Owen

 

 

オーウェンは、シカゴ出身のインディー・ロックシーンの大御所、マイク・キンセラのソロ・プロジェクト。マイク・キンセラの音楽活動の原点は1980年代後半、Cap ’N Jazz、American Football、Jane Of Ark、Owls、Their/They're/There、といったシカゴの伝説的なインディーロックバンドで研鑽を積んだ後、キンセラが辿り着いたアコースティック・プロジェクトです。

 

オーウェンは、2002年にセルフタイトル「Owen」をPolyvinyl Recordsからリリース。マイク・キンセラは、自身のメインプロジェクト、アメリカン・フットボールの活動が休止されている間、このソロ・プロジェクトの活動をしぶとく続け、2021年までに九作のスタジオ・アルバムを発表しています。


オーウェンは、ソングライティング、レコーディング、総合的なアート・ディレクションをまとめ上げるのを目的としており、音楽性については、基本的に、アコースティックギターを介し、コンテンポラリー・フォークに近い叙情的なアプローチが採られています。

 

楽曲中において、マイク・キンセラは、自分の家族との人間関係、個人的な体験について焦点を絞り、歌詞を生み出しています。

 

オーウェンでのマイク・キンセラのアプローチは、表面上においては、穏やか、和やか、ゆったりとしているものの、又、時に、知的で、機知に富み、生々しく、真理を抉るような鋭さを併せ持っているのが特徴です。




「Live At The Lexington(Complete Collection)」 Polyvinyl 

 



 

Scoring 





Tracklisting 

 

1.Lovers Come and Go

2.Where Do I Begin?

3.Oh Evelyn

4.Nobody's Nothing

5.Love Is Not Enough

6.Saltwater

7.The Ghost of What Should've Been

8.The Sad Waltzes of Pietro Crespi

9.The Desperate Act

10.Playing Possum for a Peek

11.Too Many Moons 

12.Lost

13.An Island


 

「Live At The Lexington (Complete Collection)は昨年12月21日にリリースされたライブアルバム。


このアコースティックライブ音源は、2019年のイギリス、ロンドン、ペントンヴィルにあるレキシントンというパブで録音された作品となります。アルバムとして収録されているのは、オーウェンの既存の発表曲のレパートリーで占められ、ファンにとってはお馴染み「The Ghost of What Should've Been」「The Sad Waltzes of Pietro Crespi」といった楽曲も演奏されています。この録音が行われたのは、パンデミックが発生する以前で、人との距離を獲るとか、マスクをするとか、そういった社会的な驚愕するべき出来事が起こる以前に録音された作品です。 

  

 

 

サブスクリプション配信においても再生数がガンガン上がっているわけではないので、さほど話題になっている作品とは言い難いですけれど、エモというジャンルを考えてみれば当然かもしれません。皆が聞く音楽に飽きて、さらに奥深い音楽を探す人のための音楽が、エモというジャンルの醍醐味です。

 

もちろん、この作品には、そういったエモファンの期待に添うような素晴らしい楽曲が並んでいます。


「Live At The Lexington」で聴くことが出来るのは、マイク・キンセラの演奏の生々しさ、スタジオ・ライブのような演奏の近さ。アコースティックギターのみのライブでありながら、いかにもライブだという感じの迫力が宿っているのが、このアルバムの魅力でもある。

 

何と言っても、今考えてみれば、観客とアーティストの距離の近いライブというのは、現在、希少価値があり、平然とした時代の温和さを懐かしんでみるのもありです。


ライブは、マイク・キンセラとイギリスの観客の間に、別け隔てのない温和な空気が流れ、時に、アーティストと観客の些細な会話のやりとりにより、観客と空気感を大切にして楽曲が穏やかに進行していきます。

 

特に、そのハイライトと呼べるのが「The Ghost of What Should've Been」でのキンセラとイギリスの観客のやり取り。

 

曲のイントロが始まると、ある観客が「プレミアリーグのお気に入りのチームを聞かせてくれ!!」とキンセラに呼びかけるあたりが謎めいていて最高に笑える。はっきり言って、なんでいきなり、プレミアリーグの話を持ちかけたのか謎めいてますよね。他の観客も、その謎めいた野次に対して、おっかなびっくりというべきか、「おい、やめとけよ、やめとけよ!!」というニュアンスの苦笑を漏らしています。


この観客の問いかけに対して、マイク・キンセラはマイク越しに苦笑しつつ、何と答えようかと迷ったあげく、最後に「フットボール!!」と投げやりに叫ぶだけなのが微笑ましいです。

 

こういったライブパフォーマンスは、他のライブパフォーマンスではなかなか味わえないものでしょうし、即効性とか刺激性とかインスタントな音楽とはかけ離れた観客との心の距離を何より大切にした貴重なライブアルバムと言えるはずです。


他の主要な音楽メディアでは取り上げられていない作品ではありますが、長く、ゆっくり聴ける、渋い作品として、ご紹介しておきます。

 

 

 

・Apple Music Link

 



 現在アメリカを拠点に活動する日本を代表する四人組ポスト・ロック、インストゥルメンタル・ロックバンド、MONOが三曲収録のLP盤「Scarlet Holiday」のリリースを、temprary residenceを通じて発表致しました。

 


 

 

このEPリリースに先駆けて、MONOは、12月25日、二曲入りの先行シングルを配信サイトBandcamp上で発表しています。

 

EP発売の先行として2曲のシングルがリリースされたのは、COVID-19のパンデミックが起きた際に、MONOのメンバーがクリスマス休暇のために特別な小さな贈り物をすることを強いられたと感じたため。このリリースに際してのMONOからのメッセージは、とてもシンプルなものでした。

 

「 私達、MONOは、新年にむけてのすべての人々の健康、幸福、そして、元気を祈っています」

 

元々、Bandcanp上で12月25日にリリースされたデジタル配信の先行シングル「Scarlet Holiday」は、ホームレコーディングとして制作された作品。「Scarlet Holiday」「First Winter」の二曲で構成されています。現在、MONOは、新たな三曲収録のEP(「Epilogue」を含む)を新たに作り直しているようです。


ホームレコーディングされたEP「Scarlet Holiday」では、長年MONOとの共同制作者として知られているUSインディーロックの帝王、スティーヴ・アルビニがレコーディング・エンジニアを務めたほか、シカゴのToroiseのドラマー、ジョン・マッケンタイアがミックスを手掛け、さらに、フリートウッド・マックのギタリスト、ボブ・ウェストンがマスタリングを担当しています。

 

EP「Scarlet Holiday」の作品コンセプトについて、MONOは以下のようなコメントを付け加えています。

 

「これらの曲は、これまでの世の中に起きた数多くの予測しがたい暗闇に対し、新たな年に向けて、新たな希望を持つという考え方を投げかけるために書かれたものです」


また、1月12日には「Scarlet Holiday」が収録されたシングルが先行リリースされています。既に宣伝用のディーザー映像が公開されております。是非、御覧下さい。

  

 



Dr.Martens




 

 

モッズ、パンクロックの象徴としてだけではなく、VOGUEのファッションショーにも取り入れられた歴史を持つDr.Martens。現在、ドクター・マーティンはセールス堅調で、根強い人気を誇る革靴です。


ゴムソールという動きやすさを追求した画期的なブーツは、どのように生まれたのでしょうか、ドクター・マーティンが市場に流通するようになっていったあらましを今回追っていきます。

 

 

戦後の混乱の時代

 

そもそも、ドクター・マーティンは、現在、革靴生産の盛んなノーサンプトンシャーのシューメイカーとなっていますが、起源は第二次世界大戦後に求められます。当時、ドイツの軍医であったクラウス・マルティンス博士が1945年の休暇中、バイエルン地方のアルプス山脈でスキーをしていた際、足首に怪我を負った。彼は、その後、軍から支給されたミリタリーブーツは、自分の怪我をした足には適さないことに気が付きました。なにせ、当時の革靴の素材といえば、どれだけ履きつぶしても壊れない頑丈さを重視していたため、固く、重く、あるきにくい素材が主流だったのです。そこで、マルティンス博士は、怪我から回復する間、柔らかい靴底のゴムソールと空気を取り入れるためのホールを設けたブーツを生み出そうという計画を立て始めたのです。


高価な皮革の原材料の問題について、マルティンス博士は濡れ手に粟といった形で獲得してみせます。第二次世界大戦後の混乱の中で、ミュンヘンでは、ドイツ人の貴重品掠奪が始まった際、マーティン博士はチャンスを見出し、廃材中からゴムや革の素材を廃屋となった靴屋から奪取する。革の素材を用い、現在、有名なエアークッションの効いたゴムソールと組み合わせ、マルティンス博士は改良を重ねながら、新しいブーツを生み出しました。これがドクター・マーティンの始まりでした。

 

マルティンス博士は、この革靴を個人的なものにするだけではなく、一般の人々にも履いてもらいたいと考え、このブーツの製品化の計画を立てはじめました。 その後、彼はミュンヘンで大学時代の旧友だったハーバート・フンクに再会を果たす。この時、マルティンスはもの試しと新たな革靴をフンクに紹介しました。たちまち、フンク博士も、友人の制作した革靴に興味をそそられ、開発に協力し、尽力するために手を貸す。二人は、ドイツ空軍飛行場から廃棄されるコムタイヤを原料にして、ドイツのゼースハウプトにて、本格的なブーツの生産に乗り出します。


マルティンス博士とフンク博士

 

マルティンスとフンクは、1947年に正式な靴生産を開始し、クッション性に優れたゴムソールを生み出し、この製品はミリタリーブーツしか履いたことがなかった主婦や年配の女性の間で人気が高まり、次の十年間において、ドクターマーティンはビジネスとして、急激な成長を遂げていきました。最初の十年間のドクターマーティンの売上は、意外なことに、その80%が40歳以上の女性で占められていた。これらの人々は、頑丈で、軽く、動きやすい革靴を求めていたのです。

 

 

グリッグ社の買収、さらなる事業拡大 

 

ドクター・マーティンの売上は1952年、ミュンヘンに工場を開くほどに増大。1959年には、マルティンとフンクの両博士が、国際的な製靴市場を視野に入れる規模に成長した。マルティンは、この後、さらなる事業拡大を視野に入れ、ヨーロッパ中の雑誌で、マルティンスの靴の大々的な宣伝を打ち、ドクター・マーティンの名を広める。

 

同時期、イギリスの主要な靴製造メーカーであったR・グラッグス・グループLtd(当時、グリッグスは、英ノーサンプトンシャー州のウォラストンという街で創業したシューメイカーで、55年の長い歴史を持ち、頑丈なワークブーツを生産することで確固たる評判を獲得していた)のグリッグス社長が、ドクター・マーティンの雑誌広告に着目し、企業買収へと乗り出した。その後、グリッグLtdはイギリスでの特許権を所得。同時にドクター・マーティンのネームライセンスを買収した。

 

Griggs Ltdとの契約 マルティンス博士は左から二番目


 

買収後、グリッグは、ドクターマーティンの靴のデザインをそのまま採用し、フィット感を改良し、かかとを丸みを帯びた球根上のアッパーを追加し、現在の商標である対象的な黄色いステッチを施し、靴底をエアーウェアーという名称で商標登録を行った。グリッグは、1960年に、ドクター・マーティを伝説的な8ホールブーツ、「1460」として英国内で大々的に紹介し、このメーカーの代名詞的なモデルとなった。

 

 

8ホールブーツ、「1460」


「1460」は、1960年4月1日に、現在も稼働しているノーサンプトンシャーの工場で最初に生産された。この製品は、当初、イギリス国内で、二ポンドの低価格で売り出された。ドイツでは、主婦層に人気であったのに対し、イギリスでは、郵便局員、警察官、工場労働者など男性の労働者階級の間で大きな人気を博しました。

 

 

 

サブカルチャー、反逆の象徴としてのドクター・マーティンの浸透


最初に、このドクターマーティンを音楽業界にもたらしたのは、モッズシーンの代表格ともいえるザ・フーのギタリストであるピート・タウンゼントだった。彼は、ビートルズのはきこなしたチェルシーブーツよりも動きやすいライブ向きの革靴を探していたところ、この8ホールの「1460」を見つけて購入した。ピート・タウンゼントは、このドクター・マーティンを最初にライブステージ上では着こなした人物で、見事なジャンプをしている写真も残されています。

 

The Who Pete Townshend


 その後、スキンズと呼ばれるサブカルチャーがロンドンを席巻した時、ドクター・マーティンは、労働者階級のユニフォームの一部として取り入れられていく。ドクター・マーティンはパンクロックの若者のアイコン、特に、スキンズ、ハードコア・パンクの象徴と変化していきます。1970年頃になると、イギリスのパンクロックスターの間で人気を博し、彼らの取り巻きもこのドクター・マーティンを履き好むようになりました。この1970年代当時、特に、「God Saves The Queen」でおなじみのSex PistolsのSid Vicisio、「London Calling」でおなじみのThe Clashのジョー・ストラマーが、ドクター・マーティンを履き好んでいたようで、

 

The Clash

 

黒いライダースの革ジャンとともに、ドクター・マーティンの革靴をパンクロックのシンボル的な存在に引き上げています。また、ドクター・マーティンの名は、アレクセイ・セイルの歌の題名にも使われ、スカバンド、Madnessの「The Business」のカバーアートにも登場するようになります。

 

 

いわば、この1970年代のロンドンにおいて、ドクターマーティンとパンクスの若者は、深い関係を結び、靴をカルチャーの一部としてファッションを取り込んでいったのです。すぐに8ホールの1460と呼ばれるブーツは、デニムやスタプレストのズボン、ボタンダウンジャケットと組み合わさって、スキンヘッド文化の象徴ともなっていきます。1970年代後半になると,セックス・ピストルズを始めとするパンクバンドが挙って、大手のメジャーレーベルと契約を果たし、スターミュージシャンとなったのが要因となり、サブカルチャーとしての文化が急速に衰退していきます。

 

それに伴い、パンク文化は急速に衰退し、The Exploitedはそれを嘆き、「Punks Not Dead」と歌うようになりますが、ドクター・マーティンは、パンクロック文化はその後も、スキンズの復活、グラム・ロック、ゴス、ニューロマンティックらのバンドのファッションとして継承されていきます。そして、ひとつ重要なことは、これらのイギリスの若者がドクターマーティンを革ジャンとともに愛用しまくっていたのは、おそらく、このファッションアイテムを社会にたいする反逆の象徴としてみなし、その概念に、若者として、大きな賛同をしめしていたからなのです。

 


ドクターマーティンとグランジ


1980年代になると、ドクター・マーティンは、イギリスの若者文化と労働者階級の象徴として認めらました。当時、保守党が提案した緊縮財政と社会改革は、イングランド国内において、多くの不安と多くの若者たちの反感を巻き起こす。

 

そんな中、ロックンロールに代わるオルタナティヴロックがミュージック・シーンを席巻するようになる。そして、このことは海を隔てて遠く離れたアメリカも全然無関係ではなかったのです。いつしか、ドクター・マーティンはその反骨精神という概念を携えて、シアトル、アバディーンを中心に形成されたグランジシーンのバンドのファッションに取り入れられていくようになりました。

 

これらのグランジロックに属するアーティストは、そのほとんどがパンクロックにルーツをもち、好んでドクター・マーティンを履きこなして、アメリカにおけるドクター・マーティン人気に拍車をかけました。

 

Alice In Chains

 

 

メルヴィンズ、アリス・イン・チェインズ、パール・ジャム、サウンドガーデン、これらの1980年代のアメリカのロックンロールにノーを突きつけ、暗鬱で重苦しい雰囲気を持ち、不敵な雰囲気をたずさえたロックバンドたちが、アメリカのインディーロックシーンを席巻していく中、ドクター・マーティンは、これらのグランジアーティストのファッション面で重要な役割を果たし、アメリカにとどまらず、世界的な資本主義社会の完全な行き詰まりを暗示した1990年代のグランジロックの重要な概念のひとつである「敗者の子供」の美学と調和を果たしながら、この年代を通して、アメリカでのドクター・マーティン人気を高めていったのです。

 

 

近年のドクター・マーティンの事業

 

1990年代になっても、ドクター・マーティンは根強い顧客を持ち、高い収益率を保持するシューメイカーであることに変わりはありませんでした。ドクター・マーティンは、ロンドンのコベントガーデンに六階建てのデパートを持ち、毎年1000万ペア以上の靴を製造する生産ラインを所有していました。

 

しかしながら、2000年代前後、ミレニアムの変わり目に収益が落ち込み、2003年に利益が著しく急落し、破産申請を行っています。その後、ドクター・マーティンは、イギリス国内で1000人規模の雇用者を削減し、生産コストを極力抑えるため、ドクター・マーティンの主要な生産工場を、イギリス国内から、タイ、中国に移行しています。

 

この動向に関しては、 これまでのメーカーの理念、英国のミッドランドの中心部で作られた純英国製の高い品質のブーツを顧客に提供する、というドクターマーティンの考えにそぐわないものでしたが、これはこのメーカーの生き残りをかけて選択された苦渋の決断のひとつといえるでしょう。

 

その後、ドクター・マーティンはかつてのような勢いを取り戻し、2010年代には売上が再上昇。2021年現在も数々のコレボレーション企画のドクターマーティンモデルを発売しyたりと数々の試行錯誤を重ねながら、安定した販売数を獲得。 その中のコラボレーションの何はYohji Ymamoto,Nepenthes,Suprem Bathing Apeといった素晴らしいデザイナーが並んでいます。

 

また、近年は復刻版のクラシックモデルのDr.Martensの生産も行われています。1960年代のDr.Martensのモデルの再現に焦点を絞った「The Vintage Collection」、またオリジナルのR。Griggのスペシャルコレクション「Made In Rngland」など、現在も魅力的な製品ライナップが展開されています。

 

パンクロックの反逆の象徴としてでだけではなく、近年には、デイリーカジュアルとしても普及しているドクター・マーティン。その魅力は、実際に履いてみてこそ分かるといえるかもしれません。


NYのCaptured Tracksのレーベルの代名詞的存在、モリー・ハミルトンとロバート・アール・トーマスからなるWidowspeakが6作目となるスタジオ・アルバム「The Jacket」のリリースをアナウンスしました。この作品はこれまでと同様、Captured Tracksから3月11日にリリースされる予定です。




 

これに先駆けて、Widowspeakは先行シングル「Everything Is Simple」のミュージックビデオが公開、シングル盤も1月5日に発表されています。MVの撮影はOTIUMが担当、ストリーミング配信されています。

 

この新作アルバム「The Jacket」は、プロデューサーにHomer Steinweissを抜擢し、コンセプト・アルバムとして録音制作されています。今回の作品では、本来、デュオとしての活動するウィドウスピークがバンド単位で演奏を行い、既存のレコードよりも分厚いグルーブ感に彩られています。新作のレコーディングには、Robert Earl(ドラム)、J.D.Summer(ベース)が参加、それに加えて、キーボード奏者のMichael Hessがピアノの録音を、バンドに提供しています。

 

 

先行シングルとして発表された「Everything Is Simple」は、ミニマルミュージックとカントリーグルーヴをかけ合わせたインディーロックソングで、新作アルバム「The Jacket」の発売への期待感を掻き立てる。Widowspeakは「Everything Is Simple」について、以下のように説明しています。

 

 

「人間関係にせよ、計画にせよ、仕事にせよ、環境にせよ、何らかの新しい物事に接する際には、私達は、それに対して、非常に純粋な感覚を抱き、その対象物をフラットな眼差しで眺めます。

 

なぜなら、私達の意識は常に、その対象、その対象が引き起こす未来の可能性に向けられているため、物事を複雑化して思考することはないからです。常に、結果は未定義であり、私達は対象となる事物の問題を深淵まで把握していないため、対象とする物事や概念を理解しやすくなっているのです。

 

ところが、驚くべきことに、時間が経つにつれ、その様相は変化します。私達は、より多くのことを学び、より多くのことを経験していくにつれ、私達が、その物事に対して限界を自ら設けているということに気がつくのです。しかし、その限界というのは同時に、必ずしも私達に課せられたものでなく、また、避けがたい真理として措定されたものでもなく、実は、私達自身がその限界という概念をみずから生み出し、線を引いているだけなのだということに気がつくのです。

 

多分、その足かせ(観念や価値観、生きていくうちに培われた固定概念)のようなものが、自分の行動の妨げとなっているということに気が付き、その瞬間、以前の考えがすべて過去のものとなり、その概念が消滅するまではずっと、あるいは、それ自体が完全な虚妄であったということに気がつくまでは絶えず、私達は、自分を妨げていた何かを見ることもできないばかりか、他の人の考えと、私達自身の考えは、常に、矛盾し、いよいよ食い違っていくばかりでしょう。

 

 Widowspeakは以下のように続けている。

 

「Everything Is Simpleは、空想のバンドの物語のために取り入れられる予定でしたが、 実は、他方、この曲は私達二人のバンドについて、暗示的に歌われている楽曲でもあるのです。私は、よく、これまでの人生において、自己に内在する本質的に信頼できぬもうひとりの語り手(自分の内在する観念というもうひとりの自己の姿)についてよく考えを巡らせることがありました。

 

実際、結論としては、何一つとして、本当の物語なんていうのは、この世にはひとつも存在しないのかもしれません。

 

 

また、新たに撮影されたシングル「Everything Is Simple」のミュージックビデオは、OTIUMによって撮影されました。今回、映像監督をつとめたOTIUMは、以下のようなコメントを発表しています。

 

 

「概念というのは、常に、アイディアそのものを、実際に幾度か試してみることにほかなりません。

 

たとえ、もし、人生の結果としての到達点が、あらかじめ想定していた場所とは全然異なってしまったとしても、(たとえ、ロデオのように危険な目にあったとしても)何かを獲得しようと、もがきながら格闘したこと、そのことに、人生の大きな価値が見いだされるのです」

 

 

 


 

Widowspeakのリリース情報の詳細につきましては、captured tracksの公式HPをご覧ください。


https://capturedtracks.com/


1.プリンス誕生

 

 

ミネアポリスサウンドの原点はどこにあるのか?

 

 

Prince ‘purple rain’"Prince ‘purple rain’" by Stephen Alan Luff is licensed under CC BY 2.0

 

 

通称プリンス、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、アメリカ、ミネアポリスが生んだ最大のロックスターです。いわゆる、ミネアポリスサウンドの立役者といわれており、ロック、R&B、電子音楽、はてはヒップホップまでを取り込んだ、クロスオーバー・ミュージックの元祖ともいえるアーティストです。ここでは、プリンス・ロジャーズ・ネルソンのメジャーデビュー迄の道のりについて大まかに記していきます。


 

プリンスは、1958年6月7日、アメリカ、ミネソタ州ミネアポリスに生まれました。 プリンスという名は、後のミュージシャンとしての名でもあり、また、両親が彼に授けた本名でもあります。この王子という名はそもそも父親のジャズグループから取られたもので、ジョン・ルイスの思い、息子に素晴らしい音楽家になってもらいたい、という悲願が込められていたのです。

 

プリンスの両親、特に、父親のジョン・ルイス・ネルソン(John L Nelson)は、ジャズ演奏家として活躍した存在でした。1950年代、ジョン・ネルソンはピアノを弾き、ノースサイドのクラブやコミュニティセンターで演奏するジャズグループ、プリンス・ロジャー・トリオを率い、ストリップクラブの舞台裏でギグをし、ミュージックシーンで名をはせていました。ルイス・ネルソンは、フィリス・ホイートリー・ハウスと呼ばれる場所で、後にプリンスの母親となるマティー・デラ・ショーと出会い、彼女を自分のバンドで歌うように言った。その後、彼らはこの音楽グループの活動を通じて仲を深めていき、それは、ロマンチックな意味を持つに至る。後、ジョン・ルイス・ネルソンは1957年8月31日にデラ・ショーと結婚、その数カ月後に息子プリンスを授かる。

 

若い時代の最初の記憶について、プリンスは、晩年になって手掛けたこのように記しています。

 

「私達が住んでいた家には、 プリンスと呼ばれる存在が、実は二人いたんです。家計を率いるすべての責任を負っている年配の人間、そして、素行だけが面白い年下の人間」

 

プリンスは、家族内で”スキッパー”という愛称で親しまれ、上記のプリンス自身の言葉からも、家庭の中でも活発な気質をもつ子供であった。彼は、特に父親のルイス・ネルソンのピアノの演奏に触発され、父親からピアノ演奏の手ほどきを受けたようですが、ジョン・ルイスほどにはピアノは上達しなかったようです。また、プリンスは、幼い時代に、小児性てんかんを患っていましたが、成人する頃になると、その病を克服しています。後のプリンスの派手なパフォーマンスやステージングについては、この幼少期に培われた暮らしによるものが大きいようです。後に、ルイス・ネルソンとデラ・ショーは7歳の頃に離婚し、プリンスは父親方に引き取られます。

 

プリンスは、学生時代、ミネアポリス中央高校に通い、様々なスポーツに親しむようになります。サッカー、バスケットボール、野球をプレイし、中でも、バスケットボールに夢中になった。一度は、プロ選手になることを夢見ますが、身長が5フィート1インチという小柄な体格であったため、その道を断念する。

 

彼は、この後に、ジャズプレイヤーであった父親と同じように、ミュージシャンとしての道を歩むようになります。ハイスクール時代の二年生の半ば、プリンスはバスケットボールを辞め、音楽室でのジャムにあらゆる時間を捧げるようになる。しかし、彼は他の音楽好きの生徒のように、スクールバンドに参加したり、正式なレッスンを受けることはしなかった。それどころか、なんらかのグループに入ったり、体系的な音楽教育を受けることに対して嫌悪感を抱いていたようです。

 

このとき、プリンスは、楽譜が読めないミュージシャンとしての道、自由な気風のミュージシャンであることを選択した。この学生時代、プリンスは、さらに音楽にのめり込んでいき、あらゆる音楽を探求、吸収しようと、北ミネアポリスのAMラジオ曲KUXLでオンエアされているアーティストの楽曲、とりわけ、ジョニー・ミッチェル、マリア・マルダー、カルロス・サンタナ、そのほか、グランド・ファンク・レイルロード、スライ・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス。R&B,ソウル、ファンク、ロックを中心に聴いていたようです。

 

 この後、プリンスは、アンドレ・アンダーソン、そして、従兄弟であるチャールズ・チャズ・スミス、アンドレの妹であるリンダ・アンダーソンと協力し、”グランド・セントラル”という最初のミュージックグループを結成して、地元ミネアポリスを中心に、バンドとして活動をはじめています。


Grand Central



グランドセントラルは、近隣の対バンのショーケースで、悪名と自慢の程を競っていた。この頃の音楽活動について、ロジャー・ネルソンは、1981年になって、Aquarian Night Owlに以下のように語っています。

 

 

「私達は他のバンドと競い合うようにして活動していました。その理由は、同じようなバンドが地域内に混在していたからです。

 

多くの精神的なものが培われた時代でした。それは、私が自分自身から抜け出し、なにか新たな存在になり代わることに大変役立ったと思います。他のバンドから何かを模倣すると、大変な苦労を強いられましたし、コピーバンドに留まる事自体が困難だったのです。

 

本当に競争力というものが問われた時代だった。この時、私はできるだけ活動的になり、他の人と違った何かをせねばならず、そして、できるだけ多くの楽曲を積極的にプレイしなければならなかった。そうでなければ、音楽家として注目を浴びることすら出来なかったんです。

 


驚くべきことに、後に、世界的に有名となる”ミネアポリスサウンド”の萌芽は、このハイスクール時代に見いだされるわけです。ファンク、ロック、パンク、ディスコ、モダンミュージックとオールドミュージックのクロスオーバーサウンド。後の「パープル・レイン」や「1999」の時代に花開く、奇抜で斬新で艶やかなプリンスの音楽の雛形の原点は、この時代に求められるといえるでしょう。ハイスクールを卒業するまでに、プリンスはミネアポリスサウンドを開発し、そして、ミネソタからの脱出、さらに、世界的なミュージシャンとしてのスターダムへの階段を一歩ずつ着実に上っていた。そういった様子がこの時代のエピソードから明確に伺えるのです。

 

 

 

2.レコードデビューまでの足がかりを作る 

 

 

ミネソタとニューヨークの往復 

 

この頃から、ロジャーズ・ネルソンは、プロミュージシャンになるための目策を立て始めました。彼はレコード契約を結び、ヒット曲を生み出すためには、ミネアポリスから抜け出す必要があることを知っていました。
 
そこで、プリンスはハイスクールを卒業するまもなく、地元のソニー・トンプソンのバンド、ザ・ファミリー、グループ94イーストとのレコーディングセッションで得た資金を利用し、ニューヨークへの旅行計画を立てます。
 
 
Group 94 East

 
 
彼はこの計画を立ててからすぐに、ぺぺ・ウィリー、姉のシャロン・ネルソンと新天地に滞在、そしてレコード会社に自分自身の名を売り込むために、ニューヨーク市へのフライトを予約します。
 
 
しかし、ニューヨークに滞在していた頃、彼はコネクションを作るのに苦労し、容易にはレコードプロデューサーとの知己を得られずにいたようです。
 
 それから、プリンスは一度、ミネアポリスに戻り、クリス・ムーンと呼ばれる若いプロデューサーと一緒にデモテープを作製し、「Soft And Wet」という一曲を生み出します。プリンスはこの曲をライティングした際、すでにこの楽曲がミュージックシーンに強い影響を与えることを確信していました。
 
クリス・ムーンは、この楽曲「Soft And Wet」をオーウェン・ハズニーという著名なコンサートプロモーターに紹介し、プリンスという存在がいかに際立っているかを知らしめようとします。
 
 
 
Owen R.Husney 

 
 
すでに、音楽業界の大のベテランだったオーウェン・ハズニーは当時、ミネアポリスのローリングパーク地域で個人広告事務所を運営しており、なおかつまたレコードプロデューサーとしても活躍していて、何年にも渡り、数多くのデモテープを聴いて新人を発掘を行っていた人物です。
 
 
しかし、このプリンスのデモテープを聴いた瞬間、オーウェンは、凄まじい衝撃を受けたといいます。
 
このプリンスと名乗るハイスクールを卒業したばかりのアーティストが既存のミュージシャンとは全く逸脱した存在であることを見抜く。プリンスの提示する音楽は当時としてはあまりに革新的でした。
 
スライ・ザ・ファミリー・ストーン、ジミ・ヘンドリックス、サンタナ、といったファンクとロックの偉人たちを彷彿とさせ、ボーカルについても想像をはるかに上回り、強力でありながら繊細なファルセットが感じられたという。
 
オーウェン・ハズニーはプリンスの音楽を最初に聴いた時のことを、以下のように回想しています。
 
 
 
 
「ああ、これは何かが違う、すぐに気が付いた。私は楽曲「Soft And Wet」の再生を終えるや否や、デモテープを持参したクリスの方に向きなおった。
 
 
「ふうん。で、じゃあ、この曲は、どのバンドがやっているの?」と尋ねた。
 
 
クリスはこんなふうに言った。
 
 
「ああ、オーウェン。その曲を演奏しているのはバンドじゃあないんだ。そう、バンドではないんだ」

 
それで、私は釈然とせず言葉を継いだ。

 
「ああ。わかったぞ。これはスタジオ・ミュージシャンの集まりなんだな? うーん、でもなあ、私は正直なところ、スタジオ・ミュージシャンとは仕事をしたくないんだ。 なぜって彼らはツアーが出来ないじゃないか?」

 
「いや、オーウェン。本当に、これは、スタジオ・ミュージシャンが演奏しているわけじゃないんだよ。いいかい? 今から、僕が言うことをよーく聞いてくれ。この曲を演奏しているのは一人の少年だ。十八歳になったばかりのプリンスという少年だ。彼は、この曲のすべてを自分自身の手で演奏している。自分で歌い、すべての楽器を演奏しているんだ」
 
 
 
ミネアポリスの敏腕レコードプロデューサー、オーウェン・ハズニーのお眼鏡にかなったことにより、プリンスのレコードデビューへの道筋はついに開けたといえるでしょう。それから一週間程して、プリンスは、再び、ニューヨークからミネアポリスに戻る飛行機に乗り、ハズニーを介して、レコード契約を結ぶ。ハズニーは、プリンスと仕事を行い、ほとんど二十四時間体制で、彼の音楽活動をバックアップしました。それほどまでにこのプロモーターは、プリンスというもうすぐ18歳になろうかという年若い少年の音楽にただならぬ期待を寄せていたのです。
 
 その後、プリンスは、この専属に近い意義を持つレコード契約によって、アンダーソンズの地下室から、彼の地下室ともいえるミネアポリスのアパートメントを行き来しながら、楽曲の制作作業に専心する。
 
この頃、プリンスは、最初のプロミュージシャンとしての活路を見出すきっかけとなる知己を得ている。それが、”David Z”と呼ばれる、兄弟のミュージシャンでした。
 

 
David Zは、他でもなく、後に、プリンスの最初のレコード、「For You」リリースへの足がかりとなるデモテープ楽曲のエンジニアを務めたミュージシャンであり、ミネアポリスサウンドの原型を作ったプロデューサー、又は、立役者として、多くの人の記憶に残る必要がありそうです。

David Zのボビー・Z・リブキンは、ムーンサウンドスタジオ、そして、ハズニー広告代理店の双方に勤務していた人物で、プリンスのデビュー前の活動をサポートしていた重要な裏方ミュージシャンです。この後、プリンスのプロフィール用の写真撮影、また、彼のアーティストの予定を管理する専属マネージャーのような役割をも兼任し、また、実際に、バンドサウンドとしても重要な役目を果たし、プリンスのバンドで、ドラム演奏をするためのミュージシャンとして抜擢されています。
 
 
 
 

3. ワーナー・ブラザーズとの契約

 

 

デビュー・アルバム「For You」のリリース

 
 
David Z のボビーは、いざスタジオでプリンスとのセッションを始めると、とても18歳のアマチュアミュージシャンの若者とは思えないほどの演奏の熟練度に驚かされます。
 
 
 
プリンスがハズニーのオフィス内で楽器から楽器へと移動し、楽曲トラックのあらゆる要素を配置している時のことをこのように回想しています。
 

プリンスに出会った最初の一時間、私はどうしていたのかさえ覚えていない。ただ、私は目がくらみ、驚き、そして、彼の演奏に魅了されるだけだった。もちろん、あの時のことは、私にとって、生涯にわたり強い思い出として残っているんだ
 
 

夕方、プリンスは、オーウェン・ハズニーのオフィスでボビーと一緒にジャムセッションを繰り広げ、家具を演奏の邪魔にならぬように隅っこに押しやり、部屋のど真ん中にドラム、アンプリフターを据え置いた。朝日が昇ろうとする時、彼らは家具を元の位置に戻す必要がありました、なぜならそこは、他でもないオフィスであったからです。このようにして、ハズニーとボビーはプリンスに長い時間、プロレベルでの演奏をさせることで、プロミュージシャンになるための鍛錬の時を提供し、また、プリンスとジャムセッションを繰り返すことで、彼のレコードデビューの足がかりを作ったのです。


ミネアポリスのコンサートプロモーター、オーウェン・ハズニーは、プリンスのデビューへの機が熟したと見て、その道のりを開くためにロサンゼルスに向かう。ハズニーは、ワーナーブラザーズ、A&M、コロンビアとの会合を取り付けました。レコード会社側の反応は、軒並み好いもので、一週間以内に上記メジャー三社すべてが、プリンスと署名を行う最終決定を下しました。
 
 
その後一ヶ月以内に、オーウェン・ハズニーはこのメジャー最大手の三社の内から、ワーナー・ブラザーズを選択し、アルバム三作リリースの契約を取り付ける。オーウェンは間違いなく、プリンスという存在に、俳優としての潜在能力も見込んでいたため、ワーナーを選択したものと思われます。
 
 
そして、この時のオーウェン・ハズニーの決断は、のちのプリンスの自伝映画的な意義をなす「Purple Rain」、そして、サウンドトラックの商業的な大成功を見るかぎり、彼のこの時の決断は、疑いなくプリンスの明るい未来を約束したものでした。その後、トントン拍子で事は運んでいき、プリンスがワーナーのスタッフ20名との昼食会に参加した際、ついに、プリンス・ロジャーズ・ネルソンは、弱冠18歳という若さにして、ワーナーとの契約に正式に署名を果たす。この時のことについて、オーウェン・ハズニーは以下のような諧謔みを交えて回想をしています。
 
 
そうです。この時のワーナーブラザーズとの昼食会での契約は、確かに、プリンスの人生を変えた瞬間といえるかもしれません。しかし、はたから見てみれば、プリンスはこの昼食会を、それほど心から楽しんでいたようには見えませんでしたね。なぜなら、天性のスーパースターである彼にとっては、20人と昼食をともにするより、12000人の大観客の前で演奏をするほうが、はるかに心楽しいことであるはずなんですから


ほどなく、プリンスは他の殆どの言語よりも流暢な話法、つまり、メジャーレーベルとの契約に浮かれることなく、音楽制作に専心し、レコードデビューのために新しい曲を書き始め、レコーディングを開始します。
 
 
 
「I Hope We Work It Out」のプリンス直筆歌詞



このワーナーのスタッフとの重要な昼食会の後、プリンスは、ワーナーブラザーズの幹部をオーウェン・ハズニーのオフィスに連れていき、すでにデモテープとして完成していた「I Hope We Work It Out」を聴かせました。


この時、正式にアーティストデビューもしていない若者、プリンス・ロジャーズ・ネルソンの「I Hope We Work It Out」に接した時のワーナーブラザーズの幹部の驚愕について、オーウェン・ハズニーは、以下のように回想しています。
 
 
十八歳のまだ何者でもない若者が、レコードレーベルのために特別に楽曲を書いた、という事実に、誰もが感動を隠すことが出来なかったのを今でも覚えていますよ。なぜなら、この時、ワーナーのトップエグゼクティヴ達は、このプリンスという若者が音楽に対して、どれくらい信頼性があるのかを探りたかったのです。実際、「I Hope We Work It Out」のデモトラックによって、プリンスは自らのミュージシャンとしての実力にとどまらず、自分自身の実力以上の何かを彼らに提示することに成功したのです。もちろん、ワーナーの幹部が、この曲に真剣に聞いているのを眺めているのは、私の人生にとってもとても有意義な瞬間でもあったのです。
 
 
 
 ワーナーブラザーズから発売されたデビュー作「For You」は、1978年にリリースされました。 この時、プリンスは20歳でした。 
 
 
Prince 「For You」
Princeの鮮烈なデビュー・アルバム「For You」
 


 
デビュー・アルバムには、八曲のオリジナル曲に加えて、クリス・ムーンとのコラボレーション曲「Soft And Wet」が追加収録され、無事リリースに至りました。この作品は、ロック、ポップ、R&B、ファンクをクロスオーバーしたミネアポリスサウンドが一般に膾炙された瞬間といえます。勿論、このデビュー作「For You」はセールス面で、プリンスの後の代名詞となるスタジオ作「1999」や「Purple Rain」のような商業的な大成功を収めるまでにはいたりませんでした。しかし、それでも、「Soft And Wet」「Just Long As We're Together」の二曲がビルボード・ホット100にランクインを果たし、プリンスの存在感をアメリカのミュージック・シーンに力強く示し、のちのスーパースターへの最初の足跡を形作った瞬間でもあったのです。

Yard Act

 

 

2022年1月21日にアルバム「The Overload」を引っさげてデビュー目前のUK、リーズのポスト・パンクバンド、ヤード・アクトは、今年の新人の中でも最も未来を嘱望されているホットな四人組といえるでしょう。

 

そう。すでに、BBC Radio 1の「BBC Sound Of 2022」のロングリストに選出されているヤード・アクトは、2022年、デビューを果たすアーティストの中で、最も注目すべきアーティストであることは間違いありません。


ヤード・アクトは、ジェームス・スミス(ヴォーカル)、ライアン・ニードハム(ベース)、サム・ジシップストーン(ギター)を中心に、ヨークシャー州リーズで結成され、ジェイ・ラッセル(ドラム)を加えて、現在のラインナップに至っています。

 

ヤード・アクトのスポークンワードを紡ぎ出すジェームス・スミスは、かつてのUKのミュージックシーンのご意見番、ザ・スミスのモリッシー、レディオ・ヘッドのトム・ヨークと同じように、社会に対する英国の若者の声を代弁する存在です。彼は、社会的、政治的な灰色の影を探し求め、その物語に、風刺的なスポークンワードを吹き込んでいます。リーズならではのサウンドを構築しながら、地元のパブにいる田舎者、デスクワークに行き詰まった反資本家、我々全員の中に存在する、安易な加担や闘志の間で揺れ動いて疲れ果てた活動家、そういった、現代のイギリスの生活のあらゆる場面を音楽に結びつけています。しかし、それらの社会に内在する問題について、彼らは、後ろ指を指すのでなく、シニカルさを交えて表現しているのです。

 

ヤード・アクトは、ソングトラックの制作過程で、特に、アイディアに力を入れています。地元リーズのカジュアルなパブで知り合ったジェームス・スミスとライアン・ニードハムは意気投合したのち同居をはじめ、共に暮すことにより高い作業効率を維持し、デビュー前からプログラミング、ループ、レイヤリングといったマスタリングツールを介して、デモテープを制作していきました。

 

「ライアンはヴァイブスであり、僕はオーバーヘッドだ!!」と、スミスはソングライティングの行程について冗談交じりに語る。

 

「今までで一番素晴らしい創造的なパートナーシップだ。グルーブを見出すと、ソングライティングが勝手に進んでいくんだ」

 

ヤード・アクトは、僅か三回目の公演を終えたところで、世界的なパンデミックに直面しました。しかし、彼らは活動を断念せず、自主レーベル”Zen F.C.”を立ち上げて、2020年から2021年初めにかけて、「The Trapper's Pelts」「Fixer Upper」「Peanuts」「Dark Days」(これらの楽曲は、後に「Dark Days EP」として発売)をリリースしています。これらの楽曲は、BBC 6 Musicでオンエアされ、徐々に、イギリス国内のミュージックシーンで話題を呼ぶようになり、パンデミックにも関わらず、ファンベースが急激に増え続けています。


「バンドを始めたのはただライブで演奏をするのが楽しかったからだよ」とフロントマンのジェームス・スミスは言う。

 

「でも、すぐに自分たちは曲を書くのが好きなんだと気がついたんだ。ありきたりなんだけど、僕たちはいつだってポップミュージックに影響されてきたし、それを”僕たち”らしく表現する方法を探求してきた。スポークンワードに人々が反応すればするほど、僕たちは励まされる。強い部分を探求し、それを極限まで押し上げることが重要だと思う。ただし、僕たちヤード・アクトの極限というのは、僕がたくさん話すことなのさ」

 

 

 

 

 

 Yard Act  「Rich」(4Singles) Zen F.C

 



Tracklisting

 

1.Rich

2.Payday

3.Land Of The Blind

4. The Overload



Listen On 「Rich」:


https://yardact.lnk.to/RichPR


 

 

今週の一枚としてご紹介させていただくのは、アルバム「The Overload」を引っさげてのデビューを1月21日に控え、世界的に話題騒然となっているヤード・アクトのシングル作「Rich」となります。

 

「Rich」については、昨日、Youtubeのヤードアクト公式アカウントを通じてMVが公表されたシングル作品で、今年、最も鮮烈な印象をミュージック・シーンに与えるであろうデビュー作「The Overload」発表前の最後のリリース。これで、すべて、ヤードアクトのデビューにむけて舞台は整ったといえるでしょう。ファンは、すでに、この1月下旬にリリースされるアルバムを首を長くして待ち望んでいるものと思われますが、この四曲を聴くだけでも、ヤード・アクトのファースト・アルバム到着日までの期待感は募るばかりと言えるでしょう。

 

ヤード・アクトの音楽の魅力は、特に、すでに発表されている「Payday」「Land Of The Blind」「The Overload」の3つのシングル曲、及び「Rich」に見えるとおり、パブリック・イメージ・リミテッド、トーキング・ヘッズ、ザ・スリッツ時代のUKポスト・パンクの熱狂性、そして、そこに、新たに、スポークンワードを介した社会に対する風刺のスパイスが効いていること。その風刺は、それほど嫌なものではなく、スカッとした爽快感すら与えるのは、そもそもこの四人組が社会に対してそれほど大きな信頼を置いていない証拠であるわけです。

 

また、「ソープ・オペラ」と称されるヤード・アクトの音楽は、パンクのような苛烈性とオペラのような壮大なストーリーを交えて展開されており、つまり、本来相容れないはずの、セックス・ピストルズとピンク・フロイドの融合体ともいえる。そして、Music Videoについても、このリーズの四人の若者たちのシニカルなジョークが満載、苛烈でありながらコメディドラマを観ているかのような笑いのタッチに満ち、それが、実際のポスト・パンク感満載の音楽にしても、スポークンワードにしても、痛快な印象を与えてくれるはずです。彼らの社会風刺は、アメリカの往年のギャングスタ・ラップのように痛烈であるにもかかわらず、皮肉やブラックジョークに満ちているため、このバンドの印象は、それほど堅苦しくなく、親近感を覚えてもらえることでしょう。

 

ヤード・アクトの音楽性の中に感じ取れるのは、1970年代のロンドン・パンク、その後に続くニューウェイブ・パンクに対する憧憬。そして、この1970年代のロンドンの若者たちは、ヤード・アクトと同じように、社会という概念をことさら真面目に捉えず、自分たちなりに、それをユニークな視点を持って眺めていたはず。これは、自分そのもの、周囲にいる人間たちを社会や権力よりも信頼していたからです。2000年代に差し掛かるにつれ、それよりさらに大きな概念、社会通念、資本主義、そして、権力、そういった架空の何かを、多くの人々は金科玉条として信じ込むようになっていった。

 

しかし、リーズのヤード・アクトは、頼もしいことに、必ずしもそうではないようです。彼らは、社会常識と足並みを揃えることを拒絶するパンクスピリットの継承者とも言えます。社会通念を別の側面から眺めてみることもときに大切であると提案し、なおかつ、イギリスのミュージック・シーンの伝統性を引き継いだユーモア、ジョーク、さらに、社会風刺を交え、素晴らしい未来の音楽を生み出そうと努めているのです。



 

 Posture & The Grizzly


 

Posture & The Drizzlyは、アメリカ、コネチカット州にて、2008年にJ Nasty(Jodan chmielowsli)を中心に結成されたメロディックパンク/エモーショナル・ハードコアバンド。

 

現在、コアなファンの間でひっそり親しまれているバンドではあるものの、おそらく、今後、何らかのきっかけさえあれば、2020年代のアメリカのパンクシーンを牽引していくようなbigな存在になっても全然おかしくない話である。このバンド、PTGは、現在スリーピースとして活動中で、最初はJ Nastyのソロ・プロジェクトの一貫としてバンドが立ち上げられている。


2002年頃、フロントマン”J Nasty”は、Blink 182の楽曲に触発を受け、彼は最初のギターを手に入れ、ソングライティングを同時に始めている。コネチカット生まれのJ Nastyは「Take Off Your Pants And Jackets」2001の原盤を友だちから借り、Blink182のアルバム、そして、テム・デロングをを一つの目標として若い時代から自らのパンクロックスタイルを追究してきた。

 

1990年代から2000年代にかけて隆盛をきわめたポップパンク/エモコアのムーブメントは、以前の勢いこそなくなり、一部のしぶといポップパンク勢だけが息の長い活動を続けていく中、J Nastyは、このポップパンク/エモコアの新たな可能性を探り続けた。その後、J Nastyは、2008年、Posture &The Grzzlyをコネチカットのハートフォードで結成し、2014年にデビュー・アルバム「Nusch Hymns」をBroken World Mediaからリリースする。

 

そして、J Nastyの上記のジャンルを流行に関係なく突き詰めていった成果が、二作目のアルバム「I Am Satan」で顕著に見られた。Fall Out Boyを彷彿とさせる痛快なポップパンクチューンがずらりと並んでいるこの珠玉のアルバム作品は、熱心なパンクファンの間で好意的に受け入れられ、ホットな話題を呼び、2010年代のポップ・パンクの代表的名盤とも言われている。ぜひ、このあたりのジャンルのクールな音楽をお探しの人にチェックしてもらいたい作品だ。

 

また、2021年末、全米7箇所を回るツアーを予定していたポスチャー&ザ・グリズリーは、一般的な人々の健康のため、ツアーを自主キャンセルして、パンク・ロックバンドらしい勇気のいる決断を行っている。2022年、又、機会を改めて行われる次のツアーに期待したいところである。

 

また、日本のツアーもそのうち実現してくれたらな、とファンは心待ちにしているに違いない。

 

 

 

Posture & The Grizzly 「Posture & The Grizzly」

Near Mint

 

 


Posture & The Grizzly 「Posture & The Grizzly」




 

ポップパンク/エモコアの名盤の呼び声高い前作「I Am Satan」に続き、この2021年12月にNear Mintからリリースされた「Posture & The Grizzly」も同じように名盤のひとつに挙げてもよい作品で、ポスチャー&ザ・グリズリーがFall Out Boyに比する実力を持っていると証明してみせている。

 

前作の「I Am Satan」に続いて、今作「Posture & The Grizzly」はポップパンクとエモコアの中間を行く王道サウンドに挑む。

 

アルバムの前半部は、「Creepshow」「Black Eyed Susan」を始め、秀逸なポップパンクがずらりと並び、迫力のあるサウンドを全面展開している。疾走感があり、勢いの感じられる往年のBlink182やNew Found Gloryを彷彿とさせる快活サウンドでメロコアキッズの心を鷲掴みにするはずだ。

 

そして、アルバムの後半部では、前半部とは雰囲気が一転し、「Melt」「Secrets」といった、Further Seems Foever,The Appleseed cast、又は、Cap 'n Jazzを彷彿とさせるコアなエモサウンドに転換を果たしている。

 

特に、エモーショナル・ハードコアとしての歴代の名曲にも入っても不思議ではないのが#13「Secrets」。

 

この極端に様変わりする外向性と内向性の両側面を併せ持つ、タフでありながらエモーショナルなサウンドが、J Nastyのソングライティングの強みであり、ポスチャー&ザ・グリズリーの最大な魅力といえる。

 

ポスチャー&ザ・グリズリーはこの表題作において、今や、過去の音楽というような見方もされる向きもあるポップパンクやエモコアといったサウンドが未だに現代において魅力的なジャンルであることを証明してみせている。

 

これは、フロントマンのJ Nastyが、ポップパンク/エモコアというジャンルを、流行とは関係なく追究してきたからこそ顕れた大きな成果である。

 

 一般的な知名度という面で恵まれていないポスチャー&ザ・グリズリーであるものの、この作品において力強いサウンドを提示している。それは、きっと、多くのパンクファンの心をグッと捉えるであろうに違いない。