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 Marmo  「Deaf Ears Are Sleeping」EP

 

Label: area127

Release: 2024年8月28日

 

Review    ◾️ロンドンのダンスユニットの新作 リズムの組み替えからもたらされる新しいEDM


ロンドンの二人組、marco、dukaによるエレクトロニック・プロジェクト、MARMO(マルモ)は当初、メタルバンドのギタリストとボーカルによって結成された。おそらく両者とも、覆面アーティストであり、Burialのポスト世代のダンスユニットに位置付けられるが、まだまだ謎の多い存在である。


昨年、マルモはアンビエントとSEの効果音を融合させた近未来的なエレクトロニックアルバム『Epistolae』を発表し、ベースメントであるものの、ロンドンに新しいダンスミュージックが台頭したことを示唆していた。

 

『Deaf Ears Are Sleeping  EP』も新しいタイプのダンスミュージックで、聞き手に強いインパクトを及ぼすのは間違いない。三曲収録のEPで、逆向きに収録されたリミックスが並べられている。オリジナル曲との違いは、リミックスバージョンの方がよりディープ・ハウスに近いダンサンブルなナンバーとなっている。

 

当初、メタルバンドとして出発したこともあってか、Marmoの音楽はサブベースが強く、徹底して重低音が強調されている。それはヘヴィメタルから、ドラムンベースやフューチャーベース、ダブステップ等の現地のベースメントの音楽にアウトプット方法が変遷していったに過ぎないのかも知れない。しかし、ロンドンのダンスミュージックらしいエグさ、ドイツを始めとするヨーロッパのEDMを結びつけるという狙いは、前作よりもこの最新作の方が伝わりやすい。

 

「Inner System」は、ドイツのNils Frahm(ニルス・フラーム)の「All Armed」のベースラインの手法を、モジュラーシンセ等を用い、ダブステップのリズムと結びつけて、斬新なEDMを作り上げている。特に、Squarepusherの最初期からの影響があるのは歴然としており、それは、Aphex Twinのような細分化したハイハットやドリル、SE的なアンビエント風のシークエンスという形に反映されている。まさにロンドンのダンスミュージック文化の威信をかけて制作されたオープナーである。実際的に、ローエンドの強いバスドラム(キック)とMARMOの近未来的な音楽性が結び付けられるとき、ダンスミュージックの新奇な表現が産声を上げるというわけなのだ。

 

二曲目「Deaf Ears Are Sleeping」は、例えば1990年代のCLARKの『Turning Dragon』など、ドイツのゴアトランスに触発された癖の強いダンスミュージックだが、オープナーと同じようにSEの効果音を用いながら、オリジナリティ溢れる音楽を追求している。部分的には、最近のオンラインゲームのサウンドトラックのようなコンセプチュアルな音楽が、ダブステップのようなリズムと結び付けられ、近未来的なEDMが構築されている。


「Deaf Ears Are Sleeping」に発見できるのは、バーチャル(仮想空間)の時代の新しい形式のダンスミュージックであり、それらが一貫して重低音の強いベースやバスドラム、Spuarepusher(スクエアプッシャー)のようなアクの強いリズムと結び付けられている。さらに、モジュラー・シンセなのか、サンプラーで出力しているのかまでは判別出来ないが、ドローン風の効果音もトラック全体に独特なドライブ感と、映像的な音楽性を付け加えていることも付記すべきだろう。

 

3つのリミックスは、オリジナル曲をアシッドハウス、ゴアトランス寄りのミックスとして再構成されたものなので、説明は割愛したい。しかし、「Aztec Euphoria」は、ドラムンベースやフューチャーベースの次の新しいジャンルが誕生した、もしくは、その芽吹きが見えはじめたといっても差し支えないかも知れない。リズムが複合的で面白く、アンディ・ストットのようなリズムの重層的な構築に重点を置いたトラックとして楽しめる。また、ブラジルのSeputula(セパルトゥラ)が、民族音楽をヘヴィメタルに置き換えてみせたように、マルモは民族音楽のリズムを彼らの得意とするダンスミュージックの領域に持ち込んだと解釈することができる。


近年、どれもこれも似たり寄ったりなので、EDMは飽和状態に陥っているとばかり思っていたが、どうやら思い違いだったらしい。解決の糸口は思いもよらない別のジャンルにあるのかも知れない。少なくとも、アフリカの打楽器のような音をサンプラーとして処理し、ドラムンベース、ダブステップ、フューチャーベースとして解釈するというマルモの手法は、まったく未曾有のもので、ロンドンのアンダーグラウンドから興味深い音楽が台頭したことの証ともなりえる。

 

例えば、Killing Jokeは、かつてイギリスに固有の音楽が存在しないことを悩んでいたが、彼らの場合は、すでに存在するリズムを複雑に組み替えることで、新しいイギリスの音楽(複合的なリズム)の形式を確立させた。これは、Gang Of Fourはもちろん、Slitsのようなグループを見ても同様だ。新しい音楽が出来ないと嘆くことはなく、すでにあるものに小さな改良を加えたり、工夫をほどこすだけで、従来に存在しなかったものが生み出される場合がある。Killing Jokeのようなポスト・パンクの代名詞的なグループは、歴史的にこのことを立派に実証している。ロンドンのMarmoもまたこれらの系譜に属する先鋭的かつ前衛的なダンスユニットなのである。
 



85/100

  


 beabadoobee  『This Is How Tomorrow Moves』

 

Label: Dirty Hit

Release:2024年8月9日

 

 

Review  

 

フィリピン/イロイロ島出身のロンドン在住のシンガーソングライター、beabadoobeeはデビューアルバムでは音楽性が定まらなかったが、このセカンド・アルバムでようやく「一家言を持つようになった」とも言える。一家言といえば大げさかもしれないが、主張性を持つようになったことは明確である。音楽的にも、スポークンワードに挑戦し、ロンドンの現代的な音楽を吸収しているのを見るかぎり、「海に飛び込む覚悟!!」という歌手の説明は、単なるブラフではあるまい。もちろん、海に飛び込んだ後、どこにたどり着くかは、依然としてはっきりとしていない。ドーヴァー海峡を越えて、別のユーラシアの国にたどり着くのか、それともほかに??


さて、最近、88risingのNIKIを見ると分かる通り、アジア系のシンガーソングライターに注目が集まっている。beabadoobeeもその一人には違いないが、このセカンド・アルバムにアジア的なテイストはあるのだろうか。フィリピン時代に、シンガーが聴いていたと思われる日本のポピュラー音楽の影響も微かに感じられるが、それは色付けや脚色のような範疇に留められている。(タイを始めとする東南アジア圏では、シティ・ポップをはじめとする日本の音楽が若者に親しまれている。)間違いなく、このアルバムの根幹にあるのは、モダンなロンドンのポップスであるが、ソングライターは自分らしいカラーをこの作品で探求しているように思える。ファースト・アルバムのようなアルバムを期待して、少し雰囲気が変わってしまったことに落胆を覚えるリスナーは、息子や娘が自分の元から旅立ってしまったとき、ショックを覚えるタイプの人々だろう。少なくともセカンドには、歌手としての成長のプロセスが示されているらしい。

 

Dirty Hitの所属アーティストは、それほど地域性という側面にこだわらないような気がしている。基本的には、Dirty Hitには商業的なポップスを制作するミュージシャンが多いが、彼らの共通点を挙げると、ローカルな音楽ではなくて、コスモポリタニズムの範疇にある音楽を制作するということである。つまり、彼らの出発は地域的だが、そこを飛び出し、より広いコスモポリタンとしての領域へと踏み出そうとするのである。唯一の例外は、オスカー・ラングだが、最もイギリスらしい曲を書く歌手である一方、やはりローカルなポップスとは言い難く、「インターナショナルなポピュラー」という点では共通している。そして、beabadoobeeのセカンドアルバムの作曲性についても、インターナショナルな観点を重視しており、イギリス的な音楽というよりも、ヨーロッパ的な音楽が、この二作目には通奏低音のように響いている。そしてそれは、現代のトレンドになりはじめているチェンバーポップのリバイバルから、イエイエのようなフレンチ・ポップの復権、バブリーな雰囲気を持つアジアのポピュラー等、多角的な音楽性を基底にして、デビューアルバムより完成度の高い作品が制作されたと見るのが妥当である。

 

しかし、何かが変わったことは事実だが、デビュー作の音楽性が完全に立ち消えとなったかと言えばそうでもない。依然としてベッドルームポップの範疇にあるガーリーなポップスは引き継がれている。

 

「1- Take A Bite」は今最もストリーミングで人気がある一曲。いちばん興味を惹かれるのは、Tiktok、Instagramの時代の即時的な需要に応えながらも、曲全体の作り込みを軽視することがないということ。緻密に作り込まれているが、他方、聞きやすい曲を渇望するリスナーの期待にも応えてみせる。

 

このオープナーには、ソングライターとしてのbeabadoobeeの器用さが表れている。甘口のポップスを書くことに関しては人後に落ちないシンガーの真骨頂とも言うべきナンバーだ。それに加えて新しい音楽的な要素もある、チェンバーポップのリズムを交えながら、曲の後半では、アンセミックなフレーズを出現させる。しかしながら、それはオルトポップの位置づけにある。ここにはインディーズ音楽をこよなく愛するシンガーの好みのようなものが反映されている。


beabadoobeeの音楽性にはデビュー・アルバムの時代からオルタナティヴロックの影響が含まれている。

 

「2-Calfornia」では、オルタナティヴロックをベースに、それらをポップスの切り口から捉えている。サンプリング的なギターロックという側面では、Nilufur Yanyaに近く、また同時に80年代のハードロックの系譜にあるメタリックなギターのリフが際立っている。しかし、やはりオリジナリティがあり、それらのテイストを甘口のベッドルームポップで包み込む。好き嫌いが分かれるかも知れないが、アイスクリームのように甘いメロディーとツインリードを元にしたギターラインが組み合わされる時、このアルバムの序盤のハイライトとも称すべき瞬間が出現する。

 

「3−One Time」では、アーティストが語っていた「他者と自分の関係性」についてのテーマが見え隠れする。いわば前作までは、「他者の影響下にある自己」というテーマがフィーチャーされていたのだったが、今作では、環境に左右されることのない自律性を重んじており、「自分を主体とした他者」という以前とは真逆の見方や考え方が反映されているように思える。ドラムテイクを中心とするバンド形式での録音だが、ここでは前面に立つ自己を許容しており、またおそらく、「自分に自信や責任を持つことの重要性」を対外的に示そうとしているのではないか。それは前項とも関連性があるが、他者に惑わされることのない無条件の肯定感でもある。現代のソーシャルメディアが優勢の時代、一般的には承認を受けなければ価値に乏しいという考えに走りがちだが、それは一つの価値観に過ぎない。他者の承認というのは、一時的なものに過ぎず、それとは別の「無条件の自認」という考えがソングライティングの根幹に揺曳する。歌声自体にも、デビューアルバムに比べて、自負心や、勇敢な気風が備わっている。これは、実際的なライブ等で経験を積みながら、着実にファンベースを獲得してきたシンガーとしての実感のような思いが、歌声やソングライティングにリアリティを付与したと考えられる。

 

「4−Real Time」では、デビュー・アルバムにはなかったタイプの曲で、聞き手を驚かせるはずだ。ララバイやバラッドという西洋音楽の古典的な形式を踏襲し、ディキシーランドジャズのような米国の音楽的な要素を付け加えて、ビートルズの影響下にあるソングライティングに昇華させている。デビューアルバムの夢想的な楽しさという音楽的なテーマは2年を経て、別の感覚に転化したことが分かる。ソングライターとしての音楽性の間口の広さがこの曲に表れている。


「5- Tie My Shoes」では、アコースティックのオルトフォークのイントロから、やはりこのアーティストらしいベッドルームポップのブリッジやサビへと移行していく。そして、前作にはなかったカントリーやフォークの要素が、レビューの冒頭で述べたように、インターナショナルなポピュラー音楽としての機能を果たしている。特に、この曲ではアコースティックギターにバンジョーのようなフォーク音楽の源流にある楽器を使用することで、「モダンとクラシックのハイブリッド」としての現代の商業音楽というウェイブを巧みに表そうとしているのである。

 

 Best Track-「Tie My Shoes」

 

 

さらに、セカンド・アルバムでは音楽性として多彩なバリエーションが加わっている。中盤では、落ち着いた聞かせるタイプの楽曲が多く、シンガーソングライターとしての進化が伺える。


「6-Girl Song」では、オスカー・ラングが最新作で示したような70年代、80年代のビリー・ジョエルのソングライティングを踏襲し、beabadoobeeはピアノ・バラードの領域に踏み入れている。静謐なバラードの導入部には「帰れ ソレントへ」に代表されるカンツォーネからの影響も伺え、牧歌的なフォークの響きとポピュラーとしての深みが見事な合致を果たす。さらに、ジョエルのようなシンプルな構成を元に、”良いメロディーを聞きたい”という要求に、ソングライターは端的に応えている。亜流の音楽ではなく、王道の音楽にストレートに挑んでいる点に、頼もしさすら感じられる。一方、「音楽の楽しさ」という点を重視しているらしく、「7- Coming Home」では、古典的なワルツの形式を踏まえて、それらを遊園地のメリーゴーラウンドのようなきらびやかな楽しさで縁取っている。その中で、往年のイエイエのようなフランスの歌手のボーカルの形式を踏まえ、おしゃれな感覚のあるポップスという形に昇華させている。

 

一方、「5- Tie My Shoes」で登場したフォーク・ミュージックの要素が続く「8- Ever Seen」で再登場する。バンジョーの響きが、beabadoobeeの甘口のポップスと鋭いコントラストを描き、モダンとクラシカルという、このアルバムの副次的なテーマが、表向きのテーマの向こうにぼんやりと浮かび上がってくることがある。この曲では、The Poguesに象徴されるアイルランドのフォークとインディー・ポップの魅惑的な響きが掛け合わされて、このアーティストしか生み出し得ないスペシャリティが生み出される。この曲は最終的に、舞踊曲に変わっていき、踊りのためのポピュラーミュージックへと変遷していく。以前、beabadoobeeeは、彼女自身が出演したバレエのミュージックビデオも撮影していたが、舞踏曲としての予兆が込められていたのである。

 

すでにいくつかのワールドミュージックが登場しているが、続く「9- A Cruel Affair」では、ボサノヴァとイエイエのボーカルをかけ合わせて、南国的な音楽のムードを作り出す。これらは神経質なポピュラーとは対象的に、音楽の寛いだ魅力を呼び起こそうとしている。アルバムの中の休憩所となり、バリ島のリゾート地のようなリラックスした雰囲気を楽しめる。ただ、一貫してbeabadoobee のボーカルは、全盛期のフランソワ・アルディを意識しているのかもしれない。少なくとも、イエイエのようなフレンチ・ポップのおしゃれな語感を活かし、夢想的な感性に縁取ってみせる。途中に導入されるギターは天にも昇るような感覚があり、クルアンビンのサイケロックやホリー・クックのダブのようなトロピカル性やリゾートの感覚を呼び覚ます。



その後、オルタネイトなインディーロックが再登場する。「10- Post」は、バンド形式の録音で、現代的なバンガーとなるべく制作された一曲である。アコースティックのドラムと打ち込みのドラムを交互に配置し、ロックとエレクトロニックの印象を代わる代わる立ち上らせる。そしてボーカルにしても、ギター、ドラムの演奏にしても、従来のbeabadoobeeの曲の中ではパンキッシュな魅力を持つトラックに昇華されている。時々、曲はメタリックな性質が強まることもある。一方、デビューアルバムから一貫している、内省的な感覚を備える切ないメロディーが背後にちらつく。これらのエネルギッシュな側面とナイーヴな側面の融合が多彩性をもたらす。無論、表向きの音楽のみならず、背後に鳴り響く音楽としての性格も具備している。これが音楽に説得力と呼ばれるものや、何度も聞きたくなる要素をもたらすことは明確なのだ。

 

続く「11- Beaches」は、オルトポップ・アーティストとしての総括をするような一曲である。ベッドルームポップの系譜にあるギターの内省的なイントロから、それとは対象的にポップバンガーとして見ても違和感がないダイナミックなサビへ移行する瞬間は、beabadoobeeの最初期のキャリアを象徴付ける最高の一曲が誕生したと見るのがふさわしいかも知れない。この曲は、アーティストとして、次のステップへと進む予兆が暗示されている。さなぎが蝶へと進化し、やがて大空に羽ばたくように、別の存在へと生まれ変わる段階がこの曲には示唆されている。

 

 

終盤の「12- Everything I Want」以降では、本来は少し控えめな歌手の一面が伺えるが、自らのキャラクターを遠慮会釈なく対外的に提示することに大きな意義がもとめられる。実験音楽ではないものの、商業音楽としての実験性が示されていることは事実だろう。オルタネイトなギターロックやイエイエ、ワールド・ミュージック、それから、フォークという多角的な音楽をベースにして、独自のカラーを探っているように感じられる。これは従来の住み慣れた領域から別の地点に向け、ゆっくりと歩き出すシンガーソングライターの背中を捉えることができる。

 

今、beabadoobeeはギターを手にして、どこかへ向けて歩きだしたようだが、そのゴール地点はまだぼんやりとしていて見えない。夢想的でスタイリッシュな音楽という抽象的な概念、それを従来のポップやロックという視点を通して的確に表現する時、beaのポピュラーの概念が完成するのだろう。まだ、その旅程の途上であると思われるが、しかし、シンガーは理想とする音楽に一歩ずつ着実に近づいている。その核心を見出した時、本当の自己を見出すのかも知れない。


終盤の2曲は、シンプルなフォークミュージック、オルゴールのような音色を使ったポップスが心地よく鳴り響き、従来の夢見るような少女的な感覚を決定付けている。最終的には、自己を肯定するという重要な主題が見出すことができ、ポスト・サワヤマとしての歌手の立ち位置を表している。さらに、同時に、どうやらこのアルバムには、現在の自分に対する追憶、そして過去の自分に対する惜別のような際どい感覚がさりげなく織り交ぜられているように感じられる。


ロンドンのSSWのセカンドアルバム『This Is How Tomorrow Moves』は、現在と過去の自分の姿を明瞭に俯瞰した上で、それらを録音で体系的にまとめ、不透明な未来への予測と憧れを示すとともに、「シンガーソングライターとしてのスナップショット」を音楽という形で捉えようとしている。


 

 

 88/100

 


Best Track-「Beaches」

 

 

 

Details: 


「1- Take A Bite」 B+

「2 - Calfornia」 B

「3− One Time」B

「4− Real Time」B

「5- Tie My Shoes」A

 「6- Girl Song」A

「7- Coming Home」B

 「8- Ever Seen」A−

 

 「9- A Cruel Affair」B+

 「10- Post」B+

 「11- Beaches」S

 「12- Everything I Want」C+

 「13 - The Man Left Too Soon」B

 「14- This Is How It Went」 B+


* beabadoobeeのデビューアルバム「Beatopia」のレビューはこちらからお読みください。

 JPEGMAFIA 『I Lay Down My Life For You』


 

Label : AWAL

Release: 2024年8月1日

 

Review     


アブストラクト・ヒップホップの帝王の新作

 

JPEGMAFIAのラップは、いわゆる実験的で抽象的なヒップホップ、つまりアブストラクト・ヒップホップと呼ばれることがあり、リリックや音楽性の先鋭的な側面に焦点が絞られている。同時に、JPEGMAFIAは、ヒップホップというジャンルに必要以上にこだわることはあまりない。Danny Brownとのコラボレーションの時、彼はSlayerのカットソーを着ていた。ダニー・ブラウンもMayhemのシャツを着ていた。二人は揃って、どうやらコアなメタルのファンらしい。

 

当然のことながら、あるジャンルの音楽をやっているからと言えども、自分の関わる音楽ジャンルだけを聴いているアーティストはほとんどいないのではないか。そして、まったく無関係の音楽からヒントを得ることもあるだろうし、また、ライターズブロックが解消されるとき、想像もしないような方向から解消されるものである。最近のラップアーティストと同じように、JPEGMAFIAのラップも未知なる可能性に満ちていて、なにが次に起こるかわからないから興味深い。

 

このアルバムは、盟友であるダニー・ブラウンの昨年の最新作『Quaranta』に部分的に触発を受けたような作品である。序盤ではドラムのアコースティックの録音を織り交ぜ、不可解で予測不能なアブストラクトヒップホップが繰り広げられる。「i scream this in the mirror-」では、ノイズやロック、メタルを織り交ぜ、80年代から受け継がれるラップのクロスオーバーも進化し続けていることを感じさせる。メタル風のギターをサンプリングで打ち込んだりしながら、明らかにスラッシュ・メタルのボーカルに触発されたようなハードコアなフロウを披露する。そして、断片的には本当にハードコアパンクのようなボーカルをニュアンスに置き換えていたりする。ここでは彼のラップがなぜ「Dope」であると称されるのか、その一端に触れることができる。

 

そして、ターンテーブルの音飛びから発生したヒップホップの古典であるブレイクビーツの技法も、JPEGの手にかかるや否や、単なる音飛びという範疇を軽々と越え、サイケデリックな領域に近づく。「SIN MIEDO」は音形に細かな処理を施し、音をぶつ切りにし、聞き手を面食らわせる。ただ、これらは、Yves Tumorが試作しているのと同じく、ブレイクビーツの次にある「ポスト・ブレイクビーツの誕生」と見ても違和感がない。普通のものでは満足しないJPEGMAFIAは、珍しいものや一般的に知られていないもの、刺激的なものを表現すべく試みる。そして、音楽的には80年代のエレクトロなどを参考にし、ラップからフロウに近づき、激しいエナジーを放出させる。これは彼のライブでもお馴染みのラップのスタイルであると思う。

 

今回、JPEGMAFIAは、ダブ的な技法をブレイクビーツと結びつけている。そして、比較的ポピュラーな曲も制作している。「I'll Be Right Time」では、 背後にはEarth Wind & Fireのようなディスコ・ファンクのサンプリングを織り交ぜ、まったりとしたラップを披露する。そして、ブラウンと同様に、JPEGMAFIAのボーカルのニュアンスの変化は、玄人好みと言えるのではないだろうか。つまり、聴いていて、安心感があり、陶然とさせるものを持ち合わせているのだ。これは実は、70、80年代のモータウンのようなブラックミュージックと共鳴するところがある。


そして続く「it's dark and hell is hot」では、イントロにおいてドゥワップのコーラスをなぞられている。しかし、その後、何が始まるかといえば、ゲームサウンドに重点を置いたようなラップである。そしてそれらのイントロのモチーフに続いて、シュールな感じのヒップホップを展開させる。


ドラムを中心とする細かなリズム/ビートをAphexTwinの最初期のサウンドのようにアシッド・ハウス/アシッド・テクノの観点から解釈し、早回しのリリックさばきをし、彼の持ち味であるドープなフロウへと近づけようとする。フロウは、いきなり発生することはなく、ビートや言葉を辛抱強く続けた先に偶発的に起きるものである。そのことを象徴付けるかのように、ダークなラップを続けながら、JPEGはハイライトとなる瞬間、ハードコア・パンクやメタルのようなボーカルへと変化させる。この一瞬に彼のラップの特異なスペシャリティが発生するのである。 

 

 

 「I'll Be Right Time」

 

 

 

このアルバムの中盤には、いわゆるアブストラクトヒップホップ、そして、ニューヨークドリルの最も前衛的で過激な部分が出現する。ロサンゼルス/コンプトンのラッパー、Vince Staplesをゲストに招いた「New Black History」では、英国のモダンなエレクトロニックと多角的なリズムを織り交ぜたダブステップ以降のヒップホップを制作している。


ここでは、彼自らがブラックミュージックの新しい歴史を作るといわんばかりの覇気を込めて、ミュージックコンクレートやサンプリングを織り交ぜながら、刺激的なヒップホップの雛型を丹念に構築していく。「don't rely on other man」では、JPEGがアクション映画にあこがれているのではないかと伺わせるものがある。そしてブレイクビーツを生かしたビートやラップは、悪役の活躍するハリウッドのアクション映画のワンシーンを聞き手の脳裏に呼び覚ます。この曲では彼のラップが最もシネマティックな表現性に近づいた瞬間を捉えることができるはずだ。

 

JPEGMAFIAはどうやら、ギターロックやハードロックがかなりお好きなようである。実際的には80年代のギターヒーローの時代のメタリカ、アンスラックス、その周辺のハードロック/メタルからの影響を感じさせることがある。しかし、そうだとしても、やはりこのアルバムでは先鋭的なヒップホップのサウンド加工が施されると、「vulgar display of power」のように前衛的な響きを帯びる。そして近年のハイパーポップやエクスペリメンタルポップをラップという領域に持ち込むと、このような曲になる。ここでは彼のバックグランドにあるフレンドシップの感覚がパワフルなコーラスに乗り移る。そしてそれらのコーラスが熱狂的なエナジーを発生させる。ここまでを『I Lay Down My Life For You』の前半部とすると、続く「Exmilitary」から第二部となり、その音楽性もガラリと変化する。中には、ビンテージなソウルとブレイクビーツを組み合わせたデ・ラ・ソウルの系譜の古典的なヒップホップに傾倒している曲も含まれている。

 

「Exmilitary」はターンテーブルのスクラッチ音で始まり、古いラジオやレコードの時代の懐かしさへと誘う。その後、レゲエ/ダブのサンプリングを起点に、まったりしたボーカルのニュアンスを披露する。JPEGは東海岸のラッパーだが、西海岸及び南部的なニュアンスを持ち合わせている。これが良い癒やしの瞬間になり、いわばアーバンな雰囲気は南国的なリゾートの気分へと変わる。


曲の展開の仕方も見事である。「Exmilitary」の後半部では、JPEGのラップとしては珍しく、エモーショナルな性質、ややセンチメンタルな曲風へと変遷していく。これは従来のJPEGの作風から見ると、すごく新鮮に聞こえることがある。


もちろん、ラッパーとして、ユニークな表現も忘れてはいない。「Jihad Joe」は、政治に対する揶揄であるものと思われ、この人物がジハードを勃発させたことを暗にジョークで指摘している。ただ、ラップのスタイルがギャングスタ・ラップに影響を受けているとはいえ、表現や歌のニュアンスは、やや救いがある内容となっている。暗い側面を歌うことが現代的なラップのスタイルとなっているが、JPEGは、この画期的な曲の中で、旧来のヒップホップの時計の針を未来へと進め、むしろ暗さという概念の中にユニークな性質が見いだせることを指摘している。


このアルバムは、旧来のJPEGのアルバムの中で最も多彩な音楽性に縁取られていて、彼のカタログの中でもとっつきやすい。そして、ヒップホップがどこまでも純粋で楽しい音楽であることを教えてくれる。「JEPGULTRA!」は、澄んだ音の響きがあり、素晴らしいナンバー。聴いているだけで元気や明るさが漲ってくる一曲である。デンゼル・カリーが参加したこの曲では、アフリカ/カリブといったエキゾチックな民族音楽をヒップホップとつなぎ合わせ、最終的にハード・バップのようなジャズに組み換え、陽気なお祭り気分の楽しい音楽に昇華させている。そう、この曲ではヒップホップという表現を通して世界を結びつける試みが行われている。

 

このアルバムは、アブストラクトヒップホップとして複雑化した音楽の側面も内包されるが、その一方で、簡潔さという、それとは対極にある要素もある。そして、音楽を聞き進めていく内に、閉鎖的な感覚であったものが徐々に開けてくるような感覚がある。「either on or off the drugs」は古典的なソウル、もしくはネオソウルとして聴いても秀逸なナンバーである。女性ボーカルの録音を元に、ライオネル・リッチーやジャクソン、そしてホイットニー・ヒューストンの時代の愛に満ちあふれていたソウルの魅力を、彼はラップで呼び起こす。ラップのニュアンスも素晴らしく、こまやかなトーンや音程の変化には、ビンテージソウルの温かさが込められている。オーティス・レディングが現代に転生し、ラップしはじめたようにファンタスティック。続く「loop it and leave it」では、ピアノのサンプリングを断片的に配して、ミニマルミュージックをベースにしたヒップホップへと昇華させる。すでにフランク・オーシャンが行った試みだが、この曲では「Flllow me」というフレーズを通してアンセミックなフレーズを強調している。これは必ずしもJPEGの音楽がレコーディング・スタジオにとどまるものではないことを示唆している。つまり、ライブやショーケースでのパフォーマンスで生きるような一曲である。

 

曲単位で見ると、分散的に過ぎるように思えるこのアルバム。しかし、全体として聴くと、何らかの流れのようなものがある。そして、それは起承転結のような簡素なリテラチャーの形式に近いものである。

 

そして、アルバムのクライマックスにも聴きどころがしっかり用意されている。「Don't Put Anything on the Bible」では、最近のイギリスのヒップホップやクラブ・ミュージックと連動するように、フォーク音楽やクラシック音楽の領域に近づいている。それはカニエ・ウェストと同じように、クワイア(賛美歌)のような趣旨が込められているが、曲そのものがスムースで、透徹したものがある。表現そのものに夾雑物や濁りのようなものがほとんどない。これが参加したBuzzy Leeの美しいボーカルの持つ魅力を巧みに引き立てているように感じられる。曲の後半では、トリップ・ホップに触発されたようなクールなラップミュージックが展開される。

 

アルバムの最後でも、JPEGMAFIAは、これまでに経験したことがなかったであろう新たな音楽にチャレンジする。「i recovered from this」では、メディエーションの音楽を元に、これまで芸術と見なされることが少なかったヒップホップのリベラルアーツとしての側面を強調している。このアルバムを聴くと、ラップの固定概念や見方が少し変わる可能性がある。そして、音楽でそれを試みようとしていることに、アーティストの素晴らしい心意気を感じることができる。

 

 

90/100



 * JPEGのフェイスマスクには日本語で「不安な」と書いてある。アルバム・タイトルはラッパーとして神に殉ずる覚悟のほどが示されている。最近、彼は、ライブのフライヤーに「戦争」や「降伏」という言葉を使ってくれているのを見るかぎり、どうやら日本語に凝ってるらしい。


 

Best Track - 「vulgar display of power」





 

©︎Donovan Novotny


ロサンゼルスのDJ、Nosaj Thing(ノサジ・シング)、カナダのDJ,Jacques Greene(ジャック・グリーン)がコラボレーションし、ディープハウス、ダブステップとベースライン、レイヴをミックスした「RB3」をリリースした。Nosaj Thingは才能あるプロデューサーで、今後の活躍が楽しみ。

 

彼らは2023年にもタッグを組んでおり、「Too Close」を発表している。それに続くこの曲は、来年リリース予定のフル・コラボレーション・アルバムに収録される予定だ。エレクトロニックデュオの声明は次の通り。


「クロスカントリー・セッション、エンドレス・バージョン、ロード・テスト......。ラップトップをリンクさせ、回転数を合わせる。「RB3」はダンスフロアのためのニューシングルなんだ」



「RB3」

 

 

Nosaj Thing:

 

ロサンゼルスのプロデューサー、Nosaj Thing(ジェイソン・チャン)は、Boards of CanadaやDJ Shadowからダニー・エルフマンやエリック・サティまで、幅広い影響を受けながら、シンセをベースにした重厚で幽玄なインストゥルメンタル・ヒップホップを制作している。

 

 

L.A.出身のチャンは、幼い頃、小学校に通うバスの運転手が流していたヒップホップ・ラジオ局、特にPower 106のビート・ジャンキーズのターンテーブリズムに影響を受けた。高校時代には、ドラムンベースやレイヴ・シーンのサウンドにのめり込み、学校のドラム・ラインでクワッドタムを叩いていた。さらに、ロサンゼルスのアンダーグラウンドなライブハウス、ザ・スメルでのD.I.Y.ロック・シーンに刺激され、より実験的な方向へ進むようになり、2004年にノサジ・シングとしてライブ・デビューを果たした。

 

オンラインや掲示板、そして最終的にはビート志向の音楽スポット、ローエンド・セオリーでの対面でのネットワーキングを通じて、はフライング・ロータス、ノーバディ、デーデラス、そしてD-スタイルズやダディ・ケヴといった地元の伝説的アーティスト(そして個人的なヒーロー)など、気心の知れたアンジェレノスと接触するようになった。

 

2006年に自主リリースした『Views/Octopus EP』(このEPのトラック「Aquarium」は、後にラッパーのキッド・クーディが「Man on the Moon」のベースとして使用した)に続き、2009年にはケヴのAlpha Pupインプリントと契約し、フルレングスのデビュー作『Drift』を発表した。また、MCのBusdriverやNocandoにビートを提供し、Flying Lotus、The xx、Daedelus、Radiohead、Smell staples Healthのリミックスも手がけている。

 

 


Jacques Greene:

 

ボーカリストのKaty B、Tinashe、How To Dress Wellのプロデュースや、Radiohead、Flume、Rhye、MorMorのリミックスを手がける。その一方、Givenchyやカルト・デザイナーのRad Houraniとのファッション・コラボレーション、ロンドンのテート・モダンをはじめとするアート施設とのコラボレーションなど、活動の幅を広げている。


ジャック・グリーンのきらめくオリジナル・プロダクションには、ジャンルを定義する「Another Girl」がある。その後、LuckyMeから'On Your Side'、'Phantom Vibrate'、'After Life After Party'などのEPをリリースし、アメリカ、カリフォルニア、イギリス、EU、アジアを回るワールドツアーを行い、ジュノー賞3部門にノミネートされた。「Feel Infinite」(2017年)と「Dawn Chorus」(2019年)の2枚のアルバムをリリースしている。


2019年以降も、グリーンの勢いは止まらない。2021年にリリースした『ANTH01』は、モントリオール時代からの彼の進化を示す、初期のレア音源集だ。このアルバムには、ディープ・カットに加え、"Another Girl "や "The Look "といったクラブ・ミュージックのヒットナンバーも収録されている。


また、グリーンは新たなコラボレーションにも挑戦している。イギリスのミュージシャンでプロデューサーのボノボ(Bonobo)とタッグを組んだ新曲 "Fold "は、サイモン・グリーンの主宰するレーベルOUTLIERからNinja Tuneと共同でリリースされた。このトラックは、2人のユニークなスタイルがブレンドされ、高揚感のあるハウス・ミュージックを作り出している。


さらに、ジャック・グリーンは、同じくエレクトロニック・ミュージック・シーンに影響力を持つNosaj Thingとコラボレーションし、モントリオールをフィーチャーしたシングル「Too Close」を2023年に発表している。

Weekly Music Feature:  Joep Beving(ユップ・ベヴィン)& Maarten Vos(マーテン・ボス)


Joep Beving & Maarten Vos

 

 

ピアニストのユップ・ベヴィンとチェリストのマーテン・ボスは、2019年の『Henosis』以来二度目のコラボレーションを実現させる。最初の共同作業は2人の音楽家が2018年にアムステルダムのライブで共演した後に実現しました。


新作アルバム『vision of contentment』は、マーテン・ボスもスタジオを構えるドイツの東西分裂時代の遺構で、第二次世界大戦まで旧ドイツの国営放送局であったベルリンのファンクハウス複合施設にあるLEITERスタジオでニルス・フラームがミックスした。

 

現在、ベルリン・ファンクハウスは、観光施設となっており、内部にはレコーディングスタジオとコンサートホールが完備されている。エイフェックス・ツインがイベント行ったり、あるいはニルス・フラームをはじめ、実験音楽をメインフィールドとする音楽家が録音を行ったり、オーケストラのコンサートが行われることもある。旧ドイツ時代の施設の名残りがあり、ロシアのビザンチン建築を継承した踊り場の階段のデザイン、1940年代の奇妙な機械設備が残されています。

 

ベヴィンは、これまで他のアーティストとアルバム全体をレコーディングしたことはありませんでしたが、ヴォスは定期的にそのような活動をしており、ジュリアナ・バーウィック、ニコラス・ゴダン(AIR)、アレックス・スモークといったアーティストとクレジットを共有しています。

 

「時折、音楽的なつながりを共有するアーティストに出くわすと、お互いにコラボレーションをしたいと思うようになる」とマーテン・ボスは説明します。


「異なる創造的アプローチを探求し、彼らのワークフローから学ぶことは刺激的で、私の成長に大きく貢献している」


もちろん、ユップ・ベヴィンにとって、それは当然のステップであり、遅きに失したと言っても過言ではありませんでした。「共同プロジェクトとしてゼロからアルバムを作ることは、マールテンと私が以前からやってみたかったことだった」


「私の契約(ドイツ・グラモフォンとのライセンスのこと)が終了したとき、私たちは音楽を作り始める機会を得た。私はいつも、リスナーが一時的に住めるような小さな世界を作ろうとしている。マーテンとニルスと一緒に仕事をすることは、これを達成するのに非常に役立っている。マーテンは音の彫刻家であり、ニルスはその...音の達人なんだ!」


ベヴィンとボスは、オランダのユトレヒト州にある小さな村、ビルトホーフェン郊外の森の中にひっそりと小屋”デ・ベレンパン”でアップライトピアノと一緒に過ごすため、レコーディング機材、様々なシンセ、チェロなどの荷物を解いた後、2023年7月に『vision of contentment』の大半を書き、レコーディングしました。


この友人たちは、ベヴィンのアムステルダムのスタジオとボスのファンクハウスですでに一緒に時間を過ごしており、そこからさらに2曲のアルバム・トラック作り出された。

 

時におびただしい数の作業から、ピアニストが言うところの「避けられないことを受け入れることに安らぎを見出す」という普遍的な賛辞が生まれました。

 

しかし、このアルバムはそれ以上のものを表現している。それは、彼らの友人であり、ベヴィンの場合はマネージャーであったマーク・ブルーネンへの驚愕すべき個人的トリビュートでもある。


ボスは「vision of contentment」の心に響くサウンドを「想像力豊かな探求を促す音の風景」であると考えており、デュオは「音楽的ガイド」としてモートン・フェルドマンを、そして「メンター」として、坂本龍一とアルヴァ・ノトを挙げています。一方、ベヴィンは、リスナーにシンプルな愛の感覚を残すつもりであると語り、「調和と理解の探求」を可能にし、「ファシストと恐怖に大いなるファック・ユー!!」を届けてくれるであろうことを願っていると付け加えています。


確かに、このアルバムは、私たちの住まう生の世界であれ、反対にある死の世界であれ、平穏という複数のアイデアに根ざしている。ベヴィン曰く、「嵐の後の朝、潮の満ち引きの評価、過ぎ去ったことの受け入れ、そして、新しい日の夜明け、新しい人生を意味している」という。


これらの繊細なブックエンドの間には、亡霊のような無調の「Penumbra」、くぐもったノスタルジックな「A night in Reno」、不定形で不穏な「Hades」など、半ダース(6曲)のトラックが収録されている。


一方、「The heron」の哀愁を帯びたチェロは、ほとんどありえないほど豪華なピアノの旋律に引き立てられるのみで、部屋の中にいる得体の知れないノイズのようなものによってすぐに明るくなる。さらに、「02:07」は、よく生きた人生がより良い場所へと旅立っていく瞬間を表し、タイトル曲の広々とした静かで壮大な9分間は、不在そのものを祝福しているかのようです。


ベヴィンとボスがビルトホーフェンにほど近い森の小屋に落ち着いた頃には、べヴィンのマネージャーで旧友のブルーネンは3年間がんと闘っている最中でした。しかし、彼の死が間近に迫っていたため、制作の進行に影を落としていたとしても、それは悲しみだけが要因ではなかった。「ここでの中心テーマは "ブルー・アワー"、黄昏時だったのです」とベヴィンは説明します。


「それはつまり、ある状態から別の状態への移行、そして暗さを受け入れること。友人のマークは自分の病気と差し迫った最期に対して驚くべき対処法を示していました。彼は自分の運命と平穏に過ごしていました」



『visions of contentment』 Leiter      


オランダの鬼才 ユップ・ベヴィン、マーテン・ボスによる耽美主義のクラシカル

 


オランダのピアニスト、ユップ・べヴィンは、現代のコンテンポラリー・クラシックを語る上では欠かすことが出来ない音楽家でしょう。べヴィンのピアノ曲は、Olafur Arnoldsの系譜にある”叙情的なミニマルミュージック”の系譜にあるものとなっていますが、彼の音楽的な興味は、ロマン派や、それ以降のジャズとの架け橋を形作ったフランスの近代和声に向けられています。

 

べヴィンのピアノ曲の基礎にはショパンのロマン派に対する親しみが込められ、それはポーランドの作曲家の「ノクターン」に近い。それに加え、音楽家のエスプリ(日本語でいう”粋”という概念)を求めるとするなら、エリック・サティのような無調に属する和音と、旧来の和声法の常識を覆すような前衛的な和音法の確立にある。これは、基音の11度、13度、15度といった、ジャズの和音の基本となったのは言うまでもありません。これらの7度以降の和音構造にラヴェルやドビュッシーが興味を抱いたのは、それらの和音が涼し気な印象を及ぼし、旧来のドイツ発祥の厳格な和声法を完全に払拭するものであったからなのです。

 

より端的に言えば、ユップ・べヴィンという作曲家が傑出しているのは、これらの前衛的な和声法と旧来のクラシックのロマン派の夜想曲のような神秘的な雰囲気を持つ楽曲構造を組み合わせているからでもある。

 

今回、ベヴィンのアルバムに新たに共同制作者として参加したマーテン・ボスは、チェロ奏者でありながら、アナログシンセサイザー奏者でもある。このコラボレーションは、チェロとピアノの合奏にとどまらず、シンセサイザーとピアノの融合が主眼となっている。それに加えて、ニルス・フラームが、ベルリン・ファンクハウスのスタジオで最終的なミックスを行っています。


聞けば分かる通り、この作品の制作に携わったニルス・フラームは音響効果をてきめんに施しており、単なる合奏曲ではなく、エレクトロニックやダブステップのような先鋭的なサウンドワークの意味を持つ作風として仕上げられています。全体的な録音の割合で言えば、べヴィンとボスが7、8割、フラームが2、3割くらい関与する内容となっている。もしかすると、1割ほどその割合は前後するかも知れない。つまり、このアルバムは、ユニットやデュオの作品とは言いづらい。むしろ、Leiter(ライター)主導の”トリオの作品”として聴くこともできるようなアルバムになっています。

 

 

ジブリ音楽を手掛けた日本の作曲家、池辺晋一郎氏は、音楽を制作する上で欠かさざるものが2つあると仰っていました。それは作曲の技法の一貫である「メチエ」、つまり、音楽的な蓄積や技法。もう一つが「イデア」であるという。それらはモチーフとか、ライトモチーフという形で作品に取り入れられ、最初に始まった音楽の動機を動かしたり、別の大きな楽節を繋げたり、より大きな枠組みで言えば、幾つかの章やセクションを繋げるような働きをなしています。

 

いわば制作者の頭の中に描かれた構想や着想が、音楽的な設計やデザインと組み合わされることにより、良質な作品が作り出される場合が多いのです。これらは何も、純正音楽だけに限った話ではないように思えます。たとえば、優れたエレクトロニック、優れたロック、優れたポピュラーというのは、イデアとメチエがぴったりと合わさるようにして生み出される。そのどちらかが優勢になっても、均衡の取れた作品にはならない時がある。加えて、現代の指揮者やエンジニアのような役割を担うのがレーベルの仕事であり、そして、プロデューサーの役割でもある。レーベルならば、そのレコード会社らしい音質や録音、一方、プロデューサーならば、そのエンジニアらしいマスタリング。こういった複合的な要素から、現代のレコーディングは成立しており、一人だけの力でそれらが完成することは、ほとんどあり得ないかもしれません。

 

ひるがえって、「visions of contestment」に関して言えば、ユップ・べヴィンの「マネージャーの死」というのが制作過程で一つのイデアとして組み込まれることになりました。それがすべてではないのかもしれませんが、人間の避けられぬ運命、目をそむけてしまうような暗さ、そして、それを肯定的に捉えること……。


これらのピアノ曲とチェロの演奏に、瞑想的な気風が含まれているとすれば、べヴィンにせよ、ボスにせよ、そういった考えを十分に汲み取り、暗さから目を背けず、安らかなものとして受け入れるという「治癒」が内包されているがゆえなのです。さらに言えば、今作はオランダの森の中で制作されたことによる中世的な雰囲気と、ベルリン・ファンクハウスの旧ドイツの機械産業を象徴づける近代的な気風が掛け合わされ、クラシックとエレクトロニックが融合した画期的なアルバムとして音楽ファンの記憶に残るかもしれません。

 

実際、レコーディングの過程で制作された楽曲が時系列順に収録されることは多くはないものの、アルバムは何らかの音楽的な流れーーMovement(ムーヴメント)ーーを形成しているのは事実のようです。それは、物語のようなフィクションではなく、現実にある時間の流れ、ある人の一生や、それに纏わる人々の複雑な感情の流れを、主な演奏家で制作者でもあるユップ・ベヴィンとマーテン・ボスがピアノやシンセ、チェロにより的確に捉え、そしてプロデューサーやエンジニアとして、時おり作曲家に近い形で関わるニルス・フラームという3つの人間関係を中心に構築されている。彼等のうち一人が音楽的な主役になったり、脇役に扮したり、それとは対象的に、舞台袖に控える黒子のような「影の人物」を演ずる場合がある。つまり、このアルバムでは、ほとんど''中心的な人物''というのを挙げることは無理難題のようにも思えるのです。

 

これは音楽という枠組みの内側で繰り広げられる劇伴音楽のようでもある。架空のものでありながら、真実であり、真実でありながら、架空でもある。そして、その演劇的な音楽の向こうから、第四の人物である"マーク・ブルーネン"という、ほとんどのリスナーが見知らぬ人物が登場する。しかし、そういったリヒャルト・ワーグナーの主要な歌劇のライトモチーフのような動きは、飽くまで「暗示」の範疇に留められている。つまり、音楽の基底にレクイエムのようなモチーフが立ち上ってきても、音楽的な立脚点に固執することなく、楽曲ごとに、ないしは曲の中のセクションごとに、そのモチーフが”黄昏時のように”ゆっくりと移ろい変わっていくのです。

 

どのような人生においても、一方方向で進む生き方が存在しえないように、このアルバムの音楽はストレートではなく、時おり曲がりくねったりすることがある。それらは、実際的に音楽的なモチーフやフレーズの中で示される場合もあるものの、特にサンプリングやシンセサイザー、ミックスの音響効果の側面(アンビエンスを活用したエフェクト)で顕著な形で出現する場合がある。

 

冒頭を飾る「on what must be」は前奏曲、つまり、インタリュードのような意味を持っています。ホーンセクションを模したシンセで始まり、葬送曲のように演奏された後、ベヴィンのショパンのノクターンのような曲風を踏襲したアコースティックピアノの演奏がはじまります。悲しみに充ちた演奏は、音楽の背景となる風の音のようなアンビエントのシークエンスによって強化され、音楽の雰囲気が作り出される。ユップ・べヴィンの作品の中で、これほど前衛的な試みが行われたことは、私の知るかぎりでは、それほど多くはなかったかもしれません。


続く「Penumbra」はシンプルに言えば、ベートーヴェンの「Moonlight」のミニマルミュージックとしての構造、そして音楽における雰囲気を受け継いで、ショパンのノクターンのような叙情的な気風溢れるピアノ曲として昇華しています。しかし、この曲は月の光に照らし出されるかのような神秘的な瞬間を収めていますが、それとは異なる亡霊的な雰囲気が微かに捉えられる。

 

これは、最終的なミックスを手掛けたニルス・フラームの貢献であるかも知れませんし、もしくは、サティの系譜にある古典的な和声法とは異なるベヴィンの不安定な和音の構造に要因が求められるかも知れません。そして私たちがふだん見ることのかなわない生と死の狭間--アストラルの領域--を彷徨うかのように、曲はミステリアスな雰囲気を漂わせ、ときおり、マーテン・ボスのチェロの微細なトレモロと淡麗なレガートの演奏を交えながら、奇妙なイメージを形づくる。

 

「A night in Reno」は、シンセサイザーによって時計の針の動きような緊張感のあるリズムを作り出し、サティの系譜にあるベヴィンのミニマリズムのピアノが続く。迫りくる友人の死をビートやピアノの旋律でかたどるかのように、悲しみや暗さに充ちたイメージを作り上げ、亡霊のようなイメージで縁取る。その後、チェロかギターが加わる。アウトロでは、ジョン・ケージの最初期の名曲「In a Landscape」に見受けられるような、ピアノの低音部とともに何かが消滅するようなSEの音響効果が登場し、いよいよ描写音楽としての迫力味を増していきます。



「Hades」-  Best Track

 



それに続く「Hades」は、この世とあの世の間をさまようかのような奇妙な印象を擁するピアノ曲で、オリヴィエ・メシアンや、坂本龍一、アルヴァ・ノトとのコラボレーションの系譜に位置づけられる。もちろん、前衛的なエレクトロニックとしても聴くこともできるでしょう。ニルス・フラームの代表曲「All Armed」で使用されたような前衛的なモジュラーシンセで始まり、その後、協和音と不協和音の双方を活かしたべヴィンのピアノの演奏、プリペイド・ピアノの要素を交えたモダン・クラシックとエレクトロニックの中間点に位置するような楽曲です。

 

 

アルバムの中盤では「The heron」が強い印象を擁する。曲のイントロには、足音が遠ざかるサンプリングが取り入れられている。つまり、友人が死にゆくというメタファー(暗喩)が込められ、モートン・フェルドマンがテキサスの礼拝堂のために制作した代表的な作品『Rothko Chapel』に見いだせるようなマーテン・ボスのチェロの主旋律の演奏で始まり、その後、ユップ・べヴィンによるエリック・サティの系譜に位置づけられる物悲しいピアノの演奏が続いています。 



これらは、べヴィンの音楽の核心にある簡潔性とロマン派の系譜にあるエモーションや憧れ、そして夢想を体現している。彼はまた従来の作品と同じように、それらを悲哀を込めて情感たっぷりに演奏しています。

 

「02:07」は、先行シングルとして公開され、前の曲の悲しみやペーソスといったイメージとは対極にある、やや明るい印象に縁取られている。友人の死の時刻がタイトルになっていますが、友人の死を悲しみではなく、明るく送り出すような意図が込められているのかもしれません。そして同時に、この曲には制作者の友人への追憶が含まれているという気がする。それは実際的に深みのある情感を聞き手にもたらす。曲の最後は次のタイトル曲の伏線となっています。

 

タイトル曲は、ブライアン・イーノの系譜にあるアンビエント風の一曲で、移ろい変わる魂の変遷のような神秘的な瞬間が体現されている。実際的には、アルバムの序盤から中盤で描き出された暗さや闇といった概念から、その対極にある明るさと光のような瞬間が切り取られています。そして全体的には霊的な瞬間をエレクトロニックから解釈したような作風になっている。

 

アルバムのクローズ「The boat」では、「Hades」におけるシンセのパルス音が再登場し、今作の中では最も神秘的な瞬間がエレクトロニックによって体現されている。アルバムの最後では端的なピアノ曲がロマンチックな雰囲気を帯びる。簡素なミニマルミュージックの系譜にあるささやかなピアノ曲は、ニルス・フラームのプロデュースにより美麗な印象が付与されています。


本作には、不世出の偉大な音楽家、モートン・フェルドマン、坂本龍一、アルヴァ・ノトに対するオマージュやリスペクトが示されているため、音楽の基底にそれらを探し求めるという醍醐味も見出せるかも知れません。また、友人の死の時刻をタイトルに据えたのは、坂本龍一さんの遺作『12』への敬意が含まれているからなのでしょうか。厳粛さと前衛性の融合が図られた一作。反復の構造が多いため、すぐ飽きるかと思いきや、底知れぬ魅力を湛えた耽美的なアルバム。

 

 

 

「02:07」 -Best Track

 


 


86/100



 

Joep Beving & Maarten Vosの新作アルバム『vision of contentment』はLeiterから本日発売されました。ストリーミング等はこちらから。 

 

Kiasmos
Kiasmos ©︎Erased Tapes


本日、アイスランドの作曲家オラファー・アーナルズとフェロー諸島のミュージシャン、ヤヌス・ラズムセンによるデュオ、Kiasmosが待望のセカンド・アルバム『II』を引っ提げてカムバックを果たす。


キアスモスが2000年代後半に活動を開始したとき、パートタイムのスーパーグループが成層圏に突入することになるとは、本人たちも知る由もなかった。それは、近隣の島々(アイスランド)からやってきた2人の旧友が、それぞれが得意としていたピアノとエレクトロポップの音楽に対して殴り込みをかけ、ベルリン風のビートへの愛着を熱く分かち合うというものであった。しかし、2人のペアは、世界を席巻するライブ・アクトに成長し、その音楽は10年間を定義することに。


さて、エレクトロニック・ミュージック界で最もダイナミックなデュオの一組は、今更ながら次に何を企てているのだろう。彼らの新しいアートワークにそのヒントがありそうだ。キアスモスの特徴的なダイヤモンドのモチーフは、''炎に包まれたのち、灰の中から再び蘇る''というもの。


キアスモスは『II』によって、新しく生まれ変わり、復活を遂げる。2014年リリースされたセルフタイトルのデビュー作で、オーケストラのような華やかさと重さを感じさせないプロダクションでミニマル・テクノを再構築した。このアルバムは、わずか2週間で大部分を作り上げた。『II』の制作は、彼らの友情の試金石であると共に、素晴らしい音楽的な化学反応がいかに長い時間を経ても変わらずに存在しえるかを証明付けるものである。「当初、私たちは何のサウンドも確立していなかったので、作曲するのは簡単だった」とヤヌスは言う。


『II』では、奥深いアコースティックなテクスチャー、アトモスフェリックなアンビエンス、忙しないグルーヴ、野心的なストリングス・アレンジなど、キアスモスがサウンド・アーキテクトとして、どのように進化したかをはっきりと聴きとることができる。アルバムの各曲は、エレクトロニック、クラシック、レイヴの間を難なく行き来し、息つく暇もなく引き戻される小さな叙事詩を意味する。これは『Kiasmos』だが、さらにワイドスクリーンだ。「サウンドもプロダクションも大きくなった」とヤヌスは言う。「音楽は成熟しているけど、遊び心もある」


2020年から2021年にかけての失われた1年間、彼らはバリ島にあるオラファーのスタジオを訪れるなど、「II」の制作に熱心に取り組んだ。「私たちはそこで1ヶ月を過ごし、レコードに収録される数曲を書きました」とヤヌスは言う。2人はガムランなど伝統的なバリ島のパーカッションをサンプリングし、ヤヌスが録音した自然環境のフィールド・レコーディングを取り入れた。


キアスモスは、インストゥルメンタル・ミュージックで複雑な感情や喚起的なビジュアルを伝えることにかけては、うらやませるほどの才能を持っている。しかし今回は、プロデューサーとしての経験がより活かされている。アルバムの広がりは、オラファーがグラミー賞にノミネートされた作曲家として、さらに映画やテレビで著名なサウンドトラッカーとして活躍するまでの歳月と綿密にリンクしている。また、伝統的な4ビートからUKダンス・ミュージックの熱狂的なブロークン・ビートへと微妙にシフトチェンジし、BPMをより実験的に変化させている。


「エモーショナルなレイヴミュージックだ!」とオラファーは言う。Kiasmosの魔法は、ライブで起こりうるカタルシスの解放にも求められる。「''ダンスフロアで泣かせる''というアイデアをよく話すんだ。それが僕らの''非公式スローガン''になっている」「しかし、僕たちはまた、自分たちを含め、すべての人を飽きさせないことを望んでいる」とヤヌスは言う。もちろん、ささやくような静かなアトモスフィアから、ソックスを吹き飛ばすような爆発的なダンスビートへと移行するKiasmosの特徴的なスタイルは健在だ。彼らの不死鳥は灰の中から蘇り、飛び立つ準備が整っている。



Kiasmos  『II』-Erased Tapes

 

オラファー・アーナルズとヤヌス・ラスムセンの二人は、2014年から数年間の間隔を経て、スタジオ・アルバムを発表しつづけている。特に、オラファー・アーナルズに関してはソロミュージシャン、グラミー賞ノミネートの作曲家として様々なプロジェクトを手掛けているため、Kiasmosの活動だけに専念するというわけにもいかない。

 

前回は3年、今回は7年というスパンを置いても、キアスモスのサウンドは、普遍的で、相変わらず熱狂的なエレクトロサウンドが貫流している。


2014年からおよそ10年が経過したが、キアスモスのサウンドの核心には二人のダンスミュージックへの愛情、シンセサイザー奏者としての熱狂的な感覚が含まれている。いかなる傑出したミュージシャンであろうとも、10年という月日を経れば何かが変わらざるを得ないが、内的な変化や人間としての心変わりがあろうと、”Kiasmons"として制作現場に集えば、才覚を遺憾なく発揮し、誰よりもハイレベルのEDMを制作する。これぞプロフェッショナルな仕事なのだ。

 

今回、インドネシアのバリ島に制作拠点を移したキアスモスは、本人いわく”エモーショナルなレイヴ・ミュージック”を志向しているというが、実際的にはリゾート地の空気感を反映した清涼感のあるダンス・ミュージックの真髄が体現されている。基本的なハウスの4ビートを踏襲しながらも、リズムの構成の節々にフックを作り、それらを取っ掛かりにし、強固なうねるようなグルーヴを作り出す。

 

彼らのサウンドのアイデンティティでもあるEDMとしての熱狂性をビートの内側に擁しながらも、Bonobo(サイモン・グリーン)の『Migration』に見いだせるパーカッションやシンセリードの要素が圧倒的なエネルギーの中に静けさと涼し気な音響効果を及ぼす。全篇がボーカルなしのインストゥルメンタルで貫かれる『Ⅱ』は、あらゆるダンスミュージックの中でも最もコアな部分を抽出した作品と称せるかもしれない。


クラシカルなハウス/ディープハウスのビートを踏襲し、ベースラインのような変則的なリズム性を部分的に付け加え、独特なノリ、特異なウェイヴ、うねるようなグルーヴを呼び覚ます。もちろん、映画などのサウンドトラックも手掛けてきたオラファー・アルナルズは、作曲家としてだけではなく、プロデューサーとしても超一流だ。彼は熱狂的なアトモスフィアを刻印した覇気のあるダンスミュージックに、ストリングやピアノのアレンジを交え、アイスランドやフェロー諸島の雄大な自然の偉大さを思わせる美麗で澄み渡った音楽的な効果を付け加えている。

 

Kiasmosのプレイヤーとしての役割分担は明確である。しなやかなビートを作り出すリズムの土台を形作るラスムセン、それらにリードや演出的な効果を付加するアーノルズ。彼らは演奏の中で流動的にそれらの役割を変えながら、一つの形にとらわれない開放的なEDM(Electric Dance Music)を制作し、そしてダンス・フロアの熱狂をレコードの中で体現させようとしている。


アルバムのオープニングを飾る「#1 Grown」は、神秘的なシンセ・パッドを拡張させ、開放的で清涼感のあるアトモスフィアを作り出す。モジュラーシンセのビートが緻密に組み上げられていき、背景となる大気の空気感を反映させたシークエンス、そしてオラファーの代名詞である美麗なポスト・クラシカルのピアノの演奏を交えながら、連続した音のウェイブを作り出す。


基本的にミニマル・テクノをベースにしているが、Tychoの系譜にあるサウンド・デザインのような意味を持つシンセ・リードがトラックそのものの背景となるシークエンスにカラフルな音の印象を及ぼす。そして、オーケストラストリングやピアノの演奏を付け加えながら、単一の要素で始まったダンスミュージックは驚くほど多彩な印象に縁取られ、その世界観を広げていき、そして奥行きを増していく。反復的なミニマルの音の運びがアシッドビートのように何度もそれが執拗に繰り返されると、オラファー・アルナルズのカラフルなシンセリードの演出効果により、ダンスミュージックの祝福されたような瞬間をアルバムのオープニングで作り出す。

 

エモーショナルなレイヴの要素は「#2 Burst」に見いだせる。同曲は今年のダンス・ミュージックのハイライトとなりそう。今回、 ”伝統的な4ビートからUKのダンスミュージックを反映させた”ということで、Burialの最初期のダブステップやUKベースライン、ブレイクビーツの影響を交え、しなるようなビートを築き上げる。もちろんキアスモスとしての特性も忘れていない。


90年代、00年代から受け継がれるダンスミュージックの内省的な要素を反映させ、レイヴやアシッド・ハウスの外交的なスタイルに昇華させる手腕は天才的である。次のセクションの前に強拍を置き、それらを断続的に連ねながら、キアスモス特有のグルーヴを発生させ、連続的なエネルギーを上昇させ、青空に気球がゆっくりと舞い上がるかのようなサウンドスケープを呼び覚ます。 そしてフィルターを掛けながら、トーンを自在に変化させたり、映画音楽のようなストリングを交えたりと、ジャンルそのものを超え、音楽の合一へと近づく様は圧巻である。”泣かせるダンスミュージック”というのが何なのか、この曲を聞いたら明らかではないだろうか。

 


「Burst」-Best Track

 

 

音楽における旅を続けるかのように、「#3 Sailed」は映画音楽をテクノ/ブレイクビーツとして再解釈し、ドラマティックなイメージを呼び起こす。南国の海の波の音をリズムの観点から解釈し、Tychoのようなリード、民族楽器のフルートを模したシンセ、ガムランのようなインドネシアのリズムの特性を織り交ぜ、”エスニック・テクノ”という未曾有のジャンルを作り上げる。


これらは、2010年代後半にBonoboが試みていたエスニックなテクノにキアスモスの独自の解釈を付け加え、それらを洗練させたり改良させたりする。色彩的な音楽の要素は「#4 Laced」でも続き、Four Tetの系譜にあるサウンド・デザインのようなアウトプット、それから、ピアノやホーンのリサンプリングの要素を重層的に重ねながら、コラージュ的なテクノを構築する。曲の複合的なリズムはもちろん、キアスモスは一貫して旋律進行の側面を軽視することはない。


同曲の後半では、ダブステップやネオ・ソウルのトラック制作で頻繁に使用されるオーケストラ・ストリングやホーンのサンプリングの技法を凝らしながら、変幻自在で流動的なサウンドを作り出す。これらのサンプリングは裏拍を強調したアップビートと重なりあい、最終的にはアシッドハウスの範疇にあるコアなグルーヴを発生させる。

 

Erased Tapesのプレスリリースでは”BPMの変化に工夫が凝らされている”と書かれている。ところが意外なことに、本作の序盤ではBPMが驚くほど一定で、同じようなビートの感覚が重視されている。つまりテンポはほとんど変わらない。しかし、これは”リズムの魔術師”である二人の遊び心のようなもので、終盤にある仕掛けが施されている。


そして、少なくともBPMの観点から言えば、一定のテンポという概念を逆手に取り、その中に組み込まれる大まかな音符の分数の割当により、リズムの性質に変化を及ぼし、最終的にはリズムの構造性を変容させる手法が目立つ。変拍子は登場しないが、他方、トーンの変化ーーフィルターを調節し、音の聞こえ方を変化させることで、ビートに微細な変化を及ぼしている。これは、彼らのKEXPのライブ・パフォーマンスを見てもらえるとよく分かるように、ターンテーブルの出力の遅れを始めとする音の発生学をシンセプレイヤーとして体感的に捉えたものである。

 

続く「#5 Bound」はディープ・ハウスの4ビートに軸足を置きながら、シンセのモジュラー機能によってほんわかしたシーケンスを作り出し、最終的にはそれらを清涼感のあるレイヴの形へと繋げる。やはり一貫してBPMは一定であるが、トーンのシフトを調節しながら、出力を引き上げたり、正反対に引き下げたりしながら、ラウドとサイレンスを自由自在に行き来する。もちろん音程もそれに応じて、手動で上昇させたり、下降させながら、流動的なウェイブを作り出す。これらにエモーションを与える役割を果たすのが、曲の後半で演出的に導入される映画音楽の影響下にあるオーケストラストリングだ。これはとりも直さず、フロアのクールダウンの役割を果たしている。アウトロで演奏される内省的なローズピアノがほのかな余韻を残す。

 

 

前半では、キアスモスらしからぬトラックが多いように思える。しかし、「#6 Sworn」では両者が2014年頃から追求してきたアイスランド/フェロー諸島の持つ土地柄を反映させたテック・ハウスが展開される。


2017年に発表された「Blurred」のタイトル曲の系譜にあり、ピアノを元に深妙なイントロを作り出し、内的な熱狂性を込めたミニマルテクノを展開させる。しかし、アルナルズのシンセリードの演奏は、以前よりも円熟味を増し、彼が言うように「エモーショナルなレイヴ」の感覚を呼び起こす。


確かに、キアスモスらしい音の運び方であるものの、7年を経て、何かが変わったような気がする。オーケストラ・ストリングを含めたサウンドプロダクション、アンビエントのようなシークエンス、金属的なパーカッションのリズムセクション、シンセの音の破壊とマニュピレーションというように、以前よりも多角的な要素が散りばめられ、背後にはファンク・ソウルの影響もちらつき、最終的に二人の合奏やサウンドコントロール下にあるタイトな音楽を構築する。


思うのは、キアスモスは、2020年代のダンス・ミュージックだけではなく、90年代やミレニアム時代のテクノの醍醐味を体感的に知っているということである。もちろん、ダンスミュージックは、他のいかなるジャンルよりも感覚的なもので、リズムそのものに身を委ねられるか、体を揺らせるか、何より、音のイメージから読み取るべき何かが存在するというのが必須である。


「#7 Spun」は、Bonobo(サイモン・グリーン)の影響下にある、複合的なリズムを織り交ぜた4/8の構成のテックハウスで、複雑化の背景には、リズムの簡素化がある。要するに、どれほど音を積み重ねようとも、根底にあるリズムは単純明快で、無駄な脚色は徹底して削ぎ落とされている。


常に優れたデザインが簡素であるように、キアスモスのサウンドは一貫してシンプルなビートとリズムを重視している。これが俗に言うグルーヴ感を呼び起こし、アシッドハウスの質感を伴う”うねるようなウェイヴ”が出現する。ここにも、以前、サイモン・グリーンが語っていたように、”どれほど多くの機材を所有し、音の選択肢が広がろうとも、良い音楽を作れるわけではない”ことが示されている。グリーンは以前、''機材の多さを重視するミュージシャンに辟易している''と話していたが、良いダンスミュージックを制作するために必要なのは知恵と工夫である。


今回、キアスモスはエキゾチックな雰囲気を持つトラックを制作している。同じように、「#8 Flown」は、パーカッシヴな効果を活かしたBonoboの系譜にあるEDMとなっている。それらを太鼓のようなドラム、インドネシアのガムランに見出される民族音楽の金属的なパーカッションという形式を通じて、チルアウトの気風を反映させる。そして、ガムランの音の特徴というのは微分音にある。つまり複数の倍音の発生させることによって、涼し気な音響効果を及ぼすということ。


微分音というのは、平均律をさらに微分によって分割したもので、倍音の音響がいくつもの階層に分かたれていることを証明付けている。この音響学の性質をキアスモスは知ってか知らずか、金属的なパーカションを反復させ、太鼓のようなスネアの音、三味線やサントゥールのような民族楽器のサンプリング、そしてピアノやストリングのコラージュを散りばめることで、バリ島の制作現場の空気感を反映させたリゾート感たっぷりの魅惑的な音の世界に導くのである。

 

BPM(Tempo)の極端な変化という点は、アルバムの最終盤に出現する。アップビートのディープハウスによるトラック「Told」は、EDMの愉悦を体現させている。バスドラのキックを活かし、ラウドとサイレンスを巧みに交差させ、明るい印象に縁取られたダンスミュージックの究極系に近づく。曲の中盤に導入されるオーケストラストリングスは、ほんの飾りのようなもので、基本的にはトーン・シフトやフィルターの使用を介し、音の印象に変化を及ぼすというキアスモスのスタイルに変更はない。そして、アッパーなビート、ダウナーなビートという、2つの対比の観点から、メリハリのあるダンスビートを作り上げ、最も理想的なダンスミュージックが造出される。アウトロでは、制作現場の雰囲気を反映させたような楽園的なストリングスがフェードアウトしていく。この曲の後半には、音楽の最高の至福のひとときを体感できる。

 

グラミー賞ノミネートのピアニスト/作曲家としても活躍するオラファー・アルナルズであるが、もうひとつの制作者の表情が続く「Dazed」に見いだせる。お馴染みの蓋を開けたアップライトピアノのレコーディングは、モダンクラシカルの曲を期待するリスナーに対するミュージシャンのサービス精神の表出である。バリ島でフィールド録音したと思われる水の音のサンプルは、従来のアイスランドの気風を持つピアノ曲とは若干異なり、南国の気風に縁取られている。アップビートの後の涼しげなピアノ曲は、アルバムの重要なオアシスとなるにちがいない。


キアスモスは、エレクトロニックの文脈において、フローティング・ポインツのような大掛かりなトラックを制作する場合もある。


アルバムのクローズを飾る「Squared」は、ヨハン・ヨハンソンを彷彿とさせるモダンクラシカル風のオーケストラストリングスの立ち上がりから、ミニマルテクノ/ハウスへと移行していく。もしかすると、このクローズ曲には、富士銀行のアルバム・ジャケットで有名なMOGWAIへのオマージュが捧げられているかもしれない。特にリズムの側面では、マーチングのような行進のリズムが内包されている。そして、その向こうからぼんやりと立ちのぼってくる90年代のレトロなシンセリードは、エキサイティングであるにとどまらず、勇ましさすら感じとることができる。まさしく、ファンにとって待ってましたといわんばかりのダンスチューンである。 


キアスモスのバックカタログにある「Loop」の構造を踏まえ、同じようにミニマル・テクノ/ハウスの中間に位置するパワフルなEDMで『Ⅱ』は締めくくられる。オラファーによるトーンの操作も素晴らしく、ヤヌスのベースの抜き差しも聞き逃せない。リアルタイムで録音したからこその刺激的なキラーチューン。これ以上の理想的なEDMは今年登場しないかもしれない。アウトロの二人の個性がガッチリ組み合わされ、刺激的な音のハーモニクスを描く瞬間は圧倒的である。このアルバムではダンスミュージックの本当のかっこよさを痛感することができるはず。

 


 

95/100

 

 

 

「Squared」-Best Track



Kiasmosのニューアルバム『Ⅱ』はErased Tapes Records Ltd.から本日(7月5日)リリース。 ストリーミング等はこちら。商品のご購入は全国のレコードショップにてよろしくお願い申し上げます。

Sachi Kobayashi - 『Lamentations』 

 


 

Label: Phantom Limb

Release: 2024年6月28日

 

Review

 

埼玉県出身のサチ・コバヤシによるアルバム「Lamentations」は、UK/ブライトンのレーベル、Phantom Limbからの発売。


すでにBBC(Radio 6)でオンエアされたという話。ローレル・ヘイロー、ティム・ヘッカー、バシンスキーの系譜にあるサンプリングを特徴としたエレクトロニックで、アシッドハウス、ボーカルアートを織り交ぜたアンビエント、モダンクラシカルと多角的な視点から制作されている。

 

「Lamentationsは、身をもって体験した心の痛みという現代的な物語を織り交ぜている。現在の戦争に対する私の悲しみと嘆きから生まれた」と小林はプレスリリースを通じて説明しています。「一日でも早く、人々が平和で安全に暮らせるようになってほしい」


制作の過程については「最初の素材集を作った後、カセットテープを使って自作曲を編集し、ループさせ、歪ませ、時間調整し、それらのバージョンをスタジオで再加工することで、テープ録音特有のアナログ的な残像や予測不可能な音のトーンの変化を取り入れた新しい作品を生み出した」と説明します。

 

本来、小林さんは、Abletonを中心に制作する場合が多いとのことですが、今回のアルバムの制作ではテープデッキを使用したのだそうです。


『Lamentations』は、ボーカルのサンプリングを用い、クワイアのような現代音楽の影響を反映させた実験音楽、ティム・ヘッカーやローレル・ヘイローのような抽象的なアンビエントまで広汎です。


カセットテープを使用した制作法についてはニューヨークのプロデューサー、ウィリアム・バシンスキーの『The Disintegration Loops』を思い浮かばせるが、曲の長さは、かなり簡潔である。


制作のミックスに関しては、マンチェスター周辺のアンダーグラウンドのエレクトロニック、強いて言えば、”Modern Love”、もしくは"Hyper Dub"のレーベルの方向性に近い。その中には、ベースメントのダブステップやベースライン、トリップ・ホップのニュアンスが含まれています。


これが、対象的なクワイア(賛美歌)の音楽的な感覚の再構成、それらにアシッドハウスの要素を加味した、きわめて前衛的なエレクトロニックの手法が加わると、気鋭の前衛音楽が作り出されます。アンビエントは基本的にノンリズムが中心となっていますが、少なくとも、このアルバムにはAutechreのように”リズムがないのにリズムを感じる”という矛盾性が含まれています。


オープニング「Crack」は、アシッド・ハウスやミニマル・テクノを一つの枠組みとしてモジュラーシンセの演奏を織り交ぜている。


解釈の仕方によっては、ベースを中心にそれとは対比的にマニュピレートされた断片的なマテリアルが重層的に重なり合う。現代の中東の戦争を象徴づけるように、それは何らかの軋轢のメタファーとなり、異なる音の要素が衝突する。


たとえば、ゴツゴツとした岩石のような強いイメージのあるシンセの音色で、遠くて近い戦争の足跡をサウンド・デザインという観点から綿密に構築してゆく。


重苦しいような感覚と、それとは異なる先鋭的な音のマテリアルの配置がここしかないという場所に敷き詰められ、まるでパレスチナのガザのいち風景の瓦礫の山のように積み重なっていく。この曲にはエレクトロニックとしてのリアリズムが反映されている。


「Unforgettable」は一転して、自然のなかに満ち溢れる大気の清涼感をかたどったようなアシッド・テクノ。イントロのシークエンスから始まり、一つの音の広がりをモチーフとしてトーンの変容や変遷によって音の流れのようなものを作り上げる。その後、アルペジエーターを配置し、抽象的なノンリズムの中にビートやグルーヴを付加する。アルペジエーターの導入により、反復的な構成の中に落ち着きと静けさ、そして癒やされるような精妙な感覚を織り交ぜる。しかし、アウトロはトーンシフトを駆使し、サイケデリックな質感を持つ次曲の暗示する。

 

続く「Aftermath」は、断片的な音楽のマテリアルですが、現在の実験音楽の最高峰に位置しており、ローレル・ヘイローやヘッカーの作品にも引けを取らない素晴らしい一曲。他のアーティストの影響下にあるとしても、日本人のエレクトロニック・プロデューサーから、こういう曲が出てきたということが本当に感激です。


オーケストラ・ストリングや金管楽器の要素をアブストラクトなドローンとして解釈し、アシッド・ハウスの観点からそれらを解釈しています。シュトックハウゼンのトーン・クラスターや、ローレル・ヘイローのミュージック・コンクレートの解釈は、サチ・コバヤシのサイケデリックやアシッドという文脈において次の段階へと進められたと言える。


アルバムの後半では、サチ・コバヤシのボーカルアートとしての性質が強まる瞬間を見出せる。特に、クワイア(賛美歌)をアンビエント/ドローンから解釈した「Lament」はクラシック音楽を抽象性のあるアンビエント/ドローンとして再解釈した一曲で、前曲と同じように、ここにも制作者の美学やセンスが反映されている。


緊張感のあるアルバムの序盤の収録曲とは異なり、メディエーションの範疇にある癒やしのアンビエントのひとときを楽しむことができるはずです。また、サンプリングを交えたストーリー性のある試みも次の曲「Memory」に見いだせる。


ガザの子供の生活をかたどったような声のサンプリングが遠ざかり、その後、ロスシルや畠山地平の系譜にあるオーガニックで安らげるシンプルなアンビエント/ドローンが続いています。これらの無邪気さの背後にある余白、その後に続く、楽園的な響きを持つアンビエントの対比が何を意味するのか? それは聞き手の数だけ答えが用意されていると言えるでしょう。

 

終盤では、クラシック音楽をドローンとして解釈した「Pictures」が再登場する。この曲は、グスタフ・マーラーの「Adagietto」のオーストリアの新古典派の管弦楽の響きを構図とし、イギリスのコントラバス奏者、ギャヴィン・ブライヤーズの傑作「The Sinking Of Titanic」の再構築のメチエを断片的に交えるという点ではやはり、Laurel Haloの『Atlas』の系譜に位置づけられる。


ドローン音楽による古典派に対する憧れは、方法論の継承という側面を現代的な音楽としてフィーチャーしたものに過ぎません。けれども、チャイコフスキーのような大人数の編成のオーケストラ楽団を録音現場に招かずとも、サウンド・プロダクションの中で管弦楽法による音響性を再現することは不可能ではなくなっています。そういった交響曲の重厚な美しさをシンプルに捉えられるという点で、こういった曲には電子音楽の未来が内包されているように思える。

 

 

アルバムの最後の曲は、デジタルの音の質感を強調したサウンドでありながら、ブライアン・イーノのアンビエントの作風の原点に立ち返っている。


抽象性を押し出した''ポストモダニズムとしての電子音楽''という点は同様ですが、ぼんやりした印象を持つシークエンスの彼方に神秘的な音のウェイブが浮かび上がる瞬間に微かな閃きを感じとれる。


それは夏の終わりに、暗闇の向こうに浮かび上がるホタルの群れを見るかのような感覚。こういった音楽は、完成度や影響されたものは度外視するとしても、アンビエントミュージックやエレクトロニックが方法論のために存在する音楽ではないことを思い出させてくれる。音の印象から何を感じ取るのか? 


もちろん聞く人によって意見が異なり、それぞれ違う感覚を抱くはずです。そして、どれほど完成度の高い音楽であろうとも、人間的な感覚が欠落した音楽を聴きすぎるのはおすすめしません。

 

これは、「Autobahn」の時代のクラフトワークの共同制作者であり、アメリカのAI開発の第一人者でもある、ドイツ人芸術家のエミール・シュルト氏も以前同じような趣旨のことを語っていた。彼はまた音楽に接したとき感じられる「共感覚」のような考えを最重要視すべきと述べていた。そういう側面では、シュルトが話していたように、音楽は今後も数ある芸術の中でも”感情性が重視される媒体”であることは変わりなく、今後の人類の行方を占うものなのです。



 

 

 

92/100

 

 

 


 Hiatus Kaiyote



オーストラリア/メルボルンを拠点に活動するフューチャーソウルグループ、Hiatus Kaiyote(ハイエイタス・カイヨーテ)はナオミ・ネイパーム・ザールフェルト(ボーカル、ギター)、ポール・ベンダー(ベース)、サイモン・マーヴィン(キーボード)とペリン・モス(ドラム、パーカッション)の4人からなる。


本日、 Brainfeeder(Ninja Tune)から発表された『Love Heart Cheat Code』は、4人のミュージシャンが極限で一緒に踊っている瞬間を収めたスナップショットであり、11曲の遊び心にあふれた高揚感のあるトラックが個性的な印象を放つ。しかし、音楽そのものの複雑さで名を馳せ、さらには最大主義を受け入れて目利きの批評家の称賛を浴び、グラミー賞に何度もノミネートされたバンドにとって、『Love Heart Cheat Code』で制作において最も大切なことは、音楽そのものの簡素化にあったという。


「私は最大主義者なんです。何でも複雑にしてしまう」とナオミは説明している。「それでも、人生でさまざまなことを経験すればするほど、リラックスして奔放になる。時には、深みがあり、人々の心に届き、そして何を伝えたいか? このアルバムは私達がそれを明確にした結果と感じている。曲が複雑さを必要としないのであれば、あえて複雑さを表現する必要はなかった」

今度のアルバム制作では、バンドの方向性は必ずしも直接的に達成されず、熟慮と漂流を経る必要があった。深夜から早朝まで続く念入りなジャム・セッションの中、4人は食卓のテーブルを共にし、機材や互いをいじくり回す過程において作り出されました。


このアルバムには、テイラー・"チップ"・クロフォード、ギタリストのトム・マーティン、フルート奏者のニコディモスなど、メルボルンを拠点に活動する秀逸なミュージシャンも参加している。マリオ・カルダートに関しては、ビースティ・ボーイズやセウ・ジョルジとの仕事はもはや伝説的です。


ハイエイタス・カイヨーテは、いつも自分たちが制作するアルバムを小宇宙、完全な生態系と見なしてきたという。『Love Heart Cheat Code』では、バンドは音楽と連動した強い視覚的世界を構想し、スリランカ出身でトロントを拠点に活動するマルチメディア・アーティストのラジニ・ペレラ(Rajni Perera)とコラボし、彼女の絵画をアルバムのアートワークとして使用した。


そして、イラストレーターのクロエ・ビオッカとグレイ・ゴーストがバンドとコラボレートし、ラジニの絵と対になるビジュアル・シンボルと関連する工芸品をプロジェクトの各トラックに制作した。


それらの工芸品は、Bauhausのように実際の製品、カスタム・ジュエリー、食用品へと姿を変え、インスピレーションに溢れていたり、幽霊が出そうなものまでさまざま。やがてこのことが、バンドが空想上の場所、''ラブハート・チートコード・スーパーマーケット''を構想するきっかけとなりました。


バンドは、これらの商品を作り、販売し、棚を積み上げ、通路を掃除する従業員である。現代社会のため、芸術媒体を「プロダクト」に作り変えるという非常に平凡な作業のプロセスの中で、バンドは、超越的で燦然と輝く音の魔法が凝縮されたアイテムや曲のひとつひとつに慰めを見出した。アルバムを通して、ハイエイタス・カイヨーテは、「知る」ことよりも「感じる」ことを強調している。彼らはDIYのクラフトの製造者であり、音楽に関してもそれは同様なのです。
 
 
 
 
『Love Heart Cheat Code』- Brainfeeder  フューチャーソウルの先にある革新性


オーストラリアのハイエイタス・カイヨーテは、ロンドンのNinja Tuneの傘下のBrainfeeder(フライング・ロータスのレーベル)に所属し、今作はリミックスや日本盤を除いて、4作目のオリジナルアルバムとなる。
 
 
 
2013年からリリースを重ねてきたハイエイタスは、デビューから十年以上が経過しているが、意外と寡作なグループとして知られている。現時点では、年間およそ100本以上のハードなライブスケジュールをこなす中、ライブバンドとして誰も到達しえない完璧主義や超越性を追求しようと試みる。
 
 
最新作では、2021年のアルバム『Mood Valiant』から引き継がれるハイエイタス・カイヨーテの唯一無二のアウトプットーーフューチャー・ソウル、フューチャー・ベース、チル・ステップーーというR&Bの次世代の音楽をとりまきながら、最大主義の刺激的なダンスミュージックを展開させる。
 
 
このアルバムを聴いていてつくづく思うのは、彼らは音楽的な表現において、縮こまったり、萎縮したり、置きに行くということがないということ。それはまた''既存の枠組みの中に収まり切らない無限性が含まれている''という意味でもある。だから、音楽がすごく生き生きとしていて、躍動感に満ち溢れている。バンドアンサンブルによってもたらされるエナジーは内側にふつふつ煮えたぎり、最終的に痛烈な熱量として外側に放出される。エナジーの最後の通過点にいるのが、ボーカル/ギターのナオミ・ザールフェルトだ。一切の遠慮会釈がないサウンドと言えるが、それはバランスの取れた録音技術の助力を得て、ハイクオリティに達し、かつてのプログレ・バンドやジョージ・クリントンのFankadelicのような傑出した水準の演奏技術に到達している。
 
 
本作のサウンドは、録音出力の配置(Panの振り方)に工夫が凝らされ、ライブステージの演奏位置、ボーカル、ドラムが音の位相の中心にあり、左右側にシンセやギター/ベースが置かれるという徹底ぶりに驚かされる。特にドラムのトラックの音質が素晴らしく、重低音を強調していないのに、スネア/タムの連打が怒涛の嵐のように吹き荒れ、微細なビートを刻むリムショットがバンドの演奏にタイトな印象をもたらす。例えるなら、ライブステージでハチャメチャなサウンドを展開させるバンドの背後で、卓越したドラムが、無尽蔵に溢れてくるサウンドを司令塔のように一つに取りまとめている。どれだけボーカルやギターが無謀にも思える実験的な試みをしようとも、全体的なサウンドが支離滅裂にならないのは、ビート/リズムを司るペリン・モスの安定感のあるドラムプレイが、一糸乱れぬアンサンブルの基礎を担っているからなのです。
 
 
ただ、もちろん、そういった音楽の革新性に重点を置いたサウンドだけを取りざたにするのはフェアではないかもしれません。前作『Mood Valiant』から受け継がれる音楽性の範疇にある、まったりとしてメロウなフューチャーソウル/フューチャーベースに、ブレイクビーツの手法を交え、カニエ・ウェストの最初期のようなブレイクビーツのサイケ・ソウル風のテイストを漂わせることもある。そういった面では、少し性質が異なるにせよ、北欧のLittle Dragon(リトル・ドラゴン)のようなカラフルで多彩なR&Bのテイストを込めたダンスチューンの系譜に属するかもしれません。


アルバムの序盤は、このレーベルらしい立ち上がりとなっていますが、中盤からだんだん凄みを増していき、クライマックスで圧巻のエンディングを迎える。バンドの演奏は超絶技巧の領域に達し、高水準の録音技術によって誰も到達しえぬ場所へとリスナーを導く。少なくとも、後半部の卓越性を見るかぎり、ハイエイタスの最高傑作が誕生したとも見ても違和感がなく、”フューチャーソウルは次なる音楽に近づいた”とも考えられる。一貫してエキセントリックな表現を経た後、最終的にコンセプチュアルなエンディングを迎える。そう、ハイエイタスは、異次元の地点、線、空間を飛び回り、想像しがたい着地点を見出す。

 
 
本作の冒頭を飾る「#1 Dream Boat」は、ピアノ、ハープ(グリッサンド)、ストリング等の演奏を織り交ぜ、ビョークの『Debut』の音楽性の系譜にあるミュージカルとしてのポピュラーミュージックを演出する。ナオミ・ザールフェルトのボーカルは、本作の冒頭にマジカルなイメージを添える。本作では、唯一、古典的なR&Bバラードを踏襲し、次の展開への期待感を盛り上げる。”この後、何が起こるのか?”と聞き手にワクワクさせるという、レコードプロダクションの基本が重視されている。


もちろん、演出的な効果は、ブラフや予定調和に終始することはありません。ナオミ・ザールフェルトの伸びやかなビブラートとホーンセクションを模したサイモン・マーヴィンのシンセの掛け合いにより、ドラマティックなイメージを呼び覚ます。


その後、フューチャーベースのリズムを活かした「#2 Telescope」が続いている。リズムとしてはダブステップにも近く、音楽のビートは複雑であるものの、一貫してシンプルな旋律とボーカルのフレーズが重視され、聞きにくくなることはほとんどなく、ビートやリズムが織りなすグルーヴを邪魔せぬように、ザールフェルトは軽快で小気味よいボーカルを披露している。「Telescope」を中心としたリリックを組み上げ、無駄な言葉が削ぎ落とされている。実際、アンセミックな展開を呼び起こし、シンガロングを誘発する。これらはハイエイタスが、リリックー言葉を「音楽の一貫」として解釈しているがゆえなのでしょう。
 
 
 
 
 「Telescope」
 
 
 
 
序盤は聞きやすく、メロウなネオソウルが多く、安らいだ雰囲気を楽しめる。それほどコアではない初心者のR&Bのリスナーにも聞きやすさがあると思われる。「# 3 Make Friends」は、アーバンなソウルとしても楽しめますが、注目しておきたいのは、70年代の変拍子を交えたクラシックなファンクソウルからのフィードバックです。


基本的には、今流行りのループ・サウンドをベースにしていますが、ゼクエンス進行(楽節の移調)に変奏を交えたカラフルな和音を持つ構造性を込め、シンプルな構成を擁する曲に変化とバリエーションをもたらす。


これが曲を聴いていて心地よいだけでなく、全然飽きが来ない理由なのでしょう。それと同様に、「#4 BMO Is Beatutiful」でも、ハイエイタスはクラシックなファンク・ソウルに回帰し、ファンカデリックやパーラメントの系譜にあるディープなブラックソウルに現代的なエレクトロニックの要素を付け加えている。カーティス・メイフィールド、ジェームス・ブラウンの系譜にあるファンクバンドのプレイはもちろん、ボーカルにも遊び心が込められているようです。
 
 
序盤の2曲は、難しく考えずに、シンプルにメロディを楽しんだり、ビートに身を委ねることができるはず。同じくファンクソウルの系譜にある「#5 Everything Is Beautiful」は、古典的なR&Bの系譜を踏襲していますが、イントロのスポークンワードからラフに演奏が始まり、裏拍を強調するスラップ奏法のベース、しなやかなドラムとフェーザーを掛けたカッティングギターが軽妙なグルーブを生み出す。ボーカルも比較的古典的なソウルシンガーの影響下にある深みのある泥臭い歌唱を披露し、グループとしては珍しくブルースのテイストを引き出す。さらにフルートの導入を見ると、アフロソウルからの影響もあり、心なしかエキゾチックな雰囲気が漂う。

 
アルバムの序盤で、R&Bの入門者の心をがっしりと掴んだ後、中盤にかけてディープなソウルを楽しむことができます。そして、しだいに音楽そのものが深みを増していくような印象は、劇的なクライマックスの伏線ともなっている。ツーステップの系譜にあるダブステップ風のリズムで始まる「#6 Dimitri」は、アフロビートの原始的なリズムと合わさり、フューチャー・ビートの範疇にあるエレクトロニックと結び付けられる。強拍が次の小節に引き伸ばされるシンコペーションを多用した曲の構造は、ボーカルのハネの部分に影響を及ぼし、旋律的には上昇も下降もない均衡の取れたザールフェルトの声にスタイリッシュでカラフルな印象を及ぼす。アコースティック・ドラムの演奏を録音後、ミックスやマスターの過程でエレクトロニックとして処理するという点も、Warp/Ninja Tuneが最近頻繁に活用している制作方法。ここにも、ロンドンの最前線のポップ/ダンスミュージックのフィードバックが反映されていると言えそうです。 
 
 
 
その後、ハイエイタス・カイヨーテのエレクトロニックポップバンドとしての性質を色濃く反映させた「#7 Longcat」において終盤の最初のハイライトを迎える。心地よいエレクトリックピアノ、ループサウンドとしてのシンセサイザー、多重録音を含めたボーカルアートの範疇にある声といった複数の要素が織り混ぜられ、それらがギターのミュージック・コンクレートと掛け合わされると、最初期のSquarepusher(スクエアプッシャー)のような未来志向の電子音楽ーーSFの雰囲気を擁するエレクトロニックの原型が作り出げられる。マニアックな要素にポピュラリティを付与するのが、フューチャーソウルの系譜にあるボーカル。90年代のWarpのテクノへのオマージュもあるにせよ、何よりそれらが聞きやすいR&Bとして昇華されているのが秀逸です。
 
 
 
 「Longcat」
 
 
 
 
以降、このアルバムは、メロウなアーバンソウル、チルウェイブ(チルステップ)、ローファイをシームレスにクロスオーバーしながら、アルバムのクライマックスへと向かっていきます。即効性のあるバンガー、それとは対極にある深みのある曲を織り交ぜながら、劇的なエンディングへ移行していく。



「#8 How To Meet Yourself」は、ニューヨークのシンガー、Yaya  Bey(ヤヤ・ベイ)の系譜にある真夜中の雰囲気を感じさせるアンニュイなソウルとして楽しめる。Ezra Collective(エズラ・コレクティヴ)のようにアフリカの変則的なリズムとジャズのスケールを巧みに織り交ぜ、アーバンソウルのメロウな空気感を作り出す。ピアノの演奏がコラージュの意図を含めて導入されますが、これらの遊び心のあるアレンジこそ、インプロバイゼーションの醍醐味でもある。この曲では、表向きには知られていなかったハイエイタスの上品な一面を捉えることができるでしょう。
 
 
「Longcat」、この後の「Cinnamon Temple」と合わせて聴き逃がせないのが、続くタイトル曲「Love Heart Cheat Code」となるでしょう。ハイエイタス・カイヨーテの最大の持ち味であるフューチャー・ソウルをサイケデリック風にアレンジし、前衛的なR&Bの領域へと脇目も振らず突き進んでゆく。ボーカルの"Love Heart Cheat Code"というフレーズに呼応する、セクションに入るドラム/サンプラーのサイケデリックなエレクトロニックの対比により、マイルス・デイヴィスの「モード奏法」をフューチャーソウルの形に置き換え、革新的な気風を添える。レビューの冒頭でも述べたように、これは、ハイエイタス・カイヨーテが、ボーカルを言葉ではなく、音楽の構成要素、"器楽的な音響効果"として考えているから成しえることなのかも知れません。
 
 
「#10 Cinnamon Temple」は''ポスト・バトルズ(Post- Battles)''とも称すべき必殺チューン。特に、ドラムのスネア/タムの連打の瞬間、そして、エレクトロニクスを交えたボーカルの多重録音にレーベルの録音技術のプライドが顕著に伺える。ボーカルアートと古典的なソウルの系譜にあるボーカルのスタイルを交えながら、Battles、Jaga Jazzistの系譜にある変拍子を強調したプログレッシヴロックサウンドへと昇華させる。
 
 
ハイレベルな演奏力とテクニカルな曲の構成を擁しながらも、分かりやすさと爽快感があるのは、サウンドのシンプル性を重視しており、エナジーを外側に向けて軽やかに放射しているがゆえなのでしょう。ここにも、ボーカルのアンセミックなフレーズをコラージュのように散りばめるという、ハイエイタスの独自の音楽の解釈が伺える。


そして、コンセプト・アルバムのような形で始まった本作は、クローズ曲「#11 White Rabbit」において、エキセントリックな印象を保ちながら、オーストラリアの民族的なルーツに回帰します。アルバムの冒頭と同じように、ミュージカルを模したシアトリカルな音楽効果を織り交ぜ、インダストリアル・メタルの要素を散りばめて、前衛的なノイズのポップネスーーハイパーポップ/エクスペリメンタルポップーーの最も刺激的なシークエンスを迎えます。
 
 
音の情報量が多いので、『Love Heart Cheat Code』は、ヘヴィーなレコードフリークであっても、簡単には聴き飛ばせず、一度聴いただけでは全容を把握することは難しいかもしれません。しかし、その反面、初見のリスナーでも親しめてしまうという不思議な魅力に溢れている。ある意味、ブラジルのニューメタルバンド、Sepulturaの傑作『Roots』と同じように、本作もまたオーストラリアのバンドにしか存在しない”スペシャリティ”から生み出されたものなのかもしれません。



 
 
 
 
 
 
92/100



 

 Best Track-「Cinnamon Temple」
 



Hiatus Kaiyote(ハイエイタス・カイヨーテ)による新作アルバム『Love Heart Cheat Code』はBrainfeederから本日発売。アルバムのストリーミング/購入はこちらから。(日本のリスナーは、Tower Records、HMV、Disc Unionで入手しよう‼︎)

 


UKのダブステップシーンの先導者、現在は覆面アーティストではなくなっているBurialと”ハイパーダブ”の創始者スティーヴ・グッドマンことKode9が強烈なダッグを組み、スプリット・シングル「Phoneglow」/「Eyes Go Blank」をサプライズリリース。


シングルは、2023年にリリースされたジョイントEP「Infirmary / Unknown Summer」に続く作品。試聴は以下から。

 


 Actress 『Statik』

 

Label: Smalltown Supersound

Release: 2024/06/07

 

 

Review


ロンドンのエレクトロニック・プロデューサー、ダニエル・カニンガムによるプロジェクト、Actressは、摩訶不思議なサウンドテクスチャーを作り上げる。イギリス/ロンドンのベースメントのクラブミュージックを反映させ、ベースラインからダブステップ等、変則的なリズムを配し、ブレイクビーツに基軸を置いたアブストラクトなテイストを持つエレクトロニックを制作する。

 

カニンガムの作風は、ロサンゼルスのローレル・ヘイローの最初期の作風を想起させ、いわば電子音楽によるミステリアスな世界へとリスナーを誘う。音のモジュレーションの変化により、トーンが徐々に変化していき、その中にリサンプリングの手法を交え、グリッチノイズやダブステップのリズムを配置する。

 

アルバムの収録曲には、Autechre(オウテカ)のようにノンリズムによる構成も見受けられる。ヒップホップのチョップやブレイクビーツの手法が織り交ぜられ、ミニマルテクノの範疇にある前衛的なリズムが構築されている。ただ、2022年のアルバム『Karma & Desire』を聴くと分かるように、ダニエル・カニンガムの作風は、なかなか一筋縄ではいかないものがある。彼のテクノは、リチャード・ジェイムスの系譜にあるモダンクラシカルとエレクトロニックの中間にあるものから、Four TetやBibloの系譜にあるサウンドデザインのようなものまで実に広汎なのだ。

 

このアルバムのリリースに関して、カニンガムは現代詩のような謎めいたメッセージを添えていた。それはまるでダンテの『神曲』のような謎めいたリリック。ある意味では、Oneohtrix Point Neverの最新アルバム『Again』のような大作かと身構えさせるが、意外にもコンパクトな作品に纏まっている。『Statik』はヒップホップのミックステープのような感じで楽しめると思う。アルバムのオープナーを飾る「Hell」は、2000年代のローファイでサイケなヒップホップのトラックを思い起こさせる。アシッド・ハウス風のサンプラーによるリズムが織り交ぜられることによって、現代的なデジタルレコーディングとは対極にあるアナログ・サウンドが構築される。続くタイトル曲はドローン風のアンビエントをモジュレーションによって作り出している。

 

その後、どちらかといえば、IDMとEDMの中間にあるディープなクラブミュージックが展開される。「My Way」は、ダニエル・カニンガムの代名詞的なサウンドで、Boards Of Canada、Four Tetに代表されるカラフルな印象を持つミニマルテクノとして存分に楽しめる。今回、カニンガムはボーカルサンプリングを配して、Aphex Twinの系譜にあるサウンドに取り組んでいるようだ。「Rainlines」はバスドラムを強調したアシッドハウス/ミニマルテクノ風の作風だが、アクトレスの他の作風と同じように言い知れない落ち着きと深みがある。バスドラムの響きが続くと、その中に瞑想的な響きがもたらされ、最終的にはチルウェイブ風の安らぎがもたらされる。

 

ダニエル・カニンガムは、90年代や00年頃のテクノブームの時代の流行を踏まえ、それらの作風にややモダンな印象を添えている。「Ray」は、例えば、Sam Prekopのような懐古的なサウンドと現代的なサウンドを結びつけている。それほど革新的ではないものの、新鮮な息吹を持つミニマルテクノを制作している。ハイハットをグリッチサウンドのように見立てて、叙情的なモーフィングシンセのシーケンスを配し、水の上に揺られるような心地よいヴァイヴを作り出す。

 

アルバムのオープナー「Hell」を除けば、プレスリリースの現代詩のようなイメージとは異なるサウンドが展開されている。しかし、後半部に差し掛かると、制作者の志向する異質なエレクトロニックを垣間見ることが出来るはずだ。例えば、「Six」では、ダウンテンポの作風を選び、モーフィングやモジュレーションによってミステリアスな印象を持つシーケンスを作り出す。しかし、カニンガムのサウンドは一貫して落ち着いており、連続的なリズムに聞き手の注意を引き付ける。いわば、軽はずみな多幸感や即効性を避けることによって、曲に集中性をもたらす。


現代的なテクノの依拠した収録曲もある一方で、アクトレスはやはり90年代や00年代初頭や、それよりも古いレトロな電子音楽のサウンドに軸足を置いているらしい。「Cafe De Mars」は、サウンドのパレットをモーフィングのような形で捉え、巧みなトーンの変化を生み出している。「Dolphin Spray」では、モジュレーションによりシンプルなビートを作りだし、それにレトロな感じの旋律を付け加えている。解釈次第では、Silver Applesの時代のアナログテクノの原点にあるビートを踏まえ、ゲーム音楽の系譜にあるチップチューンのエッセンスをさり気なく添えている。ここにカニンガムの制作者としてのユニークな表情をうかがい知ることが出来よう。

 

その後も意外に聞きやすい曲が続いている。表向きにはディストピア的な考えはほとんど出てこない。ただアルバムの中盤のリスニングの際の面白い点を挙げるとするなら、「System Verse」は、最初期のローレル・ヘイローのような抽象的で摩訶不思議なサウンドに挑んでいる。これらは遊びや思いつきの延長線上にあると思われるが、聴いていて不思議な楽しさがある。


そしてようやくプレスリリースでのコンセプチュアルな試みが「Doves Over Atlantis」で表れる。この曲では、ダニエル・カニンガムのかなり意外な幻想主義が表れ、アトランティス大陸に関するファンタジックなイメージを、彼のアーティスティックな感性と上手い具合に結びつける。


さらにファンタジックな印象が最後の最後で浮かび上がってくる。「Mellow Checx」は、同じく抽象的なサウンドだが、従来のアクトレスとは異なるナラティヴな試みが含まれている。ダニエル・カニンガムは、楽園を描くでもなく、地獄を描くでもなく、中間にある煉獄やそれにまつわる幻想を結びつけ、独特な雰囲気のエレクトロニックを制作している。アルバムを聞くかぎり、現行のエレクトロニックは、他の総合芸術のような意味を持ち始め、その中に絵画的なニュアンス、あるいは文学や映像的なニュアンスを込めるのがトレンドになりつつあるらしい。

 

近年、モダン・クラシカルの作品であったり、トム・ヨークとのコラボレーションやボーカルトラックに取り組んでいるClarkはいわずもがな、WarpのSlouson Malone 1のような現代的なプロデューサーが示唆するように、エレクトロニックは音の集合体という枠組みを超越し、いよいよ別の総合芸術との融合を図る段階に来ているのだろうか。これは例えば、リチャード・ジェイムスがライブでサウンドインスタレーションのような試みを始めているのを見ると分かりやすい。

 

 

 

78/100

 

 

 Dub Musicの系譜  レゲエから始まったダビング録音

Dub Tech

 

ダブ・ミュージックは、当初は、レゲエの派生ジャンルとして始まった。そして、現在、ドキュメンタリー映画の上映で話題になっているボブ・マーリー(&ウェイラーズ)も実は、このダブ(ダビング)という手法に注目していたというのである。

 

そして、このダブにおける音楽制作のプロセスは、エレクトロニックのグリッチノイズと類似していて、音をダビングすることにより、本来の意図した出力とは相異なる偶発的な音響効果が得られることを最初のダブのクリエイターらは発見したのである。他にも、例えば、昔のアナログビデオテープ、音楽のテープのように、再生を重ねたリールは擦り切れると、映像や音が正常に再生されなくなり、''セクションの映像や録音が飛ぶ''というエラーによる現象が発生することがある。これは映像や音が瞬間移動するような奇妙な感覚があったことを思い出させる。

 

ダブ・ミュージックの特徴はこれによく似ている。音を正常に再生するのではなく、”音が正常に発生しない”ことに重点を置く。音の誤った出力・・・、それは制作者が意図した音とは異なる音が現象学として発生することである。予期したものが得られない、その偶然性から発生するサプライズに音楽制作の醍醐味が求められるのではないか? つまり、ダブ・ミュージックは、ギターにしろ、アナログシンセにしろ、リズムトラックにしろ、アナログ録音やテープのリールを巻き付けて重ねていくうち、サウンドのエラーが生じたことから始まった偶然性の音楽ーーチャンス・オペレーションーーの系譜にある実験音楽として始まったと言えるのである。

 

全般的には、キング・タビー、リントン・クウェシ・ジョンソン、リー・スクラッチ・ペリー、マッド・プロフェッサー等が、ダブの先駆的なプロデューサーと見なされている。そして、これらのプロデューサーの多くは、アナログの録音のプロセスを経るうち、ターンテーブルの音飛び、スクラッチに拠る”キュルキュル”というノイズーーブレイクビーツのような効果が得ることを面白がり、ダブという不可解な未知の音楽的な手法を探求していったのかもしれない。また、ポスト・パンク/ニューウェイブの先駆的な存在であるキリング・ジョークがかつて語ったように、イギリスには、スカを除けば、当初、固有のリズムや音楽性が求められなったため、編集的な録音やミックス技術を用い、英国の独自のビートを求めたとも言えようか。つまり、以後のGang Of Fourのアンディ・ギルのギターに見出せるように、リズム性の工夫に加え、''古典的なリズムからの脱却''というのが、イギリスの音楽の長きにわたる重要なテーマでもあったのだ。

 

今や電子音楽やラップ、ロックでも、このダブ音楽の手法が取り入れられることもあるのは知られているところであると思う。分けても、2000年代に顕著だったのは、スネアやハイハットに強烈なディレイ/リバーブをかけることで、アコースティック楽器の音飛びのような効果を引き出すことが多かった。このジャンルは、生楽器で使用されるにとどまらず、打ち込みのドラムに複数のプラグインを挿入し、トラックメイクのリズムの全体をコントロールする場合もある。

 

ダビング録音は、最終的に、2000年代以降のエレクトロニックやクラブミュージックで頻繁に使用されるようになり、ロンドンのベースラインやドラムンベースの変則的なリズムと掛け合わされて、”ダブステップ”というジャンルに至ると、シンセの音色やボーカルの録音をリズム的に解釈する、という形式まで登場した。

 

それ以降、レゲエやロック・ステディの性質は薄まり、ロンドンのダンス・ミュージックやドイツのECMのニュージャズ/フューチャージャズと結びつき、特異なサウンドが生み出されるよになった。今や、レゲエの系譜にある古典的なダブの音楽性を選ぶケースは、比較的減少したという印象を受ける。他方、ジャマイカのロックや民族音楽の性質が弱まったとは言え、スカやレゲエのリズムの主な特徴である、2拍目や4拍目にアクセントを置くという、いわゆる裏拍重視のビートは、依然としてダブやそれ以降の系譜の音楽ジャンルの顕著な特徴となっている。

 

 

 

・ダブの出発点 1960's  レゲエ/ロック・ステディの後に始まった島国ジャマイカの音楽

 

1960年代のジャマイカのキングストンの町並み カラー加工が施されている

1960年代のジャマイカの首都キングストンでは、社会的な文化背景を持つ音楽として隆盛をきわめており、スカとロック・ステディのリズムは裏拍の強調を基本としていた。つまりロック・ステディのゆったりしたリズムが、ダブの基礎を形成したというのである。ジャマイカでは大型のPAシステムを導入し、地元のコミュニティやイベントでこれらの音楽がプレイされる事が多かった。

 

こういった背景のなかで、PAという音響エンジニアの職にある人物が最初のダブの礎を築き上げた。サウンドシステムのオペレーターで、エレクトロニックエンジニアであったオズボーン”キングダビー”ラドックは、ジャマイカ音楽に革新をもたらした。ダビーの専門的な知識は、彼の芸術的な感性と掛け合わされ、従来になかった方法でトラックを操作し、ミキシングデスクをアコースティック楽器のように操作することを可能にした。彼のリミックスのアプローチは革新的であり、ベースやドラムのリズムセクションに焦点を絞った。これは「リディム」と後に呼ばれるに至る。彼はボーカルとホーンをサンプリングとして抽出し、それにエフェクトを掛け、独特な音響効果をもたらした。 その後、キングタビーはリバーブとエコーをトラックに掛け、これまでには考えられなかったような斬新な音響効果を追求するようになった。

 

もうひとりの立役者がプロデューサーを当時務めていた、バニー・リーだった。リーはダンスのムーブメントを介して、インストゥルメンタルの箇所で観客の良い反応が得られたことにヒントを得た。リーはキング・ダビーと共同制作を行い、ポピュラーヒット曲のリミックスを手掛けるようになる。このコラボレーションはリミックスの意義を広げたにとどまらず、既存曲からは想像も出来ぬようなエキセントリックなリミックスを作り出す手段を生み出したのだった。

 

 

これらのレコーディングの過程で必要不可欠となったのが、ダビーがスタジオで使用した4トラックのミキサー。この機材によってダビーは、音楽の多彩な可能性を追求し、録音したものを繋ぎ合わせて新しいサウンドスケープを作り出すようになった。エコー、ディレイ、リバーブなど、現在のダブミュージックにも通じるエフェクトはダビーが好んで使用していた。この最初のダブのシーンからリー・スクラッチ・ペリーも登場する。彼はスタジオバンドアップセッターズと協力し、ダブミュージックの先駆的な存在として活躍する。この60年代の十年間は続く世代へのバトンタッチや橋渡しのような意味が求められる。少なくとも、上記のプロデューサーたちは自由闊達に面白いサウンドを作り、音楽の未知の可能性を追い求めたのだった。

 

 

・ダブの黄金時代の到来 1970's  プロデューサーの遊び心がもたらした偶然の結果

 

リー・スクラッチ・ペリーとブラック・アーク・スタジオ

1970年代は一般的に旧来のレゲエからダブが分離し、独自の音楽として確立された時代とされている。60年代のキングダビーの録音技術は次世代に受け継がれ、とんでもないモンスターを生み出した。リー・スクラッチ・ペリー、そして、オーガスタス・パブロの二人のミュージシャンである。さらにスクラッチ・ペリーが1973年に設立した”ブラック・アーク・スタジオ”はダブ音楽のメッカとなった。ペリーの天才性は、高度な録音技術に加えて、彼自身の独創的なクリエイティビティを組み合わせるという点にある。渦巻くようなディレイ、創造的なリバーブ、具象的なサウンドスタイルによって特徴づけられるペリーの音楽は、ダブというジャンルを象徴づけるようになった。とくに1976年の「スーパーエイプ」はペリーの革新的な製作技術とワイアードな音楽のヴィジョンが特徴で、このジャンルの金字塔ともなったのである。

 

 

一方のオーガスタス・パブロは、どちらかと言えば、楽器の音響効果やその使用法にイノベーションをもたらした。特に、その時代真新しい楽器と捉えられていたメロディカを使用し、ダブ音楽にちょっとしたチープさとユニークな印象を付け加えた。 シリアスと対極に位置する遊びゴコロのようなものは、ダブミュージックの制作を行う際に必要不可欠なものになった。パブロの代表的な作品には、1974年の「キング・ダビー・ミーツ・ロッカーズ・アップタウン」が挙げられる。これも画期的なレコードで、キング・ダビーのミキシングの技術とパブロのメロディカの演奏がフィーチャーされた。このアルバムはダブの未知の可能性を示唆した傑作である。

 

それまで、ダブはジャマイカ発祥の音楽だったが、1970年代以降になると、海外にもこのジャンルは波及するに至った。


とくに、最初にこの音楽が最初に輸入されたのが英国だった。移民などを中心とする多国籍のディアスポラ・コミュニティが他国よりも発展していたイギリスでダブが隆盛をきわめたことは当然の成り行きだったと言える。ポスト・パンクやニューウェイブに属する新しいものに目がなく、流行に目ざとい(今も)ミュージシャンがこぞってダビングの技法を取り入れ始めた。


ダブをパーティーサウンドとして解釈したThe Slits、英国独自のリズムを徹底して追い求めようとしたKilling Joke、ジョン・ライドン擁するPIL、The Clash、The Members等のパンクバンドを中心にダブ音楽は歓迎を受けた。また、Gang Of Fourは、ファンクの要素と併せてダブサウンドを取り入れていた。もちろん、この流れはオーバグラウンドのミュージックにも影響を与え、POLICEのようなバンドがレゲエと合わせてロックミュージックの中にセンスよく取り入れてみせた。

 

そしてダブ・ミュージックを一般的に普及させる役目を担ったのが、「Yard Party」と呼ばれるストリートパーティーのため設置されたモバイル型のディスコだった。セレクターが運営したこれらのジャマイカ仕込みのサウンドシステムは、しばしばオリジナルの歌詞をフィーチャーしたトラックやダブプレートという形になった。ダブ・プレートは、サウンドシステムの構築には必須の要素となり、イギリスでのダブの普及に多大なる貢献を果たした。この1970年を通じて、一部の好事家のプロディーサーだけの専売特許であったダブがいよいよ世界的なジャンルと目されるようになり、それと同時に一般的なポピュラー音楽と見なされるようになった。


 

・アナログの時代からデジタルの時代  1980's  イノベーションを取るか、ドグマを活かすか?  

 

 

Sly & Lobbie

続く、1980年代は、ダブ音楽がより洗練されていった時代であり、サイエンティスト、 キング・ジャミー、スライ&ロビーという代表的なミュージシャンを輩出した。この時代、ドラムマシンやシンセサイザーが録音機材として使用され始めると、旧来のアナログのサウンドからデジタルのサウンドへと切り替わっていくことになった。

 

たとえば、キング・ダビーの薫陶を受けたキング・ジャミーは1985年のアルバム「Steng Teng」は、デジタルへの転換点を迎えたと言われている。このアルバムは、レゲエ音楽が最初にコンピューター化されたリディム(Riddim: 厳格に言えば、レゲエのリズムの一形態を意味する)として見なされる場合もある。また、リズムセクションを主体とするプロデューサーのデュオ、スライ&ロビー(Sly & Lobbie)も、この年代のアナログからデジタルへの移行をすんなり受け入れた。ドラムマシンと電子楽器を併用し、彼らはジャンルに新しい意義を与えたのである。1980年代を通じての彼らの仕事は、その時代の実験性の精神をありありと示している。

 

 しかし、このデジタルサウンドへの移行は、ダブ音楽がマスタテープ等のリールを編集したり、アナログのエフェクトを中心に構成されることを考えると、旧来のアナログ派にとっては受け入れがたいものであった。デジタルのダブの出現は、むしろアナログ原理主義者の反感を買い、これらの旧来のサウンドの支持者は、かえってアナログ派としての主張性を強める結果となった。この年代には、アナログ派とデジタル派の間での分離も起きた。しかし、結果的にデジタルへの移行は良い側面ももたらしたことは併記すべきか。ヘヴィーで温かい雰囲気を持つベースライン、そして、ライブ録音のアコースティックドラムは、このジャンルを次の段階に進める契機を形作った。同時に、デジタルサウンド特有のシャープなサウンドも作り出された。

 

その後もマーク・スチュアートはこのレーベルと関わりを持ち続けた
この技術的な核心は、新しいプロデューサーを輩出する糸口となる。この年代の第一人者であるマッド・プロフェッサー(Mad Professor)が、ダブの最重要人物として台頭させる。彼は、ロンドンのダブミュージックのレーベル ”On U Sound Records"の創設者でもあった。

 

このレーベルのリリースには、タックヘッド、ダブシンジゲート、アフリカンリトルチャージ、リトルアニー、マーク・スチュワート(ポップ・グループ)、ゲイリー・クレイル等といった錚々たるアーティスト名がクレジットされた。

 

1980年代は前の年代よりもダブが国際的な音楽として認識された。このジャンルは英国にとどまらず、アメリカ、日本など世界の音楽シーンにも浸透していくようになる。とりわけ、日本では英国と同じようにパンクシーンに属するミュージシャンが、これらのダブをパンクサウンドの中に組み込んだ。これら当然イギリスのニューウェイブからの影響もあったと推測される。

 

 

 

・エレクトロニックとの融合の成果   1990's  ポピュラーミュージックへの一般的な浸透

 

Massive Attack


2000年代以降、イギリスでは、”ダブステップ”という、このジャンルの次世代のスタイルが登場し、Burial、James Blakeの一派によって推進されると、 古典的な意味合いを持つダブミュージックの意義は徐々に薄れる。2010年代以降、ロンドンやマンチェスターのコアなベースメントのプロデューサーを中心に、リズム自体も複雑化してゆく。しかし、その後のダブをクラブミュージック等のジャンルと融合させるという形式は、すでに1990年代に始まっていた。


1990年代の世界のミュージック・シーンの至る場所で見いだせる”クロスオーバー”という考えは、ジャマイカ生まれの音楽にも無関係ではありえなかった。ダブは、アンビエント、ドラムンベース、トリップ・ホップ、そして、その後のダブステップという複合的なジャンルに枝分かれしていく。この年代は、古典的なダブと異なり、ベースとリズムの低音域を徹底して強調し、リズムの要素を付け加え、重層的なビートを構築する形式が主流になる。この過程で原初的なシンプルなレゲエのリズムや、カッティングギターの性質は薄れていくことになるが、依然としてマンチェスターのAndy StottやスウェーデンのCalmen Villan等の才気煥発なプロデューサーの作り出すダブは一貫して、裏拍に強調が置かれている。もちろん、シンコペーション(強拍の引き伸ばし)の技法を用いることにより、よりカオスなリズムを作り出すようになった。

 

 

1990年代は、2000年代にラップトップでの音楽制作が一般的になっていくため、デジタルレコーディングのオリジナルダブの最後の世代に位置付けられる。これは、以降、自宅のような場所でもレコーディングシステムを構築することが可能になったためだ。1990年代のダンスミュージックとダブを結びつける試みは、イギリスで始まった。ジャマイカからのPAシステムの導入は、ジャングル、ドラムンベース等のジャンルに導入されていた。この時代は、ハウスミュージックは、シンプルな4つ打ちのビートから、より複雑なリズムを持つ構造性に変化していったが、言うまでもなくダブもその影響を免れるというわけにはいかなかった。

 

この動向は、Massive Attackに象徴づけられるイギリスのクラブミュージックの余波を受けたブリストルのグループにより”トリップ・ホップ”というジャンルに繋がっていく。Portisheadにせよ、Trickyにせよ、Massive Attackにせよ、ヒップホップからの引用もあるが、同時に彼らは遅めのBPMを好んで使用する傾向にあった。これは、このジャンルが比較的ゆったりとしたテンポで構成されるダンスフロアのクールダウンのような要素を持ち合わせていたことを象徴付ける。また、テクノとダブを結びつける動きもあり、ダブテクノというジャンルへと分岐していく。

 

この時期、ポピュラーミュージックを得意とするプロデューサーがダブのレコーディング技術を取り入れる場合もあった。マスタリング時に低音域の波形を徹底して持ち上げ、リズムを徹底して強調し、波形に特殊な音響効果を与えることで、渦巻くようなサイケデリックな音響を作り出すという手法は、ダブの制作における遊びの延長線上にあると言えるか。勿論、ジャマイカで始まったフィーチャーやリミックスという概念は現代の音楽業界の常識ともなっている。

 

1990年代には日本にもダブ音楽が輸入されるようになり、Dry& Heavy、Audio Activeというように、個性派のエレクトロニックアーティストを輩出する。彼らはミックスという観点からこれらの音楽にユニークな要素を及ぼし、日本のベースメントのクラブ音楽に良い刺激をもたらしている。

 

ミレニアム以降の年代は、WindowsやMacなどの一般家庭への普及もあってか、PC(ラップトップ)での個人的な音楽制作が一般的となったため、レコーディングシステムを所有していなくとも、ダブの制作のハードルはグッと下がった。


そして、これらの音楽は、よりワールドワイドな意味を持つに至り、イギリス以外のヨーロッパ各国でも親しまれる。しかし、アウトプットの手段が黄金期の1970年代から大きく変わったとはいえ、ダブの制作の醍醐味は現在でもそれほど大きく変わっていないようだ。ダブミュージックの面白さとは、”予期したものとは異なるフィードバックが得られる時”にある。換言すれば、制作者やプロデューサーが予め想像もしなかった奇異なサウンドが得られるとき快感がもたらされる。その意外性は制作者だけにかぎらず、リスナーにも少なからず驚きをもたらす。

 

ダブ音楽の本質にあるものとは何なのか。それは、1970年代以降、キング・ダビーとスクラッチ・ペリーが試行錯誤のプロセスで見出したように、遊び心満載で、サプライズに充ちた音楽性にあり、なおかつアートのイノベーションの瞬間に偶然立ち会える僥倖を意味しているのである。

 Yaya Bey  『Ten Fold』

 

Label: Big Dada

Release: 2024/05/10


Review    癒やしに充ちたスモーキーなネオソウル



ニューヨークの気鋭のネオ・ソウルシンガー、Yaya Bey(ヤヤ・ベイ)はすでに2022年のアルバム『Remember Your North Star』でシンガーとしてもソングライターとしても洗練された才覚を発揮し、シーンで存在感を示している。このことはコアなR&B/ソウルファンであればご存じのはず。


続く最新作『Ten Fold』では、どうやらヤヤ・ベイが内面のフォーカスを当て、瞑想的なサウンドを打ち立てているという。アルバムのアートワークに写しだされる扇動的でセクシャルかつグラマラスなシンガーの姿は、一見したところポップな作風を思い浮かばせるが、しかし、驚くなかれ、それはブラフのような意味を持ち、実際はメロウでスモーキーなネオソウルのアトモスフィアが今作の全体には漂っている。ある意味では、このアルバムの事前のイメージは、ニューヨークの摩天楼を思わせるような洗練されたネオソウルによって覆されるに違いない。ヒップホップをベースにしながらも、ボーカルのサンプリング、レゲエ/ダブに近いリズム、そして時折、ソウルシンガーとして表されるヒップホップカルチャーへのリスペクト……。これらが混在しながら、メロウかつアーバンな響きを持つR&Bのストラクチャーが築き上げられる。



この作品の発売元であるBig DadaがNinja Tuneのインプリントであることを考えると、ニューヨークのソウルシンガーでありながら、インターナショナルな香りを漂わせるアルバムである。ヤヤ・ベイのサング(歌唱法)は、例えば旧来のサザン・ソウルやモータウンサウンドとは対極に位置し、アーバンな雰囲気に浸されている。ベイの歌はまるで、夜が深まったニューヨークの五番街を歩きながら、日常生活を丹念にリリックとして描写し、それをソフトに歌うかのようである。いや、歌うというよりも、ウィスパーボイスによってささやくといった方がより適切だろう。ベイの歌には、ヒップホップからの影響もあり、細かなニュアンスの変化とともに抑揚をコントロールしたピッチの微細なゆらぎを駆使し、マイルドな質感を持つ歌を披露する。背後のビートにUKソウルからの影響を反映させ、ダブともベースラインともつかないアンビバレントなリズムを背景にし、ヤヤ・ベイは軽やかな足取りでステップを踏むかのように歌う。このアルバムには、ニューヨークでの生活がリアルな形で反映され、その土地にしかないリアルな空気感が含まれている。曲が進むごとに、夜の町並みが中心街から地下鉄、そして再び地上の家へと、代わる代わるサウンドスケープが変化するような印象があるのがとても興味深い。

 

インプリントということで、ニンジャ・チューンらしいサウンドも反映されている。ロンドンのJayda Gがヒップホップとソウルの中間域にあるモダンなサウンドを、昨年の「Guy」で確立したが、この作品には、ヒップホップのサンプリングをストーリーテリングの手法として導入するという画期的な手法が見受けられた。 補足すると、Jayda Gが試みたのは家族のストーリーをサンプリングとして導入するというもので、スポークンワードの中で文学的にそれを表現するのではなく、サンプルのネタとして物語性を暗示的に登場させるという手法である。これは例えば、デル・レイの最新作にも共通している。もっと言えば、このサンプルの技法は、ストーリーにとどまらず、フレンドシップやコミュニティを表現することもできるかもしれない。「east coast mami」ではスポークンワードのサンプルを導入し、音飛びのしないブレイクビーツの規則的なリズムを背景にし、ヤヤ・ベイはメロウでマイルドな質感を持つリリックと歌を披露している。アルバムの中盤に収録されている「eric adams in the club」にもこの手法が見出せる。


ヤヤ・ベイは、ニューヨークを中心とする暮らしを、彼女の得意とするR&Bの手法で端的に表現している。それは、例えば、S.Raekwonのスタテン・アイランドに向かう船で切ない慕情を歌ったものとは異なり、ニューヨークのビジネスマンが肩で風を切って歩くような都会的な洗練性である。その中には、ややウィットに富んだ内容も見え、「Chasing Bus」は、乗り遅れたバスを追いかけるシーンと、彼女自身のソウルのアウトプットが現代的な質感とともに古典的な側面を持つことに対する自虐とも解釈出来る。これらはメインボーカルと鋭いコントラストをなしているし、そしてまた、ヒップホップの話のようなレスポンスと合わせて新旧の両側面を持つソウルミュージックの形として昇華されると、洗練されたモダンな音楽の印象を与える。さらにそういった多角的なネオソウル/ヒップホップのアプローチを通じて、トラックリストを経るごとに、ヤヤ・ベイの日常的な生活は内面と呼応するような感じで、どんどんと奥深くへと潜っていき、音楽的な世界観の広がりを少しずつ増していく。 つまり、このアルバムでは、最初から完成形が示されるのではなく、リスナーがニューヨークやロサンゼルスの歌手の体験を追いかけて、それらの出来事に接した際の感情の過程を追体験するような楽しさがある。さらに救いがあるのは音楽がシリアスになりすぎず、ユニークな要素をその中に併せ持つということ。

 

 

基本的にはヤヤ・ベイのソングライティングのスタイルはヒップホップとソウルの中間に位置していて、同時にそれがこのアルバム全般的な特色やキャラクターともなっているが、音楽性の中心点から少しだけ離れる場合もある。例えば、「Slow dancing in the kitchen」では、Trojan在籍時代のBob Marleyのレゲエサウンドを踏まえ、それらを現代的な質感を持つソウルミュージックとしてアウトプットしている。これらのサウンドは、シリアスになりすぎたヒップホップやソウルにウィットやユニークさを与えようという、ヤヤ・ベイの粋な取り計らいでもあろう。その他にも、ユニークな曲が収録されている。「so fantasic」では、Mad Professor、Linton Kwsesi johnsonのような古典的なダブサウンドに近づく楽曲もある。しかし、歌にしても、ソングライティングにしても、少しルーズで緩い感覚があり、それこそが癒やしの感覚をもたらす理由でもある。これらのチルアウトに近いレゲエやソウルの方向性は、ノッティンガムのYazmin Lacey「ヤスミン・レイシー)の最新作『Voice Notes』の系統にあるサウンドと言えるか。


これらの多角的な音楽性は基本的には、メロウなソウルという感じで、全体的なアルバムの印象を形作っている。それは真夜中の憂鬱や憂いというイメージを孕んでいるが、一方でブラックミュージックの華やかさに繋がる瞬間もある。例えば、先行シングルとして公開された「me and all n---s」は、ダウナーな感覚を持ちながらも、背後のオルガンの音色と合わせて、ヒップホップのニュアンスが少し高まる瞬間、ダークで塞いだ気持ちを持ち上げるような効果がある。


また、「iloveyoufrankiebeverly」は、古典的なノーザン・ソウルの影響下にある素晴らしいトラック。この曲では一貫して、アンニュイなボーカルを披露してきたシンガーが唯一楽しげな雰囲気を作り上げている。しかし、ベイが作り出す音の印象は一貫して真夜中のアトモスフィアなのである。憂いに留まらず夜の陶酔ともいうべき際どい感覚、要するにこれらは、トリップ・ホップのブリストルサウンドと似ているようで、実はカウンターポイントに位置している。

 

ダンスミュージック、ヒップホップ、チルアウト、レゲエ/ダブ、ジャズ、モダンなネオソウル、それとは対極にある70年代のノーザン・ソウルというように、幅広いバックグランドを持つベイだが、最後は、安らいだ感じのチルウェイブで統一されている。


「yvettes's cooking show」はヒップホップやローファイに近い音楽性を選んでいるが、依然として癒やしの感覚に満ちている。クローズ「let go」ではチルアウトをトロピカルと結びつけ、リラックスしたサウンドを生み出す。アウトロのタブラを思わせる民族楽器のエキゾチックな響きは、リゾート気分を呼び覚ますこと請け合いだ。


序盤ではニューヨークの都会的なイメージで始まるこのアルバム。しかし意外にも、複数の情景的な移ろいを通じて、最終的にはリゾート地への逃避行のような感覚を暗示している。『Ten Folds』には本格派のソウルミュージックの醍醐味が満載だ。それがウィットに富んだミュージシャンのユニークさに彩られているとあらば、やはり称賛しないというわけにはいかないのである。

 

 

 

86/100

 






Yaya Bey






ニューヨーク育ちのR&Bボーカリスト、ヤヤ・ベイは、彼女の新しいスタジオアルバム「Ten Fold」で包括的な自画像を想起させる。彼女の以前の作品が真剣でマインドフルだったところでは、ヤヤの新しいアルバムは決定的であり、意識的な意図の流れで彼女を取り巻く世界の未来を調べながら、彼女の過去の側面を遡ります。


ジャズグループブッチャーブラウン、カリームリギンズ、ジェイダニエル、エクサクトリー、ボストンチェリーのコーリーフォンビルからの熱狂的な制作を通して、ヤヤは、悲しみと喪失、人生を変えるマイルストーン、そしてその間のすべてによって中断された1年間の忍耐の複雑さを語る自由話の傑作を提供します。


彼女の強力な2022年のアルバム「Remember Your North Star」をリリースしてから9ヶ月後、ヤヤは激動を通して進化する準備を整えた北星のExodusで戻ってきました。「私は通常、アルバムに入るときに、このテーマ全体のものを持つようにしています。しかし、私が人生が起こっていたときに作ったこのアルバム」と彼女は言う。


そのようなオープンエンドの創造的なリズムの中で働くことで、ヤヤは音楽とそれ以降の彼女の仕事に知らせるすべての努力、感情、経験を伝える瞬間でアルバムを豊かにすることができました。彼女は詩人、抗議のストリートメディックとして人生を送り、サナアと呼ばれる相互扶助組織、アートキュレーター(PGアフリカ系アメリカ人博物館)、そしてブルックリンのモカダ博物館に居住し、過去のプロジェクトのカバーアートを制作したミクストメディアアーティストを設立しました(「ケイシャ」、「9月13日」、「The Things I Can't Take With Me EPなど)。


このアルバムは、ヤヤのアイデンティティのこれらのさまざまな側面の間に糸を結びつけ、彼女が誰であるかの心のこもった肖像画を提示し、彼女が見ているように世界について話すためのスペースを切り開く。テンフォールドでは、彼女は自分の内なる存在について瞑想し、恋に落ち、同様に、彼女の周りの世界やコミュニティについてコメントし、コストの上昇や人類のほぼディストピア状態などの政治状況を批判します。


滑稽で風刺的なリスニングのために、ユーフォリックな「クラブのエリックアダムス」を演奏し、ヤヤは市全体の混乱の真っ只中に公共のお祝いに出席するためにニューヨーク市長の名前をチェックします。「インフレと住宅危機のために、私たちは同じパーティーをすることさえできませんが、少なくとも市長は私たちと一緒にパーティーをしています」とヤヤは冗談を言います。


他の社会政治的懸念もヤヤの頭にある。彼女は、紛争鉱物と児童労働が毎年それらを注ぎ出すために使用されているため、別のiPhoneを購入することを拒否します。彼女のニューヨークの友人は、家賃が高騰している間、避難所の支払いに苦労しています。広大なLPを作るプロセスを通して自分自身をプッシュし、ヤヤは彼女の仕事が共感的であり、実生活とその絶え間なく変化する状況に対する彼女の意識を示すことを目指しました。アーティストとしての彼女の人生の真実を提示するヤヤのコミットメントは、本質的に音楽を作るキャリアの一部である成果と失敗の両方に聴衆を聞かせ、派手な芸術的なペルソナのファサードを取り除き、代わりにこの旅が彼女に教えたことへの感謝を植え付けます。


ヤヤは、彼女の中心的な音楽物語が苦労している黒人女性の声として彼女を見つけるというジャーナリズムの考えに反撃します。なぜなら、テンフォールドは、彼女が内側に焦点を向けるときと同様に、彼女の音楽が群衆を含むことができることを証明しているからです。彼女がどのように認識されても、ヤヤの使命は、主に最初から彼女を知っていたサポーターに、常に信憑性を維持することです。「私は失敗したので、現実と関連性からあまり離れないことを願っています」と彼女は言います。


ヤヤの本質は、センターピースのトラック「サー・プリンセス・バッド・ビッチ」にあります。催眠性のイヤーワームは、歌手が「私以外の何もない」と歌いながら、のんきに感じます。自然の中では軽いが、歌の中で、ヤヤはジェンダークィアな人としての彼女の存在について熟考する。ヤヤの定義では、「サー・プリンセス・バッド・ビッチ」はアーティストの複雑さを表しています。「このスイッチは非常に極端です。ある日、私はハンサムな男で、次の日、私はクソガウンを着てステージにいます」とヤヤは告白します。


内面と外面の探検がヤヤの精神であるように、テンフォールドはその文章に無文化なニュアンスで輝いています。ソウルフルなオープナー「歯をかばって泣く」は、ヤヤが「私はこのすべてのお金を得たが、私はまだクソ壊れている」のようなパンチの効いたセリフでユーモアを通して人生の重荷を運ぶのを見ます。「証拠」の大気生産は、ヤヤの穏やかな発声と「時々私はそれを作らないように感じる」のような不安な告白を覆います。


テンフォールド全体に散在するのは、日曜日の朝の親密さを醸し出す、軽くレゲエが塗られた「キッチンでのスローダンス」のように、喜びを垣間見ることができます。ヤヤは、短く輝く「私とすべての私のニガー」で彼らの窮状から自分自身を回復する彼女の友人サークルの能力を証明しています。「Iloveyoufrankiebeverly」は、夜間のバーベキューの雰囲気があり、迷路のフロントマンへの適切なオマージュです。各曲は、テンフォールドが顕在化するのにかかったライティングとフリースタイルセッションの治療的性質で流れます。


ヤヤは、祖先と直接つながっているように、バルバドスの父方の故郷を思い起こさせます。彼女のカリビアンのルーツを取り入れて、ヤヤは、詩の重い「私のパパのようなスタンティン」であろうと、ベイが娘に「あなたがどこかにいたように世界に自分自身を提示する」ことを思い出させる「私と私の」の紹介のような散在したオーディオクリップで、彼女の父アユブ・ベイに絶え間ないオードを与えます。


そして、本当に、彼女はどこにでもいました - ヤヤは私たちにそれをすべて音響的に旅行させています。第二世代のアーティスト、ヤヤが直接目撃した旅は、音楽とのより健康的な関係を築き、彼女の労働の成果を受け入れるために必要なツールを彼女に与えました。「それは天職であり、私と私の血統にとって、それは先祖代々のものです」と彼女は言います。彼女がアーティストとして舗装された道では、テンフォールドに浸透するヤヤの真実です。