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 Mdou Moctor 『Tears of Injustice』

 


 

Label: Matador

Release: 2025年2月28日

 

 

Review  祖国ニジェールへの賛歌

 

 

『Tears of Injustice(不正義の涙)』は、Mdou Moctorが2024年に発表した『Funeral For Justice』のアコースティックバージョンによる再構成となっている。ハードロックを中心とする前作アルバムよりも音楽の旋律の叙情性とリズムの面白さが前面に押し出された作品である。このアルバムを聞くと、Mdou Moctorの音楽の旋律的な良さ、そして叙情的な側面がより明らかになるに違いない。『Funeral For Justice』の発売日前には本作の制作が決定していたというが、結局、彼等の故郷であるニジェールの国内の動乱ーー政権移行により、アルバムの制作は彼等にとってより大きな意義を持たせた。なぜなら、国境封鎖によりエムドゥー・モクターのメンバーは祖国ニジェールに帰国できなくなり、音楽によって望郷の歌を紡ぐ必要性に駆られたからである。

 

本作はブルックリンで録音されたが、遠ざかった故郷への郷愁、そして祖国への慈しみの感情が複数の民族音楽の中に渦巻いている。プロデューサー的な役割を持つコルトン、そして、ジミ・ヘンドリックスの再来とも称されるギタリストのモクターの他、四人組のメンバーの胸中はおだやかならぬものがあったはずだが、結果的に、彼等にとって象徴的なカタログが誕生したと見ても違和感がない。


ニジェールは西アフリカの砂漠地帯にある地域で、独特な民族衣装ーー古代ギリシアのチュニックのようなーー白い装束、ターバンのような帽子を着用するのが一般的である。しかし、最近では白い衣装だけではなく、他の色の衣装を身にまとうこともある。同時に、私達にとって彼等の衣装は奇異な印象を抱かせることがあるが、それはとりもなおさず、彼等の故郷の文化や風俗に対するリスペクトやスピリットを表し、それらを次世代に繋ごうという意味がある。例えば、「Takoba」を始めとする先行シングルのミュージックビデオでは原始的な情景をトヨタの車を運転して疾駆するという印象的な映像が出てくる。

 

こういったシーンを見ると、アフリカの原初的な光景を思い浮かべざるを得ないが、実際的な事実としては、ニジェール近辺の地域は2000年代以降、近代化が進み、デジタルデバイスが一般市民に普及し、市中をバスがふつうに走ったりしている。そして、エムドゥー・モクターというギタリストは、デジタルデバイスの一般的な普及を受けて登場したギタリストなのである。これらは、90年代以降の東アジアやドバイのような急速な発展を遂げた国家を彷彿とさせる。つまり、砂漠地帯というイメージだけでこの国家を語り尽くすことは難しい。それだけではなく、例えば、前作では、長らく植民地化されてきた西アフリカの代弁者として歯に衣着せぬ意見も滲んでいた。


それは領主国であったフランス(西側諸国)に対する辛辣な批評精神の表れでもあった。これらは、結局、アフリカ大陸や当該地域の国家の殆どが西側諸国に金融市場を牛耳られてきたこと、コートジボワールのような海岸地帯で象牙を過剰に乱獲したりと、生態系を破壊させる行為が行われてきたこと等、西側諸国の搾取の歴史を断片的に反映させた。無論、これはアフリカという地域がヨーロッパによって近代国家的な性質を付与されたことは相違ないが、同時に経済的な側面での搾取や文化破壊というあるまじき行為を助長させたのだった。(最近では、アフリカ諸国のBRICSへの参加により、世界情勢の均衡に変化が生じ、現在の世界は多極化している最中だという。つまり、覇権主義的な一国体制は過去の幻影へと変化しつつあるようだ)

 

結局のところ、それらがこのバンドの主要な音楽性であるエレクトリックを中心とする古典的な70年代のハードロックのアプローチによってストレートに展開されたのである。しかし、続く再構成バージョンは音楽的にも、全体に通底する文化的なメッセージにおいても、まったくその意を異にしている。これらの西アフリカの民族音楽の一つであり、アメリカのブルースやゴスペルのルーツとなった”グリオ”という祭礼で演奏される儀式音楽の要素が凝縮されている。これは、単独のメインシンガーを取り巻くようにし、複数の歌い手がコーラスの合いの手を入れる音楽形式である。日本の民謡等にもこの合唱の形式は発見することが出来る。例えば、ゴスペルは、アフリカの儀式音楽が海を越えて伝えられ、旋律的に洗練されていったものである。これらの正真正銘の伝統音楽は、アフリカの悠久の歴史を映し出すにとどまらず、大陸の国家や人々の様々な生き方や人生の一面をリアリスティックに描写する。このことにより、音楽的なエキゾチズム性はもちろんであるが、歴史や伝統性を反映させた作品に昇華された。もちろん、マタドールの現代性に重点を置いた録音技術も称賛に値するものとなっている。

 

しかし、長い時代、植民地化されてきたアフリカ、宗主国に翻弄されてきた国家、そういった複雑な歴史の流れを汲みながらも、Mdou Moctorは批判性だけに焦点を絞らず、それとは対照的にアフリカの伝統性の美しさと人類が進むべき建設的な未来に目を向ける。このアルバムは、前作では歴史の暗部に断片的に言及することのあったエムドゥー・モクターが原曲の再構成を通じて、祖国への郷愁という叙情的な感覚を基にし、世界の平和、国家の正常化、そしてまた、明るい未来への賛歌を歌うというコンセプトへと変容している。こういった音楽は、もし政権の転覆がなければ制作しえなかった。ハードロックソングが反体制的な意義を擁するとすれば、このアルバムはそれとは裏腹に保守的な表情をのぞかせる知られざるモクターの姿を映し出す。

 

さらに言えば、「国家」という共通概念を離れた場所から歌っていた前作のアルバムとはきわめて対象的に(地理的な録音場所はその限りではないにせよ)、ニジェールという国家に近い場所で音楽が鳴り響いているように思える。 いわば、近代以降、アフリカの諸国は国家として独立の歩みを続けてきたが、独立的な国家としての文化的な役割を探り、最終的に世界情勢に関して建設的な役割を持つ文化圏として歩むという、いかなる現代国家も通らざるを得ない役割を踏まえ、それらを代表者として演奏し、歌を紡ぎ、その伝統性を未来へと繋げる橋渡しの役割を司る。それがゆえ、このアルバムのモクターを中心とする歌声にはただならぬ覇気がこもっている。そしてアフリカの歴史に関心のない聞き手を引き付けるものが内在するのである。

 

 

無論、音楽的にも原曲とは主な印象を異にしている。70年代の古典的なハードロックをベースにしていた前作と比較すると、アコースティックギター、タブラ、ベースなどを中心に生の録音を活かし、アナログ性を最初の録音段階で重視した後、最終的には、現代的な要素であるデジタルレコーディングのプロセスを経て良質な録音作品に仕上がった。これらは伝統性と未来性という二つの文化的な精華の重なりを意味し、単なる音楽的なハイブリッドやクロスオーバーというテーマを乗り越え、本来はすべてが一つであるという神秘的な瞬間を体現している。

 

そして、それらが従来に培ってきたアフリカの民族音楽という形式を通じて、心地よくリズミカルな興趣に富んだ音楽が繰り広げられる。これらのニジェールの伝統音楽は、たしかに、西洋音楽の音階や旋法に慣れ親しんだ人々にとっては珍しい響きに聞こえる。リズム的にも変拍子が含まれ、多角的な旋律が縦横無尽に流れていく。これらは古典的な音楽の手法を通じて制作されているにもかかわらず、驚くべきことに、カウンターポイントとして非常に洗練されている。そして、本作の中には無数のアフリカの人々の営み、国家としての歴史の断片的な流れがまるで走馬灯のように流れ、一定のリズムやリフレインの多いアンセミックな響きを持つフレーズと合致し、音楽的な感覚、民俗的な感覚という二つの側面から見ても、極めて高い水準にある音楽として体現されている。そして、西アフリカに対する郷愁の感覚が複数のアコースティック楽器や歌声とぴたりと重なり合う瞬間、稀に見る美しい音楽がエキゾチズムという表向きの幕間の向こう側にたちあらわれ、本作のタイトルの冒頭に付与されている涙ーー人類全体に対する慈しみの思いーーが音楽の向こうにかすかに浮かび上がることに気づく。それは、音楽の表向きの魅力を示すにとどまらず、その向こう側にある芸術の本質的なコアの部分に肉薄したとも言えるかもしれない。彼等の音楽は一般的な評価軸から距離を置き、上や下、右や左、敵や味方、正と邪、そういった二元論における偏見的な概念を乗り越え、優れた音楽に欠かせぬ根源的な精神性を遺憾なく発揮している。だから聴いていて気持ちが癒される瞬間が込められているのかもしれない。

 

『Tears of Injustice』には、「Takoba」、「Imajighen」、前作のタイトル曲「Funeral For Justice」といった魅力的な曲が多い。そして編曲という観点から見ても、全く別の雰囲気を持つ曲に変身している。あらためてエムドゥーの魅力に触れる恰好の機会となるはずである。本作はエムドゥー・モクターというプロジェクトの編曲能力の高さを証明づけたにとどまらず、彼等が音楽的な核心を把握していることを印象付ける。本作ではエキゾチックであった音楽の印象が普遍的な感覚に変化する瞬間がある。要するに、遠くに鳴り響いていた彼等の音楽が身近に感じられる瞬間を体験することができる。そして、その音楽に耳を澄ました時、ないしは彼らの言葉を心から傾聴した時、まったく縁もゆかりもないはずのアフリカ、ニジェールという私達にとって縁遠い地域のことがなんとなく分かり、そして、人間の本質的な部分やその一端に触れることが出来るようになるのだ。

 

私達は日頃生きていて、画一的な価値観や思想に左右されることを避けられない。そういった固定概念をしばし離れて、音楽の持つ神秘性の一端に接することは、いわば未知なる扉を開くようなものである。しかし、未知の扉の先にある何かーーそれは実は、私達が物心付かない頃に持っていたのに、いつしか価値のないものとしてどこかに葬り去られてしまっただけなのかもしれない。

 

 

 

85/100 

 

 

「Takoba」

 


 

西アフリカのトゥアレグ族のMdou Moctor(ムドゥー・モクター)は2024年、マタドールから最新作『Funeral for Justice』をリリースしたが、今年2月にアコースティック楽器による再編成バージョンをリリース予定。

 

前作では痛快なハードロックソングで多くの音楽ファンを魅了したムドゥー・モクター。来月に発売されるアコースティック版では、西アフリカの民族音楽の性質が色濃い。少数民族の文化と言語を伝承し、次世代に伝えるという役割があるのみならず、先行シングルは音楽としても傑出している。

 

アフリカでは、儀式音楽として”グリオ”という形式が存在し、メインの歌手を取り巻くようにして複数のシンガーがリズミカルに歌うという輪唱の形式が取り入れられている。これは、カリプソ、レゲエ、ゴスペル、ブルースを始めとする全てのブラックミュージックの源流に位置づけられる。

 


1月29日に配信されたニューシングル「Funeral for Justice (Injustice Version)」は「Funeral for Justice」のタイトルトラックであり、このアルバムのハイライトでもある。バンドの晩年の活動のテーマの要で、「Tears」のために形を変化させた。原曲のタイトなアレンジとフルブラストのギターリフは脇に置かれ、ルーズで広大、即興的なアレンジが施されている。



来週、Mdou Moctarは北米ツアーを開始する。ビザの手続きが遅れたため、このギタリストはトロント、オタワ、モントリオールでソロ・セットを披露する。これらの公演の後、ムドゥ・モクターはバンド(マイキー・コルタン、スレイマン・イブラヒム、アムドゥ・マダサネ)と合流し、アコースティック編成でアメリカ・ツアーを行う。



『Tears of Injustice』は、国家的な大惨事にその存在を負っている。2023年7月、ニジェールの大統領がクーデターで退陣したさい、ムドゥ・モクターは米国ツアー中だった。モクター、アフムードゥ・マダサネ、スレイマン・イブラヒムの3人は家族のもとにしばらく帰ることができなかった。

 

彼らはこの機会を捉え、『Funeral For Justice(正義のための葬送)』の続編として、自国の新しく深刻な状況を色濃く反映した作品を録音することを決めた。ツアーが終了したわずか2日後、カルテットはエンジニアのセス・マンチェスターとともにブルックリンのバンカー・スタジオで『Tears of Injustice』のレコーディングを開始。彼らは通称『ティアーズ』のレコーディングに、1つの部屋で一緒に座り、セッションを適度にルーズに保ちながら、削ぎ落としたものを選んでいる。



『Tears of Injustice(Acoustic Version)』

 

 

 

Tour Date:

Friday February 2, The Concert Hall, Toronto ON #
Saturday February 3, Bronson Centre, Ottawa ON #
Sunday February 4, Theatre Fairmount, Montreal QC #
Monday February 5, Higher Ground, Burlington VT %
Tuesday February 6, Iron Horse, Northampton MA %
Wednesday February 7, Bearsville, Woodstock NY %
Thursday February 8, Home Center For the Arts, Homer NY %
Saturday February 10, Arden Gild Hall, Arden DE %
Sunday February 11, Birchmere, Alexandria VA %
Monday February 12, Carnegie Lecture Hall, Pittsburgh PA %
Tuesday February 13, Woodward Theatre, Cincinnati OH %
Wednesday February 14, Castle Theatre, Bloomington IL %
Thursday February 15, Space, Evanston IL %
Friday February 16, Delmar Hall, St. Louis MO %
Saturday February 17, Cannery Hall, Nashville TN %
Monday February 19, The Southern, Charlottesville VA %
Tuesday February 20, First Unitarian Church, Philadelphia PA %
Wednesday February 21, Sony Hall, New York NY %

 # Mdou Moctar plays solo
% w/ Jael Leppin


▪️ MDOU MOCTOR、最新作をアコースティックと伝統楽器で再構成した『TEARS OF INJUSTICE』を発表  2月28日にリリース
左からタブラ奏者のアラ・ラカ、シタール奏者のラヴィ・シャンカル

 インド音楽のラーガというのをご存知だろうか。シタール、タブラといった楽器演奏者が一堂に介して、エキゾチックでミステリアスな音楽を奏でる。しかし、この音楽は民族的で宗教的であるのは事実だが、その反面、神妙な響きが込められているのを感じる。それはこの音楽が悠久の時を流れ、宇宙の真理を表す、ピタゴラスの音楽の理想系を表しているからなのだろうか。


 ラーガのルーツは、バラモン教、ヒンドゥー教の経典であるヴェーダの聖典、つまり紀元前500年から一千年の時代にまで遡る。ラーガの本来の目的は、音楽的な心地よさだけではない。この音楽の目標は、人が覚醒に達するのを助けることであった。それゆえ、インドの古典音楽は厳格に認識され、神聖な領域に属している。


 インド音楽は大きく二つに分けられる。ひとつは南インドのカルナティック音楽、もうひとつは北インドのヒンドゥスターニー音楽である。インド古典音楽の2つの系統を区別しているのは、ムガール帝国の支配下にあったため、北部のヒンドゥスターニー音楽に忌避され、適応したペルシアの影響である。

 

 一方、南カルナータク音楽は、ペルシャの影響を一切受けず、孤立したまま進化を続けた。この地域にいたムガル人は寺院で演奏されていたヒンドゥスターニー音楽を王の宮廷に持ち込んだ。

 


ラーガーマーラーと呼ばれる絵画 ラーガを絵画で表したとされる

 このラーガというのはどんな音楽なのだろう。ジョージ・ハリソンはビートルズ時代からシタールを演奏し、インド音楽に感銘を受け、ラヴィ・シャンカールから手ほどきを受けた。さらにその後、ヒンズー教を信仰するようになった。彼はソロアルバムで信仰を告白した。しかし、不思議でならないのは、かれはなぜ、インドの音楽に、それほど大きな霊感を受けたのだろうか。おそらく、その秘密、いや、奥義は、ラーガひいてはインド音楽の神秘性にあるのかもしれない。インド音楽の巨匠であるラヴィ・シャンカルは「インド古典音楽の鑑賞」のなかで、この音楽について次のように説明している。以下は基本的には門外不出のラーガの貴重な記述のひとつである。


 インド古典音楽は、和声、対位法、和音、転調など、西洋古典音楽の基本ではなく、メロディーとリズムを基本としている。「ラーガ・サンゲート(Raga Sangeet)」として知られるインド音楽の体系は、その起源をヒンドゥー寺院の「ヴェーダ讃歌」にまで遡ることができる。 このように、西洋音楽と同様、インド古典音楽のルーツは言うまでもなく宗教的なものです。 


 私たちにとって、音楽は自己実現への道における精神的な鍛錬となり得る。このプロセスによって、個人の意識は、宇宙の真の意味、永遠で不変の本質の啓示を喜びをもって体験できる気づきの領域へと昇華することができる。 つまり、ラーガは、この本質を知覚するための手段でもある。


 古代のヴェーダ聖典は、音には2種類あると教えている。 ひとつはエーテルの振動で、天界に近い上層または純粋な空気です。 この音は「アナハタ・ナッド(打たない音)」と呼ばれている。 偉大な悟りを開いたヨギーが求める音で、彼らだけが聞くことができる。 宇宙の音は、ギリシャのピタゴラスが紀元前6世紀に記述した球体の音楽のようだと考えられている振動である。 自然界で耳にする音、人工的に作られた音、音楽的なもの、非音楽的なものなど、あらゆる音を指す。

 

 これはインド音楽そのものが神秘主義的な考えをもとに成立していることの表れである。明確なつながりは不明であるが、エーテルというのは、ギリシャ哲学家の提唱した概念でもある。この符号はインドのような地域の原初的な学問とギリシャの学問がなんらかの形で結びついていた可能性を示す。



 インド古典音楽の伝統は口伝による。 西洋で使われている記譜法ではなく、師から弟子に直接教えられる。 インド音楽の核心はラーガであり、音楽家が即興で演奏する旋律形式である。 この枠組みは、インド国内の伝統によって確立され、マスター・ミュージシャンの創造的な精神に触発されている。


 インド音楽はモード的な性格を持つのは事実であるが、ラーガを中近東や極東の音楽で耳にするモードと勘違いしてはならないし、音階や旋律そのもの、作曲、調性とも理解してはならない。

 

 ラーガとは、アロハナ(Arohana)とアヴァロハナ(Avarohana)と呼ばれる上昇または下降の構造で、7音オクターブ、ないしは6音または5音の連続(またはこれらの組み合わせ)からなる、独特の上昇と下降の動きを持つ、科学的で正確、繊細で美的な旋律形式を示している。音の順序の微妙な違い、不協和音の省略、特定の音の強調、ある音から別の音へのスライド、微分音の使用、その他の微妙な相違によって、あるラーガと別のラーガが区別されるのです。


ラーガの主な旋法の例 北インド



 ラーガは厳密に言えば、長調と短調の二つに大別される。ある音楽ではくつろいだ南方の音楽を思わせるが、それとは対象的に、ある音楽では北方の悲しげな音調を持つ。リズムも対照的で、ゆったりしたテンポ(Adagio,Largo)から、気忙しいテンポ(Allegro,Presto)に至るまで幅広い。これらはラーガが感情を掻き立てる音楽であることを示唆している。これは覚醒を促すという主な目的の他に、Karmaという目的のためにラーガが存在するからなのだろう。

 

 サンスクリット語に "Ranjayathi iti Ragah "という格言がある。 ラーガが真に聴く人の心を彩るためには、その効果は音符や装飾だけでなく、それぞれのラーガに特徴的な感情やムードを提示することによっても生み出されなければならない。 このように、私たちの音楽における豊かな旋律を通して、人間のあらゆる感情、人間や自然におけるあらゆる微妙な感情を音楽的に表現し、経験することができる。


 各ラーガは、主にこれら9つのラサ(旋法)のうちの1つによって支配されるが、演奏者は、他の感情をあまり目立たない形で引き出すこともできる。 ラーガの音符が、ひとつのアイデアや感情の表現に密接に合致すればするほど、ラーガの効果は圧倒的なものとなる。


ラーガは朝、昼、夜といった時間ごとの儀式音楽の形式で親しまれたが、のちにはあまり一般的な意味を失いつつあった。


 それぞれのラーガは、特定の気分と関連しているだけでなく、1日の特定の時間帯や1年の季節とも密接な関係がある。 昼と夜のサイクルや季節のサイクルは、生命のサイクルそのものに似ている。 夜明け前の時間、正午、昼下がり、夕方、深夜など、一日の各部分は明確な感情と結びついている。 各ラーガに関連する時間の説明は、ラーガを構成する音符の性質や、ラーガにまつわる歴史的逸話から見出すことができる。


 ラーガの音楽の音階には、科学では解き明かせない神秘的な宇宙的な根源が示されている。そして、人間の精神の発露でもある。それがこの音楽という側面を考える上で不可欠のようである。

 

 ラーガの基となる音階は72種類あるが、インド音楽の研究者たちは、その組み合わせによって、6000以上のラーガが存在すると見積もっている。しかし、ラーガは、単に音階の上昇や下降の構造だけの問題ではない。 ラーガには、そのラーガに特徴的な「チャラン」と呼ばれる音型、主要な重要音(ヴァディ)、2番目に重要な音(サマヴァディ)、そして「ジャン」(生命)または「ムクダ」(顔)として知られる主な特徴がなければならない。


 美学の観点から言えば、ラーガはアーティストの内なる精神の投影なのであり、音色と旋律によってもたらされる深遠な感情や感性の顕現でもある。 音楽家は、それぞれのラーガに命を吹き込み、展開させなければならない。 インド音楽の九割は即興演奏であり、芸術の精神とニュアンスを理解することに依存しているため、アーティストと師匠との関係は、この古代の伝統の肝心要となっている。 音楽家を志す者は、最初から、芸術的熟達の瞬間へと導くための特別で個別的な注意を必要とする。 ラーガの独特なオーラ(「魂」と言ってもいいかもしれない)とは、その精神的な質と表現方法であり、これはどんな本からも学ぶことはできないのです。


 師匠の指導とその祝福のもとで、何年にもわたる献身的な修行と鍛錬を積んで初めて、芸術家はラーガに「プラーナ」(生命の息吹)を吹き込む力を得ることができる。 これは、「シュルティス」(1オクターブ内の12半音以外の微分音、インド音楽は西洋音楽より小さな音程を使う。(1オクターブ内に22個)の使用など、師から伝授された秘密を用いることで達成される。

 

 また、インド音楽独自の特殊奏法も存在する。例えば、「ガマカ」(1つの音と他の音をつなぐ特殊なグリッサンド)、「アンドラン」(揺れ-ビブラートではない)などは西洋音楽には求めづらいものである。その結果、それぞれの音は生命を持って脈動し、ラーガは生き生きと白熱する。


 インド音楽を聴く上で最も不可欠なのはリズムの複雑さと豊富さにある。4ビート、8ビート、16ビートといった西洋音楽では一般的なものから、2つか3つのリズムを組み合わせた9ビートまで存在する。それは、ラーガの「ターラ」、「リズムのサイクル(インド独自の拍節法)」に明確に反映されている。これは最終的には円に描かれ、ラーガその経典のような意味を持つ。



 

 
 ターラには、3拍子から108拍子まで存在する。有名な拍節は、5,6,7,8,10,12,14,16拍子である。 また、9,11,13,15,17,19拍などのより細かなサイクルもあるが、これは稀に優れた音楽家によってのみ演奏される。ターラ内の分割と、最初の拍(和音と呼ばれる)の強調は、最も重要なリズム要素である。 同じ拍数のターラがある一方、分割とアクセントが同じでないので、それらは異なっている。 例えば、「Dhamar」と呼ばれる14拍を「5+5+4」で分割したターラがある。別のターラ「Ada Chautal」は同じ拍数ですが、「2+4+4+4」で分割されている。


 インド古典音楽は、ジャズの原始的なインプロバイぜーションの性質を有している。つまり基本的にはジャズとの相性が抜群なのかもしれない。シタールやタブラの演奏がトランペットやピアノ、そしてサックスのような楽器とよくマッチするのはこういった理由がある。演奏者は演奏する前に、セッティング、リサイタルにかけられる時間、その時の気分、聴衆の気持ちを考慮する必要があります。 インド音楽は宗教的なものであるため、音楽家の演奏のほとんどに精神的な質を見出すことができる。これらはライブのセッションなどでより明瞭な形で現れる。


 ラーガの演奏は、厳密に言えば、一つの音楽形式のようなものが存在すると、シャンカール師匠は説明している。伝統的なインドのラーガのリサイタルは、「アラップ・セクション」(選ばれたラーガの重厚で静謐な探求)から始まる。 このゆっくりとした、内省的で、心に響く、悲しいイントロダクションの後、音楽家は次の演奏のステップである「ジョール」に移る。 このパートではリズムが入り、複雑に発展していき、即興演奏の性質が色濃くなる。 すると、ラーガの基本テーマに無数のバリエーションがもたらされる。 アラップにもジョールにも太鼓の伴奏はありません。反面、サワル・ジャバブ(シタールとタブラの目もくらむような素早い掛け合い)は、スリリングな相互作用で、不慣れな聴き手をも魅了するパワーを持っている。
 
 
 ラヴィ・シャンカールに関しては、最初期にラーガ音楽の伝統を伝えるオリジナルアルバムを発表している。いずれも原始的なインド音楽の魅力、背後に流れるガンジス川のごとき悠久の歴史を感じさせる。原始的で粗野な側面もあるが、宮廷に献呈された音楽もあり、民衆的な響きから王族の優雅な響きにいたるまで、広汎な魅力を有しているのにお気づきになられるだろう。
 
 
 

「Dhun」- Ravi Shankar(ラヴィ・シャンカル)