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サウスカロライナ州チャールストンのアーティスト、 Contour (Khari Lucas)は、ラジオ、映画、ジャーナリズムなど、様々な分野で活躍するソングライター/コンポーザー/プロデューサー。


彼の現在の音楽活動は、ジャズ、ソウル、サイケ・ロックの中間に位置するが、彼は自分自身をあらゆる音楽分野の学生だと考えており、芸術家人生の中で可能な限り多くの音とテーマの領域をカバーする。彼の作品は、「自己探求、自己決定、愛とその反復、孤独、ブラック・カルチャー」といったテーマを探求している。


コンツアー(カリ・ルーカス)の画期的な新譜『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、過去と現在、夜と昼、否定と穏やかな受容の旅の記録であり、落ち着きのない作品である。


カリ・ルーカスと共同エグゼクティブ・プロデューサーのオマリ・ジャズは、チャールストン、ポートランド、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ジョージア、ロサンゼルス、ヒューストンの様々なスタジオで、Mndsgnやサラミ・ローズ・ジョー・ルイスら才能ある楽器奏者やプロデューサーたちとセッションを重ねながら、アルバムを制作した。


ジャンル的には、『Take Off From Mercy- テイク・オフ・フロム・マーシー』は、ギター・ドリブン・ミュージック、トロピカリア、ブルース、そしてヒップホップのありのままの正直さを融合させ、夜への長い一日の旅を鮮やかに描き出すことで、すでにコンターの唯一無二の声に層と複雑さを加えている。


メキシカン・サマーでのデビュー作となる本作では、2022年にリリースされた『オンワーズ!』のノワール的なサンプルやリリカルな歴史性を踏襲し、より歌謡曲的で斜に構えたパーソナルな作品に仕上げている。ルーカスにとって、これはギターを手に取ることを意味し、この動きはすぐに彼を南部のソングライターの長い系譜と形而上学的な会話に置くことになる。カリ・ルーカスは言う。「それはすぐに、旅する南部のブルースマンについて考えるきっかけになった」 彼にとってギターは旅の唯一の友であり、楽器は自分の物語を記録し、世代を超えた物語と伝統を継承する道具なのだ。このアルバムの語り手は放蕩息子であり、悪党の奸計の中をさまようことになる。



『Take Off From Mercy』/ Mexican  Summer   (94/100) 

 

  Yasmin Williams(ヤスミン・ウィリアムズ)をはじめ、最近、秀逸な黒人ギタリストが台頭していることは感の鋭いリスナーであればご承知だろう。Khari Lucas(カリ・ルーカス)もまたジャズのスケールを用い、ソウル、ヒップホップ、サイケロック、そして、エレクトロニックといった複数のフィールドをくまなく跋渉する。どこまで行ったのだろうか、それは実際のアルバムを聞いてみて確かめていただきたい。

 

シンガーソングライター、ルーカスにとっては、ラップもフォークもブルースも自分の好きな音楽でしかなく、ラベリングや限定性、一つのジャンルという括りにはおさまりきることはない。おそらく、彼にとっては、ブルース、R&B、エレクトロニック、テクノ、アンビエント、スポークンワード、サイケロック、それらがすべて「音楽表現の一貫」なのだろう。そして、カーリ・ルーカスは、彼自身の声という表現ーーボーカルからニュアンス、ラップーー様々な形式を通して、時には、フランク・オーシャンのような次世代のR&Bのスタイルから、ボン・アイヴァー、そしてジム・オルークのガスター・デル・ソルのようなアヴァン・フォーク、ケンドリック・ラマーのブラックミュージックの新しいスタイルに至るまで、漏れなく音楽的な表現の中に組みこもうと試みる。まだ、コンツアーにとって、音楽とはきわめて不明瞭な形態であることが、このアルバムを聴くと、よく分かるのではないだろうか。彼は少なくとも、「慈悲からの離陸」を通して、不確かな抽象表現の領域に踏み入れている。それはまるでルーカスの周囲を取り巻く、「不明瞭な世界に対する疑問を静かに投げかける」かのようである。


「静か」というのは、ボーカルに柔らかい印象があり、ルタロ・ジョーンズのようにささやきに近いものだからである。このアルバムの音楽は、新しいR&Bであり、また、未知の領域のフォークミュージックである。部分的にはブレイクビーツを散りばめたり、Yves Tumorの初期のような前衛的な形式が取り入れられることもあるが、基本的に彼の音楽性はもちろん、ラップやボーカル自体はほとんど昂じることはない。そして彼の音楽は派手さや脚色はなく、演出的な表現とは程遠く、質実剛健なのである。アコースティックギターを片手にし、吟遊詩人やジプシーのように歌をうたい、誰に投げかけるともしれない言葉を放つ。しかし、彼の音楽の歌詞は、世の一般的なアーティストのように具象的になることはほとんどない。それはおそらく、ルーカスさんが、言葉というのに、始めから「限界」を感じているからなのかもしれない。

 

言語はすべてを表しているように思えるが、その実、すべてを表したことはこれまでに一度もない。部分的な氷山の上に突き出た一角を見、多くの人は「言葉」というが、それは言葉の表層の部分を見ているに過ぎない。言葉の背後には発せられなかった言葉があり、行間やサブテクスト、意図的に省略された言葉も存在する。文章を読むときや会話を聞く時、書かれている言葉、喋られた言葉が全てと考えるのは愚の骨頂だろう。また、話される言葉がその人の言いたいことをすべて表していると考えるのも横暴だ。だから、はっきりとした脚色的な言葉には注意を払わないといけないし、だからこそ抽象領域のための音楽や絵という形式が存在するわけなのだ。

 

カリ・ルーカスの音楽は、上記のことをかなり分かりやすい形で体現している。コンツアーは、他のブラック・ミュージックのアーティストのように、音楽自体をアイデンティティの探求と看過しているのは事実かもしれないが、少なくとも、それにベッタリと寄りかかったりしない。彼自身の人生の泉から汲み出された複数の感情の層を取り巻くように、愛、孤独、寂しさ、悲しみといった感覚の出発から、遠心力をつけ、次の表現にたどり着き、最終的に誰もいない領域へ向かう。ジム・オルークのようにアヴァンな領域にあるジャズのスケールを吸収したギターの演奏は、空間に放たれて、言葉という魔法に触れるや否や、別の物質へと変化する。UKのスラウソン・マローンのように、ヒップホップを経過したエレクトロニックの急峰となる場合もある。


コンツアーの音楽は、「限定性の中で展開される非限定的な抽象音楽」を意味する。これは、「音楽が一つの枠組みの中にしか存在しえない」と思う人にとっては見当もつかないかもしれない。ヒップホップはヒップホップ、フォークはフォーク、ジャズはジャズ、音楽はそんな単純なものではないことは常識的である。


そして、音楽表現が本当の輝きを放つのは、「限定的な領域に収まりきらない箇所がある時」であり、最初の起点となるジャンルや表現から最も遠ざかった瞬間である。ところが、反面、全てが単一の領域から離れた場所に存在する時、全般的に鮮烈な印象は薄れる。いわば押さえつけられた表現が一挙に吹き出るように沸点を迎えたとき、音楽はその真価を発揮する。言い換えれば、一般的な表現の中に、ひとつか、ふたつ、異質な特異点が用意されているときである。

 

アルバムは15曲と相当な分量があるものの、他方、それほど時間の長さを感じさせることがない。トラック自体が端的であり、さっぱりしているのもあるが、音楽的な流れの緩やかさが切迫したものにならない。それは、フォーク、ブルースというコンツアーの音楽的な核心があるのに加え、ボサノヴァのサブジャンルであるトロピカリアというブラック・ミュージックのカルチャーを基にした音楽的な気風が、束の間の安らぎ、癒やしを作品全体に添えるからである。


アルバムの冒頭を飾る「If He Changed My Name」は、ジム・オルークが最初期に確立したアヴァンフォークを中心に展開され、不安定なスケール進行の曲線が描かれている。しかし、それ対するコンツアーのボーカルは、ボサノヴァの範疇にあり、ジョアン・ジルベルト、カルロス・ジョビンのように、粋なニュアンスで縁取られている。「粋」というのは、息があるから粋というのであり、生命体としての息吹が存在しえないものを粋ということは難しい。その点では、人生の息吹を吸収した音楽を、ルーカスはかなりソフトにアウトプットする。アコースティックギターの演奏はヤスミン・ウィリアムズのように巧みで、アルペジオを中心に組み立てられ、ジャズのスケールを基底にし、対旋律となる高音部は無調が組み込まれている。協和音と不協和音を複合させた多角的な旋法の使用が色彩的な音楽の印象をもたらす。 そしてコンツアーのボーカルは、ラテンの雰囲気に縁取られ、どことなく粋に歌をうたいこなすのである。

 

 一曲目はラテンの古典的な音楽で始まり、二曲目「Now We're Friends」はカリブの古典的なダブのベースラインをモチーフにして、同じようにトロビカリアの領域にある寛いだ歌が載せられる。これはブラックミュージックの硬化したイメージに柔らかい音楽のイメージを付与している。しかし、彼は概して懐古主義に陥ることなく、モダンなシカゴドリルやグリッチの要素をまぶし、現代的なグルーヴを作り出す。そしてボーカルは、ニュアンスとラップの間を揺れ動く。ラップをするというだけではなく、こまかなニュアンスで音程の変化や音程のうねりを作る。その後、サンプリングが導入され、女性ボーカル、アヴァンギャルドなノイズ、多角的なドラムビートというように、無尽蔵の音楽が堰を切ったかのように一挙に吹き出る。これらは単なる引用的なサンプリングにとどまらず、実際的な演奏を基に構成される「リサンプリング」も含まれている。これらのハチャメチャなサウンドは、音楽の未知の可能性を感じさせる。



さて、Lutalo(ルタロ・ジョーンズ)のように、フォークミュージックとヒップホップの融合によって始まるこのアルバムであるが、以降は、エレクトロニックやダンスミュージックの色合いが強まる。続く「Entry 10-4」は、イギリスのカリビアンのコミュニティから発生したラバーズロック、そして、アメリカでも2010年代に人気を博したダブステップ等を吸収し、それらをボサノヴァの範疇にある南米音楽のボーカルで包み込む。スネア、バスを中心とするディストーションを掛けたファジーなドラムテイクの作り込みも完璧であるが、何よりこの曲の気風を象徴付けているのは、トロピカリアの範疇にあるメロディアスなルーカスのボーカルと、そして全体的にユニゾンとしての旋律の補強の役割を担うシンセサイザーの演奏である。そして話が少しややこしくなるが、ギターはアンビエントのような抽象的な層を背景に形作り、この曲の全体的なイメージを決定付ける。さらに、音楽的な表現は曲の中で、さらに広がりを増していき、コーラスが入ると、Sampha(サンファ)のような英国のネオソウルに近づく場合もある。

 

その後、音楽性はラテンからジャズに接近する。「Waterword」、「re(turn)」はジャズとソウル、ボサノヴァとの融合を図る。特に、前者にはベースラインに聴きどころが用意されており、ボーカルとの見事なカウンターポイントを形成している。そしてトラック全体、ドラムのハイハットに非常に細かなディレイ処理を掛けながら、ビートを散らし、分散させながら、絶妙なトリップ的な感覚を生み出し、サイケデリックなテイストを添える。しかし、音楽全体は気品に満ちあふれている。ボーカルはニュアンスに近く、音程をあえてぼかしながら、ビンテージソウルのような温かな感覚を生み出す。トラックの制作についても細部まで配慮されている。後者の曲では、ドラムテイク(スネア)にフィルターを掛けたり、タムにダビングのディレイを掛けたりしながら、全体的なリズムを抽象化している。また、ドラムの演奏にシャッフルの要素を取り入れたり、エレクトリックピアノの演奏を折りまぜ、音楽の流れのようなものを巧みに表現している。その上で、ボーカルは悠々自適に広やかな感覚をもって歌われる。これらの二曲は、本作の音楽が全般的には感情の流れの延長線上にあることを伺わせる。

 

アルバムの中盤に収録されている「Mercy」は本当に素晴らしく、白眉の出来と言えるだろう。ヒップホップに依拠した曲であるが、エレクトロニックとして聴いてもきわめて刺激的である。この曲は例えばシカゴドリルのような2010年代のヒップホップを吸い込んでいるような印象が覚えたが、コンツアーの手にかかると、サイケ・ヒップホップの範疇にある素晴らしいトラックに昇華される。ここでは、南部のトラップの要素に中西部のラップのスタイルを添えて、独特な雰囲気を作り出す。これは「都会的な雰囲気を持つ南部」とも言うべき意外な側面である。そして複数のテイクを交え、ソウルやブルースに近いボーカルを披露している。この曲は、キラー・マイクが最新アルバムで表現したゴスペルの系譜とは異なる「ポスト・ゴスペル」、「ポスト・ブルース」とも称するべき南部的な表現性を体験出来る。つまり、本作がきわめて奥深いブラック・ミュージックの流れに与することを暗示するのである。

 

意外なスポークンワードで始まる「Ark of Bones」は、アルバムの冒頭部のように緩やかなトロピカリアとして流れていく。しかし、ピアノの演奏がこの曲に部分的にスタイリッシュな印象を及ぼしている。これは、フォーク、ジャズ、ネオソウルという領域で展開される新しい音楽の一つなのかもしれない。少なくとも、オルークのように巧みなギタープレイと霊妙なボーカル、コーラス、これらが渾然一体となり、得難いような音楽体験をリスナーに授けてくれるのは事実だろう。続いて、「Guitar Bains」も見事な一曲である。同じくボサやジャズのスケールと無調の要素を用いながら新しいフォークミュージックの形を確立している。しかし、聴いて美しい民謡の形式にとどまることなく、ダンス・ミュージックやEDMをセンスよく吸収し、フィルターを掛けたドラムが、独特なグルーヴをもたらす。ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーステップを経た現代的なリズムの新鮮な息吹を、この曲に捉えることが出来るはずだ。


一般的なアーティストは、この後、二曲か三曲のメインディッシュの付け合せを用意し、終えるところ。そして、さも上客をもてなしたような、満足げな表情を浮かべるものである(実際そうなるだろうとばかり思っていた)しかし、驚くべきことに、コンツアーの音楽の本当の迫力が現れるのは、アルバムの終盤部である。実際に10曲目以降の音楽は、神がかりの領域に属するものもある。それは、JPEGMAFIA、ELUCIDのような前衛性とは対極にある静謐な音楽性によって繰り広げられる。コンツアーは、アルバムの前半部を通じて、独自の音楽形態を確立した上で、その後、より奥深い領域へと踏み込み、鮮烈な芸術性を発揮する。


 「The Earth Spins」、「Thersa」は、ラップそのもののクロスオーバー化を徹底的に洗練させ、ブラックミュージックの次世代への橋渡しとなるような楽曲である。ヒップホップがソウル、ファンク、エレクトロニックとの融合化を通過し、ワールドミュージックやジャズに近づき、そして、ヒーリングミュージックやアンビエント、メディエーションを通過し、いよいよまた次のステップに突入しつつあることを伺わせる。フランク・オーシャンの「Be Yourself」の系譜にある新しいR&B、ヒップホップは再び次のステップに入ったのだ。少なくとも、前者の曲では、センチメンタルで青春の雰囲気を込めた切ない次世代のヒップホップ、そして、後者の曲では、ローファイホップを吸収し、それらをジャズのメチエで表現するという従来にはなかった手法を確立している。特に、ジャズピアノの断片的なカットアップは、ケンドリック・ラマーのポスト的な音楽でもある。カーリ・ルーカスの場合は、それらの失われたコーラスグループのドゥワップの要素を、Warp Recordsの系譜にあるテクノやハウスと結びつけるのである。


特に、最近のヒップホップは、90、00年代のロンドン、マンチェスターのダンスミュージックを聴かないことには成立しえない。詳しくは、Warp、Ninja Tune,、XLといった同地のレーベル・カタログを参照していただきたい。そして、実際的に、現在のヒップホップは、イギリスのアーティストがアメリカの音楽を聴き、それとは対象的に、アメリカのアーティストがイギリスの音楽を聴くというグルーバル化により、洗練されていく時期に差し掛かったことは明らかで、地域性を越え、ブラックミュージックの一つの系譜として繋がっている部分がある。

 

もはや、ひとつの地域にいることは、必ずしもその土地の風土に縛り付けられることを意味しない。コンツアーの音楽は、何よりも、地域性を越えた国際性を表し、言ってみれば、ラップがバックストリートの表現形態を越え、概念的な音楽に変化しつつあることを証立てる。このことを象徴するかのように、彼の音楽は、物質的な表現性を離れ、単一の考えを乗り越え、離れた人やモノをネットワークで結びつける「偉大な力」を持ち始めるのである。そしてアルバムの最初では、一つの物質であったものが分離し、離れていたものが再び一つに還っていくような不思議なプロセスが示される。それは生命の根源のように神秘的であり、アートの本義を象徴付けるものである。

 

アルバムの終盤は、カニエ・ウェストの最初期のようなラフなヒップホップへと接近し、サイケソウルとエレクトロニック、そして部分的にオーケストラの要素を追加した「Gin Rummy」、ローファイからドリルへと移行する「Reflexion」、アヴァンフォークへと回帰する「Seasonal」というように、天才的な音楽の手法が披露され、90年代のNinja Tuneの録音作品のように、荒削りな質感が強調される。これらは、ヒップホップがカセットテープのリリースによって支えられてきたことへの敬意代わりでもある。きわめつけは、クローズ「For Ocean」において、ジャズ、ローファイ、ボサノヴァのクロスオーバーを図っている。メロウで甘美的なこの曲は、今作の最後を飾るのに相応しい。例えば、このレコードを聴いたブロンクスで活動していたオランダ系移民のDJの人々は、どのような感慨を覚えるのだろうか。たぶん、「ヒップホップはずいぶん遠い所まで来てしまったものだ」と、そんなふうに感じるに違いない。





 

Maribou State

Maibou State(クリス・デイヴィッズとリアム・アイヴォリーからなるデュオ)はニンジャ・チューンの新しい看板プロジェクトでもある。彼らのエレクトロ・ポップは力強いイメージを放ち、軽快なダンスミュージックでオーディエンスを魅了する。

 

スーダン出身のオランダ人シンガーソングライター、ガイダーをフィーチャーしたニューシングル 「Bloom」は、彼らの次作アルバム『Hallucinating Love』の収録曲である。ヴォーカリストのホリー・ウォーカーをフィーチャーしたシングル "Otherside "に続く二作目のシングルだ。

 

チルウェイブ風のナンバーで、電子音楽という領域で展開されるライブセッションのようでもある。ボーカルのサンプリングを活かし、ダブステップ/フューチャーステップ風の変則的なリズムを生み出す。ギターなどアコースティック楽器のリサンプリングが導入されているのに注目したい。


現在、マリブ・ステートは、ライブアクトとして英国内で絶大な人気を博しているという。最初の2公演がわずか数時間でソールド・アウト。圧倒的な需要に応えるため、バンドは2025年2月16日(日)、ロンドンのアレクサンドラ・パレスでの3年連続となる公演の開催を発表した。

 


「Bloom」

 


Lex Amor. 『forward ever.』 

 

Label: Modern Oak

Release: 2024年10月4日



Review


Lex Amor(レックス・アモール)は、ノース・ロンドンを拠点に活動するラッパー/DJである。詳しいリスナーならば、Wu-Luの「South」にコラボレーターとして参加し、曲の最後でラップしているのをご存知かも知れない。レックス・アモールは端的には言えば、Little Simzの次世代のラッパーである。アモールのニュアンス、ラップ自体は繊細で、ナイーヴな感覚を持ち合わせている。

 

レックス・アモールのラップは、トラックメイクの前面に出てくるというより、背景となるエレクトロニック・サウンドにじんわりと馴染むといった感じである。最近のロンドンでは、トラップ/サザンヒップホップの「エレクトロニックとヒップホップの融合」という手法を受け継いで、イギリスのダンスミュージックと結びつけている。レックス・アモールのヒップホップもまた、ダブステップやドラムンベース、UKガラージといったベースメントのEDMと密接な関係を持つ。ジョーダン・ラケイの系譜にあるEDMに加わるセンス抜群のラップは、次世代のヒップホップの象徴とも言える。また、実際的に、ギターやベースの生演奏が加わるという点では、Ninja Tuneのサウンドの系譜に位置づけられる。様々な観点から楽しめるヒップホップだ。

 

『forard ever.』に関してはどうだろうか。大掛かりな枠組みを設けず、さりとて分かりやすいサビを作るわけでもなく、淡々とラップを続けてグルーヴを作り上げ、音楽をマイスターのように組み上げてゆく。全体的には、エレクトロニックのトラックにラップするというシンプルな内容である。しかし、トラック制作に関して非凡なセンスがあり、メロウでダークな質感を持つラップ、細かなビートの組み合わせ、 それからレゲエ/レゲトンの系譜にあるフロウが際立っている。さらに、ボーカルやホーンをサンプリングし、組みわせて、心地よいビートを生み出す。

 

実際的に近年のヒップホップアーティストは、エレクトロニックのプロデューサーとしても優れている場合が多い。レックス・アモールも同様である。オープニング「SUN4RAIN」を聞けば、いかに彼女がプロデューサーとして傑出しているか、お気づきになられるだろう。そして、レックス・アモールのヒップホップは、ECMのニュージャズのように、エレクトロジャズの影響も含まれている。これが、全般的な音楽として、ネオソウルのようなメロウさと甘美的な感覚を作り出し、切なさを漂わせるラップと重なりあう。「SHINE IN」は、ワールドミュージックやニューエイジのイントロを起点にして、グリッチ・サウンドをベースにしたUKドリルを展開させていく。しかし、しっとりとした感覚を持つネオソウルの系譜にあるアモールのリリック捌きが独特なアトモスフィアを作り上げる。その雰囲気を一層メロウにしているのが、ダブステップ/フューチャーベースの系譜にあるビートやホーンのコラージュ、コーラスの配置である。これらの多角的なヒップホップは、アシッド・ジャズのような瞑想的な雰囲気を呼び覚ます。決してヒップホップが軽薄な音楽ではないよとレックス・アモールは示唆するわけだ。


このアルバムを聴くと、インストゥルメンタルのEDMは今後、大きな革新性や工夫を凝らさないと、時代遅れになりそうな予感もある。なぜなら、リトル・シムズを筆頭に、ヒップホップ界隈のアーティストのほとんどは、平均的な水準以上のプロデューサーとしての実力を兼ね備えているからである。これは、はっきり言うと、インストゥルメンタルを専門とするエレクトロニック・プロデューサーにとっては、かなり脅威なのではないかと思われる。特に、ハードコアやガラージ、ドラムンベースをヒップホップと掛け合わせることは、ロンドンのラップミュージシャンとしては、ほとんど日常的になっていることが分かる。それらのダンスミュージックの知識とセンスの良さがNY/ブロンクスの古典的なDJのように試されるといった感じである。

 

「BEG」は、EDMとしてそれほど新しくはなく、古典的なドラムンベースを踏襲しているが、やはりというべきか、レックス・アモールのラップが入ると、それらの古典的なダンスミュージックは新鮮なエモーションを帯びる。そして、アモールのラップに関して言及すると、現代的なレゲエ/レゲトン等を吸収した歌唱法を披露していることに注目である。そして、リリックを曲の中に能うかぎり詰め込むというよりも、歌わない箇所をうまく活かし、いわば乗せる部分と聞かせる部分を選り分けているように感じられる。これは、ダンスミュージックのインストゥルメンタルの箇所の魅力を知っているから出来ることだろう。

 

続く「GRIP」も同じくダンスミュージックを主体とする楽曲だが、レックス・アモールのラップは、ほとんど囁きやウィスパーに近い。これはオーバーグラウンドのヒップホップとは対象的に、もの憂げな側面を押し出した、大胆なラップのスタイルである。従来までは、アグレッシヴな側面ばかりが取りざたされることもあったが、どのようなアーティストもナイーヴな側面を持っている。それをストレートに伝えることもまたヒップホップの隠れた魅力の一面なのかも知れない。そして、リズムの複雑化というのが、近年のロンドン界隈のヒップホップの主題である。続く「A7X」は、Stormzyの系譜にあるシンプルで聴きやすいUKドリルの楽曲であるが、リズムの構成が緻密に作り込まれているし、なおかつフューチャーソウルの音楽性がSF的な雰囲気を帯びる。音楽的な世界観としてはSZAに近いが、それほど過剰な音楽性になることはない。ストリートの空気を吸い込んだシンプルなヒップホップのスタイルが貫かれている。

 

「SUMMER RAIN」は、ギターのアップストロークの演奏をコラージュしたEDM。この曲もジョーダン・ラケイの系譜にあるスタイリッシュなヒップホップである。そして、他の収録曲とは少し異なり、ポピュラーの歌唱が織り交ぜられていることが、楽曲そのものの楽しみや面白さを倍増させている。つまり、これはラップの進化のプロセスを示していて、今後のヒップホップは、曲の中でポピュラーのボーカルを部分的に披露するというスタイルが台頭してくるような気配もある。(もちろん、ポピュラーのコラボレーターを参加させるというのも奥の手になるだろうか)これは、例えば、ポピュラーアーティストがスポークンワードを曲で披露するのとは真逆の手法であり、ポピュラー音楽に対するラッパーからの回答とも言うべきだろう。


もうひとつ、このアルバムの最大の魅力は、全体のアンビエンスを形作るオーガニックな感覚にある。「1000 Tears」は、ゆったりとしたBPMのダブステップの系譜にあるヒップホップだ。もちろん、現代的なネオソウルの影響も含まれるとは言え、ボーカルアートのような要素がひときわアーティスティックな印象を帯びる。ヒップホップやラップはおそらく、その表現性を極限まで研ぎ澄ましていくと、ボーカル・アートに近くなるのかもしれない。この曲では、ELIZAのボーカルの協力を得て、「ラップのコラージュアート」という未知の領域へと差し掛かる。ボーカルのサンプリングを活かして、それらをトラックの随所に散りばめるという手法は、ラップにおけるアクション・ペインティングの要素を思わせる場合がある。これはまた、バスキアの事例を見ても分かる通り、ヒップホップというジャンルがストリートで発生し、そしてアートと足並みを揃えて成長してきた系譜をはっきりと捉えることが出来るだろう。


現在、多数のプロデューサーが取り組んでいる「ジャズとヒップホップのクロスオーバー」という主題は、すでにシカゴ等の地域で盛んであったが、ロンドンでも今後の主流となっていきそうな気配がある。「AGAIN」では、ジャズの抽象的なニュアンスを捉え、グルーヴ感のあるEDMにテイストとしてまぶすという手法が見出される。そして、これらは現代的なロンドンのダンスミュージックと結びつくと、アーバンでスタイリッシュ、洗練された印象を帯びるのである。この曲は、ヒップホップがジャズに最接近した瞬間で、それらの表現法はニュージャズに属する。今後、こういった手法がどのように変化したり、成長していくのかを楽しみにしたい。

 

レックス・アモールの音楽性がすべてが完成したといえば誇張表現になるだろう。もちろん、その中には発展途上の曲もある。しかし、現代の女性ラッパーとしては、抜群のセンスが感じられる。全般的には、アンニュイとも言うべきヒップホップに終始しているが、クローズ「SUPER BLESSED」だけはその限りではない。アンダーグラウンドのダンスミュージックとヒップホップを結びつけ、本作のクライマックスで強烈な爪痕を残す。レックス・アモールはフューチャーベースを主体としたヒップホップにより、ロンドンのラップの現在地を示している。

 

 

 

82/100


 

 

■ 90年代のテクノ・ミュージック  

Plaid  90年代のテクノの立役者

デトロイトで始まり、隣接するシカゴを経て、海を渡り、イギリスに輸出されたテクノミュージック。現在でもハウスと並んで人気のあるダンス・ミュージックである。Kraftwerkから始まった電子音楽のイノベーションは、NEUの実験的な音楽の位置づけを経て、アメリカ、イギリスに渡り、それらの前衛的な性質を残しつつも、ベースメントの領域で独自の進化を辿るようになった。元々、アメリカではブラックミュージックの一貫として始まったこのジャンルがイギリスに渡ると、白人社会の音楽として普及し、80年代の後のクラブカルチャーを後押しした。


1990年代のテクノ・ミュージックは、新しもの好きのミュージシャンがラップトップで制作を始めた時期に当たる。90年代のテクノが以前のものと何が異なるのかといえば、その音楽的な表現を押し広げ、未知の可能性を探求するようになったことだろうか。

 

このジャンルを一般的に普及させたデトロイトのDJ、ジェフ・ミルズは、この年代において「テクノはストーリーテリングの要素を兼ね備えるようになった」と指摘している。いわば、それまでは4つ打ちのハウスのビートのリズムをベースに制作されるDJの音楽という枠組みにとどまっていたテクノは、ナラティヴな性質を擁するに至る。そのおかげか、たとえ全体的なイメージが漠然としていたとしても、制作者やDJは、音楽の概念的なイメージをリスナーに伝達しやすくなった。

 

近年でも、これらの「ストーリーテリングの要素を持つテクノ」という系譜は受け継がれていて、Floating Pointsの最新作『Cascade』、ないしは、Oneohtrix Point Neverの『Again』ということになるだろうか。さらに言えば、それは、単にサンプラーやシンセで作曲したり、DJがフロアで鳴らす音楽が、独自形態の言語性を持ち、感情伝達の手段を持ち始めたということでもある。

 

さらに、ジェフ・ミルズの指摘と合わせて再確認しておきたいのが、(Four Tetが今でもそういった制作方法を行うことがあるように)電子音楽がサウンド・デザインの要素を持ち始めたということだろう。これらは、シンセのプリセットや製品の進化と並行して、従来になかったタイプの音色が付け加えられるようになり、純粋なリズムのための音楽であったテクノが旋律の要素を殊更強調し、多彩な表現性を持つようになったことを意味している。「カラフルな音楽」とも換言できるかも知れない。その過程で、幅広い音楽の選択肢を持つようになったことは事実だろう。

 

ご存知の通り、2020年代では、オーケストラのような壮大なスケールを擁する電子音楽を制作することも無理難題ではなくなりつつある。これは、1990年代のプロデューサー/DJの飽くなき探究心や試作、そして、数々の挑戦がそれらの布石を形作ったのである。また、実験音楽としての電子音楽が街の地下に存在することを許容する文化が、次世代への道筋を作った。もちろん、これらのアンダーグランドのクラブカルチャーを支えたのは、XL、Warp、Ninja Tune((90年代はヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブが多い)、そしてドイツ/ケルンのKompaktとなるだろう。

 

現在でも、上記のレーベルの多くは、主要な話題作と並び、アンダーグラウンドのクラブミュージックのリリースも行っている。要するに、売れ行き重視の商業的な音楽を発表することもあるが、基本的には、次世代の音楽の布石となる実験性の余地、ないしは、遊びの余白を残している。例えば、もしかりに、90年代のテクノミュージックが全く非の打ち所がなく、一部の隙もない音楽だったとしたら、次世代のダンスミュージックは衰退に向かっていたかも知れない。これらのレーベルには、欠点、未達、逸脱を許容する懐深さをどこかに持っていたのだ。

 

下記に紹介するプロデューサー、DJの作品は、彼らの前に何もなかった時代、最初のテクノを波を作った偉大な先駆者ばかりである。それは小さなさざなみに過ぎず、大きなウェイブとならなかったかもしれないが、2000年代以降のダンスミュージックの基礎を作ったのみならず、現代のポピュラーミュージックの足がかりを作る重要な期間でもあった。しかし、これらの解釈次第では「未知への挑戦」が次世代の音楽への布石となったのは事実ではないだろうか。




1.  SL2 『DJs Take Control』1991  XL

 

SL2は、ロンドン出身のブレイクビーツ・ハードコア・グループ。Slipmatt & LimeやT.H.C.名義でもレコーディングやリミックス、プロデュースを行っている。

 

SL2は当初、DJのマット・「スリップマット」・ネルソンとジョン・「ライム」・フェルナンデス、ラップボーカリストのジェイソン・「ジェイ・J」・ジェームスの3人で結成された。SL2という名前は、創設者たちのイニシャルに由来する。1985年に活動を開始し、93年に解散するも、1998年に再結成し、現在に至る。

 

『DJs Take Control』は、Food MusicとXLの2つのバージョンが存在する。'89年にイギリスで合法的に開催されたオリジナル・レイヴ「RAINDANCE」のレジデントであったSLIPMATTとLIMEを中心とするハードコア・ユニット・SL2が'91年にリリースした作品。Food MusicからのリリースとXLのリリースの二バージョンが存在する。Food Musicのオリジナル・バージョンは2018年に再発された。


レイヴミュージックをベースにしたサウンドであるが、ハードコア、UKブレイクビーツの先駆的な存在である。以降のJUNGLEのようなサンプルとしてのダンスミュージックの萌芽も見出だせる。クラブ・ミュージックの熱気、そしてアンダーグラウンド性を兼ね備えた画期的な作品だ。

 

 


 

 


 

2. Kid Unknown 「Nightmare」1992 Warp

 

 Kid Unknownは、ポール・フィッツパトリックのソロプロジェクト名で、マンチェスターの伝説的ナイトクラブ、ハシエンダのレギュラーDJだった。

 

1992年にワープから2枚のシングルをリリースした後、ニッパー名義でレコーディングを行い、LCDレコーズを共同設立している。

 

 1992年にWarpから発売されたEPで、イギリス国内とフランスで発売された作品であると推測される。当初は、ヴァイナルバージョンのみの発売。イギリスのブレイクビーツ/ダブの最初期の作品で、おそらくハシエンダのDJであったことから、マンチェスターのクラブミュージックの熱気が音源からひしひしと伝わってくる。DJのサンプラーやシンセの音色もレトロだが、原始的なビートやフロアの熱気を音源にパッケージしている。

 

このEPを聞くかぎりでは、最近のEDMはパッションやエネルギーが欠落しているように思える。知覚的なダンスミュージックというより、どこまでも純粋な感覚的なダンスミュージック。

 

 

 

 

3. John Bertlan 『Ten Days Of Blue』1996   Peacefrog Holding  

 


デトロイト・スタイルのテクノをレコーディングするプロデューサーとして、ジョン・ベルトランほど優れた経歴を持つ者はいない。

 

ミシガン/ランシング近郊を拠点に活動するベルトランは、デリック・メイ(インディオ名義)と仕事をし、カール・クレイグのレーベル、レトロアクティブから数枚のレコードをリリースしている(マーク・ウィルソンと共にオープン・ハウス名義)。ジョン・ベルトランは、ワールド・ミュージックやニューエイジ・ミュージックから着想を得て、PeacefrogやDot(Placid Anglesとして)といったホームリスニング志向のレーベルから作品をリリース。90年代初頭にアメリカのレーベル”Fragmented”と”Centrifugal”からシングルをリリースした後、1995年にR&Sレコードからデビューアルバム『Earth and Nightfall』をレコーディングした。

 

『Ten Days Of Blue』は2000年代以降のテクノの基礎を作った。ミニマル・テクノが中心のアルバムだが、駆け出しのプロデューサーとしての野心がある。現在のBibloのような作風でもあり、他のアコースティック楽器を模したシンセの音色を持ちている。かと思えば、アシッド・ハウスや現在のダブステップに通じるような陶酔的なビートが炸裂することもある。サウンド・デザインのテクノの先駆的な作品であり、時代の最先端を行く画期的なアルバムである。


 

 


 4. Plaid 『Not For Threes』1997  Warp

  

エレクトロニック・ミュージックの多様なサブジャンルを探求する時でさえ、イギリスのデュオPlaidは繊細なタッチを保っている。アンディ・ターナーとエド・ハンドリーは、UKのパイオニア的レーベルであったワープ・レコードの初期に契約し、ザ・ブラック・ドッグの後継者として、1991年にロンドンでこのプロジェクトを立ち上げた。

 

プレイドは、1997年の『Not For Thees』を皮切りに、カタログの大半をワープからリリースしている。このアルバムでは、メロウなブレイクビーツと格子状に脈打つメロディーをバックに、ビョークが歌い、「Lilith」では狼のように戯れに吠える。常に微妙に形を変えながら、

 

プレイドはその後、バブリーなアンビエンス(2001年の『Double Figure』)、シネマティックなムード(2016年の『The Digging Remedy』)、グリッチ的な複雑さ(2019年の『Polymer』)に及んでいる。ターナーとハンドリーは、2022年の『Feorm Falorx』で、架空の惑星で無限のフェスティバルを演奏する自分たちを想像し、これまでで最も弾力性のある作品を制作した。アルバムでは、ニューエイジサウンドに依拠したテクノ、ドラムンベース、アシッド・ハウス、トリップ・ホップ等、多角的なダンスミュージックを楽しむことが出来る。

 

 

 

 

 

5.  Aphex Twin 『Digeridoo』 1993  Warp


テクノの名作カタログを数多くリリースしているAphex Twin。メロディアスなテクノ、ドラムンベースのリズムを破砕し、ドリルに近づけたダンスミュージックの開拓者である。


最近では、「Come To Daddy EP」、『Richard D Jamse』等のテクノの名盤を90年代に数多く残したが、実のところ、ハウス/テクノとして最も優れているのは『Digeridoo』ではないか。ゴア・トランス、アシッド・ハウスといった海外のダンスミュージックを直輸入し、それらをUK国内のハードコアと結びつけ、オリジナリティ溢れる音楽性へと昇華させている。いわば最初期のアンビエント/チルウェイブからの脱却を図ったアルバムで、むしろ90年代後半の名作群は、この作品から枝分かれしたものに過ぎないかもしれない。2024年にはExpanted Versionがリリースされた。名作が音質が良くなって帰ってきた!!





6. Oval 『94 Diskont』 1996   Thrill Jockey

 

オーバルは1991年に結成された。マルクス・ポップ、セバスチャン・オシャッツ、フランク・メッツガー、ホルガー・リンドミュラーによるカルテットとしてスタートし、2年後にリンドミュラーが脱退した後、95年にマーカスポップによるプロジェクトになった。彼のソフトウェアベースの音楽は、ライブボーカルやクラブ対応ビートなどの要素が最終的に追加され、より従来の美しさとより混沌としたアイデアの両方を含むようになる。


1994年の『Systemisch』でCDをスキップする実験を行ったが、この1995年の続編では、そのテクニックを本当に叙情的に表現している。24分に及ぶ「Do While」はベル・トーンとスタッカート・チャイムで表現され、「Store Check」のラジオスタティックから「Line Extension」のシューゲイザーに至るまで、アルバムの他の部分も同様に催眠術のよう。これほど実験的な音楽が、温かな抱擁のように聴こえるのは珍しい。このアルバムはIDMの先駆的な作品であり、ダンスミュージックをフロアにとどまらず、ホームリスニングに適したものに変えた。2000年代以降のグリッチサウンドの萌芽も見出されるはずだ。

 



7. Dettinger 『Intershop』1999   Kompakt    * 2024年にリマスターで再発

 

Dettinger(デッティンガー)はドイツのレコード・プロデューサーで、ケルンを拠点とするレーベルKompaktと契約している。1998年の『Blond 12「』、1999年のアルバム『Intershop』(Kompakt初のシングル・アーティストLP)、『Puma 12」』、『Totentanz 12"』、2000年のアルバム『Oasis』などをリリース。


デッティンガーのトラックは、KompaktのTotal and Pop AmbientシリーズやMille PlateauxのClick + Cutsシリーズなど、様々なコンピレーションに収録されている。ペット・ショップ・ボーイズ、クローサー・ムジーク、ユルゲン・パーペなどのアーティストのリミックスも手がけている。また、フランク・ルンペルトやM.G.ボンディーノともコラボレーションしている。


『Intershop』については、アンビエントテクノの黎明期の傑作とされる。いかにもジャーマンテクノらしい職人的な音作りが魅力。それでいて天才的なクリエイティビティが発揮されている。Krafwerkの末裔とも言えるような存在。現在のテクノがこの作品に勝っているという保証はどこにもない。すでに2000年代のグリッチノイズも登場していることに驚く。テクノの隠れた名盤。

 

 

 


8.Orbital 『Orbital』(The Green Album)1991  London Records

 

表向きの知名度で言えば、Autechreに軍配があがるが、個人的に推すのがオービタル。アンダーワールド、ケミカル・ブラザーズ、プロディジーらと並び、1990年代のテクノシーンを代表するアーティストのひとつである。ライヴではライト付きの電飾メガネを付けてプレイするのが大きな特徴。

 

1990年代以来、ケント州のデュオ、オービタルは、複雑でありながら親しみやすいエレクトロニック・ミュージックを提供し、ダンスフロアのために作られた曲のために、渋いテクノと陽気なディスコの間を揺れ動いてきた。フィルとポールのハートノール兄弟は、M25に敬意を表して自分たちのプロジェクトを名付け、最初のシングル「Chime」を父親の4トラック・レコーダーで制作した。

 

1993年の『Orbital 2』でブレイクした彼らは、ディストピア的なサウンドと複雑なリズムを組み合わせたテクノ・アルバムを発表。その後のLP『The Middle of Nowhere』(1999年)や『Blue Album』(2004年)では、ハウスやアンビエント・テクノの実験を続け、2004年に解散。2012年に再結成された『Wonky』は、彼らの最もダイナミックな作品を生み出した活気に満ちたLPで、この傾向は2018年の『Monsters Exist』でも続いている。技術的に熟達しながらも果てしない好奇心を持つオービタルは、エレクトロニック・ミュージックの柱として君臨している。

 

グリーンアルバムはシンプルなミニマル・テクノが中心となっているが、このジャンルの感覚を掴むために最適なアルバムなのではないか。音色の使い方のセンスの良さ、そして発想力の豊かさが魅力。


 




9.  横田進  『Acid Mt.Fuji』1994 Muscmine Inc.


横田は日本出身の多彩で多作な電子音楽家・作曲家である。当初は1990年代を通じてダンス・ミュージックのプロデュースで知られていたが、2000年代に入ると、舞踏のように忍耐強く、小さなジェスチャーと徐々に移り変わる静かな音のレイヤーで展開するアンビエントで実験的な作品で、世界的なファンを獲得した。

 
初期のリリースは、アシッドトランスの『The Frankfurt-Tokyo Connection』(1993)から、デトロイトにインスパイアされた爽やかなテクノやハウスの『Metronome Melody』(Prismとして1995)まで多岐にわたる。

 
1999年に発表されたループを基調とした幽玄な瞑想曲『Sakura』は批評家から絶賛され、以来アンビエントの古典とみなされるようになった。その後、2001年の『Grinning Cat』や2004年のクラシックの影響を受けた『Symbol』など、アンビエントやダウンテンポの作品が多く発表されたが、2009年の『Psychic Dance』など、テクノやハウスのアルバムも時折発表している。


後には、ミニマル音楽等実験音楽を多数発表する横田さん。このアルバムではテクノとニューエイジや民族音楽等を結びつけている。心なしか東洋的な響きが込められているのは、ジャパニーズテクノらしいと言えるだろうか。日本のテクノシーンは、電気グルーヴやケン・イシイだけではないようだ。

 

 

 


10.   Thomas Fehlman   『 Good Fridge. Flowing: Ninezeronineight』1998  R&S


トーマス・フェールマンは、ポスト・パンクやハードコア・テクノ等、長年にわたってさまざまなスタイルでプレイしてきたが、アンビエント・ダブの巨人として最もよく知られている。

 

1957年、スイスのチューリッヒに生まれた彼は、1980年にハンブルクでホルガー・ヒラーとともに影響力のあるジャーマン・ニューウェーブ・グループ、パレ・シャウムブルクを結成。


90年代初頭には、モリッツ・フォン・オズワルド、フアン・アトキンス、エディ・フォウルクスらとともに2MB、3MBというグループでスピード感のあるストリップダウンしたレイヴを作り始め、デトロイトとベルリンのそれぞれのテクノ・シーンのつながりを正式に築くことに貢献した。

 

1994年にリリースした『Flow EP』などで、フェールマンはよりアンビエントなテクスチャーの探求を始め、ケルンのレーベル”Kompakt”からリリースした数多くのアルバムに見られるような瑞々しいパレットを確立した。パートナーのグドゥルン・グートとのマルチメディア・プラットフォーム「Ocean Club」のようなサイド・プロジェクトの中でも、フェールマンはアレックス・パターソンのアンビエント・プロジェクト「The Orb」の長年のコラボレーターであり、時にはゲスト・ミュージシャンとして、時には(2005年の『Okie Dokie It's The Orb On Kompakt』のように)グループの正式メンバーとして参加している。


『 Good Fridge. Flowing: Ninezeronineight』はベテランプロデューサーの集大成のような意味を持つアルバム。ジャーマンテクノの原点から、UKやヨーロッパのダンスミュージック、そしてテクノ、アンビエント、ハードコアテクノ、アシッド・ハウスまでを吸収したアルバム。98年の作品とは思えず、最近発売されたテクノアルバムのような感じもある。ある意味ではジャーマンテクノの金字塔とも呼ぶべき傑作。

 


 

◾️2000年代のテクノミュージックをより良く知るためのガイド

 Marmo  「Deaf Ears Are Sleeping」EP

 

Label: area127

Release: 2024年8月28日

 

Review    ◾️ロンドンのダンスユニットの新作 リズムの組み替えからもたらされる新しいEDM


ロンドンの二人組、marco、dukaによるエレクトロニック・プロジェクト、MARMO(マルモ)は当初、メタルバンドのギタリストとボーカルによって結成された。おそらく両者とも、覆面アーティストであり、Burialのポスト世代のダンスユニットに位置付けられるが、まだまだ謎の多い存在である。


昨年、マルモはアンビエントとSEの効果音を融合させた近未来的なエレクトロニックアルバム『Epistolae』を発表し、ベースメントであるものの、ロンドンに新しいダンスミュージックが台頭したことを示唆していた。

 

『Deaf Ears Are Sleeping  EP』も新しいタイプのダンスミュージックで、聞き手に強いインパクトを及ぼすのは間違いない。三曲収録のEPで、逆向きに収録されたリミックスが並べられている。オリジナル曲との違いは、リミックスバージョンの方がよりディープ・ハウスに近いダンサンブルなナンバーとなっている。

 

当初、メタルバンドとして出発したこともあってか、Marmoの音楽はサブベースが強く、徹底して重低音が強調されている。それはヘヴィメタルから、ドラムンベースやフューチャーベース、ダブステップ等の現地のベースメントの音楽にアウトプット方法が変遷していったに過ぎないのかも知れない。しかし、ロンドンのダンスミュージックらしいエグさ、ドイツを始めとするヨーロッパのEDMを結びつけるという狙いは、前作よりもこの最新作の方が伝わりやすい。

 

「Inner System」は、ドイツのNils Frahm(ニルス・フラーム)の「All Armed」のベースラインの手法を、モジュラーシンセ等を用い、ダブステップのリズムと結びつけて、斬新なEDMを作り上げている。特に、Squarepusherの最初期からの影響があるのは歴然としており、それは、Aphex Twinのような細分化したハイハットやドリル、SE的なアンビエント風のシークエンスという形に反映されている。まさにロンドンのダンスミュージック文化の威信をかけて制作されたオープナーである。実際的に、ローエンドの強いバスドラム(キック)とMARMOの近未来的な音楽性が結び付けられるとき、ダンスミュージックの新奇な表現が産声を上げるというわけなのだ。

 

二曲目「Deaf Ears Are Sleeping」は、例えば1990年代のCLARKの『Turning Dragon』など、ドイツのゴアトランスに触発された癖の強いダンスミュージックだが、オープナーと同じようにSEの効果音を用いながら、オリジナリティ溢れる音楽を追求している。部分的には、最近のオンラインゲームのサウンドトラックのようなコンセプチュアルな音楽が、ダブステップのようなリズムと結び付けられ、近未来的なEDMが構築されている。


「Deaf Ears Are Sleeping」に発見できるのは、バーチャル(仮想空間)の時代の新しい形式のダンスミュージックであり、それらが一貫して重低音の強いベースやバスドラム、Spuarepusher(スクエアプッシャー)のようなアクの強いリズムと結び付けられている。さらに、モジュラー・シンセなのか、サンプラーで出力しているのかまでは判別出来ないが、ドローン風の効果音もトラック全体に独特なドライブ感と、映像的な音楽性を付け加えていることも付記すべきだろう。

 

3つのリミックスは、オリジナル曲をアシッドハウス、ゴアトランス寄りのミックスとして再構成されたものなので、説明は割愛したい。しかし、「Aztec Euphoria」は、ドラムンベースやフューチャーベースの次の新しいジャンルが誕生した、もしくは、その芽吹きが見えはじめたといっても差し支えないかも知れない。リズムが複合的で面白く、アンディ・ストットのようなリズムの重層的な構築に重点を置いたトラックとして楽しめる。また、ブラジルのSeputula(セパルトゥラ)が、民族音楽をヘヴィメタルに置き換えてみせたように、マルモは民族音楽のリズムを彼らの得意とするダンスミュージックの領域に持ち込んだと解釈することができる。


近年、どれもこれも似たり寄ったりなので、EDMは飽和状態に陥っているとばかり思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。解決の糸口は思いもよらない別のジャンルにあるのかも知れない。少なくとも、アフリカの打楽器のような音をサンプラーとして処理し、ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーベースとして解釈するというマルモの手法は、まったく未曾有のもので、ロンドンのアンダーグラウンドから興味深い音楽が台頭したことの証ともなりえる。

 

例えば、Killing Jokeは、かつてイギリスに固有の音楽が存在しないことを悩んでいたが、彼らの場合は、すでに存在するリズムを複雑に組み替えることで、新しいイギリスの音楽(複合的なリズム)の形式を確立させた。これは、Gang Of Fourはもちろん、Slitsのようなグループを見ても同様だ。新しい音楽が出来ないと嘆くことはなく、すでにあるものに小さな改良を加えたり、工夫をほどこすだけで、従来に存在しなかったものが生み出される場合がある。Killing Jokeのようなポスト・パンクの代名詞的なグループは、歴史的にこのことを立派に実証している。ロンドンのMarmoもまたこれらの系譜に属する先鋭的かつ前衛的なダンスユニットなのである。
 



85/100

  


 beabadoobee  『This Is How Tomorrow Moves』

 

Label: Dirty Hit

Release:2024年8月9日

 

 

Review  

 

フィリピン/イロイロ島出身のロンドン在住のシンガーソングライター、beabadoobeeはデビューアルバムでは音楽性が定まらなかったが、このセカンド・アルバムでようやく「一家言を持つようになった」とも言える。一家言といえば大げさかもしれないが、主張性を持つようになったことは明確である。音楽的にも、スポークンワードに挑戦し、ロンドンの現代的な音楽を吸収しているのを見るかぎり、「海に飛び込む覚悟!!」という歌手の説明は、単なるブラフではあるまい。もちろん、海に飛び込んだ後、どこにたどり着くかは、依然としてはっきりとしていない。ドーヴァー海峡を越えて、別のユーラシアの国にたどり着くのか、それともほかに??


さて、最近、88risingのNIKIを見ると分かる通り、アジア系のシンガーソングライターに注目が集まっている。beabadoobeeもその一人には違いないが、このセカンド・アルバムにアジア的なテイストはあるのだろうか。フィリピン時代に、シンガーが聴いていたと思われる日本のポピュラー音楽の影響も微かに感じられるが、それは色付けや脚色のような範疇に留められている。(タイを始めとする東南アジア圏では、シティ・ポップをはじめとする日本の音楽が若者に親しまれている。)間違いなく、このアルバムの根幹にあるのは、モダンなロンドンのポップスであるが、ソングライターは自分らしいカラーをこの作品で探求しているように思える。ファースト・アルバムのようなアルバムを期待して、少し雰囲気が変わってしまったことに落胆を覚えるリスナーは、息子や娘が自分の元から旅立ってしまったとき、ショックを覚えるタイプの人々だろう。少なくともセカンドには、歌手としての成長のプロセスが示されているらしい。

 

Dirty Hitの所属アーティストは、それほど地域性という側面にこだわらないような気がしている。基本的には、Dirty Hitには商業的なポップスを制作するミュージシャンが多いが、彼らの共通点を挙げると、ローカルな音楽ではなくて、コスモポリタニズムの範疇にある音楽を制作するということである。つまり、彼らの出発は地域的だが、そこを飛び出し、より広いコスモポリタンとしての領域へと踏み出そうとするのである。唯一の例外は、オスカー・ラングだが、最もイギリスらしい曲を書く歌手である一方、やはりローカルなポップスとは言い難く、「インターナショナルなポピュラー」という点では共通している。そして、beabadoobeeのセカンドアルバムの作曲性についても、インターナショナルな観点を重視しており、イギリス的な音楽というよりも、ヨーロッパ的な音楽が、この二作目には通奏低音のように響いている。そしてそれは、現代のトレンドになりはじめているチェンバーポップのリバイバルから、イエイエのようなフレンチ・ポップの復権、バブリーな雰囲気を持つアジアのポピュラー等、多角的な音楽性を基底にして、デビューアルバムより完成度の高い作品が制作されたと見るのが妥当である。

 

しかし、何かが変わったことは事実だが、デビュー作の音楽性が完全に立ち消えとなったかと言えばそうでもない。依然としてベッドルームポップの範疇にあるガーリーなポップスは引き継がれている。

 

「1- Take A Bite」は今最もストリーミングで人気がある一曲。いちばん興味を惹かれるのは、Tiktok、Instagramの時代の即時的な需要に応えながらも、曲全体の作り込みを軽視することがないということ。緻密に作り込まれているが、他方、聞きやすい曲を渇望するリスナーの期待にも応えてみせる。

 

このオープナーには、ソングライターとしてのbeabadoobeeの器用さが表れている。甘口のポップスを書くことに関しては人後に落ちないシンガーの真骨頂とも言うべきナンバーだ。それに加えて新しい音楽的な要素もある、チェンバーポップのリズムを交えながら、曲の後半では、アンセミックなフレーズを出現させる。しかしながら、それはオルトポップの位置づけにある。ここにはインディーズ音楽をこよなく愛するシンガーの好みのようなものが反映されている。


beabadoobeeの音楽性にはデビュー・アルバムの時代からオルタナティヴロックの影響が含まれている。

 

「2-Calfornia」では、オルタナティヴロックをベースに、それらをポップスの切り口から捉えている。サンプリング的なギターロックという側面では、Nilufur Yanyaに近く、また同時に80年代のハードロックの系譜にあるメタリックなギターのリフが際立っている。しかし、やはりオリジナリティがあり、それらのテイストを甘口のベッドルームポップで包み込む。好き嫌いが分かれるかも知れないが、アイスクリームのように甘いメロディーとツインリードを元にしたギターラインが組み合わされる時、このアルバムの序盤のハイライトとも称すべき瞬間が出現する。

 

「3−One Time」では、アーティストが語っていた「他者と自分の関係性」についてのテーマが見え隠れする。いわば前作までは、「他者の影響下にある自己」というテーマがフィーチャーされていたのだったが、今作では、環境に左右されることのない自律性を重んじており、「自分を主体とした他者」という以前とは真逆の見方や考え方が反映されているように思える。ドラムテイクを中心とするバンド形式での録音だが、ここでは前面に立つ自己を許容しており、またおそらく、「自分に自信や責任を持つことの重要性」を対外的に示そうとしているのではないか。それは前項とも関連性があるが、他者に惑わされることのない無条件の肯定感でもある。現代のソーシャルメディアが優勢の時代、一般的には承認を受けなければ価値に乏しいという考えに走りがちだが、それは一つの価値観に過ぎない。他者の承認というのは、一時的なものに過ぎず、それとは別の「無条件の自認」という考えがソングライティングの根幹に揺曳する。歌声自体にも、デビューアルバムに比べて、自負心や、勇敢な気風が備わっている。これは、実際的なライブ等で経験を積みながら、着実にファンベースを獲得してきたシンガーとしての実感のような思いが、歌声やソングライティングにリアリティを付与したと考えられる。

 

「4−Real Time」では、デビュー・アルバムにはなかったタイプの曲で、聞き手を驚かせるはずだ。ララバイやバラッドという西洋音楽の古典的な形式を踏襲し、ディキシーランドジャズのような米国の音楽的な要素を付け加えて、ビートルズの影響下にあるソングライティングに昇華させている。デビューアルバムの夢想的な楽しさという音楽的なテーマは2年を経て、別の感覚に転化したことが分かる。ソングライターとしての音楽性の間口の広さがこの曲に表れている。


「5- Tie My Shoes」では、アコースティックのオルトフォークのイントロから、やはりこのアーティストらしいベッドルームポップのブリッジやサビへと移行していく。そして、前作にはなかったカントリーやフォークの要素が、レビューの冒頭で述べたように、インターナショナルなポピュラー音楽としての機能を果たしている。特に、この曲ではアコースティックギターにバンジョーのようなフォーク音楽の源流にある楽器を使用することで、「モダンとクラシックのハイブリッド」としての現代の商業音楽というウェイブを巧みに表そうとしているのである。

 

 Best Track-「Tie My Shoes」

 

 

さらに、セカンド・アルバムでは音楽性として多彩なバリエーションが加わっている。中盤では、落ち着いた聞かせるタイプの楽曲が多く、シンガーソングライターとしての進化が伺える。


「6-Girl Song」では、オスカー・ラングが最新作で示したような70年代、80年代のビリー・ジョエルのソングライティングを踏襲し、beabadoobeeはピアノ・バラードの領域に踏み入れている。静謐なバラードの導入部には「帰れ ソレントへ」に代表されるカンツォーネからの影響も伺え、牧歌的なフォークの響きとポピュラーとしての深みが見事な合致を果たす。さらに、ジョエルのようなシンプルな構成を元に、”良いメロディーを聞きたい”という要求に、ソングライターは端的に応えている。亜流の音楽ではなく、王道の音楽にストレートに挑んでいる点に、頼もしさすら感じられる。一方、「音楽の楽しさ」という点を重視しているらしく、「7- Coming Home」では、古典的なワルツの形式を踏まえて、それらを遊園地のメリーゴーラウンドのようなきらびやかな楽しさで縁取っている。その中で、往年のイエイエのようなフランスの歌手のボーカルの形式を踏まえ、おしゃれな感覚のあるポップスという形に昇華させている。

 

一方、「5- Tie My Shoes」で登場したフォーク・ミュージックの要素が続く「8- Ever Seen」で再登場する。バンジョーの響きが、beabadoobeeの甘口のポップスと鋭いコントラストを描き、モダンとクラシカルという、このアルバムの副次的なテーマが、表向きのテーマの向こうにぼんやりと浮かび上がってくることがある。この曲では、The Poguesに象徴されるアイルランドのフォークとインディー・ポップの魅惑的な響きが掛け合わされて、このアーティストしか生み出し得ないスペシャリティが生み出される。この曲は最終的に、舞踊曲に変わっていき、踊りのためのポピュラーミュージックへと変遷していく。以前、beabadoobeeeは、彼女自身が出演したバレエのミュージックビデオも撮影していたが、舞踏曲としての予兆が込められていたのである。

 

すでにいくつかのワールドミュージックが登場しているが、続く「9- A Cruel Affair」では、ボサノヴァとイエイエのボーカルをかけ合わせて、南国的な音楽のムードを作り出す。これらは神経質なポピュラーとは対象的に、音楽の寛いだ魅力を呼び起こそうとしている。アルバムの中の休憩所となり、バリ島のリゾート地のようなリラックスした雰囲気を楽しめる。ただ、一貫してbeabadoobee のボーカルは、全盛期のフランソワ・アルディを意識しているのかもしれない。少なくとも、イエイエのようなフレンチ・ポップのおしゃれな語感を活かし、夢想的な感性に縁取ってみせる。途中に導入されるギターは天にも昇るような感覚があり、クルアンビンのサイケロックやホリー・クックのダブのようなトロピカル性やリゾートの感覚を呼び覚ます。



その後、オルタネイトなインディーロックが再登場する。「10- Post」は、バンド形式の録音で、現代的なバンガーとなるべく制作された一曲である。アコースティックのドラムと打ち込みのドラムを交互に配置し、ロックとエレクトロニックの印象を代わる代わる立ち上らせる。そしてボーカルにしても、ギター、ドラムの演奏にしても、従来のbeabadoobeeの曲の中ではパンキッシュな魅力を持つトラックに昇華されている。時々、曲はメタリックな性質が強まることもある。一方、デビューアルバムから一貫している、内省的な感覚を備える切ないメロディーが背後にちらつく。これらのエネルギッシュな側面とナイーヴな側面の融合が多彩性をもたらす。無論、表向きの音楽のみならず、背後に鳴り響く音楽としての性格も具備している。これが音楽に説得力と呼ばれるものや、何度も聞きたくなる要素をもたらすことは明確なのだ。

 

続く「11- Beaches」は、オルトポップ・アーティストとしての総括をするような一曲である。ベッドルームポップの系譜にあるギターの内省的なイントロから、それとは対象的にポップバンガーとして見ても違和感がないダイナミックなサビへ移行する瞬間は、beabadoobeeの最初期のキャリアを象徴付ける最高の一曲が誕生したと見るのがふさわしいかも知れない。この曲は、アーティストとして、次のステップへと進む予兆が暗示されている。さなぎが蝶へと進化し、やがて大空に羽ばたくように、別の存在へと生まれ変わる段階がこの曲には示唆されている。

 

 

終盤の「12- Everything I Want」以降では、本来は少し控えめな歌手の一面が伺えるが、自らのキャラクターを遠慮会釈なく対外的に提示することに大きな意義がもとめられる。実験音楽ではないものの、商業音楽としての実験性が示されていることは事実だろう。オルタネイトなギターロックやイエイエ、ワールド・ミュージック、それから、フォークという多角的な音楽をベースにして、独自のカラーを探っているように感じられる。これは従来の住み慣れた領域から別の地点に向け、ゆっくりと歩き出すシンガーソングライターの背中を捉えることができる。

 

今、beabadoobeeはギターを手にして、どこかへ向けて歩きだしたようだが、そのゴール地点はまだぼんやりとしていて見えない。夢想的でスタイリッシュな音楽という抽象的な概念、それを従来のポップやロックという視点を通して的確に表現する時、beaのポピュラーの概念が完成するのだろう。まだ、その旅程の途上であると思われるが、しかし、シンガーは理想とする音楽に一歩ずつ着実に近づいている。その核心を見出した時、本当の自己を見出すのかも知れない。


終盤の2曲は、シンプルなフォークミュージック、オルゴールのような音色を使ったポップスが心地よく鳴り響き、従来の夢見るような少女的な感覚を決定付けている。最終的には、自己を肯定するという重要な主題が見出すことができ、ポスト・サワヤマとしての歌手の立ち位置を表している。さらに、同時に、どうやらこのアルバムには、現在の自分に対する追憶、そして過去の自分に対する惜別のような際どい感覚がさりげなく織り交ぜられているように感じられる。


ロンドンのSSWのセカンドアルバム『This Is How Tomorrow Moves』は、現在と過去の自分の姿を明瞭に俯瞰した上で、それらを録音で体系的にまとめ、不透明な未来への予測と憧れを示すとともに、「シンガーソングライターとしてのスナップショット」を音楽という形で捉えようとしている。


 

 

 88/100

 


Best Track-「Beaches」

 

 

 

Details: 


「1- Take A Bite」 B+

「2 - Calfornia」 B

「3− One Time」B

「4− Real Time」B

「5- Tie My Shoes」A

 「6- Girl Song」A

「7- Coming Home」B

 「8- Ever Seen」A−

 

 「9- A Cruel Affair」B+

 「10- Post」B+

 「11- Beaches」S

 「12- Everything I Want」C+

 「13 - The Man Left Too Soon」B

 「14- This Is How It Went」 B+


* beabadoobeeのデビューアルバム「Beatopia」のレビューはこちらからお読みください。

 JPEGMAFIA 『I Lay Down My Life For You』


 

Label : AWAL

Release: 2024年8月1日

 

Review     


アブストラクト・ヒップホップの帝王の新作

 

JPEGMAFIAのラップは、いわゆる実験的で抽象的なヒップホップ、つまりアブストラクト・ヒップホップと呼ばれることがあり、リリックや音楽性の先鋭的な側面に焦点が絞られている。同時に、JPEGMAFIAは、ヒップホップというジャンルに必要以上にこだわることはあまりない。Danny Brownとのコラボレーションの時、彼はSlayerのカットソーを着ていた。ダニー・ブラウンもMayhemのシャツを着ていた。二人は揃って、どうやらコアなメタルのファンらしい。

 

当然のことながら、あるジャンルの音楽をやっているからと言えども、自分の関わる音楽ジャンルだけを聴いているアーティストはほとんどいないのではないか。そして、まったく無関係の音楽からヒントを得ることもあるだろうし、また、ライターズブロックが解消されるとき、想像もしないような方向から解消されるものである。最近のラップアーティストと同じように、JPEGMAFIAのラップも未知なる可能性に満ちていて、なにが次に起こるかわからないから興味深い。

 

このアルバムは、盟友であるダニー・ブラウンの昨年の最新作『Quaranta』に部分的に触発を受けたような作品である。序盤ではドラムのアコースティックの録音を織り交ぜ、不可解で予測不能なアブストラクトヒップホップが繰り広げられる。「i scream this in the mirror-」では、ノイズやロック、メタルを織り交ぜ、80年代から受け継がれるラップのクロスオーバーも進化し続けていることを感じさせる。メタル風のギターをサンプリングで打ち込んだりしながら、明らかにスラッシュ・メタルのボーカルに触発されたようなハードコアなフロウを披露する。そして、断片的には本当にハードコアパンクのようなボーカルをニュアンスに置き換えていたりする。ここでは彼のラップがなぜ「Dope」であると称されるのか、その一端に触れることができる。

 

そして、ターンテーブルの音飛びから発生したヒップホップの古典であるブレイクビーツの技法も、JPEGの手にかかるや否や、単なる音飛びという範疇を軽々と越え、サイケデリックな領域に近づく。「SIN MIEDO」は音形に細かな処理を施し、音をぶつ切りにし、聞き手を面食らわせる。ただ、これらは、Yves Tumorが試作しているのと同じく、ブレイクビーツの次にある「ポスト・ブレイクビーツの誕生」と見ても違和感がない。普通のものでは満足しないJPEGMAFIAは、珍しいものや一般的に知られていないもの、刺激的なものを表現すべく試みる。そして、音楽的には80年代のエレクトロなどを参考にし、ラップからフロウに近づき、激しいエナジーを放出させる。これは彼のライブでもお馴染みのラップのスタイルであると思う。

 

今回、JPEGMAFIAは、ダブ的な技法をブレイクビーツと結びつけている。そして、比較的ポピュラーな曲も制作している。「I'll Be Right Time」では、 背後にはEarth Wind & Fireのようなディスコ・ファンクのサンプリングを織り交ぜ、まったりとしたラップを披露する。そして、ブラウンと同様に、JPEGMAFIAのボーカルのニュアンスの変化は、玄人好みと言えるのではないだろうか。つまり、聴いていて、安心感があり、陶然とさせるものを持ち合わせているのだ。これは実は、70、80年代のモータウンのようなブラックミュージックと共鳴するところがある。


そして続く「it's dark and hell is hot」では、イントロにおいてドゥワップのコーラスをなぞられている。しかし、その後、何が始まるかといえば、ゲームサウンドに重点を置いたようなラップである。そしてそれらのイントロのモチーフに続いて、シュールな感じのヒップホップを展開させる。


ドラムを中心とする細かなリズム/ビートをAphexTwinの最初期のサウンドのようにアシッド・ハウス/アシッド・テクノの観点から解釈し、早回しのリリックさばきをし、彼の持ち味であるドープなフロウへと近づけようとする。フロウは、いきなり発生することはなく、ビートや言葉を辛抱強く続けた先に偶発的に起きるものである。そのことを象徴付けるかのように、ダークなラップを続けながら、JPEGはハイライトとなる瞬間、ハードコア・パンクやメタルのようなボーカルへと変化させる。この一瞬に彼のラップの特異なスペシャリティが発生するのである。 

 

 

 「I'll Be Right Time」

 

 

 

このアルバムの中盤には、いわゆるアブストラクトヒップホップ、そして、ニューヨークドリルの最も前衛的で過激な部分が出現する。ロサンゼルス/コンプトンのラッパー、Vince Staplesをゲストに招いた「New Black History」では、英国のモダンなエレクトロニックと多角的なリズムを織り交ぜたダブステップ以降のヒップホップを制作している。


ここでは、彼自らがブラックミュージックの新しい歴史を作るといわんばかりの覇気を込めて、ミュージックコンクレートやサンプリングを織り交ぜながら、刺激的なヒップホップの雛型を丹念に構築していく。「don't rely on other man」では、JPEGがアクション映画にあこがれているのではないかと伺わせるものがある。そしてブレイクビーツを生かしたビートやラップは、悪役の活躍するハリウッドのアクション映画のワンシーンを聞き手の脳裏に呼び覚ます。この曲では彼のラップが最もシネマティックな表現性に近づいた瞬間を捉えることができるはずだ。

 

JPEGMAFIAはどうやら、ギターロックやハードロックがかなりお好きなようである。実際的には80年代のギターヒーローの時代のメタリカ、アンスラックス、その周辺のハードロック/メタルからの影響を感じさせることがある。しかし、そうだとしても、やはりこのアルバムでは先鋭的なヒップホップのサウンド加工が施されると、「vulgar display of power」のように前衛的な響きを帯びる。そして近年のハイパーポップやエクスペリメンタルポップをラップという領域に持ち込むと、このような曲になる。ここでは彼のバックグランドにあるフレンドシップの感覚がパワフルなコーラスに乗り移る。そしてそれらのコーラスが熱狂的なエナジーを発生させる。ここまでを『I Lay Down My Life For You』の前半部とすると、続く「Exmilitary」から第二部となり、その音楽性もガラリと変化する。中には、ビンテージなソウルとブレイクビーツを組み合わせたデ・ラ・ソウルの系譜の古典的なヒップホップに傾倒している曲も含まれている。

 

「Exmilitary」はターンテーブルのスクラッチ音で始まり、古いラジオやレコードの時代の懐かしさへと誘う。その後、レゲエ/ダブのサンプリングを起点に、まったりしたボーカルのニュアンスを披露する。JPEGは東海岸のラッパーだが、西海岸及び南部的なニュアンスを持ち合わせている。これが良い癒やしの瞬間になり、いわばアーバンな雰囲気は南国的なリゾートの気分へと変わる。


曲の展開の仕方も見事である。「Exmilitary」の後半部では、JPEGのラップとしては珍しく、エモーショナルな性質、ややセンチメンタルな曲風へと変遷していく。これは従来のJPEGの作風から見ると、すごく新鮮に聞こえることがある。


もちろん、ラッパーとして、ユニークな表現も忘れてはいない。「Jihad Joe」は、政治に対する揶揄であるものと思われ、この人物がジハードを勃発させたことを暗にジョークで指摘している。ただ、ラップのスタイルがギャングスタ・ラップに影響を受けているとはいえ、表現や歌のニュアンスは、やや救いがある内容となっている。暗い側面を歌うことが現代的なラップのスタイルとなっているが、JPEGは、この画期的な曲の中で、旧来のヒップホップの時計の針を未来へと進め、むしろ暗さという概念の中にユニークな性質が見いだせることを指摘している。


このアルバムは、旧来のJPEGのアルバムの中で最も多彩な音楽性に縁取られていて、彼のカタログの中でもとっつきやすい。そして、ヒップホップがどこまでも純粋で楽しい音楽であることを教えてくれる。「JEPGULTRA!」は、澄んだ音の響きがあり、素晴らしいナンバー。聴いているだけで元気や明るさが漲ってくる一曲である。デンゼル・カリーが参加したこの曲では、アフリカ/カリブといったエキゾチックな民族音楽をヒップホップとつなぎ合わせ、最終的にハード・バップのようなジャズに組み換え、陽気なお祭り気分の楽しい音楽に昇華させている。そう、この曲ではヒップホップという表現を通して世界を結びつける試みが行われている。

 

このアルバムは、アブストラクトヒップホップとして複雑化した音楽の側面も内包されるが、その一方で、簡潔さという、それとは対極にある要素もある。そして、音楽を聞き進めていく内に、閉鎖的な感覚であったものが徐々に開けてくるような感覚がある。「either on or off the drugs」は古典的なソウル、もしくはネオソウルとして聴いても秀逸なナンバーである。女性ボーカルの録音を元に、ライオネル・リッチーやジャクソン、そしてホイットニー・ヒューストンの時代の愛に満ちあふれていたソウルの魅力を、彼はラップで呼び起こす。ラップのニュアンスも素晴らしく、こまやかなトーンや音程の変化には、ビンテージソウルの温かさが込められている。オーティス・レディングが現代に転生し、ラップしはじめたようにファンタスティック。続く「loop it and leave it」では、ピアノのサンプリングを断片的に配して、ミニマルミュージックをベースにしたヒップホップへと昇華させる。すでにフランク・オーシャンが行った試みだが、この曲では「Flllow me」というフレーズを通してアンセミックなフレーズを強調している。これは必ずしもJPEGの音楽がレコーディング・スタジオにとどまるものではないことを示唆している。つまり、ライブやショーケースでのパフォーマンスで生きるような一曲である。

 

曲単位で見ると、分散的に過ぎるように思えるこのアルバム。しかし、全体として聴くと、何らかの流れのようなものがある。そして、それは起承転結のような簡素なリテラチャーの形式に近いものである。

 

そして、アルバムのクライマックスにも聴きどころがしっかり用意されている。「Don't Put Anything on the Bible」では、最近のイギリスのヒップホップやクラブ・ミュージックと連動するように、フォーク音楽やクラシック音楽の領域に近づいている。それはカニエ・ウェストと同じように、クワイア(賛美歌)のような趣旨が込められているが、曲そのものがスムースで、透徹したものがある。表現そのものに夾雑物や濁りのようなものがほとんどない。これが参加したBuzzy Leeの美しいボーカルの持つ魅力を巧みに引き立てているように感じられる。曲の後半では、トリップ・ホップに触発されたようなクールなラップミュージックが展開される。

 

アルバムの最後でも、JPEGMAFIAは、これまでに経験したことがなかったであろう新たな音楽にチャレンジする。「i recovered from this」では、メディエーションの音楽を元に、これまで芸術と見なされることが少なかったヒップホップのリベラルアーツとしての側面を強調している。このアルバムを聴くと、ラップの固定概念や見方が少し変わる可能性がある。そして、音楽でそれを試みようとしていることに、アーティストの素晴らしい心意気を感じることができる。

 

 

90/100



 * JPEGのフェイスマスクには日本語で「不安な」と書いてある。アルバム・タイトルはラッパーとして神に殉ずる覚悟のほどが示されている。最近、彼は、ライブのフライヤーに「戦争」や「降伏」という言葉を使ってくれているのを見るかぎり、どうやら日本語に凝ってるらしい。


 

Best Track - 「vulgar display of power」





 

©︎Donovan Novotny


ロサンゼルスのDJ、Nosaj Thing(ノサジ・シング)、カナダのDJ,Jacques Greene(ジャック・グリーン)がコラボレーションし、ディープハウス、ダブステップとベースライン、レイヴをミックスした「RB3」をリリースした。Nosaj Thingは才能あるプロデューサーで、今後の活躍が楽しみ。

 

彼らは2023年にもタッグを組んでおり、「Too Close」を発表している。それに続くこの曲は、来年リリース予定のフル・コラボレーション・アルバムに収録される予定だ。エレクトロニックデュオの声明は次の通り。


「クロスカントリー・セッション、エンドレス・バージョン、ロード・テスト......。ラップトップをリンクさせ、回転数を合わせる。「RB3」はダンスフロアのためのニューシングルなんだ」



「RB3」

 

 

Nosaj Thing:

 

ロサンゼルスのプロデューサー、Nosaj Thing(ジェイソン・チャン)は、Boards of CanadaやDJ Shadowからダニー・エルフマンやエリック・サティまで、幅広い影響を受けながら、シンセをベースにした重厚で幽玄なインストゥルメンタル・ヒップホップを制作している。

 

 

L.A.出身のチャンは、幼い頃、小学校に通うバスの運転手が流していたヒップホップ・ラジオ局、特にPower 106のビート・ジャンキーズのターンテーブリズムに影響を受けた。高校時代には、ドラムンベースやレイヴ・シーンのサウンドにのめり込み、学校のドラム・ラインでクワッドタムを叩いていた。さらに、ロサンゼルスのアンダーグラウンドなライブハウス、ザ・スメルでのD.I.Y.ロック・シーンに刺激され、より実験的な方向へ進むようになり、2004年にノサジ・シングとしてライブ・デビューを果たした。

 

オンラインや掲示板、そして最終的にはビート志向の音楽スポット、ローエンド・セオリーでの対面でのネットワーキングを通じて、はフライング・ロータス、ノーバディ、デーデラス、そしてD-スタイルズやダディ・ケヴといった地元の伝説的アーティスト(そして個人的なヒーロー)など、気心の知れたアンジェレノスと接触するようになった。

 

2006年に自主リリースした『Views/Octopus EP』(このEPのトラック「Aquarium」は、後にラッパーのキッド・クーディが「Man on the Moon」のベースとして使用した)に続き、2009年にはケヴのAlpha Pupインプリントと契約し、フルレングスのデビュー作『Drift』を発表した。また、MCのBusdriverやNocandoにビートを提供し、Flying Lotus、The xx、Daedelus、Radiohead、Smell staples Healthのリミックスも手がけている。

 

 


Jacques Greene:

 

ボーカリストのKaty B、Tinashe、How To Dress Wellのプロデュースや、Radiohead、Flume、Rhye、MorMorのリミックスを手がける。その一方、Givenchyやカルト・デザイナーのRad Houraniとのファッション・コラボレーション、ロンドンのテート・モダンをはじめとするアート施設とのコラボレーションなど、活動の幅を広げている。


ジャック・グリーンのきらめくオリジナル・プロダクションには、ジャンルを定義する「Another Girl」がある。その後、LuckyMeから'On Your Side'、'Phantom Vibrate'、'After Life After Party'などのEPをリリースし、アメリカ、カリフォルニア、イギリス、EU、アジアを回るワールドツアーを行い、ジュノー賞3部門にノミネートされた。「Feel Infinite」(2017年)と「Dawn Chorus」(2019年)の2枚のアルバムをリリースしている。


2019年以降も、グリーンの勢いは止まらない。2021年にリリースした『ANTH01』は、モントリオール時代からの彼の進化を示す、初期のレア音源集だ。このアルバムには、ディープ・カットに加え、"Another Girl "や "The Look "といったクラブ・ミュージックのヒットナンバーも収録されている。


また、グリーンは新たなコラボレーションにも挑戦している。イギリスのミュージシャンでプロデューサーのボノボ(Bonobo)とタッグを組んだ新曲 "Fold "は、サイモン・グリーンの主宰するレーベルOUTLIERからNinja Tuneと共同でリリースされた。このトラックは、2人のユニークなスタイルがブレンドされ、高揚感のあるハウス・ミュージックを作り出している。


さらに、ジャック・グリーンは、同じくエレクトロニック・ミュージック・シーンに影響力を持つNosaj Thingとコラボレーションし、モントリオールをフィーチャーしたシングル「Too Close」を2023年に発表している。

Weekly Music Feature:  Joep Beving(ユップ・ベヴィン)& Maarten Vos(マーテン・ボス)


Joep Beving & Maarten Vos

 

 

ピアニストのユップ・ベヴィンとチェリストのマーテン・ボスは、2019年の『Henosis』以来二度目のコラボレーションを実現させる。最初の共同作業は2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演した後に実現しました。


新作アルバム『vision of contentment』は、マーテン・ボスもスタジオを構えるドイツの東西分裂時代の遺構で、第二次世界大戦まで旧ドイツの国営放送局であったベルリンのファンクハウス複合施設にあるLEITERスタジオでニルス・フラームがミックスした。

 

現在、ベルリン・ファンクハウスは、観光施設となっており、内部にはレコーディングスタジオとコンサートホールが完備されている。エイフェックス・ツインがイベント行ったり、あるいはニルス・フラームをはじめ、実験音楽をメインフィールドとする音楽家が録音を行ったり、オーケストラのコンサートが行われることもある。旧ドイツ時代の施設の名残りがあり、ロシアのビザンチン建築を継承した踊り場の階段のデザイン、1940年代の奇妙な機械設備が残されています。

 

ベヴィンは、これまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんでしたが、ヴォスは定期的にそのような活動をしており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。

 

「時折、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになる」とマーテン・ボスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことは刺激的で、私の成長に大きく貢献している」


もちろん、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップであり、遅きに失したと言っても過言ではありませんでした。「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことだった」


「私の契約(ドイツ・グラモフォンとのライセンスのこと)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。私はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとしている。マーテンとニルスと一緒に仕事をすることは、これを達成するのに非常に役立っている。マーテンは音の彫刻家であり、ニルスはその...音の達人なんだ!」


ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。


この友人たちは、ベヴィンのアムステルダムのスタジオとボスのファンクハウスですでに一緒に時間を過ごしており、そこからさらに2曲のアルバム・トラック作り出された。

 

時におびただしい数の作業から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれました。

 

しかし、このアルバムはそれ以上のものを表現している。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚愕すべき個人的トリビュートでもある。


ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。


確かに、このアルバムは、私たちの住まう生の世界であれ、反対にある死の世界であれ、平穏という複数のアイデアに根ざしている。ベヴィン曰く、「嵐の後の朝、潮の満ち引きの評価、過ぎ去ったことの受け入れ、そして、新しい日の夜明け、新しい人生を意味している」という。


これらの繊細なブックエンドの間には、亡霊のような無調の「Penumbra」、くぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダース(6曲)のトラックが収録されている。


一方、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、ほとんどありえないほど豪華なピアノの旋律に引き立てられるのみで、部屋の中にいる得体の知れないノイズのようなものによってすぐに明るくなる。さらに、「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立っていく瞬間を表し、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのようです。


ベヴィンとボスがビルトホーフェンにほど近い森の小屋に落ち着いた頃には、べヴィンのマネージャーで旧友のブルーネンは3年間がんと闘っている最中でした。しかし、彼の死が間近に迫っていたため、制作の進行に影を落としていたとしても、それは悲しみだけが要因ではなかった。「ここでの中心テーマは "ブルー・アワー"、黄昏時だったのです」とベヴィンは説明します。


「それはつまり、ある状態から別の状態への移行、そして暗さを受け入れること。友人のマークは自分の病気と差し迫った最期に対して驚くべき対処法を示していました。彼は自分の運命と平穏に過ごしていました」



『visions of contentment』 Leiter      


オランダの鬼才 ユップ・ベヴィン、マーテン・ボスによる耽美主義のクラシカル

 


オランダのピアニスト、ユップ・べヴィンは、現代のコンテンポラリー・クラシックを語る上では欠かすことが出来ない音楽家でしょう。べヴィンのピアノ曲は、Olafur Arnoldsの系譜にある”叙情的なミニマルミュージック”の系譜にあるものとなっていますが、彼の音楽的な興味は、ロマン派や、それ以降のジャズとの架け橋を形作ったフランスの近代和声に向けられています。

 

べヴィンのピアノ曲の基礎にはショパンのロマン派に対する親しみが込められ、それはポーランドの作曲家の「ノクターン」に近い。それに加え、音楽家のエスプリ(日本語でいう”粋”という概念)を求めるとするなら、エリック・サティのような無調に属する和音と、旧来の和声法の常識を覆すような前衛的な和音法の確立にある。これは、基音の11度、13度、15度といった、ジャズの和音の基本となったのは言うまでもありません。これらの7度以降の和音構造にラヴェルやドビュッシーが興味を抱いたのは、それらの和音が涼し気な印象を及ぼし、旧来のドイツ発祥の厳格な和声法を完全に払拭するものであったからなのです。

 

より端的に言えば、ユップ・べヴィンという作曲家が傑出しているのは、これらの前衛的な和声法と旧来のクラシックのロマン派の夜想曲のような神秘的な雰囲気を持つ楽曲構造を組み合わせているからでもある。

 

今回、ベヴィンのアルバムに新たに共同制作者として参加したマーテン・ボスは、チェロ奏者でありながら、アナログシンセサイザー奏者でもある。このコラボレーションは、チェロとピアノの合奏にとどまらず、シンセサイザーとピアノの融合が主眼となっている。それに加えて、ニルス・フラームが、ベルリン・ファンクハウスのスタジオで最終的なミックスを行っています。


聞けば分かる通り、この作品の制作に携わったニルス・フラームは音響効果をてきめんに施しており、単なる合奏曲ではなく、エレクトロニックやダブステップのような先鋭的なサウンドワークの意味を持つ作風として仕上げられています。全体的な録音の割合で言えば、べヴィンとボスが7、8割、フラームが2、3割くらい関与する内容となっている。もしかすると、1割ほどその割合は前後するかも知れない。つまり、このアルバムは、ユニットやデュオの作品とは言いづらい。むしろ、Leiter(ライター)主導の”トリオの作品”として聴くこともできるようなアルバムになっています。

 

 

ジブリ音楽を手掛けた日本の作曲家、池辺晋一郎氏は、音楽を制作する上で欠かさざるものが2つあると仰っていました。それは作曲の技法の一貫である「メチエ」、つまり、音楽的な蓄積や技法。もう一つが「イデア」であるという。それらはモチーフとか、ライトモチーフという形で作品に取り入れられ、最初に始まった音楽の動機を動かしたり、別の大きな楽節を繋げたり、より大きな枠組みで言えば、幾つかの章やセクションを繋げるような働きをなしています。

 

いわば制作者の頭の中に描かれた構想や着想が、音楽的な設計やデザインと組み合わされることにより、良質な作品が作り出される場合が多いのです。これらは何も、純正音楽だけに限った話ではないように思えます。たとえば、優れたエレクトロニック、優れたロック、優れたポピュラーというのは、イデアとメチエがぴったりと合わさるようにして生み出される。そのどちらかが優勢になっても、均衡の取れた作品にはならない時がある。加えて、現代の指揮者やエンジニアのような役割を担うのがレーベルの仕事であり、そして、プロデューサーの役割でもある。レーベルならば、そのレコード会社らしい音質や録音、一方、プロデューサーならば、そのエンジニアらしいマスタリング。こういった複合的な要素から、現代のレコーディングは成立しており、一人だけの力でそれらが完成することは、ほとんどあり得ないかもしれません。

 

ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。


これらのピアノ曲とチェロの演奏に、瞑想的な気風が含まれているとすれば、べヴィンにせよ、ボスにせよ、そういった考えを十分に汲み取り、暗さから目を背けず、安らかなものとして受け入れるという「治癒」が内包されているがゆえなのです。さらに言えば、今作はオランダの森の中で制作されたことによる中世的な雰囲気と、ベルリン・ファンクハウスの旧ドイツの機械産業を象徴づける近代的な気風が掛け合わされ、クラシックとエレクトロニックが融合した画期的なアルバムとして音楽ファンの記憶に残るかもしれません。

 

実際、レコーディングの過程で制作された楽曲が時系列順に収録されることは多くはないものの、アルバムは何らかの音楽的な流れーーMovement(ムーヴメント)ーーを形成しているのは事実のようです。それは、物語のようなフィクションではなく、現実にある時間の流れ、ある人の一生や、それに纏わる人々の複雑な感情の流れを、主な演奏家で制作者でもあるユップ・ベヴィンとマーテン・ボスがピアノやシンセ、チェロにより的確に捉え、そしてプロデューサーやエンジニアとして、時おり作曲家に近い形で関わるニルス・フラームという3つの人間関係を中心に構築されている。彼等のうち一人が音楽的な主役になったり、脇役に扮したり、それとは対象的に、舞台袖に控える黒子のような「影の人物」を演ずる場合がある。つまり、このアルバムでは、ほとんど''中心的な人物''というのを挙げることは無理難題のようにも思えるのです。

 

これは音楽という枠組みの内側で繰り広げられる劇伴音楽のようでもある。架空のものでありながら、真実であり、真実でありながら、架空でもある。そして、その演劇的な音楽の向こうから、第四の人物である"マーク・ブルーネン"という、ほとんどのリスナーが見知らぬ人物が登場する。しかし、そういったリヒャルト・ワーグナーの主要な歌劇のライトモチーフのような動きは、飽くまで「暗示」の範疇に留められている。つまり、音楽の基底にレクイエムのようなモチーフが立ち上ってきても、音楽的な立脚点に固執することなく、楽曲ごとに、ないしは曲の中のセクションごとに、そのモチーフが”黄昏時のように”ゆっくりと移ろい変わっていくのです。

 

どのような人生においても、一方方向で進む生き方が存在しえないように、このアルバムの音楽はストレートではなく、時おり曲がりくねったりすることがある。それらは、実際的に音楽的なモチーフやフレーズの中で示される場合もあるものの、特にサンプリングやシンセサイザー、ミックスの音響効果の側面(アンビエンスを活用したエフェクト)で顕著な形で出現する場合がある。

 

冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。


続く「Penumbra」はシンプルに言えば、ベートーヴェンの「Moonlight」のミニマルミュージックとしての構造、そして音楽における雰囲気を受け継いで、ショパンのノクターンのような叙情的な気風溢れるピアノ曲として昇華しています。しかし、この曲は月の光に照らし出されるかのような神秘的な瞬間を収めていますが、それとは異なる亡霊的な雰囲気が微かに捉えられる。

 

これは、最終的なミックスを手掛けたニルス・フラームの貢献であるかも知れませんし、もしくは、サティの系譜にある古典的な和声法とは異なるベヴィンの不安定な和音の構造に要因が求められるかも知れません。そして私たちがふだん見ることのかなわない生と死の狭間--アストラルの領域--を彷徨うかのように、曲はミステリアスな雰囲気を漂わせ、ときおり、マーテン・ボスのチェロの微細なトレモロと淡麗なレガートの演奏を交えながら、奇妙なイメージを形づくる。

 

「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。



「Hades」-  Best Track

 



それに続く「Hades」は、この世とあの世の間をさまようかのような奇妙な印象を擁するピアノ曲で、オリヴィエ・メシアンや、坂本龍一、アルヴァ・ノトとのコラボレーションの系譜に位置づけられる。もちろん、前衛的なエレクトロニックとしても聴くこともできるでしょう。ニルス・フラームの代表曲「All Armed」で使用されたような前衛的なモジュラーシンセで始まり、その後、協和音と不協和音の双方を活かしたべヴィンのピアノの演奏、プリペイド・ピアノの要素を交えたモダン・クラシックとエレクトロニックの中間点に位置するような楽曲です。

 

 

アルバムの中盤では「The heron」が強い印象を擁する。曲のイントロには、足音が遠ざかるサンプリングが取り入れられている。つまり、友人が死にゆくというメタファー(暗喩)が込められ、モートン・フェルドマンがテキサスの礼拝堂のために制作した代表的な作品『Rothko Chapel』に見いだせるようなマーテン・ボスのチェロの主旋律の演奏で始まり、その後、ユップ・べヴィンによるエリック・サティの系譜に位置づけられる物悲しいピアノの演奏が続いています。 



これらは、べヴィンの音楽の核心にある簡潔性とロマン派の系譜にあるエモーションや憧れ、そして夢想を体現している。彼はまた従来の作品と同じように、それらを悲哀を込めて情感たっぷりに演奏しています。

 

「02:07」は、先行シングルとして公開され、前の曲の悲しみやペーソスといったイメージとは対極にある、やや明るい印象に縁取られている。友人の死の時刻がタイトルになっていますが、友人の死を悲しみではなく、明るく送り出すような意図が込められているのかもしれません。そして同時に、この曲には制作者の友人への追憶が含まれているという気がする。それは実際的に深みのある情感を聞き手にもたらす。曲の最後は次のタイトル曲の伏線となっています。

 

タイトル曲は、ブライアン・イーノの系譜にあるアンビエント風の一曲で、移ろい変わる魂の変遷のような神秘的な瞬間が体現されている。実際的には、アルバムの序盤から中盤で描き出された暗さや闇といった概念から、その対極にある明るさと光のような瞬間が切り取られています。そして全体的には霊的な瞬間をエレクトロニックから解釈したような作風になっている。

 

アルバムのクローズ「The boat」では、「Hades」におけるシンセのパルス音が再登場し、今作の中では最も神秘的な瞬間がエレクトロニックによって体現されている。アルバムの最後では端的なピアノ曲がロマンチックな雰囲気を帯びる。簡素なミニマルミュージックの系譜にあるささやかなピアノ曲は、ニルス・フラームのプロデュースにより美麗な印象が付与されています。


本作には、不世出の偉大な音楽家、モートン・フェルドマン、坂本龍一、アルヴァ・ノトに対するオマージュやリスペクトが示されているため、音楽の基底にそれらを探し求めるという醍醐味も見出せるかも知れません。また、友人の死の時刻をタイトルに据えたのは、坂本龍一さんの遺作『12』への敬意が含まれているからなのでしょうか。厳粛さと前衛性の融合が図られた一作。反復の構造が多いため、すぐ飽きるかと思いきや、底知れぬ魅力を湛えた耽美的なアルバム。

 

 

 

「02:07」 -Best Track

 


 


86/100



 

Joep Beving & Maarten Vosの新作アルバム『vision of contentment』はLeiterから本日発売されました。ストリーミング等はこちらから。 

 

Kiasmos
Kiasmos ©︎Erased Tapes


本日、アイスランドの作曲家オラファー・アーナルズとフェロー諸島のミュージシャン、ヤヌス・ラズムセンによるデュオ、Kiasmosが待望のセカンド・アルバム『II』を引っ提げてカムバックを果たす。


キアスモスが2000年代後半に活動を開始したとき、パートタイムのスーパーグループが成層圏に突入することになるとは、本人たちも知る由もなかった。それは、近隣の島々(アイスランド)からやってきた2人の旧友が、それぞれが得意としていたピアノとエレクトロポップの音楽に対して殴り込みをかけ、ベルリン風のビートへの愛着を熱く分かち合うというものであった。しかし、2人のペアは、世界を席巻するライブ・アクトに成長し、その音楽は10年間を定義することに。


さて、エレクトロニック・ミュージック界で最もダイナミックなデュオの一組は、今更ながら次に何を企てているのだろう。彼らの新しいアートワークにそのヒントがありそうだ。キアスモスの特徴的なダイヤモンドのモチーフは、''炎に包まれたのち、灰の中から再び蘇る''というもの。


キアスモスは『II』によって、新しく生まれ変わり、復活を遂げる。2014年リリースされたセルフタイトルのデビュー作で、オーケストラのような華やかさと重さを感じさせないプロダクションでミニマル・テクノを再構築した。このアルバムは、わずか2週間で大部分を作り上げた。『II』の制作は、彼らの友情の試金石であると共に、素晴らしい音楽的な化学反応がいかに長い時間を経ても変わらずに存在しえるかを証明付けるものである。「当初、私たちは何のサウンドも確立していなかったので、作曲するのは簡単だった」とヤヌスは言う。


『II』では、奥深いアコースティックなテクスチャー、アトモスフェリックなアンビエンス、忙しないグルーヴ、野心的なストリングス・アレンジなど、キアスモスがサウンド・アーキテクトとして、どのように進化したかをはっきりと聴きとることができる。アルバムの各曲は、エレクトロニック、クラシック、レイヴの間を難なく行き来し、息つく暇もなく引き戻される小さな叙事詩を意味する。これは『Kiasmos』だが、さらにワイドスクリーンだ。「サウンドもプロダクションも大きくなった」とヤヌスは言う。「音楽は成熟しているけど、遊び心もある」


2020年から2021年にかけての失われた1年間、彼らはバリ島にあるオラファーのスタジオを訪れるなど、「II」の制作に熱心に取り組んだ。「私たちはそこで1ヶ月を過ごし、レコードに収録される数曲を書きました」とヤヌスは言う。2人はガムランなど伝統的なバリ島のパーカッションをサンプリングし、ヤヌスが録音した自然環境のフィールド・レコーディングを取り入れた。


キアスモスは、インストゥルメンタル・ミュージックで複雑な感情や喚起的なビジュアルを伝えることにかけては、うらやませるほどの才能を持っている。しかし今回は、プロデューサーとしての経験がより活かされている。アルバムの広がりは、オラファーがグラミー賞にノミネートされた作曲家として、さらに映画やテレビで著名なサウンドトラッカーとして活躍するまでの歳月と綿密にリンクしている。また、伝統的な4ビートからUKダンス・ミュージックの熱狂的なブロークン・ビートへと微妙にシフトチェンジし、BPMをより実験的に変化させている。


「エモーショナルなレイヴミュージックだ!」とオラファーは言う。Kiasmosの魔法は、ライブで起こりうるカタルシスの解放にも求められる。「''ダンスフロアで泣かせる''というアイデアをよく話すんだ。それが僕らの''非公式スローガン''になっている」「しかし、僕たちはまた、自分たちを含め、すべての人を飽きさせないことを望んでいる」とヤヌスは言う。もちろん、ささやくような静かなアトモスフィアから、ソックスを吹き飛ばすような爆発的なダンスビートへと移行するKiasmosの特徴的なスタイルは健在だ。彼らの不死鳥は灰の中から蘇り、飛び立つ準備が整っている。



Kiasmos  『II』-Erased Tapes

 

オラファー・アーナルズとヤヌス・ラスムセンの二人は、2014年から数年間の間隔を経て、スタジオ・アルバムを発表しつづけている。特に、オラファー・アーナルズに関してはソロミュージシャン、グラミー賞ノミネートの作曲家として様々なプロジェクトを手掛けているため、Kiasmosの活動だけに専念するというわけにもいかない。

 

前回は3年、今回は7年というスパンを置いても、キアスモスのサウンドは、普遍的で、相変わらず熱狂的なエレクトロサウンドが貫流している。


2014年からおよそ10年が経過したが、キアスモスのサウンドの核心には二人のダンスミュージックへの愛情、シンセサイザー奏者としての熱狂的な感覚が含まれている。いかなる傑出したミュージシャンであろうとも、10年という月日を経れば何かが変わらざるを得ないが、内的な変化や人間としての心変わりがあろうと、”Kiasmons"として制作現場に集えば、才覚を遺憾なく発揮し、誰よりもハイレベルのEDMを制作する。これぞプロフェッショナルな仕事なのだ。

 

今回、インドネシアのバリ島に制作拠点を移したキアスモスは、本人いわく”エモーショナルなレイヴ・ミュージック”を志向しているというが、実際的にはリゾート地の空気感を反映した清涼感のあるダンス・ミュージックの真髄が体現されている。基本的なハウスの4ビートを踏襲しながらも、リズムの構成の節々にフックを作り、それらを取っ掛かりにし、強固なうねるようなグルーヴを作り出す。

 

彼らのサウンドのアイデンティティでもあるEDMとしての熱狂性をビートの内側に擁しながらも、Bonobo(サイモン・グリーン)の『Migration』に見いだせるパーカッションやシンセリードの要素が圧倒的なエネルギーの中に静けさと涼し気な音響効果を及ぼす。全篇がボーカルなしのインストゥルメンタルで貫かれる『Ⅱ』は、あらゆるダンスミュージックの中でも最もコアな部分を抽出した作品と称せるかもしれない。


クラシカルなハウス/ディープハウスのビートを踏襲し、ベースラインのような変則的なリズム性を部分的に付け加え、独特なノリ、特異なウェイヴ、うねるようなグルーヴを呼び覚ます。もちろん、映画などのサウンドトラックも手掛けてきたオラファー・アルナルズは、作曲家としてだけではなく、プロデューサーとしても超一流だ。彼は熱狂的なアトモスフィアを刻印した覇気のあるダンスミュージックに、ストリングやピアノのアレンジを交え、アイスランドやフェロー諸島の雄大な自然の偉大さを思わせる美麗で澄み渡った音楽的な効果を付け加えている。

 

Kiasmosのプレイヤーとしての役割分担は明確である。しなやかなビートを作り出すリズムの土台を形作るラスムセン、それらにリードや演出的な効果を付加するアーノルズ。彼らは演奏の中で流動的にそれらの役割を変えながら、一つの形にとらわれない開放的なEDM(Electric Dance Music)を制作し、そしてダンス・フロアの熱狂をレコードの中で体現させようとしている。


アルバムのオープニングを飾る「#1 Grown」は、神秘的なシンセ・パッドを拡張させ、開放的で清涼感のあるアトモスフィアを作り出す。モジュラーシンセのビートが緻密に組み上げられていき、背景となる大気の空気感を反映させたシークエンス、そしてオラファーの代名詞である美麗なポスト・クラシカルのピアノの演奏を交えながら、連続した音のウェイブを作り出す。


基本的にミニマル・テクノをベースにしているが、Tychoの系譜にあるサウンド・デザインのような意味を持つシンセ・リードがトラックそのものの背景となるシークエンスにカラフルな音の印象を及ぼす。そして、オーケストラストリングやピアノの演奏を付け加えながら、単一の要素で始まったダンスミュージックは驚くほど多彩な印象に縁取られ、その世界観を広げていき、そして奥行きを増していく。反復的なミニマルの音の運びがアシッドビートのように何度もそれが執拗に繰り返されると、オラファー・アルナルズのカラフルなシンセリードの演出効果により、ダンスミュージックの祝福されたような瞬間をアルバムのオープニングで作り出す。

 

エモーショナルなレイヴの要素は「#2 Burst」に見いだせる。同曲は今年のダンス・ミュージックのハイライトとなりそう。今回、 ”伝統的な4ビートからUKのダンスミュージックを反映させた”ということで、Burialの最初期のダブステップやUKベースライン、ブレイクビーツの影響を交え、しなるようなビートを築き上げる。もちろんキアスモスとしての特性も忘れていない。


90年代、00年代から受け継がれるダンスミュージックの内省的な要素を反映させ、レイヴやアシッド・ハウスの外交的なスタイルに昇華させる手腕は天才的である。次のセクションの前に強拍を置き、それらを断続的に連ねながら、キアスモス特有のグルーヴを発生させ、連続的なエネルギーを上昇させ、青空に気球がゆっくりと舞い上がるかのようなサウンドスケープを呼び覚ます。 そしてフィルターを掛けながら、トーンを自在に変化させたり、映画音楽のようなストリングを交えたりと、ジャンルそのものを超え、音楽の合一へと近づく様は圧巻である。”泣かせるダンスミュージック”というのが何なのか、この曲を聞いたら明らかではないだろうか。

 


「Burst」-Best Track

 

 

音楽における旅を続けるかのように、「#3 Sailed」は映画音楽をテクノ/ブレイクビーツとして再解釈し、ドラマティックなイメージを呼び起こす。南国の海の波の音をリズムの観点から解釈し、Tychoのようなリード、民族楽器のフルートを模したシンセ、ガムランのようなインドネシアのリズムの特性を織り交ぜ、”エスニック・テクノ”という未曾有のジャンルを作り上げる。


これらは、2010年代後半にBonoboが試みていたエスニックなテクノにキアスモスの独自の解釈を付け加え、それらを洗練させたり改良させたりする。色彩的な音楽の要素は「#4 Laced」でも続き、Four Tetの系譜にあるサウンド・デザインのようなアウトプット、それから、ピアノやホーンのリサンプリングの要素を重層的に重ねながら、コラージュ的なテクノを構築する。曲の複合的なリズムはもちろん、キアスモスは一貫して旋律進行の側面を軽視することはない。


同曲の後半では、ダブステップやネオ・ソウルのトラック制作で頻繁に使用されるオーケストラ・ストリングやホーンのサンプリングの技法を凝らしながら、変幻自在で流動的なサウンドを作り出す。これらのサンプリングは裏拍を強調したアップビートと重なりあい、最終的にはアシッドハウスの範疇にあるコアなグルーヴを発生させる。

 

Erased Tapesのプレスリリースでは”BPMの変化に工夫が凝らされている”と書かれている。ところが意外なことに、本作の序盤ではBPMが驚くほど一定で、同じようなビートの感覚が重視されている。つまりテンポはほとんど変わらない。しかし、これは”リズムの魔術師”である二人の遊び心のようなもので、終盤にある仕掛けが施されている。


そして、少なくともBPMの観点から言えば、一定のテンポという概念を逆手に取り、その中に組み込まれる大まかな音符の分数の割当により、リズムの性質に変化を及ぼし、最終的にはリズムの構造性を変容させる手法が目立つ。変拍子は登場しないが、他方、トーンの変化ーーフィルターを調節し、音の聞こえ方を変化させることで、ビートに微細な変化を及ぼしている。これは、彼らのKEXPのライブ・パフォーマンスを見てもらえるとよく分かるように、ターンテーブルの出力の遅れを始めとする音の発生学をシンセプレイヤーとして体感的に捉えたものである。

 

続く「#5 Bound」はディープ・ハウスの4ビートに軸足を置きながら、シンセのモジュラー機能によってほんわかしたシーケンスを作り出し、最終的にはそれらを清涼感のあるレイヴの形へと繋げる。やはり一貫してBPMは一定であるが、トーンのシフトを調節しながら、出力を引き上げたり、正反対に引き下げたりしながら、ラウドとサイレンスを自由自在に行き来する。もちろん音程もそれに応じて、手動で上昇させたり、下降させながら、流動的なウェイブを作り出す。これらにエモーションを与える役割を果たすのが、曲の後半で演出的に導入される映画音楽の影響下にあるオーケストラストリングだ。これはとりも直さず、フロアのクールダウンの役割を果たしている。アウトロで演奏される内省的なローズピアノがほのかな余韻を残す。

 

 

前半では、キアスモスらしからぬトラックが多いように思える。しかし、「#6 Sworn」では両者が2014年頃から追求してきたアイスランド/フェロー諸島の持つ土地柄を反映させたテック・ハウスが展開される。


2017年に発表された「Blurred」のタイトル曲の系譜にあり、ピアノを元に深妙なイントロを作り出し、内的な熱狂性を込めたミニマルテクノを展開させる。しかし、アルナルズのシンセリードの演奏は、以前よりも円熟味を増し、彼が言うように「エモーショナルなレイヴ」の感覚を呼び起こす。


確かに、キアスモスらしい音の運び方であるものの、7年を経て、何かが変わったような気がする。オーケストラ・ストリングを含めたサウンドプロダクション、アンビエントのようなシークエンス、金属的なパーカッションのリズムセクション、シンセの音の破壊とマニュピレーションというように、以前よりも多角的な要素が散りばめられ、背後にはファンク・ソウルの影響もちらつき、最終的に二人の合奏やサウンドコントロール下にあるタイトな音楽を構築する。


思うのは、キアスモスは、2020年代のダンス・ミュージックだけではなく、90年代やミレニアム時代のテクノの醍醐味を体感的に知っているということである。もちろん、ダンスミュージックは、他のいかなるジャンルよりも感覚的なもので、リズムそのものに身を委ねられるか、体を揺らせるか、何より、音のイメージから読み取るべき何かが存在するというのが必須である。


「#7 Spun」は、Bonobo(サイモン・グリーン)の影響下にある、複合的なリズムを織り交ぜた4/8の構成のテックハウスで、複雑化の背景には、リズムの簡素化がある。要するに、どれほど音を積み重ねようとも、根底にあるリズムは単純明快で、無駄な脚色は徹底して削ぎ落とされている。


常に優れたデザインが簡素であるように、キアスモスのサウンドは一貫してシンプルなビートとリズムを重視している。これが俗に言うグルーヴ感を呼び起こし、アシッドハウスの質感を伴う”うねるようなウェイヴ”が出現する。ここにも、以前、サイモン・グリーンが語っていたように、”どれほど多くの機材を所有し、音の選択肢が広がろうとも、良い音楽を作れるわけではない”ことが示されている。グリーンは以前、''機材の多さを重視するミュージシャンに辟易している''と話していたが、良いダンスミュージックを制作するために必要なのは知恵と工夫である。


今回、キアスモスはエキゾチックな雰囲気を持つトラックを制作している。同じように、「#8 Flown」は、パーカッシヴな効果を活かしたBonoboの系譜にあるEDMとなっている。それらを太鼓のようなドラム、インドネシアのガムランに見出される民族音楽の金属的なパーカッションという形式を通じて、チルアウトの気風を反映させる。そして、ガムランの音の特徴というのは微分音にある。つまり複数の倍音の発生させることによって、涼し気な音響効果を及ぼすということ。


微分音というのは、平均律をさらに微分によって分割したもので、倍音の音響がいくつもの階層に分かたれていることを証明付けている。この音響学の性質をキアスモスは知ってか知らずか、金属的なパーカションを反復させ、太鼓のようなスネアの音、三味線やサントゥールのような民族楽器のサンプリング、そしてピアノやストリングのコラージュを散りばめることで、バリ島の制作現場の空気感を反映させたリゾート感たっぷりの魅惑的な音の世界に導くのである。

 

BPM(Tempo)の極端な変化という点は、アルバムの最終盤に出現する。アップビートのディープハウスによるトラック「Told」は、EDMの愉悦を体現させている。バスドラのキックを活かし、ラウドとサイレンスを巧みに交差させ、明るい印象に縁取られたダンスミュージックの究極系に近づく。曲の中盤に導入されるオーケストラストリングスは、ほんの飾りのようなもので、基本的にはトーン・シフトやフィルターの使用を介し、音の印象に変化を及ぼすというキアスモスのスタイルに変更はない。そして、アッパーなビート、ダウナーなビートという、2つの対比の観点から、メリハリのあるダンスビートを作り上げ、最も理想的なダンスミュージックが造出される。アウトロでは、制作現場の雰囲気を反映させたような楽園的なストリングスがフェードアウトしていく。この曲の後半には、音楽の最高の至福のひとときを体感できる。

 

グラミー賞ノミネートのピアニスト/作曲家としても活躍するオラファー・アルナルズであるが、もうひとつの制作者の表情が続く「Dazed」に見いだせる。お馴染みの蓋を開けたアップライトピアノのレコーディングは、モダンクラシカルの曲を期待するリスナーに対するミュージシャンのサービス精神の表出である。バリ島でフィールド録音したと思われる水の音のサンプルは、従来のアイスランドの気風を持つピアノ曲とは若干異なり、南国の気風に縁取られている。アップビートの後の涼しげなピアノ曲は、アルバムの重要なオアシスとなるにちがいない。


キアスモスは、エレクトロニックの文脈において、フローティング・ポインツのような大掛かりなトラックを制作する場合もある。


アルバムのクローズを飾る「Squared」は、ヨハン・ヨハンソンを彷彿とさせるモダンクラシカル風のオーケストラストリングスの立ち上がりから、ミニマルテクノ/ハウスへと移行していく。もしかすると、このクローズ曲には、富士銀行のアルバム・ジャケットで有名なMOGWAIへのオマージュが捧げられているかもしれない。特にリズムの側面では、マーチングのような行進のリズムが内包されている。そして、その向こうからぼんやりと立ちのぼってくる90年代のレトロなシンセリードは、エキサイティングであるにとどまらず、勇ましさすら感じとることができる。まさしく、ファンにとって待ってましたといわんばかりのダンスチューンである。 


キアスモスのバックカタログにある「Loop」の構造を踏まえ、同じようにミニマル・テクノ/ハウスの中間に位置するパワフルなEDMで『Ⅱ』は締めくくられる。オラファーによるトーンの操作も素晴らしく、ヤヌスのベースの抜き差しも聞き逃せない。リアルタイムで録音したからこその刺激的なキラーチューン。これ以上の理想的なEDMは今年登場しないかもしれない。アウトロの二人の個性がガッチリ組み合わされ、刺激的な音のハーモニクスを描く瞬間は圧倒的である。このアルバムではダンスミュージックの本当のかっこよさを痛感することができるはず。

 


 

95/100

 

 

 

「Squared」-Best Track



Kiasmosのニューアルバム『Ⅱ』はErased Tapes Records Ltd.から本日(7月5日)リリース。 ストリーミング等はこちら。商品のご購入は全国のレコードショップにてよろしくお願い申し上げます。