Courtney Barnett「Things Take Time,Take Time」  2021   Marathon Artists

 



  

今回、ご紹介するのは、11月12日にリリースされたコットニー・バーネットの新作スタジオ・アルバム「Things Take Time, Take Time」です。 

 

「物事を為すには、時間を要する、長い時間を要する」

 

哲学的なメッセージに彩られたコットニー・ヴァーネットの三作目となる新作スタジオ・アルバムは、例えば「文学」というセンテンスの連なりによって緻密に構成されたメッセージと同様、この世の中の人々にとって、多くの生きる上での重要な指針を与えてくれる、いわば、心の栄養のような作品となりえることでしょう。


これまでの作品の売れ行きやアーティストとしての成功の過程を完全に度外視し、コットニー・バーネットは今回のアルバム製作において、自分の好きな音楽、本当の意味で、どのような音楽を生み出すべきなのか、この2020年から2021年にかけてレコーディングされた作品において、音楽を介して思索し、ここで、ひとつの明確な解答を提示したといえるでしょう。また、見方を変えれば、インディー・ロックアーティストとしての深い自負心がはっきりうかがえる良質な作品となっております。

 

「Things Take Time, Take Time」と銘打たれた哲学的なニュアンスを擁するタイトルについては、コットニー・バーネットの国内外のインディーシーンにあざやかな印象を与えたデビュー作「Sometimes I Sit And Think,Sometimes I Sit」をもじったものと思われますが、また、そこには、インディーロックアーティストとしての歩みを始めた2015年頃の初心に立ち返り、さらに、その向かう先にある未来へと足取りを進め、ロックアーティストとしての考えをあらためて追究しなおしたような作品です。音楽性についていえば、これまでリリースされた2つのアルバムの方向性を踏まえた上で、インディー・ロック、ローファイのコアな質感を新たに追究したと言えるでしょう。


この作品は、2020年代後半から2021年初頭にかけてレコーディングされており、プロデューサー兼ドラマー、Stella Mozgawaがゲスト参加し、オーストラリアのメルボルン、シドニーにて録音されています。このアルバムについて、イギリスのレコード会社「Vinyl Factory」は「細かく編みこまれた作品」「愛や癒やし、自己発見を探求するため、今作においてコットニーバーネットは自身の精神の内郭に飛び込んでいる」と評しています。

 

このレビューに垣間見えるように、この作品では表向きのキャッチーな音楽としての理解しやすさの他にも、これまでの歌唱法には見られなかったどことなく気だるいようなアンニュイな歌声を聴いても分かる通り、内面に根ざしたインディー・ロックが展開され、その内面性をロック音楽によってクールに弾き飛ばすかのような迫力や爽やかさに満ちています。


今回のアルバムの発売における経緯としては、アルバムの一曲めに収録されているシングル作「Rae Street」がその最初の契機となっています。この作品は、2021年の7月7日にミュジックビデオとして公開され、この映像ではバーネット自身が演じ、自宅近くの住民を映像として追っています。

 

また、同日には、コットニー・バーネットが2015年の作品のオリバーポールなる曲中に登場する主人公にペンネームをとった「All Eyes On the Pavement」という13秒の楽曲をリリースしたところから始まっています。この曲は自身の名のアナグラムからとったレコードレーベルから半ば非公式として発表された作品です。ロックアーティストがライブを演奏するなどというのは難しい時代、コットニー・バーネットはそれを半ばジョークとしてにその事実に対して反駁を唱えてみせたといえるはずです。

 

おそらく、当時メルボルンでは強い自粛が敷かれていたと思われますが、その非日常としか思えない日常の中から、ロックアーティストとして、今、何が出来るのか、何を考え、何を生み出せるのかを見出そうとした結果として現れたのがこの作品。この時期において、コットニー・バーネットは、自身の楽曲を公開しながら、気持ちの落とし所を探求していたような様子も伺える。

 

なぜなら、そういった日常の非日常性に全ての人が納得出来たわけではないはずですし、この時期において、コットニー・バーネットは、その日常の非日常性の中に、ごく些細な、誰にも妨げられることのない楽しみを見出そうと努めていた様子が、この作品の雰囲気から感じられます。

 

特に、今作品の「Things Take Time, Take Time」の八曲目に収録「Write A List Of Thing To Look Forward Toー楽しみにしていることのリストを書く」というのは、2020年から翌年にかけてのこのアーティストの真情のごときものが表された楽曲ともいえるでしょう。


物事には時間がかかる。このタイトルにバーネットがレコーディングの際に、是非ともロックアーティストとしていわねばならなかった感情がそれらの日常の非日常性の中から苦心して生み出された結果、それらがまばゆいばかりの美しい結晶を形成したのが今作「Things Take Time」であり、バーネットのリアルなロックアーティストの本領が遺憾なく発揮された作品と言えます。心の内側にある暗鬱さを、それと正反対の、見事な軽やかさにより弾き飛ばし、内的感情を秀逸なロック音楽として昇華させているのが見事。特に「Write A List Of Thing To Look Forward To」という、2020年代の珠玉のインディー・ロックの名曲で大きな結実を見せています。


このスタジオ・アルバムには、私たちが人生を生きる上での指針をあたえてくれる楽曲が数多く見いだされるはず。「Rae Street」「Before You Gatta Go」、また、それから、今作品のハイライトをなす「Write A List Of Things To Look Forward To」。これらの秀逸なインディー・ロックの楽曲に、美しい生命の煌めきを見出すことは、さほど難しいことではないはずです。

 



Courtney Barnett
 
 
コットニー・バーネットは、オーストラリア、タスマニア州出身のシンガーソングライター。学生時代から友人とバンドを組んで活動する。その後、タスマニア大学ではアートと写真を専攻している。 大学生時代に、カバーバンドを組んだ後、ソロアーティストとしての活動を開始。その後は、メルボルンに移住、ライブハウス勤務をしながら、「Rapid Transit」のギタリストとして活動するようになります。



2012年には、自主レーベル”Milk!Records”を主宰するようになり、同レーベルからデビュー EP「I 've got a friend called Emilly Fellis」、2nd EP「How To Carve A Carrot Into A Rose」を発表しています。この二作目に収録されている「Avant Gardner」は、米国や英国のインディーシーンで話題を呼んだ作品で、コットニー・バーネットの名は世界に知られるようになり、ピッチフォークでBNMに選ばれた他、ローリングストーン誌は「2013年のベストソング100曲」に選出しています。

 

2015年3月には、デビューアルバム「Sometimes I Sit And Think,Sometimes I Sit」を発表。この作品は、欧米をはじめ各国のインディーシーンで好意的な評価を受け、母国オーストラリアではAustralian Music Prizeの栄冠が与えられています。デビュー作として鮮烈な印象をミュージックシーンにもたらし、特に、イギリスの音楽誌での評価が目覚ましく、ラフ・トレードがAlbum Of The Year部門で三位に選出したほか、ローリング・ストーンも2015年上半期のベストアルバム45に選出しています。この年、コットニー・バーネットは、アメリカ、テキサス州で開催される音楽祭、映画祭、”South By SouthWest”(通称:SXSW)に出演し、オーストラリア国内のみならず国外でも著名なインディー・ロックアーティストとして徐々に認知度を高めていくようになります。

 

2017年には、アメリカのインディー・ロックシーンの大御所といっても差し支えないカート・ヴァイルとの共作「Lotta Sea Lice」をMatador Recordsからリリース。 翌年、二作目のスタジオアルバム「Tell Me How You Really Feel」を発表しています。この作品は、特にアメリカで堅調なセールスを記録した作品で、BillboardチャートのUs Vinyl、US Folk Albumの二部門で一位を獲得、Pitchfork、Chicago Tribune、NMEをはじめとする音楽メディアで高評価を受ける。この作品で、コットニー・バーネットはインディー・ロックアーティストとしての人気を確立した後、アメリカの人気アーティストしか出演を許されないMTV Unpluggedに出演しています。 

 

コットニー・バーネットは、左利きのギタリストであるため、ギタリストとしての比較対象としてカート・コバーンが引き合いに出される場合が多く、音楽性においても、インディー・ロックフリークとしてのパッションも伺えます。コットニー・バーネットの音楽性は、Pavement、Built To Spill、Guided By Voicesをはじめとする1990年代の良質なUSインディー・ロック、ローファイを彷彿とさせます。

 

正確には、それよりさらに昔の、主に、60、70年代のミュージックシーンで活躍したレジェンドたち、ボブ・ディラン、ジョナサン・リッチマン、デヴィッド・ボウイ、パティ・スミスに対して、コットニー・バーネットは深い敬意を表しています。

  



マルゴ・ガリヤンさんが2021年の11月8日に84歳で亡くなられたという訃報については、アメリカ、ロサンゼルスの「Buzz Band LA」が最も早く報じたようです。

 

このマルゴ・ガリヤンというアメリカのシンガーソングライターは、それほど日本では知名度に乏しいように思われますが、かつてはビル・エヴァンスといったジャズ界の大御所から音楽の手ほどきを受けた女性シンガーソングライター、作詞家です。懐メロのような雰囲気を持ったポップの楽曲を書いており、84年の生涯において「Take A Picture」という一作品、それからピアノ音楽の変奏をリリースしただけという寡作さにも関わらず、伝説的な音楽家としてアメリカ国内ではみなされています。大まかではありますけれど、彼女の半生と唯一のスタジオ作品について触れていきましょう。

 

マルゴ・ガリヤンさんは、ニューヨーク州のクイーンズのファー・ ロッカウェー近郊のニューヨーク市に、1937年9月20日に生まれ。


彼女の両親は、コーネル大学在学中に出会っており、母親もピアノを専攻、父親もまた同じように、リベラルアーツに熱心な家庭であったようです。マルゴ・ガリアンは、そういった知的な両親のもとで育ち、若い頃から詩の創作に励むかたわら、ピアノ演奏に生きがいを見出した。当初は、当世のポピュラー音楽、クラシック音楽に慣れしたしんでいたマルゴ・ガリヤンは、大学に入ってからジャズ音楽に興味をもつようになりました。

 

その後、ボストン大学では、クラシカルピアノとジャズ・ピアノを専攻し、マックス・ローチ、ビル・エヴァンスといったミュージシャンを信奉していましたが、ご自身のピアノの演奏力に難を見出し、後にピアニストとしての夢を諦め、作曲、ソングライターの分野に転向なさっています。 


高校生の時代から既に、マルゴ・ガリヤンはソングライティングを始めており、ハーヴ・アイズマンの仲介によって楽曲をアトランティックレコードに送り、パフォーマーとして契約を結んで、パフォーマーとしてジェリー・ウェクスラー、アーメット・アーティガンのステージングに参加しています。しかし、その後、アトランティックレコード側は、マルゴ・ガリヤンのヴォーカルのビブラートのピッチのよれ方、歌声の不安定さに難点があると見、つまり、ヴォーカリストとしての資質に乏しいと見、パフォーマーから作曲家へと転向させ、再契約を結んでいます。


この時代、マルゴ・ガリヤンさんは、ご自身の歌声にすっかり自信をなくされていて、「私はあの時、うまく歌うことが出来なかったんです」と、その当時の事を後になって回想しています。しかし、むしろ、当時のアトランティックレコードのプロデューサーが彼女のヴォーカリストとしての潜在能力を完全に見誤っていたということも、後のリイシュー盤でのアメリカでのシンガーとしての再評価を見るにつけ、思う部分もなくはないのです。つまり、シンガーなのか、ソングライターなのか宙ぶらりんのままで、現役時代を終えて、家庭に入ってしまったのがこのアーティストなのです。

 

話を元に戻しましょう。大学時代に入り、クラシカル・ピアノ、ジャズ・ピアノの双方を、ボストン大学で学びながら、マルゴ・ガリヤンは、作曲家としての道を歩み始めています。ミュージシャンとしてのキャリアの最初期に、クリス・コナーというジャズ歌手に楽曲を提供しており、クリス・コナーは、1958年、ガリヤンの作曲した「Moon Ride」をレコーディングしている。


このジャズの作品がマルゴ・ガリヤンのソングライター、作詞家としての事実上のデビュー作と言えそうです。その四年後の1962年にも、クリス・コナーはガリヤンが作詞を手掛けた「Lonly Woman」という楽曲をレコーディングしています。その後、マルゴ・ガリヤンは、ハリー・ベルフォンテに幾つかの楽曲を提供しており、このソングライティングにおける仕事が最初期のミュージシャンとしてのマルゴ・ガリヤンのキャリアを形成していると言えるでしょう。


ボストン大学を卒業した後も、マルゴ・ガリヤンは、みずからのピアノの演奏、ジャズ音楽への知見を深めるため、1959年から、レノックス・スクール・オブ・ジャズに通い、演奏家、作曲家としての技術を向上させています。この時代の技術向上が、後のピアノ作品「The Chopsticks Varieations」というシンプルな現代音楽風の変奏曲で結実を見たことは明らかで、レノックス・スクール・オブ・ジャズで、マルゴ・ギャリアンは、錚々たるジャズ界の大御所と邂逅し、オーネット・コールマン、ドン・チェリー、ビル・エヴァンス、マックス・ローチ、ミルト・ジャクスン、ジム・ホール、ジョン・ルイス、ガンサー・シュラーからジャズ音楽の薫陶を受けています。これが後のミュージシャンとしての作曲性に大きな躍如となっているようです。

 

この時代に、マルゴ・ガリアンは、MJQ Musicと契約を結び、アーティストとしてサインしています。 また、彼女はこの時期、幸福な人生を謳歌しており、ジャズ・ミュージシャンであり、トローンボーン奏者兼ピアニストのボブ・ブルックマイヤーと結婚し、また、音楽の仕事においても、ジョン・ルイス、オーネット・コールマン、アリフ・マーディンといった錚々たるジャズマンに楽曲を提供しています。これらの楽曲で、ガリヤンは作曲だけではなく、作詞も手掛けており、作曲にとどまらず、作詞の分野においても並々ならぬ才覚を発揮しています。


その後、マルゴ・ガリヤンは、ボブ・ブルックマイヤーと離婚した後、ポピュラー音楽アーティストとしての道を歩み始めます。それまでクラシック、ジャズという2つの音楽と深いかかわり方をしてきたガリヤンはおそらく、この離婚後の時代に置いて、かなり落胆をしていたものと思われますが、そこで彼女の精神をすくい上げたのがポップス音楽でした。彼女の友人、デイヴ・フリッシュバーグがガリヤンにBeach BoysのPet Soundsに収録されている一曲「God Only Nows」を聴くように薦め、この時代、マルゴ・ガリヤンは、クラシック、ジャズという近代の音楽の先にある未来のサウンド、ポピュラー音楽に大きな可能性を感じていたようで、このビーチボーイズの「神のみぞ知る」を最初に聴いたときの大きな感動について後にこのように話している。

 

”ビーチ・ボーイズの音楽を聴いていることは、とても贅沢な時間でした。レコードを買って何百万回も再生したんです。”

 

 

この新しいビートルズのアメリカ版ともいえる、ビーチ・ボーイズのサーフサウンドに大きな感銘を受けたマルゴ・ガリヤンは、すぐさま、自分の楽曲製作に取り掛かり、ポップス曲「Think Of Rain」を椅子の上で素早く書きあげています。なぜ、ポップス曲を書くことを決断したかについては、ジャズシーンで起こっていることよりもはるかに、ポップスシーンで起こっていることのほうが魅力的であるという直感によるものでした。


そして、この最初の楽曲「Think Of The Rain」は、後にデモ曲集「27 Demos」として再編集され、Dertmoor Musicから発売され、アメリカの音楽シーンでマルゴ・ガリヤンの再評価の気運を高める要因ともなりました。この楽曲は、1967年当時、ボビー・シャーマン、ジャッキー・デシャノン、クロンディーヌ・ロンジェによって録音され、リリースされています。また、かのニルソンもこの楽曲をレコーディングしていますが、このニルソンバージョンについてはリリースされず、お蔵入りとなりました。

 

また、もうひとつマルゴ・ガリヤンの代名詞といえる「Sunday Morning」もそれから時を経ずに録音されており、この1967年12月にリリースされた作品は彼女の最初のヒット作となり、 ビルボード・チャートの30位にランクインしています。また、この楽曲は多くのアーティストによって歌われ、フランスの女優、マリー・ラフォレがフランス語版「Et Sijet' Aime」として発表し、そのほかにも、この「Sunday Morning」はカーメン・マクレエ、ジュリー・ロンドンによって名画「Sound Of Silence」1968のサウンドトラックの一貫としてリリースしています。

 

 

マルゴ・ガリヤンのアーティストとしての知名度を高めることになったのは、ベルレコードと契約して1968年に発表された、ポップスシンガーとしての唯一の作品「Take a Picture」のリリースでした。このスタジオ・アルバムは、いってみれば、日本の懐メロにもたとえられる軽快なポップサウンドによって彩られた名品の一つ。彼女のバックグラウンドであるジャズ、クラシック、ポップスを自由自在にクロスオーバーした作品と称せるでしょうか。当初、レコーディングにおいては、ジョン・サイモンが担当し、その後、ジョン・ヒルが入れ替わりでプロデューサーを務めています。また、スタジオ・ミュージシャンとしては、カーク・ハミルトン、フリ・ボドナー、ポール・グリフィン、バディ・サルツマンをゲスト・ミュージシャンに迎えて製作された作品であり、アメリカのポップス史の隠れた名盤に挙げられる作品でもあります。

 

 

「Take A Picture」 再発盤 2020

 

 

 

 

この作品は、マルゴ・ガリヤンというシンガーとしての資質が最初に認められた傑作でもあり、発表当初から、米ビルボード誌は諸手を挙げて、「Take A Picture」に高評価を与えており、「Take A Pictreはきわめて上質なサウンドであり、好調なセールスが約束された作品である」と最大の賛辞を送っています。しかしながら、結果的に言えば、このビルボードの目算は当たらなかった。このアルバムを最大の商機とみたリリース元のベル・レコードはすぐさま、マルゴ・ガリヤンのアメリカの大規模ツアー計画を打ち出し、大々的な宣伝を行う準備に入りました。いよいよ、スターミュージシャンとしての成功は目前と思われた矢先、このアメリカをシンガーとして巡回するツアーのベル・レコードからのオファー、ミュージシャンとしてのまたとない成功の機会をマルゴ・ガリヤンは拒絶し、この宣伝を兼ねたツアー自体は立ち消えになり、彼女はスターミュージシャンとしての座に上り詰めるチャンスをみすみす逃すことになります。

 

なぜ、こんなことが生じたのかといいますと、当時、マルゴ・ガリヤンが他のミュージシャンと結婚し、家庭を持っていたことがひとつ、そしてもうひとつは、ベル・レコード側のツアーに際しての提案の数々、あなたは、こういったステージ衣装を着るべきであり、また、あなたは、こういったパフォーマンスをステージで行うべきである、というような、ショービジネスを行う上での要請を、彼女はまっとうなことだと受け入れられなかったこと。この女性はレコード会社の操り人形になることだけは避けた、権力に自分の魂を従属させることだけを避けた、独立した女性であり、素晴らしい偉大な人物です。こういったことは、音楽業界でままあることなのかもしれませんが、その後、ツアースケージュールが立ち消えになったことにより、ベルレコードとの関係は悪化して、「Take A Picture」自体はリリースに至るものの、商業的にはそれほどの話題作とはならず、また、マルゴ・ガリアンとしての後発の作品がリリースされることもありませんでした。これがつまり、フレンチ・ポップスのシルヴィ・バルタンのようなスター性を擁していながら、このアーティストが世界的なポップスシンガーにならなかった要因といえそうです。その後、マルゴ・ガリヤンは、スターミュージシャンの道を閉ざし、平和な暮らしを選択し、ピアノの個人教師としての道を選んでいます。その後、クラシックの変奏曲「Chopstickes Variation」という練習曲のような作品をリリースしていますが、長いあいだ表舞台に姿を見せることはありませんでした。



完全にミュージックシーンから忘れ去られてしまったマルゴ・ガリヤンというシンガーソングライター。しかし、良い作品、良いアーティストというのは、たとえ、大々的な宣伝が行われなくとも、どこかの時代において、正当な評価が与えられるようです。2000年代に入ってから、アメリカのミュージック・シーンで、マルゴ・ガリヤンの再評価の気運が高まり、2014年には初期のデモを再編集した「27 Demos」、2016年には「29 Demos」が相次いでリリースされたのを機に、このアーティストの音楽性が再度脚光を浴びることになります。 

 

 

 

「27 Demos」2014

 

 

 

また、この二つのデモトラック集のリリースに続いて、2020年にも、モノラル盤のリマスター盤として再編集されたマルゴ・ガリヤンの唯一のスタジオ作「Take A Picture」がリリースされ、時代を越えた良質な作品として注目が集まりました。どの時代からそうしていたのか定かではないのものの、既にこの頃、マルゴ・ガリヤンは、表舞台のミュージック・シーンとは完全に距離を取っていて、故郷のニューヨークからLAに移住しており、ほとんどその所在については知られていなかったようです。

 

そして、不思議なことに、一番最初に、マルゴ・ガリヤンの訃報を伝えたのは、アメリカの主要メディアではありませんでした。先日、約一週間前に、ロサンゼルスの雑誌「Buzz Band LA」が先だってこのアーティストの突然の死を報じ、それに引き続いて、アメリカのメジャーなメディアがこのミュージシャンの訃報を相次いで伝えたというのが実情だったようです。


アーティストとして現役時代に表舞台で、そこまで大きな活躍したわけでないにもかかわらず、各メディアが世界的なスターミュージシャンのような取り上げ方をしたのはかなり異例と言えるものでした。おそらく、このような大きな報道がなされたことについては、この数奇なミュージシャン、マルゴ・ガリヤンが多くの裏方の作曲での偉大なる仕事を行い、アメリカの音楽シーンに貢献してきたという紛れもない事実、また、なおかつ、この隠れたポピュラー音楽史に燦然と輝く「Take A Picture」をこの世に残したことに対する、アメリカのメディアの最大の賛辞に他ならなかったのかもしれません。


 

 




References

 

Howold.co


https://www.howold.co/person/margo-guryan/biography 

 

 


 

American Footballの中心人物、エモ界の大御所、マイク・キンセラ擁するアメリカのインディー・ロックバンド、OWENが、2019年に、イギリス、ロンドン、レキシントンでライブ録音された音源「Live At The Lexington」を発表しました。

 

 

 

Quote: I Am Meme Twitter

 

7インチヴァイナル盤の発売に加えて、Spotifyをはじめとするストリーミング・ヴァージョンでは4曲の楽曲を聴くことが出来ます。

 

この11月17日のOWENのEP作品リリースに際して、イギリスオックスフォードのインディーレーベル”Big Scary Records”は、「The Sad Walz Of Pietro Crespi」のライブ映像を公開しています。 

 

 

 

 

 

 

EP作品と同じく、実に、OWENらしい落ち着いたインディー・フォークを味わえ、ゆったりくつろげるような映像となっております。ライブEPと共にエモコア、アメフト好きはチェックしておきたい楽曲です。


OWENは、今年、11月の下旬からツアー「UK TOUR 21」を控えており、グラスゴー、リーズ、ノッティンガム、バーミンガム、ロンドン、ブライトンといった都市での公演がツアースケジュールに組まれています。日本のファンとしては、新作のEP作品を聞き、来日ライブを心待ちにしたいところですね!!

 

 

 

Owenの新作EP作品の詳細につきましては、以下、Big Scary Recordsの公式リリース情報を御覧下さい。

 

 https://orcd.co/liveatthelex

 

 

 

 Flying Lotus


 

フライング・ロータス、ステーヴン・エリソンは、LAを拠点に活動するインストゥルメンタル・ヒップホップミュージシャン。ロサンゼルスのヒップホップのインディーシーンの最重要アーティストの一人に挙げられるでしょう。大叔母に、アリス・コルトレーン、大叔父に、ジョン・コルレーンを持つことでもよく知られていますが、スティーヴ・エリソンは、ロサンゼルスに自身のインディペンデント・レーベル「Brainfeeder」を主宰していることも有名です。このレーベルからは、ジャガ・ジャジストといった著名なアーティストの作品もリリースされています。

 

スティーヴン・エリソンは、2006年、最初の作品「1983」をPlugin Rsearchからリリースしたのを機に、フライング・ロータスとして活動を開始。 その後、エイフェックス・ツインやスクエアプッシャー、ボーズ・オブ・カナダを輩出した英国の電子音楽の名門レーベル「Warp Records」と契約し、Warp Recordsから多くの傑作を生み出しています。また、フライング・ロータスとしての作品リリースの他にも、ケンドリック・ラマー、マック・ミラー、チャンス・ザ・ラッパーといったヒップホップシーンのアーティストの作品プロデュース、Adam Swimの「Pump」といった映像作品のサウンドトラック製作にも参加。また、その他、スティーヴン・エリソンは、自身の映画「kuso」で、映像制作からサウンドトラック制作までをみずから手掛けており、ミュージシャンとしての活動にとどまらず、多岐にわたる分野に渡って活躍するマルチタレント。

 

フライング・ロータスの音楽性は、近年、アメリカのカルフォルニアのインディーシーンで隆盛の兆しをみせているクロスオーバー・ヒップホップに属する。インストゥルメンタル・ヒップホップ、また、重低音を強調したダンスフロアの巨大なスピーカーからの出力を意識したコアなエレクトロに位置づけられますが、その他にも、ジャズ、実験音楽、そして、ブラジルの民族音楽からの影響が強いことでも知られています。


ターンテーブルのスクラッチの技法の多用、ブラジルの民族音楽に色濃い影響を受けた迫力のある重低音、シカゴのハウス音楽からの影響を受けたブレイクビーツのシンコペーション、そして、往年のトリップ・ホップのようなジメッとした暗鬱さ、それから、アシッド・ジャズのようなアダルティな雰囲気も兼ね備えています。


 


Flying Lotus says STOP THE WAR!"Flying Lotus says STOP THE WAR!" by DUBLAB is licensed under CC BY-NC-SA 2.0

 

 

 

 Flying Lotusの注目作品


 

「Los Angels」2008 Warp Records

 

 

 

フライング・ロータスの記念するべき1stアルバムにして鮮烈なインパクトをロサンジェルスのアンダーグランドダンスフロアにもたらた作品。

 

特に一曲目の「Brainfeeder」はスティーヴン・エリソン自身の主宰するインディーレーベル名ともなった代名詞的なトラックといえよう。ブレイクビーツ的な手法は、Bonobo、サイモン・グリーンのリズム性をさらに一歩先に推し進めたといえるかもしれない。


この作品は他のフライングロータスの作品に比べ、ヒップホップ色は薄く、どちらかといえばチルアウトをよりコアに濃縮した作風である。もちろんこの作品では、ワープレコードらしいダンスミュージック、コアな電子音楽。しかし、フライング・ロータスの後の他のダンスフロアシーンのアーティストと異なる音楽性、取り分け、ブラジルの民族音楽からの影響性が何となく感じられ、それはポンゴのリズムを効果的に楽曲中に取り入れることにより、唯一無二のフライング・ロータス節ともいえる摩訶不思議なな音楽性が生み出されている。電子音楽は西洋で生まれたものであるが、その電子音楽の骨格ともいえる西洋性を半ば放棄し、南米大陸、あるいは自身のルーツであるアフリカ大陸の文化性を取り入れることに成功した鮮烈なデビュー作である。 

 

 
Listen on Apple Music

 

 

「Cosmogramma」 2010  Warp Records

 


 

後にケンドリック・ラマーのプロデュースを手掛けたフライング・ロータスではあるが、そのヒップホップのコアさが滲み出た作品が通算二作目のアルバム「Cosmogramma」である。

 

この作品は「Los Angels」よりも遥かに音楽性の間口が広く、フライング・ロータスはこの作品において、俗にいうワープサウンドらしいいささかマッドの領域に踏み込んだといえる。その中には無尽蔵の電子音楽の影響性が見受けられ、ゲーム音楽を発祥とするチップチューン、その他にも映画のサントラに近い「Intro:Cosmic Drama」 がコンセプト・アルバムのように挿入されたり、また、「Zodiac Shit」ではアンビエント・ドローンの風味のある楽曲に挑戦したり、これまでの電子音楽の歴史を、この一作でなぞるかのような迫力を持った作品である。

 

しかし、そういった実験的なマテリアルが、作品としててんでばらばらに点在しているかといえばそうではない。全体的にその散漫な音楽性を一つに纏め上げ、質実剛健な建築の骨組みのように支えれいるのが、おそらくこの年代、エレクトロ界隈で最流行していたドラムンベースの要素なのである。この図太いビートが作品全体に通奏低音のように鳴り渡ることにより、フライング・ロータスは、広汎な電子音楽の知識を活かし、通好みのダンスフロアを沸かせるに足る、刺激的で説得力のこもった快作として仕上げているのが見事である。

 

  Listen on Apple Music

 

 

「Whole Wide World」 EP  Declaim&Flying Lotus  2011  Ramp Recordings



 

Declaimこと、ダドリー・パーキンスをゲストに迎え入れ制作されたEP作品。ヒップホップアーティストをゲストとして招いた理由が顕著にこの作品には表れており、サンプリング、ターンテーブルの手法が遺憾なく発揮されたフライング・ロータス歴代の作品の中でもっとヒップホップのニュアンスが色濃くにじみ出た作品。

 

サンプリングとなったトラックにもジャズ寄りの楽曲が選ばれていることを見ても分かる通り、どことなくアダルティな雰囲気が滲み出た快作である。

 

特に、表題曲「Whole Wide World」は、アシッド・ハウスとラップを融合させ、英、ブリストルのトリップ・ホップのようなアンニュイな雰囲気が漂っている。それに加え「Lit Up」は見事なコントラストを描き、アメリカのオールドスクールのゲトゥーサウンドの最深部に立ち返ったかのようなクールな覇気が籠もっている。そのあたりが、このアルバムの最大の聞き所でクールさといえるだろうか。当時の最先端のヒップホップをフライング・ロータスは追究している。もちろん、ここでの、ダドリー・パーキンスのフロウというのはこの上なく痛快である。 

 


Listen on Apple Music


 

「Until The Quiet Comes」(Japanese Edition) 2012  Warp Records

 

 

 

この作品において、フライング・ロータスはヒップホップの原始的な響き、嵩じた電子音楽性とは一定の距離を置き、インテリジェンス性のある音楽性を追究する。2008年から自主レーベル、Brain Feederを主宰していく過程において、様々な電子音楽の可能性を見出したためであると思われる。

 

この作品では、最初期の南米やアフリカのリズムをブレイクビーツとして処理し、どのような形で一点に集中されていくかに焦点が絞られている。今までの作品が、外側に無限性を携えて広がっていく作風であったとするなら、対象的に、内側の一番中心点に向かって音というエネルギー体が収束するニュアンスが感じ取られる。

 

広汎な電子音楽のバックグラウンドをテクノに絞り、そこにチルアウト的な安らぐ雰囲気が付加されている。この新しい音楽性を追究する過程において、やはり、フライング・ロータスらしいというべきか、アシッド・ハウス、トリップホップ的ないくらかアンニュイな雰囲気も漂う。しかし、それは暗鬱という印象を聞き手に与えず、まったりした陶酔感を与える点では、さらに大人の質感の漂うBonoboに比する秀逸なトラックメイクが行われていることに注目だろう。

 

他のフライング・ロータスの作風に比べ、落ち着いた質感をスティーヴ・エリソン自身の持つジャズのルーツを伺わせるアルバムで、ジャズの持つ夜の陶酔と言うべき情感、それを電子音楽として組み直している点が画期的である。  

 

 

 Listen on Apple Music



「You're Dead」  2014  Warp Records



ライング・ロータスの最高傑作の呼び声高い作品。 20曲入りという凄まじいヴォリューム感もさることながら、今作品に参加したゲスト・ミュージシャンも豪華である。ハービー・ハンコック、ケンドリック・ラマー、スヌープドック、サンダーキャットと豪華なメンツには目がくらみそうである。

 

もちろん、この作品は、豪華なゲストを寄せ集めたことが魅力ではない。これらの複数のミュージシャンたちが、それぞれの個性を火花のように散らし、それが20という凄まじいトラック数に昇華されているのだ。フライング・ロータスは、この作品で実験音楽的なアプローチを駆使し、フリージャズの領域に果敢に挑戦してみせている。フリージャズとしてのアプローチが大きな結実を見せたのが「Moment Of Hesitation」である。ここでは、この上なくスリリングなフリージャズが展開されているが、ここで、フライング・ロータスが果敢に挑んでみせているのは、Barre Phillipsのようなフリー・ジャズ性を「電子音楽」として再構築し、クールな雰囲気の楽曲として完成させている。その他にも、アヴァンギャルド・ヒップホップの最高峰ともいえる「Never Catch Me」ではスヌープドッグの助力を得たことにより、最高の一曲を生み出してみせた。


また、このアルバムでは死という概念について多くの楽曲が生み出されていて、概念的にはコンセプト・アルバムということも出来るかもしれない。けれども、フライング・ロータスの描き出す死という概念は暗鬱さに彩られているわけではないように思える。この作品は神秘性、それにくわえて、新たな生の明るい始まりが華々しく予告されている。これまでのヒップホップ音楽の一つの未来形を形作った新鮮味あふれる作品といえようか。 

 

 

 Listen on Apple Music

 

 

「Yasuke」 2021  Warp Records



 

スティーヴ・エリソンは、自身の音楽的なルーツとして、日本のドラゴンボールをはじめとするアニメーションを挙げており、その他にもゲーム、そして、何より、北野武の映画に心酔しているアーティストとしてよく知られている。ドラゴンボールの大ファンであり、アメリカのヒップホップミュージシャンの中でも随一の親日家のアーティストともいえる。そのあたりの音楽の多角的なメディアのルーツが遺憾なく発揮されたのがネットフリックスの映像作品「Yasuke」のサウンドトラック製作である。これまで、他にも映像作品を手掛けてきたフライング・ロータスは、このサウンドトラックでこそ自身の最質を最大限に発揮したといいえるかもしれない。

 

この作品では、これまでのジャズ、電子音楽、ヒップホップという3つの主要な音楽性を飽くまでサウンドトラック、映像の補佐的な音として見事な形でフライング・ロータスは完成させている。これまでの作品と比べると、映像作品のための音楽ということもあり、主役性のある音楽から一歩引いた脇役性の強い音楽が展開されているのは確かである。しかし、その一歩引いた雰囲気が寧ろ、絶妙なバランスを保ち、サウンド自体に何かを物語らせるような指向性を与えることに成功している。所謂、サウンドトラックらしい美麗さを追究した音楽ではないのだけれども、このジャズを交えたストイックな電子音楽は、IDMの作品として超一級品ともいうべき魅力を持っている。

 

この作品で新しいクロスオーバー・ヒップホップの領域を見出したフライング・ロータス。この先、どのような新奇性あふれる魅力的な音楽を生み出してくれるのかに注目したいところだ。

 

 

Listen on Apple Music

1.デトロイトの音楽

 

記憶に新しいのは、かつてフォードやゼネラル・モーターズといったアメリカ合衆国を代表する巨大産業の栄華が2013年に終焉を迎えたことである。アメリカの近代の経済の屋台骨を支えてきたこの二大企業は見る影もなく没落し、ミシガン州南部にあるデトロイトは米連邦破産法9条の適応を申請し、財政破綻を迎えた。おそらく、アメリカの近代産業の最大の成功の一つの自動車産業は、この年を境にして、はっきりと既に過去の虚栄に過ぎぬことが明るみに出たように思える。現在はそういった遺産を新たに組み直す試みが行われているが、少なくとも、アメリカの史実を概観してみた際には、近代の産業発展に最も貢献してきた都市であることに変わりないように思える。


表向きには、クリーブランドに続いて発展した産業都市として知られているミシガン州デトロイトではあるが、この土地にはもう一つ音楽都市の表情を持っていることを皆さんはご存知だろうか。後には、この都市を代表するロックスター、KISSが「Detroit Rock City」という名曲を歌い、このデトロイトという自動車都市の存在感を世界的に示してみせたのは、フロントマンのジーン・シモンズがこの土地を誰よりも誇りに思っていたからでもある。この時代は、明らかに、デトロイトという都市の経済が最盛期を迎えていたことを証明する事象でもある。近代において、デトロイトがアメリカでも有数の音楽都市になったのは偶然ではないはずだ。

 

 

加え、デトロイトには、フィルモア・デトロイト、セントアンドリュースホール、といった世界に名だたるコンサート会場が生まれ、世界的な音楽都市として近代にかけて急激に経済発展を遂げた。だからこそ、2013年の180億円の負債を抱えての財政破綻というのは、ある一定の地域の痛撃ではなくて、アメリカ全体の近代文化の終焉を示す通牒でもあったのだ。

 

 

これまでの歴史において、必ず、音楽文化が隆盛する場所というのは、経済が発展している途上にあるか、あるいはまた、その最盛期にある一地域とも換言できよう。その土地で、音楽文化が発展しているかどうかを見極めることは、経済的な指標を見るのに最も適した項目といえる。ヨーロッパの中世の音楽史もそうであったように、音楽文化というのは、産業や経済の発展の先に生み出されるものであり、全てに適用される理論とはいいがたいけれども、一般的には、経済的な余剰から生み出されるのである。仮に、経済的な余剰がなければ、音楽文化、その他の文化というのに割く労力がなくなり、その国家、都市文化は疲弊していく、というように結論づけられるかもしれない。


このデトロイトという土地は、古くからブルース音楽が盛んで、1960年代1970年代にかけてソウルやR&Bが生まれ、そして、ニューヨークでヒップホップ文化が生じるまではディスコブームを牽引し、 その後はシカゴのハウス音楽に続いてテクノ音楽が生み出されていく。その他にも、テッド・ニュージェント、KISS、MC5、ストゥージズ、といったロックンロール、プロトパンク、パンクロックの原型を形作ったムーヴメントも巻き起こしたアメリカの重要な土地でもある。

 

そもそも、このデトロイトにおける音楽産業を一番最初に確立させ、自動車産業の発展と連れ立ってこのデトロイトという都市、ひいてはアメリカ全体の経済発展へ導いたのは、モータウンレコード(これはモーターとタウンをかけ合わせた造語である)、そして、黒人としての最初の起業家、ベリー・ゴーディーJrという世界的な実業家であったといえる。 

 

それまでは、ゴスペルやブルース音楽は一般的な商業性をもった産業になりえなかったが、このモータウンというブラックミュージックの重要な発信地が生まれたことにより、ブラックミュージックは、産業、商業として確立されていく。無論、自動車産業の他にも、このブラックミュージックは、巨額の経済効果をもたらした。Motownからデビューした歴代の世界的なミュージックスターは数えきれない。フォー・トップス、テンプテーションズ、スティーヴィー・ワンダー、ジャクソン・ファイヴ、きわめつけは、マーヴィン・ゲイをはじめとする超大物黒人ミュージシャンを次々に輩出した世界的なレコード会社である。

 

 

 

2. Motownsの出発 Berry Gordy Jr.の足跡

 


1959年、創業者ベリー・ゴーディJrは、家族から800ドルの融資を受けて、1959年の1月に最初、タムラレコードというインディペンデントレコード会社を設立し、その年の後半、ゴーディは、デトロイトのフランドブールバードの物件を購入した。この建物は後に「ヒッツビルUSA」という名称で親しまれるようになる。 

 

 

 

 

Hitsville U.S.A., Motown Museum, Detroit, Michigan

 

 

ほどなくして、このモータウンの敷地内の建物の裏手にあった写真スタジオは、レコーディングスタジオに改築され、後には、数々の名レコーディング、ジャクソン・ファイヴをはじめとするアーティストの録音が行われる、いわば伝説的なレコーディングスタジオとなった。他の建物には管理事務所が置かれ、1960年正式にモータウンレコードコーポレーションの名が社名として登録される。

 

ベリー・ゴーディJr.のレコード事業に対する関心は、それ以前の「3Dレコードマート」と呼ばれるジャズを取り扱うレコードショップをデトロイトに立ち上げた際に始まっていた。このレコードショップ経営において、彼はジャズの美しさについて伝道師のような役割を果たしたいと考えていたのだろう。モータウンレコードの社訓ともいえる、「白人、黒人、ユダヤ人、分け隔てなく楽しめる音楽を提供したい」という概念は、この最初のレコード店経営の際に培われたものであろうと思われる。しかし、最初のレコード店経営は、残念ながら大失敗に終わっている。彼は経営不振のため、逆に店を追い出された始末であったが、少なくとも、レコードを販売することの楽しみを、ゴーディはこの若い時代において堪能していた筈である。事実、この最初の事業が表向きには失敗してからも、ゴーディの音楽産業に対する興味が失せることはなかった。

 

ベリー・ゴーディーJr.の最初の音楽業界での成功というのは、意外なことに、レコード会社の設立者としてではなく、ソングライターとしてであった。最初のレコード店を追われてから、彼は、その後、デトロイトのダウンタウンのナイトクラブに頻繁に出入りするようになり、ここで、数奇な出会いがあったことによって、彼の人生の歯車は回転しはじめたといえる。デトロイトにある「Flame Show Bar」にて、ゴーディは、パールミュージックという音楽出版社を所有し、ジャッキー・ウィルソンのマネージャーを務めていたアル・グリーン(有名歌手とは別人物)という業界関係者の知己を得た。

 

それからまもなくして、ベリー・ゴーディーJr.は、妹のグエン・ゴーディ、ビリー・デイビスとソングライター・グループを結成し、ジャッキー・ウイルソンのヒット曲「Lonely Teadrops」のソングライティングを手掛けるようになり、1957年から翌年にかけて、この曲は、アメリカで空前の大ヒットとなった。その後も、ゴーディは「Lonely Teadrops」のA面の楽曲製作を手掛けた。1958年の一年、驚くべきソングライターの才覚を発揮し、100以上もの作品製作に携わっている。

 

1958年になると、ゴーディは、マーヴ・ジョンソンの「Come to me」という楽曲を書き、プロデュースを行った。これは、結果的に、記念すべきモータウンレコードの第一号となった。

 

このレコードの流通取引のため、ベリー・ゴーディは800ドルの資金を必要としていた。この際、ゴーディは、実業家であった両親に頼み込んで、共同組合の普通預金から予算を捻出するように働きかけた。彼の家族は、この申し出をしぶしぶ受け入れ、ゴーディーJr.に800ドルを融資し、1959年、1月にモータウンの前身、「Tamla Records」から、マーヴ・ジョンソンの「Come To Me」がリリースされた。この「タムラ」という名称は、アメリカの伝説的な映画俳優、デビー・レイノルズの楽曲「タミー」に因んでいる。当初はタミー・レコードという名をゴーディは使用していたが、ネームライセンスの面で懸念があり、時を経ずに「タムラ・レコード」に名称を変更している。


この後、マタドールズ、ミラクルズを始め、初期のノーザン・ソウルシーンを形作るアーティストたちのレコードを「ヒッツビルUSA」でレコーディングした作品をリリースし、モータウンは、シカゴ一帯のR&Bアーティストと共にソウルムーブメントの基盤を形作った。

 

モータウンレコードの最初のヒット作となったのは、それほど後の伝説的な作品ほどには有名とはいえないかもしれないが、レコード会社創設間もない頃にリリースされたバレット・ストロングの「Money」であった。これは、米ビルボード誌のR&Bチャートで堂々第二位を獲得し、次第にモータウンレコードの名はアメリカ全土に知られていくようになった。

 

 

 

3.モータウンの最盛期 1960-1970

 

 

1961年から1971年にかけて、アメリカでは空前のR&Bブームが沸き起こった。特に、南部のサザン・ソウルに対するノーザン・ソウルは、全米のミュージックシーンに対してきわめて大きな影響力を十数年もの間持ち続けた。

 

この十年間、モータウンは、110ものビルボード・トップ10にランクインする名曲を送り込んでいる。この期間のモータウンアーティストはうっとりするような偉大なグループが数多く見いだされる。ダイアナ・ロス擁するスプリームス、フォー・トップス、それから、最初期のマイケル・ジャクソン擁するジャクソン5といった豪華な面々。一方のタムラレコードにも、きわめて個性的なR&Bアーティストが名を連ねていた。スティーヴィー・ワンダー、マーヴィン・ゲイ、マーヴェレッツ、ミラクルズを中心にヒット曲のリリースを着実に重ね、ソウルムーブメントを牽引していった。 

 

 

 

November 21-December 22: The Cosmopolitan of Las Vegas New Year’s Eve Celebration Featuring Stevie Wonder Giveaway


 

彼は、まるでこれらのヒット・ソングでは物足りぬと自ら物語るかのように、およそ信じがたいほどの活力を見せ、この時代において、モータウン、タムラ、2つのレーベル経営に飽き足らず、第三、第四、第五のレーベル経営に乗り出していった。3つ目のレーベル「ゴーディ」からは、テンプテーションズが輩出されているが、第四、第五のレーベルからはそれほど世界的なアーティストは多く出ていないところを見ると、少々事業面での拡大を行いすぎた感も見受けられる。しかし、これらの包括的なレーベルからリリースされた作品は、モータウンサウンドという異名をとるほど世界的に有名となった。

 

これらの1960年代の黒人ビックアーティストの台頭、そして、ソウルミュージックにはアメリカ社会としての変革期にあたった。キング牧師の公民権運動、その人権の勝利としての追い風は、このソウル、または、モータウンレコードの音楽産業としての勢力の拡大に密接な関係を持っている。つまり、これはさらにいえば、最初期のブルース、ソウルに引き継がれたブラックミュージックを介しての黒人たちの権利獲得の戦いでもあった。そのことを表すのが、最初期のモータウンに所属していたミラクルズのメンバー、また、後にはモータウンの副社長をつとめた、ゴーディーの片腕、スモーキー・ロビンソンの言葉の中に見受けられる。

 

 


1960年代、私達はモータウンが音楽活動だけではなく、それまでのアメリカの歴史を塗り替えているという事実にはまったく気がついていなかった。けれども、モータウンの楽曲が世界中に知れ渡るようになってから、あることに気がついたのだ。

 

私達が架けた橋は、音楽を介して、人種問題などの壁をとりのぞくものであると気がついたのだ。また、そののちに、もうひとつ気がついたことがあった。モータウン設立当初にサザン・ソウルが流行っていた南部にいっていたらどうなっていたか、私達はすさまじい差別を受けただろう。しかし、 私達はけしてそうしなかった。そして、その後、モータウンサウンドが全米に広がっていった、その時代から観客は差別されることはなくなり、さらに子供たちは手をとりあって踊るようになったのだ

 ”               モータウン副社長、ミラクルズ、スモーキー・ロビンソン

 

 

 

この後、1967年に、ベリー・ゴーディは、それまで所有していた住居を、姉アナ、その後の夫、マーヴィン・ゲイに譲渡し、デトロイトのボストンデディソン歴史地区に邸宅を構え、「モータウンマンション」という名称で親しまれるようになった。


ちなみに、この前にゴーディーが住んでいた邸宅はマーヴィン・ゲイの「What’s Going On」のアルバムカバーに写真として収められている。1968年、ゴーディは、ウッドウォード通り、それから州間高速道路75号線の交差点にあるドノヴァンビルを購入し、モータウンのデトロイトの本事務所を移転することとなった。

 



4.モータウンサウンドの魅力

 

 

この十数年間のモータウンの歴史は、およそアメリカのブラックミュージックの最初の商業化と言っても過言ではなかった。

 

そして、ゴーディーJr.は、間違いなく最初の黒人としての世界的な起業家であり、歴史にその名が刻まれるべき偉人である。この世界最大のインディペンデントレーベルの掲げる理念は「The Sound Of Young America」であった。つまり、若い世代を中心として、この理念のもとに緻密な戦略に基づいた、非常に幅広いリスナー層に向けたポピュラー音楽を数多く生み出すことに重点が置かれていた。

 

特に、このモータウンの象徴的な要素を形作ったのは、グループ形式で構成されるノーザンソウルと呼ばれる音楽である。これは、前の時代のソウルよりもはるかに親しみやすく、歌いやすく、また、リズムにおいてもディスコサウンドに近い要素があったため、アメリカ全土で流行しただけではなく、イギリスにもこのモータウンサウンドの名が広がっていったのは、その後の、人種差別を撤廃しようとする世界のコモンセンスを考えてみると、当然のことであったように思える。

 

ホーランド・ドジャー・ホーランド(H=D=H)の世相を反映したポピュラーサウンド、キャロル・ケイ、ジェームス・ジェマーソンをはじめとするジャズの要素を交えたR&Bサウンド、ファンク・ブラザーズのビートを強調するタンバリンのパーカッション。これらのノーザン・ソウルと呼ばれる音楽の一群のマテリアルは、実のところは、前のソウル音楽を継承したものでしかなかったけれども、その時代の気風にあった音楽だったこともまた事実である。多くの実力、スター性、パワフルなシンガーたちの歌唱力、そしてゴスペルを根深いルーツに持ち、ジャズを発祥とする”コールアンドレスポンス”を実に巧みにヴォーカル曲の中に、ひとつの技法として取り入れたところがきわめて画期的であった。

 

 

これらの音楽は、1960年代から1970年代にかけて、モータウンサウンドと呼ばれ、人種をとわず大人気となった。この時代、ゴーディーJr.は、プロデューサーという側面でも超絶的な才覚を発揮した。モータウンに所属するシンガーあるいはアーティストたちは、レーベルオーナー、ベリー・ゴーディJr.のプロモーションの方針に従い、洗練されたきらびやかな衣装を身につけ、上品かつ華美に振る舞い、「エド・サリバン・ショー」をはじめとする多くのテレビ音楽番組に出演した。MTVをはじめとする後のTV音楽番組の時代の先駆的なプログラムといえるかもしれない。

 

 

この時代において、モータウンは、テンプテーションズ、マーヴィン・ゲイ、グラヒス・ナイト&ヒップス、レアアースらのヒット曲を生み出す傍ら、ゴーディンは、TV系子会社モータウンプロダクションズを設立、「TCB」「Diana!」「Goin’ Back to indiana」と、名物的な音楽番組を生み出している。ゴーディーは、これらの音楽番組のプロデューサーも務めていた。

 

 

この時代から、彼は、長年モータウンに所属するアーティスト自身の楽曲プロデュースを許可するようになった。この時代、モータウンレコードは、怒涛のペースでヒット作を連発していった。看板アーティスト、マーヴィン・ゲイの「What's Goin’ On」、「Let's Get It On」、スティーヴィー・ワンダーの「Music of Mind」、「Talking Book」、「Inner Visions」といった作品は、アメリカの辛口音楽評論家を唸らせるに足る歴史的な名作群となった。1960年代には、本社のデトロイトの他にも、ニューヨークとロサンゼルスに支社を構え、1969年にはロサンゼルスに拠点を徐々に移行していった。 

 

 

Mavin Garye「What's Goin' On」

 

 

 

Stevie Wonder 「Talking Book」

 

 

レーベルからの作品リリースの流通の拡大、及び、テレビショーでの宣伝効果もあってか、モータウン・サウンドは、いよいよ国内にとどまらず、イギリスにヒットの裾野を伸ばしていった。この年代、世界的な音楽シーンにおける白人のミュージシャンの最高峰がビートルズであったとするなら、一方、黒人のミュージシャンの最高峰をなしたのが、モータウンに所属するアーティスト、シンガーたちだったはずだ。モータウンレコードについて記述しているという贔屓目を差し引いたとしても、モータウンに所属するアーティストたちは、世界に名だたるスターミュージシャンとして一世を風靡したといえよう。

 

 

 

5.モータウンのインディーズレーベルとしての幕引き

 

 

 

1980年代にかけて、無限に事業を拡大していくかのように思えたモータウンの経営に陰りが見えはじめた。

 

依然として、アメリカの象徴的なR&B曲「We Are The World」への参加で知られる、ライオネルリッチーをはじめ、コモドーアズ、リック・ジェームス、ティーナ・マリー、ダズ・バンド、ディバージなど多くのスターミュージシャンを抱えていた。1983年には、モータウンの25周年記念コンサートが行われていたし、NBCが、その公演の模様を録画放送した。モータウンの勢いはとどまらぬように見えたが、時代は、レコード産業の最盛期にあたった。

 

その他、アトランティック、ゲフィンといったロックサウンドを主要なカタログとしてリリースする大手のレコード会社、そして、MTV産業がこの時代において最盛期を迎えており、オーバーグラウンドではマイケル・ジャクソンなどの黒人シンガーは依然として大活躍してはいたものの、それはあくまでコアなソウルではなく、ポップ・シンガーとしての話だ。また、R&B,ソウル音楽が依然に比べて、時代遅れの音楽のようにみなされる向きもあったかも知れない。

 

そういった時代の流れを受け、1980年代半ばに差し掛かると、モータウンは経営不振に陥るようになった。ベリー・ゴーディJr.は、1988年にロックの殿堂入りを果たしているが、また、同年6月にモータウンの所有権をMCAレコード、ボストン・ヴェンチャーズに、6100万ドルの値で売却したことにより、インディーレーベルとしての史実に終止符を打った。

 

その後は、メジャーレーベル、ユニヴァーサルミュージックに吸収合併され、傘下に入り、子会社化し、モータウンは現在も存続している。かつてモータウンの伝説的レコーディングが行われた「ヒッツビルUSA」は、現在、モータウン博物館としてデトロイトの観光名所となっている。 

 

 

盛岡夕美子

 

盛岡夕美子さんは、1978年から1987年にかけて作詞家、ピアニスト、作曲家として活動していた音楽家です。

 

1975年に、サンフランシスコ音楽学院を主席で卒業した後、"宮下智"を名乗り、日本の音楽業界でコンポーザーを務める。1980年代にかけて、男性アイドルグループへの楽曲提供を行い、中には、驚くべき男性アイドルの名が見られ、1980年代にかけて、田原俊彦、少年隊といったアイドルのヒット曲のソングライティングを手掛けていた名音楽家です。

 

盛岡さんは、元は、クラシック畑のピアニストでありながら、J-POPの裏方としての仕事を多く受け持ち、1980年発表の田原俊彦のシングル「哀愁でいと」B面曲「ハッとして!Good」で、第22回日本レコード大賞で最優秀新人賞に輝く。その後、ジャニーズ事務所と専属契約を結び、少年隊の1980年代の楽曲を多数手掛ける。1980年代の日本ポップスシーンにおける重要な貢献者と言えるでしょう。

 

ジャニーズ事務所に所属するアイドルグループへの楽曲提供の他に、1980年代にソロ名義「盛岡夕美子」としての作品を二作発表。これらの作品は商業主義やエンターテインメント業界とは無縁のニューエイジ、アンビエント、世界的に見ても秀でたヒーリング音楽をリリースしています。


この盛岡夕美子としてのソロ名義での作品発表後、アメリカに移住。 その後は、サンフランシスコのエコール・ド・ショコラ、フランスのエコール・ヴァローナで学んだ後、音楽家からチョコラティエに華麗なる転身。その後、自身の会社「Pandra Chocolatier」を設立し、ワイントリュフの開発に取り組み、ビジネス事業も軌道に乗り始める。


しかし、2017年に北カルフォルニアで起こった山火事によってワインの輸送供給が滞ったのを機に日本に帰国。2019年には日本の世田谷にワイントリュフの専門店を立ち上げていらっしゃいます。

 

その後、一度だけ作曲家の仕事を行っており、2018年に、King&Princeに楽曲提供を行っています。

 

 

 

 

 

「余韻(Resonance)」2020  Metron Records  
 
*原盤は1987年リリース



 

 


1.Komorebi

2.Moon Road

3.Rainbow Gate

4.Ever Green

5.潮風

6.おだやかな海

7. Round And Round

8.La Sylphide/空気の精

9.Moon Ring

10.銀の船




 

この作品「余韻」は、1987年、盛岡夕美子名義で発表されたニューエイジ作品のVinyl再発盤として昨年発売された作品。表向きの田原俊彦、少年隊といった仕事、謂わば表舞台の喧騒からまったく遠く離れたアルバムを、この1987年に盛岡夕美子さんは発表していらっしゃいます。いわば、年代的には、まだ、おそらくニューエイジミュージックがそこまで日本でも浸透していなかったと思われる時代、日本のもっとも早い年代に活躍した環境音楽家、吉村弘と同じようなヒーリング的な指向性のある音楽を、盛岡さんはこの作品において追求していらっしゃいます。

 

この作品において盛岡さんの生み出す音楽は、終始穏やかであり、これ以上はないというくらいの癒やしをもたらしてくれ、聞き手の内面を見つめる機会を与えてくれる瞑想的な音楽ともなりえるはず。この「余韻」はクラシックピアニストとしての素地のようなものが遺憾なく発揮された作品で、波の音といったサンプリングが挿入されている点で、ニューエイジ音楽を想定して製作された音源だろうかと思われますけれども、クラシックピアノを体系的に学習した音楽家のバッグクラウンドを持つためか、サティやドビューシー、ラヴェルをはじめ、一般に「フランスの6」と呼ばれる全音音階を使用する傾向のある近代フランス和声の影響が色濃く感じられる作風です。

 

それほど大きな展開を要さないという点では、イーノ、バッドの音楽性に近いものが感じられます。ミニマル・ミュージックとしての指向性を持ち、それが淡々と奏でられる上品なピアノ音楽。しかし、この単調さがむしろ反面に聞き手に何かを想像する余地を与えてくれる、本来、あまりに情報量が多すぎる刺激的な音楽というのは一見すると心惹かれるものがあるように思えますけれども、そこには聞き手の存在する余地がなくなるという弊害もまたあると思うのです。しかし、盛岡さんのこの作品では、それとは対局にある「家具の音楽」、あるいは、調和という概念に焦点を絞った音楽が提示されており、また、ここでもアンビエントの重要な概念、聞き手のいる空間、聞き手の考え、何より、聞き手の存在が尊重されているという気がします。

 

それは、軽やかなピアノ演奏、情感あふれる鍵盤のタッチ、そして、ピアノの余韻、レゾナンス、ピアノのハンマーが振り下ろされた後、音の消えていく際の余白の部分を楽しむ音楽といえ、ジョン・ケージの最初期のアプローチにも比する音楽と称することが出来る。そして、この音楽は端的に言えば、わたしたちの心に、ひとしずくの潤いをもたらしてくれる癒やしの効果をもたらしてくれる音楽でもある。

 

1987年の最初のリリースから実に三十三年という長年月を経て、今回、Metron Recordsからリマスター盤として再発された「余韻(Resonanse)」の再発盤で感じられるのは、メロディやリズム、それ以上の空間性としての秀逸な純性音楽の数々。この作品には、一時代性とは乖離した多時代における普遍性が込められていて、人や時代を選ばないような音楽。また、久石譲をはじめとするジブリ音楽にも似た安らぎを感じていただけるかもしれません。

 

何か、じっと、目をつぶっていても、音楽自体が生み出すサウンドスケープがおのずと思い浮かんでくる貴重な音楽です。

 

サウンドトラックのようだと喩えるのは安直といえ、深い精神性に支えられた瞑想的で穏やかな作品です。日本のアンビエント、ニューエイジの隠れた名盤としてご紹介させていただきます。

 

 

「余韻(Resonance)」

Listen on Bandcamp:

 

https://metronrecords.bandcamp.com/album/resonance


 

 

盛岡夕美子「余韻(Resonance)リリース情報の詳細につきましては、Metron Records公式サイトを御覧下さい。

 

 

https://metronrecords.com/ 

 


 


 

アノラックサウンド スコットランド、グラスゴーを中心に形成されたギターロック音楽

 

皆さんは、日本で「アノラックサウンド」と呼ばれ、海外では、ギターポップ/ネオアコースティック、もしくはジャングルポップと呼ばれるジャンルをご存知でしょうか。これは、1980年代にイギリスのチェリーレッド、ラフ・トレードレコードと契約するロックバンドの一群の独特なサウンドアプローチを示している。アズテック・カメラ、オレンジジュース、ヴァセリンズ、ティーネイジ・ファンクラブ、パステルズといったスコットランドのグラスゴー周辺にこれまでになかったネオアコサウンドが発生しました。

 

それまで、スコットランドには、リバプール、ロンドン、マンチェスター、ブリストルのような表立ったシーンというのが存在しなかった。この1980年代を中心に、グラスゴー、エディンバラ周辺で、ミュージック・シーンが形作されていくようになる。これらのバンドの台頭は、のちの1990年代から2000年代のベル・アンド・セバスチャン、モグワイといった世界的なロックバンドの登場を後押ししたことは、殆ど疑いがありません。


かのベル・アンド・セバスチャンも、上記のバンドサウンド、ヴァセリンズとパステルズのサウンドに勇気づけられ、「グラスゴーにはネオアコあり」ということを新時代において、世界の音楽シーンに提示するため、インディー・ロックバンドを組んで演奏をはじめたのだという。


もちろん、これらの最初のスコットランドのミュージックシーンに台頭したロックバンドは必ずしも洗練されたサウンドを持ち合わせておらず、いわゆる「下手ウマサウンド」とも称されるような、ギターにしろバンドサウンドにしろ、音楽的な瞬発性というか、センスの良さで正面切ってイギリスやアメリカのミュージックシーンに勝負を挑んでみせた。


アズテックカメラ、ヴァセリンズ、パステルズといったロックバンドは、イングランドの他に、スコットランドにも重要な音楽カルチャーが存在することを世界的に証明したのだった。これはかの地の文化の発展のため、音楽表現を介してこういったミュージックシーンが徐々に1980年代を通じて形成されていったという見方もできなくはない。

 

アノラック、またネオ・アコースティックと呼ばれるサウンドは、街なかに教会が多く、緑豊かな街、グラスゴーらしい牧歌的な雰囲気に彩られ、新しい時代のセルティック・フォークとも称すべき独特な音楽性を擁していた。元は、イングランドよりもはるかに深い音楽的な文化を持つセルティック民謡のルーツが、これらの1980年代のロックバンドのアーティストたちに、自身の文化性における誇りを取り戻させようと働きかけたともいう向きもある。


これらのネオアコ・サウンド、ビートルズのフィル・スペクター時代の音楽性、あるいは、ボブ・ディランの初期のアメリカンフォーク時代に回帰を果たしたかのようなノスタルジックなサウンドは、おだやかさ、まろやかさもあり、反面では、ロンドンパンクのような苛烈さも持ち合わせていた。


そして、温和性と先鋭性、両極端な要素を持つネオアコ、ギターロックに属するロックバンドを中心に発展したグラスゴーの音楽シーンは、やがてイングランドに拡大していき、やがて、遠く離れたアメリカのオルタナティヴロックの源流を形作り、同じような音の指向性を持つ、Garaxie 500、Guide By Voices、Superchunk、Pixiesの音楽シーンへの台頭を促し、世界的なインディー・ロック人気を世界的に後押しました。

 

もちろん、日本でもこのスコットランドのグラスゴーのシーンは無関係ではないわけではなく、これらのネオアコ、ギターポップサウンドに影響を受けた、フィリッパーズ・ギター、サニーデイ・サービスがさらにこの音楽を推し進めて「渋谷系」というサブジャンルを確立した。もちろん、スーパーカーも、これらのネオアコに関係性を見いだせないわけではない。

 

これらのスコットランド、グラスゴーの周辺を拠点に活動していたバンドは、エレクトリックとアコースティックの双方のギターを融合したサウンドが最大の魅力だ。それに加えて、かのオアシスやブラーをはじめとする1990年代のブリットポップにも重要な影響を与えている。特に、このブリット・ポップの生みの親であり、ネオアコサウンドの代表格ともいえるThe La'sの日本公演に、その年、サマーソニックで来日していたギャラガー兄弟がそろってお忍びで観に来ていたのは、非常に有名な話である。



これらの1980年代のスコットランド、グラスゴー、エディンバラ、ロンドンのラフ・トレード、ブリストルのサラレコードを中心として発展していったギターロック/ネオアコサウンドは、なんとも美しいノスタルジアによって彩られている。


懐古的なサウンドではあるが、その1980年の世界の空気感がこれらのバンドサウンドに感じられる。その音の雰囲気、熱気、時代性というのは、どの時代の音楽にも感じられる。それが音楽やその他の表現の文化性であり、それがなければ音楽というのは途端に魅力が失われてしまう。さらに、その時代にしか生み出し得ない音楽というのが存在する。1980年代、これから世界がどうなっていくか、というような若者の不安、そしてそれとは反対の、希望、期待、ワクワクした気持ち、音楽を生み出すフレッシュな創造者たちの思いがこれらグラスゴーを中心とするアノラックサウンドには宿っている。

 

この奇妙な熱狂性は、今なお、独特な魅力、エネルギーを放ちつづけているように思える。ネオ・アコースティックは、その多くが既に時代に古びているサウンドといえるかもしれません。でも、その音の芸術家たちの熱い思いがこれらのサウンドには宿っていることは明確です。オルタナティヴ・ロックの前夜、あるいは、そのムーブメントの後、1980年代から1990年代にかけてのスコットランド、グラスゴーでは何が起こっていたのでしょうか?? その時代の空気感を知るために、是非、以下に取り上げていくギターロック/ネオ・アコースティックの大名盤を手掛かりにしてみて下さい。

 

 

 

ギターロック/ネオ・アコースティックの名盤
 
 
1.Aztec Camera

 


 

アズテック・カメラは1980年、スコットランドのイースト・キルブライド出身で当時16歳であったロディ・フレイムを中心に結成され、1995年まで活躍した。

 

スコットランドのネオアコサウンドを世界的なジャンルに引き上げたシーンの立役者であり、UKポップスのグループとして紹介される場合もすくなくないように思える。日本でのギターロック、ネオアコ人気に一役買った貢献者といえる。後には坂本龍一が「Dreamland」のメインプロデューサをつとめたり、また、ヴァン・ヘイレンの名曲「Jump」を揶揄を交えてカバーし、日本のメタル専門誌「BURRN!」で酷評を受けたりと話題に事欠かなかったバンドである。

 

アズテックカメラは、1991年にグラスゴーのインディーレーベル「ポストカード」から1stシングル「just like gold」をリリースデビューし、その後、イングランドの名門レーベル、ラフ・トレードから主要な作品の発表を行った。このバンドの織りなす、ゆるい、まったりした甘口のポップス、フォーク音楽は、後のグラスゴーシーンの重要な基盤を築き上げた。牧歌的な雰囲気もありながら、どことなく、ビートルズのマージー・ビートの時代へと回帰をはたしかのような楽曲の数々は、ニューロマンティックのような陶酔的ノスタルジックさがふんわりと漂っている。

 

アズテック・カメラの名盤としてはこのバンドの全盛期にあたる「High Land,High Rain」を挙げておきたい。 

 

 ・「High Land,High Rain」1983  Warner Music

 




 

 
 

 

 

2.Orange Juice

 

オレンジジュースはスコットランド、グラスゴー近郊のベアズデンにて結成された。結成当初は、ニュー・ソニック名義で活動し、ポスト・パンクシーンの渦中に登場した。

 

アイルランド勢のスティッフ・リトル・フィンガーズを差し引くと、英国一辺倒であったロックシーンに、スコットランド勢として、アズテックカメラと共にスコットランドの音楽の存在を象徴付け、最初に勇猛果敢に切り込んでみせたバンドといえるだろう。1979年から活動し、1985年に解散。オレンジ・ジュースは、ネオアコ、ギターポップのゆるく、まったりした甘口なサウンドを最初に確立し、最も古いこのグラスゴーシーンの形成したロックバンドであり、グラスゴーの音楽シーンを語る上では不可欠な存在である。

 

1983年リリースの「Rip It Up」は、全英シングルチャート8位にランクインする等、商業的にも健闘した。

 

オレンジジュースの生み出すサウンドは、まさにエレクトリックとアコースティックの中間を行くもので、このネオアコのドリーミーなサウンドの最初の確立者といったとしても過言ではない。アズテック・カメラと同じように、ビートルズの初期の音楽性のようなノスタルジーに溢れ、甘酸っぱいサウンドを主要な音楽性にするという面ではパワー・ポップに近い雰囲気を併せ持っている。


オレンジ・ジュースの名盤は、イルカのイラストが描かれた「You Can't Hide Your Love Forever」が挙げられる。「Falling and Falling」をはじめポップスとして聞きやすく、粒ぞろいの楽曲が多い。アズテックカメラと同じく、日本のシティ・ポップにも比するノスタルジーな雰囲気に溢れる永遠不変の名作である。 

 

 

 

「You Can't Hide Your Love Forever」1982 Polydor Records

 


 

 

3.The Vaselines 


ネオ・アコースティック、ギターポップのサウンドの性格を1980年代後半において象徴付けたユニット、ユージーン・ケリー、フランシス・マッキーの二人によって結成されたザ・ヴァセリンズ。


UKの53rd&3rdレコードの知名度を高めたにとどまらず、後にアメリカの名門Sub Popと契約をし、特に、カートコバーンはこのバンドの音楽性に深い薫陶を受けており、Nirvanaの主要な音楽性を形作っている。コバーンは、後に、「Molly's Lips」をパンク風のアレンジとしてカバーし、ヴァセリンズはアメリカのオルタナシーンでミート・パペッツと共に象徴的な存在となった。

 

ピクシーズと共に「オルタナの元祖」とみなされるヴァセリンズであるが、意外にもオルタナとして聴くと、肩透かしを食らうはずだ、ヴァセリンズのサウンドは、スコットランドらしい牧歌的で温和なサウンドを特徴とし、そこにオルタナ性、いわばブルーノートではないひねくれた特異なメロディラインをオルタナティヴロックが全盛期を迎えつつある前夜に生み出していた。

 

上記の要素は、シアトルのインディーレーベル、Sub Popからリリースされた「The Way Of The Vaselines」、その後に発売されたヴァセリンズのベストアルバム「Enter The Vaselines」というオルタナの不朽の名作、ネオアコの不朽の名作の一つに感じられるはずで、また、「オルタナティヴー亜流性」というロック音楽の謎を紐解くための鍵になりえるかもしれない。

 

特に、このヴァセリンズのベスト盤としてリリースされたアルバムに収録されている「Son Of The Gun」のイントロでの狂気的に歪んだディストーションギターは当時としてはあまりにも衝撃的だった。そして、ディストーションサウンド、それから、ピクシーズの歪んだポップセンス、さらに、同郷シアトル、アバディーンのメルヴィンズの轟音性、この3つの要素に、1980年代終盤、カート・コバーンは、グランジの萌芽、新しい音楽の可能性を見出した。もちろん、スコットランドのヴァセリンズは、アメリカのピクシーズとならんで、オルタナティヴやグランジの元祖といえる。その他にも、「Rory Rides Me Slowly」「Jesus Wants Me A Sunbeam」といった、グラスゴーの風景を思わせる秀逸なフォーク曲もこの作品には収録されている。  

 

 

「Enter The Vaselines」Sub Pop



 

 

 

 

 

4.The Pastels 


パステルズは、1981年にスティーヴン・パステルを中心に結成されたグラスゴー、ギター・ポップ/ロックの代表格と称すべき偉大なインディーロックバンド。


1982年に1stシングル「songs for children」をWhaaam!からリリースしてデビューをかざった。その後、イギリスの名門ラフ・トレードとの契約にこぎつけ、アノラックサウンドのムーブメントを牽引、それほど大きな商業的な成功こそ手にしていないが、現在、編成がユニットになっても変わらず、穏やかで、親しみやすい、インディー・ロックバンドとして活躍している。

 

2009年には、日本の同じくアノラック・サウンドを掲げて活動するTenniscoatsとのコラボレーション作品「Two Sunsets」もリリースしていることにも注目しておきたいところだろう。

 

パステルズの魅力は、スティーヴン・パステルの生み出すギターロックのセンスの良さ、それに加え、カトリーナ・ミッチェルの親しみやすく肩肘をはらない等身大のヴォーカルに尽きる。インディーフォークとロックをセンスよく融合させたという点ではヴァセリンズと同じような音楽性が見いだせる。

 

スコットランドの美しい緑、そして牧場の風景を思わせるような音楽性、それに加えて、どことなく甘酸っぱいような叙情性に彩られたサウンドは、イギリスのエモの発祥ともいうべき個性派サウンド。

 

流行り廃りとは関係なく、ことさら刺激的なわけでもない。なのに、深い親しみ、愛おしさをおぼえてしまうのが、パステルズの二人の生み出す叙情性あふれる音楽の不思議さ。アノラックサウンドの名盤としては、2013年の「Slow Summits」も粒揃いの良作として捨てがたいものの、パステルズの活動の最盛期にあたる1993年リリースされた「Trucklload Of Trouble」を挙げておきたい。 

 

 

 「Truckload Of Trouble」1993  Paperhouse Records

 


 

 

 

5.BMX Bandits 

 

BMXバンディッツは1985年、スコットランドのベルズヒルにてダグラス・スチュアートを中心に結成されたギター・ポップ・バンド。現在も変わらず活躍中のアノラックサウンドのドンともいえるような存在。

 

後に、ティーンエイジ・ファンクラブのメンバーとなるノーマン・ブレイク、そして、後にヴァセリンズのメンバーとなるフランシス・マッキーも在籍していたという点では、スコットランドのシーンの中心的な存在といえる。このバンドからファミリーツリーを描いて、のちのスコットランドの代表格を複数登場させたという点では、シカゴのCap’NJazzに比するべき神々しい存在であり、ネオアコ、ギターロックシーンにおいての最重要バンドのひとつに挙げられる。

 

BMX・バンディッツのゆるく、穏やかな脱力系のサウンドは、後発のロックバンドに大きな影響を与えた。取り分け、ホーンセクション、ストリングスをスタイリッシュに取り入れた遊び心満載の音楽性は、後のスコットランドのベル・アンド・セバスチャンの音楽性、あるいは、日本のフリッパーズ・ギター、サニー・デイ・サービスをはじめとする渋谷系サウンドの源流を形作った。

 

BMX・バンディッツの名盤を挙げるとするなら、1993年リリースの「Life Goes On」が真っ先に思い浮かぶ。ここで、バンディッツは、まるで、涼やかな風に髪を吹き流されるかのような、切なく、淡く、爽やかなアノラックサウンド最高峰を極めた。良質なポップセンスに彩られたネオアコの傑作として名高い作品。 

 

 

「Life Goes On」2005

 


 

 

6.Teenage Fanclub 

 

ティーンエイジ・ファンクラブはスコットランド、グラスゴーの代表格ともいうべき偉大なインディーロックバンドである。BMXバンディッツのメンバー、ノーマン・ブレイク(Vo.Gt)を中心に、1985年に結成された。

 


 

このバンドは、ニルヴァーナの「Nevermind」の世界的なヒット、それに続く、インディーロックブームに後押しを受け、押し出されるような形で、アノラックサウンド、ギター・ポップ・アノラックサウンドの代名詞的存在となった。のちにニューヨークのマタドールレコードと契約し、ヴァセリンズ以上に、ベルセバと共にスコットランドで最も成功したロックバンドに挙げられる。

 

特に、このバンドはライブのステージ演出が豪華であり、まるで夢見心地にあるような瞬間をオーディエンスに提供してくれる。ティーンエイジファンクラブの音楽性は、ビートルズサウンドを現代的に再現し、それをパワー・ポップのような質感に彩ってみせた、いわばスコットランドの良心とも称するべきサウンド。ノスタルジックな雰囲気のあるチャンバーポップスの良いとこ取りの音楽性が最大の強みでもある。


ティーンエイジファンクラブの名盤としてはベタなチョイスではあるけれども、「バンドワゴネスク」をあげておきたい。このノスタルジックで、永遠不変のポピュラー音楽は、音楽にたいする無限の没入という、音楽ファンにとってこの上ない贅沢で芳醇な時間を与えてくれるはずである。  


 

 「Bandwagonesque」Geffen Records 1991

 

 

 

 

7.Belle And Sebastian 



スコットランドのアノラックサウンドのシーンで満を持して登場したのがベル・アンド・セバスチャン。

 

教会の牧師をつとめるスチュアート・マードックを中心に1996年にグラスゴーで結成され、現在も変わらず世界的なインディー・ロックバンドに挙げられる。最初のリリース、「タイガーズ・ミルク」は千枚のプレスしか生産されなかった作品ではあるが、マニアの間ではかなりの人気となり、850ポンドのプレミアがついたという。後に、ラフ・トレード、ジープスター、マタドールを渡り歩いたという面では、およそ世界的なインディーレーベルからのリリースを総なめにしたといえる。


もちろん、ベルセバの魅力は、表向きのブランド力にあるわけではない。もちろん、ザ・スミスのアルバムジャケットからの影響性にあるわけでもない。後の全英チャートでの健闘や、ブリット・アワードのベストニューカマー賞を獲得したりといった付加的な栄誉はこの大所帯ロックバンドのほんのサイドストーリーの域を出ないように思える。ベルアンドセバスチャンが後に成功を手にしたのは、最初期からスコットランド、アノラックサウンドの後継者としてBMXバンディッツの音楽性を引き継ぎ、良質なインディー・フォークを生み出し続けたから、つまり、ベル・アンド・セバスチャンの音楽の良さから見ると、至極当然の話だったといえる。

 

これまでの二十年以上もの長きに渡るキャリアで、大きなブランクもなく、継続的に良質な作品をリリースしつづけているというのは、殆ど驚異的なことといえる。何かを続けることほど難しいことはないからだ。もちろん、現在も変わらず、フロントマンのスチュアート・マードックは、ステージで、はつらつとした姿を見せ続けていることにも敬意の念を表するよりほかない。

 

ベルセバの名盤を一つに絞るのは至難のわざである。フロントマンのスチュアート・マードックの牧師という職業にかけていうなら、ベルセバの名盤をひとつだけ挙げることは、”針の穴に糸を通すより難しい”のかもしれない。最初期には、目のくらむほどの数多くのインディー・ロックの名盤がリリースされているが、比較的最近のリリースの中にも良い作品が見受けられる。しかし、アノラックサウンドの後継者という点に絞るならば、最初のリリースの「Tigersmilk」が最適である。後のベルセバの独特な内向的なサウンドの醍醐味は、一曲目「The State I Am In」に凝縮されている。  

 

 

 「Tigersmilk」Jeepstar Recordings 1996