元々、グーンは2015年にケニー・ベッカーのソロ・プロジェクトとして始まった。 友人の勧めもあって、ベッカーは自身の楽曲のベストをまとめ、2016年のEP『Dusk of Punk』としてリリースした。 彼は大学時代の仲間からバンドメンバーを募り、2枚目のEPをリリースし、同時にバンド初のフルレングスである2019年の『Heaven is Humming』(Partisan Records)に取り組み、その後、パンデミック中期の自宅録音を集めた自主制作盤『Paint By Numbers 1』をリリースした。
「2-Closer to」では、これらの音響的なサウンドを踏まえ、Yo La Tengoが最初期にやっていたローファイのロックの手法を用い、サイケデリックの混沌の渦を作り出す。ボーカルは背景のギターサウンドとユニゾンを描き、人力によってフェイザーの効果を得ている。こういったサウンドを聞くかぎり、何でも工夫次第なのだなあ、と実感する。そして、Hotline TNTのようなグランジ風のディストーション/ファズが背景で暴れまわり、巨人的な音像を構築していくのである。
この時点で『Dream 3』が一般的なアルトポップアルバムではないということは勘の鋭い方であればお気づきになられるだろう。前の曲で仄めかされたAlice In Chainsのようなグランジに含まれるポップネスの要素が暗鬱的なゴシックの感性と組み合わされ、独特なセンスを作り出す。それらが旧来のGoonのサイケデリアと結びついて、新しい摩訶不思議な音楽が生み出されている。
Stereogumが指摘している通り、ペタルスティールが取り入れられ、アメリカーナのようなインディーフォークの要素が幻想的なアートポップと組み合わされることもある。続く、「For Cutting The Grass」は、ドリームポップがアメリカーナの一環のフォークミュージックと合体し、民族音楽的な効果を生み出す。そして、幻想的な雰囲気を持つ魅惑的な音楽が目眩く様に繰り広げられる。これらは、どちらかと言えば、アステカ文化に近い太陽神への礼賛を意味し、それにまつわる幻想詩であるように思える。つまり、原初的なネイティヴ・アメリカンの神秘主義の源泉を思わせるところがある。近代以降のアメリカではなく、原初的なアメリカの民族音楽の源に近づいていく。だから、どことなく瞑想的であり、現代的ではなく、中世的に聞こえる。この曲はおのずとNIRVANAに強い影響を及ぼしたMeat Puppetsの幻想性に傾倒していく。
同じように、「In The Early Autumn」はアメリカのフォーク・ミュージックの源泉を捉え、それらをビートルズやギルバート・オサリバンのような北欧に近い民族音楽と結びつける。この曲でも、神話的な文学性が季節感と掛け合わさり、独特な黄昏のポップサウンドを作り出す。それらに強い個性をもたらしているのが、ローファイに属する荒削りなガレージサウンドである。
アルバムの後半では、Widowspeak、Tigersjawのような息の取れたアルトロックサウンドを聞くことができる。同時に、融和的なハーモニーが際立つ。そして「This Morning Six Rabbits Were Born」では、童話的な趣向を持つアルトロックを作り出す。曲数が多いので、アルバムの後半部でトーンダウンするかといえばそうではない。この曲は、同じようなアートポップやドリームポップ志向のニッチなサウンドに縁取られているが、その中には奇妙な格式高い旋律線が美麗な印象を作り出す。そして、楽曲全般としても弱々しくならず、力強い印象を持つ。それは、Dinasour Jr.の系譜にある重厚なギターロックの演奏が持ち前の美しい旋律と結び付けられているからである。また、それらのロックソングは、即効性に重点が置かれているわけではない。スタジオセッションから偶発的に作り出される瞑想的な音楽性が最大の聞かせどころとなっている。これらのサウンドは、The Doorsのような''LAロック''の象徴的なサウンドを、何らかの形で受け継いでいる証拠だろう。ただ、このバンドの場合は危うい領域には至らず、メロディアスな側面を保持しつつ、より優しげな響きを持つフォーク・ミュージックへと行き着く。この側面では、ニール・ヤングの『Harvest Moon』のような名作からの影響もさりげなく示唆されている。
前半から中盤にかけて良曲という面では事欠かないが、このアルバムの音楽性が本当に面白くなるのが終盤部分、とりわけ10曲目以降だろう。その中には、先にも述べたように、グランジからの影響が顕著になる。Alice In Chains、Pearl Jam、Soundgardenのような90年代の偉大なバンドは画一性ではなく、文化的な雑多性を武器にし、オリジナルの音楽を構築していった。その点を考えると、Goonは音楽性こそ違えど、それらのUSオルタナティヴの巨人たちの列に居並ぶ。
グレグソン=マクラウドが弱冠18歳でリリースした最初のシングル「Still a Sad Song」は完全なセルフ・プロデュースで、後に全米ラジオで取り上げられた。 その後、彼女は2021年半ばにインディーポップソングを集めた『Games I Play』EPで初の作品群を発表した。 この最初のEPは、グレグソン=マクラウドの最新作とはサウンド面で違いがあるが、偉大な作家、ミュージシャンの始まりは、この初期の作品でも明らかだった。
本日発売された5曲入りのラブソング・コレクション『Love Me Too Well, I'll Retire Early』は、ソニー・ミュージックエンタテインメントUKを離れ、ラスト・レコーディングス・オン・アースを通じての初リリースとなる。ケイティが2019年以降の個人的な混乱と激動の時期に恋に落ち、満たされた静かなモーメントを描写している。 メジャー・レーベルと契約し、学業とバリスタの仕事を捨て、ロンドンに引っ越すという、彼女の人生のめまぐるしい時期の中で、すべてをスローダウンさせ、混乱の中で彼女を地に足をつけさせたのはこの恋愛だった。
さて、スコットランドのシンガー、ケイティ・グレッグソン・マクラウドは、DIY、Line Of Best Fit、Dorkを始めとする各誌をご覧の読者にはおなじみのソングライターである。シンプルに言えば、このEPは恋愛をもとにしたフォークポップの組曲、一つの主題を基にした変奏曲。そして、TikTokから人気を獲得したシンガーであるものの、この作品を通じて、独立ミュージシャンの道を切り拓く。引退とはメインストリームのミュージシャンからの撤退の表明だろう。
フォークミュージックは、基本的には、三つか四つのコード進行やスケールしか登場せず、ベース音に対して、どのような主旋律を歌うのかに主眼がある。近年では、''フォークトロニカ''という電子音楽との融合を目指したジャンルも登場したが、このアルバムでは薄められたポストフォークではなく、この音楽の本質をしっかりと捉えている。「Love Me Too Well, I'll Retire Early」は、まるで草原に座り、ギターを奏でるような詩人らしい性質に加え、望郷の念を紡ぎ出すようなソフトな歌声が、滑らかなアコースティックギターのアルペジオと共鳴している。
「I Just Think of It All Time」は、恋愛のモチーフにふさわしく、軽快さと切なさを併せ持つ秀逸なフォークポップソングだ。ここではよりボーカルは直情的になり、そして琴線に響くような涙っぽい歌声を駆使する。 アコースティックギターのサウンドホールの芳醇な音の響きを弦のオープンなストロークにより導き出し、ドライブ感のある音のうねりを作り出す。それらの導入部のイントロの後、8ビートのドラムが入り、この曲の軽快なドライブ感とリズミカルな音響効果を決定付ける。そうすると、マクラウドの歌声も連動して軽やかに聞こえる。これらは、楽器の音響の特性を上手く活かし、人生の主題と連動する詩を歌いながら、歌と曲を上手くリンクさせているからだろう。音域の使い分けも見事であり、中音域と低音域を中心とするドラム/ギター、高音域で一定して精妙な音の印象を保持するボーカルがバランス良く配置されている。
ジョニ・ミッチェル、レナード・コーエン、エリオット・スミスといった古典的なシンガー・ソングライターに触発されたケイティの旅は、インヴァネスでのバスキングから始まり、地元のパブでギグを行い、18歳でローファイEP「Games I Play」を自主リリースした。 そして2022年、シングル「complex」でTikTokのバイラル・ブレイクを果たし、世界的な知名度、メジャー・レーベルとの契約、Ivor Novelloへのノミネート、フェスティバルでのパフォーマンスやヘッドライン・ツアーの旋風を巻き起こした。
2024年初頭にメジャー・レーベルの本拠地と決別したケイティは、クリエイティブな独立という新たな章を迎え、ロンドンのシンガーソングライター、マット・マルテーゼの主宰するインディペンデント・レーベル”Last Recordings on Earth”と契約し、愛と芸術的不確実性のバランスを反映した生々しく親密なEPを制作した。 物語を語ることへの生涯の情熱にしっかりと根ざしたケイティの作品は、ノスタルジア、パワー・ダイナミクス、自己反省といったテーマを探求し続けており、そのすべてが彼女の特徴である詩的な表現と傷つきやすさによって強調されている。
この曲では、シンセ/ギターの演奏がリズミカルな効果を与え、曲のムードを上手く引き立てている。フランキー・コスモスのバロック主義は「3-Against The Gain」において現代主義へと足取りを進め、同レーベルに所属するニューヨークのインディーポップバンド、Nation of Languageのような懐かしさと新しさを兼ね備えた魅惑的なシンセポップに変容する。
「4-What We Are And What We Are Mean To Be」は、ディープ・ハウスの打ち込みの重厚感のあるキック音で始まり、ジャズトリオの伝統を活かし、多彩な音楽的な変遷を描く。ウッドベースがソロの立場を担い、次にピアノ、さらにドラムへと、ソロの受け渡しが行われる。ニックのベースの演奏は背景となるアンビエントのシークエンスと重なり、エレクトロジャズの先鋒とも言える曲が作り上げられる。Kiasmos、Jaga Jazzist、Tychoを彷彿とさせる、見事な音の運びにより、圧巻の演奏が繰り広げられる。 曲の中盤以降は、オランダのKettelの系統にあるプリズムのように澄んだシンセピアノの音色を中心に、プログレッシヴ・ジャズのアンサンブルが綿密に構築される。物語の基本である起承転結のように、音楽そのものが次のシークエンスへとスムーズに転回していく効果については、このジャズトリオの演奏力の賜物と言えるかもしれない。
「5- Background Hiss Reminds Me of Rain」は短いムーブメントで、電子音楽に拠る間奏曲である。エイフェックス・ツインの『Ambient Works』の系譜にあるトラックである。この曲では、改めてモジュラーシンセの流動的な音のうねりを活かし、それらを雨音を模したサンプリングーーホワイトノイズーーとリンクさせている。クールダウンのための休止を挟んだ後、滑らかなシンセピアノのパッセージが華麗に始まる。「6-The Turn With」は前曲のオマージュを受け継ぎ、エイフェックス・ツインの電子音楽をモダンジャズの側面から再構築しようという意図である。
例えば、「7-Living Bricks In Dead Morter」は、スネア/タムのディレイ等のダブ的な効果をドラムの生演奏で再現し、ダイナミズムを作り出す。この曲のドラムは、チューニングや叩き方の細かなニュアンスにより、音の印象が著しく変化することを改めて意識付ける。また、アンビエントや実験音楽の祖であるエリック・サティの『ジムノペティ』のような近代のフランス楽派のセンス溢れる和声法(主音【トニック】に対する11、13、15度以降の音階を重ねる和声法、ジャズ和声の基礎となった)を用い、クラシックとジャズ、ミニマル・テクノの中間点を作り、同心円を描くような多彩なニュアンスを持つ音楽が繰り広げられる。この曲は、次の曲「Naga Ghost」と並んで、エレクトロニックの歴代の名曲と見ても、それほど違和感がないかもしれない。
「11-State Of Fruit」では、ジャズ・アンサンブルとしての真骨頂を、音源という形で収めている。この曲では、Killing Jokeの時代から受け継がれる、英国の音楽の重要な主題である"リズムの革新性"をアンサンブルの観点から探求していく。シンセピアノの色彩的なアルペジオ、対旋律としての役割を持つウッドベース、それらに力学的な効果を与えるドラム。全てが完璧な構成である。
2020年、グラスハウスのアーティスト・イン・レジデンスに招かれ、ソロ活動を開始。その後すぐにロックダウンが訪れ、彼女は遮蔽物に囲まれながら、ベッドルームでゆっくりと新しい音楽的アイデンティティを築いていった。前作『Direct Debit To Vogue』(2022年)では、PJハーヴェイ、オルダス・ハーディング、ディス・イズ・ザ・キットを手掛けたブリストルのプロデューサー、ジョン・パリッシュとコラボレートした。
帰国後、彼女はこのことを一気に書き上げ、自分の本物の声への新たなコミットメントとともに『Direct Debit To Vogue』を完成させた。彼女は言う。「腹にパンチを入れるような音楽の感覚を呼び起こしたかった」
リリース以来、リヨンはPRS Women Make Musicなどから賞賛を受け、BBC Radio 1と6 Musicからオンエアされ、グレート・エスケープ、ラティテュード・フェスティバル、シークレット・ガーデン・パーティー、グリーンベルト、グラストンベリーにも招待されている。2025年リリースのデビュー・アルバムを再びジョン・パリッシュとレコーディングし、アビー・ロードでBBCの独占ライブ・セッションを収録した。
ルース・リヨンによる記念すべきデビュー・アルバム『Poem & Non Fiction』は、大人のためのポップスといえる。このアルバムで、ニューキャッスルのSSWは、表側には出せないため息のような感覚を、アンニュイなポピュラーソングにより発露している。BBC Radioからプッシュを受けるルース・リヨン。世界的にはシンガーソングライターとしての全容は明らかになっていない。しかし、幸運にもグラストンベリーフェスティバルで彼女の姿を目撃した方もいるはずだ。
正直言えば、少し地味なポピュラーアルバムかもしれないと思った。ただ、どちらかといえば、聴けば聴くほどに、その本質がにじみ出てくる。リヨンは人間的な感覚を渋いポップソングで体現させる。アルバムは、全般的にマイナー調の曲が多く、そのボーカルはほのかなペーソスを感じさせる。そして、時々、ヨーロッパのテイストを漂わせるフォークロックを聞かせてくれるという点では、ラフ・トレードに所属するフランスのシンガー、This Is The Kit(それは時々、実験的な音楽性に近づく場合もある)を思い出す方もいらっしゃるかもしれない。ルース・リヨンはリリックに関して、ストレートな言葉を避け、出来る限り抽象的な言葉を選んでいる。それが言葉に奥行きをもたせることは言うまでもない。
承前という言葉がふさわしく、『Poem& Non Fiction」は前の曲の作風を受け継いだ「Wickerman」が続く。同じようなタイプの曲で籠もった音色を生かしたピアノ、そしてアンサンブルの性質が強いドラムを中心に構成される。しかし、この曲の方がブルージーな味わいを感じさせる。人生の渋みといっては少し語弊があるかもしれない。ところが、この曲全般に漂う、孤独感や疎外感といった感覚は、イギリスの若い人々に共鳴するエモーションがあるのではないかと思う。ルース・リヨンのソングライティングは、まるでモラトリアムのような感覚を持って空間をさまよい、しばらくすると、その長いため息のようなものがいつの間にか消えている。彼女の歌声はブルース風のギターによって、そのムードがよりリアリティ溢れるものになる。そして、この曲でも、メインとコーラスという二つの声が二つの内的な声の反映となっている。
つい2年前の夏、マタドールから発売されたライフガードのEPは、バンドの初期のスタジオでの探求を注意深く記録したものだった。しかし、ローウェンスタインのロック・ステディなバックビートに支えられた彼らの驚異的なライヴ・ショウは、より大きなモーメントが待ち受けていることを暗示していた。 デビュー作『Ripped and Torn』では、有刺鉄線のように刺々しいサウンドが、スレーターとケースの新しく豊かな2声のハーモニーとコラジステの歌詞を縁取っている。 プロデューサーのランディ・ランドール(ノー・エイジ)は、ハウス・パーティーやライヴの感覚とエネルギーを想起させる閉所恐怖症的なスクラップ感を表現している。
実際、このトリオは、古典的なミニマリズムによる脳をかき乱すような魔術的な魅力を介し、暗黙の重心(ヘヴィネス)を中心に構築する。 実験的な作品である "Music for Three Drums"(スティーブ・ライヒの『Music For 18 Musicians』を引用しているのは間違いない)、"Charlie's Vox "は、ライフガードのヴィジョンの広さを明らかにし、デッドC、クローム、スウェル・マップスのようなマージン・ウォーカーの前衛的な要素を取り入れた、コラージュされたDIY音楽である。
しかし、そもそも、曲の質が伴わなければ、これらすべては単なる思い上がりになるだろう。 タイトル曲の "Ripped & Torn "は、タイトルのもうひとつの意味を示唆している。 バンドが一丸となって、孤独な亡霊からの伝言のように歌われる歌に感情的な蹂躙を加えている。
"Like You'll Lose "は、重厚なダブ/ダージ・ハイブリッドの上に、ドリーミーなオートマティック・ヴォーカルとスティーリーなファズを組み合わせ、さらに深みを増している。 「一方、"Under Your Reach "は、"Part Time Punks "の頃のザ・テレビジョン・パーソナリティーズのUK DIYを彷彿とさせるが、よりThis Heatに近づけるような、過激なサウンドを追求している。
ライフガードは、アンダーグラウンド・ロックを人生と同じくらい真剣に演奏しているが、若さは音楽の質で、年齢によるものではないと確信させるほど、遊び心にあふれた熱意を擁している。 彼ら自身の引き裂かれた感情の火炎に巻き込まれるようなサウンドで、ライフガードは私をもう一度信じたいと思わせる。(''デヴィッド・キーナン「Ripped and Torn」について語る''より)
Lifeguard 『Ripped and Torn』 -Matador
ローリング・ストーン誌で特集が組まれているのを見るかぎり、アメリカ国内では彼らのデビューは好意的に受け入れられているらしい。米国のインディーズロックの有望株であることは間違いない。ライフガードの『Ripped and Torn』はデビュー作に相応しく、鮮烈な印象に縁取られている。そして、近年稀に見るほどの”正真正銘のDIYのロック/パンクアルバム”であることは疑いない。
『Dressed In Trench EP』ではライフガードの本領がまだ発揮されていなかった。正直なところをいうと、なぜマタドールがこのバンドと契約したのかわからなかった。しかし、そのいくつかのカルト的な7インチのシングルの中で、グレッグ・セイジ率いるWipersのカバーをやっていたと思う。Wipersは、カート・コバーンも聴いていたガレージパンクバンドで、アメリカの最初のパンクバンド/オルタナティヴロックの始まりとする考えもある。これを見て、彼らが相当なレコードフリークらしいということはわかっていた。それらのレコードフリークとしての無尽蔵の音楽的な蓄積が初めて見える形になったのが「Ripped and Torn』であろう。このデビューアルバムには、普通のバンドであれば恥ずかしくて出来ないような若々しい試みも行われている。
タイムラグを設けず、一曲目から続いている「2-It Will Get Worse」は、デモソング風の荒削りなガレージパンクソング。アルバムの冒頭の熱狂性を追加で盛り上げるような働きを成している。この曲にはアメリカの60年代後半の原初的なガレージロックの熱狂が反映されている。しかし、ボーカルはラモーンズのようにメロディアスであり、西海岸風の旋律捌きが見いだせる。パワーコード/オクターブのユニゾンを多用するパンキッシュなギター、そして、ギターのベースラインを描く通奏低音のベース、ドタバタしたドラムのプレイにも注目である。この曲はハイスクールバンドとして始まったライフガードのドキュメントのような役割を担う。ラモーンズの映画『Rock 'n Roll High School』のリアル版ともいえる若々しい感覚に満ち溢れている。
「It Will Get Worse」
複数の収録曲には、インタリュードが設けられ、前衛的なノイズで縁取られている。ピックアップ/アンプから発生させたリアルなノイズが「3-Me and My Flashes」に収録されている。ライブの直前のサウンドチェックのような瞬間、それもまだ機材の扱いになれていなかったような時代のノイズを独立した曲のセクションの間に挿入し、ライブバンドとしてのDIYの気風を反映する。こういったアヴァンギャルドな試みは本作の後半でも再登場する。これらのノイズの要素は、キャッチーなパンクロックソングの中にあってアンダーグランドの匂いを強調させる。
「4-Under Your Reach」は、Replacements(リプレイスメンツ)の「Within Your Reach」を彷彿とさせる曲名だ。ダブという側面において、インスピレーションを受けているのかもしれない。しかし、全般的には、インダストリアルノイズの印象に縁取られ、Big Black/Shellacのようなアンダーグラウンドの雰囲気に満ちている。動きのあるベースでダブのイントロを作った後、スティーヴ・アルビニのような金属的なギターが加わり、ニューウェイヴの楽曲が組み上がっていく。
「5-How to Say Deisar」はあまりにもかっこいい。Gang Of Four(ギャング・オブ・フォー)を彷彿とさせる不協和音のギターのイントロから炸裂し、ドラムのタムのジョン・ボーナム風の即興的な演奏が続く。これらは、ギター、ベースのパートを巻き込んで、カオティックハードコアへの流れを作り上げていく。無謀でしかない試みであるが、ギター、べース、ドラム、各パートの演奏技術が傑出しており、そして、ジョニー・サンダースを彷彿とさせる甲高いシャウトとベースラインがこれらの荒唐無稽なサウンドに落ち着きと規律をもたらす。「How to Say Deisar」は、言い換えれば、スタジオでの即興的な演奏で得られた偶発的な音のマテリアルを手がかりにして、それらをまとめたかのようである。全般的にはコラージュの要素があるにせよ、基本的にはスタジオのライブセッションから成立していることに変わりない。二者のボーカルの受け渡しや同音反復のベースラインが次のセクションの呼び水となり、騒擾(USハードコア)と憂鬱(UKニューウェイヴ)を変幻自在に行き来する。つまり、ハードコアパンクとニューウェイブの二つの曲をシークエンスとして直結させたという感じで、これは先例がない。
▪Lifeguardのデビューアルバム『Ripped and Torn』は本日、Matadorより発売されました。
Weekly Music Feature: Qasim Naqvi ~パキスタンにルーツを持つ作曲家カシム・ナクヴィによる驚異的な音楽~
パキスタン系アメリカ人の作曲家カシム・ナクヴィは、著名なトリオ、''ドーン・オブ・ミディ''のドラマーとしてよく知られている。その他にも、ECMから新作をリリースしたWadada Leo Smithとも共同制作を行っていて、ジャンルを問わずミュージシャンとして研鑽を重ねてきた。彼は、映画、ダンス、演劇、国際的な室内アンサンブルのためのオリジナル音楽を創作している。 最近の作品は、アナログ・シンセサイザーやオーケストラ編成の音色を深く掘り下げている。
「ある朝、妻が夢から覚めると、"God Docks at Death Harbor "というフレーズが頭に浮かんできたらしかった。ちょうどそのとき、私はBBCコンサート・オーケストラのために新作を書き始めたところだったが、彼女がこの言葉の夢について話してくれたことで、それはあっという間に音楽の構想に浸透していった。 彼女の言葉は私にとってほとんど詩であり、具体的なイメージを呼び起こしてくれることがある。 私は、人類がもはや存在しない、何百年も先の未来の地球を想像した。 私たちがいなくなったことで、世界は平和に回復していく。 これが作品の信条となった」
「それは、このトーンポエムを書いているとき、インスピレーションを得るために眺めることのできる風景画のようだった。 2023年春にロンドンで『God Docks at Death Harbor』が初演された後、この感覚は私の中に残り、新譜について考える時期になり、この物語を続けたいなと感じた。 私は前日譚を想像してみた。地球上で最後の人間であるエンドリングが、何世紀も未来の世界を旅する話。 朽ち果て、変異した世界は、自然と人工の奇妙なアマルガムになるという」
「私は、この音楽が、自然界に追い越され、吸収されつつある未来の崩れかけた風景の中を、この人間を追いかける章立てになっていることをイメージしていた。 God Docksのトーンポエムの伝統に従って、私はまず曲のタイトルを作り、音楽が形になっていくにつれて、その意味をより明確にしていった」
続く「4-Power Down The Heart」は、そういった知的好奇心を駆り立てる何かが内在する。例えば、子供の頃は、すべて知らないものを無邪気な目で見ているが、大人になると知らないものですら、そういった純粋な目で見れなくなる。''多くの情報を知りすぎる''という楽園のアダムのような現象こそ、現代の人々にとって、退廃や堕落を意味するのだ。「Power Down the Heart」は、むしろ知らないことの素晴らしさや、知り得ないことに目を開かれることの喜びを表す。この曲では、Moor Motherをボーカリストとして招き、そして、AIの声をシンガーに仮託し体現させている。ムーア・マザーは最後に地球に残された種の意識体をボーカルで表現している。近未来を人類はどのように生きていくべきか、そういった提言をナクヴィは行う。
全般的には、アナログの人工的なサウンドが際立っているが、「7-In The Distance」はかなりデジタルの質感が強いサウンドである。 しかし、よく聞くと、この曲も、アナログで制作されているらしく、ボリュームの抑制が効かない箇所が登場する。他のトラックでは封印していたノイズの側面が際立つ。しかしそれは、一貫して、精妙な振動数で構成されていためか、そのノイズの中には、数式の配列のような美しさが存在している。そして前の曲と同じように、十二音階から導き出される無数の倍音の持つ多彩性を組み合わせて、地球の多様な生物の性質を表現しているように思える。
タイトル「In The Distance」から見ると、宇宙に関する主題に思えるが、おそらく''このアルバムの信条''と制作者が述べる''時間的な隔たり''をモチーフとし、未来から現在の地球の姿を俯瞰するという、かなり深遠な概念が込められている。第二次産業革命以降の人類は絶えず、テクノロジーの発展により、未来を造出してきた。他方、現代の人類としては、未来の理想を考えたさいに、今どのように工業や産業、テクノロジーを発展させていくべきか、という逆算的な視点が不可欠であることがわかる。
ソフィア・ケネディの音楽の表層を形成するのが、ファッショナブルでスタイリッシュなイメージ。これは間違いなく、制作者の日頃の生活や考えから汲み出されるものであり、他の人が真似しようとしても出来ない。アルバムの冒頭を飾る「Nose for a Mountain」を聴くとわかるように、シンセポップを基調とする親しみやすく軽妙な音楽的なアプローチの中に、セイント・ヴィンセントやビョークのようなファッショナブルな感覚が揺らめく。そして、その音楽性を背後から支えているのは、工業都市の音楽であるエレクトロニックである。これらの現代性や近代文明の工業性の発展の中で培われた音楽的な核心、それらは、現代的な宣伝広告やファッションの要素と結びついて、アートポップソングを作り上げるための素地となっている。
アルバムはその後、エレクトロポップに転じる。アヴァロン・エマーソンの系譜にあるDJライクなサウンドに、ソフィア・ケネディ独自のボーカルが乗せられる。スポークンワードでもなく、ソウルでもない、ダンスミュージックから汲み出された特異なボーカルスタイルが心地良いビートの底に揺らめく。ケネディのボーカルは、夢想的な感覚を生み出し、ある種の幻想性を呼び起こす。「Imginary Friend」というタイトルに相応しい。「Drive The Lorry」では、レトロなマシンビートを配して、チルウェイブとレゲエ/ラヴァースロックの中間にある独特な音楽性に転じる。現代のヨットロックやソフィスティポップに通じるようなアメリカの西海岸の音楽を呼び覚ます。これらのチルウェイブに属する音楽は、ホリー・クックにも近い感覚がある。しかし、ボーカルは依然としてスタイリッシュな印象があり、華やかな雰囲気に満ちている。
しかし、ボーカルはそれらと対象的なコントラストを描く。ケネディのボーカルは、オペレッタからブリジット・フォンテーヌのようなアートポップの形態を活かし、迫力と上品さを兼ね備えた新鮮な音楽のインディオムを作り出している。ビートやリズムはかなり堅牢であるが、シンセのアルペジオは一貫してメロディアスで聴きやすさがある。もちろん、シンセだけではなく、ケネディーのボーカルも旋律をはっきりと意識している。表向きにはニューウェイブの一曲であるが、全般的にいえば、"ダンスミュージックのオペレッタ"ともいうべき優雅な印象をもたらすことがある。歌詞もシュールな印象がある。"I Can See in Through My Eyes"などを聴くと分かる通り。