Apifera

 

アピフェラは、イスラエル出身のYuvai Havkin、Nitaii Hershkovis、Amir Bresler、Yonatan Albarakの四人によって結成されたジャズ・カルテット。音楽性は、電子音楽、ジャズ、民族音楽、また、オリジナルダブのような様々な音楽のクロスオーバーしたものであるといえるでしょう。

 

テルアビブに活動拠点を置くアピフェラは、2020年、LAの比較的知名度のあるインディペンデントレーベル”Stone Throw Records”と契約を結び、七作のシングル盤、一作のスタジオアルバム「Overstand」をリリースしています。活動のキャリアは二年とフレッシュなグループではありますが、それぞれ四人のメンバーは既にソロアーティストとしてアピフェラの活動以前に地位を確立しています。


彼ら四人の生み出す音楽性には、イスラエルという土地に根ざした概念性が宿り、西欧とも東洋とも相容れない独特な文化性によって培われたアート性が込められています。それはこの四人の音楽のバックグラウンドの多彩さにあり、イスラエルのフォーク・ミュージック、フランス近代の印象派の音楽家、モーリス・ラヴェル、エリック・サティ、スーダンとガーナの民族音楽、サン・ラのようなアヴァンギャルドジャズ、スピリチュアルミュージックまで及びます。従来の音楽スタイルを好んで聴いてきたリスナーにとっては、初めて、ポストロック界隈の音楽、あるいはまた、シカゴ音響派の音楽に接したときのようなミステリアスかつ魅惑的な音楽に聴こえるかもしれません。

 

イスラエル出身のアピフェラの音楽は、グループ名の由来である「蘭に群がるミツバチ」に象徴されるように、色彩豊かなサイケデリアのニュアンスも存分に感じられるはず。しかし、それは例えば、アメリカのサンフランシスコの1970年代に生み出されたサイケデリアとは異なり、アフリカの儀式音楽に根ざしたサイケデリア、西洋側の観念から見ると、相容れないような幻想性が描き出されているのが面白い。そのサイケデリア性は、全然けばけばしくもなく、どきつくもない、上品な雰囲気も滲んでいるのを、実際の彼らの音楽に耳を傾ければ、気づいていただけるでしょう。そのニュアンスは、これまで彼らがリリースしてきた作品のアルバム・ジャケットを見ての通り、ミステリアスでありながら、心休まるようなエモーションによって彩られているのです。

 

アピフェラの音楽は、即興演奏によって生み出される場合が多く、それがこのカルテットの音楽を生彩味あふれるものとしている。実際の作曲面においては、音の広がり、テクスチャー、音の温度差、といった要素に重点が置かれ、この3つの要素が、シンセリード、ギター、ベース、ドラム、電子音と楽器のアンサンブルの融合によって立体的に組み上げられていく。

 

また、オーバーダビングの手法を多用するあたりには、故リー・スクラッチ・ペリーのようなダブアーティストとの共通点も見いだされる。それから、ハウスのブレイクビーツのリズム性を取り入れたり、ジャーマンテクノのような旋律を取り入れたり、また、アバンギャルド・ジャズの領域に恐れ知らずに踏み入れていく場合もある。総じて、イスラエル、テルアビブ出身の四人組、アピフェラのサウンドは前衛的でありながら、懐かしいようなノスタルジアも併せ持っており、それは、このジャズカルテットの中心人物、Nitai Herdhkovisが語るように、「現実よりも明晰夢のような」サウンド、色彩的なサイケデリアが楽器のアンサンブルによって表現されています。

 

 

 

・「6 Visits」 EP   Stone Throw Records

 

 

 さて、今週の一枚として紹介させていただくのは、11月10日にLAのStone Throw Recordsからリリースされたばかりのイスラエル出身のアピフェラのミニアルバム「6 Visits」となります。

 

 




Tracklisting 


1.Beyond The Sunrays

2.Half The Fan

3.Psyche

4.Visions Fugitives-Commodo

5.L.O.V.E

6.Plaistow Flew Out


 

 

「Beyond The  Sunrays」 Listen on youtube:

 

https://www.youtube.com/watch?v=YQwpdB4VkPA 

 

 


Listen on Apple Music

 

 

他にも今週はブルーノ・マーズ擁するsilksonicの「An Evening At Silksonic」」が発表されたり、また、ジミー・イート・ワールドの「Futures」のライブ音源、また、KISSのデモ音源のリイシュー盤だったりと、比較的、話題作に事欠かない、今週の音楽のリリース状況ではありますが、今回、イスラエル出身のApiferaの新譜を紹介しておきたいのは、「6Visits」がミニアルバム形式でありながら、既存のヨーロッパやアジアの音楽シーンにはあまり存在しなかった前衛的作品であり、聞きやすく、スタイリッシュな格好良さもある。つまり、この作品「6 Visits」が多くのコアな音楽ファンにとって、長く聴くにたるような作品になりえるという理由です。

 

既に、前作のスタジオ・アルバム「Ovestand」において、異質なサイケデリックテクノ、プログレッシブテクノの一つの未来形を示してみせたテルアビブの四人組は、このEP「6 Visit」においてさらなる未知の領域を開拓しています。

 

このミニアルバムは、多くがインストゥルメンタル曲で占められていますが、ここに表現されているニュアンスは多彩性があり、このイスラエル、テルアビブ出身の四人組のカルテットの演奏に触れた聞き手は不思議な神秘性を感じるであろうとともに、バンド名「Apifera」に象徴づけられるように、さながら、蘭の花からはなたれる芳香に群がるミツバチのようにその音の蠱惑性にいざなわれていくことでしょう。ミステリアスな雰囲気は往年のプログレを思わせ、アバンギャルドジャズ的でもあり、ダブ的でもありと、音楽通をニンマリさせること請け合いの作品。

 

そこには、往年のジャーマンテクノ、また、YESのようなプログレッシブ・ロックのようなシンセサイザー音楽のコアな雰囲気が漂い、そして、ハウスのブレイクビーツを実際のドラムにより生み出すという点では、現代のイギリスあたりのフロアシーンの音楽にも通じるものがあるようです。

 

一曲目「Beyond The Sunrays」は、流行り廃りと関係のない電子音楽が展開されています。その他、オリジナルダブの原点に立ち戻った「Half The Fan」も、懐かしさとともに渋い魅力を兼ね備えています。

 

今作品に収録されているのはインストゥルメンタル曲だけではありません、三曲目「Phyche」は、ヴォーカルトラックとしてのエレクトロミュージックが展開され、ニュー・オーダーの音楽性にも近いクールさが込められているように思えます。

 

さらに、イスラエルの伝統的なフォーク音楽を、電子音楽の要素を交えて組み上げた「Visions Fugitives-Commodo」も、エレクトロニカをより平面的なテクスチャーとして捉え直した実験的な楽曲。また、アフリカ民族音楽を電子音楽という観点から再解釈した「Plaistow Flew Out」も、イギリスの最新のフロアシーンにも引けを取らないアヴァンギャルド性を感じていただけることでしょう。

 

表向きにはアバンギャルド性が強い作品ですけれど、作曲と演奏の意図は飽くまでリスナーの心地よさ、楽しませるために置かれ、もちろん、フロアで聴いて踊ってもよし、また、家でゆったり聴いても良しと、幅広い選択を聞き手に与えてくれる。全体的に見ると、新しいダンスミュージックの潮流、IDMという音楽の次なる未来形は、このアピフェラのEP作品を聴くにつけ、このあたりのイスラエル、テルアビブ周辺から出てくるのではないかと思うような次第です。

 

総じて、サイケデリアに彩られながらも知性溢れる作品であり、静かに聴いていると、音の持つミステリアスな精神世界の中に底知れず入り込んでいくかのような、深みと円熟味を持ち合わせた音源です。それほどイスラエルというのは多くの人にとってはまだ馴染みのない地域の音楽であるように思われますけれど、これから面白いアーティストが続々と出て来るような気配もあります。イスラエルのフロアミュージックシーンきっての最注目の作品としてご紹介致します。

 

 

・Apiferaの作品リリースの詳細情報につきましては、以下、Stone  Throw Recordsの公式サイトを御参照下さい。

 

  

Stone Throw Records Offical Site 

 

 https://www.stonesthrow.com/

 

 

 

 

 

 

 Enrico Rava

 

 

エンリコ・ラヴァは、1939年、イタリア、トリエステ生まれのトランペット奏者。最早トランペットの巨匠といっても差し支えないアーティスト。


Enrico Rava.com

 

マイルス・デイヴィスの影響下にある枯れた渋みのあるミュート、対象的な華やかなブレスのニュアンスを押し出したトランペット界の大御所プレイヤー。1960年代からアーティストとして活動をおこなっています。元々、トロンボーン奏者としてキャリアをあゆみはじめたエンリコ・ラヴァは、マイルス・デイビスの音楽性に触発され、トランペット奏者に転向する。

 

エンリコ・ラヴァのキャリアは、ガトー・バルビエリのイタリアン・クインテットのメンバーとして始まった。1960年には、スティーヴ・レイシーのメンバーとして活躍。1967年に、 エンリコ・ラバは活動の拠点をイタリアからニューヨークに移し、ソロトランペッターとして活動を行っています。



 

 取り分け、エンリコ・ラヴァのトランペットプレイヤーとしての最盛期は1960年代から70年だいにかけて訪れました。ジョン・アバークロンビー、ギル・エヴァンス、パット・メセニー、ミロス、ヴィトウス、またポール・モチアンといったECMに所属するジャズ界の大御所との仕事が有名。

 

また、イタリア、ペルージャで開催される「ウンブリア・ジャズ・フェスティヴァル」でのジャズ教育の20周年記念としてバークリー音楽大学から名誉博士号を授与されています。

 

 

 

 

 

・Enric Ravaの主要作品


トランペット奏者としての最盛期は他の時代に求められるかもしれませんが、ジャズのコンポーザーとしての最盛期はむしろ1990年代から2000年代にかけての作品に多く見いだされる遅咲きのトランペット奏者。マイルス・デイヴィス直系の枯れた渋みのあるミュートブレスが特徴のイタリアの哀愁を見事に表現するプレイヤー、ほかにも、「Italian Ballad」等、イタリアのトラディショナル音楽の名トランペットカバー作品をリリースしているラヴァ。ここで列挙する作品はプレイヤー、そしてコンポーザーとして最盛期を迎えた2000年代のジャズの名作群に焦点を当てていきます。



 

 

「Easy Living」2004  ECM Records

 

 

 

1.Cromomi

2.Drops

3.Sand

4.Easy LIving

5.Algir Dalbughi

6.Blancasnow

7.Traveling Night

8.Hornette And The Drums Thing

9.Rain


 

 

それまでビバップ・ジャズ、アヴァンギャルド・ジャズといった様々な実験性を見せてきたエンリコ・ラヴァではありますが、意外に自身のイタリアンバラッドとも呼べる独自の作風を確立したのは六十を過ぎてから、2000年代、つまり、ドイツのECMからリリースを行うようになってからといえるかもしれません。全盛期の華美なトランペットの奏法を踏襲しつつ、枯れた渋みのあるミュートブレスを演奏上の特質としたプレイをこの年代から追求していくようになりました。これは彼の最初の原点ともいいえるマイルスのジャズの歴代で見ても屈指の大傑作「Kind Of Blue」時代のジャズ・トランペットの原点ともいえる基本的技法に立ちかえり、そして、それを自身のルーツ、イタリアの伝統音楽の持つ独特な哀愁とも呼ぶべき風味をそっと添え、エンリコ・ラヴァらしい作風を、この作品において確立したといっても差し支えないでしょう。



 

特に、エンリコ・ラヴァの代名詞的な一曲「Blancasonow」はこの後の「New York Days」で再録されより甘美な演奏となってアレンジメントされていますが、アルバム全体としてみても、エンリコ・ラヴァらしいバラッド、それが非常にゴージャスかつ上質な雰囲気が漂っている傑作の一つです。これ以前の「Italian Ballad」でのバラッド曲の影響下にある枯れた渋みのある独特な演奏を味わえる作品。非常に落ち着いた作風であり、この年代にして備わったトランペッターとしての貫禄は他のプレイヤーには見出しづらい。

 

長年、アヴァンギャルド奏法をたゆまず追求してきたからこそ生み出されたトランペットの装飾音、独特な駆け上がりの技法の凄さは筆舌に尽くしがたいものがあります。既に技法をひけらかすという領域は越えており、楽曲の良さを生み出すためにそれらのアバンギャルドな技法が駆使されているあたりも、まさに「Easy Living」というタイトルにあらわされているとおり、大御所エンリコ・ラヴァの貫禄、余裕ともいうべきもの。楽曲としてのおしゃれさ、そしてBGMのような聞き方も出来る作品のひとつです。



 

 

 「Tati」2008 ECM Records

 

 

 

 

 

1.The Man I Love

2.Birdsong

3.Tati

4.Casa di bambola

5."E lucevan le stelle"

6.Mirrors

7.Jessica Too

8.Golden Eyes

9.Fantasm

10.Cornettology

11.Overboard

12.Gang Of 5

 

 

同郷イタリアのジャズ・ピアニスト、ステファノ・ボラーニ、そして、こちらも伝説的なジャズドラム奏者、ポール・モチアンが参加したプレイヤーの名だけ見てもなんとも豪華な作品。ここではより前作「Easy Living」よりも抑制の聴いた叙情性溢れる素敵なジャズ作品ともいうべきでしょう。

 

特に、今回、ステファノ・ボラーニの参加は、よりエンリコ・ラヴァの作品に美しい華を添えています。特に「Bird Song」「Tati」といった楽曲では、ボラーニの演奏の美麗さが前面に引き出された作品で、そこにエンリコ・ラヴァが水晶のような輝きを持つフレージングにより、より楽曲に甘美な雰囲気をもたらす。



 

エンリコラヴァの演奏はボラーニのピアノ演奏にたおやかで深いエモーションを与える。聴いていると、なんとも、陶然とした気分になる楽曲が多く収録されている傑作。

 

モダンジャズというと、前衛的な演奏を主に思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれません。でも、実は全然そうではなく、落ち着いた安心した雰囲気を擁する作品も多く存在するということを、今作は象徴づけています。美しいジャズ、上品なジャズをお探しの方に、ぜひおすすめしておきたい傑作です。



 

 

 

 

「New York Days」2009  ECM Records

 

 



1.Lulu

2.Improvisation Ⅰ

3.Outsider

4.Certi angori sergeti

5.Interiors

6.Thank You,Come Again

7.Count Dracula

8.Luna Urbana

9.Improvisation Ⅱ

10.Lady Orlando

11.Blancasnow



「New York Days」という2009年に発表されたエンリコ・ラヴァの集大成ともいえる作品は、ECMレコードの代表作であるばかりでなく、ジャズ史に燦然と輝く名作の一つとして紹介しても良いという気がしています。それは私が、今作を上回る甘美なジャズを聴いたことがないというごく単純な理由によります。マーク・ターナー、ラリー・グレナディア、そして、長年の盟友ともいえる、ポール・モチアンの今作品への参加というのも、この上ない豪華ラインアップを形成しています。いずれにしましても、このアルバムに収録されている「Lady Orland」という楽曲、及び、最終曲「Blancasnow」の再録は、個人的には歴代のトランペット奏者の中で唯一、マイルス・デイヴィスの「Kind Of Blue」での神がかりの領域に肩を並べたともいえる作品であり、ジャズ好きの方はぜひとも一度は聴いていただきたい傑作のひとつ。



 

もちろん、エンリコ・ラバの演奏力は、ついに70歳にして最盛期を迎えたといえ、独特なアバンギャルド的な奏法、トリルを交えた駆け上がりのような独自のアヴァンギャルド奏法が駆使された作品。

 

全体的な作風といたしましては、上掲した二作の延長線上に有り、なおかつ、そこに現代トランペッターとしての並々ならぬ覇気のようなものが宿った凄まじい雰囲気を持つアルバム。もちろん、上二曲のような甘美なモダンジャズの風味もありながら、「Outsider」において、再びアヴァンギャルドジャズに対する再挑戦を試みた前衛的なジャズも収録されているのが聞き所。

 

トランペットと、サクスフォーンのスリリングな合奏についてはマイルスの全盛期を彷彿とさせる、いや、それどころか、それを上回るほどのすさまじい熱曲的なプレイ。何をするにも、年齢というのは関係ないのだ、ということを、はっきりと若輩者として、この作品のエンリコラヴァというプレイヤーに教え諭された次第。

 

ジャズというのは、古いライブラリー音楽というように思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、この作品を聴けば、それは大きな思い違いにすぎず、今なお魅力的な現代音楽のひとつ、いまだプログレッシヴな音楽であることをエンリコ・ラバはみずからの演奏によって見事に証明づけています。何らかの評論、措定をするのが虚しくなる問答無用のモダン・ジャズの21世紀の最高傑作としてご紹介させていただきます。



 来年、2月から、大規模世界ツアーを控えている砂漠のジミ・ヘンドリックスの異名をとるMdou Mocは、昨日の11月11日にアフリカのナイジェル川のライブ映像「Live At The Niger River」を所属するMatador Recordsを通じて発表しました。




 

 このライブで、エムドゥー・モクターは、バンドメンバーと共に、ライブレパートリーの数曲、「Tala Tannam」「Bissmilahi Atagh」「Ya Habibti」「Chismiten」、そして最新アルバムからの「Afrique Victem」といった楽曲をニジェールのニアメで撮影しています。


 エムドュー・モクターのデジタルライブはドキュメンタリーフィルムの一貫として撮影されています。ライブ動画のフルレングスは19分の長さにも及ぶ。このニジェール川でのライブでは、自動発電機を利用し、リモートセットに電力を供給、幾つかのアンプリフィター等を介して出音されています。

 

 このアフリカのリアルライブでは、非常に神秘的な出来事が起こったようです。ドキュメンタリー撮影を担当したコルトン氏は、この動画のリリース時の声明において、

 

「彼らの代名詞的な一曲「タラ・タナム」を演奏しはじめるやいなや、太陽がのぼりはじめ、エムドゥー・モクターのキャラクターシンボルである、ナジロガラスの二色のサハラ鳥が私達の頭上を飛びさっていった」と語っています。


また、「セッションの途中では、私達に向かってくるヤギの群れを出迎えることになった。そのヤギの群れは、不思議なことに、私達の目の前で立ち止まり、エムドゥー・モクターの演奏にじっと耳を傾けているように見えたんだ。少なくとも、今回のセッションは最高の作品となったはずだよ」と、このドキュメンタリーライブを撮影したコルトン氏は語っています。

 

 アフリカの地での神秘的なライブとして、画期的なドキュメンタリーライブとして注目の映像作品です。

 

 

「Mdou Moctar Live At The Niger River 」 Matador Records


https://www.youtube.com/watch?v=m9Ow87OwVbA 

 



 

Superstarは、STAN SMITHと並んで、アディダスブランドの看板モデルともいうべき代名詞的なシューズとして知られる。


シンプルなデザイン、三本のストライプというシンプルかつシンボリックなデザインで、今もスポーツシューズとして根強い人気を誇り、アディダスブランドの看板ともいうべき普遍的なモデルである。Superstarというモデルは、スポーツウェア、ストリート、カジュアル、如何なるスタイルにも馴染み、ファッションの中に気軽に取り入れられる利点がある。一切の無駄を削ぎ落としたシンプルなデザイン性、足の形を選ばず、フィットしやすいという点では、スニーカーの代表格と称することが出来るはずだ。

 

このスーパースターは、アディダスというブランドの知名度の普及に大きな貢献を果たしたモデルには違いない。1969年に、バスケットシューズ、いわゆるバッシュとして発売されたモデルである。ラバーのトゥーキャップをプロテクターとして採用することで、靴業界に旋風を巻き起こした。

 

1970年代には、アメリカのNBAの選手が挙って、スーパースターを着用して魅力的なプレーを行った。シンプルなデザイン性はもとより、軽量で動きやすく、何より、見栄えのするこのスーパースターは、コンバースと共に、大人気のバスケットボールシューズブランドとして認知されるようになる。特に、伝説的なNBAのセンタープレイヤーで史上最強の選手と称される、カリーム・アブドゥル・ジャバーがこのスーパースターを履いてプレーを行い、ブランドの知名度を高めた。

 

そして、同時期、このアディダスのスーパースターは、スポーツウェアからストリートファッションの中に組み込まれていくようになる。このスーパースターを若者のファッションとして最初に流行させたのは、NYブロンクス出身のオールドスクールヒップホップのカリスマであり、エアロスミスとの「Walk This Way」のコラボレーションで有名なRun-DMCをさしおいてほかは考えづらい。 

 

 

 

ニューヨークでディスコムーブメントが過ぎ去り、ダンスフロアのミラーボールが廃れかけた頃に、ヒップホップは彗星の如く現れた。特に、この1970年代のNYで、貧しい黒人の若者たちのクライムに向かう暗く淀んだパワーを、それとは真逆、音楽という、前向きで明るく、建設的な方向に転換させた。NYブロンクスを中心に発展した原初のヒップホップムーブメントの最中、Run-DMCは、最初期のオールドスクール・ヒップホップのシーンが形成される際のきわめて貴重な数少ない体験者でもある。彼らは、見事に、その文化性を、音楽、ファッションという形で世界に発信していくことに成功したアイコンと称するべきスター。 実のところ、Run-DMCの面々は、パンクロックのラモーンズと同じく、ニューヨーク、クイーンズ出身であり、どちらかといえば、中産階級の生活圏内にある若者たちだったはずだが、その最初のヒップホップの内核にあるハードコア精神を受け継ぐ重要なミュージシャンであり、ブロンクスのコアな音楽性または文化性をポピュラー音楽として普及させた偉大な貢献者である。

 

オールドスクール・ヒップホップもまた、パンク・ロックと同じような発生の仕方をしたムーブメントである。その音楽の源流には同じく、DIY、つまり、言葉はふさわしいかどうかわからないが、君たちのちからでやれという重要な精神が宿っているのである。1973年頃から、このブロンクス地区では、驚くべきことに、ストリートの電灯から電源や電気をことわりもなしに引いてきて、それをPA機器に接続し、バカでかい音量でサウンドをかき鳴らすところから始まった違法的なムーブメントである。

 

いくつかの疑問は残るものの、この寛容性によって文化が育まれた。抑制、禁止、束縛、もちろん、そこからは何も生まれでない。はたから見てみれば、どこからともなく集まってきて実に楽しそうに音を鳴らしている連中に口出しできなかったというのが実情といえるだろう。そして、このブロンクス地域の公園で開かれる「ブロックパーティー」という催しの際に、ジャマイカ出身、DJクール・ハークがPA機器を持ち込んで、最初にジャムセッションを行ったのがこのオールドスクール・ヒップホップの出発である。

 

 

その後、他の黒人の若者たちも、この公園に自前のテープレコーダーのような録音機器を持ち込んで、この公園で流れている音楽を録音し、それを自身のトラックメイクに繋げていった。ギターやドラムセットのような高価な楽器を買ったり、スタジオ設備のようなレコーディング機械を必要としない、テープレコーダーとマイクがあれば、貧しくても、音楽が生み出せる。つまり、最初期のDJたちは、ダブ的な多重録音の手法を行うことにより、ヒップホップは確固たる「音楽」としての形になっていくようになる。


この音楽を最初に商業面で成功させ、知名度の面で世界的に普及させたのがこのブロンクスの公園でのムーブメントを間近で見ていたRUN-DMCであった。この1970年代のニューヨークでは、ウォール街やブロードウェイのような表向きの文化性の背後に、バックストリートカルチャー、パンク・ロック、それから、ヒップホップという相反する側面を持つカウンターカルチャーが現れたのはあながち偶然であるとは言えない。表側のウォール街、ブロードウェイに代表されるメインストリートの資本主義のエネルギー、そして、その背後の世界にうごめくバックストリートの生々しい人々のうねるようなエネルギーが微妙なせめぎあいを続けながら、この当時、1970年代から80年代にかけてのニューヨークには、流動的な社会が形作られていたように思える。

 

表側から見えないバックストリートにも、人間は確かに息づいており、そして、そこに暮らす黒人の若者たちは、表側のメインストリートの概念、価値観を初っ端から信用しちゃいなかった。だからこそ、というべきか、ブロンクスの黒人の若者たちは、ヒップホップを始めとする、独自の若者文化を形作していく必要に駆られたといえるのである。自分たちの人間としての権利が決して消滅してしまわないようにするため、彼らは、独自の引用の音楽を、DIYスタイルで始める必要があった。そして、この最初のブロンクス地区のムーブメントの渦中にいたRUN-DMCも、メインストリートの概念には対し、強い反証を唱えるべく登場した3人の若者たちであったように思える。

 

ジョセフ・シモンズ、ダリル・マクダニエルズ、マスター・ジェイ。彼らは誰にでも理解しやすい音楽性を生み出しただけではなく、ファッションの側面においても多くの人を惹きつけるだけのカリスマ性を持っていた。特に、彼らは同クイーンズ出身のラモーンズのように、バンド名を自身のステージネームとし、3人揃って同系統のファッションで統一することにより、ヒップホップのキャラクター性をより一般的にも理解しやすくした。もちろん、これというのは前の時代のブロンクスの最初期のヒップホップアーティストたちから引き継がれた重要なファッションスタイルでもあるが、彼らはその頃、NBAで取り入れられていadidasファッションをクールに、スタイリッシュに、取り入れることに成功したところが他のアーティストとは異なる。

 

黒いポーラーハット、3本のストライプの入ったアディダスのジャージ、それにだぼだぼのワイドパンツを併せ、それに彼らはadidasのスーパースターを紐なしでクールに履きこなした。

 

これはRUN-DMCのロゴと共に彼らの代名詞的なスタイルとなった。後には、RUN-DMCのライブでは、メンバーのスーパースターを見せてくれという呼びかけに観客が答えてみせ、何千、何万という数のスーパースターが掲げられたことは、彼らのスターミュージシャンとしてのほんのサイドストーリー、いわば、飾り噺の一つでしかない。また、RUN-DMCは、adidas公認のアーティストでもあるのをご存知の方は多いはず。後には、RUN-DMCモデルも発売されていることも付け加えて置く必要がある。




 

同年代のNBA文化を時代のトレンドに則して、本来はスポーツウェアであったものを、実に巧みにヒップホップファッションに取り入れてみせたRUN-DMCのファッションスタイルはあまりにも画期的であったといえる。

 

今やオールドスクールと呼ばれるようになってはいるものの、それは本当にオールドといえるのだろうか?

 

いや、そうではない。この三人組の確立したクールなファッション性は普遍性が宿っているようにおもえる。 それは、ヒップホップのキャラクター性という形で今もなおカニエ・ウェストらをはじめとする現代のヒップホップアーティストに引き継がれている重要な概念でもあるのだろう。


 

References:


ヒップホップカルチャーに愛されるadidas


https://jasonrodman.tokyo/adidas-hiphop/


まさにスーパースター! RUN DMCを聴いてadidasを履こう!


https://shoeremake.site/archives/615 


RUN DMCは何が画期的だったのか?


 http://suniken.com/feature/run-dmc-and-old-school-hip-hop-and-my-adidas.html


 Sam Evian


 

現在、ニューヨークのブルックリンを中心として新たな2020年代のミュージックムーブメントが沸き起こりそうな予感もありますが、今回は、そのニューヨークシーンの筆頭格になりそうな、今が旬のフレッシュなインディーロックアーティスト、サム・エヴィアンの新譜をご紹介します。

 

サム・エヴィアンは、ニューヨーク、ブルックリンを拠点に活動するSSW。2016年、サム・エヴィアンは、Saddle Creek Recordsと契約し、1stアルバム「Premium」をリリース。この最初の作品は、クランキー・カントリー、70年代を彷彿とさせるサイケデリック・ソフト・ロックというように定義づけられ、アメリカ国内のStereogumをはじめとするWEB音楽メディアで好意的に受け入れられました。

 

2018年、サム・エヴィアンは、二作目となるスタジオアルバム「You,Forever」をSaddle Creekから発表。この作品には、NYのインディー・ロックシーンでは、Beach Fossilsの作品への参加をはじめ、若いアーティストの憧れの的ともなっているBlonde  Redheadのカズ・マキノが「Next To You」の楽曲を提供しているのに注目しておきたいところです。スタジオ・アルバム「You,Forever」に収録されている楽曲「Health Machine」は、シングル盤、PVとしてもリリースされています。二作目のアルバムもデビュー作と同様に、アメリカ国内の音楽メディア、Stereogum,Pitchfolkで取り上げられたのみならず、スペインのテクノロジー関連のWEBサイト”digitaltrends”にて、2018年の最優秀スタジオアルバムに選出されています。


2021年に、サム・エヴィアンは、Fat Possum Records(坂本慎太郎の作品もリリースしている)と契約し、新作を発表を行っています。彼の生み出すサウンドは確かに坂本慎太郎のような個性溢れるサイケデリアの世界を見事に描き出し、スタイリッシュなモダン・ポップスとして見事に昇華。現代のLA、カルフォルニアを中心とする、Ariel Pink、Mild Club Highをはじめとする70’sディスコサウンドのリバイバル・シーン、NYブルックリンを中心とするWild Nothing、Beach Fossilsをはじめとするインディー・ロック・リバイバルシーンに呼応した形で台頭した気鋭の若手ミュージシャン。現在、最もフレッシュな若手SSWとして注目です。無論、「エリオット・スミスの再来」と銘打ってもおかしくない華のあるアーティストといえそうです。




「Time To Melt」Fat Possum Records

 

 

 

 


Tracklisting

 

1.Freeze Pops

2.Dream Free(feat. Hanna Cohen)

3.Time To Melt

4.Knock Knock

5.Arnolds Place

6.Sunshine

7.Never Know

8.Lonely Days

9.Easy To Love

10.9.99 Free

11.Around It Goes 


 

Featured Track 「Knock Knock」

 Listen On youtube:

 

 https://youtu.be/pa6s2taK8l4

 

 

 

ここ四、五年あたりの最近のアメリカのトレンドの音楽といえば、語弊があるかもしれませんが、少なくとも、LA,カルフォルニアを中心に現在、最も勢いの感じられる、スライ・ザ・ファミリーストーンの音楽性を現代風にアレンジ、リミックスしたようなディスコサウンドのリバイバルシーンの音楽性を踏まえたポップス。もちろん、サム・エヴィアンの音楽性にも同じようなアプローチが見いだされるはず。特に、自宅に、大掛かりな宅録用の機材を備え、入念なトラックメイクを行うというの点でも、現代のアメリカのアーティストの作曲性の延長線上にあるようです。

 

しかし、Ariel Pinkに代表されるようなLAやカルフォルニア勢のサウンドと明確に異なるのは、サム・エヴィアンのサウンド面においては、サイケデリックなポップスを音楽性の下地としつつ、そこに、ソフト・ロック、AORのようなサウンド、柔らかなスタイリッシュさをうまく演出している。もちろん、表向きの主要なイメージをなすサム・エヴィアンのヴォーカルというのは、現代のアーティストと同じく中性的な雰囲気が漂い、これこそモダンポップスのトレンドといえるかもしれません。そういった1970年代のディスコサウンドから吸収した影響性は、他の現代のアーティストと同じように、ノスタルジーさに加え、おしゃれでスタイリッシュな雰囲気を醸し出している。このあたりは、現代アーティストならではのモダンミュージックともいえるでしょう。

 

サム・エヴィアンの三作目のスタジオアルバムとなる「Time To Melt」は他のリバイバルアーティストのようにサンフランシスコのサイケデリアが込められているからか、奇妙な空間性が音楽によって強固に構築されているように思える。喩えるなら、それは、現実上に存在し得ない仮想上のダンスフロアへと導かれていくような雰囲気も漂っている。これは、サム・エヴィアンの生み出す音楽性におけるサイケデリアが、実際の空間の向こう側にある往年のディスコサウンドの流行した時代への時間旅行を助けるような働きかけをしているからこそにじみ出てくるものなのでしょう。サム・エヴィアンの異質なサウンドは、表向きのキャッチーな印象と異なり、盤石かつコアなグルーブ感により綿密に築き上げられている。ベースの生み出すグルーブ、シンセサイザーのフレーズ、クランキーなギターのフレーズ、サックスのゴージャスなアレンジメント、これらの要素はサム・エヴィアンの楽曲に生彩味をもたらしています。

 

「Time to Melt」で提示されているのは、リバイバル・サウンド。しかし、リバイバルサウンドといえどあなどることなかれ。この作品でサム・エヴィアンは実は、古いサウンドには新しい未知の音楽の可能性が詰まっていて、巧みにリミックスを施せばモダンサウンドが生まれることを証明しています。エヴィアンは、今作に置いて、貪欲にそういった古い時代の音楽のノスタルジア対する偏愛を心ゆくまで探求しつくし、独自のトラックメイクを綿密に行うことにより、今作「Time To Melt」において、昨今のモダンポップスの歩みをさらに一歩先へとすすめることに成功しています。LA、カルフォルニアのリバイバルシーンに近いニュアンスを擁し、そこに、ファンク、R&Bといったしなるようなコアなグルーブ感も抜け目なく込められている。このあたりが、音楽フリークとしてのサム・エヴィアンの矜持といえるでしょう。

 

1970年代のディスコサウンドのノスタルジアを追求するという点では、現代のアメリカのインディー・サウンドの醍醐味が心ゆくまで味わえることでしょう。さらに、その上で、これまで、ビートルズのフォロワーが見落としてきた、アートポップ、チェンバーポップ性にあらためて現代のアーティストとしてスポットライトを当てていることにも着目したい。サム・エヴィアンの新作「Time To Melt」は、リバイバルサウンドの王道でありながら、新鮮味のあるモダンポップスとして結晶した一枚。アルバム・ジャケットのデザインのニュアンスも「ホテル・カルフォルニア」の時代を彷彿とさせる徹底ぶり。今後のニューヨークのミュージックシーンの行方を象徴づけるような作品、アメリカのインディー音楽の最前線にあるアルバムといえるでしょうか。

 

 

 

Sam Evian Official

 

https://www.samevian.com/ 






 

 

今回、たまには、真の意味で味わい深い食の情報を伝えていきたいと思う。さて、クリスマスまで既にあと一ヶ月半という所まで来たが、このクリスマスを代表する洋菓子といえば、やはりショートケーキということになるだろう。

 

11月から、クリスマスケーキ商戦がはじまり、街なか、もしくは駅ナカは、ショートケーキの予約をはじめ、これからさらに騒がしくなっていくものとおもわれるが、もうひとつ、クリスマスを代表する伝統的な洋菓子があるのをご存知だろうか?

 

昨年にはイギリスのエリザベス女王にドイツのパン屋がこの洋菓子をとくべつにプレゼントしたことでも有名なパン。それが、ドイツのドレスデン地方で生産が盛んな「クリスマス・シュトーレン」というパンである。

 

この甘〜いパンは、ドイツでは、キリストの降誕祭がおこなわれる期間、すこしずつパンナイフで切りながら少しずつ食べていくのが往古からの風習のようである。ドイツドレスデン地方には、シュトーレンフェスティヴァルというお祭りもあるらしく、この洋菓子の生産がきわめて盛んだ。

 

語弊があるかもしれないが、このパンというのは、ドレスデン地方に古くから伝わる保存色の一種のように思え、常温保存では一週間かそこらしか保存がきかないけれども、冷凍すれば、一ヶ月近く長期間保存が効くので、ドイツのドレスデンの人たちは、古くは、これを氷室などで冷凍しながら、クリスマスから年明けの期間にかけて、ちょっとずつパンナイフで切り分けてゆっくり食べていったのだろうと思われる。栄養学の観点からみても、粉砂糖がたっぷりとまぶしてあるため、糖分は過剰であるものの、実際の食べごたえに比べると、カロリーは充分に摂取出来る。おそらく、日本でいうところの「お餅」のような保存色のような食べ物としてドイツのドレスデンでは、14世紀くらいから親しまれてきた。

 

このクリスマス・シュトーレンというパン。最近は、結構、ケーキ屋やパン屋で取り扱いがあるのを見かけるようになった。おそらく、大きめのお店なら、クリスマスシーズンになればお買い求めいただけるだろうと思う。まるまる一斤のシュトーレンの価格の相場は、おおよそ二千円弱だろうと思われる。もちろん、だいたいのところは半分に切って販売されている場合も多い。そして、私は、実は、昨年、近所のスーパーマーケットで、小麦粉、薄力粉、ラム酒、粉砂糖、アーモンド、レーズン、ナッツを買ってきて、クックパッドのレシピの手順を参照しながら簡単にこの洋菓子を自作してみたことがあった。正真正銘の「DIYクッキング」である。それも、これも、このシュトーレンという洋菓子を、心ゆくまで味わい尽くしたいという欲求に駆られたからこのような慣れないことをやったのである。所要時間はおよそ一時間くらい、本格派のクリスマスシュトーレンを作るためには、トーストでじっくりたっぷり時間を掛けて焼き上げる必要があるが、それほどの本気度もなかったので、フライパンにアルミホイルを被せて、蒸し焼きのようにして、二十分くらいかけてじっくり弱火で熱を入れていった。

 

結果、出来上がったのは、残念なクリスマスシュトーレン。やわらかいパンケーキに近い出来栄えとなり、この洋菓子の醍醐味であるカリカリッとした食感が完全に失われた。これは、小麦粉を捏ね上げる過程で、捏ね上げ方が少し足りなくて、充分な硬さがつかなかった。しかし、それでも、工程通りに作ったからか、味としてはまずまずだった。このシュトーレンの作り方は、大きめのボウルなどで小麦粉、薄力粉等を練り合わせたのち、その中に、レーズン、アーモンド、ナッツ等を入れてこの生地をさらに捏ねに捏ね上げ、半円状にちかい形状に捏ね、最後の仕上げに、ラム酒をさっとヘラなどで塗り、パンの上からたっぷり粉砂糖をまぶす。粉砂糖をまぶせばまぶすほど、パンの上に粉雪が降り積もったように見える芸術的な作品となる。実際の食感については、一般的なショートケーキほど口当たりが重くなく、ちょっとした洋菓子のような感覚で食べれる甘いフルーツパン。もちろん食べすぎはご法度、糖分の過剰摂取となるのでご注意。

 

このクリスマスシュトーレンの生産は、ドイツのドレスデンがメッカである。その歴史も相当古い伝統的なパンであり、乳製品のバターの使用が禁止されていた1329年に一般的な発祥は求められる。「Stollen」というのは、ドイツ語で「坑道」「トンネル」を意味し、パンの形状がトンネルに見えたからこの呼称が与えられたものと思われる。シュトーレンの起源はなんでも、ドイツの司教がスポンサーとなって開催したパンのコンテストで、このシュトーレンが製作されたのが史実としての始まりと言われる。

 

シュトーレンについての最初の記述は、1474年頃、聖バーソロミュー病院の請求書に、このシュトーレンの名が記載されている。 当時、ドイツ、カトリックの教区内では、キリストの降誕を待ち望むアドベント期間は断食が行われており、また、糧食の材料の緊縮が行われ、希少品、贅沢品であったバター製品の使用が厳格に禁じられていた。ケーキ等を作る際、バターの使用は甘みを加えるのに不可欠であるが、このため、当時のドイツのパン屋は油の使用しか許されず、味気ないケーキしか作ることが出来ずにいたのである。このため、便宜上、さらに甘味のあるパンを作るため、アイディアを絞って作られたのが、シュトーレンというクリスマスのパンだったようである。

 

この状況を打開するべく、サクソン人の選帝候エルンスト王子と兄弟であるアルブレヒト公爵は、教皇ニコラウス5世に書簡を送り、サクソン人のパン職人がバターを使用することが出来るように許可を下してもらいたいという旨を記した要望を伝える。しかし、ニコラウス5世はこの要請を拒否し、使用許可が降りるまでには、長い月日を要している。1490年になって教皇勅書が出され、バターの使用が公式に認められることとなった。

 

以来、シュトーレンは、クリスマスのお祭りのごちそうとして親しまれるようになる。1530年には「Christms Stollen」と正式に呼ばれるように至り、クリスマス、とりわけ、アドベント期間のお祝いと深い関係を持つようになる。1560年頃になると、ドレスデンのパン職人の間で、ザクセン州の皇帝に毎年クリスマスにシュトーレンを贈るという風習が確立される。また、同時期から大掛かりな巨大シュトーレンが作られるようになり、八人のマイスターが18キログラムものパンをパレードの後に宮殿に寄贈する伝統が確立されていく。さらに、これよりも大きなシュトーレンも作られるようになり、1730年、アウグスト2世、ザクセン選帝候、ポーランド国王、リトアニア大公から委託されたクリスマスシュトーレンは、100人のパン職人が集って製作され、3600個もの卵、326個の牛乳、それに、2千種もの小麦粉を掛けあわせた1.8トンもの重量の巨大シュトーレンが生み出されるに至った。

 

また、ドレスデンでは、今もクリスマスの季節、伝統的なお祭りとして、シュトーレン・フェスティヴァルが開催されている。

 


シュトーレン・フェスティヴァルはシュトーレン教会によって主催されるドレスデンの街を代表する年一度の心楽しいお祭り。

 

ドレスデンの街中を、クリスマスシュトーレンを運ぶパン職人たち、そして、中世の仮装をしたドレスデンの数多くの人々が行列を作って練り歩く様子は圧巻だ。このシュトーレンフェスティヴァルは、パンの品評会の趣きがあり、毎年、世界で販売されている200万種類のパンがお目にかかれる。

 

2010年、ドレスデンのクリスマスシュトーレンは、欧州連合により、保護原産地呼称、PGI、つまり保護するべき良質な糧食として認定されるに至ったという。



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Lightning Hopkins - Texas Blues Man (Arhoolie 1034)"Lightning Hopkins - Texas Blues Man (Arhoolie 1034)" by kevin dooley is licensed under CC BY 2.0

 

1.テキサス・ブルースの発祥 



さて、ブルースについては、シカゴ編ミシシッピのデルタ編に続いて、この三大ブルースの最後の土地、テキサス・ブルース編にて、一応のこと一区切りつけておきたいと思います。

 

ミシシッピのデルタ地域で発生した最初のブルース音楽の次に、一つのムーブメントが形作られたのがアメリカ南部のテキサス州です。今日では、このテキサスのブルースは、「ロードハウスブルース」として知られています。 現代のテキサスのロードハウスブルースは、「ジュークジョイント」なるブルース専門のバーを中心として伝統音楽として現代に引き継がれている。このロードハウスブルースは、ジョン・リー・フッカーに代表されるブギースタイルを受け継いだ音楽が主流となっているのだそう。

 

このテキサスブルースもまた、デルタブルースと同じように、かなり古い年代、二十世紀初頭にその起源が求められる。そして、ミシシッピのデルタとは一風変わった音楽性を持つブルースがこの地で生みおとされました。とりわけ、このテキサスには、元来、多くの人種が入り混じって入植していたからか、他の地域とはことなる独自のブルースを生み出しています。前回、黒人の奴隷解放宣言についてご説明しましたが、このアメリカの南部、テキサス州ではヨーロッパからの移民が比較的多かったためか、ミシシッピのデルタほどには黒人差別が酷くはなく、山岳地帯のアパラチアと同じように、アフリカ系の移民も柔軟性を持って、白人の音楽に深く慣れ親しんでいたようです。

 

何でも、当時、テキサス東部において、テレピン油田や伐採キャンプで働くアフリカ系移民の労働者が多かったようで、その黒人労働者を中心として、テキサスのブルース音楽は発生しています。彼らが生み出したブルーススタイルの影響下にあるのは、アイルランド、イギリスの民謡、バラード、シーシャンティ、黒人教会で歌われるゴスペル音楽。デルタブルースがほとんど白人バラードを除いて、黒人の労働歌、プランテーションソングを源流とするのに対し、白人音楽の影響を受けたブルースがこの地では主流として奏でられていた。それに加え、カナダのケイジャン音楽、それからカリブに発祥を持つカリプソ音楽までも柔軟に取り入れたいわば民族音楽、エスニック色あふれるブルースが、このテキサス東部の油田、伐採キャンプで発生しているのです。

 

特に、このテキサの”ガルフコースト”という土地で、最初にブルースを生み出した音楽家は、ミシシッピと同じように、ごくふつうの一般の民衆であることには違いないようです。その最初には、ミシシッピ、デルタの音楽家と同じように、伐採キャンプやテレピン油田において、労働歌や子守唄を黒人たちは好んで歌っていた。おそらく、ミシシッピと同じく、男性ではなく、女性から、この音楽がはじまったのではないかというのがひとつの仮説です。このテキサスのガルフコーストで好んでうたわれていた労働歌、あるいは、子守歌は、ミシシッピのデルタ地帯のプランテーション音楽とは全然異なり、ラテン系のリズムが込められているのが他の土地の音楽とは違うポイント。

 

初期のこれらの黒人の移民たちが紡ぎ出す、労働歌、子守唄には、さらに上記のジャンルに加えて、スカンジナビア半島の移民がもたらした「シリングの歌」、そのほかにも、この地に入植したポーランド人がもたらしたポルカ音楽も、最初の労働歌の中にまじり込んでいるという点においては、アパラチアの山岳地帯の白人寄りのブルースに近い起源を持っています。さらに、カナダのケイジャン音楽からの影響もあり、アコーディオン、フィドルといった西洋発祥の民族楽器までこの音楽には取り入れられていたというのだから驚くよりほかありません。また、メキシコの国境と近い場所にあるため、メキシコの民謡もまた、どうやらこのテキサスブルースの源流を形作っているといえるかもしれません。このように、実に多種多様な音楽、民族性、文化性が実に見事に融合されることにより、テキサスのブルースは発生しているのです。

 

 

2.最初のブルースマンの誕生

 


テキサスのブルースの発生の源流は、デルタの綿花農場と同じように、伐採キャンプやテレピンの油田で歌われていたヨーデルのような民謡のごとき音楽がその始まりとなります。それがミシシッピのデルタとおなじように、ロードハウスで奏でられるエンターテインメント音楽に変化していくようになっていく。

 

テキサスに最初のブルースマンが登場したのは、ミシシッピのデルタブルースと同じく、第一次世界大戦前のこと。

 

特に、この地には、二人の重要なオリジネーターが存在します。ブルースマンとして、テキサスに最初に登場したのが、ブラインド・レモン・ジェファーソンという盲目のギタリストでした。

 

レモン・ジェファーソンが生み出したテキサスブルースについて、西洋音階のスケールからずらした「ブルーノート」と呼ばれる特殊な旋法を特徴としているのは、デルタブルースと同様でありますが、特に、テキサスブルースというのは、上記したような種種雑多な民族音楽の要素とラグタイムからの影響を併合した音楽性を主要な特徴としていました。

 

テキサスのブルースマンとして最も早い年代に登場したブラインド・レモン・ジェファーソンは、1926年に最初のレコーディングを行っており、その翌年、もうひとりの盲目のブルースマン、ブラインド・ウィリー・ジョンソンがゴスペルに主題を置いたブルースの最初の録音を行っています。

 

 

 

ブラインド・レモン・ジェファーソン

 

 

特に、このブラインド・ウィリー・ジョンソンは、もともと若い頃は、宣教師として活動していた人物であり、「ゴスペル音楽」を「ポピュラー音楽」として最初にアメリカで広めたオリジネーター。音楽史から見ると、見過ごしてはならないきわめて偉大な黒人ミュージシャンのひとりです。

 

 

ゴスペル音楽の父 ブラインド・ウィリー・ジョンソン

 

 

 

このブラインド・ウィリー・ジョンソンには、ネイティヴ・アメリカンの血がながれている。また、ミシシッピ、デルタで最も著名なブルースマンの一人、チャーリー・パットンにも、ネイティヴ・アメリカンの血が流れているらしく、共に、二地域のブルース音楽の素地を形作ったミュージシャンたちがアメリカ大陸の先住民のDNAを受け継いでいるのは偶然ではないでしょう。

 

特に、ブラインド・ウィリー・ジョンソンという盲目のブルースマンは、ハウリング・ウルフのブルースと同じく、音節をわざと濁らせて歌う、”ヴォイスマスキング”と呼ばれる歌唱法を特徴としていました。この独特な歌唱法は、西欧の古典音楽、もしくは民族音楽には見受けられない手法で、このルーツは、西アフリカの儀式音楽を生み出す音楽集団「グリオ」においての独自の歌唱法が継承されているのだといいます。 

 

追記:この”ヴォイス・マスキング”で有名なのは、ルイ・アームストロングやエラ・フィッツジェラルドの歌い方。これらのブルースマンのヴォーカルスタイルは後代のニューオリンズのジャズマンに引き継がれていきます

 

特に、テキサスブルースには、ギターの演奏において、スライド・ギター(スクイーズギター)の奏法、ガット弦をしならせるようなフィンガーピッキングを演奏上の特徴としています。さらに、そのギタープレイの特徴に加え、ウィリー・ジョンソンのようなゴスペルの影響、祖先の西アフリカのグリオという儀式のための音楽にルーツを持つヴォイスマスキング等の歌唱法を特徴としているようです。さらに、フォークソング、スピリチュアル、ラグタイムといった様々な要素が加わり、デルタでもない、シカゴでもない、いかにもテキサスらしい哀愁=ブルースが生み出されるに至るのです。

 

こういった上記の二人の盲目のブルースマンが最初に生み出したブルース音楽を、ブラインド・レモンのリードボーイとして下働きをしていたライトニング・ホプキンスといった著名なギタリストが後に、より完成度の高い音楽として洗練させていくようになりました。

 

その後は、Tボーンウォーカーにテキサスブルースは継承されていき、さらに、彼は、かのディランと同じように、アコースティックを捨て、エレクトリックギターを手に取り、革新的奏法を生み出し、ブルースシーンに色濃い影響を与えました。第二次世界大戦後は、このテキサスではブギースタイルが主流となり、現在もロードハウスと呼ばれる、ジュークジョイント、つまり、ブルースが演奏されるバーでは、ブギースタイルのブルースが古くから伝わる音楽文化として、今なお変わらずに親しまれているようです。もちろん、その後、この土地から、秀逸なロックンロールミュージシャン、ジョニー・ウィンター、ZZ TOPが輩出されたというのは必然であったと思われます。

 

 

3.テキサスブルースの名盤

 


テキサス・ブルースで著名なブルースマン、ライトニン・ホプキンス、Tボーン・ウォーカーについては既に以前に何度か音源を聴いたことがあるものの、それ以前のブラインドのブルースマンについては全然知らなかった。この記事を書くに際して、初めて知るに至ったブルースマンです。

 

正直なところ、これまで、彼らの名を知らなかっただけでなく、一度も、彼らの音に接したことはありませんでした。ミシシッピのデルタ・ブルースの先駆者のひとり、チャーリー・パットンのブルースと同様、「ライブラリー・ミュージック」の一貫として聞くことも一つの楽しみ方といえるかもしれません。これらのブルースマン、盲目のミュージシャンがテキサスの地に台頭したのは、アメリカ南部地域の重要な特色であり、民族史、文化史の側面から捉えなおしてみるのもかなり面白いはずですよ。

 

 

 

Blind Lemon Jefferson

 


 

 

テキサス・ブルースのオリジネーター、ブラインド・レモン・ジェファーソンは、アメリカのカントリー・ブルースの先駆者の一人でもある。

 

生まれながらの盲目であり、二十代で結婚した後、 ミシシッピを旅しながら演奏旅行をして、カントリー・ブルースを広めていった。音楽性としては、黒人労働歌、フィールド・ハラーの影響が濃いブルースであり、ミシシッピ・デルタのチャーリー・パットンとの共通性も見出す事ができる。アクの強いスクイーズギターを演奏上の特徴としているが、デルタ・ブルースに比べて、極めて民族音楽色が強く、古い西欧のトラディショナル音楽、スペイン国王でまた音楽家として中世に活躍した”アルフォンソ10世”のような西欧発祥の伝統音楽の影響性も含まれているように思える。

 

多種雑多な文化、そして、音楽性を交えた独特なアクの強さは、他の地域のブルースとは異なる瑞々しさがある。デルタのブルースに比べ、後の20年代に録音された音源であるため、レコーディングの音自体もデルタのチャーリー・パットンに比べ、それほどノイズも走っておらず、精細で聞きやすく、とっつきやすいように思われる。デルタほどには泥臭くはないものの、シカゴほどには都会的とはいえない。カントリー色がきわめて強い、唯一無二のブラックミュージックを生み出した偉大なブルースマン。



 

Blind Willie Johnson

 



 

ブラインド・ウィリー・ジョンソンもまた、レモン・ジェファーソンと同じく、盲目のギタリストである。

 

若い頃は宣教師を生業としていて、その後、ミュージシャンに転向したというのは、デルタのサン・ハウスと一緒。彼のスクイーズの技法には、ロバート・ジョンソンに近いニュアンスが見いだされるはず。しかし、私見としては、なんとなくブラインド・ウィリー・ジョンソンの方が、ロバート・ジョンソンよりブルースマンとして格上であるようにも思われる。

 

リズム性を重視した、いわば、その後のブラックミュージックのダンス音楽の源流を形作ったロバート・ジョンソンに比べ、ウィリー・ジョンソンのほうがはるかにカントリー色が強く、その音楽は現代の感覚からすると民謡に近い性格が見いだされる。それは、まるで伐採場を目の前にし、ギターを抱え、厳岩に勇ましく座りこみ、自然を寿ぐためブルースを演奏するかのような、きわめてワイルドな雰囲気が実際の録音から伝わってくる。

 

そして、黒人宣教師としてのバックグラウンドを持つ点では、デルタ・ブルースの牧師を務めていたサン・ハウスと同様である。しかし、ブラインド・ウィリー・ジョンソンは、黒人教会のゴスペルをルーツとしながら、ワイルドなクールさが漂うブルースを生み出している。これは西アフリカの"ヴォイス・マスキング"を歌唱法として取り入れているからこのような印象を受けるのかもしれない。

 

ウィリー・ジョンソンは、盲目のブルースマンであるのにも関わらず、演奏にしても、歌にしても、スムーズに淀みなく音楽を暗唱するかのように、すらすらと紡いでいく。このブルースマンは、その後のスティーヴィー・ワンダーのように、音楽を演るために、この世に生まれてきたかのような神がかりなブルースマンである。そして、ウィリー・ジョンソンの音楽の中には、黒人としての誇りや、混じりけのない、清浄な精神が貫流している。それが、歴代のアメリカのカントリーブルースでも、圧倒的な渋みを生み出している。ブラインド・ウィリー・ジョンソンの音楽には、のちのサム・クックのような主流のブラックミュージックの源流が見いだされる。もちろん、ブルース界のキング牧師と称したとしても何ら誇張にはならないはずである。

 

 

 

Lightning' Hopkins

 



 

ライトニング・ホプキンスは、アコースティックにとどまらず、エレクトリック・ギタリストとしても革新的な奏法をもたらしたブルースマンである。

 

若い頃には、レモン・ジェファーソンの付き人をつとめた。上記の二人の先駆的なブルースマンの音楽性を次の1940年代を中心に継承し、独自のライトニン・スタイルを生み出していった。

 

どちらかといえば、マディー・ミシシッピ・ウォーターと同じように、最初の黒人の「ミュージックスター」と呼べる偉大なギタリスト。山高帽に一張羅のスーツ、葉巻をくわえたふてぶてしい演奏スタイルを特徴とする点において、ファッション感度も極めて高い風貌もクールなアーティストといえる。

 

もちろん、音楽性についても同じであって、 リズム性の強いブラックミュージックの素地を形作った人物である。特に、ライトニング・ホプキンスの曲では「Mojo Hand」というスラングのような歌詞が見いだされて、これはブルースの代名詞ともなっている。

 

ちなみに、Mojo Handというフレーズはに魔術のようなニュアンスが込められており、ここにも、西アフリカの儀式音楽の継承性が見いだされる。ライトニン・ホプキンスの音楽性は最初期のロックンロールの基礎を形成した。ライトニンのブルースは非常に現代的に洗練されていて、商業音楽としても聞いても極上の味わいのあるブルースである。

 

 

 

T-Bone Walker 

 




Tーボーン・ウォーカーもテキサスブルースでは代表的なブルースマンの一人。モダン・ブルースの父とも称される。

 

アコースティックのブルースからエレクトリック・ブルースへの移行を促したミュージシャンでもあり、最もテキサスでいちはやくエレクトリックギターを導入したとされている。しかし、上記、三者のブルースマンに比すると、ラグタイムをはじめ、ジャズに近いニュアンスを持っているのがTボーン・ウォーカーである。

 

Tボーン・ウォーカーの楽曲の中には金管楽器も導入されたり、と、ニューオリンズジャズとの融合性も見いだされる。ギタリストとしては、それまでにはなかった速弾きのような画期的な奏法をもたらしている。

 

ウォーカーの生み出す楽曲は、シカゴとは異なる都会的な雰囲気が感じられ、のちのカウント・ベイシーのようなビッグバンドの原型のような音楽性も見いだされるかと思われる。

 

きわめてアクの強い、泥臭い最初期のカントリーブルースを、より大衆に聞きやすく洗練させ、ラグタイムに近いブルース、「ジョイントハウス」のようなブルースバーで気楽に聞けるようなダンスミュージックに変容させた功績はあまりに大きいものがある。 

 

ウォーカーの作品では、リズム性の強いダンス・ミュージック色の強いクールなブルースを、体感してもらえるだろう。民族音楽、教会音楽、労働歌として生まれたブルース音楽を、大衆に理解しやすいように昇華させた偉大なモダン・ブルースのオリジネーターとして最後に列挙しておきたい。

 


References 


texascooppewer.com


https://www.texascooppower.com/texas-stories/life-arts/texas-a-blues-state


all about blues music.com


https://www.allaboutbluesmusic.com/texas-blues/



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