カナダのDestroyer(デストロイヤー)がニューアルバム『Dan’s Boggie』を発表した。 2022年の『Labyrinthitis』に続くこのアルバムは、Mergeから2025年3月28日にリリースされる。 


最初の発表では、フィーバーのシモーネ・シュミットがヴォーカルを務めるリード・シングル「Bologna」がリリースされた。 デヴィッド・ギャロウェイ監督によるミュージック・ビデオは以下から。


「Bologna』のような曲はあまり書いたことがなかった。この曲の最も重要な部分である第1節と第3節を歌うのに苦労した。 重厚さと気迫が必要だった。 消えるという脅威はリアルである必要があった。 だからシモーヌを呼んだんだ」


「親愛なるジョン "の手紙はどのように書き始めるのですか? 携帯電話を持っている人なら、その種のものを始めるのに役立つオンラインツールがたくさんある。 実際、インターネットを使えばあらゆることを学ぶことができる。 すごいことだよ。 鍵の開け方、近所のWiFiにアクセスする方法、「挑戦」に応える方法、化粧の仕方。 最近、化粧は盛んだからね。 今ある生活がうまくいかないときに、まったく新しい生活を始めるためのヒントやコツも間違いなく見つかる」

 

 「Bologna」

 

 

 

Destroyer 『Dan's Boggie』


Label: Merge

Release:  2025年3月28日

 

 Tracklist:


1. The Same Thing as Nothing at All

2. Hydroplaning Off the Edge of the World

3. Ignoramus of Love

4. Dan’s Boogie

5. Bologna [feat. Fiver]

6. I Materialize

7. Sun Meet Snow

8. Cataract Time

9. Travel Light

Youth Lagoon

Youth Lagoon(ユース・ラグーン)がニューアルバム『Rarely Do I Dream』の制作を発表した。2023年に発表され、高評価を得た『Heaven Is A Junkyard』に続くアルバムとなる。

 

アイダホ州を拠点に活動するシンガーソングライター、トレヴァー・パワーズは、現実と空想を織り交ぜた音楽的な主題を落ち着いた陶酔感のあるインディーポップソングに落とし込む。ユース・ラグーンの曲は確かに男性シンガーとしての夢想的な感覚に充ちているが、それはむしろ現実的な視座を彼が欠かさないことによる。幻想性というのは現実性を直視することによってしか生み出されない。そして夢見ることもまた、現実性を見ることによって形作られる。

 

ユース・ラグーンはいつも何かを見つけるが、一般的な人々が見過ごしがちなものほど彼の目を惹く。彼はよく街や郊外を歩いているときに何かを見つけるが、今回はそうではなかった。

 

『Rarely Do I Dream』は、2023年に彼の実家で偶然見つけた彼の子供時代を記録した一連のVHSテープから生み出され、暗喩の働きをなした。「テープをながめていると、さまざまな思い出がよみがえってくる。自分の人生のテープを巻き戻せば巻き戻すほど、自分の魂の声が聞こえてくる」

 

「でも、これはノスタルジーではない。 人生はもっと複雑怪奇だ。 これは、私が誰であったか、私が誰であるか、そして私が誰であろうとしているかのすべての部分に捧げるものなんだ」


ニューシングル「Speed Freak」は、このアルバムから初めてリリースされる曲で、個人的な気づきの力強い瞬間に促された曲であり、彼の哲学的な思考、そして形而下の表現に支えられている。


「この曲は、死の天使を抱きしめてあげたいと思ったことから生まれた」とパワーズは言う。 私たちは一生をかけて、逃れられないものから逃げているのだと思う。この肉体は一時的なもので、実のところは死は存在しえない。 あるのは変容だけ。 一生をかけて築き上げたアイデンティティを手放すことを学んだとき、扉が開く。 数年前、ある人に言われたんだ。『いい知らせと悪い知らせがある。 悪いニュースは、トレバーが絶望的だということ。 トレバーに希望はない。 良いニュースは、君はトレバーではないということだ。 それを聞いて、ピンときたんだ」



 「Speed Freak」

 

 

 

Youth Lagoon 『Rarely Do I Dream』


 

Label: Fat Possum

Release: 2025年2月21日


Tracklist:

 Neighborhood Scene
 Speed Freak
 Football
 Gumshoe (Dracula From Arkansas)
 Seersucker
 Lucy Takes a Picture
 Perfect World
 My Beautiful Girl
 Canary
 Parking Lot
 Saturday Cowboy Matinee
 Home Movies (1989-1993)


Pre-order: https://youthlagoon.ffm.to/speedfreak


Throwing Muses(スローイング・ミュージス)は、ニューアルバム「Moonlight Concessions」を2025年3月14日にファイヤー・レコードからリリースする。スローイング・ミューゼズは4ADの創成期を担い、北米のバンドで最初にこのレーベルと契約を結んだ。

 

ニューアルバム「Moonlight Concessions」は、ラフ・トレード・ショップ限定で発売される「Moonlight Confessions」と共にリリースされる。


このアルバムは、2020年にリリースされ高い評価を得た「Sun Racket」に続き、シュールなイメージに彩られたタフでテンダーな物語で埋め尽くされた頭脳的な作品であるとレーベルによって紹介されている。「Moonlight Concessions」は、ロードアイランド州/ポーツマスにあるスティーヴ・リゾのステイブル・サウンド・スタジオでクリスティン・ハーシュがプロデュースした基本に立ち返り、クリスティンのシャープなスケッチと、それにふさわしい擦れた音楽アレンジによって、ス^ロウイング・ミュージスの難解なオフキルターのベストに戻った。


「Moonlight Concessions」は、レイモンド・カーヴァーのショートカットを思わせるような、日常生活の断片、耳にした会話、再現された出来事、語りかけるような一発芸の数々を集めたもので、ゆっくりと成熟していく時代をオリジナルのミューズの活力と勢いを存分に注ぎ込みながら描き出している。


ニューシングルでアルバムのオープニングを飾る「Summer Of Love」は、ある男との1ドルの賭けから始まった。

 

この曲は、バロック風の序曲で、弓が引かれ、陰鬱な雰囲気を醸し出している。「タコが海底を移動するように、私たちは流動的で、愛に反応しているんだ。彼は正しかったことがわかった」

 


「Summer Of Love」

 

 

 

Throwing Muses 『Moonlight Concessions』


Label: Fire

Release:2025年3月15日


「Moonlight Concessions」は、基本に立ち返り、クリスティンのシャープなスケッチと、それにふさわしい擦れた音楽アレンジによって、スロウイング・ミュージスの難解でオフキルターなベスト・アルバムに戻った。このアルバムは、2020年にリリースされ高い評価を得た「Sun Racket」に続くもので、超現実的なイメージに彩られたタフで優しい物語で満たされた頭脳的なセットである。


ロードアイランド州ポーツマスにあるスティーヴ・リゾのステイブル・サウンド・スタジオでクリスティン・ハーシュがプロデュースした「Moonlight Concessions」は、レイモンド・カーヴァーのショートカットを思わせる日常生活の断片、耳にした会話、再現されたハプニング、そして語りかけるような一発芸の数々を集めたもので、ゆっくりと成熟していく時代を表現するために縫い合わされ、オリジナルのミューズの活力と勢いが十分に散りばめられている。


「Drugstore Drastic」は、より魅力的なランデブーに向かう途中の街角での独り言だ。ギターのサブメロディに支えられた爽やかなアコースティック・サウンドをベースにしたこの曲は、ぼんやりとした潜在意識から生まれる社会意識の物語である。「Summer Of Love」は、ある男との1ドルの賭けから始まった。

 

アルバムの冒頭を飾るこの曲は、バロック風の序曲で、弓を引いたような陰鬱な曲だ。リブレット」のストリングスは、アコースティックな雰囲気を相殺し、その中心にある憧れの熱さと冷たさ、テキーラで潤滑された安全な避難所での暖かさでファイルされたテーマ・ドライバーである。


メキシコ湾と南カリフォルニアという異なるサウスコーストの環境で書かれた「Moonlight Concessions」は、両者を照らす星団からインスピレーションを得ており、程度の差こそあれ楽観主義と希望を生み出している。ニューオーリンズでは星が緑青色に見える。海面下にあり、沼地が照らされているからだ。でもムーンライト・ビーチでは、星は氷のように白く輝く。これらの曲はすべて、この2つの光り輝く場所で書かれた。

 



ジャパニーズ・ブレックファスト(ミシェル・ザウナー)は、3月21日にデッド・オーシャンズからリリースされるニューアルバム『For Melancholy Brunettes (& sad women)』を発表した。
 
 
このアルバムは、グラミー賞にノミネートされた『Jubilee』以来4年ぶりの新作で、ブレイク・ミルズがプロデュースを手掛けた。
 

グラミー賞にノミネートされた『Jubilee』とベストセラーとなった回想録『Crying In H Mart』によって、彼女は文化的主流に躍り出るとともに、芸術家としての深い野心を実現した。その成功を振り返って、ザウナーは、至福と破滅をしばしば結びつける欲望の皮肉を理解するようになった。「私は、自分がいつも望んでいたものを手に入れることに誘惑されているように感じた。私は太陽に近づきすぎていて、このままでは死んでしまうと気づいたのです」


イカロスや、そのような死刑宣告を受けた者たちの苦境は、『哀愁のブルネットたちへ』の最も根強いテーマである、欲望の危険性をもたらしている。光が散り散りになるように、その妖しげな部分はアルバムの登場人物たちを誘惑、違反、報復のサイクルへと導く。
 
 
アルバムのリード・シングル 「Orlando in Love 」は、ルネッサンス期の詩人マッテオ・マリア・ボワルドによる未完の叙事詩『Orlando Innamorato』をジョン・チーヴァーがリフしたもので、主人公は、海辺にウィネベーゴを停め、サイレンの呼び声の犠牲になる善意の詩人であり、彼の69番目のカントである(古典神話という高尚な領域でさえ、ザウナーは陰口に弱い)。


ロサンゼルスの歴史的なサウンド・シティで録音された『For Melancholy Brunettes (& sad women)』は、プレス・リリースによると、ザウナーが「前作『Jubilee』を特徴づけた明るい外向性から後退し、内側にうごめく暗い波、インスピレーションに瀕した詩人たちの心理状態であると長い間信じられてきた、メランコリーという不機嫌で豊穣なフィールドを検証する」と述べている。
 
 
リードシングル「Orlando in Love」を筆頭に、リリックビデオが公開されている。アルバムのジャケット、トラックリスト、バンドの今後のツアー日程は下記より確認してほしい。 本ツアーには、カルフォルニアのシンガーソングライター、Ginger Rootが帯同する。
 
 
 
 「Orlando in Love」
 
 
 
 
 
 
Japanese Breakfast 『For Melancholy Brunettes (& sad women)』
 

Label: Dead Oceans
Release: 2025年3月21日
 

Tracklist:  
 
 
1. Here is Someone
2. Orlando in Love
3. Honey Water
4. Mega Circuit
5. Little Girl
6. Leda
7. Picture Window
8. Men in Bars (Feat. Jeff Bridges)
9. Winter in LA
10. Magic Mountain
 
 
 
 
 
ミシェル・ザウナーは、『ソフト・サウンズ・フロム・アナザー・プラネット』において、SF、『ジュビリー』では浮世離れしたシュールレアリズムを試みているが、『フォー・メランコリー・ブルネット』を支えるヨーロッパ・ロマンティシズムの風景と、それに伴うクラシックの引用の緻密な組織は、芸術的成熟期を迎えたソングライターにとって新たな領域を示している。彼女は、さまざまな先例からインスピレーションを得たと語っている。
 
 
ドガの「アブサン」に登場する寂しげなカフェガール.......。キャスパー・ダヴィッド・フリードリヒの海景画......。ワザリング・ハイツ』の情熱的なあこがれと荒々しくうねる荒野.......。ベルクホーフのバルコニーで夢想するラクダの毛布に包まれたハンス・カストルプ。この雰囲気は、このアルバムの大半を彩る、複雑に絡み合うギター・アレンジメントによって感じ取れる。


悲しみがこのレコードの支配的な感情のキーであるが、それは希薄な形の悲しみである。メランコリーの物思いにふけるような、先見の明のある悲しみであり、そこでは人生の本質的な悲劇性を認識することが、そのはかない美しさに対する感受性とともに起こる。ザウナーは、その中に希望の光に十分な空間を見出す。それは、彼女以前の詩人たちが呼びかけ、その後の詩人たちが再発見し続けるであろう、人間の慰めである。

 
 
TOUR DATES:

Apr 12 & 19 – Indio, CA @ Coachella Music and Arts Festival

Apr 23 – Austin, TX @ Moody Theater (ACL Live) *

Apr 24 – Dallas, TX @ South Side Ballroom *

Apr 26 – Atlanta, GA @ Tabernacle *

Apr 27 – Charlotte, NC @ The Fillmore *

Apr 28 – Nashville, TN @ Ryman Auditorium *

May 2 – Chicago, IL @ Salt Shed *

May 3 – Detroit, MI @ The Fillmore *

May 5 – Toronto, ON @ Massey Hall *

May 7 – Boston, MA @ MGM Music Hall at Fenway *

May 9 – Brooklyn, NY @ Brooklyn Paramount *

May 16 – Philadelphia, PA @ The Met Philadelphia Presented by Highmark *

Jun 21 – Milwaukee, WI @ Summerfest

Jun 24 – Oslo, NO @ Rockefeller

Jun 25 – Stockholm, SE @ Filadelfia

Jun 26 – Copenhagen, DK @ VEGA

Jun 29 – Manchester, UK @ Academy 1

Jun 30 – Glasgow, UK @ Barrowland

Jul 3 – London, UK @ O2 Academy Brixton

Jul 4-6 – Ewijk, NL @ Down The Rabbit Hole 2025

Jul 8 – Paris, FR @ Le Trianon

July 10-12 – Bilbao, ES @ Bilbao BBK Live

Aug 23 – Santa Barbara, CA @ Santa Barbara Bowl *

Aug 28 – San Francisco, CA @ The Masonic *

Aug 30 – Bend, OR @ Hayden Homes Amphitheater *

Sep 1 – Vancouver, BC @ Orpheum Theater *

Sep 6 – Denver, CO @ The Mission Ballroom *

Sep 9 – Minneapolis, MN @ The Palace Theater *

* w/ Ginger Root

ロンドンを拠点とするプロデューサーでシンガーソングライターのリザ・ロー(Liza Lo)が、待望のデビュー・アルバム『Familiar(ファミリア)』の詳細を発表した。本作は1月29日(水)にGear BoxからCD/LPの2バージョンで発売される。

 

リザ・ローは南欧の風をポピュラーミュージックのなかに組み込む。アコースティックギターのフィンガーピッキングとソフトなボーカルは、憂のある曲に驚くほど合致している。これまでに6曲のデジタル・シングルを発表してきた彼女だが、今回のアルバムはおなじみのプロデューサー、ジョン・ケリー(ケイト・ブッシュ/ポール・マッカートニーのプロデューサー)と彼女のバンドと共にデーモン・アルバーンの所有する「スタジオ13」にて制作されたという。



このアルバムについて、リザは次のように語っている。

 

「『ファミリア』というタイトルは、私が聴いて育ったレコードたちに立ち返るという要素、音楽を親しみやすく感じさせるレコーディングの方法、そして私の師匠でありこのアルバムの共同プロデューサーでもあるジョンが得意とするものに、私の創作プロセスを近づける方法を反映しているの」

 

「また、この言葉は私が語る物語、家族の親密さ、私の人生におけるロマンチックな愛の物語、そして生きていく上で避けられない喪失感や、それにどう対処するかということとも結びつけたいと思ったの。友人を失ったり、自分自身や他人と連絡が取れなくなったり、恋に落ちることの素晴らしさなど、私たちが人生で繰り返し遭遇する感情よ」



アルバムの発表を記念してリザは、「Catch The Door」と題されたニューシングルも発表。(楽曲のストリーミングはこちら

 

このメランコリックなポピュラーソングのトラックは、レディオヘッドやビッグ・シーフの影響を感じる、周期的なフィンガー・ピッキングとピアノ・ラインの上に、そこはかとなく切ないヴォーカルが重ねられている。
 

このニューシングルについてリザ・ローは、「人生には葛藤がつきもので、時にはその解決策を見つけられるのは一人だけということもある。この曲は、そういったことのメタファーとして書かれたのよ」 と語る。

 

 

「Catch The Door」

 

 

 

【アルバム情報】

 



アーティスト名:Liza Lo(リザ・ロー)
タイトル名:Familiar(ファミリア)
品番:GB1598CD (CD) / GB1598 (LP)
発売日:2025年1月29日(水)発売 予定
レーベル:Gearbox Records


<トラックリスト>


(CD)


1. Gipsy Hill
2. Morning Call
3. Darling
4. Catch The Door
5. A Messenger
6. As I Listen
7. Open Eyes
8. Anything Like Love
9. What I Used To Do
10. Confiarme
11. Show Me

(LP)


Side-A

1. Gipsy Hill
2. Morning Call
3. Darling
4. Catch The Door
5. A Messenger
6. As I Listen
Side-B

1. Open Eyes
2. Anything Like Love
3. What I Used To Do
4. Confiarme
5. Show Me


アルバム『Familiar』予約受付中! 


ご予約: https://bfan.link/the-ruin



Credits:

 
Liza Lo - Vocals, Acoustic Guitar, Piano, Backing Vocals, Synthesisers 

Sean Rogan - Piano, Backing Vocals, Acoustic & Baritone Guitar 

Maarten Cima - Electric, Rubber Bridge & Baritone Guitar

Tom Blunt - Drums

Freek Mulder - Bass

Ben Trigg - Cello & String Arrangements (Gipsy Hill, Open Eyes & A Messenger) 

Emre Ramazanoglu - Percussion (Catch The Door & Anything Like Love)

Chris Hyson - Synthesisers & Programming (Confiarme)

Wouter Vingerhoed - Prophet (What I Used To Do)

 

Recorded at ”Studio 13” and ”Tileyard Studios” in London

Produced by Jon Kelly and Liza Lo

Additional and co-production by Wouter Vingerhoed (What I Used To Do), Topi Killipen
(Morning Call), Sean Rogan (Confiarme) and Chris Hyson (Confiarme)

Written by Liza Lo together with Topi Killipen (Morning Call), Emilio Maestre Rico (Darling),

Peter Nyitrai (Open Eyes), Melle Boddaert (Gipsy Hill), Hebe Vrijhof (What I Used To Do) &
Wouter Vingerhoed (What I Used To Do)


Mixed by Jon Kelly

Mastered by Caspar Sutton-Jones & Darrel Sheinman

Engineered by Giacomo Vianello and Ishaan Nimkar at ''Studio 13'' and ''Ned Roberts'' at Tileyard Studios Released by Gearbox Records


バイオグラフィー:




Liza Lo(リザ・ロー)はスペインとオランダで育ち、現在はロンドンを拠点に活動するシンガー・ソングライター/プロデューサー/ミュージシャン。優しくも力強い歌声で愛、喪失、成長の物語を紡ぐことを特徴とし、ビッグ・シーフ、キャロル・キング、ドーターやローラ・マーリングなどからインスピレーションを受けながら、独自の親密で詩的な音楽世界を創り出している。


EP『Flourish』(2023年)は、Spotifyの 「New Music Friday UK/NL/BE」に選出され、「The Most Beautiful Songs in the World」プレイリストでも紹介された。

 

2024年5月、Gearbox Recordsと契約を交わした。以降、自身のUKヘッドライン・ツアー、ステフ・ストリングスやVraellのオープニングをUK各地で務めたほか、ハリソン・ストームとのEU/UKツアーもソールドアウトさせた。2025年1月、ジョン・ケリー(ポール・マッカートニー、ケイト・ブッシュ)とバンドと共に制作したアルバム『Familiar(ファミリア)』がリリース決定。


 

スコットランドのFranz Ferdinand(フランツ・フェルディナンド)は、新作アルバムのリリースを間近に控えている。アークティック・モンキーズと同時期(2005年)に登場したこのバンドは、00年代中盤以降のダンスロックシーンを席巻した。驚くべきことにいつのまにか女性メンバーが加入している。

 

20年という歳月は、フランツ・フェルディナンドにとって、ほんの瞬きのようなものである。今考えると、キラーズの台頭や大ヒット等は、このバンドの二次的なムーブメントに過ぎなかった。時を経て、フランツ・フェルディナンドのロックソングは、現代のリスナーを魅了しえるのか。少なくとも、先行シングルを聴くかぎりでは、彼らのダンスロックソングは今なお魅力的な印象を保持している。いや、彼らのロックソングは日に日に進化し続けていると言えるだろう。

 

アルバム発売前の最終シングル「Hooked」についても、新旧のファンの期待に沿う以上の内容となっている。このシングルは、先行公開された「Audacious」と「Night or Day」に続くサードシングルとなっている。ディスコのリズムを駆使したダンサンブルなロックというフェルディナンドの個性を活かし、アークティックと同根にあるシアトリカルな要素をひときわ強調し、エンターテイメント性十分の楽曲に仕上げている。週末の発売日を目前に以下よりチェックしてほしい。

 

フランツ・フェルディナンドのニューアルバム『The Human Fear』は1月10日にリリース予定。


「Hooked」



 

©︎Steve Gullick

 

スコットランドのMogwaiは11枚目のアルバム「The Bad Fire」の最新シングル「Fanzine Made Of Flesh」を公開した。90年代からロックの代表的な名盤を持つバンドの新作はどうなるだろうか。


昨年9月にリリースされた「God Gets You Back」、そして「Lion Rumpus」に続く、直感的なタイトルのニューシングルは3番目のテイスターだ。「Fanzine Made Of Flesh」は、「The Bad Fire」の包括的なコンセプト、2021年のチャート上位にランクインした「As The Love Continues」に続く個人的な重大な試練を、あらゆるエモーションのスペクトルを駆使して乗り越えてきたことを物語っている。ヴォーカルと刺激的なシンセが特徴的な楽曲となっている。


この曲についてバンドのスチュアート・ブレイスウェイトは、「2023年秋にアレックス・カプラノス(フランツ・フェルディナンドのリードボーカル)の家に滞在していた時にブルックリンで書いた曲。僕の頭の中では、ABBAとswervedriverとKraftwerkを掛け合わせたようなサウンドなんだ。もともとはストレート・ボーカルだったんだけど、レコーディングの最終日にボーカルを入れることになったんだ。かなり変わった仕上がりになったし、本当に満足している」


 

最近、モグワイは自主レーベルRock Actionを運営し、ツアーのなかでbdrmmを発掘している。モグワイのニューアルバム『Bad Fire』は1月24日にRock Action Recordsよりリリース予定。

 

 

 「Fanzine Made Of Flesh」

 



◾️MOGWAIが新作アルバム『THE BAD FIRE』を発表 1月24日にリリース


バーモント州のシンガーソングライター/ギタリスト、Lutalo(ルタロ・ジョーンズがニューシングル「I Figured」を公開した。この新曲は最新作のアウトテイクとして発表された。(ストリーミングはこちらから)


昨年、ルタロはオルタナティヴフォークを中心とするデビューアルバム『The Academy』をリリースし、ニルファー・ヤーニャのツアーサポートを務めた。2025年、ルタロは北米とカナダのツアーを予定している。


ルタロ・ジョーンズはアメリカ文学屈指の名作「グレート・ギャツビー」で知られるスコット・フィッツジェラルドの母校の卒業生。デビューアルバム『The Academy』では、セントポール・アカデミーの学生生活を題材に選び、郷愁的なインディーフォークサウンドを確立している。



「Figured」




Tour Dates:

01/14/25 - Toronto, ON @ Monarch 
01/16/25 - Chicago, IL @ Schubas 
01/17/25 - Milwaukee, WI @ Cactus Club 
01/18/25 - Minneapolis, MN @ 7th St Entry 
01/21/25 - Seattle, WA @ Barboza 
01/22/25 - Portland, OR @ Mississippi Studios 
01/24/25 - San Francisco, CA @ Bottom of the Hill 
01/25/25 - Los Angeles, CA @ The Echo 
01/27/25 - Phoenix, AZ @ Valley Bar 
01/30/25 - Houston, TX @ White Oak Upstairs 
01/31/25 - Austin, TX @ Mohawk Indoors 
02/01/25 - Denton, TX @ Rubber Gloves 
02/04/25 - Atlanta, GA @ The Earl
02/06/25 - Carrboro, NC @ Cat’s Cradle (Back Room)
02/07/25 - Washington, DC @ Songbyrd 
02/08/25 - New York, NY @ Elsewhere Zone One
02/14/25 - Burlington, VT @ Radio Bean



Review:



 


 

伝説的なポストロックバンド、MONOの旅は、島根から始まり、東京に移り、そして最終的にアメリカへと繋がっていった。弦楽器を含めるインストを中心としたギターロックの美麗な楽曲は、日本のポストロックシーンのシンボルにもなり、このジャンルの一般的な普及に大きな貢献を果たした。近年、彼らの唯一無二の音楽観は、ライブステージで大きく花開きつつある。


昨年、MONOは、伝説的なエンジニアで、ロパート:プラントのソロアルバム、ニルヴァーナの『In Utero』を手掛け、Big Black、Shellacとしても活動したスティーヴ・アルビニのプロデュースによるアルバム『Oath』を発表した。本作は、スティーブ・アルビニのお膝元のエレクトリカル・オーディオで制作されている。アルビニが最後に手掛けたアルバムの一つでもあった。

 

『You Are There』(2006)を中心にポストロック/音響派として象徴的なカタログを持つ彼らの魅力はレコーディングだけにとどまらない。年間150本のステージをこなす、タフなライブ・バンドとしても熱狂を巻き起こしてきた。

 

MONOは、大規模なワールドツアーを発表し、ライブを続けている。パリ、ロンドン、ブエノスアイレス、ベルリン、シカゴ、ブルックリン、上海など、文字通り世界の主要都市でコンサートを続けている。その日程の中にはアジアツアーも含まれており、東京、大阪での公演を行った。

 

今回、2024年11月、Spotify O-East(東京)で開催されたライブパフォーマンスの模様が配信された。ライブのハイライト「Everlasting Light」 では、トレモロにより生み出されるドローンのギターを中心にダイナミックなアンサンブルが構築されている。MOGWAI、Explosions In The Skyに匹敵する迫力を映像として収録。重厚でありながら叙情性を失わない正真正銘の音響派のサウンドを聴くと、およそ結成25年目にしてMONOの最盛期がやってきたことを痛感させる。

 

2025年もワールドツアーは進行中だ。2月19日のボストン公演に始まり、フィラデルフィア、アトランタ、ヒューストン、シアトル、デンバーと北米を中心に公演を開催する予定である。現時点では3月の公演日程が公表されている。公式ホームページにてバンドの日程を確認出来る。

 

 

 「Everlasting Light」

 


Panda Bear(パンダ・ベア)は、2月下旬にDominoから発売予定の新作アルバム『Sinister Grift』からセカンドシングル「Ferry Lady」をリリースした。本曲はダニー・ペレスによるビデオ付きで発表された。


パンダ・ベアはAnimal Collectiveの創設メンバーで、リスボンを拠点に活動している。サイケデリックとエレクトロニックを絡めた彼の独創的な楽曲は鮮やかな風味を残す。


「Ferry Lady」は、カナダのシンディ・リーをギターにフィーチャー。ピッチフォーク誌に「インスピレーションに満ちた心の交流であり、レノックスの次のアルバムへのスリリングなティーザー」と評価された、先にリリースされたシングル「Defense」のフォローアップとなる。


パンダ・ベアーはトロ・イ・モア(チャズ・ベア)とのツアーを2月から開催する。北米、カナダ、スペイン、イギリスを回る。このツアーは6月まで続く。

 

「Ferry Lady」

 


 



ADWR/LR2(スペース・シャワー・ミュージックの関連レーベル)による2024年度のプレイリストがSpotifyで公開されました。昨年、レーベルは注目すべきアルバムをいくつも手掛けています。


レーベルが選んだ100曲をデジタルストリーミングにより紹介する本プレイリストでは、カジヒデキ、 Soraya、柴田聡子、Le  Makeup、Luby  Sparks、JJJ、Aru-2、Joe Cupertino、Kid Fresinoなど、ポップス、ジャズ、ロック、ヒップポップまでレーベル選りすぐりの楽曲が選曲されています。


その他、細野晴臣、やくしまるえつこ、カヒミ・カリイ、サーストン・ムーア(Sonic Youth)、中原昌也によるジム・オルーク(Jim O' Rouke)のカバーも視聴することが出来ます。下記より本プレイリストをご視聴下さい。アプリをお持ちの方は、ぜひプレイリストに登録してみてください。


左からタブラ奏者のアラ・ラカ、シタール奏者のラヴィ・シャンカル

 インド音楽のラーガというのをご存知だろうか。シタール、タブラといった楽器演奏者が一堂に介して、エキゾチックでミステリアスな音楽を奏でる。しかし、この音楽は民族的で宗教的であるのは事実だが、その反面、神妙な響きが込められているのを感じる。それはこの音楽が悠久の時を流れ、宇宙の真理を表す、ピタゴラスの音楽の理想系を表しているからなのだろうか。


 ラーガのルーツは、バラモン教、ヒンドゥー教の経典であるヴェーダの聖典、つまり紀元前500年から一千年の時代にまで遡る。ラーガの本来の目的は、音楽的な心地よさだけではない。この音楽の目標は、人が覚醒に達するのを助けることであった。それゆえ、インドの古典音楽は厳格に認識され、神聖な領域に属している。


 インド音楽は大きく二つに分けられる。ひとつは南インドのカルナティック音楽、もうひとつは北インドのヒンドゥスターニー音楽である。インド古典音楽の2つの系統を区別しているのは、ムガール帝国の支配下にあったため、北部のヒンドゥスターニー音楽に忌避され、適応したペルシアの影響である。

 

 一方、南カルナータク音楽は、ペルシャの影響を一切受けず、孤立したまま進化を続けた。この地域にいたムガル人は寺院で演奏されていたヒンドゥスターニー音楽を王の宮廷に持ち込んだ。

 


ラーガーマーラーと呼ばれる絵画 ラーガを絵画で表したとされる

 このラーガというのはどんな音楽なのだろう。ジョージ・ハリソンはビートルズ時代からシタールを演奏し、インド音楽に感銘を受け、ラヴィ・シャンカールから手ほどきを受けた。さらにその後、ヒンズー教を信仰するようになった。彼はソロアルバムで信仰を告白した。しかし、不思議でならないのは、かれはなぜ、インドの音楽に、それほど大きな霊感を受けたのだろうか。おそらく、その秘密、いや、奥義は、ラーガひいてはインド音楽の神秘性にあるのかもしれない。インド音楽の巨匠であるラヴィ・シャンカルは「インド古典音楽の鑑賞」のなかで、この音楽について次のように説明している。以下は基本的には門外不出のラーガの貴重な記述のひとつである。


 インド古典音楽は、和声、対位法、和音、転調など、西洋古典音楽の基本ではなく、メロディーとリズムを基本としている。「ラーガ・サンゲート(Raga Sangeet)」として知られるインド音楽の体系は、その起源をヒンドゥー寺院の「ヴェーダ讃歌」にまで遡ることができる。 このように、西洋音楽と同様、インド古典音楽のルーツは言うまでもなく宗教的なものです。 


 私たちにとって、音楽は自己実現への道における精神的な鍛錬となり得る。このプロセスによって、個人の意識は、宇宙の真の意味、永遠で不変の本質の啓示を喜びをもって体験できる気づきの領域へと昇華することができる。 つまり、ラーガは、この本質を知覚するための手段でもある。


 古代のヴェーダ聖典は、音には2種類あると教えている。 ひとつはエーテルの振動で、天界に近い上層または純粋な空気です。 この音は「アナハタ・ナッド(打たない音)」と呼ばれている。 偉大な悟りを開いたヨギーが求める音で、彼らだけが聞くことができる。 宇宙の音は、ギリシャのピタゴラスが紀元前6世紀に記述した球体の音楽のようだと考えられている振動である。 自然界で耳にする音、人工的に作られた音、音楽的なもの、非音楽的なものなど、あらゆる音を指す。

 

 これはインド音楽そのものが神秘主義的な考えをもとに成立していることの表れである。明確なつながりは不明であるが、エーテルというのは、ギリシャ哲学家の提唱した概念でもある。この符号はインドのような地域の原初的な学問とギリシャの学問がなんらかの形で結びついていた可能性を示す。



 インド古典音楽の伝統は口伝による。 西洋で使われている記譜法ではなく、師から弟子に直接教えられる。 インド音楽の核心はラーガであり、音楽家が即興で演奏する旋律形式である。 この枠組みは、インド国内の伝統によって確立され、マスター・ミュージシャンの創造的な精神に触発されている。


 インド音楽はモード的な性格を持つのは事実であるが、ラーガを中近東や極東の音楽で耳にするモードと勘違いしてはならないし、音階や旋律そのもの、作曲、調性とも理解してはならない。

 

 ラーガとは、アロハナ(Arohana)とアヴァロハナ(Avarohana)と呼ばれる上昇または下降の構造で、7音オクターブ、ないしは6音または5音の連続(またはこれらの組み合わせ)からなる、独特の上昇と下降の動きを持つ、科学的で正確、繊細で美的な旋律形式を示している。音の順序の微妙な違い、不協和音の省略、特定の音の強調、ある音から別の音へのスライド、微分音の使用、その他の微妙な相違によって、あるラーガと別のラーガが区別されるのです。


ラーガの主な旋法の例 北インド



 ラーガは厳密に言えば、長調と短調の二つに大別される。ある音楽ではくつろいだ南方の音楽を思わせるが、それとは対象的に、ある音楽では北方の悲しげな音調を持つ。リズムも対照的で、ゆったりしたテンポ(Adagio,Largo)から、気忙しいテンポ(Allegro,Presto)に至るまで幅広い。これらはラーガが感情を掻き立てる音楽であることを示唆している。これは覚醒を促すという主な目的の他に、Karmaという目的のためにラーガが存在するからなのだろう。

 

 サンスクリット語に "Ranjayathi iti Ragah "という格言がある。 ラーガが真に聴く人の心を彩るためには、その効果は音符や装飾だけでなく、それぞれのラーガに特徴的な感情やムードを提示することによっても生み出されなければならない。 このように、私たちの音楽における豊かな旋律を通して、人間のあらゆる感情、人間や自然におけるあらゆる微妙な感情を音楽的に表現し、経験することができる。


 各ラーガは、主にこれら9つのラサ(旋法)のうちの1つによって支配されるが、演奏者は、他の感情をあまり目立たない形で引き出すこともできる。 ラーガの音符が、ひとつのアイデアや感情の表現に密接に合致すればするほど、ラーガの効果は圧倒的なものとなる。


ラーガは朝、昼、夜といった時間ごとの儀式音楽の形式で親しまれたが、のちにはあまり一般的な意味を失いつつあった。


 それぞれのラーガは、特定の気分と関連しているだけでなく、1日の特定の時間帯や1年の季節とも密接な関係がある。 昼と夜のサイクルや季節のサイクルは、生命のサイクルそのものに似ている。 夜明け前の時間、正午、昼下がり、夕方、深夜など、一日の各部分は明確な感情と結びついている。 各ラーガに関連する時間の説明は、ラーガを構成する音符の性質や、ラーガにまつわる歴史的逸話から見出すことができる。


 ラーガの音楽の音階には、科学では解き明かせない神秘的な宇宙的な根源が示されている。そして、人間の精神の発露でもある。それがこの音楽という側面を考える上で不可欠のようである。

 

 ラーガの基となる音階は72種類あるが、インド音楽の研究者たちは、その組み合わせによって、6000以上のラーガが存在すると見積もっている。しかし、ラーガは、単に音階の上昇や下降の構造だけの問題ではない。 ラーガには、そのラーガに特徴的な「チャラン」と呼ばれる音型、主要な重要音(ヴァディ)、2番目に重要な音(サマヴァディ)、そして「ジャン」(生命)または「ムクダ」(顔)として知られる主な特徴がなければならない。


 美学の観点から言えば、ラーガはアーティストの内なる精神の投影なのであり、音色と旋律によってもたらされる深遠な感情や感性の顕現でもある。 音楽家は、それぞれのラーガに命を吹き込み、展開させなければならない。 インド音楽の九割は即興演奏であり、芸術の精神とニュアンスを理解することに依存しているため、アーティストと師匠との関係は、この古代の伝統の肝心要となっている。 音楽家を志す者は、最初から、芸術的熟達の瞬間へと導くための特別で個別的な注意を必要とする。 ラーガの独特なオーラ(「魂」と言ってもいいかもしれない)とは、その精神的な質と表現方法であり、これはどんな本からも学ぶことはできないのです。


 師匠の指導とその祝福のもとで、何年にもわたる献身的な修行と鍛錬を積んで初めて、芸術家はラーガに「プラーナ」(生命の息吹)を吹き込む力を得ることができる。 これは、「シュルティス」(1オクターブ内の12半音以外の微分音、インド音楽は西洋音楽より小さな音程を使う。(1オクターブ内に22個)の使用など、師から伝授された秘密を用いることで達成される。

 

 また、インド音楽独自の特殊奏法も存在する。例えば、「ガマカ」(1つの音と他の音をつなぐ特殊なグリッサンド)、「アンドラン」(揺れ-ビブラートではない)などは西洋音楽には求めづらいものである。その結果、それぞれの音は生命を持って脈動し、ラーガは生き生きと白熱する。


 インド音楽を聴く上で最も不可欠なのはリズムの複雑さと豊富さにある。4ビート、8ビート、16ビートといった西洋音楽では一般的なものから、2つか3つのリズムを組み合わせた9ビートまで存在する。それは、ラーガの「ターラ」、「リズムのサイクル(インド独自の拍節法)」に明確に反映されている。これは最終的には円に描かれ、ラーガその経典のような意味を持つ。



 

 
 ターラには、3拍子から108拍子まで存在する。有名な拍節は、5,6,7,8,10,12,14,16拍子である。 また、9,11,13,15,17,19拍などのより細かなサイクルもあるが、これは稀に優れた音楽家によってのみ演奏される。ターラ内の分割と、最初の拍(和音と呼ばれる)の強調は、最も重要なリズム要素である。 同じ拍数のターラがある一方、分割とアクセントが同じでないので、それらは異なっている。 例えば、「Dhamar」と呼ばれる14拍を「5+5+4」で分割したターラがある。別のターラ「Ada Chautal」は同じ拍数ですが、「2+4+4+4」で分割されている。


 インド古典音楽は、ジャズの原始的なインプロバイぜーションの性質を有している。つまり基本的にはジャズとの相性が抜群なのかもしれない。シタールやタブラの演奏がトランペットやピアノ、そしてサックスのような楽器とよくマッチするのはこういった理由がある。演奏者は演奏する前に、セッティング、リサイタルにかけられる時間、その時の気分、聴衆の気持ちを考慮する必要があります。 インド音楽は宗教的なものであるため、音楽家の演奏のほとんどに精神的な質を見出すことができる。これらはライブのセッションなどでより明瞭な形で現れる。


 ラーガの演奏は、厳密に言えば、一つの音楽形式のようなものが存在すると、シャンカール師匠は説明している。伝統的なインドのラーガのリサイタルは、「アラップ・セクション」(選ばれたラーガの重厚で静謐な探求)から始まる。 このゆっくりとした、内省的で、心に響く、悲しいイントロダクションの後、音楽家は次の演奏のステップである「ジョール」に移る。 このパートではリズムが入り、複雑に発展していき、即興演奏の性質が色濃くなる。 すると、ラーガの基本テーマに無数のバリエーションがもたらされる。 アラップにもジョールにも太鼓の伴奏はありません。反面、サワル・ジャバブ(シタールとタブラの目もくらむような素早い掛け合い)は、スリリングな相互作用で、不慣れな聴き手をも魅了するパワーを持っている。
 
 
 ラヴィ・シャンカールに関しては、最初期にラーガ音楽の伝統を伝えるオリジナルアルバムを発表している。いずれも原始的なインド音楽の魅力、背後に流れるガンジス川のごとき悠久の歴史を感じさせる。原始的で粗野な側面もあるが、宮廷に献呈された音楽もあり、民衆的な響きから王族の優雅な響きにいたるまで、広汎な魅力を有しているのにお気づきになられるだろう。
 
 
 

「Dhun」- Ravi Shankar(ラヴィ・シャンカル)


ジャコ・パストリアスは型破りな演奏家として知られているが、一方、モダンジャズの先駆者で、ニュージャズやクロスオーバージャズへの橋渡しをした数奇な存在でもある。ベーシストとしては、ジャズ・ファンクからアフロキューバンジャズ、エスニックジャズ、アヴァンジャズ、R&B、それらを一緒くたにするフュージョンといった多彩な音楽性の中で、このジャンルの可能性を敷衍させる働きをなした。彼を一定のグループの中に収めることは難しいのではないか。

 

そもそも、たまたまジャズマンとして活躍しただけで、ロックミュージシャンと見なされた時期もあったのだし、彼の念頭にはこのジャンルだけが存在したとは到底考えづらいのである。ベーシストとしては、フレットレス・ベースの演奏、ミュート、ハーモニクスの奏法に関して、大きな革新性をもたらした。同時に、スラップ奏法の先駆的な技法も見受けられる。さらにアヴァンギャルドな演奏法の中でも、ミニマリズムの技法を駆使することがある。ロックミュージシャンはもちろん、エレクトロニックの界隈でも影響を受けた方は少なくないのではないか。

 

ジャコ・パストリアスは、1951年12月1日にフィラデルフィア州ノリスタウンに生まれた。父はドラマーで、彼のことを「ジャコ」と呼んで可愛がった。1958年、ジャコ一家は、フロリダのフォート・ローダーデイルに転居した。この街は、キューバ、ジャマイカからの移住者が多かった。このことが、後に、中南米の音楽をジャズの中に織り交ぜるための布石となった。ドラマーである父親の影響は大きかった。しかし、パストリアスは明確なレッスンを受けないまま、器楽奏者として多彩な才覚を発揮するようになった。子供の頃から、ドラム、サックス、ギター、ベースの演奏を難なくこなすようになった。だが、当初は父親と同じくドラマーを志していた。

 

彼は13歳の時、フットボールの競技中に右腕を負傷した。このことでドラマーになる夢を断念した。しかし、彼は簡単に音楽の道を諦めることが出来なかった。17歳のときには手術を受け、ようやく彼の腕はふつうに動くようになり、ベーシストとしての道を歩むことを決意する。 パストリアスは、すでにプロになるまえに結婚していたが、妻が身ごもったために、やむなく洗車場で働いたことが伝えられている。パストリアスは妻の出産前に、700ドルをためていたが、子供が生まれるおよそ一ヶ月前に、これらの費用をアンプ代につぎ込んでしまった。だが、その後、パストリアスは500ドルを貯め、それを妻の出産の費用に宛てたのである。

 

すでに娘が生まれた頃、どうやらベーシストになる決意は固まっていた。彼はレコードを聴いたり、本を読んだりするのを中断し、ベースの演奏や自作曲の制作に昼夜没頭するようになった。エレクトリック・ベーシストというのは、フュージョンジャズの文脈から登場したが、彼が伝統的なコントラバス奏者ではないにもかかわらず、ジャズシーンでも高い評価を受け、そしてジャコ・パストリアスという固有的なサウンドを生み出したのは、この時代の鍛錬によるところが大きいと伝えられている。独創性、技術、そして卓越性、どれをとっても一級品であるパストリアスの代名詞となるサウンドの多くは、彼が名もなきミュージシャンとして活動していた時代に培われたものであった。しかし、ジャコ・パストリアスのベースは、従来のウッドベースの奏法に依拠するところが大きい。彼がソロ活動やバンドを始める以前のウェザー・リポートのジョー・サヴィヌルは、初めてパストリアスの演奏を耳にしたとき、こう尋ねたという。「それで、君はエレクトリックベースを弾けるのかい?」よもやサヴィヌルは彼がそのサウンドがエレクトリックベースによって奏でられたものだとは思わなかったというのである。

 


優れた音楽家がいると、周りに秀逸なプレイヤーが自然に集まって来るということがある。例えば、ジャコ・パストリアスの場合、すでにマイアミ大学に在学中に伝説的なジャズ・ミュージシャンと知己を得ていた。まずはシカゴのギタリスト、ロス・トロウトにはじまり、その後はピアニストのポール・ブレイと仕事をした。また、同じ頃、パット・メセニーと知り合った。

 

ジャコ・パストリアスは、パット・メセニーの自宅で演奏したあと、ポール・ブレイと一緒にライブ・アルバム『ジャコ・パストリアスとの出会い(Jaco Pastorius / Pat Metheny / Bruce Ditmas / Paul Bley)』(1974)、『Broadway Blues』(1975)で共演したほか、また、後には、パット・メセニーのスタジオアルバム『Bright Size Life』(1976)にも共同制作者として名を連ねている。また、同年、ジョニ・ミッチェルのアルバム『Hejira』にも参加した。

 

伝説的な演奏家との共演の機会を経て、ジャコ・パストリアスの名声は高まりつつあり、フロリダ/フォート・ローダーデイルのナイトクラブ「Bachelors Ⅲ」に出演するようになった。レイ・チャールズ、ティナ・ターナー、アル・グリーンなど錚々たる顔ぶれが出演するなか、ジャコ・パストリアスは、ハウスバンドを率いていたアイラ・サリヴァンのコンボで演奏を務めたのである。

 

 


1975年の夏、彼に決定的なチャンスがやってきた。このクラブで当時大人気だったジャズ・ロック・グループ、BS&T(ブラッド・スウェット&ティアーズ)が出演したとき、ドラマーのボビー・コロンビーに才覚を認められ、彼の紹介もあって、パストリアスはデビュー・アルバムをエピックでレコーディングすることになった。その翌年、彼がニューヨークで録音をおこなっていた時、ウェザー・リポート(Weather Report)のジョー・サヴィヌルと再会した。

 

当時、サヴィヌルは、バンドのアルバム『ブラック・マーケット(Black Market)』を録音していた。ジャコ・パストリアスの顔を見るなり、「ちょうどよかった。フロリダサウンドが欲しかった!!」といい、さっさとパストリアスを引き連れ、バンドメンバーに迎え入れることになった。

 

1976年、ソロデビューアルバム「Jaco Pastorius(ジャコ・パストリアスの肖像)」がSony/Epicから発売された。大胆にもセルフタイトルを冠してである。アルバムは彼をレコード会社に紹介したコロンビーがプロデュースした。

 

従来から言われているように、ジャコ・パストリアスのベースの演奏は、オルタード・スケールを活用することが多い。しかし、スケール的にはスタンダードなものが基本になっている。しかし、このデビューアルバムの多彩さはなんだろうか。彼が影響を受けた音楽のほとんどを凝縮させたかのようでもある。デビュー作であるというのに、アンソロジーのような印象があり、末恐ろしいほどの才覚が11曲に詰め込まれている。

 

驚くべきことに、彼のデビューアルバムには、クラシック、ジャズ、現代音楽、ファンク、R&B、そしてラテン音楽を始めとするエスニックすべてがフルレングスにおさめられている。その中でも、ミュートやハーモニクスを生かした「Portrait Of Tracy」、民族音楽のリズムを取り入れ、それらをジャズとミニマリズムから解釈した「Okonkole y Tromba」等の独創性が際立っている。また、「Opus Pocus」ではカリブ海のスティールパンの演奏が取り入れられている。当時は「フュージョン」とも称されていたが、クロスオーバージャズの先駆的なアルバムでもある。今なおジャコ・パストリアスの演奏、そして作曲は鮮烈な印象をとどめている。



 

ジャコ・パストリアスはベースに演奏だけではなく、オリジナルの作曲にも夢中になった。つまり、エピックからワーナーに移籍した頃、「僕は自分のベーシストと同じくらいの比重で作曲家であると考えている」と語ったことがある。この自負は、誠実な思いでもあった。

 

それは時々、編曲という形に表れ出ることがあった。いつ彼がクラシックを聴いていたのか、もしくはスコアを研究していたのかは定かではないが、1981年に発表されたセカンドソロアルバム『World Of Mouth』では、「半音階幻想曲(Chromatic Fantasy)」という曲が登場し、これはバッハの半音階幻想曲とフーガ(BMV903)の編曲あるいはオマージュである。他にもビートルズの「Blackbird」をアレンジしている。

 

一般的には、彼の演奏や作曲の中には、ファンク、R&Bの系譜とスタンダードジャズが含まれているが、それと同時並行して、クラシックの影響をジャズの中に織り交ぜようと試みていた。彼はジャレットと同じように、カウンターと伝統という対極の性質を持ちながらも、ほとんど同根にある二つの音楽ーージャズとクラシックーーの並列が可能であるかを見定めていた。

 

この曲は、最初はクラシックふうに聞こえるが、後半にはオーケストラの民族音楽へと変化していく。レスピーギやラヴェルが探求していた、エスニックとクラシックの融合である。これはプログレッシヴ・ロックと並行するようにして1970年代のフュージョンの時代の音楽という実感を抱く。

 

 

 

それだけではない。ジャコ・パストリアスはまるで彼自身のルーツや音楽的な原点を再訪するかのように、もうひとつカリブ海の沿岸地域の音楽をジャズの中に率先的に導入していた。キューバのようなカリブの音楽といえば、まずはじめにブエナ・ヴィスタ・ソシアル・クラブが思い浮かぶが、ジャコ・パストリアスの場合は、フリージャズのような刺激的なジャズの形式と融合させた。同じアルバムの「Crisis」のような楽曲に、その影響を発見することが可能である。

 

一時期、彼は、ショーバンドのメンバーとなったあと、観光船のバンドに入ったことがあった。そして、メキシコ、ジャマイカ、バハマ、ハイチなどを訪問し、多彩なラテン音楽を自分の音楽的な糧としていった。彼は、実際、これらの土地で現地のミュージシャンと親しくなり、ラテン音楽の手ほどきを受けた。「音楽的な仕事はしなかったけど、かなり勉強になった」というジャコ・パストリアスの言葉には、表面的なもの以上の奥深い意味が含まれている。未発表の作品やライブ盤を除いて、わずか二作のスタジオ・アルバムしか録音しなかったジャコ・パストリアス。以降の時代を生きていれば、もちろん、ECMの録音を遺しただろうし、ラテン音楽の世界的な普及にも努めたに違いない。少なくとも、そういった心残りを補うために、上記の二作のアルバムは存在する。いや、それ以上の価値があるのではないだろうか。

 

 

1.土門拳のフォトグラフィーの精神 

 

土門拳は、近代日本の最高峰の写真家である。現在は、彼の功績に因み、優れた報道写真を表彰する毎日新聞社主催の「土門拳賞」が設けられている。彼は、昭和時代にかけて、様々な写真を撮影した。土門の写真は単なる写真とは言いがたく、それ自体が芸術作品のような意味を持つ。大別すると、彼は三度作風を変更した。最初期はジャーナリズム、中期は肖像写真、そして、最晩年は仏像や寺を始めとする日本の美というように、年代ごとに主題を変更した。最初期は、浅草の風物、占領後の東京の風景、南京陥落時の東京、海軍の訓練風景、とりわけ、映画文化が隆盛を極めた浅草六区の写真等が有名である。名文家としても知られ、朝日カメラ、日本経済新聞の名物コラム「私の履歴書」にエッセイを寄稿した。また、日本工房に入社後、早稲田大学と東京女子高等師範学校の卒業アルバムの写真を名取洋之助とともに担当した。

 

カメラマンという職業がプロとして認知されていなかった当時の日本において、職業的な地位を引き上げた功績はあまりにも大きい。土門は、当初、カメラマンになりたての頃、ライカとローライを使用し、写真を撮影していた。また、カメラの構え方にも独特な名称が付与され、土門の「上段構え」は有名である。さらに、強面の風貌から「鬼の土門」とも称されることがあった。晩年は、車椅子暮らしになり、撮影の機会は減少したが、変わらぬ撮影意欲と表現精神を貫いた。

 

当初、ジャーナリスティックな写真を撮影していた。しかし、最も重要視すべきは、市民生活の風景をリアリズムの観点から撮影していたということである。彼の写真のアンソロジーはそのまま近代日本の歩みを意味するといっても過言ではない。現代の芸術家の大半が空想主義に逃避し、現実を反映させることを忌避しているが、少なくとも土門がシャッターを切ったとき、そこにリアリズムが生み出され、普遍的な写真が生み出された。それは彼の考えの中に、”現実をそのまま映す”というものがあったからである。土門拳は生前、”非演出の尊さ”について力説している。脚色をほどこすことは、現実を歪める行為であり、報道写真家として、それは現実を写していないということになる。そのことを土門拳は弁別していた。彼は偽りを嫌い、本当を愛した。

 

 

近藤勇と鞍馬天狗(江東区で撮影 昭和30年)


しかし、動乱の時代が、彼の作風を変化させたのは言うまでもない。当初は東京の下町の風景、一般的な通俗ーーそれは人間の魅力や友情、地域の絆という考えにまで敷衍することもあったーーを写真として切り取りながら、 プロカメラマンとしての腕を磨いていった。彼は、報道写真が社会的な影響力を強める中、取材をしながら写真を映すというジャーナリスティックな性質を強めていった。土門拳は、1934年頃から、朝日、日日(大阪)、読売、報知等、有力紙の取材写真を担当した。当時について、土門は、『写真文化』の昭和18年の3月号で振り返った。「昭和9年(1934年)から10年にわたって、各新聞では、毎週一回、「写真ニュース」、「日曜セクション」といった新聞的なニュース以外の題材を求め、各社とも企画を練って競争していた。・・・中略・・・、また、ライカをはじめとする小型カメラの普及は撮影上の革新をもたらした。今や日本の報道写真はようやく前期的な形で展開しつつあった」

 

第二次世界大戦前の日中戦争を通じて、アジア全体に勢力を強めつつあった日本の姿を政治的な視点から捉え、南京陥落、出征の様子をレンズで捉えた。その中では「婦人画報」の特集のため、当時の外務大臣を務めていた宇垣一成大将を撮影する機会にも恵まれた。1938年頃、すでに宣伝や権威付けのための写真ーー世の中は明らかに宣伝的なプロパガンダを必要としていたーーを撮影した。しかし、この象徴的な写真が横浜からアメリカへと輸出され、「LIFE」の9月5日号に掲載された時、盟友であった名取洋之助と完全に決裂することになった。

 

だが、こういった権威的な写真だけが土門拳の地位を高めたとは言いがたい。彼のリアリズムの考えとは民衆のそのままの生活をネガに収めるというものだった。特に、土門は地方に取材にでかけ、筑豊炭田の農民の暮らしを撮影した。これは民族的な記録という重要な資料となったのみならず、農村部の生活の魅力と悲惨さという対極的な二つのリアリズムを克明に表現したのであった。

 

日本経済新聞の昭和52年(1977年)12月号に掲載された名物コラム「私の履歴書」において、土門拳は次のように寄稿している。「筑豊の撮影は、はじめからぼくが考えていたわけではない。パトリア書店の編集者が来て、炭鉱の休業つづきで、数千数万もの炭鉱に働く労働者みんなが失業してしまった。本人はもとより、その家族も含めて、大変な生活苦になやんでいる。その悲惨さをぼくに撮れというのだ。その悲惨な状況を撮ることによって、社会に訴え、炭鉱の失業労働者を、少しでも助けることができないものか、というのだった」「それを聞いて、ぼくは奮起した。旅費を預かると、すぐさま用意して九州に飛んだ。九州の炭田地帯は福岡県に多かった。そして失業者の苦しみは、福岡全県に広がっていた。ぼくは、県の中央を流れる遠賈川一体の田園地帯で、失業者の充満している町々を、次から次へと撮ってまわった」

 

表向きには表れ出ない市井の人々の暮らしをカメラにひとつずつ丹念に収めていく。こういった土門の写真に対する精神は、「筑豊のこどもたち」 と題された写真集に明瞭に滲み出ている。


戦前の時代の写真については、文楽といった個人的な好みを題材にした作品や、子供や農民の暮らしにフォーカスした写真を多く撮影した。確かに、都市部とは異なる農村部の厳しい暮らしも撮影したが、他方、土門の写真に一般的な庶民に対する慈しみの眼差しが注がれているように思えてならない。彼の写真は静かなものから動きのあるものに至るまで、端的に主題が絞られており、脚色のないあるがままの一般市民の生活を捉えようという精神が見事に宿っていた。

 

 

 

2. 戦後の動乱の時代  戦後とヒロシマ リアリズムの確立


原爆ドーム
 

昭和20年(1945年)、8月15日の終戦後、土門拳はフリーカメラマンになった。数々の組織や団体が解体される中、彼は独立カメラマンとしての道を歩む。土門は、当時、自宅を構えていた築地の明石町の自宅で進駐軍を相手にDPE(宅配の写真プリント)を開始した。一般的なカメラマンとは異なり、彼は銀座などの繁華街を中心に、市民生活が立ち直っていく様子をスナップに収めた。戦時中、土門拳は、プロパガンダのための宣伝写真を撮影していたこともあってか、その反省をもとに、より現実的な写真を撮影し、リアリズム主義を標榜しながら力強い活動を続けた。カメラマンとしての評価は高まり、1946年頃から、雑誌の仕事が増えてきた。そんな中、カメラ雑誌「フォトアート」の審査員としても活動し、誌上でアマチュア写真家にリアリズム写真を志すことをすすめた。カメラブームも相まって、全国で土門ブームが発生した。

 

彼は強固なジャーナリスト精神を発揮した。しかし、従前とは異なり、現実主義の写真を撮影しつづけた。彼の写真は、社会問題を提起する力があり、同時に、感覚に訴えかけるものがある。この時代には、ヒロシマの原爆ドーム、被爆した家族を撮影し、筑豊炭田の農村にでかけ、取材写真を撮影するなど、「社会派の土門」という印象を確立した。特に、被爆した家族の写真は、痛切な現実を生々しく捉え、写真そのものから戦争の悲惨さを伝えるものであった。


山形美術館学芸館長のおかべのぶゆき氏は次のように綴っている。「土門はこの頃、写真家は、対象の典型的なものを捉えようとする。対象の典型的なものは、対象の内部にひそむ。それはより正確に言えば、対象を対象たらしめている人間的な意味である。それを写真家は頭で考えるのではなしに、目で見なければならない」

 

特に、土門がこの時代にヒロシマの写真を多く撮影している。週刊誌のグラビア取材のため、広島を訪れた土門は、 その現実に驚愕し、1957年の7月から11月にかけて、何度もこの地を訪れ、7800コマ以上の撮影を行った。撮影の経緯、取材状況、社会の不条理に対する土門の痛切な思いが「広島ノート」として写真集に収められている。また、このことに関して、大江健三郎は「新潮」(1960年2月号)で「土門拳のヒロシマ」という文章を寄稿している。土門は最初に「週刊新潮」の取材でヒロシマを訪れたときのことをこのように振り返っている。

 

「ぼくは、広島に行って、驚いた。これはいけないと狼狽した。 ぼくなどは”ヒロシマ”を忘れていた。というよりはじめから何も知ってはいなかったのだ。今日もなお「ヒロシマ」は生きていた。それをぼくたちは知らなすぎた。いや、正確には、知らされなさすぎた」 


土門は現地の現状のリアルが報道されないことに対して、義憤のようなものを感じ、それをスナップに収めようとしたのだった。

 

原爆後遺症に苦しむ患者や家族の写真を収めた土門拳の写真集「ヒロシマ」は1958年に刊行された。土門のこの時代の写真は、単一のスクエアに映し出されたものではない。彼の写真は、記憶の代わりを果たし、この時代の痛切な現実を広く伝えようとしていたのである。また、彼が特にヒロシマに力を入れたのは、戦前の時代にプロパガンダ写真を撮影していたこともある。少なくとも、彼は自らの写真に関し、何らかの哀切な思いに駆られたのは想像に難くない。

 

 

 


3.肖像写真  文化人を記憶として残す

久我美子と小津安二郎

土門拳は、報道写真とならんで、文化人のポートレイトも多数撮影した。文学者、俳優、画家、芸術家、民俗学者に至るまで、信じがたいほど多くの文化人の撮影を行った。谷崎潤一郎、川端康成、志賀直哉、柳田國男といった文豪や研究者、梅原龍三郎、上村松園、岡本太郎、藤田嗣治といった著名な画家、九代目の市川海老蔵、中村梅玉、水谷八重子、森繁久彌といった歌舞伎役者や俳優、小津安二郎、三島由紀夫、久我美子といった映画監督やスターを撮影した。


土門は、日本の各業界の象徴的な人物を撮影し、一つの文化の潮流を捉えようとしたのであろうか。そして、推察するところでは、もしかする土門拳は有名人に憧れるような一面があったかもしれない。土門拳は平生から撮影したい人物の名を襖や墨紙に記しておき、それを室内に貼り付けていた。構想に十年を要したこれらのポートレイト集は、1953年に『風貌』として出版された。この写真集には、83点、総勢85名のそうそうたる文化人の写真が収録されている。

 

ところが、いかに土門拳とは言え、写真撮影に苦労したこともあった。 中でも、写真嫌いの梅原龍三郎の撮影には苦心し、撮影中に梅原の口がわなわなと震え始め、撮影が終わると、座っていた籐椅子を床に叩きつけた。これを期に、土門は、演出的な写真を撮影していたことを顧みるようになる。しかし、当時の肖像写真は相当な評価を獲得した。高村光太郎は土門の写真について次のように評した。「土門拳はぶきみである。土門拳のレンズは人物や物の底まであばく」  土門はその人物の典型的な表情が現れる瞬間を待って、シャッターを切った。しかし、『風貌』に見いだせる土門自身の文章には、一般的な考えよりも奥深い考えが宿っている。

 

「気力は眼に出る。生活は顔色に出る。教養は声に出る。しかし、悲しいかな、声は写真のモチーフにはならない。撮影で瞬間の表情にこだわるのは馬鹿げている。人間は誰でも笑ったり、泣いたりする」

 

「撮らせよう撮ろうという、いわば自由契約の関係で出来るのが肖像写真である。 だから撮られる人は始めから余所行きである。しかし、撮られている人に、撮られているということを全然意識させない肖像写真こそ、今後最大の課題である。つまり、絶対非演出のスナップ写真こそ、今後の課題である」

 

彼は撮影に苦労するほど、良い写真が撮れるとも述べている。それは人物のあるがままをリアルに写せる可能性が高いからなのだろうか。「玄関払いを食らわせるような手強い相手ほど、かえっていい写真が撮れる。玄関払いを食らったら、写真家は勇躍すべきである」 また、実際的な良質なポートレイトを撮影するための秘訣についても説明している。「ライティングは強調と省略の手段である。ロー・アングルはモチーフを抽象する。ハイ・アングルはモチーフを説明する。ピントは瞳にーーーー、絞りは絞れるだけ絞り、シャッターは早く切れるだけ切る」


 


4.古寺、仏像、そして風景  室生寺の主題から見るリアリティ

室生寺


やがて、土門拳の写真にも、再び変革期が訪れた。彼は探したのは、ーー真実の中の真実ーーリアリズムの精華ーーである。


彼は心を落ち着かせる写真を撮影するようになった。戦前から土門は、文楽などの日本の伝統芸能に興味をいだき、それを撮影することもあったが、いよいよ、彼の写真は、仏像、古刹、日本の原初的な風景を映し出すうち、「古寺巡礼」で集大成を迎えた。戦後の報道写真には、心を揺さぶられるものが多く、眺めているだけで涙が浮かんでくるものもある。しかし、写真の大家は、おだやかで瞑想的な境地を目指した。扇動的なものを避けて、写真自体を崇高な芸術的な領域に引き上げ、そして、実の写真に相対した時、無我の境地に至らせるものである。ここに、土門の''究極のリアリズム''が誕生したと言える。彼は、写真の奥深い魅力、現実をどのように反映させるのか、というこれまでにはなかった視点を創り出すことに成功したのである。

 

写真というのは、そのときにしか撮影出来ないスナップショットというのがある。それは偶然の要素が強く、天候や時期、その日の状況によって大きく左右される。プロのカメラマンは、もちろん、技術的な撮影技術と合わせて、偶然の要素をうまく味方につけ、素晴らしい写真を撮影するものである。そしてまた、何度も足を現地に運ばなくては、撮影出来ないショットが存在する。特に、土門がライフワークに据えたのは、奈良にある室生寺の撮影であった。1939年に室生寺を訪れたあと、彼は幾度となくこの古刹に足を運んだ。1959年、土門は、脳出血の後遺症によって、35ミリカメラを扱えなくなってから、集大成「古寺巡礼」のアイディアを練り始めた。彼は小学館から平成3年に刊行された「日本の仏像」の中で次のように回想している。

 

「仏像とぼくの初めての出会いは、奈良の室生寺である。前夜、室生寺の向かいに宿をとったぼくは2階の手すりに腰をおろして、まだ見ぬ仏像に思いを馳せながら、寺の堂塔を睨んでいた。翌早朝、清流にかかる太鼓橋を渡り、室生寺に入った。室生寺は杉の大木に囲まれた伽藍も神秘的だったが、堂内の仏像に対峙したとき、ぼくはハッと目を開かれた思いがしたのを、今もって憶えている。ぼくの、そして日本人の遠い先祖にめぐりあったような気がしたのである」


「それから30年、写真集『古寺巡礼』第四集にいたるまでに、いったい何体の仏像を撮影したことだろう。こわい顔をしたのもある。微笑んでいるのやら、おつにすました仏像もある。ぼくにとって、仏像の顔を思いかえすのは、恋人の顔を思い浮かべるようなものである。『土門さんはずいぶんたくさんの恋人がいるんですね』といわれても、ぼくは甘んじて受け入れる。ぼくの撮ったすべての仏像が仏像巡礼中に出会った素敵な恋人たちである。なんとも幸福なことではないか」


仏像や焼き物、そして日本の風景など、土門が後年になって撮影した写真の多くは、その端的な写真芸術としての素晴らしさだけが美点ではない。彼の積み上げてきた技術や感覚が、彼自身の慈しみの眼差しを通じて写真に収められていることが分かる。それがゆえ、土門の映し出す法隆寺、唐招提寺の本尊の姿はたとえ、おそろしげな形相をしていたとしても慈しみのある面持ちをしている。それは彼自身の視点が慈しみをもっていたからであろう。後年、土門拳は車椅子生活を余儀なくされたが、写真の撮影をつづけた。「仏像も建築も自分の写される視点を持っていると思うのである」と、土門は『古寺巡礼』で胸中を綴っている。

 

「ぼくは被写体に対峙し、ぼくの視点から相手をにらみつける。そして、ときには、語りかけながら被写体がぼくをにらみつけてくる視点を探る。そして、火花が散るというか、二つの視点がぶつかったときが、シャッターチャンスである。ーー中略ーー、強がりを言って居直っているが、たしかに車椅子からみるのは不自由なことである。足で歩き、瞬時の隙ものがさずに捉えていく。これがまっとうな撮影であるにはちがいない。しかしながら、半身不自由の身になったいま、もうそれはかなわないことである。ぼくは、自身の視点を信じ、被写体の視線をさぐって車椅子を前に押させる。さらに視点が低くなり、左足が体を支えきれなくなったとしても、ぼくの眼が相手の視点を捉えられる限り、ぼくは写真を撮るのである」


土門拳は、かねてから雪の室生寺を撮影したかったが、あいにく天候に恵まれなかった。それが2冊目の室生寺の写真集をカラーで出そうとしたとき、ついにその悲願が実現した。土門は病院で一ヶ月待機をしてから、雪の室生寺を撮影した。写真家にとっての冥利とは、すべて美しいものを撮り終えたという思いにあるのではないか。彼は、雪の室生寺を石段の下から撮影した後、二度と室生寺を訪れなかった。それは、これ以上美しい室生寺を撮影出来ないと考えたからなのか。実際的に後年の平等院鳳凰堂や法隆寺の写真と並び、土門拳の最高傑作とも言えるだろう。晩年の土門の写真は間違いなく、写真という枠組みを超越し、絵画の世界に近づいていた。



 お正月の定番曲 宮城道雄 「春の海」 瀬戸内海の鞆の浦との関わり

瀬戸内海 鞆の浦 国立公園に指定されている

 

 「風物」という言葉を使おうとすると、少しだけ古風な印象を覚えざるをえない。というのも、結局、日本的な光景という不確かな感覚が、今やどこかに忘れさられつつあるからなのだろうか。そこでつくづく思うのは、現代の日本において「日本的」とされているものの多くが、人為的に作られた文化であり、それはまた上辺の景物と言わざるを得ない。日本的な情緒を感じることは、年々少なくなりつつある。もしかりに、そういったものが見つかるとすれば、例えば、一般的に旅行のガイドブックやパンフレットには掲載されることの少ない「人の手の入らない原初的な場所や地域」であろう。もちろん、日本文化とて、多くの大陸国家と同様に、完全に独自の島国のカルチャーとして存続してきたわけではない。たえず、大陸との交流により発展し、例えば、清や唐、南蛮との貿易によって、文化の混交として成立してきたのだから、結局のところ、クロスオーバーという考えによって文明が構築されてきた経緯があるのだ。

 

 

写真: 田村茂
 宮城道雄は、1930年に日本音楽の名曲「春の海」を作曲した。彼は「検校」という盲目の最高官職にあり、また数々の文化的な貢献を認められた文化人で、箏曲の作曲を専門とし、東京藝術大学の前身である東京音楽学校の教師も歴任した。

 

 おそらくは、宮城道雄もまた、岡本天心、横山大観といった日本の芸術のアカデミズムの先鋭的な気風を形作った派閥の系譜であると言っても良いのではないか。また、生花や能楽といった師範制度にある日本の伝統音楽の教育にも注力し、多くの弟子を育てた。宮城は、9歳の頃から盲目であったが、弟子の心を読む天才でもあった。弟子は、師匠が自分の考えていることをピタリと当てるのをおかしがったという。

 

 

 そもそも、宮城は、日本の音楽的な文化に多大な貢献をしたことは確かなのだが、月次な日本人ではあるまい。神戸の外国人居留地で生まれ育ち、海外の輸入文化に強い触発を受けた人物である。外国人居留地は、横浜や長崎といった港湾地域で発展した外国人のための居住地である。後に「異人館」と称される、神戸の居留地で育った宮城が様々な西洋の魅惑的な文化を真綿のように吸収したことは想像に難くない。彼はまた、最も日本的な音楽を作曲して後世に伝えたが、かなりの洋楽マニアであったことが知られている。ラヴェル、ドビュッシー、ミヨー、ストラヴィンスキーをこよなく愛し、まごうかたなき文明開化後の文化人としての道を歩もうとしていた。当時、こういった音楽を聴いていたというのは、先進的な人物像であったことが伺える。彼の音楽的な表現方法が自然味に溢れていながらも、モーツァルトのように研ぎ澄まされ、洗練されている(無駄な音を徹底して削ぎ落とす)のは、こういった理由なのである。

 

「春の海」は、個人的な作曲とは言いがたい。語弊があるかもしれないが、公曲の一部として献呈された。1930年の宮中の歌会始の儀(宮中で天皇や皇后に捧げられるのが伝統となっている)の勅題「海辺巌」のために作曲された。 それゆえ、宮城は、この音楽が厳正な日本音楽の伝統に則っていないとしても、格式高い邦楽を制作しようとしたのは疑いない。そして、歌会始めの課題曲として提出されたということから、和歌を念頭に置いたのも事実であろう。与謝蕪村の「春の海」の一節「春の海 ひねもすのたり、のたりかな」というユニークな興趣が専門的な研究者によって比較対象に挙げられるのにも相応の理由がある。とりもなおさず、宮城の「春の海」もまた、ゆったりとして、のどかで、おだやかな、日本の海を思わせるからである。

 

 

 



 

 春の海を作曲するにあたって、宮城道雄は祖父の故郷で墓地がある福山の「鞆の浦(とものうら)」を題材に選んだ。 おそらく、失明する以前に彼は祖父の故郷を訪れ、その景観の美しさに心をほだされたのではないか。この曲において、日本的な情緒を表現するに際して、幼少期に見たであろう鞆の浦の穏やかさと活気という、彼の心の深くに刻まれた瀬戸内海の二つの麗らかな心象風景を音楽で表現しようとした。発表当時、音楽評論家から「伝統的な日本の音楽の形式に則っていない」と批評されたのは、この曲が基本的にはソナタ形式の三部構成から成立しており、バッハやヴィヴァルディ以前の西洋音楽のポリフォニーに触発されているからである。

 

 しかし、例えば、雅楽の例を見ても、厳密な和声進行というホモフォニックの構成が登場しないように、「春の海」の作曲を手掛けた時、宮城はおそらく、対旋律の構造にこそ日本音楽の源流が求められ、なおかつ、日本音楽独自の核心が存在すると見ていたのではないか。彼は西洋のソナタ形式に則って、日本的な文学のイディオムを登場させ、「緩ー急ー緩」という三部構成に組み直した。そして、バッハ以前のバロック音楽の対旋律法を踏まえ、それらを日本音楽の伝統様式の陰旋法に置き換えた。特筆すべきは、春の海にはフーガ的な技法の影響もわずかに見いだせる。そして、彼が幼少期に過ごした神戸の外国人居留地という風変わりな環境や物心つく頃に体験した「日本と西洋の文化の混交」という視点、そして、「西洋から見た日本的な文化(その反対も)」という視点にも、この人物にしかなしえない独自の音楽性を発見出来る。


 昨日、楽譜を見てみたところ、この曲は、尺八と箏という日本の伝統的な楽器が、二つの潮流を形作るように交互に配置されていることがわかった。そして彼は、この器楽曲が宮中の歌会にそぐうように、曲の中に和歌に準じた文学的な表現を込め、大和人の詩情を織り交ぜることも忘れなかった。三部構成の一部では、先述したように、ゆったりとして、のどかで、おだやかな内海の情景が描かれたと思えば、第二部へと移行し、船の櫂をこぐ様子や海鳥が空を優雅に舞うという一部の対比的な楽章へと移ろい、活気に充ちた動的な印象を持つ海際の風景が描かれる。日本の古典文学の副次的な主題にも登場する「益荒男」の表現性を見出すこともできるだろう。そして、最後には、再び導入部にあるおだやかな海の風景に帰っていくという一連の構成である。これは長大な海の流れが一つの海流を経て、元の流れに戻る様子を織り交ぜたかのようだ。確かに対比性という西洋的な美の観念が取り入れられているにせよ、その枠組の中で宮城は苦心し、日本的な情景や風物の美しさを音楽によって描写しようと試みたのだった。

 

 当初、「春の海」は日比谷で初演され、NHK広島のラジオで初放送されたが、大きな反響を呼んだとは言いがたかった。しかし、フランスのヴァイオリニスト、ルネ・シュメーが編曲すると、一躍、日本国内でも人気曲となった。シュメーは宮城に会い、彼もその熱意に押されるようにして編曲の旨を了解し、琴とバイオリンで共演するに至り、「春の海」がアメリカやフランスでレコードとして発売されるための重要な契機を作った。ルネ・シュメーは、BBC Promsへの出演記録が残っているが、フランスに帰国してから著名な演奏家として認知されたとは言いがたい。しかしながら、ヴァイオリンを中心として西洋風な編曲を施したこの曲の編曲バージョンは、以降のお正月の定番曲として知られるための文化的な素地を形成したのである。 

 

 瀬戸内海の鞆の浦は、日本で最初に国立公園として制定され、景勝地として名高い。風景の美しさには往古から定評がある。江戸時代から北前船の寄港地として栄え、以降、朝鮮通信使が徳川幕府への慶賀のため度々寄港した。福禅寺は古くから迎賓の場として使用され、本堂隣りにある対潮楼は名所として知られている。1690年に客殿として建立し、座敷からは内海の絶景が広がる。朝鮮通信使として当地に招かれた李邦彦は、その眺望を見るにつけ、「日東第一景勝(日本で最も美しい風景)」と評したほど。宮城道雄は、「春の海」を作曲するにあたって、この海岸の風景を思い浮かべだのたろうか。それは映像的な景物としては彼の目から失われたけれど、その美しさ、そして日本的な感覚は、その後も彼の心のどこかに残り続けたのである。