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Weekly Music Feature : Anat Moshkovski



アナト・モシュコフスキはイスラエル/テルアビブ在住のミュージシャン。6歳からピアノ、11歳からクラリネットを始め、後にヴォーカリストとなる。近年は、ヨニ・レヒテル、ウジ・ナヴォン、ヌリット・ヒルシュらと歌い、「ヘーゼルナッツ 」と共に世界ツアーを行っている。2017年にデビューEP『Happy as a Dog』をリリース。セカンドEP『Loud & Clear』は2019年リリースしている。


彼女のディスコグラフィーには、二作のEPとフランスのシングルの三部作が含まれている。その中には、Yoni Rechterの有名な曲「The Prettiest Girl In Kindergarten」の人気のある魅惑的な新バージョンがある。


アナトはマルチバイリンガルで、英語、フランス語、ヘブライ語をシームレスに切り替える。彼女の音楽は、イスラエルとフランスの尊敬されるラジオ局や雑誌から支持されています。彼女はまた、シュロミ・シャバンやウジ・ナボンなど著名なアーティストともコラボレーションしています。アナトは11月15日にニューアルバム『Anat』をリリースし、彼女の音楽の旅に別のエキサイティングな章を追加する。


モシュコフスキーの有名作としては2021年の「La Petite Fille la Plus Jolie du Monde(世界で一番かわいい女の子」がある。この曲はシンガーソングライターのコンポジションを理解する上で不可欠である。フランスのメディアによると、この曲はイスラエル音楽の有名曲であるらしく、回顧展と合わせて公開された。すべては、音楽家ノエミー・ダハンがアナト・モシュコフスキーとシュージンのために翻訳した、イスラエル音楽で最も有名な曲のひとつから始まった。


叙情的な観察から繊細で癒し系のポップな賛辞まで、『世界で一番可愛い女の子』は目、体、手といった五感のすべてを通して感覚を伝えた。宙吊りのジェスチャー、救いの空に向かって振り上げられる指、鏡の向こう側に座る生き物を見つめる虹彩、創造的で人間的な系譜が進行しているのを目撃するよう誘う、濡れた肌や冷たい肌、ぴったりした服やゆったりした服の感触が、私たちの想像力を引き継ぐスケッチを誘発する。展示とサウンドトラックは、日々学び直すべき普遍的なメッセージを伝えている。すべてのドローイング、すべての楽譜、すべての彫刻の背後には、自伝の本質的な部分、イニシアティブと具体性の不滅の存在がある。その根源は、アナトとシュージンの新しく敬虔なパフォーマンスと、献身と時間を通してこの忘れがたい深い感動的な作品に自分の存在を捧げてくれたすべての人々の惜しみない参加によって育まれている。

 

新しいアルバムは、7つのシンプルで美しいビネットにより構成されている。このアルバムは、モシュコフスキーいわく「言葉ではなく、激しい感情の流れ」であり、パリの映画のサウンドトラックとそれほど縁遠いものではない。

 

『Anat』は大胆にもアーティスト名を冠するアーティストにとっての記念碑的な作品である。ヌーベルヴァーグ(Nouvelle Vague)のモノクロ映画から、『Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain,(邦題:アメリ)』のようなポスト・ヌーベルヴォーグに至るまでの新旧の映画音楽を変幻自在に横断し、新しいシネマ・ポップの流れを形作る。これはアナト・モシュコフスキーの音楽が、シルヴィ・バルタンやブリジット・フォンテーヌまでのフレンチ・ポップやアートポップの流れを汲むことを示唆する。これらの音楽に変化を及ぼすのが、ゲンスブールのバロックポップからの影響、英語、フランス語を曲ごとに使い分ける巧みな歌唱、そしてラテン・ジャズからのフィードバック。このアルバムは、イスラエルの新しいポップスの台頭を表すと同時に、米国の著名なソングライターと並んで、2020年代のシネマ・ポップの時代を予感させる。

 

 

 

『Anat』 Nana Disc  (86/100)


 


アーティスティックな音楽表現はすでに2021年の時点で完成されていた。ボサ・ノヴァやイエイエをベースにした作曲、ピアノ、クラリネットの演奏で培われた音感の良さは、旧来の商業音楽を組み替える契機となり、普遍的な音楽表現を構築するための躍如ともなった。結果的に、アナト・モシュコフスキーがこのアルバムで全般的にヒントにしたのは、奇異なことに、現代的なアメリカのシンガーソングライターが取り組んでいる「リバイバル運動」であるようだ。

 

それはアメリカの商業音楽の場合、映画のワンカットで流れる演出的な挿入歌やサウンドトラック等がポピュラーの音楽の一つの枠組みとなっている。イスラエルのシンガーソングライター、アナト・モシュコフスキーもこの事例に倣い、ヌーヴェル・ヴァーグのモノクロの映画で流れていたファッショナブルな音楽を彼女自身のポピュラー・ソングに取り入れている。そもそも、フレンチ・ポップとも称される「イエイエ」のムーブメントは、前時代のフランスのクラシック音楽の流れを汲んでおり、オーケストラとポップネスの融合というのが重要な主題でもあった。それにジャズの要素を加え、独自のポピュラー音楽という形に昇華していたのだった。

 

『Anat』はクラシック音楽やワールドミュージックからの影響を基に、親しみやすく、聴きごたえのあるポピュラー・ソングによって構成されている。このアルバムは基本的に、バンド構成で録音され、ドラム、ギター、ストリングス、管楽器、エレクトロニクス等を取り入れている。

 

オープナー「Jamie」は、アコースティックギターの多重録音で始まり、シンプルかつ美しい調和を作り上げた後、60年代の古典的なバロックポップの影響下にある温和な音楽性を展開させている。一見して、簡素な旋律やスケールを描くように聴こえるが、複数の楽器のアンサンブルを通じて、ビートルズに近い美麗なポップスが作り上げられる。基本的な音楽性にオルタネイトな影響を与えているのが、彼女がよく聴くという”Mild High Club”のようなネオサイケロックバンドからのフィードバックである。これはメインストリームの音楽に、ノスタルジアとディレッタンティズムを添える。歌唱法についても囁くような語りのニュアンスからスキャット、明確なボーカルに至るまで、幅広い形式が繰り広げられる。何より、バロックポップ/チェンバーポップの規則的なビートに乗せられる穏やかな旋律進行は、うっとりさせるものがある。 

 

 

 

アナト・モシュコフスキーの音楽は、ビートルズやセルジュ・ゲンスブールといった60年代、70年代の音楽のフィードバックをありありと感じさせる。「If We Fail」ではボサ・ノヴァのリズムをシンセとドラムでユニゾンで刻みながら心地よいビートを作り上げ、そしてラテン音楽とジャズの融合をポピュラーの文脈と結びつける。それほど音の要素は多くはないものの、核心を捉えたグルーヴがモシュコフスキーの温かい印象を持つボサ風のボーカルと上手く合致している。

 

リズムやセクションの合間に導入されるクラリネット/オーボエの音色がアフロ・ジャズ/ラテン・ジャズ風のしなやかな旋律性を付与し、色彩的な印象を添える。更に、シンセのトロピカルやラヴァーズロック風のアレンジ、そして部分的にアートポップの範疇にあるボーカルのリサンプリングなどを配して、それほど派手ではないものの良質なポップソングを作り上げている。この曲では、ポピュラーの基本的な要素であるスケール(コード)と旋律、そしてリズムという3つの構成要素をバランスよく見定め、心地よく安らげるような音楽を作り上げている。

 

映画/演劇の場面の中で演出的な効果で用いられるようなポピュラー音楽の手法は、続く「Lightnings」に見いだせる。アコースティックギター、バイオリン/ヴィオラのピチカートで穏やかな和音を作り、クラリネット等の管楽器、弦楽器のスタッカート、レガートを対旋律的に交えながら、ピクチャレスクなイメージを持つ美麗な音楽を構築していく。アナト・モシュコフスキーは、それらの背景となるオーケストラの演奏に仄かな哀愁を添えている。また、水の流れのように澱みのない弦楽器のトレモロ/レガートのハーモニクスが、アウトロにおいて美しいシークエンスを作り上げる。簡素なバレエのムーブメントに近い一曲で、中盤から終盤にかけて、息を飲むような美しい瞬間が用意されている。この曲は、イゴール・ストラヴィンスキーのバレエ曲『Pulcinella (プルチネルラ)』のポピュラー・バージョンとも言えるかもしれない。

 

アルバムは冒頭だけ聴くと、一般的なポピュラーアルバムに聴こえるかもしれない。しかし、本当に面白いのは、中盤から終盤にかけての収録曲であり、セルジュ・ゲンスブールのようなアートポップ性とオルトロックが融合する箇所にある。


「Teddy Bears」は、レディオヘッドの『OK Computer』のエレクトロニックを融合させた近未来のオルタナティブロックやトリップ・ホップなどのヒップホップとエレクトロニックの融合をベースにし、モシュコフスキーは自身の淡々としたボーカルを通じて、唯一無二のワンダーランドを作り上げる。特に、クラシック音楽の作曲技法であるゼクエンス進行(同じ音形を別の調に組み替えること)を用い、巧みなソングライティングを披露し、調性を徐々に展開させながら(長調を単調に組み替えることもある)、楽曲の印象をかわるがわる変化させていく。これは特に、幼少期から培われた音感の良さとクラシック音楽の構成からの影響が色濃く滲み出ている。

 

続く「On a Tout Fait」はアコースティックギターの繊細なアルペジオの弾き語りで、聴きやすいバラード曲を提供している。具体的にイスラエルでどういった曲が流行っているのかは不明ではあるものの、フォーク・ソングをベースにしたこの曲では、ファンタジックなイメージを基にして、現代的なフォークソングを組み上げ、コーラスワークを通じて、音楽的な奥行きを表現している。終盤では、アートポップの要素が強まり、そしてフレンチ・ポップの要素と結び付けられる。「Obscure Clarte」では、エレクトロニックピアノの演奏とストリングスをかけあわせ、オルタナティヴの側面を強調している。セルジュ・ゲンスブールの系譜にある一曲である。

 

アルバムのクローズ「Encore」は、鳥の声のサンプリングで始まり、その後、ベス・ギボンズの系譜にあるアートポップ・ソングに直結している。しかし、明確にポスト・ギボンズかといえばそうとも言い難く、依然としてフレンチポップ、イエイエからの影響が色濃いように思える。更にクライマックスでは、シネマティック・ポップの主題のような音楽性が示唆されている。スパニッシュのフラメンコ・ギターとオーケストラ・ストリングスの融合が、フランスの商業音楽はもちろん、スペイン音楽の気風を醸し出し、哀感と共に情熱的な音楽性を演出している。

 




Anat Moshkovskiによるニューアルバム『Anat』は本日、Nana Discより発売。アルバムのストリーミングはこちら

 

 

「Encore」



*記事掲載時にアーティスト名の表記に誤りがございました。訂正とお詫び申し上げます。
Weekly Music Feature: Perila

Perila


実験音楽界に新たな奇才が登場。サンクトペテルブルク生まれでベルリンを拠点に活動するサウンド&ビジュアル・アーティスト、DJ、詩人、パフォーマーのペリラがオスロのスモールタウン・スーパーサウンドからセカンド・アルバムを本日リリースした。21の個別のコンポジションからなるフォーマット別の2枚組アルバムで、内外のリズムを活用することに狙いを定めている。


メディア(媒体)という点では、『Intrinsic Rytmn- イントリンシック・リズム』は基本的にダブル・アルバムである。しかし、70年代のクラシックなコンセプチュアル・アルバムというよりは、ロイヤル・トラックスの『ツイン・インフィニティブス』やR!!!S!!!の『レイク』のような90年代のアウトサイダー・エクスペリメンタル・ダブル・アルバムに近い。長尺のサイケデリックな探求を避け、強力で凝縮された恍惚とした内省のブロックを、5秒のブレイクを挟むことで音のパレットを浄化させながら聴かせる。


その結果、リズミカルなアンビエント、スペクトラルなエレクトロニクス、そして親密なヴォーカルが、意図的な要素と偶発的な要素、環境から生成されたリズムとメロディ、抽象的なメロディと具体的な言語、そして人生の複雑さと精神的な再生の間で、とらえどころのないバランスを保っている。


冒頭から幽玄なシンセワークと、重なり合う声と重なり合う牛の鈴のフィールド・レコーディング(「Sur」)によってシーンが設定され、精神的な意味と身体的な幸福を生み出す音楽が常に押し合いへし合いしている様子をリスナーに観察させる--故ミルフォード・グレイヴスのホリスティックな芸術作品とは似て非なるものだ。


「Nia」や「Ways」のようなトラックでは、テープのヒスノイズ、小音量のうなり音、リズミカルな小声のパチパチというテクスチャーが、遠くのヴォーカルと変調する鐘の音に一定の瞑想的な土台を提供し、音世界を浸透させる。これらは、ASMRを誘発するような音響、前後するメロディー、幻覚的な雰囲気を伴っており、微妙な音の作用が大気の地平へと果てしなく広がっていく。


「Angli」、「Supa Mi」、「Fey」といった曲では、ヴォーカルのミニマリズムを削ぎ落として、エレガントなクリックやカット・パーカッションと組み合わせることで、より親密で内面的なサウンドスケープを作り出している。  具体的には、アルバムの最後の4分の1では、無防備で飾り気のないサウンド・メモのようなレコーディングの中で、内と外の緊張感が再び現れる。そこでは、足音のペースやマイクのノイズのような操作(「Darbounouse Song」)、あるいは日用品の自発的なパーカッションや遠くの歌声が、アルバムのクローズである「Ol Sun」のように、私たちが住んでいながら見過ごしがちな空間や物事の共鳴周波数を探り当てようとする。


結局のところ、この2枚のレコードは互いに対話するように考えられており、内的世界と外的世界の間で音楽的な会話をしながら一緒に演奏することができる。さらに、4つのビニールの側面の区分は、土、魂、空気、地面として、なる段階、物質、人生の質感を表している。


この意味で、『Intrinsic Rhythm』は、外界の生態系が、日常生活の周波数やテンポの中に、メロディーやリズムの絶え間ない、そしてしばしば混沌とした源を提供していることを思い出させてくれる。内面的には、これらは意識や内臓の無形のリズムと組み合わさっている。ペリラは、受動的に知覚される音と、そこから能動的に生み出される音楽のバランスを正確に探っている。


ペリーラ自身の言葉を借りれば、「このアルバムに取り組む過程で、私自身の本質的なリズム、つまり私の中心であり拠り所であるリズムは、ゆっくりとしたものであることがわかった。スローダウンすると、すべての魅惑的な美しさに気づくことができ、音の世界を違った形でとらえることができる。私にとって、この作品を作ることは、自分が本当は何者なのか、そしてこの世界で自分がどうあり得るのかを知り、受け入れるという、まさにスピリチュアルな旅だった」


さらに、レーベルの個人的なメモは適切な洞察と考えに基づいており、謎めいたベルリンのアーティストの実像の一端を明らかにする。


「ペリラは私にとってとても特別な存在で、サウンドクラウドで彼女の最初の2、3曲を聴いたとき、とても特別な人の音楽がここにあるとすぐに理解した。彼女はとても強いヴィジョンを持っていて、私たちレーベルは何も干渉したり手助けしたりする必要はない。彼女のビジョンは完全だ」


「私にとって、このアルバムはアウトサイダー・ダブルと呼ばれるもので、90年代初期の偉大なアウトサイダー・ダブル・アルバムと同じ感触とアプローチを持っている。Royal Truxの『Twin Infinitives』、Dead Cの『Harsh 70s Reality』、R!!!Sの『Lake』など。これらのアルバムは、70年代ロックの誇大妄想の古典的な2枚組アルバムに中指を立て、2枚組アルバムの奇妙なバージョン、新しい定義を作り上げる。公平を期すなら、ミニットメン、ヒュスカー・デュー、ソニック・ユースはすべて、70年代のビッグ/エピックな恐竜と90年代のアウトサイダー・ダブル・アルバムの間に橋を架けたと言わねばならない。とにかく、『Intrinsic Rhythm』も同じような感触を持っている。長さ64分、21曲が4面に渡って収録され、それぞれの面にタイトルとテーマがある」


「彼女のアート、ボディー・ムーヴメント、自然からの影響。このアルバムは、ペリラことアレクサンドラ・ザハレンコの人間としての姿を音で擬人化したもの。私にとって、この音楽こそペリラなのだ。タルコフスキーの『鏡』の想像上のサントラのように。深く、心に染みるほど美しい」

 


『Intrinsic Rhytmn』- Smalltown Supersound (92/100)


 

オーストラリアの実験音楽作家、ローレンス・イングリッシュ(Lawrence English)が最新アルバムの発表とともにコメントとして添えた「音楽構造を建築のように解釈する」という考えは、今日日の実験音楽、あるいはアンビエントのような抽象的な音楽を解釈する上で不可欠な要素となる。アルバム全体を堅牢なビザンチン建築、あるいはモザイク模様を施したイスラム建築のように解釈することが、「フルアルバム」という不可解な形式を解き明かすのに重要になってくる。そもそも、音楽なるリベラルアーツの一貫にある媒体は、哲学や数学よりも往古から存在し、「黄金比」のような原初的な学問の理想形態を表すものであった。それが宗教や民族の儀式や祭礼のための音楽という中世の通過儀礼の段階を経たのち、現代の趣味や趣向の多様化により、「娯楽の一貫」と見なされるようになったのは時代の流れと言えるだろうが、無数の学問の中で音楽が最初に存在し、その後、哲学や数学や建築が出てきたのを考えると、結局、音楽というのがすべての学問の先頭に位置し、最も先鋭的な分野であることは自明なのである。

 

最近、最もヒップなジャンルの一つであるヒップホップは、ようやくアンビエントの尻尾をつかまえて、その背中に追いついたわけだが、アンビエントも負けじと次の段階に進みつつある。これらのデッドヒートが終わることは考えづらい。今、最もトレンドな音楽は間違いなくアンビエントで、これらが当初はダンスミュージック界隈のアーティストやプロデューサーから少しダサいとみなされていた2000年以前の傾向を考えると、時代の変化が顕著であることが窺える。その理由を挙げるとするなら、一つはホーム・レコーディングで高品質の音楽を制作することが可能になったこと。加えて、Ableton、NI、各種のソフトウェアの進化、専門的なレベルで音楽制作が可能になったことだろう。無論、以前はラップトップやPC等でアナログの音響機器の配線やMIDIを介さずに打ち込みの音楽を制作することは困難を極めたが、今やスタジオ・レコーディングのレベルの録音システムを構築することは、より一般的になったと言える。

 

ジェンダー論を比較対象に出すまでもなく、エレクトロニックプロデューサーが90年代から00年代を通して、男性を中心に発展してきたことを考えると、 2010年代後半くらいから、Anna Roxanne、Malone、Haloを中心とする女性プロデューサーが活躍するようになったのは、これもまた時代の流れを象徴付けていると言える。そして、00年代以降には、いるにはいたが、少し影の薄かった黒人のエレクトロニックプロデューサーの活躍が最近になって目立ってきたのも、新しい兆候です。特に、女性的なエレクトロニックプロデューサー/DJは、すべてレフトフィールドに属するとは言えないのだが、一般的に柔軟な考えを持っているため、本来は音楽という形式からかけ離れたような媒体(映画、文学、詩)から、音楽のヒントや種をすんなり見つけてしまう。このあたりは、例えば、ダニエル・ロパティンのようなプロデューサーにも共通しているが、白人男性の音楽として発展してきたダンスミュージックは、おそらく2025年前後で一つの分岐点を迎えるような気がしている。


例えば、1990年代からテクノシーンを牽引してきた主要なプロデューサーの一部はおそらく、このことになんとなく気がついており、制作を続けたり、あるいは中断させたりしながら、新しいシーンの流れを読んでいる最中なのではないかと思われる。そして、2020年代始めには、ドローン(* 現代音楽発祥の形式で、元はスコットランドのパグパイプが発祥。ラモンテヤングなどが有名)という吹奏楽の形式を弦楽器のディケイとダイナミクス(減退と増幅)から音楽全体を再解釈しようという潮流が出てきたことは、すでにこのサイトの購読者であれば、ご承知のことと思われる。


そして、問題は「ドローンの次はなにが出てくるのか?」という点であるが、ロシア出身のプロデューサーの新作を聞けば分かる通り、すでに新しいものが出かかっている。少なくとも、アンビエントは次なるステップに進みつつあり、複数のグループに枝分かれし始めているようだ。殊、このアルバムに関して言うのであれば、ボーカルアート、ビートルズのようなアートポップ、クラシック・ミュージック、アヴァンギャルド・ジャズの融合を発見することが出来る。これは最早、70年代のブラック・ミュージックや、90年代のロックやメタルで盛んであった「クロスオーバーの概念」が極限に至った事実を示し、水が蒸発し揮発する瞬間にもよく似ていて、何らかの臨界点を迎えつつある兆候を、はっきりとした形で暗示しているのである。



例えば、Black Midiとしてお馴染みのジョーディー・グリープさんが新しい音楽を探しているようなのだが、新しい表現というのは、苦心して出てくるわけでもないし、頭を悩ませて出てくるものではないと思われる。新しいものが出てくる瞬間というのは、異質な文化で育った人、一般的な音楽の流れから見て、異端的な背景を持つ人、また、その生活環境にある人などが従来とは異なる概念を表沙汰にするということである。つまり、これは、奇を衒って音楽をやっているということではないのである。例えば、この事例は、第二次世界大戦後の70年代、80年代の東西分裂時代のドイツにあり、トルコからの移民が多い危険地帯の地下から登場した「インダストリアル・ノイズ」という形式が当てはまる。そして、何らかの表現を規制されたり、直接的な政治的迫害を受ける市民から発生した前衛音楽の形式なども、この事例に当てはまる。つまり、ファッション、スポーツ、ないしは一般的な情報誌やファッション誌、もしくは主要メディアで紹介されるような表面的なカルチャーとは異なる領域に属する「文化の裏側」から新しい表現や形式が台頭するのである。例えば、現在、ベルリンを拠点に活動するPerilaは、実際の音楽を聴くと分かるように、前衛音楽や実験音楽に憧れているわけでもなく、ましてや奇をてらっているわけでもなく、スノビズムにかぶれているわけでもない。チャット・ベイカー、坂本龍一、アルヴァ・ノトといった、アーティストがこよなく愛する音楽が、何らかの形でアンダーグラウンドミュージックとして乗り移り、異端的な音楽が生み出されたと見るべきなのだ。これは先にも言ったように、意識して作られたものではなく、「他の人のようにやろうとしたら、異端的な音楽が出来てしまった」という感じではないかと思う。一般的な人々とは異なる文化の背景や生活形態、そして考えが複雑に絡み合って出来たと見るべきだろう。

 

それでは、このアルバムのどこが新しいのだろうか。21曲という大容量なので、ダブルアルバム(実質的にはクアドラプル)として見た上で、主要なトラックを事例にあげて説明していきたい。

 

インドネシアのガムランの打楽器のような神秘的なパーカッションで始まり、70年代の埃を被ったアナログシンセサイザーで発生させたような古典的なアンビエントのテクスチャーがその後に続く。レーベルの説明では、「70年代のプログレッシヴロックのアルバムに中指を立てる」と説明されているが、表向きに聞こえるサウンドは、Anna Roxanneのようにハイファイであるが、実際的に音楽の奥行きとして感じられるのは、ブライアン・イーノの最初期(ロキシー・ミュージックの後)のシンセ音楽のようなローファイな手法である。これは、具体的にはアウトプットの手法が現代的なものであるだけで、実際に展開される音楽は古典的なのである。

 

実際的に、シュトックハウゼンの古典的なトーン・クラスターの手法を用いながら、丹念にサウンドスケープを描いていく。そして、現代的なプロデューサーと同じように、自らのボーカルを一つのシークエンスとして解釈し、それらをアンビエントとして解釈するという手法は続く「3-Sepula Purm」に示されている。ボーカルをLaulel Haloのようにカットアップで重ね、重層的なハーモニーとして組み上げていく。そして、それは新しいゴスペルやクワイアの形として表側に現れる。更にその根本となる音楽に演出的な効果を与えるのが、 オシレーターを使用した中音域の軋むようなノイズである。当初は、神秘的なアンビエントのような印象を持つ楽曲が漸次その印象を変化させていき、いわばアヴァンギャルドとしての要素を発揮するのである。

 

 その後、このアルバムはとらえどころのない抽象的な音楽が続いている。「4-Nia」、「5−Ways」の二曲に関しては、それほど現代のアンビエントと大きな違いはない。しかし、同時にアルヴァ・ノトの精妙なテクスチャーやノイズからの影響がうかがえ、アルバムの序盤とは対象的に、ハイファイなエレクトロニックとしての印象を強める。これらは、Abletonのように、電気信号の配線を図面的に解釈する電子音楽としてアウトプットされたものではないかと推測される。そして空間や建築内にこだまする空気感という概念は、リゲティ・ジョルジュが最初に確立したもので、アンビエントの副題のような意味を持つが、続く「6-Lish」ではこの概念が示されている。例えば、サグラダファミリアのような高い尖塔を頂く教会、ないしはエジプトの王家の谷のような場所で、観光客の会話の合間を通して、風が渡る音や建築の中にある内部構造から何らかの空気の流れのようなものを聞き取ったり、何らかの神秘的な息吹やエーテルのようなものを感じたりすることはないだろうか。この曲では、そういった普段の意識では聞き取りづらい神秘的な瞬間を、電子音楽という側面から表現しようとしている。これらは「体験としての音楽」という、近年稀に見るような新しい概念が付与されていることが分かる。


例えば、「トーンの変調」という概念を通じて、一つの実験音楽の変奏形式を組み上げるアーティストに、スウェーデンのEllen Arkbroがいる。Perilaの新作アルバムの中盤に収録曲には、例えば、ギターやベース、ドラム等の通常の演奏方法では実現しえないものが展開され、それは音の発生音の後に生ずるトーンという側面を抽出し、それらを減退させることなく、持続音として継続させる。これは、音の発生学の異質な側面を捉えている。普通であれば、音は発生した後、ピークを迎え、徐々に減退の瞬間を迎えるが、減退する直前の音を抽出し、それらを持続音として継続させる手法が取り入れられている。一般的にはドローン音楽の手法の一貫に属し、機械的な音楽に聴こえるかもしれないが、反面、これが自然の音響学から乖離しているとも考えづらい。例えば、建築内にこだまする空気の音の流れ等は、大気や空気、素粒子、原子という元素がこの世に偏在するかぎり、あるいは建築物が物理的に取り壊されないかぎり、それらの音響を永久に持続させるからである。 例えば、「8-Nim Aliev」ではトーン・クラスターにより、この手法が確立され、続く「9-Mola」は、ラスコーの洞窟を描写音楽として刻印したような不可思議なアンビエント/ドローンの手法を確立させている。そして、これらのアルバムの第一部は、実験音楽として秀逸であるにとどまらず、音楽の永遠の瞬間を捉えたかのようでもある。さらに、後者の楽曲では、ピアノのスニペットが登場し、音楽の神秘的な雰囲気を引き立てる。第一部は「Lym Riel」、「Air Two Air」にて、ひとまず終了する。前者は、ヒス・ノイズを用いた古典的なアンビエントで、Loscil、Chihei Hatakeyamaの系譜に属する作風でもある。後者は、エレクトロニック寄りの楽曲で、中音域のグリッチノイズを強調させ、それらのノイズの位相(PAN)を転移させながら、ビート、リズムを組み上げ、緻密なグルーヴを作り上げていく。

 

アルバムの一枚目では、アンビエントを中心としたエレクトロニックが展開される。続く二枚目では、ボーカルアートを中心としたエレクトロニックが繰り広げられる。 そして、第二部の方はボーカルアートを駆使したストリーテリングの音楽としての意義を持つ。クワイアやメディエーションの領域に属するものから、ビートルズがアートポップ時代に遊びの一貫として試したもの、メレディス・モンクの系譜にある現代音楽の領域に属するものまで幅広い。例えば、「Angli」では、メレディス・モンクの『Atlas』の手法を用い、洞窟のような音響効果を用い、奥行きのあるアンビエントを形作り、その中でペリラ自身がオペラ風のボーカルを披露する。しかし、明確なボーカルというわけでなく、ペリラのボーカルはモンクと同じように、器楽的なテクスチャーの一貫として解釈され、フルートや笛のようにその空間内に響き渡るのである。さらに、続く「Supa Mi」を聴くと分かる通り、ペリラの声は明確な言語の意味を持つことはきわめて少ない。 それはジャズのスキャットと同じく、言葉以上の伝達手段として確立され、例えば、ウィストリング(口笛)に近いような意味を持つ。それはオーストラリアのモリー・ルイスの口笛と同じように、スキャットやハミングそのものが言葉や会話の代わりを果たすのである。

 

果たして、言語学の範疇には属さない、これらの歌から何らかの言語性を読み取ることが出来るのだろうか。私自身はそこまでは全然出来なかったが、少なくとも、音楽の構造としては、続けて聴いていると、物語性を持ち始めて、また、その物語の端緒が音楽に合わせて広がっていったり縮んだり、物語が一人でに歩き始めるような印象を持つに違いない。この後のいくつかの収録曲「Sneando」、「Fey」、「Lip」では、メレディス・モンクのようなパフォーミング・アーツの領域に属する「演劇としてのボーカル」、そして、アンビエント・プロデューサー、Grouper(リズ・ハリス)、Ekin Fillのようなアンビエント・フォークとドリーム・ポップを結びつけた次世代のアヴァンギャルド・ミュージックという形を以って展開されていくことになる。尚且つ、それらの抽象音楽としての形式は、おとぎ話や童謡的な意味合いを帯び、もしくは古典的なギリシャ神話の音楽による復刻といった、アーティスティックな印象を携えながら繰り広げられていく。これらは、ペリラの類稀なる美的センスと、ゴシック的な概念の融合の瞬間を見出せる。無論、そういったアンダーグランドミュージックの複数の形式が組み込まれた後、野心的な試みが行われることもある。ペリラは、イタコや霊媒者のようになり、「Message」なるものを地上に降ろそうとする。これは非常に斬新で奇妙な試みである。

 

 

アルバムの全般では、洞窟や教会のような広い奥行きのあるアンビエンスを想定した録音が際立つ。一方、本作の最終盤はデモトラックのようなクローズの指向マイクを用い、近い空間の録音の音響が強調されている。

 

この後の「Darbounouse Song」、「Note On You」、「She Wonder」、終曲となる「Ol Sun」 は、基本的にはアカペラのボーカルトラックで構成される。「Darbounouse Song」は唯一、足音などのサンプリングを用いたボーカルトラックで、物語的な前衛音楽の意義を保持しているが、以降の三曲は、かなり異端的である。とりとめのない思いを日記のような形で録音したボイスメモのようでもあり、ヒップホップのミックステープのようでもある。

 

これらは、パティ・スミスやブリジット・フォンテーヌのような、ポピュラーの前衛音楽の側面を改めて見つめ直すかのようでもある。少しだけ散漫になりかけた作風だが、円環構造を用いて、全体的な構成を上手くまとめあげている。一曲目と呼応するクローズ「Ol Sun」では、鐘とパーカッションを用いた前衛音楽に再び回帰している。しかし、始まりと終わりでは、音楽そのものの印象がまったく異なることに気がつく。ガムランのように始まったこのアルバムは、クローズでは、チベットのマントラのような民族音楽に縁取られている。それらの雑多な音楽性、あるいは文化性は、このアルバムの最後になって花開き、ロシア正教のミサ等で聴くことが出来る鐘の音のサンプリングで終了する。音楽に明確な意味を求めても仕方がないかもしれない。しかし、このアルバムを聴くかぎり、新しい何かが台頭したことをひしひしと感じる。

 

 


サウスカロライナ州チャールストンのアーティスト、 Contour (Khari Lucas)は、ラジオ、映画、ジャーナリズムなど、様々な分野で活躍するソングライター/コンポーザー/プロデューサー。


彼の現在の音楽活動は、ジャズ、ソウル、サイケ・ロックの中間に位置するが、彼は自分自身をあらゆる音楽分野の学生だと考えており、芸術家人生の中で可能な限り多くの音とテーマの領域をカバーする。彼の作品は、「自己探求、自己決定、愛とその反復、孤独、ブラック・カルチャー」といったテーマを探求している。


コンツアー(カリ・ルーカス)の画期的な新譜『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、過去と現在、夜と昼、否定と穏やかな受容の旅の記録であり、落ち着きのない作品である。


カリ・ルーカスと共同エグゼクティブ・プロデューサーのオマリ・ジャズは、チャールストン、ポートランド、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ジョージア、ロサンゼルス、ヒューストンの様々なスタジオで、Mndsgnやサラミ・ローズ・ジョー・ルイスら才能ある楽器奏者やプロデューサーたちとセッションを重ねながら、アルバムを制作した。


ジャンル的には、『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、ギター・ドリブン・ミュージック、トロピカリア、ブルース、そしてヒップホップのありのままの正直さを融合させ、夜への長い一日の旅を鮮やかに描き出すことで、すでにコンターの唯一無二の声に層と複雑さを加えている。


メキシカン・サマーでのデビュー作となる本作では、2022年にリリースされた『オンワーズ!』のノワール的なサンプルやリリカルな歴史性を踏襲し、より歌謡曲的で斜に構えたパーソナルな作品に仕上げている。ルーカスにとって、これはギターを手に取ることを意味し、この動きはすぐに彼を南部のソングライターの長い系譜と形而上学的な会話に置くことになる。カリ・ルーカスは言う。「それはすぐに、旅する南部のブルースマンについて考えるきっかけになった」 彼にとってギターは旅の唯一の友であり、楽器は自分の物語を記録し、世代を超えた物語と伝統を継承する道具なのだ。このアルバムの語り手は放蕩息子であり、悪党の奸計の中をさまようことになる。



『Take Off From Mercy』/ Mexican  Summer   (94/100) 

 

  Yasmin Williams(ヤスミン・ウィリアムズ)をはじめ、最近、秀逸な黒人ギタリストが台頭していることは感の鋭いリスナーであればご承知だろう。Khari Lucas(カリ・ルーカス)もまたジャズのスケールを用い、ソウル、ヒップホップ、サイケロック、そして、エレクトロニックといった複数のフィールドをくまなく跋渉する。どこまで行ったのだろうか、それは実際のアルバムを聞いてみて確かめていただきたい。

 

シンガーソングライター、ルーカスにとっては、ラップもフォークもブルースも自分の好きな音楽でしかなく、ラベリングや限定性、一つのジャンルという括りにはおさまりきることはない。おそらく、彼にとっては、ブルース、R&B、エレクトロニック、テクノ、アンビエント、スポークンワード、サイケロック、それらがすべて「音楽表現の一貫」なのだろう。そして、カーリ・ルーカスは、彼自身の声という表現ーーボーカルからニュアンス、ラップーー様々な形式を通して、時には、フランク・オーシャンのような次世代のR&Bのスタイルから、ボン・アイヴァー、そしてジム・オルークのガスター・デル・ソルのようなアヴァン・フォーク、ケンドリック・ラマーのブラックミュージックの新しいスタイルに至るまで、漏れなく音楽的な表現の中に組みこもうと試みる。まだ、コンツアーにとって、音楽とはきわめて不明瞭な形態であることが、このアルバムを聴くと、よく分かるのではないだろうか。彼は少なくとも、「慈悲からの離陸」を通して、不確かな抽象表現の領域に踏み入れている。それはまるでルーカスの周囲を取り巻く、「不明瞭な世界に対する疑問を静かに投げかける」かのようである。


「静か」というのは、ボーカルに柔らかい印象があり、ルタロ・ジョーンズのようにささやきに近いものだからである。このアルバムの音楽は、新しいR&Bであり、また、未知の領域のフォークミュージックである。部分的にはブレイクビーツを散りばめたり、Yves Tumorの初期のような前衛的な形式が取り入れられることもあるが、基本的に彼の音楽性はもちろん、ラップやボーカル自体はほとんど昂じることはない。そして彼の音楽は派手さや脚色はなく、演出的な表現とは程遠く、質実剛健なのである。アコースティックギターを片手にし、吟遊詩人やジプシーのように歌をうたい、誰に投げかけるともしれない言葉を放つ。しかし、彼の音楽の歌詞は、世の一般的なアーティストのように具象的になることはほとんどない。それはおそらく、ルーカスさんが、言葉というのに、始めから「限界」を感じているからなのかもしれない。

 

言語はすべてを表しているように思えるが、その実、すべてを表したことはこれまでに一度もない。部分的な氷山の上に突き出た一角を見、多くの人は「言葉」というが、それは言葉の表層の部分を見ているに過ぎない。言葉の背後には発せられなかった言葉があり、行間やサブテクスト、意図的に省略された言葉も存在する。文章を読むときや会話を聞く時、書かれている言葉、喋られた言葉が全てと考えるのは愚の骨頂だろう。また、話される言葉がその人の言いたいことをすべて表していると考えるのも横暴だ。だから、はっきりとした脚色的な言葉には注意を払わないといけないし、だからこそ抽象領域のための音楽や絵という形式が存在するわけなのだ。

 

カリ・ルーカスの音楽は、上記のことをかなり分かりやすい形で体現している。コンツアーは、他のブラック・ミュージックのアーティストのように、音楽自体をアイデンティティの探求と看過しているのは事実かもしれないが、少なくとも、それにベッタリと寄りかかったりしない。彼自身の人生の泉から汲み出された複数の感情の層を取り巻くように、愛、孤独、寂しさ、悲しみといった感覚の出発から、遠心力をつけ、次の表現にたどり着き、最終的に誰もいない領域へ向かう。ジム・オルークのようにアヴァンな領域にあるジャズのスケールを吸収したギターの演奏は、空間に放たれて、言葉という魔法に触れるや否や、別の物質へと変化する。UKのスラウソン・マローンのように、ヒップホップを経過したエレクトロニックの急峰となる場合もある。


コンツアーの音楽は、「限定性の中で展開される非限定的な抽象音楽」を意味する。これは、「音楽が一つの枠組みの中にしか存在しえない」と思う人にとっては見当もつかないかもしれない。ヒップホップはヒップホップ、フォークはフォーク、ジャズはジャズ、音楽はそんな単純なものではないことは常識的である。


そして、音楽表現が本当の輝きを放つのは、「限定的な領域に収まりきらない箇所がある時」であり、最初の起点となるジャンルや表現から最も遠ざかった瞬間である。ところが、反面、全てが単一の領域から離れた場所に存在する時、全般的に鮮烈な印象は薄れる。いわば押さえつけられた表現が一挙に吹き出るように沸点を迎えたとき、音楽はその真価を発揮する。言い換えれば、一般的な表現の中に、ひとつか、ふたつ、異質な特異点が用意されているときである。

 

アルバムは15曲と相当な分量があるものの、他方、それほど時間の長さを感じさせることがない。トラック自体が端的であり、さっぱりしているのもあるが、音楽的な流れの緩やかさが切迫したものにならない。それは、フォーク、ブルースというコンツアーの音楽的な核心があるのに加え、ボサノヴァのサブジャンルであるトロピカリアというブラック・ミュージックのカルチャーを基にした音楽的な気風が、束の間の安らぎ、癒やしを作品全体に添えるからである。


アルバムの冒頭を飾る「If He Changed My Name」は、ジム・オルークが最初期に確立したアヴァンフォークを中心に展開され、不安定なスケール進行の曲線が描かれている。しかし、それ対するコンツアーのボーカルは、ボサノヴァの範疇にあり、ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンのように、粋なニュアンスで縁取られている。「粋」というのは、息があるから粋というのであり、生命体としての息吹が存在しえないものを粋ということは難しい。その点では、人生の息吹を吸収した音楽を、ルーカスはかなりソフトにアウトプットする。アコースティックギターの演奏はヤスミン・ウィリアムズのように巧みで、アルペジオを中心に組み立てられ、ジャズのスケールを基底にし、対旋律となる高音部は無調が組み込まれている。協和音と不協和音を複合させた多角的な旋法の使用が色彩的な音楽の印象をもたらす。 そしてコンツアーのボーカルは、ラテンの雰囲気に縁取られ、どことなく粋に歌をうたいこなすのである。

 

 一曲目はラテンの古典的な音楽で始まり、二曲目「Now We're Friends」はカリブの古典的なダブのベースラインをモチーフにして、同じようにトロビカリアの領域にある寛いだ歌が載せられる。これはブラックミュージックの硬化したイメージに柔らかい音楽のイメージを付与している。しかし、彼は概して懐古主義に陥ることなく、モダンなシカゴドリルやグリッチの要素をまぶし、現代的なグルーヴを作り出す。そしてボーカルは、ニュアンスとラップの間を揺れ動く。ラップをするというだけではなく、こまかなニュアンスで音程の変化や音程のうねりを作る。その後、サンプリングが導入され、女性ボーカル、アヴァンギャルドなノイズ、多角的なドラムビートというように、無尽蔵の音楽が堰を切ったかのように一挙に吹き出る。これらは単なる引用的なサンプリングにとどまらず、実際的な演奏を基に構成される「リサンプリング」も含まれている。これらのハチャメチャなサウンドは、音楽の未知の可能性を感じさせる。



さて、Lutalo(ルタロ・ジョーンズ)のように、フォークミュージックとヒップホップの融合によって始まるこのアルバムであるが、以降は、エレクトロニックやダンスミュージックの色合いが強まる。続く「Entry 10-4」は、イギリスのカリビアンのコミュニティから発生したラバーズロック、そして、アメリカでも2010年代に人気を博したダブステップ等を吸収し、それらをボサノヴァの範疇にある南米音楽のボーカルで包み込む。スネア、バスを中心とするディストーションを掛けたファジーなドラムテイクの作り込みも完璧であるが、何よりこの曲の気風を象徴付けているのは、トロピカリアの範疇にあるメロディアスなルーカスのボーカルと、そして全体的にユニゾンとしての旋律の補強の役割を担うシンセサイザーの演奏である。そして話が少しややこしくなるが、ギターはアンビエントのような抽象的な層を背景に形作り、この曲の全体的なイメージを決定付ける。さらに、音楽的な表現は曲の中で、さらに広がりを増していき、コーラスが入ると、Sampha(サンファ)のような英国のネオソウルに近づく場合もある。

 

その後、音楽性はラテンからジャズに接近する。「Waterword」、「re(turn)」はジャズとソウル、ボサノヴァとの融合を図る。特に、前者にはベースラインに聴きどころが用意されており、ボーカルとの見事なカウンターポイントを形成している。そしてトラック全体、ドラムのハイハットに非常に細かなディレイ処理を掛けながら、ビートを散らし、分散させながら、絶妙なトリップ的な感覚を生み出し、サイケデリックなテイストを添える。しかし、音楽全体は気品に満ちあふれている。ボーカルはニュアンスに近く、音程をあえてぼかしながら、ビンテージソウルのような温かな感覚を生み出す。トラックの制作についても細部まで配慮されている。後者の曲では、ドラムテイク(スネア)にフィルターを掛けたり、タムにダビングのディレイを掛けたりしながら、全体的なリズムを抽象化している。また、ドラムの演奏にシャッフルの要素を取り入れたり、エレクトリックピアノの演奏を折りまぜ、音楽の流れのようなものを巧みに表現している。その上で、ボーカルは悠々自適に広やかな感覚をもって歌われる。これらの二曲は、本作の音楽が全般的には感情の流れの延長線上にあることを伺わせる。

 

アルバムの中盤に収録されている「Mercy」は本当に素晴らしく、白眉の出来と言えるだろう。ヒップホップに依拠した曲であるが、エレクトロニックとして聴いてもきわめて刺激的である。この曲は例えばシカゴドリルのような2010年代のヒップホップを吸い込んでいるような印象が覚えたが、コンツアーの手にかかると、サイケ・ヒップホップの範疇にある素晴らしいトラックに昇華される。ここでは、南部のトラップの要素に中西部のラップのスタイルを添えて、独特な雰囲気を作り出す。これは「都会的な雰囲気を持つ南部」とも言うべき意外な側面である。そして複数のテイクを交え、ソウルやブルースに近いボーカルを披露している。この曲は、キラー・マイクが最新アルバムで表現したゴスペルの系譜とは異なる「ポスト・ゴスペル」、「ポスト・ブルース」とも称するべき南部的な表現性を体験出来る。つまり、本作がきわめて奥深いブラック・ミュージックの流れに与することを暗示するのである。

 

意外なスポークンワードで始まる「Ark of Bones」は、アルバムの冒頭部のように緩やかなトロピカリアとして流れていく。しかし、ピアノの演奏がこの曲に部分的にスタイリッシュな印象を及ぼしている。これは、フォーク、ジャズ、ネオソウルという領域で展開される新しい音楽の一つなのかもしれない。少なくとも、オルークのように巧みなギタープレイと霊妙なボーカル、コーラス、これらが渾然一体となり、得難いような音楽体験をリスナーに授けてくれるのは事実だろう。続いて、「Guitar Bains」も見事な一曲である。同じくボサやジャズのスケールと無調の要素を用いながら新しいフォークミュージックの形を確立している。しかし、聴いて美しい民謡の形式にとどまることなく、ダンス・ミュージックやEDMをセンスよく吸収し、フィルターを掛けたドラムが、独特なグルーヴをもたらす。ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーステップを経た現代的なリズムの新鮮な息吹を、この曲に捉えることが出来るはずだ。


一般的なアーティストは、この後、二曲か三曲のメインディッシュの付け合せを用意し、終えるところ。そして、さも上客をもてなしたような、満足げな表情を浮かべるものである(実際そうなるだろうとばかり思っていた)しかし、驚くべきことに、コンツアーの音楽の本当の迫力が現れるのは、アルバムの終盤部である。実際に10曲目以降の音楽は、神がかりの領域に属するものもある。それは、JPEGMAFIA、ELUCIDのような前衛性とは対極にある静謐な音楽性によって繰り広げられる。コンツアーは、アルバムの前半部を通じて、独自の音楽形態を確立した上で、その後、より奥深い領域へと踏み込み、鮮烈な芸術性を発揮する。


 「The Earth Spins」、「Thersa」は、ラップそのもののクロスオーバー化を徹底的に洗練させ、ブラックミュージックの次世代への橋渡しとなるような楽曲である。ヒップホップがソウル、ファンク、エレクトロニックとの融合化を通過し、ワールドミュージックやジャズに近づき、そして、ヒーリングミュージックやアンビエント、メディエーションを通過し、いよいよまた次のステップに突入しつつあることを伺わせる。フランク・オーシャンの「Be Yourself」の系譜にある新しいR&B、ヒップホップは再び次のステップに入ったのだ。少なくとも、前者の曲では、センチメンタルで青春の雰囲気を込めた切ない次世代のヒップホップ、そして、後者の曲では、ローファイホップを吸収し、それらをジャズのメチエで表現するという従来にはなかった手法を確立している。特に、ジャズピアノの断片的なカットアップは、ケンドリック・ラマーのポスト的な音楽でもある。カーリ・ルーカスの場合は、それらの失われたコーラスグループのドゥワップの要素を、Warp Recordsの系譜にあるテクノやハウスと結びつけるのである。


特に、最近のヒップホップは、90、00年代のロンドン、マンチェスターのダンスミュージックを聴かないことには成立しえない。詳しくは、Warp、Ninja Tune,、XLといった同地のレーベル・カタログを参照していただきたい。そして、実際的に、現在のヒップホップは、イギリスのアーティストがアメリカの音楽を聴き、それとは対象的に、アメリカのアーティストがイギリスの音楽を聴くというグルーバル化により、洗練されていく時期に差し掛かったことは明らかで、地域性を越え、ブラックミュージックの一つの系譜として繋がっている部分がある。

 

もはや、ひとつの地域にいることは、必ずしもその土地の風土に縛り付けられることを意味しない。コンツアーの音楽は、何よりも、地域性を越えた国際性を表し、言ってみれば、ラップがバックストリートの表現形態を越え、概念的な音楽に変化しつつあることを証立てる。このことを象徴するかのように、彼の音楽は、物質的な表現性を離れ、単一の考えを乗り越え、離れた人やモノをネットワークで結びつける「偉大な力」を持ち始めるのである。そしてアルバムの最初では、一つの物質であったものが分離し、離れていたものが再び一つに還っていくような不思議なプロセスが示される。それは生命の根源のように神秘的であり、アートの本義を象徴付けるものである。

 

アルバムの終盤は、カニエ・ウェストの最初期のようなラフなヒップホップへと接近し、サイケソウルとエレクトロニック、そして部分的にオーケストラの要素を追加した「Gin Rummy」、ローファイからドリルへと移行する「Reflexion」、アヴァンフォークへと回帰する「Seasonal」というように、天才的な音楽の手法が披露され、90年代のNinja Tuneの録音作品のように、荒削りな質感が強調される。これらは、ヒップホップがカセットテープのリリースによって支えられてきたことへの敬意代わりでもある。きわめつけは、クローズ「For Ocean」において、ジャズ、ローファイ、ボサノヴァのクロスオーバーを図っている。メロウで甘美的なこの曲は、今作の最後を飾るのに相応しい。例えば、このレコードを聴いたブロンクスで活動していたオランダ系移民のDJの人々は、どのような感慨を覚えるのだろうか。たぶん、「ヒップホップはずいぶん遠い所まで来てしまったものだ」と、そんなふうに感じるに違いない。





【Weekly Music Feature】  Felicia Atkinson

Felicia Atkinson


実験音楽家、サウンド&ビジュアル・アーティストのフェリシア・アトキンソン(1981年生まれ)は、ノルマンディー(フランス)の野生の海岸に住んでいる。2000年代初頭から音楽活動を開始。バルトロメ・サンソンと共同主宰するレーベル、シェルター・プレスから多数のレコードと小説をリリースしている。


フェリシア・アトキンソンにとって、人間の声は、風景、イメージ、本、記憶、アイデアなど、従来の意味での言葉を発しない多くのものと並び、その中にある生態系に息づいています。フランスの電子音響作曲家でありビジュアル・アーティストである彼女は、フィールド・レコーディング、MIDIインストゥルメンテーション、フランス語と英語によるエッセイ的な言葉の断片をコラージュし、彼女自身の声と対話しながら、これらの他の可能な声を活かすような独創性の高い音楽を制作しています。


彼女自身の声は、常に空間を作るために移動し、隅からささやくように、あるいは全然別の登場人物の口調になりきることもある。


アトキンソンは、想像的で創造的な人生を処理する方法として作曲を用い、ヴィジュアル・アーティスト、映画制作者、小説家の作品と頻繁に関わる。彼女の重層的なコンポジションは、時間と場所を交互に引き伸ばしたり折りたたむストーリーを語る。彼女は語り手ではあるが主人公ではない。控えめな登場人物として作品の中に現れる。


フェリシア・アトキンソンは、ジェフレ・カントゥ=レデスマ、クリス・ワトソン、クリスティーナ・ヴァンツォー、スティーブン・オマリーなどのミュージシャンや、エクレクト(ジュネーブ)、ネオン(オスロ)などのアンサンブルと共同制作している。INA GRM/Maison de la Radio(パリ)、Issue Project Room(ニューヨーク)、バービカン・センター(ロンドン)、Le Guess Who(ユトレヒト)、Atonal(ベルリン)、Henie Onstad(オスロ)、Unsound(クラクフ)、Skanu Mesz(リガ)などの会場やフェスティバルで演奏して来ました。彼女は、映画製作者(ベン・リバース、シーヴァス・デ・ヴィンク)やファッション・ハウス(プラダ、バーバリー)から作品の依頼を受けている。RIBOCA Biennale(リガ)、Overgaden(コペンハーゲン)、BOZAR(ブリュッセル)、Espace Paul Ricard(パリ)、MUCA ROMA(メキシコシティ)などの美術館、ギャラリー、ビエンナーレに出展している。


地球での生活で普遍的な体験のひとつは、首を傾げながら宇宙を見つめること。自分の内的生活の広大さと宇宙の広大さが出会い、瞬間、それらの視点は驚きと好奇心の中で融合する。フランスのアーティストで音楽家フェリシア・アトキンソンの最新アルバム『Space as an instrument』は、リスナーを、心が開放的で環境に対し受容的であるとき、そのような変容的な出会いの中で生まれる幻想的な風景へと誘う。夜空の広大さに吸い込まれるように、この音楽はイマジネーションを膨らませ、計り知れない神秘の中に心地よく身を置く手助けをしてくれる。


エレクトロニクスの断片や、発音された言葉の子音等、音楽の端々にある音と複雑に絡み合いながら、抑制された反復的なメロディーによって語られる。これらはアトキンソンの携帯電話で録音されたものであるといい、鍵盤の横や背後に置かれ、部屋の音が滲んで、不可思議な場所と時間を感じさせる。彼女はこれらのセッションを、「自分とピアノが交わり、渦巻くようなフレーズや茫漠とした不協和音を刻一刻と共創していく会議」と表現している。このダイナミズムを複雑にしているのが、ダイオードとLEDディスプレイという超現実的な空間に存在するデジタルピアノの存在である。デジタル・ピアノは、3次元のピアノのアバターとして機能する。


それでも、人、水、風といった人間の世界にある主要な元素は、楽器としてスペース全体で聴くことが可能です。多くの場合、これらの録音はエレクトロニクスの背景と一体化し、あるいは物理的な形態が不明瞭な動きの音に還元される。"Sorry "では力強い突風にマイクが緊張し、"Pensées Magiques "では見えない地形を横切るリズミカルな足音。これらのフィールド・レコーディングは、私たちを共感覚的体験の瀬戸際まで誘い、想像力の地形を垣間見せてくれる。しかし、アトキンソンの音楽は、このシーンに対する特異な視点や明確な結論に抵抗する。


「音楽、それは何も説明しない 」と彼女は言う。「しかし、それは私がそれを知覚する方法を、どうにかして翻訳しようとする」


アトキンソンはもともと多趣味で、日々のさまざまな芸術的実践に没頭し、互いに栄養を与え合っている。自宅の庭では、種を超えた関係構築のスローワークを行い、内省とさらなる創造に理想的な空間を培っている。アルバムのヴォーカルとエレクトロニック・エレメントの多くはそこでレコーディングされたという。


「日常的な意味づけの道具を謎めいたものにする能力がある」と彼女が高く評価する詩の形態は、音楽にも折り込まれている。彼女は時間の許す限り、絵を描いているという。アトキンソンが絵画に見出す個人的な限界のひとつ「遠近法の表現」は、彼女の音楽を定義する特徴になっている。聴き手の視点は滑りやすく定まらず、音は巨大にも極小にも、遠くにも近くにも見える場合がある。


この現象は、1時間半の演奏から削ぎ落とされた13分の作品「Thinking Iceberg」の中心的なもので、アルバムのレコーディングでは幽霊のような存在でしかない。アトキンソンは、オリヴィエ・リモーの著書『Thinking Like An Iceberg(氷山のように考える)』を受けて、この曲を書いたという。


この書籍では、哲学者がこの巨大で絶滅の危機に瀕した物体に主体性を与え、彼らが人間との千年にわたる関係をどのように認識するかを想像する。ストイックなシンセサイザーの音色が鳴り響く中、水はフレームから飛び出して、澄み切った存在感を放つ。作品が盛り上がると、アトキンソンのささやきが、リスナーの左耳の傍らに聞こえてくる。私たちは、巨大さと繊細さが、時間と人間性の犠牲の上にいかに共存しうるかについて、かすかな気づきを得るのである。


アトキンソン自身は、彼女の音楽は「理解できるかできないかの瀬戸際に位置する」と語っています。しかし、漠然とした空間には謙虚さと開放感があり、巨大な凍った水の塊の意識を理解するのに十分な共感があるのかもしれない。聴き手の視点がさまざまな方向に向けられることで、それもまた思いやりを育むための手段となり得るのではないだろうか? 彼女の音楽に静かに耳を傾けるとき、私たちは、崇高な体験……、無限の広がりと近さの根本的な並置の中にだけ意味があるのではなく、同じ旅をした無数の個人の連続性の中にも意味があるという大いなる知恵に出会うことになる。


以前、アトキンソンは、The Quietusの「目をつむり、見て」と題された過去のインタビューにおいて、アンリ・ルソー、高田みどり(注:  日本の実験音楽家。高野山の仏僧とのライブセッションをレコーディングに残している)からの影響、日本の切り花や生花からの影響を参照している。それはアトキンソンの音楽制作の道しるべとなり、空間の中でどのように音楽が聞こえるのか、音の各々のマテリアルがどこに配置されるべきか、という考えに反映されている。


これらはすべて、印象派/抽象派としての美しい音楽をアトキンソンが作曲するための足掛かりとなるイデアである。そしてまた、「そこにあるべきものが自然な形で存在する」、あるいは、「過度な脚色や華美さを平すように削ぎ落としていく」という日本の伝統的な建築形式や芸術様式の美学の反映も内在する。これは、「侘び寂び」と呼ばれる日本の美学の原点でもあるのです。



『Space As An Instrument』  Shelter Press   (90/100)

 

フランスの実験音楽家、フェリシア・アトキンソンは、ニューヨークとパリを往復することが多いらしく、定期的に移動するのが好きだというように話していた。28年ほどパリで過ごし、以後ブリュッセル、そしてレンヌに滞在している。「わたしの家の窓からは、素晴らしい庭が見え、何百羽もの鳥が住んでいた。しかし、プライベートプールを建てるためにすべての木がなぎ倒され、私の心は傷ついた」と彼女は語っている。「レンヌの建築は70年代までは面白かったが、以降は開発業者のための大虐殺。現在、不動産の投機のために美しい家が次々と打ち壊されている」 さて、時代を追うごとに外側の景色が変わっていく中で、変わらないものは本当にあるのだろうか。

 

新作アルバム『Space As A Instrument』は、外の景色が移ろっていく中で、変わらないものとはなにかを探求している。それは内側と外側の世界の合致する瞬間であり、内側の世界が静寂に包まれる時、初めて外の世界が同じように静かに見えることがある。録音という行為は、記録の代用でもある。瞬間に捉えられる音、言葉、外側の世界のフィールド録音、このアルバムの場合は、鳥の声、水の音等を中心に構成され、それらが電子ピアノとフェリシア・アトキンソンの声、アコースティック・ギター、マリンバ、あるいは、彼女自身の詩の朗読によって組み上げられる。37分ほどの記録.....、もしくは永遠の時間の中の瞬間的な歩み......、その不明確な空間に響きわたる、ないしは、こだまする電子音楽のテクスチャーは、基本的にはブライアン・イーノの系譜にあるアンビエントの技法や実験性の高いマテリアルを中心に構成されている。

 

しかし、音の運びが組み合わされると、どのジャンルにも属さないノンジャンルの音楽が出来上がる。抽象的な音の運び方は、ジョルジュ・デ・キリコの不可思議なシュールレアリズムの絵画の世界の中に飛び込むかのようだ。このアルバムにはそれほど多くの人も登場しないし、そして躍動的な生命の息吹を感じさせることも稀有である。しかし、同時にこのアルバムには、生命的なエネルギーの断片が刻まれている。そして実験音楽として、湯浅譲二や武満徹の実験工房時代の音楽を彷彿とさせる内容も登場する。しかし、その音楽は、アストリッド・ソーンの最新アルバムのように、表向きには不気味に聴こえる場合もあるが、実際的に建築やファッションの美的センスと図りがたい癒やしが共存する稀有な作品と呼べる。

 

アルバムの冒頭を飾る「1- The Healing」では、大自然の脈動(宇宙の本質的な活動でもある)を表すかのような木の音の軋みを録音したフィールドレコーディングにピアノの演奏が続く。ヒーリングミュージックを思わせるタイトルだが、幽玄なアンビエントピアノ風の悲痛なサウンドが続いている。その中に、フェリシア・アトキンソン自身のスポークンワード、詩の朗読が加わる。それは内的な痛みを感じさせ、背景となるアンビエンスに的確に溶け込んでいる。朗読は非常に淡々としているが、それは上記のような自然破壊に対する悲しみと嘆きが内在する。まるでその声は消えたもの、消えぬものの境界に揺れ動くかのよう。

 

「2- This Was Her Reply」は、マリンバの演奏で始まる。その後、アトキンソンの詩の朗読が続く。そして、「アルバムの録音」という行為の目論見が、発生した音を収録するのではなく、「一空間にある元素の実存を表す」というものである。どうやら、アルバムを聴くと、制作者は、原子や元素のような微細な要素から組み合わされる物質の総体が音楽であると考えているらしい。

 

ここでは、音楽という概念を構成する微細な元素の集積のことを「Ambience- アンビエンス」と呼ぶ。アトキンソンの制作する音楽の基底には、有機的な生き物、無機的な楽器が並置される。しかし、その両方に両極端の性質が存在し、それらの生命的なエネルギーや元素、そしてエーテルのようなプラトンが提唱したギリシア的な概念に培われる原初的な構成要素を収録する。


これが単なる音の発生にとどまらず、「有機体としての一つの空間」を生み出し、それらがテキサスの礼拝堂であるロスコ・チャペルのような不可思議な空間性を作り上げていく。特に、「空間の移動」という彼女の一つの人生の副次的な主題のような概念も偏在している。それは、アンビエンスの変化という側面で発生し、広大な空間から狭い場所へと瞬時に移行する。また、それらの空間的な移動を助長するのが電子音楽のテクスチャー。この曲の場合は、カールハインツ・シュトゥックハウゼンの「トーン・クラスター」の技法によって行われる。

 

このアルバムは、日常的な生活の周囲の音楽の他にも、山岳地帯にこだまするアンビエンスを描写したような曲も登場する。「3-Thinking Iceberg」では、ブルターニュ地方の山岳地帯を思わせるサウンドスケープがブライアン・イーノの系譜にある重厚なアンビエントにより描写される。これらは、バルザック時代のフランスの古典的な風景の名残りを描写音楽として活写したかのようだ。

 

シダの別名であるフジェールの茂る大きな森、古い苔に覆われた石の寺院、土壁を持つ風車、また、古典的なヨーロッパの美しきレンガの町並み、そして、スイスのアルプス地方にも見出されるような神秘的な光景を囁くようなスポークンワードで包み込む。それらは本来は離れた空間ーー広大な自然と彼女の住む生活空間ーーを結びつけるかのようでもある。しかしそれらは、神秘的ではあるが、歴史的な歩み、その最中にある憂愁のような感覚を刻印している。つまり、「内側の世界の視点を通して離れた場所を見つめる」ような不可思議なアンビエントなのだ。この辺りに「目を閉じると見える」というアトキンソンの作曲概念がうかがえる。曲の最後にはリュートを思わせるガットギター(バリトン)が優雅で神妙なエンディングを構成する。

 

 「タイル」を意味する「4- La Puile」では、透明な印象を持つアンビエント・ピアノが展開される。前曲での乖離した二つの空間の結合を基にし、この曲では、アトキンソンの神妙なスポークンワードによって、さらに瞑想的な領域へと差し掛かる。音楽が表面性に鳴り響くにとどまらず、その内側に入り込んでいき、より深い内殻の空間へと踏み入れていく。


いつしか、ピアノの演奏は鳴り止み、立ち代わりに、布をこすり合わせるような録音、オーケストラストリングスの役割を果たすシンセ、そして、偏在する孤絶を表したかのようなスポークンワードが神秘的に鳴り響く。アルバムの冒頭のように、シンセの響きは悲しみの印象を与えるが、対比的に導入される高音域に鳴り響く単一のピアノのフレーズはそれとは対象的に高らかな響きに縁取られている。前項の山岳地帯の雪解けの頃の季節が何らかの個人的な記憶と共鳴を果たす。神秘的でありながら、重厚感があり、催眠的な響きを兼ね備えている。そして、これらの悲しみが何によるものかはよくわからないが、推測すると、それらは最初に述べたレンヌ地方の自然破壊や変わりゆく町並みへのノスタルジアとも考えることが出来るかもしれない。


このアルバムには、声という器楽的な要素を用いた詩の表現を織り込まれている。一方、音楽そのものが詩のように鳴り響くのもまた事実である。そして制作者は、フィールドレコーディングも効果的に用いて、音によるストーリーテリングの要素を付与する。例えば、続く「5- Sorry」では、大気の粒子をフィールドのマイクロフォンで捉え、その空気音をキャンバスにし、音楽を絵画さながらに描写する。


フェリシア・アトキンソンを「印象音楽のペインター」と称するのは少し強引かもしれないが、それに比する印象もなくはない。そして、彼女は、冒頭をシュールレアリズムで表現した後、アルルの印象派の画家のように、丹念にサウンドスケープを描いていき、これらは、ゴーギャンのような「暈しの技法」を作曲技法に取り入れているといえる。要は明確に聴取出来る音楽ではなく、背景に滲じむ抽象的な音像を作り上げてゆく。また、このアルバムは沈鬱な印象を持つ収録曲が多い中、この曲はただひとつだけ、天国的な音楽性が感じられる。しかし、タイトルに見られるように、この曲の印象は少しずつ制作者の人生の変遷を捉えるかのように変わっていき、最終的には、感傷的なピアノの断片とシンセにテクスチャーへと変化する。


『Space As An Instrument』は、個人的な生活の体験を基にして、そこから汲み出される感情や気付きを基に、複数の離れた空間を移動するかのようである。それは、レンヌからパリ、パリからニューヨーク、ニューヨークからブリュッセルというように、実際的な空間の移動も含まれているかもしれないが、同時に、過去に行った場所、過去に起きた感情、それらをすべてひっくるめて重要な体験と見た上で、現在の制作者が実存する地点から目くるめくようなクロニクルを構築していく。要するに、このアルバムは、例えば、ダニエル・ロパティンが最新作『Again』で探求したような「アンビエントや実験音楽による年代記」と称せるかもしれない。多くの人は、現実を「現象」として見ていると思うが、それはプラトンも言うように、真実に暗く、洞窟の闇に住まうことを示唆している。もちろん、「過去の場所、感情、行動、思索の積み重ね」の連続が、人間にとっての「実存」を意味するのである。それが他者が知り得ぬものであるからこそ、アルバム全体に通底する音楽は、純粋なアートとしての意味を帯びて来るようになる。本作は、その後、前の曲の流れを受け継いで、アンビエント・ピアノが続いている。

 

「6- Shall I Return To You」は、本作の中では最もミステリアスな響きを帯び、実際的に不協和音が強調されている。このアルバムでは始めて、他者の明確な暗示が登場する。氷塊のような印象を持つアンビエントのシークエンスとデチューンを施したピアノが組み合わされる否や、形而上に存在する音楽が作り上げられる。実際的な実験音楽としては、ハロルド・バッドに近く、ピアノの演奏とリサンプリングが組み込まれている。そして、アルバムの中に、再三再四登場するように、微細で幽玄な雰囲気を持つヴォーカルが登場する。

 

アルバムは連曲のように前の曲が次の曲と密接な関係を持ち、何らかの関連性を持っている。それは人生が連続しているのと同様。音楽の存在は、そのほかの要素と無関係ではないだろうし、曲はトラックリストを経るごとに、神妙な領域に入り込む。そして、その音楽は何らかの心象風景を仮想のヴィジョンに映写するように、曲ごとに異なる空間、風景、記憶を呼び覚ます。

 

特に驚かされたのが、本作のクローズを飾る「7- Pensees Magiques」(魔術的思考)だった。この曲は2024年の実験音楽の最高の一曲である。不協和音を活用したピアノの旋律の進行、そしてアルバムの二曲目よりも明確に「トーン・クラスター」が登場する。

 

本作の心象風景は最後のさいごになって、自宅の庭へと移り変わる。鳥の鳴き声や階段を上がっていく音など、何らかの瞬間を暗示する日常的なサンプリングがサブリミナル効果のように挿入される。これが、音楽を解明するというより、謎めいた余韻を残す。音楽はすべて分かるというよりも、何かしら究明しきれない箇所があった方が楽しい。特に、曲の最後の唐突な足音を聞いて、何が想像されるだろうか。また、どのようなイメージが呼び覚まされるだろうか。

 


 

 

 



* 発売元のシェルター・プレスは、出版社のバルトロメ・サンソンとアーティストのフェリシア・アトキンソンが2012年に共同設立したレコードレーベル兼出版プラットフォーム。印刷出版物やレコードを通じて、現代アート、詩、実験音楽の対話を構築している。2021年9月より、Shelter Pressは、Ideologic Organ、Recollection GRM、Portraits GRMレーベルのリリースも手がけ、コラボレーションを行っている。



マイアミを拠点とするバンドSeafoam Wallsは、シンガー・ソングライターでギタリストのジャヤン・バートランド、ベーシストのジョシュ・イーワーズ、エレクトロニック・ドラマーのホスエ・ヴァーガス、ギタリストのディオン・カーで構成される。彼らはジャズ、シューゲイザー、ロック、ヒップホップ、アフロ・カリビアンリズムのまったくユニークな組み合わせであるシーフォーム・ウォールズを「カリビアン・ジャズゲイズ」という新しいジャンルで表現する。


『Standing Too Close To The Elephant In The Room』は、バンドにとってエキサイティングな新章を象徴している。このアルバムは、シーフォーム・ウォールズのミュージシャンとしての進化を示すだけでなく、アーティストとしての評判を確固たるものにし、リスナーを実験的な影響と楽器編成のテクニカラーの霧を通して彼らの音楽を体験させる。ディオン・カー、ジョシュ・エワーズ、ホスエ・ヴァーガスを中心とするバンドは、芸術的な自律性へのコミットメントを示し、セルフ・プロデューサーとしての役割を担い、現代社会とそれが内包するあらゆる矛盾に疑問を投げかけながら、その壮大なサウンドスケープを堪能できるアルバムを作り上げた。

 


ギタリストのジャヤンはアルバムに関して次のように説明しています。「ギターを手にする以前、純粋な音楽ファンだった。その後、世界各国の政府の抑圧的なやり方について学び始めると、私の世界は粉々に打ち砕かれた。自分達のすることは正義なのだと私に断言した権威的な存在も、実は『問題の重要な一部だった』のです。その後、もしかしたらアートこそがこの残酷な世界で唯一の安全な空間ではないかと思い始めました。『Humanitarian Pt.II』は端的に言えば、『幻滅』についての作品です。私は、同じような手口が存在するとは知らず、真っ先に音楽シーンに飛び込んでいきました。そして、そのようなやり方を非難するとともに、私の前に好きだったアーティストたちのように『社会規範に疑問を投げかける』ことを自分の使命としています」

 

「実は、私はまだ差し迫った疑問に対する答えを探しているところなのですが、現実的な解決策を持っている同じような考え方を持つ人たちと一緒にいることは励みになります。ディオン・ディア・レコードの最新作と今後のリリースに惹かれたのは、私が尊敬する誰もが素晴らしい疑問と意識を提起する中、ディオン・ディアは希望に満ちた選択肢を提示してくれたからでした」


アルバムのタイトルは、人々が人生で直面する、見過ごされがちであるが重要な課題や複雑さの比喩であり、細部にとらわれ、大局を見失うことへの警告を意味する。ジャヤンが説明するように、誰もが部屋の中にエレファントを飼っている。しかし、問題がより複雑であるため、視野が狭小になり、それらの全体像が見えづらくなっている。つまり、視聴者は同じ問題に対して偏った視点を提供しているらしい。これは、交差性が満たされていない領域の説明なのである。

 

 

Seafoam Walls  『Standing Too Close To The Elephant In The Room』/ Dion Dia


 

 

シーフォーム・ウォールズの音楽性はとても個性的である。基本的なバンドアンサンブルは、今日のオルトロックのトレンドに沿っているが、他方、チルウェイブを吸収したシンセポップのような音楽性が際立つ。それに加えてボーカリストのジャヤンのボーカルもR&Bのテイストからアフロビートからの影響をミックスした懐深さを感じる。それほどこのアルバムの音楽は難解になることはなく、シンプルで親しみやすく、それどころかライトな印象を思わせる。35分ほどのアルバムを聴き通すのに、労力や忍耐力は必要ないと思う。さらりと聞き流せるサウンドはBGMのように過ぎ去っていく。しかし、アフロビートを反映させた多角的なリズム等、コアな音楽の魅力が凝縮されている。Unknown Mortal OrchestraのようなR&B色のあるインディーロックとも言えるのだが、同時によくよく聴くと、かなり奥深い感覚のある作品である。

 

なぜ、軽やかな印象のあるロックなのに聴き応えがあるのか。それは端的に言えば、制作者の考えが暗示的にバンドサウンドの背後にちらつき、シーフォーム・ウォールズの音楽がジャンルのキャッチコピーに終始しないからである。そしてロックバンドとしての不可欠な要素、ライブセッションの醍醐味も内包されている。セッションは音による複数人の対話やコミュニケーションを意味し、音楽が時々、優れたミュージシャンにとってある種の言語のような役割を持つことを定義付ける。このバンドのライブセッションにおける対話は、アルバムの最後の曲「Ex Rey」に登場する。セッションの心地よさが永遠と続くような精細感のあるライブサウンドがこのアルバムの最後に控えている。このことはまだこのアルバムで、ジャヤンのほか四人のメンバーがすべてを言い終えたのではなく、言い残した何かがあることを暗示するのである。

 

そして、このアルバムに少なからず聴き応えをもたらしているのものがあるとすれば、それは彼らの権威筋に対する「失望」や「不信」にほかならない。今日日、権威筋の説得力のある意見がときに、実際的な経験を元に組み上げられるシンプルな論考に対し、無惨なほど敗北を喫する時代に、権威に対する盲目的な崇拝が最早以前のような意義を失ったことを暗示している。ソングライターのジャヤンは、このことに関し、「世界各国の政府の抑圧的なやり方について学び始めると、私の世界は粉々に打ち砕かれた。"自分達のすることは正義なのだ"と私に断言した権威的な存在も、実は『問題の重要な一部だった』」と説明しているが、これは反体制的でも何でもなく、一般的な人々が今日の時代において痛感せずにはいられないリアルな感覚でもある。


ただ、シーフォーム・ウィールズの音楽的な感覚は、そういったドグマに対して距離を置くことにある。そういったものにはまり込み、修羅の道に入るのではなく、それらに一瞥もくれないのだ。素晴らしいのは、旧来の価値観の崩壊や一般的な概念に対する不信感が主題になっているのは事実であるが、サウンドそのものは建設的で明るい方向に向かう。アートや音楽を一つの起点とし、彼らは純粋な楽園を構築しようとするのである。結局、アルバム全体を通して感じられたのは、彼らが政治的な観念から適切に距離を取ろうとしていること、そして、もし今日の政治や世界情勢の闇に不満を感じるならば、むしろそのことを逆手に取り、別の道に歩み出そうとすることであった。たとえ、それが架空のものであろうと、もしこういったアートの純粋な試みを行う人々が多数派になれば、争いはもちろん、不毛な論争も立ち消えるのである。


さて、現代の人々は今までそれが「正しいこと」だとか「善なること」と言われていたものが、本当はそうではないとわかった時、どう立ち向かうべきなのか。また、どのように接するべきなのか。少なくとも、このアルバムに関して言えば、それらの考えや価値観と争うとか、反駁を企てるといった旧来の手法とは別の道筋が示されている。バンドのサウンドは主流派に乗っかるのでもなければ、過剰にスペシャリティを誇示するわけでもない。スペシャリティを誇示しすぎることは、建設的なやり方とは言えまい。シンプルに言えば、彼らは、バンドアンサンブルを通じて「楽しむ」だけである。それでも、このことが何らかの愉快なエネルギーを発生させ、聴いている人々に開放的な気分を与え、さらに最終的に、純粋な音楽の喜びを教えてくれる。高尚な楽しみはときに形骸化や腐敗を招く。しかし、純粋な楽しみは、最も偉大なのだ。

 

チルウェイヴとギターロックを組み合わせた「Humanitarian Pt.1」、「Humanirarian Pt.2」は本作の序章のような意味を持つ。そしてこのアルバムが、一種のコンセプチュアルな流れを持つ作品であることが暗に示されている。ジェフリー・パラダイスのプロジェクト、Poolsideのエレクトロニックサウンドとギターロックを融合させたかのようなリラックスした感じが主な特徴である。これらのスタイルには、ヨットロックのようなリゾート的な雰囲気が漂う。それほど苛烈になることなく、余白のあるサウンドに波の音のサンプリングが挿入されることもある。彼らは結果的にアルバムの楽園的なサウンドを入念に組み上げていく。

 

波のサンプリングのイントロを挟んで始まる「Cabin Fever」は、シーフォーム・ウォールズがオーストラリアのHiatus Kayoteのような未来志向のプログレッシヴ・ロックの性質を兼ね備えていることの証でもある。ギターの心地よいカッティングを元にして、多角的なリズムを作り出し、スケールの大きなプログレを構築していく。バンドのアンサンブル自体はミニマリズムの性質があるが、ヒップホップやチルウェイブ、ソウルを通過したボーカルがこれらのサウンドに開放的な気風をもたらす。同時に、サンプリングのイメージと相まって、サウンドスケープの範疇にあるロックソングが構築される。そして、四人組のサウンドはどちらかといえば、単なる楽曲というよりも、サウンド・デザインや風景描写の一貫をなすロックサウンドに接近していく。実際的にトラック全体からマイアミの砂浜を想起することも無理難題ではない。そしてバンドの音楽はそれほど神経質にならず、オーガニックで広やかな印象をもたらす。 

 

 

 「Cabin Fever」

 

 

温和で心地よいサウンドはそれ以降も続く。「Rapid」では、リバーブを配しバッキングギターで始まり、同じようにリゾート的な雰囲気を持つシーケンサーのシークエンス、そして細やかにリズムを刻むドラムと、バンドは音の要素を積み重ねていきながら、ひたすら心地よいサウンドを追求している。そしてこれらのリズムから、開放感と清涼感に溢れるジャヤンのボーカルがぼんやりと立ち上ってくる。ジャヤンはもしかすると、ヒップホップはもちろん、現代的なネオソウル等から影響を受けているかも知れない。それらのソウルフルな歌唱は、徹底して作り込まれたギター、それらをしっかり支えるリズム、こういった要素の中に上手く溶け込んでいる。シーフォーム・ウォールズのサウンドは、単一の楽器やパートが強調されることは稀で、全部のパートが一体感を持って耳に迫ってくる。そして、これが瞑想的な感覚を呼び覚ます。

 

アルバムの中盤のハイライト曲「Hurricane Humble」は、予言的な曲となってしまった。海岸の波の上を揺られるようなサーフサウンドを基調としたギター、 それらがソフト・ロックやシンセ・ポップの系譜にあるボーカルと溶け込み、やはりヨットロックのようなトロピカルなサウンドが組み上げられる。こういったサウンドは、ニューヨークのPorchesに近いテイストがあるが、曲の途中では、ラディカルなエフェクトが施されたりと、実験的なロックの形式を取ることもある。しかし、そういった前衛的なサウンドエフェクトがなされようとも、それほど聴きづらくはならない。それはボーカルのサングがポップの範疇にあり、自然な歌唱力を披露しているからだ。そして、3分半頃にはトーンの変調というシューゲイズの要素が登場する。これらは、最終的に、Hiatus Kaiyoteのような近未来的なロックサウンドに肉薄する。さらに、それらの実験的な試みはトラックのアウトロにも用意されている。さらに、この曲の最後では、大きなハリケーンが去った後の空気の流れを録音したサンプリングが配されている。そして、これはアルバム全体からストーリーを汲み取るような聴き方も出来ることを示唆しているように思える。

 

リズムにおける冒険心が垣間見えることもある。アフロビートの躍動的なリズムをイントロに配した「Stretch Marks」は、依然としてヨットロックの質感を押し出しながら、アフロ・ビートとオルタナティヴの融合という、彼らにしかないしえない音楽的な実験がなされている。この曲では、まだすべてが完成したとは言えまいが、新しい音楽の萌芽を見出すことが出来る。もしかすると、マスタリングには、「iZotope」が使用されている可能性がある。このあたりは、シンプルでスタンダードなデジタルなサウンドデザインを堪能することが出来るだろう。さらにアルバムの序盤の副次的なテーマであったサーフミュージックの存在感がより一層強まるのが続く「Sad Bop」である。この曲は、ハワイのジャック・ジャクソンのフォークサウンドをエレクトリックで体現したかのようでもある。彼らは、海岸沿いのリゾート気分や、海辺の夕景を想起させるようなロマンティックなポップスを聞き手に提供している。また、この曲でもサウンドスケープとしてのバンドサウンドが巧みに組み上げられていて、水中をゆったりと泳ぐような夏らしく、愉快なサウンドを楽しめる。(少し季節外れになってしまったかもしれないが.......)

 

アルバムの最後にも印象深い曲が収録されている。「Ex Ray」は、バンドアンサンブルの未知の可能性を示唆している。現代的なオルトロックバンドはどうしても「録音」が先行してしまい、アンサンブルの楽しさを追求することが少なくなりつつある。しかし、コラボレーションやバンドの楽しみを挙げるとするなら、こういったいつまでも続けていられるような心地良いライブセッションにある。それを踏まえ、彼らはBeach Houseのサウンドをお手本にしつつ、バンドとして何が出来るのかを探っている。そして、この曲にこそ、アートそのものが現実を超える瞬間が示唆されている。特に、それは現実的な概念からかけ離れたものであればあるほど、重要な価値を持ちうる。少なくとも、シーフォーム・ウォールズは、彼らが抱える問題を見事に乗り越えている。つまり彼らは現実に打ち勝ち、「Get Over It」してみせたとも言える。それは前述した通りで、彼らの純粋な楽しさを追求する姿勢が、現実的な側面を乗り越えるモチベーションとなったのだろう。




85/100

 

 

 

「Rapids」

 

 

■ Seafoam Wallsのニューアルバム『Standing Too Close To The Elephant In The Room』は本日発売。ストリーミング等はこちらから。

Liela Moss



ロンドンのシンガーソングライター、Liela Moss(リエラ・モス)は4枚目のスタジオ・アルバム『Transparent Eyeball』のリリースを発表する。


デューク・スピリットのメンバーとして知られるリエラは、ソロ活動やコラボレーションを通じて影響力のあるアーティストとしての地位を確立してきた。リエラの催眠術のような、しばしば激しい音楽スタイルは、SPIN、NME、Clash Magazine、Uncut、MOJO、Record Collector、6 Music、Radio Xなどが支持し、世界中のテイストメーカーや音楽ファンから大いに称賛されている。


2008年の「My Name is Safe In Your Mouth」、2020年の「Who The Power」、2023年の「Internal Working Model」、そしてデューク・スピリットとの5枚のアルバムにより、「Transparent Eyeball」はリエラの新時代を築き、より大胆なサウンドの方向へと進んでいる。


プロデュース・デュオのIYEARA(マーク・ラネガン、ヒューマニスト)と協力し、リエラはドラマチックで脅威的なサウンドを作り上げた。スペイシーで、グリッチーで、息をのむほどスタイリッシュな「Conditional Love」の洗練されたプロダクションとリエラのパワフルなヴォーカルは、このアルバムで何が期待できるかを垣間見せてくれる。


リエラはアルバム制作について以下のように回想している。「このアルバムは、20年間曲をレコーディングしてきた中で最も自発的なプロセスだった。プロデューサーのIYEARAとは、もし2曲でしっくりくるものができたら、全部をアルバムにして、私が歌うことにしてもいいかなというような会話をした」


「できる限り自然体でいることを心がけながら、私は音楽の雰囲気から生まれたセリフや言葉を吐き出したが、それは私の一般的なこだわりというテーマで統一されている。権力闘争に憑りつかれている我々人間たちは、どうすれば争いを解決できるのだろうか。私は、人間関係における不寛容が、そもそもそのような境界線を刺激する恐怖よりも、どれほど大きな害を深く引き起こしているのかについて考えていた」




Liela Moss 『Transparent Eyeball』 - Self Release (A Bardge Of Friendship)
 
 


 
 
リエラ・モスは三作目のアルバム『International Working Model』で実験的なポップスをもと
に聴きごたえのある作風を確立したが、それほど派手な印象をもたらしたとは言い難かった。 モスは、Bjorkに近いハスキーな声質を持ち、音域やビブラートの伸び等、歌手として申し分ない資質を兼ね備えていたが、端的に言えば、彼女は才能を持て余していた。それは間違いなく、ポップという側面にこだわっていたから、その才能を発揮しきれない部分があったのである。


しかし、今回、IYEARA(マーク・ラネガン、ヒューマニスト)をプロデュース・チームに招聘し、「A Bardge Of Friendship」という制作チームの助力を得て自主制作盤としてリリースされた『Transparent Eyeball』では、KASABIANのデビュー当時のようなエレクトロ・ロックへとドラスティックな音楽的な変換を図り、見違えるような印象をもたらすことになった。カサビアンはデビュー当時、自分たちを『ギャングスタ』と名乗っていたが、それに近いイメージだ。そのセンセーショナルで毒気に満ちた印象は、デビュー時のビョークやベス・ギボンズに匹敵する。
 
 
4作目のアルバムは、シンプルに言えば「歌手としての変身」を意味する。この新作を聴けば、三作目までのリエラ・モスのイメージは一瞬で吹き飛ぶ。まるで嵐のようなポピュラー/ダンスロックが走り抜けていき、一般的なリスナーは口をポカンと開けたまま、その音楽に圧倒されてしまうかも知れない。実際的にレコーディングルームの雰囲気が収録曲に乗り移ったか、もしくはマーク・ラネガンがよく知る「ストーナー」の手法をダンスミュージックのアシッドの感覚を結びつけたかのようである。アルバムは奇妙な緊張感に満ちていて、そしてライヴステージ向きのサウンドを徹底して強調している。アンセミックなフレーズを散りばめ、扇動的であることを最優先し、リエラ・モスはアグレッシヴなヴォーカルを披露する。3作のフルレングスの制作やライブにおいて、彼女はそのための布石は十分に作っておいた。まるで内側に溜め込んだエネルギーを一挙に開放するような感じで、覇気のあるヴォーカルを披露する。
 
 
 
本作の音楽は、Portishead、Trickyのトリップ・ホップ、Primal  Scream、New Orderのダンス・ロックの文脈をかけ合わせ、それらを全体的に実験的なポップとして組み上げる。ただ、オープナー「Prism」を聴くと分かるように、基本的にはシンプルな8ビートのロックで構成され、これらはアルバム全般を通じてほとんど崩れることがない。
 
 
トラック全体の波形にディレイを施し、アコースティックのドラム演奏を元に、力強いグルーヴを作り出し、そして、現在の歌手の印象であるスタイリッシュな感覚を徹底して押し出す。ボーカルに普遍的なソウル/ダンスからの影響を取り入れ、トリップ・ホップやダブの系譜にあるドラムのエッフェクティヴな効果、『Dummy』の作風に代表されるエキゾチックなシンセの断片が組み合わされ、堅牢なポップ/ロックソングが出来上がる。音楽的な手法としては複雑でハイレベルだが、表向きに現れるのはカサビアンのデビュー当時のようなシンプルなロックである。
 

「Dark Kitchens」は、ポピュラー/ロックとして優れているだけではなく、今年のダンスミュージックの中でも傑出していると私自身は思った。インダストリアル・ノイズを80年代のマンチェスターのエレクトロに織り交ぜ、ハードコア・テクノとポピュラー・ミュージックを劇的に融合させている。


全体的にはハードコアテクノなのだが、その中に、ビョークやセント・ヴィンセントのシネマティックなポップス、シアトリカルなポップスの影響を織り交ぜ、渦巻くようなグルーヴを背景に、モスはクールな歌を披露している。前作ではインディーフォークの系譜にある柔らかい印象の曲も制作していたが、その面影は最早どこにもない。人が生まれ変わったかのように、全盛期のアニー・クラーク、ギボンズ、ビョークに匹敵する凄まじい迫力のヴォーカルを披露する。
 
 
 
 
「Dark Kitchens」


 
 
アルバムの中盤では、多彩な印象を持つエレクトロニックがポピュラーと結び付けられる。IYEARAのプロデュースは個性があり、ジェフ・バーロウのようにリズムトラックに徹底して注力し、細部のリズムの作り込みは精密機械のようである。そしてドラムテイクがボーカル・トラックよりも前面に出てくることがある。
 
 
 
「3-Conditional Love」はアルバムのもう一つのハイライトとなる。Primal Scream、New Order、Underworldのダンサンブルなシンセサイザーのフレーズをポーティスヘッドのサンプリング・ドラムと掛け合わせ、それらを、Florence+The Machineのゴシック調のポピュラーと結びつける。しかし、サビの部分では、80年代頃のポピュラーを意識したアンセミックなボーカルを披露し、それらがスペーシーなシンセによって強調される。ライブで映えるようなナンバーである。
 
 
「Reward」は、メロとサビを変拍子によって対比させた一曲である。St.Vincent(アニー・クラーク)の系譜にある曲調であるが、ロックというよりもメタリックな印象を徹底して押し出した過激な雰囲気を擁するナンバーだ。同じように、編集された多重録音のリズム・トラックにインダストリアルなノイズを配し、Trickyのようなヒップホップに傾倒したグルーヴを生み出す。
 
 
曲の土台となるリズムやベースがしっかりと作り込まれていて、単体でも成立しているからこそ、リエラ・モスは安心感を持って歌をうたえるし、ヴォーカリストとしての存在感を際立たせることが出来る。この曲では、女性のソプラノの音域からアルトに属する音域を変幻自在に歌いこなし、アルバムの中で最も自由闊達に歌うリエラ・モスの高い表現力を体現している。
 
 
ラディカル(急進的)な印象を持つ本作の序盤であるが、後半とのつなぎ目に、バラード調の落ち着いた曲が収録されている。「Something I Left Behind」は、バンド時代からおよそ21年のキャリアを振り返り、歌手として新たな決意表明を行うかのような勇ましさに充ちたナンバー。他の収録曲と同様に、リズムトラックに力が注がれているが、この曲は音楽性が異なる。


例えば、Pearl Jam、Alice In Chains、Soundgardenといったグランジの急峰の音楽の旋律的な要素を踏襲し、ポップスの枠組みで展開させ、最終的には、ブリストルのトリップホップの形式と融合させる。例えば、ロックという解釈を差し置いても、サウンドガーデンのクリス・コーネルの曲は、ポピュラーソングとして傑出している場合があるが、そのことをつくづく考えなおさせるような一曲である。グランジは、ハードロックやメタルの側面ばかりが取りざたされるが、間違いなくポピュラー音楽の要素を含んでいたことを、リエラ・モスは示唆するのである。
 



ここまでを聴くと、前作から別のシンガーになってしまったようなイメージを抱くかもしれない。しかし、前作から大きく飛躍した作風であることは事実であるのだが、以前の作風を生かした曲も収録されている。そして、これらの近年のBjorkの系譜にある実験的なポップスがアルバム全体のブリッジの役割を果たす。謂わば、アルバムの最終盤の結末に向けた伏線ともなる。


「Blue」、「Stciky」の2曲は、実験的なポップスにゴシックのテイストを加え、前衛的な作風に取り組んでいる。しかし、一貫して、それらの前衛性はリズムやビートの構成を中心に展開される場合が多く、メロディーという側面では、むしろどこかで聴いたことのあるような一般的なフレーズを尊重している。これはアヴァンギャルドに傾倒しすぎると、理解出来るリスナーが限定的になってしまうため、あえて分かりやすい余地をどこかに残しているものと推測される。前者では、Yves Tumorの系譜にあるノイズを含めたミクスチャーとしてのハイパーポップ、そして後者では、Bjorkのエクスペリメンタルポップの系譜にある音楽が繰り広げられる。
 
 
中盤のグランジ、トリップ・ホップ的な暗鬱さは終盤においても維持され、本作に通底するサブベースのような役割を担っている。「Freedom Likes Goodbye」では、同じように、トリップ・ホップのリズムが強調され、ヴォーカリストとしてのワイルドなイメージを決定づける。そして、リエラ・モスは、嘆きの歌をコーラスを交えて紡いでいく。アルバムの終盤には、強い印象を持つ曲が必要となるが、その点は、「Red Future Begins」でクリアしている。この曲では、ドラムンベースとフューチャーベースのリズムを組み合わせ、近年、ヒップホップに主役の座を受け渡した要素を、ロックのフィールドに取り戻すことに成功している。そして、クローズ「Superior」では、エレクトロ・ロックの真骨頂を提示する。しかし、KASABIAN、St. Vincentの系譜にあるスタンダードなロックソングではあるが、その中でリリシズムを巧みに織り交ぜる。これが、ダイナミックなドラム、それからアンセミックなボーカルと組み合わされる。


Liela Moss のニューアルバム『Transparent Eyeball』は印象深い曲が複数収録されている。ただ、アルバムの最後で少しトーンダウンしてしまったイメージを受ける。対照的に、うっとりさせるような曲を最後に収録しても面白かったのではないだろうか? もちろん、少なくとも、リスニングの際に感じた不足感は私自身が本来の魅力を見つけられなかったことによる。何度も聴いていくうちに、新しい発見があるかもしれない。未知のポテンシャルを持つアルバムである。
 
 
 
 
「Something I Left Behind」
 
 
 
 
 
96/100 
 
 
 
Liela Moss  『Transparent Eyeball』は自主制作盤として発売中。ストリーミングはこちらから。 
 


1. Prism
2. Dark Kitchens
3. Conditional Love
4. Reward
5. Something I Left Behind 6. Blue
7. Sticky
8. Freedom Likes Goodbyes 9. Real Future Begins
10. Superior

Dawn Richard & Spencer Zahn 
 

ドーン・リチャードは、ルイジアナ・クレオール文化、ニューオーリンズ・バウンス、サザン・スワッグを要素として扱い、ハウス、フットワーク、R&Bなどを織り交ぜることができる。彼女が言うように、"私はジャンルである"。


ダニティ・ケインの創設メンバーとして、また後にディディのダーティ・マネーに参加したドーンは、商業ポップ・ミュージックの内と外を探求することができた。ソロ・アーティストとして、彼女はセルフ・リリースを選んだ。批評家から絶賛された5枚のフル・アルバムの中で、ドーンは業界の規範に屈服したり屈曲したりしないというメッセージを明確にしてきた。


「プロデューサーとしてもアーティストとしても、女性が評価されることはない。今こそ、エレクトロニック・ミュージックだけでなく、あらゆるジャンルで彼女たちの才能を認めるべき時だ。私は、南部出身の若い黒人女性が、音楽的にも、視覚的にも、芸術的にも、なりたい自分になれるように努める」


マルチ・インストゥルメンタリスト、スペンサー・ザーンの音楽は、オープンであることが特徴だ。広々とした音の風景は、彼のクリエイティブ・コミュニティからの貢献が豊かである。マサチューセッツ生まれのザーンは、12歳でベースを弾き始めた。2000年代半ばにニューヨークに移住してからは、ツアー・ミュージシャンとして活動し、ジャンルを超えてさまざまなアーティストとライブを行なってきた。ザーンのソロ・アーティストとしてのキャリアは、その後、志を同じくするギタリスト、デイヴ・ハリントンと共演を始めた2015年と同時期に始まった。



2022年に発表された『Pigments』に続くこのデュオのセカンド・アルバムは、共通のコラボレーション精神、純粋な音楽的好奇心、ジャンルの慣習から逃れようとするコスモポリタンな熱意を浮き彫りにしている。「Diets 」では、デュオの率直で告白的なリリシズムが発揮されている。リチャードは、有害な人間関係や習慣を断ち切ることを減量に例えて、カロリー摂取を控えるように、偽物の友人を捨てる、と歌う。  


『クワイエット・イン・ア・ワールド・フル・オブ・ノイズ』の制作は、2023年にニューヨーク北部で始まった。別れたばかりのザーンはピアノの前に座り、作曲とレコーディングに没頭した。「私はピアノで、不気味で広々としたピアノ曲を書いた」彼は、標準のピッチではなく、部屋に合わせて型破りに調律されたピアノを使用した。この奇妙な調律の不気味なインストゥルメンタル・レコーディングは、当初アルバムにするつもりはなかったという。半年後、彼はその録音を聴き直してリチャードに送り、彼はすぐに次のアルバムの可能性に気づいた。


『クワイエット・イン・ア・ワールド・フル・オブ・ノイズ』でリチャードは、トラウマ的な喪失体験がもたらす感情的な衝撃を歌詞とヴォーカル・パフォーマンスに反映させた。このアルバムの制作について、リチャーズは次のように語っている。

 

「スタジオに入って、これを書き留めたわけではないんだけど、パージして、その後は何も変えなかった。正直言って、今までで一番大変だった。私たち家族はセラピーに対して歪んだ見方をしている。だからこの瞬間は、世間とその瞬間を共有するという、厳しい開放の瞬間だった。でもまた、なぜかスペンサーと仕事をすると、他の誰ともしないような弱さに触れることができるんだ。そして私は臆することなく挑戦しようと思う」 


『クワイエット・イン・ア・ワールド・フル・オブ・ノイズ』は、プログレッシヴでアヴァンギャルドなR&Bを構成する定義を完全に書き換えることで、親密で、魂を剥き出しにし、スペクタルで、そして驚くべき作品に仕上がっている。


ドーン・リチャードのニューアルバムに関する声明は以下の通り。


ーー私は音楽を通して、いろいろな方法で自分自身を探求することができました。それが当たり前だとは思っていない。たとえそれが馴染みのないものであったとしても、あるいはあなたが私に求めていたものとは全く違うものであったとしても、リスクを冒して音楽的に私についてきてくれたすべての人に感謝したい。


人々はいつも、「なぜ、まだやっているのか?」と尋ねる。それは癒しの芸術以外の何ものでもない。音楽は私を救ってくれた。そして、今もそうあり続けている。


このプロジェクトは私に不可欠なものだった。癒しでもあった。この世界では、多くの雑音があなたを取り囲んでいる。多くの事象があなたを様々な方向に引っ張っていく。自分の静寂を見つけることが大切よ。セルフケアのためのスペース……。静寂は、あなたをひとつにまとめてくれるの。


だから、私の音楽の旅の間、プレイを押し続けてくれた人たちのために、スペンサー・ザーンと私にとってそうであったように、この曲があなたを癒してくれることを心から願っています。ーー


 

 

 Dawn Richard & Spencer Zahn 『Quiet In a World Full of Noise』 - Merge Records

 

2024年のMergeの最高傑作の登場と言えそうだ。ヴォーカリストとして多彩な表現力を持つニューオリンズのドーン・リチャード、そして、ニューヨークのマルチインストゥルメンタリスト、最近はポスト・クラシカルの作品『Status Ⅰ&Ⅱ』を発表したスペンサー・ザーンの異なる才能が結びつき、硬質でゴージャスなレコーディングが誕生した。また、このアルバムは、コラボレーションのお手本であり、多くのプロミュージシャンが模範とすべき指針となるだろう。 


今回のデュオとしての制作における両者の役割は明確である。スペンサー・ザーンは、部屋ごとに調律の異なるピアノを情感たっぷりに演奏し、そして、ドーン・リチャードは、Nick Hakimの系譜にあるネオソウル、ニューオリンズの原初的なラップであるバウンス、そして時にはスポークンワード、トラディショナル、ポピュラー、ジャズといった多角的なジャンルのヴォーカルを通して、ピアノの演奏に多彩なスペシャリティを与える。冷静さと感情の抑制を兼ね備えた語りから、それとは対象的なソウルの情感溢れる歌まで広汎な歌唱法を駆使し、作品全体に動きと変容をもたらす。スペンサー・ザーンのピアノは一貫して明徹で、澄明な輝きを放つが、その演奏を出発点として、リチャードの多彩なヴォーカルがこの作品を佳作から傑作に近い領域まで引き上げている。最後の仕上げとなるのは、高水準のマージレコードの録音である。このアルバムの音質は、洗練された現代建築を見るかのような威厳に満ちている。

 

リードシングルのプレスリリースで、スペンサー・ザーンは「皆、何かに圧倒されすぎなのではないか?」と現代的なポピュラー音楽に苦言を呈していましたが、その通りかもしれない。 音楽は、怪物でもなければ怖い存在でもない、本来は単純明快で素晴らしいものなのだから。実際的に、それらを過度に難しくしたり、モンスター化しているのは制作者自身ではないだろうか。そして、最近よく感じるのが制作者の多くが最早何をやりたいのかも不分明になっているケースが散見されるということである。まだ、それが若気の至りであれば良いのだが、少なくとも経験豊富で良識のある音楽家がするべきことではないだろう。経験のある音楽家はむしろ、後進となる音楽家の模範的な存在であるのが理想的である。そして、良い音楽を作る際に最も重要視すべきなのは、音質でもなければ、録音の手法でもない。そして、人を驚かせるようなやり方を廃し、それとは対象的に、歌の歌唱、作曲の妙、演奏の巧みさ、歌詞の美しさといった音楽の初歩的な手段で本質を語り、音楽の素晴らしさをストレートに伝えるように努めるべきである。そもそも、こういった初歩や基礎を軽視する人が多いのに辟易とすることがある。というのも、この基本を蔑ろにしつづけると、いつしか音楽は驚くべき無味乾燥な娯楽に堕落していかざるを得ないからだ。そして、音楽自体の本質を歪めるような効果を施すのではなく、本質の特性を押し出したり、また、一般的にわかりづらい魅力を引き出すのがレコーディングの妙でもある。その点において、複雑なサウンドエフェクトが施される場合も稀にあるが、このアルバムは、おそらくノンエフェクトで聴いたとしても、良いアルバムに聞こえるに違いない。それは、すでに録音現場に入る段階で、両者の音楽的な構想がしっかりと固まっており、それを忠実に実践しているに過ぎないからである。オズボーンが言うように、構想がしっかりと固めて、何をしたいのかを吟味してから、最終的にレコーディングスタジオに入るべきである。また、人間的な価値観が定まらぬうちに、多くのことを試しすぎるのも実は結構危険なのだ。

 

また、音楽の作法の他に、「表現性」というもう一つの欠かさざる要素も看過出来ない。この点において、ドーン・リチャードは「南部のシンガー」という特性を上手く活かしているのではないか。リチャードの歌に原初的なジャズやブルースの影響が含まれているか、もしくはアーティスト自身がそれらの音楽からの直接的な影響を受けているかどうかは定かではない。しかし、南部は南北戦争後から長期間、人種差別が根強かった地域であり、女性であれば、なおさらであろう。そういった地域に住むミュージシャンが、「南部出身の若い黒人女性が、音楽的にも、視覚的にも、芸術的にも、なりたい自分になれるようにしたい」と抜本的な地位向上を求めること、ないしは、本来の地位の獲得を主張することは、歴史的に見てもとても意義深いように思われる。しかし、そういった出発点は、優遇されたというよりも、不遇であったという思いをバネにして、それらのマイナスのエネルギーをプラスの方向に変換していこうという良心に求められるのである。さらに、個人と社会という二つの関係性において、「より良い権利を獲得しよう」と努めるのは、基本的人権の範疇にある称賛すべき行為である。およそ、すべての人間は幸福になる権利があり、もし、不遇な立場に置かれていると感じるなら、遠慮会釈なく、そのことを対外的に主張せねばならない。それが善良な社会を形成する市民の最低限の責務でもある。もちろん、それが単なる政治的な主張性に終始せず、「音楽の素晴らしさ」という一つの入り口を通して、多くの人々にそのことが伝われば、より理想的かもしれない。

 

ドーン・リチャードはソウルシンガーとしても傑出していて、とくに歌の持つ多彩な表現力を巧緻に駆使している。歌は、言葉になることもあるし、交流の手段、伝達の手段、感情表現、楽器にもなりえる。また、打楽器のようにビートやリズムを刻むこともできる。言葉を使うか否かによらず、考えの及ばないほどの未知の可能性を持っている。そして、リチャードは主張性を負の概念ではなく、正の概念に変換しようとしている。正の概念とは、端的に言えば、己が持ちうる能力や個性を駆使して、それらを社会的に還元しようという意味である。また、それは、一元的な役割に終始することはなく、他者と同じ性質になることもほとんどない。それぞれが違う役割と使命を持っていて、きわめて多彩なのである。そして、それは必ずしも、社会において平均的な能力を発揮するということではないのである。ドーン・リチャードのヴォーカルは、批判や譴責、あるいは内的なストレスの発散にあるわけではなく、それらの感覚を噛み締め、言葉の持つ意味を考えた上で、建設的な表現としてアウトプットする。もちろん、これは、歌手がパーフェクトな人間であると断定付けるものではない。しかしながら、それでも、現代社会ではあまりに言葉が粗雑に扱われることが多いのは事実だろう。それはつまり、自分の中で、なぜ、そういった感情が生じたのか、また、なぜ、そのような考えが沸き起こったのか、吟味する機会が少ないのである。つまり、自分の考えに一歩距離を置いて考えられず、すぐさま何かに過敏に反応してしまう。五分も経てば、もしかしたら、それは思い違いであったかもしれない、そういった吟味することがなく、何かに飛びつく。そんなことを続ければ、その人の人格はどうなっていくのか。そして、その吟味や解釈の時間を作り、建設的な意見を示すことが良識者としての規範であり、それが時間と共に人間的な気品や威厳、何より、その人の人間的な魅力を形作っていく。リチャードの歌は、罪を世に問うのではなく、より建設的な考えを啓蒙するための基礎やきっかけを作ろうとしているに過ぎない。そして、彼女の歌から感じられるのは、「善良な人間として生きるための道筋を作ろう」という意志なのである。

 

従来のデュオの役割ーーピアノの伴奏と歌ーーという関係性について言及するのであれば、一般的には「伴奏」と「歌」という二つの独立した演奏者の性質を反映するものであったが、このアルバムではその限りではない。基本的には、オーケストラの歌曲のように、伴奏と主旋律という関係性は維持されるが、時々、その役割を流動的に変化させる点に注目しておきたい。例えば、スペンサー・ザーンが、時には伴奏から主旋律に役割を移し替えたり、全体的なテクスチャの表情付けをしたかと思えば、それとは対象的に、ドーン・リチャードがスキャットのような技法を駆使し、テクスチャの表情付けをし、ザーンのピアノの演奏の雰囲気を強化したりする。これが作品全体の音楽に流動性を及ぼし、音楽を軟化させ、表現力の多彩さをもたらしている。


つまり、基本的には、リチャードの歌が主役で、ザーンもまたそれを明確に認めていると思うが、両者ともにスタンスを固定せず、それどころか自分の演奏や音楽の立脚点に固執しない。これが音楽に奥行きを与え、聴いていて飽きさせず、長く聴けるような深みを与えている。そして音楽を紡ぐことに関しても、両者には同水準の自負心があり、そのことを誇りに思っているはずだ。それが実際の音楽にも乗り移り、迫力味を付与している。両者の演奏や作曲における観念はピタリと合致し、音楽的な考えを上手く共有していることも、このアルバムを良質にしている要因でもあるのではないか。もちろん、それは独善的な考えではなく、他者に対する敬意を絶えず欠かさぬことが、アルバムの音楽に強固なイメージや結束力をもたらしたことは事実であろう。

 

実際的には、このアルバムは「Movement」であり、曲の寄せ集めではなく、音楽の流れを体現させている。しかし、いくつかのジャンルが含まれ、それらが渾然一体として外側に表出されているのは事実だろう。例えば、そのことが一曲目「Stains」から顕著にうかがえる。この曲は独立したトラックというよりも、全体の導入部となっている。リチャードの声は、ジャズのムードを反映させて始まるが、ザーンのピアノは古典的な雰囲気に充ちている。ピアノの調律でデチューンを強調し、蠱惑的な音のテクスチャーを作り出している。歌に対するピアノは旋律的な側面を強調しているが、全体的にはアンビエントに近いニュアンスが込められている。そしてゾーンのピアノは、クラシックやジャズを織り交ぜ、ジャズからソウルへと変遷を辿っていき、リチャードのボーカルを巧みに引き立てる。それらにゴージャスな感覚を付与するのが、かすれたストリングスだ。これらの組み合わせは、明晰な音楽というより、抽象化された音楽の性質を強めるような働きをなす。いわば、このアルバムを聴き始めると、ぼんやりとした抽象的な空間が音楽の背景に浮かび上がってくるような錯覚を覚えるかもしれない。これは本作の主題となる「ノイズにまみれた世界の中にある静寂」の観念の立ち上がりの瞬間となり、厳密に言えば、「夢のような音楽」を聞き手に提供する出発点となる。これはシュールレアリズムやアンドレ・ブルトンのような原初的な抽象主義や象徴主義を音楽でかたどったかのようだ。

 

こういった手法はアンビエントで用いられる場合が多い。三次元の空間に別次元の空間が出現し、その向こうにある音楽に私達は恐るおそる手を伸ばすことになる。しかし、そのおぼろげでミステリアスな空間から聞こえてくるのは、慈しみと愛、そして柔らかさや優しさに溢れるピアノのモチーフである。続くタイトル曲で、大規模のコンサートホールのようなアンビエンスを施した空間処理の中、ザーンは沈痛に充ちたピアノの伴奏を始め、リチャードのダイナミックなボーカルを導く役割を担っている。


まるで、その期待に応えるかのように、リチャードは内的な痛みを捉えたヴォーカルをピアノに呼応させる。音楽そのものは、両者の演奏と歌を通じて繰り広げられる感情表現であり、それらはストリングスのかすれたトレモロや、ネオソウル風のコーラスによって美麗で高らかな感覚へ跳躍してゆく。いわば、最初のモチーフでは、悲哀とやるせなさが起点となっているが、これらが精妙な感覚を持つソウル・ミュージックへと上昇していくのである。アウトロのゾーンの演奏も哀感に満ち溢れ、イントロと呼応するかのように淡い余韻をもたらす。悲しみの余韻は立ち消え、それと立ち代わりに、アンビエント風のイントロが立ち上がる。すると、まるで場面が突如切り替わるように、開けた屋外や自然豊かな場所が私達の目の前に出現する。「3- Traditions」は対象的に、明るく、輝かしい光に充ちたポピュラー・ソングである。リチャードは時々、その中で、ソウルというよりも、R&Bの古典的な歌唱法を駆使しながら、本格派の歌手としての才覚を遺憾なく発揮する。それらに新鮮なニュアンスをもたらすのが、ゾーンのピアノの伴奏、そしてギター、さらにはアンビエント風のシンセ・テクスチャーである。これらは地にあった感覚を離れて、天上を歩くかのような晴れやかな気分を沸き起こらせる。

 

 

 

「4-Diet」は目の覚めるような曲で、本作の重要なハイライトの一つ。この曲は今年度のソウルミュージックの最高峰に位置するといっても差し支えないだろう。ダイエットの非日常的な話題に触れながらも、対極にある「R&Bの啓示的な本質」を呼び覚ます。ザーンの調律を変えたピアノで始まり、リチャードのヴォーカルの主旋律に対し、補佐的な対旋律を描くことがある。しかし、全般的にこの曲を強固に支えているのは、低音部の和音である。エレクトロニックのアルペジエーターを曲の途中で挿入し、これらの音楽形式に前衛性をもたらしている。シンセサイザーのアルペジエーターは、リチャードの歌の周囲を取り巻きながら、感情的な表現、及び、リリシズムに色彩的な効果を及ぼしている。両者の多彩な才覚が合致した非の打ち所がない一曲だ。

 

 

「Diet」

 

 


テープ(アナログ)ディレイで始まる「5-Stay」は、イントロの渦巻くようなサウンド効果のあと、エレクトロニカ風の曲調に続く。しかし、リチャードのヴォーカルは、ネオソウルの系譜にあり、現代的なエレクトロニックを内包させたブラックミュージックの一貫として展開される。この曲では、スペンサー・ザーンのマルチ奏者としての才覚の一部であるシンセ奏者とプロデューサー的な趣向が色濃く反映されているように思える。いわば、リチャードの本格的なソウルの歌唱に対して、ミニマル・テクノやミニマル・アンビエントのテクスチャーを音楽の背景に敷き詰めている。アルバムの中では、インタリュードーー曲と曲のつなぎ目ーーのような役割を果たしている。

 

「6-Life In Number」は、エリック・サティの「ジムノペティ」の系譜にあるピアノの演奏で始まる。それに続くのは、ドーン・リチャードのニューオリンズ・バウンスの語りだ。ゾーンの演奏は基本的に精妙な感覚に縁取られているが、時々、アナログディレイのアンビエンスを織り交ぜ、通奏低音のような役割を持つリチャードのスポークンワードを補佐している。この曲は、従来の音楽ジャンルにはなかった形式で、「アンビエント・ヒップホップ」の誕生の瞬間と言えそうだ。ただ、これはすでにダニー・ブラウンが昨年リリースした『Quaranta』で暗示していた手法であるが......。

 

  「7-Moments For Stillness」は、ストリングスを編集においてデチューンしたドローンである。これは米国のローレル・ヘイローや日本のサチ・コバヤシに比する手法で、ドローンミュージックの形式が選ばれている。この曲もまた、 インタリュードやムーヴメントの役割を持ち、曲と曲のつなぎの役割を果たしている。なぜ、こういった曲を入れるのかといえば、核心を突く楽曲ばかりだと聞き手が疲弊してしまうからである。しかし、単なる間奏的な曲とも言い難いものがあり、アルバムにバリエーションを与えているのみならず、収録曲全体に何らかの働きかけをしている。その後、アルバムは終盤に差し掛かり、オープニングに見受けられるような、ペーソスに充ちたネオソウルをベースに、音楽そのものがダイナミックさと迫力味を増していく。その音響効果を担うのがシネマ・ストリングスだ。続く「8-The Dancer」では、シネマティックな音楽の性質が強まり、リチャードのヴォーカルが主役となる。それは舞台の後ろにいたはずのリチャードにスポットライトが当てられ、舞台の中央に出てくるような演出効果である。そのあと、それとは対極的な音楽表現が登場する。氷のように冷たい響きを持つザーンのアルペジオをもとに、シネマティックなポップスが構築される。「9-Breath Out」は、音楽における演劇性が確立された瞬間であり、ポピュラー音楽の範疇で展開される。また、バレエ音楽の趣向もあり、何らかの登場人物の動きの効果を音楽が体現しているかのようである。これらは単一の音楽表現に留まることなく、ネオソウル、ジャズ、オーケストラというように、多角的なジャンルを内包させながら、音楽におけるストリーテリングのような役割を果たしている。

 

アルバムのもう一つのハイライトは続く「10-Ocean Past」に出てくる。フルレングスを制作する時に最も配慮したいのが、「ハイライトとなる前後の収録曲をどう配置するのか」という難題である。強い印象を持つ曲で、それがポピュラーとして平均的以上のものを有し、一般的な曲よりも優れている可能性があると分かっている場合には、少なくとも、その前の曲を強い印象で縁取るのは得策とはいいがたい。アルバムの収録曲は、一曲の中のクレッシェンドやデクレッシェンドのように「強弱の均衡」により成立しているため、強進行の曲と弱進行の曲がバランスよく配置されるべきである。このアルバムに関して言うと、続く「To Remove」は、弱進行に該当し、次曲の期待感を徐々に盛り上げるような重要な役割を担う。つまり、イントロダクションや導入部を設け、続くハイライトへの呼び水となり、次に何がやってくるのかという期待感を聞き手の感覚にもたらすのである。アンビエント風のシークエンスで一つの音楽の流れを形作ってから、アルバムのもう一つの本質である「Ocean Past」が続いている。前の曲の雰囲気を巧みに引き継ぐかのように、この曲は静かなイントロで始まり、その後、驚くべき変遷を辿っていく。ミステリアスな印象を持つピアノ、サクソフォンの断片的な演奏の導入、いわばアヴァンギャルドな雰囲気を漂わせながら、それらのミステリアスな感覚を縁取るリチャードのメロウなソウルフルなヴォーカル、彼らは二人三脚で、一大的なポピュラーの名品を作り上げていく。時々、トランペットのミュート、ストリングスの精妙なパッセージ、そしてボーカルやコーラスのサンプリング、多彩な録音を散りばめながら、感覚としては喜びと悲しみの中間域にある憂いのあるダークなポップスを完成させる。全体的な音楽性に関しては、その限りではないが、ゴシック・ポップのようなニュアンスに縁取られている。アルバムの中で最も傾聴すべき素晴らしい一曲である。

 

アルバムの冒頭がどのような曲であるのかを考慮しなければ良い作品を生み出すことが難しいのと同様に、アルバムの最終盤の曲も軽視出来ない。完璧な作品を作るのは難しいが、もし、中盤に、粗や欠点があろうとも、聞き手は終盤の感触が良ければ、それなりに満足感を覚えるからである。ただ、それは付け焼き刃であってはならず、聞き手に確かな手応えを感じさせねばならない。


そういった点では、「Try」はアルバムの中では最も聴き応えのある一曲だ。同時に一回聴いただけでは分からない何かがある。これは、スペンサー・ザーンとドーン・リチャードの持つ性質、器楽奏者としての多彩さ、シンガーの文化性の多彩さ、これら二つの個性が合致し、花開いたのである。オーケストラ風の表情付けから、金管楽器のサンプリング、トラディショナルの範疇にあるリチャードの声というように、このアルバムの副次的なテーマである流動性が的確に表現されている。コラボレーションアルバムの醍醐味というのは、異なる才覚を持つミュージシャンが偶然見つけた何かをレコーディングという形で収め、それを多くの人と共有することに尽きる。


 次いで、個人的な意見を言わせていただくならば、両者の才能がかけ離れた性質であるほど、美しい音楽が出来上がる。もちろん、その場合、お互いの性質や価値観の相違をしっかりと認め合うことが必要とされる。そういった意味では、リチャード&ザーンのコラボレーションは、彼らの精神性の高さが感じられるし、また、人間的な気品も備わっているため、理想的な音楽作品を制作しえたのだろう。願わくば、世界の人々がそういった善良な存在であれば、理想的であるのだが......。結論付けると、音楽というのは、制作者の理想郷を形作るための鏡なのであり、ユートピアが夢に過ぎないからこそ、こういった理想主義的な作品を制作する必要性に駆られたとも言える。それはもちろん、本作のタイトルにあるように、世界のノイズや煩わしさから解き放つ霊妙な力が込められているわけである。

 

 

 

 

95/100

 

 

 

Best Track- 「Ocean Past」

 

Being Dead


テキサスの3人組、Being Dead(ビーイング・デッド)は入り口の作り方を心得ている。彼らの新譜『EELS』の最初の数秒で、「Godzilla Rises」の明るくハードなギター・ラインは映画のような即興性を呼び起こし、海底から出現した生物がキャンディでフリーキーなストップモーションで登場する。

 

ビーイング・デッドのレコードはモザイクのようであり、テクニカラーの呪文のようであり、それぞれの曲が自己完結した小さな宇宙のようである。夢のような『EELS』は、ビーイング・デッドというデュオの深層心理をさらに探っているが、最も重要なのは、2024年、テキサス州オースティンの小さな家に引きこもっているファルコン・ビッチとスムーフィー、2人の真のフリーク・ビッチによる、喜びと予期せぬ旅である。


ジョン・コングルトン(グラミー賞受賞プロデューサー)とのレコーディングのため、彼らはロサンゼルスに2週間滞在し、出発の数日前までレコードのための曲作りを行った。コングルトンは、彼らが新しいやり方を見つけ、ソングライティングの核となる部分を何層にも剥がす手助けをしてくれた。

 

ビーイング・デッドは、デュオから、ベーシストのリッキー・モット(彼を加えたトリオに成長した。「Rock n' Roll Hurts」での笑い声で、このレコードで彼はついに不滅の存在となった。


その結果、『EELS』はよりダークなレコードとなり、より悪魔的な内面を引き出した。失恋あり、興奮あり、魅惑あり、ダンスあり.....。ファルコン・ビッチとスムーフィーは、どの曲でも同じことを2度やりたがらない。「Firefighters」のガレージロックのようなディストーションから、ハンドレコーダーで録音されたデモの形で登場する「Dragons II」まで、予想外だが直感的である。そして最も大切なのは、ビーイング・デッドが唯一無二の存在であるということ。


その動物の名前(うなぎ)が示すように、【EELS】の曲は柔和で、レコードは濁った水や奇妙な夢の中をそぞろ歩くようであり、その動きは神秘的で美しく、揺らめくような光沢を映し出す。全16曲を聴いていると、新しい洞窟を発見するような、もしくは、未知の深みに飛び込むような、それと同時に、完全にオープンハートな気分になる。


アーティストのジュリア・ソボレヴァが描いたアルバムのアートワークには、奇妙な妖怪が描かれている。それは『ビーイング・デッド』を象徴するのにふさわしく、歓迎的で遊び心のあるエネルギーを発散している。たとえ何か不吉なものがその向こうに潜んでいたとしても。



Being Dead 『EELS』  知られざるアメリカ 奇妙なユーモアの救い



 

その時代錯誤なサウンドは明らかに度を超しているが、ローリング・ストーンズの最初期のような作風は魔術的な魅力を持つ。サイケ、ガレージロック、サーフロック、ヨットロック。この3人組は持ちうる音楽的な駆使し、この世で最もマニアックなサウンドに挑んでみせている。まさしく「Desert Sand」を引っ提げて登場したBeach Fossils(ビーチ・フォッシルズ)のデビュー当時のことを想起させる。


サンフランシスコと並んでサイケデリックカルチャーの要衝地であるテキサスからは、時代を問わず、奇妙なバンドが登場することがある。ビーイング・デッドは、バットホール・サーファーズのカオティック・パンクと同じように、「一体、どこからこんな音楽が出てくるのか?」と首を傾げさせる。東海岸と西海岸の文化に絶えずもみくちゃにされ、かき回され、翻弄されつづけた挙句、「これはやばい!」と思い、生き残るために突然変異をするしかなくなった……。ビーイング・デッドは、ザ・ロネッツ、ディック・デイル、ストーンズ、ソニックス、ビーチ・ボーイズ、ラモーンズ、ディーヴォ、ディッキーズ、少年ナイフ、X、これらを全部結びつけ、西海岸の70'sのフラワームーブメントやヒッピームーヴメントを復刻しようと試みる。


本作はカルト的なレコードであることは否めない。ただ、若さゆえの馬鹿騒ぎはなく、内輪向けのナードな騒ぎ方でもんもんとしており、ある意味ではリンダ・リンダズとは正反対のサウンドで、万人受けはしない音楽なのかもしれない。笑い方も「ハハハ」ではなく、「ヘヘヘ」といった照れ笑い。しかし、最初の内的なエナジーは16曲を通じて、まったく印象が変化していき、本作の最後では晴れやかな印象を持って終わる。卓越性や商業性を度外視した上で、心ゆくまで彼らが理想とする音楽を追求した結果が、このアルバムには顕著な形で表れている。

 

『EELS』のアルバムのアートワークに描かれているのは、地球外生命体のようでもあり、可愛らしい怪物のようでもある。頭上に奇妙な電飾を持ち、また、同じような不思議な生物を従え、解釈次第では、奇妙な存在感を際立たせている。しかし、これらの奇妙な化け物たちは、なぜか、オディロン・ルドンが描き出す怪物のように、不気味で恐ろしくも可愛らしい感じがある。奇異な存在なのに、なぜか温かさに満ちている。これはトリオの音楽性にも当てはまる。そして、タイトルのウナギのように、3人の曲や演奏、そしてボーカルが水の中を揺れ動く。それはまた未確認飛行物体が空を舞うようでもあり、海中をゆらめく海藻のようでもある。

 

 

これらのカルトロックは、アンダーグラウンドに潜り続けたことで生み出されたものである。彼らは深く潜りすぎたため、地上に戻ってこられるかが不透明であるが……。また、同時に、東海岸と西海岸の音楽が徹底して未来か過去に潜っていく中、もうひとつの知られざるアメリカの姿を、トリオは本作の音楽に反映させている。彼らは、バイラル・ヒットやインスタ映えから目をちょっとだけ背ける見栄や体裁とは無縁の愛すべきタイプだ。ナード・ロック、そう言えば身もふたもないかも知れないが、ある意味では、現代の多くのオルタナティヴロックバンドが忘れてしまった何かを持ちあわせている。オルタナはヒップであるのはかなり例外的であって、本来は内輪向けのためのものであることを忘れてはいけない。そういった中で、ビーイング・デッドはあらためて最初期のガレージ・パンクのような形で、ロックの魅力に迫ろうとする。もちろん、それは内輪向けの音楽の延長線上にあり、それ以外の何物でもないのだ。


そういったマニア向けの音楽に親しみやすさと近づきやすさをもたらしているのが、60、70年代のシスコのサイケや、あるいはカルフォルニアのフラワームーブメントのようなヒッピーやラブ・アンド・ピースに根ざした平和主義的な考えだ。これらは西海岸の文化への親しみを表す。これらの文化はほかでもなく、資本主義社会が先鋭的になっていく中で、金銭的な価値とは相異なる新たな発想を追求しようというのが至上命題であった。その中にある共同体やリベラル思想は飾りのようなもので、これらの文化の核心にあるわけではなかった。UCLAの学生は、ヘッセの急進的な小説「荒野のおおかみ」に触発され、組織に属さないDIYのスタンスを保ちながら、これらの新自由主義の根本を構築しようとしていたのだった。それはある意味では、資本主義社会の基本的な構造である「ピラミッドの階層」への強固な反駁を意味していた。それらは中世ヨーロッパの「コミューン」のような共同体としての役割を持っていたのだった。

 

 

 「Godzilla RIses」

 

 

 

アルバムのオープニングを飾る「Godzilla Rises」を聞くと、フラワームーブメントの平和主義の思想を想起させ、それ以降のニューエイジ思想の根幹をなすワンネス的な考えをふと呼び起こすこともある。これらは結末としては、レノン&ヨーコが世界的に提示したようなラブ・アンド・ピース思考へと直結した。これらの動向は、 しかしながら、資本家や大衆を操作する類の人々にとっては、都合が悪かった。そして最終的に、これらの独自の共同体は解体されることになる。また、アフリカでも同年代に、フェラ・クティ(エズラ・コレクティヴの祖である)は、独自の国家を建国していた。これもまたヒッピー主義と同じように「ハリボテで空想的」に過ぎなかったが、アフロソウルの先駆者は、表現自体が商業主義に絡め取られていくのを頑なに拒否し、アフリカの民族性がヨーロッパ主義に植民地化されぬように徹底して反抗していたのだった。つまり、クティは音楽を作っても、権力者に魂を売ったことは一度もなかった。


これらのアンチテーゼや体制に対する反抗心を持った表現者がどれほどいるのだろうか。社会に順応することを示すことだけが音楽ではなく、主流派への賛同を示すために表現があるわけでもなければ、承認欲求のためだけに芸術があるわけではない。少なくとも、「お花畑思考」とエリート主義者から揶揄されながらも、1970年代の人々は、自主性を持って生きようとしていたのだったし、従属的な存在になることを是としない思考力もあったのである。そして、このアルバムは、そういった「人間としての自律性」を再び蘇らせるものである。まるでビーイング・デッドは、マーク・トウェインの名言をなぞらえるかのように、「主流派は常に間違っている」といわんばかりに、われわれの中に内在する盲信や虚妄を打ち砕こうとするのだ。


オハイオのDEVOの前衛性、それらはイギリスのニューウェイヴ、ドイツのバウハウス運動以降の前衛主義と呼応していた。これらのニューウェイブのグループは、機械産業の中で生きる人間らしさを主張し、スチームパンクやSFのようなカルチャーを飲み込み、未来志向のサウンドを制作したが、それと同時に「ロボットにはならない」と逆説的に主張していた。それらがUSのニューウェイブ、カルフォルニアのパンクの原点になった。


「Van Goes」は、その系譜に属する。WIREの『Pink Flag』(マイナー・スレットの音楽性のヒントになった)のポスト・パンクや不協和音を踏まえ、それらを西海岸の80年代のカルフォルニアのパンクサウンドのテイストを加える。さらに、彼らはそれらを古典的なガレージ・ロック、ストーナー・ロックと結びつけて、プリミティヴなロックの魅力を呼び覚ます。さらに、2010年代のニューヨークのベースメントのサーフロックやシューゲイズとかけ合わせ、現代的なサウンドに近づいてゆく。全般的には、Wet Legのようなサウンドに接近していくのだ。

 

これらの古典的なロックのスタイルは、曲ごとに自由な気風を以て少しずつ変化していき、タイトルのウナギのように、うねうねと少しずつ匍匐前進していくような感じがある。「Blanket of my Bone」では、ガレージロックとサーフロック、「Problems」では、ビートルズのようにメロトロンを使用し、 バーバンクやマージービートをリヴァイヴァルさせる。思わず「古すぎる!」と叫びたくなるような音楽ではあるけれど、聞き入らせる何かがあるのが不思議でならない。続く「Firefighters」は、Boys、Sonicsのような最初期のガレージ・サウンドを受け継ぎ、それらをニューヨークのSwell Maps、ベルファストのStiiff Little Fingersのようなパンクサウンドで縁取っている。エッジの効いたギターにYo La Tengoのようなボーカルとコーラスが合わさる。


 「Firefighters」

 

 

 

その後、Being Deadのオールドスクールのタイプの楽曲はさらに時代を遡っていくかのようだ。それにつれて感覚としての音楽もより深い場所へと潜り込んでいく。


「Dragons Ⅱ」では、バーバンク・サウンドとサイケフォーク、「Nightvision」では、ローリング・ストーンズのフラワームーブメントのロックソングという形で続いていく。しかし、これらの曲は、単に音楽性をなぞらえるにとどまらず、これらのジャンルの特徴である若者の多感さや孤独感や内的な暗さといった感覚的な何かを巧みに掴んだ上で、ジャンクなサウンドに落とし込んでいるのが秀逸である。それは、瞑想的な感覚を擁する70年代のロックの再構成のような意味を持つ一方、ウッドストックやワイト島のライヴといった原初的な音楽フェスティバルに存在したヒッピー主義や平和主義的な思想は、ロックンロールの幻惑や陶酔へと繋がる。


「Gazing at Footwear」はサイケロックやシューゲイズの系譜にある一曲で、ボーカルも4トラックで録音したような古臭さ。しかし、同時に、ビンテージな魅力があり、フリークの心をくすぐる。そしてもうひとつのガールズバンドのような雰囲気が漂う瞬間もある。「Big Bovine」はサーフロックとカルフォルニアパンクを融合させ、アルバムの中で最も心楽しい瞬間を作り出す。

 

3人の音楽は音楽のシリアスさではなく、フランクさに重点が置かれている。そしてその気安さは時々、ユーモアに変わり、音楽の持つ開放的な感覚を象徴付ける。マック・デマルコのサイケフォークの影響を反映させた「Storybook Bay」 は、インタリュードのような役割を持つが、ボーカル曲の合間にある間奏は、彼らの音楽が自宅のガレージのライブセッションの延長線上にあることを示唆している。真面目なのか、ふざけているのか見分けづらいオペラのような声も、快活な笑いというよりも、乾いたシュールな笑いを呼び起こそうという彼らの音楽の核心を担っている。つまり、深刻になりすぎないことが、彼らの音楽を魅力的にしているのだ。


セッションの延長線上にある音楽は「Ballerina」でガレージ・パンクや、Germs、Circle Jerksのようなカルフォルニアパンクのスタイルを受け継いだオレンジ・カウンティの原初的なパンクへと変化し、LAのXのようなニュアンスを付け加えている。もちろん、これらのロックソングの基底にあるのは、ダンスのためのブラックミュージックとして勃興したロックンロールである。


これらのダンスミュージックの系譜のロールに属する「Rock n' Roll Hurts」は、最終的には「テキサスの雑多性」というバンドの重要な音楽を示し、ビーチ・ボーイズのようなコーラス・グループのサウンドや、ビバップ的なニュアンスを示している。これらは、Wrens、Yo La Tengoといった2000年代のオルタナティヴロックの系譜に属する。それにパーティサウンドのようなニュアンスを添える。しかし、それはもちろんセレブレティのために用意された音楽ではない。どちらかといえば、ナード、あるいは社会的なオタクのためのパーティソングなのである。

 

音楽の表現性が強ければ、救いがあるというものではない。もちろん、扇動的であるとか、即効性があるというのも、一元的な指標に過ぎないのではないか。確かにヒップなポップスは、耳障りがよく、聴きやすく、親しみやすく、乗りやすいというように、多数の利点があることは確かだが、音楽にしても、ミュージシャンにしても、使い捨てになる恐れがあるのではないか。音楽の最大の魅力は、「一般性」にあるにとどまらず、それとは対極の「独自性」に宿る場合もある。それが一般的に知られざるものであればあるほど、何らかの副次的な意義を持ちうる。 


ポピュラーであれ、ダンスであれ、ロックであれ、そういったコアな音楽は、まず間違いなく商業音楽の基盤を支える重要で不可欠な存在でもある。Being Deadは、ジョン・コングルトンの助力を得て、オルタナティヴの核心を捉え、カルフォルニアの音楽に親しみを示し、サーフロックやパンクロックの側面を強調する。「Love Machine」は、少年ナイフの次世代のガールズパンクの象徴的なアンセムとなりえるし、「I Was A Tunnel」は、ベッドルームポップの知られざるローファイな側面を生かした夢想的なインディーフォーク、ドリーム・ポップの曲である。

 

彼らのフリーク性が最高潮に達するのが、本作のハイライト「Goodnight」となるだろうか。同曲は、サイモン&ガーファンクルのマイナー調のフォークソングをベースにし、軽妙なオルタナティヴロックを制作している。それに、楽しいテイストを付け加えることも忘れてはいない。そして、これらは、現代的な人々の心に深く共鳴する何かがあるかもしれない。もちろん、日本の人々についても同様である。それは、サイモン&ガーファンクルが生きていた時代の世相と、現代の世界情勢が重なる部分があるからである。このアルバムの最高のハイライトである「Goodnight」というフレーズには、言葉が持つ以上の強い迫力が込められている。

 


 

 

 

92/100 
 
 
 
Best Track- 「Goodnight」 

 
 
 
Being DeadのニューアルバムはBayonetから本日発売中です。ストリーミングはこちらから。

Honeyglaze


 

『Real Deal』は、大きな気分の終わりにため息をつくように届く。それは、白い指の関節、歯ぎしり、生々しく噛まれた爪の翻訳である。しかし、ハニーグレイズのセカンド・アルバムでは、そのすべてに立ち向かい、かさぶたの下に爪を立てている。対立と自信、激しさとカタルシス-これらは、自分たちを再び紹介する準備ができているバンドが、苦労して得た報酬なのだ。


ヴォーカル兼ギタリストのアヌースカ・ソコロウはこう語る。「音楽的には、"どうすればもっと良くなるんだろう?"とファースト・アルバムに反応していたんだ」 サウス・ロンドンから、ベーシストのティム・カーティスと、ドラマーのユリ(ユウリ)・シブウチを迎えて誕生したハニーグレイズは、パンデミックによってゆがんだ奇妙な時代に成長した。シーンを定義するダン・キャリーのレーベル、スピーディー・ワンダーグラウンドによって世に送り出された2022年のセルフタイトル・デビューアルバムは、ソコロウの青春を捉えたものだった彼女は、目を見張るような真摯さと、ウィットに溢れ、クリエイティビティの欠如、厳重に守られた心の砦、不安定なアイデンティティから生まれる下手な散髪やブリーチ・ジョブなど、私たちがむしろ隠したがっている部分をあえて共有する特異なソングライターであることを自ら公表した。しかし、その裏にはちょっと恥ずかしがり屋などこにでもいるような若者の表情を併せ持つ。


ハニーグレイズは、思春期と成人期の間のぎこちない宙ぶらりんの時期に書かれ、デビュー作を作りながらも、自分たちが成長していないことを感じていた。しかし、2サイズ小さいTシャツのようにフィットするサウンドへの創造的な飽きから、急激な成長の時が始まった。『リアル・ディール』の礎は、ツアー後の二日酔いの中、歓迎されない現実世界の中断と、その中でアーティストとして生き残る現実性から導き出されることになった。ヴォーカルのソコロウは別れと引っ越しに苦しんでおり、このレコードはスタジオではなく、彼女の寝室の信頼できる4つの壁の中で書かれた。ソコロウは語る。「このアルバムは、私の人生で最も一貫したもののひとつだったと本当に思うわ。バンドは毎週水曜日に集まってリハーサルを行い、新曲を進化させた。自分たちのパートを掘り下げ、介入することなく本能に従う贅沢な時間を楽しみました」



デビュー・アルバムの歌詞の多くは、誰の耳にも届くことを意図せずにソコロウが書きあげた。しかし同時に、『Real Deal』は多くの人に聴かせるために制作された。グラミー賞にノミネートされたプロデューサー、クラウディウス・ミッテンドルファー(Parquet Courts、Sorry、Interpol)と田舎のレジデンス・スタジオでレコーディングされた本作は、文字通り、そして精神的にも、自分たちのサウンドに新たな次元を探るためのスペースが与えられている。


ミシシッピの老舗レーベル、ファット・ポッサムからリリースされるこのアルバムは、彼らのライブ・パフォーマンスの緊迫感を翻訳したものだ。シブウチのパーカッションは、オープニング・トラックの「Hide」で爆薬のように爆発し、吸い込まれるように着地する。


「歌詞だけでなく、バンドとして、ダイナミクス、歪み、衝撃、感情を通して暗い感情を表現したかった」とカーティスは説明する。


夢を見るとき、その夢の中の誰もが自分でもあるという考えがある。『リアル・ディール』のストーリーテリングは、デビュー作のような自意識過剰なフラッシュから脱却し、成熟した自己認識の到来を告げている。ソコロウは、キャラクターと衣装というレンズを通して書き、まるで司会者のような小話を通して人々の心を探っている。


"コールド・コーラー "は、孤独と断絶の本質について痛切な真実を明らかにしながらも、フィクションの特殊性に傾倒している。蛇行するリズムの中で、ソコロウの語り手は冷やかしの電話とその偽りの関心に夢中になる。彼女は丁寧な苦悩に歪みながら歌う。


"言われたことは何でもする/ひとりじゃないとわかるだけでいい"。


カーティスはこの曲について、こう語っている。「この曲は、完全にダイナミックに反転していて面白い。もしあなたが相手から十分な関心をもらえていないとしたら、その人がどれほど孤独を感じるか想像できる?希望的観測と妄想は、あなたが思っている以上にあなたの現実を決めているのです」


このバンドのストーリーテリングの巧みさは、音楽的な不安定さにもある。ソコロウの歌声は、穏やかな降伏の前に不安の潮流に押し流される。


「プリティ・ガールズ」では、"飲んで、飲んで "と、偽りの陽気さで歌っているが、これは自分が偽者のように感じられる社交の場を乗り切るための自己鎮静マントラである。抑圧された告白が表面化し、音階を滑り落ちていく。でもアルコールは悲しい気分にさせる。そして、中断。音楽は宙吊りになり、ピースが落ちるのを待つ間、お馴染みの吐き気が胃の底で凝り固まる。--Fat Possum



『Real Deal』/ Fat Possum    ロンドンにポストロックのニューウェーブが到来!?

 

あらためて説明しておくと、ポスト・ロック、及び、マス・ロックと言うジャンルは、一般的に米国の1990年代初頭に始まったジャンルである。ピッツバーグのDon Caballero(Battlesの前身で、イアン・ウィリアムズが在籍)、ルイヴィルのSlintなどがその先駆的な存在であるが、これらのジャンルを率先してリリースしていたのがシカゴのTouch & Goである。

 

一般的には、このジャンルは、アンダーグラウンドに属するもの好きのための音楽と見なされてきた。これらは、ワシントンDCのイアン・マッケイのDISCHORDと連動するようにして、ポスト・ハードコアというジャンルを内包させていた。これらのバンドは、最初期のエモコアバンドがそうであるように、Embrace、One Last Wish、そして、Husker Duと同じように、パンクの文脈をより先鋭的にさせることを目的としていた。その延長線上には、Sunny Day Real Estate,Jawbox、Jets To Brazilなどもいる。

 

そして、もう一つ、ロックをジャズとエレクトロニックと結びつけようという動向があり、これらはジャズが盛んなシカゴから発生した。

 

90年代の終わりに、Fat Possumは、Tortoiseの『TNT』というレーベルの象徴的なカタログを発表している。これはとても画期的な作品であって、一般的によく言われているように、ProToolsを宅録として使用した作品だった。これらのプロフェッショナルなソフトウェアをホームレコーディングで活用出来るようになったことが、バンドの未知の可能性をもたらしたのだった。つまり、現在のベッドルーム・レコーディングの先駆的な作品は、『TNT』なのである。

 

 一般的に、ポスト・ロック/マス・ロックというジャンルは、台湾・高雄のElphant Gym、2000年代以降の東京のToeなどを輩出したが、2020年代初めは、米国では下火になりかけていて、「時代遅れのジャンルなのではないか」と見なすような風潮もあったのは事実である。唯一の例外は、ニューヨークのBlonde Redheadで、最新作では最初期のポスト・ロックとしての性質をアヴァンギャルドなポップスと結びつけていた。しかし、これらのジャンルは、海を越えたイギリスで、じわじわと人気を獲得しつつある。その動きは若者中心に沸き起こり、ポストパンクという現在のインディーズバンドの主流が次のものへと塗り替えられる兆候を示唆している。

 

ハニーグレイズに関しては、Bar Italiaのような多彩な文化性を兼ね備えたバンドである。見方を変えれば、Rodanがスポークンワードという新しい表現性を加え、現代に蘇ったかのようである。デビューアルバム『Honeyglaze』では、どういったバンドになるのかが不透明であったが、ミシシッピのファット・ポッサムへの移籍を良いきっかけとして、より洗練されたサウンドへと進化している。なぜ、彼らの音楽がシックになったのかと言えば、新しい音楽性を手当たり次第に付け加えるのではなく、現在の三者が持ちうるものをしっかり煮詰めているからである。

 

先行シングル「5-Don't」のミュージック・ビデオでは、表向きのフロントパーソンのアヌースカ・ソコロウの人物的なキャラクターを押し出しているが、アルバムを聞くと、予めのイメージは、良い意味で裏切られることになるだろう。それらのセンセーショナルなイメージはブラフであり、全体的には紳士的なサウンドが貫かれ、本能的なサウンドというより、個人的な感覚を知性により濾過している。ソコロウは、フロントウーマンとしての存在感を持ち合わせているのは事実あるが、ハニーグレイズのサウンドの土台を作っているのは、ドラマーのユリ・シブウチ、そしてプログレやジャズのように和音的なベースラインを描くティム・カーティスである。

 

シブウチのドラムは傑出している。ジャズの変拍子を多用し、バンドの反復的なサウンドとソコロウのボーカルやスポークンワードに、ヴァラエティをもたらす。いわば、反復的なボーカルのフレーズ、ルー・リード調の語りが淡々と続いたとしても、飽きさせることなく、曲の最後まで聞かせるのは、シブウチのドラムがヴォーカリストの語りや声のニュアンスの変化、及び、ベースの小さな動きに応じ、ドラムのプレイ・スタイルを臨機応変に変化させるからだろう。


「しなやかで、タイトなドラム」と言えば、感覚的に過ぎる表現かも知れない。しかし、華麗なタムの回し方、スネアの連打で独特のグルーヴをもたらす演奏法は、ドラムそのもので何かを物語るような凄さが込められている。ユリ・シブウチは、ロンドンでも随一の凄腕のドラマーと言っても誇張表現ではないかもしれない。彼のプレイスタイルは、まるで、ロックからジャズ、ソウルまでを網羅しているかのように、曲の中で多彩なアプローチを見せる。その演奏法の多彩さは、彼がその道三十年のベテラン・プレイヤーではないかと錯覚させる瞬間もある。

 

アルバムとしては、2つのハイライトが用意されている。それが、オープニングを飾る「1-Hide」と「5-Don't」である。


前者はダンサンブルなビートとポストハードコアの過激なサウンドを融合させ、アルバムの中では最もアンセミックな響きが込められている。また、現代的なティーネイジャーの悲痛な叫びが胸を打ち、センシティブな表現が込められている。しかし、フレーズの合間に過激な裏拍を強調するシンコペーションを用いたドラムが、クランチなギター、オーバードライブを強調させるベースが掛け合わされ、強烈な衝撃をもたらす。いわば、イントロの上品さと洗練された繊細な感覚が、これらのポストハードコアに依拠する過激なイメージに塗り替えられていく。


後者は、ソコロウがデスティニーズ・チャイルドの曲を基にリフを書き上げたところから始まった。マスロックの数学的な変拍子を織り交ぜ、クリーントーンのアルペジオのギター、ファンクの性質の強いベース、シアトリカルな印象を持つソコロウのボーカルがこの曲を牽引していく。不協和音を生かしたギターが雷のように響きわたり、リリックではマスメディアへの嫌悪感や戸惑いが示されていることは、下記のミュージック・ビデオを見ると明らかである。

 

 

「Don't」

 

こういったセンセーショナルな印象をもたらす曲の周りを取り巻くようにして、現行のオルタナティヴ・ロックをスポークンワードと結びつけるような曲も収録されている。「2-Cold Caller」は、ソコロウの自分の性質を皮肉的に嘆く曲で、いわば本来は避けるべき人との恋愛について書かれている。いずれにしても、この曲は、「Don't」のような曲と比べると、それほど激しいアジテーションに嵌ることはなく、どちらかと言えば、落ち着いたオルトフォークのような空気感が重視されている。牧歌的とまではいかないが、一貫して穏やかな気風に縁取られている。そして、ソコロウのボーカルは冒頭部と同様に、シアトリカルな雰囲気を漂わせている。

 

同じように、「3-Pretty Girls」、「4-Safty Pins」は、スポークンワードをオルタナティヴロック寄りのサウンドと結びつけているが、それほど過激な印象はなく、やはりクリーントーンを用いた落ち着いたギターのアルペジオと、ルー・リードの系譜にあるソコロウの語りが温和で平和的な雰囲気を作り出している。そして、シンセサイザーやギターのアルペジオ等、多彩なニューウェイブサウンドを踏襲し、全体的にはヴェルヴェッツのような原始的なロックサウンドが貫かれている。リードの作曲と同じように衝動的な若さと知性を共存させたような音楽である。

 

現在のオルタナティヴ・ロックは、二次的なサウンド、三次的なサウンドというように、次世代に受け継がれていくうち、その本義的な何かを見失いつつある。ルー・リードの作曲に関しては、昨年リリースされたリードのアーカイブ・シリーズを見ると分かる通り、東欧のフォーク・ミュージックというのが、プロト・パンクの素地を形成したことを証明付けていた。 主流の地域にはない「移民の音楽」、これこそがオルタナティヴ・ロックの「亜流の原点」でもある。

 

これらが、元々は億万長者の街であり、第二次世界大戦後にイギリスの駐留軍が縄張りを作り、ニューヨーク警察の代わりに同地を自治していたローリンズ・ストーンズの親衛隊''ヘルズ・エンジェルズ''をはじめとするアウトサイダーの街ーーバワリー街の移民的な要素を擁する音楽家の思想と掛け合わされ、ニューヨーク・パンクの素地が築き上げられていったのである。

 

つまり、パティ・スミス、テレヴィジョンのような存在は、単なるニューヨーク的な音楽というよりも、どことなくユーラシア大陸の音楽的な要素を持ち合わせていた。ハニーグレイズもまた同様に、表面的なパンクやロックの性質に順応するのみならず、これらのジャンルの原点に立ち返るようなサウンドを主な特色としている。それはまた、Dry Cleaningのボーカリストで美術研究者でもあるフローレンス・ショーのスポークンワードとの共通点もあるかもしれないが、「詩や文学的な表現の延長線上にあるパンクロック」という要素を、現代のミュージシャンとして世に問うというような趣旨が込められている。続く「6-TMJ」は、パティ・スミスの詩や文学性をどのように現代のミュージシャンとして解釈するのか、その変遷や流れを捉えられる。

 

上記のような原始的なオルタナティヴロックバンドの要素と合わせて、次世代のポスト・ロックバンドの性質は続く一曲に表れ出ている。「7-I Feel It All」は、イントロの幻想的なサウンドを基にして、MOGWAIを彷彿とさせるスコットランドのポスト・ロックを素朴なソングライティングで縁取っている。内的な苦悩を吐露するかのようなシリアスな音の運びは、やはり、このバンドの司令塔であるシブウチのダイナミックなスネアとタム、そしてシンバルによって凄みと迫力を増していく。また、一瞬、ダイナミクスの頂点を迎えたかと思うと、そのとたんに静かなポスト・ロックサウンドに舞い戻り、まるでドーヴァー海峡の荒波を乗り越えるかのような寂寞としたギターロックが立ち現れる。ボーカルそのものは暗澹とし、また、霧のようにおぼろげでぼんやりとしているが、音楽的な表現として弱々しくなることはない。バンドとしてのサウンドは強固であり、そして強度のあるリズム構造が強いインスピレーションをもたらす。何かこの曲には最もハニーグレイズの頼もしさがはっきりと表れ出ているような気がする。

 

こういった強い印象を持つ曲も魅力であるが、同時に「8-Ghost」のような繊細で優しげなインディーロックソングも捨てがたいものがある。この曲のサウンドには、80年代のポピュラー・ミュージックの要素が含まれているらしく、それらが少しノスタルジックなイメージを呼び起こす。繊細なボーカリストとしての姿は、この曲の中盤に見出だせよう。音楽的には地下に潜っていくような感覚もありながら、その暗さや鬱屈した感覚のボーカルは、癒やしをもたらす瞬間もある。そして、ポピュラーに依拠した音の運びやリズムは使い古されているかもしれないが、何らかの親近感のようなものを覚えてしまう。これらはジュークボークスから聞こえてくる懐かしい音楽のように淡い心地よさをもたらす。珍かなものだけではなく、スタンダードなものが含まれているという点に、ハニーグレイズの最大の魅力があるのかも知れない。

 

 

 「Ghost」ーLIVE

 

 

 

終盤の三曲では、やはり現在の持ち味であるポスト・ロック的なサウンドに立ち戻る。その中には、Rodanのようなアート・ロックの要素もあり、また、以降の年代のオルタナティヴフォークや、スロウコアのような音楽性も含まれている。これらの音楽が聞き手をどのように捉えるのかまでは明言しかねる。しかし、現行のポストパンクバンドやスロウコアバンドとは相異なるものがある。それはデモソングのような趣がある「9-TV」を聞くと分かる通り、ソコロウの演劇的なボーカルとスポークンワードに依拠したボーカルのニュアンスにある。そしてそれらは、繊細でエモーショナルであるがゆえ、静と動を交えた対比的なサウンドが琴線に触れるのである。また、この曲のシブウチさんのリムショットの巧みなドラムプレイは、この曲の持つ純粋なエネルギーとパッションを見事に引き上げている。これらのサウンドは、決して明るくはないけれど、しかし、その音楽的な表現が純粋で透徹しているがゆえ、清々しい余韻を残す。 

 

 

セリエリズムの不協和音という側面では、Rodan、June of 44には遠く及ばないかもしれない。しかし、それは、このアルバムが一部の人のためだけではなく、広く聞かれるために制作された事実を見ると明らかではないか。 前曲の若さと無謀さを凝縮させたアヴァンギャルドなアウトロが終わると、ストームが過ぎ去った後のように、静かで重厚感のあるサウンドが展開される。

 

タイトル曲「10−Real Deal」は、聞き手の意表をつくかのように、現代的なアメリカーナとフォークロックの融合させたサウンドが繰り広げられる。それらはローファイの元祖であるGalaxie 500、Sebadohの系譜にあるザラザラした質感を持つギターロックとも呼べるかもしれない。しかし、カットソーの粗や毛羽立ちのようにザラザラしたギターラインは、やはり、単に磨きが掛けられ洗練されたロックソングよりも深く心を揺さぶられるものがある。もちろん、それがなぜだかは分からないが、自分が過去にどこかに置いてきた純粋な感覚を、この曲の中に見出す、つまり、カタルシスのような共感性をどこかに発見するからなのかもしれない。 

 

アルバムは深い領域に差し掛かるかのように、瞑想的なギターロックで締めくくられる。「11−Movies」は、ハニーグレイズのバンドとしての新しい境地を開拓した瞬間であり、なおかつアヌースカ・ソコロウがボーカリストとしての才質をいかんなく発揮した瞬間でもある。この曲は、90年代のグランジの対抗勢力であるニューヨークのCodeineのようなサウンドを復刻させている。


しかし、それらは単なる静と動の対比ではなく、マスロックの多角的なリズムや変拍子という、これまでになかった形式を生み出している。これらは、ロック・オペラやプログレッシヴ・ロックの次なる世代の音楽なのであり、また、ボーカルは演劇的な性質を持ち合わせている。別の人物になりきるのか、それとも自分の本来の姿を探すのか……。多くのミュージシャンは、多くの場合、本来の自分とは別の人間を俳優や女優のように演ずることで乗り切ろうとする。しかし、ソコロウの場合はむしろ、どこまでもストレートに自分自身の奥深い側面を見つめることにより、的確かつ説得力のあるスポークンワードやボーカルのニュアンスを見出している。ある意味では、そういった自分自身になりきることを補佐的に助けているのが、彼女の友人であるドラマーのシブウチさんであり、また、ベーシストのカーティスさんなのである。

 

そして、バンドサウンドの醍醐味とは感覚的で、編集的な音楽性に寄りかからずに、サウンドに一体感と精細感があること、そして、その人達にしか生み出せないエナジーを的確に表現しているということに尽きる。もし、一ヶ月後に同じ音楽を録音しても、まったく同じものにはならない。


そういった側面では、『Real Deal』はバンドのスナップショットというよりも、生々しい三者の息吹を吸い込んだ有機体である。もちろん、それは三者の卓越した演奏技術を基に作り上げられていることを補足しておきたいが、その瞬間にしか出せない音、その瞬間にしか録音出来ない音を「レコード」という形に収めたという点では、アメリカン・フットボールのデビューアルバム『LP1』のような作品であり、これはファット・ポッサムの録音技術の大きな功績と呼ぶべきだろう。


マス・ロックの緊張感のあるサウンドを経た後、本作の最後では最もセンチメンタルでナイーヴな瞬間が現れる。これは実は、人間的な強さというのは、強烈な性質を示すことでなく、自分自身の弱さを認めたりすることで生ずることを暗示している。完璧な人間はどこにも存在しないことに気づくこと、弱さをストレートに見つめ、肯定出来たことが、アルバム全体のサウンドを清々しくしている。今作を聴き終えた後、涼しげな風が目の前を足早に駆け抜けていくような余韻が残る。2024年度のオルトロックの最高峰のアルバムと言っても誇張表現ではないだろう。

 

 

 

 

 90/100

 

 

 

 

「Cold Caller」ーLIVE

 


 

Honeyglazeのニューアルバム『Real Deal』 は、Fat Possumから本日(9月20日)に発売。アルバムのストリーミングはこちら