今年は様々なジャンルを取り上げて参りましたが、考えてみれば、ヘヴィメタルの作品についてはほとんど取り上げてきませんでした。

 

 1970年から1980年代のイギリス、そして、アメリカ、日本のジャパコアを中心に根強い人気を誇って来たこのジャンル。

 

 音楽フェスティヴァルについても、以前から、オジー・オズボーンの主宰するアメリカのOzzFest,フランスで開催されるHell Festという大規模のヘヴィ・ロックフェスティヴァルが開かれていて、屈強なヘヴィメタルバンドが活躍し続けています。

 

 もちろん、KISSやVan Halen,Europe、Iron Maiden、Judas Pirestが世界のチャートを席巻した時代のヘヴィメタル最盛期に比べると、いくらかメタルブームは下火になったようにも思えますが、ニューメタル、メタルコア、その他にも、ラップメタルと2000年代からジャンルが枝分かれしていき、依然として一定数の熱烈なファンによって支持されているのがヘヴィメタルのようです。


 そして、ヘヴィメタル自体が流行りではなくなっても、アメリカ、イギリスでは、時代に関係なくクールなメタルバンドが数多く登場しているのは事実で、しかもそれらのバンドがビルボードをはじめとする上位チャートを賑わせていることは変わりがないようです。未だに現代の音楽ファンは、クールなメタル音楽を渇望し、その凄まじい重低音に合わせ、ヘッドバンキングで乗りたい、と考えていることに何ら変化はありません。支持層の多いヘヴィ・メタルというコアなジャンルは永久不変であります。

 

 さて、今回は、近年発表されたヘヴィメタルの作品の中からピンときたものを中心に取り上げていきたいと思います。

 

 私のヘヴィメタルライフについては、イン・フレイムスやアーチ・エネミーの全盛期で止まってしまったため、以前ほどメタルについては聴かなくなりましたので、それほど精確なディスクガイドにはならないかもしれませんことをご理解下さい。以下、掲載していくのは、デスメタル、ハードコア、グランドコアの影響を色濃く感じさせるモダン・ヘヴィ作品が中心となります。

 

 

 

 

 

1 TREMONTI 「Marching In Time」Napalm Records 2021 

 



 

 


 

 

CREEDの解散後に、マーク・トレモンティが新たに始動させた米フロリダ州を拠点に活動するTREMONTI。

 

既に4000万枚のセールスを記録しており、ヘヴィロック界の大御所バンドといっても良いでしょう。近年最も勢いのあるヘヴィメタルバンドとして快進撃を続けているトレモンティ。

 

今年にリリースされた「Marching In Time」は、2000年代が全盛期であったモダンヘヴィネスに加え、ハードコアパンク、グラインドコアといったといった主要要素に北欧メタルの雰囲気をほのかに添えたような作風。モダンヘヴィネスに加え、往年のメタルの様式美を踏襲している作品ともいえます。マーク・トレモンティーの清涼感のあるヴォーカルは楽曲に洗練性を与えています。それほど、ヘヴィメタル、もしくはモダン・ヘヴィネスに理解がなくとも楽しめる。今年のヘヴィメタル作品の最高傑作に挙げても差し支えない迫力満点のアルバムです。次世代のメガデス、メタリカと目されてもおかしくない、今が旬のヘヴィ・メタルバンドのひとつに挙げられるはず。 

 

 

 

 

 

 

 

2.Mastodon 「Hushed and Grim」Reprise Records 2021

 


 

 

 


 

 

トレモンティと共にアメリカのモダンメタル界で大きな人気を獲得しているのがマストドンです。 

 

既に、グラミーのメタル部門を獲得し、リリース作品の多くをUSチャート上位に送り込んでいるメタルの未来を担うと称されるバンド。

 

トレモンティに比べると、プログレメタル、ストーナーロックといった主要な音楽性に加え、メロディアスという面で、往年の北欧メタルやパワー・メタルの叙情性も感じられるメタルバンドで、2000年代あたりの一時期には時代遅れとされていた北欧メタルの音楽性を2020年代になって改めて光を投げかけようとしているのがマストドンの素晴らしさ。

 

今作「Hushed And Grim」は、モダンヘヴィネスの要素もありながら、北欧メタルのようなアプローチが図られている作品。

 

重低音よりも高音域を強調したマスタリングがなされていて、さながら1980年代のメロディックメタルが最もホットであった時代に立ち返りを果たし、メタリカの「ライド・ザ・ライトニング」時代のようなヘヴィネスとほのかな叙情性を絶妙に融合させた美麗さのあるサウンド。往年のメタルファンも安心してたのしんでいただける快作です。

 

 

 


 

 

 

3.Trivium「In The Court Of The Dragon」Roadrunner records 2021

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トリヴィアムは、米フロリダ州のヘヴィメタルバンド。フロントマンのマシュー・キイチ・ヒーフィーは、山口県岩国市出身の日系アメリカ人です。(バンド名はトリビアの単数形で、様々な音楽分野を一つにとりまとめようという意図で、このように名付けられたようです)

 

トリヴィアムの音楽性の魅力はスラッシュメタルのザクザクっとしたリフ満載のモダンヘヴィネスの屈強性に尽きるといえるでしょう。上記したトレモンティ、マストドンに比べ、近年のメタルコアシーン寄りの音楽といえ、少なからず他のモダン・ヘヴィネスのバンドと同様、ハードコアパンクの影響下にあるメタルバンドのようです。

 

今作の「In The Court Of Dragon」は、旧来からのメタル音楽の様式美といえる、ストーリーやコンセプト性を感じさせ、表向きにはモダン・ヘヴィネスの作品といえるはずですが、アルバム作品の中で、楽曲の印象を変幻自在にくるくると変えていきながら、ファーストトラックからラストトラックまで、勇猛果敢にノンストップで突き進んでいきます。その印象というのは、重戦車がゴリゴリ突き進んでいくかのようなド迫力に喩えられるはず。

 

また、今作の最大の魅力は、前のめりなスラッシュメタルサウンド、グラインドコアのブラストビートに近い重低音サウンド、そしてなんといっても、日系人マシュー・キイチのデスヴォイスの凄まじい存在感、これらの三要素が巧みに融合させた未来を行くヘヴィメタルサウンドにあります。かっこいいからと言ってヘッドバンキングのやりすぎにはくれぐれも御注意。

 

 

 

 

 



4.Boris  「No」Third Man Records 2021



 

 

 

 

 

 

 

ご存知、日本が誇る世界のヘヴィロックバンド、ボリス。1992年から活動を続ける古株のヘヴィロックバンドで、メタルのみならず、ストーナーロック、サイケデリックロック、ノイズ、ドローンロックと、重いものであればなんでも取り入れてしまう重低音バンド。

 

灰野敬二、メルツバウと作品の共同製作を行ったこともあり、日本のアングラシーンの象徴的な存在、日本で最も屈強でヘヴィなロックバンドのひとつと称しても差し支えないかもしれません。


今年にリリースされた「NO」は、ストーナーロックのような泥臭いヘヴィ・ロックが全面的な展開、そこにBorisらしい目のくらむほど奥行きのある世界観が広がっているという有り様。重さ、いわゆるヘヴィ性については、上記のトレモンティと同等かそれ以上の重圧を感じる楽曲が今作には数多く収録。加えて、なんというべきか、三十年以上も現役を続けてきたがゆえの堂々たる風格もアルバム全体にみなぎっている作品です。

 

シアトルのメルヴィンズの初期作品にも比するストーナー性を前面に掲げたアクの強い作風、往年のメタルサウンドを交えたサウンド。軟弱なものは立ち去るがよいとでもいうような重厚感。日本のヘヴィ・ロック界にボリスあり、ということを世界に証明付けた屈強な一枚です。  

 

 



 

5.Converge 「Bloodmoon :1」 Epitaph 2021

 

 

 

 

 

 

 

2000年代の「Jane Doe」をリリースした時代にはニュースクール・ハードコアのスター的な存在であったコンヴァージ。

 

元々は、ジェイコブ・バノンの歌うというよりかは、金切り声でがなりたてるスタイルのヴォーカルを特徴としていて、重低音とド迫力の疾走感のあるニュースクール・ハードコアで一世を風靡しました。

 

その後、Epitaph Recordsと契約を結び、世界的なヘヴィ・ロックバンドへと成長していき、現在はデリンジャー・エスケープ・プランと共にマスコアの代表格とされています。

 

2021年11月19日に、ゲスト・ヴォーカルにChelsea Wolfeを招いて製作された作品は、これまでよりもさらにヘヴィ・メタルサウンド寄りのアプローチを図っている点に注目でしょう。デヴュー当時はとにかく若さと勢いと凶暴性という要素を突き出したサウンド、そして2010年代はとにかくヘヴィなロックをひたすら追究していく、という印象があったコンヴァージ。

 

この最新作「Bloodmoon:1」においては、ゲストボーカルのチェルシー・ボルフというキャラクターが加わったことによって、これまでにはなかったドゥーム・メタル色を打ち出した新鮮なサウンドが提示されていることに注目です。

 

特に、8曲目の「Scorpion's Sting」に代表されるように、重低音ヘヴィロックだけではなく、落ち着いたメタルバラード寄りの楽曲も収録されています。

 

もちろん、コンヴァージらしいヘヴィさは他の追随を許さぬ屈強さが感じられる作風ですが、その他にも、ヴォーカルトラックとして渋みの効いた楽曲が多く収録。少なからず、アリス・イン・チェインズのような1990年代のグランジサウンドの影響性も感じられる一作で、2020年代のヘヴィメタルシーンの流れを象徴づけるような作品といえるかもしれません。 

 


 





 
6.Sepultura  「SepulQuarta」 WARD RECORDS 2021 
 


 

 

 

 

 

 

 

ブラジルの先住民インディオの民族性とヘヴィ・メタルを融合し、新たなメタル音楽の可能性を世界に対して屈強に提示し続けてきたセパルトゥア。

 

デビュー当時は、メンバー全員が短パンを履いていたため、革パンと革ジャンを着なければメタラーにあらず、というふうに考えていた旧来のメタル音楽評論家に嫌悪されていたセパルトゥアではありますが、1996年の「Roots」の大成功により、世界的なヘヴィ・メタルバンドとして認られるようになり、現在も屈強すぎる重低音をブラジルの地で響かせ続けています。

 

今年、セパルトゥアは、ラップメタルに果敢に挑戦した意欲作「Black Steel In the Hour Of Chaos」をリリース、このシングルは、モダンヘヴィネスの屈指の名曲といえそうですけれども、8月13日にリリースされたアルバム「SepulQuarta」も聴き応えのある作品です。

 

ソリッドなギターリフ、過度にハイエンドを持ち上げたドラムスのマスタリング、それに加え、これまでと同じように、ゴリゴリの屈強なサウンドが貫かれている作品。そのサウンドの強度というのは、ブラジルのサンパウロのイエス像にも喩えられるでしょう。

 

今作には、スラッシュ・メタル、ブラックメタル、ストーナー、メタルコアといったサウンドがごった煮になっていて、ブラジルのメタル・ゴッドとしてのすさまじい風格が漂う作品。

 

もちろん、このアルバムの魅力は、単純に作品の音の重さだけにはあらず、Chaos A.Dに収録されていた「kaiowas」のリテイクでは、トラディショナルフォークのようなアート性の高い音楽にチャレンジしているのにも着目。セパルトゥアのこれまでのキャリアの集大成ともいえる傑作です。

 





Geese

  

Geese

 

ギースはキャメロン・ウィンターを中心に学生時代の友人によってブルックリンで結成されたロックバンドである。

 

彼ら五人組のバンドとしての出発は、ガレージの演奏ではなく、小さな地下室でのジャム・セッションに始まった。最初、この五人組がリハーサルスタジオ代わりにしていた地下室には、スニーカーと毛布のブランケットの乗っかったマイクロフォン、そして、安っぽいアンブリフィターが置かれていた。


それらのアイテム、PA機材を足がかりにして、ハイスクールが終わった放課後に、このブルックリンの五人組は、ひとしれず地下室での演奏、ベースメント・ロックを奏ではじめた。幸いなことには、彼らが活動する以前のNYには、偉大なロックンロールアーティストたちのサウンドが存在していた。メンバーがすべて十代で構成されるGeeseは、これらのNYの往年のロックンロールの系譜を受け継ぐアーティストとして自らの個性的なサウンドの骨格を形作っていく。

 

往年のNYのオールド・パンクスの偉大なパイオニア、Televisionにはじまり、No New YorkのDNAのアートノイズ、近年のザ・ストロークスをはじめとするガレージロック・リバイバルのアーティスト、これらのプリミティヴないかにもニューヨークらしいロックンロールを、ブルックリンの地下室に活動拠点を置くGeeseは、2020年代に持ち越そうというのである。これは、なんということだ!? 多彩なニューウェイブとポスト・ロックを中間を行くような最新鋭のブルックリン・サウンドの切れ味はどのバンドもかなわないほどの強力なエネルギーによって彩られている。彼らのサウンドの特性ともいうべきものはまさに、オーディオ・インターフェイス”Line 6”のZen Masterのホームレコーディングのローファイ感満載のギターロックサウンドに裏打ちされた音楽なのである。

 

Geeseの生み出す新しい未来のロックサウンドは、きわめて刺激的であり、そして、若さゆえの周りのエナジーを飲み込むようなパワフルさが宿っている。そして、ネオニューウェイブの筆頭格であるIDLESと同じように、「宇宙的な拡張性を持つロック、Sci-fi-Rock」とも喩えるべき目のくらむほどの壮大さが感じられる。旧来のロックンロールに慣れ親しんできたリスナーにとって、このブルックリンの若者たちの新鮮味あふれる音楽には、目からウロコともいうべき驚きをおぼえることはまず間違いなしである。

 

今年10月29日に、Pertisans Recordsから1stアルバム「Projecter」を引っさげて鮮烈なデビューを果たしたGeeseのサウンドを初めて聴いたときには、「ついに、シカゴのドン・キャバレロの再来か!?」と思い、ストロークスが現れた瞬間や、アークティック・モンキーズが出現した瞬間にも似た奇妙な興奮を覚えたことだけは事実である。そしてノイズ、ガレージ性を感じさせながら、「ガチョウの走り」のようなスピード感を持つ。とりわけ不思議でならないのは、BPM自体はそれほど早くはないのに、ミドルテンポの楽曲であっても、奇妙な焦燥感や速さを感じさせる音楽でもあるのだ。これがブルックリンの時の流れなのかと感じさせる何かが存在しているかのようである。

 

もちろん、このGeeseが衝撃的なデビューを果たし、NMEをはじめとする著名な音楽誌が今年の再注目のアーティストと目するのには大きな理由があるはず。それは表面上の音楽性だけにはとどまらず、綿密な技法によって楽曲が構成されているからでもある。

 

シカゴのドン・キャバレロのようなよれたテープのような音響性、ラップのDJのスクラッチをロックで再現しようという新たなポストロックの実験性、前衛的な手法が取り入れられていることにも注目である。

 

ローリング・ストーン紙は、Geeseのサウンドを詳細に説明するに当たって、ネオ・ニューウェイブ、ダンス・ロックというカテゴライズを与えており、Strokes、DNA,Deerhoof、The Rapture、Black Midiの名を列挙し、なんとかこのGeeseの新しいサウンドに説得力を与えようしている。もちろんそれだけの言葉だけでは、このロックバンドの魅力は伝わるはずもない。それほどまで、奥行き、伸び、自由を感じさせる新鮮味あふれるフレッシュなロックバンドである。

 

三作のシングルと一作のアルバムをリリースしているGeese。本日、IDLESとともにヨーロッパツアーに出ている最中で、きわめて話題性に富んだグループであることは疑いを入れる余地はないように思える。

 

まだまだ、これからどのような活躍をするのかは未知数、なんとも末恐ろしいような可能性に満ちたロックバンドがブルックリンから出現してしまったことに戸惑いを感じざるをえない。今回、このGeeseのデビュー・アルバムについてごく簡単に触れておきたいと思う。

 

 

 



「Projecter」2021  Pertisan Records

 

 

「Projecter」2021  Pertisan Records


 

「Projecter」は、10月下旬にリリースされたGeeseのデビュー・アルバムである。Pertisans RecordsとPlay It Again Samから共同リリースされた作品。また、このアルバムのプロデューサーに、Fountains D.C、Squid,Black Midiのマスタリングを手掛けたダン・キャリーを抜擢し製作がなされている。

 

既に、このデビュー作がリリースされる前から、先行シングル「Disco」がリリースされ、またたく間に世界で大きな話題を呼び、全く無名の新人インディーアーティストであるのにも関わらず、Stereogumの「Songs Of The Week」、Faderの「Best Rock Songs」、Under The Raderの「Songs Of the Week」などをはじめ、イギリスの大手音楽誌NMEは「First On」に選出している。

 

そういった話題性もさることながら、このアルバムには18歳と19歳の若者たちの強いエネルギー、そして果敢に新たなサウンドに対してチャレンジを図る冒険心のようなものが満ち溢れていることがこれらの高評価を受けている要因のように思える。

 

もちろん、そこには、ポストロックバンドとしての表向きの印象があり、イギリスのBlack Country,New RoadやBlack Midiのようなアヴァンギャルド性が取り入れられていることに注目である。特に一曲目の「 Rain Dance」や九曲目の「Exploding House」といった楽曲には、ミニマリズムの影響性も見いだされてるが、何かこれらのサウンドには、旧来のポスト・ロックサウンドとは異なる空間の移動とも呼ぶべきScifi感が滲んでいるのがこれまでのライヒ、グラスなどの現代音楽に影響を受けたロックバンドと明らかに異なる特性といえるかもしれない。

 

その次世代の未来をいくSci-fi-Rockのサウンドは、イギリスのIDLESと同じく、ダンス要素のあるロックサウンドであることは、ローリングストーン誌が指摘しているとおりである。それは彼らのサウンドのルーツが地下室のホームレコーディングにあるからで、Line 6で生み出された生音というのを、あるがままの音楽としてパッケージすることにさほどためらいがないからこそ生み出せる「リアル感」ともいえる。つまり、「Projecter」は、スタジオ・アルバムでありながら、ライブを目の前で体験しているような仮想的なSF感を与えてくれる作品なのである。

 

その他にも、2000年代のガレージロックの雰囲気を漂わせた「Low Era」には、ストロークスやホワイト・ストライプスのファンをニヤリとさせるだろうし、また、4曲目の「First World Warrior」では、、Deerhoofのようなインディー・ローファイ感あふれるアプローチを見せていることにも言及しておきたい。デビューアルバムとして欠かさざるべき、ひときわ強いエナジー、周囲を巻き込んでいくような勢いという重要な要素も充分である。また、それと真逆の音を大事に噛みしめるかのような玄人感も持ち合わせた風変わりで特異なデビュー・アルバムである。

 

今、ヨーロッパツアーを敢行中、明日はオランダ、アムステルダムに向かうNYのGeeseの五人組。これから、どのような魅力的な作品がリリースされるのかロックファンとしては目が離せない。


1.偉大なDJ  ジョン・ピールの軌跡

 

通称、ジョン・ピール、本名ロバート・パーカー・レイブンスクロフトは、1968年からBBCのRadi1番組内の「John Peel Session」というコーナーを担当してきたDJだ。 

 

John Peel

  

ジョン・ピールはイギリスのラジオパーソナリティの先駆者でもある。彼が2004年にペルーのクスコで没した後も、イギリスの熱烈な音楽ファンは数年もの間、最も偉大な英国人の48位に選ばれ、英国勲章も与えられている偉大な人物、ジョン・ピールの代役を熱心に探しつづけた、「どこから次のジョン・ピールは出てくる?」また、あるいは、「次のジョン・ピールは誰なのか?」と英国のコアな音楽ファンはピールの再来を待ち望み続けていた。英国の音楽ファンは素晴らしい音楽を提供してくれるマスターを探し続けていたのである。しかし、結果的に、音楽ファンは次なるジョン・ピールの出現を見送り、その再来を半ば諦めることになった。

 

ジョン・ピールと同じように、古い時代から「BBC Radio1」でパーソナリティを務めるイギリスの最初の女性DJ”アーニー・ナイチンゲール”がその後、彼の代役に抜擢され、この番組内のパーソナリティーを務めるようになった。けれども、このBBCラジオで最も古くからDJを務める人物であろうとも、ジョン・ピールの代わりを果たすことだけは非常に難しかった。その後、BBCは、ジョン・ピールの代わりはいない、ということを明言することになったわけである。


ジョン・ピールは、1968年から「BBC Radio 1」で放送されていた「John Peel Session」のパーソナリティを長年務めた人物である。英国で最も有名なラジオDJであり、日本のラジオ番組でDJを務める若き日のピーター・バラカンさんも、イギリスでジョン・ピールの番組を聴いていたそうである。

 

1970年代において、ジョン・ピールは、イギリスで最も偉大な音楽プロモーターだったともいえる。当時無名であったロンドンパンクバンドのレコードを次々に引っ張ってきて、実際、自身の番組「BBC Radio1」でオンエアし、無名のバンドを数多くオーバーグラウンドに押し上げていき、UKトップチャートに送り込んでみせた。とりわけ、The UndertonesやGang Of Fourといった今では世界的に名を知られるパンク・ロックバンドは、ジョン・ピールの番組「BBC Raiod1」内のオンエアなくしては、彼らの活躍もなかったと断言でき、つまり、1970年代のパンク、ポスト・パンクが一世を風靡することもなかった、といえるかもしれない。その後も、ザ・スミス、ブラー、といった大御所のロックバンドを公共ラジオ番組内で他のDJに先んじて紹介した。

 

勿論、晩年になっても、ジョン・ピールの影響力はとどまることを知らず、2000年代、その頃、サウスロンドンの海賊ラジオ局でしか流されていなかった「ダブステップ」をBBCで初めてオンエアし、このクラブミュージックムーブメントを後押しした。おそらく、ジョン・ピールという存在がなければ、英国の音楽が現代ほど世界的な影響力を持つことはありえなかったかもしれない、つまり、ピールは、名物DJとして膾炙されるにとどまらず、1960年代後半から現代にいたるまで長きに渡り、イギリスのポピュラー・ミュージックの歴史を支えてきた重要な人物である。

 

ジョン・ピールにまつわるエピソードは事欠かない。私生活での感染症といった私生活にまつわるものはこの際棚上げしておきたいが、おそらく、面白いエピソードを逐一紹介していけば、間違いなく浩瀚な書物が出来上がることだろう。(事実、グラスゴー、カレドニア大学の上級講師をつとめる、ケン・ガーナー氏がジョン・ピールの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を書き記している)

 

ジョン・ピールは、その私生活においても、常に、センセーショナルな話題を振りまく人物であったが、ラジオパーソナリティとしても最も過激な人物であった。音楽にまつわるセンセーショナルなエピソードの一例としては、ブライアン・イーノのレコードを勝手に逆回転して「BBC Radio1」で流し、車の中でその放送を聴いていたブライアン・イーノを驚愕させ、「これは私の作品だ。すぐさまジョン・ピールに電話をしなければならない!!」と言わしめたことがある。また、その他にも、BBCのプロデューサーからシングル盤は番組内で流さないように忠告されていたにもかかわらず、ジョン・ピールはセックス・ピストルズの「God Save The Queen」を番組内で流している。彼はこの楽曲が国内外にどのような影響を与えるのか熟知していたのだ。

 

しかし、そういったセンセーナルなDJとしての姿は、ラジオリスナーに強い印象を与えたであろうし、また彼の番組「peel sesshion」においてオンエアされる音楽を鮮明な記憶として残したろうことはさほど想像にかたくない。そして、他でもない、ジョン・ピールは1960年代のアメリカのサンフランシスコの最初期のサイケデリア、イギリス、リバプールのビートルズをはじめとするマージービート、その後は、キャプテン・ビーフハートやフランク・ザッパのようなコアな音楽通を唸らせるアーティスト、つまり、オーバーグラウンド、アンダーグラウンド双方のシーンを、リアルタイムで接してきた数少ない証人でもあり、そういった音楽的な見地から選び出されるディスクガイド、パーソナリティとしての語りというのは、どの音楽通もかなわないほどの的確さがあったと思われる。

 

 

2.DJとしてのキャリアの出発

 

 

最初、ジョン・ピールが、ディスクジョッキーとしてのキャリアをはじめたのは、1960年代の初頭であった。

 

まだその年代には、「DJという職業、つまり、ラジオの番組内で音楽を紹介する職業は一般的にはこの世に存在していなかった、少なくともイギリスには存在していなかった」と後になって、ジョン・ピールはこのように回想している。唯一、ヨーロッパのルクセンブルグのラジオ局では、ピート・マレー、アラン・フリーマン、デイヴィッド・ジェイコブといった人物がラジオパーソナリティを務めていたという。

 

ジョン・ピールは、父親と相談し、アメリカに渡り、最初、記者としての職を得、ジョン・F・ケネディーの暗殺事件を取材している。実際、ジョン・ピールは、ケネディ暗殺事件記事を書くため、何枚かの写真を撮影している。その後、テキサス、ダラスのラジオ局”KOMA”で、ラジオパーソナリティを務める。こうしてアメリカでビートルズを専門に宣伝するための専門家として最初のジョン・ピールの仕事は始まったのである。

 

リバプールの音楽に深い見識のあるイギリス人として彼の仕事は、テキサス州のダラスで開始された。ジョン・ピールは、フルタイムのラジオパーソナリティとして雇われ、1964年の終わり、カルフォルニアに移り、サンバーナディーノで、DJとしてラジオ局に18ヶ月間勤務した後、イギリスに帰国している。その頃、彼は、カルフォルニアのラジオにおいて、六時間、ラジオパーソナリティを務め、イギリスのポピュラー音楽を紹介していた。


当時のことを回想してピールは語る。

 

 

「私は六時間の与えられた番組内で、LPを含む、詐欺的な英国チャートを作成することで、どうにかやりくりしていた」

 

 

 

3.ロンドンの海賊ラジオ局からBBCのDJとして採用されるまで

 

 

ジョン・ピールは18ヶ月もの間、カルフォルニアのラジオ局で勤務した後、ロンドンに戻り、海賊局「ラジオ・ロンドン」のPerfumed Gardenのラジオパーソナリティを務めるようになる。 

 

当時、ジョン・ピールは、午前12時から午前2時まで、この番組を担当していた。この頃から、プロのDJとしての矜持を示そうと、後に伝説的なDJ名となる「ジョン・ピール」の称号を同僚のBIG Johnから与えられ、名乗るようになる。ピールは、ラジオ・ロンドンに在籍していた時代には、アメリカのサンフランシスコのサイケデリック音楽、プログレッシヴロックなどのバンドの音楽を中心に番組内で率先してオンエアしていた。

 

イギリスのラジオで、初めて、これらの音楽を公共の電波にのせてオンエアしたのが、他でもない、ジョン・ピールであった。このラジオ・ロンドン(UK RADIO)の番組内で、ジョン・ピールは他の同局につとめているラジオパーソナリティと異なる独自性を打ち出していた。とくに風変わりだったのは、番組内で広告も宣伝せず、ニュースや天気についてと一切報じることもなかったという。

 

ジョン・ピールは、当時、イギリスでそれなりにの人気を博していたこの海賊ラジオ局において、常に誰も知らないようなマニアックな音楽を担当する番組内で取り扱い、音楽についての番組を編成することに専心した。当時、イギリス国内でも全く知名度のなかった、サンフランシスコのサイケデリックロック、プログッシヴロックといったアヴァンギャルド音楽を紹介する合間に、アンダーグラウンドミュージックシーンにおける自分の考えやその関わり方について熱弁をふるっていた。このラジオ局Radio Londonは、数年後に閉鎖されるが、既に、この時代から彼はDJとしての地位をロンドンで確立しはじめており、多くのファンレターをもらう名物DJとしてイギリスの音楽ファンに親しまれるようになっていた。


ジョン・ピールは、ラジオ・ロンドンが閉鎖されてからというもの、新たな「ラジオDJ」としての仕事を探していた。彼は、自分をラジオパーソナリティとして採用してもらいたいという旨を記した手紙をBBC に送っていたことをすっかり忘れていたが、のちに同僚に実物の手紙を目の前に突きつれられたことにより、その事実を渋々ながら認めざるを得なくなった。ともあれ、ジョン・ピールが非常に幸運であったのは、BBC放送もこの頃、「BBC Radio 1」というポピュラー音楽を中心に紹介するラジオ番組を立ち上げており、その番組を担当する個性的なDJ、音楽について最も詳しい人物を探していた。そこで、BBC放送は、既にDJとしてロンドンでコアな人気を獲得し始めていたジョン・ピールといういかにもいかがわしげな人物に、白羽の矢を立てたということなのである。

 

当時、BBC放送が、この人物を自局の名物番組「BBC Radio 1」で放送されるトップギアというプログラムのゲストDJとして、正式に採用する際にも、局内で意見が真っ二つに分かれていた、いや、それどころか、ジョン・ピールという後のBBCのラジオDJとして最も有名な存在となる人物の採用に関しては、当初は多くの関係者が大きな疑義を示していたという。ラジオ局DJとしての実績は疑いを入れる余地は全くなかったものの、それ以前の海賊ラジオ局での勤務経験、あるいは、その毛深い風貌に対して多くの関係者が拒絶を示していた。

 

John Peel Sessionの伝記「The Peel Sessions BBC Books、2007」を記したグラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケンガーナー氏は、この当時のことについて、以下のように述べている。

 

 

1967年10月1日日曜日に放送される「Radio 1」による放送の二日目の午後にトップギアを共催する「ゲストDJ」として最初に登場した男をBBCの誰もが採用したいとは思わなかった。     

    

 

BBC.com  グラスゴー大学のカレドニア大学の講師、ケン・ガーナー氏

 

 

さらにケン・ ガーナー氏はBBCの記事内でこのように続けている。「ウィラル出身の毛深い、恥ずかしがり屋の公立学校で教育を受けた27歳の海賊局のDJ、ジョン・ピールがこのラジオ番組のパーソナリティーとして長く生き残るであろうとは当時誰もが信じていなかった」と。これは一見、かなり辛辣な書きぶりのように思える、イギリスで最も有名なDJとして名を馳せるジョン・ピールに捧げられたウィットにとんだ逆説的賛辞に過ぎないように思われる。

 

また、ジョン・ピールはラジオDJとしての地位を確立した後に数多くの放送賞を与えられている人物でもあるが、彼がラジオロンドンでおこなっていたラジオ番組の構成、ポピュラー音楽の紹介する手法は、当時としては信じがたいほど画期的なものであったらしく、その点がBBC放送関係者にとってきわめて難しい印象を与えていた様子である。しかし、BBC放送内には少なくとも、3人の支持者がいた。とくに、BBC Radio 1の番組「トップギア」のプロデューサーを務めるバーニー・アンドリュースはジョン・ピールのことを高く買っており、BBC局内の中間管理職の人物が「ジョン・ピールを採用しないように」という通告を行っていたにもかかわらず、その忠告を無視し、ジョン・ピールをゲストDJとして「トップギアの顔」に抜擢した。

 

当時としては、蛮行に思えなくもないラジオ番組プロデューサー、バーニー・アンドリュースの勇気ある選択は、ジョン・ピールの音楽の目利きとしての才覚を信じたがゆえに行われ、そして、のちの1970年代から2004年にかけての英国のポピュラー、ロック音楽の潮流を変えた瞬間といえる。また、ジョン・ピールの採用を後押ししたもうひとりの人物、アンドリュースの女性秘書シャーリー・ジョーンズも同じように、ジョン・ピールを気に入っており、BBC Radio 1,2のメインプロデューサーを務めるロビン・スコットとの関係を仲介したことにより、アンドリュースとピールが番組内で良いコンビネーションを築き上げられるように取り計らった。こうして、「BBC Radio 1」に初めてロック音楽を紹介するコーナー「トップギア」が立ち上がった。

 

 

4.DJとしての地位の確立



こうして、ジョン・ピールはイギリスの国営放送BBCの「Radio 1」の番組パーソナリティとしての仕事が始まる。

 

ジョン・ピールは海賊局ラジオ・ロンドン時代に培った経験を元に、誰もラジオで流したことのない前衛性の高い音楽を放送することになった。

 

しかし、のちのインタビューにおいて、BBCの番組ではやはり以前のラジオ・ロンドン時代のPerfumed Gardenという冠番組を担当していた時代より遥かに制約が多かったのも事実である。

 

ラジオ番組内で放送される楽曲の構成については、アンドリュースが半分、そしてピールが半分受け持っていたが、ラジオ・ロンドン時代のように五、六分以上の楽曲は時間の制約があるためにオンエアすることが出来なかった。

 

彼が番組内で流せるのはその大凡が3分の楽曲であった。しかし、その制約の中でも、ジョン・ピールは、比類なき音楽フリークとしての慧眼を発揮し、明らかに他のラジオ番組のパーソナリティとは一味違ったアーティストの楽曲をオンエアしていた。番組を受け持った当初は、サイケデリック・ロック、フォーク、ブルースといた比較的ポピュラーなジャンルが中心であったが、名うてのディスクジョッキー、ジョン・ピールがこれらの音楽のオンエアだけで満足するはずもなかった。

 

その後、ジョン・ピールは、一般的に知られていなかった個性的な新人ミュージシャンのLP盤を、BBCの番組で率先してオンエアしていった。ピールが担当したBBC Radio 1からデビューし、スターダムに押し上げられていったロックバンドは数しれない。

 

ジミ・ヘンドリックスの代表曲「パープル・ヘイズ」を初めて公共の電波に乗せてオンエア、のちにジョン・ピールと深い信頼関係を築いたマーク・ボラン擁するT-REXのデビュー、そして、キャプテン・ビーフハート、フランク・ザッパの名作群。かいているだけで目のくらむような魅力的かつ刺激的な音楽を彼は流し続けた。そして、何といっても、ジョン・ピールの最大の功績は、デビッド・ボウイを発掘したことにある。これらのサイケデリックロックやグラム・ロックの有名アーティストたちは、他でもないジョン・ピールがDJを務めるBBC Radio1の番組で楽曲がオンエアされたことにより、認知度を挙げていったバンドであった。もちろん、ジョン・ピールが紹介していたのは、何も英国内のロックバンドだけではない、番組内ではVelvet Undergroundやデビュー当時のラモーンズの楽曲をBBC Radio1の番組の中で紹介している。

 

またこの年代の後にはデビュー前のアーティストをBBCのスタジオに呼んで生演奏ライブをラジオ内でオンエアしていくようになる。例えば、1972年のロキシー・ミュージックのデビュー作が発表される前、ロキシー・ミュージックはデビュー作を演奏したことでもしられている。

 

次第にジョン・ピールの番組にはデビュー前の刺激的なアーティストが数多く登場し、徐々に音楽プロデューサーの役割を兼任するようになっていく。事実、ピールは、この時代に長期休暇から家に帰宅すると、数多くのアーティストから直々に送られてきたLPレコードが彼の自宅に届くようになっていった。

 

その後、1970年代の中盤に差し掛かると、ご存知の通り、ロンドンパンクムーブメントが到来する。上述したように、ジョン・ピールは、このオールドスクールパンク、その後に続くポスト・パンク、ニューウェイヴのジャンルにのめり込んで、鼻息を荒くしていたように思われる。特に、革ジャンに破れたTシャツを安全ピンで止め、カラフルな髪を逆立てたとびきり風変わりな四人組、セックス・ピストルズがブティックセックスのオーナであったマルコム・マクラーレンの後押しを受けてロンドンに出現した際に、このバンドの音楽をきわめて高く買っている。

 

ロンドンの最も刺激的なブティック「セックス」に出入りしていた若者、ジョニー・ロットンを中心に結成されたセックス・ピストルズの四人組は、デビュー当時、EPやシングルを引っさげてロンドンのシーン登場し、その後、EMIと契約を結び、歴史的名作「Never Mind The Bollocks」をリリースし、パンクロックシーンを象徴する存在となるが、このロックバンドがシングルをリリースするやいなや、BBCの上層部にシングルをかけるのはやめてほしいといわれているのにもかかわらず、ジョン・ピールはその禁を犯し、1970年代のイギリスのミュージックシーンで最も刺激的な一曲「God Save The Queen」をBBCのRadio 1で、4回もオンエアしてしまったのである。言うまでもなく、このロンドン・パンクスたちをメジャーレーベルEMIとの契約へと導いたのは、間違いなくジョン・ピールであることに疑いを入れる余地はない。しかも、この1970年の時代、放送禁止寸前の楽曲群をあろうことか、公共のラジオ電波、しかもBBC Radioに乗せて放送するということが、どれだけ勇気のいることであったのかは、現代の我々の感覚から見るとまったく想像も出来ないほどのなのである。


その後、最初のオリジナルパンクムーブメントが終焉を告げて、ニューウェイブの時代に差し掛かっても、ジョン・ピールは、ギャング・オブ・フォーをはじめとする刺激的なパンク・ロックバンドを発掘していく。

 

特に、ジョン・ピールは、北アイルランドのThe Undertonesの「Teeneage Kicks」にのめり込んでおり、自身の番組内で猛烈にプッシュした。そのかいあって、この北アイルランドの十代のメンバーで形成されるパンクロック・バンドは異例の大出世を果たし、UKチャートで31位を獲得して健闘、世界的なパンクロックバンドの仲間入りを果たしている。その後も、ラフ・トレードから彗星の如く登場したブリットポップのロックバンドを率先して番組内で取り扱い、ザ・スミス、ジョイ・ディビジョン、といったイギリスきってのロックスターがジョン・ピールの番組から誕生していく。

 

この時代からすでにジョン・ピールは、英国全土に最も有名なディスクジョッキーとしての名をはせるようになる。

 

その後、彼はテレビ番組のスモール・フェイセズのライブでユニークにバンジョーを演奏しながら登場したり、「トップ・オブ・ザ・ポップ」という番組のプレゼンターとしても活躍するようになる他、BBCの番組の基本的なナレーションの解説を務めた他にも、「ホーム・トゥルース」ショーでBBC Radio4の番組も受け持つようになり、1980年代にかけて、押しも押されぬ名物タレントの座に上り詰めた。ユニークなキャラクターの名物DJあるいはテレビ司会者として英国の音楽ファン、一般市民にとどまらず、ヨーロッパの人々にも親しまれていくようになった。

 

 

 

5.Peel Sessionから晩年まで

 

 

この年代の後、正確には、1992年から、彼の最も代表的な番組「John Peel Session」の放送が始まった。彼が十二年間、番組のスタジオセッションに招待したバンドは2000以上にも及び、ピールセッションとしてリリースされた音源は、驚くべきことになんと4000以上にも及んでいる。

 

BBCの歴代において名物番組のひとつである「John Peel Session」には後の世界的なブレイクを果たすロックバンドが英国だけではなく、海外から招待され、スタジオ内での無償のセッションが行われた。

 

ライブセッションの録音テープが当日にミキシング、及びリマスタリングされて放送される番組で、ラフなリミックスがほどこされており、いかにも生ライブの魅力がにじみ出ていて、ロックファンからは伝説的なライブラリー音源として見なされている。

 

もちろん、言うまでもなく、ジョン・ピールは、1990年代のイギリスのブリット・ポップの台頭を1990年代の終わりまで間近で見届けつづけていた数少ない人物である。かのブラーも、オアシスも、そして、ニルヴァーナ、PJ Harveyといったスターたちは、みなこのジョン・ピールセッションを通じて世界的な知名度を獲得するにいたった。さらにジョン・ピールの慧眼が凄まじいのは、シアトルのグランジだけではなく、コデインをはじめとする、アングラのスロウコア勢にも注がれていたことだろう。

 

その後、ジョン・ピールは様々なDJとしての偉大な功績が讃えられ、数多くの放送賞、大英帝国勲章を与えられている。彼の手掛ける番組は、その後、BBCワールドサービスで放送されるようになった。2000年代には、かつて自分が海賊ラジオ局のパーソナリティーを務めていた1960年代の時代の境遇とオーバーラップするかのように、「ダブステップ」というサウスロンドン発祥のフロア向けのコアな音楽ジャンルを番組内で紹介し、このジャンルのムーブメントを後押しし、イギリス国内だけではなくアメリカにもダブステップブームを巻き起こした。晩年まで、ラジオ業界、そして音楽業界に大きな影響を与え続けてきた人物にこれ以上の称賛はいらないだろう。

 

絶えず音楽、そして、サッカークラブの名門リバプールFCを愛し、そして、多くの人々に愛されたBBC最高峰の名物DJジョン・ピールは、その最晩年において、自分の死期を悟ってのことか、かつて自分が最も愛した北アイルランドのパンクロックバンド、The Undertonesの「Teenage Kicks」の歌詞の一説をみずからの墓石に刻んでほしいという言葉を生前に残していたようである。正確には、2004年の10月28日、彼は、ワーキングホリデーの最中、ペルーに旅行に出かけていた。その旅先での心臓発作による死去であった。享年六十五歳。彼が、この世から多くの人々に惜しまれつつ去っていった日のイギリス国内の驚愕というのはどのようなものであったのだろう?

 

少なくとも、その10月28日当日、BBCはRadio 1の放送予定スケジュールを変更し、一日をかけてジョン・ピールに対する深い賛辞を惜しまなかった。


追悼番組内では、ジョン・ピールが最も愛した「Teenage Kicks」が最後にオンエアされ、彼の四十年以上ものラジオDJとしての生涯は幕を閉じた。ジョン・ピールの葬儀の参列には数多くの音楽関係者が参列した。ジョン・ピールの墓石には、「Teenage Kicks」の歌詞の一説が刻まれている。

 

 

*  John Peel Sessionの全カタログについては、有志のbloggerの方が一覧を掲載してくださっています。気になる方はぜひ参考にしてみて下さい。

 

https://davestrickson.blogspot.com/2020/05/john-peel-sessions.html


 

References


BBC.com


https://www.bbc.com/historyofthebbc/100-voices/radio-reinvented/the-dj/john-peel


Radio Fedelity


 https://radiofidelity.com/the-story-of-john-peel/


redbull music academy


interview:John Peel


https://daily.redbullmusicacademy.com/2016/12/john-peel-interview



 

 

 

Laffey

 

 

アンドリュー・ラフェイは、カナダ、トロントを拠点に活動するローファイ・ヒップホップミュージシャン。 音楽制作者で有るとともにサウンドエンジニアを務めているアーティストです。


ギター、ピアノ、トラックメイクまで一人でこなすマルチインストゥルメンタリストでもあります。ローファイビートを打ち出したアンビエント寄りのゆったりとしたアプローチがラフェイの音楽の特性でしょう。

 

ラフェイというミュージシャンは、海外、殊に日本ではそれほど知名度のあるミュージシャンではないはずですが、地元トロントのミュージックシーンでは非常に著名なアーティストで、特にフロアシーンにおいて、プロデューサーとしての評価が高く、周りのミュージシャンもラフェイを慕う人が多く、Xft、JDSYN、They,J-Soul,Laisといったアーティストが、アンドリュー・ラフェイに対するリスペクトを示しています。

 

アンドリュー・ラフェイは、十代の頃から、地元トロントでトラック制作を行っていたアーティストで、2018年にソロ名義で「Lafffey」を、自主レーベル”Laffey Records"からリリースしています。数カ月後に、ダドリー・ムーア監督の映画に因んだ作品「Ten」を発表。その後、サウンドプロデューサーとしての仕事をトロントのフロアシーンで行う傍ら、インディーアーティストらしい作品製作を続け、2021年までに8作のアルバムをリリースしています。

 

これまでに発表された作品全てを自主レーベルなラフェイレコードからリリースを行っていて、ヒップホップのミックステープ文化に根ざした活動を根幹に置き、テープ形式での作品発表を行っていることにも注目。

 

また、ラフェイのアルバムアートワーク、及び、MVには徹底してアニメーション作品が使用され、アニメーションとローファイ・ホップという2つのメディアミックスを行うアーティストでもあります。ラフェイのサウンドの特徴は、アニメーションの映像作品のサウンドトラックに見受けられるようなノスタルジアが漂い、日本的な上品で淡い郷愁もほのかに感じさせてくれるものがあるはず。

 

 

 

アンドリュー・ラフェイは、自身の生み出す音楽について、以下のように述べています。 

 


音楽は私の人生の重要な側面でもあります。また、 Lo-fi製作を行う事自体も、私の精神に治癒を与えてくれます。私の生み出した音楽が、人々を癒やし、そして平和を見つけ、人生に落ち着きを与えるのに役立つのなら、これ以上の仕合わせはありません。

 

 

音楽そのものには治癒的な部分があるんだと思います。 人々は、日常からの脱出に耳を傾けることにより、忙しい生活の中に、大きな平和と慰めを見つけるはずです。

 

 

 

 


さて、今週の一枚として紹介させていただくのは、カナダ、トロントを拠点に活躍するローファイ・ヒップホップ、アンビエントアーティスト、アンドリュー・ラフェイの11月24日にリリースされた新作シングルとなります。


これまでの作品と同様、アンドリュー・ラフェイは今作品のアルバムアートワークにしても、また、ミュージックビデオについてもアニメーションの作品のニュアンスを取り入れています。

 

今週のリリースされた作品に比べ、話題性に乏しいというのはあるかもしれませんが、他の作品にはない深い音楽の魅力がこの作品には宿っています。そもそも、ローファイ・ヒップホップというのは、チルアルトに近い雰囲気を持った音楽で、フロアを沸かすためとは正反対に、フロアに鎮静を与えるために生み出された、と言えるでしょう。このシングル作に収録されている三曲は、おしなべてこのカナダ・トロントの秀逸なサウンドデザイナーが真心を込めて生み出した正真正銘のハンドクラフトの音楽であり、アルバムの冗長さとは対極にある旨味を感じていただけるはず。

 

例えば、ジブリ映画のような「アニメーションにおける郷愁」といった叙情性が満載の作品であり、落ち着いて家の中でまったり聴くことはもちろんのこと、忙しい日常の歩みをふと止め、目の前にある見過ごしていた美しい情景を直覚させてくれる音楽。これはラフェイという方が流行やトレンドに流されない精神の核のようなものを持っているからこそ、このような普遍性のある音楽が生み出されるともいえるでしょうか。少なくとも、このシングルに収録されている三曲全てがアンドリュー・ラフェイ自身が語るように、多忙極まる心に大きな「治癒」だとか「平安」を与えてくれるのです。


より踏み込んでアンドリュー・ラフェイの音楽性について詳述するなら、HeliosとNujabesの中間を行くかのような通好みといえるサウンドであり、アンビエントに近い空間的なシークエンスのアプローチに加え、サウンドエンジニア、トラックメイカーとしての才覚も遺憾なく発揮された作品。

 

 チルアウトに近いシンセサイザーのフレージング、そして、リズムトラックはそれと対比的にヒップホップのトラックメイクが見事に融合していて、長くたのしむことのできる音楽といえるでしょう。ローファイヒップホップとしては一級品。また、アニメーションに見いだされるようなノスタルジアを感じさせるという点では、日本のアーティストにも近い性格を持った楽曲群です。

 

もし今週にリリースされた他の作品と明かに異なる魅力があるとするなら、この作品が聞き手を無理くりに前に進ませるものではなく、その場に立ち止まらせて、あらためて、じぶんの内面に目をむけさせてくれる哲学的な音楽であって、聞き手に、鎮静、深い叙情性、大きな安らぎを与えてくれる音楽であるということでしょう。

 

今、目まぐるしく変わる刻々と移ろう世の中だからこそ、アンドリュー・ラフェイの生み出す音楽は美しく聴こえ、日々の変化の中に埋もれかけている普遍性に思い至らせてくれ、聞き手の人生に異なる奥行きをもたらしてくれるとても貴重な音楽なのです。

 


 現在、イギリス国内のツアーを回っているノッティンガム出身のポスト・パンクデュオSleaford Mods。




Quote :Amazon.co.jp

 

 

 

この二人の世界一のファンキーブラザーたちが、昨夜、リバプール公演後、ライブの熱気も冷めやらぬ中、ファンに向けて、ホットでクールなメッセージを世界に向けて公開してくれた。彼ら二人は、ツアーの一部であるリバプール公演の後すぐに、「Thank You Livepool,Until We Meet Again」と熱いメッセージと贈ると共に、即興のクールでホットなラップを披露してくれた。

 

楽屋の中で、おもむろに画面の外にフェイドアウトしていくSlaford Modsの中心人物、ジェイソン・ウィリアムソン。ほどなくして、謎めいたトラックが楽屋の中に流れ始める。何をするんだと思ったら、ウィリアムソンは、ライブだけじゃものたりんわいとばかりに、音楽の再生に合わせてクールなライムをかましはじめる。即興のラップであるものの、公演のホットさが伝わってくる滅茶苦茶リアルなフロウだ。それに加え、デュオのもうひとりのメンバー、アンドリュー・ファーンが、な、何と、、、「東京喰種」の黒シャツを着て、傍らにノリノリで佇んでいることにも注目である。

 

リバプール公演を無事終えたSleafords Mods。

 

本日から、ノッティンガムの公演、それから、カーディフ、ブリストル、ロンドン、ブライトンでの公演を経た後、スペイン、ドイツを巡るヨーロッパツアーを控えている。これから、世界一クールなブラザーたちがどんなフロウをかましてくれるのか、そして、公演の先々でどんなビデオメッセージを贈ってくれるのか、俄然目が離せないところである。

 

Go!!

 Sleaford Mods!!



関連動画につきましては、以下、Sleafords Modsのtwitteアカウントのリンクよりご試聴ください。


https://twitter.com/epicureben/status/1464339490592509958?s=20

 

 

 

 


Ovlov

  

オヴロヴは、コネチカット州にて結成されたインディー・ロックバンド。 ハートレット兄弟を中心として2000年代半ばに結成された。当初、Home Movieのバンドネームで活動を行っていた。

 

結成当初のメンバーラインナップは流動的で、バンドメンバーを入れ替えながら活動を続け、2009年にEP「Crazy Motorcycle Jump」をリリース。アメリカのインディーエモシーンの重要なバンドとして目されるようになる。その後、バンドメンバー内の関係に亀裂が生じ、メンバーチェンジを経ながら、一度はジョン・ハーレットがこのバンドを離脱するものの、オヴロヴに復帰を果たしている。

 

2013年にはNYブルックリンのレーベル、Exploding In Soundと署名し、デビュー・アルバム「Am」を発表。この後、再度ラインナップに変更があり、ジョン・ハートレットがバンドを去っている。 

 

オヴロヴの苛烈なファズ、ディストーションサウンドを打ち出したギターロックサウンドは、1990年代のアメリカのインディーミュージックの直系、Dinasour.Jrの再来と称されることもある。Pavement、Built To Spillといったバンドが比較に出される場合もある。

 

2018年、オヴロヴは二作目のアルバム「TRU」を発表。この作品はピッチフォーク等で取り上げられている。異常なほど歪んだディストーションサウンドは、ローファイ感満載で、甘く切ないパワー・サウンドの雰囲気に彩られている。




「Buds」Exploding In Sound




Tracklisting


1.Baby Shea

2.Eat More

3.Land Of Steve-O

4.The Wishing Well

5. Strokes

6.Cheer Up,Chihiro!

7.Moron Pt.2

8.Feel The Pain

 


11月19日にリリースれた「Buds」は、デビュー作「AM」と同じく、プロデューサー、エンジニア、マイケル・ジョン・トーマスⅢを招いて制作された作品。


1stアルバムの製作時、バンドはトーマスと六ヶ月もの間、デモテープのやり取りを交わし、鮮烈なデビュー・アルバムを苦心して生み出しているが、今作は盟友というバックアップを得たことにより、さらにグレードアップした傑作が誕生したといえるだろうか。

 

特に、NYの流行りのキャプチャードトラック勢と全く異なるアプローチ、ローファイ感満載でありながらも、そのサウンドは80年代から90年代の上記したPavementやDinasour.JRに加え、Superchunkといったアメリカインディーの正統派に堂々位置する作品である。

 

前作の「TRU」に比べると、まるでエフェクター、ビックマフを噛ませたようなディストーションサウンドは薄れ、ポップ寄りのアプローチが図られているという評言もあるものの、しかし、なおこのオヴロヴの苛烈なディストーションサウンド、尖ったサウンドの魅力というのは健在。

 

そして、ブルックリンサウンドとは全然異なる時代の逆行性、あるいは、現代性から完全に背を向けるかのようなタフさがオヴロヴのサウンドの最大の魅力でもある。そこにはおしゃれさというのは感じられない、むしろ、きわめて泥臭く不器用ともいえるサウンドアプローチである。

 

しかし、それでも、このアルバムを聴いておわかりのとおり、このアルバムは奇妙なノスタルジアや、切なさによって彩られているように思える。ディストーションサウンドの果てにうっすらと感じ取れる美麗なエモーションが見て取れ、それがオヴロヴのサウンドを独特なものとしている。

 

そして、それは表向きには激烈な質感もありながら、きわめて人間味のある温かさ、ハートフルな切なさ、また、ほのかな慕情のごとき感慨が明らかに滲んでもいるように感じられる。このあたりの不可解さについては、このスタジオアルバムの中に収録されている一曲「Land of Steve-O」について、オヴロヴのフロントマン、ハートレットが明瞭な回答をコメントで提示している。

 

車の中で、父と馬鹿げた議論をしたあとに、この曲「Land of Steve O」を書いたのです。家にかえってから冷静になるために、ひとりで散歩にいくことにしました。2時間ほどかけて歩いて、警察署の前のベンチに座り込んだんです。

 

この場所は、コネチカットの中心部にある、両親が私を育ててくれた非常に思い入れのある場所でもあります。それから、以前から付き合っていた友人のスティーブ・オーにテキストメッセージを送ったことが曲を書くきっかけとなったんです。

 

 

 

スティーヴ・Oは、ハートレットの幼馴染で、学校の六学年時からの知り合いだったのようである。Papa Roachというバンドを介して、彼ら二人は仲良くなった。小学校のときの思い出。

 

その時の睦まじい友情を思い出して、「Land of Steve O」は生み出されたという。

 

 

また、このスタジオ・アルバム「Buds」には、彼の家族、ハートレットの父親が「Cheer Up Chihiro!」でサックスのソロを演奏していることに加え、ブレイク・リー、エリン・マクグラス、アレックス・ゲーリング(リンゴ・デススター)といったミュージシャンがヴォーカルとして参加している。

 

確かに、この作品「Buds」は売れ線のインディー・ミュージックではないかもしれない。けれども、その音楽性の中には、人情に彩られたハートウォーミングな精神が感じられる快作である。

 

 

 

 


・Apple Music Link

 

 11月25日、ロンドンを拠点に活動するNaima BockがSub Popと正式に署名し、デビューシングル「30 Degrees」のリリースを行ったとSub Pop Records がアナウンスしました。



 この公式アナウンスと同時に、2022年1月から開催されるNaima Bockの英国ツアー「Five Day Forecast 2022」日程も既に発表されています。

 

 Naima Bockは、ギリシャ出身のSSWです。幼年時代をブラジルサンパウロで送っています。イギリス人の母とブラジル人の父を持つNaimaはサウスロンドンに幼い頃、転居している。十五歳から、ロックバンドでソングライティングを行うようになり、その後、世界をツアーして回っています。近年では、ソロ活動に転じ、それに伴いまた、作風もアコースティックな音楽性へと変化しています。

 

 プレスリリースにおいて、ニューシングル「30 Digrees」についてNaim Bockは以下のように語っています。

 

この曲は、恐怖と自由という思春期における二重性から生まれ、主に、別れをテーマに扱っています。
とても大きく感じる小さなもの「最後の言葉」(長期的な友情に別れを告げる)。そして、大きなもの「最後のため息」。
これらは、日々生き残っている雑然とした感情の中で、とても小さく感じることが出来ます。

 

 このNaima Bockのコメントから伺えるのは、人間にとって大きく感じられること、それはすこしだけ見方を変えてみれば、小さなものであるかがわかる、ということなのかもしれません。


多くの世界、そして、多種多様な文化を若い時代から見聞しているNaima Bockだからこそ大きな説得力がありますし、示唆に富んだ言葉だといえます。


シングル「30 Degrees」に伴って製作されたPVは、ビューファインダーのジョエル・バートンによる製作編集が行われています。シアトルの名門Sub Popの期待の若手シンガーソングライターとして再注目のアーティストです。

 

 

 

「30 Digrees』Sub Pop Records



 

Naima Bockの作品リリース、ツアー日程の詳細につきましては、以下、Sub Pop  Official HPを御覧ください。


https://www.subpop.com/