウンしていく。この曲には、即効性や瞬間性とは異なるオルトポップの醍醐味が提示されている。

 

EPのクローズも個性的なサウンドを楽しめる。この曲は、EDMとネオソウルのハイブリッドサウンドをイントロで強調した後、意外な展開を辿る。エレクトリック・ピアノを背景の伴奏として、ドラマティックなポピュラーミュージックへ転変していく。一曲目と同じように、最初のモチーフは長い時間を反映しているかのように少しずつ形を変え、植物がすくすくと葉を伸ばし成長していくように、ダイナミックでドラマティックな変遷を辿る。いわば最初のモチーフから曲が成長したり、膨らんでいくようなイメージがある。つまり、制作者のイマジネーションによって、民族音楽の打楽器をボーカルの背景に配し、エキゾチックなサウンドを強調させるのである。最終的には種にすぎないモチーフが花開くような神秘的な瞬間は圧巻と言える。


エクスペリメンタルポップは、近年においては、電子音楽やメタルのような音楽を吸収し、次世代のサウンドへ成長していったが、いまだクロスオーバーの余地が残されていることに意外性を覚える。もしかすると、クラシック/民族音楽/ジャズというのが今後の重要なファクターとなりそうだ。

 

 

82/100

 

 

Fennesz  『Mosaic』



Label: P-Vine Inc.

Release: 2024年12月4日


Review


『Mosaic』は2000年代はじめに発表された『Venice』のサウンドと地続きにある。今年、『Venice』は20周年を迎えるにあたって、リマスターを施したアニヴァーサリー・バージョンも発売されている。1990年代に彗星のごとくウィーンのテクノシーンに登場したFenneszは、ギタリストとして知られるほか、プロデューサー、作曲家として幅広い分野で活躍してきました。その中には坂本龍一とのコラボレーションアルバム『Cendre』を筆頭に、この10年間、 Fennesz(フェネス)はミュージシャン、映画制作者、ダンサーと共同制作を行ってきた。デヴィッド・シルヴィアン、キース・ロウ、スパークルホースのマーク・リンカス、マイク・パットン、多くのミュージシャンとレコーディングやパフォーマンスを行っている。また、ピーター・レーバーグ、ジム・オルークとともに即興トリオ、フェン・オーバーグとしても活動している。

 

フェネスの音楽的なアプローチに関しては、基本的にノイズ、アンビエントの中間に位置づけられる。また、その中には稀に、一般的なリスナーには聞き慣れないアフリカ等の民族音楽の要素が含まれることもある。しかし、結局、今世紀初めには上記のジャンルが(おそらく)確立されていなかったため、前衛音楽の枠組みの中で解釈されることは避けられなかった。ときにはアウトサイダー的なテクノとして聴かれる場合もあったかもしれない。だが、『Venice』の20周年盤でも言及した通り、テクノ全般のイディオムがフェネスの音楽にようやく追いついて来た。おそらく90年代や00年代にフェネスの音楽を理解した人はかなり少なかったはず。しかし、時代が変わり、今やフェネスの音楽はアウトサイダー・テクノではなく、むしろ主流派の領域に属し始めている。これはテクノや全般的な電子音楽を中心にクロスオーバー化やハイブリッド化が進んだことにより、フェネスの音楽はむしろ時代にマッチするようになった。

 

『Venice』の20周年記念盤のレビューでも言及した通り、このアルバムでは20年後の音楽が予見的に登場していた。それは”ドローン”という新しい音楽形式、それから、他の数々のジャンルを吸収したハイブリッドの末裔としてのテクノ等、 2000年代にグリッチが登場し、それらが新しい音楽として先見の明がある聞き手に支持されていた時代から見ると、たとえリアルタイムの体験者ではないとしても、心なしか感慨深いものがある。しかしながら、待望の新作アルバム、そして解釈に仕方によっては『Venice』の続編とも言える『Mosaic』は、あらためてこのプロデューサーの音楽がどのようなものであったのかを把握するのに最適である。彼の音楽が最先端に属していて、2020年代のミュージックシーンに馴染む内容であることが分かる。

 

本作は、2019年に発表された『Agora』からすでに始まっていたというルーチンワークから生じたという。「今回はゼロからのスタートで、すぐにはコンセプトもなく、厳しい作業ルーティンがあった。朝早く起きて昼過ぎまで仕事をし、休憩を挟んで、また夕方まで仕事をする。最初は、ただアイデアを集め、実験し、即興で演奏した。それから作曲、ミキシング、修正。''モザイク "というタイトルは、ピクセルのように一瞬で画像を作り上げる以前の、古代の画像作成技法を反映した」というのがフェネスのコメントとなっている。そして、アルバムの強度を持つノイズ、アンビエント、民族音楽の融合は、深遠なテクノのイディオムを顕現させる。

 

少なくとも、本作は一度聴いただけで、その全容を把握するのは至難の業である。五分から九分に及ぶ収録曲の音楽の情報量は極めて多い。アルバムの冒頭を飾る「Heliconia」は大まかに二部構成から成立している。ガラス玉のようなパーカッションがイントロに登場し、その後、ギターによるドローンが曲の構成や印象を決定付ける。微細な音の配置は、ポストロック的なマクロコスモスを描き、音像が際限なく広がっていき、宇宙的な壮大さを帯びる。この点に、坂本龍一の遺作『12』との共通項も見出される。


そして、2001年の『Endless Summer』の時代から培われたシンフォニックなテクスチャーが立ち上る。この間、一筋の光のように伸びていくシンセも登場し、4分以降にはダイナミックなハイライトを迎える。


以降は曲風が一変し、ノイズからサイレンスへ変遷していく。すると、精妙なノイズが登場し、民族音楽的なパーカッションが配され、曲全体は霊妙な雰囲気を帯びる。そして、後半部では、民族音楽とテクノを融合させ、その後、ギターのミュートを用いたアルペジオ等が登場し、曲の構成の背景を形作るシンセによるシークエンスは、Loscilの『Umbre』のような荘厳な雰囲気を帯びる。ギターの演奏だけでなにかを物語るかのように、曲はアウトロのフェードアウトに向かっていく。

 

フェネスは音楽制作者としてノイズミュージックの他にも音響派のギタリストとしての表情を併せ持つ。二曲目「Love And The Framed Insects」では2023年に発表されたアルバム『Senzatempo』、『Hotel Paral.lel』の両作品の作風を融合させ、叙情的なギターアンビエントと苛烈なノイズを交互に出現させる。


さらにフェネスはノイズと叙情的なシークエンスを丹念に融合させ、音楽の持つ静謐で美麗な瞬間を作り出す。いわばアルバムのジャケットに描かれるような情景的な美しさが音楽的なモチーフとして登場し、主体性を持つに至る。主体性を持つというのは、音楽が主人公となり、それらが発展したり、敷衍したり、奥行きを増していったりと、多彩な側面を見せるということ。これらは音楽の持つ多次元的な性質を反映させている。それらをフェネスは最終的な編集作業を通してコンダクターさながらに指揮するのである。ノイズも登場するものの、この曲の全般的な魅力はむしろ感覚的な美しさに込められている。これは調和と不調和の融合をかいして、制作者の美学のようなものが鏡のように映し出される。

 

経済学者であるジャック・アタリも指摘するように、ノイズというのは社会学として見た上では、不調和を意味する。しかし、一方で、実際的にホワイトノイズやピンクノイズ等、音の発生学として多彩なノイズがこの世に存在するように、これらの雑音が必ずしも不快な印象を与えるとはかぎらないということは、次の収録曲「Personare」を聴けば瞭然なのではないかと思う。


例えば、この曲では坂本龍一とのコラボアルバム『Cendre』で用いた精妙なノイズを駆使し、「不調和の中にある調和」を示唆している。実際的に、多くの人々は、単一の物事の裏側にある別の側面を度外視することが多いが、この世の現象や出来事の大半は、こういった二面性や多面的な要素から成立している。この曲では、そういった現象学としての普遍性がしたたかに織り交ぜられている。同時に、ノイズという本来は不快であるはずの音響的な現象中に、それとは対極に位置する快適な要素ーー心地よさーーを見出すことも、それほどむずかしくない。


実際的にこの曲はノイズを不自然に除去した音楽よりも、不思議と音に身を預けていたいと思わせる快適な要素が偏在している。なぜ、一般的には心地良くないと言われている音響に心地よさを覚えるのかといえば、それは、自然界を見ても分かるように、雑音性というのは必ずどこかに生じ、自然の摂理に適っているためである。これはフェネスのノイズ制作の清華とも言える。

 

続く「A Man Outside」でもノイズの要素は維持され、パーカッシヴな音響効果を用いた環境音楽の形式が取り入れられている。そして、この曲でも序盤は前曲の作風を受け継いで、ノイズの精妙な感覚、次いで、ノイズの中にある快適さという側面が強調されているが、二分後半からは曲調がガラリと変化し、ダークなドローン風の実験的なテクスチャーが登場する。まるで情景的な変化が、ノイズや持続的な通奏低音を起点に移ろい変わっていくような不可思議な感覚を覚える。曲の序盤における天国的な雰囲気は少しずつ変化していき、メタリックで金属的な響きを帯び、冥界的なアンビエント/ドローンに変遷していくプロセスは圧巻というよりほかなし。これほどまで変幻自在にサウンド・デザインのように音の印象を鋭く変化させる制作者は他に思いつかない。曲の後半でも曲の雰囲気が変わり、序盤の精妙な雰囲気が立ち戻ってくる。

 

「Patterning Heart」は、現在のアンビエントシーンの流れに沿うような楽曲と言えるかもしれない。抽象的なドローン風のテクスチャーが通奏定音のように横向きに伸びていき、極大の音像を形成してゆく。大掛かりな起伏は用意されていないけれど、曲の中盤ではサイレンスが強調される瞬間があり、『Venice』に見いだせるギターノイズが取り入れられている。アルバムのクローズでもフェネスらしさが満載で、濃密な音楽世界が繰り広げられる。モーフィングを基に制作された「Goniorizon」では音の波形の変化に焦点が絞られている。


2000年代の制作者が二十年後の音楽を予見したように、音楽の未来性を読み取ることも可能かもしれない。本作には音楽の持つ楽しさはもちろん、未知の芸術的な表現性への期待感が込められているように思えた。

 

 

 

90/100 

 



「Heliconia」

  Jakob Bro  『Taking Turns』



Label: ECM

Release:2024年11月29日

 

Review

 

ジェイコブ・ブロはデンマーク出身のギタリスト。同国の王立アカデミーで学習した後、アメリカにわたり、ボストンのバークリースクール、ニューヨークのニュースクールで学習を重ねた。元々、ブロはポール・モチアン、トーマス・スタンコのバンドメンバーとして、ECMに加入した。ジャズマンとしてソロリーダーとしてデビューしたのは2015年のことだった。以降、ジャズアンサンブルの王道であるトリオ編成を始め、ジャズ・ギターの良作を発表してきた。

 

先日、同レーベルから発売された『Taking Turns』は、10年前にニューヨークで録音され、長い月日を経てリリースされた。ブロの作品としては珍しくセクステット(6人組)の編成が組まれている。作品に参加したのは、リー・コニッツ、アンドリュー・シリル、ビル・フリセル、そしてジェイソン・モラン、トーマス・モーガン。ジェイコブ・ブロはこの作品に関して、感情を垣間見て、それをつぶさにスケッチし、記録しながら展開することにあった」と説明する。内省的なソングライティングをベースに制作されたジャズアルバムという見方が妥当かもしれない。

 

基本的なソロアルバムとは異なり、「オールスター編成」が組まれたこのアルバムでは、ソロリーダーというより、ジャズアンサンブルの妙が重視されている。よって彼の演奏だけが魅力のアルバムではない。金管楽器(サクスフォン)がソロ的な位置にある場合も多く、ブロのギターは基本的にはムードづけというか、補佐的な役割を果たすケースが多い。演奏の中には、サックス、ピアノ、ドラム、ウッドベース、そしてギターといった複数の楽器の音楽的な要素が縦横無尽に散りばめられ、カウンターポイントの範疇にある多声部の重なりが強調される。収録曲の大半は、ポリフォニーではなく、音楽的基礎をなすモノフォニーが重視されるが、ピアノ、ギターを中心とする即興的な演奏から、ロマンティックでムードたっぷりの和音が立ち上がる。

 

アルバムの冒頭曲「Black Is All Colors At Once」で聞けるギターの巧みな演奏は空間的な音楽性を押し広げ、そしてピアノの微細な装飾的な分散和音が加わると、明らかに他のセクステットではなしえない美麗で重厚感のある感覚的なハーモニーがぼんやりと立ち上ってくる。二曲目「Haiti」では、ドラムの演奏がフィーチャーされ、民族音楽のリズムが心地よいムードを作り出す。同じように構成的な演奏が順次加わり、金管楽器、ギター、ベースが強固なアンサンブルを構築していく。当初はリズムの単一的な要素だったものが、複数の秀逸な楽器の演奏が加わることにより、音楽全体の持つイメージはより華やかになり、豪奢にもなりえる。そういった音の構成的な組み上げを楽しむことが出来る。リズムの構成はエスニック(民族音楽)の響きが強調されているが、対してジェイコブ・ブロのギターはスタンダードなフュージョンジャズの領域に属する。これがそれほど奇をてらうことのない標準的で心地よいジャズの響きを生み出す。

 

三曲目「Milford Sound」ではウッドベース(ベース)やドラムの演奏がイントロでフィーチャーされている。例えば、トーマス・スタンコなどの録音ではお馴染みの少し明るい曲調をベースにしている点では、ECMジャズの王道の一曲と言えるかもしれない。しかし、そういったスタンダードなジャズを意識しながらも、多彩な編成からどのような美しい調和が生み出されるのか。ジェイコブ・ブロを始めとする”オールスター”は、実際の即興的な演奏を通じて探求していきます。これはジャズそのものの楽しさが味わえるとともに、どんなふうに美しいハーモニーが形作られていくのか。結果というよりも過程をじっくり楽しむことが出来るはずです。

 

特にアルバムの全体では、リーダーのジェイコブ・ブロの演奏の他に、リー・コニッツによるサクスフォンの演奏の凄さが際立つ。「Aarhus」ではピアノとベースの伴奏的な音の構成に対して、素晴らしいソロを披露している。彼のサクスフォンは、ジャズのムードを的確に作り出すにとどまらず、実際的に他の楽器をリードする統率力のようなものを持っている。だが、それは独善的にはならず、十分に休符と他のパートの演奏を生かした協調的なプレイが重視されている。これが最終的には、ジャズの穏やかでくつろげるような音楽的なイメージを呼びおこす。

 

「Pearl River」はおそらくアルバムの中では最も即興的な要素が色濃い楽曲となっている。ドラムのシンバルを始めとする広がりのあるアンビエンスの中から、ギター、ベース、ピアノのインプロバイゼーションが立ち上るとき、ぼんやりした煙の向こうから本質的な核心が登場するようなイメージを覚える。そしてアルバムの序盤から作曲的に重視されている抽象的なイメージは同レーベルの録音の特性ともいえ、このアルバムの場合では感情的な表現を重視していると言える。そういったジャズの新しい要素が暗示された上で、古典的なジャズの語法も併立する。楽曲の二分後半にはマイルス&エヴァンスが重視したアンサンブルとしての和音的な要素が強調される。また、それらに華やかな効果を及ぼすのが、金属的な響きが重視されたドラムのシンバル、もしくはタム等の緩やかなロールである。これはジャズドラムの持つ演出的な要素が、他のパートと重なり合う瞬間、アンサンブルの最高の魅力を堪能することが出来るでしょう。

 

 

ジャズというと、旧来はマイナー調のスケールが重視されることが多く、また、それがある種の先入観ともなっていたのだったが、ECMは2000年頃からこういった旧来のイメージを払拭するべく新鮮な風味を持つ作品をリリースしてきた。それがメジャー調のスケールを強調づける、爽やかで高級感のあるサウンドであった。このアルバムは、ジェイコブ・ブロの移行期に当たる作品であるとともに、ドイツのジャズレーベルの主要なコンセプトに準じており、アンサンブルとしての音の組み立ての素晴らしさのほか、BGM的な響きを持つアルバムとしても楽しめるかもしれません。つまり、それほど詳しくなくとも、聴きこめる要素が含まれています。


「Peninsula」は同レーベルのエスニックジャズを洗練させた曲で、ピアノの演奏がミュート技法を用いたギター、ベースに対して見事なカウンターポイントを構成し、曲の後半ではまったりした落ち着いたハーモニーを形成する。クローズ「Mar Del Plata」は、アルバムではジェイコブ・ブロのギタープレイがフィーチャーされる。ラルフ・タウナーのギターほど難解ではなく、フュージョン・ジャズを下地にした心地よいギターの調べに耳を傾けることが出来るでしょう。



84/100

 


「Black Is All Colors At Once」

 Bibio 『Phantom Brickworks』(LP2)



Label: Warp

Release: 2024年11月22日

 


Review     

 


これまでフォークミュージックとエレクトロニックを結びつけた”フォークトロニカ”の作品『Sleep On The Wing』(2020)、チルアウト/チルウェイヴを中心にしたクールダウンのためのダンスミュージック『All This Love』(2024)、他にも、ギター/ボーカルトラックを中心にAORのような印象を持つポピュラーアルバム『BIB 10』など、近年、ジャンルや形式にとらわれない作品を多数輩出してきたBibio(スティーヴン・ジェイムス・ウィルキンソン)は、EDMと合わせてIDM(Intelligence Dance Music)を主体に制作してきたプロデューサーである。

 

実際的に他のヒップホップや近年のダンスミュージックを主体とするポピュラー/ロックでは、 生のギター等をリサンプリング(一度録音してから編集的に加工)する手法はもはや一般的になりつつあるが、Bibioは2010年頃からこの形式に率先して取り組んできた。当初、それはダンスフロア向けのディスコロックという形で表に現れることがあった。2011年頃のアルバムにはロック的な作風が顕著で、これはBibioが一般的なロック・ミュージックの流れを汲むことを印象付ける。少し作風が変化したのが、2013年頃で、当時、2000年代のグリッチ等のダンスミュージックと並行して台頭したmumに象徴付けられるフォークトロニカの作風に転じた。以降は、単一の作風にとらわれることなく、多作かつバラエティの幅広さを示してきた。

 

「Phantom Brickworks」は、Bibioによる連続的な作品で、散発的なライフワークとも称すべき作品である。当初はギターやピアノ等のコラージュ的なサウンドを主題にしていたが、今作ではアンビエント作品に転じている。ボーカル、ピアノ、シンセテクスチャーなどを用いて、王道のアンビエントが作り上げられる。先日、エイフェックス・ツインの『Ambient Works』が再編集盤として同レーベルから発売されたばかりだが、それに近い原始的なアンビエントの位置づけにある。しかし、例えば、エイフェックス・ツインの場合は、プリペイド・ピアノのような現代音楽の範疇にあるコンポジションが用いられたとしても、アーティスティックな表現に傾倒しすぎることはなく、一般的な商業音楽の性質が色濃かった。これは私見としては、このプロデューサーの作品自体が機械産業のような意味を持ち、一般的に親しめる音楽を重視していたのである。「アンチ・アート」と言えば語弊となるが、それに近い印象があり、アートという言葉に絡め取られるのを忌避していた。しかし、対象的に、Bibioの『Phantom Brickworks』は、ダンスミュージックのアートの要素を押し出している。クラブビートが非芸術的であるという一般的な観念を覆そうという興きを、このアルバムの制作には見出すことが出来るかもしれない。


スティーヴン・ウィルキンソンは、この作品の制作に際して、イギリスの各地を訪れ、かつては名所であった場所が衰退する様子を観察し、それらを音源として収録した。いわば、ウィルキンソンは時代と共に消えていく風景をその目で確認し、土地に偏在するエーテルのようなものを、時にはその名所が栄えた時代の人間的な息吹を、電子音楽として描写しようと試みている。


これは例えば、印象派の絵画等では一般的に用いられるが、ウィリアム・ターナーの系譜に位置づけられる描写音楽である。人間は一般的に、ある種の建築的な外壁、その場所に暮らす人々を見たとき、時代性や文化性を明確に発見する。でも、それとは対象的に、すでに朽ちた遺構物や廃墟等を目の前にしたとき、それが最も栄えた時代の圧倒的な感覚に打たれる瞬間がある。古代ローマの水道橋、カエサルの時代の遺跡、コロッセウムなどが、それに該当する。しかし、なぜ驚異なのかと言えば、我々の住む時代の建築よりも遥かにその時代の遺構物の方が本質的で魅力的であるからなのだ。そして、現代的に均一化された構造物に慣らされた感覚から見ると、いかに旧い時代の遺構物が圧倒的で創造的であるかに思い至るという次第なのである。

 

このアルバムの音楽は、人工的な廃墟、ないしは工業生産的にはなんの意味ももたない海岸沿いの侵食された地形、岸壁など、イギリスの海岸地域の固有の旧い美しい風景や、また、都市部から少し離れた場所にある田舎地方の奇妙な風景がサウンドスケープで描かれているようだ。アルバムの冒頭を飾る「Dinorwic」は、制作者がイギリスの土地で感じたであろう空気の流れが表現され、それを抽象音楽として描写したものと推測される。しかし、それは追体験のようなカタルシスをもたらすことがある。これは、実際的に高原や海岸のような開けた場所に行ったときに感じる精妙な感覚とリンクする。それは制作者の体験と利き手側の体験が一致し、実際的な体験が重なり、共有される瞬間を意味するのである。更に、「Dorothea’s Bed」では、ボーカルのリサンプリングを用い、アートポップに近いアンビエント/ドローンを提供している。米国西海岸のGrouper、あるいは、ベルギーのChristina Vanzouの系譜に位置づけられ、アンビエント/ドローンをオペラやボーカルアートの切り口から解釈した新鮮な雰囲気のトラックである。

 

10年以上にわたり洗練させてきた制作者の作曲における蓄積は、遊び心のある音楽として昇華されることもある。例えば、「Phantom Brickworks」は、フランスのサロン音楽をサンプリングとして落とし込み、フランス和声の革新者であり、アンビエントの始祖とも称されるエリック・サティが、モルマントルの「黒猫」で弾いていたサロン音楽とはかくなるものではなかったかと思わせるものがある。調律のずれたアンティーク風のピアノが断片的に散りばめられると、「Gymnopédies(ジムノペティ)」は現代的なテイストを持つパッチワークの音楽へと変化する。対象的に、「SURAM」ではエイフェックス・ツイン、Burialのように、ボーカルのサンプリングをビートやパーカッションの一貫として解釈し、コラージュ的にノイズを散りばめて、ベースメントのクラブビートに触発されたトラックに昇華している。2010年代のBig Appleを中心とするダブステップの原初的なコンポジションを用いているのに注目である。

 

田舎的な風景、都市的な風景を交互に混在させながら、アルバムの収録曲は続いていき、「Llyn Peris」では再び、田舎を思わせるオーガニックなアンビエントに回帰している。この曲では、例えば、Tumbled Seaといったアーティストが無償でドローン音楽を提供していた時期の作風を彷彿とさせる。ドローン音楽を2010年代前後に制作していたプロデューサーは商業的な製品ではなく、ヒーリング音楽のような形でインターネット上で前衛的な作品を無料で公開していたことがあった。ドローンは、近年、他のジャンルとの融合化が図られる中で、徐々に複雑化していった音楽であるが、それほど複雑なテクスチャーを組み合わせないでも、ドローンを制作出来ることは、この曲を聴いてみるとよくわかるはずである。「Llyn Peris」の場合、パンフルート系の簡素なシンセ音源をベースにして、反響的な音楽の要素を抽出している。

 

ウィリアム・バシンスキーの系譜にあるピアノのコラージュを用いた曲が続く。「Phantom BrickworlsⅢ」では、おそらく、ピアノのフレーズの断片を録音した後、テープリール等で逆再生を用いて編集を掛けたトラック。これらの作風はすでにウィリアム・バシンスキーがブルックリンに住み、人知れず活動していた80年代に確立された次世代のミュージック・コンクレートの技法であるが、ミニマル・ミュージックとコラージュ・サウンドの融合という現代的なレコーディングの手法が用いられているのに着目しておきたい。これらは、本来アートの領域で使用されるコラージュと音楽の録音技術が画期的に融合した瞬間であり、電子音楽が本来の機械工学の領域から芸術の領域へと転換しつつある段階を捉えることが出来るかもしれない。


コラージュ・サウンドの実験はその後も続き、「Tegid's Court」では、オペラのようなクラシカルの領域にある音楽と電子音楽を融合させる試みが行われている。ピアノの演奏をハープのように見立て、それに合わせてボーカルが歌われる美しい印象を持つコラール風の曲である。その後、再び、情景的な音楽が続く。「Brograve」、「Spider Bridge」の二曲では、バシンスキー、ギャヴィン・ブライアーズの音の抽象化、希薄化、断片化という音響学の側面からミニマルミュージックを組み直すべく試みている。アルバムのクローズ「Syceder MCMLⅩⅩⅩⅨ」では、逆再生を用いながら、遺構物に相対したときのようなミステリアスな感覚がたちあらわれる。

 

 

82/100

 

 

 「Dorothea’s Bed」

Kim Deal  『Nobody Loves You More』

Label: 4AD

Release: 2024年11月22日


Review


今回、NYTの特集記事で明らかになったのは、キム・ディールは一般的にベーシストとして知られているが、当初はギタリストとして音楽キャリアを出発させようとしたこと。しかし、結果的には、ボストン時代を通じて、ベーシスト、ボーカリストとしてキム・ディールの名を世界に知らしめることになる。ピクシーズの他、ブリーダーズ、アンプスの活動で知られるキム・ディールは先週末、ソロ・アルバム『Nobody Loves You More』をリリースしたが、実際的な制作は2011年頃、つまり、ピクシーズのツアー「Lost Cities Tour」の後に始まり、フルアルバムの形になるまでおよそ13年の歳月を要することになった。ソロシンガー、ギタリストとして一つの集大成をなすような作品であることは事実である。プロデューサーにはブリーダーズのメンバー、ケリー・ディール、そしてジム・マクファーソン、さらに最終ミックスにはスティーヴ・アルビニの名前がある。アルビニの最後のエンジニアのアルバムということになるだろうか。

 

一般的な印象としてはギター中心のアルバムかと思うかもしれないが、実際は少し内容が異なる。歌謡曲とまではいかないが、従来から培われたインディーロックのイメージを払拭する作品である。このアルバムでは、ピクシーズやブリーダーズという名の影に隠れていたキム・ディールという歌手のポピュラーの側面が強調されている。それらのサウンドにロマンティックなムードを添えるのがストリングスやホーンの編曲で、 アルバムのハイライトともなっている。タイトル曲でオープナーでもある「Nobody Loves You More」では、ゆったりとしたテンポで切ないメロディーを情感たっぷりに歌い上げる。タイトルでは聞き手を突き放すかのように思えるが、実際のところそうではないことは、この曲の中にはっきりと伺い知ることが出来る。かと思えば、曲の途中からはミュージカルやビッグバンドのような華やかな金管楽器が登場し、古典的なジャズの雰囲気を醸し出す。必ずしも特定のジャンルを想定した作品ではないことがわかる。キム・ディールの音楽は、90年代からそうであるように、ウィットのある表現からもたらされるが、これが長らく上記のバンドの音楽性の一部分を担って来た。二曲目「Coast」は温和なインディーロックソングで、リスナーの心を和ませる。新たに加わったホーンセクションは、楽曲に華やかさを添えるにとどまらず、ディールの持つロハスな一面を強調付ける。ギター・ソロもさりげなく披露され、ハワイアン風のスケールを描き、曲に変化を及ぼす。

 

 

キム・ディールは様々な音楽の側面から理想的なロックソングとはなにかを探求する。ダンス・ポップと旧来のインディーロックの融合にも新しく取り組んでいる。「Crystal Breath」 ではコアなロックミュージシャンとしての一面が表れ、ダンスビートを背景とし、ノイジーなギターを演奏している。もちろん、ディールのボーカルもそれに負けておらず、「Canonnball」の時代の歌唱法を基にして、過激なロックの性質を録音作品に収めようとしている。ギターフレーズの間に古典的なロックンロールのスケールをさりげなく散りばめているのにも注目したい。また、「Are You Mine?」では、60年代のオールディーズ(ドゥワップ)で使用されるようなシンプルなギターのアルペジオを中心に、良質なポップソングに制作している。この曲では冒頭曲と同じように、歌謡曲調のストリングスがボーカルの合間に導入され、癒やしの感覚を与える。ある意味では60年代のドゥワップを入り口として、シナトラの時代へと接近していくのだ。


このアルバムと録音場所のロサンゼルスを結びつけるのは少し強引かもしれない。しかし、まったくその影響がないかと言えば、そうでもないようだ。「Disobedience」では70年代のバーバンクサウンド(西海岸のフォーク・ロック)の幻想的な雰囲気をギターロックで表現している。表面的なサイケデリック性はそれほど強調されず、あくまで楽曲からそういった幻想性が立ち上るのみである。しかし、こういった控えめなサイケデリアがピクシーズやブリーダーズの音楽の基礎を支えていたことを考えると、旧来のファンとしては頷くものがあるはずである。続く「Wish I Was」でもこれらの西海岸のフォーク・ロックやバーバンクサウンドからの影響は保持され、Throwing Musesと共鳴するような温和なインディーサウンドが貫流している。

 

そして、キム・ディールの作り出す音楽表現の中には、パンクやアヴァンギャルドの側面が含まれていることは旧来のファンであればよく知ることであるが、この点は続く「Big Ben Beat」にわかりやすい形で反映されている。 何らかのレッテルや枠組みの範疇に収まることを厭い、そしてそれらを前向きなエナジーとして発露するというロックンローラーとしての性質が出現する。これはむしろ、キム・ディールという歌手の対極的な性質が的確な形で反映されたと言える。曲の中盤の二分頃には、未だインディーズの性質を失わず、ノイズを炸裂させ、反骨精神を発現させる。体制に対するアンチであるという鋭い表明は、しかし、最終的には温和なギターフレーズにより包み込まれる。これらのアンビバレンスなサウンドは一聴する価値がある。

 

このアルバムの制作がかなり以前に始まったことは事実だが、一方で最終的にフルレングスとして組み上げるまでに、キム・ディールがベス・ギボンズの最新作に何らかの形で触発されたのではないかという印象を受けた。それは、一つの表情の裏側にある複数の顔とも呼ぶべきかも知れない。また、ギタリストとしてだけではなく、ボーカリストとしての新しいチャレンジが試みられているのも着目すべき点であろう。「Bats In The Afternoon Sky」では、ボーカルを用いたアンビエントに挑戦しており、アートポップに近い楽曲として聞き入らせるものがある。かと思えば、「Summer Land」ではミュージカルのサウンドに挑戦し、ジャズボーカリストになりきっている。曲全体の背景となる美麗な弦楽器のレガート、トレモロを含むパッセージや駆け上がり、アコースティックギターは、最後のカデンツァで温かな余韻を残す。これらの一つのジャンルに定義されない自由なアプローチは、時々、開放的な感覚をもたらすことがある。


キム・ディールは、このアルバムの最後でインディーロックの普遍的な魅力を再訪する。「Come Running」では、このジャンルの幻想的な雰囲気をゆったりとしたテンポの楽曲で表する。1分55秒以降に不意をついて出現する奇妙なオルタナティヴロックの幻影は、まるで時間の途絶えた砂漠に生じたオアシス(蜃気楼)のようである。音楽からもたらされる奇妙な幻想性ーー蜃気楼ーーは、砂上の果てに立ち上り、聞き手を静かで落ち着いた幻惑へと誘う。それらの幻想性は、最終曲でも維持され、ディールの音楽が普遍的な輝きを放つことを印象付ける。ピクシーズ、ブリーダーズ、アンプス......、代表的なロックサウンドに耳を傾けてきた人々にとって、これは当たり前のことであるが、新しいリスナーにとっては驚きを意味するだろう。

 



84/100




 「Disobedience」

 Fazerdaze 『Soft Power』


Label: section1

Release: 2024年11月15日

 

 

Review

 

オーストラリアのメルボルンに続いて、ニュージーランドはクライストチャーチを中心として良質なベッドルームポップシーンが築かれようとしている。Fazerdazeという存在が出てきたのもその一環の流れを象徴付けている。アンセミックなフレーズ、ダンサンブルなビート、そしてドリーム・ポップの範疇にある陶酔的でヒプノティックな質感を持つフェイザーデイズの楽曲は、トレンドのインディーポップを渇望するリスナーの琴線に触れるものがあるに違いない。

 

シンガーソングライターというのは、人生にまつわる人間的な成長と並行し、作曲の形式を変化させるのが常である。何より大切なのは、自分自身にストレートに向き合うということである。その例に違わず、フェイザーデイズの2ndアルバムは、 献身、激しい自己憐憫、成熟した自己認識といったテーマを探求しながら、アーティスト自身が「ベッドルームポップ・スタジアム」と呼びならわす広大なサウンドスケープを築き上げる。繊細でありながら、同時に広大な音像を持つ楽曲がライヴシーンでどのように映えるのか、すごく楽しみになるようなアルバムである。

 

本作の収録曲はエレクトロニック寄りのドリーム・ポップが大半を占める。オープナー「Soft Power」に見いだせるように、アンセミックなフレーズが散りばめられ、EDMに近いムードを漂わせている。ベッドルームから始まった制作がスタジアムのような大規模な会場で響く瞬間を夢見るようないわばドリーミーな雰囲気が漂う。そういった感覚が切ないようなエモい雰囲気を作り出す。しかし、繊細さは決して脆弱性に傾くことなく、張りがあり、溌剌としたエネルギーを放っている。現代のオルトポップファンが渇望してやまぬポップスの形がアルバムの最初で提示される。ときどき、オルタネイトなスケールを散りばめながら、フェイザーデイズは端的で的確なソングライティングを行う。「So Easy」はその代表例であり、口ずさみやすく、親しみやすい、そしてどことなくラフな感覚を織り交ぜたインディーロックソングを書いている。


オルタナティヴロックとしてのナイーブな感覚は続く「Bigger」に立ち現れる。ローファイなギターがリバーブによって音像が拡大され、アンビエント風の抽象性を帯びる。そして全体的な構造に乗せられるフェイザーデイズのボーカルは、夢想的で幻想的な感覚を帯びている。荒削りながらファジーなギターはメロとサビの対比を形成し、ポップソングのわかりやすさを強調する。続く「Dancing Year」ではベッドルームポップに強く傾倒している。TikTokのポピュラーの流れを汲みながらも、端的なオルト性を失わぬソングライティングの質の高さを実感できる。ダンサンブルなビートやリミターを引き上げたギターが、スタジアム・バンガーに比するアンセミックな響きを帯びる。その反面、フェイザーデイズのボーカルは、ベッドルームポップの範疇にあり、内省的な雰囲気を擁する。これらのアンビバレントな感覚は、従来のロックミュージックの「静と動の対比」という主題とは異なる「感覚的な対比」が示されていると言える。

 

80年代の商業的なポップス、とくにMTVの全盛期のダンス・ポップをベースにした楽曲も収録されている。「In Blue」では、ディスコサウンドを参照しつつ、それにコクトー・ツインズのようなアートポップ、あるいはチャーチズの要素を追加している。エリザベス・フレイザーが描いたゴシック的なテイストが散りばめられているが、それほど暗鬱にはならず、からりとした質感が漂うのは、ニュージーランドという土地の気風が反映されていると言えるかもしれない。

 

 

テクノとポップの融合に関しては、現代的なロック・バンドの重要な主題である。それをギターロックとして再構成しようという動向は、モグワイ周辺のレーベル”Rock Acction"、あるいはイギリスのロックバンドに見出されるが、フェイザーデイズもこの流れに上手く乗っている。「A Thousand Years」は、テクノやエレクトロニック全般をギターロックとしてどのように組み替えるのかという実験であり、それは2000年代のテクノロジーとロックの融合というテーマの継承している。 しかし、野心的な試みは、前衛的にはなり過ぎず、一貫してベッドルームポップを下地にしたバランスの取れたソングライティングが重視されている。これがそれほど音楽そのものを難解にせず、一般的に開けた感覚を持つポピュラーソングになる理由なのである。

 

このアルバムは、ポピュラー性を意識した序盤に比べると、中盤から終盤にかけて、通好みのコアな音楽性が際立つ。通しで聴いていると、アルバムの音楽が成長し、徐々に深化していくような不思議な感覚を覚える。オルタナティヴロックの荒削りなローファイ性に焦点を当てた「Purple 02」は、女性のギターヒーローの時代を予感させるし、「Distorted Dreams」では、ネオシューゲイズで止まりかけていた時計の針を未来へと進める。それは大きな時間の流れではなく、小さな進歩であるかもしれないが、遠い場所には一瞬ではたどり着けないことを考えると、自然の摂理とも言えるだろう。特に、現時点のフェイザーデイズのソングライティングの最大の武器は、チャーチズの系譜にあるエレクトロポップ、そしてシューゲイズの融合に求められる。

 

アルバムのハイライト曲の一つである「Chery Pie」は、上記の音楽的なアプローチが開花した瞬間で、ソングライターとして暗いトンネルを抜け、開けた場所に歩み出たことを象徴付けている。清涼感のあるポップスという、このジャンルの核心を捉えたソングライティングが、アーティストの個人的な趣向でもあるドリーム・ポップの形と劇的に融合した瞬間を捉えられる。

 

アルバムの最後にも良曲が収録されている。「Sleeper」では、Grouperのようなフォークアンビエントを抽出し、アルバムのクローズでも同じような音楽性が選ばれている。ハルのbdrmmがアンビエントとシューゲイズの融合という新しい手法を言語的に確立しているが、すでにフェイザーデイズは、その未来派のロックの潮流を巧緻に捉えている。これはセンスの良さとも言うべきか。幻想的なドリームポップのムードは、アルバムのクライマックスで最高潮に達する。

 

 

 

78/100

 

 

「Cherry Pie」

Our Girl 『The Good Kind』


 

Label: Bella Union

Release : 2024年11月8日

 

 

Review

 

『The Good Kind』は派手さがないからといって素通りすると、ちょっともったいない作品である。最新のオルトロックバンドは、全般的に音楽のイメージの派手さがフィーチャーされることが多いが、実際的には、堅実で素朴なロック・バンドの方が長期にわたって活躍するケースがある。

 

ロンドンのOur Girl(アワー・ガール)は、爆発的なヒットこそ期待出来ないかもしれないけれど、渋く長く活躍してくれそうなバンドだ。アワー・ガールのオルトロックのスタイルは、90年代から00年代のカレッジ・ロックの系譜に属している。ソリッドさとマイルドさを兼ね備えたギター、ライブセッションの醍醐味を重視したベース、曲のイメージを掻き立てるシンプルなドラムによって構成されている。取り立てて、新しい音楽ではないかもしれない。しかし、こういった普遍的なオルトロックアルバムを聴くと、なんだかホッとしてしまうことがある。

 

 

アワー・ガールは、最初にレコーディングスタジオに入ってセッションを行った後、少し曲を作り込み過ぎたと感じたという。以降、一度曲を組み直した後、友人の自宅のレコーディングスタジオに入った。その結果、ラフだけど、親しみやすいオルトロックが作り上げられることになった。 結局、このアルバムを聴くと、オルトロックというのは、マジョリティのための音楽ではなく、マイノリティのための音楽なのかもしれない。つまり、音楽自体がマジョリティに属した瞬間、本義のようなものを見失う。バンドは、この作品で、セクシャリティ、リレーションシップ、コミュニティ、イルネスといった表向きには触れにくい主題を探求しているという。

 

それらのどれもが日常生活では解きほぐがたい難題であるため、音楽で表現する必要性がある。実際的に、バンドのメンバーがクイアネス等の副次的なテーマを織り交ぜながら、どの地点までたどり着いたかは定かではない。しかし、何かを探求しようとする姿勢が良質なロックソングとして昇華されたことは明らかである。たとえ、すべてが解き明かされなかったとしても。

 

バンドが曲を組み直したということは、レコーディングの趣向に、ライブセッションのリアルな質感を付け加えたことを示唆している。それは卓越性や完璧主義ではなく、程よく気の抜けた感じの音楽に縁取られている。アルバムでは、Guided By Voices、Throwing Musesといった90年代ごろのオルトロックのテーマ、アート・ポップやシューゲイズ風のギターの音色が顕著に表れている。

 

アルバムのオープナー「I'll Be Fine」では、心地よくセンチメンタルなアンサンブルがライヴセッションのような形で繰り広げられる。複数のギターの録音を組み合わせて、エモな響きを生み出し、ストレリングスのアレンジを添えて叙情的な響きを生み出す。音楽性は抑えめであり、派手さとは無縁であるが、良質なオルトロックソングだ。さらに、このバンドがコクトー・ツインズの音楽性を受け継いでいることは、続く「What You Made」を聴くと明らかである。彼らはJAPANやカルチャー・クラブのようなニューロマンティックの要素を受け継いでいる。それはノスタルジアをもたらすと同時に、意外にもフレッシュな印象を及ぼすこともある。

 

アワー・ガールは、比較的、現実的なテーマを探っているが、アルバムの音楽はそれとは対象的に夢想的な雰囲気に縁取られている。ギターロックによって色彩的なタペストリーを描き、それを透かして、理想的な概念に手をのばすような不思議な感覚でもある。「What Do You Love」は淡々とした曲にも思えるが、ダイナミクスの変化が瞬間的に現れることもある。ダイナミックスの変化はボーカルとギターのコントラストによって生じる。Wednesday、Ratboysといったオルトロックの気鋭の音楽性に準ずるかのように、絶妙なアンサンブルを発生させることがわる。そして、それは、まったりとした音楽性とは対象的なギターのクランチな響きに求められる。彼らの優しげな感覚を縁取った「The Good Kind」は、むしろこのバンドがロックにとどまらず、Future Islandsのようなオルトポップバンドのような潜在的な魅力を持つことを表す。

 

ギターロックとしても聴かせどころが用意されている。「Something About Me Being A Woman」は、現代的な若者としてのセクシャリティを暗示しているが、幽玄なギターのデザインのような音色によって抽象的な感覚が少しずつ広がりをましていく。ゆったりしたテンポの曲であるけれど、ドリームポップ風のアプローチは、音楽の懐深さと味わい深さを併せ持っている。特に、バンドアンサンブルを通じて最も感情性が顕著になる3分以降の曲展開に注目したいところ。中盤から終盤にかけては、BPMを意図的に落とした曲が続いている。続く「Relief」、「Unlike」は、現代的な気忙しいポップソングの渦中にあり、安らぎと癒やしを感じさせる。微細な音を敷き詰めるのではなく、休符に空間や空白を作りながら、夢想的な音楽世界を生み出す。

 

オルト・ロック、ドリーム・ポップに依拠した音楽性が目立つ中、続く「Something Exciting」は、かなり異色の一曲だ。この曲では、ヴィンセントの最初期のシンセポップ、グリッターロックの手法を選び、スタイリッシュさとユニークさを併せ持つ楽曲に仕上げている。むしろ、基本的な上記の二つの音楽性よりも、この曲に見受けられるようなオリジナリティに大きな期待を感じる。そして、少しシリアスになりがちな作風に、ユニークなイメージをもたらしている。 

 

アルバムの終盤にもしっかり聴かせる曲があり、アワー・ガールの音楽の深さを体感できる。「I Don't Mind」のような曲は、コクトー・ツインズやスローイング・ミュージズの未来形とも言え、また、ドリーム・ポップの知られざる一面を示したとも言えるかもしれない。続く「Sisiter」は、DIIV、Real Estateの最初期に代表される2010年代のインディーロックのスタイルを受け継ぎ、ネオシューゲイズ/ポストシューゲイズの軽めのポップネスに転じる。クローズを飾る「Absences」では、AOR/ソフィスティ・ポップへと転じ、未知の領域へと差し掛かる。


 

 

80/100

 

 

 

 Best Track-「Something Exciting」

 Andrea Belfi & Jules Reidy 『dessus oben alto up』


Label: Marionette

Release: 2024年11月8日

 

Review

 

Andrea Belfi(アンドレア・ベルフィ)とJules Reidy(ジュール・レイディ)による初のコラボレーション・レコーディング『dessus oben alto up』は実験音楽の一つの未来を提示している。

 

レイディとベルフィは、オーストラリアとイタリアという異なる出身地でありながら、ともに長年ベルリンに住んでいて、そのアプローチには多くの共通点がある。19世紀の機械工場を改装したベルリンの芸術施設「Callie's」のサウンド・スタジオに滞在していた2人(マルコ・アヌッリがデスクを担当した)は、ギターとエレクトロニクスのきらめく靄の中を美しく録音されたベルフィのドラムのパーカッシヴな透明感が通り抜ける、4つの広がりのある作品を完成させた。

 

『dessus oben alto up』は、新しい音楽の息吹を感じさせる作品である。ミニアルバムは実験音楽を中心に展開され、アンドレア・ベルフィのジャズ・ドラム等で頻繁に使用されるブラシ・ドラムとコラボレーターであるジュールズ・レイディの変則的なチューニングを施したギター(12弦ギターが使用されることもあるという)に電子的な音響加工が施されて、異質なサウンドが組み上がる。彼らの音楽は、フロイドの『The Dark Side Of The Moon』、あるいはHolger Czukay(ホルガー・シューカイ)のように神妙でありながら、そしてアヴァンジャズやエスニック、エレクトロニック等を行き来する。全体的な枠組みとしてはジャズドラムを中心とする作品のように聴こえるかもしれないが、エレクトロニックの要素が前衛的な要素をもたらす。


最近の音楽は、ドラムにせよ、ギターにせよ、付属的に導入される弦楽器やエレクトロニクスにせよ、音楽の構造自体が省略化されてしまうことが非常に多い。そのせいで音楽自体に深みがなくなり、深く聴くことを拒絶させるのである。それは例えば、Tiktokなどで音楽を省略的に聴く人々が増加しているから止むを得ないとしても、音楽自体を痩せ細らせる原因ともなりうる。60年代、及び、70年代のミュージシャンは、マスターやミックスで音楽をごまかすことが出来なかったため、音の細部に至るまで入念に配慮していたし、全般的な楽器等の音色や出力には必要以上にこだわっていた。要するに、自分の納得のいかない音は、一切出そうとしなかったのだ。だが、それが結果的に、デジタル・リマスター等の普及によって(技術の向上自体は歓迎すべきことだけれど)自分たちの出す音にかなり無頓着になっていったのである。ミュージシャンの中には、何をやっても一緒ではないか、と思うような方々もいるかもしれない。

 

しかし、トム・ヨークやマルタ・サローニとの共演で知られるアンドレア・ベルフィ、そして弦楽器奏者のジュールズ・レイディのコラボレーションアルバムを聴くと、そういった幻想はすぐさま吹き飛ぶ。『dessus oben alto up』は、デチューニングを施したインドのシタールのようなエキゾチックなギターが、無限に鳴り響き、それらに電子音楽のマニュピレーションが組み合わされ、ジャズドラムが加わると、強固な音楽の構造体が組み上がる。繊細なドラムプレイ、弦楽器のピッキング/タッピング、エレクトロニクスがどのように組み合わされるのかに耳を傾ければ、音楽の持つ深さはもちろん、実験音楽の本質的な魅力に気づくことだろう。そして音楽を一切簡略化することなく、セッションの組み合わせにより、誰も到達しえない境地に到達している。もちろん、音楽というフィールドの奥底にある霊妙な領域へと聞き手を誘うのである。


このミニアルバムは、ある種の変奏曲のように組み上げられ、同じような形式による実験音楽が4曲収録されている。しかし、その音楽的なボリュームの圧倒的な量に驚かされるはずだ。オープナー「dessus」は、連曲のモチーフのような役割を担い、作品全体に影響を及ぼす。しかしながら、同じような手法や作曲の形式が用いられるからと言え、全然飽きが来ないのが不思議である。しかも、歌がないのは欠点にならず、ひたすら心地よいセッションが繰り広げられ、彼らのライブセッションに、ずっと身を委ねていたいという欲求すら覚えることもある。ジャズドラムのブラシとシタールのような弦楽器は、たとえ同じような旋律の曲線を描いたとしても、また、同じようなリズムの構成を経たとしても、聞き手側の聴覚には同じ内容には聞こえない。それは彼らが上辺だけの「曲」を作ろうとせず、音楽の奥深い泉に迫ろうと試みているから。そして曲のセクションの中で、クローズのハイハットの連打やジャズ的な微細なピッキングギターによって、およそ二人だけで作り上げたとは思えない刺激的かつ壮大なライブセッションが繰り広げられる。このことは二曲目「oben」を聴くとよく分かるのではないか。

 

私自身は、これまでアンドレア・ベルフィというドラマーを全然知らなかった。それでも、三曲目「alto」を聴くと、彼が世界屈指の技術を誇る天才的な演奏者であることが分かる。良い打楽器奏者というのは、自らの技術を十分に洗練させた後、曲に対してどのような影響を及ぼすのかを熟知している人々である。それは、ギター、ベースと同様に、曲の細かな抑揚やニュアンスの変化に際して、最適な演奏方法を知っていて、それを忠実に実践できる、ということである。つまり、アンドレア・ベルフィのような卓越した演奏者は、無自覚に音を発生させることはほとんどなく、すべての音の要素が十分に計算されて出力され、まるで頭脳と楽器が一体化しているような印象すら受ける。これは全盛期のヤング兄弟のギターにも言えることだろう。

 

アンドレア・ベルフィの場合は、ハイハットの連打の間に組み込まれるタム/スネアが、ギターの超絶的なビッキングに対して、音階的な影響を及ぼし、タブラのような演奏効果を生み出す。これは、ロックやポップスのドラムだけではなく、民族音楽を熟知しているからなし得る神業の一つ。そして、アンドレア・ベルフィのドラムは、単に技巧的な側面をひけらかすことはなく、曲の構造に対する音響効果やテンションによる音階効果を重視している。さらに、それらの組み合わせに強い影響を及ぼすのが、マニュピレートされた電子音である。これらは、NEU、CAN、ホルガー・シューカイ等が探求していた「実験音楽の結末」とも呼ぶべきであろう。

 

アルバムの終曲「up」だけは実験音楽の枠組みから遠ざかり、民族音楽のイメージが強調される。そして、インドのカシミール地方の民族音楽、ないしはパキスタンのアラブ音楽の雰囲気が強まる。これは民族楽器の専門的な演奏者として知られ、世界各地を放浪しながら、珍しい楽器を探訪する、Stephan Micusというミュージシャン(ドイツのECMの録音でよく知られている)の音楽的なアプローチに準ずるものである。しかし、ジュールズ・レイディの弦楽器の連続性、反復性は「up」に対して瞑想的な要素を及ぼしている。そして、ミニマルミュージックの魅力は、画一的な連続性や反復性にあるわけではなく、変奏や倍音の発生により、原初の反復的な曲の構成からどれだけ遠くに行けるかという、冒険心や遊び心にあることが分かる。最終的には、最初のモチーフからセッションの巧みさによって、全く印象の異なる音楽へと変貌していく。つまり、音楽によって遠い場所に連れて行くような不思議な力を備えているのである。

 

 

 

95/100


 

 

Rafael Anton Irisarri  『FAÇADISMS 』

Label: Black Knoll Editions

Release: 2024年11月8日



Review     創造とは何を意味するのか? 



結局のところ、音楽における創造性の多寡を見極めるのに不可欠な指針となるのは、その創造性の発露となるものが、単なる模倣的な二次表現に留まらず、(制作者の)自己を超越するための重要な機会となっているのか。より端的に言えば、以前の音楽の系譜や作品をしっかり咀嚼した上で、それをオリジナリティの高い作品としているのか、ということに尽きるのではないだろうか。例えば、J.Rimasという専門的な研究家が今年発表した論文「The Concept of Creativity and its Importance For Musical Expression』(2024)において、著者は、リトアニアの作曲家のイグナス・プリエルガウスカス(Ignas Prielgausukas)の言葉を引用し、「古くから決められていることに満足する者たちは、模倣の道を歩み、創造性を放棄している」と指摘している。

 

つまり、模倣や引用に過ぎないものが、生産的な意味を持つことは稀であり、それは大量のコピー製品を製造していることを意味する。また、最低限の創造性を乗り越える上では、原初的な体験や経験等を通して培われた感受性を発露する必要があり、なおかつ、制作者の技術や知識が対象物の本質を知るために駆使されなければならず、さらにいえば、音楽的な表現が単一の自己の世界の反映だけにとどまらず、他者とのコミュニケーション、イメージの共有という意義を持つ必要がある。これらに該当しなければ、「創造未満の何か」と呼ぶよりほかない。こういった音楽とは言いがたい商品が世の中に氾濫する一因としては、音楽の大衆化により、模造品が大量に生産され、常識下に留まることや模倣を良しとする社会的な風潮が一役買っているのである。

 

おそらく、ニューヨークの実験音楽シーンを代表するプロデューサー、ラファエル・イリサリはその限りではない。このアルバムを聞けば瞭然ではないか。表向きのアウトプット方法こそ、エレクトロニックを中心とするアンビエント、要するに抽象音楽なのだが、その始まりは、ヘヴィメタルのような音楽を聴き、それらを幾つかの実験音楽のフィルターに通して、さらに自らのミックス/マスタリングの高い技術を駆使し、独自の音楽表現として昇華するのである。

 

アントン・イリサリの音楽には、ブラック・メタル、ドゥーム・メタルといった、かなりマニアックな音楽の引用を感じることがあるが、たとえギターが使用されることがあっても、独創性の高いスタイルの音楽が組み上がる。そして例えば、プロデューサーの音楽に歌詞がないからと言え、概念や言葉に乏しいというわけでもない。イリサリの音楽には、時々、資本主義に対する風刺的な暗喩や政治的な主張性が、言葉ではなく、音の流れの中に組み込まれている。一見すると、無機質な電子音楽のように感じられるかもしれないが、意外なことに、感覚的なものがしっかり組み込まれ、そして珍しいことに、琴線に触れる瞬間も含まれているのである。

 

制作はニューヨークのプロデューサーがイタリア・ツアーに行った時期に始まったという。ミラノの 「il Mito Americano」(「アメリカン・ドリーム」という意味で、英語に直訳すると「アメリカの神話」)という名の食堂の言語的な不具合(看板?)が、コンセプチュアルかつ音楽的な一連のアイデアに火をつけた。2020年の混沌の中、ブルータリズム建築の荒涼とした世界を探求し、「FAÇADISMS」というヴィジョンが作り上げられた。およそ3年の歳月をかけて作曲されたこの作品は、「煮えたぎるような電気的な落胆に満ちた後期資本主義の嘆き」であるという。そして最近のアルバムのようにディストピア的なイメージを持って始まるが、それと同時に、そのディストピアの向こうに、ぼんやりとユートピアが浮かび上がってくる瞬間がある。

 

アルバムはノイズ/ドローンを中心とする抽象的な楽曲「Broken Intensification」ではじまり、巨大な共同体や構造物が崩壊していく過程がサウンドテクスチャーによって組み上げられる。旧社会の常識や規範であると看過されていた構造全体が少しずつ崩壊していくような瞬間がサウンドスケープによって巧みに表現されている。この曲は、アーティストが2010年代にかけて追求していた、荒野に象徴付けられる旧約聖書の黙字録的な世界観の集大成でもあろう。まるで、それは例えるなら、人類が打ち立てていったバベルの塔の崩落の瞬間が刻印されているとも言える。この端的なトラックに、ジャック・アタリのような資本主義に関する暗喩が含まれていると考えるのは行き過ぎだろうが、幻想的なものと現実的なものがないまぜとなり、およそラファエル・イリサリしか作り得ないであろうフリューゲル的な世界観が打ち立てられている。

 

2010年代にはディストピアを予見させる異質な世界観を鋭いノイズ性と合わせて表現してきたアントン・イリサリであるが、近年、それらの対極に位置する天国的、祝福的な音楽性が顕現するようになった。西洋的な美学としては、「コントラスト」という概念があらゆる美術形態の基礎となったというのは、ボローニャ大学のウンベルト・エーコも指摘していたが、イリサリは、この対比性という要素を上手く活用して、西洋的な観念を作品に取り込もうとしている。また、生楽器を録音し、リサンプリングするという方法は「A Little Grace Is Abundance」に見出すことが出来る。この曲は複数の段階に分割され、前半部では、ドローン/ノイズアンビエント、一方の後半部では、ギターのリサンプリングを用いた音響系の音楽へと変化していく。さらに、ランタイムごとに少しずつ情景的な変化があり、曲の最後では、クワイアのサンプリングによってミュージック・コンクレートの技法が用いられ、祝福的な音楽性が登場する。

 

また、チェロのジュリア・ケント、ヴォーカルのエリザベス・コックスをフィーチャーした「Control Your Soul's Despite For Freedom」では、プロデューサーの重要な音楽性の一つである「混沌ーカオス」という概念が登場する。例えば、経済学者のジャック・アタリは「ノイズ」という概念について、原罪的なものや暴力的なものと定義付け、「それらに調和をもたらすために音楽が発生した」と指摘している。(また、楽譜出版、録音、ライブといった時代ごとの音楽形式の変化とともに、ノイズの概説的な意味もまた徐々に変化していったということも指摘している)


そして、この曲には、ノイズという概念の原初的な意義が表されているような気がする。それは言い表しがたいが、「世の中に混沌をもたらすノイズの現象中にある調和」という非常に難解な概念を読み解けるのだ。これは二元論を超越し、「善と悪」を始めとするキリスト教的な原理主義の観念を乗り越えるための手助けをする。(世の中には対極的な二つの考えのほかに、「中庸」という概念が存在する)そして、結果的に、一般的には醜悪な要素とされているノイズの原初的な意味が転化し、本来は醜いはずのものが美しい印象に縁取られる稀有な瞬間が刻印されている。これはアンビエントが経過的な段階を持たぬという一般的な定説を覆すものである。

 

曲の中においても時間的な経過や音楽の変化といった多彩な段階が示されるが、アルバム全体でも徐々に音楽的な印象が変化し、楽曲とアルバムの相似形を形づくる。ディストピアな印象を持つ序盤とは正反対に、後半の収録曲では、 ユートピア的な印象に縁取られていく。これは言ってみれば、地獄から煉獄、そして天国にかけての旅行のようでもあり、また、それらが概念的な表現を通じて繰り広げられていく。「The Only Thing that Belongs To Us Are Memories」は、エイフェックス・ツイン、ティム・ヘッカーのノイズ/ドローンの系譜に属しているが、一方では、最初に述べたように、ミステリアスな印象を持つアンビエントの音像の向こうから天国的なサウンドスケープが浮かび上がる。この曲では、他曲と同じように、明確な言語は出てこないが、確実に音楽が言語以上のメッセージの役割を果たし、啓示に近づいているのである。そして珍しく、この曲では感情的なシークエンスが最後に登場し、やや泣かせるものがある。

 

しかし、ステレオタイプの音楽にはならず、予想を裏切るようにして曲が続く。例えば「Forever Ago Is Now」では、ポスト・ロックや音響派のアプローチを図り、Explosions In The Skyのような映画的なギターロックのコンポジションを採用している。それらがストリングスのリサンプリング等の手法を用い、ドローン・アンビエントへと昇華されている。そして音楽は、更に抽象的になり、明確な意味を持つことを放棄する。つまり、当初は概念的であったものが、そういった現実的な領域を離れて、混沌とした生命の原初的な領域へと還っていくのである。

 

もちろん、アルバムでは、地上的な概念が暗示されることもあるが、制作の一番の意図は、生命の神秘的な領域、あるいはその一端に触れるということではないだろうか。「Dispersion of Belief」、「Red Moon」ではプロデューサーらしいと言うべきか、ノイズの形式を通して、「カオス」を描出している。それは地上的な何かを表したというよりも、宇宙的なワンネス、もしくは、根源的な生命の神秘へ迫るというような意義が込められている。むしろ本作の音楽は、アンビエントというより、スピリチュアルジャズやフリージャズに近い文脈に属するように思えた。

 

 

86/100

 




 Fucked Up 『Someday』

 

Label: Fucked Up Records

Release: 2024年11月1日

 


Review

 

カナダ・トロントの伝説的なハードコアバンド、Fucked Upは、一日で録音された『One Day』、今夏に発売された『Another Day』に続いて、『Someday』で三部作を完結する。今作は、エレクトロニックとハードコアを融合させた前二作の音楽性の延長線上に属するが、他方、ハードコアパンクのスタンダードな作風に回帰している。

 

それと同時に、ボーカルの多彩性に関しても着目しておきたい。例えば、『One Day』と同じように、ハリチェクがリードボーカルを取っている。4曲目の「I Took My Mom To Sleep」ではトゥカ・モハメドがリードボーカルを担当している。他にも、8曲目では、ジュリアナ・ロイ・リーがリードボーカルを担当。というように、曲のスタイルによって、フォーメーションが変わり、多彩なボーカリストが登場している。従来のファックド・アップにはあまりなかった試みだ。

 

アルバムの冒頭では、お馴染みのダミアン・アブラハムのストロングでワイルドなボーカルのスタイルが激しいハードコアサウンドとともに登場する。しかし、そのハードコアパンクソングの形式は一瞬にして印象が変化し、バンドの代名詞である高音域を強調した多彩なコーラスワークが清涼感をもたらす。バンドアンサンブルのレコーディングの音像の大きさを強調するマスターに加え、複数のコーラス、リードボーカルが混交して、特異な音響性を構築する。少し雑多なサウンドではあるものの、やはりファックド・アップらしさ満載のオープニングである。


また、従来のように、これらのパンクロックソングの中には、Dropkick Murphysを彷彿とさせる力強いシンガロングも登場する。2010年代からライヴバンドとして名をはせてきたバンドの強烈かつパワフルなエネルギーが、アルバムのオープニングで炸裂する。しかし、今回のアルバムでは、単一の音楽性や作曲のスタイルに依存したり固執することはほとんどない。目眩く多極的なサウンドが序盤から繰り広げられ、「Grains Of Paradise」では、ボブ・モールドのSugarのようなパンクの次世代のメロディックなロックソングをハリチェクが華麗に歌い上げている。一部作『One Day』の9曲目に収録されている「Cicada」で聴くことができた、Sugar,Hot Water Musicのメロディックパンクの原始的なサウンドが再び相見えるというわけなのである。

 

一見すると、ドタバタしたドラムを中心とする骨太のパンクロックアルバムのように思えるが、三曲目の後、展開は急転する。アナログのディレイを配した実験的なイントロを擁する「I Took My Mom To Sleep」では、ガールズパンクに敬意を捧げ、トゥカ・モハメドがポピュラーかつガーリーなパンクを披露する。察するに、これまでファックド・アップがガールズ・パンクをアルバムの核心に据えた事例は多くはなかったように思える。そしてこの曲は、バンドのハードコアスタイルとは対極にある良質なロックバンドとしての性質を印象付ける。また、2000年代以前の西海岸のポップパンクを彷彿とさせるスタイルが取り入れられているのに驚く。さらに、アルバムはテーマを据えて展開されるというより、遠心力をつけるように同心円を描きながら、多彩性を増していく。それはまるで砲丸投げの選手の遠心力の付け方に準えられる。

 

「Man Without Qualities」は、ロンドンパンクの源流に迫り、ジョン・ライドンやスティーヴ・ジョーンズのパンク性ーーSex PistolsからPublic Image LTD.に至るまで--を巧みに吸収して、それらをグリッターロックやDEVOのような原始的な西海岸のポスト・パンクによって縁取っている。彼らは、全般的なパンクカルチャーへの奥深い理解を基に、クラシカルとモダンを往来する。

 

最近では、米国やカナダのシーンでは、例えば、ニューメタル、メタルコア、ミクスチャーメタルのような音楽やコアなダンスミュージックを通過しているためなのか、ビートやリズムの占有率が大きくなり、良質なメロディック・ハードコアバンドが全体的に減少しつつある。しかし、ファックド・アップは、パンクの最大の魅力である旋律の美麗さに魅力に焦点を当てている。「The Court Of Miracles」では、二曲目と同じように、Sugar、Husker Duのメロディック・ハードコアの影響下にある手法を見せ、それらをカナダ的な清涼感のある雰囲気で縁取っている。

 

ミックスやマスターの影響もあってか、音像そのものはぼんやりとしているが、ここでは、アブストラクト・パンク(抽象的なパンク)という新しい音楽の萌芽を見て取ることも出来る。つまり、古典的なパンクの形式を踏襲しつつ、新しいステップへと進もうとしているのである。そして、パンクバンドのコーラスワークという側面でも、前衛的な取り組みが含まれている。

 

例えば、続く「Fellow Traveller」は、メインボーカルやリードボーカルという従来の概念を取り払った画期的な意義を持つ素晴らしい一曲である。この曲では、ファックド・アップのお馴染みのストロングでパワフルな印象を擁するパンクロックソングに、ライブステージの一つのマイクを譲り合うかのように、多彩なボーカルワークが披露されるのである。いわば、この曲では、バンドメンバーにとどまらず、制作に関わる裏方のエンジニア、スタッフのすべてが主役である、というバンドメンバーの思いを汲み取ることが出来る。これはライヴツアー、レーベル、業界と、様々な側面をよく見てきたバンドにしか成し得ないことなのではないかと思われる。


そして、全般的なパンク・ロックソングとして聴くと、依然として高水準の曲が並んでいる。彼らは何を提示すれば聞き手が満足するのかを熟知していて、そして、そのための技術や作曲法を知悉している。さらに、彼らは従来のバンドの音楽性を先鋭化させるのではなく、これまでになかった別の側面を提示し、三部作の答えらしきものを導き出すのである。音楽はときに言葉以上の概念を物語ると言われることがあるが、このアルバムはそのことを如実に表している。

 

「In The Company of Sister」は報われなかったガールズパンクへの敬愛であり、それらの失われた時代の音楽に対する大いなる讃歌でもある。パンク・シーンは、80年代から女性が活躍することがきわめて少なかった。Minor Threatの最初期のドキュメンタリー・フィルム等を見れば分かる通り、唯一、アメリカのワシントンD.C.の最初期のパンクシーンでは、女性の参加は観客としてであった。つまり、パンクロックというのは、いついかなる時代も、マイノリティ(少数派)を勇気づけるための音楽であるべきで、それ以外の存在理由は飽くまで付加物と言える。近年、女性的なバンドが数多く台頭しているのは、時代の流れが変わったことの証ともなろう。

 

ファックド・アップは、いつも作品の制作に関して手を抜くことがない。もちろん、ライヴに関してもプロフェッショナル。一般的なパンクバンドは、まずこのカナダのバンドをお手本にすべきだと思う。「Smoke Signals」では軽快なパンクロックを提示した上で、三部作のクライマックスを飾る「Someday」では、かなり渋いロックソングを聴かせてくれる。このアルバム、さらに、三部作を全て聴いてきた人間としては、バンドの長きにわたるクロニクル(年代記)を眺めているような不思議な感覚があった。 ということで、久しぶりに感動してしまったのだ。

 

 

 

88/100

 

 

 




◾️ 【Review】  FUCKED UP 『ONE DAY』