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イギリス/アイルランドのシンガー、アンナ・B・サヴェージの3枚目のアルバム『You & i are Earth』の核心は、根源的な感覚にある。このアルバムは、癒しについて、さらに屈託のない好奇心についての感覚でもあり、もっと簡単に言えば、「ある男性と、アイルランドへのラブレター 」でもある。


絶賛された『A COMMON TURN』、『in|FLUX』に続く『You & i are Earth』は、開放的でありながらフレンドシップを感じさせる。オープニング曲『Talk to Me』は、海の音と目を輝かせるストリングスが私たちをなだめ、優しさの研究であり、私たちの魂を本質的な場所へと導いてくれる。

 

私が緊張するのは、それがとても繊細で微妙なものだからで、注目の経済が私たちに、私たちを連れ去ってくれる大きな光り輝くものを渇望させているのです。


しかし、『You & i are Earth』は、サヴェージの初期の作品から大きく進歩した、変わらぬ穏やかな感覚を持ちながらも、従来とは違った場所に導いてくれる。

 

最初のレコードを書いていたときは、難しいと感じていた。2枚目のアルバムでは、セラピーを受けて自分自身と向き合っていたんだけど、昔の自分がまだ私を少し引き戻していた。


ある場所に異様なほどに心を惹かれたり、もしくは親しみを見出すことはないだろうか。サヴェージは、地理的にも感情的にも、今自分が置かれている場所や環境に起因するものだと語る。そして、このレコードは文字通り、ある特定の場所に根ざしている。ほかでもないアイルランドのことだ。

 

サヴェージとアイルランドとのつながりは、マンチェスターの大学で詩の修士課程を専攻した10年以上前にさかのぼる。ソングライターとしての素地あるいは内郭のようなものを築き上げた場所だという。

 

2020年に(ダブリンで)音楽の修士課程に進んでから、シアン・ノーの歌についてのエッセイを読んだり、カートゥーン・サルーンのものを見たり、アイルランドの神話について読んだりした。

 

それ以来、アンナは多くの時間をアイルランド西海岸で過ごしている、 ツアー(今年はザ・ステイヴスやセント・ヴィンセントのサポートで、以前にはファーザー・ジョン・ミスティやソン・ラックスらとツアーを行った。その合間には、故郷のドニゴール州に戻り、仕事のためにロンドンを訪れ、当地の文化的な事業に携わっている。


例年10月に開催されるロンドン映画祭でプレミア上映されたアレックス・ローサー監督の新作短編映画『Rhoda』の映画音楽を担当し、マイク・リンゼイのスーパーシェイプス(Tunng & LUMPのプロデューサー兼マルチ・インストゥルメンタリストが率いるコラボ・アルバム&スーパー・グループ)の一員としても活躍した。これらの活動が音楽的な奥行きや幅広さをもたらしたのは明らかである。


そういったミュージシャンとしての仕事の傍ら、アンナ・B・サヴェージはもうひとつの故郷とのつながりを見出そうとしていた。その土地にしかない感覚であり、自分にとって欠かさざる神秘性の源泉である。彼女の新しい故郷とデリケートでありながら花開いた関係は、「ドネガル」での海との約束の中に集約されている。そこでは、きらめくパーカッションの中で、彼女は海に「私のことをよろしくお願いします」と頼みこみ、そして「モ・チョル・スー」では、人、場所、希望にたいする子守唄のように変化してゆく。このレコードを形作っている間、彼女が読んでいた本のひとつに、Manchán Magan(マンチャン・マガン)の『32 words for Field』がある。

 

歴史と人間、自然と人間性など、さまざまな要素が交錯する慈愛に満ちた作品の根底には、清算の感覚がある。タイトル曲「You & i are Earth」は、ロンドンの下水道で発見された17世紀のお皿からインスピレーションを得ており、そこには統一された感情が刻まれている。しかし、この曲は壮大でありながら、控えめで優美、ストリングスの渦巻く嵐のようなサウンドに縁取られている。ギターとコーラスが夢のように融合したデリケートな「I Reach for You in My Sleep」、甘く切ない「The Rest of Our Lives」のように、このレコードは何かを隠そうとするのではなく、サヴェージの魅力的でエレガントな歌声にぴったりと寄り添うような繊細さを表現している。


そのプロセスは、アンナ・ミーケをフィーチャーした複雑な作品で、二重性と変容という主題を軸にした「Agnes」で見事に表現されている。この曲は、サヴェージが瞑想を通して経験した不穏な体験を反映したもので、最終的には没入感のある美しい感覚に終わる。


20世紀に入り、人類は宇宙を目指して来たが、同時に多くの人々はなにか重要なことを見落としてきた。自然との調和、もしくは自然を慈しむことなくして、その場所に溶け込むことなどできようはずもない。アンナ・サヴェージは、土地に戻る、もしくは土地に帰るというような現代人の多くが忘れかけた感覚を大切にしている。それはアートワークにも表され、自然と一体になるという重要な主題に見出すことができる。


アイルランド/スライゴ州の森林地で撮影された写真で、サヴェージが木々を見上げ、そのフラクタル(幾何学的な概念)が彼女の目に映し出されている。彼女が瞑想中に感じた何かを映し出し、私たちを一周させ、私たちは本質的に一体で、少なくともそうあろうと努力している、つまり、「あなたと私は地球」という感覚に立ち戻らせる。

 

 

Anna B Savage 『you & i are Earth』


 

米国の思想家であるヘンリー・D・ソローの名著の一つに『ウォールデン 森の生活』というのがあるのをご存知だろうか。都会的な生活や産業の発展により、極度にオートメーション化された現代人の生活を営む若者が森に入り、しばらく生活をし、重要な概念を見出すという内容である。森の小屋での暮らしは簡単ではないものの、機械文明の中では見出しづらい重要な人生のテーマを発見するというのが趣旨である。


この生活の中で、ソローは、時々、小屋に友人を招きつつ、原始的とも言える暮らしを送り、山や湖のような自然と一体化する暮らしを送り、この名著を世に輩出した。この書籍は現在でも、私自身の重要な生活の指針ともなっており、実際的に、デジタルや日々の喧騒に飲み込まれそうになった時、単なる思想以上の重要な意味を持ち始める。そして、ロンドンのシンガーソングライター、アンナ・B・サヴェージの新作もそれに近い趣旨を持つ。 このアルバムは簡潔な30分の作品であるが、現代的な生活のなかで人々が忘れかけた感覚を思い出させてくれる。

 

多くの場合は、人々は、世間的な価値観を重んじるが、 それはつまり空虚を獲得するための道が開けたということである。多くの人々は、虚しさという道標が視界の先に見えるやいなや、幸福と見間違えて歩みを進める。だが、それは蜃気楼にも似ていて、掴んだかと思えば、すぐ通り抜ける。煉獄への道はきわめて魅力的に映るが、本来の意味での幸福に繋がっているとはかぎらない。ソローが、湖にほど近いウォールデンで解き明かしたのは、簡潔に言えば、幸福は自分の内側にしか見つけることができず、それは、基本的には一般化できないということである。


理想的な音楽とは、言語化しきれない本質的な思いを暗示するものである。例えば、私たちの話す個別の言語は、それを表層化するための手助けやヒントの役割を果たす。言い換えれば、水面下にある感覚や言葉を、水面の上に汲み出すということである。しかし、驚くべきことに、日頃の暮らしでは、主たる役割を持つ言語が、音楽の場合は、副次的や役割を果たすのである。


そして、あるとき、優れた音楽家は、ある大切なことに気がつく。言語の不確実性、そして言葉というものがいかに頼りないものだったのか、と……。どのような方向から見ても、言葉は誤ちを引き起こす要因ともなり、それはまた、言語の限界性がどこかに存在するという意味である。なぜなら、言葉は、音楽以上に受け手側の感情により、その解釈が分たれるからだ。音楽は、言語、詩、絵画では表現しえない抽象的な領域、かつてアンドレ・ブルトンが提唱した「シュールレアリスム」のフィールドに属している。アンナ・B・サヴェージは、すべてではないかもしれないが、このアルバムの制作で音楽の本質の端緒を掴んだのではないかと思われる。

 

本作の地球のタイトルの接頭辞(頭文字)が大文字になっていることは、偶然ではない。強調のためである。そして、内在的には、人間は利己的な生き物であると言わざるをえないが、この地球が、そして、自然や生きものたちが、本来は人間と対等であるという重要な提言を行おうというのである。これは、近年、注目を浴びていたナチュラリストなどという浮ついた言葉で解釈するのは不当かも知れない。なぜなら、それは本質的な意味で、自然は特別な存在ではなく、わたしたちと共存しているのだから。このアルバムが示そうとするのは、最も生命的な根源の本質であり、それを詩や音楽の側面から解き明かそうということだ。このアルバムの核心は、基本的には、現代的な文明の中で忘れられがちな人間の本来のすがたを思い出すということにある。この考え方は、アンビエントや環境音楽に近いと思うが、サヴェージの場合、古典/現代的なフォークミュージックという形で、優雅に、そして、ゆるやかに繰り広げられる。アンナ・サヴェージの英語は、すごくわかりやすく、聞き取りやすい。それは、英語の響きを丁寧に発音し、真心を込めて歌おうという歌手の精神の発露でもある、おだやかでありながら優雅なひびきを持つフォーク・ミュージックと並置され、それが絶妙なバランスをたもっている。

 

アイルランドとの関わりは、もしかすると、現世的な意味だけではなく、それよりも遥かに深いルーツのような意味を持つのかもしれない。もっといえば、中世ヨーロッパ以前のアイルランド的な気風を反映しようというのかもしれない。さらに、現代的な価値観から離れ、本質的な生命の魅力を思い出すという副次的な主題については、アルバムの全体的なサウンドに貫流している。例えば、レコーディングのデジタル処理を除いては、ギター、ストリングス、木管楽器というように、実際の演奏の多くは、アコースティック楽器を中心に行われている。これは、アルバムの「自然との一体化」という主題と融和し、アートワークの期待を裏切ることがない。ボーカル、ギター、ストリングのカルテットのような編成で繰り広げられるフォークミュージックは、見方を変えれば、アイスランドの”amiina”のような室内楽グループのサウンドを彷彿とさせる。アンナ・B・サヴェージは、北欧的な感性に、詩学という彼女にしか持ちえない特性を添える。 そして言葉もまた、音楽の向こう側にぼんやりとゆらめき、心地よい響きを放つ。

 

 

アルバムの音楽は、サウンドスケープを巧みに用い、情景的な音楽で始まりを告げる。「Talk To Me」は、ヴァイオリン奏者であるPual Giger(ポール・ガイガー)のような現代音楽のストリングの特殊奏法から始まり、その向こうからフォークミュージックが始まる。アコースティックギターのサウンドホールの芳醇な響きを生かした的確なマスタリング、そして、それと並置されるサヴェージのボーカルが涼し気な音響を作り出し、アルバムの世界観が広がりを増していく。


時々、ハミングのような歌唱を交え、背後のアコースティックギター、ストリング、薄く重ねられるシンセのテクスチャーが折り重なり、重力のあるサウンドが構築される。注目すべきは、アコースティックギターを多重録音し、音の厚みや迫力を重視していることだろう。さらに大きめの音像を持つボーカルと溶け合うようなミキシングが施されている。しかし、全体的には音楽の重厚さが重視されながらも、各々の楽節に関しては、小さなものが丹念に組み上げられている。

 

例えば、ジャクソン・ブラウンの作品には、一曲の構成の中で、スタジオの録音/ライブの録音という、二つの観点から異なる雰囲気を持つレコードに仕上げるという手法が用いられたことがあった。このアルバムもまた、異なる場所で録音されたようで、作品全体に多彩性をもたらす。聞き手は、実際に、収録曲ごとに別の空間に導かれるような錯覚を覚えるかもしれないし、もしくは、曲ごとに別の新しい扉をひとつずつ開くようなワクワク感を覚えるかもしれない。

 

続く「2-Lighthouse」は、エイドリアン・レンカーが『Bright Future』で用いたような録音技法を駆使する。この曲の場合、ローファイな感覚やデモテープの質感が前に押し出され、まるで山小屋のアナログ機器でレコーディングしたかのような印象を覚える。


カモメが海辺を舞う情景、アイルランドの海辺の波がさざめく情景、心を和ませるサウンドスケープが、アンナ・サヴェージの得意とするフォークソングという形で繰り広げられる。ここには、ーー内側(音楽を奏でる制作者の心)、外側(アイルランドの自然)ーーという二つの情景が対比され、内在的なストーリーテリングのような趣旨を持つ。音楽がイメージを徐々に膨らませていく。


制作者の人生の一部を写真のスナップショットや映画のワンカットのように切り取り、表面的な情景を音楽で表現するという、アルバムの制作において重視される作業の他に、もう一つ、制作者自身のルーツを辿るという試みが含まれている。


例えば、アイルランド音楽(古楽)の中世的な源泉に迫るという側面では、同地の実験的なフォークグループ、Lankum(ランカム)が例に挙げられるが、それに類する試みと言えるかも知れない。ここでは、民族的な打楽器を用い、それをダンスミュージックのように散りばめ、フォークミュージックと同化させる。


「3-Donegel」は、シンガーの二つのボーカルを対比させ、ジャズの系譜にあるドラムを背景とし、中世ヨーロッパの舞踏的な音楽、エスニックに近い民謡的な音楽へと傾倒していく。しかし、そういったマニアックな音楽性は、ポピュラーな節回しや親しみやすいフレーズによって帳消しにされ、聴きやすい、ダンサンプルでグルーブ感のあるポピュラーソングに昇華されている。

 

さらに、続く「4-Big & Wild」は、アイルランドのフォークミュージックのイディオムを駆使して、アルバムの序盤の収録曲と同じように、同地の開けた感覚や自然との調和を表現している。他の曲に比べると、繊細な感覚が、アコースティックギターのフィンガーピッキングや、ボーカルの内省的な感覚と合致し、 優美なハーモニーを形成する。そして、楽曲の構成も巧緻で、長調と短調のフレーズを交差させながら、アイルランドの変わりやすい気候であるとか、日によってそのつど印象を変化させる海峡の情景を巧みに表現しようとしている。それは、さながら個人的な日記の代用でもある。明るい感覚を持っていたかと思えば、それとは対照的に、暗鬱とした感覚に変わる。同曲は、短いインタリュード(間奏曲)のようでありながら、アルバムの前半部と中盤部を結びつけ、次なる曲の流れを呼び込むような重要な役割をなしている。

 

「5-Mo Cheoul Thu」から後半部に入る。フォークギターの基本を習得する際にトロットという演奏法がベースになっている。これは、アレグロの速さのアルペジオをフィンガーピッキングのギターによって演奏するというものである。例えば、有名なところでは、Bob Dylan(ボブ・ディラン)の「Don't Think Twice, It's All Right(邦題: クヨクヨするな)」でも聴くことができる。こういった馬の駆け足のようなリズミカルなテンポを持つアコースティック・ギターの演奏では、アルペジオ(分散和音)が水の流れのようになめらかであることが重要視される。そしてもちろん、演奏時にも、次のコードやスケールへ動く際にもスムーズであるに越したことはない。


この点において、巧みなアコースティックギター演奏が披露され、聴き応えのあるフォークソングが組み上げられる。また、実際的な旋律の進行や和音のスケールもまた、聞き手の内的な感覚に訴えかけるように、センチメンタルな叙情性を創り出す。ボーカルに対するギターの分散和音が切ない響きを生み出し、そして、ボーカリストの繊細なニュアンスの変化がギルバート・オサリバンのような淡いペーソスを創り出すこともある。さらに、ボーカルの情感を上手く演出するのが、弦楽器と木管楽器(クラリネットかオーボエ)のレガート、トレモロで、この曲の上品さと切なさを巧みに引き出している。3分後半からは、曲の表情付けと伴奏の役割であった木管楽器が主旋律に変わり、感動的な瞬間を生み出す。この曲ではポリフォニックな構成とモノフォニックな構成が重なり合い、絶妙なフォークソングが生み出されることになった。


 

「Mo Cheoul Thu」

 

 

 

アイルランド民謡、及び、バクパイプのような楽器にまつわる民俗性は、間奏曲「6-Incertus」に明確に発見することができる。ここでは、ドローンという現代音楽の通奏低音の響きを活かし、次の曲の流れを呼び込む。アルバムという形態は、良い曲を集めただけでは不十分で、一連の流れや波のような構成を制作者の創意工夫を駆使して作り出す必要がある。この曲は、前のインタリュードと並び、他の曲を際立たせるための脇役のような役割を果たしている。鳥の声、自然の奥底に見いだせる雄大なアトモスフィアを、サウンドスケープで切り取り、アルバムの中に起伏をもたらしている。これが全体を聴き通したときのささやかな楽しみとなるはず。

 

 

以降、本作は、序盤から一貫して示唆されてきた簡潔性をもとに、冗長さを排した曲を終盤に並置している。しかし、その中で一貫して、アイルランド民謡などに象徴づけられる音楽の清々しい気風が反映されている。そして、制作者に人生の一部分や実際的な生活から汲み出される感覚を濾過し、それらを起伏のあるエンディングに向かって、一つの線をつなげようとしている。


「7- I Reach For You in Sleep」では、ケルト民謡、東欧のポルカなどでお馴染みの三拍子のリズムを活かし、自然味溢れるフォークミュージックに仕上げている。また、導入部のモチーフとサビのリズムの変化等、構成面のおける対比の工夫を駆使し、華やかさのあるポピュラーソングを創り出す。サビの箇所では、朗らかで、開けたような感覚と、カントリーソングの雰囲気が組み合わされて、重要なハイライトが形作られる。サビの最後に入るコーラスも美しい。また、全体的な曲の枠組みの中で、最後にサビに戻ってくる時、ボーカルがクレスタのような音色と重なり合う時、制作者が示そうとしたであろう生命の神秘的な瞬間のきらめきが登場する。そしてそれは、よりアグレッシヴな印象を持つポップソング「8-Agnes」でハイライトを迎える。

 

音楽自体は、表題曲において最も素晴らしい瞬間を迎える。アルバムの冒頭のモチーフが蘇り、ストリングのトレモロが再び登場するのは、文学における登場人物の再登場のような感じで面白さがある。また、背景となる自然の大いなる存在を背後に、サヴェージは心に響く歌をうたう。それは、アイルランドの自然のなかで歌をつむぐような爽快感がある。さらに、その後、連曲のような構成を作り、「The Rest Of Our Lives」に続き、あっけないほど、さっぱりとしたエンディングを迎える。アルバムの最後に収録されている曲には、本作の副次的な主題である、自然に帰る、あるいは、自然と一体化する、という感覚が音楽の基礎を通じて的確に体現されている。作品の中にある主題や伏線のようなものがしっかりと回収されているのも面白い。

 

アウトプットされるものは一瞬であるにしても、表層に出てくる音楽の背景には、制作者の蓄積と経験が浮かび上がる。それこそが本質とも言え、どうあろうと、隠すこともできなければ、ごまかしもきかない。このアルバムの最大の魅力がどのような点に求められるのかといえば、デジタルサウンドのマスタリングで本質を薄めず、それ以前の人の手の工程に制作の時間の大半を割いたことにある。だから、心地よくて、長く聴いていたいと思わせるものがあるのだ。


 

 

86/100

 

 

 『you & i are Earth』



 Anna B Savage(アンナ・B ・サヴェージ)のニューアルバム『you & i are Earth(あなたとわたしは地球)』はCity Slangより本日発売。ストリーミングはこちらから。
Sophie Jamieson

 

Sophie Jamieson(ソフィー・ジェイミソン)のニューアルバムに添えられている写真には、動きの感覚がある。風雨に揉まれ、他の人々によって翻弄され、固い場所に着地することはない。レコードの内ジャケットには、二重露光の写真に写った彼女が写されている。これは単なる写真かもしれないけれど、彼女のアルバムのより深い部分のメタファーでもある。不安感や根付かない感覚をとらえようとしているのかもしれない。どこかに憧れながらも、完全には辿り着けないというような。


ベラ・ユニオンからリリースされる彼女の2枚目のアルバム『I still want to share』は、愛すること、失うことの循環的な性質、人間関係から逃れられない不安、他人の中に居場所を見つけようと試みては失敗を繰り返す帰属などへの永遠の憧れについて、深く個人的な考察を提示している。


ソフィーのデビューアルバム『Choosing』が、自分自身全体から逃げることで膨らむ自己破壊的な衝動を探求しているとしたら、私はやはり、それに全力で向き合いながら、一曲一曲を通して強さを分かち合いたい。


スピリチュアライズドやマニック・ストリート・プリーチャーズなどの作品で知られ、ザ・ビートルズのバック・カタログのリマスターでも知られるグラミー賞受賞のGuy Massey(ガイ・マッセイ)がノース・ロンドンでプロデュースしたこのコラボレーションは、より探求的で、チョージングよりも遊び心があり、より豊かなパレットで細部まで表現されている。


ソフィー・ジェイミーソンのソングライティングとヴォーカルが持つ生々しい感情の全てに、新たなキャラクターが加わった。玩具のようにきらめくオムニコード、陰鬱なハルモニウムとサブベースのレイヤー、そしてジョセフィン・スティーヴンソン(Daughter)の提供による豊かなストリングス・アレンジが、レコードの鼓動の中心を通して憧れの感情のつながりを紡ぎ出す。


「私たちは、とてもとても私らしいと感じられるものを作ったけれど、たくさんの異なるサウンドの風味もあるの」とソフィーは説明する。


「温かみのある秋の色もたくさんあるし、キラキラした暗い星空もある。このような形で表現する必要があったとは……。自分でも知らなかったことを表現するため、すべてがひとつになったわ」


アルバムは静寂の中で幕を開け、陰鬱な「Camera」は最初の1分ほどで穏やかに焦点が定まり、ギターが盛り上がり、ドラムビートがシャッフルされる。リード・シングルの「I don't know what to save(何を救えばいいのかわからない)」は、より軽快に感じられる。「この曲は、自由を求めて走り出した曲なの」とソフィーは説明する。


「ある人への執着と、その人にまつわるすべての痛みの重みを抱えていた。それは手放すことへの大きな後押しだった」


ソフィーは 「愛」という言葉の巨大さを取り上げ、そのミステリアスなヴェールを剥がしていく。愛することはしばしば支配や欲求のように感じられること、愛されることは自分自身と向き合わなければならないときには耐え難いことであること。シンプルで純粋な、不安のない愛は、分かち合い、寛大さ、ゆとりのように見える。 


「このアルバムを支えているのは、シンプルに愛というより、むしろ''愛着''という考え方だと思う」と彼女は説明する。「臨床的でロマンチックでない性質、醜い性質、そして人間的な性質」


タイトル・トラックは、陰鬱なアレンジの中に子供の欲望が透けて見える。 「争う必要のない絆の魔法/耳には耳を、目には目を/これが私のものであることが幸運なのだと思う/それでも時々分かち合いたい」


ソフトで、純粋で、シンプルな愛がそこにあるという抑えきれない希望が、このレコードを引っ張り、すべてが崩壊する危険性が常にあるにもかかわらず、私たちを再び愛へと引き戻す力となっている。


私たちが自分自身に何を求め、愛する人たちに何を求めるかという点で、完璧さや確かな答えを求める無益な欲望を浄化するものとして本作を分かち合いたい。全体を通して問いかけられるのは、根源的なレベルで痛みを伴うもので、答えについては風に流されるだけである。結局、エンディング・トラックで歌われるように、「時はあなたを後ろへ引っ張り、あなたの年齢の下へ深く潜り込ませる」それでもなお、私たちは愛を求め、それを分かち合いたい。-Bella Union



 Sophie Jamieson 『I still want to share』- Bella Union


 

”ソングライター”というのは、日々の人間的な成長に合わせて、音楽的なテーマを変え、その時々に相応しい歌い方を見つける人々のことを言う。

 

それを見て、「あの人は変わった」という。しかしながら、こういったアーティスティックな表現者に類する人々は、器用であるから、そうするのではなく、むしろ自身のうちに少しだけ不器用な部分が残されているから、そうするのである。わからないことがあるから歌う。未知や謎が目の前に立ちはだかるから曲を制作する必要がある。すべてがわかるからではなく、わからないことを解き明かすために音楽がひとつの媒体となり、動脈ともなりえる。そういった姿勢やスタンスは、間違いなく、良質な音楽を制作するためのヒントとなり、また大きな糧ともなりえる。

 

まさしく、ロンドンを拠点に活動するソフィー・ジェイミーソンは、昨年末のローラ・マーリングと同様に、人間的な成長をシンプルに織り交ぜ、美しいポピュラー、フォーク・ソング集を書き上げることに成功した。音楽的になにかが大きく変わったわけではない。しかし、内的な成長が表面的な音楽を変化させたのである。

 

2022年の『Choosing』において、ソフィー・ジェイミーソンは解き明かし難い主題を据え、内的な痛みを織り交ぜた。自己破壊の苦しいどん底、そしてそこから見えるかすかな希望の光への旅を描いたどこまでも純粋なパーソナル・ドキュメントを作り上げた。しかし、もし、続編にアーティスト自身が語るような優しいまなざし、慈しみが音楽の最果てにほの見えるとあらば、それはアーティストが掲げる愛着の精神がリスナーのもとに届いたということになるだろう。


ソフィー・ジェイミーソンは、今回のアルバムにおいて、歌手としてシャロン・ヴァン・エッテンのポスト的な立場を選んだ。インディーロックから影響を受けたクランチなギター、オペラ風の歌唱法等、シャロン・ヴァン・エッテンのテイストが全編に満ち渡っているが、単なるフォロワーにとどまらないことは、最新作『I Still Want To Share』を聴くと、明らかでないだろうか。そして、ジェイミーソンの音楽性が全般的なフォークソングをベースにしているとはいえ、アメリカの民謡とは明らかに異なることは本作を聞けば明らかとなる。最近、私自身もわかってきたのは、ウェールズ、アイルランド、スコットランドといった地方、いわゆる古イングランドの地域には、なにかしら深い音楽的な魅力がその土地の底に眠っている。ソフィー・ジェイミーソンは、それを探りあてるべく、ギターを中心とした音楽に多彩な歌唱法を披露する。

 

アルバムは、「1-Camera」の優しげなギターの弾き語りで始まり、心地よいリズムとアルペジオという枠組みが形づくられるが、一方、歌手のボーカルはその枠組から離れ、雄大な印象を持つ。スタジオの中の音楽というよりも、アルバムのアートワークとリンクするような感じで、小さな空間を飛び出し、羽ばたいていく。そして、ミドルボイスを中心に、ファルセットを含めたハミングがギターと調和するように、しだいに大きな音楽的な空間をゆっくりと作り上げていく。それをより華やかにするのが、今作の編曲において重要な役割を果たす弦楽器の重奏である。前作におけるオーケストラ音楽へのアプローチはより、今作において洗練され、磨きがかけられた。これはビートルズの音楽をよく知るガイ・マッセイ氏の大きな功績でもある。

 

ソフィー・ジェイミーソンのアルバムは、ギミック的な演出により、人を驚かせたりすることはない。バーバンクサウンドと同じように、まず曲があり、編曲が続き、最終的にマスターがある、という音楽の基本的な段階を踏まえながら、丹念に録音作品が作り上げられていった形跡がある。それはデジタルサウンド主流の時代にあって、むしろ手作りのサウンドのような印象を覚えることもある。


「2-Vista」も同じように、エレクトリック・ギターのアルペジオの艶やかさなサウンドに、ミステリアスな印象を持つジェイミーソンのボーカルが続いている。ジャズのスケールを踏まえたギターに、ボーカル、コーラス、クレスタといった要素がミルフィールのように折り重なり、イントロで感じられた神秘性がより深い領域へと差し掛かる。冒頭から音楽的な世界が見事に作り上げられ、さながら奥深い森のむこうを探索するような神秘的な情景が描かれる。前作よりも遥かに音楽的なイディオムに磨きがかけられたことがよく分かる。

 

 

「3-i don't know what to save」は、大まかには3つの構成を持つポピュラーソングだ。歌手の歌の実力がいかんなく示され、伸びやかで美しいビブラートが際立っている。ここでは何を救ったら良いのかわからないと歌手は嘆く。けれども、もし、この歌声と温和なサウンド、そして美しいオーケストラ・ストリングスに聞き惚れる人々がいれば、それはそのまま、誰かを救ったという意味に変わる。その人の他にはない個性や能力が、人々に勇気や元気、そして希望を与えた瞬間でもある。静かなイントロから中盤、そして終盤にかけた曲のアイディアの種が芽吹き、さらに、大きな美しい花を咲かせるように、美しい音楽の成長の過程を味わうことが出来る。アルバムの序盤のハイライトのひとつで、本作は、この曲でひとまず大きな要所を迎える。

 

 

「 i don't know what to save」

 

 

対象的に、静かな弾き語りのポピュラーソング「4-Baby」から、 このアルバムの愛着というテーマがより深い領域へと達する。親しみやすいポピュラーソングのメロディーに、ときどき内的な心情のゆらめきを表現するかのように、長調と短調の分散和音を交互に配置させながら、琴線に触れるような切ない叙情的な旋律進行を生み出していく。そして、その内的な波のゆらめきは、むしろそのありかを探せば探すほど、奥深い霧に覆われるかのように見えづらくなり、その正体が掴みがたくなる。さらに、もうひとつ注目すべきは、ジェイミーソンのボーカル/コーラスのコントラストが、まるで内的な会話のようでもあり、そして、もうひとつの自分の得難い姿に戸惑うかのようでもある。しかし、二つに分離したシンガーはいくつかの悩ましき変遷をたどりながら、なにかひとつの終着点にむけてひとつに重なりあうような感覚がある。

 

「5-Welcome」は同じようなタイプに位置付けられる。これまたシャロン・ヴァン・エッテンのソングライティングに近く、外側には現れ出ない内的な感情の揺らめきをミステリアスなテイストを持つポピュラーソングに昇華させている。しかし、ガイ・マッセイによるミックス/マスターの性質が色濃く立ち現れ、クレスタ、もしくは、オムニコードのようなシンセの対旋律的な配置、部分的な逆再生による音の印象の変化を駆使して、音の印象に劇的な変化を及ぼしている。そして、この曲はギター(トレモロ)のダイナミックスを段階的に引き上げていき、全体的になだらかな丘のような起伏を設け、曲の後半部に強固な印象を持つハイライトをつくりだす。

 

こういったサウンドは、ヴァン・エッテンにとどまらず、ベス・ギボンズの復帰作と同じように、暗鬱さと明るさの間を揺らめく抽象的なポピュラーソングの領域に属している。そして、表向きには現れないが、ウェールズ、スコットランド、アイルランド地方のフォーク・ソングや民謡の原始的な音楽がこれらのポピュラーソングの背後に揺らめいているという気がする。結局、これこそが、アメリカとイギリスのフォークを別け隔てるなにかである。それが原初的な古イングランドのカントリーの雰囲気と混ざりあい、「6-Highway」に繋がる。アルバムの序盤から一貫して示唆されるエレクトリックギターのクリーントーン(おそらく、Rolandのようなアンプ)から作り出されるサウンドは、一般的なポピュラーソングのギミック的な演出とは程遠く、素朴な落ち着きがあり、普遍的な響きが込められている。アコースティックギターではなく、エレクトリックによるいつまでも聞いていられるようなソフトなアルペジオが、ソフィー・ジェイミーソンのボーカルと混ざり合っていることはいうまでもない。これらのサウンドは、プロデュースの意向とも相まってか、ジャズに近いニュアンスを併せ持つこともある。

 

前の曲では、旋律やダイナミックスともに要所を迎え、その後、アウトロで静けさに帰る。もはや、この段階に来て、このアルバムが即効的な意味を求めて制作されたものではないことは明らか。そして一貫して、ギミック的なサウンド、エポックメイキングなサウンドを避けて、素朴なフォークソングをもとに、聴けば聴くほど深みが出てきそうな曲を収めている。 これらは、70年代のフォークやポピュラーのように、レコード生産が単なる消費のためのものではなかった時代の幻影をなんとなく脳裏に蘇らせる。文化的な役割を持つ音楽を制作しようという心意気については、一定数の本当の音楽ファンの心にも何かしら響くものがあるかもしれない。もちろん、すでに前半部から中盤にかけて示唆されてきたことだが、ジェイミーソンの音楽は、名誉心やインフルエンサー的な欲望とは程遠い。それがゆえ、なにかしばらく忘れ去られていた音楽そのものの安心感であったり、素朴さの一端を思い出すことも出来るかもしれない。

 

ソフィー・ジェイミーソンは、このアルバムで愛着というテーマを中心に、自分の人生から滲み出てくる感覚を音楽によって表現しようと試みている。それがシャロン・ヴァン・エッテン、ギボンズの系譜にある音楽のスタイルを受け継いでいるにせよ、単なる模倣的な音楽にならない要因である。人生は、その人のものでしかありえず、他の誰のものではない。もちろん、他の誰かになることは出来ないし、他の誰かになってもらうことも不可能である。ある意味では、前作から探求してきたテーマ(音楽的なものにせよ、人生的なものにせよ)は、続くタイトル曲で、一つの分岐点や重要なポイントを迎えようとしている。彼女は、明るい感覚を世界に向けて共有しようとしている。それは少なくとも、妬みや顰み、羨みといったこの世に蔓延る閉鎖的な感覚ではない。その音楽が開けていて、本当の意味における自由があるからこそ、なにか心に響くものがあるというか、その音楽が耳に残ったり、心地よさを覚えるのだろう。もちろん、それはたぶん、歌手としての人生に大きな自負を持っているからなのかもしれない。

 

アルバムの終盤でも心地よいフォーク/ポピュラーが続いている。「8-How do you want to be loved」では、シャロン・ヴァン・エッテンのタイプの楽曲で、繊細さと勇壮さを併せ持つ。オムニコードの使用は、この曲にちょっとした親しみやすさとユーモアを添えている。また、ヴェルヴェットアンダーグラウンドの「Sunday Morning」でも使用されるクレスタ(グリッサンド)の響きがこの曲に可愛らしさと古典的な風味を添えている。さらに、プロデュースの側面でも、キラリと光るものがあり、音形をモーフィングさせ、独特な波形を作り出しているのに注目したい。 特にアルバムの終盤でも素晴らしい曲があるので、ぜひ聞き逃さないでいただきたい。

 

「9- Your love is a mirror」では、一貫したスタイル、サイレンスからダイナミックなエンディングが暗示され、ボーカル/コーラス、クリーントーンのギターに美しい室内楽風の弦楽器の合奏が加わっている。特に、チェロ/バイオリン(ヴィオラ)がハーモニクスを形成する瞬間は息を飲むような美しさがあるし、鼻声のミドルボイスとコーラスワークには心を震わせるようななにかが込められている。まるでウィリアム・フォークナーのように、内的な感覚の流れは一連なりの川の導きのように繋がっていき、そして、本格派のポピュラー歌手としての崇高な領域へと到達する。


続いて収録されている「10- I'd Take You」は、落ち着いたリゾート気分に充ちた一曲で心を和ませる。ボサノヴァ、ブラジル音楽、ハワイアン、そういった音楽を巧みに吸収している。日曜の午後のティータイムのひとときを優雅に、そして安らかにしてくれることはほとんど間違いない。最後の曲はどのようになっているのか、それは実際にアルバムを聞いて確認していただきたい。

 

ソフィー・ジェイミーソンのアルバムを聞いて安らぎを覚えたのは、音楽を単なる消費のためとしてみなさず、敬愛すべきもの、美しきもの、慈しむべきものという考えを持った人々も存在することが確認出来たからである。大きなヒットは望めないかもしれないが、少なくとも、純粋な音楽ファンであれば、こういったアルバムを素通りするのは惜しいことではないだろうか。

 

 

 

86/100

 

 


 

Best Track 「Your love is a mirror」

Weekly Music Feature: Moonchild Sanelly 『Full Moon』  

 

・南アフリカ発 フューチャー・ゲトゥー・ファンクの女王の誕生

 

ミュージシャンでクリエイティブなビジョナリー、Moonchild Sanelly(ムーンチャイルド・サネリー)は、アマピアノ、Gqomから 「フューチャー・ゲットー・ファンク」と呼ばれる彼女自身の先駆的なスタイルまで、南アフリカの固有ジャンルを多数網羅したディスコグラフィーを擁する。

 

ポート・エリザベス出身のこの異端児は、活動当初から独自の道を切り開いてきた。''ムーンチャイルド・サネリー''として親しみやすく、唯一無二の存在であり続けるように努めながら、実験と革新を巧みに取り入れたキャリアを通じて、溌剌とした比類なきスタイル、肯定的なリリックとストーリーテリング、そしてインスピレーションを与える誠実さで知られるようになった。

 

スタジオデビューアルバム『Rabulapha!』(2015年)、ジャンルを超えた2ndアルバム『Phases』(2022年)に続き、変幻自在の彼女は、2025年1月に新作スタジオ・アルバム『Full Moon』をリリースする。

 

南アフリカのアフロハウスの女王”ヨハン・ヒューゴ”のプロデュースによる『Full Moon』は、サネリーの大きな自負と覚悟の表れでもある。独自のサウンド、陽気なアティテュード、個性的なヴォーカル、ジャンルを超えたヒット曲、さらに、彼女の特徴的なシグネチャーであるティールカラーのムーンモップに彩られた輝かしい美学が表現された12曲から構成される作品集だ。

 


『Full Moon』はツアーの移動中に複数の場所で録音され、内省的でありながら彼女の多才ぶりを示すアグレッシブな作品。「どんなジャンルでも作れるし、制限されないから音楽を作るのが楽しくてたまらない」という彼女の言葉にはサネリーの音楽の開放的な感覚という形で現れ出る。

 

エレクトロニック、アフロ・パンク、エッジの効いたポップ、クワイト、ヒップホップの感性の間を揺れ動くクラブレディなビートなど、音楽的には際限がなく、きわめて幅広いアプローチが取り入れられている。南アフリカのコミュニティでポエトリーリーディングの表現に磨きをかけてきたサネリーは、リリックにおいても独自の表現性を獲得しつつある。例えば、ムーンチャイルドが自分の体へのラブレターを朗読する「Big Booty」や、「Rich n*ggah d*ck don't hit Like a broke n*ggah d*ck」と赤裸々に公言する「Boom」のような、リスナーを自己賛美に誘うトラックである。 ムーンチャイルドの巧みさとユーモアのセンスは、テキーラを使った惜別の曲「To Kill A Single Girl」の言葉遊びで発揮されている。そして、ファースト・シングルであり「大胆なアンセム」(CLASH)でもある「Scrambled Eggs」では、平凡な日常業務にパワーを与える。

 


ムーンチャイルド・サネリーは、サウンド面でも独自のスタイルを確立しており、オリジナル・ファンから愛されてやまないアマピアノと並び、南アフリカが提供する多彩なテックハウスのグルーヴをより一層強調付けている。当面のサネリーのスタジオでの目標は、ライブの観客と本能的なコネクションを持てるような曲を制作すること。さらに、彼女は観客に一緒に歌ってもらいたいという考えている。



しかし、『Full Moon』は対照的に自省的な作品群である。サネリーは自分自身と他者の両方を手放し、受容という芸術をテーマに選んだ。曲作りの過程では、彼女は自己と自己愛への旅に焦点を絞り、スタジオはこれらの物語を共有し、創造的で個人的な空間を許容するための場所の役割を担った。


彼女が伝えたいことは、外側にあるもとだけとは限らず、内的な感覚を共有したいと願う。それは音楽だけでしか伝えづらいものであることは明らかである。「私の音楽は身体と解放について歌っている。自分を愛していないと感じることを誰もOKにはしてくれないの」と彼女は説明する。

 

『Full Moon』は、ムーンチャイルド・サネリーの様々な側面を垣間見ることができる。実際的に彼女が最も誇りに思っている作品であるという。

 

秀逸なアーティストは必ずしも自分を表現するための言葉を持つわけではない。いや、彼らは制作を通して、自分を表現するための言葉や方法をたえず探し続ける。ミキサールームやレコーディングスペースで制作に取り組む時、歌詞を書いて歌う時、自分の本当の姿を知ることが出来るのである。もちろん、過去の姿でさえも。サネリーはこのように言う。「私の弱さ、つまり、この旅に入るために、以前はどんなに暗かったか、表現する言葉を持っていなかったとき、私が”ファック・ユー”と言っていた状況を的確に表現する言葉を見いだすことなのです」



サネリーの新作の節々には南アフリカの文化が浸透している。それはまた彼女一人の力だけで成しえなかったものであると明言しえる。ダーバンのポエトリー・シーン、そしてヨハネスブルグのプール・パーティーから国際的なスターダムにのし上がったサネリーの活動の道程は、生来の創造性、ユニークな自己表現、並外れた自信に加えて、志を同じくするアーティストとチームを組むことによって大きく突き動かされてきた。自他ともに認める 「コラボレーション・ホエアー 」であるサネリーは、2019年の『ライオン・キングス・サウンドトラック』でビヨンセの「マイ・パワー」をヴォーカルで盛り上げた火付け役として多くの人に膾炙されている。

 

さらに彼女は、共同制作を通じて音楽を深く理解するように努めてきた。サネリーはエズラ・コレクティヴ、スティーヴ・アオキ、ゴリラズといったアーティストとコラボレートを続けている。現在、イギリスのスター、セルフ・エスティームと共作したジェンダーの役割を探求した「Big Man」(2024年の夏の一曲[ガーディアン紙])は、大成功を収め、その余韻に残している。

 

ライブ・パフォーマンスの華やかさにも定評がある。テキサスのSXSWからバルセロナのプリマベーラ・サウンドにいたるまで、世界的な音楽フェスティバルで多数のオーディエンスを魅了し、今年だけでもグラストンベリー・フェスティバルで10回という驚異的なパフォーマンスを行った。昨年末にはBBCのジュールズ・ホランドの番組にも出演し、本作の収録曲を披露した。

 

ムーンチャイルドサネリーは世界の音楽を塗り替える力量を持っている。彼女はユニークでユーモアのある表現力を活かし、女性権利、同国の文化と歴史を背負いながら、南アフリカのオピニオンリーダーとして、世界のミュージックシーンに挑戦状を力強く叩きつける。シングル「Scrambled Eggs」、「Sweet & Savage」、「Big Booty」、「Do Your Dance」に導かれるようにして、星は揃った。2025年はムーンチャイルド・サネリーのブレイクスルーの年になるだろう。

 

 

*本記事はTransgressiveより提供されたプレス資料を基に制作しています。

 



・Moonchild Sanelly 『Full Moon』 Transgressive


 

最近では、もっぱら”アマピアノ”の方が注目を浴びるようになったが、2016年頃、日本のハードコアなクラバーの間で話題になっていたのが、南アフリカのGqom(ゴム)というジャンルだった。このクラブミュージックのジャンルは、UK Bassの流れを汲み、サンプリングなどをベースにした独特なダンス・ミュージックとしてコアな日本のクラブ・ミュージックファンの間で注目を集めていた。m-flo(日本のダンスミュージックグループ)が主催する”block.fm”、そしてスペースシャワーのオウンドメディアなどが、もう十年くらい前に特集していて、アフロ・トロピカルが次にヒットするのではないかと推測を立てていたのだ。このGqomというジャンルは例えば、ビヨンセがアルバムの中で試験的に取り入れたりもしていた。

 

あれから、およそ8年が経過した今、ようやくというか、このジャンルの重要な継承者が出てきた。それがムーンチャイルド・サネリーである。彼女はヒップホップとアマピアノを吸収し、そして教会の聖歌隊でゴスペルを歌った時代から培われたソウルフルで伸びやかなボーカルをもとに、オリジナリティ溢れるアフロ・ハウスを三作目のアルバムにおいて構築している。基本的には、マンチェスターの雑誌、CLASHが説明するように、アンセミックであるのだが、よく聴くと分かる通り、彼女が組み上げるGqomとアマピアノのクロスオーバーサウンドには、かなりのシリアスな響きが含まれている。それはムーンチャイルド・サネリーが南アフリカのこのジャンルが生み出されたダーバンのコミュニティで育ち、そしてその土地の気風をよく知っているからである。サネリーは、とくにアフリカ全体の女性の人権意識に関して、自分を主張することに蓋をされてきたように感じていた。アフリカは現在でも女性の地位が脅かされることがあり、それはときどき社会問題としての暴力のような行為に表れでることもある。 長い間、おそらくサネリーのように意見を言うレディーはマイノリティに属していたのである。

 

ムーンチャイルド・サネリーが実際的にどのような意識を持って音楽活動や詩の活動に取り組んできたのかはわからないが、三作目のアルバムを聴いていたら、なんとなくその考えのようなものがつかめるようになった。このアルバムは、音楽的にはその限りではないが、かなりパンクのフィールドに属する作品である。旧来、パンクというジャンルはマイノリティのためのものであり、自分たちの属する位置を逆転するために発生した。それは過激なサウンドという形で表側に表れ出ることが多かった。それとは異なるのは、ムーンチャイルド・サネリーのサウンドは、アンセミックでキャッチー、そしてストレート。なんの曇りや淀みもない。きわめて痛快なベースラインのクラブミュージックが現代的なポップセンスをセンスよく融合しているのだ。

 

アルバムの中心は、スパイスとパンチのある楽曲が目白押しとなっており、アンセミックな曲を渇望するリスナーの期待に答えてみせている。UKドリルを吸収したグリッチサウンドに乗せて、クラブテイストのポピュラーソング「Scrambled Eggs」が、冒頭からマシンガンのように炸裂する。ヒップホップの文脈を吸収させ、その中で、グルーブの心地よさを踏まえたボーカルをサネリーは披露する。オートチューンを使用したボーカルは、ハイパーポップ系にも聞こえるが、明確に言えば、近年のポップスのように音程(ピッチ)を潰すためのものではない。ムーンチャイルド・サネリーはヒップホップの重要なスキルであるニュアンス(微妙な音程の変化)を駆使して、背景となるバックトラックにリズミカルな効果を与える。そしてボーカリストとしてもハイテンションと内省的という二つの性質を交えながら絶妙なテイストを醸し出す。

 

「Big Booty」は、Gqomの流れを汲んだ一曲で、また、アマピアノのサンプリング等の要素を付け加えている。特に、UK Bassからの影響はかなり分厚い対旋律的な構成を持つサブベースによって、この楽曲に力強いイメージをもたらしている。もちろん、それに負けじと、ムーンチャイルド・サネリーは、アンセミックなフレージングを意識しつつ、痛快なポピュラー・ソングを歌い上げる。実際的に背景となるトラックメイクに彼女の声が埋もれることはない。これは何度となく、ダーバンのコミュニティで声を上げ続けてきた彼女しかできないことである。サネリーの声は、なにか聴いていると、力が湧いてくる。それは、彼女が、無名時代から人知れず、ポエトリー・リーディングなどの活動を通して、みずからの声を上げ続けてきたからなのだ。ちょっとやそっとのことでは、サネリーのボーカル表現は薄められたりしないのである。

 

ムーンチャイルド・サネリーが掲げる音楽テーマ「フューチャー・ゲットゥー・ファンク」というのをこのアルバムのどこかに探すとするなら、三曲目「In My Kitchen」が最適となるかもしれない。ケンドリック・ラマーが最新作において示唆したフューチャーベースのサウンドに依拠したヒップホップに近く、サネリーの場合はさらにゲットゥーの独特な緊張感をはらんでいる。表向きには聴きやすいのだが、よくよく耳をすましてみてほしい。ヨハネスブルグの裏通りの危険な香り、まさにマフィアやアウトライダーたちの躍動する奇妙な暗黒街の雰囲気、一触触発の空気感がサネリーのボーカルの背後に漂っている。彼女は、南アフリカの独特な空気感を味方につけ、まるで自分はそのなかで生きてきたといわんばかりにリリックを炸裂させる。彼女はまるで過去の自分になりきったかのように、かなりリアルな歌を歌い上げるのだ。

 

続く「Tequila」は、前曲とは対照的である。アルコールで真実を語ることの危険性を訴えた曲で、 ムーンチャイルドのテキーラとの愛憎関係を遊び心で表現したものだ。酩酊のあとの疲れた感覚が表され、オートチューンをかけたボーカルは、まるでアルバムの序盤とは対象的に余所行きのように聞こえる。しかし、序盤から中盤にかけて、開放的なアフロ・トロピカルに曲風が以降していく。イントロのマイルドな感じから、開放的な中盤、そしてアフロ・ビートやポップスを吸収した清涼感のある音楽へと移ろい変わる。アルコールの微妙な感覚が的確に表現されている。さらに、BBCのジュールズ・ホランドのテレビ番組でも披露された「Do My Dance」は、アルバムの中で最も聴きやすく、アンセミックなトラックである。この曲はまた、南アフリカのダンスカルチャーを的確に体現させた一曲と称せるかもしれない。アフロハウスの軽妙なビートを活かし、ドライブ感のあるクラブビートを背景に、サネリーは音楽を華やかに盛り上げる。しかし、注目すべきはサビになると、奇妙な癒やしや開放的な感覚が沸き起こるということだ。

 

 

「Do My Dance」

 



アルバムは中盤以降になると、クラブ・ミュージックとしてかなり複雑に入り組むこともあるが、曲そのもののアンセミックなテーストは維持されている。「Falling」では、Self Esteenとのコラボレーション「Big Man」で学んだポップセンスをふんだんに活かしている。ここでは、センチメンタルで内省的なメロディーセンス、そして、ダブステップの分厚いサブベースと変則的なビート、UKドリルのグリッチの要素を散りばめ、完成度の高いポピュラーに仕上がっている。一方、ヒット・ソングを意識した曲を収録する中でも、個性的な側面が溢れ出ることがある。

 

 

「Gwara Gwara」は、サネリーらしさのある曲で、アフロハウス、Gqom、アマピアノといったサウンドの伝統性を受け継いでいる。しかし、トラックそのものは結構シリアスな感覚があるが、サネリーのユーモアがボーカルに巧みに反映され、聴いていてとても心地よさがある。そして渦巻くようなシンセリードを背景に、タイトルを歌うと、強烈なエナジーが放出される。曲の節々には南アフリカやダーバンのポップスの要素がふんだんに散りばめられている。さらにクラブミュージックとして最もハードコアな領域に達するのが、続く「Boom」である。アンセミックな響きは依然として維持されているが、アマピアノのアッパーな空気感と彼女自身のダウナーな感性が融合し、「フューチャー・ゲットゥー・ファンク」のもうひとつの真骨頂が出現する。

 

 

「Sweet & Savage」では、ドラムンベースが主体となっている。ブンブンうなるサブベースを背景に、南アフリカの流行ジャンルであるヒップホップと融合させる。現地の著名なDJは、アマピアノはもちろん、Gqomというジャンルがラップと相性が良いということを明らかにしているが、この点を踏まえて、サネリーは、それらをポストパンクの鋭い響きに昇華させる。また、この曲の中ではサネリーのポエトリーやスポークンワードの技法の巧みさを見いだせる。そして同時に、それはどこかの時代において掻き消された誰かの声の代わりとも言えるのかもしれない。ラップやスポークンワードの性質が最も色濃く現れるのが、続く「I Love People」である。ここでは、他の曲では控えめであったラッパーとしてのサネリーの姿を見出すことが出来る。おそらく南アフリカでは、女性がラップをするのは当たり前ではないのだろう。そのことを考えると、ムーンチャイルド・サネリーのヒップホップは重要な意義があり、そして真実味がある。もちろん、ダーバンには、ヒップホップをやりたくてもできない人も中にはいるのだろう。

 

 

多くの場合、自分たちがやっていることが、世界的には常識ではないということを忘れてしまうことがあるのではないだろうか。音楽をできるということは、少なくとも非常に贅沢なことなのであり、この世界には、それすらできない人々もたくさんいるのだ。ムーンチャイルド・サネリーの音楽は、常識が必ずしも当たり前ではないことを思い出させてくれる。サネリーにとっては、歌うこと、踊ること、詩をつくるときに、偉大な感謝や喜びという形で表面に立ち現れる。言っておきたいのは、表面的に現れるのは、最初ではなくて、最後ということである。


えてして、音楽の神”アポロン”は、そういった人に大きな収穫と恩恵を与える。それは音楽的な才覚という形かもしれないし、ラップが上手いということになるかもしれない。もしくは、良いメロディーを書くこと、楽器や歌が上手いということなのかもしれない。少なくとも、サネリーは、こういった慈愛の感覚を内側に秘めている。それがソングライターとしての最も重要な資質でもある。世界の人々は、経済に飢えているのではない。愛情に飢えている。そのことを考えると、サネリーのような存在がスターダムに引き上げられるとすれば、それは必然であろう。

 

久しぶりに音楽の素晴らしさに出会った。「Mintanami」である。私は、この曲はアルバムの中で一番素晴らしいと思い、そして、アーティストが最も今後大切にすべき一曲であると考えている。 この曲があったおかげで、このアルバムの全体的な評価が押し上げられたと言えるだろう。

 

 

 

95/100

 


 

Best Track 「Mintanami」

 

 

Moonchild Sanellyのニューアルバム「Full Moon」はTransgressiveより本日発売。ストリーミングはこちら




Sainte Etienne(セイント・エティエンヌ)は、1990年に結成されたイギリス、グレーター・ロンドン出身のトリオ。サラ・クラックネル(ボーカル)、ボブ・スタンリー(キーボード)、ピート・ウィッグス(キーボード)で構成されている。一般的に、1990年代のインディーズ・ダンス・シーンと関連付けられている。彼らの音楽は、クラブ・カルチャーや1960年代のポップス、その他の異なる影響を融合させる。セイント・エティエンヌの生み出すサウンドは、懐かしくもあるし新しくもある。


彼らのデビューアルバム『フォックスベース・アルファ』は、1991年にリリースされ、不朽のヒット曲「Only Love Can Break Your Heart」と「Nothing Can Stop Us」を収録し、批評家から高い評価を得た。続いて、全英シングルチャート12位となったシングル「You're in a Bad Way」を収録した『ソー・タフ』(1993年)と、テクノ・フォークの実験を取り入れた『哀しみ色のムーヴィー』(1994年)が発表された。両アルバムはトップ10に到達。彼らの初期は、ゴールド認定されたコンピレーション『Too Young to Die: Singles 1990-1995』で締めくくられ、エティエンヌ・ダオとの共作でバンド史上最高のチャートを記録したシングル「He's on the Phone」を制作した。


バンドは『グッド・ユーモア』(1998年)でインディー・ポップを取り入れ、リード・シングル「シルヴィ」は12位に達した。2000年代までに、セイント・エティエンヌは『サウンド・オブ・ウォーター』(2000年)でアンビエント・ミュージックへと軸足を移し、『Finisterre』(2002年)と『テイルズ・フロム・ターンパイク・ハウス』(2005年)ではこれらのスタイルの転換と初期の影響への回帰を醸し出した。2010年代には、『Words and Music by Saint Etienne』(2012年)と『ホーム・カウンティーズ』(2017年)で、彼らのサウンドが現代的にアップデートされた。アルバム『アイヴ・ビーン・トライング・トゥ・テル・ユー』(2021年)では、約20年ぶりとなるサンプリングを取り入れ、1994年以来の最高位14位のアルバムとなった。


バンド名はフランスのサッカークラブ、ASサンテティエンヌに由来する。日本では、1993年にNOKKO(レベッカのボーカリスト)のアルバム『CALL ME NIGHTLIFE』『I Will Catch U.』に楽曲提供もしている。NOKKOとのレコーディングでは、ロンドンにある自宅スタジオにメンバーを招いており、「これは当時界隈で増えてきていたベッドルーム・レコーディングという手法だが、その点で先をいっていたアーティストだった」とNOKKOがインタビューで振り返っている。


セイント・エチエンヌが12枚目のスタジオ・アルバム『ザ・ナイト』を2024年12月13日にヘブンリー・レコーディングスからリリースする。絶賛された2021年のアルバム『I've Been Trying To Tell You』に続くアルバム『The Night』は、日常生活の混沌から逃れ、時間外のエッセンスを捉えたアンビエントな作品だ。このアルバムは、リスナーを幾重にも重なる静寂の中に誘い、落ち着かない心を落ち着かせ、現代生活の容赦ないペースからの穏やかな休息を提供する。


アルバム "The Night "は、サン・テティエンヌの伝統である、音による没入型のストーリーテリングを継承している。ストリーミング・プラットフォームやYouTubeで聴くことができるハイライト曲"Half Light "を聴けば、アルバムのサウンドをいち早く垣間見ることができるだろう。


作曲家兼プロデューサーのオーギュスタン・ブスフィールドと共同でセイント・エティエンヌがプロデュース。"夜 "は、2024年1月から8月にかけて、サルテールとホーブの2箇所でレコーディングされた。


ピート・ウィッグス:「ブラッドフォードにあるガスのスタジオで、カーペットの上に寝転がって、コーヒーのマグカップを片手に、歌詞のシートやタイトルのアイデアを周りに転がして制作した。前作のメロウでスペイシーな雰囲気を引き継ぎたかったし、それを倍増させたかった。暗闇の中で、目を閉じて聴きたいレコード。『ハーフ・ライト』は、夜の果て、木々の枝の間からちらつく太陽の最後の光、自然との交感、そこにないものを見ることをテーマにしている」


サラ・クラックネル: 「前作を遠隔でレコーディングした後、一緒にスタジオに戻ることができてとても嬉しかった。このアルバムで一番好きな曲のひとつは『Preflyte』で、初めて歌ったときは涙が出たよ」


ボブ・スタンレー: 『The Night』は落ち着いたアルバムにしたかった。暖かくて穏やかで、同時にゴージャスで濃密なものを作りたかった。「目覚めているときと眠っているときの間にある状態、つまり夢の空間を見つけようとした。半分忘れてしまったような考えや、テレビの台詞の断片、地名、通り、行ったこともないサッカー場などが漂ってくる。そのような状態にあるときは、音や半分覆い隠された記憶をとても受け入れやすく感じる。"レインノイズ "はその中を通り抜ける。午前2時に眠れないような頭の中のものを優しく洗い流すように設計されている。


『The Night』は本当に立体的に聴こえる。その多くは、ギターを弾き、素晴らしいプロデュースをしてくれたガス・バスフィールドのおかげ。彼のスタジオでレコーディングしたことで、とても明るく広々とした空間が生まれ、それがサウンドを形作っている。僕ら3人はそれぞれの曲を持ち寄ったんだけど、まず音符を交換することなく、リリックの部分で全員が調和していた。"連続した1つのトラック "と考えることもできる。間違いなくヘッドフォン・アルバムなんだ。


セイント・エティエンヌは私たちを優しく手繰り寄せ、夜更けの深みに沈み込ませ、疲れた心を絶望の淵から引き戻す。『ザ・ナイト』によって、すべての不安は和らぎ、高ぶる心の邪悪さはソフトフォーカスの汚れにまで減速し、すべてが高尚で心地よい完全なる静寂の魅力に包まれる。


『ザ・ナイト』は、太古の昔、一人の男が草むらの風の音や岩の上を流れる水の音に慰めを見出すことから始まり、何世紀にもわたって柔らかな音を奏で続け、コラージュや新時代の音楽を通過してきた長い伝統に属している。


ヴァージニア・アストリーの『From Gardens Where We Feel Secure』、KLFの『Chill Out』、トーク・トークの『Spirit of Eden』など、現代の夢遊病者の傑作を取り込んでいる。建築はアンビエントで、照明は控えめ、表面は無限の可能性に輝いている。


夜行性の生命はすべてここにあるが、夜の地下とはいえ、その次元は異なる。言葉は新たな意味を持ち、影はますます長く傾き、一匹の狐が名もない通りの孤独な街灯の下で立ち止まり、美しい刃物のような歯で何かを掠め取る。ここでは何でも可能なのだ。


慌ただしい時は慌ただしい心を生む。が、ここには孤独な時間など存在しない。ただ何層にも重なる「夜」と、その中に潜む心落ち着く秘密があるだけ。足を滑らせればいい。そして呼吸するのみ。



『The Night』 Heavenly Recordings/[PIAS] (80/100)


 

ザ・キュアーの再ヒットの事例を見るかぎり、若手優遇の時代がそろそろ終わり、中堅以上の経験豊富なバンドが今後のミュージックシーンを引っ張っていくのではないかという気がしている。以前は若手というと、10代、20代に限定されていたし、おそらくレコード会社も”若さ”を当てにしていたと思うが、今後は30代以降の実力派の若手が数多く登場することだろう。

 

ケイト・ブッシュのストレンジャー・シングスの楽曲の再ヒット、アセンズの伝説的なニューウェイブ・グループ、B-52'sのケイト・ピアソンの復活を見ると、過去にヒットソングを持つベテラン歌手の需要が高まっているのではないかと類推することも出来る。もちろん、実力のあるミュージシャンはいつの時代も歓迎されるが、若手というだけで支持を集めるような時代ではなくなりつつあるのかも知れない。プロジェクト名を変更して出てくるというケースもある。確かなことは言えないが、セイント・エティエンヌも、そんな流れを象徴付けるグループだ。


実は、先日までバンド名を知らなかったが、1990年代のブリット・ポップ全盛期から活躍する三人組は、最新作『The Night』において、かなりフレッシュな印象を持つアルバムを制作している。フィールド・レコーディングを散りばめた実験的なポップスであるが、それほど奇をてらうことはない。聴いていて感覚にすんなり馴染み、そしてキャッチーな響きを持ち合わせている。それは結局、セイント・エティエンヌのサウンドが、60、70年代のポップスを下地にしているからなのだろう。彼らのサウンドは必ずしも感染力や即効性があるとは言いがたいが、普遍的な響きがある。そして、これが実験的な音楽性に安定感や柔和さをもたらしている。


セイント・エティエンヌの音楽は、勢いという側面では、90年代初頭の作品に分があるように思える。たとえば、90年代始めのアルバム『Foxbase Alpha』などは華やかな音楽産業の名残をとどめていて、感染的で幸せな雰囲気を放つ。しかし、ひるがえってみて、2024年のアルバム「Night」は幸福感こそ乏しいものの、音楽的にはかなり深いポイントに達している。このアルバムは、Sonic Boom、Dean & Brittaのクリスマス・アルバムのように、じっくり聴かせ、音楽をよく知るミュージシャンとしての賢しい印象を持ち合わせている。それは自分たちの制作する作品を見上げるというより、同じ目線で見つめるという感じなのだ。この言葉には語弊があるかもしれないが、少なくとも、本作はミュージシャンとしての経験豊富さに裏打ちされた実力派のポピュラーアルバムであり、セイント・エティエンヌはアートポップの潜在的な可能性を全体全般に発露させている事がわかる。レベッカのNOKKOが言うように、かつては、ベッドルームポップの先駆者として知られていたセイント・エティエンヌは、次なる段階に進み、60年代のバロックポップと現代的なアンビエントの要素を融合させ、ポピュラーミュージックが本来決まった形式や制約がないこと、それから限界がないことを教唆している。

 

アルバムは、カフェでの会話のようなシーンで始まり、映画的な印象を持つサウンドスケープが描かれる。ポール・ウェラーのStyle Councileの『Cafe Bleu』へのオマージュかと思ってしまうが、そこには和気あいあいとした雰囲気がわだかまる。さながら現在の三者の人間関係を象徴付けるかのように、付かず離れずといった理想的な人間関係の距離を感じさせる。そして調律のずれたアンティークなピアノ、ウェイターが歩き回る音、ドアを開ける音、こういったフィールド録音が続いた後、アンビエントのテクスチャー、そして、サラ・クラックネルのものと思われるモノローグが続いている。そして、アルバムの冒頭で、開放的で未知への期待を感じさせる個性的なイントロダクションが続く。音楽と舞台演劇を融合させたようなサウンドである。

 

イントロダクションを経て、いよいよアルバムは本格的な楽曲が始まる。しかし、その印象は掴み難く、全体的な波形にデジタルディレイをかけたアンビエンス、そしてベースラインと合わせて、ボーカルソングが始まる。「Half Light」は80年代のポップスのように懐かしく耳に迫り、エレクトロサウンドを織り交ぜ、巧みなサウンドワークを描いていく。このポピュラー・ソングは、日本の80年代のポップスとも連動するような感じで、レトロとモダンの間を行き来する。まさしくレベッカ・サウンドのようなきらめきとアンニュイさを併存させている。 

 

 「Half Light」

 

 

 

その後、『Night」では作風を固定することなく、変幻自在なサウンドが繰り広げられる。これは近年のアンビエントポップの台頭とリンクする。シンセストリングス、ピアノとディケイによるエフェクトを用いたアンビエントが「Through The Grass」続くが、全体的な印象論としては、このサウンドはトリップ・ホップの「抽象的なポップス」という隠された主題と地続きにあるような気がする。それは実際的には、次世代のサウンドを予見させるものがある。特にこのアルバムでは、画期的な録音技術が用いられることがあり、それはサラ・クラックネルのリードボーカルの曲に顕著に立ち現れる。ボーカルに過剰なエフェクトをかけ、音像を極限まで引き伸ばすという手法は、スマイルの作品『Wall Of Eyes』や、リアム・ギャラガー、ジョン・スクワイアのセルフタイトルアルバム『Liam Gallagher& John Squire』にもすでに活用されている。

 

「Nightingale」では、これらの録音技法を駆使し、ミステリアスな音像を作り上げている。ローズピアノの細かなフレーズを散りばめて、ドラマのサウンドトラックのようなサウンドを最初に作り上げ、それらの背景に対し、70、80年代のポピュラーソングの影響下にあるボーカル録音を被せるというパターンである。クラックネルのボーカルは渦巻くように限りなく伸びていき、催眠的な効果を呼び起こす。そしてそれらのヒプノティックなサウンドの中で、ジャズのスキャットを含むボーカルは、単なる歌というよりも子守唄のような感覚を帯び始める。曲のタイプとしては懐古的であるのに、意外にも鮮やかな印象を覚える。他にも様々な工夫が施されており、鳥のフィールドレコーディングがパーカッションの効果として導入されることもある。そして曲そのものが何らかの情景的なサウンドスケープやシーンと連動していくのである。

 

以降もアンビエント風のサウンドが続き、曲ごとにシーンが入れ替わる。これは本来は離れているはずの曲を結びつけるような働きをなす。次曲「Northern Counties East」は工場のアンビエンスをフィールド録音で拾い、それをパーカッシブな観点から捉え、ポピュラーソングに仕上げていく。さらに曲の中にはチェンバロも登場し、クラシカルな響きとポピュラーな響きが混ざり合う。

 

アルバムの中盤では、短いシークエンスを設け、オーケストラのムーブメントのような形式を織り交ぜている。「Ellar Carr」は、ボーカル録音を器楽的に解釈し、オーケストラの楽器の一貫のような形で解釈するというアートポップではよく使われる技法が取り入れられている。これはアルバムの一曲目と同じように、なにかしら近未来的な音のイメージを感取することが出来る。「When You Were Young」では、ブンと唸るシンセサイザーのベースを基にして、フィールド・レコーディングとオーボエの演奏を交え、チェンバーポップの未来形を示している。他の曲と同じように、それほど派手さはないけれど、ボーカルの録音の重ね方に面白さがある。

 

 

終盤では、興味深いことに、フィル・スペクターのサウンドが登場する。ただ、「No Rush」ではそれらのシンフォニックなサウンドにクワイア(声楽)の要素を付け加えている。実際的に荘厳なイメージとまではいかないが、それに類する実験的なサウンドが組み上げられる。サウンドのタイプとしてはMogwaiのポスト・ロックや音響派に比するものがあるが、実際的なサウンドはむしろ80年代のAORやソフトロックがベースとなっている。少なくとも、この曲は開けたような感覚に充ちている。制作者としてフォーク・ミュージックにある涼やかな感覚をアンビエントの切り口を介して、抽象化したような一曲である。個人的にはこういった実験的な曲よりも、簡潔なポピュラーソング「Gold」の方に魅力を感じてしまう。軽快なピアノのリズム的な進行に合わせて軽快なヴォーカルが続き、トライアングルや木管楽器の音色が混ざりあい、ゆったりした音楽性が組み上げられる。邦楽のポピュラーとも親和性があるような気がする。

 

その後、多彩な音楽的なアプローチが続く。セイント・エティエンヌの音楽はそれほど深刻にならず、遊び心に溢れている。「Celestial」では、メロトロンの演奏にビンテージな質感を加え、チェンバーポップをインストゥルメンタルの観点から再検討している。「Preflyte」ではチェンバロを始め、オーケストラ楽器を取り入れ、オーケストラポップの領域に足を踏み入れている。曲にダイナミックな効果を与える金管楽器を暈したようなサウンドは、まさしくウォール・オブ・サウンドの系譜に位置づけられる。なおかつ、これらの重厚感のある録音は、ときどき、リスナーに時間という観念を忘れさせ、音楽の普遍性を思い出させる力を持つ。

 

アルバムの終盤でも、Jayda Gがもたらした「スポークンワードによるストーリーテリング」の要素が強調される。これは海外的には流行りのスタイルであり、例えば、日本では鶴田真由さんがすでに試しているが、 日本のミュージックシーンでもこれから頻繁に使用されるようになるかもしれない。アルバムのクライマックスでは、「ウォール・オブ・サウンド」の教科書のようなサウンドが登場する。「Hear My Heart」では、録音された場所の反響を上手く活かし、そのフィールドでしか得られない特別なサウンドを提供している。 そして、セイント・エティエンヌは、70、80年代ごろのポップスのノスタルジアを付加している。さらにクラフトワークのような電子音を付け加え、シンセポップの形式をレトロな側面から再検討しているのも面白い。

 

これらの実験や試作が完璧に行ったとは言えないかもしれない。まだこのサウンドは未知数。しかし、このアルバムには実験音楽としての冒険心、そして未知なる音楽への道筋が示されており、冒頭曲「Settle In」、「When You Were Young」では、近未来的なイメージを覚えることもある。加えて経験豊富なアーティストとしてのイディオムも登場するのに注目。いわば時間を持たない、音楽の普遍的な魅力が内在している。「Alone Together」では、ヨットロックのような形式が登場し、アルバムの中では、バンドアンサンブルの性質が色濃い。ローズピアノ、ベース、ギターの基本的な構成に加えて、金管楽器のレガートが曲に掴みどころをもたらしている。本作のクライマックスにはシタールのドローンを用い、独創的なサウンドを構築している。

 

 

 「Preflyte」

 


Sainte Etienne - 『Nights』はHeaveny Recordings/[PIAS]から本日発売。ストリーミングはこちらから。ヘブンリー・レコーディングは、Gwennoを送り出したことからもわかる通り、個性的なカタログを擁する注目のレーベル。

 

Weekly Music Feature : Hollie Kenniff

 

カナダ系アメリカ人のアンビエント・ポップ・アーティスト、Hollie Kenniff(ホリー・ケニフ)の4作目となる『For Forever』は、濃密なメロディの茂みに覆われ、聴く者を常にハラハラドキドキさせながら、クレッシェンドという満足のいく結末へと辛抱強く導いていく。エレクトロニックとアコースティックのサウンドウェーブにまたがる『For Forever』は、何マイルにも及ぶ果てしない至福の時間を提供し、ホリー・ケニフのこれまでで最も満足のいく作品となりました。


Nettwerk Music Groupからのデビューとなるケニフの最新アルバムは、昨年リリースされたエモーショナルなタイトル『We All Have Places That We Miss』に続く作品です。夫のキース・ケニフ(ヘリオス、ゴールドムンドとしてもレコーディングを行っている)とエレクトロニック・ポップのユニット、ミント・ジュレップで活動して以来、15年以上にわたって着実に歩んできたキャリアの中で、またひとつ印象的な宝石になり得る。心揺さぶる美しさを持つこのアルバムは、この特別なアーティストがこれからさらに大きなピークを迎えることを予感させます。


ニューアルバムのタイトル・トラック「For Forever」には特に注目です。彼女の息子のピアノをフィーチャーした、瑞々しく没入感のあるアンビエント・リスニング・エクスペリエンスである。アルバムは共同体の集積であり、他方シングルは家族というパズルの模範的なピースとなるでしょう。


「人々は信憑性に惹かれるものだと思う。誇大広告に頼ったり、すぐに廃れたり忘れ去られるような特定の流行を追いかけたりせず、音楽自身に語らせるようにしています」と彼女は語っています。


『For Forever』 2021年まで遡る過去数年間に書かれ、レコーディングされた音源で構成されていて、その最も幽玄な瞬間でさえも人間味溢れる抒情的なサウンドを聴かせてくれる。シガー・ロスのインストゥルメンタル作品や、ウィル・ヴィーゼンフェルドのGeoticプロジェクトのファジーなドリームスケープとは異なり、11曲のいずれも小さな黙示録のように聴こえるはずです。


ホリー・ケニフは『For Forever』の制作について次のように述べています。「私はほとんど毎日のように音楽制作に取り組んでいて、それは私の人生において非常に重要な部分なんです。私はいつも、人間の感情と自然界を作品のテーマにしています」




 『For Forever』 Nettwerk Music Group (85/100)

 

当初、ホリー・ケニフはソロ活動を始めた頃、シューゲイザーとドリームポップの中間域にある音楽を制作し、インディーズミュージックのファンの注目を集めていました。2019年には最初のアルバム『The Gathering Dawn』を発表し、注目作を発表しています。基本的には演奏者としてギタリストですが、制作者の作り出す神秘的なアンビエンスは、およそギターだけで作り出されたとは信じがたい。ようやくというべきか、満を持してというべきか、ホリー・ケニフはカナダのネットワークから最初のフルアルバムをリリースします。実際的な音楽性や世界観などが着実に磨き上げられ、夢想的かつ美麗なアンビエントアルバムが登場しました。


音楽性に関しては、2021年のシングル集「Under The Lonquat Tree」の延長線に位置づけられます。アンビエントというのはどうしてもアウトプットされる音楽が画一的になりがちな側面があるものの、ホリー・ケニフのソングライティングは叙情的な感性と季節感のあるサウンドスケープが特徴的。また、雪解けの季節を思わせるような雰囲気、清涼感のある音楽性が主体となっています。今回の4thアルバムを語る上で不可欠なのは、従来培われたギターやシンセを中心とするアンビエントテクスチャー、曲全体に表情付けを施すピアノでしょう。これらがほどよく合致することにより、ホリー・ケニフの作風はひとまず過渡期を迎えています。


ホリー・ケニフが説明する通り、本作の音楽は、誇大性、扇動性、ないしは脚色性とは対極に位置し、名誉心や虚栄心といった感覚とは相反する素朴な価値観が提示されています。それは全般的に言えば、芸術やリベラルアーツの原初的な意義を復権させるための試みでもある。多くの場合、音楽は、商業的な観点から制作され、実際的に経済効果をもたらした作品が評価されることは自然ですが、他方、音楽の楽しみはそれだけにとどまりません。このアルバムは、音楽を楽しむ上で、一般的な観点とは異なるもう一つの楽しさを教唆してくれるはずです。ある意味ではそれが限定的な影響力しか持たないとしても、アーティストが数年間、ほとんど毎日のように制作に取り組むかたわら、「永遠なるもの」を探求した結末とも言えるかもしれません。そして、それはたぶん察するに商業的な成功や名誉ではなかったのでしょう。結果として、音楽の持つ純粋な側面が引き出され、澄明な輝きを持つアンビエントが生み出されました。

 

以前から言及している通り、旧来は家父長制を基底に社会システムが構築されていたため、女性アーティストが世に出て来づらい弊害がありました。それは古い言葉になってしまいますが、女性の社会的役割が重視されていたから。結果として、その壁を打ち破ることになったのは、デジタル・ストリーミングの普及であり、制作環境にラップトップが導入されたことであり、また、自由にインターネット上で個人的な音源を公開することが可能になったことでしょう。次いで、この流れに準じ、”ベッドルーム・ポップ”という自主制作をベースに作品を発表するアーティストが登場しましたが、これが旧来のストリームを変えるような流れを呼び込みました。最終的には、Cindy Leeの『Jubilee』がその答えなのでしょう。これは最早、音楽という形態が一般的な価値を持つ商業作品という旧来の価値観を打ち破ってしまった。そして、今後は、メディアの権威付けの影響力も徐々に乏しくなっていくかもしれません。言い換えれば、音楽に対する絶対的な評価というのは、あってないようなものだということ。実は、アンビエントやエレクトロニックという先入観を度外視してみると、ホリー・ケニフもまた、これらのベッドルームポップの流れを上手く味方につけたミュージシャンだったです。

 

いずれにしましても、『For Forever』は純粋な音楽の良さや楽しみが凝縮されています。アルバムのオープニングを飾る「1-Lingers in Moments」は、アンビエントのシークエンスから始まり、ホリー・ケニフの音楽的な世界観を敷衍させる。さらにピアノ(シンセ)の演奏がそれに加わり、澄明で穏やかな音楽が無限に続いていくような気がします。パッドやボーカルをベースにしたシーケンスが組み合わされ、心地よい音の空間性が組み上げられていく。アンビエント制作の基本的な作曲性は一般的なリスナーにも共鳴するなにかがあるかもしれません。 

 

 

「Lingers in Moments」

 

 

「2-Surface」はピアノを中心とする曲で、ビートを段階的に組み上げていき、それらをループさせ、心地よい響きを作り出しています。音楽性のタイプとしては、ニルス・フラーム、ピーター・ブロデリックの系譜にあるポストクラシカル/モダンクラシックの楽曲となっていますが、これらの繊細な響きにシンセストリングスを合致させ、巧みな音像を作り上げていく。ときどき、神秘的なシークエンスが出現する瞬間があり、息を飲むような美麗な音のイメージが作り上げられる。さらに制作者自身のボーカルも登場することもありますが、これは器楽的な効果に焦点が置かれています。タイトル曲は、波形にディレイを掛け、逆再生のような効果を強調させ、抽象的な音像にピアノの演奏が加わり、ぼんやりした美しさを表現しています。何より素晴らしいのは、曲そのものが画一的なイメージを植え付けるものではなく、自由で開放的なイメージを掻き立てること。つまり、リスナーそれぞれの答えが用意されているのです。

 

しばし人工物や人間関係から離れ、偉大な自然について思いを巡らすことほど素晴らしいことはありません。そのあとも自然の雄大さや空気感を表現したような音楽性は続き、「4-Sea Sketch」では美しい海の情景へと音楽の舞台は変わる。制作者のボーカル/ギターを融合させ、同じように開けた感覚のあるアンビエントを楽しむことが出来るでしょう。シンプルなループサウンドを中心に構成されていますが、ときどき抽象的なサウンドスケープから神秘的なシークエンスがぼんやりと立ちのぼってくることもある。これらの主張性を削ぎ落としたサウンドは、ヒーリング音楽に近い領域に差し掛かる。アウトロのピアノの静かで穏やかなフェードアウトも聞き逃すことが出来ません。曲のイメージを最大限に引き出そうとしています。

 

「5-The Way Of The Wind」は意外な転遷を辿る曲で、異色のナンバーとなっています。ヒーリング効果を持つアンビエントからダンサンブルなトラックに移り変わる。シューゲイズのギターを微細に重ね合わせ、ベースラインでそれらの音像を縁取っている。また、前半部ではボーカルアートの要素が強調され、心地良いサウンドが展開されますが、イントロから続いているベースラインが強調され、バスドラムが追加されると、曲調が大きく変化し、ダウンテンポ風のトラックへと変貌を遂げる。最終的にはレイヴサウンドを通過したチルウェイブ風のサウンドへとダイナミックな展開を描く。「6-Amare」では再び、オーガニックなアンビエントに立ち返り、ボーカルの録音を元にした重厚感のあるサウンドが緻密に組み上げられていく。この曲にはキース・ケニフ(Helios)が参加していますが、『Eingya』(2006)に収録されている「Coast Off」を微かに彷彿とさせる広大なサウンドスケープが描かれています。

 

 

「7-Over Ocean Waves」ではアンビエントの持つ神秘的な性質が生かされています。精妙なシークエンスの向こうからピアノの断片的なフレーズ、そしてボーカルのサンプリングが立ち表れ、美しく開けた無限の音楽が続いていく。高ぶった気持ちを鎮め、心に治癒と落ち着きを与える。アンビエントの持つヒーリング的な要素、エンヤのような清涼感のあるボーカルが特徴です。ぜひアウトロに至るまでの音の見事な運びにじっくりと耳を傾けていただきたいです。

 

続く「8−What Carries Us」は、ポストクラシカル風の楽曲で、Library Tapesの系譜にあるサウンドにテクノの要素が付け加えられています。特に、曲の表情付けとなる電子音楽の要素は中盤から終盤に掛けて、更に深遠さを増していき、音の持つ核心的な箇所へとリスナーを惹きつける。シンセリードのループは最終的にサウンドの変革を経て、オルガンのような崇高な響きを持ち合わす。入念な曲制作が見事な形で昇華された曲で、アーティストの最高傑作の一つです。

 

以降の収録曲では、ポストロックや音響派に属するサウンドアプローチを見出すことが出来ます。例えば、「9−Esperance」はExplosions In The Sky、Sigur Ros、Mogwaiを彷彿とさせる映画的な趣を持つギターロックをダウンテンポの領域から解釈している。複数のギターの録音を重ねあわせ、夢想的で叙情的なテクスチャーを組み上げている。ゆったりしたビートと心地よいギターの兼ね合いに注目です。この曲はまたギターの持つ静かな魅力が織り交ぜられています。ギターサウンドの音量的なクライマックスを迎えたのち、静謐なピアノが通り過ぎていく。

 

アンビエントは、詳しい方であればご存知と思われますが、純粋な環境音楽の他に、チルウェイブやレイヴなどの影響をより抽象的にし、さらにそれらを洗練させたクールダウンのためのダンスミュージックの要素を備えています。


続く「10−Rest In Fight」は、そういった特徴がよく表れています。この曲ではEDMの音像を抽出し、扇動的な側面ではなく、治癒的な側面を強調している。それらの要素は、前曲のようなシューゲイズ、ポスト・ロックの音響派としての側面、そしてボーカルアートと結びつきを果たし、アンビエントの今一つの知られざる性質を提示します。闘争的な表現とは縁遠い雄大なサウンドは、この音楽の持つ慈愛的な性質を暗示している。このアルバムでは、例外的に崇高な感覚に縁取られはじめ、オーケストラ曲の持つ、壮大さへと変容していく。しかし、それらは細やかで控えめな性質を中心に構成されています。作曲的には、大きなものを避けていた制作者の表現性の清華とも称することが出来るでしょう。

 

 

ホリー・ケニフの作曲にはときどき幻想的な要素が登場しますが、特にアルバムのクローズを聴くと、この点が把握しやすいかもしれません。 「11-Far Land」は環境音楽やヒーリング音楽に近く、シンプルで技巧を衒わないピアノの演奏をベースにし、背景には同じようにボーカル録音を含めたアンビエントテクスチャーを敷き詰め、リスナーを果てしない幻惑の奥底へと誘う。「新ロマン派」といえば、大げさになるかもしれませんが、ポーランドの作曲家が探求したロマンチシズムを現代的な音楽家としてモダンなサウンドに組み替えています。このアルバムは、ドイツ的ではなく、どことなく北欧的な雰囲気が漂う。ピアノの緻密な構成力はボーカル録音と組み合わされると、独特な印象を生み出し、最終的には音楽の持つ神秘的な一面に近づく。

 

ローレンス・イングリッシュは”アンビエントを建築的に解釈することがある”と述べていますが、ホリー・ケニフの場合、現段階の最終形とは、ギリシア彫刻などに見られる塑像の美しさでもあるようです。こういった音楽的な凄さのある楽曲が出てきた事例はこれまであまりなかったように思えます。ホリー・ケニフの象徴的なアルバムが誕生したとも言えるかもしれませんね。

 

 

「Far Land」

 

 

Hollie Kenniff(ホリー・ケニフ)のニューアルバム『For Forever』は本日(11月6日)にNettwerk Music Groupから発売されました。ストリーミングはこちらから。

 


ベルリンを拠点に活動する作曲家、プロデューサー、サウンドデザイナーのベン・ルーカス・ボイセンは、2016年にデビューアルバム『Gravity』の再リリースと『Spells』でErased Tapesに初めて契約した。


『Spells』は、プログラムされたピアノ曲と生楽器を融合させ、コントロール可能なテクニカルな世界と予測不可能な即興演奏を組み合わせた作品である。ある意味、アンダーグラウンドでのデビュー作『Gravity』が残したものを引き継いでいるが、多くの重荷が取り除かれ、より軽快でエネルギッシュな作品に仕上がっている。レーベルオーナーの友人であり、Erased Tapesのアーティストでもあるニルス・フラームが、2枚のアルバムのミキシングとマスタリングを担当した。ベンは名ピアニストではないが、彼のサウンド・コラージュは非常に綿密にデザインされており、その結果を聴いて感銘を受けたニルスはこう宣言した。"これは本物のピアノだ"。


『Spells』と『Gravity』は、彼自身の名前でレコーディングされた初めてのアルバムだが、高名なエレクトロニック・プロデューサー''HECQ''として、2003年以来9枚のアルバムをリリースし、アンビエントからブレイクコアまで、あらゆるジャンルを探求してきた。同時に、アムネスティ・インターナショナルやマーベル・コミックなど、さまざまなクライアントのために仕事をし、長編映画、ゲーム、アート・インスタレーション、コンベンションのオープニング・タイトルなどの作曲を手がけ、信頼される作曲家、サウンド・デザイナーとしての地位を確立している。


1981年、オペラ歌手のディアドレ・ボイセンと俳優のクラウス・ボイセンの3番目の子供として生まれたベンは、7歳のときピアノとギターによるクラシック音楽の訓練を受け始め、ブルックナー、ワーグナー、バッハの作品によって重要な基礎を築いた。両親と共有していた音楽を再発見し、オウテカ、クリスティアン・ヴォーゲル、ジリ・セイヴァーからピンク・フロイド、ゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラーのサウンドと融合させた。ブラック・エンペラーを聴きながら、そもそもなぜ彼が音楽を書きたかったのかを理解した。


ベン・ルーカス・ボイセンのニューアルバム『Alta Ripa(アルタ・リパ)』は、彼の芸術的旅路における激変を意味する。このアルバムは、彼の創造的なパレットが花開いたドイツの田舎町の穏やかな美しさの中で形成された、彼の青春時代の基礎的な衝動を再訪するというものである。

 

しかし、彼のサウンドに衝撃を与えたのは、2000年代初頭にベルリンに移り住んだことで、この街の脈動するエネルギーと多様な文化の影響を注入した。『Alta Ripa』は、この変容の経験をとらえ、彼の田舎での始まりの内省的なメロディーと、ベルリンの活気あるエレクトロニック・ミュージック・シーンから生まれた大胆で実験的な音色を融合させている。このアルバムは、ボイセンの進化の証であり、地理的な移り変わりがいかに芸術表現を深く形作るかを示している。


ボイセンのソロ名義での4作目となるスタジオ・アルバムは、彼の出発点へのうなずきであると同時に、未来へのヒントでもあり、作品としては、その大胆さと謙虚さにおいて、ほとんど矛盾がある。彼は、リスナーを自分探しの旅へと誘う。自分にとってもリスナーにとっても。この音楽を、"15歳の自分が聴きたかったが、大人になった自分にしか書けないもの "と表現している。


ボイセンは、彼自身の嗜好が折衷的であることと、特定のシーンに属したことがないことから、自分がどの音楽の伝統にも属しているとは考えていない。一貫性の欠如というよりは、さまざまなアプローチに対する評価であり、彼は音楽的に進化するために常に挑戦しているのだ。


例えば、”Hecq”という名義でノイズミュージックを始めた当初は、レフトフィールドのエレクトロニカ、ブレイクコア、テクノなど、さまざまなジャンルからインスピレーションを得ていた。その後、アコースティック楽器を取り入れた、より構造的で質感のあるエレクトロニック・ミュージックの作曲に力を入れ、自身の名義で並行して活動するようになった。また、映画、テレビ、ビデオゲーム、マルチメディア・インスタレーション、アレキサンダー・マックイーンをはじめとするファッション・デザイナーのための作曲家としても幅広く活動している。


過去2枚のアルバムでは、チェリストのアンネ・ミュラー、フリューゲルホルン奏者のシュテフェン・ジマー、ドラマーのアヒム・フェルバーなど、他のミュージシャンと仕事をしている。しかし、最近のライブ・パフォーマンスへの復帰に触発されたこともあり、『アルタ・リパ』では、ボイセンは純粋なコンピューター・ミュージックへの情熱に回帰している。彼はこう説明する。


「ベルリンで20年近く過ごした後、数え切れないほど素晴らしいアーティストとの交流や出会いがあり、それが私の作品やアルバムに反映されてきた。しかし、この小さな町アルトリップは、ある意味、私が本当に離れたことのない町であり、その遠い記憶とともに、私の心の前に戻り続け、私が学んできたこと、今日あることのすべてを、いわば「故郷」に持ち帰るように促してくれた」


「私は、人生が複雑になる前に、私を形成し、インスピレーションを与えてくれた場所に芸術的に戻り、今日の経験をもってその世界に入り込みたいと思った。どういうわけか、戻るのと同時にゼロから出発して、私の最も古いアルバムであるとともに、最も新しいアルバムを書くことになった」



『Alta Ripa』/ Erased Tapes

 

今ではすっかり忘れさられてしまったが、ドイツは1800年ごろまでには現在のオーストリアを含む地域を自国の領土としていた。それがナポレオン率いるフランス軍によって一部を制圧され、現在では、その領土の一部を受け渡した。第二次世界大戦では、歴史上最も死者を出したスターリングラードで敗北を喫し、ソビエト連邦の管理下に置かれる地域もあった。さらに多くの都市において、城塞都市を持ち、古城の周りが要塞のような構造を持つ地域もある。これは地形的に、ドイツが侵略と戦いの憂き目にさらされてきたことを象徴付ける。そして、近代以降、ドイツが生んだ最高の遺産は、工業製品やインフラ設備であり、大衆車(volkswagenは大衆車の意味)の生産ラインを確立し、自動車の大量生産の礎を築き、アウトバーンのような大規模な幹線道路を建設したことにある。例えば、ミュンヘンのアウトバーンを走行していると、巨大なフットボールクラブのスタジアムのドーム、アリアンツ・アレーナが向こうに見えてくる。

 

第二次世界大戦の後、ドイツは工業的な生産を誇る国家として発展してきたが、もうひとつアカデミアの文化も長い歴史を持つ。例えば、中世の時代にはボン大学があり、普通に一般的な講義として、詩の授業が行われていて、ロマン・ロランの伝記によると、若き日のベートーヴェンは、作曲家になる以前に、聴講生として詩の講義に参加していたことがあったという。他にも、南ドイツのフライブルク大学は、創設がなんと15世紀であり、ネッカー川や哲学者の道が有名で、街のパブの壁には学生の思索のメモ書きが今もふつうに残されている。ドイツは、マイスター等の階級的な職業制度に関して問題視されることもあったが、少なくともオーストリアと並び、知性を最も重んじる国家であり続けてきた。こういった中で登場した電子音楽は結局のところ、クラフトヴェルクといった富裕層の若者たちによって、文化や芸術のような形で綿々と続いてきた。ドイツの工業製品にせよ、芸術や音楽、そしてフットボールのプレイスタイルにせよ、一つの共通点がある。それは、秩序、規律、統率を何よりも重んじ、それを芸術的たらしめるということ。これはまさしく、古い時代から培われた知性の象徴であり、ドイツの美徳とも呼ぶべきものだ。なぜなら、新しい考えは秩序や規律から生ずるからである。

 

ベン・ルーカス・ボイセンの音楽は、こういったドイツの遺産を見事な形で受け継いでいる。 そもそも音楽は、和声から始まったのではなく、モーダル(Mordal)という半音階を上がったり下がったりする旋法から始まり、その後、ドイツの音楽学者や作曲家により、厳格な対旋律法が生み出され、その後、和声的な考えが出てくるようになった。特に、古典派の多くの作曲家は旋律の進行に関して、厳格な決まりや原理を設けていた。つまり、旋律が上がれば、そのあと、バランスを保つために下がるという規則を設け、その中で制約の多い作曲を行った。これが以降のポピュラーミュージックの基礎となったのは明確である。フランスの音楽的な観念は、そこまで厳しくはないが、ドイツの和声法や対旋律法はきわめて厳格であることで知られている。これは「音楽の秩序や規律」という一面を示す。そして、例外的な要素は濫用せずに、ここぞ!というときのためにとっておいたのである。規則を破るのは美しさのためだけである。

 

 

ベン・ルーカス・ボイセンの電子音楽は、1990年代や2000年代のAutecre、Clarkのスタイルを継承しているが、これに対旋律的な技法やMogwaiのポスト・ロックの遊び心を付け加えている。

 

冒頭を飾る「1-Ours」を聞けば、ボイセンの音楽がシンプルに構成されていることがわかる。おそらく、Native Instruments等のソフトウェア音源によるシンセリードから始まり、それを規則的に繰り返しながら、音楽構造としての奥行きを発生させ、その背景に薄くパッドの音源を配置させ、大きめの音像を発生させる。ポスト・ロックの音響派の影響を受け継いだイントロの後、テクノやブレイクコアではお馴染みの簡素で規則的な4ビートを配置し、うねるようなウェイブーーグルーヴーーを発生させる。ただ、90年代のテクノやブレイクコアは、速いBPMが使用されることがわりと多かったが、アルバムでは意図的にスロウなBPMが導入されている。


これはビートの重力を出すための制作者のアイディアではないかと思われる。そして重層的なビートは、何度もアシッドハウスのような感じで繰り返されると、「Delay Beat」とも称するべきシンコペーションの効果を発揮し、強拍が後ろに引き伸ばされていくような効果が発生する。徐々に、そのウェイブのうねりは大きくなり、レイヴやアシッドハウスのような広大で陶酔的なグルーブに繋がり、クラブフロアの縦ノリの激しく心地よいリズムが縦横無尽に駆け巡る。その仕上げに、ベン・ボイセンはノイジーなシークエンスをビートの上に重ね、それらをトーンシフトさせ、変調させる。これが独特なアシッド的なうねりと熱狂性を呼び起こすのである。

 

傑出したダンスミュージックの制作者にとっては、一般的な制作者が見落としてしまいがちな些細な音源の素材も、リズムを形成するための重要なヒントになるようだ。シンプルなファジーなアルペジエーターで始まる「2-Mass」は、マスターによって十分な強度を持つに至り、フィルターで音を絞った後、変則的なリズムトラックがループしていく。これが最終的には、Clarkが90年代や00年初頭に制作していたゴアトランスのように変化し、重力のあるスネアとキックの交互の配置により、徐々に熱狂的なエネルギーを帯びていく。さらに対旋律的にリードシンセを配置し、曲に色彩的な効果を及ぼす。曲の途中にはアルペジエーターを配置し、フィルターを掛けたシークエンスを散りばめたりしながら、間接部の構成を作り、クラシック音楽では頻繁に使用されるソナタの3部構成の形式を設け、再びモチーフに戻っていく。ダンスミュージックが規律や秩序から発生することを象徴付けるような素晴らしいトラック。


続く「3-Quasar」は、2010年代以降、先鋭化されたブレイクコアのジャンルを相手取り、よりシンプルで原始的なダンスビートを抽出している。ベースラインとユニゾンを描くリズムトラックは基本的には心地よさが重視され、クラブビートの本質的な醍醐味とはなにかを問いかける。ダンスミュージックの最大の魅力とは複雑化ではなく、簡素化にあることがわかる。さらに静と動の曲構成を巧みに使い分けながら、重厚感と安定感のあるサウンドを構築している。この曲でもBPMを一般的なものよりも落とすことで、リズムにメリハリと重力をもたらす。

 

こういったリズムを側面を強調させ、レフトフィールドの質感を持つアルバムの序盤の収録曲に続いて、Erased Tapesらしい叙情的な雰囲気を持つダンスミュージックが続く。「4-Alta Ripa」では制作者のポストロック好きの一面がうかがえる。Mogwaiが90年代以降に打ち立てた音響派のサウンドをシンセで再現し、瞑想的な音楽に昇華させている。クールダウンのための楽曲というより、ダンスミュージックの芸術的な側面を強調させている。また、ここでは、ベン・ボイセンのピアニストとしての演奏がフィーチャーされ、ドイツ的な郷愁を思わせるものがある。ここには制作者が親しんできたバッハ、ヴァーグナー的な悲哀がシンセで表現される。 

 

 「Alta Ripa」

 

 

単体の素材でリズムが構成される場合が多かったアルバムの序盤に比べると、後半部は複合的なリズムが目立つ。さらに新しく登場した実験音楽家等が頻繁に使用するAbletonで制作するような図面的な信号とは異なり、アナログな音源が多く使用されている。


「5-Nox」は、シンプルに言えば、Logicのような初歩的なソフトウェアにも標準的に備わっているFM音源のようなシンセを用い、それらを複合的な音色をかけあわせ、かなりレトロな質感を持つEDMに仕上げられている。ここにはドイツの工業生産的なダンスミュージックの考えを見て取れるし、それ以前の構成的な音楽という考えも見いだせる。二つの楽節を経過した後に、1分35秒ごろに主要なモチーフが遅れて登場するが、こういった予想外の展開に驚かされる。そして、ここでもアシッドハウスのような手法が用いられ、反復的なビートと裏拍(二拍目)の強調を用いながら、強固でしなるようなパワフルなグルーヴを作り上げていくのである。

 

本作には異色の一曲が用意されている。「6-Vinesta」は、電子音楽が芸術的な音楽と共存することは可能であるかを試したトラック。シンプルに言えば、オペラと電子音楽の融合の未来が示唆されている。ボイセンは、ダウンテンポの手法を用いながら、広大なシンセの音像を作り出し、壮大なイントロのように見立てた後、曲の最後のさいごになって、オペラのような歌曲としての要素を出現させる。ここにはバッハ、ヴァーグナーの影響も伺え、天国的な雰囲気を持つミサ曲のようなシークエンスに、トム・アダムスのオペラティックな歌唱を最後に登場させる。

 

特に、ダンスミュージックとして傑出しているのが、「7-Fama」である。この曲ではリングモジュラーで発生させる音色をアルペジエーターとして配置し、グルーヴィーな構成を作り上げる。特に、他の収録曲と比べると、Four Tetのようなサウンド・デザインの性質が表れ、複合的なリズム、対旋律的なリズムというように、構成的なダンスミュージックを楽しめる。ボイセンは実に見事に、これらのリズムの要素に音量としてのダイナミックスの起伏を設け、サイレンスからノイズを変幻自在に行き来する。簡素でありながら意匠に富んだダンスミュージックは、まさしく南ドイツのアンダーグラウンドのダンスミュージックを彷彿とさせるものがある。

 

正直にいうと、久しぶりに手強いダンスミュージックが出てきたと思った。軟派ではなく本格派のクラブビートであるため、容易に聴き飛ばすことが難しい。わずか38分のアルバムは、細部に至るまで注意が払われており、かなりの聴き応えがある。そして、ベン・ルーカス・ボイセンの出力する迫力のあるビートは、ある種の緊張感すら感じさせる。すべてがインプロヴァイぜーションで演奏されているとは限らないが、その録音時にしか収録出来ない偶発的な音やトーンの変容、演奏に際するひそかな熱狂性のような感覚を収録しているのは事実だろう。

 

しかし、こういった、かなりの強度を持つ収録曲の中にあって、最後の曲だけは雰囲気が異なる。「8-Mere」は、エレクトロニックの美しさを端的に表現し、ブライアン・イーノの名曲「An Ending(Ascent)」を継承する素晴らしいトラックである。この曲を聴いているときに感じる開けたような感覚、それから自分の存在が宇宙の根源と直結しているような神秘的な感覚は、他の音楽ではなかなか得難いものだと思う。これぞまさしく正真正銘の電子音楽なのだ。

 

 

 

86/100

 

 

 

Ben Lucas Boysenによる新作アルバム『Alta Ripa』は本日、Erased Tapesから発売。ストリーミングはこちら。


 

「Fama」

【Weekly Music Feature】 Dean&Britta  Sonic Boom

Dean & Britta  - Sonic Boom

 

国境を越え、インディーズ・ミュージックの伝説的なミュージシャンが集い、『We Are The World』のようなクリスマスのためのアルバムを制作した。シンプルに言えば、このホリデーソングは、平和とは外側ではなく、内側からもたらされる。そんなことを教えてくれることだろう。


Dean Wareham(ディーン・ウェアハム)は、Galaxie 500を結成し、1988年から90年にかけてRough Tradeから3枚の傑作アルバムを発表。彼の次のバンド、Luna(ルナ)はエレクトラとベガーズ・バンケットに7枚のアルバムを残している。一方、Britta Philips(ブリッタ・フィリップス)の最初の音楽活動は、ジェム(ジェム&ザ・ホログラムズ)の歌声だった。その後、Ben Lee(ベン・リー)のバンドでベースを担当し、2000年にはLunaにベースとして参加した。


Dean&Britta(ディーン&ブリッタ)はデュオとして数枚のアルバムを録音したほか、Noah Baumbach(ノア・バームバック、米国の映画監督、アカデミー賞にノミネート)のために2本の映画音楽を担当している。『The Squid & the Whale』、そしてもう一作は『 Mistress America』。


Sonic Boom(ソニック・ブームは、伝説的なイギリスのバンド、Spacemen 3(スペースメン3)の共同創設者であり、その後、Spectrum(スペクトラム)や実験的なE.A.R.を結成し、MGMT、Beach House、Panda Bearなどのレコードをプロデュースしている。Panda Bear(パンダ・ベア)とのコラボレーションによる画期的なアルバム『Reset』(2022年)などが有名。


ディーン・ウェアハムとソニック・ブームの友情が始まったのは今から30年以上前のこと。1989年8月、ロンドンのクラブ「サブタニア」で行われたスペースマン3の最終公演の後、バックステージで彼らは出会った。その後も連絡を取り合い、時折ライヴステージを共にする機会に恵まれた。2002年、ソニック・ブームが「Sonic Souvenirs EP」のためにディーン&ブリッタの6曲をリミックス、初のコラボを実現させた。それ以来、彼らはツアーを共にし、多くの曲でコラボレーションしてきた。『A Peace of Us』はトリオとして初のフル・アルバムである。

 

インディの青春の集合体の砦として、60年代初期のポップ、ガレージ、カントリー、ジェームズ・ボンドのサウンドトラック、クリスマス・キャロル、そしてエレクトロニカからインスピレーションを得たコレクションに命を吹き込んだ。ディーン・ウェアラムは、DJの友人クリスの言葉を思い出している。「愛と憎しみ、喜びと心の痛み、ノスタルジア、後悔、期待、フラストレーションなど、音楽を通してクリスマスのあらゆる感情を体験することができるはずだ」


ホリデー・アルバムへの挑戦は大きな意味を持つ。長年にわたるいくつかのカヴァー・チューン、パンデミック時のクリスマス・スペシャル、そして最終的にはL.A.のディーン&ブリッタとポルトガルのソニック・ブームとの共同セッションによって拍車がかかった。トリオ全員がボーカルを担当し、ギターはウェアハム、ベースとキーボードはフィリップス、エフェクトとミックスはソニックが担当した。「ビング・クロスビー...オン・アシッドみたい」とブリッタは付け加え、トラックリストは、ホリデーが複雑で悲劇的なものであることを思い出させてくれる。


ホリデーソングの陽気な雰囲気にはよくあることだが、このクリスマス・アルバムにはほろ苦さが漂っている。ウォーリアムはデヴィッド・バーマンの最後の曲のひとつ「Snow Is Falling In Manhattanーマンハッタンに雪が降る」を歌っているが、この曲は、ディーンが "ホリデー・クラシックになる運命にある "と信じている。その歌詞は、バーマンの悲劇的な死を予感させる。"歌は時の中に小さな部屋を作り/歌のデザインの中に宿り/ホストが残した亡霊がいる"


クリスマス・ブルースは、ウィリー・ネルソンの「Pretty Paper」で再び表面化する。ここではブリッタとソニック・ブームのデュエットで、彼らの脈打つシンセを多用したプロダクションが、この曲を明るいホンキートンクではなく、暗いナイトクラブ向けにアップデートしている。


このコレクションは、通常のクリスマスの定番曲は避けているが、クラシックなインディー・ヘイズのファンは、「Peace on Earth / Little Drummer Boy」(ビング・クロスビーとデヴィッド・ボウイが1977年にTVでデュエットするために作られた曲)に新しいお気に入りを見つけるだろう。「私たちが一番好きなのはマレーネ・ディートリッヒのドイツ語版で、それが出発点だった」とウォーリアムは言う。この曲は3人が一緒に歌う。ウォーリアムのテナー、ソニック・ブームのバリトン、そしてフィリップスの落ち着いたコントラルトを聴くことができる。


「コラボレーションが燃料であるなら、平和と相互理解が火であることは間違いない。クリスマスは子供のためのものだしね」とディーンは言う。


ソニック・ブームはこう付け加える。「あるいは、私たち皆の中にいるインナーチャイルドのために。すべての人に善意を。来る年への期待と不安。そして暗闇の中の光。このお祭りが始まった場所」

 

 

『A Peace Of Us』 Carpark 

 

ジョン・レノンとは異なり、ルー・リードは明確にはクリスマス・アルバムというのを制作したことがない。しかし、よく調べてみると、『New York』というアルバムで、ベトナムからの帰還兵へ捧げた「X'mas In February(季節外れのクリスマス)」という深い興趣のある曲を歌っていた。ルー・リードは、その人物像を見ても、それとなくわかることであるが、一般的に見ると、少し回りくどいというべきか、直接的な表現を避けて、暗喩的な歌を歌うことで知られている。


彼は、ジョン・レノンのような典型的なホリデーソングを歌うのを避け、反戦というテーマをかなり慎重に扱ったのである。もうひとつ重要視すべきなのは、リードは単なる左翼的な曲を歌ったわけではない、ということである。彼は、自分の幸福ではなくて、他者の心の傷や仕合わせのために歌を捧げたということを忘れてはならない。そう、ルー・リードは、スーザン・ソンタグが指摘するような他者の痛みのために歌をうたったのだ。祈る必要はないのだが、時々、エゴを離れ、他者や大いなる存在について思いを巡らすことはそれほど悪いことではない。

 

ディーン&ブリッタ、ソニック・ブルームのクリスマス・アルバムは、直接的な反戦のテーマこそ含まれていないが、内的な平和のメタファーを歌うことで、リードのクリスマスソングに準ずる見事な作品を完成させている。同様に、ジョン・レノンの「War Is Over」のようなスタンダードな選曲から、17世紀のイングランド民謡「Greensleeves」、あるいは、18世紀のオーストリアの教会のクリスマス・キャロル「Silent Night (きよしこの夜)」を中心として、クリスマスソングの名曲をいくつか取り上げている。三人とも、インディーズ・ミュージック界の名物的な存在で、そして、音楽の知識がきわめて広汎である。このアルバムでは、驚くべきことに、ロックからクラシック、フォーク/カントリー、オールディーズ(ドゥワップ)までを網羅している。

 

アルバムは、デヴィッド・バーマンのカバー「The Snow Is Falling In Manhattan」で始まるが、ディーンが空惚けるように歌う様子は、ルー・リードの名曲「Walk On Wild Side」にもなぞらえても違和感がない。Galaxie 500の時代から培われたインディーロックのざらついた音質、そして、斜に構えたような歌い方、ソニック・ブームのプロデュース的なシンセサイザー、Wilcoのような幻想的なソングライティング、これらが組み合わされ、見事なカバーソングが誕生している。あらためてわかることだが、良い曲を制作するのに多くの高価な機材は必要ではないらしい。

 

カバー・アルバムやコンセプト・アルバムというのは、一般的な楽曲制作よりもハードルが高いので、うかつに手を出せない。それはなぜかというと、作曲的な知識はもちろん、編曲の能力が必須になるからである。クラシック音楽の観点から言うと、カバーソングというのは、変奏曲(Variation)の一形式であり、きわめて難易度が高い。そしてカバーは、原曲とまったく同じものになってはいけないが、原曲の筋書きを書き換えてもいけない。つまり、制約や禁則が意外と多いので、作曲のマイスターでも編曲には手こずることがある。

 

クリスマス・アルバムというと、基本的には、懐古的なサウンドがテーマになる場合が多いが、ディーン&ブリッタ、ソニック・ブームの狙いはおそらく、ホリデーソングの新しい側面を提示することにあったのだと思う。そして、原曲を忠実に解釈した上で、今まで知られていなかったクリスマスソングの面白さを提供してくれている。特に、ウィリー・ネルソンのカバー「Pretty Paper」は、シンセサイザーをフィーチャーしたエレクトロ・ポップで、ニューウェイブ・サウンドを参照し、原曲とは異なる曲に生まれ変わっている。編曲も見事であり、オーケストラのパーカッション(ティンパニ)がこのカバーソングにダイナミックな効果を及ぼしている。

 

ソニックブーム、ブリッタの両者にとっては、実際的な制作を行っていることからもわかる通り、映画音楽というのが、重要なファクターとなっているらしい。ジェイムス・ボンドの『007』シリーズでお馴染みのニーナ・ヴァン・バラントの曲「Do You Know How Christmas Trees Are Grown?」では、映画音楽に忠実なカバーを披露している。特に、この曲ではブリッタがメイン・ヴォーカルを歌い、The Andrews Sisters(アンドリューズ・シスターズ)のような美麗な雰囲気を生み出す。曲の途中からはデュエットへと移行していき、映像的な音楽という側面で、現代的なポピュラーの編曲が加わる。プロデュースのセンスは秀逸としか言いようがなく、ソニック・ブームは、シンセサイザーで出力するストリングスで叙情的な側面を強調させる。

 

ロジャー・ミラーのカバーソング「Old Toy Train」では、ディーンがルー・リードのオルタナティヴフォークやバーバンクサウンドの影響下にある牧歌的な雰囲気を持つフォークソングを披露している。Velvet Undergroundのデビューアルバムの「Sunday Morning」、『Loaded』の「Sweet Jane」の延長線上にあるUSオルタナティヴの源流に迫る一曲である。どうやら、彼らがアーティスト写真でサングラスを掛けているのにはそれなりの理由があるようだ。

 

その後、年代不明のポピュラーの果てしない世界に踏み入れるかのように、まもなく到来するクリスマスのムードを盛り上げる。 「Snow」は、ミュージカルをモチーフにした時代を超えるポピュラーソングで、ブリッタがメインボーカルを歌い、懐かしきオールディーズの世界へリスナーを招待する。フランク・シナトラ、ルース・ブラウンといった往年の名歌手の普遍的な音楽を彷彿とさせるこの曲は、ピアノ、シンセ、そしてボーカルのコラージュによって、美しくも儚いインディーポップサウンドへと昇華されている。クラシックとしての威厳、そしてインディーズミュージックとしてのラフさやユニークさが組み合わされた見事なクリスマスソングだ。

 

以降の二曲は、古典的な定番曲が選ばれている。「Silver Snowfales」はイングランド民謡、及び、ケルト民謡の定番曲のカバー。特に、シンセサイザーの生み出す魔術的な響きがこの曲のアレンジを決定付けている。また、デュエット形式のコーラスも、中世ヨーロッパのミステリアスな世界観を形作る働きをなしている。この曲のギターは、リュートのように鳴り響き、そして二人のコーラスは、イタリアン・バロックのような古典的な響きに縁取られている。ケルト民謡の持つ神話的な魅力に、古楽のような要素をもたらしたアレンジの手腕は実に見事である。


クリスマス・キャロルの名曲「Silent Night(きよしこの夜)」では、メインボーカルに合わせてバリトンのボーカルがベースラインの役割を担う。さらに続いて、ブリッタのアルトの音域にあるボーカルが掛け合わされる。古典的なオーストリアのクリスマス・キャロルは、原初的な幸福感を失わず、オーケストラパーカッションとともに、サイケデリックな編曲が加えられている。

 

 ビング・クロスビーのカバー「You're All I Want For Christmas」は、最初期のザ・ビートルズのソングライティングに影響を及ぼしたと言われるガールズ・グループ、The Ronettes(ロネッツ)の伝説的な名曲「Be My Baby」を彷彿とさせるバスドラムのダイナミックなイントロから始まり、果てなきドゥワップ(R&Bではコーラス・グループと呼ぶ)の懐かしき世界へと踏み入れていく。この曲では、ブリッタが夢見るかのようなドリーミーな歌声を披露し、AIのボーカルや自動音声では再現しえない人間味あふれる情感豊かなポピュラーソングを提供している。


ブリッタの歌声は音楽の素晴らしさを教えてくれるだろうし、そしてクリスマスのモチーフとなる鐘の音は、まるで雪道の向こうからサンタクロースが橇を引いてやってくる幻想的な情景を端的に描写するかのようである。ソニック・ブームの語る「暗闇に光を」という言葉は、宣伝でもなければキャッチコピーでもない。真心から出た言葉である。赤子、子供から大人、そして老人にいたるまで、彼らはクリスマスソングを介して、大きな夢を与えようというのである。


「Christmas Can't Be Far Away」は、エディー・アーノルドのカバーで、この曲もまたモノクロ映画の時代のサウンドトラックを聴くようなノスタルジアに溢れている。前曲と同様に、彼らは、戦争で荒廃する世界に光があること、そして、善意がどこかに存在するということ、また、信頼を寄せること、こういった人間の原初的な課題を端的に歌いこんでいる。分離する世界を一つに結びつけるという、音楽の重要なテーマが取り入れられていることは言うまでもない。


 

仕合わせなクリスマスが間近に迫ってくるのを予兆するかのように、彼らのカバーソングはより音楽の持つ核心的な領域に入り、そして楽しげな感覚を引き上げる。それはボーカル、コーラス、パーカッション、ギター、シンセ、パーカッション、シンプルな構成によって繰り広げられる。ほとんど難しい晦渋な音楽は登場しない。音楽の持つシンプルさを彼らは熟知しているのだ。特に、アルバムの終盤の楽曲と合わせて、「He’s Coming Home」は、素晴らしいハイライトである。バンジョーやスティール・ギターの演奏を基に軽快なムードを作り出し、ブリッタがアンドリューズ・シスターズやカレン・カーペンターのように、懐かしく泣けるようなクリスマスソングを巧みに歌い上げている。この曲の原曲の歌詞は、おそらく、制作者から見た他者の人生の一部分が切実に歌われており、それがゆえに重要な説得力と実感を持ち合わせている。

 

 「He’s Coming Home」

 

 

 

「Little Altar Boy」はカーペンターズのカバーではないかと思われる。ある意味では「オルタナティヴ三銃士」と言えるディーン&ブリッタ、ソニックブームは、この曲を古典的な風味を残しながら、原始的なシンセポップへと再構成している。比較すれば、カバーとわかるが、実際的に楽曲の雰囲気は全く異なっている。いわば、ローファイ、スロウコアを始めとするニッチなインディーズ精神がこのトラックから、ぼんやりと立ち上る。さらにドアーズのレイ・マンザレクのようなレトロなシンセが、フラワームーブメントの最中に発表されたローリング・ストーンズの『Thier Satanic Majesties Request』のようなサイケ・ロックのアトモスフィアを作り出す。


 「If We Make It Thought December」は、おそらくマール・ハガードが歌った曲で、クリスマスベルとフォーク・ミュージックが組み合わされたカバーソングである。ただ、この曲はブリッタがメインボーカルを取り、バンジョーのアレンジによる楽しげな雰囲気を付け加え、原曲にはない魅力を再発掘している。カバーアルバムでありながら、トリオの音楽的な核心を形成するメッセージ性は強まり、最後の二曲でディーン&ブリッタ、ソニック・ブームの言わんとすることがようやく明らかになる。


ビング・グロスビーとデヴィッド・ボウイの1977年のデュエット曲「Peach On Earth/ Little Drummer Boy」では、ドゥワップの歌唱法を用い、Velvet Undergroundから、Galaxie 500、ヨ・ラ・テンゴのオルタナティヴのムードを吸収した雰囲気たっぷりのロックソングへと昇華している。コーラスワーク、そしてアコースティックギターの演奏を中心に、オーケストラのスネアを使用し、ボレロのようなマーチングのリズムを取り入れ、見事なアレンジを披露している。

 

 

カバーの選曲が絶妙であり、また、オリジナル曲の魅力を尊重しながら、どのように再構成するのかという端緒が片々に見いだせるという点で、『A Peace Of Us』は多くのミュージシャンにとって、「カバーの教科書」のようなアルバムとなるだろう。本作のクローズには、ジョン・レノン/オノ・ヨーコの名曲「Happy X'mas(War Is Over)」が選ばれている。こういった名曲のカバーを聴くたび、ヒヤヒヤするものがある。(原曲も持つイメージが損なわれませんようにと祈りながら聴くのである)しかし、これが意外にマッチしているのに驚きを覚える。 分けても、サビにおける三者の絶妙なコーラスは、繰り返されるたび、別の音域に移り変わり、飽きさせることがほとんどない。そして、ジョン・レノンの全盛期のソングライティングに見受けられる瞑想的な音楽性は、このトリオの場合は、幸福感を強調した瞑想性へと変化している。

 

このカバーを聴くと、ジョン・レノンは、特別なミュージシャンではなく、むしろ一般的なファンや子供が気安く口ずさめるようにと、「Happy X'mas(War Is Over)」を制作したことが理解出来るのではないか。音楽は特別な人のためのものでもなければ、特権階級のためのものでもないことを考えれば、当然のことだろう。果たして戦争のない時代はやって来るのだろうか??

 



94/100

 

 

 

「Snow」

 

 

■ Dean & Britta  - Sonic Boom 『Peace Of Us』は本日、Carparkから発売。ストリーミングはこちら

 

Weekly Music Feature : Anat Moshkovski



アナト・モシュコフスキはイスラエル/テルアビブ在住のミュージシャン。6歳からピアノ、11歳からクラリネットを始め、後にヴォーカリストとなる。近年は、ヨニ・レヒテル、ウジ・ナヴォン、ヌリット・ヒルシュらと歌い、「ヘーゼルナッツ 」と共に世界ツアーを行っている。2017年にデビューEP『Happy as a Dog』をリリース。セカンドEP『Loud & Clear』は2019年リリースしている。


彼女のディスコグラフィーには、二作のEPとフランスのシングルの三部作が含まれている。その中には、Yoni Rechterの有名な曲「The Prettiest Girl In Kindergarten」の人気のある魅惑的な新バージョンがある。


アナトはマルチバイリンガルで、英語、フランス語、ヘブライ語をシームレスに切り替える。彼女の音楽は、イスラエルとフランスの尊敬されるラジオ局や雑誌から支持されています。彼女はまた、シュロミ・シャバンやウジ・ナボンなど著名なアーティストともコラボレーションしています。アナトは11月15日にニューアルバム『Anat』をリリースし、彼女の音楽の旅に別のエキサイティングな章を追加する。


モシュコフスキーの有名作としては2021年の「La Petite Fille la Plus Jolie du Monde(世界で一番かわいい女の子」がある。この曲はシンガーソングライターのコンポジションを理解する上で不可欠である。フランスのメディアによると、この曲はイスラエル音楽の有名曲であるらしく、回顧展と合わせて公開された。すべては、音楽家ノエミー・ダハンがアナト・モシュコフスキーとシュージンのために翻訳した、イスラエル音楽で最も有名な曲のひとつから始まった。


叙情的な観察から繊細で癒し系のポップな賛辞まで、『世界で一番可愛い女の子』は目、体、手といった五感のすべてを通して感覚を伝えた。宙吊りのジェスチャー、救いの空に向かって振り上げられる指、鏡の向こう側に座る生き物を見つめる虹彩、創造的で人間的な系譜が進行しているのを目撃するよう誘う、濡れた肌や冷たい肌、ぴったりした服やゆったりした服の感触が、私たちの想像力を引き継ぐスケッチを誘発する。展示とサウンドトラックは、日々学び直すべき普遍的なメッセージを伝えている。すべてのドローイング、すべての楽譜、すべての彫刻の背後には、自伝の本質的な部分、イニシアティブと具体性の不滅の存在がある。その根源は、アナトとシュージンの新しく敬虔なパフォーマンスと、献身と時間を通してこの忘れがたい深い感動的な作品に自分の存在を捧げてくれたすべての人々の惜しみない参加によって育まれている。

 

新しいアルバムは、7つのシンプルで美しいビネットにより構成されている。このアルバムは、モシュコフスキーいわく「言葉ではなく、激しい感情の流れ」であり、パリの映画のサウンドトラックとそれほど縁遠いものではない。

 

『Anat』は大胆にもアーティスト名を冠するアーティストにとっての記念碑的な作品である。ヌーベルヴァーグ(Nouvelle Vague)のモノクロ映画から、『Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain,(邦題:アメリ)』のようなポスト・ヌーベルヴォーグに至るまでの新旧の映画音楽を変幻自在に横断し、新しいシネマ・ポップの流れを形作る。これはアナト・モシュコフスキーの音楽が、シルヴィ・バルタンやブリジット・フォンテーヌまでのフレンチ・ポップやアートポップの流れを汲むことを示唆する。これらの音楽に変化を及ぼすのが、ゲンスブールのバロックポップからの影響、英語、フランス語を曲ごとに使い分ける巧みな歌唱、そしてラテン・ジャズからのフィードバック。このアルバムは、イスラエルの新しいポップスの台頭を表すと同時に、米国の著名なソングライターと並んで、2020年代のシネマ・ポップの時代を予感させる。

 

 

 

『Anat』 Nana Disc  (86/100)


 


アーティスティックな音楽表現はすでに2021年の時点で完成されていた。ボサ・ノヴァやイエイエをベースにした作曲、ピアノ、クラリネットの演奏で培われた音感の良さは、旧来の商業音楽を組み替える契機となり、普遍的な音楽表現を構築するための躍如ともなった。結果的に、アナト・モシュコフスキーがこのアルバムで全般的にヒントにしたのは、奇異なことに、現代的なアメリカのシンガーソングライターが取り組んでいる「リバイバル運動」であるようだ。

 

それはアメリカの商業音楽の場合、映画のワンカットで流れる演出的な挿入歌やサウンドトラック等がポピュラーの音楽の一つの枠組みとなっている。イスラエルのシンガーソングライター、アナト・モシュコフスキーもこの事例に倣い、ヌーヴェル・ヴァーグのモノクロの映画で流れていたファッショナブルな音楽を彼女自身のポピュラー・ソングに取り入れている。そもそも、フレンチ・ポップとも称される「イエイエ」のムーブメントは、前時代のフランスのクラシック音楽の流れを汲んでおり、オーケストラとポップネスの融合というのが重要な主題でもあった。それにジャズの要素を加え、独自のポピュラー音楽という形に昇華していたのだった。

 

『Anat』はクラシック音楽やワールドミュージックからの影響を基に、親しみやすく、聴きごたえのあるポピュラー・ソングによって構成されている。このアルバムは基本的に、バンド構成で録音され、ドラム、ギター、ストリングス、管楽器、エレクトロニクス等を取り入れている。

 

オープナー「Jamie」は、アコースティックギターの多重録音で始まり、シンプルかつ美しい調和を作り上げた後、60年代の古典的なバロックポップの影響下にある温和な音楽性を展開させている。一見して、簡素な旋律やスケールを描くように聴こえるが、複数の楽器のアンサンブルを通じて、ビートルズに近い美麗なポップスが作り上げられる。基本的な音楽性にオルタネイトな影響を与えているのが、彼女がよく聴くという”Mild High Club”のようなネオサイケロックバンドからのフィードバックである。これはメインストリームの音楽に、ノスタルジアとディレッタンティズムを添える。歌唱法についても囁くような語りのニュアンスからスキャット、明確なボーカルに至るまで、幅広い形式が繰り広げられる。何より、バロックポップ/チェンバーポップの規則的なビートに乗せられる穏やかな旋律進行は、うっとりさせるものがある。 

 

 

 

アナト・モシュコフスキーの音楽は、ビートルズやセルジュ・ゲンスブールといった60年代、70年代の音楽のフィードバックをありありと感じさせる。「If We Fail」ではボサ・ノヴァのリズムをシンセとドラムでユニゾンで刻みながら心地よいビートを作り上げ、そしてラテン音楽とジャズの融合をポピュラーの文脈と結びつける。それほど音の要素は多くはないものの、核心を捉えたグルーヴがモシュコフスキーの温かい印象を持つボサ風のボーカルと上手く合致している。

 

リズムやセクションの合間に導入されるクラリネット/オーボエの音色がアフロ・ジャズ/ラテン・ジャズ風のしなやかな旋律性を付与し、色彩的な印象を添える。更に、シンセのトロピカルやラヴァーズロック風のアレンジ、そして部分的にアートポップの範疇にあるボーカルのリサンプリングなどを配して、それほど派手ではないものの良質なポップソングを作り上げている。この曲では、ポピュラーの基本的な要素であるスケール(コード)と旋律、そしてリズムという3つの構成要素をバランスよく見定め、心地よく安らげるような音楽を作り上げている。

 

映画/演劇の場面の中で演出的な効果で用いられるようなポピュラー音楽の手法は、続く「Lightnings」に見いだせる。アコースティックギター、バイオリン/ヴィオラのピチカートで穏やかな和音を作り、クラリネット等の管楽器、弦楽器のスタッカート、レガートを対旋律的に交えながら、ピクチャレスクなイメージを持つ美麗な音楽を構築していく。アナト・モシュコフスキーは、それらの背景となるオーケストラの演奏に仄かな哀愁を添えている。また、水の流れのように澱みのない弦楽器のトレモロ/レガートのハーモニクスが、アウトロにおいて美しいシークエンスを作り上げる。簡素なバレエのムーブメントに近い一曲で、中盤から終盤にかけて、息を飲むような美しい瞬間が用意されている。この曲は、イゴール・ストラヴィンスキーのバレエ曲『Pulcinella (プルチネルラ)』のポピュラー・バージョンとも言えるかもしれない。

 

アルバムは冒頭だけ聴くと、一般的なポピュラーアルバムに聴こえるかもしれない。しかし、本当に面白いのは、中盤から終盤にかけての収録曲であり、セルジュ・ゲンスブールのようなアートポップ性とオルトロックが融合する箇所にある。


「Teddy Bears」は、レディオヘッドの『OK Computer』のエレクトロニックを融合させた近未来のオルタナティブロックやトリップ・ホップなどのヒップホップとエレクトロニックの融合をベースにし、モシュコフスキーは自身の淡々としたボーカルを通じて、唯一無二のワンダーランドを作り上げる。特に、クラシック音楽の作曲技法であるゼクエンス進行(同じ音形を別の調に組み替えること)を用い、巧みなソングライティングを披露し、調性を徐々に展開させながら(長調を単調に組み替えることもある)、楽曲の印象をかわるがわる変化させていく。これは特に、幼少期から培われた音感の良さとクラシック音楽の構成からの影響が色濃く滲み出ている。

 

続く「On a Tout Fait」はアコースティックギターの繊細なアルペジオの弾き語りで、聴きやすいバラード曲を提供している。具体的にイスラエルでどういった曲が流行っているのかは不明ではあるものの、フォーク・ソングをベースにしたこの曲では、ファンタジックなイメージを基にして、現代的なフォークソングを組み上げ、コーラスワークを通じて、音楽的な奥行きを表現している。終盤では、アートポップの要素が強まり、そしてフレンチ・ポップの要素と結び付けられる。「Obscure Clarte」では、エレクトロニックピアノの演奏とストリングスをかけあわせ、オルタナティヴの側面を強調している。セルジュ・ゲンスブールの系譜にある一曲である。

 

アルバムのクローズ「Encore」は、鳥の声のサンプリングで始まり、その後、ベス・ギボンズの系譜にあるアートポップ・ソングに直結している。しかし、明確にポスト・ギボンズかといえばそうとも言い難く、依然としてフレンチポップ、イエイエからの影響が色濃いように思える。更にクライマックスでは、シネマティック・ポップの主題のような音楽性が示唆されている。スパニッシュのフラメンコ・ギターとオーケストラ・ストリングスの融合が、フランスの商業音楽はもちろん、スペイン音楽の気風を醸し出し、哀感と共に情熱的な音楽性を演出している。

 




Anat Moshkovskiによるニューアルバム『Anat』は本日、Nana Discより発売。アルバムのストリーミングはこちら

 

 

「Encore」



*記事掲載時にアーティスト名の表記に誤りがございました。訂正とお詫び申し上げます。
Weekly Music Feature: Perila

Perila


実験音楽界に新たな奇才が登場。サンクトペテルブルク生まれでベルリンを拠点に活動するサウンド&ビジュアル・アーティスト、DJ、詩人、パフォーマーのペリラがオスロのスモールタウン・スーパーサウンドからセカンド・アルバムを本日リリースした。21の個別のコンポジションからなるフォーマット別の2枚組アルバムで、内外のリズムを活用することに狙いを定めている。


メディア(媒体)という点では、『Intrinsic Rytmn- イントリンシック・リズム』は基本的にダブル・アルバムである。しかし、70年代のクラシックなコンセプチュアル・アルバムというよりは、ロイヤル・トラックスの『ツイン・インフィニティブス』やR!!!S!!!の『レイク』のような90年代のアウトサイダー・エクスペリメンタル・ダブル・アルバムに近い。長尺のサイケデリックな探求を避け、強力で凝縮された恍惚とした内省のブロックを、5秒のブレイクを挟むことで音のパレットを浄化させながら聴かせる。


その結果、リズミカルなアンビエント、スペクトラルなエレクトロニクス、そして親密なヴォーカルが、意図的な要素と偶発的な要素、環境から生成されたリズムとメロディ、抽象的なメロディと具体的な言語、そして人生の複雑さと精神的な再生の間で、とらえどころのないバランスを保っている。


冒頭から幽玄なシンセワークと、重なり合う声と重なり合う牛の鈴のフィールド・レコーディング(「Sur」)によってシーンが設定され、精神的な意味と身体的な幸福を生み出す音楽が常に押し合いへし合いしている様子をリスナーに観察させる--故ミルフォード・グレイヴスのホリスティックな芸術作品とは似て非なるものだ。


「Nia」や「Ways」のようなトラックでは、テープのヒスノイズ、小音量のうなり音、リズミカルな小声のパチパチというテクスチャーが、遠くのヴォーカルと変調する鐘の音に一定の瞑想的な土台を提供し、音世界を浸透させる。これらは、ASMRを誘発するような音響、前後するメロディー、幻覚的な雰囲気を伴っており、微妙な音の作用が大気の地平へと果てしなく広がっていく。


「Angli」、「Supa Mi」、「Fey」といった曲では、ヴォーカルのミニマリズムを削ぎ落として、エレガントなクリックやカット・パーカッションと組み合わせることで、より親密で内面的なサウンドスケープを作り出している。  具体的には、アルバムの最後の4分の1では、無防備で飾り気のないサウンド・メモのようなレコーディングの中で、内と外の緊張感が再び現れる。そこでは、足音のペースやマイクのノイズのような操作(「Darbounouse Song」)、あるいは日用品の自発的なパーカッションや遠くの歌声が、アルバムのクローズである「Ol Sun」のように、私たちが住んでいながら見過ごしがちな空間や物事の共鳴周波数を探り当てようとする。


結局のところ、この2枚のレコードは互いに対話するように考えられており、内的世界と外的世界の間で音楽的な会話をしながら一緒に演奏することができる。さらに、4つのビニールの側面の区分は、土、魂、空気、地面として、なる段階、物質、人生の質感を表している。


この意味で、『Intrinsic Rhythm』は、外界の生態系が、日常生活の周波数やテンポの中に、メロディーやリズムの絶え間ない、そしてしばしば混沌とした源を提供していることを思い出させてくれる。内面的には、これらは意識や内臓の無形のリズムと組み合わさっている。ペリラは、受動的に知覚される音と、そこから能動的に生み出される音楽のバランスを正確に探っている。


ペリーラ自身の言葉を借りれば、「このアルバムに取り組む過程で、私自身の本質的なリズム、つまり私の中心であり拠り所であるリズムは、ゆっくりとしたものであることがわかった。スローダウンすると、すべての魅惑的な美しさに気づくことができ、音の世界を違った形でとらえることができる。私にとって、この作品を作ることは、自分が本当は何者なのか、そしてこの世界で自分がどうあり得るのかを知り、受け入れるという、まさにスピリチュアルな旅だった」


さらに、レーベルの個人的なメモは適切な洞察と考えに基づいており、謎めいたベルリンのアーティストの実像の一端を明らかにする。


「ペリラは私にとってとても特別な存在で、サウンドクラウドで彼女の最初の2、3曲を聴いたとき、とても特別な人の音楽がここにあるとすぐに理解した。彼女はとても強いヴィジョンを持っていて、私たちレーベルは何も干渉したり手助けしたりする必要はない。彼女のビジョンは完全だ」


「私にとって、このアルバムはアウトサイダー・ダブルと呼ばれるもので、90年代初期の偉大なアウトサイダー・ダブル・アルバムと同じ感触とアプローチを持っている。Royal Truxの『Twin Infinitives』、Dead Cの『Harsh 70s Reality』、R!!!Sの『Lake』など。これらのアルバムは、70年代ロックの誇大妄想の古典的な2枚組アルバムに中指を立て、2枚組アルバムの奇妙なバージョン、新しい定義を作り上げる。公平を期すなら、ミニットメン、ヒュスカー・デュー、ソニック・ユースはすべて、70年代のビッグ/エピックな恐竜と90年代のアウトサイダー・ダブル・アルバムの間に橋を架けたと言わねばならない。とにかく、『Intrinsic Rhythm』も同じような感触を持っている。長さ64分、21曲が4面に渡って収録され、それぞれの面にタイトルとテーマがある」


「彼女のアート、ボディー・ムーヴメント、自然からの影響。このアルバムは、ペリラことアレクサンドラ・ザハレンコの人間としての姿を音で擬人化したもの。私にとって、この音楽こそペリラなのだ。タルコフスキーの『鏡』の想像上のサントラのように。深く、心に染みるほど美しい」

 


『Intrinsic Rhytmn』- Smalltown Supersound (92/100)


 

オーストラリアの実験音楽作家、ローレンス・イングリッシュ(Lawrence English)が最新アルバムの発表とともにコメントとして添えた「音楽構造を建築のように解釈する」という考えは、今日日の実験音楽、あるいはアンビエントのような抽象的な音楽を解釈する上で不可欠な要素となる。アルバム全体を堅牢なビザンチン建築、あるいはモザイク模様を施したイスラム建築のように解釈することが、「フルアルバム」という不可解な形式を解き明かすのに重要になってくる。そもそも、音楽なるリベラルアーツの一貫にある媒体は、哲学や数学よりも往古から存在し、「黄金比」のような原初的な学問の理想形態を表すものであった。それが宗教や民族の儀式や祭礼のための音楽という中世の通過儀礼の段階を経たのち、現代の趣味や趣向の多様化により、「娯楽の一貫」と見なされるようになったのは時代の流れと言えるだろうが、無数の学問の中で音楽が最初に存在し、その後、哲学や数学や建築が出てきたのを考えると、結局、音楽というのがすべての学問の先頭に位置し、最も先鋭的な分野であることは自明なのである。

 

最近、最もヒップなジャンルの一つであるヒップホップは、ようやくアンビエントの尻尾をつかまえて、その背中に追いついたわけだが、アンビエントも負けじと次の段階に進みつつある。これらのデッドヒートが終わることは考えづらい。今、最もトレンドな音楽は間違いなくアンビエントで、これらが当初はダンスミュージック界隈のアーティストやプロデューサーから少しダサいとみなされていた2000年以前の傾向を考えると、時代の変化が顕著であることが窺える。その理由を挙げるとするなら、一つはホーム・レコーディングで高品質の音楽を制作することが可能になったこと。加えて、Ableton、NI、各種のソフトウェアの進化、専門的なレベルで音楽制作が可能になったことだろう。無論、以前はラップトップやPC等でアナログの音響機器の配線やMIDIを介さずに打ち込みの音楽を制作することは困難を極めたが、今やスタジオ・レコーディングのレベルの録音システムを構築することは、より一般的になったと言える。

 

ジェンダー論を比較対象に出すまでもなく、エレクトロニックプロデューサーが90年代から00年代を通して、男性を中心に発展してきたことを考えると、 2010年代後半くらいから、Anna Roxanne、Malone、Haloを中心とする女性プロデューサーが活躍するようになったのは、これもまた時代の流れを象徴付けていると言える。そして、00年代以降には、いるにはいたが、少し影の薄かった黒人のエレクトロニックプロデューサーの活躍が最近になって目立ってきたのも、新しい兆候です。特に、女性的なエレクトロニックプロデューサー/DJは、すべてレフトフィールドに属するとは言えないのだが、一般的に柔軟な考えを持っているため、本来は音楽という形式からかけ離れたような媒体(映画、文学、詩)から、音楽のヒントや種をすんなり見つけてしまう。このあたりは、例えば、ダニエル・ロパティンのようなプロデューサーにも共通しているが、白人男性の音楽として発展してきたダンスミュージックは、おそらく2025年前後で一つの分岐点を迎えるような気がしている。


例えば、1990年代からテクノシーンを牽引してきた主要なプロデューサーの一部はおそらく、このことになんとなく気がついており、制作を続けたり、あるいは中断させたりしながら、新しいシーンの流れを読んでいる最中なのではないかと思われる。そして、2020年代始めには、ドローン(* 現代音楽発祥の形式で、元はスコットランドのパグパイプが発祥。ラモンテヤングなどが有名)という吹奏楽の形式を弦楽器のディケイとダイナミクス(減退と増幅)から音楽全体を再解釈しようという潮流が出てきたことは、すでにこのサイトの購読者であれば、ご承知のことと思われる。


そして、問題は「ドローンの次はなにが出てくるのか?」という点であるが、ロシア出身のプロデューサーの新作を聞けば分かる通り、すでに新しいものが出かかっている。少なくとも、アンビエントは次なるステップに進みつつあり、複数のグループに枝分かれし始めているようだ。殊、このアルバムに関して言うのであれば、ボーカルアート、ビートルズのようなアートポップ、クラシック・ミュージック、アヴァンギャルド・ジャズの融合を発見することが出来る。これは最早、70年代のブラック・ミュージックや、90年代のロックやメタルで盛んであった「クロスオーバーの概念」が極限に至った事実を示し、水が蒸発し揮発する瞬間にもよく似ていて、何らかの臨界点を迎えつつある兆候を、はっきりとした形で暗示しているのである。



例えば、Black Midiとしてお馴染みのジョーディー・グリープさんが新しい音楽を探しているようなのだが、新しい表現というのは、苦心して出てくるわけでもないし、頭を悩ませて出てくるものではないと思われる。新しいものが出てくる瞬間というのは、異質な文化で育った人、一般的な音楽の流れから見て、異端的な背景を持つ人、また、その生活環境にある人などが従来とは異なる概念を表沙汰にするということである。つまり、これは、奇を衒って音楽をやっているということではないのである。例えば、この事例は、第二次世界大戦後の70年代、80年代の東西分裂時代のドイツにあり、トルコからの移民が多い危険地帯の地下から登場した「インダストリアル・ノイズ」という形式が当てはまる。そして、何らかの表現を規制されたり、直接的な政治的迫害を受ける市民から発生した前衛音楽の形式なども、この事例に当てはまる。つまり、ファッション、スポーツ、ないしは一般的な情報誌やファッション誌、もしくは主要メディアで紹介されるような表面的なカルチャーとは異なる領域に属する「文化の裏側」から新しい表現や形式が台頭するのである。例えば、現在、ベルリンを拠点に活動するPerilaは、実際の音楽を聴くと分かるように、前衛音楽や実験音楽に憧れているわけでもなく、ましてや奇をてらっているわけでもなく、スノビズムにかぶれているわけでもない。チャット・ベイカー、坂本龍一、アルヴァ・ノトといった、アーティストがこよなく愛する音楽が、何らかの形でアンダーグラウンドミュージックとして乗り移り、異端的な音楽が生み出されたと見るべきなのだ。これは先にも言ったように、意識して作られたものではなく、「他の人のようにやろうとしたら、異端的な音楽が出来てしまった」という感じではないかと思う。一般的な人々とは異なる文化の背景や生活形態、そして考えが複雑に絡み合って出来たと見るべきだろう。

 

それでは、このアルバムのどこが新しいのだろうか。21曲という大容量なので、ダブルアルバム(実質的にはクアドラプル)として見た上で、主要なトラックを事例にあげて説明していきたい。

 

インドネシアのガムランの打楽器のような神秘的なパーカッションで始まり、70年代の埃を被ったアナログシンセサイザーで発生させたような古典的なアンビエントのテクスチャーがその後に続く。レーベルの説明では、「70年代のプログレッシヴロックのアルバムに中指を立てる」と説明されているが、表向きに聞こえるサウンドは、Anna Roxanneのようにハイファイであるが、実際的に音楽の奥行きとして感じられるのは、ブライアン・イーノの最初期(ロキシー・ミュージックの後)のシンセ音楽のようなローファイな手法である。これは、具体的にはアウトプットの手法が現代的なものであるだけで、実際に展開される音楽は古典的なのである。

 

実際的に、シュトックハウゼンの古典的なトーン・クラスターの手法を用いながら、丹念にサウンドスケープを描いていく。そして、現代的なプロデューサーと同じように、自らのボーカルを一つのシークエンスとして解釈し、それらをアンビエントとして解釈するという手法は続く「3-Sepula Purm」に示されている。ボーカルをLaulel Haloのようにカットアップで重ね、重層的なハーモニーとして組み上げていく。そして、それは新しいゴスペルやクワイアの形として表側に現れる。更にその根本となる音楽に演出的な効果を与えるのが、 オシレーターを使用した中音域の軋むようなノイズである。当初は、神秘的なアンビエントのような印象を持つ楽曲が漸次その印象を変化させていき、いわばアヴァンギャルドとしての要素を発揮するのである。

 

 その後、このアルバムはとらえどころのない抽象的な音楽が続いている。「4-Nia」、「5−Ways」の二曲に関しては、それほど現代のアンビエントと大きな違いはない。しかし、同時にアルヴァ・ノトの精妙なテクスチャーやノイズからの影響がうかがえ、アルバムの序盤とは対象的に、ハイファイなエレクトロニックとしての印象を強める。これらは、Abletonのように、電気信号の配線を図面的に解釈する電子音楽としてアウトプットされたものではないかと推測される。そして空間や建築内にこだまする空気感という概念は、リゲティ・ジョルジュが最初に確立したもので、アンビエントの副題のような意味を持つが、続く「6-Lish」ではこの概念が示されている。例えば、サグラダファミリアのような高い尖塔を頂く教会、ないしはエジプトの王家の谷のような場所で、観光客の会話の合間を通して、風が渡る音や建築の中にある内部構造から何らかの空気の流れのようなものを聞き取ったり、何らかの神秘的な息吹やエーテルのようなものを感じたりすることはないだろうか。この曲では、そういった普段の意識では聞き取りづらい神秘的な瞬間を、電子音楽という側面から表現しようとしている。これらは「体験としての音楽」という、近年稀に見るような新しい概念が付与されていることが分かる。


例えば、「トーンの変調」という概念を通じて、一つの実験音楽の変奏形式を組み上げるアーティストに、スウェーデンのEllen Arkbroがいる。Perilaの新作アルバムの中盤に収録曲には、例えば、ギターやベース、ドラム等の通常の演奏方法では実現しえないものが展開され、それは音の発生音の後に生ずるトーンという側面を抽出し、それらを減退させることなく、持続音として継続させる。これは、音の発生学の異質な側面を捉えている。普通であれば、音は発生した後、ピークを迎え、徐々に減退の瞬間を迎えるが、減退する直前の音を抽出し、それらを持続音として継続させる手法が取り入れられている。一般的にはドローン音楽の手法の一貫に属し、機械的な音楽に聴こえるかもしれないが、反面、これが自然の音響学から乖離しているとも考えづらい。例えば、建築内にこだまする空気の音の流れ等は、大気や空気、素粒子、原子という元素がこの世に偏在するかぎり、あるいは建築物が物理的に取り壊されないかぎり、それらの音響を永久に持続させるからである。 例えば、「8-Nim Aliev」ではトーン・クラスターにより、この手法が確立され、続く「9-Mola」は、ラスコーの洞窟を描写音楽として刻印したような不可思議なアンビエント/ドローンの手法を確立させている。そして、これらのアルバムの第一部は、実験音楽として秀逸であるにとどまらず、音楽の永遠の瞬間を捉えたかのようでもある。さらに、後者の楽曲では、ピアノのスニペットが登場し、音楽の神秘的な雰囲気を引き立てる。第一部は「Lym Riel」、「Air Two Air」にて、ひとまず終了する。前者は、ヒス・ノイズを用いた古典的なアンビエントで、Loscil、Chihei Hatakeyamaの系譜に属する作風でもある。後者は、エレクトロニック寄りの楽曲で、中音域のグリッチノイズを強調させ、それらのノイズの位相(PAN)を転移させながら、ビート、リズムを組み上げ、緻密なグルーヴを作り上げていく。

 

アルバムの一枚目では、アンビエントを中心としたエレクトロニックが展開される。続く二枚目では、ボーカルアートを中心としたエレクトロニックが繰り広げられる。 そして、第二部の方はボーカルアートを駆使したストリーテリングの音楽としての意義を持つ。クワイアやメディエーションの領域に属するものから、ビートルズがアートポップ時代に遊びの一貫として試したもの、メレディス・モンクの系譜にある現代音楽の領域に属するものまで幅広い。例えば、「Angli」では、メレディス・モンクの『Atlas』の手法を用い、洞窟のような音響効果を用い、奥行きのあるアンビエントを形作り、その中でペリラ自身がオペラ風のボーカルを披露する。しかし、明確なボーカルというわけでなく、ペリラのボーカルはモンクと同じように、器楽的なテクスチャーの一貫として解釈され、フルートや笛のようにその空間内に響き渡るのである。さらに、続く「Supa Mi」を聴くと分かる通り、ペリラの声は明確な言語の意味を持つことはきわめて少ない。 それはジャズのスキャットと同じく、言葉以上の伝達手段として確立され、例えば、ウィストリング(口笛)に近いような意味を持つ。それはオーストラリアのモリー・ルイスの口笛と同じように、スキャットやハミングそのものが言葉や会話の代わりを果たすのである。

 

果たして、言語学の範疇には属さない、これらの歌から何らかの言語性を読み取ることが出来るのだろうか。私自身はそこまでは全然出来なかったが、少なくとも、音楽の構造としては、続けて聴いていると、物語性を持ち始めて、また、その物語の端緒が音楽に合わせて広がっていったり縮んだり、物語が一人でに歩き始めるような印象を持つに違いない。この後のいくつかの収録曲「Sneando」、「Fey」、「Lip」では、メレディス・モンクのようなパフォーミング・アーツの領域に属する「演劇としてのボーカル」、そして、アンビエント・プロデューサー、Grouper(リズ・ハリス)、Ekin Fillのようなアンビエント・フォークとドリーム・ポップを結びつけた次世代のアヴァンギャルド・ミュージックという形を以って展開されていくことになる。尚且つ、それらの抽象音楽としての形式は、おとぎ話や童謡的な意味合いを帯び、もしくは古典的なギリシャ神話の音楽による復刻といった、アーティスティックな印象を携えながら繰り広げられていく。これらは、ペリラの類稀なる美的センスと、ゴシック的な概念の融合の瞬間を見出せる。無論、そういったアンダーグランドミュージックの複数の形式が組み込まれた後、野心的な試みが行われることもある。ペリラは、イタコや霊媒者のようになり、「Message」なるものを地上に降ろそうとする。これは非常に斬新で奇妙な試みである。

 

 

アルバムの全般では、洞窟や教会のような広い奥行きのあるアンビエンスを想定した録音が際立つ。一方、本作の最終盤はデモトラックのようなクローズの指向マイクを用い、近い空間の録音の音響が強調されている。

 

この後の「Darbounouse Song」、「Note On You」、「She Wonder」、終曲となる「Ol Sun」 は、基本的にはアカペラのボーカルトラックで構成される。「Darbounouse Song」は唯一、足音などのサンプリングを用いたボーカルトラックで、物語的な前衛音楽の意義を保持しているが、以降の三曲は、かなり異端的である。とりとめのない思いを日記のような形で録音したボイスメモのようでもあり、ヒップホップのミックステープのようでもある。

 

これらは、パティ・スミスやブリジット・フォンテーヌのような、ポピュラーの前衛音楽の側面を改めて見つめ直すかのようでもある。少しだけ散漫になりかけた作風だが、円環構造を用いて、全体的な構成を上手くまとめあげている。一曲目と呼応するクローズ「Ol Sun」では、鐘とパーカッションを用いた前衛音楽に再び回帰している。しかし、始まりと終わりでは、音楽そのものの印象がまったく異なることに気がつく。ガムランのように始まったこのアルバムは、クローズでは、チベットのマントラのような民族音楽に縁取られている。それらの雑多な音楽性、あるいは文化性は、このアルバムの最後になって花開き、ロシア正教のミサ等で聴くことが出来る鐘の音のサンプリングで終了する。音楽に明確な意味を求めても仕方がないかもしれない。しかし、このアルバムを聴くかぎり、新しい何かが台頭したことをひしひしと感じる。

 

 


サウスカロライナ州チャールストンのアーティスト、 Contour (Khari Lucas)は、ラジオ、映画、ジャーナリズムなど、様々な分野で活躍するソングライター/コンポーザー/プロデューサー。


彼の現在の音楽活動は、ジャズ、ソウル、サイケ・ロックの中間に位置するが、彼は自分自身をあらゆる音楽分野の学生だと考えており、芸術家人生の中で可能な限り多くの音とテーマの領域をカバーする。彼の作品は、「自己探求、自己決定、愛とその反復、孤独、ブラック・カルチャー」といったテーマを探求している。


コンツアー(カリ・ルーカス)の画期的な新譜『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、過去と現在、夜と昼、否定と穏やかな受容の旅の記録であり、落ち着きのない作品である。


カリ・ルーカスと共同エグゼクティブ・プロデューサーのオマリ・ジャズは、チャールストン、ポートランド、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ジョージア、ロサンゼルス、ヒューストンの様々なスタジオで、Mndsgnやサラミ・ローズ・ジョー・ルイスら才能ある楽器奏者やプロデューサーたちとセッションを重ねながら、アルバムを制作した。


ジャンル的には、『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、ギター・ドリブン・ミュージック、トロピカリア、ブルース、そしてヒップホップのありのままの正直さを融合させ、夜への長い一日の旅を鮮やかに描き出すことで、すでにコンターの唯一無二の声に層と複雑さを加えている。


メキシカン・サマーでのデビュー作となる本作では、2022年にリリースされた『オンワーズ!』のノワール的なサンプルやリリカルな歴史性を踏襲し、より歌謡曲的で斜に構えたパーソナルな作品に仕上げている。ルーカスにとって、これはギターを手に取ることを意味し、この動きはすぐに彼を南部のソングライターの長い系譜と形而上学的な会話に置くことになる。カリ・ルーカスは言う。「それはすぐに、旅する南部のブルースマンについて考えるきっかけになった」 彼にとってギターは旅の唯一の友であり、楽器は自分の物語を記録し、世代を超えた物語と伝統を継承する道具なのだ。このアルバムの語り手は放蕩息子であり、悪党の奸計の中をさまようことになる。



『Take Off From Mercy』/ Mexican  Summer   (94/100) 

 

  Yasmin Williams(ヤスミン・ウィリアムズ)をはじめ、最近、秀逸な黒人ギタリストが台頭していることは感の鋭いリスナーであればご承知だろう。Khari Lucas(カリ・ルーカス)もまたジャズのスケールを用い、ソウル、ヒップホップ、サイケロック、そして、エレクトロニックといった複数のフィールドをくまなく跋渉する。どこまで行ったのだろうか、それは実際のアルバムを聞いてみて確かめていただきたい。

 

シンガーソングライター、ルーカスにとっては、ラップもフォークもブルースも自分の好きな音楽でしかなく、ラベリングや限定性、一つのジャンルという括りにはおさまりきることはない。おそらく、彼にとっては、ブルース、R&B、エレクトロニック、テクノ、アンビエント、スポークンワード、サイケロック、それらがすべて「音楽表現の一貫」なのだろう。そして、カーリ・ルーカスは、彼自身の声という表現ーーボーカルからニュアンス、ラップーー様々な形式を通して、時には、フランク・オーシャンのような次世代のR&Bのスタイルから、ボン・アイヴァー、そしてジム・オルークのガスター・デル・ソルのようなアヴァン・フォーク、ケンドリック・ラマーのブラックミュージックの新しいスタイルに至るまで、漏れなく音楽的な表現の中に組みこもうと試みる。まだ、コンツアーにとって、音楽とはきわめて不明瞭な形態であることが、このアルバムを聴くと、よく分かるのではないだろうか。彼は少なくとも、「慈悲からの離陸」を通して、不確かな抽象表現の領域に踏み入れている。それはまるでルーカスの周囲を取り巻く、「不明瞭な世界に対する疑問を静かに投げかける」かのようである。


「静か」というのは、ボーカルに柔らかい印象があり、ルタロ・ジョーンズのようにささやきに近いものだからである。このアルバムの音楽は、新しいR&Bであり、また、未知の領域のフォークミュージックである。部分的にはブレイクビーツを散りばめたり、Yves Tumorの初期のような前衛的な形式が取り入れられることもあるが、基本的に彼の音楽性はもちろん、ラップやボーカル自体はほとんど昂じることはない。そして彼の音楽は派手さや脚色はなく、演出的な表現とは程遠く、質実剛健なのである。アコースティックギターを片手にし、吟遊詩人やジプシーのように歌をうたい、誰に投げかけるともしれない言葉を放つ。しかし、彼の音楽の歌詞は、世の一般的なアーティストのように具象的になることはほとんどない。それはおそらく、ルーカスさんが、言葉というのに、始めから「限界」を感じているからなのかもしれない。

 

言語はすべてを表しているように思えるが、その実、すべてを表したことはこれまでに一度もない。部分的な氷山の上に突き出た一角を見、多くの人は「言葉」というが、それは言葉の表層の部分を見ているに過ぎない。言葉の背後には発せられなかった言葉があり、行間やサブテクスト、意図的に省略された言葉も存在する。文章を読むときや会話を聞く時、書かれている言葉、喋られた言葉が全てと考えるのは愚の骨頂だろう。また、話される言葉がその人の言いたいことをすべて表していると考えるのも横暴だ。だから、はっきりとした脚色的な言葉には注意を払わないといけないし、だからこそ抽象領域のための音楽や絵という形式が存在するわけなのだ。

 

カリ・ルーカスの音楽は、上記のことをかなり分かりやすい形で体現している。コンツアーは、他のブラック・ミュージックのアーティストのように、音楽自体をアイデンティティの探求と看過しているのは事実かもしれないが、少なくとも、それにベッタリと寄りかかったりしない。彼自身の人生の泉から汲み出された複数の感情の層を取り巻くように、愛、孤独、寂しさ、悲しみといった感覚の出発から、遠心力をつけ、次の表現にたどり着き、最終的に誰もいない領域へ向かう。ジム・オルークのようにアヴァンな領域にあるジャズのスケールを吸収したギターの演奏は、空間に放たれて、言葉という魔法に触れるや否や、別の物質へと変化する。UKのスラウソン・マローンのように、ヒップホップを経過したエレクトロニックの急峰となる場合もある。


コンツアーの音楽は、「限定性の中で展開される非限定的な抽象音楽」を意味する。これは、「音楽が一つの枠組みの中にしか存在しえない」と思う人にとっては見当もつかないかもしれない。ヒップホップはヒップホップ、フォークはフォーク、ジャズはジャズ、音楽はそんな単純なものではないことは常識的である。


そして、音楽表現が本当の輝きを放つのは、「限定的な領域に収まりきらない箇所がある時」であり、最初の起点となるジャンルや表現から最も遠ざかった瞬間である。ところが、反面、全てが単一の領域から離れた場所に存在する時、全般的に鮮烈な印象は薄れる。いわば押さえつけられた表現が一挙に吹き出るように沸点を迎えたとき、音楽はその真価を発揮する。言い換えれば、一般的な表現の中に、ひとつか、ふたつ、異質な特異点が用意されているときである。

 

アルバムは15曲と相当な分量があるものの、他方、それほど時間の長さを感じさせることがない。トラック自体が端的であり、さっぱりしているのもあるが、音楽的な流れの緩やかさが切迫したものにならない。それは、フォーク、ブルースというコンツアーの音楽的な核心があるのに加え、ボサノヴァのサブジャンルであるトロピカリアというブラック・ミュージックのカルチャーを基にした音楽的な気風が、束の間の安らぎ、癒やしを作品全体に添えるからである。


アルバムの冒頭を飾る「If He Changed My Name」は、ジム・オルークが最初期に確立したアヴァンフォークを中心に展開され、不安定なスケール進行の曲線が描かれている。しかし、それ対するコンツアーのボーカルは、ボサノヴァの範疇にあり、ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンのように、粋なニュアンスで縁取られている。「粋」というのは、息があるから粋というのであり、生命体としての息吹が存在しえないものを粋ということは難しい。その点では、人生の息吹を吸収した音楽を、ルーカスはかなりソフトにアウトプットする。アコースティックギターの演奏はヤスミン・ウィリアムズのように巧みで、アルペジオを中心に組み立てられ、ジャズのスケールを基底にし、対旋律となる高音部は無調が組み込まれている。協和音と不協和音を複合させた多角的な旋法の使用が色彩的な音楽の印象をもたらす。 そしてコンツアーのボーカルは、ラテンの雰囲気に縁取られ、どことなく粋に歌をうたいこなすのである。

 

 一曲目はラテンの古典的な音楽で始まり、二曲目「Now We're Friends」はカリブの古典的なダブのベースラインをモチーフにして、同じようにトロビカリアの領域にある寛いだ歌が載せられる。これはブラックミュージックの硬化したイメージに柔らかい音楽のイメージを付与している。しかし、彼は概して懐古主義に陥ることなく、モダンなシカゴドリルやグリッチの要素をまぶし、現代的なグルーヴを作り出す。そしてボーカルは、ニュアンスとラップの間を揺れ動く。ラップをするというだけではなく、こまかなニュアンスで音程の変化や音程のうねりを作る。その後、サンプリングが導入され、女性ボーカル、アヴァンギャルドなノイズ、多角的なドラムビートというように、無尽蔵の音楽が堰を切ったかのように一挙に吹き出る。これらは単なる引用的なサンプリングにとどまらず、実際的な演奏を基に構成される「リサンプリング」も含まれている。これらのハチャメチャなサウンドは、音楽の未知の可能性を感じさせる。



さて、Lutalo(ルタロ・ジョーンズ)のように、フォークミュージックとヒップホップの融合によって始まるこのアルバムであるが、以降は、エレクトロニックやダンスミュージックの色合いが強まる。続く「Entry 10-4」は、イギリスのカリビアンのコミュニティから発生したラバーズロック、そして、アメリカでも2010年代に人気を博したダブステップ等を吸収し、それらをボサノヴァの範疇にある南米音楽のボーカルで包み込む。スネア、バスを中心とするディストーションを掛けたファジーなドラムテイクの作り込みも完璧であるが、何よりこの曲の気風を象徴付けているのは、トロピカリアの範疇にあるメロディアスなルーカスのボーカルと、そして全体的にユニゾンとしての旋律の補強の役割を担うシンセサイザーの演奏である。そして話が少しややこしくなるが、ギターはアンビエントのような抽象的な層を背景に形作り、この曲の全体的なイメージを決定付ける。さらに、音楽的な表現は曲の中で、さらに広がりを増していき、コーラスが入ると、Sampha(サンファ)のような英国のネオソウルに近づく場合もある。

 

その後、音楽性はラテンからジャズに接近する。「Waterword」、「re(turn)」はジャズとソウル、ボサノヴァとの融合を図る。特に、前者にはベースラインに聴きどころが用意されており、ボーカルとの見事なカウンターポイントを形成している。そしてトラック全体、ドラムのハイハットに非常に細かなディレイ処理を掛けながら、ビートを散らし、分散させながら、絶妙なトリップ的な感覚を生み出し、サイケデリックなテイストを添える。しかし、音楽全体は気品に満ちあふれている。ボーカルはニュアンスに近く、音程をあえてぼかしながら、ビンテージソウルのような温かな感覚を生み出す。トラックの制作についても細部まで配慮されている。後者の曲では、ドラムテイク(スネア)にフィルターを掛けたり、タムにダビングのディレイを掛けたりしながら、全体的なリズムを抽象化している。また、ドラムの演奏にシャッフルの要素を取り入れたり、エレクトリックピアノの演奏を折りまぜ、音楽の流れのようなものを巧みに表現している。その上で、ボーカルは悠々自適に広やかな感覚をもって歌われる。これらの二曲は、本作の音楽が全般的には感情の流れの延長線上にあることを伺わせる。

 

アルバムの中盤に収録されている「Mercy」は本当に素晴らしく、白眉の出来と言えるだろう。ヒップホップに依拠した曲であるが、エレクトロニックとして聴いてもきわめて刺激的である。この曲は例えばシカゴドリルのような2010年代のヒップホップを吸い込んでいるような印象が覚えたが、コンツアーの手にかかると、サイケ・ヒップホップの範疇にある素晴らしいトラックに昇華される。ここでは、南部のトラップの要素に中西部のラップのスタイルを添えて、独特な雰囲気を作り出す。これは「都会的な雰囲気を持つ南部」とも言うべき意外な側面である。そして複数のテイクを交え、ソウルやブルースに近いボーカルを披露している。この曲は、キラー・マイクが最新アルバムで表現したゴスペルの系譜とは異なる「ポスト・ゴスペル」、「ポスト・ブルース」とも称するべき南部的な表現性を体験出来る。つまり、本作がきわめて奥深いブラック・ミュージックの流れに与することを暗示するのである。

 

意外なスポークンワードで始まる「Ark of Bones」は、アルバムの冒頭部のように緩やかなトロピカリアとして流れていく。しかし、ピアノの演奏がこの曲に部分的にスタイリッシュな印象を及ぼしている。これは、フォーク、ジャズ、ネオソウルという領域で展開される新しい音楽の一つなのかもしれない。少なくとも、オルークのように巧みなギタープレイと霊妙なボーカル、コーラス、これらが渾然一体となり、得難いような音楽体験をリスナーに授けてくれるのは事実だろう。続いて、「Guitar Bains」も見事な一曲である。同じくボサやジャズのスケールと無調の要素を用いながら新しいフォークミュージックの形を確立している。しかし、聴いて美しい民謡の形式にとどまることなく、ダンス・ミュージックやEDMをセンスよく吸収し、フィルターを掛けたドラムが、独特なグルーヴをもたらす。ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーステップを経た現代的なリズムの新鮮な息吹を、この曲に捉えることが出来るはずだ。


一般的なアーティストは、この後、二曲か三曲のメインディッシュの付け合せを用意し、終えるところ。そして、さも上客をもてなしたような、満足げな表情を浮かべるものである(実際そうなるだろうとばかり思っていた)しかし、驚くべきことに、コンツアーの音楽の本当の迫力が現れるのは、アルバムの終盤部である。実際に10曲目以降の音楽は、神がかりの領域に属するものもある。それは、JPEGMAFIA、ELUCIDのような前衛性とは対極にある静謐な音楽性によって繰り広げられる。コンツアーは、アルバムの前半部を通じて、独自の音楽形態を確立した上で、その後、より奥深い領域へと踏み込み、鮮烈な芸術性を発揮する。


 「The Earth Spins」、「Thersa」は、ラップそのもののクロスオーバー化を徹底的に洗練させ、ブラックミュージックの次世代への橋渡しとなるような楽曲である。ヒップホップがソウル、ファンク、エレクトロニックとの融合化を通過し、ワールドミュージックやジャズに近づき、そして、ヒーリングミュージックやアンビエント、メディエーションを通過し、いよいよまた次のステップに突入しつつあることを伺わせる。フランク・オーシャンの「Be Yourself」の系譜にある新しいR&B、ヒップホップは再び次のステップに入ったのだ。少なくとも、前者の曲では、センチメンタルで青春の雰囲気を込めた切ない次世代のヒップホップ、そして、後者の曲では、ローファイホップを吸収し、それらをジャズのメチエで表現するという従来にはなかった手法を確立している。特に、ジャズピアノの断片的なカットアップは、ケンドリック・ラマーのポスト的な音楽でもある。カーリ・ルーカスの場合は、それらの失われたコーラスグループのドゥワップの要素を、Warp Recordsの系譜にあるテクノやハウスと結びつけるのである。


特に、最近のヒップホップは、90、00年代のロンドン、マンチェスターのダンスミュージックを聴かないことには成立しえない。詳しくは、Warp、Ninja Tune,、XLといった同地のレーベル・カタログを参照していただきたい。そして、実際的に、現在のヒップホップは、イギリスのアーティストがアメリカの音楽を聴き、それとは対象的に、アメリカのアーティストがイギリスの音楽を聴くというグルーバル化により、洗練されていく時期に差し掛かったことは明らかで、地域性を越え、ブラックミュージックの一つの系譜として繋がっている部分がある。

 

もはや、ひとつの地域にいることは、必ずしもその土地の風土に縛り付けられることを意味しない。コンツアーの音楽は、何よりも、地域性を越えた国際性を表し、言ってみれば、ラップがバックストリートの表現形態を越え、概念的な音楽に変化しつつあることを証立てる。このことを象徴するかのように、彼の音楽は、物質的な表現性を離れ、単一の考えを乗り越え、離れた人やモノをネットワークで結びつける「偉大な力」を持ち始めるのである。そしてアルバムの最初では、一つの物質であったものが分離し、離れていたものが再び一つに還っていくような不思議なプロセスが示される。それは生命の根源のように神秘的であり、アートの本義を象徴付けるものである。

 

アルバムの終盤は、カニエ・ウェストの最初期のようなラフなヒップホップへと接近し、サイケソウルとエレクトロニック、そして部分的にオーケストラの要素を追加した「Gin Rummy」、ローファイからドリルへと移行する「Reflexion」、アヴァンフォークへと回帰する「Seasonal」というように、天才的な音楽の手法が披露され、90年代のNinja Tuneの録音作品のように、荒削りな質感が強調される。これらは、ヒップホップがカセットテープのリリースによって支えられてきたことへの敬意代わりでもある。きわめつけは、クローズ「For Ocean」において、ジャズ、ローファイ、ボサノヴァのクロスオーバーを図っている。メロウで甘美的なこの曲は、今作の最後を飾るのに相応しい。例えば、このレコードを聴いたブロンクスで活動していたオランダ系移民のDJの人々は、どのような感慨を覚えるのだろうか。たぶん、「ヒップホップはずいぶん遠い所まで来てしまったものだ」と、そんなふうに感じるに違いない。