スコットランドのFranz Ferdinand(フランツ・フェルディナンド)は、新作アルバムのリリースを間近に控えている。アークティック・モンキーズと同時期(2005年)に登場したこのバンドは、00年代中盤以降のダンスロックシーンを席巻した。驚くべきことにいつのまにか女性メンバーが加入している。

 

20年という歳月は、フランツ・フェルディナンドにとって、ほんの瞬きのようなものである。今考えると、キラーズの台頭や大ヒット等は、このバンドの二次的なムーブメントに過ぎなかった。時を経て、フランツ・フェルディナンドのロックソングは、現代のリスナーを魅了しえるのか。少なくとも、先行シングルを聴くかぎりでは、彼らのダンスロックソングは今なお魅力的な印象を保持している。いや、彼らのロックソングは日に日に進化し続けていると言えるだろう。

 

アルバム発売前の最終シングル「Hooked」についても、新旧のファンの期待に沿う以上の内容となっている。このシングルは、先行公開された「Audacious」と「Night or Day」に続くサードシングルとなっている。ディスコのリズムを駆使したダンサンブルなロックというフェルディナンドの個性を活かし、アークティックと同根にあるシアトリカルな要素をひときわ強調し、エンターテイメント性十分の楽曲に仕上げている。週末の発売日を目前に以下よりチェックしてほしい。

 

フランツ・フェルディナンドのニューアルバム『The Human Fear』は1月10日にリリース予定。


「Hooked」



 

©︎Steve Gullick

 

スコットランドのMogwaiは11枚目のアルバム「The Bad Fire」の最新シングル「Fanzine Made Of Flesh」を公開した。90年代からロックの代表的な名盤を持つバンドの新作はどうなるだろうか。


昨年9月にリリースされた「God Gets You Back」、そして「Lion Rumpus」に続く、直感的なタイトルのニューシングルは3番目のテイスターだ。「Fanzine Made Of Flesh」は、「The Bad Fire」の包括的なコンセプト、2021年のチャート上位にランクインした「As The Love Continues」に続く個人的な重大な試練を、あらゆるエモーションのスペクトルを駆使して乗り越えてきたことを物語っている。ヴォーカルと刺激的なシンセが特徴的な楽曲となっている。


この曲についてバンドのスチュアート・ブレイスウェイトは、「2023年秋にアレックス・カプラノス(フランツ・フェルディナンドのリードボーカル)の家に滞在していた時にブルックリンで書いた曲。僕の頭の中では、ABBAとswervedriverとKraftwerkを掛け合わせたようなサウンドなんだ。もともとはストレート・ボーカルだったんだけど、レコーディングの最終日にボーカルを入れることになったんだ。かなり変わった仕上がりになったし、本当に満足している」


 

最近、モグワイは自主レーベルRock Actionを運営し、ツアーのなかでbdrmmを発掘している。モグワイのニューアルバム『Bad Fire』は1月24日にRock Action Recordsよりリリース予定。

 

 

 「Fanzine Made Of Flesh」

 



◾️MOGWAIが新作アルバム『THE BAD FIRE』を発表 1月24日にリリース


バーモント州のシンガーソングライター/ギタリスト、Lutalo(ルタロ・ジョーンズがニューシングル「I Figured」を公開した。この新曲は最新作のアウトテイクとして発表された。(ストリーミングはこちらから)


昨年、ルタロはオルタナティヴフォークを中心とするデビューアルバム『The Academy』をリリースし、ニルファー・ヤーニャのツアーサポートを務めた。2025年、ルタロは北米とカナダのツアーを予定している。


ルタロ・ジョーンズはアメリカ文学屈指の名作「グレート・ギャツビー」で知られるスコット・フィッツジェラルドの母校の卒業生。デビューアルバム『The Academy』では、セントポール・アカデミーの学生生活を題材に選び、郷愁的なインディーフォークサウンドを確立している。



「Figured」




Tour Dates:

01/14/25 - Toronto, ON @ Monarch 
01/16/25 - Chicago, IL @ Schubas 
01/17/25 - Milwaukee, WI @ Cactus Club 
01/18/25 - Minneapolis, MN @ 7th St Entry 
01/21/25 - Seattle, WA @ Barboza 
01/22/25 - Portland, OR @ Mississippi Studios 
01/24/25 - San Francisco, CA @ Bottom of the Hill 
01/25/25 - Los Angeles, CA @ The Echo 
01/27/25 - Phoenix, AZ @ Valley Bar 
01/30/25 - Houston, TX @ White Oak Upstairs 
01/31/25 - Austin, TX @ Mohawk Indoors 
02/01/25 - Denton, TX @ Rubber Gloves 
02/04/25 - Atlanta, GA @ The Earl
02/06/25 - Carrboro, NC @ Cat’s Cradle (Back Room)
02/07/25 - Washington, DC @ Songbyrd 
02/08/25 - New York, NY @ Elsewhere Zone One
02/14/25 - Burlington, VT @ Radio Bean



Review:



 


 

伝説的なポストロックバンド、MONOの旅は、島根から始まり、東京に移り、そして最終的にアメリカへと繋がっていった。弦楽器を含めるインストを中心としたギターロックの美麗な楽曲は、日本のポストロックシーンのシンボルにもなり、このジャンルの一般的な普及に大きな貢献を果たした。近年、彼らの唯一無二の音楽観は、ライブステージで大きく花開きつつある。


昨年、MONOは、伝説的なエンジニアで、ロパート:プラントのソロアルバム、ニルヴァーナの『In Utero』を手掛け、Big Black、Shellacとしても活動したスティーヴ・アルビニのプロデュースによるアルバム『Oath』を発表した。本作は、スティーブ・アルビニのお膝元のエレクトリカル・オーディオで制作されている。アルビニが最後に手掛けたアルバムの一つでもあった。

 

『You Are There』(2006)を中心にポストロック/音響派として象徴的なカタログを持つ彼らの魅力はレコーディングだけにとどまらない。年間150本のステージをこなす、タフなライブ・バンドとしても熱狂を巻き起こしてきた。

 

MONOは、大規模なワールドツアーを発表し、ライブを続けている。パリ、ロンドン、ブエノスアイレス、ベルリン、シカゴ、ブルックリン、上海など、文字通り世界の主要都市でコンサートを続けている。その日程の中にはアジアツアーも含まれており、東京、大阪での公演を行った。

 

今回、2024年11月、Spotify O-East(東京)で開催されたライブパフォーマンスの模様が配信された。ライブのハイライト「Everlasting Light」 では、トレモロにより生み出されるドローンのギターを中心にダイナミックなアンサンブルが構築されている。MOGWAI、Explosions In The Skyに匹敵する迫力を映像として収録。重厚でありながら叙情性を失わない正真正銘の音響派のサウンドを聴くと、およそ結成25年目にしてMONOの最盛期がやってきたことを痛感させる。

 

2025年もワールドツアーは進行中だ。2月19日のボストン公演に始まり、フィラデルフィア、アトランタ、ヒューストン、シアトル、デンバーと北米を中心に公演を開催する予定である。現時点では3月の公演日程が公表されている。公式ホームページにてバンドの日程を確認出来る。

 

 

 「Everlasting Light」

 


Panda Bear(パンダ・ベア)は、2月下旬にDominoから発売予定の新作アルバム『Sinister Grift』からセカンドシングル「Ferry Lady」をリリースした。本曲はダニー・ペレスによるビデオ付きで発表された。


パンダ・ベアはAnimal Collectiveの創設メンバーで、リスボンを拠点に活動している。サイケデリックとエレクトロニックを絡めた彼の独創的な楽曲は鮮やかな風味を残す。


「Ferry Lady」は、カナダのシンディ・リーをギターにフィーチャー。ピッチフォーク誌に「インスピレーションに満ちた心の交流であり、レノックスの次のアルバムへのスリリングなティーザー」と評価された、先にリリースされたシングル「Defense」のフォローアップとなる。


パンダ・ベアーはトロ・イ・モア(チャズ・ベア)とのツアーを2月から開催する。北米、カナダ、スペイン、イギリスを回る。このツアーは6月まで続く。

 

「Ferry Lady」

 


 



ADWR/LR2(スペース・シャワー・ミュージックの関連レーベル)による2024年度のプレイリストがSpotifyで公開されました。昨年、レーベルは注目すべきアルバムをいくつも手掛けています。


レーベルが選んだ100曲をデジタルストリーミングにより紹介する本プレイリストでは、カジヒデキ、 Soraya、柴田聡子、Le  Makeup、Luby  Sparks、JJJ、Aru-2、Joe Cupertino、Kid Fresinoなど、ポップス、ジャズ、ロック、ヒップポップまでレーベル選りすぐりの楽曲が選曲されています。


その他、細野晴臣、やくしまるえつこ、カヒミ・カリイ、サーストン・ムーア(Sonic Youth)、中原昌也によるジム・オルーク(Jim O' Rouke)のカバーも視聴することが出来ます。下記より本プレイリストをご視聴下さい。アプリをお持ちの方は、ぜひプレイリストに登録してみてください。


左からタブラ奏者のアラ・ラカ、シタール奏者のラヴィ・シャンカル

 インド音楽のラーガというのをご存知だろうか。シタール、タブラといった楽器演奏者が一堂に介して、エキゾチックでミステリアスな音楽を奏でる。しかし、この音楽は民族的で宗教的であるのは事実だが、その反面、神妙な響きが込められているのを感じる。それはこの音楽が悠久の時を流れ、宇宙の真理を表す、ピタゴラスの音楽の理想系を表しているからなのだろうか。


 ラーガのルーツは、バラモン教、ヒンドゥー教の経典であるヴェーダの聖典、つまり紀元前500年から一千年の時代にまで遡る。ラーガの本来の目的は、音楽的な心地よさだけではない。この音楽の目標は、人が覚醒に達するのを助けることであった。それゆえ、インドの古典音楽は厳格に認識され、神聖な領域に属している。


 インド音楽は大きく二つに分けられる。ひとつは南インドのカルナティック音楽、もうひとつは北インドのヒンドゥスターニー音楽である。インド古典音楽の2つの系統を区別しているのは、ムガール帝国の支配下にあったため、北部のヒンドゥスターニー音楽に忌避され、適応したペルシアの影響である。

 

 一方、南カルナータク音楽は、ペルシャの影響を一切受けず、孤立したまま進化を続けた。この地域にいたムガル人は寺院で演奏されていたヒンドゥスターニー音楽を王の宮廷に持ち込んだ。

 


ラーガーマーラーと呼ばれる絵画 ラーガを絵画で表したとされる

 このラーガというのはどんな音楽なのだろう。ジョージ・ハリソンはビートルズ時代からシタールを演奏し、インド音楽に感銘を受け、ラヴィ・シャンカールから手ほどきを受けた。さらにその後、ヒンズー教を信仰するようになった。彼はソロアルバムで信仰を告白した。しかし、不思議でならないのは、かれはなぜ、インドの音楽に、それほど大きな霊感を受けたのだろうか。おそらく、その秘密、いや、奥義は、ラーガひいてはインド音楽の神秘性にあるのかもしれない。インド音楽の巨匠であるラヴィ・シャンカルは「インド古典音楽の鑑賞」のなかで、この音楽について次のように説明している。以下は基本的には門外不出のラーガの貴重な記述のひとつである。


 インド古典音楽は、和声、対位法、和音、転調など、西洋古典音楽の基本ではなく、メロディーとリズムを基本としている。「ラーガ・サンゲート(Raga Sangeet)」として知られるインド音楽の体系は、その起源をヒンドゥー寺院の「ヴェーダ讃歌」にまで遡ることができる。 このように、西洋音楽と同様、インド古典音楽のルーツは言うまでもなく宗教的なものです。 


 私たちにとって、音楽は自己実現への道における精神的な鍛錬となり得る。このプロセスによって、個人の意識は、宇宙の真の意味、永遠で不変の本質の啓示を喜びをもって体験できる気づきの領域へと昇華することができる。 つまり、ラーガは、この本質を知覚するための手段でもある。


 古代のヴェーダ聖典は、音には2種類あると教えている。 ひとつはエーテルの振動で、天界に近い上層または純粋な空気です。 この音は「アナハタ・ナッド(打たない音)」と呼ばれている。 偉大な悟りを開いたヨギーが求める音で、彼らだけが聞くことができる。 宇宙の音は、ギリシャのピタゴラスが紀元前6世紀に記述した球体の音楽のようだと考えられている振動である。 自然界で耳にする音、人工的に作られた音、音楽的なもの、非音楽的なものなど、あらゆる音を指す。

 

 これはインド音楽そのものが神秘主義的な考えをもとに成立していることの表れである。明確なつながりは不明であるが、エーテルというのは、ギリシャ哲学家の提唱した概念でもある。この符号はインドのような地域の原初的な学問とギリシャの学問がなんらかの形で結びついていた可能性を示す。



 インド古典音楽の伝統は口伝による。 西洋で使われている記譜法ではなく、師から弟子に直接教えられる。 インド音楽の核心はラーガであり、音楽家が即興で演奏する旋律形式である。 この枠組みは、インド国内の伝統によって確立され、マスター・ミュージシャンの創造的な精神に触発されている。


 インド音楽はモード的な性格を持つのは事実であるが、ラーガを中近東や極東の音楽で耳にするモードと勘違いしてはならないし、音階や旋律そのもの、作曲、調性とも理解してはならない。

 

 ラーガとは、アロハナ(Arohana)とアヴァロハナ(Avarohana)と呼ばれる上昇または下降の構造で、7音オクターブ、ないしは6音または5音の連続(またはこれらの組み合わせ)からなる、独特の上昇と下降の動きを持つ、科学的で正確、繊細で美的な旋律形式を示している。音の順序の微妙な違い、不協和音の省略、特定の音の強調、ある音から別の音へのスライド、微分音の使用、その他の微妙な相違によって、あるラーガと別のラーガが区別されるのです。


ラーガの主な旋法の例 北インド



 ラーガは厳密に言えば、長調と短調の二つに大別される。ある音楽ではくつろいだ南方の音楽を思わせるが、それとは対象的に、ある音楽では北方の悲しげな音調を持つ。リズムも対照的で、ゆったりしたテンポ(Adagio,Largo)から、気忙しいテンポ(Allegro,Presto)に至るまで幅広い。これらはラーガが感情を掻き立てる音楽であることを示唆している。これは覚醒を促すという主な目的の他に、Karmaという目的のためにラーガが存在するからなのだろう。

 

 サンスクリット語に "Ranjayathi iti Ragah "という格言がある。 ラーガが真に聴く人の心を彩るためには、その効果は音符や装飾だけでなく、それぞれのラーガに特徴的な感情やムードを提示することによっても生み出されなければならない。 このように、私たちの音楽における豊かな旋律を通して、人間のあらゆる感情、人間や自然におけるあらゆる微妙な感情を音楽的に表現し、経験することができる。


 各ラーガは、主にこれら9つのラサ(旋法)のうちの1つによって支配されるが、演奏者は、他の感情をあまり目立たない形で引き出すこともできる。 ラーガの音符が、ひとつのアイデアや感情の表現に密接に合致すればするほど、ラーガの効果は圧倒的なものとなる。


ラーガは朝、昼、夜といった時間ごとの儀式音楽の形式で親しまれたが、のちにはあまり一般的な意味を失いつつあった。


 それぞれのラーガは、特定の気分と関連しているだけでなく、1日の特定の時間帯や1年の季節とも密接な関係がある。 昼と夜のサイクルや季節のサイクルは、生命のサイクルそのものに似ている。 夜明け前の時間、正午、昼下がり、夕方、深夜など、一日の各部分は明確な感情と結びついている。 各ラーガに関連する時間の説明は、ラーガを構成する音符の性質や、ラーガにまつわる歴史的逸話から見出すことができる。


 ラーガの音楽の音階には、科学では解き明かせない神秘的な宇宙的な根源が示されている。そして、人間の精神の発露でもある。それがこの音楽という側面を考える上で不可欠のようである。

 

 ラーガの基となる音階は72種類あるが、インド音楽の研究者たちは、その組み合わせによって、6000以上のラーガが存在すると見積もっている。しかし、ラーガは、単に音階の上昇や下降の構造だけの問題ではない。 ラーガには、そのラーガに特徴的な「チャラン」と呼ばれる音型、主要な重要音(ヴァディ)、2番目に重要な音(サマヴァディ)、そして「ジャン」(生命)または「ムクダ」(顔)として知られる主な特徴がなければならない。


 美学の観点から言えば、ラーガはアーティストの内なる精神の投影なのであり、音色と旋律によってもたらされる深遠な感情や感性の顕現でもある。 音楽家は、それぞれのラーガに命を吹き込み、展開させなければならない。 インド音楽の九割は即興演奏であり、芸術の精神とニュアンスを理解することに依存しているため、アーティストと師匠との関係は、この古代の伝統の肝心要となっている。 音楽家を志す者は、最初から、芸術的熟達の瞬間へと導くための特別で個別的な注意を必要とする。 ラーガの独特なオーラ(「魂」と言ってもいいかもしれない)とは、その精神的な質と表現方法であり、これはどんな本からも学ぶことはできないのです。


 師匠の指導とその祝福のもとで、何年にもわたる献身的な修行と鍛錬を積んで初めて、芸術家はラーガに「プラーナ」(生命の息吹)を吹き込む力を得ることができる。 これは、「シュルティス」(1オクターブ内の12半音以外の微分音、インド音楽は西洋音楽より小さな音程を使う。(1オクターブ内に22個)の使用など、師から伝授された秘密を用いることで達成される。

 

 また、インド音楽独自の特殊奏法も存在する。例えば、「ガマカ」(1つの音と他の音をつなぐ特殊なグリッサンド)、「アンドラン」(揺れ-ビブラートではない)などは西洋音楽には求めづらいものである。その結果、それぞれの音は生命を持って脈動し、ラーガは生き生きと白熱する。


 インド音楽を聴く上で最も不可欠なのはリズムの複雑さと豊富さにある。4ビート、8ビート、16ビートといった西洋音楽では一般的なものから、2つか3つのリズムを組み合わせた9ビートまで存在する。それは、ラーガの「ターラ」、「リズムのサイクル(インド独自の拍節法)」に明確に反映されている。これは最終的には円に描かれ、ラーガその経典のような意味を持つ。



 

 
 ターラには、3拍子から108拍子まで存在する。有名な拍節は、5,6,7,8,10,12,14,16拍子である。 また、9,11,13,15,17,19拍などのより細かなサイクルもあるが、これは稀に優れた音楽家によってのみ演奏される。ターラ内の分割と、最初の拍(和音と呼ばれる)の強調は、最も重要なリズム要素である。 同じ拍数のターラがある一方、分割とアクセントが同じでないので、それらは異なっている。 例えば、「Dhamar」と呼ばれる14拍を「5+5+4」で分割したターラがある。別のターラ「Ada Chautal」は同じ拍数ですが、「2+4+4+4」で分割されている。


 インド古典音楽は、ジャズの原始的なインプロバイぜーションの性質を有している。つまり基本的にはジャズとの相性が抜群なのかもしれない。シタールやタブラの演奏がトランペットやピアノ、そしてサックスのような楽器とよくマッチするのはこういった理由がある。演奏者は演奏する前に、セッティング、リサイタルにかけられる時間、その時の気分、聴衆の気持ちを考慮する必要があります。 インド音楽は宗教的なものであるため、音楽家の演奏のほとんどに精神的な質を見出すことができる。これらはライブのセッションなどでより明瞭な形で現れる。


 ラーガの演奏は、厳密に言えば、一つの音楽形式のようなものが存在すると、シャンカール師匠は説明している。伝統的なインドのラーガのリサイタルは、「アラップ・セクション」(選ばれたラーガの重厚で静謐な探求)から始まる。 このゆっくりとした、内省的で、心に響く、悲しいイントロダクションの後、音楽家は次の演奏のステップである「ジョール」に移る。 このパートではリズムが入り、複雑に発展していき、即興演奏の性質が色濃くなる。 すると、ラーガの基本テーマに無数のバリエーションがもたらされる。 アラップにもジョールにも太鼓の伴奏はありません。反面、サワル・ジャバブ(シタールとタブラの目もくらむような素早い掛け合い)は、スリリングな相互作用で、不慣れな聴き手をも魅了するパワーを持っている。
 
 
 ラヴィ・シャンカールに関しては、最初期にラーガ音楽の伝統を伝えるオリジナルアルバムを発表している。いずれも原始的なインド音楽の魅力、背後に流れるガンジス川のごとき悠久の歴史を感じさせる。原始的で粗野な側面もあるが、宮廷に献呈された音楽もあり、民衆的な響きから王族の優雅な響きにいたるまで、広汎な魅力を有しているのにお気づきになられるだろう。
 
 
 

「Dhun」- Ravi Shankar(ラヴィ・シャンカル)


ジャコ・パストリアスは型破りな演奏家として知られているが、一方、モダンジャズの先駆者で、ニュージャズやクロスオーバージャズへの橋渡しをした数奇な存在でもある。ベーシストとしては、ジャズ・ファンクからアフロキューバンジャズ、エスニックジャズ、アヴァンジャズ、R&B、それらを一緒くたにするフュージョンといった多彩な音楽性の中で、このジャンルの可能性を敷衍させる働きをなした。彼を一定のグループの中に収めることは難しいのではないか。

 

そもそも、たまたまジャズマンとして活躍しただけで、ロックミュージシャンと見なされた時期もあったのだし、彼の念頭にはこのジャンルだけが存在したとは到底考えづらいのである。ベーシストとしては、フレットレス・ベースの演奏、ミュート、ハーモニクスの奏法に関して、大きな革新性をもたらした。同時に、スラップ奏法の先駆的な技法も見受けられる。さらにアヴァンギャルドな演奏法の中でも、ミニマリズムの技法を駆使することがある。ロックミュージシャンはもちろん、エレクトロニックの界隈でも影響を受けた方は少なくないのではないか。

 

ジャコ・パストリアスは、1951年12月1日にフィラデルフィア州ノリスタウンに生まれた。父はドラマーで、彼のことを「ジャコ」と呼んで可愛がった。1958年、ジャコ一家は、フロリダのフォート・ローダーデイルに転居した。この街は、キューバ、ジャマイカからの移住者が多かった。このことが、後に、中南米の音楽をジャズの中に織り交ぜるための布石となった。ドラマーである父親の影響は大きかった。しかし、パストリアスは明確なレッスンを受けないまま、器楽奏者として多彩な才覚を発揮するようになった。子供の頃から、ドラム、サックス、ギター、ベースの演奏を難なくこなすようになった。だが、当初は父親と同じくドラマーを志していた。

 

彼は13歳の時、フットボールの競技中に右腕を負傷した。このことでドラマーになる夢を断念した。しかし、彼は簡単に音楽の道を諦めることが出来なかった。17歳のときには手術を受け、ようやく彼の腕はふつうに動くようになり、ベーシストとしての道を歩むことを決意する。 パストリアスは、すでにプロになるまえに結婚していたが、妻が身ごもったために、やむなく洗車場で働いたことが伝えられている。パストリアスは妻の出産前に、700ドルをためていたが、子供が生まれるおよそ一ヶ月前に、これらの費用をアンプ代につぎ込んでしまった。だが、その後、パストリアスは500ドルを貯め、それを妻の出産の費用に宛てたのである。

 

すでに娘が生まれた頃、どうやらベーシストになる決意は固まっていた。彼はレコードを聴いたり、本を読んだりするのを中断し、ベースの演奏や自作曲の制作に昼夜没頭するようになった。エレクトリック・ベーシストというのは、フュージョンジャズの文脈から登場したが、彼が伝統的なコントラバス奏者ではないにもかかわらず、ジャズシーンでも高い評価を受け、そしてジャコ・パストリアスという固有的なサウンドを生み出したのは、この時代の鍛錬によるところが大きいと伝えられている。独創性、技術、そして卓越性、どれをとっても一級品であるパストリアスの代名詞となるサウンドの多くは、彼が名もなきミュージシャンとして活動していた時代に培われたものであった。しかし、ジャコ・パストリアスのベースは、従来のウッドベースの奏法に依拠するところが大きい。彼がソロ活動やバンドを始める以前のウェザー・リポートのジョー・サヴィヌルは、初めてパストリアスの演奏を耳にしたとき、こう尋ねたという。「それで、君はエレクトリックベースを弾けるのかい?」よもやサヴィヌルは彼がそのサウンドがエレクトリックベースによって奏でられたものだとは思わなかったというのである。

 


優れた音楽家がいると、周りに秀逸なプレイヤーが自然に集まって来るということがある。例えば、ジャコ・パストリアスの場合、すでにマイアミ大学に在学中に伝説的なジャズ・ミュージシャンと知己を得ていた。まずはシカゴのギタリスト、ロス・トロウトにはじまり、その後はピアニストのポール・ブレイと仕事をした。また、同じ頃、パット・メセニーと知り合った。

 

ジャコ・パストリアスは、パット・メセニーの自宅で演奏したあと、ポール・ブレイと一緒にライブ・アルバム『ジャコ・パストリアスとの出会い(Jaco Pastorius / Pat Metheny / Bruce Ditmas / Paul Bley)』(1974)、『Broadway Blues』(1975)で共演したほか、また、後には、パット・メセニーのスタジオアルバム『Bright Size Life』(1976)にも共同制作者として名を連ねている。また、同年、ジョニ・ミッチェルのアルバム『Hejira』にも参加した。

 

伝説的な演奏家との共演の機会を経て、ジャコ・パストリアスの名声は高まりつつあり、フロリダ/フォート・ローダーデイルのナイトクラブ「Bachelors Ⅲ」に出演するようになった。レイ・チャールズ、ティナ・ターナー、アル・グリーンなど錚々たる顔ぶれが出演するなか、ジャコ・パストリアスは、ハウスバンドを率いていたアイラ・サリヴァンのコンボで演奏を務めたのである。

 

 


1975年の夏、彼に決定的なチャンスがやってきた。このクラブで当時大人気だったジャズ・ロック・グループ、BS&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)が出演したとき、ドラマーのボビー・コロンビーに才覚を認められ、彼の紹介もあって、パストリアスはデビュー・アルバムをエピックでレコーディングすることになった。その翌年、彼がニューヨークで録音をおこなっていた時、ウェザー・リポート(Weather Report)のジョー・サヴィヌルと再会した。

 

当時、サヴィヌルは、バンドのアルバム『ブラック・マーケット(Black Market)』を録音していた。ジャコ・パストリアスの顔を見るなり、「ちょうどよかった。フロリダサウンドが欲しかった!!」といい、さっさとパストリアスを引き連れ、バンドメンバーに迎え入れることになった。

 

1976年、ソロデビューアルバム「Jaco Pastorius(ジャコ・パストリアスの肖像)」がSony/Epicから発売された。大胆にもセルフタイトルを冠してである。アルバムは彼をレコード会社に紹介したコロンビーがプロデュースした。

 

従来から言われているように、ジャコ・パストリアスのベースの演奏は、オルタード・スケールを活用することが多い。しかし、スケール的にはスタンダードなものが基本になっている。しかし、このデビューアルバムの多彩さはなんだろうか。彼が影響を受けた音楽のほとんどを凝縮させたかのようでもある。デビュー作であるというのに、アンソロジーのような印象があり、末恐ろしいほどの才覚が11曲に詰め込まれている。

 

驚くべきことに、彼のデビューアルバムには、クラシック、ジャズ、現代音楽、ファンク、R&B、そしてラテン音楽を始めとするエスニックすべてがフルレングスにおさめられている。その中でも、ミュートやハーモニクスを生かした「Portrait Of Tracy」、民族音楽のリズムを取り入れ、それらをジャズとミニマリズムから解釈した「Okonkole y Tromba」等の独創性が際立っている。また、「Opus Pocus」ではカリブ海のスティールパンの演奏が取り入れられている。当時は「フュージョン」とも称されていたが、クロスオーバージャズの先駆的なアルバムでもある。今なおジャコ・パストリアスの演奏、そして作曲は鮮烈な印象をとどめている。



 

ジャコ・パストリアスはベースに演奏だけではなく、オリジナルの作曲にも夢中になった。つまり、エピックからワーナーに移籍した頃、「僕は自分のベーシストと同じくらいの比重で作曲家であると考えている」と語ったことがある。この自負は、誠実な思いでもあった。

 

それは時々、編曲という形に表れ出ることがあった。いつ彼がクラシックを聴いていたのか、もしくはスコアを研究していたのかは定かではないが、1981年に発表されたセカンドソロアルバム『World Of Mouth』では、「半音階幻想曲(Chromatic Fantasy)」という曲が登場し、これはバッハの半音階幻想曲とフーガ(BMV903)の編曲あるいはオマージュである。他にもビートルズの「Blackbird」をアレンジしている。

 

一般的には、彼の演奏や作曲の中には、ファンク、R&Bの系譜とスタンダードジャズが含まれているが、それと同時並行して、クラシックの影響をジャズの中に織り交ぜようと試みていた。彼はジャレットと同じように、カウンターと伝統という対極の性質を持ちながらも、ほとんど同根にある二つの音楽ーージャズとクラシックーーの並列が可能であるかを見定めていた。

 

この曲は、最初はクラシックふうに聞こえるが、後半にはオーケストラの民族音楽へと変化していく。レスピーギやラヴェルが探求していた、エスニックとクラシックの融合である。これはプログレッシヴ・ロックと並行するようにして1970年代のフュージョンの時代の音楽という実感を抱く。

 

 

 

それだけではない。ジャコ・パストリアスはまるで彼自身のルーツや音楽的な原点を再訪するかのように、もうひとつカリブ海の沿岸地域の音楽をジャズの中に率先的に導入していた。キューバのようなカリブの音楽といえば、まずはじめにブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブが思い浮かぶが、ジャコ・パストリアスの場合は、フリージャズのような刺激的なジャズの形式と融合させた。同じアルバムの「Crisis」のような楽曲に、その影響を発見することが可能である。

 

一時期、彼は、ショーバンドのメンバーとなったあと、観光船のバンドに入ったことがあった。そして、メキシコ、ジャマイカ、バハマ、ハイチなどを訪問し、多彩なラテン音楽を自分の音楽的な糧としていった。彼は、実際、これらの土地で現地のミュージシャンと親しくなり、ラテン音楽の手ほどきを受けた。「音楽的な仕事はしなかったけど、かなり勉強になった」というジャコ・パストリアスの言葉には、表面的なもの以上の奥深い意味が含まれている。未発表の作品やライブ盤を除いて、わずか二作のスタジオ・アルバムしか録音しなかったジャコ・パストリアス。以降の時代を生きていれば、もちろん、ECMの録音を遺しただろうし、ラテン音楽の世界的な普及にも努めたに違いない。少なくとも、そういった心残りを補うために、上記の二作のアルバムは存在する。いや、それ以上の価値があるのではないだろうか。

 

 

1.土門拳のフォトグラフィーの精神 

 

土門拳は、近代日本の最高峰の写真家である。現在は、彼の功績に因み、優れた報道写真を表彰する毎日新聞社主催の「土門拳賞」が設けられている。彼は、昭和時代にかけて、様々な写真を撮影した。土門の写真は単なる写真とは言いがたく、それ自体が芸術作品のような意味を持つ。大別すると、彼は三度作風を変更した。最初期はジャーナリズム、中期は肖像写真、そして、最晩年は仏像や寺を始めとする日本の美というように、年代ごとに主題を変更した。最初期は、浅草の風物、占領後の東京の風景、南京陥落時の東京、海軍の訓練風景、とりわけ、映画文化が隆盛を極めた浅草六区の写真等が有名である。名文家としても知られ、朝日カメラ、日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」にエッセイを寄稿した。また、日本工房に入社後、早稲田大学と東京女子高等師範学校の卒業アルバムの写真を名取洋之助とともに担当した。

 

カメラマンという職業がプロとして認知されていなかった当時の日本において、職業的な地位を引き上げた功績はあまりにも大きい。土門は、当初、カメラマンになりたての頃、ライカとローライを使用し、写真を撮影していた。また、カメラの構え方にも独特な名称が付与され、土門の「上段構え」は有名である。さらに、強面の風貌から「鬼の土門」とも称されることがあった。晩年は、車椅子暮らしになり、撮影の機会は減少したが、変わらぬ撮影意欲と表現精神を貫いた。

 

当初、ジャーナリスティックな写真を撮影していた。しかし、最も重要視すべきは、市民生活の風景をリアリズムの観点から撮影していたということである。彼の写真のアンソロジーはそのまま近代日本の歩みを意味するといっても過言ではない。現代の芸術家の大半が空想主義に逃避し、現実を反映させることを忌避しているが、少なくとも土門がシャッターを切ったとき、そこにリアリズムが生み出され、普遍的な写真が生み出された。それは彼の考えの中に、”現実をそのまま映す”というものがあったからである。土門拳は生前、”非演出の尊さ”について力説している。脚色をほどこすことは、現実を歪める行為であり、報道写真家として、それは現実を写していないということになる。そのことを土門拳は弁別していた。彼は偽りを嫌い、本当を愛した。

 

 

近藤勇と鞍馬天狗(江東区で撮影 昭和30年)


しかし、動乱の時代が、彼の作風を変化させたのは言うまでもない。当初は東京の下町の風景、一般的な通俗ーーそれは人間の魅力や友情、地域の絆という考えにまで敷衍することもあったーーを写真として切り取りながら、 プロカメラマンとしての腕を磨いていった。彼は、報道写真が社会的な影響力を強める中、取材をしながら写真を映すというジャーナリスティックな性質を強めていった。土門拳は、1934年頃から、朝日、日日(大阪)、読売、報知等、有力紙の取材写真を担当した。当時について、土門は、『写真文化』の昭和18年の3月号で振り返った。「昭和9年(1934年)から10年にわたって、各新聞では、毎週一回、「写真ニュース」、「日曜セクション」といった新聞的なニュース以外の題材を求め、各社とも企画を練って競争していた。・・・中略・・・、また、ライカをはじめとする小型カメラの普及は撮影上の革新をもたらした。今や日本の報道写真はようやく前期的な形で展開しつつあった」

 

第二次世界大戦前の日中戦争を通じて、アジア全体に勢力を強めつつあった日本の姿を政治的な視点から捉え、南京陥落、出征の様子をレンズで捉えた。その中では「婦人画報」の特集のため、当時の外務大臣を務めていた宇垣一成大将を撮影する機会にも恵まれた。1938年頃、すでに宣伝や権威付けのための写真ーー世の中は明らかに宣伝的なプロパガンダを必要としていたーーを撮影した。しかし、この象徴的な写真が横浜からアメリカへと輸出され、「LIFE」の9月5日号に掲載された時、盟友であった名取洋之助と完全に決裂することになった。

 

だが、こういった権威的な写真だけが土門拳の地位を高めたとは言いがたい。彼のリアリズムの考えとは民衆のそのままの生活をネガに収めるというものだった。特に、土門は地方に取材にでかけ、筑豊炭田の農民の暮らしを撮影した。これは民族的な記録という重要な資料となったのみならず、農村部の生活の魅力と悲惨さという対極的な二つのリアリズムを克明に表現したのであった。

 

日本経済新聞の昭和52年(1977年)12月号に掲載された名物コラム「私の履歴書」において、土門拳は次のように寄稿している。「筑豊の撮影は、はじめからぼくが考えていたわけではない。パトリア書店の編集者が来て、炭鉱の休業つづきで、数千数万もの炭鉱に働く労働者みんなが失業してしまった。本人はもとより、その家族も含めて、大変な生活苦になやんでいる。その悲惨さをぼくに撮れというのだ。その悲惨な状況を撮ることによって、社会に訴え、炭鉱の失業労働者を、少しでも助けることができないものか、というのだった」「それを聞いて、ぼくは奮起した。旅費を預かると、すぐさま用意して九州に飛んだ。九州の炭田地帯は福岡県に多かった。そして失業者の苦しみは、福岡全県に広がっていた。ぼくは、県の中央を流れる遠賈川一体の田園地帯で、失業者の充満している町々を、次から次へと撮ってまわった」

 

表向きには表れ出ない市井の人々の暮らしをカメラにひとつずつ丹念に収めていく。こういった土門の写真に対する精神は、「筑豊のこどもたち」 と題された写真集に明瞭に滲み出ている。


戦前の時代の写真については、文楽といった個人的な好みを題材にした作品や、子供や農民の暮らしにフォーカスした写真を多く撮影した。確かに、都市部とは異なる農村部の厳しい暮らしも撮影したが、他方、土門の写真に一般的な庶民に対する慈しみの眼差しが注がれているように思えてならない。彼の写真は静かなものから動きのあるものに至るまで、端的に主題が絞られており、脚色のないあるがままの一般市民の生活を捉えようという精神が見事に宿っていた。

 

 

 

2. 戦後の動乱の時代  戦後とヒロシマ リアリズムの確立


原爆ドーム
 

昭和20年(1945年)、8月15日の終戦後、土門拳はフリーカメラマンになった。数々の組織や団体が解体される中、彼は独立カメラマンとしての道を歩む。土門は、当時、自宅を構えていた築地の明石町の自宅で進駐軍を相手にDPE(宅配の写真プリント)を開始した。一般的なカメラマンとは異なり、彼は銀座などの繁華街を中心に、市民生活が立ち直っていく様子をスナップに収めた。戦時中、土門拳は、プロパガンダのための宣伝写真を撮影していたこともあってか、その反省をもとに、より現実的な写真を撮影し、リアリズム主義を標榜しながら力強い活動を続けた。カメラマンとしての評価は高まり、1946年頃から、雑誌の仕事が増えてきた。そんな中、カメラ雑誌「フォトアート」の審査員としても活動し、誌上でアマチュア写真家にリアリズム写真を志すことをすすめた。カメラブームも相まって、全国で土門ブームが発生した。

 

彼は強固なジャーナリスト精神を発揮した。しかし、従前とは異なり、現実主義の写真を撮影しつづけた。彼の写真は、社会問題を提起する力があり、同時に、感覚に訴えかけるものがある。この時代には、ヒロシマの原爆ドーム、被爆した家族を撮影し、筑豊炭田の農村にでかけ、取材写真を撮影するなど、「社会派の土門」という印象を確立した。特に、被爆した家族の写真は、痛切な現実を生々しく捉え、写真そのものから戦争の悲惨さを伝えるものであった。


山形美術館学芸館長のおかべのぶゆき氏は次のように綴っている。「土門はこの頃、写真家は、対象の典型的なものを捉えようとする。対象の典型的なものは、対象の内部にひそむ。それはより正確に言えば、対象を対象たらしめている人間的な意味である。それを写真家は頭で考えるのではなしに、目で見なければならない」

 

特に、土門がこの時代にヒロシマの写真を多く撮影している。週刊誌のグラビア取材のため、広島を訪れた土門は、 その現実に驚愕し、1957年の7月から11月にかけて、何度もこの地を訪れ、7800コマ以上の撮影を行った。撮影の経緯、取材状況、社会の不条理に対する土門の痛切な思いが「広島ノート」として写真集に収められている。また、このことに関して、大江健三郎は「新潮」(1960年2月号)で「土門拳のヒロシマ」という文章を寄稿している。土門は最初に「週刊新潮」の取材でヒロシマを訪れたときのことをこのように振り返っている。

 

「ぼくは、広島に行って、驚いた。これはいけないと狼狽した。 ぼくなどは”ヒロシマ”を忘れていた。というよりはじめから何も知ってはいなかったのだ。今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや、正確には、知らされなさすぎた」 


土門は現地の現状のリアルが報道されないことに対して、義憤のようなものを感じ、それをスナップに収めようとしたのだった。

 

原爆後遺症に苦しむ患者や家族の写真を収めた土門拳の写真集「ヒロシマ」は1958年に刊行された。土門のこの時代の写真は、単一のスクエアに映し出されたものではない。彼の写真は、記憶の代わりを果たし、この時代の痛切な現実を広く伝えようとしていたのである。また、彼が特にヒロシマに力を入れたのは、戦前の時代にプロパガンダ写真を撮影していたこともある。少なくとも、彼は自らの写真に関し、何らかの哀切な思いに駆られたのは想像に難くない。

 

 

 


3.肖像写真  文化人を記憶として残す

久我美子と小津安二郎

土門拳は、報道写真とならんで、文化人のポートレイトも多数撮影した。文学者、俳優、画家、芸術家、民俗学者に至るまで、信じがたいほど多くの文化人の撮影を行った。谷崎潤一郎、川端康成、志賀直哉、柳田國男といった文豪や研究者、梅原龍三郎、上村松園、岡本太郎、藤田嗣治といった著名な画家、九代目の市川海老蔵、中村梅玉、水谷八重子、森繁久彌といった歌舞伎役者や俳優、小津安二郎、三島由紀夫、久我美子といった映画監督やスターを撮影した。


土門は、日本の各業界の象徴的な人物を撮影し、一つの文化の潮流を捉えようとしたのであろうか。そして、推察するところでは、もしかする土門拳は有名人に憧れるような一面があったかもしれない。土門拳は平生から撮影したい人物の名を襖や墨紙に記しておき、それを室内に貼り付けていた。構想に十年を要したこれらのポートレイト集は、1953年に『風貌』として出版された。この写真集には、83点、総勢85名のそうそうたる文化人の写真が収録されている。

 

ところが、いかに土門拳とは言え、写真撮影に苦労したこともあった。 中でも、写真嫌いの梅原龍三郎の撮影には苦心し、撮影中に梅原の口がわなわなと震え始め、撮影が終わると、座っていた籐椅子を床に叩きつけた。これを期に、土門は、演出的な写真を撮影していたことを顧みるようになる。しかし、当時の肖像写真は相当な評価を獲得した。高村光太郎は土門の写真について次のように評した。「土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人物や物の底まであばく」  土門はその人物の典型的な表情が現れる瞬間を待って、シャッターを切った。しかし、『風貌』に見いだせる土門自身の文章には、一般的な考えよりも奥深い考えが宿っている。

 

「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。教養は声に出る。しかし、悲しいかな、声は写真のモチーフにはならない。撮影で瞬間の表情にこだわるのは馬鹿げている。人間は誰でも笑ったり、泣いたりする」

 

「撮らせよう撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが肖像写真である。 だから撮られる人は始めから余所行きである。しかし、撮られている人に、撮られているということを全然意識させない肖像写真こそ、今後最大の課題である。つまり、絶対非演出のスナップ写真こそ、今後の課題である」

 

彼は撮影に苦労するほど、良い写真が撮れるとも述べている。それは人物のあるがままをリアルに写せる可能性が高いからなのだろうか。「玄関払いを食らわせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。玄関払いを食らったら、写真家は勇躍すべきである」 また、実際的な良質なポートレイトを撮影するための秘訣についても説明している。「ライティングは強調と省略の手段である。ロー・アングルはモチーフを抽象する。ハイ・アングルはモチーフを説明する。ピントは瞳にーーーー、絞りは絞れるだけ絞り、シャッターは早く切れるだけ切る」


 


4.古寺、仏像、そして風景  室生寺の主題から見るリアリティ

室生寺


やがて、土門拳の写真にも、再び変革期が訪れた。彼は探したのは、ーー真実の中の真実ーーリアリズムの精華ーーである。


彼は心を落ち着かせる写真を撮影するようになった。戦前から土門は、文楽などの日本の伝統芸能に興味をいだき、それを撮影することもあったが、いよいよ、彼の写真は、仏像、古刹、日本の原初的な風景を映し出すうち、「古寺巡礼」で集大成を迎えた。戦後の報道写真には、心を揺さぶられるものが多く、眺めているだけで涙が浮かんでくるものもある。しかし、写真の大家は、おだやかで瞑想的な境地を目指した。扇動的なものを避けて、写真自体を崇高な芸術的な領域に引き上げ、そして、実の写真に相対した時、無我の境地に至らせるものである。ここに、土門の''究極のリアリズム''が誕生したと言える。彼は、写真の奥深い魅力、現実をどのように反映させるのか、というこれまでにはなかった視点を創り出すことに成功したのである。

 

写真というのは、そのときにしか撮影出来ないスナップショットというのがある。それは偶然の要素が強く、天候や時期、その日の状況によって大きく左右される。プロのカメラマンは、もちろん、技術的な撮影技術と合わせて、偶然の要素をうまく味方につけ、素晴らしい写真を撮影するものである。そしてまた、何度も足を現地に運ばなくては、撮影出来ないショットが存在する。特に、土門がライフワークに据えたのは、奈良にある室生寺の撮影であった。1939年に室生寺を訪れたあと、彼は幾度となくこの古刹に足を運んだ。1959年、土門は、脳出血の後遺症によって、35ミリカメラを扱えなくなってから、集大成「古寺巡礼」のアイディアを練り始めた。彼は小学館から平成3年に刊行された「日本の仏像」の中で次のように回想している。

 

「仏像とぼくの初めての出会いは、奈良の室生寺である。前夜、室生寺の向かいに宿をとったぼくは2階の手すりに腰をおろして、まだ見ぬ仏像に思いを馳せながら、寺の堂塔を睨んでいた。翌早朝、清流にかかる太鼓橋を渡り、室生寺に入った。室生寺は杉の大木に囲まれた伽藍も神秘的だったが、堂内の仏像に対峙したとき、ぼくはハッと目を開かれた思いがしたのを、今もって憶えている。ぼくの、そして日本人の遠い先祖にめぐりあったような気がしたのである」


「それから30年、写真集『古寺巡礼』第四集にいたるまでに、いったい何体の仏像を撮影したことだろう。こわい顔をしたのもある。微笑んでいるのやら、おつにすました仏像もある。ぼくにとって、仏像の顔を思いかえすのは、恋人の顔を思い浮かべるようなものである。『土門さんはずいぶんたくさんの恋人がいるんですね』といわれても、ぼくは甘んじて受け入れる。ぼくの撮ったすべての仏像が仏像巡礼中に出会った素敵な恋人たちである。なんとも幸福なことではないか」


仏像や焼き物、そして日本の風景など、土門が後年になって撮影した写真の多くは、その端的な写真芸術としての素晴らしさだけが美点ではない。彼の積み上げてきた技術や感覚が、彼自身の慈しみの眼差しを通じて写真に収められていることが分かる。それがゆえ、土門の映し出す法隆寺、唐招提寺の本尊の姿はたとえ、おそろしげな形相をしていたとしても慈しみのある面持ちをしている。それは彼自身の視点が慈しみをもっていたからであろう。後年、土門拳は車椅子生活を余儀なくされたが、写真の撮影をつづけた。「仏像も建築も自分の写される視点を持っていると思うのである」と、土門は『古寺巡礼』で胸中を綴っている。

 

「ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手をにらみつける。そして、ときには、語りかけながら被写体がぼくをにらみつけてくる視点を探る。そして、火花が散るというか、二つの視点がぶつかったときが、シャッターチャンスである。ーー中略ーー、強がりを言って居直っているが、たしかに車椅子からみるのは不自由なことである。足で歩き、瞬時の隙ものがさずに捉えていく。これがまっとうな撮影であるにはちがいない。しかしながら、半身不自由の身になったいま、もうそれはかなわないことである。ぼくは、自身の視点を信じ、被写体の視線をさぐって車椅子を前に押させる。さらに視点が低くなり、左足が体を支えきれなくなったとしても、ぼくの眼が相手の視点を捉えられる限り、ぼくは写真を撮るのである」


土門拳は、かねてから雪の室生寺を撮影したかったが、あいにく天候に恵まれなかった。それが2冊目の室生寺の写真集をカラーで出そうとしたとき、ついにその悲願が実現した。土門は病院で一ヶ月待機をしてから、雪の室生寺を撮影した。写真家にとっての冥利とは、すべて美しいものを撮り終えたという思いにあるのではないか。彼は、雪の室生寺を石段の下から撮影した後、二度と室生寺を訪れなかった。それは、これ以上美しい室生寺を撮影出来ないと考えたからなのか。実際的に後年の平等院鳳凰堂や法隆寺の写真と並び、土門拳の最高傑作とも言えるだろう。晩年の土門の写真は間違いなく、写真という枠組みを超越し、絵画の世界に近づいていた。


参考: 『土門拳の昭和』Creviisより刊行

 お正月の定番曲 宮城道雄 「春の海」 瀬戸内海の鞆の浦との関わり

瀬戸内海 鞆の浦 国立公園に指定されている

 

 「風物」という言葉を使おうとすると、少しだけ古風な印象を覚えざるをえない。というのも、結局、日本的な光景という不確かな感覚が、今やどこかに忘れさられつつあるからなのだろうか。そこでつくづく思うのは、現代の日本において「日本的」とされているものの多くが、人為的に作られた文化であり、それはまた上辺の景物と言わざるを得ない。日本的な情緒を感じることは、年々少なくなりつつある。もしかりに、そういったものが見つかるとすれば、例えば、一般的に旅行のガイドブックやパンフレットには掲載されることの少ない「人の手の入らない原初的な場所や地域」であろう。もちろん、日本文化とて、多くの大陸国家と同様に、完全に独自の島国のカルチャーとして存続してきたわけではない。たえず、大陸との交流により発展し、例えば、清や唐、南蛮との貿易によって、文化の混交として成立してきたのだから、結局のところ、クロスオーバーという考えによって文明が構築されてきた経緯があるのだ。

 

 

写真: 田村茂
 宮城道雄は、1930年に日本音楽の名曲「春の海」を作曲した。彼は「検校」という盲目の最高官職にあり、また数々の文化的な貢献を認められた文化人で、箏曲の作曲を専門とし、東京藝術大学の前身である東京音楽学校の教師も歴任した。

 

 おそらくは、宮城道雄もまた、岡本天心、横山大観といった日本の芸術のアカデミズムの先鋭的な気風を形作った派閥の系譜であると言っても良いのではないか。また、生花や能楽といった師範制度にある日本の伝統音楽の教育にも注力し、多くの弟子を育てた。宮城は、9歳の頃から盲目であったが、弟子の心を読む天才でもあった。弟子は、師匠が自分の考えていることをピタリと当てるのをおかしがったという。

 

 

 そもそも、宮城は、日本の音楽的な文化に多大な貢献をしたことは確かなのだが、月次な日本人ではあるまい。神戸の外国人居留地で生まれ育ち、海外の輸入文化に強い触発を受けた人物である。外国人居留地は、横浜や長崎といった港湾地域で発展した外国人のための居住地である。後に「異人館」と称される、神戸の居留地で育った宮城が様々な西洋の魅惑的な文化を真綿のように吸収したことは想像に難くない。彼はまた、最も日本的な音楽を作曲して後世に伝えたが、かなりの洋楽マニアであったことが知られている。ラヴェル、ドビュッシー、ミヨー、ストラヴィンスキーをこよなく愛し、まごうかたなき文明開化後の文化人としての道を歩もうとしていた。当時、こういった音楽を聴いていたというのは、先進的な人物像であったことが伺える。彼の音楽的な表現方法が自然味に溢れていながらも、モーツァルトのように研ぎ澄まされ、洗練されている(無駄な音を徹底して削ぎ落とす)のは、こういった理由なのである。

 

「春の海」は、個人的な作曲とは言いがたい。語弊があるかもしれないが、公曲の一部として献呈された。1930年の宮中の歌会始の儀(宮中で天皇や皇后に捧げられるのが伝統となっている)の勅題「海辺巌」のために作曲された。 それゆえ、宮城は、この音楽が厳正な日本音楽の伝統に則っていないとしても、格式高い邦楽を制作しようとしたのは疑いない。そして、歌会始めの課題曲として提出されたということから、和歌を念頭に置いたのも事実であろう。与謝蕪村の「春の海」の一節「春の海 ひねもすのたり、のたりかな」というユニークな興趣が専門的な研究者によって比較対象に挙げられるのにも相応の理由がある。とりもなおさず、宮城の「春の海」もまた、ゆったりとして、のどかで、おだやかな、日本の海を思わせるからである。

 

 

 



 

 春の海を作曲するにあたって、宮城道雄は祖父の故郷で墓地がある福山の「鞆の浦(とものうら)」を題材に選んだ。 おそらく、失明する以前に彼は祖父の故郷を訪れ、その景観の美しさに心をほだされたのではないか。この曲において、日本的な情緒を表現するに際して、幼少期に見たであろう鞆の浦の穏やかさと活気という、彼の心の深くに刻まれた瀬戸内海の二つの麗らかな心象風景を音楽で表現しようとした。発表当時、音楽評論家から「伝統的な日本の音楽の形式に則っていない」と批評されたのは、この曲が基本的にはソナタ形式の三部構成から成立しており、バッハやヴィヴァルディ以前の西洋音楽のポリフォニーに触発されているからである。

 

 しかし、例えば、雅楽の例を見ても、厳密な和声進行というホモフォニックの構成が登場しないように、「春の海」の作曲を手掛けた時、宮城はおそらく、対旋律の構造にこそ日本音楽の源流が求められ、なおかつ、日本音楽独自の核心が存在すると見ていたのではないか。彼は西洋のソナタ形式に則って、日本的な文学のイディオムを登場させ、「緩ー急ー緩」という三部構成に組み直した。そして、バッハ以前のバロック音楽の対旋律法を踏まえ、それらを日本音楽の伝統様式の陰旋法に置き換えた。特筆すべきは、春の海にはフーガ的な技法の影響もわずかに見いだせる。そして、彼が幼少期に過ごした神戸の外国人居留地という風変わりな環境や物心つく頃に体験した「日本と西洋の文化の混交」という視点、そして、「西洋から見た日本的な文化(その反対も)」という視点にも、この人物にしかなしえない独自の音楽性を発見出来る。


 昨日、楽譜を見てみたところ、この曲は、尺八と箏という日本の伝統的な楽器が、二つの潮流を形作るように交互に配置されていることがわかった。そして彼は、この器楽曲が宮中の歌会にそぐうように、曲の中に和歌に準じた文学的な表現を込め、大和人の詩情を織り交ぜることも忘れなかった。三部構成の一部では、先述したように、ゆったりとして、のどかで、おだやかな内海の情景が描かれたと思えば、第二部へと移行し、船の櫂をこぐ様子や海鳥が空を優雅に舞うという一部の対比的な楽章へと移ろい、活気に充ちた動的な印象を持つ海際の風景が描かれる。日本の古典文学の副次的な主題にも登場する「益荒男」の表現性を見出すこともできるだろう。そして、最後には、再び導入部にあるおだやかな海の風景に帰っていくという一連の構成である。これは長大な海の流れが一つの海流を経て、元の流れに戻る様子を織り交ぜたかのようだ。確かに対比性という西洋的な美の観念が取り入れられているにせよ、その枠組の中で宮城は苦心し、日本的な情景や風物の美しさを音楽によって描写しようと試みたのだった。

 

 当初、「春の海」は日比谷で初演され、NHK広島のラジオで初放送されたが、大きな反響を呼んだとは言いがたかった。しかし、フランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーが編曲すると、一躍、日本国内でも人気曲となった。シュメーは宮城に会い、彼もその熱意に押されるようにして編曲の旨を了解し、琴とバイオリンで共演するに至り、「春の海」がアメリカやフランスでレコードとして発売されるための重要な契機を作った。ルネ・シュメーは、BBC Promsへの出演記録が残っているが、フランスに帰国してから著名な演奏家として認知されたとは言いがたい。しかしながら、ヴァイオリンを中心として西洋風な編曲を施したこの曲の編曲バージョンは、以降のお正月の定番曲として知られるための文化的な素地を形成したのである。 

 

 瀬戸内海の鞆の浦は、日本で最初に国立公園として制定され、景勝地として名高い。風景の美しさには往古から定評がある。江戸時代から北前船の寄港地として栄え、以降、朝鮮通信使が徳川幕府への慶賀のため度々寄港した。福禅寺は古くから迎賓の場として使用され、本堂隣りにある対潮楼は名所として知られている。1690年に客殿として建立し、座敷からは内海の絶景が広がる。朝鮮通信使として当地に招かれた李邦彦は、その眺望を見るにつけ、「日東第一景勝(日本で最も美しい風景)」と評したほど。宮城道雄は、「春の海」を作曲するにあたって、この海岸の風景を思い浮かべだのたろうか。それは映像的な景物としては彼の目から失われたけれど、その美しさ、そして日本的な感覚は、その後も彼の心のどこかに残り続けたのである。

 


J-POP TRENDS:  12月の邦楽の注目作をピックアップ


 

レーベルからご提供いただいた情報をもとに、その月の邦楽の注目作をピックアップするコーナーです。今年も最後となりました。12月は、ジャパニーズ・ハイパーポップ界の新星、Minakekkeの新作のほか、JJJの痛快なヒップホップ、その他、トクマル・シューゴの入手困難であった楽曲を集めたアルバム『Other Tracks』もリリースされました。下記より注目作をご覧下さい!!

 

 

 

 Minakekke 「Backwards」- New Single 



 

ユイ・ミナコによるソロ・プロジェクト、Minakekke(ミーナケッケと読む)。アシッド・フォーク、 ゴシック、アシッド・フォーク、ドリーム・ポップ、クラウト・ロック、シューゲイザー、トリップ・ホップ等、マニアックで多角的な音楽性を吸収しながらも、聴きやすいポップセンスを発揮します。ニューシングル「Backwards」は”IDEAL MUSIC”から12月18日に発売されました。

 

新旧の音楽的なイディオムを織り交ぜながらJ-POPの新機軸を探る。80年代のディスコサウンドを基にしたダンサンブルな音楽性の奥底から、マイナースケールを強調する特異なメロディーセンスが浮かび上がってくる。これは平成時代の邦楽をなんとなく彷彿とさせるものがある。ミュージックビデオは明らかにハイパーポップ勢を意識しているが、ご覧の通り、楽曲としては邦楽に軸足を置いています。ガチャ・ポップの次世代を担うアーティストとしてご注目。

 

 

 

配信リンク:https://ssm.lnk.to/Backwards

 

 

Tendre 「Happy End」- New Single

 



河原太郎はTendreの名を冠して活動し、ベース、鍵盤、ギター、そしてサックスも演奏するマルチプレイヤー。2017年12⽉にTENDRE名義での6曲⼊りデビューEP『Red Focus』をリリース。同作はタワーレコード“タワレコメン”、HMV“エイチオシ”、iTunes “NEW ARTIST”、スペースシャワーTVミドルローテーション“it”に選ばれるなど、各⽅⾯より⾼い評価を獲得。J-Waveへの出演でお馴染みのアーティスト。



2019年4⽉・5⽉と連続して配信シングル『SIGN』『CHOICE』をリリース。前者はオーストリアのスポーツサンダル・ブランド”Teva”とコラボレーションしたMVも話題を集め、その楽曲はJ-WAVE "TOKIO HOT100"で最⾼位4位を記録した。 また、Hondaが⼿がける旅とバイクの新プロジェクト「Honda GO」のテーマソングとして新曲『ANYWAY』が起⽤されました。 

 

Tendreは、ヒップホップ/ラップアーティストとして紹介されることも多いですが、彼の音楽的な感性にはソウルからの影響もちらつく。「Happy End」はまさしくベースプレイヤーとしての才能を凝縮させたチルアウト寄りの楽曲です。しかし、何より特筆すべきは、、生演奏を中心とした実力派のトラック制作と劇的にマッチする河原太郎のメロウなボーカルの魅力でしょう。


配信リンク: https://ssm.lnk.to/HAPPYEND

 

 

 

 

SONPUB, Jinmenusagi, SEEDA「Smells Like Twenteen Spirit feat. D3adStock (REMIX)」

 


 

SONPUBのソロデビューアルバム&レーベル設立20周年としてリリース。初期衝動時に影響を受けた有名曲を連想させるタイトルに「20年」「20代の魂」の意味も込め、変わらぬ情熱と野心を表現した作品「Smells Like Twenteen Spirit」を8月にリリースしました。

 

今回はそのリミックスバージョンとなり、Sexy drillやJersey clubを取り入れた軽快なビートに一新。客演にはジメサギとSEEDAに加え、オリジナルバージョンでCo-writerとして参加しており「ラップスタア2024」の4位に輝いた期待の新星”D3adStock(デッドストック)”がイントロバースで参加しています。

 

2000年生まれのD3adStockはSONPUBとSEEDAの丁度20歳差という嬉しい偶然も楽曲に深みを与えてくれる。20代、30代、40代のTwenteen Spiritを持つプレーヤー達が世代や文化の垣根を超えて繋がり繋げていくことを表現した作品です。 



配信リンク: https://ssm.lnk.to/SLTS

 

 

 

 

 

JJJ 「Nov」- New Single 

 

2024年7月に大阪、東京、高松、札幌をまわる初のワンマンツアー『July Tour』を開催。11月にはその続編として福岡、台北、仙台、東京で『Nov Tour』を行ったJJJ。2024年のツアーでは、コントラバス奏者の岩見継吾、尺八奏者の瀧北榮山、箏奏者の岡村秀太郎を起用したパフォーマンスを披露するなど、表現の幅を拡げながら勢力的なライブ活動を行なってきました。


本楽曲“Nov”はツアー最終日の11月30日(土)、東京・日比谷公園大音楽堂公演にて、JJJのライブ終了後に流れた新曲。仲間たちと共に過ごした濃密な2024年を総括した1曲となっています。 ビートは、SCRATCH NICEが手がけており、ミックスはJJJ、マスタリングはColin Leonard(SING Mastering)が担当。カバーはフォトグラファーのDaiki Miuraによるもの。

 

「Nov」はオールドスクールをベースにしたチョップ、そしてメロウなメロディーセンスが光る。



配信リンク: https://ssm.lnk.to/Nov

 

 

 

 

トクマルシューゴ 『Other Tracks』 (New Album Inc. Rare Tracks)


今年7月17日に約8年ぶりの新作アルバム『Song Symbiosis』をリリースし、12月20日には東京・日本橋三井ホールにて20周年記念スペシャル公演を成功させたトクマルシューゴ。


クリスマスイブの本日に急遽配信された本作『Other  Tracks』には、ライブでの限定販売や特典となっていた音源を中心に、これまで入手困難となっていた楽曲が収録されている。アルバム未収録のレアトラックが、トクマルシューゴからのクリスマスプレゼントとして届けられた。現在、 公式サイトのTonofonでは20周年記念ZINE「Mayakashi」が発売中。ライブ会場でも販売中です。

 

民族音楽をベースにしたフォーク/ポップのアルバムで、トクマルさんらしいアルバム。ローファイなミックス/マスターが最新作よりも際立つ。「Open A Bottle」がものすごく懐かしく聞こえる。

 

 


配信リンク: https://linkco.re/Dr8xYx0H?lang=ja




小瀬村晶  「Stellar」 -EP



ポストクラシカルシーンのリーダー、Scholeを主宰する小瀬村晶によるどこまでも純粋で澄明なピアノ作品「Stellar」は、Universal Music/Deccaから12月13日に発売されました。


写真家・岩倉しおり氏が撮影した息を呑むようなジャケットは、冬の夜から夜明けにかけた静寂のひとときを穏やかに美しく描き出しています。


本作は、異なる時期にレコーディングされた4曲を、ひとつのストーリーとして解釈した作品。小瀬村は「(Stellar)をレコーディングした時、空を回る星々の絵を思い浮かべました」 と振り返っています。


物語は荒野に佇む一軒の家(Wilderness House)、夜の静寂の中で聴こえる歌「Humming In The Night」、EPのエピローグとなる「日の出(Daylight)」へと進んでいく。簡潔でありながら、聴きごたえ十分です。小瀬村ファンはマストの一作となりそうです。
 
 
 
 「Stellar」
 






土岐麻子 『Lonely Ghost』 - New Album
 


土岐麻子が約3年ぶりとなるオリジナルアルバム「Lonely Ghost」(ロンリー・ゴースト)を12月18日(水)にリリース。CDバージョンの他、アナログ盤も2025年1月に発売予定です。


『Lonely Ghost』はピアノの演奏をベースにした静かで落ち着いたポピュラーアルバムとなっています。アルバムのサウンドプロデュースにはシンガーソングタイター”トオミヨウ”氏を迎え、全曲を共に制作した。


はかりしれない他人の気持ち、自分の心の中の不可解な感情、同じ空間をそれぞれ違った景色のなかで生きる人々……、それらを“ミステリー”と捉え、1枚のアルバムで表現。人間の奇妙な心と、それぞれの特別な人生について愛をもって描いた作品となりました。


2025年2月には20周年イヤーを締めくくる、バンド編成によるスペシャルツアー「Lonely Ghost TOUR / 20th〜21st ANNIVERSARY」が3都市(東京、名古屋、大阪)にて開催されます。

 






 


ブルックリンのシンガーソングライターのMei Semones(芽衣・シモネス)が最新EP、『Kabutomushi』、『Tukino』のLPヴァージョンのリリースを発表した。(海外盤の予約はこちら

 

さらに2025年のツアー・スケジュールも発表された。Hippo Campusのサポートとして1月28日から2月24日までツアーが開催される。ライブ日程については下記よりご覧ください。

 

さらに、今年11月、アーティストは来日公演を行ったほか、先月、シカゴのラジオ局”Audio Tree”のライブにも出演しています。バンドセッションで行われたライブ映像も合わせてご覧ください。(アーティストのQ&Aはこちら)

 

 

■ 2025 TOUR DATES

01/28 - Nashville, TN - Ryman Auditorium *
01/29 - Atlanta, GA - The Eastern *
02/05 - Asbury Park, NJ - The Stone Pony *
02/08 - Albany, NY - Empire Live *
02/09 - Toronto, ON - History *
02/11 - Detroit, MI - The Fillmore *
02/12 - Milwaukee, WI - Riverside Theater *
02/14 - St. Louis, MO - The Factory *
02/15 - La Vista, NE - The Astro Theater *
02/16 - Denver, CO - Mission Ballroom *
02/18 - San Diego, CA - The Sound *
02/20 - Los Angeles, CA - The Wiltern *
02/21 - Santa Ana, CA - The Observatory *
02/22 - Oakland, CA - Fox Theater *
02/24 - Salt Lake City, UT - The Union *



*supporting Hippo Campus

 

 

 

 Audio Tree Live

 

バーバンクにあるワーナー・ブラザーズのスタジオ


 Burbank Sound(バーバンク・サウンド)は、1970年代のロサンゼルスの象徴的なサウンドで、その多くがサンセット通りにあるレコーディング・スタジオから生み出された。西海岸の特有のロック、ウェスト・コーストサウンドとも重複する部分があり、長らくこのサウンドの正体を掴みかねていました。思い出の中にあるロックといえば語弊になりますが、それに近い印象もあったのです。

 

 該当するバンドといえば、ドゥービー・ブラザーズ、ライ・クーダー、ヴァン・モリソン、キャプテン・ビーフハートなどが思い浮かびます。どうやら、バーバンク・サウンドには表立った特徴がなく、ハリウッドの北の郊外にあるバーバンクという土地から生み出されたという理由で、このジャンル名がつけられたという。そして、フィル・スペクター・サウンドモータウン・サウンドには明らかな音楽的な特徴があるけれども、それとは反対にバーバンク・サウンドには明確な特徴がない。それだけではありません。バーバンク・サウンドが面白いのは、アーティスト主導によって推進され、考え方によっては音楽的な共同体のような意味が求められるというのです。

 

 日本の音楽評論家の重鎮であり、”はっぴいえんど”のファースト・アルバムを手掛けた小倉エージさんは、このサウンドについてドゥービー・ブラザーズのLPのライナーノーツでこう説明しています。「ロサンゼルスとはいっても、それはまったく東京のようでもあり、さらにそれを音楽と結びつけ、例えば、デトロイト、フィラデルフィア・サウンドというように表現しようとすると、これがまた複雑怪奇で、様々に入り乱れていて、なんと説明してよいか困り果ててしまう」

 

「ところで、ロサンゼルスには、無数のレコーディングスタジオが立ち並び、例えば、テレビのメロドラマのサウンドトラックのレコーディングから、明日を夢見るロックグループがなけなしの金をはたいて、わずかな時間を借り、レコーディングに励んでいたり、また、ずっとスタジオを借り切って新しい音の創造に熱を燃やす有名ロックグループ、というように様々なレコーディングが行われていた」

 

「もっとも、バーバンクでレコーディングされる音は、その姿勢などからいくつか分けることが出来ます。そのひとつが敏腕プロデューサーをチーフとし、有名スタジオ・ミュージシャンをバックに、プロデューサー本位の音楽を追求し、独特のサウンドを創造していくスタイル、かつてルー・アドラーが持っていた「ダンヒル」等、ポップマーケットを意識した音作りをしているものが挙げられます」

 

「それとは対象的に、バーバンク・サウンドは、あくまでアーティスト本位の音楽性を追求していくスタイルで、例えば、多くのロックグループがそれに当てはまり、ロックミュージシャン同士の交流も盛んだったので、互いのレコーディングに顔を出していることも多かった。 『スワンプ・ロック』という名前で紹介されたデラニー&ボニーやレオン・ラッセルなどが挙げられる。そして、これまでに伸びてきた二つのスタイルを重ね合わせ、アーティスト本位の音楽性を重視した上で、スタジオ・ミュージシャンなどを使い、商業性にこだわらない独自のサウンドを作り上げているプロデュースチームもあった。その代表格が、ハリウッドの北にあるバーバンク・サウンドのグループだった」

 

「バーバンク・サウンドという言葉を知らしめるきっかけとなったハーパーズ・ビザールの一連のヒット曲や、彼らが作り出した4枚のアルバム、ボー・ブランメルズ、アーロ・ガスリー、ランディ・ニューマン、ヴァン・ダイク・パークス等のアルバムを聴いていると、共通したなにか、それこそバーバンク・サウンドの特徴ともいえるものを発見することが出来る。セピア色に色づいた1920年代から40年代のアメリカ、それもハリウッドの黄金時代を思わせる都会的なものから、映画『怒りのぶどう』をほうふつとさせるものなのです。そこにはブルースがあり、カントリー&ウェスタンがあり、フォーク・ミュージックがあり、ジャズがあり、それにくわえて、ヴァン・ダイク・パークスやドゥービーのようにカリブ海からも音楽性を吸収している」

 

 

 こういった特徴を持つバーバンク・サウンドでありますが、この一連のグループが有名になっていったのには以下のような経緯がある。そして、商業性を度外視した音楽性から、一般的に有名になるのには少し時間がかかった。海外ではなおさらで、日本でこの言葉が普及するのには経過が必要だった。言ってみれば、じわりじわりとバーバンクの言葉が浸透していったのです。

 

 「ヴァン・ダイク・パークス、そして、ランディ・ニューマンなどはまったくと言っていいほど、商業性を無視していたから、それらの成果により名前だけは知られていても、アルバムの売上は十分と言えるものではなかった。そのため、日本でもほとんど紹介されぬまま終わっていたものも少なくなかった。 ところが、アーロ・ガスリーの「Coming To Los Angels」(1969年)がアンダーグラウンドでヒットしたのをきっかけに注目が集まるようになった。アーロ自身がウッドストック・フェスティバルで成功をおさめたことや、コメディ映画『Alice's Restaurant(アリスのレストラン)』(1969年)の成功も大いに手伝った。そして、1972年の夏、アーロ・ガスリーは「The City Of New Orleans」を大ヒットさせ、地位を決定づけた」

 

「それに刺激されてか、レニー・ワロンカーのアシスタント的な存在だったテッド・テンプルマンが、ポピュラー的な感覚を持つロック・グループを育てることに力を入れ始めた。その第一弾としてデビューしたのが、ドゥービー・ブラザーズだった。第二作『Toulouse Street』、その中のシングル「Listen To Music」が大ヒットし、成功を収めた。テッド・テンプルマンは、ヴァン・モリソンの制作を手伝うなど、音楽業界では、ワロンカー以上の注目を集めるようになりました。さらに、ドゥービー・ブラザーズに続いて、ヴァン・ダイク・パークス、リチャード・ペリーに才能を買われ、ニルソンやカーリー・サイモンのセッションにも参加したローウェル・ジョージを中心とするリトル・フィートが出てきた」とき、バーバンク・サウンドは決定的となった。

 

 

 バーバンク・サウンドはアーティスト主体によるサウンドで、フィル・スペクター・サウンドのように、限定的なサウンドではないことは先述した通りです。しかし、このバーバンク・サウンドは才能豊かなエンジニア、アレンジャー、プロデューサー、作曲家、そしてミュージシャンが支えてきた。これらは当時、ハリウッドのサイドストーリーともいえるバーバンクのスタジオで働く人々だった。その中には驚くべきロックミュージシャンの名前を見出すことが出来ます。

 

・レニー・ワロンカー(ワーナーーのチーフプロデューサー)

・テッド・テンプルマン(ワロンカーのアシスタントだったが、著名なプロデューサーになる)

・アンディ・ウィッカム(プロデューサー)

・ジョン・ケイル(音楽家、プロデューサー)

・ラス・タイトルマン(音楽家、プロデューサー)

・ヴァン・ダイク・パークス(音楽家、プロデューサー)

・ランディー・ニューマン

・リー・ハッシュバーグ(エンジニア)

 ・ドン・ランディー (エンジニア)


 というように、多数の才能豊富なミュージシャン、エンジニアがバーバンクのスタジオには在籍していたことが分かる。そして彼らが生み出したバーバンクの主要なグループは次の通りです。

 

 

 ■レニー・ワロンカーのプロデュース

 

 ・ライ・クーダー

・ハーパーズ・ビザール

 ・エヴァリー・ブラザーズ

・ランディ・ニューマン

・ボー・ブランメルズ

・ヴァン・ダイク・パークス

・ゴードン・ライトフット

 

■テッド・テンプルマンのプロデュース

 

 ・ドゥービー・ブラザーズ

・リトル・フィート

・キャプテン・ビーフハート

・ロレイン・エリソン


 

 ■伝説的なプロデューサー、レニー・ワロンカーが生み出したサウンド

 

 

 当時、ワロンカー氏は31歳になったばかりの若手プロデューサーだった。24歳のときに、ワーナーで勤務し始め、リバティ・レコードのプロモーション、そしてパブリッシングを担当していました。

 

 その経歴は彼の部下テンプルマンをして「今までに書かれたすべての曲を知っている男」と呼ばれていた。音楽的な知識が非常に豊富であったことがこのエピソードからうかがえる。ワロンカーがワーナーにきたとき、新しいマスターテープを聴き、アドヴァイスをし、そしてときにはレポートを書いたりして過ごし、1967年の始めまで プロデューサーをすることはなかった。


 ワーナー・ブラザーズは、1970年代頃、ボー・ブランメルズ、モージョー・メン、そしてハーパーズ・ビザールを所属させていたAutumn Recordsというサンフランシスコのレーベルを傘下に置いていた。レニー・ワロンカーは、このレーベルに向かい、Harpers Bizarre(ハーパーズ・ビザール)のデビュー・レコード、そしてMojo Men(モージョー・メン)のヒット作「Sit Down,I Think I Love You」を制作した。

 

 レニーは、レオン・ラッセルをハーパーズのアレンジャー、そしてモージョー・メンにはヴァン・ダイク・パークスをミュージシャン/アレンジャーに採用した。これがバーバンク・サウンドの始まりでした。

 

 

 ■レニー・ワロンカーのプロデュースの方針

 

レニー・ワロンカーが打ち出したプロデュースの方針は以下の通りでした。

 

1.プロデュースは''音楽の愛情''から行われるものである。

 

2.重要なことは、タレント(才能)を見つけ、 助けるということである。

 

3.「私は、私の知らない事を埋め合わせ、私のアイディアを理解出来る人々と働けるように務めている」

 

4.アーティスト自身にもプロデュースすることを勧める。 才能ある人の熱狂がどこかで必要だ。

 

5.すべては曲に始まる。曲の良さから来るアイディアが、時と場所、そしてアレンジャー、楽器の設定を可能にする。 


6.音楽はフィーリングである。

 

 

■ワーナー・ブラザーズの音楽的な方針 モー・オースティン氏の場合

 

 一方、これらのバーバンク・サウンドの自由性、あるいは寛容的な方針を推進したのが、親会社のワーナー・ブラザーズでした。当時、社長の座にあったのは、モー・オースティン氏だった。彼が打ち出した戦略、そして方針は、明らかにメジャーレコード会社らしからぬものでした。

 

1.何よりもまず、創造の自由を保証したい。 A&Rの働ける必要条件は、アーティストが創るものに一切の口出しをしない、ということである。放任主義あるのみ。そして、時間と費用も制約しない。


 

■ もう一人の立役者 テッド・テンプルマン

 

 テッド・テンプルマンといえば、後にヴァン・へーレンのプロデュースを手掛け、一躍ミュージック・シーンの重鎮になった人物である。彼の音楽の仕事の始まりは、他でもない、バーバンクでの仕事であった。彼は、レニー・ワロンカーが発掘した最も優秀な人材の一人であると称される。当初、ハーパーズ・ビザールの中心人物で、リード・ボーカル、ドラム、トランペット、ギター、作曲を担当していたマルチな才能の持ち主で、レニーとの初対面のときから、深い理解と友情へと結びついたという。そして、彼らの最初の科学反応の結果は、ハーパーズ・ビザールの大ヒット、そして「Feeling Groovy」に繋がりました。テッドは、のちにグループを離れ、ワーナーの専属プロデューサーの迎え入れられた。1970年9月のことでした。

 

 テンプルマンの最初の仕事はドゥービー・ブラザーズのデビューレコードの制作、そしてヴァン・モリソンの「Tupelo Honey」(1971年)、リトル・フィートの「Sailin' Shoes」(1973年)でした。その後、順調にキャリアを進め、『Toulous Street』、ヴァン・モリソンの『St.Dominic's Preview』(1972年)を制作した。以後、1972年4月に彼は役員プロデューサーに昇進しています。

 

 後に、プラチナやゴールド・ディスクを生み出すための布石は、すでに1970年代から盤石でした。彼の創り出すサウンドには、当時から惜しみない賞賛が送られています。


 リトル・フィートのリーダー、ローウェル・ジョージによる「彼は、アーティストがやりたいことをさせてくれる、アーティスト好みのプロデューサーだ」、キャプテン・ビーフハートによる「新作を彼とやったんだけど、今までのアルバムすべてを彼とやればよかった」、レニー・ワロンカーによる「彼は私の知っているベスト・プロデューサー。音楽的な基礎、技術的な基礎、そして、最高のプロデューサーの条件、自分のエゴで他人を妨げることのない才能を持っている」といった称賛の言葉はほんの一例に過ぎません。バーバンク・サウンドの自由な気風や創造における自由の保障という、当時のワーナーが掲げていた目標に沿ったものであることが実感出来ます。



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Wiener Philharmoniker Photo: Dieter Nagl

 

ウィーンフィルハーモニー管弦楽団のニューイヤー・コンサート2025が元旦に開催されます。2025年の公演は、ウィーンフィルが「最もウィーン的」と紹介するシュトラウスのプログラムを中心に1月1日に演奏されます。デジタル配信が1月8日に全世界で開始されます。コンサートの映像は世界90ヵ国で放映され、NHKでも1月1日の午後7:00から放映予定です。

 

2025年のウィーンフィル・ニューイヤー・コンサートは、リッカルド・ムーティを指揮者に迎えて、ストラウス一世、二世を中心とするプログラムが組まれており、意外な曲目が含まれている。コンスタンツェ・ガイガーという一般的に知られていない女性作曲家を対外的に紹介します。1939年初演という由緒ある伝統を持つウィーンフィル・ニューイヤーコンサートはこれまで、カラヤン、アーノンクール、小沢征爾らを指揮者に迎え、新年の到来を祝う素晴らしいコンサートを開催してきた。放映を前に来年度の注目しておきたいポイントを以下にご紹介します。

 

 

世界的な指揮者 リッカルド・ムーティ

Riccard Muti


イタリアのナポリ出身のリッカルド・ムーティは世界最高峰の指揮者。2010年に第10代シカゴ交響楽団(CSO)音楽監督に就任しました。指揮者としての全盛期には、フィレンツェ五月音楽祭(1968-1980)、ロンドンのフィルハーモニア管弦楽団(1972-1982)、フィラデルフィア管弦楽団(1980-1992)、ミラノ・スカラ座(1986-2005)において、輝かしい実績が築かれました。


リッカルド・ムーティはザルツブルグ音楽祭の芸術監督を務めていたカラヤンの招聘により、1971年に同音楽祭でデビューしている。それ以来、ウィーンフィルとの友好的な関係を築き、現在に至るまで同音楽祭に欠かせない重要な指揮者となった。

 

同音楽祭で演奏するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団とは、深い信頼関係を築いており、数々の記念すべき名演奏を残している。若い音楽家の育成にも情熱を注いでいる。2004年にはケルビーニ・ユース・オーケストラを設立。2015年には若手指揮者にイタリア・オペラの正統を伝えるため「リッカルド・ムーティ・オペラ・アカデミー」を主宰。2011年に70歳の誕生日を迎えるに際し、 ウィーン・フィルの名誉団員の称号を授与。これまでに、イタリア共和国カヴァリエーレ・ディ・グラン・クローチェ、フランスのレジオンドヌール勲章ほか、数多くの国際的な栄誉を受け、2018年には第30回「高松宮殿下記念世界文化賞」を受賞しています。

 


ウィーン・フィル ニューイヤー・コンサートの長きにわたる歴史


 Herbert Von Krajan (1987)

ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のニューイヤーコンサートは今や世界中で知られており、本楽団によるシュトラウスの楽曲の演奏は「ワルツ王」の時代、つまりウィーン・フィルの歴史の始まりまで遡るという印象を与えているかもしれませんが、史実は異なるという。実際、楽団員は長いこと、当時作曲された最も「ウィーン的」なシュトラウスの音楽を取り上げてきませんでした。それはシュトラウスの音楽が娯楽的であるという理由によるんだそうです。彼らは、「娯楽音楽」と関係することで、「フィルハーモニー・コンサート」により向上した社会的地位が脅かされると考えたようです。シュトラウス一家に対する、この姿勢は徐々にしか変わりませんでした。


この姿勢を変えた決定的なことは、フランツ・リスト、リヒャルト・ワーグナー、ヨハネス・ブラームスなどの偉大な作曲家が、この作曲家一族の二人を大変高く評価していたという事実に加え、ヨハン・シュトラウス二世と何度か会うことで、ウィーンフィルの楽団員がこの音楽の意義やヨーロッパ中を魅了していた作曲家の人柄を知る機会を得たということにありました。



作曲家ヨハン・シュトラウスとウィーン・フィルハーモニー管弦楽団の長年にわたる友好的な関係


ウイーンフィルとシュトラウスの友好関係は長きにわたり深められてきました。ウイーンフィルの楽団員とヨハン・シュトラウスが出会って間も無く、シュトラウスの楽曲が初演されることとなりました。

 

1873年4月22日にウィーン楽友協会のホールで開催された宮廷歌劇場主催の舞踏会のためにシュトラウスはワルツ『ウィーン気質』を作曲し、ヴァイオリンを自ら演奏しながら指揮しました。1873年11月4日にはウィーン万国博覧会に参加した中国の委員会が開催したガラコンサートで父親やヨーゼフ・ランナーの楽曲、そして『美しく青きドナウ』の公演を行いました。


続いて、宮廷歌劇場のソワレにおいて(1877年12月11日)、シュトラウスは彼が作曲した《古きウィーンと新しきウィーンの回想》の初演を指揮しました。この曲は、残念ながら今は失われてしまった、彼のあるいは彼の父親の楽曲のテーマのメドレー集だと言われています。1894年10月14日にウィーン・フィルはシュトラウスの音楽家生活50周年を記念する祝賀演奏会に参加し、(その返礼として)シュトラウスは記念メダルおよび電報を送り、謝意を表明しました。


ヨハン・シュトラウス」その次の共演には悲しい結末が待ち受けていました。1899年5月22日にシュトラウスは宮廷歌劇場で『こうもり』の公演の最初で最後となる指揮を振りました。その時に風邪を引き、これが肺炎を誘発し、1899年6月3日に死去。


1979年10月にヴィリー・ボスコフスキーが健康上の理由で1980年のニューイヤーコンサートをやむを得ず降板した後、ウィーン・フィルは再び抜本的な改革を行いました。国際的な名声を博していた指揮者であるローリン・マゼールが選出、彼が、1996年までニューイヤーコンサートの指揮を振ることになった。その後は、毎年指揮者を替えることが決定されました。その始まりをヘルベルト・フォン・カラヤンが1987年の忘れがたいコンサートで華々しく飾りました。


その後、クラウディオ・アッバード、カルロス・クライバー、ズービン・メータ、リッカルド・ムーティ、ローリン・マゼール、小澤征爾、ニコラウス・アーノンクー、マリス・ヤンソンス、ジョージ・プレートル、ダニエル・バレンボイム、フランツ・ヴェルザー=メスト、グスターボ・ドゥダメル、クリスティアン・ティーレマン、アンドリス・ネルソンス(2020年)といった、主にウィーン・フィルの定期演奏会の指揮者がニューイヤーコンサートを指揮した。マエストロ、リッカルド・ムーティがニューイヤー・コンサートで指揮するのはこれで7度目となります。

 

 

ニューイヤー・コンサートのこぼれ話 

2021年のニューイヤーコンサート


ニューイヤー・コンサートは、ザルツブルグ音楽祭と並び、オーストラリアの音楽祭としては最大規模。ウィーン楽友協会の黄金ホールで開催されるということもあり、新年らしい華やかなムードを素晴らしいオーケストラの演奏と共に体験出来ます。しかし、このニューイヤーコンサート、実は、12月30日、大晦日、1月1日と、3日間にわたって開催されるのが恒例です。1月1日の演奏だけが世界的に配信され、生放送されるのが通例となっているんです。

 

また、このコンサートは、一般的な参加が可能ですが、コンサートのチケットは抽選式となっています。毎年のように熾烈なチケット争奪戦が繰り広げられ、世界から約50万人の抽選応募があり、当選するのはかなり難しいという話。抽選の申し込みは、通例では、2月1日から29日までとなっているようです。また、”チケットは一人2枚まで”というのが規則となっている。

 

2021年のウィーンフィルのニューイヤーコンサートは無観客で開催され、地元オーストリアのTV視聴率はなんと54%を記録し、歴史的な視聴率を獲得しました。同年のコンサートは、およそ120万人が視聴したと試算されています。また、この年のコンサートでは、楽団や指揮者の登場時は無音だったものの、第一部と二部の間にオンラインで視聴していた七万人の拍手をリモートで映像で届けるという荒業が取り入れられた。 

 

実は、この年、コンサートの指揮を振ったのが他でもない、リカルド・ムーティでした。彼は、ウィーンフィルと協力し、80年以上に及ぶ、同コンサートの伝統を守り抜くことに成功しました。

 

オーストリア日刊紙「クーリエ」は、この年のコンサートについて、次のように評しています。「芸術的にこれ以上望むものはない」「リッカルド・ムーティとウィーン・フィルは聴衆に特別な音楽的な饗宴をもたらしてくれた」。さらに、同国のクローネ紙も同様に「ウィーン・フィルは魅惑的な色彩感、そして洗練された音に包まれた」と手放しの称賛を送りました。

 

またとない豪華な共演、そして饗宴。様々な楽しみ方が出来るウィーン・フィル・ニューイヤー・コンサート。2025年の年始は、ご家族で生中継をご覧になってみてはいかがでしょうか。

 ・有名ミュージシャンに愛されたロードトリップの象徴  Route 66  


 シカゴからカルフォルニアに続く「Route 66」は、カーマニアには聖地のような場所である。かつてジョン・スタインベックが『The Grape of Wrath(怒りの葡萄)』でこのハイウェイを題材に取り上げた。

 

 作中では、オクラホマの農民がカルフォルニアに向かい、ハイウェイを横断する話が書かれている。スタインベックは風景描写に定評があり、市民の暮らしとアメリカの風物の美しさを社会的な時代背景とリンクさせながら丹念に描いた。今やルート66は過去の遺構となり、現在ではカーマニアが集い、マザーロード・フェスティバルが毎年9月に開催される。その道半ばには、ダイナー、モーテルが点在し、今なアメリカのロマンティシズムを地政学的に象徴付けている。


 つくづく思うのが、アメリカは自動車産業とともに発展していった国家でもある。その遺産はテスラ・モーターズに受け継がれているが、このルート66が愛された理由も、余暇に大陸を横断するハイウェイをクラシックカーで何日もかけて走るという営為が、アメリカ的なロマンティシズムの象徴でもあった。

 

 そして、「American Graffiti(アメリカン・グラフィティ)」で描かれるような富裕感覚ーー収入を車に費やすということ自体が、大きな憧れのようなものでもあったのである。自動車を個が所有する行為自体が、経済発展の象徴を意味し、これはシンクレア・ルイスが自動車に夢中になる若者と、家族制度の変化、教会制度の崩壊、という鋭いテーマを交え描いた。そして、アメリカ人が変化していく現状を、社会学の観点からシニカルに切り取ったのだった。この時代、明らかにアメリカは世界一の経済国家になる過程にあり、それはまた物質的な価値観が隆盛を極め、旧来の価値観が崩壊していくという新しい生活様式を予見していたのだった。

 

 

 ルート66は産業発展の象徴である。オクラホマの実業家であるサイラス・エイブリーはドイツのアウトバーンのような幹線道路を建設を思いつく。1910年には、一般道路の自動車の通行が増加しつつあった。実業家のエイブリー氏は、道路整備の重要性を提唱していた。彼は幼い頃、よくワゴンでオクラホマから西に向かった。そのときに見た光景から理想的なルートが脳裏に浮かんだ。シカゴからロサンゼルスにかけて2448マイルを横断する壮大なハイウェイの建設である。時代の需要も要因だった。1910年、米国では50万台の自動車が登録されていた。1920年頃には爆発的な普及を見せ、1000万台に到達した。この統計だけでもいかに一般家庭に自動車が普及しつつあったのか、手に取るように分かるのではないだろうか。

 

 1926年に最初の区画が開通した。しかし、1929年にはウォール街に端を発する恐慌が起こり、中西部から数十万人もの移民が発生した。彼らは出稼ぎのために、より大きな街を目指した。そして、1933年から37年にかけて、ルーズベルト大統領は不況解消法を制定し、失業者を中心にハイウェイの建設が進められた。幹線道路が建設された後、中西部から多くの農業従事者がカルフォルニアへと向かった。それはスタインベックの「怒りの葡萄」にも描かれているような情景であったに違いない。しかし、こういった重要な交通網としての役割の他にも、ルート66はもうひとつの役割を持っていた。この幹線道路は観光名所として親しまれたのだった。

 

 そうした中、世界大戦中、アメリカ人の一般的な娯楽が自動車とロードトリップに費やされたのは当然の成り行きだった。ビートニクスの象徴的な作家、ジャック・ケルアックが「オン・ザ・ロード」で、ルート66を取り上げたことによって、ある意味ではポップ・カルチャーの象徴ともなり、インテリ層の注目を惹きつけることになった。それ以降、1985年にハイウェイが廃止されるまで、 アメリカの経済成長の象徴でもあり、ロードトリップの象徴として、ルート66は多くの人々に親しまれた。写真に見られるように、いかにもアメリカ的な風物である。

 

 

 

・音楽的な題材としての「Route 66」 ナット・キング・コールからチャック・ベリー、ローリング・ストーンズ 時代とともに移り変わるテーマの変化

 


 

 まず最初にルート66に注目したのは、アラバマ出身のジャズ・ボーカリストの巨匠、ナット・キング・コールだった。1946年、戦争が終わった直後、ボビー・トゥループという人物が「Route 66」を作曲し、それをナット・キング・コールが歌った。彼は、出稼ぎ労働者のロマンを情熱的に歌った。新天地を目指す市民の憧れをこの曲でムードたっぷりに歌い上げている。

 

 曲としては、スタンダードなジャズであることが分かる。歌詞はご当地ソングのようでもある。旅に誘う内容で、途中には沿線各地の地名が登場する。シンプルなリフを基調とする親しみやすい曲調、軽快かつコミカルな歌詞とが好まれ、キング・コールのヒット以来、半世紀以上に渡って歌い継がれることに。 音楽的に言えば、渋く、古典的なジャズのリズムが特徴となっている。

 

 原曲を聴くと分かるが、歌詞の内容も情緒と興趣にあふれている。田舎から都会に出稼ぎ労働のために出ていこうとする若者の心の機微とうまく呼応している。そして、歌詞の重要なポイントは、「シカゴからロサンゼルスに向けて車を走らせようぜ。きっとワクワクする冒険が待っている」という箇所である。ナット・キング・コールは「西海岸に向かうと良いことがある」とも歌っている。 本当に良いことがあったかは分からないが、西海岸は、憧れの象徴の土地でもあったことが分かる。現在では、その土地のことが容易にわかってしまうこともあるが、当時ではそうではなかったのだろう。そういった側面では、想像の余地がこの曲のロマンティシズムを与えた。必ずしも知っているということばかりが、良いとはかぎらないということがわかる。 

 

 

Nat King Cole 「(Get Your Kicks On)Route 66」 (Original)

 

 

  「Route 66」はそれ以降、カバーソングの重要なレバートリーとして語り継がれることになった。また、次にこの曲のカバーに取り組んだのが、ご存知、ロックンロールの帝王、チャック・ベリーである。この曲は、ロックンロール最盛期(1955~56年)のあとにカバーソングとして発表された。

 

 チャック・ベリーはエルヴィス・プレスリーと同じく、RCAからデビューし、一躍「ロックン・ロールの帝王」として知られるようになった。ベリーがテレビに出演した時、88%もの視聴率を記録した。彼はまさしく、1958年までに国民的な歌手として知られるようになった。しかし、実は、全盛期以降の活躍に関しては賛否両論がある。1960年以降、ベリーは、R&Bに傾倒することもあり、国民的なスターではなく、本格派のプロミュージシャンとして活動を続けた。そんな中、このカバーソングは、ロックンロールの魅力を余すところなく凝縮している。 

 

 

Chuck Berry 「Route 66」

 

 

 

 最も注目すべきは、ナット・キング・コールの原曲は、出稼ぎ労働に出かける人々のロマンに焦点を当てている、他方、チャック・ベリーのカバーは、より都会的なムードを醸し出している。つまり、このカバーは、1961年のアメリカの都会的に洗練されていく若者を歌っているのではないか、ということ。つまり、チャック・ベリーは、幹線道路にまつわる時代の変化の推移をストレートなロックソングに込めて、それをリアリスティックに歌い上げたということである。

 

 続いて、この曲はローリング・ストーンズによってカバーされた。しかも1964年のデビューアルバム『The Rolling Stones』の一曲目でである。ある意味では、この一曲目のカバーが後のストーンズの運命を決定付けた可能性があると指摘しておきたい。というのも、1960年代のロックバンドは、最初、カバーから出発するのが王道であった。ビートルズはいわずもがな、ローリング・ストーンズもカバーから出発した。


 つまり、当時は、カバーから始まり、その後、ライブ等で実力をつけ、オリジナルを増やすというのがスターを生み出すための戦略だった。


 しかし、どの曲をカバーするかによって、そのバンドのキャラクターのようなものがはっきりと浮かび挙がってくる。「Route 66」のカバーでのミック・ジャガーの歌い方は、チャック・ベリーを少し意識している。このカバーは、海外から見た異国への憧れを暗示しているように思える。最初は、出稼ぎ労働者、都会的に洗練される若者、そして、海外から見た憧れの象徴というように、ルート66は、その時代ごとに、地政学的な意味合いを変化させていった。

 


The Rolling Stones 「Route 66」

 

 

・「Route 66」の意義の変化 父の世代の象徴としてのロード

 



 

 「Route 66」は長らく忘れ去られていたように思えた。そしてそれは、実際的には当然の成り行きでもあった。現実的に言えば、アイゼンハワー大統領の時代に、「ルート66」は幹線道路としての意義ーー人や物資の移動手段ーーを完全に失い、1985年以降は交通手段として一般的に廃止された。つまり、以降の時代は、飛行機での移動が当たり前となり、自動車での移動をする意味が乏しくなった。しかし、突如、最初のオリジナルソングのリリースから45年の歳月を経た1991年になって、この不朽の名曲が再び世の脚光を浴びることになった。

 

 曲を蘇らせたのは、ナット・キング・コールの娘、ナタリー・コールだった。彼女は、ジャズアルバムでありながら、ポップチャートを席巻した代表的な傑作『Unforgettable』で父親キング・コールの原曲を見事に蘇らせた。しかも、亡き父の歌声とのオーバーダブによって。このカバーにおいて、ナタリー・コールは父の魂を畏れ多く歌い、父親の本当の姿を探ろうとした。


 曲のカバーは、モダン・ジャズ風の洗練された編曲が施され、半世紀ほどを経て、新たなジャズ・スタンダードに生まれ変わることになった。ルート66は、1991年になると、次世代の「父の象徴」へと変化していったのである。以降、この曲はジャズスタンダードの定番になった。また、ナタリー・コールが終生にわたり、ロサンゼルスにこだわったのには理由がある。なぜなら彼女の父親はこう歌ったのだから。「西海岸に向かうと良いことがある」というように。


 カバーソングというのは簡単なようでいて難しい。それでもそれぞれ違った楽しみ方があって本当に素晴らしい。音楽的なバリエーションの変化にとどまらず、どのようなテーマを盛り込むのか、そして、独自の価値観を付与することが大切なのかもしれない。

 

 

Natalie Cole 「Route 66」