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Sainte Etienne(セイント・エティエンヌ)は、1990年に結成されたイギリス、グレーター・ロンドン出身のトリオ。サラ・クラックネル(ボーカル)、ボブ・スタンリー(キーボード)、ピート・ウィッグス(キーボード)で構成されている。一般的に、1990年代のインディーズ・ダンス・シーンと関連付けられている。彼らの音楽は、クラブ・カルチャーや1960年代のポップス、その他の異なる影響を融合させる。セイント・エティエンヌの生み出すサウンドは、懐かしくもあるし新しくもある。


彼らのデビューアルバム『フォックスベース・アルファ』は、1991年にリリースされ、不朽のヒット曲「Only Love Can Break Your Heart」と「Nothing Can Stop Us」を収録し、批評家から高い評価を得た。続いて、全英シングルチャート12位となったシングル「You're in a Bad Way」を収録した『ソー・タフ』(1993年)と、テクノ・フォークの実験を取り入れた『哀しみ色のムーヴィー』(1994年)が発表された。両アルバムはトップ10に到達。彼らの初期は、ゴールド認定されたコンピレーション『Too Young to Die: Singles 1990-1995』で締めくくられ、エティエンヌ・ダオとの共作でバンド史上最高のチャートを記録したシングル「He's on the Phone」を制作した。


バンドは『グッド・ユーモア』(1998年)でインディー・ポップを取り入れ、リード・シングル「シルヴィ」は12位に達した。2000年代までに、セイント・エティエンヌは『サウンド・オブ・ウォーター』(2000年)でアンビエント・ミュージックへと軸足を移し、『Finisterre』(2002年)と『テイルズ・フロム・ターンパイク・ハウス』(2005年)ではこれらのスタイルの転換と初期の影響への回帰を醸し出した。2010年代には、『Words and Music by Saint Etienne』(2012年)と『ホーム・カウンティーズ』(2017年)で、彼らのサウンドが現代的にアップデートされた。アルバム『アイヴ・ビーン・トライング・トゥ・テル・ユー』(2021年)では、約20年ぶりとなるサンプリングを取り入れ、1994年以来の最高位14位のアルバムとなった。


バンド名はフランスのサッカークラブ、ASサンテティエンヌに由来する。日本では、1993年にNOKKO(レベッカのボーカリスト)のアルバム『CALL ME NIGHTLIFE』『I Will Catch U.』に楽曲提供もしている。NOKKOとのレコーディングでは、ロンドンにある自宅スタジオにメンバーを招いており、「これは当時界隈で増えてきていたベッドルーム・レコーディングという手法だが、その点で先をいっていたアーティストだった」とNOKKOがインタビューで振り返っている。


セイント・エチエンヌが12枚目のスタジオ・アルバム『ザ・ナイト』を2024年12月13日にヘブンリー・レコーディングスからリリースする。絶賛された2021年のアルバム『I've Been Trying To Tell You』に続くアルバム『The Night』は、日常生活の混沌から逃れ、時間外のエッセンスを捉えたアンビエントな作品だ。このアルバムは、リスナーを幾重にも重なる静寂の中に誘い、落ち着かない心を落ち着かせ、現代生活の容赦ないペースからの穏やかな休息を提供する。


アルバム "The Night "は、サン・テティエンヌの伝統である、音による没入型のストーリーテリングを継承している。ストリーミング・プラットフォームやYouTubeで聴くことができるハイライト曲"Half Light "を聴けば、アルバムのサウンドをいち早く垣間見ることができるだろう。


作曲家兼プロデューサーのオーギュスタン・ブスフィールドと共同でセイント・エティエンヌがプロデュース。"夜 "は、2024年1月から8月にかけて、サルテールとホーブの2箇所でレコーディングされた。


ピート・ウィッグス:「ブラッドフォードにあるガスのスタジオで、カーペットの上に寝転がって、コーヒーのマグカップを片手に、歌詞のシートやタイトルのアイデアを周りに転がして制作した。前作のメロウでスペイシーな雰囲気を引き継ぎたかったし、それを倍増させたかった。暗闇の中で、目を閉じて聴きたいレコード。『ハーフ・ライト』は、夜の果て、木々の枝の間からちらつく太陽の最後の光、自然との交感、そこにないものを見ることをテーマにしている」


サラ・クラックネル: 「前作を遠隔でレコーディングした後、一緒にスタジオに戻ることができてとても嬉しかった。このアルバムで一番好きな曲のひとつは『Preflyte』で、初めて歌ったときは涙が出たよ」


ボブ・スタンレー: 『The Night』は落ち着いたアルバムにしたかった。暖かくて穏やかで、同時にゴージャスで濃密なものを作りたかった。「目覚めているときと眠っているときの間にある状態、つまり夢の空間を見つけようとした。半分忘れてしまったような考えや、テレビの台詞の断片、地名、通り、行ったこともないサッカー場などが漂ってくる。そのような状態にあるときは、音や半分覆い隠された記憶をとても受け入れやすく感じる。"レインノイズ "はその中を通り抜ける。午前2時に眠れないような頭の中のものを優しく洗い流すように設計されている。


『The Night』は本当に立体的に聴こえる。その多くは、ギターを弾き、素晴らしいプロデュースをしてくれたガス・バスフィールドのおかげ。彼のスタジオでレコーディングしたことで、とても明るく広々とした空間が生まれ、それがサウンドを形作っている。僕ら3人はそれぞれの曲を持ち寄ったんだけど、まず音符を交換することなく、リリックの部分で全員が調和していた。"連続した1つのトラック "と考えることもできる。間違いなくヘッドフォン・アルバムなんだ。


セイント・エティエンヌは私たちを優しく手繰り寄せ、夜更けの深みに沈み込ませ、疲れた心を絶望の淵から引き戻す。『ザ・ナイト』によって、すべての不安は和らぎ、高ぶる心の邪悪さはソフトフォーカスの汚れにまで減速し、すべてが高尚で心地よい完全なる静寂の魅力に包まれる。


『ザ・ナイト』は、太古の昔、一人の男が草むらの風の音や岩の上を流れる水の音に慰めを見出すことから始まり、何世紀にもわたって柔らかな音を奏で続け、コラージュや新時代の音楽を通過してきた長い伝統に属している。


ヴァージニア・アストリーの『From Gardens Where We Feel Secure』、KLFの『Chill Out』、トーク・トークの『Spirit of Eden』など、現代の夢遊病者の傑作を取り込んでいる。建築はアンビエントで、照明は控えめ、表面は無限の可能性に輝いている。


夜行性の生命はすべてここにあるが、夜の地下とはいえ、その次元は異なる。言葉は新たな意味を持ち、影はますます長く傾き、一匹の狐が名もない通りの孤独な街灯の下で立ち止まり、美しい刃物のような歯で何かを掠め取る。ここでは何でも可能なのだ。


慌ただしい時は慌ただしい心を生む。が、ここには孤独な時間など存在しない。ただ何層にも重なる「夜」と、その中に潜む心落ち着く秘密があるだけ。足を滑らせればいい。そして呼吸するのみ。



『The Night』 Heavenly Recordings/[PIAS] (80/100)


 

ザ・キュアーの再ヒットの事例を見るかぎり、若手優遇の時代がそろそろ終わり、中堅以上の経験豊富なバンドが今後のミュージックシーンを引っ張っていくのではないかという気がしている。以前は若手というと、10代、20代に限定されていたし、おそらくレコード会社も”若さ”を当てにしていたと思うが、今後は30代以降の実力派の若手が数多く登場することだろう。

 

ケイト・ブッシュのストレンジャー・シングスの楽曲の再ヒット、アセンズの伝説的なニューウェイブ・グループ、B-52'sのケイト・ピアソンの復活を見ると、過去にヒットソングを持つベテラン歌手の需要が高まっているのではないかと類推することも出来る。もちろん、実力のあるミュージシャンはいつの時代も歓迎されるが、若手というだけで支持を集めるような時代ではなくなりつつあるのかも知れない。プロジェクト名を変更して出てくるというケースもある。確かなことは言えないが、セイント・エティエンヌも、そんな流れを象徴付けるグループだ。


実は、先日までバンド名を知らなかったが、1990年代のブリット・ポップ全盛期から活躍する三人組は、最新作『The Night』において、かなりフレッシュな印象を持つアルバムを制作している。フィールド・レコーディングを散りばめた実験的なポップスであるが、それほど奇をてらうことはない。聴いていて感覚にすんなり馴染み、そしてキャッチーな響きを持ち合わせている。それは結局、セイント・エティエンヌのサウンドが、60、70年代のポップスを下地にしているからなのだろう。彼らのサウンドは必ずしも感染力や即効性があるとは言いがたいが、普遍的な響きがある。そして、これが実験的な音楽性に安定感や柔和さをもたらしている。


セイント・エティエンヌの音楽は、勢いという側面では、90年代初頭の作品に分があるように思える。たとえば、90年代始めのアルバム『Foxbase Alpha』などは華やかな音楽産業の名残をとどめていて、感染的で幸せな雰囲気を放つ。しかし、ひるがえってみて、2024年のアルバム「Night」は幸福感こそ乏しいものの、音楽的にはかなり深いポイントに達している。このアルバムは、Sonic Boom、Dean & Brittaのクリスマス・アルバムのように、じっくり聴かせ、音楽をよく知るミュージシャンとしての賢しい印象を持ち合わせている。それは自分たちの制作する作品を見上げるというより、同じ目線で見つめるという感じなのだ。この言葉には語弊があるかもしれないが、少なくとも、本作はミュージシャンとしての経験豊富さに裏打ちされた実力派のポピュラーアルバムであり、セイント・エティエンヌはアートポップの潜在的な可能性を全体全般に発露させている事がわかる。レベッカのNOKKOが言うように、かつては、ベッドルームポップの先駆者として知られていたセイント・エティエンヌは、次なる段階に進み、60年代のバロックポップと現代的なアンビエントの要素を融合させ、ポピュラーミュージックが本来決まった形式や制約がないこと、それから限界がないことを教唆している。

 

アルバムは、カフェでの会話のようなシーンで始まり、映画的な印象を持つサウンドスケープが描かれる。ポール・ウェラーのStyle Councileの『Cafe Bleu』へのオマージュかと思ってしまうが、そこには和気あいあいとした雰囲気がわだかまる。さながら現在の三者の人間関係を象徴付けるかのように、付かず離れずといった理想的な人間関係の距離を感じさせる。そして調律のずれたアンティークなピアノ、ウェイターが歩き回る音、ドアを開ける音、こういったフィールド録音が続いた後、アンビエントのテクスチャー、そして、サラ・クラックネルのものと思われるモノローグが続いている。そして、アルバムの冒頭で、開放的で未知への期待を感じさせる個性的なイントロダクションが続く。音楽と舞台演劇を融合させたようなサウンドである。

 

イントロダクションを経て、いよいよアルバムは本格的な楽曲が始まる。しかし、その印象は掴み難く、全体的な波形にデジタルディレイをかけたアンビエンス、そしてベースラインと合わせて、ボーカルソングが始まる。「Half Light」は80年代のポップスのように懐かしく耳に迫り、エレクトロサウンドを織り交ぜ、巧みなサウンドワークを描いていく。このポピュラー・ソングは、日本の80年代のポップスとも連動するような感じで、レトロとモダンの間を行き来する。まさしくレベッカ・サウンドのようなきらめきとアンニュイさを併存させている。 

 

 「Half Light」

 

 

 

その後、『Night」では作風を固定することなく、変幻自在なサウンドが繰り広げられる。これは近年のアンビエントポップの台頭とリンクする。シンセストリングス、ピアノとディケイによるエフェクトを用いたアンビエントが「Through The Grass」続くが、全体的な印象論としては、このサウンドはトリップ・ホップの「抽象的なポップス」という隠された主題と地続きにあるような気がする。それは実際的には、次世代のサウンドを予見させるものがある。特にこのアルバムでは、画期的な録音技術が用いられることがあり、それはサラ・クラックネルのリードボーカルの曲に顕著に立ち現れる。ボーカルに過剰なエフェクトをかけ、音像を極限まで引き伸ばすという手法は、スマイルの作品『Wall Of Eyes』や、リアム・ギャラガー、ジョン・スクワイアのセルフタイトルアルバム『Liam Gallagher& John Squire』にもすでに活用されている。

 

「Nightingale」では、これらの録音技法を駆使し、ミステリアスな音像を作り上げている。ローズピアノの細かなフレーズを散りばめて、ドラマのサウンドトラックのようなサウンドを最初に作り上げ、それらの背景に対し、70、80年代のポピュラーソングの影響下にあるボーカル録音を被せるというパターンである。クラックネルのボーカルは渦巻くように限りなく伸びていき、催眠的な効果を呼び起こす。そしてそれらのヒプノティックなサウンドの中で、ジャズのスキャットを含むボーカルは、単なる歌というよりも子守唄のような感覚を帯び始める。曲のタイプとしては懐古的であるのに、意外にも鮮やかな印象を覚える。他にも様々な工夫が施されており、鳥のフィールドレコーディングがパーカッションの効果として導入されることもある。そして曲そのものが何らかの情景的なサウンドスケープやシーンと連動していくのである。

 

以降もアンビエント風のサウンドが続き、曲ごとにシーンが入れ替わる。これは本来は離れているはずの曲を結びつけるような働きをなす。次曲「Northern Counties East」は工場のアンビエンスをフィールド録音で拾い、それをパーカッシブな観点から捉え、ポピュラーソングに仕上げていく。さらに曲の中にはチェンバロも登場し、クラシカルな響きとポピュラーな響きが混ざり合う。

 

アルバムの中盤では、短いシークエンスを設け、オーケストラのムーブメントのような形式を織り交ぜている。「Ellar Carr」は、ボーカル録音を器楽的に解釈し、オーケストラの楽器の一貫のような形で解釈するというアートポップではよく使われる技法が取り入れられている。これはアルバムの一曲目と同じように、なにかしら近未来的な音のイメージを感取することが出来る。「When You Were Young」では、ブンと唸るシンセサイザーのベースを基にして、フィールド・レコーディングとオーボエの演奏を交え、チェンバーポップの未来形を示している。他の曲と同じように、それほど派手さはないけれど、ボーカルの録音の重ね方に面白さがある。

 

 

終盤では、興味深いことに、フィル・スペクターのサウンドが登場する。ただ、「No Rush」ではそれらのシンフォニックなサウンドにクワイア(声楽)の要素を付け加えている。実際的に荘厳なイメージとまではいかないが、それに類する実験的なサウンドが組み上げられる。サウンドのタイプとしてはMogwaiのポスト・ロックや音響派に比するものがあるが、実際的なサウンドはむしろ80年代のAORやソフトロックがベースとなっている。少なくとも、この曲は開けたような感覚に充ちている。制作者としてフォーク・ミュージックにある涼やかな感覚をアンビエントの切り口を介して、抽象化したような一曲である。個人的にはこういった実験的な曲よりも、簡潔なポピュラーソング「Gold」の方に魅力を感じてしまう。軽快なピアノのリズム的な進行に合わせて軽快なヴォーカルが続き、トライアングルや木管楽器の音色が混ざりあい、ゆったりした音楽性が組み上げられる。邦楽のポピュラーとも親和性があるような気がする。

 

その後、多彩な音楽的なアプローチが続く。セイント・エティエンヌの音楽はそれほど深刻にならず、遊び心に溢れている。「Celestial」では、メロトロンの演奏にビンテージな質感を加え、チェンバーポップをインストゥルメンタルの観点から再検討している。「Preflyte」ではチェンバロを始め、オーケストラ楽器を取り入れ、オーケストラポップの領域に足を踏み入れている。曲にダイナミックな効果を与える金管楽器を暈したようなサウンドは、まさしくウォール・オブ・サウンドの系譜に位置づけられる。なおかつ、これらの重厚感のある録音は、ときどき、リスナーに時間という観念を忘れさせ、音楽の普遍性を思い出させる力を持つ。

 

アルバムの終盤でも、Jayda Gがもたらした「スポークンワードによるストーリーテリング」の要素が強調される。これは海外的には流行りのスタイルであり、例えば、日本では鶴田真由さんがすでに試しているが、 日本のミュージックシーンでもこれから頻繁に使用されるようになるかもしれない。アルバムのクライマックスでは、「ウォール・オブ・サウンド」の教科書のようなサウンドが登場する。「Hear My Heart」では、録音された場所の反響を上手く活かし、そのフィールドでしか得られない特別なサウンドを提供している。 そして、セイント・エティエンヌは、70、80年代ごろのポップスのノスタルジアを付加している。さらにクラフトワークのような電子音を付け加え、シンセポップの形式をレトロな側面から再検討しているのも面白い。

 

これらの実験や試作が完璧に行ったとは言えないかもしれない。まだこのサウンドは未知数。しかし、このアルバムには実験音楽としての冒険心、そして未知なる音楽への道筋が示されており、冒頭曲「Settle In」、「When You Were Young」では、近未来的なイメージを覚えることもある。加えて経験豊富なアーティストとしてのイディオムも登場するのに注目。いわば時間を持たない、音楽の普遍的な魅力が内在している。「Alone Together」では、ヨットロックのような形式が登場し、アルバムの中では、バンドアンサンブルの性質が色濃い。ローズピアノ、ベース、ギターの基本的な構成に加えて、金管楽器のレガートが曲に掴みどころをもたらしている。本作のクライマックスにはシタールのドローンを用い、独創的なサウンドを構築している。

 

 

 「Preflyte」

 


Sainte Etienne - 『Nights』はHeaveny Recordings/[PIAS]から本日発売。ストリーミングはこちらから。ヘブンリー・レコーディングは、Gwennoを送り出したことからもわかる通り、個性的なカタログを擁する注目のレーベル。

 

Weekly Music Feature : Hollie Kenniff

 

カナダ系アメリカ人のアンビエント・ポップ・アーティスト、Hollie Kenniff(ホリー・ケニフ)の4作目となる『For Forever』は、濃密なメロディの茂みに覆われ、聴く者を常にハラハラドキドキさせながら、クレッシェンドという満足のいく結末へと辛抱強く導いていく。エレクトロニックとアコースティックのサウンドウェーブにまたがる『For Forever』は、何マイルにも及ぶ果てしない至福の時間を提供し、ホリー・ケニフのこれまでで最も満足のいく作品となりました。


Nettwerk Music Groupからのデビューとなるケニフの最新アルバムは、昨年リリースされたエモーショナルなタイトル『We All Have Places That We Miss』に続く作品です。夫のキース・ケニフ(ヘリオス、ゴールドムンドとしてもレコーディングを行っている)とエレクトロニック・ポップのユニット、ミント・ジュレップで活動して以来、15年以上にわたって着実に歩んできたキャリアの中で、またひとつ印象的な宝石になり得る。心揺さぶる美しさを持つこのアルバムは、この特別なアーティストがこれからさらに大きなピークを迎えることを予感させます。


ニューアルバムのタイトル・トラック「For Forever」には特に注目です。彼女の息子のピアノをフィーチャーした、瑞々しく没入感のあるアンビエント・リスニング・エクスペリエンスである。アルバムは共同体の集積であり、他方シングルは家族というパズルの模範的なピースとなるでしょう。


「人々は信憑性に惹かれるものだと思う。誇大広告に頼ったり、すぐに廃れたり忘れ去られるような特定の流行を追いかけたりせず、音楽自身に語らせるようにしています」と彼女は語っています。


『For Forever』 2021年まで遡る過去数年間に書かれ、レコーディングされた音源で構成されていて、その最も幽玄な瞬間でさえも人間味溢れる抒情的なサウンドを聴かせてくれる。シガー・ロスのインストゥルメンタル作品や、ウィル・ヴィーゼンフェルドのGeoticプロジェクトのファジーなドリームスケープとは異なり、11曲のいずれも小さな黙示録のように聴こえるはずです。


ホリー・ケニフは『For Forever』の制作について次のように述べています。「私はほとんど毎日のように音楽制作に取り組んでいて、それは私の人生において非常に重要な部分なんです。私はいつも、人間の感情と自然界を作品のテーマにしています」




 『For Forever』 Nettwerk Music Group (85/100)

 

当初、ホリー・ケニフはソロ活動を始めた頃、シューゲイザーとドリームポップの中間域にある音楽を制作し、インディーズミュージックのファンの注目を集めていました。2019年には最初のアルバム『The Gathering Dawn』を発表し、注目作を発表しています。基本的には演奏者としてギタリストですが、制作者の作り出す神秘的なアンビエンスは、およそギターだけで作り出されたとは信じがたい。ようやくというべきか、満を持してというべきか、ホリー・ケニフはカナダのネットワークから最初のフルアルバムをリリースします。実際的な音楽性や世界観などが着実に磨き上げられ、夢想的かつ美麗なアンビエントアルバムが登場しました。


音楽性に関しては、2021年のシングル集「Under The Lonquat Tree」の延長線に位置づけられます。アンビエントというのはどうしてもアウトプットされる音楽が画一的になりがちな側面があるものの、ホリー・ケニフのソングライティングは叙情的な感性と季節感のあるサウンドスケープが特徴的。また、雪解けの季節を思わせるような雰囲気、清涼感のある音楽性が主体となっています。今回の4thアルバムを語る上で不可欠なのは、従来培われたギターやシンセを中心とするアンビエントテクスチャー、曲全体に表情付けを施すピアノでしょう。これらがほどよく合致することにより、ホリー・ケニフの作風はひとまず過渡期を迎えています。


ホリー・ケニフが説明する通り、本作の音楽は、誇大性、扇動性、ないしは脚色性とは対極に位置し、名誉心や虚栄心といった感覚とは相反する素朴な価値観が提示されています。それは全般的に言えば、芸術やリベラルアーツの原初的な意義を復権させるための試みでもある。多くの場合、音楽は、商業的な観点から制作され、実際的に経済効果をもたらした作品が評価されることは自然ですが、他方、音楽の楽しみはそれだけにとどまりません。このアルバムは、音楽を楽しむ上で、一般的な観点とは異なるもう一つの楽しさを教唆してくれるはずです。ある意味ではそれが限定的な影響力しか持たないとしても、アーティストが数年間、ほとんど毎日のように制作に取り組むかたわら、「永遠なるもの」を探求した結末とも言えるかもしれません。そして、それはたぶん察するに商業的な成功や名誉ではなかったのでしょう。結果として、音楽の持つ純粋な側面が引き出され、澄明な輝きを持つアンビエントが生み出されました。

 

以前から言及している通り、旧来は家父長制を基底に社会システムが構築されていたため、女性アーティストが世に出て来づらい弊害がありました。それは古い言葉になってしまいますが、女性の社会的役割が重視されていたから。結果として、その壁を打ち破ることになったのは、デジタル・ストリーミングの普及であり、制作環境にラップトップが導入されたことであり、また、自由にインターネット上で個人的な音源を公開することが可能になったことでしょう。次いで、この流れに準じ、”ベッドルーム・ポップ”という自主制作をベースに作品を発表するアーティストが登場しましたが、これが旧来のストリームを変えるような流れを呼び込みました。最終的には、Cindy Leeの『Jubilee』がその答えなのでしょう。これは最早、音楽という形態が一般的な価値を持つ商業作品という旧来の価値観を打ち破ってしまった。そして、今後は、メディアの権威付けの影響力も徐々に乏しくなっていくかもしれません。言い換えれば、音楽に対する絶対的な評価というのは、あってないようなものだということ。実は、アンビエントやエレクトロニックという先入観を度外視してみると、ホリー・ケニフもまた、これらのベッドルームポップの流れを上手く味方につけたミュージシャンだったです。

 

いずれにしましても、『For Forever』は純粋な音楽の良さや楽しみが凝縮されています。アルバムのオープニングを飾る「1-Lingers in Moments」は、アンビエントのシークエンスから始まり、ホリー・ケニフの音楽的な世界観を敷衍させる。さらにピアノ(シンセ)の演奏がそれに加わり、澄明で穏やかな音楽が無限に続いていくような気がします。パッドやボーカルをベースにしたシーケンスが組み合わされ、心地よい音の空間性が組み上げられていく。アンビエント制作の基本的な作曲性は一般的なリスナーにも共鳴するなにかがあるかもしれません。 

 

 

「Lingers in Moments」

 

 

「2-Surface」はピアノを中心とする曲で、ビートを段階的に組み上げていき、それらをループさせ、心地よい響きを作り出しています。音楽性のタイプとしては、ニルス・フラーム、ピーター・ブロデリックの系譜にあるポストクラシカル/モダンクラシックの楽曲となっていますが、これらの繊細な響きにシンセストリングスを合致させ、巧みな音像を作り上げていく。ときどき、神秘的なシークエンスが出現する瞬間があり、息を飲むような美麗な音のイメージが作り上げられる。さらに制作者自身のボーカルも登場することもありますが、これは器楽的な効果に焦点が置かれています。タイトル曲は、波形にディレイを掛け、逆再生のような効果を強調させ、抽象的な音像にピアノの演奏が加わり、ぼんやりした美しさを表現しています。何より素晴らしいのは、曲そのものが画一的なイメージを植え付けるものではなく、自由で開放的なイメージを掻き立てること。つまり、リスナーそれぞれの答えが用意されているのです。

 

しばし人工物や人間関係から離れ、偉大な自然について思いを巡らすことほど素晴らしいことはありません。そのあとも自然の雄大さや空気感を表現したような音楽性は続き、「4-Sea Sketch」では美しい海の情景へと音楽の舞台は変わる。制作者のボーカル/ギターを融合させ、同じように開けた感覚のあるアンビエントを楽しむことが出来るでしょう。シンプルなループサウンドを中心に構成されていますが、ときどき抽象的なサウンドスケープから神秘的なシークエンスがぼんやりと立ちのぼってくることもある。これらの主張性を削ぎ落としたサウンドは、ヒーリング音楽に近い領域に差し掛かる。アウトロのピアノの静かで穏やかなフェードアウトも聞き逃すことが出来ません。曲のイメージを最大限に引き出そうとしています。

 

「5-The Way Of The Wind」は意外な転遷を辿る曲で、異色のナンバーとなっています。ヒーリング効果を持つアンビエントからダンサンブルなトラックに移り変わる。シューゲイズのギターを微細に重ね合わせ、ベースラインでそれらの音像を縁取っている。また、前半部ではボーカルアートの要素が強調され、心地良いサウンドが展開されますが、イントロから続いているベースラインが強調され、バスドラムが追加されると、曲調が大きく変化し、ダウンテンポ風のトラックへと変貌を遂げる。最終的にはレイヴサウンドを通過したチルウェイブ風のサウンドへとダイナミックな展開を描く。「6-Amare」では再び、オーガニックなアンビエントに立ち返り、ボーカルの録音を元にした重厚感のあるサウンドが緻密に組み上げられていく。この曲にはキース・ケニフ(Helios)が参加していますが、『Eingya』(2006)に収録されている「Coast Off」を微かに彷彿とさせる広大なサウンドスケープが描かれています。

 

 

「7-Over Ocean Waves」ではアンビエントの持つ神秘的な性質が生かされています。精妙なシークエンスの向こうからピアノの断片的なフレーズ、そしてボーカルのサンプリングが立ち表れ、美しく開けた無限の音楽が続いていく。高ぶった気持ちを鎮め、心に治癒と落ち着きを与える。アンビエントの持つヒーリング的な要素、エンヤのような清涼感のあるボーカルが特徴です。ぜひアウトロに至るまでの音の見事な運びにじっくりと耳を傾けていただきたいです。

 

続く「8−What Carries Us」は、ポストクラシカル風の楽曲で、Library Tapesの系譜にあるサウンドにテクノの要素が付け加えられています。特に、曲の表情付けとなる電子音楽の要素は中盤から終盤に掛けて、更に深遠さを増していき、音の持つ核心的な箇所へとリスナーを惹きつける。シンセリードのループは最終的にサウンドの変革を経て、オルガンのような崇高な響きを持ち合わす。入念な曲制作が見事な形で昇華された曲で、アーティストの最高傑作の一つです。

 

以降の収録曲では、ポストロックや音響派に属するサウンドアプローチを見出すことが出来ます。例えば、「9−Esperance」はExplosions In The Sky、Sigur Ros、Mogwaiを彷彿とさせる映画的な趣を持つギターロックをダウンテンポの領域から解釈している。複数のギターの録音を重ねあわせ、夢想的で叙情的なテクスチャーを組み上げている。ゆったりしたビートと心地よいギターの兼ね合いに注目です。この曲はまたギターの持つ静かな魅力が織り交ぜられています。ギターサウンドの音量的なクライマックスを迎えたのち、静謐なピアノが通り過ぎていく。

 

アンビエントは、詳しい方であればご存知と思われますが、純粋な環境音楽の他に、チルウェイブやレイヴなどの影響をより抽象的にし、さらにそれらを洗練させたクールダウンのためのダンスミュージックの要素を備えています。


続く「10−Rest In Fight」は、そういった特徴がよく表れています。この曲ではEDMの音像を抽出し、扇動的な側面ではなく、治癒的な側面を強調している。それらの要素は、前曲のようなシューゲイズ、ポスト・ロックの音響派としての側面、そしてボーカルアートと結びつきを果たし、アンビエントの今一つの知られざる性質を提示します。闘争的な表現とは縁遠い雄大なサウンドは、この音楽の持つ慈愛的な性質を暗示している。このアルバムでは、例外的に崇高な感覚に縁取られはじめ、オーケストラ曲の持つ、壮大さへと変容していく。しかし、それらは細やかで控えめな性質を中心に構成されています。作曲的には、大きなものを避けていた制作者の表現性の清華とも称することが出来るでしょう。

 

 

ホリー・ケニフの作曲にはときどき幻想的な要素が登場しますが、特にアルバムのクローズを聴くと、この点が把握しやすいかもしれません。 「11-Far Land」は環境音楽やヒーリング音楽に近く、シンプルで技巧を衒わないピアノの演奏をベースにし、背景には同じようにボーカル録音を含めたアンビエントテクスチャーを敷き詰め、リスナーを果てしない幻惑の奥底へと誘う。「新ロマン派」といえば、大げさになるかもしれませんが、ポーランドの作曲家が探求したロマンチシズムを現代的な音楽家としてモダンなサウンドに組み替えています。このアルバムは、ドイツ的ではなく、どことなく北欧的な雰囲気が漂う。ピアノの緻密な構成力はボーカル録音と組み合わされると、独特な印象を生み出し、最終的には音楽の持つ神秘的な一面に近づく。

 

ローレンス・イングリッシュは”アンビエントを建築的に解釈することがある”と述べていますが、ホリー・ケニフの場合、現段階の最終形とは、ギリシア彫刻などに見られる塑像の美しさでもあるようです。こういった音楽的な凄さのある楽曲が出てきた事例はこれまであまりなかったように思えます。ホリー・ケニフの象徴的なアルバムが誕生したとも言えるかもしれませんね。

 

 

「Far Land」

 

 

Hollie Kenniff(ホリー・ケニフ)のニューアルバム『For Forever』は本日(11月6日)にNettwerk Music Groupから発売されました。ストリーミングはこちらから。

 


ベルリンを拠点に活動する作曲家、プロデューサー、サウンドデザイナーのベン・ルーカス・ボイセンは、2016年にデビューアルバム『Gravity』の再リリースと『Spells』でErased Tapesに初めて契約した。


『Spells』は、プログラムされたピアノ曲と生楽器を融合させ、コントロール可能なテクニカルな世界と予測不可能な即興演奏を組み合わせた作品である。ある意味、アンダーグラウンドでのデビュー作『Gravity』が残したものを引き継いでいるが、多くの重荷が取り除かれ、より軽快でエネルギッシュな作品に仕上がっている。レーベルオーナーの友人であり、Erased Tapesのアーティストでもあるニルス・フラームが、2枚のアルバムのミキシングとマスタリングを担当した。ベンは名ピアニストではないが、彼のサウンド・コラージュは非常に綿密にデザインされており、その結果を聴いて感銘を受けたニルスはこう宣言した。"これは本物のピアノだ"。


『Spells』と『Gravity』は、彼自身の名前でレコーディングされた初めてのアルバムだが、高名なエレクトロニック・プロデューサー''HECQ''として、2003年以来9枚のアルバムをリリースし、アンビエントからブレイクコアまで、あらゆるジャンルを探求してきた。同時に、アムネスティ・インターナショナルやマーベル・コミックなど、さまざまなクライアントのために仕事をし、長編映画、ゲーム、アート・インスタレーション、コンベンションのオープニング・タイトルなどの作曲を手がけ、信頼される作曲家、サウンド・デザイナーとしての地位を確立している。


1981年、オペラ歌手のディアドレ・ボイセンと俳優のクラウス・ボイセンの3番目の子供として生まれたベンは、7歳のときピアノとギターによるクラシック音楽の訓練を受け始め、ブルックナー、ワーグナー、バッハの作品によって重要な基礎を築いた。両親と共有していた音楽を再発見し、オウテカ、クリスティアン・ヴォーゲル、ジリ・セイヴァーからピンク・フロイド、ゴッドスピード・ユー・ブラック・エンペラーのサウンドと融合させた。ブラック・エンペラーを聴きながら、そもそもなぜ彼が音楽を書きたかったのかを理解した。


ベン・ルーカス・ボイセンのニューアルバム『Alta Ripa(アルタ・リパ)』は、彼の芸術的旅路における激変を意味する。このアルバムは、彼の創造的なパレットが花開いたドイツの田舎町の穏やかな美しさの中で形成された、彼の青春時代の基礎的な衝動を再訪するというものである。

 

しかし、彼のサウンドに衝撃を与えたのは、2000年代初頭にベルリンに移り住んだことで、この街の脈動するエネルギーと多様な文化の影響を注入した。『Alta Ripa』は、この変容の経験をとらえ、彼の田舎での始まりの内省的なメロディーと、ベルリンの活気あるエレクトロニック・ミュージック・シーンから生まれた大胆で実験的な音色を融合させている。このアルバムは、ボイセンの進化の証であり、地理的な移り変わりがいかに芸術表現を深く形作るかを示している。


ボイセンのソロ名義での4作目となるスタジオ・アルバムは、彼の出発点へのうなずきであると同時に、未来へのヒントでもあり、作品としては、その大胆さと謙虚さにおいて、ほとんど矛盾がある。彼は、リスナーを自分探しの旅へと誘う。自分にとってもリスナーにとっても。この音楽を、"15歳の自分が聴きたかったが、大人になった自分にしか書けないもの "と表現している。


ボイセンは、彼自身の嗜好が折衷的であることと、特定のシーンに属したことがないことから、自分がどの音楽の伝統にも属しているとは考えていない。一貫性の欠如というよりは、さまざまなアプローチに対する評価であり、彼は音楽的に進化するために常に挑戦しているのだ。


例えば、”Hecq”という名義でノイズミュージックを始めた当初は、レフトフィールドのエレクトロニカ、ブレイクコア、テクノなど、さまざまなジャンルからインスピレーションを得ていた。その後、アコースティック楽器を取り入れた、より構造的で質感のあるエレクトロニック・ミュージックの作曲に力を入れ、自身の名義で並行して活動するようになった。また、映画、テレビ、ビデオゲーム、マルチメディア・インスタレーション、アレキサンダー・マックイーンをはじめとするファッション・デザイナーのための作曲家としても幅広く活動している。


過去2枚のアルバムでは、チェリストのアンネ・ミュラー、フリューゲルホルン奏者のシュテフェン・ジマー、ドラマーのアヒム・フェルバーなど、他のミュージシャンと仕事をしている。しかし、最近のライブ・パフォーマンスへの復帰に触発されたこともあり、『アルタ・リパ』では、ボイセンは純粋なコンピューター・ミュージックへの情熱に回帰している。彼はこう説明する。


「ベルリンで20年近く過ごした後、数え切れないほど素晴らしいアーティストとの交流や出会いがあり、それが私の作品やアルバムに反映されてきた。しかし、この小さな町アルトリップは、ある意味、私が本当に離れたことのない町であり、その遠い記憶とともに、私の心の前に戻り続け、私が学んできたこと、今日あることのすべてを、いわば「故郷」に持ち帰るように促してくれた」


「私は、人生が複雑になる前に、私を形成し、インスピレーションを与えてくれた場所に芸術的に戻り、今日の経験をもってその世界に入り込みたいと思った。どういうわけか、戻るのと同時にゼロから出発して、私の最も古いアルバムであるとともに、最も新しいアルバムを書くことになった」



『Alta Ripa』/ Erased Tapes

 

今ではすっかり忘れさられてしまったが、ドイツは1800年ごろまでには現在のオーストリアを含む地域を自国の領土としていた。それがナポレオン率いるフランス軍によって一部を制圧され、現在では、その領土の一部を受け渡した。第二次世界大戦では、歴史上最も死者を出したスターリングラードで敗北を喫し、ソビエト連邦の管理下に置かれる地域もあった。さらに多くの都市において、城塞都市を持ち、古城の周りが要塞のような構造を持つ地域もある。これは地形的に、ドイツが侵略と戦いの憂き目にさらされてきたことを象徴付ける。そして、近代以降、ドイツが生んだ最高の遺産は、工業製品やインフラ設備であり、大衆車(volkswagenは大衆車の意味)の生産ラインを確立し、自動車の大量生産の礎を築き、アウトバーンのような大規模な幹線道路を建設したことにある。例えば、ミュンヘンのアウトバーンを走行していると、巨大なフットボールクラブのスタジアムのドーム、アリアンツ・アレーナが向こうに見えてくる。

 

第二次世界大戦の後、ドイツは工業的な生産を誇る国家として発展してきたが、もうひとつアカデミアの文化も長い歴史を持つ。例えば、中世の時代にはボン大学があり、普通に一般的な講義として、詩の授業が行われていて、ロマン・ロランの伝記によると、若き日のベートーヴェンは、作曲家になる以前に、聴講生として詩の講義に参加していたことがあったという。他にも、南ドイツのフライブルク大学は、創設がなんと15世紀であり、ネッカー川や哲学者の道が有名で、街のパブの壁には学生の思索のメモ書きが今もふつうに残されている。ドイツは、マイスター等の階級的な職業制度に関して問題視されることもあったが、少なくともオーストリアと並び、知性を最も重んじる国家であり続けてきた。こういった中で登場した電子音楽は結局のところ、クラフトヴェルクといった富裕層の若者たちによって、文化や芸術のような形で綿々と続いてきた。ドイツの工業製品にせよ、芸術や音楽、そしてフットボールのプレイスタイルにせよ、一つの共通点がある。それは、秩序、規律、統率を何よりも重んじ、それを芸術的たらしめるということ。これはまさしく、古い時代から培われた知性の象徴であり、ドイツの美徳とも呼ぶべきものだ。なぜなら、新しい考えは秩序や規律から生ずるからである。

 

ベン・ルーカス・ボイセンの音楽は、こういったドイツの遺産を見事な形で受け継いでいる。 そもそも音楽は、和声から始まったのではなく、モーダル(Mordal)という半音階を上がったり下がったりする旋法から始まり、その後、ドイツの音楽学者や作曲家により、厳格な対旋律法が生み出され、その後、和声的な考えが出てくるようになった。特に、古典派の多くの作曲家は旋律の進行に関して、厳格な決まりや原理を設けていた。つまり、旋律が上がれば、そのあと、バランスを保つために下がるという規則を設け、その中で制約の多い作曲を行った。これが以降のポピュラーミュージックの基礎となったのは明確である。フランスの音楽的な観念は、そこまで厳しくはないが、ドイツの和声法や対旋律法はきわめて厳格であることで知られている。これは「音楽の秩序や規律」という一面を示す。そして、例外的な要素は濫用せずに、ここぞ!というときのためにとっておいたのである。規則を破るのは美しさのためだけである。

 

 

ベン・ルーカス・ボイセンの電子音楽は、1990年代や2000年代のAutecre、Clarkのスタイルを継承しているが、これに対旋律的な技法やMogwaiのポスト・ロックの遊び心を付け加えている。

 

冒頭を飾る「1-Ours」を聞けば、ボイセンの音楽がシンプルに構成されていることがわかる。おそらく、Native Instruments等のソフトウェア音源によるシンセリードから始まり、それを規則的に繰り返しながら、音楽構造としての奥行きを発生させ、その背景に薄くパッドの音源を配置させ、大きめの音像を発生させる。ポスト・ロックの音響派の影響を受け継いだイントロの後、テクノやブレイクコアではお馴染みの簡素で規則的な4ビートを配置し、うねるようなウェイブーーグルーヴーーを発生させる。ただ、90年代のテクノやブレイクコアは、速いBPMが使用されることがわりと多かったが、アルバムでは意図的にスロウなBPMが導入されている。


これはビートの重力を出すための制作者のアイディアではないかと思われる。そして重層的なビートは、何度もアシッドハウスのような感じで繰り返されると、「Delay Beat」とも称するべきシンコペーションの効果を発揮し、強拍が後ろに引き伸ばされていくような効果が発生する。徐々に、そのウェイブのうねりは大きくなり、レイヴやアシッドハウスのような広大で陶酔的なグルーブに繋がり、クラブフロアの縦ノリの激しく心地よいリズムが縦横無尽に駆け巡る。その仕上げに、ベン・ボイセンはノイジーなシークエンスをビートの上に重ね、それらをトーンシフトさせ、変調させる。これが独特なアシッド的なうねりと熱狂性を呼び起こすのである。

 

傑出したダンスミュージックの制作者にとっては、一般的な制作者が見落としてしまいがちな些細な音源の素材も、リズムを形成するための重要なヒントになるようだ。シンプルなファジーなアルペジエーターで始まる「2-Mass」は、マスターによって十分な強度を持つに至り、フィルターで音を絞った後、変則的なリズムトラックがループしていく。これが最終的には、Clarkが90年代や00年初頭に制作していたゴアトランスのように変化し、重力のあるスネアとキックの交互の配置により、徐々に熱狂的なエネルギーを帯びていく。さらに対旋律的にリードシンセを配置し、曲に色彩的な効果を及ぼす。曲の途中にはアルペジエーターを配置し、フィルターを掛けたシークエンスを散りばめたりしながら、間接部の構成を作り、クラシック音楽では頻繁に使用されるソナタの3部構成の形式を設け、再びモチーフに戻っていく。ダンスミュージックが規律や秩序から発生することを象徴付けるような素晴らしいトラック。


続く「3-Quasar」は、2010年代以降、先鋭化されたブレイクコアのジャンルを相手取り、よりシンプルで原始的なダンスビートを抽出している。ベースラインとユニゾンを描くリズムトラックは基本的には心地よさが重視され、クラブビートの本質的な醍醐味とはなにかを問いかける。ダンスミュージックの最大の魅力とは複雑化ではなく、簡素化にあることがわかる。さらに静と動の曲構成を巧みに使い分けながら、重厚感と安定感のあるサウンドを構築している。この曲でもBPMを一般的なものよりも落とすことで、リズムにメリハリと重力をもたらす。

 

こういったリズムを側面を強調させ、レフトフィールドの質感を持つアルバムの序盤の収録曲に続いて、Erased Tapesらしい叙情的な雰囲気を持つダンスミュージックが続く。「4-Alta Ripa」では制作者のポストロック好きの一面がうかがえる。Mogwaiが90年代以降に打ち立てた音響派のサウンドをシンセで再現し、瞑想的な音楽に昇華させている。クールダウンのための楽曲というより、ダンスミュージックの芸術的な側面を強調させている。また、ここでは、ベン・ボイセンのピアニストとしての演奏がフィーチャーされ、ドイツ的な郷愁を思わせるものがある。ここには制作者が親しんできたバッハ、ヴァーグナー的な悲哀がシンセで表現される。 

 

 「Alta Ripa」

 

 

単体の素材でリズムが構成される場合が多かったアルバムの序盤に比べると、後半部は複合的なリズムが目立つ。さらに新しく登場した実験音楽家等が頻繁に使用するAbletonで制作するような図面的な信号とは異なり、アナログな音源が多く使用されている。


「5-Nox」は、シンプルに言えば、Logicのような初歩的なソフトウェアにも標準的に備わっているFM音源のようなシンセを用い、それらを複合的な音色をかけあわせ、かなりレトロな質感を持つEDMに仕上げられている。ここにはドイツの工業生産的なダンスミュージックの考えを見て取れるし、それ以前の構成的な音楽という考えも見いだせる。二つの楽節を経過した後に、1分35秒ごろに主要なモチーフが遅れて登場するが、こういった予想外の展開に驚かされる。そして、ここでもアシッドハウスのような手法が用いられ、反復的なビートと裏拍(二拍目)の強調を用いながら、強固でしなるようなパワフルなグルーヴを作り上げていくのである。

 

本作には異色の一曲が用意されている。「6-Vinesta」は、電子音楽が芸術的な音楽と共存することは可能であるかを試したトラック。シンプルに言えば、オペラと電子音楽の融合の未来が示唆されている。ボイセンは、ダウンテンポの手法を用いながら、広大なシンセの音像を作り出し、壮大なイントロのように見立てた後、曲の最後のさいごになって、オペラのような歌曲としての要素を出現させる。ここにはバッハ、ヴァーグナーの影響も伺え、天国的な雰囲気を持つミサ曲のようなシークエンスに、トム・アダムスのオペラティックな歌唱を最後に登場させる。

 

特に、ダンスミュージックとして傑出しているのが、「7-Fama」である。この曲ではリングモジュラーで発生させる音色をアルペジエーターとして配置し、グルーヴィーな構成を作り上げる。特に、他の収録曲と比べると、Four Tetのようなサウンド・デザインの性質が表れ、複合的なリズム、対旋律的なリズムというように、構成的なダンスミュージックを楽しめる。ボイセンは実に見事に、これらのリズムの要素に音量としてのダイナミックスの起伏を設け、サイレンスからノイズを変幻自在に行き来する。簡素でありながら意匠に富んだダンスミュージックは、まさしく南ドイツのアンダーグラウンドのダンスミュージックを彷彿とさせるものがある。

 

正直にいうと、久しぶりに手強いダンスミュージックが出てきたと思った。軟派ではなく本格派のクラブビートであるため、容易に聴き飛ばすことが難しい。わずか38分のアルバムは、細部に至るまで注意が払われており、かなりの聴き応えがある。そして、ベン・ルーカス・ボイセンの出力する迫力のあるビートは、ある種の緊張感すら感じさせる。すべてがインプロヴァイぜーションで演奏されているとは限らないが、その録音時にしか収録出来ない偶発的な音やトーンの変容、演奏に際するひそかな熱狂性のような感覚を収録しているのは事実だろう。

 

しかし、こういった、かなりの強度を持つ収録曲の中にあって、最後の曲だけは雰囲気が異なる。「8-Mere」は、エレクトロニックの美しさを端的に表現し、ブライアン・イーノの名曲「An Ending(Ascent)」を継承する素晴らしいトラックである。この曲を聴いているときに感じる開けたような感覚、それから自分の存在が宇宙の根源と直結しているような神秘的な感覚は、他の音楽ではなかなか得難いものだと思う。これぞまさしく正真正銘の電子音楽なのだ。

 

 

 

86/100

 

 

 

Ben Lucas Boysenによる新作アルバム『Alta Ripa』は本日、Erased Tapesから発売。ストリーミングはこちら。


 

「Fama」

【Weekly Music Feature】 Dean&Britta  Sonic Boom

Dean & Britta  - Sonic Boom

 

国境を越え、インディーズ・ミュージックの伝説的なミュージシャンが集い、『We Are The World』のようなクリスマスのためのアルバムを制作した。シンプルに言えば、このホリデーソングは、平和とは外側ではなく、内側からもたらされる。そんなことを教えてくれることだろう。


Dean Wareham(ディーン・ウェアハム)は、Galaxie 500を結成し、1988年から90年にかけてRough Tradeから3枚の傑作アルバムを発表。彼の次のバンド、Luna(ルナ)はエレクトラとベガーズ・バンケットに7枚のアルバムを残している。一方、Britta Philips(ブリッタ・フィリップス)の最初の音楽活動は、ジェム(ジェム&ザ・ホログラムズ)の歌声だった。その後、Ben Lee(ベン・リー)のバンドでベースを担当し、2000年にはLunaにベースとして参加した。


Dean&Britta(ディーン&ブリッタ)はデュオとして数枚のアルバムを録音したほか、Noah Baumbach(ノア・バームバック、米国の映画監督、アカデミー賞にノミネート)のために2本の映画音楽を担当している。『The Squid & the Whale』、そしてもう一作は『 Mistress America』。


Sonic Boom(ソニック・ブームは、伝説的なイギリスのバンド、Spacemen 3(スペースメン3)の共同創設者であり、その後、Spectrum(スペクトラム)や実験的なE.A.R.を結成し、MGMT、Beach House、Panda Bearなどのレコードをプロデュースしている。Panda Bear(パンダ・ベア)とのコラボレーションによる画期的なアルバム『Reset』(2022年)などが有名。


ディーン・ウェアハムとソニック・ブームの友情が始まったのは今から30年以上前のこと。1989年8月、ロンドンのクラブ「サブタニア」で行われたスペースマン3の最終公演の後、バックステージで彼らは出会った。その後も連絡を取り合い、時折ライヴステージを共にする機会に恵まれた。2002年、ソニック・ブームが「Sonic Souvenirs EP」のためにディーン&ブリッタの6曲をリミックス、初のコラボを実現させた。それ以来、彼らはツアーを共にし、多くの曲でコラボレーションしてきた。『A Peace of Us』はトリオとして初のフル・アルバムである。

 

インディの青春の集合体の砦として、60年代初期のポップ、ガレージ、カントリー、ジェームズ・ボンドのサウンドトラック、クリスマス・キャロル、そしてエレクトロニカからインスピレーションを得たコレクションに命を吹き込んだ。ディーン・ウェアラムは、DJの友人クリスの言葉を思い出している。「愛と憎しみ、喜びと心の痛み、ノスタルジア、後悔、期待、フラストレーションなど、音楽を通してクリスマスのあらゆる感情を体験することができるはずだ」


ホリデー・アルバムへの挑戦は大きな意味を持つ。長年にわたるいくつかのカヴァー・チューン、パンデミック時のクリスマス・スペシャル、そして最終的にはL.A.のディーン&ブリッタとポルトガルのソニック・ブームとの共同セッションによって拍車がかかった。トリオ全員がボーカルを担当し、ギターはウェアハム、ベースとキーボードはフィリップス、エフェクトとミックスはソニックが担当した。「ビング・クロスビー...オン・アシッドみたい」とブリッタは付け加え、トラックリストは、ホリデーが複雑で悲劇的なものであることを思い出させてくれる。


ホリデーソングの陽気な雰囲気にはよくあることだが、このクリスマス・アルバムにはほろ苦さが漂っている。ウォーリアムはデヴィッド・バーマンの最後の曲のひとつ「Snow Is Falling In Manhattanーマンハッタンに雪が降る」を歌っているが、この曲は、ディーンが "ホリデー・クラシックになる運命にある "と信じている。その歌詞は、バーマンの悲劇的な死を予感させる。"歌は時の中に小さな部屋を作り/歌のデザインの中に宿り/ホストが残した亡霊がいる"


クリスマス・ブルースは、ウィリー・ネルソンの「Pretty Paper」で再び表面化する。ここではブリッタとソニック・ブームのデュエットで、彼らの脈打つシンセを多用したプロダクションが、この曲を明るいホンキートンクではなく、暗いナイトクラブ向けにアップデートしている。


このコレクションは、通常のクリスマスの定番曲は避けているが、クラシックなインディー・ヘイズのファンは、「Peace on Earth / Little Drummer Boy」(ビング・クロスビーとデヴィッド・ボウイが1977年にTVでデュエットするために作られた曲)に新しいお気に入りを見つけるだろう。「私たちが一番好きなのはマレーネ・ディートリッヒのドイツ語版で、それが出発点だった」とウォーリアムは言う。この曲は3人が一緒に歌う。ウォーリアムのテナー、ソニック・ブームのバリトン、そしてフィリップスの落ち着いたコントラルトを聴くことができる。


「コラボレーションが燃料であるなら、平和と相互理解が火であることは間違いない。クリスマスは子供のためのものだしね」とディーンは言う。


ソニック・ブームはこう付け加える。「あるいは、私たち皆の中にいるインナーチャイルドのために。すべての人に善意を。来る年への期待と不安。そして暗闇の中の光。このお祭りが始まった場所」

 

 

『A Peace Of Us』 Carpark 

 

ジョン・レノンとは異なり、ルー・リードは明確にはクリスマス・アルバムというのを制作したことがない。しかし、よく調べてみると、『New York』というアルバムで、ベトナムからの帰還兵へ捧げた「X'mas In February(季節外れのクリスマス)」という深い興趣のある曲を歌っていた。ルー・リードは、その人物像を見ても、それとなくわかることであるが、一般的に見ると、少し回りくどいというべきか、直接的な表現を避けて、暗喩的な歌を歌うことで知られている。


彼は、ジョン・レノンのような典型的なホリデーソングを歌うのを避け、反戦というテーマをかなり慎重に扱ったのである。もうひとつ重要視すべきなのは、リードは単なる左翼的な曲を歌ったわけではない、ということである。彼は、自分の幸福ではなくて、他者の心の傷や仕合わせのために歌を捧げたということを忘れてはならない。そう、ルー・リードは、スーザン・ソンタグが指摘するような他者の痛みのために歌をうたったのだ。祈る必要はないのだが、時々、エゴを離れ、他者や大いなる存在について思いを巡らすことはそれほど悪いことではない。

 

ディーン&ブリッタ、ソニック・ブルームのクリスマス・アルバムは、直接的な反戦のテーマこそ含まれていないが、内的な平和のメタファーを歌うことで、リードのクリスマスソングに準ずる見事な作品を完成させている。同様に、ジョン・レノンの「War Is Over」のようなスタンダードな選曲から、17世紀のイングランド民謡「Greensleeves」、あるいは、18世紀のオーストリアの教会のクリスマス・キャロル「Silent Night (きよしこの夜)」を中心として、クリスマスソングの名曲をいくつか取り上げている。三人とも、インディーズ・ミュージック界の名物的な存在で、そして、音楽の知識がきわめて広汎である。このアルバムでは、驚くべきことに、ロックからクラシック、フォーク/カントリー、オールディーズ(ドゥワップ)までを網羅している。

 

アルバムは、デヴィッド・バーマンのカバー「The Snow Is Falling In Manhattan」で始まるが、ディーンが空惚けるように歌う様子は、ルー・リードの名曲「Walk On Wild Side」にもなぞらえても違和感がない。Galaxie 500の時代から培われたインディーロックのざらついた音質、そして、斜に構えたような歌い方、ソニック・ブームのプロデュース的なシンセサイザー、Wilcoのような幻想的なソングライティング、これらが組み合わされ、見事なカバーソングが誕生している。あらためてわかることだが、良い曲を制作するのに多くの高価な機材は必要ではないらしい。

 

カバー・アルバムやコンセプト・アルバムというのは、一般的な楽曲制作よりもハードルが高いので、うかつに手を出せない。それはなぜかというと、作曲的な知識はもちろん、編曲の能力が必須になるからである。クラシック音楽の観点から言うと、カバーソングというのは、変奏曲(Variation)の一形式であり、きわめて難易度が高い。そしてカバーは、原曲とまったく同じものになってはいけないが、原曲の筋書きを書き換えてもいけない。つまり、制約や禁則が意外と多いので、作曲のマイスターでも編曲には手こずることがある。

 

クリスマス・アルバムというと、基本的には、懐古的なサウンドがテーマになる場合が多いが、ディーン&ブリッタ、ソニック・ブームの狙いはおそらく、ホリデーソングの新しい側面を提示することにあったのだと思う。そして、原曲を忠実に解釈した上で、今まで知られていなかったクリスマスソングの面白さを提供してくれている。特に、ウィリー・ネルソンのカバー「Pretty Paper」は、シンセサイザーをフィーチャーしたエレクトロ・ポップで、ニューウェイブ・サウンドを参照し、原曲とは異なる曲に生まれ変わっている。編曲も見事であり、オーケストラのパーカッション(ティンパニ)がこのカバーソングにダイナミックな効果を及ぼしている。

 

ソニックブーム、ブリッタの両者にとっては、実際的な制作を行っていることからもわかる通り、映画音楽というのが、重要なファクターとなっているらしい。ジェイムス・ボンドの『007』シリーズでお馴染みのニーナ・ヴァン・バラントの曲「Do You Know How Christmas Trees Are Grown?」では、映画音楽に忠実なカバーを披露している。特に、この曲ではブリッタがメイン・ヴォーカルを歌い、The Andrews Sisters(アンドリューズ・シスターズ)のような美麗な雰囲気を生み出す。曲の途中からはデュエットへと移行していき、映像的な音楽という側面で、現代的なポピュラーの編曲が加わる。プロデュースのセンスは秀逸としか言いようがなく、ソニック・ブームは、シンセサイザーで出力するストリングスで叙情的な側面を強調させる。

 

ロジャー・ミラーのカバーソング「Old Toy Train」では、ディーンがルー・リードのオルタナティヴフォークやバーバンクサウンドの影響下にある牧歌的な雰囲気を持つフォークソングを披露している。Velvet Undergroundのデビューアルバムの「Sunday Morning」、『Loaded』の「Sweet Jane」の延長線上にあるUSオルタナティヴの源流に迫る一曲である。どうやら、彼らがアーティスト写真でサングラスを掛けているのにはそれなりの理由があるようだ。

 

その後、年代不明のポピュラーの果てしない世界に踏み入れるかのように、まもなく到来するクリスマスのムードを盛り上げる。 「Snow」は、ミュージカルをモチーフにした時代を超えるポピュラーソングで、ブリッタがメインボーカルを歌い、懐かしきオールディーズの世界へリスナーを招待する。フランク・シナトラ、ルース・ブラウンといった往年の名歌手の普遍的な音楽を彷彿とさせるこの曲は、ピアノ、シンセ、そしてボーカルのコラージュによって、美しくも儚いインディーポップサウンドへと昇華されている。クラシックとしての威厳、そしてインディーズミュージックとしてのラフさやユニークさが組み合わされた見事なクリスマスソングだ。

 

以降の二曲は、古典的な定番曲が選ばれている。「Silver Snowfales」はイングランド民謡、及び、ケルト民謡の定番曲のカバー。特に、シンセサイザーの生み出す魔術的な響きがこの曲のアレンジを決定付けている。また、デュエット形式のコーラスも、中世ヨーロッパのミステリアスな世界観を形作る働きをなしている。この曲のギターは、リュートのように鳴り響き、そして二人のコーラスは、イタリアン・バロックのような古典的な響きに縁取られている。ケルト民謡の持つ神話的な魅力に、古楽のような要素をもたらしたアレンジの手腕は実に見事である。


クリスマス・キャロルの名曲「Silent Night(きよしこの夜)」では、メインボーカルに合わせてバリトンのボーカルがベースラインの役割を担う。さらに続いて、ブリッタのアルトの音域にあるボーカルが掛け合わされる。古典的なオーストリアのクリスマス・キャロルは、原初的な幸福感を失わず、オーケストラパーカッションとともに、サイケデリックな編曲が加えられている。

 

 ビング・クロスビーのカバー「You're All I Want For Christmas」は、最初期のザ・ビートルズのソングライティングに影響を及ぼしたと言われるガールズ・グループ、The Ronettes(ロネッツ)の伝説的な名曲「Be My Baby」を彷彿とさせるバスドラムのダイナミックなイントロから始まり、果てなきドゥワップ(R&Bではコーラス・グループと呼ぶ)の懐かしき世界へと踏み入れていく。この曲では、ブリッタが夢見るかのようなドリーミーな歌声を披露し、AIのボーカルや自動音声では再現しえない人間味あふれる情感豊かなポピュラーソングを提供している。


ブリッタの歌声は音楽の素晴らしさを教えてくれるだろうし、そしてクリスマスのモチーフとなる鐘の音は、まるで雪道の向こうからサンタクロースが橇を引いてやってくる幻想的な情景を端的に描写するかのようである。ソニック・ブームの語る「暗闇に光を」という言葉は、宣伝でもなければキャッチコピーでもない。真心から出た言葉である。赤子、子供から大人、そして老人にいたるまで、彼らはクリスマスソングを介して、大きな夢を与えようというのである。


「Christmas Can't Be Far Away」は、エディー・アーノルドのカバーで、この曲もまたモノクロ映画の時代のサウンドトラックを聴くようなノスタルジアに溢れている。前曲と同様に、彼らは、戦争で荒廃する世界に光があること、そして、善意がどこかに存在するということ、また、信頼を寄せること、こういった人間の原初的な課題を端的に歌いこんでいる。分離する世界を一つに結びつけるという、音楽の重要なテーマが取り入れられていることは言うまでもない。


 

仕合わせなクリスマスが間近に迫ってくるのを予兆するかのように、彼らのカバーソングはより音楽の持つ核心的な領域に入り、そして楽しげな感覚を引き上げる。それはボーカル、コーラス、パーカッション、ギター、シンセ、パーカッション、シンプルな構成によって繰り広げられる。ほとんど難しい晦渋な音楽は登場しない。音楽の持つシンプルさを彼らは熟知しているのだ。特に、アルバムの終盤の楽曲と合わせて、「He’s Coming Home」は、素晴らしいハイライトである。バンジョーやスティール・ギターの演奏を基に軽快なムードを作り出し、ブリッタがアンドリューズ・シスターズやカレン・カーペンターのように、懐かしく泣けるようなクリスマスソングを巧みに歌い上げている。この曲の原曲の歌詞は、おそらく、制作者から見た他者の人生の一部分が切実に歌われており、それがゆえに重要な説得力と実感を持ち合わせている。

 

 「He’s Coming Home」

 

 

 

「Little Altar Boy」はカーペンターズのカバーではないかと思われる。ある意味では「オルタナティヴ三銃士」と言えるディーン&ブリッタ、ソニックブームは、この曲を古典的な風味を残しながら、原始的なシンセポップへと再構成している。比較すれば、カバーとわかるが、実際的に楽曲の雰囲気は全く異なっている。いわば、ローファイ、スロウコアを始めとするニッチなインディーズ精神がこのトラックから、ぼんやりと立ち上る。さらにドアーズのレイ・マンザレクのようなレトロなシンセが、フラワームーブメントの最中に発表されたローリング・ストーンズの『Thier Satanic Majesties Request』のようなサイケ・ロックのアトモスフィアを作り出す。


 「If We Make It Thought December」は、おそらくマール・ハガードが歌った曲で、クリスマスベルとフォーク・ミュージックが組み合わされたカバーソングである。ただ、この曲はブリッタがメインボーカルを取り、バンジョーのアレンジによる楽しげな雰囲気を付け加え、原曲にはない魅力を再発掘している。カバーアルバムでありながら、トリオの音楽的な核心を形成するメッセージ性は強まり、最後の二曲でディーン&ブリッタ、ソニック・ブームの言わんとすることがようやく明らかになる。


ビング・グロスビーとデヴィッド・ボウイの1977年のデュエット曲「Peach On Earth/ Little Drummer Boy」では、ドゥワップの歌唱法を用い、Velvet Undergroundから、Galaxie 500、ヨ・ラ・テンゴのオルタナティヴのムードを吸収した雰囲気たっぷりのロックソングへと昇華している。コーラスワーク、そしてアコースティックギターの演奏を中心に、オーケストラのスネアを使用し、ボレロのようなマーチングのリズムを取り入れ、見事なアレンジを披露している。

 

 

カバーの選曲が絶妙であり、また、オリジナル曲の魅力を尊重しながら、どのように再構成するのかという端緒が片々に見いだせるという点で、『A Peace Of Us』は多くのミュージシャンにとって、「カバーの教科書」のようなアルバムとなるだろう。本作のクローズには、ジョン・レノン/オノ・ヨーコの名曲「Happy X'mas(War Is Over)」が選ばれている。こういった名曲のカバーを聴くたび、ヒヤヒヤするものがある。(原曲も持つイメージが損なわれませんようにと祈りながら聴くのである)しかし、これが意外にマッチしているのに驚きを覚える。 分けても、サビにおける三者の絶妙なコーラスは、繰り返されるたび、別の音域に移り変わり、飽きさせることがほとんどない。そして、ジョン・レノンの全盛期のソングライティングに見受けられる瞑想的な音楽性は、このトリオの場合は、幸福感を強調した瞑想性へと変化している。

 

このカバーを聴くと、ジョン・レノンは、特別なミュージシャンではなく、むしろ一般的なファンや子供が気安く口ずさめるようにと、「Happy X'mas(War Is Over)」を制作したことが理解出来るのではないか。音楽は特別な人のためのものでもなければ、特権階級のためのものでもないことを考えれば、当然のことだろう。果たして戦争のない時代はやって来るのだろうか??

 



94/100

 

 

 

「Snow」

 

 

■ Dean & Britta  - Sonic Boom 『Peace Of Us』は本日、Carparkから発売。ストリーミングはこちら

 

Weekly Music Feature : Anat Moshkovski



アナト・モシュコフスキはイスラエル/テルアビブ在住のミュージシャン。6歳からピアノ、11歳からクラリネットを始め、後にヴォーカリストとなる。近年は、ヨニ・レヒテル、ウジ・ナヴォン、ヌリット・ヒルシュらと歌い、「ヘーゼルナッツ 」と共に世界ツアーを行っている。2017年にデビューEP『Happy as a Dog』をリリース。セカンドEP『Loud & Clear』は2019年リリースしている。


彼女のディスコグラフィーには、二作のEPとフランスのシングルの三部作が含まれている。その中には、Yoni Rechterの有名な曲「The Prettiest Girl In Kindergarten」の人気のある魅惑的な新バージョンがある。


アナトはマルチバイリンガルで、英語、フランス語、ヘブライ語をシームレスに切り替える。彼女の音楽は、イスラエルとフランスの尊敬されるラジオ局や雑誌から支持されています。彼女はまた、シュロミ・シャバンやウジ・ナボンなど著名なアーティストともコラボレーションしています。アナトは11月15日にニューアルバム『Anat』をリリースし、彼女の音楽の旅に別のエキサイティングな章を追加する。


モシュコフスキーの有名作としては2021年の「La Petite Fille la Plus Jolie du Monde(世界で一番かわいい女の子」がある。この曲はシンガーソングライターのコンポジションを理解する上で不可欠である。フランスのメディアによると、この曲はイスラエル音楽の有名曲であるらしく、回顧展と合わせて公開された。すべては、音楽家ノエミー・ダハンがアナト・モシュコフスキーとシュージンのために翻訳した、イスラエル音楽で最も有名な曲のひとつから始まった。


叙情的な観察から繊細で癒し系のポップな賛辞まで、『世界で一番可愛い女の子』は目、体、手といった五感のすべてを通して感覚を伝えた。宙吊りのジェスチャー、救いの空に向かって振り上げられる指、鏡の向こう側に座る生き物を見つめる虹彩、創造的で人間的な系譜が進行しているのを目撃するよう誘う、濡れた肌や冷たい肌、ぴったりした服やゆったりした服の感触が、私たちの想像力を引き継ぐスケッチを誘発する。展示とサウンドトラックは、日々学び直すべき普遍的なメッセージを伝えている。すべてのドローイング、すべての楽譜、すべての彫刻の背後には、自伝の本質的な部分、イニシアティブと具体性の不滅の存在がある。その根源は、アナトとシュージンの新しく敬虔なパフォーマンスと、献身と時間を通してこの忘れがたい深い感動的な作品に自分の存在を捧げてくれたすべての人々の惜しみない参加によって育まれている。

 

新しいアルバムは、7つのシンプルで美しいビネットにより構成されている。このアルバムは、モシュコフスキーいわく「言葉ではなく、激しい感情の流れ」であり、パリの映画のサウンドトラックとそれほど縁遠いものではない。

 

『Anat』は大胆にもアーティスト名を冠するアーティストにとっての記念碑的な作品である。ヌーベルヴァーグ(Nouvelle Vague)のモノクロ映画から、『Le Fabuleux Destin d'Amélie Poulain,(邦題:アメリ)』のようなポスト・ヌーベルヴォーグに至るまでの新旧の映画音楽を変幻自在に横断し、新しいシネマ・ポップの流れを形作る。これはアナト・モシュコフスキーの音楽が、シルヴィ・バルタンやブリジット・フォンテーヌまでのフレンチ・ポップやアートポップの流れを汲むことを示唆する。これらの音楽に変化を及ぼすのが、ゲンスブールのバロックポップからの影響、英語、フランス語を曲ごとに使い分ける巧みな歌唱、そしてラテン・ジャズからのフィードバック。このアルバムは、イスラエルの新しいポップスの台頭を表すと同時に、米国の著名なソングライターと並んで、2020年代のシネマ・ポップの時代を予感させる。

 

 

 

『Anat』 Nana Disc  (86/100)


 


アーティスティックな音楽表現はすでに2021年の時点で完成されていた。ボサ・ノヴァやイエイエをベースにした作曲、ピアノ、クラリネットの演奏で培われた音感の良さは、旧来の商業音楽を組み替える契機となり、普遍的な音楽表現を構築するための躍如ともなった。結果的に、アナト・モシュコフスキーがこのアルバムで全般的にヒントにしたのは、奇異なことに、現代的なアメリカのシンガーソングライターが取り組んでいる「リバイバル運動」であるようだ。

 

それはアメリカの商業音楽の場合、映画のワンカットで流れる演出的な挿入歌やサウンドトラック等がポピュラーの音楽の一つの枠組みとなっている。イスラエルのシンガーソングライター、アナト・モシュコフスキーもこの事例に倣い、ヌーヴェル・ヴァーグのモノクロの映画で流れていたファッショナブルな音楽を彼女自身のポピュラー・ソングに取り入れている。そもそも、フレンチ・ポップとも称される「イエイエ」のムーブメントは、前時代のフランスのクラシック音楽の流れを汲んでおり、オーケストラとポップネスの融合というのが重要な主題でもあった。それにジャズの要素を加え、独自のポピュラー音楽という形に昇華していたのだった。

 

『Anat』はクラシック音楽やワールドミュージックからの影響を基に、親しみやすく、聴きごたえのあるポピュラー・ソングによって構成されている。このアルバムは基本的に、バンド構成で録音され、ドラム、ギター、ストリングス、管楽器、エレクトロニクス等を取り入れている。

 

オープナー「Jamie」は、アコースティックギターの多重録音で始まり、シンプルかつ美しい調和を作り上げた後、60年代の古典的なバロックポップの影響下にある温和な音楽性を展開させている。一見して、簡素な旋律やスケールを描くように聴こえるが、複数の楽器のアンサンブルを通じて、ビートルズに近い美麗なポップスが作り上げられる。基本的な音楽性にオルタネイトな影響を与えているのが、彼女がよく聴くという”Mild High Club”のようなネオサイケロックバンドからのフィードバックである。これはメインストリームの音楽に、ノスタルジアとディレッタンティズムを添える。歌唱法についても囁くような語りのニュアンスからスキャット、明確なボーカルに至るまで、幅広い形式が繰り広げられる。何より、バロックポップ/チェンバーポップの規則的なビートに乗せられる穏やかな旋律進行は、うっとりさせるものがある。 

 

 

 

アナト・モシュコフスキーの音楽は、ビートルズやセルジュ・ゲンスブールといった60年代、70年代の音楽のフィードバックをありありと感じさせる。「If We Fail」ではボサ・ノヴァのリズムをシンセとドラムでユニゾンで刻みながら心地よいビートを作り上げ、そしてラテン音楽とジャズの融合をポピュラーの文脈と結びつける。それほど音の要素は多くはないものの、核心を捉えたグルーヴがモシュコフスキーの温かい印象を持つボサ風のボーカルと上手く合致している。

 

リズムやセクションの合間に導入されるクラリネット/オーボエの音色がアフロ・ジャズ/ラテン・ジャズ風のしなやかな旋律性を付与し、色彩的な印象を添える。更に、シンセのトロピカルやラヴァーズロック風のアレンジ、そして部分的にアートポップの範疇にあるボーカルのリサンプリングなどを配して、それほど派手ではないものの良質なポップソングを作り上げている。この曲では、ポピュラーの基本的な要素であるスケール(コード)と旋律、そしてリズムという3つの構成要素をバランスよく見定め、心地よく安らげるような音楽を作り上げている。

 

映画/演劇の場面の中で演出的な効果で用いられるようなポピュラー音楽の手法は、続く「Lightnings」に見いだせる。アコースティックギター、バイオリン/ヴィオラのピチカートで穏やかな和音を作り、クラリネット等の管楽器、弦楽器のスタッカート、レガートを対旋律的に交えながら、ピクチャレスクなイメージを持つ美麗な音楽を構築していく。アナト・モシュコフスキーは、それらの背景となるオーケストラの演奏に仄かな哀愁を添えている。また、水の流れのように澱みのない弦楽器のトレモロ/レガートのハーモニクスが、アウトロにおいて美しいシークエンスを作り上げる。簡素なバレエのムーブメントに近い一曲で、中盤から終盤にかけて、息を飲むような美しい瞬間が用意されている。この曲は、イゴール・ストラヴィンスキーのバレエ曲『Pulcinella (プルチネルラ)』のポピュラー・バージョンとも言えるかもしれない。

 

アルバムは冒頭だけ聴くと、一般的なポピュラーアルバムに聴こえるかもしれない。しかし、本当に面白いのは、中盤から終盤にかけての収録曲であり、セルジュ・ゲンスブールのようなアートポップ性とオルトロックが融合する箇所にある。


「Teddy Bears」は、レディオヘッドの『OK Computer』のエレクトロニックを融合させた近未来のオルタナティブロックやトリップ・ホップなどのヒップホップとエレクトロニックの融合をベースにし、モシュコフスキーは自身の淡々としたボーカルを通じて、唯一無二のワンダーランドを作り上げる。特に、クラシック音楽の作曲技法であるゼクエンス進行(同じ音形を別の調に組み替えること)を用い、巧みなソングライティングを披露し、調性を徐々に展開させながら(長調を単調に組み替えることもある)、楽曲の印象をかわるがわる変化させていく。これは特に、幼少期から培われた音感の良さとクラシック音楽の構成からの影響が色濃く滲み出ている。

 

続く「On a Tout Fait」はアコースティックギターの繊細なアルペジオの弾き語りで、聴きやすいバラード曲を提供している。具体的にイスラエルでどういった曲が流行っているのかは不明ではあるものの、フォーク・ソングをベースにしたこの曲では、ファンタジックなイメージを基にして、現代的なフォークソングを組み上げ、コーラスワークを通じて、音楽的な奥行きを表現している。終盤では、アートポップの要素が強まり、そしてフレンチ・ポップの要素と結び付けられる。「Obscure Clarte」では、エレクトロニックピアノの演奏とストリングスをかけあわせ、オルタナティヴの側面を強調している。セルジュ・ゲンスブールの系譜にある一曲である。

 

アルバムのクローズ「Encore」は、鳥の声のサンプリングで始まり、その後、ベス・ギボンズの系譜にあるアートポップ・ソングに直結している。しかし、明確にポスト・ギボンズかといえばそうとも言い難く、依然としてフレンチポップ、イエイエからの影響が色濃いように思える。更にクライマックスでは、シネマティック・ポップの主題のような音楽性が示唆されている。スパニッシュのフラメンコ・ギターとオーケストラ・ストリングスの融合が、フランスの商業音楽はもちろん、スペイン音楽の気風を醸し出し、哀感と共に情熱的な音楽性を演出している。

 




Anat Moshkovskiによるニューアルバム『Anat』は本日、Nana Discより発売。アルバムのストリーミングはこちら

 

 

「Encore」



*記事掲載時にアーティスト名の表記に誤りがございました。訂正とお詫び申し上げます。
Weekly Music Feature: Perila

Perila


実験音楽界に新たな奇才が登場。サンクトペテルブルク生まれでベルリンを拠点に活動するサウンド&ビジュアル・アーティスト、DJ、詩人、パフォーマーのペリラがオスロのスモールタウン・スーパーサウンドからセカンド・アルバムを本日リリースした。21の個別のコンポジションからなるフォーマット別の2枚組アルバムで、内外のリズムを活用することに狙いを定めている。


メディア(媒体)という点では、『Intrinsic Rytmn- イントリンシック・リズム』は基本的にダブル・アルバムである。しかし、70年代のクラシックなコンセプチュアル・アルバムというよりは、ロイヤル・トラックスの『ツイン・インフィニティブス』やR!!!S!!!の『レイク』のような90年代のアウトサイダー・エクスペリメンタル・ダブル・アルバムに近い。長尺のサイケデリックな探求を避け、強力で凝縮された恍惚とした内省のブロックを、5秒のブレイクを挟むことで音のパレットを浄化させながら聴かせる。


その結果、リズミカルなアンビエント、スペクトラルなエレクトロニクス、そして親密なヴォーカルが、意図的な要素と偶発的な要素、環境から生成されたリズムとメロディ、抽象的なメロディと具体的な言語、そして人生の複雑さと精神的な再生の間で、とらえどころのないバランスを保っている。


冒頭から幽玄なシンセワークと、重なり合う声と重なり合う牛の鈴のフィールド・レコーディング(「Sur」)によってシーンが設定され、精神的な意味と身体的な幸福を生み出す音楽が常に押し合いへし合いしている様子をリスナーに観察させる--故ミルフォード・グレイヴスのホリスティックな芸術作品とは似て非なるものだ。


「Nia」や「Ways」のようなトラックでは、テープのヒスノイズ、小音量のうなり音、リズミカルな小声のパチパチというテクスチャーが、遠くのヴォーカルと変調する鐘の音に一定の瞑想的な土台を提供し、音世界を浸透させる。これらは、ASMRを誘発するような音響、前後するメロディー、幻覚的な雰囲気を伴っており、微妙な音の作用が大気の地平へと果てしなく広がっていく。


「Angli」、「Supa Mi」、「Fey」といった曲では、ヴォーカルのミニマリズムを削ぎ落として、エレガントなクリックやカット・パーカッションと組み合わせることで、より親密で内面的なサウンドスケープを作り出している。  具体的には、アルバムの最後の4分の1では、無防備で飾り気のないサウンド・メモのようなレコーディングの中で、内と外の緊張感が再び現れる。そこでは、足音のペースやマイクのノイズのような操作(「Darbounouse Song」)、あるいは日用品の自発的なパーカッションや遠くの歌声が、アルバムのクローズである「Ol Sun」のように、私たちが住んでいながら見過ごしがちな空間や物事の共鳴周波数を探り当てようとする。


結局のところ、この2枚のレコードは互いに対話するように考えられており、内的世界と外的世界の間で音楽的な会話をしながら一緒に演奏することができる。さらに、4つのビニールの側面の区分は、土、魂、空気、地面として、なる段階、物質、人生の質感を表している。


この意味で、『Intrinsic Rhythm』は、外界の生態系が、日常生活の周波数やテンポの中に、メロディーやリズムの絶え間ない、そしてしばしば混沌とした源を提供していることを思い出させてくれる。内面的には、これらは意識や内臓の無形のリズムと組み合わさっている。ペリラは、受動的に知覚される音と、そこから能動的に生み出される音楽のバランスを正確に探っている。


ペリーラ自身の言葉を借りれば、「このアルバムに取り組む過程で、私自身の本質的なリズム、つまり私の中心であり拠り所であるリズムは、ゆっくりとしたものであることがわかった。スローダウンすると、すべての魅惑的な美しさに気づくことができ、音の世界を違った形でとらえることができる。私にとって、この作品を作ることは、自分が本当は何者なのか、そしてこの世界で自分がどうあり得るのかを知り、受け入れるという、まさにスピリチュアルな旅だった」


さらに、レーベルの個人的なメモは適切な洞察と考えに基づいており、謎めいたベルリンのアーティストの実像の一端を明らかにする。


「ペリラは私にとってとても特別な存在で、サウンドクラウドで彼女の最初の2、3曲を聴いたとき、とても特別な人の音楽がここにあるとすぐに理解した。彼女はとても強いヴィジョンを持っていて、私たちレーベルは何も干渉したり手助けしたりする必要はない。彼女のビジョンは完全だ」


「私にとって、このアルバムはアウトサイダー・ダブルと呼ばれるもので、90年代初期の偉大なアウトサイダー・ダブル・アルバムと同じ感触とアプローチを持っている。Royal Truxの『Twin Infinitives』、Dead Cの『Harsh 70s Reality』、R!!!Sの『Lake』など。これらのアルバムは、70年代ロックの誇大妄想の古典的な2枚組アルバムに中指を立て、2枚組アルバムの奇妙なバージョン、新しい定義を作り上げる。公平を期すなら、ミニットメン、ヒュスカー・デュー、ソニック・ユースはすべて、70年代のビッグ/エピックな恐竜と90年代のアウトサイダー・ダブル・アルバムの間に橋を架けたと言わねばならない。とにかく、『Intrinsic Rhythm』も同じような感触を持っている。長さ64分、21曲が4面に渡って収録され、それぞれの面にタイトルとテーマがある」


「彼女のアート、ボディー・ムーヴメント、自然からの影響。このアルバムは、ペリラことアレクサンドラ・ザハレンコの人間としての姿を音で擬人化したもの。私にとって、この音楽こそペリラなのだ。タルコフスキーの『鏡』の想像上のサントラのように。深く、心に染みるほど美しい」

 


『Intrinsic Rhytmn』- Smalltown Supersound (92/100)


 

オーストラリアの実験音楽作家、ローレンス・イングリッシュ(Lawrence English)が最新アルバムの発表とともにコメントとして添えた「音楽構造を建築のように解釈する」という考えは、今日日の実験音楽、あるいはアンビエントのような抽象的な音楽を解釈する上で不可欠な要素となる。アルバム全体を堅牢なビザンチン建築、あるいはモザイク模様を施したイスラム建築のように解釈することが、「フルアルバム」という不可解な形式を解き明かすのに重要になってくる。そもそも、音楽なるリベラルアーツの一貫にある媒体は、哲学や数学よりも往古から存在し、「黄金比」のような原初的な学問の理想形態を表すものであった。それが宗教や民族の儀式や祭礼のための音楽という中世の通過儀礼の段階を経たのち、現代の趣味や趣向の多様化により、「娯楽の一貫」と見なされるようになったのは時代の流れと言えるだろうが、無数の学問の中で音楽が最初に存在し、その後、哲学や数学や建築が出てきたのを考えると、結局、音楽というのがすべての学問の先頭に位置し、最も先鋭的な分野であることは自明なのである。

 

最近、最もヒップなジャンルの一つであるヒップホップは、ようやくアンビエントの尻尾をつかまえて、その背中に追いついたわけだが、アンビエントも負けじと次の段階に進みつつある。これらのデッドヒートが終わることは考えづらい。今、最もトレンドな音楽は間違いなくアンビエントで、これらが当初はダンスミュージック界隈のアーティストやプロデューサーから少しダサいとみなされていた2000年以前の傾向を考えると、時代の変化が顕著であることが窺える。その理由を挙げるとするなら、一つはホーム・レコーディングで高品質の音楽を制作することが可能になったこと。加えて、Ableton、NI、各種のソフトウェアの進化、専門的なレベルで音楽制作が可能になったことだろう。無論、以前はラップトップやPC等でアナログの音響機器の配線やMIDIを介さずに打ち込みの音楽を制作することは困難を極めたが、今やスタジオ・レコーディングのレベルの録音システムを構築することは、より一般的になったと言える。

 

ジェンダー論を比較対象に出すまでもなく、エレクトロニックプロデューサーが90年代から00年代を通して、男性を中心に発展してきたことを考えると、 2010年代後半くらいから、Anna Roxanne、Malone、Haloを中心とする女性プロデューサーが活躍するようになったのは、これもまた時代の流れを象徴付けていると言える。そして、00年代以降には、いるにはいたが、少し影の薄かった黒人のエレクトロニックプロデューサーの活躍が最近になって目立ってきたのも、新しい兆候です。特に、女性的なエレクトロニックプロデューサー/DJは、すべてレフトフィールドに属するとは言えないのだが、一般的に柔軟な考えを持っているため、本来は音楽という形式からかけ離れたような媒体(映画、文学、詩)から、音楽のヒントや種をすんなり見つけてしまう。このあたりは、例えば、ダニエル・ロパティンのようなプロデューサーにも共通しているが、白人男性の音楽として発展してきたダンスミュージックは、おそらく2025年前後で一つの分岐点を迎えるような気がしている。


例えば、1990年代からテクノシーンを牽引してきた主要なプロデューサーの一部はおそらく、このことになんとなく気がついており、制作を続けたり、あるいは中断させたりしながら、新しいシーンの流れを読んでいる最中なのではないかと思われる。そして、2020年代始めには、ドローン(* 現代音楽発祥の形式で、元はスコットランドのパグパイプが発祥。ラモンテヤングなどが有名)という吹奏楽の形式を弦楽器のディケイとダイナミクス(減退と増幅)から音楽全体を再解釈しようという潮流が出てきたことは、すでにこのサイトの購読者であれば、ご承知のことと思われる。


そして、問題は「ドローンの次はなにが出てくるのか?」という点であるが、ロシア出身のプロデューサーの新作を聞けば分かる通り、すでに新しいものが出かかっている。少なくとも、アンビエントは次なるステップに進みつつあり、複数のグループに枝分かれし始めているようだ。殊、このアルバムに関して言うのであれば、ボーカルアート、ビートルズのようなアートポップ、クラシック・ミュージック、アヴァンギャルド・ジャズの融合を発見することが出来る。これは最早、70年代のブラック・ミュージックや、90年代のロックやメタルで盛んであった「クロスオーバーの概念」が極限に至った事実を示し、水が蒸発し揮発する瞬間にもよく似ていて、何らかの臨界点を迎えつつある兆候を、はっきりとした形で暗示しているのである。



例えば、Black Midiとしてお馴染みのジョーディー・グリープさんが新しい音楽を探しているようなのだが、新しい表現というのは、苦心して出てくるわけでもないし、頭を悩ませて出てくるものではないと思われる。新しいものが出てくる瞬間というのは、異質な文化で育った人、一般的な音楽の流れから見て、異端的な背景を持つ人、また、その生活環境にある人などが従来とは異なる概念を表沙汰にするということである。つまり、これは、奇を衒って音楽をやっているということではないのである。例えば、この事例は、第二次世界大戦後の70年代、80年代の東西分裂時代のドイツにあり、トルコからの移民が多い危険地帯の地下から登場した「インダストリアル・ノイズ」という形式が当てはまる。そして、何らかの表現を規制されたり、直接的な政治的迫害を受ける市民から発生した前衛音楽の形式なども、この事例に当てはまる。つまり、ファッション、スポーツ、ないしは一般的な情報誌やファッション誌、もしくは主要メディアで紹介されるような表面的なカルチャーとは異なる領域に属する「文化の裏側」から新しい表現や形式が台頭するのである。例えば、現在、ベルリンを拠点に活動するPerilaは、実際の音楽を聴くと分かるように、前衛音楽や実験音楽に憧れているわけでもなく、ましてや奇をてらっているわけでもなく、スノビズムにかぶれているわけでもない。チャット・ベイカー、坂本龍一、アルヴァ・ノトといった、アーティストがこよなく愛する音楽が、何らかの形でアンダーグラウンドミュージックとして乗り移り、異端的な音楽が生み出されたと見るべきなのだ。これは先にも言ったように、意識して作られたものではなく、「他の人のようにやろうとしたら、異端的な音楽が出来てしまった」という感じではないかと思う。一般的な人々とは異なる文化の背景や生活形態、そして考えが複雑に絡み合って出来たと見るべきだろう。

 

それでは、このアルバムのどこが新しいのだろうか。21曲という大容量なので、ダブルアルバム(実質的にはクアドラプル)として見た上で、主要なトラックを事例にあげて説明していきたい。

 

インドネシアのガムランの打楽器のような神秘的なパーカッションで始まり、70年代の埃を被ったアナログシンセサイザーで発生させたような古典的なアンビエントのテクスチャーがその後に続く。レーベルの説明では、「70年代のプログレッシヴロックのアルバムに中指を立てる」と説明されているが、表向きに聞こえるサウンドは、Anna Roxanneのようにハイファイであるが、実際的に音楽の奥行きとして感じられるのは、ブライアン・イーノの最初期(ロキシー・ミュージックの後)のシンセ音楽のようなローファイな手法である。これは、具体的にはアウトプットの手法が現代的なものであるだけで、実際に展開される音楽は古典的なのである。

 

実際的に、シュトックハウゼンの古典的なトーン・クラスターの手法を用いながら、丹念にサウンドスケープを描いていく。そして、現代的なプロデューサーと同じように、自らのボーカルを一つのシークエンスとして解釈し、それらをアンビエントとして解釈するという手法は続く「3-Sepula Purm」に示されている。ボーカルをLaulel Haloのようにカットアップで重ね、重層的なハーモニーとして組み上げていく。そして、それは新しいゴスペルやクワイアの形として表側に現れる。更にその根本となる音楽に演出的な効果を与えるのが、 オシレーターを使用した中音域の軋むようなノイズである。当初は、神秘的なアンビエントのような印象を持つ楽曲が漸次その印象を変化させていき、いわばアヴァンギャルドとしての要素を発揮するのである。

 

 その後、このアルバムはとらえどころのない抽象的な音楽が続いている。「4-Nia」、「5−Ways」の二曲に関しては、それほど現代のアンビエントと大きな違いはない。しかし、同時にアルヴァ・ノトの精妙なテクスチャーやノイズからの影響がうかがえ、アルバムの序盤とは対象的に、ハイファイなエレクトロニックとしての印象を強める。これらは、Abletonのように、電気信号の配線を図面的に解釈する電子音楽としてアウトプットされたものではないかと推測される。そして空間や建築内にこだまする空気感という概念は、リゲティ・ジョルジュが最初に確立したもので、アンビエントの副題のような意味を持つが、続く「6-Lish」ではこの概念が示されている。例えば、サグラダファミリアのような高い尖塔を頂く教会、ないしはエジプトの王家の谷のような場所で、観光客の会話の合間を通して、風が渡る音や建築の中にある内部構造から何らかの空気の流れのようなものを聞き取ったり、何らかの神秘的な息吹やエーテルのようなものを感じたりすることはないだろうか。この曲では、そういった普段の意識では聞き取りづらい神秘的な瞬間を、電子音楽という側面から表現しようとしている。これらは「体験としての音楽」という、近年稀に見るような新しい概念が付与されていることが分かる。


例えば、「トーンの変調」という概念を通じて、一つの実験音楽の変奏形式を組み上げるアーティストに、スウェーデンのEllen Arkbroがいる。Perilaの新作アルバムの中盤に収録曲には、例えば、ギターやベース、ドラム等の通常の演奏方法では実現しえないものが展開され、それは音の発生音の後に生ずるトーンという側面を抽出し、それらを減退させることなく、持続音として継続させる。これは、音の発生学の異質な側面を捉えている。普通であれば、音は発生した後、ピークを迎え、徐々に減退の瞬間を迎えるが、減退する直前の音を抽出し、それらを持続音として継続させる手法が取り入れられている。一般的にはドローン音楽の手法の一貫に属し、機械的な音楽に聴こえるかもしれないが、反面、これが自然の音響学から乖離しているとも考えづらい。例えば、建築内にこだまする空気の音の流れ等は、大気や空気、素粒子、原子という元素がこの世に偏在するかぎり、あるいは建築物が物理的に取り壊されないかぎり、それらの音響を永久に持続させるからである。 例えば、「8-Nim Aliev」ではトーン・クラスターにより、この手法が確立され、続く「9-Mola」は、ラスコーの洞窟を描写音楽として刻印したような不可思議なアンビエント/ドローンの手法を確立させている。そして、これらのアルバムの第一部は、実験音楽として秀逸であるにとどまらず、音楽の永遠の瞬間を捉えたかのようでもある。さらに、後者の楽曲では、ピアノのスニペットが登場し、音楽の神秘的な雰囲気を引き立てる。第一部は「Lym Riel」、「Air Two Air」にて、ひとまず終了する。前者は、ヒス・ノイズを用いた古典的なアンビエントで、Loscil、Chihei Hatakeyamaの系譜に属する作風でもある。後者は、エレクトロニック寄りの楽曲で、中音域のグリッチノイズを強調させ、それらのノイズの位相(PAN)を転移させながら、ビート、リズムを組み上げ、緻密なグルーヴを作り上げていく。

 

アルバムの一枚目では、アンビエントを中心としたエレクトロニックが展開される。続く二枚目では、ボーカルアートを中心としたエレクトロニックが繰り広げられる。 そして、第二部の方はボーカルアートを駆使したストリーテリングの音楽としての意義を持つ。クワイアやメディエーションの領域に属するものから、ビートルズがアートポップ時代に遊びの一貫として試したもの、メレディス・モンクの系譜にある現代音楽の領域に属するものまで幅広い。例えば、「Angli」では、メレディス・モンクの『Atlas』の手法を用い、洞窟のような音響効果を用い、奥行きのあるアンビエントを形作り、その中でペリラ自身がオペラ風のボーカルを披露する。しかし、明確なボーカルというわけでなく、ペリラのボーカルはモンクと同じように、器楽的なテクスチャーの一貫として解釈され、フルートや笛のようにその空間内に響き渡るのである。さらに、続く「Supa Mi」を聴くと分かる通り、ペリラの声は明確な言語の意味を持つことはきわめて少ない。 それはジャズのスキャットと同じく、言葉以上の伝達手段として確立され、例えば、ウィストリング(口笛)に近いような意味を持つ。それはオーストラリアのモリー・ルイスの口笛と同じように、スキャットやハミングそのものが言葉や会話の代わりを果たすのである。

 

果たして、言語学の範疇には属さない、これらの歌から何らかの言語性を読み取ることが出来るのだろうか。私自身はそこまでは全然出来なかったが、少なくとも、音楽の構造としては、続けて聴いていると、物語性を持ち始めて、また、その物語の端緒が音楽に合わせて広がっていったり縮んだり、物語が一人でに歩き始めるような印象を持つに違いない。この後のいくつかの収録曲「Sneando」、「Fey」、「Lip」では、メレディス・モンクのようなパフォーミング・アーツの領域に属する「演劇としてのボーカル」、そして、アンビエント・プロデューサー、Grouper(リズ・ハリス)、Ekin Fillのようなアンビエント・フォークとドリーム・ポップを結びつけた次世代のアヴァンギャルド・ミュージックという形を以って展開されていくことになる。尚且つ、それらの抽象音楽としての形式は、おとぎ話や童謡的な意味合いを帯び、もしくは古典的なギリシャ神話の音楽による復刻といった、アーティスティックな印象を携えながら繰り広げられていく。これらは、ペリラの類稀なる美的センスと、ゴシック的な概念の融合の瞬間を見出せる。無論、そういったアンダーグランドミュージックの複数の形式が組み込まれた後、野心的な試みが行われることもある。ペリラは、イタコや霊媒者のようになり、「Message」なるものを地上に降ろそうとする。これは非常に斬新で奇妙な試みである。

 

 

アルバムの全般では、洞窟や教会のような広い奥行きのあるアンビエンスを想定した録音が際立つ。一方、本作の最終盤はデモトラックのようなクローズの指向マイクを用い、近い空間の録音の音響が強調されている。

 

この後の「Darbounouse Song」、「Note On You」、「She Wonder」、終曲となる「Ol Sun」 は、基本的にはアカペラのボーカルトラックで構成される。「Darbounouse Song」は唯一、足音などのサンプリングを用いたボーカルトラックで、物語的な前衛音楽の意義を保持しているが、以降の三曲は、かなり異端的である。とりとめのない思いを日記のような形で録音したボイスメモのようでもあり、ヒップホップのミックステープのようでもある。

 

これらは、パティ・スミスやブリジット・フォンテーヌのような、ポピュラーの前衛音楽の側面を改めて見つめ直すかのようでもある。少しだけ散漫になりかけた作風だが、円環構造を用いて、全体的な構成を上手くまとめあげている。一曲目と呼応するクローズ「Ol Sun」では、鐘とパーカッションを用いた前衛音楽に再び回帰している。しかし、始まりと終わりでは、音楽そのものの印象がまったく異なることに気がつく。ガムランのように始まったこのアルバムは、クローズでは、チベットのマントラのような民族音楽に縁取られている。それらの雑多な音楽性、あるいは文化性は、このアルバムの最後になって花開き、ロシア正教のミサ等で聴くことが出来る鐘の音のサンプリングで終了する。音楽に明確な意味を求めても仕方がないかもしれない。しかし、このアルバムを聴くかぎり、新しい何かが台頭したことをひしひしと感じる。

 

 


サウスカロライナ州チャールストンのアーティスト、 Contour (Khari Lucas)は、ラジオ、映画、ジャーナリズムなど、様々な分野で活躍するソングライター/コンポーザー/プロデューサー。


彼の現在の音楽活動は、ジャズ、ソウル、サイケ・ロックの中間に位置するが、彼は自分自身をあらゆる音楽分野の学生だと考えており、芸術家人生の中で可能な限り多くの音とテーマの領域をカバーする。彼の作品は、「自己探求、自己決定、愛とその反復、孤独、ブラック・カルチャー」といったテーマを探求している。


コンツアー(カリ・ルーカス)の画期的な新譜『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、過去と現在、夜と昼、否定と穏やかな受容の旅の記録であり、落ち着きのない作品である。


カリ・ルーカスと共同エグゼクティブ・プロデューサーのオマリ・ジャズは、チャールストン、ポートランド、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ジョージア、ロサンゼルス、ヒューストンの様々なスタジオで、Mndsgnやサラミ・ローズ・ジョー・ルイスら才能ある楽器奏者やプロデューサーたちとセッションを重ねながら、アルバムを制作した。


ジャンル的には、『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、ギター・ドリブン・ミュージック、トロピカリア、ブルース、そしてヒップホップのありのままの正直さを融合させ、夜への長い一日の旅を鮮やかに描き出すことで、すでにコンターの唯一無二の声に層と複雑さを加えている。


メキシカン・サマーでのデビュー作となる本作では、2022年にリリースされた『オンワーズ!』のノワール的なサンプルやリリカルな歴史性を踏襲し、より歌謡曲的で斜に構えたパーソナルな作品に仕上げている。ルーカスにとって、これはギターを手に取ることを意味し、この動きはすぐに彼を南部のソングライターの長い系譜と形而上学的な会話に置くことになる。カリ・ルーカスは言う。「それはすぐに、旅する南部のブルースマンについて考えるきっかけになった」 彼にとってギターは旅の唯一の友であり、楽器は自分の物語を記録し、世代を超えた物語と伝統を継承する道具なのだ。このアルバムの語り手は放蕩息子であり、悪党の奸計の中をさまようことになる。



『Take Off From Mercy』/ Mexican  Summer   (94/100) 

 

  Yasmin Williams(ヤスミン・ウィリアムズ)をはじめ、最近、秀逸な黒人ギタリストが台頭していることは感の鋭いリスナーであればご承知だろう。Khari Lucas(カリ・ルーカス)もまたジャズのスケールを用い、ソウル、ヒップホップ、サイケロック、そして、エレクトロニックといった複数のフィールドをくまなく跋渉する。どこまで行ったのだろうか、それは実際のアルバムを聞いてみて確かめていただきたい。

 

シンガーソングライター、ルーカスにとっては、ラップもフォークもブルースも自分の好きな音楽でしかなく、ラベリングや限定性、一つのジャンルという括りにはおさまりきることはない。おそらく、彼にとっては、ブルース、R&B、エレクトロニック、テクノ、アンビエント、スポークンワード、サイケロック、それらがすべて「音楽表現の一貫」なのだろう。そして、カーリ・ルーカスは、彼自身の声という表現ーーボーカルからニュアンス、ラップーー様々な形式を通して、時には、フランク・オーシャンのような次世代のR&Bのスタイルから、ボン・アイヴァー、そしてジム・オルークのガスター・デル・ソルのようなアヴァン・フォーク、ケンドリック・ラマーのブラックミュージックの新しいスタイルに至るまで、漏れなく音楽的な表現の中に組みこもうと試みる。まだ、コンツアーにとって、音楽とはきわめて不明瞭な形態であることが、このアルバムを聴くと、よく分かるのではないだろうか。彼は少なくとも、「慈悲からの離陸」を通して、不確かな抽象表現の領域に踏み入れている。それはまるでルーカスの周囲を取り巻く、「不明瞭な世界に対する疑問を静かに投げかける」かのようである。


「静か」というのは、ボーカルに柔らかい印象があり、ルタロ・ジョーンズのようにささやきに近いものだからである。このアルバムの音楽は、新しいR&Bであり、また、未知の領域のフォークミュージックである。部分的にはブレイクビーツを散りばめたり、Yves Tumorの初期のような前衛的な形式が取り入れられることもあるが、基本的に彼の音楽性はもちろん、ラップやボーカル自体はほとんど昂じることはない。そして彼の音楽は派手さや脚色はなく、演出的な表現とは程遠く、質実剛健なのである。アコースティックギターを片手にし、吟遊詩人やジプシーのように歌をうたい、誰に投げかけるともしれない言葉を放つ。しかし、彼の音楽の歌詞は、世の一般的なアーティストのように具象的になることはほとんどない。それはおそらく、ルーカスさんが、言葉というのに、始めから「限界」を感じているからなのかもしれない。

 

言語はすべてを表しているように思えるが、その実、すべてを表したことはこれまでに一度もない。部分的な氷山の上に突き出た一角を見、多くの人は「言葉」というが、それは言葉の表層の部分を見ているに過ぎない。言葉の背後には発せられなかった言葉があり、行間やサブテクスト、意図的に省略された言葉も存在する。文章を読むときや会話を聞く時、書かれている言葉、喋られた言葉が全てと考えるのは愚の骨頂だろう。また、話される言葉がその人の言いたいことをすべて表していると考えるのも横暴だ。だから、はっきりとした脚色的な言葉には注意を払わないといけないし、だからこそ抽象領域のための音楽や絵という形式が存在するわけなのだ。

 

カリ・ルーカスの音楽は、上記のことをかなり分かりやすい形で体現している。コンツアーは、他のブラック・ミュージックのアーティストのように、音楽自体をアイデンティティの探求と看過しているのは事実かもしれないが、少なくとも、それにベッタリと寄りかかったりしない。彼自身の人生の泉から汲み出された複数の感情の層を取り巻くように、愛、孤独、寂しさ、悲しみといった感覚の出発から、遠心力をつけ、次の表現にたどり着き、最終的に誰もいない領域へ向かう。ジム・オルークのようにアヴァンな領域にあるジャズのスケールを吸収したギターの演奏は、空間に放たれて、言葉という魔法に触れるや否や、別の物質へと変化する。UKのスラウソン・マローンのように、ヒップホップを経過したエレクトロニックの急峰となる場合もある。


コンツアーの音楽は、「限定性の中で展開される非限定的な抽象音楽」を意味する。これは、「音楽が一つの枠組みの中にしか存在しえない」と思う人にとっては見当もつかないかもしれない。ヒップホップはヒップホップ、フォークはフォーク、ジャズはジャズ、音楽はそんな単純なものではないことは常識的である。


そして、音楽表現が本当の輝きを放つのは、「限定的な領域に収まりきらない箇所がある時」であり、最初の起点となるジャンルや表現から最も遠ざかった瞬間である。ところが、反面、全てが単一の領域から離れた場所に存在する時、全般的に鮮烈な印象は薄れる。いわば押さえつけられた表現が一挙に吹き出るように沸点を迎えたとき、音楽はその真価を発揮する。言い換えれば、一般的な表現の中に、ひとつか、ふたつ、異質な特異点が用意されているときである。

 

アルバムは15曲と相当な分量があるものの、他方、それほど時間の長さを感じさせることがない。トラック自体が端的であり、さっぱりしているのもあるが、音楽的な流れの緩やかさが切迫したものにならない。それは、フォーク、ブルースというコンツアーの音楽的な核心があるのに加え、ボサノヴァのサブジャンルであるトロピカリアというブラック・ミュージックのカルチャーを基にした音楽的な気風が、束の間の安らぎ、癒やしを作品全体に添えるからである。


アルバムの冒頭を飾る「If He Changed My Name」は、ジム・オルークが最初期に確立したアヴァンフォークを中心に展開され、不安定なスケール進行の曲線が描かれている。しかし、それ対するコンツアーのボーカルは、ボサノヴァの範疇にあり、ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンのように、粋なニュアンスで縁取られている。「粋」というのは、息があるから粋というのであり、生命体としての息吹が存在しえないものを粋ということは難しい。その点では、人生の息吹を吸収した音楽を、ルーカスはかなりソフトにアウトプットする。アコースティックギターの演奏はヤスミン・ウィリアムズのように巧みで、アルペジオを中心に組み立てられ、ジャズのスケールを基底にし、対旋律となる高音部は無調が組み込まれている。協和音と不協和音を複合させた多角的な旋法の使用が色彩的な音楽の印象をもたらす。 そしてコンツアーのボーカルは、ラテンの雰囲気に縁取られ、どことなく粋に歌をうたいこなすのである。

 

 一曲目はラテンの古典的な音楽で始まり、二曲目「Now We're Friends」はカリブの古典的なダブのベースラインをモチーフにして、同じようにトロビカリアの領域にある寛いだ歌が載せられる。これはブラックミュージックの硬化したイメージに柔らかい音楽のイメージを付与している。しかし、彼は概して懐古主義に陥ることなく、モダンなシカゴドリルやグリッチの要素をまぶし、現代的なグルーヴを作り出す。そしてボーカルは、ニュアンスとラップの間を揺れ動く。ラップをするというだけではなく、こまかなニュアンスで音程の変化や音程のうねりを作る。その後、サンプリングが導入され、女性ボーカル、アヴァンギャルドなノイズ、多角的なドラムビートというように、無尽蔵の音楽が堰を切ったかのように一挙に吹き出る。これらは単なる引用的なサンプリングにとどまらず、実際的な演奏を基に構成される「リサンプリング」も含まれている。これらのハチャメチャなサウンドは、音楽の未知の可能性を感じさせる。



さて、Lutalo(ルタロ・ジョーンズ)のように、フォークミュージックとヒップホップの融合によって始まるこのアルバムであるが、以降は、エレクトロニックやダンスミュージックの色合いが強まる。続く「Entry 10-4」は、イギリスのカリビアンのコミュニティから発生したラバーズロック、そして、アメリカでも2010年代に人気を博したダブステップ等を吸収し、それらをボサノヴァの範疇にある南米音楽のボーカルで包み込む。スネア、バスを中心とするディストーションを掛けたファジーなドラムテイクの作り込みも完璧であるが、何よりこの曲の気風を象徴付けているのは、トロピカリアの範疇にあるメロディアスなルーカスのボーカルと、そして全体的にユニゾンとしての旋律の補強の役割を担うシンセサイザーの演奏である。そして話が少しややこしくなるが、ギターはアンビエントのような抽象的な層を背景に形作り、この曲の全体的なイメージを決定付ける。さらに、音楽的な表現は曲の中で、さらに広がりを増していき、コーラスが入ると、Sampha(サンファ)のような英国のネオソウルに近づく場合もある。

 

その後、音楽性はラテンからジャズに接近する。「Waterword」、「re(turn)」はジャズとソウル、ボサノヴァとの融合を図る。特に、前者にはベースラインに聴きどころが用意されており、ボーカルとの見事なカウンターポイントを形成している。そしてトラック全体、ドラムのハイハットに非常に細かなディレイ処理を掛けながら、ビートを散らし、分散させながら、絶妙なトリップ的な感覚を生み出し、サイケデリックなテイストを添える。しかし、音楽全体は気品に満ちあふれている。ボーカルはニュアンスに近く、音程をあえてぼかしながら、ビンテージソウルのような温かな感覚を生み出す。トラックの制作についても細部まで配慮されている。後者の曲では、ドラムテイク(スネア)にフィルターを掛けたり、タムにダビングのディレイを掛けたりしながら、全体的なリズムを抽象化している。また、ドラムの演奏にシャッフルの要素を取り入れたり、エレクトリックピアノの演奏を折りまぜ、音楽の流れのようなものを巧みに表現している。その上で、ボーカルは悠々自適に広やかな感覚をもって歌われる。これらの二曲は、本作の音楽が全般的には感情の流れの延長線上にあることを伺わせる。

 

アルバムの中盤に収録されている「Mercy」は本当に素晴らしく、白眉の出来と言えるだろう。ヒップホップに依拠した曲であるが、エレクトロニックとして聴いてもきわめて刺激的である。この曲は例えばシカゴドリルのような2010年代のヒップホップを吸い込んでいるような印象が覚えたが、コンツアーの手にかかると、サイケ・ヒップホップの範疇にある素晴らしいトラックに昇華される。ここでは、南部のトラップの要素に中西部のラップのスタイルを添えて、独特な雰囲気を作り出す。これは「都会的な雰囲気を持つ南部」とも言うべき意外な側面である。そして複数のテイクを交え、ソウルやブルースに近いボーカルを披露している。この曲は、キラー・マイクが最新アルバムで表現したゴスペルの系譜とは異なる「ポスト・ゴスペル」、「ポスト・ブルース」とも称するべき南部的な表現性を体験出来る。つまり、本作がきわめて奥深いブラック・ミュージックの流れに与することを暗示するのである。

 

意外なスポークンワードで始まる「Ark of Bones」は、アルバムの冒頭部のように緩やかなトロピカリアとして流れていく。しかし、ピアノの演奏がこの曲に部分的にスタイリッシュな印象を及ぼしている。これは、フォーク、ジャズ、ネオソウルという領域で展開される新しい音楽の一つなのかもしれない。少なくとも、オルークのように巧みなギタープレイと霊妙なボーカル、コーラス、これらが渾然一体となり、得難いような音楽体験をリスナーに授けてくれるのは事実だろう。続いて、「Guitar Bains」も見事な一曲である。同じくボサやジャズのスケールと無調の要素を用いながら新しいフォークミュージックの形を確立している。しかし、聴いて美しい民謡の形式にとどまることなく、ダンス・ミュージックやEDMをセンスよく吸収し、フィルターを掛けたドラムが、独特なグルーヴをもたらす。ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーステップを経た現代的なリズムの新鮮な息吹を、この曲に捉えることが出来るはずだ。


一般的なアーティストは、この後、二曲か三曲のメインディッシュの付け合せを用意し、終えるところ。そして、さも上客をもてなしたような、満足げな表情を浮かべるものである(実際そうなるだろうとばかり思っていた)しかし、驚くべきことに、コンツアーの音楽の本当の迫力が現れるのは、アルバムの終盤部である。実際に10曲目以降の音楽は、神がかりの領域に属するものもある。それは、JPEGMAFIA、ELUCIDのような前衛性とは対極にある静謐な音楽性によって繰り広げられる。コンツアーは、アルバムの前半部を通じて、独自の音楽形態を確立した上で、その後、より奥深い領域へと踏み込み、鮮烈な芸術性を発揮する。


 「The Earth Spins」、「Thersa」は、ラップそのもののクロスオーバー化を徹底的に洗練させ、ブラックミュージックの次世代への橋渡しとなるような楽曲である。ヒップホップがソウル、ファンク、エレクトロニックとの融合化を通過し、ワールドミュージックやジャズに近づき、そして、ヒーリングミュージックやアンビエント、メディエーションを通過し、いよいよまた次のステップに突入しつつあることを伺わせる。フランク・オーシャンの「Be Yourself」の系譜にある新しいR&B、ヒップホップは再び次のステップに入ったのだ。少なくとも、前者の曲では、センチメンタルで青春の雰囲気を込めた切ない次世代のヒップホップ、そして、後者の曲では、ローファイホップを吸収し、それらをジャズのメチエで表現するという従来にはなかった手法を確立している。特に、ジャズピアノの断片的なカットアップは、ケンドリック・ラマーのポスト的な音楽でもある。カーリ・ルーカスの場合は、それらの失われたコーラスグループのドゥワップの要素を、Warp Recordsの系譜にあるテクノやハウスと結びつけるのである。


特に、最近のヒップホップは、90、00年代のロンドン、マンチェスターのダンスミュージックを聴かないことには成立しえない。詳しくは、Warp、Ninja Tune,、XLといった同地のレーベル・カタログを参照していただきたい。そして、実際的に、現在のヒップホップは、イギリスのアーティストがアメリカの音楽を聴き、それとは対象的に、アメリカのアーティストがイギリスの音楽を聴くというグルーバル化により、洗練されていく時期に差し掛かったことは明らかで、地域性を越え、ブラックミュージックの一つの系譜として繋がっている部分がある。

 

もはや、ひとつの地域にいることは、必ずしもその土地の風土に縛り付けられることを意味しない。コンツアーの音楽は、何よりも、地域性を越えた国際性を表し、言ってみれば、ラップがバックストリートの表現形態を越え、概念的な音楽に変化しつつあることを証立てる。このことを象徴するかのように、彼の音楽は、物質的な表現性を離れ、単一の考えを乗り越え、離れた人やモノをネットワークで結びつける「偉大な力」を持ち始めるのである。そしてアルバムの最初では、一つの物質であったものが分離し、離れていたものが再び一つに還っていくような不思議なプロセスが示される。それは生命の根源のように神秘的であり、アートの本義を象徴付けるものである。

 

アルバムの終盤は、カニエ・ウェストの最初期のようなラフなヒップホップへと接近し、サイケソウルとエレクトロニック、そして部分的にオーケストラの要素を追加した「Gin Rummy」、ローファイからドリルへと移行する「Reflexion」、アヴァンフォークへと回帰する「Seasonal」というように、天才的な音楽の手法が披露され、90年代のNinja Tuneの録音作品のように、荒削りな質感が強調される。これらは、ヒップホップがカセットテープのリリースによって支えられてきたことへの敬意代わりでもある。きわめつけは、クローズ「For Ocean」において、ジャズ、ローファイ、ボサノヴァのクロスオーバーを図っている。メロウで甘美的なこの曲は、今作の最後を飾るのに相応しい。例えば、このレコードを聴いたブロンクスで活動していたオランダ系移民のDJの人々は、どのような感慨を覚えるのだろうか。たぶん、「ヒップホップはずいぶん遠い所まで来てしまったものだ」と、そんなふうに感じるに違いない。





【Weekly Music Feature】  Felicia Atkinson

Felicia Atkinson


実験音楽家、サウンド&ビジュアル・アーティストのフェリシア・アトキンソン(1981年生まれ)は、ノルマンディー(フランス)の野生の海岸に住んでいる。2000年代初頭から音楽活動を開始。バルトロメ・サンソンと共同主宰するレーベル、シェルター・プレスから多数のレコードと小説をリリースしている。


フェリシア・アトキンソンにとって、人間の声は、風景、イメージ、本、記憶、アイデアなど、従来の意味での言葉を発しない多くのものと並び、その中にある生態系に息づいています。フランスの電子音響作曲家でありビジュアル・アーティストである彼女は、フィールド・レコーディング、MIDIインストゥルメンテーション、フランス語と英語によるエッセイ的な言葉の断片をコラージュし、彼女自身の声と対話しながら、これらの他の可能な声を活かすような独創性の高い音楽を制作しています。


彼女自身の声は、常に空間を作るために移動し、隅からささやくように、あるいは全然別の登場人物の口調になりきることもある。


アトキンソンは、想像的で創造的な人生を処理する方法として作曲を用い、ヴィジュアル・アーティスト、映画制作者、小説家の作品と頻繁に関わる。彼女の重層的なコンポジションは、時間と場所を交互に引き伸ばしたり折りたたむストーリーを語る。彼女は語り手ではあるが主人公ではない。控えめな登場人物として作品の中に現れる。


フェリシア・アトキンソンは、ジェフレ・カントゥ=レデスマ、クリス・ワトソン、クリスティーナ・ヴァンツォー、スティーブン・オマリーなどのミュージシャンや、エクレクト(ジュネーブ)、ネオン(オスロ)などのアンサンブルと共同制作している。INA GRM/Maison de la Radio(パリ)、Issue Project Room(ニューヨーク)、バービカン・センター(ロンドン)、Le Guess Who(ユトレヒト)、Atonal(ベルリン)、Henie Onstad(オスロ)、Unsound(クラクフ)、Skanu Mesz(リガ)などの会場やフェスティバルで演奏して来ました。彼女は、映画製作者(ベン・リバース、シーヴァス・デ・ヴィンク)やファッション・ハウス(プラダ、バーバリー)から作品の依頼を受けている。RIBOCA Biennale(リガ)、Overgaden(コペンハーゲン)、BOZAR(ブリュッセル)、Espace Paul Ricard(パリ)、MUCA ROMA(メキシコシティ)などの美術館、ギャラリー、ビエンナーレに出展している。


地球での生活で普遍的な体験のひとつは、首を傾げながら宇宙を見つめること。自分の内的生活の広大さと宇宙の広大さが出会い、瞬間、それらの視点は驚きと好奇心の中で融合する。フランスのアーティストで音楽家フェリシア・アトキンソンの最新アルバム『Space as an instrument』は、リスナーを、心が開放的で環境に対し受容的であるとき、そのような変容的な出会いの中で生まれる幻想的な風景へと誘う。夜空の広大さに吸い込まれるように、この音楽はイマジネーションを膨らませ、計り知れない神秘の中に心地よく身を置く手助けをしてくれる。


エレクトロニクスの断片や、発音された言葉の子音等、音楽の端々にある音と複雑に絡み合いながら、抑制された反復的なメロディーによって語られる。これらはアトキンソンの携帯電話で録音されたものであるといい、鍵盤の横や背後に置かれ、部屋の音が滲んで、不可思議な場所と時間を感じさせる。彼女はこれらのセッションを、「自分とピアノが交わり、渦巻くようなフレーズや茫漠とした不協和音を刻一刻と共創していく会議」と表現している。このダイナミズムを複雑にしているのが、ダイオードとLEDディスプレイという超現実的な空間に存在するデジタルピアノの存在である。デジタル・ピアノは、3次元のピアノのアバターとして機能する。


それでも、人、水、風といった人間の世界にある主要な元素は、楽器としてスペース全体で聴くことが可能です。多くの場合、これらの録音はエレクトロニクスの背景と一体化し、あるいは物理的な形態が不明瞭な動きの音に還元される。"Sorry "では力強い突風にマイクが緊張し、"Pensées Magiques "では見えない地形を横切るリズミカルな足音。これらのフィールド・レコーディングは、私たちを共感覚的体験の瀬戸際まで誘い、想像力の地形を垣間見せてくれる。しかし、アトキンソンの音楽は、このシーンに対する特異な視点や明確な結論に抵抗する。


「音楽、それは何も説明しない 」と彼女は言う。「しかし、それは私がそれを知覚する方法を、どうにかして翻訳しようとする」


アトキンソンはもともと多趣味で、日々のさまざまな芸術的実践に没頭し、互いに栄養を与え合っている。自宅の庭では、種を超えた関係構築のスローワークを行い、内省とさらなる創造に理想的な空間を培っている。アルバムのヴォーカルとエレクトロニック・エレメントの多くはそこでレコーディングされたという。


「日常的な意味づけの道具を謎めいたものにする能力がある」と彼女が高く評価する詩の形態は、音楽にも折り込まれている。彼女は時間の許す限り、絵を描いているという。アトキンソンが絵画に見出す個人的な限界のひとつ「遠近法の表現」は、彼女の音楽を定義する特徴になっている。聴き手の視点は滑りやすく定まらず、音は巨大にも極小にも、遠くにも近くにも見える場合がある。


この現象は、1時間半の演奏から削ぎ落とされた13分の作品「Thinking Iceberg」の中心的なもので、アルバムのレコーディングでは幽霊のような存在でしかない。アトキンソンは、オリヴィエ・リモーの著書『Thinking Like An Iceberg(氷山のように考える)』を受けて、この曲を書いたという。


この書籍では、哲学者がこの巨大で絶滅の危機に瀕した物体に主体性を与え、彼らが人間との千年にわたる関係をどのように認識するかを想像する。ストイックなシンセサイザーの音色が鳴り響く中、水はフレームから飛び出して、澄み切った存在感を放つ。作品が盛り上がると、アトキンソンのささやきが、リスナーの左耳の傍らに聞こえてくる。私たちは、巨大さと繊細さが、時間と人間性の犠牲の上にいかに共存しうるかについて、かすかな気づきを得るのである。


アトキンソン自身は、彼女の音楽は「理解できるかできないかの瀬戸際に位置する」と語っています。しかし、漠然とした空間には謙虚さと開放感があり、巨大な凍った水の塊の意識を理解するのに十分な共感があるのかもしれない。聴き手の視点がさまざまな方向に向けられることで、それもまた思いやりを育むための手段となり得るのではないだろうか? 彼女の音楽に静かに耳を傾けるとき、私たちは、崇高な体験……、無限の広がりと近さの根本的な並置の中にだけ意味があるのではなく、同じ旅をした無数の個人の連続性の中にも意味があるという大いなる知恵に出会うことになる。


以前、アトキンソンは、The Quietusの「目をつむり、見て」と題された過去のインタビューにおいて、アンリ・ルソー、高田みどり(注:  日本の実験音楽家。高野山の仏僧とのライブセッションをレコーディングに残している)からの影響、日本の切り花や生花からの影響を参照している。それはアトキンソンの音楽制作の道しるべとなり、空間の中でどのように音楽が聞こえるのか、音の各々のマテリアルがどこに配置されるべきか、という考えに反映されている。


これらはすべて、印象派/抽象派としての美しい音楽をアトキンソンが作曲するための足掛かりとなるイデアである。そしてまた、「そこにあるべきものが自然な形で存在する」、あるいは、「過度な脚色や華美さを平すように削ぎ落としていく」という日本の伝統的な建築形式や芸術様式の美学の反映も内在する。これは、「侘び寂び」と呼ばれる日本の美学の原点でもあるのです。



『Space As An Instrument』  Shelter Press   (90/100)

 

フランスの実験音楽家、フェリシア・アトキンソンは、ニューヨークとパリを往復することが多いらしく、定期的に移動するのが好きだというように話していた。28年ほどパリで過ごし、以後ブリュッセル、そしてレンヌに滞在している。「わたしの家の窓からは、素晴らしい庭が見え、何百羽もの鳥が住んでいた。しかし、プライベートプールを建てるためにすべての木がなぎ倒され、私の心は傷ついた」と彼女は語っている。「レンヌの建築は70年代までは面白かったが、以降は開発業者のための大虐殺。現在、不動産の投機のために美しい家が次々と打ち壊されている」 さて、時代を追うごとに外側の景色が変わっていく中で、変わらないものは本当にあるのだろうか。

 

新作アルバム『Space As A Instrument』は、外の景色が移ろっていく中で、変わらないものとはなにかを探求している。それは内側と外側の世界の合致する瞬間であり、内側の世界が静寂に包まれる時、初めて外の世界が同じように静かに見えることがある。録音という行為は、記録の代用でもある。瞬間に捉えられる音、言葉、外側の世界のフィールド録音、このアルバムの場合は、鳥の声、水の音等を中心に構成され、それらが電子ピアノとフェリシア・アトキンソンの声、アコースティック・ギター、マリンバ、あるいは、彼女自身の詩の朗読によって組み上げられる。37分ほどの記録.....、もしくは永遠の時間の中の瞬間的な歩み......、その不明確な空間に響きわたる、ないしは、こだまする電子音楽のテクスチャーは、基本的にはブライアン・イーノの系譜にあるアンビエントの技法や実験性の高いマテリアルを中心に構成されている。

 

しかし、音の運びが組み合わされると、どのジャンルにも属さないノンジャンルの音楽が出来上がる。抽象的な音の運び方は、ジョルジュ・デ・キリコの不可思議なシュールレアリズムの絵画の世界の中に飛び込むかのようだ。このアルバムにはそれほど多くの人も登場しないし、そして躍動的な生命の息吹を感じさせることも稀有である。しかし、同時にこのアルバムには、生命的なエネルギーの断片が刻まれている。そして実験音楽として、湯浅譲二や武満徹の実験工房時代の音楽を彷彿とさせる内容も登場する。しかし、その音楽は、アストリッド・ソーンの最新アルバムのように、表向きには不気味に聴こえる場合もあるが、実際的に建築やファッションの美的センスと図りがたい癒やしが共存する稀有な作品と呼べる。

 

アルバムの冒頭を飾る「1- The Healing」では、大自然の脈動(宇宙の本質的な活動でもある)を表すかのような木の音の軋みを録音したフィールドレコーディングにピアノの演奏が続く。ヒーリングミュージックを思わせるタイトルだが、幽玄なアンビエントピアノ風の悲痛なサウンドが続いている。その中に、フェリシア・アトキンソン自身のスポークンワード、詩の朗読が加わる。それは内的な痛みを感じさせ、背景となるアンビエンスに的確に溶け込んでいる。朗読は非常に淡々としているが、それは上記のような自然破壊に対する悲しみと嘆きが内在する。まるでその声は消えたもの、消えぬものの境界に揺れ動くかのよう。

 

「2- This Was Her Reply」は、マリンバの演奏で始まる。その後、アトキンソンの詩の朗読が続く。そして、「アルバムの録音」という行為の目論見が、発生した音を収録するのではなく、「一空間にある元素の実存を表す」というものである。どうやら、アルバムを聴くと、制作者は、原子や元素のような微細な要素から組み合わされる物質の総体が音楽であると考えているらしい。

 

ここでは、音楽という概念を構成する微細な元素の集積のことを「Ambience- アンビエンス」と呼ぶ。アトキンソンの制作する音楽の基底には、有機的な生き物、無機的な楽器が並置される。しかし、その両方に両極端の性質が存在し、それらの生命的なエネルギーや元素、そしてエーテルのようなプラトンが提唱したギリシア的な概念に培われる原初的な構成要素を収録する。


これが単なる音の発生にとどまらず、「有機体としての一つの空間」を生み出し、それらがテキサスの礼拝堂であるロスコ・チャペルのような不可思議な空間性を作り上げていく。特に、「空間の移動」という彼女の一つの人生の副次的な主題のような概念も偏在している。それは、アンビエンスの変化という側面で発生し、広大な空間から狭い場所へと瞬時に移行する。また、それらの空間的な移動を助長するのが電子音楽のテクスチャー。この曲の場合は、カールハインツ・シュトゥックハウゼンの「トーン・クラスター」の技法によって行われる。

 

このアルバムは、日常的な生活の周囲の音楽の他にも、山岳地帯にこだまするアンビエンスを描写したような曲も登場する。「3-Thinking Iceberg」では、ブルターニュ地方の山岳地帯を思わせるサウンドスケープがブライアン・イーノの系譜にある重厚なアンビエントにより描写される。これらは、バルザック時代のフランスの古典的な風景の名残りを描写音楽として活写したかのようだ。

 

シダの別名であるフジェールの茂る大きな森、古い苔に覆われた石の寺院、土壁を持つ風車、また、古典的なヨーロッパの美しきレンガの町並み、そして、スイスのアルプス地方にも見出されるような神秘的な光景を囁くようなスポークンワードで包み込む。それらは本来は離れた空間ーー広大な自然と彼女の住む生活空間ーーを結びつけるかのようでもある。しかしそれらは、神秘的ではあるが、歴史的な歩み、その最中にある憂愁のような感覚を刻印している。つまり、「内側の世界の視点を通して離れた場所を見つめる」ような不可思議なアンビエントなのだ。この辺りに「目を閉じると見える」というアトキンソンの作曲概念がうかがえる。曲の最後にはリュートを思わせるガットギター(バリトン)が優雅で神妙なエンディングを構成する。

 

 「タイル」を意味する「4- La Puile」では、透明な印象を持つアンビエント・ピアノが展開される。前曲での乖離した二つの空間の結合を基にし、この曲では、アトキンソンの神妙なスポークンワードによって、さらに瞑想的な領域へと差し掛かる。音楽が表面性に鳴り響くにとどまらず、その内側に入り込んでいき、より深い内殻の空間へと踏み入れていく。


いつしか、ピアノの演奏は鳴り止み、立ち代わりに、布をこすり合わせるような録音、オーケストラストリングスの役割を果たすシンセ、そして、偏在する孤絶を表したかのようなスポークンワードが神秘的に鳴り響く。アルバムの冒頭のように、シンセの響きは悲しみの印象を与えるが、対比的に導入される高音域に鳴り響く単一のピアノのフレーズはそれとは対象的に高らかな響きに縁取られている。前項の山岳地帯の雪解けの頃の季節が何らかの個人的な記憶と共鳴を果たす。神秘的でありながら、重厚感があり、催眠的な響きを兼ね備えている。そして、これらの悲しみが何によるものかはよくわからないが、推測すると、それらは最初に述べたレンヌ地方の自然破壊や変わりゆく町並みへのノスタルジアとも考えることが出来るかもしれない。


このアルバムには、声という器楽的な要素を用いた詩の表現を織り込まれている。一方、音楽そのものが詩のように鳴り響くのもまた事実である。そして制作者は、フィールドレコーディングも効果的に用いて、音によるストーリーテリングの要素を付与する。例えば、続く「5- Sorry」では、大気の粒子をフィールドのマイクロフォンで捉え、その空気音をキャンバスにし、音楽を絵画さながらに描写する。


フェリシア・アトキンソンを「印象音楽のペインター」と称するのは少し強引かもしれないが、それに比する印象もなくはない。そして、彼女は、冒頭をシュールレアリズムで表現した後、アルルの印象派の画家のように、丹念にサウンドスケープを描いていき、これらは、ゴーギャンのような「暈しの技法」を作曲技法に取り入れているといえる。要は明確に聴取出来る音楽ではなく、背景に滲じむ抽象的な音像を作り上げてゆく。また、このアルバムは沈鬱な印象を持つ収録曲が多い中、この曲はただひとつだけ、天国的な音楽性が感じられる。しかし、タイトルに見られるように、この曲の印象は少しずつ制作者の人生の変遷を捉えるかのように変わっていき、最終的には、感傷的なピアノの断片とシンセにテクスチャーへと変化する。


『Space As An Instrument』は、個人的な生活の体験を基にして、そこから汲み出される感情や気付きを基に、複数の離れた空間を移動するかのようである。それは、レンヌからパリ、パリからニューヨーク、ニューヨークからブリュッセルというように、実際的な空間の移動も含まれているかもしれないが、同時に、過去に行った場所、過去に起きた感情、それらをすべてひっくるめて重要な体験と見た上で、現在の制作者が実存する地点から目くるめくようなクロニクルを構築していく。要するに、このアルバムは、例えば、ダニエル・ロパティンが最新作『Again』で探求したような「アンビエントや実験音楽による年代記」と称せるかもしれない。多くの人は、現実を「現象」として見ていると思うが、それはプラトンも言うように、真実に暗く、洞窟の闇に住まうことを示唆している。もちろん、「過去の場所、感情、行動、思索の積み重ね」の連続が、人間にとっての「実存」を意味するのである。それが他者が知り得ぬものであるからこそ、アルバム全体に通底する音楽は、純粋なアートとしての意味を帯びて来るようになる。本作は、その後、前の曲の流れを受け継いで、アンビエント・ピアノが続いている。

 

「6- Shall I Return To You」は、本作の中では最もミステリアスな響きを帯び、実際的に不協和音が強調されている。このアルバムでは始めて、他者の明確な暗示が登場する。氷塊のような印象を持つアンビエントのシークエンスとデチューンを施したピアノが組み合わされる否や、形而上に存在する音楽が作り上げられる。実際的な実験音楽としては、ハロルド・バッドに近く、ピアノの演奏とリサンプリングが組み込まれている。そして、アルバムの中に、再三再四登場するように、微細で幽玄な雰囲気を持つヴォーカルが登場する。

 

アルバムは連曲のように前の曲が次の曲と密接な関係を持ち、何らかの関連性を持っている。それは人生が連続しているのと同様。音楽の存在は、そのほかの要素と無関係ではないだろうし、曲はトラックリストを経るごとに、神妙な領域に入り込む。そして、その音楽は何らかの心象風景を仮想のヴィジョンに映写するように、曲ごとに異なる空間、風景、記憶を呼び覚ます。

 

特に驚かされたのが、本作のクローズを飾る「7- Pensees Magiques」(魔術的思考)だった。この曲は2024年の実験音楽の最高の一曲である。不協和音を活用したピアノの旋律の進行、そしてアルバムの二曲目よりも明確に「トーン・クラスター」が登場する。

 

本作の心象風景は最後のさいごになって、自宅の庭へと移り変わる。鳥の鳴き声や階段を上がっていく音など、何らかの瞬間を暗示する日常的なサンプリングがサブリミナル効果のように挿入される。これが、音楽を解明するというより、謎めいた余韻を残す。音楽はすべて分かるというよりも、何かしら究明しきれない箇所があった方が楽しい。特に、曲の最後の唐突な足音を聞いて、何が想像されるだろうか。また、どのようなイメージが呼び覚まされるだろうか。

 


 

 

 



* 発売元のシェルター・プレスは、出版社のバルトロメ・サンソンとアーティストのフェリシア・アトキンソンが2012年に共同設立したレコードレーベル兼出版プラットフォーム。印刷出版物やレコードを通じて、現代アート、詩、実験音楽の対話を構築している。2021年9月より、Shelter Pressは、Ideologic Organ、Recollection GRM、Portraits GRMレーベルのリリースも手がけ、コラボレーションを行っている。



マイアミを拠点とするバンドSeafoam Wallsは、シンガー・ソングライターでギタリストのジャヤン・バートランド、ベーシストのジョシュ・イーワーズ、エレクトロニック・ドラマーのホスエ・ヴァーガス、ギタリストのディオン・カーで構成される。彼らはジャズ、シューゲイザー、ロック、ヒップホップ、アフロ・カリビアンリズムのまったくユニークな組み合わせであるシーフォーム・ウォールズを「カリビアン・ジャズゲイズ」という新しいジャンルで表現する。


『Standing Too Close To The Elephant In The Room』は、バンドにとってエキサイティングな新章を象徴している。このアルバムは、シーフォーム・ウォールズのミュージシャンとしての進化を示すだけでなく、アーティストとしての評判を確固たるものにし、リスナーを実験的な影響と楽器編成のテクニカラーの霧を通して彼らの音楽を体験させる。ディオン・カー、ジョシュ・エワーズ、ホスエ・ヴァーガスを中心とするバンドは、芸術的な自律性へのコミットメントを示し、セルフ・プロデューサーとしての役割を担い、現代社会とそれが内包するあらゆる矛盾に疑問を投げかけながら、その壮大なサウンドスケープを堪能できるアルバムを作り上げた。

 


ギタリストのジャヤンはアルバムに関して次のように説明しています。「ギターを手にする以前、純粋な音楽ファンだった。その後、世界各国の政府の抑圧的なやり方について学び始めると、私の世界は粉々に打ち砕かれた。自分達のすることは正義なのだと私に断言した権威的な存在も、実は『問題の重要な一部だった』のです。その後、もしかしたらアートこそがこの残酷な世界で唯一の安全な空間ではないかと思い始めました。『Humanitarian Pt.II』は端的に言えば、『幻滅』についての作品です。私は、同じような手口が存在するとは知らず、真っ先に音楽シーンに飛び込んでいきました。そして、そのようなやり方を非難するとともに、私の前に好きだったアーティストたちのように『社会規範に疑問を投げかける』ことを自分の使命としています」

 

「実は、私はまだ差し迫った疑問に対する答えを探しているところなのですが、現実的な解決策を持っている同じような考え方を持つ人たちと一緒にいることは励みになります。ディオン・ディア・レコードの最新作と今後のリリースに惹かれたのは、私が尊敬する誰もが素晴らしい疑問と意識を提起する中、ディオン・ディアは希望に満ちた選択肢を提示してくれたからでした」


アルバムのタイトルは、人々が人生で直面する、見過ごされがちであるが重要な課題や複雑さの比喩であり、細部にとらわれ、大局を見失うことへの警告を意味する。ジャヤンが説明するように、誰もが部屋の中にエレファントを飼っている。しかし、問題がより複雑であるため、視野が狭小になり、それらの全体像が見えづらくなっている。つまり、視聴者は同じ問題に対して偏った視点を提供しているらしい。これは、交差性が満たされていない領域の説明なのである。

 

 

Seafoam Walls  『Standing Too Close To The Elephant In The Room』/ Dion Dia


 

 

シーフォーム・ウォールズの音楽性はとても個性的である。基本的なバンドアンサンブルは、今日のオルトロックのトレンドに沿っているが、他方、チルウェイブを吸収したシンセポップのような音楽性が際立つ。それに加えてボーカリストのジャヤンのボーカルもR&Bのテイストからアフロビートからの影響をミックスした懐深さを感じる。それほどこのアルバムの音楽は難解になることはなく、シンプルで親しみやすく、それどころかライトな印象を思わせる。35分ほどのアルバムを聴き通すのに、労力や忍耐力は必要ないと思う。さらりと聞き流せるサウンドはBGMのように過ぎ去っていく。しかし、アフロビートを反映させた多角的なリズム等、コアな音楽の魅力が凝縮されている。Unknown Mortal OrchestraのようなR&B色のあるインディーロックとも言えるのだが、同時によくよく聴くと、かなり奥深い感覚のある作品である。

 

なぜ、軽やかな印象のあるロックなのに聴き応えがあるのか。それは端的に言えば、制作者の考えが暗示的にバンドサウンドの背後にちらつき、シーフォーム・ウォールズの音楽がジャンルのキャッチコピーに終始しないからである。そしてロックバンドとしての不可欠な要素、ライブセッションの醍醐味も内包されている。セッションは音による複数人の対話やコミュニケーションを意味し、音楽が時々、優れたミュージシャンにとってある種の言語のような役割を持つことを定義付ける。このバンドのライブセッションにおける対話は、アルバムの最後の曲「Ex Rey」に登場する。セッションの心地よさが永遠と続くような精細感のあるライブサウンドがこのアルバムの最後に控えている。このことはまだこのアルバムで、ジャヤンのほか四人のメンバーがすべてを言い終えたのではなく、言い残した何かがあることを暗示するのである。

 

そして、このアルバムに少なからず聴き応えをもたらしているのものがあるとすれば、それは彼らの権威筋に対する「失望」や「不信」にほかならない。今日日、権威筋の説得力のある意見がときに、実際的な経験を元に組み上げられるシンプルな論考に対し、無惨なほど敗北を喫する時代に、権威に対する盲目的な崇拝が最早以前のような意義を失ったことを暗示している。ソングライターのジャヤンは、このことに関し、「世界各国の政府の抑圧的なやり方について学び始めると、私の世界は粉々に打ち砕かれた。"自分達のすることは正義なのだ"と私に断言した権威的な存在も、実は『問題の重要な一部だった』」と説明しているが、これは反体制的でも何でもなく、一般的な人々が今日の時代において痛感せずにはいられないリアルな感覚でもある。


ただ、シーフォーム・ウィールズの音楽的な感覚は、そういったドグマに対して距離を置くことにある。そういったものにはまり込み、修羅の道に入るのではなく、それらに一瞥もくれないのだ。素晴らしいのは、旧来の価値観の崩壊や一般的な概念に対する不信感が主題になっているのは事実であるが、サウンドそのものは建設的で明るい方向に向かう。アートや音楽を一つの起点とし、彼らは純粋な楽園を構築しようとするのである。結局、アルバム全体を通して感じられたのは、彼らが政治的な観念から適切に距離を取ろうとしていること、そして、もし今日の政治や世界情勢の闇に不満を感じるならば、むしろそのことを逆手に取り、別の道に歩み出そうとすることであった。たとえ、それが架空のものであろうと、もしこういったアートの純粋な試みを行う人々が多数派になれば、争いはもちろん、不毛な論争も立ち消えるのである。


さて、現代の人々は今までそれが「正しいこと」だとか「善なること」と言われていたものが、本当はそうではないとわかった時、どう立ち向かうべきなのか。また、どのように接するべきなのか。少なくとも、このアルバムに関して言えば、それらの考えや価値観と争うとか、反駁を企てるといった旧来の手法とは別の道筋が示されている。バンドのサウンドは主流派に乗っかるのでもなければ、過剰にスペシャリティを誇示するわけでもない。スペシャリティを誇示しすぎることは、建設的なやり方とは言えまい。シンプルに言えば、彼らは、バンドアンサンブルを通じて「楽しむ」だけである。それでも、このことが何らかの愉快なエネルギーを発生させ、聴いている人々に開放的な気分を与え、さらに最終的に、純粋な音楽の喜びを教えてくれる。高尚な楽しみはときに形骸化や腐敗を招く。しかし、純粋な楽しみは、最も偉大なのだ。

 

チルウェイヴとギターロックを組み合わせた「Humanitarian Pt.1」、「Humanirarian Pt.2」は本作の序章のような意味を持つ。そしてこのアルバムが、一種のコンセプチュアルな流れを持つ作品であることが暗に示されている。ジェフリー・パラダイスのプロジェクト、Poolsideのエレクトロニックサウンドとギターロックを融合させたかのようなリラックスした感じが主な特徴である。これらのスタイルには、ヨットロックのようなリゾート的な雰囲気が漂う。それほど苛烈になることなく、余白のあるサウンドに波の音のサンプリングが挿入されることもある。彼らは結果的にアルバムの楽園的なサウンドを入念に組み上げていく。

 

波のサンプリングのイントロを挟んで始まる「Cabin Fever」は、シーフォーム・ウォールズがオーストラリアのHiatus Kayoteのような未来志向のプログレッシヴ・ロックの性質を兼ね備えていることの証でもある。ギターの心地よいカッティングを元にして、多角的なリズムを作り出し、スケールの大きなプログレを構築していく。バンドのアンサンブル自体はミニマリズムの性質があるが、ヒップホップやチルウェイブ、ソウルを通過したボーカルがこれらのサウンドに開放的な気風をもたらす。同時に、サンプリングのイメージと相まって、サウンドスケープの範疇にあるロックソングが構築される。そして、四人組のサウンドはどちらかといえば、単なる楽曲というよりも、サウンド・デザインや風景描写の一貫をなすロックサウンドに接近していく。実際的にトラック全体からマイアミの砂浜を想起することも無理難題ではない。そしてバンドの音楽はそれほど神経質にならず、オーガニックで広やかな印象をもたらす。 

 

 

 「Cabin Fever」

 

 

温和で心地よいサウンドはそれ以降も続く。「Rapid」では、リバーブを配しバッキングギターで始まり、同じようにリゾート的な雰囲気を持つシーケンサーのシークエンス、そして細やかにリズムを刻むドラムと、バンドは音の要素を積み重ねていきながら、ひたすら心地よいサウンドを追求している。そしてこれらのリズムから、開放感と清涼感に溢れるジャヤンのボーカルがぼんやりと立ち上ってくる。ジャヤンはもしかすると、ヒップホップはもちろん、現代的なネオソウル等から影響を受けているかも知れない。それらのソウルフルな歌唱は、徹底して作り込まれたギター、それらをしっかり支えるリズム、こういった要素の中に上手く溶け込んでいる。シーフォーム・ウォールズのサウンドは、単一の楽器やパートが強調されることは稀で、全部のパートが一体感を持って耳に迫ってくる。そして、これが瞑想的な感覚を呼び覚ます。

 

アルバムの中盤のハイライト曲「Hurricane Humble」は、予言的な曲となってしまった。海岸の波の上を揺られるようなサーフサウンドを基調としたギター、 それらがソフト・ロックやシンセ・ポップの系譜にあるボーカルと溶け込み、やはりヨットロックのようなトロピカルなサウンドが組み上げられる。こういったサウンドは、ニューヨークのPorchesに近いテイストがあるが、曲の途中では、ラディカルなエフェクトが施されたりと、実験的なロックの形式を取ることもある。しかし、そういった前衛的なサウンドエフェクトがなされようとも、それほど聴きづらくはならない。それはボーカルのサングがポップの範疇にあり、自然な歌唱力を披露しているからだ。そして、3分半頃にはトーンの変調というシューゲイズの要素が登場する。これらは、最終的に、Hiatus Kaiyoteのような近未来的なロックサウンドに肉薄する。さらに、それらの実験的な試みはトラックのアウトロにも用意されている。さらに、この曲の最後では、大きなハリケーンが去った後の空気の流れを録音したサンプリングが配されている。そして、これはアルバム全体からストーリーを汲み取るような聴き方も出来ることを示唆しているように思える。

 

リズムにおける冒険心が垣間見えることもある。アフロビートの躍動的なリズムをイントロに配した「Stretch Marks」は、依然としてヨットロックの質感を押し出しながら、アフロ・ビートとオルタナティヴの融合という、彼らにしかないしえない音楽的な実験がなされている。この曲では、まだすべてが完成したとは言えまいが、新しい音楽の萌芽を見出すことが出来る。もしかすると、マスタリングには、「iZotope」が使用されている可能性がある。このあたりは、シンプルでスタンダードなデジタルなサウンドデザインを堪能することが出来るだろう。さらにアルバムの序盤の副次的なテーマであったサーフミュージックの存在感がより一層強まるのが続く「Sad Bop」である。この曲は、ハワイのジャック・ジャクソンのフォークサウンドをエレクトリックで体現したかのようでもある。彼らは、海岸沿いのリゾート気分や、海辺の夕景を想起させるようなロマンティックなポップスを聞き手に提供している。また、この曲でもサウンドスケープとしてのバンドサウンドが巧みに組み上げられていて、水中をゆったりと泳ぐような夏らしく、愉快なサウンドを楽しめる。(少し季節外れになってしまったかもしれないが.......)

 

アルバムの最後にも印象深い曲が収録されている。「Ex Ray」は、バンドアンサンブルの未知の可能性を示唆している。現代的なオルトロックバンドはどうしても「録音」が先行してしまい、アンサンブルの楽しさを追求することが少なくなりつつある。しかし、コラボレーションやバンドの楽しみを挙げるとするなら、こういったいつまでも続けていられるような心地良いライブセッションにある。それを踏まえ、彼らはBeach Houseのサウンドをお手本にしつつ、バンドとして何が出来るのかを探っている。そして、この曲にこそ、アートそのものが現実を超える瞬間が示唆されている。特に、それは現実的な概念からかけ離れたものであればあるほど、重要な価値を持ちうる。少なくとも、シーフォーム・ウォールズは、彼らが抱える問題を見事に乗り越えている。つまり彼らは現実に打ち勝ち、「Get Over It」してみせたとも言える。それは前述した通りで、彼らの純粋な楽しさを追求する姿勢が、現実的な側面を乗り越えるモチベーションとなったのだろう。




85/100

 

 

 

「Rapids」

 

 

■ Seafoam Wallsのニューアルバム『Standing Too Close To The Elephant In The Room』は本日発売。ストリーミング等はこちらから。

Liela Moss



ロンドンのシンガーソングライター、Liela Moss(リエラ・モス)は4枚目のスタジオ・アルバム『Transparent Eyeball』のリリースを発表する。


デューク・スピリットのメンバーとして知られるリエラは、ソロ活動やコラボレーションを通じて影響力のあるアーティストとしての地位を確立してきた。リエラの催眠術のような、しばしば激しい音楽スタイルは、SPIN、NME、Clash Magazine、Uncut、MOJO、Record Collector、6 Music、Radio Xなどが支持し、世界中のテイストメーカーや音楽ファンから大いに称賛されている。


2008年の「My Name is Safe In Your Mouth」、2020年の「Who The Power」、2023年の「Internal Working Model」、そしてデューク・スピリットとの5枚のアルバムにより、「Transparent Eyeball」はリエラの新時代を築き、より大胆なサウンドの方向へと進んでいる。


プロデュース・デュオのIYEARA(マーク・ラネガン、ヒューマニスト)と協力し、リエラはドラマチックで脅威的なサウンドを作り上げた。スペイシーで、グリッチーで、息をのむほどスタイリッシュな「Conditional Love」の洗練されたプロダクションとリエラのパワフルなヴォーカルは、このアルバムで何が期待できるかを垣間見せてくれる。


リエラはアルバム制作について以下のように回想している。「このアルバムは、20年間曲をレコーディングしてきた中で最も自発的なプロセスだった。プロデューサーのIYEARAとは、もし2曲でしっくりくるものができたら、全部をアルバムにして、私が歌うことにしてもいいかなというような会話をした」


「できる限り自然体でいることを心がけながら、私は音楽の雰囲気から生まれたセリフや言葉を吐き出したが、それは私の一般的なこだわりというテーマで統一されている。権力闘争に憑りつかれている我々人間たちは、どうすれば争いを解決できるのだろうか。私は、人間関係における不寛容が、そもそもそのような境界線を刺激する恐怖よりも、どれほど大きな害を深く引き起こしているのかについて考えていた」




Liela Moss 『Transparent Eyeball』 - Self Release (A Bardge Of Friendship)
 
 


 
 
リエラ・モスは三作目のアルバム『International Working Model』で実験的なポップスをもと
に聴きごたえのある作風を確立したが、それほど派手な印象をもたらしたとは言い難かった。 モスは、Bjorkに近いハスキーな声質を持ち、音域やビブラートの伸び等、歌手として申し分ない資質を兼ね備えていたが、端的に言えば、彼女は才能を持て余していた。それは間違いなく、ポップという側面にこだわっていたから、その才能を発揮しきれない部分があったのである。


しかし、今回、IYEARA(マーク・ラネガン、ヒューマニスト)をプロデュース・チームに招聘し、「A Bardge Of Friendship」という制作チームの助力を得て自主制作盤としてリリースされた『Transparent Eyeball』では、KASABIANのデビュー当時のようなエレクトロ・ロックへとドラスティックな音楽的な変換を図り、見違えるような印象をもたらすことになった。カサビアンはデビュー当時、自分たちを『ギャングスタ』と名乗っていたが、それに近いイメージだ。そのセンセーショナルで毒気に満ちた印象は、デビュー時のビョークやベス・ギボンズに匹敵する。
 
 
4作目のアルバムは、シンプルに言えば「歌手としての変身」を意味する。この新作を聴けば、三作目までのリエラ・モスのイメージは一瞬で吹き飛ぶ。まるで嵐のようなポピュラー/ダンスロックが走り抜けていき、一般的なリスナーは口をポカンと開けたまま、その音楽に圧倒されてしまうかも知れない。実際的にレコーディングルームの雰囲気が収録曲に乗り移ったか、もしくはマーク・ラネガンがよく知る「ストーナー」の手法をダンスミュージックのアシッドの感覚を結びつけたかのようである。アルバムは奇妙な緊張感に満ちていて、そしてライヴステージ向きのサウンドを徹底して強調している。アンセミックなフレーズを散りばめ、扇動的であることを最優先し、リエラ・モスはアグレッシヴなヴォーカルを披露する。3作のフルレングスの制作やライブにおいて、彼女はそのための布石は十分に作っておいた。まるで内側に溜め込んだエネルギーを一挙に開放するような感じで、覇気のあるヴォーカルを披露する。
 
 
 
本作の音楽は、Portishead、Trickyのトリップ・ホップ、Primal  Scream、New Orderのダンス・ロックの文脈をかけ合わせ、それらを全体的に実験的なポップとして組み上げる。ただ、オープナー「Prism」を聴くと分かるように、基本的にはシンプルな8ビートのロックで構成され、これらはアルバム全般を通じてほとんど崩れることがない。
 
 
トラック全体の波形にディレイを施し、アコースティックのドラム演奏を元に、力強いグルーヴを作り出し、そして、現在の歌手の印象であるスタイリッシュな感覚を徹底して押し出す。ボーカルに普遍的なソウル/ダンスからの影響を取り入れ、トリップ・ホップやダブの系譜にあるドラムのエッフェクティヴな効果、『Dummy』の作風に代表されるエキゾチックなシンセの断片が組み合わされ、堅牢なポップ/ロックソングが出来上がる。音楽的な手法としては複雑でハイレベルだが、表向きに現れるのはカサビアンのデビュー当時のようなシンプルなロックである。
 

「Dark Kitchens」は、ポピュラー/ロックとして優れているだけではなく、今年のダンスミュージックの中でも傑出していると私自身は思った。インダストリアル・ノイズを80年代のマンチェスターのエレクトロに織り交ぜ、ハードコア・テクノとポピュラー・ミュージックを劇的に融合させている。


全体的にはハードコアテクノなのだが、その中に、ビョークやセント・ヴィンセントのシネマティックなポップス、シアトリカルなポップスの影響を織り交ぜ、渦巻くようなグルーヴを背景に、モスはクールな歌を披露している。前作ではインディーフォークの系譜にある柔らかい印象の曲も制作していたが、その面影は最早どこにもない。人が生まれ変わったかのように、全盛期のアニー・クラーク、ギボンズ、ビョークに匹敵する凄まじい迫力のヴォーカルを披露する。
 
 
 
 
「Dark Kitchens」


 
 
アルバムの中盤では、多彩な印象を持つエレクトロニックがポピュラーと結び付けられる。IYEARAのプロデュースは個性があり、ジェフ・バーロウのようにリズムトラックに徹底して注力し、細部のリズムの作り込みは精密機械のようである。そしてドラムテイクがボーカル・トラックよりも前面に出てくることがある。
 
 
 
「3-Conditional Love」はアルバムのもう一つのハイライトとなる。Primal Scream、New Order、Underworldのダンサンブルなシンセサイザーのフレーズをポーティスヘッドのサンプリング・ドラムと掛け合わせ、それらを、Florence+The Machineのゴシック調のポピュラーと結びつける。しかし、サビの部分では、80年代頃のポピュラーを意識したアンセミックなボーカルを披露し、それらがスペーシーなシンセによって強調される。ライブで映えるようなナンバーである。
 
 
「Reward」は、メロとサビを変拍子によって対比させた一曲である。St.Vincent(アニー・クラーク)の系譜にある曲調であるが、ロックというよりもメタリックな印象を徹底して押し出した過激な雰囲気を擁するナンバーだ。同じように、編集された多重録音のリズム・トラックにインダストリアルなノイズを配し、Trickyのようなヒップホップに傾倒したグルーヴを生み出す。
 
 
曲の土台となるリズムやベースがしっかりと作り込まれていて、単体でも成立しているからこそ、リエラ・モスは安心感を持って歌をうたえるし、ヴォーカリストとしての存在感を際立たせることが出来る。この曲では、女性のソプラノの音域からアルトに属する音域を変幻自在に歌いこなし、アルバムの中で最も自由闊達に歌うリエラ・モスの高い表現力を体現している。
 
 
ラディカル(急進的)な印象を持つ本作の序盤であるが、後半とのつなぎ目に、バラード調の落ち着いた曲が収録されている。「Something I Left Behind」は、バンド時代からおよそ21年のキャリアを振り返り、歌手として新たな決意表明を行うかのような勇ましさに充ちたナンバー。他の収録曲と同様に、リズムトラックに力が注がれているが、この曲は音楽性が異なる。


例えば、Pearl Jam、Alice In Chains、Soundgardenといったグランジの急峰の音楽の旋律的な要素を踏襲し、ポップスの枠組みで展開させ、最終的には、ブリストルのトリップホップの形式と融合させる。例えば、ロックという解釈を差し置いても、サウンドガーデンのクリス・コーネルの曲は、ポピュラーソングとして傑出している場合があるが、そのことをつくづく考えなおさせるような一曲である。グランジは、ハードロックやメタルの側面ばかりが取りざたされるが、間違いなくポピュラー音楽の要素を含んでいたことを、リエラ・モスは示唆するのである。
 



ここまでを聴くと、前作から別のシンガーになってしまったようなイメージを抱くかもしれない。しかし、前作から大きく飛躍した作風であることは事実であるのだが、以前の作風を生かした曲も収録されている。そして、これらの近年のBjorkの系譜にある実験的なポップスがアルバム全体のブリッジの役割を果たす。謂わば、アルバムの最終盤の結末に向けた伏線ともなる。


「Blue」、「Stciky」の2曲は、実験的なポップスにゴシックのテイストを加え、前衛的な作風に取り組んでいる。しかし、一貫して、それらの前衛性はリズムやビートの構成を中心に展開される場合が多く、メロディーという側面では、むしろどこかで聴いたことのあるような一般的なフレーズを尊重している。これはアヴァンギャルドに傾倒しすぎると、理解出来るリスナーが限定的になってしまうため、あえて分かりやすい余地をどこかに残しているものと推測される。前者では、Yves Tumorの系譜にあるノイズを含めたミクスチャーとしてのハイパーポップ、そして後者では、Bjorkのエクスペリメンタルポップの系譜にある音楽が繰り広げられる。
 
 
中盤のグランジ、トリップ・ホップ的な暗鬱さは終盤においても維持され、本作に通底するサブベースのような役割を担っている。「Freedom Likes Goodbye」では、同じように、トリップ・ホップのリズムが強調され、ヴォーカリストとしてのワイルドなイメージを決定づける。そして、リエラ・モスは、嘆きの歌をコーラスを交えて紡いでいく。アルバムの終盤には、強い印象を持つ曲が必要となるが、その点は、「Red Future Begins」でクリアしている。この曲では、ドラムンベースとフューチャーベースのリズムを組み合わせ、近年、ヒップホップに主役の座を受け渡した要素を、ロックのフィールドに取り戻すことに成功している。そして、クローズ「Superior」では、エレクトロ・ロックの真骨頂を提示する。しかし、KASABIAN、St. Vincentの系譜にあるスタンダードなロックソングではあるが、その中でリリシズムを巧みに織り交ぜる。これが、ダイナミックなドラム、それからアンセミックなボーカルと組み合わされる。


Liela Moss のニューアルバム『Transparent Eyeball』は印象深い曲が複数収録されている。ただ、アルバムの最後で少しトーンダウンしてしまったイメージを受ける。対照的に、うっとりさせるような曲を最後に収録しても面白かったのではないだろうか? もちろん、少なくとも、リスニングの際に感じた不足感は私自身が本来の魅力を見つけられなかったことによる。何度も聴いていくうちに、新しい発見があるかもしれない。未知のポテンシャルを持つアルバムである。
 
 
 
 
「Something I Left Behind」
 
 
 
 
 
96/100 
 
 
 
Liela Moss  『Transparent Eyeball』は自主制作盤として発売中。ストリーミングはこちらから。 
 


1. Prism
2. Dark Kitchens
3. Conditional Love
4. Reward
5. Something I Left Behind 6. Blue
7. Sticky
8. Freedom Likes Goodbyes 9. Real Future Begins
10. Superior