英、ダブステップ界の重鎮、Burialは、毎年末になると、自身の所属するレーベル「Hyper Dub」から発表を行い、数多くの音楽ファンを楽しませてくれています。

 

昨年にも、Burialは年末に、「Chemz」「Dolphinz」の二作の作品発表を行い、サプライズリリースに至りました。もちろん、ブラックダウンとのコラボレート作「Shock Of Power Of Love」もその中に含まれるでしょう。

 

そして、今年もまた、Burialの恒例行事の新作発表が年末に行われました。今回、詳細プロフィールを明かさないことでも知られる、謎めいたプロデューサーBurialは、十五年ぶりとなる長編作品の制作に取り組み、この度、EP形式ではありながら、44分にも及ぶ大ボリュームの「Antidawn EP」のリリースを公式に発表いたしました。

 

「Antidawan EP」は本日の公現祭(Three Kings Day)に合わせてリリースされています。1月6日からデジタル配信にて視聴可能、1月28日には、CD,LPの二形式が発売予定となります。

 


Burialの最新作は、既存のレパートリーの中でも最も魅力的な作風の一つとなることを約束致します。独特なアンビエントを思わせるクールなアプローチ、ブリストルサウンドを彷彿とさせる暗鬱さ、そしてダブステップの複雑なサンプリングを凝縮した蠱惑的な一枚。Burialの新たな代名詞とも呼ぶべき一枚がここに誕生。誇張抜きに滅茶苦茶カッコ良いダブステップの良盤です。

 

 

Burial 「Antidawan EP」の楽曲のご視聴は、下記、Hyper Dub公式リンクにてお願い致します。


 https://smarturl.it/ANTIDAWN

 

 


Yoko Ono *"Yoko Ono *" by Sterneck is licensed under CC BY-NC-SA 2.0

 

アメリカのインディー・ロックバンド、Death Cab For Cutieのフロントマンとして知られるベンジャミン・ギバートが今回、数々のロックバンドのメンバーとコラボレートしたオノ・ヨーコの作品に捧げるトリビュートアルバムを発表致しました。この作品には「Ocean Child」のタイトルが冠され、2022年の2月1日にLP盤が発売予定です。

 

デス・キャブ・フォー・キューティーのベンジャミン・ギバートは、トーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーン、そしてヨ・ラ・テンゴといったアーティストの協力を得、オノ・ヨーコのトリビュートアルバムの構想を立て、この作品のキュレーターの役割を担っています。

 

2月1日にリリースのオノ・ヨーコに捧げられた「Ocean Child」には、豪華なインディーロックバンド、アーティストが数多く参加。

 

 

Sharon Van Etten,Death Cab For Cutie,Us Girls,.Japanese Breakfast,Jay Som,Stephan Merrill(Magnet Fields),Thao,Sudan Archieves,WE Are King,Amber Coffmanといった面々がコンピレーション作品を個性味あふれるものにしています。

 

 

今回、トリビュート作品に参加したアーティスト全員が小野からの芸術的な影響を公言してはばからず、音楽へのユニークなアプローチを図り、文化的な関連性をもたせるように努めた作品で、これらのアーティストの並々ならぬ敬意が表されています。

 

オノ・ヨーコからの影響について、ベン・ギバードは「オノ・ヨーコは、平和が可能であることを私達にアートを介して教えてくれました。 また、これらの楽曲は愛と欲求不満の両側面の感情から生まれたのです」とプレスリリースにおいて語る。「愛の部分については顕著に表現されています。オノ・ヨーコの素晴らしい音楽が私に与えてくれたのは、無尽蔵のインスピレーション、そして、音楽そのものの楽しさでした。今回のコンピレーションでは、こういったオノ・ヨーコの芸術性に見られる特徴を、全てのアーティストが実際の演奏を介して実践しているように思います」

 

「Ocean Child」のアルバムの収益の一部は、非営利団体「Why Hunger」に寄付される予定。これは、オノ・ヨーコが社会正義をモットーとし、飢餓と貧困の根本原因を突き止める事により、「Why Hunger」を何十年にも渡って支援してきたことに依る。


既にトーキング・ヘッズのデイヴィッド・バーンとヨ・ラ・テンゴのオノ・ヨーコのカバー曲「Who Has Seen The Wind?」のデジタル配信及びトレーラー動画が先行配信されています。2022年のトリビュートアルバムとして注目すべき作品となりそうです。

 

 

 

「Ocean Child」の詳細リリース情報につきましては以下リンクをご参照ください。

 

https://oceanchild.lnk.to/WhoHasSeenTheWind 

 

 



 


デビッド・ボウイ・エステイトは、シティ、ウォール街を席巻するミュージカルのゴールドラッシュに加わり、2億5000万ドルの価値と言われている取引において、デヴィッド・ボウイのバックカタログを販売。

 

昨日、楽曲の価値は2億5000万ドルに相当すると報告されたデヴィッド・ボウイの楽曲の取引において、彼のバックカタログの出版権はワーナーチャペルミュージック(WCM)に売却されました。この契約には、ボウイの60年のキャリアにおける仕事全体に対する権利も含まれています。

 

当該契約の中には、「Changes」「Life On Mars」「Rebel Rebel」「Space Oddity」、「Let’s Dance」などの往年の名曲のライセンスも含まれています。この楽曲の著作権の売却に伴い、ワーナーチャペルミュージックの共同議長兼CEOのGuy Mootは、以下のような公式の声明を出しました。


「これらは並外れた楽曲であるにとどまらず、現代音楽の潮流を永遠に変えたマイルストーンです。ボウイのヴィジョンと天才的な創造性は、叙情という側面だけではなく、音楽自体の可能性を押し広げました。これまでの慣習に挑み、話法を変え、世界文化の規範の一部となった楽曲を彼は多く書いたのです。

 

「ボウイの作品はまた、音楽だけではなく、すべての芸術、ファッション、メディアで、何百人ものファンや数え切れないほどのイノベーターたちに創造性を与えました。 私達は、この最も並外れた人物の遺産に基づいて新たな文化を構築するために、大きな情熱と細心の注意を払って彼の比類なき楽曲を管理することをとても楽しみにしています」

 

 

Album of the year  2021 

 

 

苦心の末に生み出された2021年の最高傑作

 

Snail Mail「Valentine」 Matador


 


Snail Mail 「Valentine 」

 

 

Scoring

 


このスタジオアルバムを制作することは、これまでの私の人生以来、最も偉大な挑戦の一つでした。私は、この作品のごく細部、隅々に至るまで、心と魂を込めて制作しました。


2021年の11月5日に、ニューヨークの名うての名門インディーレーベル、Matadorから新作アルバムをリリースした際、スネイルメイルの名を冠して18歳からソロ活動を行ってきたバルティモア出身のリンジー・ジョーダンは、上記のように、公式の声明をTwitterアカウントを通じて発表しています。

 

そして、この作品が、なぜ、今年の最高傑作として挙げられるべきなのかについては、上記のリンジー・ジョーダンの言葉に表れ出ているからといえます。つまり、「Valentine」はすばり、”恋人”をテーマに取り上げ、痛快なポップソングに昇華させた傑作であり、このアーティストの魂が込められた会心の一作ともいうべきなのです。


この作品「Valentine」は、軒並みアメリカよりも、イギリスのメディアの好意的に迎えいれられ、アルバム・レビューにおいて満点評価を与えた英国の最大手の音楽メディアNMEは、この作品を「Beautiful Progression」と評しています。 


また、ブリストル大学の学生が発行する独立新聞では「スネイルメイルはひとまわり成長して帰ってきた」という賛辞を送り、もちろん、他にも、現地ニューヨーク・タイムズも詳細なアルバム・レビューを行い、リンジー・ジョーダンの作品に見目よい評価を与えています。もちろん、それらの様々なメディアからの称賛は、この作品「Valentine」自体に美しい華を添え、その価値を高めているといえるでしょう。



ボン・イヴェールの作品のプロデュースを手掛けたブラッド・クックをエンジニアとして招いた「Valentine」は、スネイルメイルのデビュー作「Lush」がリリース後、すぐにリンジー・ジョーダンが取り組んだ作品でした。


この作品のリードトラックであり象徴的な意味をなしている「Valentine」は、レズビアンの叶わぬ恋について書かれており、リンジー・ジョーダンは、セクシャルマイノリティに対する考えをしめし、生きづらい中で生きていく中でのたくましさがポピュラー音楽として見事に昇華された名曲です。  


 

 

 


「学校の放課後に制作された作品」とジョーダンが恬淡と語る「Lush」のデビュー当時において、リンジー・ジョーダンはオルタナティヴ・ロックを中心に聴いていて、USインディーロックの申し子としてアメリカのシーンに登場しましたが、既に二作目において、スネイルメイルは、新たな境地を開拓し、インディーロックの枠組みの中では語りつくせない偉大なアーティストに登りつめたと言えるでしょう。


もちろん、この二作目を手掛けるにあたり、スネイルメイル、リンジー・ジョーダンは、目の眩むほどの高い山を上るような挑戦を強いられました。


「インディー・ロックの名作」との呼び声高いスタジオアルバム「Lush」のリリース後のツアーの真っ最中、その作品評価が高かったゆえ、次なる作品の期待が高まる中において、リンジー・ジョーダンは二作目の「Valentine」のソングライティングのアイディアを練りはじめましたが、この作品は一作目とは全く意味が異なるプロフェッナル性をミュージックシーンから要求された作品でした。


リンジー・ジョーダンは、コアなインディーロックからさらにその一歩進んだミュージックスターとしての道のりを歩み始めねばなりませんでした。


フルレングスのアルバム「Valentine」を完成させていく過程、全て自分ひとりの力で生み出さねばならない、というこれまでにない重圧を感じながら、リンジー・ジョーダンはシンセサイザーを何度も実際に弾きながらメロディーが頭に浮かんでくるのを待ち、楽曲を入念に組み立てていきました。


しかし、このアルバムの制作が始まった当初、スネイルメイルとして大規模ツアーに出ていたこともあり、ソングライティングに集中する時間を持つことが出来なかったことから、作品制作は難航を極めます。


そうしているうち、他の今年の多くの傑作アルバムをリリースしたアーティストと同じように、スネイルメイルは、COVID-19という難局に直面しました。このことが、ソングライティングの面、レコーディングの面で作品制作の難易度を高めたのです。リンジー・ジョーダンの登りつめようという一つの高い山は、当初このアーティストが想定していたよりも厳しいものであったのです。

 

この期間、リンジー・ジョーダンは活動を拠点に置くニューヨークを一旦離れて、両親のいる故郷バルティモアに帰っています。そして、この決断が「Valentine」制作を前進させたといえるでしょう。


リンジー・ジョーダンは、ミュージシャンとしての重圧から束の間ながら解き放たれ、このバルティモアの両親の家で、「Valentine」のソングライティングに真摯に取り組んでいきました。しかし、この後も、作曲面で異様な労苦を強いられたリンジー・ジョーダンは、アルバム制作に完全に行き詰まってしまい、一度、アリゾナのリハビリセンターで数週間を過ごしています。


そのことについては、このスタジオアルバムの話題曲「Ben Franklin」中の歌詞で、リンジー・ジョーダンが赤裸々に告白しています。いわば、強いプレッシャーをはねのける過程、一方ならぬ労苦があったことがこのエピソードには伺えるようです。


ここで付け加えておきたいのは、他の映像作品、文学についても同じことがいえるはずですが、音楽を聴くこと自体のは一瞬の出来事であるものの、その「一瞬の感動」を作るために、アーティストやレコーディングに携わるエンジニアは、制作の裏側でその何十倍、何百倍もの時間を割いているということなのです。 


 

 


実際の音楽性についていえば、「Valentine」は、これまでのスネイルメイルのアルバム、シングル作とは全く雰囲気が異なる華やかさが感じとられる傑作です。


一作目において、オルタナティヴ性の強いインディーロックを生み出したスネイルメイルは、Lushのツアー中にポップス、ジャズを中心に聴き込んでいました。以前は五分を超える楽曲も超えるトラックを中心に書いてきたジョーダンは、ごく短い、三分以内の曲を中心に作曲を行っています、その理由は、


「言いたいことをいうのには三分で充分じゃない?」というリンジー・ジョーダン自身の言葉にあらわれています。


また、この作品の制作秘話としては、「Valentine」製作中に、リンジー・ジョーダンが最も戸惑いを覚えたであろうことは、実際にソングライティングを終え、いざ、出来上がった楽曲をスタジオアルバムとしてレコーディングを行っている際に、微妙な声変わりが起こったことでしょう。


元々、EP「Habit」や「Lush」といった傑作において、どちらかと言えば、ハイトーンのヴォーカルを特徴としていたジョーダンは、「レコーディングに取り組む過程、徐々に声が低くなり、ハスキーな声質に転じていったのがおかしかった」と回想しています。

 

そのあたりの声質の変化は、レコーディング最初期に録音されたと思われる「Valentine」から、ラストトラックの「Mia」に至るまでの楽曲の印象の急激な変化に表れ、それは実際に聴いていただければ分かる通り、まるで別のシンガーが歌っているような印象を受け、一、二年で録音された作品ではなく、五年や十年という長い時間をかけて生み出されたレコードのような興趣を添えています。

 

 

最後に、この「Valentine」が、なぜリスナーの胸を打つものがあるのか言い添えておくならば、このリンジー・ジョーダンの心情の変化がパンデミック時代を通して克明に描き出されているからなのです。


レズビアンであることを公表していなかったであろうデビュー作「Lush」で、ジョーダンは「誰ももう他の人を愛さない」と痛切に歌っていましたが、最新作「Valentine」において、何らかの大きな心変わりがあったことが、アルバムの有終の美を飾る最終曲「Mia」にて、暗にほのめかされています。


 

「Mia Don't Cry,I Love You Forever」 (ミア、どうか泣かないで、あなたを永遠に愛しているから)

                  Valentine 「Mia」より

 

 

実直に捧げられるリンジー・ジョーダンの愛の賛辞。まさにそれは、この世で最も美しい純粋な感情によって彩られています。


それは、これからの時代の新たな愛の姿を真摯に描き出すものであり、レズビアンとしてこの世を生きることの辛さ、そして、それとは反対に、「力強く貫かれる愛」の切なさを端的に表しており、実は、それが最初の「Valentine」から通じる一貫した主題であったと気がつかされるのです。


つまり、このアルバム「Valentine」全体を通して描かれる力強い愛の姿が、この作品を美麗で儚げにしているわけです。


異質な重圧と厳しい環境の中で制作され、苦心の末、完成へと導かれたインディー・ロックの名盤、スネイルメイルの「Valentine」は、2020年代の名盤として後世に語り継がれるにふさわしい傑作です。


 


 

 

 

Album of the year 2021  

 

 

ーBreakthrough Albumー

 


 

ここで取り上げるのは、鮮烈な2021年にデビューを飾った来年以降注目すべきアーティストのデビュー作。2022年のミュージックシーンがどのように変化するのか、これらのアーティストたちがその鍵を握っていると言えるかもしれません。





・Parannoul 

 

「To See The Next Part Of Dreams」 Parannoul

 

 

 Parannoul 「To See The Next Part Of Dreams」

 

To See the Next Part of the Dream  

 

 

 

サウスコリアのインディーズシーンでは、今、Asian Glowをはじめ、苛烈なシューゲイズに電子音楽の要素を混ぜ合わせた音楽が台頭していて、非常に勢いが感じられる。しかも、かなりラフでプリミティヴなミックスのまま完成品としてリリースしてしまうところに魅力があるように思える。

 

この雪崩を打って新たな概念を提示するアーティストが登場するような雰囲気こそ、何らかの「シーン」と呼ばれるものが現れる瞬間の予兆であり、それは、東京のシーンにLiteやToeが出現したポストロックの黎明期に重なる雰囲気がある。これからいくつかの新星がサウスコリアから登場すると思われるが、その筆頭格ともいえるのがこのパラノウルというソロアーティスト。


Parannoulは自身のプロフィール、バイオグラフィーについてオープンにしていない。学生のアーティストで、ホームーレコーディングを行って作品の発表を行うインディーミュージシャンであるということしか判明していない。


パラノウルは、最初の作品「Let's Walk on the Path of aBlue Cat」をWEB上で公開するところから活動をはじめた。


楽曲の公開は、2021年にBandcampという配信サイトを通じて行われただけにもかかわらず、Rate Your MusicやRedditでカルト的な人気を呼び、一躍パラノウルは世界的な知名度を得る。今後、2020年代、こういったWEBでの楽曲配信をメーンとするインディーミュージシャンが漸次的に増加していくような気配も感じられる。


「To See The Next Part Of Dreams」は、パラノウルの実質的なデビュー作である。LP,デジタルに加え、カセットテープ形式でリリースされているのも個性的な活動形態を感じさせる内容だ。パラノウルのこのデビュー作品は、特にインディー・ロックファンの間で好意的に受け入れられた作品で、日本にもファンは多い。

 

「To See The Next Part Of Dreams」独特な内省的なエナジーの強い奔出のようなものが感取られる個性的なアルバムである。そしてこの荒削りでゴツゴツした質感は現代の他の国々の高音質のデジタルレコーディングに失われてしまったものでもある。いわば、このパラノウルが自宅で一人きりで生み出した「音の粗さ」のようなものを多くの音楽ファンは求めているのかもしれない。


このデビュー作で、サウスコリアの宅録アーティスト、パラノウルが試みたアプローチは、明らかに、シューゲイズとテクノの融合、その挑戦が見事にデビュー作らしい美しい結晶を成した記念碑的な作品と呼べる。


他でも言われている通り、パラノウルの音楽性には、淡い青春のイメージが沸き起こされる。それは、アルバムジャケット、実際の音楽にも表されているとおり、なにか鬱屈とした内的な切なさのような情感を、激烈なディストーションサウンドによって彩ってみせている。


そして、アーティストがシンセサイザーを介して生み出す奇妙な迫力というのに、聞き手は驚かずにはいられない。そう、ものすごい迫力、パワーがこの作品には宿っているのだ。


二作目において、ポストロックのアプローチに転じたパラノウルだが、この最初の鮮烈なデビュー作にはこのアーティストの青春、そして、内的な感情に根ざした強いエネルギーが余すところなく込められている。


おそらく、誰もが若い頃に一度くらいは感じたことのある切ないエモーションを、パラノウルは電子音楽という形で見事に描き出している。

 

そして、このデビュー作品「To See The Next Part Of Dreams」がWeb配信中心のリリースであったにもかかわらず、アメリカのインディーシーンでもカルト的な人気を呼んだのは、この強い内省的なパワーに共感するリスナーが多かったからと思われる。パラノウルの描き出す青春は一人だけのものではなく、世界中の若者の心に響くにたる普遍性が込められていたのだろう。

 

パラノウルは、強い創作に対するエネルギーを保ち、この一、二年で、既に三作目の「Down Of The Neon Fall」を発表していることにも注目。今後もまだパラノウルの破格の勢いは途切れないように思われる。  

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

・Geese 

「Projector」 Partisan

 

 

Geese 「Projector」 


 PROJECTOR  

 

 

2021年現在、UKではポスト・ロックをはじめ、パンクムーブメントが再燃しているように思える。

 

騒乱にまみれた世界に対抗するには、上記のような若い力が音楽によって何らかの強いエナジーを示すことが必要なのかもしれない。つまり、若い人たちの前向きな力が生み出し、社会に働きかけるのがロックミュージックの醍醐味なのである。


もっとも、そのことは、今年、鮮烈なデビューを果たしたニューヨークのブルックリンを拠点に活動する十代の五人組、Geeseについても全く同じことが言えるかもしれない。


ギースは2000年代に特にNYで隆盛をきわめたガレージロックバンド、StrokesのDNAを受け継ぐ新世代のロックバンドといえる。


ギースの音楽活動は手狭な地下室で始まり、その地下室でのガレージロックに近い活動形態から生み出されるプリミティヴな音楽性、それに加え、シカゴの1980年代のポストロックバンド、ドンキャバレロのような、音楽を介しての前衛性がこのバンドの最大の魅力ともいえるだろう。


彼らのデビュー作「Projector」は、UKのラフ・トレードが「Album of the Month」として選出したレコードでもあり、 インディーロックの醍醐味が余すところなく発揮された快作である。それはアルバム全体に渡って、若いエナジー、ほとばしるようなパワフルさの込められた作品でなにか頼もしさすら感じてしまう。


その奔放さ、危うい舵取りについて、バンドサウンドの方向性が完全に定まっていないのではないか、という指摘もあるみたいだ。しかし、それでも、リードトラック「Rain Dance」を流した途端に感じる鮮烈な印象というのは、今年のデビュー作のリリースの中でも際立っていたように思える。


他にも、ストロークスの音楽性のクールさのDNAを受け継いだ「Low Era」、ドン・キャバレロやスリントに近いポスト・ロックに挑んだ「Exploding House」も十代とは思えないくらいのすさまじい迫力が込められている。


Geeseは、潜在能力が未知数で末恐ろしさすら感じられるバンド。来年以降、どのような画期的なリリースがあるのか、ファンとしてはワクワクして次作発表を心待ちにしておきたい。

 

 

 



 

 

・Gusokums (グソクムズ)      


 「Gusokums(グソクムズ)」 P-Vine



Gusokums (グソクムズ)      「Gusokums(グソクムズ)」


グソクムズ  

 

 

上記の3つのアーティストに加えてこのバンドを薦めておきたいのは、今後の作品のスタイルの方向性によっては、日本にとどまらず、海外でも人気を博す可能性をグソクムズは有しているからである。


その理由は以下に記すが、グソクムズは、田中えいぞを、を中心に結成された東京吉祥寺を拠点として活動するシティーフォークバンド。はっぴいえんど、シュガーベイブスといった日本の往年の名ポップスを継承する四人組だ。


彼らのバンドサウンド、バンドキャラクターについては、若い時代の細野晴臣、大滝詠一を彷彿とさせるような長髪のヒッピースタイルについても言わずもがな、音楽性についても日本のシティポップの系譜を新時代に伝えるものである。もちろん、吉祥寺のバンドということで、中央線沿線のサブカルチャー色に加え、まったりとした時代に流されない普遍的な雰囲気が漂っている。


P-vineから、満を持して発表されたデビュー作「グソクムズ」は、そういったシティフォークのコード感、あるいは、メロディの良さを再発見しようという試みがなされた痛快な一作である。


先行シングルとしてリリースされた「すべからく通り雨」 「グッドナイト」のセンスの良さもキラリと光るものがあり、リードトラックの「街に溶けて」の素晴らしさについても非の打ち所がないように思える。


繰り返しともなって大変申し訳ないけれども、今、マック・デマルコのカバーの影響もあってか、LAの若者の間で、細野晴臣、あるいは、シティポップの人気がそれがいくらか限定的なものであるとしても徐々に高まっているのは事実である。そして、Ariel Pinkを始めとするローファイサウンドやサイケデリック、また、リバイバルサウンドの盛んな西海岸のロサンゼルスのミュージックシーンでも、このグソクムズのデビュー作は、それらのバンドに近い雰囲気を持っているため、一定のコアな音楽ファンの間で好意的に受けいられそうな気配のある作品である。


グソクムズのデビュー作「Gusokums」は、インディーフォークやシティポップの色合いに加え、ローファイの雰囲気を併せ持ち、日本の歌謡曲に対する淡い現代人のノスタルジアに色濃く彩られている。日本のフォーク音楽の雰囲気を掴むのにうってつけの名盤のひとつといえる。







 

 


KEG 

「Assembly」


 

  



Assembly ['tatooine Sun' Orange Colored Vinyl] [Analog]


 

KEGは、英ブライトンを拠点に活動する七人組のポストパンクバンドである。ヨーロッパを中心に旅する過程の国々で集められたいわばEUのバンドともいえる。彼らのサウンドの下地には、1970年代のレジデンツのようなちょっと不気味なサンフランシスコのサイケデリア、そしてオハイオのディーヴォのニューウェイブの核心とも呼ぶべき音楽性を引き継いだバンドといえる。

 

近年、UKには、他にもブラックカントリー、ニューロードをはじめ、バンド形態というより、小さな楽団のような形の活動形態をとるバンドが多く、UKのミュージック・シーンで存在感を見せているが、このKEGについては、男のみで結成されたユニークさ、笑ってしまうような雰囲気を持ち合わせたバンドである。

 

実際の音楽にしても、バンドキャラークターにしてもサーカス団のような面白みを持ち合わせている。レコーディングに対しても暑苦しさを感じさせるヴォーカルのハイテンション、そして、その突き抜けた奔放さに一種の鎮静を与えているバックバンド、ジャズを下地にしたトロンボーンの音色が、コメディ番組に近いユニークさをもたらす。つまり、その前衛性については、The Residentsほどまでとはいかないが、シュールなユニークさというのがKEGの最大の魅力でもある。

 

今年の10月にリリースされた「Assembly」は、大きな話題を呼んだわけでもなく、商業的な成功をみた作品でもない。

 

しかし、それでも個人的に、このブライトンの七人の男たちに肩入れしたくなってしまうのは、KEGが、社会的な常識であるとか、通念だとかを跳ね返すような本来のアートのパワーを強固に保持しているからに尽きる。

 

もちろん、ここでは、反体制だとか、政治的なことについて言及したいのではない。ブライトンの海岸で結成されたKEGは、パンクロックの持つ本来の魅力を、どうにかして現代にほじくり返してやろうと試みる面白い奴らなのであって、彼らの音を奏でることを心から楽しむ姿勢が、この作品には目に浮かぶような形で溢れている。それは、ここ、二、三年のような厳しい社会情勢だからこそ、このバンドの持つ青春の輝きというのは対比的に強まるではないだろうか。

 

KEGの社会情勢を度外視したような淡い青春の一瞬の輝きは、パンクロックという形で繰り広げられる。彼らのテンションは余りに嵩じているが、しかし、一定数のコアなロックファン、パンクファンの心に揺り動かすに足るものと思う。








Album of the year 2021 

 

ーRap/Hiphopー 

 

 

 

 


・Nas  

 

「King Disease Ⅱ」 Mass Appeal 

 

 

 Nas 「King Disease Ⅱ」


 King's Disease II [Explicit]

 


アメリカ合衆国でディスコが衰退した後に登場したラップ、ヒップホップという音楽ジャンルは、1970年代後半のニューヨークのブロンクス地区の公園で、街中の電線から違法に電気を引いてきて、移民のDJがレゲエ、ダブを掛け始めることで始まった文化である。


この音楽文化を、Bボーイズ、ガールズ、数多くのDJインディーズレーベルがクラブカルチャーを通じて徐々に広めていった。当時、アメリカの主要な音楽を取り扱う最大手のビルボード紙にも、このラップ音楽の理解者が殆どおらず、一種のカウンターカルチャーとして見なされていた。しかし、今日のアメリカのミュージックシーンでは、ヒップホップがメインカルチャーに変わり、レコード産業はこの最も売れるジャンルに依存すらしているのは、時代の変遷ともいえるだろう。


長い時代を通して、アメリカの表社会からは見えづらい社会の闇、人種問題、人権問題、ゲットゥーの悲惨な生活、そういう影の部分にスポットライトを当てる役割がその後の世代を通して出現したラッパーたちには存在した。


もちろん、アメリカで最も著名なDJラッパーのひとり、ニューヨークのクイーンズ出身のNasについても全く同じことが言える。


ナズは、元々、八歳で学校をドロップアウトしたのち、ドラッグの売人をしながらゲットゥーをさまよった。彼に、教養、そして文学性を与えたのは、聖書、コーランといった聖典だった。


今日、ナズのラップが未だにアメリカ国内にとどまらず、ヨーロッパ圏でも大きな人気を獲得している理由は、「ラッパーの王者」となってもなお、そういった弱者、表社会からはじき出された人々に対する愛着を失わないからかなのかもしれない。赤裸々にアメリカ社会の闇を暴き出す姿勢、歯に衣着せぬ物言いが、特に、アメリカ国内の人々には痛快な印象すら与えるのだろう。


エミネムをゲストとして招聘した今作「King Disease Ⅱ」は、「王者のヒップホップ」というように、海外の複数の音楽メディアから数々の賛辞を与えられており、その中には歯の浮くような評言も見いだされる。もちろん、作品の話題性については言わずがな、グラミーも受賞するであろうレコードと率直に思う。現在も、ナズは、アメリカのラップ界のアイコンともいえる存在であることは、張りのあるスポークンワードだったり、そして、苛烈なフロウを見れば理解できる。そして、ゲトゥーからスターダムに這い上がってなお、ギャングスタ・ラップの色合いの強い、デンジャラスな雰囲気を今作でも過分に残しているというのは殆ど驚愕すべきことだ。


それはやはり、ナズが若い時代のゲトゥーでの生活、社会の底に生きる人々に一種の愛着のようなものを持ち続けていることに尽きると思う。このレコードに収録されている楽曲のトラックメイクについても王道のヒップホップを行くもので、全く売れ線を狙うような姿勢を感じさせないのも見事。

 

この作品には、いまだに、Nasのアメリカの表社会に対する一種の義憤、そして、ドラッグの売人の時代、ゲトゥーで暮らしていた時代に培われた強かな反骨精神のようなものがタフに感じられる。また、それが、ナズというアーティストが「ラップの王者」でありつづける要因でもあるのだ。 

 

 

 

 

 

 

 

 

・Kota The Friend  Feat.Statik Selektah 

 

「To Kill a Sunrise」 Fitbys LLC

 

 

Kota The Friend  Feat.Statik Selektah 「To Kill a Sunrise」  


To Kill A Sunrise [Explicit]  



コタ・ザ・フレンドとして活動するAvey Marcel Joshua Joneもヒップホップの発祥の地であるニューヨーク出身のラップアーティストであり、イーストコーストヒップホップシーンを代表するDJである。


近年、オールドスクールのヒップホップスタイルも行き詰まりを見せているように思え、他のジャンルがそうであったようにクロスオーバー、つまり本来異なるジャンルをヒップホップに織り交ぜていこうと模索するDJが出てくるようになった。いわばヒップホップも次の時代に進んでいこうという段階にあるのかもしれない。


コタ・ザ・フレンドも同じように、クロスオーバー・ヒップホップに取り組んでいるアーティストのひとり、大学でトランペットを学んでいて、ラップの要素に加え、ジャズ、そのほかにも、クラブミュージック、チルアウト、ローファイ・ヒップホップの要素を織り交ぜたくつろげる良質なヒップホップ作品をリリースしている。また、追記としては、2019年に発表した「Foto」は、ローリングストーン紙によってヒップホップのベストアルバムの19位に選出されている。


コタ・ザ・フレンドの新作「To Kill a Sunrise」は、カニエ、ナズ、ケンドリックといった大御所ラッパーの作品に比べると、いくらか話題性、刺激性に乏しいように思えるかもしれない。しかし、この作品には普遍的な良さがある。ヒップホップによりアート性を求め、芸術作品へ昇華させていこうというジョシュア・ジョーンズの意思を感じさせる。そして、張り詰めたヒップホップではなくて、それとは正反対のまったりした質感を持ち、くつろいだ感じが漂う作品である。


上記の「King Disease Ⅱ」ような鮮烈な印象こそないが、ローファイホップのようなリラックスして聴くことの出来る作品。ジャズの上品な雰囲気の漂うラップの良盤の一つとしてひっそりと取り上げておきたい。 



 

 

 

 

 

 

 

・Mick Jenkins 

 

「Elephant In the Room」Free Nation Cinematic Music Group

 

 

Mick Jenkins 「Elephant In the Room」  


Scottie Pippen [Explicit]  

 


長い間、ヒップホップ、及びラップアーティストは、このヒップホップ音楽がR&Bを始めとするソウル音楽に強い影響を受けて誕生したジャンルということを半ば否定し、忘れていたように思えるが、ようやく、ヒップホップにビンデージ・ソウルの音楽性を添えるDJが出て来た。それがシカゴ、イリノイ州に活動拠点を置くラッパー、ミック・ジェンキンスだ。ヒップホップのミックステープ文化に根ざした活動を行っており、カセットテープのリリースも率先して行っている。


これまで、アメリカの人種問題について歌ってきたミック・ジェンキンスは、今作「Elephant Int The Room」において、個人的な人間関係を題材とし、痛快なフロウを交えて歌ってみせている。若い時代の父親との疎遠な関係、そして、現在の友人関係であったりを、理知的に、ときには、哲学的な考察を交えながら、スポークンワードという形に落とし込んでいる。つまり、この作品は、表向きのラップの音楽性とは乖離した、内省的な世界が描き出されたレコードなのだ。

 

特に、ミック・ジェンキンスのルーツともいえるアナログレコード時代のビンテージソウルの影響を感じさせる作品である。


「Elephant In The Room」の個々のトラックメイクについては、ソウルミュージックの要素がサンプリングを介して展開されている。なんとなく、哀愁の漂うノスタルジアを感じさせる作品となっている。それは、なぜかといえば、ほかでもない、ミック・ジェンキンスの幼少期の音楽体験によるものだろうと思われる。幼い頃、両親が、家でかけていたビンテージソウルのレコード、それは彼の記憶の中に深く残り続け、今回、このような形でラップとして再現されたのである。


本作において、ミック・ジェンキンスは、形而下の世界に勇猛果敢に入り込み、それを前衛的な手法に導いてみせている。

 

それは言ってみれば、疎遠な父親との関係、幼少期の思い出を主題として、ビンテージソウルを介してどうにか歩み寄ろうと努めているように思える。


つまり、ミック・ジェンキンスが志すヒップホップは、このように、内的な感情に根ざした深い心象世界を描き出す。それがこのレコード作品にほのかな哀愁にも似た淡い雰囲気をもたらす。

 

 

 

 

 

Album Of ther year 2021 

 

ーModern Soulー

 


 

・Jungle 

 

「Loving In Stereo」 Caiola

 

 


 LOVING IN STEREO [歌詞対訳・解説書封入 / ボーナストラック追加収録 / 日本盤CD] (BRC672)  




モダン・ソウル、或いはネオ・ソウルは、往年のR&Bに加え、様々なジャンルを交えたクロスオーバーを果たし、年々ジャンルレスに近づいているように思える。


そして、今年の一枚として選んでおきたいのは、ソウルミュージックの正統派の音楽でUKを中心とする数多くのヨーロッパのリスナーを魅了しつづけるJungleの最新のスタジオ・アルバム「Loving In Stereo」だ。


ジャングルは、ロンドンを拠点に活動するジョッシュ・ロイド・ワトソンとトム・マクファーランドを中心に結成された現在は7人組のグループとして活動するネオソウルプロジェクトであるが、デビュー作「Jungle」をリリースし、この作品が話題沸騰となり、イギリスを中心にヨーロッパのダンスフロアを熱狂の渦に巻き込んだ。「Jungle」はマーキュリー賞の最終候補にも選ばれた作品だ。


オアシスのノエル・ギャラガー、ジャミロクワイもジャングルの二人の音楽性については絶賛していて、リスナーだけではなく、ミュージッシャンからも評価の高いジャングルの音楽が人気が高い理由、それは、往年のディスコサウンド、EW&Fを始めとするソウル、ファンカデリックのようなPファンクを、アナログレコード時代のノスタルジアを交え、巧みなDJサンプリング処理を交えて、現代人にも心置きなく楽しめる明快なソウルミュージックを生み出しているからなのだ。


2021年リリースされた最新作「Loving In Stereo」でもJungleのリスナーを楽しませるために一肌脱ぐというスタンスは変わることはない。人々を音で楽しませるため、気分を盛り上げるため、ロイド・ワトソンとマクファーランドの二人は、このアルバム制作を手掛けている。もちろん、彼らの試みが成功していることは「All Of The Time」「Talking About It」「Just Fly,Dont'Worry」といったネオソウルの新代名詞とも呼ぶべき秀逸な楽曲に表れているように思える。


もちろん、Jungleは知名度、商業面でも大成功を収めているグループではあるが、話題ばかり先行するミュージシャンではないことは、実際のアルバムを聴いていただければ理解してもらえるだろうと思う。ブンブンしなるファンクの王道を行くビート、そして、分厚いベースライン、ヒップホップのDJスクラッチ的な処理、これらが渾然一体となった重厚なグルーブ感は実に筆舌に尽くしがたいものである。それは、言葉で語るよりも、実際、イヤホン、ヘッドホン、スピーカーを通してジャングル生み出すグルーヴを味わう方がはるかに心地よいものだといえる。


「Loving In Stereo」にあらわれている重厚なグルーヴ、低音のうねりと呼ぶべきド迫力は、EW&Fやファンカデリックといったアメリカ西海岸の先駆者に引けを取らないものであるように思える。そして、彼らのそういった先駆者たちへの深い敬意がこの作品に込められているのである。 

 

 

  

 

 






・James Blake 

 

「Friends Break Your Heart」 Polydor


 


Friends That Break Your Heart  

 


ジェイムス・ブレイクは、インフィールド・ロンドン特別区出身のソングライターである。デビュー作「James Blake」で前衛的なプロダクションを生み出し、鮮烈なるデビューを果たし、一躍、UKのミュージックシーンのスターダムに躍り出た。


その後、ブライアン・イーノ、ボン・イヴェールといったUKきっての著名なミュージシャンだけでなく、RZAやトラヴィス・スコットといったアメリカのラッパーと深いかかわりを持ってきたミュージシャンであるため、電子音楽、ヒップホップ、ソウル、単一ジャンルにとらわれない、幅広いアプローチを展開している。


ブレイクの新作「Friends Break Your Heart」は今年の問題作のひとつ。アルバム・ジャケットについては言わずもがなで、賛否両論を巻き起こしてやまない作品である。SZAやJIDといったラップアーティストとのコラボについても話題性を狙っているのではないかと考える人もいらっしゃるかもしれない。


主要な音楽メディアは、このアルバムについてどのような評価を与えたのかといえば、イギリスのNMEだけは、このアルバムに満点評価を与えた一方、きわめて厳しい評価を与えたメディアも存在する。


それは、このアルバムがブレイクの告白的なコンセプト・アルバム、文学でいえば、フランスのルソーの「私小説」に近いニュアンスを持った作品であるからだろう。もしかすると、この点について、多くの音楽メディアは、なぜ、ジェイムス・ブレイクのようなビックアーティストが今更個人的なことについて告白する必要があるのか、と、大きな疑問を持つのかもしれない。ブレイクならば、もっと社会的な問題を歌うべきだ、と多くのメディアは考えているのかもしれない。

 

しかし、本当にそうだろうか。必ずしも、大きな社会的な問題を扱うだけがアーティストの役割とは言えない。

 

つまり、そういった社会の常識に追従しない気迫をジェイムス・ブレイクは本作において示しているように思える。それは、リスナーとしては、とても心強いことであり、なおかつ頼もしいことなのだ。さらに、好意的にこのアルバムを捉えるなら、この作品はPVを見ても分かる通り、いかにもこのアーティストらしい、個性的なユーモアが込められていることに気がつくのだ。


それは、明るい意味でのユーモアというより、ブラックユーモアに近いものなので、ちょっとわかりづらいように思える、イングリッシュ・ジョークに近い、暗喩的ニュアンスが込められているのである。


しかし、「自分の代替品はいくらだってある」と、自虐的に歌うブレイクだが、ラストトラック「If I’m Insecure」では、その諦めや絶望の先に希望を見出そうとしている。つまり、この作品を、寓喩文学に近い側面から捉えるなら、全体的な構成として、暗鬱な前半部、そして、明るい後半部まで薄暗く漂っていた曇り空に、最後の最後になって、神々しい明るいまばゆいばかりの希望の光がほのかに差し込んでくる、それが痛快な印象をもたらすわけである。


つまり、コンセプトアルバムとして、この作品には、ジェイムス・ブレイクの強いメッセージが込められている、生きていると辛いこともあるけど、決して諦めるなよ、という力強いリスナーに対する強いメッセージが込められているように思える。そういった音楽の背後に漂う暗喩的なストーリにNMEは気がついたため、満点評価を与えた(のかもしれない)。個人的な感想を述べるなら、本作は「Famous Last Word」をはじめ、ネオソウルの新しいスタイルが示されているレコードで、ジェイムス・ブレイクは新境地を切り開くべく、ヒップホップ、ソウル、エレクトリック、これらの3つのジャンルを中心に据え、果敢なアプローチ、チャレンジを挑んでいる。


それは、既に国内外でビックアーティストとして認められていながら、この作品を敢えてカセットテープ形式でのリリースを行うというアーティストとしての強い意思表示にも表れている。


つまり、どこまでもインディー精神を失わず、現在まで活動をつづけているのがジェイムス・ブレイクの魅力でもあるのだろう。 

 

 

 

 


 

 


 


・ Hiatus Kaiyote

 

「Mood Valiant」 Brainfeeder

 

 


Mood Valiant  


 

ハイエイタス・カイヨーテはオーストラリアを拠点に活動するネオソウル・フューチャーソウルの代表的なグループである。


この作品は2020年からレコーディングが始まったが、途中、このグループのヴォーカリスト、ナオミ・ネイパームが乳がんに罹患し、その病を乗り越えてなんとか完成にみちびかれた作品ということから、まずこの作品に対し、そして、このヴォーカリストに対して深い敬意を表しておかなければならない。さらに、2つ目のパンデミックという難関を乗り越えて完成へと導かれた作品でもあることについても、同じように深い敬意を表して置かなければならないだろう。


しかし、そういった作品の背後にあるエピソードを感じさせないことが「Mood Valiant」という作品の凄さとも言える。


本作では、ポップ、ソウル、ヒップホップ、エレクトロニック、チルアウト、ローファイ、これらの音楽性が渾然一体となり、ひとつのハイエイタス・カイヨーテともいうべきミュージックスタイルが確立された作品である。


長い期間を経て制作されたアルバムにもかかわらず、時の経過を感じさせないタイトで引き締まった構成力が感じられる。そこに、ネイパームの渋みのあるヴォーカルがアルバム全体に絶妙な艶やかさ、色気とも呼ぶべき雰囲気をそっと静かに添えている。もちろん、そのヴォーカルというのは、このアルバム制作期間において自身の病を乗り越えたがゆえの本当の意味での強い生命力が込められているのだ。


そして、ハイエイタス・カイヨーテがオーストラリア国内にとどまらず、世界的な人気を獲得し、グラミー賞にも、当該作がノミネートされている理由は、トラック自体のノリの良さに加え、その中にも深い味わい、一種のアンビエンス、ソウルという表現性を介してのメロウな雰囲気をもつ、秀逸なソウルミュージックを生み出しているから。そして、表向きの音楽性の中に強いソウルミュージックへのハイエイタス・カイヨーテの滾るような熱い気持ちが表された作品ともいえる。  

 

 

  

 


 

 

 

 


・Mild High Club 

 

「Going Going Gone」 Stones Throw



 


Going Going Gone


マイルド・ハイ・クラブはイリノイ州シカゴを拠点とするサイケデリックポップ・グループである。表向きにはローファイ寄りのロックバンドではあるものの、このバンドの音楽性には、ほのかにソウル、R&Bの雰囲気が漂っているため、モダンソウルの枠組みの中で紹介しておきたいバンドでもある。


「Going Going Gone」は近年、LAを中心に盛んなリバイバルサウンド、ローファイ感を前面に打ち出したモダンな作品といえる。


この作品の良さ、魅力については、「雰囲気の良さ」という一言で片付けたとしてもそこまで的外れにはならないと思える。


それに、加えて、MHCの生み出すメロウなメロディは、コアなリスナーに一種の安らいだ時間を与えてくれるはず。


しかし、もうひとつ踏み込んで、マイルド・ハイ・クラブの音の魅力を述べるならば、彼らの音楽のフリークとしての表情、矜持とも呼ぶべきものが、これまでの作品、そして、最新作「Going Going Gone」に表れ出ていることであろう。それは、俺たちは他のやつらより音楽を知ってるんだぜ、という矜持にも似た見栄とも言える。


無論、マイルド・ハイ・クラブの音楽性はお世辞にも、それほど、上記の作品ほどには存在感があるわけではないけれども、彼らの音楽に深い共感を見出すリスナーは少なくないはずである。

 

いわば、「レコードマニアが生み出したレコードマニアのための音楽」と喩えるべきフリーク性がこの作品には発揮されていて、それが音楽ファンからみても、とても頼もしくもあり、痛快でもあるのだ。


また、それは、別に喩えるなら、アナログレコードプレーヤーに針を落とし、実際にノイズがぱちぱち言う中、音がゆっくり流れ始める、あの贅沢で素敵なタイムラグ、そういったコアな音楽ファンのロマンチズムが、このアルバム全体にはふんわり漂っている。マイルド・ハイ・クラブの音楽に対する尽きせぬロマンチズム。


その感覚というのは、何故かしれないが、実際のサイケデリック寄りの音楽を介し、心にじんわりした温みさえ与えてくれるのである。