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ベイエリアのSPELLINGがもたらす新しいロックソングのカタチ、R&Bとハードロック/メタルの融合



ベイエリアのエクスペリメンタル・ポップの名手クリスティア・カブラルが名乗るSPELLLINGは、先見の明を持つアーティストとして頭角を現し、ジャンルの境界を押し広げ、豊かな構想に満ちたアルバムと魅惑的なライブ・パフォーマンスで聴衆を魅了している。  


SPELLLINGは、2017年に絶賛されたデビュー・アルバム『Pantheon of Me』をリリースし、広く知られるようになった。 このアルバムでは、ソングライター、プロデューサー、マルチ・インストゥルメンタリストとしての彼女の天才的な才能があらわとなった。 2019年、彼女はSacred Bonesと契約し、待望の2ndアルバム『Mazy Fly』をリリースし、彼女の芸術的ヴィジョンをさらに高め、音のパレットを広げた。 


2021年、彼女は画期的なプロジェクト『The Turning Wheel』をリリースし、31人のコラボレート・ミュージシャンによるアンサンブルをフィーチャーしたアルバムをオーケストレーション、セルフ・プロデュースした。 『The Turning Wheel』は、アーティストのキャリアを決定づける作品となった。 このアルバムは満場一致の賞賛を受け、2021年のザ・ニードル・ドロップスの年間アルバム第1位を獲得した。  SPELLLINGと彼女のバンド「The Mystery School」は、カブラルの特異なステージ・プレゼンス、バンドの素晴らしい音楽性、観客との精神的な交感によるライブ・パフォーマンスを広く知らしめた。 

 


本日、待望の4thアルバム『Portrait of My Heart』がリリースされる。  深くパーソナルなアルバム『Portrait of My Heart』は、SPELLLINGの親密さとの関係を探求し、エネルギッシュなアレンジとエモーショナルな生々しさを彼女の唯一無二の歌声と融合させ、画期的なソングライターとしての地位を確固たるものにするラブソングを届けている。 


SPELLLINGが進化を続け、新たな音楽的領域を開拓するにつれ、彼女は生涯一度のアーティストとしての地位をさらに確固たるものにしている。 リスナーを別世界へと誘う美しいサウンドスケープを創り出す能力と、超越的なライブ・パフォーマンスにより、彼女の熱狂的なファンは後を絶たない。 リリースするたびに、SPELLLINGは私たちを彼女の世界への魅惑的な旅へと誘い、リスナーの心に忘れがたい足跡を残す。 


クリスティア・カブラルがSPELLLINGとしてリリースした4枚目のアルバムで、ベイエリアのアーティストは、高評価を得ている彼女のアヴァン・ポップ・プロジェクトを鏡のように変化させた。 カブラルが『Portrait of My Heart』で綴った歌詞は、愛、親密さ、不安、疎外感に取り組んでいる。従来の作品の多くに見られた寓話的なアプローチから、人間の心情を指し示すリアリスティックな内容に変化している。 このアルバムのテーマに対する率直さはアレンジにも反映されており、SPELLLINGのアルバムの中で最も鋭く、最も直接的な作品となっている。 


初期のダーク・ミニマリズムから、2021年の『The Turning Wheel』の豪華なオーケストレーションが施されたプログレ・ポップ、そして新しい創造的精神の活力的な表現に至るまで、カブラルはSPELLLINGが彼女が必要とするものなら何にでもなれることを何度も証明してきた。


推進力のあるドラム・グルーヴと "I don't belong here "のアンセミックなコーラスが印象的なタイトル・トラックは、このアルバムがエモーショナルな直球勝負に転じたことを最も強烈に体現している。 メインのメロディが生まれた後、カブラルはこの曲をパフォーマーとしての不安を処理するツールとして使い、タイトでロック志向の構成を選んだ。 この変化は、ワイアット・オーヴァーソン(ギター)、パトリック・シェリー(ドラムス)、ジュリオ・ザビエル・チェット(ベース)のコア・バンドによる、エネルギーと即時性へのアルバムの幅広いシフトを反映しており、彼らのコラボレーションがSPELLLINGサウンドの新たな輪郭を明らかにしている。 


クリスティア・カブラルは今でも単独で作曲やデモを行なっているが、『Portrait of My Heart』の曲をバンドメンバーに披露することで、最終的に生き生きとした有機的な形を発見した。それは彼女の音楽の共有をもとにして、一般的なロックソングを制作するという今作のコンセプトにはっきりと表れ出ている。 『The Turning Wheel』のミキシング・エンジニアであるドリュー・ヴァンデンバーグ、SZAのコラボレーターとして知られるロブ・バイゼル、イヴ・トゥモアの作品を手掛けたサイムンという3人のプロデューサーとの共同作業に象徴されるように。


主要なゲストの参加は、音楽性をより一層洗練させた。 チャズ・ベア(Toro y Moi)は「Mount Analogue」でSPELLLING初のデュエットを披露し、ターンスタイルのギタリスト、パット・マクローリーは「Alibi」のためにカブラルが書いたオリジナルのピアノ・デモを、レコードに収録されているクランチーでリフが効いたバージョンに変え、ズールのブラクストン・マーセラスは「Drain」にドロドロした重厚さを与えている。 これらのパートはアルバムにシームレスに組み込まれているだけでなく、アルバムの世界の不可欠な一部のように感じられる。


多数の貢献者がいたことは事実であるが、結局のところ、『Portrait of My Heart』はカブラル以外の誰のものでもない。 「アウトサイダーとしての感情、過剰なまでの警戒心、親密な関係に無鉄砲に身を投じ、すぐに冷めてしまうやり方など、これまで『SPELLLING』には決して書かなかった自分自身の部分について、大胆不敵に解き明かす」とアーティストは説明している。

 

 

SPELLING 『Portrait of My Heart』- Sacred Bones


 

 『Portrait Of My Heart』はジャズアルバムのタイトルのようであるが、実際は、クリスティア・カブラルのハードロックやメタル、グランジ、プログレッシヴロックなど多角的な音楽趣味を反映させた痛快な作品である。

 

ギター、ベース、ドラムという基本的なバンド編成で彼女は制作に臨んでいるが、アルバムを聴くと分かる通り、「ノってるなあ」という感想を抱く。つまりカブラルは音楽に集中しているのである。レコーディングのボーカルにはアーティスト自身のロックやメタルへの熱狂が内在し、それがロックを始めた頃の十代半ばのミュージシャンのようなパッションを刻印している。

 

上手いか下手かは関係なく、アルバムにはアーティストのロックに対する熱狂がある。それがバンド形式による録音、そして三者のプロデューサーの協力によって仕上げられた。そしてカブラルの熱意はバンド全体に浸透し、他のミュージシャンをも少年のように変えた。録音としてはカラオケのように聞こえる部分もあるが、まさしくロックファンが待ち望む熱狂的な感覚と、アーティストのロックスターへの憧れ、そういった感覚がないまぜとなり、秀作が完成した。

 

従来はシューゲイズのポスト世代のアーティストとして特集されることがあったSPELLINGだが、アルバムの最後に収録されている『Sometimes』のカバーを除いて、シューゲイズの性質は希薄である。 しかし、アーティストのマライア、ホイットニー・ヒューストンのようなR&Bの系譜にあるポップソングがバンドの多趣味なメタル/ハードロックの要素と結びつき、斬新なサウンドが生み出されている。その中には、グランジに対する愛情が含まれ、Soundgardenのクリス・コーネルの「Black Hole Sun」を想起させる懐かしく渋いタイプのロックバラードも収録されている。音楽そのものはアンダーグランドの領域に近づく場合もあり、ノイズコアやグランドコアのようなマニアックな要素も織り交ぜられている。しかし、全般的には、ポピュラー/ロックミュージックのディレクションの印象が色濃い。このアルバムで、SPELLINGはロックソングの音楽に限界がないことを示し、そして未知なる魅力が残されていることを明らかにする。

 

 

アルバムはポスト世代のグランジと結びつき、それがシューゲイズ/ドリーム・ポップのようなソングライティングと合致したタイトル曲で始まる。曲はそれほど真新しさはないものの、宇宙的なプロデュースがギターロックとボーカルの兼ね合いの中に入ると、SF的な雰囲気を持つプログレ的な曲に昇華される。また、ヒップホップでよく見受けられるようなドラムのフィルター処理や従来の作品で培ってきたストリングスのアレンジメントを交えて、ミニマルな構成でありながら動きを持つロックソングを制作している。そして、カブラルは、ソウルミュージックからの影響を上手く反映させつつ、叙情的なボーカルメロディーの流れを形作り、ロックともソウルともつかない、独特なトラックを完成させている。オルタネイトなロックソングとしてはマンネリ化しつつあるソングライティングを持ち前のR&Bやヒップホップからの影響を元にして、それらをフレッシュな音楽に組み替えている。これは、異質なほどSPELLINGの音楽の引き出しが多いことを伺わせ、彼女の隠れたレコード・コレクターの性格をあらわにするというわけである。それが最終的には80年代の質感を持つメタル風のポップソングに仕上がっている。

 

SPELLINGは、''ジャンル''という言葉が売り手側やプロモーション側の概念であるということを思い出させてくれる。と同時に、アーティストはジャンルを道標に音楽を作るべきではないということを教唆する。二曲目「Keep It Alive」は、詳細な年代は不明だが、80年代のMTV時代のポピュラーソングやロックソングを踏襲し、オーケストラのアレンジを通して、古びない音楽とは何かを探る。 歌手としての多彩なキャラクターも魅力だ。この曲のイントロでは10代のロックシンガーのような純粋な感覚があったかと思えば、曲の途中からは大人なソウルシンガーの歌唱に変貌していく。曲のセクションごとにボーカリストとしてのキャラクターを変え、そして曲自体の雰囲気を変化させるというのはシンガーとしての才能に恵まれたといえるだろう。


カブラルはカメレオンのようにボーカリストとしての性質を変化させ、リスナーに驚きを与える。歌手としての音域の広さというのも、音楽全体にバリエーションをもたらしていると思う。さらに音楽的にも注目すべき箇所が数多くある。例えば、明るい曲調と暗い曲調を行来しながら、内面の感覚を見事にアウトプットしている。SPELLINGの書くロックソングは遊園地のアトラクションのように飽きさせず、次から次へと移ろい代わり、次の展開をほとんど読ませない。聴くごとに意外な感覚に打たれ、音楽に熱中させる要因を形づくる。これはまさに、アーティスト自身がロックソングに夢中になっているからこそなしえることである。そしてその情熱は、聞き手をシンガーの持つフィールドに呼び入れるような奇妙な力を持ち合わせている。

 

序盤では「Alibi」がバンガーの性質が色濃い。アリーナ級のロックソングを現代的なアーティストはどのように調理すべきなのかというヒントがこの曲には隠されている。 リズムギターの刻みとなるバッキングに対して、ポップセンスを重視したスタジアム級の一曲を書き上げている。そして、イントロの後のAメロ、Bメロでは、快活で明るいイメージとは対象的にナイーブな感覚を持つ音楽性と対比させて、見事なソングライティングを手腕を示している。この曲ではソロシンガーとしての影響もあってか、バンドアンサンブルの入りのズレがあるが、そういった間のとり方が合わない部分もあえて録音に残している。音を過剰に修正するのではなく、フィルの入り方のズレのような瞬間を録音に残し、ライブサウンドのような音楽性を重視している。こういった欠点は微笑ましいどころか、がぜん音楽に対する興味を惹きつけることがある。音楽的にも面白さが満載で、プログレのスペーシーなシンセが曲の雰囲気を盛り上げる。

 

「Waterfall」は、ホイットニー・ヒューストンのような古き良きポピュラー・ソングに傾倒している。シンプルなギターロックソングとしても楽しめること請け合いだが、特に歌の音域の広さが凄まじく、コーラスの部分では3オクターブくらいのボーカルの音域を披露している。そして古典的に思えるロックソングも、Indigo De Souzaのようなコーラスワーク、そして圧倒的な歌唱力を部分的に披露することにより、曲全体に適度なアクセントを付与している。ストレートなロックソングを中心にアルバムの音楽は繰り広げられるが、他方、ソウルやポピュラーシンガーとしての資質が傑出している。そして、歌の録音に関しても一気呵成にレコーディングしているような感じで、これが曲の流れを阻害しない。要するに、録音が不自然にならない理由なのである。また、同時に曲がそれほど傑出していないにもかかわらず、聞かせる何かが存在する。

 

そんな中、カブラルのR&Bシンガーとしての才覚がキラリと光る瞬間がある。SPELLINGはハスキーで渋いアルトの歌声と、それとは対象的な華やかなソプラノを同時に歌いこなすという天賦の才に恵まれている。「Destiny Arrives」はおそらくタイトルが示す通り、デスティニーズ・チャイルドのようなダンサンブルなR&B音楽を踏襲し、それらを現代的なトラックに仕上げている。この曲はバンガー的なロックソングの中にあるバラード的なソウルとしてたのしめる。ピアノ、ホーン、シンセのアルペジオなどを織り交ぜながら、感動的な瞬間を丹念に作り上げる。やや使い古されたと思う作曲の形式も活用の仕方を変えると、新しい音楽に生まれ変わる事がある。そんな事例をカブラン、そしてバンドのメンバーやプロデューサーは示唆している。「Ammunition」は、しっとりとしたソウル風のバラードで聞き入らせるものがある。全体的な録音は完璧とは言えないかもしれないが、音楽的な構成はかなり優れている。ここでは部分的な転調を交えて、曲を明るくしたり、暗くしたりという色彩的なパレットが敷き詰められている。最終的には、アウトロにかけて、この曲はベタな感じのメタルやロックソングへと移ろい変わっていく。つまり、この曲にはメタルとソウルという意外な組み合わせを捉えられる。

 

 

 「Destiny Arrives」

 

 

 

 バンドアンサンブルでR&Bを越えて、ファンクグループとしての性質が強まる瞬間がある。「Mount Analogue」ではベースがブルースや古典的なファンクのスケールを演奏してスモーキーな音楽を形成している。これらのオーティス・レディングのような古典的なR&Bのスタイルは、SPELLINGのボーカルが入ると、表向きの音楽のキャラクターがガラリと一変する。時代に埋もれてしまった女性コーラスグループのような音楽か、もしくはモダンソウルの質感を帯び、聞き手を古いとも新しいともいえない独特な領域に招き入れるのである。バックバンドの期待に答えるかのように、カブラルはしっとりした大人の雰囲気のある歌を披露するのである。マライア、マドンナやヒューストンのような80年代のポピュラー音楽を現代に蘇らせている。

 

そういった中で、グランジ的なニュアンスが登場する場合もある。「Drain」はタイトルはNirvanaのようであるが、実際の音楽は、Soundgardenを彷彿とさせる。実際にギターのリフもかなりサウンドガーデンに忠実な内容となっている。そして、この曲はクリス・コーネルの哀愁ある雰囲気に満たされていて、バックバンドも見事にそれらのグランジサウンドに貢献している。これらはカブラルという2020年代の歌手によって新しくアップデートされたポストグランジの代名詞のような一曲と言えるかもしれない。サウンド処理も前衛的なニュアンスが登場する。音楽の土台はサウンドガーデンの「Black Hole Sun」であるが、曲の後半では、Yves Tumorのようなエクスペリメンタルポップに変化していく。この曲ではグランジに潜むポップネスという要素が強調されている。そして、実際的に聴きこませるための説得力が存在するのである。

 

「Satisfaction」はストーンズ/ディーヴォのタイトルみたいだが、実際はヘヴィメタルのテイストが満載である。ギターの大きめの音像を強調し、グラインドコアのようなヘヴィネスを印象付けるが、実際的にそれほどテンポは早くない。実際的にはストーナーロックのように重く、KYUSSのような砂漠のロックサウンドを彷彿とさせる。たとえそれがコスプレ的に過ぎないとしても、ベタなメタルのフレーズの中で圧倒的な熱狂を見せつけることに成功している。曲の後半では、メタルのベタなギターリフを起点にし、BPMを早め、最終的にはグラインド・コアのような響きに変わる。ナパーム・デスのようなスラッシーなディストーションギターが炸裂する。

 

感情的には暗いものから明るいものまで多角的な心情を交えながら、 アルバムは核心となる部分に近づいていく。「Love Ray Eyes」も現代的なロックソングとして見ると、古典的な領域に属し、新しい物好きにとってはかなり古臭く思えるかもしれない。しかし、不思議と聴き逃がせない部分がある。ギターのミュートのバッキングにしても、シンプルなリズムを刻むドラムにせよ、しっかりとボーカリストとの意思疎通が取れているという気がする。そしてバンドアンサンブルとしてはインスタントであるにしても、穏和な空気感が漂っているのが微笑ましい。ストレートであることを恐れない。この点に、『Portrait of My Heart』の最大の面白さがあるのかもしれない。また、それは同時に、クリスティア・カブラルの声明代わりでもあるのだろう。


 

「Sometimes」はご存知の通り、My Bloody Valentineのカバーソングである。シンセやギターの演奏自体が原曲にすごく忠実でありながら、別の曲に生まれ変わっているのが素敵だ。それはとりもなおさず、カブラルのポップシンガーとしての才能がこの名曲を生まれ変わらせたのだ。そして大切なことは、音楽を心から楽しんでいて、それがこちらにしっかり伝わってくるということ。 多くのミュージシャンには音楽を心から楽しむということを忘れないでもらいたい。

 

 

 

 

85/100

 

 

 

「Alibi」

 

 

 

・SPELLINGのニューアルバム『Portrait of My Heart』はSacred Bonesから本日発売。ストリーミングはこちら

Vijay Iyer



このレコーディング・セッションは、昨年(2023年)に起きた残酷な事件に対する私たちの悲しみと憤り、そして人間の可能性に対する信頼によって行われた。 - Vijay Iyer(ヴィジャイ・アイヤー)

 

2016年の『A Cosmic Rhythm With Each Stroke』に続く、ヴィジャイ・アイヤーとワダダ・レオ・スミスのECMへの2作目のデュオ形式のレコードとなる『Defiant Life』は、人間の条件についての深い瞑想であり、それが伴う苦難と回復の行為の両方を反映している。しかし同時に、このデュオのユニークな芸術的関係と、それが生み出す音楽表現の無限の形を証明するものでもある。ヴィジャイとワダダが音楽で出会うとき、彼らは同時に複数のレベルでつながるからだ。

 

「出会った瞬間から演奏する瞬間まで、私たちが一緒に過ごす時間は、世界の状況について話したり、解放の歴史を学んだり、読書や歴史的文献を共有したりすることに費やされることが多かった」


アイヤーは、ライナーノートの中で、彼とスミスとのそのような会話を長々と書き起こし、このアルバムにインスピレーションを与えた個々のテーマと、特に「反抗的」という言葉について、より詳しく明らかにしている。

 

ワダダの「Floating River Requiem」は1961年に暗殺されたコンゴの首相パトリス・ルムンバに、ヴィジャイの「Kite」は2023年にガザで殺害されたパレスチナの作家・詩人レファート・アラレアに捧げられたものだ。このような思考と考察の枠組みの中で、この作品は生まれた。


Wadada Leo Smith


ヴィジャイとワダダはともにECMと幅広い歴史を共有しており、ワダダは1979年のリーダー作『Divine Love』で早くからこのレーベルに参加している。


さらにワダダは、ビル・フリゼルと共演したアンドリュー・シリルの『Lebroba』(2016年)や、1993年のソロ・アルバム『Kulture Jazz』にも参加している。スミスは過去のヒーローへのオマージュを捧げながらも、レトロな模倣に翻弄されることはない。(『ザ・ワイヤー』1993年)

 

ヴィジャイのECMでの活動は急速に拡大しており、リンダ・メイ・ハン・オー、タイショーン・ソーリーとの現在のトリオ(2021年『Uneasy』、2024年『Compassion』)、ステファン・クランプ、マーカス・ギルモアとの以前のトリオ(2015年『Break Stuff』)、そして好評を博したセクステット・プロジェクト『Far From Over』(2017年)などがある。

 

ピアニストは、2014年に弦楽四重奏、ピアノ、エレクトロニクスのための音楽で高い評価を得た録音『Mutations』をリリースし、ロスコー・ミッチェルの2010年のアルバム『Far Side』、すなわちクレイグ・タブーンとのデュオで『Transitory Poems』(2019年)に参加している。そのほかにも2014年にDVDとブルーレイでリリースされた、ヴィジャイと映像作家プラシャント・バルガヴァの鮮やかなマルチメディア・コラボレーション『Rites of Holi』も忘れてはならない。 


「私たちは、それぞれの言語と素材を使って仕事をしている」とヴィジェイは広範なライナーノートに記しています。共同制作の必然性というのは、楽曲ごとに異なる形で体現される。「Sumud」では不吉なことを言い、「Floating River Requiem」では祝祭的なオーラを放ち、「Elegy」では疑念を抱きながらも明るい兆しが見える。そして終結の「行列」では破滅的に美しい。


ワダダ・レオ・スミスは、ヴィジャイとの親密さと、音楽を単純に 「出現 」させるという2人の共通の能力について尋ねられ、「ユニークなことのひとつは、自分たちが何かを修正すること(つまり、音楽を完全に事前に決定すること)を許さないこと。私はそういうふうに思う」と述べる。


ワシントン・ポスト紙は、このデュオの前作について、「スミスとアイヤーの演奏が見事に交錯している。 二人はテンポ、サステイン、音符やフレーズの思慮深い選択の感覚を共有している。 アイヤーとワダダが共有するディテールへの愛情と、慎重なセンテンスとやりとりを構築する忍耐は、展開される各構成を独自の音圏に変え、ヴィジャイの "Kite"では、フェンダー・ローズとトランペットの深い叙情性となだめるような相互作用に現れている」と評しています。


『Difiant Life(ディファイアント・ライフ)』の包括的な人生についての瞑想であるとするならば、実際に表現されているのはそのセンス・オブ・ワンダーである。スイス・ ルガーノで録音されたこのアルバムは、レーベルのオーナー、マンフレート・アイヒャーがプロデュースした。



Vijay Iyer / Wadada Leo Smith 『Difiant Life』- ECM


 

これが最後かもしれない。私たち(パレスチナ市民)は、それ(爆撃にさらされて無差別に殺されるようなこと)に値しません。

 

私は、アカデミックです。恐らく、私が家の中で持っている中で、一番強いものは、このマーカーです。

 

でも、もしイスラエル兵が家々をめぐって私たちを襲撃し虐殺することがあれば、私はイスラエル兵の顔をめがけて、このマーカーを投げつけるでしょう。

 

たとえそれが(人生の)最後に私ができることであろうとも。これが(ガザで無差別爆撃にさらされている)多くの人々の感じていることです。私たちに、失うものなんてありません。

 

パレスチナの作家・詩人リファアト・アルアリイールによる最後の声明



ニューヨークの鍵盤奏者、ヴィジャイ・アイヤー、ミシシッピのトランペット奏者のワダダ・レオ・スミスの共同制作によるアルバム『Difiant Life』は二人の音楽家が持ち寄った主題を重ね合わせ、アヴァンギャルドジャズの傑作を作り上げた。


ご存知の通り、現在のパレスチナとイスラエルの紛争は黙字録の象徴となっている。歴史はそれを「イスラエルとパレスチナによる衝突」と詳述するかもしれないが、これはイスラエル側による国際法の違反であるとともにパレスチナに対する民族浄化であるということを明言しておきたい。そして、もうひとつの東欧の火種、ウクライナとロシアの戦争についても同様であり、この二つの代理戦争は、離れた地域の国家、もしくはある種の権力を操る勢力が企図する''身代わりの戦争''である。これはある地域を欲得のため力づくで平定しようとする勢力の企みなのです。

 

パレスチナの作家リファアト・アルアリイールさんは、2023年のガザで空爆が続く中で死去した。彼の痛切な死から人類が学ぶべきことは何なのか? その答えは今のところ簡単には出せませんが、少なくとも、アルアリイールさんは物語を作りつづけることの重要性を訴えかけていた。


それはなぜかというと、彼等は真実を伝えようとするが、いつも歴史は虚偽や嘘によって塗り固められていくからである。多くの歴史書、それは聖書のような書物であろうとも、体制側の都合の良いように書き換えられ改ざんされていく。これを未然に防ぐために、真実の物語を伝え続けることが大切なのだということを、リファアト・アルアリイールさんは仰っていたのです。

 

多くの人々は、フィクションや虚構を好む。ややもすると、それは現実から離れていればいるほど、一般的に支持されるし、なおかつ好まれやすいものです。それは現実を忘れられるし、そして現実をどこかに葬り去れるからである。しかし、扇動的な音楽、主題が欠落した音楽、真実から目を逸らさせるもの、これらは虚しさという退廃的な経路に繋がっていることに注意を払わなければいけません。そしてもし、音楽というメディアが、アイヤーさんのように、現実の物語を伝えることの後ろ盾になるのであれば、あるいはまた、もうひとりの演奏家レオ・スミスさんのように、コンゴのような一般的に知られていない国家の動向や現状を伝えるためのナラティヴな働きを成すとあらば、それほどまでに有益なことはこの世に存在しえないのです。

 

この両者のジャズによる真実の物語は、ピアノ、ローズ・ピアノ、そしてトランペット、アナログのシンセサイザー、そしてパーカッションによって繰り広げられる。つまり、音楽や演奏に拠る両者の対話によって繰り広げられる。作風としては、ファラオ・サンダースとフローティング・ポイントの変奏曲により作り上げられた『Promises』に近いが、ジャズとしての完成度はこちらの方がはるかに高い。複数の主題が的確な音楽的な表現によって描写され、息をつかせぬような緻密な構図に集約されているからである。

 

そして、モーツアルトの「幻想曲」、リストの「巡礼の年」、ドビュッシーの「イメージズ」、レスピーギの「ローマの松」、チャイコフスキーの「1812年」、リゲティの「アトモスフェール」など、古くから音楽という形態の重要な一部分を担う”描写音楽”というのが存在してきたが、『Difiant Life』は前衛的なジャズの形式による描写音楽とも言えるのではないでしょうか。


しかし、最大の問題や課題は、概念や感覚という目に映らない何かを形あるものとして顕現させることが困難を極めるということである。それは言い換えれば、伝えがたいものを伝えるという意味でもある。そういった本来は言語圏には属さない作品を制作するためには、音楽的な知識の豊富さ、実際的な高い演奏技術、それらを音符にまとめ上げるための高度な知性、さらには文化的な背景に培われた独自のセンス、これらのいかなる要素も欠かすことができません。


しかし、幸いにも、ヴィジャイ・アイヤー、ワダダ・レオ・スミスという、二人の稀有な音楽家(両者は実際的な演奏家だけではなく、作曲家としての性質を兼ね備えている)はその資質を持っている。つまり、音楽的に豊富な作品を作り上げるための素養を両者とも備えています。アルバムを聞くと、「ローマは一日にしてならず」という有名な言葉をありありと思い出させる。良質で素晴らしい音楽の背後には、気の遠くなるような長い時間が流れているのです。

 

2つのジャズ・プレイヤーの性質はどうか。ヴィジャイ・アイヤーは、古典的なものから現代的なものに至るまで、幅広いジャズのパッセージを華麗に演奏する音楽家であるが、同時に、オリヴィエ・メシアン、武満徹、細川俊夫といった現代音楽の演奏にも近いニュアンスを纏う。彼の演奏は気品があり、神経を落ち着かせるような力、パット・メセニーのグループで活動したライル・メイズのような瞑想性を併せ持つ。そして、このアルバムにおいて、アイヤーはアコースティックピアノとエレクトリック・ピアノを代わる代わる演奏し、曲のニュアンスをそのつど変化させる。そして、このアルバムに関して、アイヤーは指揮振りのような役割を担い、音楽の総合的なディレクションを司っているように感じられる。一方、ワダダ・レオ・スミスも素晴らしいトランペット奏者です。マイルス・デイヴィス、ジョン・ハッセル、エンリコ・ラヴァなど、”ポスト・マイルス”の系譜に属している。レオ・スミスのトランペットの演奏はまるで言葉を語るかのような趣があり、同時に実際的な言葉よりも深遠な力を持つ。特に注目したいのは、マイルス・デイヴィスが用いた象徴的な特殊奏法、「ハーマン・ミュート」も登場する。そして前衛的なブレスの演奏を用い、アトモスフェリックな性質を付与するのです。

 

 

 

『Survival(サヴァイヴァル)』と銘打たれたプレリュード(序章)で始まる。すでにガザの戦争の描写的なモチーフがイントロから明確に登場する。ジョン・ハッセルの系譜にあるトランペットの演奏が低音部を担うアイヤーのピアノの演奏と同時に登場する。モーツアルトの『幻想曲』のように不吉なモチーフが敷き詰められ、バリトンの音域にあるピアノの通奏低音、それと対比的なガザの人々の悲鳴のモチーフとなるレオ・スミスの前衛的なトランペットの奏法が登場します。まるでこの中東の戦争の発端となった当初の”病院の爆撃”を象徴付けるかのように、ピアノが爆撃の音の代わりのドローンの通奏低音、その向こうに取り巻く空爆の煙霧や人々の悲鳴の役割をトランペットが担う。その後のレオ・スミスの演奏は圧巻であり、さながら旧約の黙字録のラッパのように、複雑な音階やトリル、微細なニュアンスの変化、さらにはサステインを駆使して、それらの音楽の物語の端緒を徐々に繋げていこうとする。この曲では、シンプルに戦争の悲惨さが伝えられ、これは断じてフィクションではないということが分かる。

 

このアルバムの根幹を担うガザの主題のあとには、神秘的な印象を持つ現代音楽「Sumud」が続いています。この曲のイントロでは、レオ・スミスのトランペットの演奏がフィーチャーされている。シュトックハウゼンのトーン・クラスターの手法を用いたシンセサイザーの電子音楽が不吉に鳴り渡り、そしてそれに続いてスミスのトランペットの演奏が入る。アイヤーのシンセサイザーの演奏は、ドローン音楽の系譜にあり、この曲のアンビエント的なディレクションを象徴づけている。一方、レオ・スミスのトランペットの演奏はマイルス・デイヴィスの系譜にあり、カップ・ミュート、もしくはハーマン・ミュートを用いた前衛的な奏法が登場する。


これらは落ち着いた瞑想的な音色、そして、つんざくような高い音域を行来しながら、瞑想的な音色を紡ぎ出す。トランペットの演奏でありながら、テナー・サックスのような高い音域とテンションを持った素晴らしい演奏が楽しめるでしょう。そして、それらの演奏の合間に、ローズ・ピアノ、そして早いアルペジオのパッセージのピアノが登場し、音楽の世界がもう一つの未知なる領域へと繋がっている。


さらに、レオ・スミスはヨシ・ワダのようなバグパイプのドローンのような音色、そしてトランペットの原初的な演奏を披露している。それらの演奏が途絶えると、エレクトリック・ピアノが入れ替わりに登場する。曲の背景となるドローンの通奏低音の中で、瞑想的な音楽を拡張させていく。しかし、不吉な音楽は昂ずることなく、深妙な面持ちを持ちつつ進んでいく。アイヤーのシンセの演奏がライル・メイズのような瞑想的な音の連なりを作り上げていくのである。そして12分にも及ぶ大作であるが、ほとんど飽きさせるところがないのが本当に素晴らしい。

 

 

こうした音楽の中で都会的なジャズの趣を持つ曲が「Floating River Requiem」である。この曲は、変拍子を駆使した前衛的な音楽。アルバムの中では、ピアノとトランペットによる二重奏の形式が顕著で、聴きやすさがあります。この曲では、アコースティック・ピアノが用いられ、Jon Balkeの系譜にある実験音楽とモダンジャズの中間にある演奏法が取り入れられています。アイヤーはこの曲でオクターブやスタッカートを多用し、洗練された響きをもたらしている。対するレオ・スミスも、前衛的な演奏という側面においてアイヤーに引けを取らない。長いサステインを用いた息の長いトランペット、それを伴奏として支えるピアノという形式が用いられる。

 

この曲は表面的に見ると、前衛的に聞こえるかもしれませんが、コールアンドレスポンスの形式、そして、マイルス・デイヴィスとビル・エヴァンスによる名曲「Flamenco Sketches」のように、モーダルの形式を受け継ぐ、古典的なジャズの作曲法が取り入れられています。結局のところ、マイルス・デイヴィスは、ストラヴィンスキーのリズム的な革新性というのに触発され、そしてビーバップ、ハード・バップの先にある「モード奏法」という形式を思いついた。それはまた、ジャズのすべてがクラシックから始まったことへの原点回帰のようでもあり、バロック音楽以降のロマン派の時代に忘れ去られていた教会旋法やパレストリーナ旋法のような、横の音階(スケール/旋法という)の連なりを強調することを意味していた。これらを、JSバッハによる対旋律の音楽形式を用い、復刻したのがマイルス・デイヴィスであったわけです。「Floating River Requiem」はそういったジャズとクラシックの同根のルーツに回帰しています。

 

この曲の場合は、同音反復を徹底して強調するミニマリズムの要素とモーダルな動きをもたらすトランペットという音楽的な技法を交えた「ポスト・モード」の萌芽を捉えられる。それらは、結果的に、グスタフ・マーラーのように音楽を複雑化して増やすのでなく、簡素化して減らしていくというストラヴィンスキー、モーツァルトが目指していた音楽的なディレクションと重なる。 音楽の要素をどれほど増やしても、聴衆はそれを支持するとは限らない。それはいついかなる時代も、聴衆は美しく心を酔わせる音楽を聞くことを切望しているからである。そして、その期待に添うように、同音反復を続けた後、麗しいピアノのパッセージが最後に登場します。このアルバムの中の最もうっとりするような瞬間がこの曲のラストには含まれています。

 

 

「Elegy」とは哀歌を意味しますが、この曲は追悼曲のような意味合いが色濃い。しかし、哀切な響きがありながらも、必ずしもそれは悲嘆ばかりを意味していません。レオ・スミスによる神妙なトランペットのソロ演奏は、ドローン奏法を駆使したシンフォニックなシンセサイザーの弦楽器のテクスチャーと溶け合い、国家的な壮大さを持つアンセミックな曲に昇華されている。そして、その合間に現れる瓦礫や吹き抜けていく風のような描写的な音の向こうからアラビア風の趣を持つアイヤーのピアノの演奏が蜃気楼のごとくぼんやりと立ち上る。そして「哀歌」というモチーフを的確に表しながら、神妙なジャズの領域を押し広げていく。その中には同音反復を用いた繊細なフレーズも登場し、悪夢的な中東の戦火の中で生き抜こうとする人々の生命の神秘的なきらめきが立ち現れる。そして、その呼吸と同調するように、微細なスタッカートの特殊奏法を用いたトランペットの前衛的な演奏が呼応するかのごとく続いている。最終的に、それを引き継ぐような形で、主旋律とアルペジオを織り交ぜたアイヤーの淡麗なジャズ・ピアノが無限に続いてゆく。これらの哀歌の先にあるもの……、それは永遠の生命や魂の不滅である。これらの音楽は傑出したドキュメンタリーや映画と同じようなリアルな感覚を持って耳に迫ってくる。一度聴いただけでは探求しがたい音楽の最深部へのミステリアスな旅。

 

戦争、死、動乱という重厚なテーマを扱った作品は一般的に重苦しくなりがちですが、「Kite」はそういった気風の中に優しさという癒やしにも似た効果を付与する。 アイヤーによるエレクトリック・ピアノを用いた演奏は子守唄やオルゴールのように響く。他方、スミスのトランペットは、マイルス・デイヴィスやエンリコ・ラヴァの系譜にある旋律的に華麗な響きをもたらす。


この曲では、レオ・スミスのソリストとしての演奏の素晴らしさが際立っている。そして、今は亡きリファアト・アルアリイールが伝えようとした物語の重要性というのを、トランペットにより代弁しているように思える。それらはジャズの最も魅惑的な部分を表し、フュージョン・ジャズ、スピリチュアル・ジャズのような瞑想的な感覚を蘇らせる。この曲ではジャズの慈愛的な音楽性がチック・コリアの系譜にあるローズ・ピアノ、そして慎ましさと厳粛さ、美しさを兼ね備えた蠱惑的な響きを持つトランペットにより、モダン・ジャズの最高峰が形作られる。ムード、甘美さ、音に酔わせる力など、どれをとっても一級品です。ここで両者が伝えようとしたことは明言出来ません。しかし、ガザの作家の死を子守唄のような慈しみで包もうという美しい心意気が感じられる。それが音楽に優しげな響きがあるように思える要因でもある。

 

 

『Difiant Life』の終曲を飾る「Procession」では再びアルバムの冒頭曲「Prelude」のように緊張感を持つ前衛的なトランペットで始まります。そしてパーカッションのアンビエント的な音響性を活かして、ニュージャズの未来が示されています。それはまたマイルス・デイヴィス、ジョン・ハッセルのアンビエント・ジャズの系譜を受け継ぐものです。そして、この音楽には、素晴らしいことに、遠くに離れた人生を伝えるというメディアとしての伝達力が備わっている。また、まったく関連がないように思えるかもしれませんが、遠くに離れた人の考えを糧にすることや、それらの生活文化の一端を垣間見ること、そこらか何かを学びとること、それはすなわち、現在の私たちの卑近な世界を検分することと同意義なのではないかということに気がつく。

 

『Difiant Life』は、全体的に見ると、はじめと終わりが繋がった円環構造のように考えることも出来ますが、むしろ生命の神秘的な側面である''生々流転''のような意味が含まれているのではないかというように推測出来ます。生々流転というのは、様々な生命や意識がいつの時代も流動的に動きながら、無限の空間をうごめき、社会という共同体を形成していることを意味している。


アルバムの音楽の片々に見出だせるのは、レフ・トルストイが『人生論』で明らかにしたように、人間の肉体ではなく、魂にこそ生命の本質があるという考えです。無論、本稿では神秘主義やスピリチュアリズムを推奨するものではないと付言しておきたいですが、人間の本質が魂(スピリット)にあるとする考えは、ギリシア思想の時代から受け継がれる普遍的な概念でもある。現代文明に生きる人々は、デジタルの分野やAIなど技術的な側面においては、中世の人々よりも遥かに先に進んでいる。もちろん、工業や宇宙事業などについてもまったく同様でしょう。

 

しかし、進化の中で退化した側面もある。本作の音楽を聴いていますと、多くの人々は文明という概念と引き換えに何かを見失ってきたのではないだろうかと考えさせられます。現代主義ーー合理性や利便性ーーという目に見える価値観と引き換えにし、人類は別の利点を血眼になって追いかけるようになった。それは断じて進化などというべきではなく、退廃以外の何物でもなかった。その結果として表側に現れたのが現代の代理戦争や民族浄化であるとすれば、納得のいくことであるように思えます。また、ガザの作家リファアト・アルアリイールさんは「人の死は数ではない」とおっしゃっていました。人間や生物の命を軽視し、別の何かに挿げ替えようとする。それは考えられるかぎりおいて最も恥ずべき行為であると言わざるをえません。本作はまさしく、そういった現代社会の風潮に対する''反抗''を意味する。それはまた、パレスチナの作家の遺志や彼が伝えようとしたことを後世に受け継ぐ内容でもある。「Difiant Life」は、10年後、20年後も、ECMの象徴的な作品となりえるかもしれない。いや、ぜひそうなってほしい。アルバムのライヒを思わせるアートワークのモチーフを見れば瞭然と言えるでしょう。

 

 

 

100/100

 

 





Vijyar Iver/ Wadada Leo Smith『Difiant Life』ECMより本日発売。

 



アメリカのエージェントから送られてきたプレスリリースの中で最も注目しているのが、Fake Dad。しかし、週末のレビューで紹介するとは微塵も思っていなかった。フェイク・ダッドは、ロサンゼルスのインディーロックバンドで、MOMMA、Wet Legを彷彿とさせる素晴らしいデュオ。しかもロサンゼルスらしく良い具合に力が抜けていて、音楽がそれほどシリアスになりすぎない。現在、シリアスな世界に必要とされているのは脱力感あるサウンドです。


フェイク・ダッドことアンドレア・デ・ヴァローナとジョシュ・フォードは、ロサンゼルスを拠点に活動するニューヨーク育ちのインディー・ロック・ミーツ・ドリーム・ポップ・デュオです。 フェイク・ダッドは、ポップでキャッチーなフック、90年代にインスパイアされたクランチーなギター、グルーヴィーなベースライン、そして浮遊感のあるシンセサイザーを駆使し、酔わせるようなカラフルな音楽的フュージョンを創り出す。 独特のプロダクション・サウンドと特徴的なヴォーカルを持つ2人は、自分たちのアパートで作曲とレコーディングを行っている。


『Holly Wholesome And The Slut Machine』には、バンドが作り上げた、怒り狂ったハンバーガーをひっくり返すピエロ、星をめぐる騎士、仮面をかぶった睡眠麻痺の悪魔などなど、作り物の世界に生きるキャラクターたちの音楽物語が収められている。 アルバムを通して、アンドレアとジョシュは、恋愛パートナーとしての自分たちのアイデンティティやセクシュアリティなど、自分たちが生きてきた経験のリアルな側面をフィクションを使って解き明かしていることに気づいた。


この1年、フェイク・ダッドはポーザーに執着してきた。 特にロック・ミュージックのポーザーは、自分ではない誰かのふりをするアーティストが作る音楽には魅力がある。 取り分け、ロックの様々なサブジャンルにおいて、"フェイク "は少し汚い言葉かもしれない。 しかし、アンドレアとジョシュが、彼らの時代以前のお気に入りのアーティストを掘り下げていくうちに、キャラクターを演じることはロック音楽の遺産とかなり深く関わっていることが明らかになった。 


フェイク・ダッドという名前からは、彼らのジャンルを知る手がかりはほとんど得られないが、7曲入りのEPは、夏のエネルギーをにじませている。難なく歌えるし、紛れもなく感染させ、あらゆるドライブ旅行のプレイリストに入るメロディーを満載している。 しかし、その爽やかでポップなサウンドに惑わされてはいけない。歌詞は、想像されるようなのんきなものではなく、フェイク・ダッドは、怒り狂ったハンバーガーをひっくり返すピエロ、星を追う騎士、仮面をかぶった睡眠麻痺の悪魔など、作り物の世界に住むキャラクターを作り出している。


EP全体を通して90年代の雰囲気が漂っており、シンセとドライブ感のあるドラムとベースのバックボーンが融合し、ギターにさらなるパンチを与えている。 オルタナティヴ・ポップの黄金期を踏襲しながらも、モダンでダイナミックなミックスに仕上がっている。


アンドレアの歌声は各曲に難なく適応し、曲のムードに合わせてトーンや強弱を変化させる。窓を開けての夏のロングドライブのサウンドトラックを探している人も、単演奏が終わった後もずっと心に残る曲のセットを探している人にとって、「ホリー・ホールサム・アンド・ザ・スラット・マシーン」は最適なアルバム。 このバンドはノスタルジーと新鮮さのバランスの取り方を熟知している。



Fake Dad 『Holly Wholesome And The Slut Machine』 EP -  Father Figure Music

 



 

プロジェクト名だけではよくわからないかもしれないが、アルバム・ジャケットとかアーティスト写真を見れば、フェイク・ダッドの志すところはなんとなく理解出来る。フェイク・ダッドは、シリアスな世の中にウィットに富んだユーモアをもたらそとしている。


少なくとも、フェイク・ダッドは現在のアメリカ国内の情勢、彼等がツアーなどで体験した出来事に対して、もしくは音楽業界の問題に風刺や際どいユーモアをもたらす。

 

このアルバムはデュオにとってデビュー作のような意味を持ち、自己紹介がわりとしては平均的な水準以上のものを提示している。知る限りにおいて、彼等は少なくとも現実のシリアスな側面とは異なる斜に構えた方向からニッチな視点を押し出してしているが、それは少なくとも音楽にも見えやすい形で乗り移っている。


しかし、フェイク・ダッドがこういうワイアードなスタンスを取るようになったのには理由がありそうだ。音楽業界の奇妙な慣習や暗黙の了解に接したアンドレアとジョッシュは、これらの慣習をシニカルに風刺することにより、彼等らしいやり方を提示する。それはアルバムの最後を飾り、なおかつハイライトとなる「Machinery」における音楽業界へのカウンター的な位置取りが、爽快感のあるカタルシスを与えてくれるのである。暗黙の了解やルールに内在的に反抗するという姿勢は、クローズ曲だけではなく、アルバムの全体に通底しているように思える。


音楽業界に対する風刺的な姿勢がこういった''モンスター''を生み出したとはいえるが、Fake Dadの音楽は驚くほど軽くてポップ。また、その中には西海岸のパンクからの系譜も受け継がれ、Offspringの傑作『Americana』に見出だせる力の抜けたロックサウンドが顕著である。 それが現代的なベッドルームポップーー自主制作の音楽としてのポップーー、Wet Legのようなニューウェイブの要素、MOMMAのような現代的なインディーロックの要素と絡み合い、フェイク・ダッドらしい軽妙なロックソングが作り出される。そして、それらのロックソングを生み出すための土壌となるのが、アンドレア、ジョッシュというパートナーが作り出す幻想の世界なのだ。


ここでは、カルト的な意味を持つ様々なキャラクターがコメディー映画さながらに登場し、音楽のフィクションの要素を転回させる働きを成している。小説や映画と同じように、「この音楽はフィクションです」と断った上でロックソングが始まるが、リスナーはそれと相反するリアリズムを必ずといっていいほど把捉することになるだろう。『Holly Wholesome And The Slut』は、フィクションの要素を使用してリアリズムを描くという技法が取り入れられている。しかしながら、音楽は以外なほど軽快であり、ほとんど停滞するような瞬間はない。

 

彼等は、Fake Dadを知らないリスナーに対して、ポップバンガー「Cyrbaby」を挨拶代わりにお見舞いする。Wet Legのようなニューウェイブの範疇にあるエレクトロポップの要素、そして、インディーロックのシンプルな技法を用いて、軽快なロックソングを提供している。一見すると、少しチープに聞こえるが、病みつきになりそうな要素を持っている。複雑化したロックのイディオムに抵抗するという態度はまさしく、彼等がパンクのルーツを持つことの証とも成り得る。80年代のハードロック・ギタリストの演奏を徹底して下手にしたようなギター(実は上手い)、調子外れなボーカルなどなど、面白さが満載であり、それらはサーカスのような楽しさがある。これこそ、現代人が忘れ去ったユーモアの重要性をリスナーに教えさとしてくれる。そしてお膝元のハリウッドへの言及などを通して、揶揄的なユーモアを歌うのである。おそらく、この曲を聴き終えた後、気難しい表情をしている人々の顔がぱっと明るくなるだろう。

 

もう一つ見過ごせないのが、西海岸のミュージックシーンの重要な核心であるヨット・ロックの要素である。彼等は、マグダレナ・ベイなどのネオ・サイケデリアの要素と結びつけ、それらを軽快でゆったりとしたポップソングに落とし込んでいる。


「Odyssey To Venice」は想像上のイタリアへの旅を意味し、ディスコサウンドの系譜にあるエレクトロの要素とポピュラー性が組み合わされ、バブリーな感覚が引き出される。この曲では、人生を謳歌するという姿勢が軽妙な感覚を付与する。それはボヘミアン的な人生観を反映させたと言える。見方を変えれば、人生における遊びの感覚、物事を深刻に取らすぎないことへの賞賛が謳われている。イントロではチープな印象がサビにおけるゴージャスなアレンジによってポップバンガーへと変化する。曲の印象が驚くほど一変する瞬間は聞き逃すことが出来ない。

 

「WANTO」はデモテープのようなローファイな音質で始まる。 最初のイントロは、iPhoneのガレージバンドで録音したような音質だが、フィルター処理の後、劇的の音楽の印象が変化する。彼等の展開させるロックソングのイディオムの中には、DIIIV、DEHDといった現代的なドリームポップバンドーーネオシューゲイズに属するバンドの影響が含まれている。しかし、現代的なロックバンドの多くの場合と同様に、ギターサウンドは、轟音性ではなく、”合理性”に焦点が絞られている。つまり、拡大する音像ではなく、減退するシンプルな音像が重視されている。


これらは、現代のポップソングやTikTokのサウンドの影響があり、ギターワークが滑らかに聞こえるように洗練されているのである。これは、ロックソングの余剰性を一貫して削ぎ落としたもので、現代のロックの核心である洗練性や簡素性を印象づける。ボーカルに関しては、西海岸のヨット・ロックーーチルウェイブを反映させた軽いポップソングーーが反映されている。ちなみに、ロサンゼルスからは、ディスコ、チルウェイブ、それから、ポップとロックを組み合わせた”LAサウンド”が今後、雨後の筍のように、わらわらと出てくることが予想される。これらは、シリアスな音楽に対するカウンターの動きであり、バランサーのような意味がある。

 

 

「WANTO」

 

 

 

表向きに言っていることとやっていることが違うという人々がいるが、フェイク・ダッドはそういった二律背反的なロックソングを書く。そして、本当に意図するところがわからず、どうしても深読みしたり勘ぐったりしてしまうというものである。しかし、そういった中で、「So Simple!」 では、非常にわかりやすいロックソングを聞くことが出来る。エレクトロのベースがブンブンうなる中、ドラムのハイハット、シンバルのパンのLRの振りわけを駆使し、ドライブ感のあるロックソングが作り上げられる。ボーカルにも創意工夫が凝らされ、スポークンワードやラップのような形でラフに入っていき、全体的なロックソングのミックスに上手く溶け込んでいく。全体的にはアリス・クーパーの「School’s Out」のようなベタでクラシカルなロックソングの枠組みの中で、シニカルな風刺やモダンな感覚を持つボーカルのフレーズを披露していく。


しかし、これらは、技術や方法論にがんじがらめになったロックソングとは対象的に、ロックそのものの、わかりやすさ、親しみやすさという重要な要素を明瞭な形で思いださせてくれる。そして、もったいぶったようなメロからサビへの飛躍こそが、このロックバンドの魅力でもある。こういった曲は、現代のロックシーンから見ると、少し物足りないと思うかもしれないが、一方で聴いた後、頭がすっきりする。要するにロックのカタルシスを追い求めた曲なのだ。

 

「フェイク・ダッドの音楽は溌剌としていて軽快だ!!」 と、多くの耳の肥えた論者は評するかもしれないが、「Little Fake」と次曲は例外となるだろう。どのような人物にも複数の感情が渦巻くのと同じように、この曲では、ナイーブでダークな感情が露わとなる。しかし、一曲の単位で聴いたときと、アルバムの一曲として聴いたときに、まったく印象が変わる場合がある。


同じように、「Little Fake」は単体で聞くと、アンニュイで感傷性を感じさせる一曲であるのは事実なのだが、全体的なアルバムとして聴いたとき、琴線に触れるような趣を持つようになる。それは感傷的というか、陰影のある抽象的な印象を軽妙なサウンドの背景に滲ませるのである。この曲はグランジとその音楽性に含まれるポップネスに注目した新しいロックソングである。

  

「ON/OFF」 は、ライブツアーで体験した日常/非日常の経験における戸惑いの気持ちが感情的なポップスとして刻印されている。しかし、陰影のあるメロに対してサビはバンガー調である。こういったライブツアーに関する感情を日記のように織り交ぜた曲は先週のアニー・ディルッソの曲にも存在したが、鈍い感覚とそれとは対極的なハイな感覚というのを主題とし、音楽として象っているのはさすがと言える。


やはりグランジやポスト・グランジと地続きにあるが、バンガー的な性質が重視されている。しかし、メタ的な視点が込められている。過去の自分の姿を離れた場所から見て戸惑うという、ナイーブな感覚が含まれている。アンドレアとジョッシュの二人は、ロックソングを通して、怒りや悲しみといった感情の落とし所というか、納得すべき点を探っているようにも思える。アルバムの中では非常にセンチメンタルな印象があり、何らかの切ない気持ちを呼び起こす。

 

そういった紆余曲折が、この数年間の両者の実生活であったと見ても違和感はない。しかし、人生にまつわる悲しみや楽しさ、それらをひっくるめて肯定的に捉えようという心意気を感じる。それこそがフェイクダッドの素晴らしさなのだ。これが最終的に、道化的な印象を持つフェイク・ダッドという存在を生み出した。どのような存在も”土壌なくしては”実在しえないのだ。


現在のアメリカの姿や風潮を反映させた音楽は、他にもたくさん存在するが、フェイク・ダッドも必然的に登場したロックデュオである。クローズを飾るラフなインディーロックソング「Machinery」は、彼等のライブにおいて、代表的なアンセミックなナンバーとなりそう。今後、Bella Unionに所属する北欧のインディーロックバンド、Pom Pokoとのツアーによって、その実力が明らかになる。ぜひ、以降のライブツアーで大きな旋風を巻き起こしてもらいたいです。

 

 

 

 

85/100

 

 

 

「Machinery」 - Best Track

 

 

 

 



Annie DiRusso(アニー・ディルッソ)は散歩をしている時、着想が湧いてきた。ロラパルーザに出演するためにシカゴの街を散歩している時に天啓のようにアーティストの心をとらえたのだった。


「アルバム制作を始めてすぐにこのタイトルは決まっていました」と、ディルッソは語っています。彼女は大学に通うため、2017年からニューヨークからナッシュビルの街に引っ越しをした。


「私は免許を持っていないから、どこへでも歩いていく。運転可能な街であるナッシュビルで何年も無免許だったから、食料品店まで歩いて行ったりして、自分にとって歩きやすい街にしていたのよ」


シンガーソングライターは音楽を難しく捉えることをせず、等身大の自己像をロックソングによって描き出そうとしている。少なくとも、本作は驚くほど聞きやすくシンプルかつ軽快なインディーロックソング集だ。


「『スーパー・ペデストリアン』は、私という人物を表現していると思うし、『イッツ・グッド・トゥ・ビー・ホット・イン・ザ・サマー』は、このアルバムの趣旨をよりストレートに表現していると思う。ようするにデビューアルバムとしては、少し自己紹介のようなことをしたかったんだと思う」


アーティスト自身のレーベルから本日発売された『Super Pedestrian』には、ディルッソが2017年から2022年にかけてリリースした12枚のシングルと、高評価を得た2023年のEP『God, I Hate This Place』で探求したディストーションとメロディの融合をベースにした切ないロックソングが11曲収録されている。 これらのレコーディングはすべてプロデューサーのジェイソン・カミングスと共に行われ、新作は2023年にミネアポリスで行われたショーの後にディルッソが出会ったケイレブ・ライト(Hippo Campus、Raffaella、Samia)が指揮を執った。


「ジェイソンとの仕事は好きだったし、長い付き合いと仕事のやり方があった。けれど、今回のフルレングスのアルバムでは、自分のサウンドをどう広げられるか、何か違うことをやってみたいと思った。いろいろなプロデューサーと話をしたんだけど、ケイレブというアイディアに戻った」


アルバムは2024年2月と3月にノースカロライナ州アッシュヴィルのドロップ・オブ・サン・スタジオで録音された。 『スーパー・ペデストリアン』の公演では、彼女が歌とギターを担当し、マルチインストゥルメンタリストのイーデン・ジョエルがベース、キーボード、ドラム、追加ギターなどすべての楽器を演奏した。 今作には共作者のサミア(「Back in Town」)とラストン・ケリー(「Wearing Pants Again」)がゲスト・バッキング・ヴォーカルとして参加している。


また、ディルッソは年に5.6曲のペースで曲を書きあげる。それほど多作な制作者ではないと彼女は自負している。しかし、もし、このアルバムが飛躍作になるとするなら、それは彼女の人間としての成長、かつてのお気に入りのファッションがすでに似合わなくなったことを意味する。過去の自分にちょっとした寂しさを感じながら惜別を告げるというもの。しかし、アルバムの作品では、内面と向き合ったことにより、過去の自分との軋轢のようなものも生じていて、それはディストーションという形でこのアルバムの中に雷鳴のように鳴り渡る。しかし、それは心地よい響きを導く。シンガーソングライターが一歩前に進んだ証拠でもあるのだから。


「前回のツアーが終了したとき、私は23歳でした。あのツアーは本当に大好きだったけれど、18歳か19歳か20歳の頃に書いた曲を毎晩演奏していたし、その頃に着ていたような服を着ていました。ツアーから離れたことで、自分自身と向き合わなければならなかったと思う。だから、このアルバムは、もう少し地に足をつけたところから生まれたと思う。EPがもう少し体の外側から内側を見つめたものだったのに対して、もう少し体の内側から外側を見つめたものなの」



 Annie DiRusso  『Super Pedestrian』- Summer Soup Songs  (Self Label) 



 

アニー・デルッソの記念すべきデビュー・アルバム『Super Pedestrian』は、ウィリアム・サローヤンというアメリカの作家の名作『The Human Comedy(人間喜劇)』をふと思い起こさせる。それは人間の持つ美しさ、純朴さ、それからエバーグリーンな輝きをどこかにとどめているからである。そもそも、青春の輝きというのは、多くの人々の心に魅惑的に映る。そして多くの人々は、その宝石のようなものを血眼になって自分自身の内外に探し求めたりするが、容易には見つからない。それは、美しい青春というものが二度とは帰って来ず、ふと気づいた時に背後に遠ざかっているものだからだ。そして、興味深いことに、エバーグリーンと言う感覚は、その瞬間に感じるものではなく、ずいぶんと後になって、その時代の自分が青春の最中を生きていたことを思いかえすようになるのである。つまり、これは、土地に対する郷愁ではなく、過去の自分自身に対する郷愁を感じる瞬間である。それはどのような人も通ってきた道である。

 

文学的だというと少し大げさになるかもしれない。それでも、このアルバムに流れる音楽がソングライターの人生を雪の結晶のように澄明に映し出すのは事実である。その素朴な感覚は都市部から離れたナッシュビルという土地でしか作り得なかったものではないか。ニューヨークにいたら、こういうアルバムにはならなかっただろう。なぜなら、有名な都市部は、世界のクローバリゼーションに支配されており、異常なほどの画一性に染め上げられている。アニー・ディルッソは、自動車には乗れないかもしれないが、しかし、乗馬という特技を持っているのだから本当にすごい。


このアルバムには、現代のアメリカ人の多くが見失ったスピリットが偏在している。多くのアメリカ人は、グローバリゼーションの渦中に生きており、海の向こうの異質な文化や気風にプレッシャーを感じると、過敏な反応を起こすことがある。その反動として過激なアティテュードにあらわれたりもする。それは日本人にもありえることであるが、その中で最もアメリカらしい純粋さや純朴さをどこかの時代に忘れてきたのではないか。少なくとも、そういったアメリカの本当の魅力に触れた時、感動的な気分を覚えるのである。

 

このアルバムは最近のアメリカのインディーロックアルバムの中で”最もアメリカらしい”と言える。それはまた、海外の人間から見ると、アメリカの人々にしか出来ない音楽ということである。 最近のアメリカのミュージシャンは異常なほど海外の人々からの評判や目を気にする。まるで彼等は、アメリカがどう見られているのかを四六時中気にするかのようである。そして、奇妙なほど世界的な文化、外側からみた何かを提示しようと躍起になるのである。ところが、このアルバムはそのかぎりではない。終盤の収録曲に登場するヤンキースの伝説的なヒーロー、ディレク・ジーターへの賞賛は、ヘミングウェイ文学にも登場する地域性を明確に織り込んでいて、海外の人間にとってはものすごく心を惹かれるし、なぜか楽しそうに聞こえるのである。例えば、この曲には画一性とは異なる、その土地の人にしかなしえない表現が含まれている。近年、それは田舎性として見なされることもあるが、本当にそうなのか。海外の人間がディレク・ジーターを称賛したとしても、それは大して面白いものにはなりえないのである。

 

ライブツアーというのは、非現実的な生活空間に属することをつい忘れがちである。例えば、ミュージシャンがステージに上り、多数の観衆の前で演奏を披露する。その空間は、明らかにエンターテインメント業界が作り出した仮想現実である。素晴らしい瞬間であるに違いないが、同時に日常的な生活との乖離を生じさせる要因ともなる。こういった非現実的な生活、そして現実的な生活が続くことに戸惑いを覚えたり、精神のバランスを崩す人々は少なくないのである。どちらの自分が本物なのか。多くの人々は、そういったライブでの姿を本当の人物像であると思い込んでいる。けれども、こういった究極の問いの答えを見つける人は稀だと思う。アニー・ディルッソについてはシカゴのロラパルーザなど大型のライブステージの出演を経て、ナッシュビルに帰ってきた。喧騒の後の静けさ。ナッシュビルの自然の風景は何を彼女に語りかけたのだろうか。しかし、その時、ミュージシャンは本当の自分の戻ることが出来たのだ。 

 

アニー・ディルッソはライブツアーを一つの経験としてロックスターを目指すことも出来たはずである。 しかし、アルバムを聞くと分かる通り、音楽的な方向性はそれとは正反対にあり、むしろ自分自身に帰るための導線のようなものになっている。虚飾で音楽を塗り固める事もできたが、実際に出来上がった音楽は驚くほどに等身大だ。だからこそ聴きやすく親しみやすい。そして信頼出来るのは、音楽的な時流に翻弄されず、好きなものを追求しているという姿勢だ。 

 

それはアルバムのオープナー「Ovid」から出現し、心地よいインディーロックソングという形を通じて繰り広げられる。その中にはベッドルームポップ、グランジやカントリーといったこのアーティスト特有の表現が盛り込まれている。音楽から立ち上がるカントリーの雰囲気は、ルーシー・ダカス、スネイル・メイルの最初期のようなUSインディー性を発揮するのである。コード進行やボーカルも絶妙で、琴線に触れるような切ないメロディーとバンガーを作り出す。本作は、静かな環境で制作されたと思うが、鳴らされるロックは痛快なほどノイジーである。


また、USインディーロックを体現させる「Back In Town」は、ナッシュビルへの帰郷をテーマに、自分の過去の姿を対比的な「あなた」に仮託し、甘い感じのポップソングに昇華している。ローカルラジオで聞かれるようなカントリー風のポピュラーなロックソングを展開させる。ギター、ボーカルというシンプルな構成に導入される対旋律のシンセのレトロなフレーズが、このアルバムの内在的なモチーフである「過去の自分を回顧する」という内容をおもいおこさせる。それは制作者が述べている通り、着古した服に別れを告げるような寂しさも通底している。しかし、曲の印象は驚くほど、さっぱりしていて、軽妙な感覚を伝えようとしている。ナッシュビルと自分の人生を的確に連動させ、それらをカントリーで結びつけた「Leo」も秀逸である。これらはサッカー・マミーの最初期のようなベッドルームポップとカントリーの複合体としてのモダンなポップソングを踏襲し、それらをセンス十分のトラックに昇華している。

 

軽快なインディーポップ/インディーロックが続く中、グランジのようなオルトの範疇にあるギターの要素が押し出される瞬間がある。そして、これがナッシュビルへの郷愁という一つ目の主題に続く2つ目のモチーフのような形で作品中に出現し、それらがまるでバルザックの人物の再登場形式(別の作品に前に登場した人物が登場するという形式)のように、いくつかの曲の中に再登場する。


「Hungry」は、サビこそポップだが、全体的な曲のディレクションはギターロックの範疇にあり、ディストーションの効果が強調される。90年代初期のグランジのようなシアトル・サウンドの影響が含まれ、それらがノイズとなって曲そのものを支配している。 アンプからのフィードバックノイズを効果的に録音マイクで拾いながら、それらのノイズの要素をボーカルのポップネスと的確に対比させる。

 

USオルタナティブロックの流れを大きく変えたオリヴィア・ロドリゴの傑作アルバム『Gut』で示唆された「静と動の対比」というグランジのテーマの復刻をインディーポップの側面から見直した痛快なトラックとして十分楽しめる。ノイジーなロックと合わせてディルッソのバラードの才覚が続く「Leg」に発見出来る。


この曲はツアーを共にしたSamia、もしくはSoccer Mommy(サッカー・マミー)の最初期のポップネスの影響を感じさせる。繊細で内向的な音楽の気風は前曲と同様にグランジロックの反映により、ダークネスとセンチメンタルな感情の領域を揺れ動く。注目すべきは、ボーカルをいくつもダブのように多重録音し、アンセミックなフレーズの畝りを作り上げたりと、トラックをバンガーへと変化させるため、様々な工夫が凝らされている。そして音量的なダイナミクスと起伏を設け、変幻自在にラウドとサイレンスの間を行き来する。

 

前述したグランジの要素が鮮烈に曲の表側に押し出される「I Am The Deer」は、パール・ジャムのような方向性とはかなり異なるが、”ポスト・グランジ”の時代を予見するトラックである。 この曲では、ガレージ・ロックのようなラフでローファイな要素、Z世代のベッドルーム・ポップ、そして旧来のシアトルのグランジを結びつけ、新しいロックのイディオムを提示する。これは2020年代後半の女性ソングライターのロックソングの”モデル”ともなりえる一曲だ。


特に、グランジだけではなく、Pixiesの最初期のジョーイ・サンティアゴ、Weezerのリヴァース・クオモのようなオルタネイトなスケールがサビの箇所で登場し、それらがスタジアム・ロックのような形式で繰り広げられる。これは、制作者の若い時代のロックスターへの情熱が長い時を経て蘇ってきた形である。


特に、バッキング・ギターのミュート奏法が曲に心地よいリズム感をもたらし、メタリックでメロディアスな音楽性を形作り、Def Leppardのような古典的なソングライティングの魅力が現れる。この80年代のUKハードロックの手法は、LAのハードロックの台頭によって形骸化し、使い古されたかのように思えたが、まだまだ現代のロックソングに通用する求心力がある。

 

 「I Am The Deer」

 

 

 

序盤は必ずしもそうではないけれど、ローカルな魅力に焦点を絞った音楽が本作の中盤以降の核心を担う。カントリー/フォークの魅力を再訪した「Wearing Pants Again」は、アメリカーナに希釈されつつある音楽の持つ民族性へ接近する。これらは、失われたアメリカのスピリットをどこかにスタンドさながらに召喚させ、田舎地方にある原初的な美しさ、次いで幻想性という主題を発現させる。それはまるでフォークナーの傑作『8月の光』、もしくは傑作短編小説「乾いた9月」のアメリカ南部の空想的な側面と幻想性を音楽の片々に留め、ヨクナパトーファ、ないしは、シャーウッド・アンダソンの現実と仮想の間にある”架空のアメリカ”を作り出す。しかし、ここであらためて確認しておきたいのは、幻想という概念は、日常と地続きに存在する。これらのーー現実の底にある空想性ーーは、不思議なことに、アメリカの植民地時代の日本文学の最も重要な主題である”現実との対比的な構造”と分かちがたく結びついていたのだった。(遠藤周作の「沈黙」など) ということで、これらの奇妙な空想性は、密接に現代アメリカの側面と結びついているだけではなく、日本から見ても何らかの親近感が込められている。

 

 

さて、そうした真摯な音楽性もある中で、「Drek Jeter」はワイアードな響きを持ち、ロックソングとしての癒やしの瞬間をもたらす。ニューヨークのヤンキース・スタジアムのチャントの歓声は、ミスフィッツの『Static Age』の「TV Casualty」のような、USサブカルチャーの要素と結びつき、ゾンビみたいに変化する。「現代人のほとんどはゾンビ!!」と言った日本の映画監督が居たが、そういった同調圧力の感覚を表されていて、とりもなおさず、ソングライターがソンビのように変身してしまう瞬間なのである。これを聴いてどのように感じるかは人それぞれだが、奇妙な揶揄が滲んでいる気がする。さらに『テキサス・チェーンソー』のようなグロテスクとコメディーの要素が結びついて、史上最もアングラなパンクロックソングが誕生した。この曲には、シニカルな風刺が滲み、内輪向けの奇妙な悪ノリ、アメリカの表面上の明るさの裏側にある暗いユーモアが滲み出ている。それは乾いた笑いのようなものを呼び起こし、内的な崩壊やセクシャルな要素という、ソングライターの一時期の自己を反映させている。この曲は、着色料をふんだんに用いたチョコレートやキャンディーのような毒々しい風味を持つ。それとは対比的に軽快な印象を持つ「Good Ass Movie」では青春映画のような一面が現れる。

 

 

こういったアメリカの文化の多層性が織り交ぜられながら、時折、純粋になったかと思えば、毒気を持ち、また毒気をもったかと思えば、再びストリートになる。ある意味では外的な環境に押しつぶされそうになりながら、すれすれのところで持ちこたえるソングライターの姿、それは何か現代的な日本人の感覚にも共通するものがあり、スカッとしたカタルシスをもたらす。そして、きわめて多彩な側面をサイコロの目のように提示しながら、アルバムの終盤には圧巻とも呼ぶべき瞬間が用意されている。「Wet」は、今年聴いたUSインディーの中で最も魅力的に聞こえる。ポピュラー/ロックのシンプルさ、そして一般性が豊かな感性をもって紡がれる。この曲はベッドルームポップの次の音楽を予見し、2020年代の象徴的な音楽ともいえる。

 

タイトルだけで心を揺さぶられる曲というのは稀にしか実在しないが、クローズ「It's Good To Be Hot In The Summer」は例外である。制作者は”自己紹介のような意味を持つ”と説明しているが、タイトルだけで切ない気分になる。例えば、アメリカのインディーロックファンには避けて通れない、Atarisの「Boys Of Summer」、Saves The Dayの「Anywhere With You」を彷彿とさせるが、実際の音楽はそれ以上に素晴らしい。


叙情的なイントロのギターとボーカルに続いて、アニー・デルッソの人物像が明らかになる瞬間である。そして、この曲こそ、エバーグリーンな感覚が滲んでいる。心を揺さぶるような良質で美しいメロディー、さらにツアー生活とその後の人生を振り返るようなクロニクルであり、その向こうにはナッシュビルとニューヨークの二つの情景が重なり合い、感動的な瞬間を呼び起こす。このクローズ曲は圧巻で涙腺を刺激する。2025年のインディーロックの最高の一曲かもしれない。

 

 

10年後になって振り返った時、アーティストはこういった曲を書いたことを誇りに思うに違いない。

 

 

 

94/100

 

 

 「It's Good To Be Hot In The Summer」-Best Track

 

 

 

 



 

 今週紹介するのはカリフォルニア州サンタアナで育ち、現在はロサンゼルスに住むシンガーソングライターのミヤ・フォリックです。シンガーは2015年の『Strange Darling』と2017年の『Give It To Me EP』という2枚のEPで初めて称賛を集めた。フォリックの2018年テリブル・レコーズ/インタースコープから発売されたデビューアルバム『Premonitions』は、NPR、GQ、Pitchfork、The FADERなど多くの批評家から称賛を浴びたほか、NPRのタイニー・デスク・コンサートに出演し、ヘッドライン・ライヴを完売させ、以降、ミヤは世界中のフェスティバルに出演した。


 『Erotica Veronica(エロティカ・ヴェロニカ)』のアルバム・ジャケットは、ミヤ・フォリックがアンジェルス国有林の高いところにある泥の穴の縁に腰を下ろし、大地と原始の中間に化石化した熱病の夢のように手足を悠々と広げている姿をとらえている。 それは適切な肖像画とも言えるでしょう。ミヤは本能に突き動かされ、その複雑さに行き詰まるのではなく、成長の泥沼に引き込まれていく。 この図太い精神が、彼女に最新フル・アルバム『Erotica Veronica』(近日発売、Nettwerk Music Group)をセルフ・プロデュースさせたのだった。キャッチーな歌詞のセンス、鋭敏な音楽的職人技、そして彼女の特徴である跳躍するようなアクロバティックな歌声が飽和状態となっている。


 『エロチカ・ヴェロニカ』の前身であるデビュー作『Premonitions』と2ndアルバム『Roach』は、いずれも青春狂想曲として各メディアから高評価を得ている。 『エロティカ・ヴェロニカ』についても同じようなことを言いたくなる。結局のところ、この新しいアルバムは、快楽主義と恐怖の青春の淵で揺れ動きながら、性の探求に真っ向から突っ走る女性の姿を示している。 しかし、若者の野生の自由とは異なり、これらの放浪の精神は、生きた経験によってのみ得られる特別な知恵と深みに下支えされている。おそらく、『Premonitions』の魔女のような謎解きと、ローチが持っている苛烈なまでの正直さが、彼女を官能の世界へ深く飛び込む準備をさせたのでしょう。



 ミツキ、フェイ・ウェブスター、ジャパニーズ・ハウスとツアーし、長編映画『Cora Bora』の音楽を担当したこの数年の集大成であるこのアルバムは、ミヤのプライベートな世界への回帰である。 ハチミツのように甘くて、そして心の痛みのよう苦々しい、それぞれの薬効を交互に聴かせてくれる。 ミヤのパワーは、好奇心の輪郭の下に湧き上がり、このシンガーソングライターを大胆であると同時に心に染みる深遠な存在にしている。 『エロチカ・ベロニカ』は、彼女のサイコセクシュアル、サイコセンシュアルの傑作であり、自己実現と統合の万華鏡のような肖像画である。


このアルバムは、残酷で燃え尽きそうな多忙なツアーの後、1ヵ月半の間に書き上げられました。 ストレートなインディ・ロックのレコードを作ろうと決意したミヤは、アルバムの大半をギターで書き上げた。


 共同プロデューサー兼ドラマーとしてサム・KS(ユース・ラグーン、エンジェル・オルセン)を迎え、ギターにはメグ・ダフィー(ハンド・ハビッツ、パフューム・ジーニアス)、ウェイロン・レクター(ドミニク・ファイク、チャーリ・XCX)、グレッグ・ウールマン(パフューム・ジーニアス、SML)、ベースにはパット・ケリー(パフューム・ジーニアス、リーヴァイ・ターナー)といった、頻繁にコラボレートしているミュージシャンを起用した。 


 これらのミュージシャンの個人的なスタイルとスキルに寄り添いながら、フォリックはリアルなライブ・サウンドを捉えることを意図してスタジオに入った。 透明感のある音像は、このアルバムのテーマである猫のゆりかごにふさわしい。 リリックでは、相反する気分や感情が交差し、まるでミヤが自分自身の内側の迷路を通って活力を取り戻す道をたどっているかのようだ。


 タイトル曲『エロチカ』は、ミヤが息を弾ませながらロマンチックに歌っている。 "白昼の街角で女の子といちゃつきたいんだ/太陽に焼かれた彼女のひび割れた唇が見えるようだ。僕にちょっと寄り添っているように"。 この曲は、うららかな春の光に照らされたシダのように展開し、きらめくピアノの旋律が私たちを幻想へと誘う。 


しかし、多幸感あふれる春の空気の下で、私たちはこのレコードにつきまとうジレンマの匂いを嗅ぎ取らざるをえない。この告白の受け手には相手がいる。この曲とアルバムは、自分の欲望が文化が許す狭いチャンネルよりも複雑な場合、どうするのが正しいのだろうか、と問いかけているようだ。 


このアルバムのテーマは、自分自身と社会を巧みに結びつけている。最近のアメリカ国内のクイアに対するファシスト的な弾圧、そしてその迫害に関する痛みや慟哭を聞いたとしてもそれは偶然ではない。「このアルバムは、ヘテロ規範的な人間関係の構造の中で、あるいはそういった社会の中で、クィアであることについて歌っている」とミヤは説明する。 「私たちはお互いに、自由に探求し、自分自身の正しい道を見つけるための十分な余地を与えていないと思う」


 

Miya Folick 『Erotica Veronica』- Nettwerk Music Group 






 ミヤ・フォリックは、このアルバムにおいて、自身の精神的な危機を赤裸々に歌っており、それは奇異なことに、現代アメリカのファシズムに対するアンチテーゼの代用のような強烈な風刺やメッセージともなっている。アルバムの五曲目に収録されている「Fist」という曲を聞くと、見過ごせない歌詞が登場する。これは個人の実存が脅かされた時に発せられる内的な慟哭のような叫び、そして聞くだけで胸が痛くなるような叫びだ。これらは内在的に現代アメリカの社会問題を暗示させ、私達の心を捉えて離さない。時期的には新政権の時代に書かれた曲とは限らないのに、結果的には、偶然にも、現代アメリカの社会情勢と重なってしまったのである。
 
 
 現在、Deerhoofなど米国の有志のミュージシャンが、これらのマイノリティに対する、ある意味では圧政とも呼ぶべき悪法や動向に関して声を上げている。そして、ロサンゼルスのフォリックのアルバムも同様に、表側には噴出しないアメリカの内在的な問題が繊細に織り込まれている。しかし、それが例えば、クラシックなタイプのロックソングと融合したとき、このシンガーのダイナミックな実像が浮かび上がってくる。結局、そういった音楽には圧倒されるものがあるというか、何かしら頭を下げざるえない。つまり、深い敬意を表するしかなくなるのだ。
 
 
 本作が意義深いと思う理由は、ミヤ・フォリックの他に参加したスタジオ・ミュージシャンのほとんどがメインストリームのバックミュージシャンとして活躍する人々であるということ。このアルバムは、確かにソロ作ではあるのだけれど、複数の秀逸なスタジオ・ミュージシャンがいなくては完成されなかったものではないかと思う。特に、 メグ・フィーのギターは圧巻の瞬間を生み出し、全般的なポピュラー・ソングにロックの側面から強い影響を及ぼす。
 
 
 序盤は、旧来から培ってきたインディーポップのセンスが生かされ、聴きやすく軽やかなナンバーが並んでいる。アルバムの冒頭を飾る「Erotica」白昼の街角で女の子といちゃつきたいんだ/太陽に焼かれた彼女のひび割れた唇が見えるようだ。僕にちょっと寄り添っているように"。 この曲は、うららかな春の光に照らされたシダのように展開し、きらめくピアノの旋律が私たちを幻想へと誘う。 映画のサウンドトラックのような神秘的なイントロに続いて、軽快なインディーポップソングが続いていく。全体的なイメージとは正反対に軽快な滑り出しである。
 
 
 続く「La Da Da」も同様に爽やかな雰囲気を持つフォーク・ソングとなっている。心に染みるような切ない歌声をベースとしたメロの部分とは対象的に曲のタイトルを軽やかに歌う時、ロック的な性質が強調され、珠玉のポップソングが生み出される。それらの旋律をなぞるピアノもまたそれらの楽しい気分やイメージを上手く増長させる。まるでこの曲は草原のような開けた場所で歌うシンガーソングライターの姿を音楽として幻想的に体現させたかのようである。
 
 
 この数年、ミヤ・フォリックは旧譜においてインディーポップやオルトポップの作曲に磨きをかけてきたが、それらが見事に花開いた瞬間が先行シングルとして公開された「Alaska」である。「あなたを失うかもしれない "というセリフは二重表現になっています。カバー・アートのために日本語に訳したとき、「I am able to 」という動詞と、「It is possible [to lose you]」という動詞を使いましたとミヤ・フォリックは説明する。「この曲は、自分との関係が自分にとってどれだけ大切なものなのかについて。そして自分との関係をどれだけ大切にしているのか、折り合いをつけるための曲でもある。私の人生でこの人を失ったら悲しいけれど、私自身を失ったら同じように悲しい」 曲のベースとなるシンセのピアノの演奏とフォリックのボーカルは、人間関係を失うことへのおそれを歌っている。ギター、ドラム、シンセを中心とした曲は、2分40秒ごろから軽快な雰囲気に変化して、未来に向けて歩みだすような明るさがある。
 
 
 「Felicity」は打ち込みのサウンドとポピュラーソングが結びつき、良曲に昇華されている。LAのインディーポップソングの系譜をこの曲に見出すことが出来るはずである。この曲は、(多くの曲とは異なり)もともとアコースティック・ギターで書かれた曲ではなかった。その代わりにジャレッド・ソロモン(レミ・ウルフ、ドラ・ジャー、ローラ・ヤング)と共同でこの曲を書き、シンセと木管楽器を重ねた。ジル・ライアンのフルートは、ミヤのボーカルの軽快さの下で陽気に揺れ、祝福の感覚を与える。 「この曲は、あまり知られていないフェリシティという言葉の定義を指し示している。"自分の考えに適切な表現を見つけること"であり、ミヤは、"このアルバムの礎石である”と定義づける。 フェリシティが示唆するように、適切な表現は、私たちを愛する人たち、そして私たち自身とのより親密なつながりをもたらしてくれる。 


 「Fist」はセンチメンタルな雰囲気を持ち、胸を打つような素晴らしいポップソングとなっている。アルバムのハイライト曲の一つとなりそう。アコースティックの弾き語りで始まり、そして抑揚をつけながら、劇的なロックソングへと移行していく。この曲の冒頭では、切ない感覚を織り交ぜながら続く展開へと繋げていく。日常的な暮らしをテーマにしながら、ミヤ・フォリックは自分自身の存在する理由のようなものを探る。その中には自虐的を越え、かなりシリアスな表現も垣間見ることが出来るが、この時、感動的な瞬間が訪れる。曲の後半ではディストーションギターが轟音性を増すが、それらの轟音は途絶え、曲の最初のメロがアウトロで帰ってきて感動的な余韻を残す。まるで数年のアーティストの人生をかたどったかのようである。
 
 
 
 
「Fist」 
 
 
 
 
 
 
 「This Time Around」はタイムマシーンのように過去へ舞い戻る曲だという。 アコースティックギターをベースにしたポップソングで、気持ちを揺り動かす何かがある。この曲は、ミヤがタイムトラベルして、遠い昔の恋愛に耽溺していた自分の姿に戻るところから始まる。 ダルセットなボーカルが、諦念と虚弱さを描いた衝撃的な歌詞と厳しいコントラストを描いている。 この曲は過去の自分への子守唄のように感じられる。 ''携帯で読んだ手紙には、あなたをイかせるために、なぜ私が首を絞められなければならなかったのか教えてくれた''と歌うように、現在のミヤが、パズルのピースをするように、自分の苦しみを現在のジグソーパズルにどうはめ込むかを考えているのが聞こえてくる。このトラックにおいて過去の自分との折り合いをつける。アルバムの中で最も異色とも言えるのが続く「Prism Of Light」。80,90年代のニューウェイブやシンセポップの系譜を踏襲しているが、サビがアンセミックな響きを醸し出す。


 「ライブ録音を意識して作られた」という本作であるが、その影響が色濃く出た瞬間もある。「Hate Me」はグランジ的な主題であるが、実際の曲は暗さと明るさという対極の感情が表現されている。明確に言及するのは難しいものの、インディーロックという制作前の着想が上手く昇華された楽曲である。そこには、過去の戸惑いや苦悩、逡巡といった感情に別れを告げるような感覚が漂い、聞き手にカタルシスのような心地良い爽快感をもたらす。それはロックソングとして少数派であるがゆえ、強固な説得力を持つ。特に、ここでもバンドの盤石な演奏と同時にギタリストのメグ・ダフィが活躍し、絶妙なコード進行でボーカルの旋律の輪郭づけをしている。そして、曲自体は、なだらかな曲線を描くようにして上昇していき、高音域のボーカルが最後になって登場する。そして、この瞬間、何か上空を覆っていた雲間から光が差し込むような神々しさが立ちあらわれる。最後のヴァーズまで高い音域のボーカルを温存し、対極的なフレーズを作り出す。実際的に、バンガーを意識した見事なポップソングとして楽しめるはず。

 

 

真を穿った作曲性(ソングライティング)とも言うべきか、ミヤ・フォリックの音楽は非常にリアリティがあるような気がする。しかし、アルバムの休憩ともいうべき箇所があり、これが良い味を出している。アーティストの真面目な性格とは異なるフレンドリーな表情を見出すことも出来る。「Hypergiant」はヨットロックやチルアウト風の曲で、まさしく西海岸の音楽シーンに呼応した内容となっている。細野晴臣の「Honemoon」のような歌謡と洋楽の融合の雰囲気を感じることも出来る。シリアルな作風の中にあるオアシスのような存在である。しかし、その蜃気楼のような幻影は、まるで夏の陽炎のように遠ざかり、再びリアリティのある楽曲が立ち上がる。

 

 

しっとりしたバラードのように始まる「Love Wants Me Dead」も素晴らしい曲であり、アルバムの最後に深い余韻を残す。静かな立ち上がりから、徐々に胸を打つ感動的な音へと変化していくが、これらの一曲の中で何か内側に芽吹いた茎のようなものがすくすくと成長し、そしてこの曲は大輪の花を咲かせる。もしくはさなぎであった歌手が蝶になり大空に羽ばたいていく瞬間を見事に録音として把捉している。それはまた、失望や絶望のような感情から汲み出されるほんの束の間の人生の鮮やかな息吹の奔流のようでもある。そしてそのパワフルなエネルギーを感じ取った時、ポピュラーソングの本物の魅力が表側にあらわれる。この曲は、序盤のハイライト曲「Fist」と同じように、ダイナミックな変遷をたどり、そして劇的な瞬間を曲の最後で迎える。再三再四、言及しているが、このアルバムを傑作に近い内容にした理由は、ソングライターが何を制作したいのか明確にしていたこと、そして、それを手助けする秀逸なバックミュージシャンがいたからである。表向きの功績としてはミヤ・フォリックのものであるが、おそらく歌手はこのアルバムに参加した多くのミュージシャンに感謝しているに違いない。そしてその瞬間、まったくこの曲の意味が反転し、愛に溢れたものに変わるということなのである。

 
 
 本作の最後は、まるでその余韻に浸るかのように静かな印象を持つインディーフォーク・ソングで締めくくっている。最後の曲だけはデモソングのような音質を強調しているが、ボーカルは非常に美しい。そして、その美麗なボーカルの質感を上手く引き出すために、木管楽器が活躍する。アルバムの冒頭でほのめかされたシネマティックなサウンドにクローズで回帰するという円環構造である。これらの11曲は殆どむらがなく、そして続けて聞かせる集中性を保っている。そして大切なのは、音楽を制作する個人だけではなく、正確に言えば録音に携わった人々の思いが凝縮されていることである。一方ならぬ思い入れが入り込んでいるため、胸を打つ。聴いたかぎりでは、作品の構成が完璧であり、録音の水準も極めて高い。そして何より、人の手で何かひとつずつ丹念に音楽を作り上げているような気がして素晴らしいと思った。今年上半期の最高のポピュラーアルバム。個人的にも何度も聞き返したいと思っています。
 
 
 
 
 
96/100
 
 
 
 
「Love Wants Me Dead」
 
 
 
 
*Miya Folickのニューアルバム『Erotica Veronica」はNettwerk Music Groupから本日発売。 アルバムのストリーミングはこちらから。
 
 









NaoはロンドンのR&Bシンガー。かつてバックアップ・ヴォーカリストだった彼女はBBCの革新的な新人ミュージシャンを選ぶ「サウンド・オブ・2016」に選出されている。


ネオ・ジェシカ・ジョシュア、イギリスのノッティンガムで育ったナオは、イギリス中を旅した後、最終的にイースト・ロンドンに落ち着いた。彼女は、ナス、ミッシー・エリオット、ブランディが大好きで育ち、ゴスペルが特に好きになった。「ゴスペルをいつも聴いていた。アレサ・フランクリンは、ゴスペル・シンガーでありながらメインストリームになった人の良い例です。彼女は自分の声を完全に解放した。あんなことができる人はあまりいない」


「18歳ぐらいになると、たいていの人は自分のやりたいことを決めたがる。大学に入り、科目を選択しなければならない」と彼女は言う。 法律の授業に退屈していたナオは、音楽に没頭し、ジャズの作曲を学んだ。


2014年、あるマネージャーがナイトクラブで彼女が歌っているのを見つけ、なぜまだ彼女のことを知らないのかと尋ねた。 その後すぐに、彼女は教師業やバック・シンガーの仕事を辞め、デモ・レコーディングを始めた。 その年の10月に最初のトラック「So Good」がリリースされ、2015年5月にはEP『February 15』がリリースされた。


「舞台裏から表舞台に出るというのは、実に美しい瞬間でした」と彼女は言う。「 バック・シンガーだったとき、これが私だったらいいのにと思ったことは一度もなかった。 私はその役でとても幸せだった。 でも、初めて自分として表舞台に立つ瞬間が来たとき、それまで経験したことのない、まったく違うエネルギーに包まれたし、観客の人たちが自分の歌を知っているというのは本当に特別なことだった。 観客が自分の歌を知っているというのは本当に特別なことだった」


「自分の家族の構成や家族のダイナミズムが、自分が存在している空間とは大きく異なっていることを実感していました。両親は一緒にいなかったし、異母兄弟なんて聞いたこともなかったという感じだった。ちょっと控えめで、自分に自信がないのは、そういうところから来ているのかもしれない」


2016年のデビュー作『For All We Know』では、ボイスノートとシルキーでシンセの効いたファンクで埋め尽くし、謎めいたジャイ・ポールとその兄弟AKポールと仕事をした。 絶え間ないアウトプットに執着する業界の異端児であるジャイ・ポールの遺産は、2007年のマイスペースのデモ曲『BTSTU』という、大きな影響力を持つ1曲によって大きく後押しされている。


ナオは多作であり、『Jupiter』は4枚目のフルアルバムであるが、彼女は創作意欲を削ぐ同世代のアーティストたちから学び、初期の誇大広告を凌駕する安定したキャリアを培ってきた。 アルゴリズムがまだ定着していなかった時代に登場したナオは、アーティストにとって状況は難しくなっているという。基本的に、多くの場合、音楽業界そのものはバイラルヒットを待っている。 伝統的なプロモーション方法よりもソーシャルメディアやバイラルが優勢になっているため、業界自体も流動的な状態にあると彼女は付け加えた。


2021年以来の4作目となる最新アルバム『Jupiter』は、発売元のSony Musicによると、精神的なテーマを掘り下げ、新しい一面が表現されているという。「土星は教訓の惑星であり、非常に変革的なタフな惑星です。そして木星は、喜びと豊かさと愛、幸運と幸運の惑星です。それはとても魔法の惑星です。私は人生で本当に良い場所にいると感じています、そして私はそれを祝い、それを私のリスナーと共有したかったので、彼らも彼らの木星を少し持つことができるでしょう」

 

「今作を聴いて、自己の喜びの波動が美しく変化するのを感じてもらえたら嬉しい」と彼女は語っている。

 


NAO 『Jupiter』- Sony Music

 

ナオは2016年に「サウンド・オブ・2016」に選出されてから、燃え尽き症候群のようになり、しばらくツアーを中断していた。高度な資本主義社会では、ある意味、社会全体が刺激的なものが氾濫している。また、同時に便利になりすぎていることから、人々の多くは心が疲れきっている。それはたぶん自分らしく生きることが日に日に難しくなっているからだと思われる。


例えば、成果主義に翻弄された人々がどこかで大きな壁に直面するように、過度な名声や重圧がのしかかることもある。同様に、歌手もこの現象に遭遇せざるを得なかった。結果的にそれはミュージシャンとして活動するのを妨げる難病として現れた。しかし、現在は、ツアーも再開され、回復の途上にあるようだ。ニューアルバムは燃え尽き症候群からの立ち直り、ミュージシャンとしての再生を意味している。その象徴となるのがジュピター、ーー希望の星ーーなのである。

 

アルバムの制作期間は、一個人としての変革期に当たった。母親として妊娠中であり、その多くはかなり疲れていたという。それにもかかわらず、『Jupiter』は明るい気分とエネルギーに満ちている。そして歌手の人生から汲み出された慈愛の精神がこのアルバムの一つのテーマである。それらが、彼女が信奉するボーイズⅡメン、アッシャー、ミッシー・エリオット、ブランディ、さらにはリトル・ドラゴン、ジェイムス・ブレイク、SBTRKTの影響下にあるダンスミュージックとR&Bの中間域にある音楽性がめくるめく様に展開されていく。30分半あまりの簡潔なアルバムとなっているが、これはまちがいなくミュージシャンにとっての人生の重要なスナップショットでもある。このアルバムの期間を後に思い返した時、重要な意味を持つことだろう。

 

『Jupiter』は音楽業界に携わってきた人間として何らかの折り合いをつけるためのアルバムと言えるか。肯定的に見ると、様々な内側の感情が渦巻く中、自分の歩んできた道のりを容認し、誇りに思うということである。分けても、多くの場合、有名アーティストはソーシャルメディアとの付き合いに翻弄され、プレイベートを尊重する人々にとって長い時間そこに滞在することは大きなストレスとなる。そこには生きることへの不安を増長させるもので溢れかえっているからである。こういった情報を上手く活用する人々もいるが、もちろん、そういったたぐいの人たちばかりではない。時々、そういった情報の波に飲み込まれてしまう人もいる。無数に氾濫する情報は、多くの場合、ノイズになることも多く、自分の考えを阻害するものなのである。

 

そして、Naoの場合、そういった存在を容認しつつも、ほどよい付き合い方を考えていた。結果的に現れたのが、アルバムの''希望''という道筋だった。商業を肯定的に捉えた上で、自分なりのやり方を築くことである。もう一つは、彼女の母親のルーツであるジャマイカやロンドンのコミュニティやカルチャーのあり方を再確認し、それらを音楽として具現化しようということである。


結末としては、UKベースライン、ディープ・ハウス、バレアリック、ダンスフロアの音楽に付随するチルアウト、つまりクールダウンのためのダンスミュージックを中心にポピュラーの世界が繰り広げられる。それらがオートチューンやピッチシフターのような機械的な効果を及ぼすボーカルと合致し、トレンドの音楽が構築される。これらは考え方によっては、資本主義社会や現代的なテクノロジー、そして、無数の情報が氾濫する社会の中でどのように生きるべきかを探り、そしてそれを楽観的に乗り切ろうというアーティストなりの考えが音楽に通底している。

 

ナオの歌は驚くほど楽観的であり開放的な感覚に充ちている。これは年代の壁を越えたということでもある。かつて歌手は、若さを手放すことが難しくなるという悩みを持っていたが、概念上の架空のものに過ぎなかった。そういった何歳までに天職に就くというような考えに距離を置くことに決めたのである。それがある意味では吹っ切れたような感覚を生み出し、ベースラインを基調にしたディープハウスと掛け合わされ、驚くべきことに若々しい印象すら生み出している。これは年齢上の老いや若さではなく、人生に対する手応えが溌剌とした印象を生み出し、人生を生きているという実感が乗り移り、軽快なダンスポップナンバー「Wild Flowers」が作り出されたというわけである。しかも、それらがキャッチーでダイナミックな印象を放っている。

 

 

 「Wild Flower」

 

 

 

「Elevate」は、アーバン・コンテンポラリーを意識したトラックで、クインシーやマーヴィンといった80年代のきらびやかなR&Bを下地にして、その後に現代的なソウルナンバーを提供している。そういった中で「Happy People」は、ギターの録音を介して王道のポップソングに挑む。どちらかといえば、これは遠目から幸福な人々を歌っていて、歌手の幸福という概念が徐々に変化していくプロセスが捉えられている。プエルトリコやラテンアメリカの情熱と哀愁の合間にある音楽、そしてそれらが市井の人々の声を反映させたサンプリングと交互に繰り広げられる。ディープハウスはもとより、レゲトンの要素をからめた爽快な楽曲として楽しめる。

 

「Light Years」はマリブ・ステートやプールサイドを彷彿とさせる西海岸風のチルアウトである。ヨットロック風のギターで始まり、 まったりとしていて安らいだ感覚を持つバラード風のR&Bへと変遷する。ベースを起点として、リバーブを印象づける空間的なギターのアルペジオ、ナオのボーカルが合わさり、音楽の印象が決定づけられる。その後、この曲はドラマティックな雰囲気を帯びはじめ、シンセストリングスで雰囲気づけをし、豊かな情感を帯び始める。その後、ピアノの録音を交え、ボーカルは美麗な瞬間を象る。夕日を砂浜からぼんやりと眺めるときのあの美しい感覚だ。そしてサビではドラムフィルが入り、この曲はダイナミックな変遷を辿っていく。ボーカルも素晴らしく、華麗なビブラートが曲の雰囲気を盛り上げる。


続く「We All Win」ではイビサ島のバレアリックのサウンドを踏襲し、EDMの高らかな感覚を表現する。ユーロビート、レイヴ、ハウスを合致させ、ハリのあるサウンドを生み出す。この曲でもリゾートのダンスフロアの音楽性が維持され、リラックスした空気感を放っている。続いて、「Poolside」も同じ系譜に属するが、この曲ではよりポピュラーソングの側面が生かされ、サビでのアンセミックな響きが強調される。踊ることも聞き入ることも出来る絶妙な一曲である。

 

 

「30 Something」は、新しい世代のゴスペルソングのような趣を持つ。精妙なハモンド・オルガンをかたどったシンセの伴奏のイントロのあと、ベッドルームポップを系譜にあるバラードが続く。王道のポピュラーソングの構成をもとに、ギターの演奏のサンプリングの導入などを通じて構造に変化をもたらす。そしてサビでは、わかりやすいシンプルなフレーズが登場する。ここでは、旧来のバックボーカリストとしての役割を離れ、メインボーカリストとして活躍するに至った人生の流れが描かれている。それはまた本来の姿に生まれ変わったような瞬間が立ちあらわれる。この瞬間、聞き手としては歌手に少しだけ近づけたというような実感を持つ。これらはライブを通して歌手が培ってきた手応えが含まれている。それはアーティスト側と聞き手という本来であれば遠くに離れた空間を繋げるような役割を持つ。続く「Just Drive」では、同じような精妙な感覚をもとに、ダンサンブルな重力を持つナンバーを作り上げている。ベースラインの強いローエンドの出力に加え、グリッチの組み合わせが迫力をもたらしている。

 

たいてい、制作された順番に沿って曲が収録されることは多くはないと思われる。しかし、このアルバムは、面白いことに、 アーティストとしての人生のスナップショットやワンカットが曲ごとに順繰りに流れていくような気がする。部分的に何らかの情景としてぼんやりと伝わることもあるし、また、感覚的なものとして心に伝わってくることも。一見したところ、フルレングスとしては分散的であるように思えなくもない。しかし、しっかりと聞き進めていくと、何らかの一連の流れのようなものが備わっているのがわかる。それは音楽的なディレイクションとしてではなく、人生の流れや意識の流れのような感覚をどこかに併せ持っているのである。

 

本作はNaoがバックコーラスとしての音楽家のキャリアを歩み始め、いくつかの逡巡に直面し、そして、一つずつ克服していくような過程が刻みこまれ、最終的にはソロボーカリスト(個人)としての地位の確立というテーマに直結している。要するに、音楽作品が人生の一部分を反映していると称せるかもしれない。そして、それは、泣きたいような瞬間、心から快哉を叫びたくなるような素晴らしい時間をすべて内包している。シンガーは、バックボーカリストとして働いていた時代も、メインボーカリストに憧れることはあまりなかったというが、アルバムの終盤の曲を聴くかぎりでは、心の中でソロで活動することにようやく踏ん切りがついたという印象を抱く。そして、それは実に、2016年にBBCが取り上げた時点からおよそ九年目のことだった。

 

ソロシンガーとしての威風堂々たる雰囲気を捉えることも出来るのがアルバムの表題曲「Jupiiter」。おそらく、これは前作まではなかったオーラのようなものが身についた瞬間ではないか。アルバムの終盤はどうだろうか。グリッチを突き出したダンストラック「All of Me」ではチャペル・ローンのような2020年代のトレンドの歌手に引けを取らない実力を発揮する。アルバムのクローズはアコースティックギターをフィーチャーしたR&Bソングだ。前衛的なアプローチを図ったオルタネイトなR&Bも大きな魅力を感じるけれど、むしろ、こういったストレートな曲こそが、現代のUKソウルの最前線を象徴づけるといっても過言ではないでしょう。


 

 

 

90/100

 

 

Naoのニューアルバム『Jupiter』はソニーミュージックより2月21日に発売。詳細はこちら。 


 

「Elevate」

 


リチャード・ドーソン(Richard Dawson)はニューカッスル/アポンタイン出身のフォークミュージシャン。 アートビジュアルの作品も発表しています。2014年のアルバム『Nothing Important』はWeird Worldからリリースされ、批評家から絶賛された。 2017年のアルバム『Peasant』も同様の評価を受け、『The Quietus』誌のアルバム・オブ・ザ・イヤーに選ばれました。


ドーソンは長年にわたって地元ニューカッスルで多くの人々に愛されてきました。稀に見る激しさと特異なスタイルで歌い、ギターを弾く、歪んだトルバドールである。 まさしく現代に蘇った吟遊詩人と言えるかもしれません。

 

ドーソンのボロボロのアコースティック・ギターは、リチャード・ビショップやキャプテン・ビーフハートを彷彿とさせるような、つまずきから崇高さへと変化する。リチャード・ドーソンは、北東部のエレメンタル・アーケタイプの渦から長い草稿を引き出してきた。 大胆不敵なまでのリサーチとインスピレーションへの意欲で、ドーソンは古代の神話と現代の恐怖に彩られた印象的な音楽と語りのカタログを作り上げました。 


リチャード・ドーソンの多くのレコードには、病、トラウマ、無言の必然性の霧のような感覚が立ち込めており、それはしばしば、ドーソンの手が、持ち主と同じように傷つき、個性的で、不屈の楽器である、長年苦悩してきたギターから音を生み出す大混乱の中で表現されています。


リチャード・ドーソンのニューアルバム『End of the Middle』のタイトルは、実に微妙な矛盾をはらんでいる。中年? 中流階級? ドーソンのキャリアの中間点? レコードの中心? 一般的な中道主義? 二極化? 何かについてバランスの取れた議論をする可能性? あなたと真ん中? イングランドの真ん中? 中途半端な曲作り? 『エンド・オブ・ザ・ミドル』は、家族(同じ家族の何世代か)の営みを覗き見るような奇妙な美しい作品です。


「このアルバムは、小規模で非常に家庭的なものにしたかった」とドーソンは説明し、「そして、歌詞とメロディーが、曲の中で彼ら自身と人々を語れるようにしたかった」と付け加えている。物事を徹底的に削ぎ落とすことで、驚くほど冷静で、奇妙なほどエレガントで美しい音楽が完成した。

 

 

Richard Dawson 『End of the Middle』 -Domino Recording

 

果たして、この世に普遍な存在などあるのでしょうか。これは非常に難しい問題だと思います。多くの人々は何かが変わることを恐れますが、変わらないことは何ひとつもない。外側からは変わっていないように見えますが、その内側は、明らかな変化が生じているのです。こと、音楽に関していうならば、女性シンガーの年齢ととも人生におけるテーマの変化があるのと同様に、男性シンガーもまた年齢とともにテーマ(主題)が変わっていくのは当然のことでしょう。


結局のところ、自分が最も輝かしい時代だった頃と同じ主題を歌いたいという気持ちを持つことは分かるのですが、十年後に同じことを伝えることはむつかしい。なぜなら、十年後のその人物の人格は以前とは内側からも外側からも変わっているからです。その点では、ニューキャッスルのリチャード・ドーソンは、その年齢しかわからないことを音楽でストレートに伝えてくれます。


ドーソンの音楽には、その年齢の人々が知るべき何かが彫刻のように刻まれています。例えば、二十歳のミュージシャンと、四、五十代のミュージシャンでは伝えたい内容が全く異なるはずです。二十歳の人物が五十歳の表情をして音を奏でるのは妥当といえないでしょう。なぜなら、異なる年代に対して、その年代しか伝えられないことを伝えられるかがいちばん重要なのだから。

 

さらに、リチャードは、ニューキャッスルという街の風をリスナーのもとに届けてくれます。音楽というのは、制作者が感じたもの、そして生活の基底から引き出された感慨を伝えるためにある。そして、また、制作者のいる地域の特性を伝える。その中には、優雅なものもあれば、それとは対極的に素朴なものも存在する。どのような地域に住んでいようと、他の国や都市とは異なる特性が存在するはずで、それは同じ内容になりえないのである。そして、伝える人によって音楽の本質は異なる。なぜなら神様は、人間や生物に異なるキャラクターを付与することによって、おのおのの役割を分散させることにしたのです。結局のところ、なぜ音楽を創るのか、それから何を伝えたいか、これを明確にしないかぎり、本質に近づくことなどできないでしょう。

 

聞き手側としては、音楽の制作者の考えやそのひとがいる地域の特性に触れたとき、もしくはその本質に突き当たったとたんに、見ず知らずの人物の音楽が切実な意味を帯びはじめる。ドーソンの歌は、他の地域に住む人には作ることができず、ニューキャッスルの土地柄を的確に反映させている。

 

音楽というのは、離れた地域にあるリアリズムを伝える能力があるのをひしひしと感じることがあります。たとえば、リチャード・ドーソンのギター、そして歌は、吟遊詩人のような響きが込められています。しかし、彼の歌は、特権階級のためのものではありません。労働者階級のためのものでもあり、キャプテンビーフハートが志したブルースとロックの融合のように、胸にずしりとのしかかり、長い余韻を残す。ドーソンの歌はまったく重くなく、ブルースの要素はほとんどなく、それ以前の鉄道夫が歌ったレイルロード・ソングのペーソスに近い。でも、なぜか、それは現代の労働歌のような誠実な響きがあり、現実的な質感を持って私たちの心を捉えることがあります。

 

『End Of The Middle』は、切実なニュアンスを帯びています。アッパーとロウワーという二つの階級に現代社会が完全に分かたれていることを暗示する。そして多くの人は、その社会問題を矮小化したり、責任転嫁したり、もっと酷い場合には、まったく無きものとして無視したりすることもあるわけです。また、これらの二つの階級は、両者を敵視することも稀にあるでしょう。しかし、リチャード・ドーソンは、社会の基底にぽっかりと開いた空白のなかに位置取り、空想と現実がないまぜとなったフォークミュージックを説き聞かせるように優しく奏でます。それは現代社会に対する内向きな風刺のようでもあり、また、リリシズムの観点から見たアートの領域に属する。

 

リチャード・ドーソンのアコースティックギターは、ジム・オルークや彼のプロジェクトの出発であるGastr Del Solに近い。しかし、単なるアヴァンフォークなのかといえばそうとも言いがたい。彼の音楽にはセリエリズムは登場せず、しかも、明確な構成と和音の進行をもとに作られる。しかし、彼の演奏に前衛的な響きを感じるのはなぜなのか。ドーソンの音楽はカウンターに属し、ニューヨークパンクの源流に近く、The Fugsのようなアート志向のフォーク音楽の原点に近い。それは、以降のパティ・スミスのような詩的な感覚と現実感に満ちている。 彼の作品にひとたび触れれば、音楽という媒体が単なる絵空事とは言えないことが何となく理解してもらえるでしょう。

 

ドーソンの音楽は、米国の作家、ジャック・ケルアックの『On The Road』で有名な”ビートニク”の文化のヒッピー思想の系譜にある。ビートニクは西海岸から発生した文化と捉えられがちですが、ニューヨークのマンハッタンにもよく似たムーブメントがありました。例えば、アヴァンフォークの祖であるThe Fugsです。1965年の当時、マンハッタンのイースト/ウェストヴィレッジの路上で雑誌や詩集を販売していたトゥリ、そして、雑誌の編集長を務めていたエド・サンダースが「詩を読むだけでは不十分。曲を作って歌えるようにバンドをやろう」と結成したのが”The Fugs”だったのです。

 

一般的にはThe Velvet Undergroundがパンクの先駆者であるような紹介をされる場合が多いですが、以降のCBGBやノーウェイブの流れを呼び込んだのは、このフォークグループだったはずです。この最初のニューヨークのアヴァンギャルドミュージックの流れは、アリストテレスのギリシャ思想、ダダイズム、ジャズ、ポエトリー、ジョン・ケイジの前衛音楽、チャック・ベリーのR&R、それから賛美歌までを網羅し、どの音楽にも似ておらず、唯一無二のアヴァン・フォークの形態を確立させたのでした。まさしく様々な文化の折衝地であるマンハッタンの音楽。彼等は、現代社会の無気力や鋭い風刺を織り交ぜて、「月曜にはなにもないし、火曜にもないにもない!」と歌った。これはウディ・ガスリーやボブ・ディランのフォークよりも尖っていました。

 

リチャード・ドーソンのフォークミュージックは、フランク・ザッパ、キャプテン・ビーフハート/マジックバンドに象徴される''鬼才''ともいうべき特性によってつむがれ、ちょっと近寄りがたい印象もある。それは聞き手側がアーティストの個性的な雰囲気に物怖じしたり、たじろいだり、腰が引けるからです。でももし、純粋な感覚があれば、心に響く何かがあるはずです。賛美歌、ビートルズの『ラバーソウル』以降のアートロックの要素、パブロックのような渋さ、リバプール発祥のマージービート、それから60年代のフォークミュージック、そして、おそらくニューキャッスルの街角で聞かれるであろうストリートの演奏が混在し、ワイアードな形態が構築される。アルバムには、ほとんどエレクトリックの要素は稀にしか登場せず、音楽自体はアコースティックの素朴な印象に縁取られている。それにもかかわらず電撃的なのです。

 

アコースティックギターのガット弦の硬い響き、奥行きのあるドラムテイクの録音がこのアルバムの美点です。「Bolt」は、さながらシカゴのアヴァン・フォークの巨人であるジム・オルークを彷彿とさせる抽象的なサウンドで始まり、哀愁溢れるドーソンのヴォーカルが音楽的な世界をゆっくりと押し広げていきます。そして、アコースティックギターに合わせ、フランク・ザッパ的なボーカルが乗せられます。さらに、コード進行による弾き語り、それからもう一つの楽曲における対句のような構成を持つボーカルとのユニゾンなどを通して、対比的な音楽の構造を生み出し、そしてほとんど途切れることのないアヴァンフォークの音楽観を構築していく。


そしてそれは、日曜の休日のために歌われる賛美歌、安息日のための歌のような響きが強調されます。しかし、それは教会音楽のようなきらびやかな宗教歌ではなく、日曜の食卓で歌われるような質朴で控えめな歌/労働者のためのささやかな賛美歌です。かつてハンガリーにルーツを持つクラシックの音楽家が、「農民カンタータ」のような音楽を書いたように、一般的な市民のつましい暮らしを賛美するための素朴なフォークソングを、ドーソンはさらりと華麗に歌い上げます。これは、''誰に向けて歌われるのか''という意義を失いつつある現在の音楽に一石を投じる内容です。彼の音楽は、哀愁や暗さに満ちていますが、そこには共感性と癒やしが存在するわけです。

 

冒頭部は、夕暮れの切なさを思わせますが、続く「Gondola」は、意外なほど軽妙な印象を放つ。まるで故郷を飛び出し、ヴェネチアへ小さな旅行に出かけるように、陽気な気分を表現しています。しかし、商業的な音楽のように見え透いた明るさにはならない。それはまた一般的な人間の性質にある多極性、明るさのなかにある暗さ、あるいは、暗さのなかにある明るさ、というような正常な感覚をストレートに吐露しているからでしょう。この曲では、音楽制作者のペシミスティックな心情を鏡のように現実に反映させるかのように、和声進行は単調と長調の間をせわしなく行き来しています。音楽自体は、ちょっと陽気になったかと思えば、それと対象的に、悲しみに溢れる音楽の表情があらわになる。アコースティックギターの演奏はリズミカルで軽快なのに、ドーソンの歌のヴァーズはペシミスティックな感覚がある。これがトラックの背景となるメロトロンのぼんやりした響きと混在し、ビートルズのデモソングのような雰囲気を持ったラフなアートロック/アートポップソングが出来上がっていくのです。

 

 

 「Bullies」は、ロック風の曲をアコースティックで演奏しています。そして、表面的にはビートルズのルーツであるマージービートの系譜をうかがわせる。もしかすると、60年代以前には、リバプール、マンチェ、そういった主要な港町で船乗りが歌う「舟歌」のような音楽が存在しただろうと思われます。この曲は、そういった英国の「労働歌」を彷彿とさせる。最近、英国的な音楽というのが薄れつつある印象ですが、この曲は、海外の人間から見ると、奇妙なほど”英国的”である。それは王室の話題とは無縁な市井の人々のための音楽なのです。


そして、リズムも独特で面白いですが、この曲はなぜか心を奮い立たせる何かが存在します。おそらく、そういった民謡や労働歌のようなものに合わせて、ドーソンは自らの心情を織り交ぜたエモーショナルな歌を紡いでいる。この曲は、中盤以降、ポピュラーソングに接近したかと思えば、ジョン・ゾーンのようなサクソフォンの特殊奏法を通して、前衛音楽と商業音楽の間を変幻自在に行来し、印象を著しく変化させます。そして、曲は一貫して難解になりすぎず、叙情的なアルペジオのアコースティックギターの間奏を織り交ぜ、落ち着いていて聞きやすいフォークソングを展開させていく。

 

基本的には、リチャード・ドーソンのソングライティングは終止形を設けず、一つのフレーズの後、移調などの技法を用いて、曲の持つイメージを変化させ、そのまま息をきらさず、次の曲の進行へと繋げていく。これはどちらかといえば、クラシックの作曲法で、基音と次の転調の導入音を繋げて次の調性に転回していくのです。ドーソンの音楽は、ものすごく独創的であるため、一見すると、ポストモダニズムのように思えますが、必ずしもそうとは言いがたい。全体的に聴きこんでみると、楽節の枠組みを用意した上で、それを順繰りに繋げている。つまり、ガスター・デル・ソルやジム・オルークの音楽が脱構造の印象を持つのとは対象的であり、ドーソンの音楽はどこまでも構造性を重視しています。しかし、こういった一定の決まりがありながらも、自由闊達な気風を感じさせる。変幻自在なギターの演奏が繰り広げられ、一つの枠組みを通して音楽的な奥行きを広げていく。考え方によっては、そこにあると思っていたものがスッと消えてなくなり、ないと思っていたものがふと出現したりします。つまり、音楽的な驚きが満載なのです。

 

ドーソンのヴォーカルの魅力的な側面がひときわ際立つ瞬間もある。「The question」 では、いわゆる''ヘタウマ''のボーカルが登場し、気安く穏和な雰囲気のあるギターの音色と重なり合う。まさしく、ここでは冒頭で述べたように年齢を重ねたがゆえの深さ、包み込むような温かい感情があらわとなる。それがこのアルバムでは最も牧歌的な印象を持つ音楽とまざりあう。


曲の途中では、即興的な演奏が登場し、これが間奏の役割を担う。それが最終的にはサーカスの音楽のようなリズムと重なり合い、音楽的なエンターテインメント性を創り出す。そして、ドーソンはくるくると調性を移調させながら、面白いようにシークエンスを変化させる。すると、聞き手は、その感覚に釣り込まれるように、楽しみに充ちた感覚を享受する。さらに、わざとピッチ(音階)をずらしたファルセットを通じてコメディー的な音楽の要素を強める。これが少しシリアス過ぎる音楽が多い昨今の中で、ほのかな安らぎの要素をもたらすのです。音楽というのはときどき、固定観念から開放させる働きをなすこともあり、また、それが知られざる魅力でもある。サーカスのようなコメディーにもよく似た音楽は、旧来のビートルズやストーンズの直系にある。いや、もしかすると、見方によれば、フランク・ザッパ的であるのかもしれません。

 

「Boxing Day Sale」はタイトルが秀逸で、小説や映画のタイトルのようです。祝日の讃歌なのか。”ボクシング・デー”とは12月26日の休日で、いわゆる主人と召使いの関係を象徴付ける休日であるという。しかし、この曲には、バックストーリーのようなものが込められているような気がします。

 

アルバムの序盤の収録曲のように、哀愁溢れるメロディーと高らかなボーカルが特徴的です。しかし、一貫してドーソンの曲には奇妙な癒やしが感じられる。それは、暗さの向こうにある明るさともいうべきもので、ボーカルの真心にほっと安堵させられる。


この曲が、貧しき人々に捧げられたチャールズ・ディケンズの小説のような慈しみの音楽であっても驚くには当たりません。彼の歌声は純粋な響きがあり、それがゆえ琴線に触れる何かが込められています。ときどき、ほろりとさせるような人情を感じさせます。下町の風情といった感じでしょうか。

 

 

 「Boxing Day Sale」

 

 

 

いつの時代もポピュラーミュージックの醍醐味というのは、歌手や制作者の真心を表し、それが一般的ではないほど共感を誘う。''なぜそんなことを歌ったのか''という曲ほど、共鳴する部分があったりします。本意を明らかにせず、上辺の感情で別の思いを塗りたくるのは最善とはいいづらい。それはつまらないコマーシャル音楽に堕してしまい、聞き手を絶望のどん底に突き落とし、救われるところがほとんどないのです。暗さや悲しみに共鳴する曲がいつの時代から途絶えてしまい、それがいつ、偽りの音楽に塗り替えられたのでしょうか。そして誰がそれらを称賛しているのでしょうか。


「Knot」は、そういった奇妙な風潮に対抗するカウンターに位置づけられる音楽です。ここでは、ビートニクの範疇にある自由な考え、フリースタイルのフォークソングに縁取られている。こういった曲に共感を覚えるのは、どのような明るい人も暗い感情を内に抱えることがあるからなのでしょう。

 

アルバムの音楽を聞き進めていると、リチャード・ドーソンという人物が教会の聖職者のように思えてきます。しかし、彼の音楽やそれにまつわる思いは、一方方向ではなく、円環状の感覚に充ちています。みんなで輪を広げていこうというオープンな感覚で、そして、それは単一の考えを押し付けるものではなく、答えを見つけるための暗示に過ぎません。本作の音楽は、結局、明確な答えを示すためのものではなく、手がかりだけを示した上で、この音楽に接した人々がそれぞれの答えを見出すという趣旨なのです。多くの人々は、なんらかの明確な答えを求めたがり、ときに自分の理想とする人にそれをあてがってもらったりします。それでもたぶん、答えというのは、最終的には、それぞれが違ったものであるのだから、一つの正解は存在しません。それをおのおのが見つけていくべきなのでしょう。

 

『End Of The Middle』の素晴らしさは、世界からミドルが消えかけているという悲観論だけで終わらず、旧態依然とした世界から前に進むという建設的な考えがほのめかされている点にある。このアルバムの出発点はペシミズムにまみれていますが、アルバムの音楽の世界を歩き終わったあと、別の世界に繋がっていることに気づく。そのための道筋が以降の三曲に示唆されている。「Polytunnel」は、賛美歌をフォークミュージックでかたどったもので、何か清らかな感覚に充ちている。このアルバムの中では、最も気品に充ちた一曲かもしれません。

 

「Removals Van」はビートルズを彷彿とさせるフォークミュージックで、とてもさわやか。厳格に言えば、ジョージ・ハリスンやリンゴ・スターが歌いそうなユニークな一曲である。しかし、ドーソンらしい音楽性があり、感情の起伏という形であらわれる。実際的には、明るく軽快な曲調と哀愁のある曲調という対比によって導かれる。サックスかファゴットのアバンギャルドな響きを絡め、軽快さと前衛の間を巧みに揺れ動いている。ジャズなのか、フォークなのか、クラシックなのか、ロックなのか、それともポップスなのか?? いずれとも言えないですが、ここには、基本的には音楽を楽しむという最大の魅力が宿っている。そしてそれはジャンルを超えている。だからこそ聴いていて心地よいのでしょう。

 

クローズ曲だけは作風がかなり異なります。「More Than Real」ではモジュラーシンセが登場し、悠々たる雰囲気でドーソンはバラードソングを歌い上げています。 これまで一貫してギミック的な音楽を避けて、質朴な音楽を提示してきたソングライターの真骨頂のような瞬間を味わえます。まるでこの曲だけは、舞台やオペラの主人公になったかのように、ドーソンは明るく開けた感覚のボーカルを披露しています。聴いていると、同調して、なぜか開放的な気分になり、前向きで明るい気分になれるはずです。また、そこに、失望に打ちひしがれた人の心を癒やす何かがあると思います。

 

ゲストボーカルをあまり起用してきませんでしたが、クローズでは、女性ボーカルのソロが最後の最後で登場します。唐突にギリシア神話の女神が登場したかのような神々しさが充ち広がっていきます。最終的には、男女のデュエットという、真善美の瞬間が立ちあらわれる。次いで、この曲は、シンセサイザーやサックスの前衛的なパッセージに導かれ、エンディングを迎えます。アウトロの音の波形のうねりのフェードアウトは、ワープから去年発売されたロンドンのアーティストのEPのサウンドによく似ています。空の中の泳ぎ方の模倣。実にうまくやったなあという感じですね。

 

 

 

92/100

 

 

 

「Gondola」

 

 

 

■ Richard Dawson(リチャード・ドーソン)のニューアルバム『End of the Middle」は本日(2/14)、Domino Recordsingから発売済み。各種ストリーミングはこちらから。

 



Midwest(中西部)というのは、テキサスと並んで、アメリカの中でも最もワイアードな地域ではないかと思う。それは異なる文化や生活スタイルが折り重なる地域だからなのではないだろうか。ワイアードというのは、変わってはいるが、魅力的な面も大いにあるということ。ミッドウェストは、都市的な気風を持ちながらも、田舎性を併せ持ち、独特のコミュニティがおのずと構築される。先日、Cap n’ Jazzのメンバーが「Still Living(まだ生きている!!)」というカットソーのシャツを着て、写真に写っていたのを見たとき、なにか安堵するものがあった。音楽ファンとしては、元気でいるぜと対外的にアピールしてくれることが一番の幸せだからだ。

 

グランジやスロウコアを生み出したシアトル/アバディーンとならび、中西部のシカゴは、Tortoise,Cap N' Jazz,Ministry、スティーヴ・アルビニを輩出したことからも分かる通り、アメリカのアンダーグラウンドミュージックの発信地でありつづけてきた。古くはTouch & Go、現在はPolyvinlの本拠地だ。他でもなく、近年、自分が最も注目してきたのは中西部である。また、その中には、地理的には異なる北部に該当するが、(ボストンや)ペンシルベニアなどのラストベルトの地帯にも注目していた。この地域は、工業地帯で、NINなどインダストリアルな響きを持つ音楽が出てくる。ただ、印象としては、工業的な生産などが下火になるにつれて、トレント・レズナーのような天才は出てこなくなった。そして、アイオワなどのより田舎の地域に音楽のシーンは変遷していった。なぜなら、工業的な音が街から徐々に消えてしまったからである。

 

シカゴのFacsは、志を同じくするシカゴのユニット''Disappears''の後進ともいえるバンドである。彼らの音楽性はアートパンク、もしくはイギリス風に言うなら、ポストパンクに属するが、少なくとも、ボストンやワシントンDCのハードコア、シカゴのポスト世代のパンクを受け継ぐトリオである。ニューヨークをはじめとする、従来のハードコアパンクは激情的であったが、時代を経ると、インテリジェンスの側面を押し出すようになった。語弊はあるかもしれないが、頭脳がおろそかでは、パンクやオルトロックソングは出来ないのである。とくに、Facsは、ミニマリズムと空間を駆使し、アブストラクトでモダンなアートロックを創り出し、ポストパンクとポストロックの交差点に立つダークで推進力のある音楽を奏でる。彼らは、2018年のデビューアルバム『Negative Houses』において、音楽を最も強固なリズムの基盤まで削ぎ落とし、2020年の『Void Moments』と翌年の『Present Tense』では、より実験的でメロディを付け加えた。


Disappearsのベーシスト、デイモン・カルルエスコが自身のビジュアル・アートとエレクトロニック・プロジェクト、Tüthに専念するために脱退し、バンドは2016年後半に結成された。たが、 残されたギタリスト/ヴォーカリストのブライアン・ケース、ギタリストのジョナサン・ヴァン・ヘリック、ドラマーのノア・レガーは一緒に音楽を作り続けたいと考えた。ケースはベースに転向し、プロジェクト名をFacsに改めた。 ウェブオンラインでデモを投稿後、バンドはトラブル・イン・マインドと契約し、2017年6月にシカゴのエレクトリカル・オーディオ・スタジオでジョン・コングルトンとデビュー・アルバム『Negative Houses』をレコーディングした。


2018年3月の『Negative Houses』リリース直前に、ヴァン・ヘリックがFacsを脱退。 その後、ケースはギターに戻り、バンドは旧友である元We Regazziのドラマー、アリアンナ・カラバにベースの後任を頼んだ。セカンド・アルバムを制作するため、Facsはジョン・コングルトンと再会し、ブライアン・ケースのエレクトロニック・プロジェクト”Acteurs”のメンバーであるジェレミー・レモスとも仕事をした。 カラバとレジェのインタープレイに焦点を当て、ケースのメルヘンチックなギターのテクスチャーも加えた『Lifelike』は、2019年3月にリリースされた。 Trouble in Mindから2020年3月にリリースされた『Void Moments』では、バンドのメロディックな側面が顕在化した。 この年末、Facsのメンバーはスタジオに戻り、Electrical Audioのエンジニア、サンフォード・パーカーと一緒に仕事をし、一連の創作のプロセスを通じて自発的なアプローチをとった。続いて、4枚目のアルバム『Present Tense』は2021年5月にリリースされた。




今回、2018年にデビューアルバム『Negative Houses』をリリースする直前にグループから離れたオリジナルメンバー、ジョナサン・ヴァン・ヘリックが、長年のベーシスト、アリアンナ・カラバに代わってカムバックしたことによって、新たな活力と観点がもたらされた。ヴァン・ヘリックが在籍していた頃と、ブライアン・ケースや強力なプレイで知られるドラマー、ノア・レガーとともにDisappearsに在籍していた頃とでは、役割分担が明らかに変わっている。 この役割の逆転は、バンドのダイナミズムを強調し、さらに以前とは異なる音楽的視点を提供し、現在ではトリオの長年のコラボレーションを、ある程度の距離と時間をおいて下支えしている。


ブライアン・ケースは、「Wish Defense」の歌詞はドッペルゲンガーや 「替え玉」をテーマにしていて、自分自身と向き合い、自分の考えや動機を観察するというアイデアに取り組んでいると述べている。テーマは内的な闘いで、自分ともう一人の自分のせめぎ合いでもある。ブライアン・ケースによれば、最終的な感情は次のような内容に尽きるのだという。「......ろくでなしに負けるんじゃない、この瞬間の向こうに何かがある、それは希望のようなものだ」


「Wish Defense 」のアートワークは、原点回帰を意味する。これは「Negative Houses」のアートワークへのさりげない言及でもあり、アルバムのモノクロの暗さとミニマリズムに回帰している。本作のチェッカーボードは、ジャケットの前面と中央に印刷された歌詞と鏡のように映し出され、いたるところに自己を映し出している。


『Wish Defence』は二人の著名なエンジニアのリレーによって完成に導かれた。シカゴの代表的なミュージシャン、スティーヴ・アルビニが生前最後にエンジニアを務めた作品である。 スティーブが早すぎる死を遂げる直前の2024年5月初旬、シカゴのエレクトリカル・オーディオ・スタジオで2日間レコーディングされ、その24時間後、著名なエンジニアでデビュー当時からの友人でもあるサンフォード・パーカーがセッションの仕上げに入り、ヴォーカルとオーバーダブの最後の部分をトラッキングした。 

 

スティーヴ・アルビニはご存知のとおり、昨年5月7日に亡くなった。このアルバムは半ば忘れ去られかけたが、ジョン・コングルトンがそのバトンを受け継いだ。長年の共同制作者のコングルトンは、アルビニの遺志を引き継ぎ、エレクトリカル・オーディオのAルームで、テープから外し、セッションに関するアルビニのメモを使い、アルバムをミックスして、このアルバムを完成させた。



FACS 『Wish Defence』/  Trouble In Mind






スティーヴ・アルビニのサウンドは1980年代から一貫しているが、少しずつ変化している。例えば、Big Blackのようなプロジェクトは、ほとんどデモテープのような音質であり、MTRのマルチトラックのようなアナログ形式でレコーディングが行われていたという噂もある。アルビニのギターは、金属的な響きを持ち、まるでヘヴィメタルのようなサウンドのテイストを放っていた。その後、ルイヴィルのSlintのアルバムでは、ギタートラックのダイナミック・レンジを極限まで拡大させ、他のベースやドラムが埋もれるほどのミキシング/マスタリングを施した。また、ベースに激しいオーバードライヴを掛けるのも大きな特徴なのではないか。

 

こういったアンバランスなサウンドスタイルが俗に言う「Albini Sound」の基礎を形成したのだ。その後、アルビニは、Nirvanaの遺作『In Utero』で世界的なプロデューサー(生前のアルビニは、プロデューサーという言葉を嫌い、エンジニアという言葉を好んだ。「自分は業界人ではなく、専門的な技術者」という、彼なりの自負であろうと思われる)として知られるようになった。この90年代のレコーディングでは、ギターの圧倒的な存在感は維持されていたが、デイヴ・グロールのドラムも同じくらいの迫力を呈していた。90年代に入り、楽器ごとの音圧のバランスを重視するようになったが、依然として「ロックソングの重力」が強調されていた。アルビニのサウンドは、聴いていると、グイーンと下方に引っ張られるような感覚がある。以後、アルビニは、ロバート・プラントの作品を手掛けたりするうち、シカゴの大御所から世界的なエンジニアとして知られるようになった。最近では、アルビニは、MONOのアルバムも手掛けているが、ポストパンクというジャンルに注目していただろうと推測される。まだ存命していれば、この後、イギリスのポストパンクバンドの作品も手掛けていたかもしれない。

 

シカゴのFacsのアルバムは、 アルビニのお膝元である同地のエレクトリカル・オーディオ・スタジオで録音されたというが、奇妙な緊張感に充ちている。何かしら、真夜中のスタジオで生み出されたかのようで、人が寝静まった時間帯に人知れずレコーディングされたような作品である。トリオというシンプルな編成であるからか、ここには遠慮会釈はないし、そして独特の緊張感に満ちている。Facsはおそらく馴れ合いのために録音したのではなく、プロの仕事をやるためにこのアルバムを録音し、作品として残す必要があったのである。まるでこのアルバムがアルビニの生前最後の作品となるものとあらかじめ予測していたかのように、ケースを中心とするトリオはスタジオに入り、たった二日間で7曲をレコーディングした。これは驚愕である。『Wish Defense』は、80年代のTouch & Goの最初期のカタログのようなアンダーグラウンド性とアヴァンギャルドな感覚に充ちている。どれにも似ていないし、まったく孤絶している。

 

 

『Wish Defense』は、シンプルに言えば、イギリスの現行のポストパンクの文脈に近い。例えば、今週、奇しくもリリース日が重なったブリストルのSquid、ないしは、Idlesのデビュー当時のようなサウンドである。また、カナダのインディーロックバンド、Colaを思い浮かべる方もいるかもしれないし、日本のNumber Girlのセカンドアルバム『Sappukei』を連想する人もいるかもしれない。いくらでも事例を挙げることは出来るが、Facsは誰かのフォロワーにはならずに、オリジナルサウンドを徹底して貫いている。なぜなら、かれらの音楽は、中西部の奥深い場所から出てきたスピリットのようなものであり、上記のバンドに似ているようでいて、どれにも似ていないのである。もちろんサウンドの側面で意図するところも異なる。先にも述べたように、まるで四人目のメンバーにスティーヴ・アルビニが控えているかのようで、しかも、いくつかの曲のボーカルでは、アルビニ風の「Ha!」という特異なシャウトも取り入れられている。

 

そして、今回のアルビニ/コングルトンのサウンドは、ミックスの面でバランスが取れている。どの楽器が主役とも言えず、まさにトリオの演奏全体が主役となっていて、ボーカル、ギター、ベース、ドラムというシンプルな編成があるがゆえ、一触即発の雰囲気に満ちている。たとえば、オープナー「Taking Haunted」は、アルビニのShellac、ヨウのJesus Lizardに近く、グランジ・サウンドがベースラインを中心に構築される。ダークであり、90年代のアリス・イン・チェインズのような重力があるが、これらにモダンな要素をもたらすのが、ギターのピックアップの反響を増幅させ、倍音の帯域のダイナミクスを増強させたサウンドである。アトモスフェリックなギター、タムを中心とする音の配置を重視したタイトなドラム、それから、ケースのスポークンワードに近いボーカルが幾重にも折り重なっていく。ボーカルは重苦しく、閉塞感があり、ダークだが、その中にアルビニの最初期のボーカルからの影響も捉えられる。ニヒリズムを濃縮させたようなブライアン・ケースのボーカル、これは現実主義者が見た冷ややかなリアリズムであり、彼は決して目の前にある真実をごまかしたりしない。これらのストイックな風味を持つサウンドは、アルバムの序盤の独特な緊迫感にはっきりと乗り移っている。

 

2曲目の「Ordinary Voice」は画期的である。モグワイの最新作では惜しくも示しきれなかったポストロック/マスロックの新機軸を提示する。Big Blackの音楽性を彷彿とさせるメタリックなギターは、Dave Fridmann(デイヴ・フリッドマン)のマスタリングをはっきりと思い起こさせる。テープサチュレーターのような装置で最初の音源を濾過したようなサウンドで、ギターのフィードバックを強調させながら、アトモスフェリックなサウンドを組み上げていく。ざっくりとしたハイハットの4カウントが入ると、Facsのライブを間近で聴いているような気分になる。アトモスフェリックなギター、基音と対旋律を意識したベース、そして、和音的な影響を及ぼすドラム(ドラムは、リズムだけの楽器ではなく、和音や旋律の側面でも大きな影響をもたらす場合がある)そして、スロウテンポのタムが、これらのサウンドをぐるぐる掻き回していくような感じである。その中で、マイナー調のギターの分散和音が登場し、この曲のイメージをはっきりと決定づける。まさしくこの瞬間、オルタナティヴの音楽の魅力が真価をあらわすという感じなのである。そのあと、ドラムスティックでカウントを取り、曲はスムーズに転がっていく。ここにも、ケースのボーカリストとしてのニヒリスティックな性質が滲んでいる。そして、それは最終的に、バンドサウンドのタイトさと相まって、クールな印象をもたらす。

 

 

 「Ordinary Voice」

 

 

 

その後、このアルバムの音楽の世界は、シカゴの最深部に向かうのではなく、シアトルのアバディーンに少し寄り道をする。三曲目の「Wish Defense」では、例えば、Jesus Lizard、Melvins、それよりも古い、Green River、Mother Love Boneといったハードロックやメタルの範疇にある最初期のグランジを踏襲して、ベースを中心に構成が組み上げられていく。この曲では、例えば、デイヴィッド・ヨウのような90年代のメタリックなシャウトは登場しないが、楽節の反復ごとに休符を強調させる間の取れたミニマリズムの構成の中に、一貫して怜悧で透徹したブライアンのスポークンワードがきらめく。それは、暗闇の中に走る雷の閃光のようなものである。


そして、同じフレーズを繰り返しながら、バンドサウンドとしての熱狂的なポイントがどこかを探ろうとする。結果的には、昨年の秋頃、当サイトのインタビューバンドとして紹介したベルリンのバンド、Lawns(Gang of Fourのドラマー、トビアス・ハンブルが所属している)に近いサウンドが組み上げられていく。これらは、アルビニ/コングルトンという黄金コンビのエンジニアリングによって、聴いているだけで惚れ惚れしてしまうような艶やかな録音が作り上げられている。デイヴ・グロールのドラムのオマージュも登場し、バス、タムの交互の連打という、Nirvanaの曲などでお馴染みのドラムのプレイにより、曲のエナジーを少しずつ引き上げていく。少なくとも、このバンドの司令塔はドラムであり、アンサンブルを巧みに統率している。



アルバムの多くの曲は、似通った音楽のディレクションが取り入れられている。また、FACSのメンバーにせよ、録音の仕上げに取り組んだエンジニアにせよ、楽曲自体のバリエーションを最重視しているわけではないと思う。ところが、同じタイプの曲が続いたとしても、飽きさせないのが不思議である。そして、最も大切なのは、バンドのメンバーの熱量がレコーディングに乗り移っているということ。「A Room」では、Fugaziのようなサウンドをモチーフにし、ポストロックの曲が組み上げられる。しかし、Fugaziやその前身であるOne Last Wish、Rites Of Springに近いテイストがある一方、ギターのアルペジオにはミッドウェスト・エモや、それ以前のオリジナル・エモの影響が感じられる。従来のセンチメンタルな感覚ではなく、それとは対極的なNINのようなダークなフィーリングによってエモーショナルな質感が生みだされる。さらにバンドサウンド全般は、Sonic Youthの最初期のようにアヴァンギャルドということで、アメリカの多角的な文化的な背景や音楽観が無数にうごめくような一曲となっている。まさに、ワシントンDC、シカゴ、ニューヨークの従来のミュージックシーンが折り重なったような瞬間だ。

 

アルバムの序盤では、表向きには、不協和音、ミュージック・セリエル、ミュージック・コンクレートの要素がことさら強調されることはない。ただ、不協和音や歪みが強調されるのが、続く「Desire Path」となる。これはまた、Number Girl(向井秀徳/田淵ひさこのサウンド)を彷彿とさせる。あいかわらず、曲調そのものは、ダークで重苦しさに充ちているが、ある意味では、これこそが”オルタナティヴ・ロックの本質”を示唆している。イントロの後、ギターの波形を反復させながら、そこに、フェーザー、ディレイ、リバーブをかけ、グルーヴを作り出す。曲全体のイメージとしては、アブストラクトなアートパンクに変わるが、情報量の多いサウンドをまとめているのが、ドラムのリムショットを強調させたしなやかなビート。これらは、ドラムのダイナミックレンジを強調させ、ドラムの圧倒的な存在感を引き出し、ライヴサウンドに近づけるという、スティーヴ・アルビニの特徴的なサウンドワークを楽しむことが出来ると思う。

 

こういった曲が続けば、このアルバムは佳作の水準に留まったかもしれない。しかし、それだけでは終わらないのがすごい。その点がおそらく、今後の評価を二分させる要因ともなりえるかもしれない。「Sometimes Only」は、アンダーグランドのレベルの話ではあるが、オルタナティヴの稀代の名曲だ。本作の二曲目に収録されている「Ordinary Voice」と並んで、2020年代のオルタナティヴロック/ポストロックのシンボリックな楽曲となるかもしれない。2000年代以降は、オルタナティヴという言葉が宣伝のキャッチコピーみたいに安売りされるようになってしまい、結局、明らかにそうではない音楽まで”オルタナティヴ”と呼ばれることが多くなった。


断っておくと、このジャンルは、ミーハーな気分で出来るものではないらしいということである。どちらかといえば、求道者のような資質が必要であり、本来は気楽に出来るようなものではない。なぜなら、王道ができないのにもかかわらず、亜流が出来るなんてことはありえない。曲の土台を支えるのは、アルビニの系譜にあるニヒリスティックなボーカル、ハードコアパンクの派生ジャンルとして登場したエモである。曲の最後の仕上げには、Don Caballeroが使用したアナログ機器によりBPMを著しく変速させる本物のドリルが登場する。まさしく、シカゴ出身のバンドにしかなしえない偉業の一つ。この曲は、ミッドウェストらしい気風を感じさせる。

 

「Albini Sound」の不協和音の要素である「調和というポイントから遠ざかる」というのは、西洋美学の基礎である対比の概念に根ざしていて、調和がどこかに存在するからこそ、不調和が併存するということである。ここにあるのは、単なる音の寄せ集めのようなものではなく、ユング的な主題を通して繰り広げられる実存の探求である。そして、調和がどこかに存在しつつも、不協和音が力強く鳴り響くという側面では、''現代のアメリカ''という国家の様相を読み解くことも出来る。それは、中西部からの叫びのようなもので、苛烈なディストーションギターの不協和音が本作のエンディングに用意されている。そして、その”本物の音”に接した時、一般的な報道では見ることの叶わない中西部の実像のようなもの、そして、そこにリアルな感覚を持って力強く生きぬく市井の人々の姿が、音楽の向こうからぼんやりと浮かび上がってくるのだ。

 

 

 

94/100 

 

 



 

Lilies On Mars(リリーズ・オン・マーズ)、Stefano Guzzetti(ステファーノ・グッツェッティ)という、イタリアで結成されたロックトリオは、最も個性的なシューゲイズ・アルバムを制作することになった。インディーロックデュオ、映画のサウンドトラックで人気を誇る作曲家。実際、異色のコラボレーションと言えますが、完成されたアルバムは、Stereolab、Pales Saints、Cocteau Twinsを彷彿とさせるエレクトロニックやダンスを通過したシューゲイズ、ドリームポップです。かなりマニアックな音楽であることは明らかで、2024年のCindy Lee、Sonic Boom、Dean & Brittaの系譜にある独自色の強いアルバムです。

 

リリーズ・オン・マーズは、リサ、マリーナによるインディーロックデュオで、2009年頃からイタリアで活動を行っています。当初は、メタルバンドとして活動していた二人でしたが、実験音楽の制作を通じて、より深い音楽へとアクセスすることに。ステファーノ・グッツェッティとのコラボレーションは、新しい冒険のためのパートナーであると述べています。三者は似ているようで異なる音楽的な背景を持つ。リサは、子供の頃、カリアリの円形劇場でジャコモ・プッチーニの歌劇を観て感動し、音楽に傾倒しはじめた。一方のマリーナは、Holeを中心とするMTV全盛期のポピュラーミュージックにのめり込むようになった。もし、このアルバムのどこかに懐かしく普遍的なポップスの匂いを嗅ぎ取るとしたら、それはあながち思い違いではないのでしょう。

 

他方、ステファーノ・ グッツェッティは、イタリアの作曲家であり、映画音楽やドラマなどのサウンドトラックを制作している。ピアニストとしても活動し、気品溢れる彼の作品は多くのリスナーを魅了してやまない。しかし、今回、明らかになったのは、ステファーノ・グッツェッティは、エンニオ・モリコーネの次世代に位置づけられる作曲家、そして、ピアニストやエレクトロニックプロデューサーという表向きの顔は別に、ステファーノは、もう一つの意外な表情を持つということです。以前、彼はインディーロックバンドとして活動し、”Antennah”というグループに参加していた。彼の最初の音楽的な体験は、ドイツ/デュッセルドルフの電子音楽シーンであり、Kraftwerk(クラフトヴェルク)を13歳の頃にテレビで見たときにはじまった。それから、退屈な国内の音楽の反動により、The Cureのような海外のニューウェイブが彼の若い時代の感性には通底していた。

 

一般的には知られていませんが、 ステファーノ・グッツェッティはベーシストとしても活動し、ニューウェイブに深い造詣を持つ。十代の後半からポスト・パンク、インディーロックに夢中になり、コクトー・ツインズの音楽に深い共鳴を見出すことになった。ダンサンブルなリズム、アップビートなリズムを聴くのが好きだとか……。さらに、彼は意外なことに、”シューゲイズのマスタークラス”でもあり、ピクシーズ、ラッシュ、MBV,ライド、ニューオーダー、ジーザス & メリー・チェインズ、シュガー(ボブ・モールド)、ペール・セインツ、ブロンド・レッドヘッドなど、4ADや世界のコアなインディーロックバンドのサウンドに感銘を受けている。上記のリストを見るだけで、彼のオルタナティヴロックに対する愛情がどれほど大きいのか分かるでしょう。

 

2020年頃からプロジェクト、LOMSは立ち上げられ、ライブステージを共有することで、徐々に音楽的な共通点を探っていくことになった。 当初、ギタリストのシルビア・クリストファロが参加し、四人組のグループとして活動を始めた。作曲はベースから始まり、メインのボーカルを書き、そして、イントロ、歌詞やコーラスを追加し、曲の肉付けをおこなっていく。残りの多くはコンピューターの前での作曲を行い、大まかな曲の構想を固めていくという。(詳しくは、Blood Makes Noiseの記事を参照)


リリーズ・オン・マーズと作曲家/音楽家のステファノ・グッツェッティとのコラボレーションによるニューアルバム『シャイン』は本日発売されます。 エレクトロニクス、ミニマリズム、実験、メロディーによる絶妙な均衡の中で、人間の魂の奥深い次元を探求するユニークで包み込むような音の旅を企てる。このプロジェクトは、ステファーノ・グッツェッティのアンビエント・サウンドとメロディックな感性、それから、エレクトロニック・ミュージックへの革新的なアプローチに磨きをかけてきたリリーズ・オン・マーズのドリーミーでコズミックなタッチとの出会いから始まった。 その結果、従来の音楽の枠組みを超越した浮遊感のあるメロディーと強固な雰囲気の狭間で、エモーショナルな宇宙へと誘うサウンドが生み出された。「Shine」は実験的な作品で、幽玄なシューゲイザー、アンビエントなテクスチャー、ポップな感覚を融合させ、「愛」、「自己発見」、「孤独な世界での光」というテーマを探求しています。

 

 

Lilies On Mars & Stefano Guzzetti 『Shine』  - Mint 400/Shore Dive


 

2024年から断続的にシングルのリリースを続けていた、Lilies On Mars & Stefano Guzzettiでしたが、ようやくデビューアルバムという成果になった。今作は、1980年代のインディーズのニューウェイブサウンドを通過し、それらをコクトー・ツインズやエリザベス・フレイザーの系譜にある甘美なドリームポップに昇華した作品です。基本的には、ビートボックスを用いたダンスミュージックの範疇にあるポップスで、エレクトロポップに傾倒した作風となっています。

 

しかし、アルバムの主要曲は、インディーズのポップソングを意識して作られていますが、それらがローファイの範疇にあるサウンドで縁取られる。結果として出力されるサウンドは、デモソングの延長線上に位置づけられ、この数年流行っているスラッカー・ロックの範疇に属するラフなマスタリングの流れを汲むアルバムと言えるでしょう。基本的には、マニアックなドリームポップ/エレクトロポップソングが多いが、ステファーノ・グッツェッティのメリハリのあるエレクトロ・サウンド、ポピュラーな曲風から、うねるようにして炸裂するフィードバックノイズが、甘美的なコクトー・ツインズのような美しいアンビエンスやアトモスフィアの合間に登場します。しかし、それらのノイズは、ほんの束の間のものに過ぎず、再び心地よいメロディアスでドリーミーなエレクトロポップが繰り広げられていきます。このアルバムで、最近のラフな質感を強調したサウンドが決定的になるだろうと思われる。現在は、デジタルの粒の精細なサウンドではなく、アナログのザラザラした質感を生かしたサウンドが流行していますが、『Shine』も同様に、8トラックのマルチトラックレコーダーで録音したような、アナログサウンドの風味が、28分という簡潔な長さを持つフルアルバム全体に漂い、心地良い感覚をもたらす。

 

アルバムの序盤は、古典的なダンスミュージックを踏まえ、それらにドリーミーなメロディー付与するというコクトー・ツインズやペール・セインツ、あるいは米国では、アリソンズ・ヘイローのソングライティングのスタイルが踏襲されています。これらの最初期のゴシックロックとニューロマンティックというジャンルを融合させて生み出されたのが''ドリームポップ''というジャンルでした。ブライアン・イーノのコラボレーターで、ピアニストのハロルド・バッドがこのジャンルの先駆者でもある。彼は鍵盤奏者でしたが、同時にアートポップの最初の流れを呼び込み、ポピュラーシーンでも強い影響を後のミュージック・シーンに及ぼすことになった。


とくに、コクトー・ツインズやペール・セインツのようなグループが、なぜ革新的だったかといえば、90年代以降に流行するシューゲイズの基本的なモデルを作り上げたことにある。また、最初期のボストン時代のピクシーズもシューゲイズのようなサウンドを強調していた時期があり、デモテープ時代の「River Euphrates」、「I Bleed」といったサウンドの正体は、オルタネイトなシューゲイズ、グランジ、そしてドリーム・ポップを融合させたものだったということでしょう。


 

オープナー「Wax」は、ザ・キュアーやコクトー・ツインズの全盛期のポピュラーソングを彷彿とさせる。現代のチルウェイブの範疇にあるゆったりしたマシンビートを背景に、シンプルであるが叙情的なサウンドが切ない空気感を生み出す。 そして二つのギターが折り重なり、マスロックやポストロックのような巧みなアンサンブルを形成し、背景となるビートやリズムと関わり合います。そしてボーカルの節回しやフレージングこそ、80年代のMTVサウンドのようなポピュラー性が重視されていますが、それだけでは物足りないという贅沢な音楽ファンの要求に答えるべく、聞き応えのあるシューゲイズ/ドリーム・ポップが心地よく展開されていきます。


アルバムの序盤の音楽には、アートポップの先駆的なグループがそうであったように、Japan、カルチャー・クラブをはじめとするUKのダンスミュージックやディスコの流れを汲んだポップが基礎になっていて、これが聴きやすく、懐かしい音楽性のベースともなっています。表向きには懐古的な感覚がありますが、よく聴くと、普遍的な音楽性が内包されているのがわかるはず。 

 

 「Wax」

 

 

 

「Cosmic」もまた、1980年代のニューウェイブサウンドに依拠している。シンプルなマシンビートをビートボックスで作り出し、6/8の規則的なリズムを付与し、その中でシンプルなポップソングが展開される。二つのコードをベースにしたシューゲイズのギターを配し、ブリーダーズやスローイング・ミュージーズの2000年代初頭の作品を彷彿とさせる、ふんわりとした柔らかい雰囲気のロックソングを構築していく。特筆すべきは、メジャースケールの解決として半音上のマイナースケールを例外的に使用していることでしょう。明確なカデンツァ(終止形)を限界まで後ろに引き伸ばし、シンコペーションを繰り返しながら、心地よいグルーブ感覚を作る。さらに、ミニマルな構造を強調したサウンドが心地よい雰囲気を放ち、浮遊感のある柔らかいヴォーカルが夢想的な雰囲気を生み出す。ドリームポップやシューゲイズの本質とは、''西洋音階の抽象化や希薄化''にある。つまり、半音階の微妙なピッチの揺れを、ギター、ボーカル、そしてシンセサイザーなどを駆使して体現させるということです。曲の後半では、よりダンサンブルなリズムが強調され、ディスコ風の華やかなサウンドに傾倒しています。

 

「superlove」は、おそらく、The Mars Volta(マーズ・ヴォルタ)がデビューアルバムで用いた手法で、90年代のRHCPのミクスチャーの次世代のヘヴィロック/メタルの象徴的なサウンドでもあった。ギターとシンセを同期させたケヴィン・シールズの系譜にあるコアなロックサウンドは、Led Zeppelin、Black Sabbathのような英国の古典的なハードロックを彷彿とさせる。しかし、イントロの後、リスナーの予想を裏切る形で涼し気なエレクトロポップが続く。激しい轟音を用いた、GY!BE、MBVのようなサウンドが続くのかと思いきや、あっけないほどの軽やかなポップソングで、聴き手側の予測を覆す。しかし、この数年間、ライブステージを重ね、手応えを確かめながら、サウンドチェックを行ってきたLOMSの曲は、ことさら洗練された印象がある。そして彼らは、「静と動の対比」という、90年代から受け継がれるロックアンセムに共通する商業音楽の美学を共有しつつ、サビにおいて強烈なフィードバックを用いたシューゲイズサウンドで驚きを与える。もちろん、これらの倍音を強調するギターサウンドが重層的に絡み合い、コスモ・ポップ(宇宙的なポップソング)を生み出し、独特なハーモニクスを形成する。

 

これらのサウンドは、男性、女性の混合トリオという編成がもたらしたと言えるでしょう。また、つづく「Flow」では、リリーズ・オン・マーズの性質がフィーチャーされ、それらはブリーダーズ、ピクシーズの系譜にあるオルトロックサウンドという形であらわれることになる。 ボーカル自体はエリザベス・フレイザーを彷彿とさせるという面では、コクトー・ツインズとのハイブリッドのようでもある。これらは結果として、90年代の4ADの象徴的なサウンドという形で表出します。また、それらを司令塔のように取りまとめているのが、ディスコに依拠したビートボックスです。これらは打ち込みのシューゲイズとして楽しむことが出来ます。続く「Phoenix」もまた、同じ傾倒にある楽曲で、ダンサンブルなリズムを巧みに活かしながら、ドリーミーなメロディーを配して、インディーロックソングの核心にある要素を提示しています。

 

「Marina」は、このアルバムを聴くリスナーにとってひそかな楽しみとなりそうです。ファンシーなサウンドと、リリーズ・オンマーズのブリーダーズの系譜にある夢想的なボーカルを上手く融合させています。アルバムの終盤にも素晴らしい曲が収録されていて、聞き逃すことが出来ません。「Merged」では、マシンビートと巧みなエレクトロニックのセンスが駆使され、ダンサンブルなエレクトロ・ポップを楽しむことが出来ます。とくに、アルバムの制作や録音を心から楽しむ感覚は聞き手にも伝わって来る。そして、それこそが''インディーロックの真髄''でもある。エレクトロニクスに組み合わされるギターラインも巧みでエモーショナルな感覚を生み出す。

 

本作のクローズに収録されているタイトル曲は、ローファイなシューゲイズソングで、このジャンルのリバイバルの流れを決定づけています。フィードバックを用いた抽象的なギターの音像とシンセのテクスチャーが複雑に絡みあいながら、このトリオしか生み出せない独特なサウンドを創り出す。心地よいフィードバックサウンドの中で、コーラスを交えてアルバムはクライマックスに向かっていく。温和で心地よいシューゲイズサウンドは明るい余韻を残します。

 

 

 

80/100

 

 

 

「Merged」