ゴダイヴァ夫人ついて


ベルギーの世界的なチョコレートメーカー「Godiva」のブランドネームの裏には、英国のコヴェントリーの修道院に端を発する古い伝説と民間伝承が潜んでいることをご存知の方は少なくないと思われる。

 

この「Lady Godiva」なる物語は、およそ11-13世紀に最初のストーリーが生みだされ、現在でも数々の写本が現存しているのだという。その始まりは、コヴェントリーの修道院の聖職者がこの物語の原本を元にストーリを作製したのだ。


なんとも、ミステリアスな雰囲気が込められているこのゴダイヴァ夫人の物語については、大まかに言えば、英国、コヴェントリーの農民たちに重税を貸していた領主レオフリック伯爵への民衆の怨恨がいやまさるばかりであったため、妻のゴダイヴァ夫人が一肌脱いで、コベントリーの街を乗り物で裸で走り回るという話の筋が伝説として伝えられている。そして、これがベルギーのGodiva社の社名のルーツとなっている。


 

 

 そして、この英国のコヴェントリーに伝承されているゴダイヴァ夫人伝説は、アラビアン・ナイトのように、ある原作を元にして、後に、様々なサイドストーリー、挿話のようなものがいくつも付け加えられ、原作に話にだんだん尾ひれがついていき、現代に伝わる伝説は原初の話よりも粗筋がずいぶん大げさになっている。


それにとどまらずヨーロッパの美術の彫刻、版画の題材にも、このコヴェントリーの伯爵夫人のテーマがいくつか選ばれている。


つまり、「ゴダイヴァ夫人の伝説」はミステリアスな憶測を呼び、学術研究の対象ともなっているようである。英国を始めとするヨーロッパのストーリーマニアにとっては常に「Lady Godiva」は謎に包まれていて、その実在、真実性に対する好奇心を掻き立ててやまぬようである。



 

このレディ・ゴダイヴァ伝説というのはいかなる物語なのか?? それを以下に詳述していきたい。

 

 

 

1.伝承と実在


 

まず、このゴダイヴァ夫人は実在する人物だということは、おおよそ、現代の伝承研究者の間で認識が一致している。

 

このゴダイヴァ夫人伝説について知る方、または、美術彫刻でこのゴダイヴァ作品について触れたことがおありの方は、まず「Lady Godiva」というと、裸体の夫人、身体を覆うほどの長い髪をイメージするはずである。


実際、この夫人は、いくつかの絵画、版画、彫刻の作品に15世紀から登場するようになった。伝説というのは、常に、その話自体、架空のものか実在のものか判別がつきがたいゆえ、多くの芸術家の題材として選ばれ、創作のモチーフにもなっているのである。

 

まず、Godivaは、古英語名、”Godgyu”、”Godgifu”(神の贈り物、良い贈り物の意)がラテン語に転訛された形式だという。

 

Godgyfuは、11世紀のアングロサクソン人の貴族であったといい、 その生涯は英国史上最も劇的なものであったと伝えられている。Godgyfuという人物について知られていることは、様々な宗教にまつわる年代記、「Domesday Book」として知られる編集物にその記述が見られる。


Godgyfuについての信頼性のある最初の資料記録は、1035年に記された書物に見られる。書物名は不明だが、この書物には、彼女が、既にメルシア伯爵のレオフリックと結婚していたという記述が見られる。



 

ゴダイヴァ夫人の生年月日については不明であり、また、同様に、裸でコヴェントリーの街を通過したとは書かれていない。

 

ゴダイヴァ夫人が実在したことについては、ほぼ疑いないというのが現代のヨーロッパの史実家の見解としては一致しているようだが、この「Lady Godiva」のハイライトともいえるワンシーン、コヴェントリーの町中を馬車で走り回ったという史実、及び、それにまつわるサイドストーリー、町中でひとりだけゴダイヴァの裸を見てしまった「覗き屋トム」についての記述も公的な資料には登場しないそうである。

 

そもそも、コヴェントリーは、ゴダイヴァ夫人が実在した時代、総人口、500人ほどのささやかな規模の村であったらしく、そもそも、馬のような乗り物で豪快に走り回ることなど不可能であったという現代史実家の鋭い指摘もなされている。

 

こういった心楽しい、ストーリーキングのような挿話については、後になってコベントリーの修道院の宗教家によって付け足された「創作」であるというのが通説となっている。

 

また、このゴダイヴァ夫人について言及される最初の年代記には、ゴダイヴァ夫人とレオフリック伯爵が、コヴェントリーの修道院建設費用を寄付したことが明確に記されている。

 

つまり、ここに、ささやかな一村の領主として見本のような夫婦であったという事実性が最初の資料から引き出されるのである。



 

 

2.コヴェントリーとゴダイヴァ夫人の宗教における関係性

 

 

他のアングロサクソン人の同じ階級にある女性と同様、ゴダイヴァ夫人は彼女自身の権利において財産を所有し、 両親からの土地や財産の相続、親戚からの相続、また、土地の交換、購入を元に、土地財産やコミュニティーにおける宗教基盤を築き上げた。

 

この事実から推察されるのは、当時の英国社会において、土地や財産だけでなく、盤石な宗教基盤を持つ事がそのまま上流階級におけるステータスとなり、他の領地の上流階級の人々に地位を誇示する「政治力」に繋がったということである。さらにまた、ゴダイヴァ夫人の所有するコヴェントリーの農村の領地も、彼女の欠かさざる資産であったことが伺える。また上述した「Domesday Book」には、彼女の死から20年後、69もの大親族があったと記述が見られる。

 

ゴダイヴァ夫人とレオフリック伯爵が、コヴェントリーの土地の保有に興味を示した理由については未だ明らかにされていない。史実としてみれば、当時、コヴェントリーは、当時、小さく、目立たない、農業コミュニティーに過ぎなかったという。早くも、1024年になると、宗教的な基盤が形作られていき、コヴェントリー大司教(後のカンタベリー大司教)が、レオフリック伯爵に貴重な宗教的な遺物が遺贈された。これは、ローマの司教によって購われた「聖アウグスティヌスの腕」の塑像であった。


最初のゴダイヴァとレオフリックの目論見は、このローマ司教からの遺贈物を収容するなんらかの聖域を設けたいということにあった。既に、1043年には、カンタベリー大司教により、聖マリア、聖オスバーグ、オールセインツのベネディクト会修道院が財産として捧げられた。聖オスバーグの院は、銅と金で装飾された豪華絢爛な装飾のほどこされた建築である。


ここに、当時のコヴェントリー大司教から遺贈された聖遺物「聖アウグスティヌスの腕」が安置されることになった。

 

また、ゴダイヴァ夫人とレオフリック伯爵は、新設された修道院に金銀、宝石と言った装飾品を惜しみなく寄贈したことで資産家として有名となった。その他にも、ゴダイヴァ夫人とレオフリック伯爵は、ウォリックシャー、グロスターシャー、レスターシャー、ノーザンプトンシャー、及び、ウスターシャーの不動産を修道院に対して寄付を行った。

 


セイントメアリー・ストウ教会 


特に、セイントメアリーズ・ストウは、英国に現存する教会建築の重要な基礎を持つとして歴史的に意義深いものであるという。

 

この最初期の修道院建築の礎となっている石細工は955年のもので、ゴダイヴァとレオフリックは建築の材料となる素材を惜しみなく提供している。


この建築の顕著な特徴は、サクソン人とデーン人の持つ建築形式が混淆したようなものであったと思われる。

 

堂内には、4つの丸みを帯びたアーチの形式が見られ、このアーチ式の石柱には、10世紀から11世紀の古い船の落書きが引っかき傷で描かれているという。これは近くのトレントという土地を航海したデンマーク人の襲撃を徴したものであろうとの指摘がなされている。

 

  

 3.レオフリック伯爵の足跡

 

 

伯爵のレオフリックは、かなりの才能、政治家としての力量も具備していた。そもそもこれらの資質がなければ、当時の英国社会で伯爵として生き残ることは不可能であったと言われている。


1017年にデーン・クヌートによって伯爵の称号を得、彼はクヌートの治世にかけて繁栄を続けた。その後、ハロルド一世(1035−1040)の世が続き、クヌート一世の後継者を選ぶ必要があった。


クヌートのもうひとりの息子、ハーダナグットは次の世を継ぎ、さらには、この夫人と伯爵と深い関わりを持つエドワード懺悔王(1042-1066と呼ばれる人物がこの地を支配した。 


人間というのは、権力をひとたび手に入れると、それをなんとしてでも我が手におさめつづけようと躍起になる。それは、蛇足となるが、失うことの恐れから何かを増大させようとするのである。もちろん、それはこの伯爵についても同様だった。年をへるごとに、レオフリック伯爵は、深い信仰心を持つに至る。


伯爵の信仰心の対象は、修道院の豪華絢爛な装飾を施した石造建築、あるいはコヴェントリーの領地での権勢、伯爵としての地位の堅持に注がれるようになった。(これは日本中世でも同じような例が見受けられるはずだ)


伯爵の権力の保持、また、資産の増大への指針。つまり、その割を食らったのが、コヴェントリーの領民であった。

 

既に、1041年には、レオフリック伯爵は、この地の農民らに重税を課しており、それが原因で、多くの領民たちが困窮にあえいでいたというのは、「Lady Godiva」の伝説の物語の中核をなし、また、この物語の最初の起承転結の起こり、話の出発の部分をなしている。 


1041年のこと、ハーダグナットが王位にある時代、彼の徴税人二人が、ウスター市民は過大な課税に怒り狂った集団により殺害される。



 

*この事件に際して、夫に対して重税を民衆に課すのをとりやめさせようとするゴディヴァ夫人が孤軍奮闘し、コヴェントリーの町中を裸体で馬にまたがり駆け巡ったという物語が生み出されたのだろうと思われる。

 

また、この物語が修道院(それがイギリスであれ、ドイツであれ、フランスであれ、それがまたアッシリアであれ、各地の、中世の修道院に類する建築内には、必ずといっていいほど、祈祷をする場所とともに、浩瀚な書籍を所蔵した文庫と呼ばれる空間が建築中に組み込まれている)から生み出されたというのは、修道士が自らの属する修道院の建設者レオフリック伯爵とゴダイヴァ夫人に対して、何がしかの返報をしたいと考え、その考えを美麗な物語「Lady Godiva」」によって原本や写本を元に、複数人の著者に引き継いで完成させたというのがもっともらしい推察かもしれない。つまり、これは聖職者たちの報恩のストーリーといもいえなくもない。

 

 

当時の英国社会では、王の擁する代表者に対する狼藉は、無論、あるまじきご法度であった。この事件を受けて、報復を行うべく、ハーダクナット王は、レオフリック伯爵に依頼し、ウスターに廃棄物を置くことを命じたという。


王の命をレオフリックは恐ろしい効率で進めていき、もともとウスターは大聖堂を抱える美しい都市であったがため、民衆から相当な非難を受けた。しかし、その後、レオフリック伯爵は、この騒動を押さえつけるため、多くの宝飾品を聖堂に寄付をおこなったことにより、彼自体はそれほどの罵倒や論難を受けることはなかった。

 

レオフリックはこのことで、伯爵としての盤石な地位を確立する。彼の人生の終わり近くには、ウスター後の修道士によって注意深く記録され、1057年、レオフリックの死後になって出版された。

 

 

「・・・この同年の10月30日、レオフリック伯爵は亡くなられました。彼はこの国全てに利益をもたらし、宗教および聖俗的なすべての事柄において賢明な決断をお選びになりました。彼はコヴェントリーに埋葬され、息子のエルフガーは彼の権威を引き継いだのです。



 


 4.ゴダイヴァ夫人の晩年

 

 

彼の死後、ゴダイヴァ夫人は、ウスターの宗教財団に追加の寄付を行い、レオフリック伯爵の魂の休息を設けることにより、彼女自身の利をはかった。これらの寄贈品の中には、祭壇の正面、壁掛け、ベンチカバー、ローソクの芯、聖書などが含まれていた。レオフリックの死去する前の数年間からウスターに寄贈した品物や財産の長い目録が、伯爵の寄贈品の上に加えられた。


ゴダイヴァ夫人は、記録によれば、1067年に亡くなっている。彼女の死後、ゴダイヴァ夫人は、イギリス国内で最も裕福な五人のひとりに数えられるほどで、およそ160ポンドの銀の価値に相当する資産を所有していたと伝えられている。

 

その後、彼女の保有していた土地は新しい王、ウィリアムによって没収されたという。ゴダイヴァ夫人は、その後、夫のレオフリック伯爵が建築したコヴェントリー修道院教会で夫の隣に埋葬された。マルムズベリーのウィリアム氏によれば、彼女の死にゆく行為は非常に敬虔的であったという。   

                                                                             

最後の修道院への寄贈品として、ゴダイヴァ夫人は、聖母マリア像の首に、宝石のネックレスをかけるように命じた。

 

この教会は、残念ながら、現在、ゴダイヴァ夫人の生きていた時代の原型は残っていないらしく、カルバン主義の宗教改革が発生した時代に破壊され、宝石物も略奪され、この教会内におさめられていた聖遺物は分散した。ともに、ゴダイヴァ夫人の伝説もまた真実の行方が定かならぬものとなったのだ。いずれにせよ、ゴダイヴァ夫人伝説はまだまだ史実として調べる余地があり、きわめてミステリアスなベールによって覆われている。



こちらの記事もぜひご一読ください: 


LIMINAL SPACE-リミナルスペース- 現実空間と異空間の狭間




Cat Power


 

インディーロック界の高貴な女王と称されるキャット・パワーは、アメリカ合衆国の女性シンガーソングライター、シャーン・マーシャルのソロ・プロジェクト。アトランタ出身、1992年頃にニューヨークに転居し、ギターを学びながら、ストリートミュージシャンとして約2年を過ごした。

 

シャーン・マーシャルは、その後、小さなライブハウスを中心に、弾き語り演奏をしながら活動を続けた。

 

1994年には、当時、国内で人気を集めていたリズ・フェアのコンサートのオープニングアクトに抜擢された。

 

この時、キャット・パワーことシャーン・マーシャルは、後に、彼女のバンドのサポートメンバーとなる、ティム・フォルヤン、ソニック・ユースのドラマー、スティーヴ・シェリーと出会いを果たす。

 

マーシャルは、1994年後半に行われたレインコーツの再結成ライブで、スティーブ・シェリーとの親交を深め、その後、フォルヤンとシェリーとトリオ編成でのアーティスト活動を始めた。

 

1995年、イタリアのラント・レコードから、デビュー作「Dear Sir」を発表。翌年、スティーヴ・シェリーが主宰する自主レーベル”Smells Like Records"から「Myra Lee」を発表。

 

上記二作のリリースに、レコード会社が関心を示し、キャット・パワーは、ニューヨークのMatadorと契約を結ぶ。

 

その後、次作「What Would the Community Think」を名門マタドールからリリースされると、CMJチャートを中心に話題を呼び、世界中に、キャット・パワーの名を知らしめることになった。

 

1998年から 、オーストラリアのメルボルンのロックバンド”Dirty Three”(シカゴのTouch and Goから数々の名盤をリリースしている)の二人のメンバーと、アルバム「Moon Pix」を共同で制作する。この作品「Moon Pix」は、ヴァン・モリソンの「Astral Weeks」、ジョニー・ミッチェルの「Blue」と並んで音楽メディアから「非の打ち所のない作品」と高評価を受けた。

 

それから、2000年のローリング・ストーンズのカバーを収録した「Cover Record」の発表を挟んだ後、2003年、レコーディングエンジニアにアダム・キャスパー、サポートにエディ・ヴェーダー、デイヴ・クロールと名だたるエンジニア、ミュージシャンを迎え、「You Are Free」を制作する。これがキャット・パワーの出世作となり、日本でも盤石な人気を獲得するに至った。

 

ちなみに、シャーン・マーシャルは、自身のプロジェクト名「Cat Power」の印象とは裏腹に、猫嫌いの愛犬家として知られている。

 

 

 

 

「Covers」 Domino

 

 

2022年1月14日にドミノから発表された「Covers」は2000年の「The Cover Record」、2008年の「Jukebox」に続いて、キャット・パワーによる三作目のカバーアルバム作品となる。 

 

これまでシンガーソングライターとしての三十年近いキャリアの中において、カバーアルバムをオリジナル作品と並んで、重要な位置づけの作品と捉えてきたように思えるキャットパワーではありますが、今作「Covers」もまた同じように、叙情性を兼ね備えた力強い印象のある作品と評す事ができる。

 

アルバムのリードシングルとして、フランク・オーシャンのカバー「Bad Religion」と、アイルランドのザ・ポーグスのカバー「A Pair Of Brown Eyes」の二曲がアルバム発表に先駆けて公開されたが、その前評判にふさわしい。いや、それ以上の素晴らしい作品が、今回ファンの前にお目見えしたと言える。

 

「Covers」において、シャーン・マーシャルは、幼少期から現代まで影響を受けてきた様々な楽曲を振り返っており、それぞれの歌が彼女の人生の思い出と分かちがたく結びついている。ビリー・ホリデイーの「I'll Be Seeing You」は祖母が愛聴していた楽曲であり、キティ・ウェルズの「It Wasn't God Who Made Honky Tonk Angels」も同様、彼女自身が十代の頃、家でカセットテープの詰まった箱を見つけ、運命的な出会いを果たした思い出深い一曲だという。

 

さらには、1986年のマイケル・ハッチェンスが主演をつとめた映画「Dog in Space」でイギー・ポップの「Endless Sea」を聴いて興奮をおぼえた時代のこと、また、貧しい弾き語りのアーティストとして、ニューヨークで過ごしていた20代の頃、モナズ・バーのジュークボックスになけなしの金をはたいて聴いたミネアポリスのロックバンド、ザ・リプレイスメンツの「Here Comes a Regular」を聴いた頃の淡い思い出がこのカバー作品には端麗な形で詰め込まれている。


そして、シャーン・マーシャルが人生で最も好きな楽曲だと語るアイルランドのザ・ポーグスの「Pair of Brown Eyes」をレコーディングした際、彼女は、ガンで若くして亡くなった友人を思い出し、さらには、愛する他者を失った悲しみから立ち直る契機となればとの思いをこめたボブ・シーガーの「Against The World」といった深い情緒が溢れ出た楽曲が数多く収録されている。その他にも、「These Days」も渋みのある色合いが滲み出ている。このカバー曲については、ザ・リプレイスメンツのポール・ウェスターバーグに対するリスペクトが込められているのかもしれない。

 

このカバーアルバムは、単にオリジナル楽曲の線をなぞらえるだけでなく、シャーン・マーシャルの人生から出てくる深みが心ゆくまで堪能できるような作品となっている。「Covers」には、ソングライター、シンガーとしても、いよいよ、全盛期を迎えつつある偉大なシンガーソングライターの人生そのものを、鏡のように反映させたきらびやかな輝きを湛えた珠玉の十二曲が収録。シャーン・マーシャルは、ラナ・デル・レイやエンジェル・オルセンを含めた現代のアメリカの秀逸なシンガーソングライターから、絶大な支持を集めるシンガーですが、多くのアーティストから支持される理由というのが、この作品、そして、シャーン・マーシャルの深みのある歌声には顕著に現れ出ているように思える。奥深い感情表現を介して紡がれた美しい作品です。

 

 

   


 

いつものことながら、遅れ馳せのリリース情報となってしまい大変申し訳ありません。 

 

長崎の大学の軽音楽部で2019年5月に結成されたウルトラスーパーポップを引っさげて登場した三人組バンド、Sundae May Clubが1月12日に300枚限定盤となる「桃源郷の夜 EP」をリリースしています。


Sandae May Clubは2020年7月に1st EP「Sundae May Club 1」を発表、たちまち大ヒット。

 

今作の「桃源郷の夜 EP」は、Sundae May Club二作目の作品となり、音源を取り扱う「HOLIDAY! RECORDS」によると、2022年の再注目すべきバンドのようです。個人的にも激推しバンドです。フレッシュなポップスをお探しの方には最適な一枚となりそうです!!

 

 




インディーレーベルについて

 

 

世界各地に点在するインディー・レーベルの成り立ちについて知ることほど面白いことはない。


なぜなら、メジャーレーベルと異なり、こういったレコードレーベルは、必ずしも巨大な資本を持つ企業があらたに経営に乗り出すことは稀であり、独特でユニークな経営方針を持って運営される場合が多いからだ。

 

こういったレコード会社は、メジャーレーベルとは異なり、ラジオ局で知見を深めた人間、独立したファンジンの発行者、レコードショップの店員、実際のミュージシャンが新たに事業に着手するケースが見受けられる。 それはここ日本でも変わらず、レコード・レーベルを始めるのは、それなりに業界で経験を積んだ多くのコネクションを持つ無類の音楽好きである場合が極めて多い。

 

レコードレーベルとしては、設立当初の規模の大小にかかわらず、後に一定規模の企業に成長していく実例もなくはない。もちろん、それは一部の例外といえ、多くは放漫経営により資金繰りの目処が立たず、新しい作品のリリースがままならなくなり、破産に至る事例も多く見られる。

 

さて、シアトルに本拠を置くサブ・ポップ・レコードは、二人の若者によって設立された企業である。

 

サブ・ポップは、設立当初こそ放漫経営を行っていたが、後に、一定の規模の企業に発展していく。1980年代から1990年代にかけて、グランジシーンを牽引したアメリカの名門インディーレーベルのひとつに数えられる。現在、シアトルの空港内にレコードショップを構えており、この土地を代表するレコード会社として知られている。


 

 


二十代の若者二人により設立されたサブ・ポップは、後に、イギリスでもグランジという言葉を浸透させたアメリカの歴代のポピュラーミュージック・シーンにおいて見過ごすことのできない重要なレーベルである。

 

何度となく、サブ・ポップは経営破綻しかけるものの、そのたび幾度となく蘇生してきた。一度、ワーナーミュージックに買収されるが、レーベル経営はその後、比較的安定化していき、2021年現在もアメリカのインディーシーンで一定の影響力を持ち、アメリカ国内のミュージックシーンの繁栄に寄与しつづけている企業だ。

 

現在も、多岐に渡るジャンルの作品をリリースし、個性的なアーティストを輩出しつづけるサブ・ポップは、レーベルの理念としてアメリカの先住民の人々に深い敬意を表している珍しいレーベルであるが、どのように創設期から現在までの道程をたどったのか、その概要について今回記していきたい。 

 

 

 

1.Sub Popの二人の設立者

 

 

 

サブ・ポップは、二人の若者によって設立された。後のグランジシーンの生みの親ともいえるのが、ブルース・パヴィット、カート・コバーンと親交が深かったジョナサン・ポネマンである。まず、この二人の人物のレーベルオーナーになる以前のバイオグラフィーについて、簡単に纏めていきたい。

 

 

 

・Bluce Pavitt

 

 

サブ・ポップの経営者となるブルース・パヴィットはアメリカ・シカゴ郊外で生まれ育つ。パヴィットは若い頃、AMラジオを聴いたり、シカゴのレコードショップ「Wax Trax」(インディー・ミュージックの公式学校として認可されている)を訪れたり、「Villlage Vice」という音楽雑誌を購読して、音楽に対しての知見を深めていった。  

 

 

サブ・ポップの設立者 ブルース・パヴィット https://brucepavitt.com/



その後、彼は、当時、米国内でインディーミュージックを唯一専門オンエアしていたワシントン州のラジオ局「KAOS」で学び、エバーグリーン州立大学に転校。ラジオ局と地元のミュージック・シーンにささやかな貢献を果たした。

 

ラジオ局「KAOS」において、ブルース・パヴィットは、「Rock」の時間帯を受け継ぎ、新たなバンドを「Subterranean Pop」という番組内で紹介した。

 

その後、ブルースは、アメリカのインディー・ミュージックに特化した音楽雑誌「Subterranean Pop」を立ち上げた。(後の「Sub Pop」という名は、この雑誌に因んでいる)1980年代当時、現在のように、インディーミュージック自体が流通する手段が整備されておらず、アメリカ国内ではインディーロックバンドのレコードを入手したり、ラジオ局でオンエアされる以外のバンドの音楽に触れるのはかなり困難だったという。

 

従って、ブルース・パヴィットはこの時代から、独自に発見した一般的に知られていないインディーミュージックを、米国全土に普及させていきたいと考えていた。雑誌の発行部数が増加するにつれて、パヴィットは、カセットコンピレーションのリリースを考案した。これは、後のサブ・ポップレーベルのリリースカタログの重要な概念となった。パヴィットは「Subterranean Pop」の購読者が、自分自身が執筆した音楽の記事だけでなく、実際の音に触れてくれることに深い喜びを感じていた。この時の出来事について、ブルース・パヴィットはこのように回想している。

 

 

音楽ファンが何らかのレコードを購入するとき、彼らの多くが、音楽そのものだけでなく、アーティストによって提示される価値観やライフスタイルにも触れてみたいと考えているのを私は知っていました。だから、私は、そういった情報や音源を率先して提供していこうと考えたのです。

 

また、この1980年代のアメリカにおいて、既に、ハリウッドの打ち立てた産業構造は完全に形骸化しており、(編注・資本家が宣伝したいものを巨大な商業ルートに乗せ、商品を需要者に押し付ける資本家の搾取のことについて、ここでパヴィット氏はきわめて暗示的に語っている。もちろん、言うまでもなく、現代のアメリカだけでなく、ヨーロッパの業界全体にもこういった悪弊は残されている)この時代、新しいサウンド、新しいヒーローの登場を、アメリカの社会全体、多くの人々は、切望していたのです。そのための何らかの手助けをしたいと、私は考えていたのです。

  

 

1983年、パヴィットは、エヴァーグリーン州立大学を卒業後、シアトルに転居する。それほど時を経ず、「Fall Out Records」というレコードショップを開店する。 「Fall Out Records」は、シアトルのキャピトル地区で最初のインディーレコードショップとなった。彼は、このレコード店を経営する傍ら、執筆活動にも精励するようになり、雑誌「The Rocket 」に「Sub Pop USA」というコラムを掲載しはじめる。これは、彼がエヴァーグリーン州立大学時代に発行したファンジン「Subterranean Pop」の雑誌の続編の意味を持ち、月間コラムの形式で掲載され、この雑誌の購読者の間では「インディーミュージックの聖書」という愛称で親しまれていた。

 

また、この時代から、ブルース・パヴィットは、KCMU(現在、ワシントン州シアトルに本拠を構えるラジオ局「KEXP」の前身、オルタナティヴやインディーロックを専門とするラジオ局で、ミュージックシーンから高い評価を受けている)で、インディーズレーベルのスペシャリティーショーを主催し、広い範囲にインディーミュージックを紹介する役目を担っていた。


1986年になると、ブルース・パヴィットは、初期のSUB POPのレーベル運営に乗り出していった。

 

その手始めに「SUB POP Compilation 100」、グランジムーブメントの黎明期を代表する作品、サブ・ポップのカタログ第一号として、Green Riverの「Dry As A Bone」をリリースした。 

 

 

 

Subpop-100.gif
レーベルの第一号となった記念すべきコンピレーション・アルバム「Sub Pop Compilation100」


http://www.petdance.com/nr/discography/, Fair use, Link


 

 

 ・Jonathan Poneman


 
サブ・ポップ・レコードのもうひとりの設立者、ジョナサン・ポネマンは、上記のブルース・ハヴィットとは異なり、バンドマンとして、このレーベルの経営を支えてきた存在である。
 
 
Nirvanaのカート・コバーン(左)とSub Popの設立者のジョナサン・ポネマン(右)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、オハイオ州トレドで生まれ育った。彼は、十代の頃から、いくつかのガレージロックバンドで演奏してきたミュージシャン経験のある人物である。(本人は、自分は決して良いミュージシャンではなかったと謙遜して語っている)
 
 
ジョナサン・ポネマンは、ミシガン州の寄宿学校に短期間在籍した後、いくつかの高校に転校した。それから、シアトルに転居して、最終的には地元のラジオ局KCMUで、ボランティアとして、勤務するようになった。
 
 
しかし、このラジオ局に勤めることになった経緯については、ポネマンは無自覚であり、いつの間にかそうなっていたという。興味深いことに、このシアトルのオルタナティヴミュージックの重要人物ジョナサン・ポネマンは、いつの間にか、ラジオ局のステーションを駆け巡るようになっていたのだ。
 
 
1985年、 ジョナサン・ポネマンは、ブルース・パヴィットが主催するKCMUのスペシャルショーと称される番組に初めて出演を果たす。彼は、その時、1990年代のシアトルグランジシーンの代表格となるSoundgardenのライブパフォーマンスにいたく感動した。ボーカリストのクリス・コーネルの歌声に深い感銘を受け、ジョナサン・ポネマンは、サウンドガーデンのシングル作をリリースしたいと熱望するようになった。
 
 
この時、ジョナサン・ポネマンは、キム・テイル、ブルース・パヴィットの二人の知己を得て、サウンドガーデンのレコーディングセッションに2000ドルを捻出した。つまり、これがサブ・ポップ・レコードの始まりだったのだ。
 
 
 
 
 

2.サブ・ポップの黎明期

 
 

 

サブ・ポップの設立者ブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは、1988年になって、レーベル運営の初期投資となる約1900ドルの資金を集めることに成功した。

 

この資金については、不履行になるおそれがある小切手、そうでないものが含まれていた。彼らは、シアトルの小さなオペレーションをフルサービスのレコードレーベルに変え、サブ・ポップのネーミングライセンスと事業に50%ずつ出資し、法人企業としての体裁を整えた。しかしながら、先行投資の設立当初のレーベルとしては多額の投資であったため、サブ・ポップは、発足当初最初の一ヶ月で破産の危機に陥り、その後も、レーベル運営が軌道に乗るまでは、財政的に苦戦を強いられることになった。

 

そもそも、このレーベルの目標は、サブカルチャーに根ざしたアイデンティティを確立することにあった。彼らは、レーベル設立当初から、人々にサブ・ポップと言う名に接した時、シアトルらしい音を思い浮かべてもらえるようにしたいという意図を持っていた。

 

彼らの目論見はピタリと当たり、これは後に「シアトルサウンド」としてアメリカ国内のみならず、国外のイギリスや日本でも知られるようになった。サブ・ポップの初期リリースの多くは、プロデューサー、ジャック・エンディノの協力によって制作された。

 

その後、サブ・ポップのレーベルの名、そして、シアトルサウンドを決定づける魅力的なバンドが数多くシーンに台頭しはじめた。

 

シアトルグランジの始まりとなったのが、Green RiverのEP作品「Dry As A Bone」。その後に、リリースされたSound Gardenのシングル盤「Screaming Life」、「Hunted Down/Nothing To Sat」。


Mudhoneyの「Touch Me I'm Sick/Sweet Young Thing」、「Superfuzz Bigmuff」。Nirvanaの初期作品「Love Buzz/Big Cheese」といった作品群だった。 

 

 

Green River「Dry As A Bone」

 

 

 

Mudhoney 「Superfuzz Bigmuff」
 

 

これらの作品に見受けられる、ギターエフェクター「Big Muff」に代表される、苛烈なほど歪んだディストーションサウンドの台頭は、当時のGuns 'N Rosesや、LA Guns,Skid RowをはじめとするLAの産業ロックが優勢だったアメリカのシーンに、衝撃的な印象を与えたのは事実である。

 

上記のサブ・ポップのリリース作品は、メタルとパンクロックの融合と一般的に称される「グランジサウンド」を象徴する最初期の名盤で、リリースは全てアンダーグラウンドの流通であったが、のちビルボードチャートを席巻するシアトルサウンドの素地を形成した。

 

特に、最初期において、サブ・ポップは、画期的なビジネススタイルを取り入れていた。驚くべきことに、時代に先んじて、1980年代に、毎月、レーベルからリリースされる新しいシングル作をメールで配信するサービス(サブスクリプション方式)を取り入れていた。この事例は、世界で最初のサブスクリプション方式ではなかっただろうか? このサブスクリプションサービスは「Sub Pop Club」と名付けられて、ピーク時には、約2000人の購読者を獲得していた。

 

   

画期的なメールマガジン方式のサブスクリプション「Sub Pop Singles Club」


 

1980年代後半、英国の音楽メディアは、アメリカのパンクロックミュージックとそのサブジャンルに興味を示していた。多くのアメリカのアンダーグラウンドのバンドは、その後、実際にはヨーロッパで成功を収め、アメリカ国内を凌ぐ人気を獲得した事例もある。特に、英国では、ザ・スミスの後の有望なバンドを探し、アメリカ、特にシアトルのシーンに次世代のスターを見出そうとしていた、といえるだろうか?

 

この年代、ブルースとジョナサンは、英国の音楽ジャーナリスト、エヴェレット・トゥルーをシアトルに招いて、サブ・ポップと相携えて成長を遂げる「シアトルシーン」について紹介記事を書くように依頼した。 

 

 

 

Everett True.jpg


By Greg Neate  CC BY 2.0, Link 英国人ジャーナリスト、エベレット・トゥルー

  

 

以来、エヴェレット・トゥルーは、シアトルのグランジシーンの苛烈な音楽性を痛く気に入り、深い関係を保ち続け、英国内にシアトルのインディーミュージックを紹介するプロモーターとしての重要な役割を担った。

 

彼は、グランジシーンについての取材を重ねるにつれ、シアトルで多くのバンドと親しくなり、その後、ミュージシャンとしても活動する。K Recordsのカルビン・ジョンソン、トビ・ベールのバンドとのシングル作において、ゲストボーカルとしても参加している。

 

また、エヴェレット・トゥルーは、Butthole SurfersとL7のギグで、カート・コバーンとコットニー・ラブを引き合わせた人物にほかならない。その後も、夫婦ぐるみの付き合いをし、家族のような関係を持ち続けた。

 

 

 

 3.グランジの最盛期

 

 

 

グランジの最盛期は、Nirvanaのメジャーデビュー作「Nevermind」が「スリラー」での成功以来、長年にわたり不動の地位を築いていたマイケル・ジャクソンをUSビルボードチャートのトップから引きずり下ろした瞬間に始まり、1994年のカート・コバーンの銃による自殺とともに終わったというのが一般的な通説である。少なくとも、ニルヴァーナがシアトルを代表するバンドであるとともに、サブ・ポップを象徴するバンドであったということは疑いがないはずだ。

 

カート・コバーンが地元シアトルの歯科助手として勤めながら、約2000ドルを貯めて、ほとんど自主制作としてレコーディングされた「Bleach」1989は、サブ・ポップからリリースされるや否や、カレッジラジオでオンエアされ、アメリカの若者の間で大きな人気を博した。 

 

 

Nirvana 「Bleach」1989 Sub Pop

 

 

ニルヴァーナは、この実質的なデビュー作「Bleach」により勢いを増し、アメリカのミュージックシーンに強い影響を与えるようになっていた。 


その後、ニルヴァーナとツアーを行っていたNYのインディーロックバンド、ソニック・ユースは、その時代にゲフィン・レコードの系列会社として1990年に新たに設立された「DGC Records」と契約を結び、レーベルの新しい可能性を探るため、マネージャのジョン・シルバとダニー・ゴールドバーグにニルヴァーナの間に入り、彼らをゲフィンレコードに紹介した。当時、ニルヴァーナのカート・コバーンは、サブ・ポップの財政状況に不満を示していて、このソニック・ユースの伝を頼ろうとしたのだ。 

 

 

 

Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey"Sonic Youth Still Life 1991, by David Markey" by JoeInSouthernCA is licensed under CC BY-ND 2.0

 

 

その後、ゲフィン傘下のDGC Recordsは、サブ・ポップから、ニルヴァーナの契約を買収した。「Bleach」の楽曲の使用権については、以降もサブ・ポップに保持された。この権利譲渡を行う際の契約内容には、ニルヴァーナのバンドのプロモーションをする際、サブ・ポップのロゴとDGCのロゴを一緒に用いる規定、その規約をニルヴァーナの後のリリース作品にまで及ばせるという事細かな規定が両レーベル間で交わされた。この時代、ニルヴァーナの想像を遥かに上回る商業面での成功により、サブ・ポップは、その後何年にもわたり、会社の収益面での重要な基盤「シアトルサウンド」をリリースするレーベルとして、全米にとどまらず世界的な知名度を獲得する。



1992年からは、アメリカのロックシーンは、インディーロックに移り変わりつつあった。ニルヴァーナの意図せぬ大成功により(もちろん、「Nevermind」はアルバムジャケットからしてゲフェンレコードがすべて意図的に仕込んだセンセーショナルなリリースでもあった)、本来、オーバーグラウンドに全く縁のないマニアックなインディーロックバンドが次々にスターダムへと押し出されていった。これはまた、既に多くの人がご存知の通り、本来、「亜流」の意味を持つオルタネイティヴミュージックがメインストリームを席巻し、アメリカのミュージックシーンの「主流」に成り代わった歴史的な瞬間でもあった。さらに、アンダーグラウンドシーンから、次なるニルヴァーナを見出すべく、レコード会社の関係者、あるいは業界関係者は熱をあげていた。 


これには、多くのサブ・ポップに所属するバンドが全て対象となり、それまで、このサブ・ポップレーベルのシアトルサウンドの基盤を築き上げた、サウンドガーデン、グリーン・リバー、マッド・ハニーといったバンドも一躍脚光を浴びる。アバディーンを代表するメルヴィンズ(カート・コバーンがハイスクール時代にバンド加入オーディションを受け、不合格となっている)も、それなりの知名度を誇るバンドになった。

 

巨大産業、メジャーシーンに組み込まれることを危惧したサブ・ポップレコードは、この急激なミュージックシーンの変化に際して、何らかの先手を打つ必要があった。 1994年、サブ・ポップはワーナー・ミュージックとの合弁会社を設立する。2000万ドルの巨額の取引を通じ、サブ・ポップは、ワーナーミュージックにレコードリリースのライセンスの45%の譲渡を決定した。これは、前例のない取引だったという。しかし、このメジャーレーベルとの合併後、サブ・ポップは急激にインディーミュージックに対する求心力を失っていくことになる。 

 

 


4.サブ・ポップの一時的な凋落

 


 

ワーナーミュージックとの契約は、サブ・ポップのレーベル運営に、少なからずの変更を強いることになった。レーベルのオフィスが拡大し、ワーナーのレーベル担当者が招かれ、サブ・ポップの企業文化に大きな変化が生まれたのだ。

 

この時点で、創設者のブルース・パヴィットとジョナサン・ポネマンは企業の将来についての考えに明らかな違いが生じ始めていた。

 

ブルース・パヴィットは、レーベルのDIYの理念を保持していきたいと考えていたのに対して、ジョナサン・ポネマンは、企業の収益を増やし、レーベルの財務状態を安定させるため、会社の規模自体を拡大していきたいと考えていた。

 

これは、インディーレコード会社としての理念を守るか、はたまた、最初の理念を捨て、大手レーベルとしての歩みを選択するか、いわばレーベルの分岐点に当たった。ワーナーミュージックの買収、シアトルグランジがワールドワイドなブームとなる中、資本主義の企業文化に対してサブ・ポップも無関心でいられなかった。また、この時代、少数のサブ・ポップのスタッフがワーナーのスタッフに置き換えられてしまったことに、ブルース・パヴィットは深い動揺を覚えていたという。

 

まもなく、最初の創業者ブルース・パヴィットは、サブ・ポップを去っていった。以後、パヴィットは、執筆活動やDJといったレーベル経営とは異なる分野で活躍している。

 

その後、サブ・ポップは、ジョナサン・ポネマンの意向を重んじ、スケールアップを図り、世界中にオフィスを開き、メジャーレーベルのような存在感を示そうとした。しかし、この決断により、皮肉にも、サブ・ポップのレーベルカラーを失う結果となり、以前の特性を維持することが困難となった。正直、ニルヴァーナやサブ・ポップのリリースしたレコードのブームは一過性のものでしかなく、永久的な音楽市場の需要を築き上げるまでには至らなかった。1990年代後半、グランジブームが下火になるにつれ、サブ・ポップのレーベルの経営は息詰まり、1997年には破産寸前まで追いやられた。


この時代、コストを削減するため、余分なオフィスを手放す必要に駆られたのち、残留したスタッフの給料を捻出できないほどになっていた。サブ・ポップのレーベルとしての未来は、決して明るくないように思えた。

 

 

5.最初のレーベル理念の復活 

 

 

 

しかし、再び時を経て、ジョナサン・ポネマンが、シアトルに戻った時、重要なインスピレーションを得た。彼は、それまでの三年間、なんとしてでも巨大なレコード会社へ成長させようと試みていたが、そもそもその考え自体が誤りであったと気がついたのだ。


サブ・ポップと契約しようとするバンド、アーティストはそもそも、メジャーレーベルに属するミュージシャンと異なり、インディー体質、つまり、ある程度、DIYのスタイルを保持し、音楽活動を行っていきたいと考えるアーティストばかりだと、ジョナサン・ポネマンはようやく思い至ったのである。

 

それは、インディーレーベルらしい家族やコミュニティのような近い関係を、レコード・レーベルとアーティストが結ぶことにより、アメリカのインディーロックの重要な価値観であるDIYの精神を強固に構築するものでもあった。むしろ、これらのアーティストは、サブ・ポップというレーベルを通して、他のメジャーレーベルでは味わえない経験を得たいと考え、契約を結ぶことが多かったのだ。

 

この重要なレーベルコンセプトに気がついたポネマンは、以後、企業規模を縮小していく方針を取る。サブ・ポップは、以前と変わらず、財政面での苦戦を強いられ、その将来も見通せないままであったにせよ、ポネマンは、サブ・ポップの社屋をシアトルに戻し、巨大レーベルとしての道を諦め、その後、シアトルらしいレコード企業として小さな経営を続けていくことを決断した。

 

 

その後、幸運にも、サブ・ポップの財政面での困難を救ったのが、The Shinsの「Oh,Inverted World」2001のリリースだった。  

 

 

The Shins 「Oh Inverted World」2001 Sub Pop

 

 

「Oh Inverted World」は、商業的にも批評的にも概ね好評で、新たなサブ・ポップの代名詞とも呼ぶべき名盤となった。The Shinsのレコードは、Sub Popの歴史に新たな1ページを加え、レーベルの明るい未来に向けての新たな分岐点を形作ったと言える。

 

 

 

6.サブ・ポップの現在 シアトルの象徴

 

 

 

2000年代以降、サブ・ポップはジャンルにかかわらず、多岐にわたる新人アーティストの発掘に努めている。

 

2021年現在、ロックにとどまらず、フォーク、R&B、エレクトロニック、ヒップホップ、と魅力的なアーティストが数多く在籍し、刺激的なリリースを行っているレーベルであることに変わりはない。

 

同じように、サブ・ポップは、NYのMatadorと並んで、アメリカの重要なインディーズレーベルとして息の長い経営を続けている。それのみならず、スターバックス、アマゾンと並んで、シアトルを代表する企業であることにも何ら変わりない。サブ・ポップのレーベルの特色、そして、所属するアーティストの独特な音楽性は、現在もシアトルという土地の象徴的なブランドを形成しているのだ。

 

7年前から、シアトルのシータック空港(シアトル・タコマ国際空港)内には、サブ・ポップのレコードショップが開設されている。


ここには、サブ・ポップのPNW関連の商品を販売するパートレコードストア、それから、パートギフトショップであるサブ・ポップ・エアポートストアが開かれており、レコードマニアにとっては見過ごすことのできない観光名所となっている。2021年現在も開設されているのかについては、シアトル現地のファンの証言に頼るしかあるまい。

 



シアトル・タコマ国際空港内のサブ・ポップ公式ショップ

 

2018年にサブ・ポップは、遂に目出度く三十周年を迎えた。いや、迎えてしまったと言えなくもない。(これは、彼らが「創業三十周年」ではなく、「廃業三十周年」と自虐的に呼んでいることからも明らかである)

 

長年にわたるレコード会社として粘り強いDIYスタイルの経営を続けてきたことに加えて、財政面で浮き沈みの激しかったレーベル運営という面で、シアトルのサブ・ポップレコードは、英国のラフ・トレードにも近い魅力を持ったレコード会社といえる。


今後、果たして、どのような素晴らしい魅力を持つアーティストがこのアメリカの名門レコード会社から出てくるのだろう。音楽ファンとしてはワクワクしながら次なるビッグスターの登場を心待ちにしたい!!



・Reference 


「A History of Sub Pop Records」Lauren Armao 2021

 

Kota the Friend

 

コタ・ザ・フレンドは、NYのブルックリンを拠点に活動を行っているアヴェリー・マルセル・ジョシュア・ジョーンズのヒップホップ・プロジェクト。

 

ジョシュア・ジョーンズはブルックリン出身で、若い時代から音楽に親しみ、トランペット、キーボード、ギター、ベースなど多種多様な楽器の演奏を習得する。ブルックリンアートハイスクールを卒業した後、ファイブ・タウン・カレッジに通い、トランペットを専攻。大学在学中に、ジョシュア・ジョーンズはヒップホップアーティストとしての活動を始め、Nappy Hairというトリオで活動を行い、ミックステープ、「Autumn」「Nappy Hair」をリリースしている。

 

2015年からコタ・ザ・フレンドのステージネームを冠し、ミュージシャンとしての本格的な活動を開始。この「KODA」という名には、ディズニー映画「ブラザー・ベア」に登場する子熊に因んでいるらしく、誰もが友人を必要としていて、自分の生み出す音楽が友人を見つけるためのインスピレーションになれば嬉しい、というジョシュア・ジョーンズの温かい思いが込められている。

 

コタ・ザ・フレンドは徹底して、DIYの精神を貫き、インディーラッパーとしてこれまでの活動を継続している。

 

デビュー前に、メジャーレーベルからの契約の誘いを断り、その代わりに、自主レーベルとアパレルショップを立ち上げた後、2018年に「Anything」、2019年にはデビュー作「FOTO」をリリースし、アメリカのイーストヒップホップシーンにおいて大きな存在感を示した。


コタ・ザ・フレンドは、幼い頃に両親が聴いていた、チルアウト・ジャズ、ソウル・ミュージック、それからNujabes、N.E.R.D、NAS、Biggiie、JAY-Zのような、幅広いヒップホップアーティストに音楽のバックグランドを持つ。




「Lyrics To Go Vol.3」fltbys LLC





Tracklisting


1.Scapegoat

2.Twenty-Nine

3.Bitter

4.Prodigal Son

5.Breath

6.For Troubled Boys

7.Dear Fear

8.Shame

9.Boy

10.Cherry Beach 




さて、今週の一枚として紹介させていただくのは、アメリカ東海岸のヒップホップシーンの最重要アーティスト、コタ・ザ・フレンドの1月14日リリースの新作「Lyrics to GO Vol.3」となります。 

 

この「Lyrics to GO」という作品は、一つの意識の流れを意味し、必ずしも、完全な曲としてリリースされたものではなく、アイディアを集約した作品で、オリジナルアルバムをリリースする間に挟むことにより、創作を円滑に繋ぎ合わせるというアーティストの意図が込められています。


全ての楽曲は、一分半、二分のランタイム。ジョシュア・ジョーンズが、今、メッセージとしてぜひとも伝えておきたいことをフロウに込める簡潔な雰囲気の作品です。一作目の「Lyrics to GO Vol.1」は、インディーアーティストながら、ビルボードのUSチャートトップ10にランクインした話題作。そして、この作品は、「Lyrics to GO」三部作の完結と見てもよいかもしれません。

 

この作品「Lyrics to GO Vol.3」が素晴らしいのは、表向きに見えるシンプルな楽曲構成の魅力もさることながら、叙情的な雰囲気が漂っていることに加え、ヒップホップに旋律性や和音性をもたらそうとしている点。


また、ジョシュア・ジョーンズの本格派のフロウはバックトラックのジャジーな雰囲気と相まって、独特な美しいハーモニクスを生み出しています。正確に言えば、和音が意図して構成されていないにも関わらず、アンビエンスの倍音によって複雑な和音が生み出されているのが見事と言えます。


全体的には、コタ・ザ・フレンドのこれまでの既存の作品の音楽性を引き継ぎ、家族や友人といった出来事に歌詞のテーマが絞られ、ローファイ・ホップの雰囲気を持った楽曲が数多く収録されています。これまでの作風と同じく、コタ・ザ・フレンドは、多彩なアプローチを図り、ヒップホップの中に、ソウル、ジャズ、フォークの要素をオシャレにそつなく取り入れています。

 

「Lyrics to GO Vol.3」は、メモ書きのような意味を持つ作品のため、本義のオリジナルアルバムとは言いがたいかもしれません。いや、それでも、これらのトラックに込められたジョシュア・ジョーンズのフロウの軽やかさを聞き逃すことなかれ。この作品は、爽快かつリラックスして聴くことのできる個性的な楽曲ばかり揃っていて、聴いていると、ほんわかした気分を与えてくれます。

 

「アイディアの集約」という意図で制作されたデモテープのニュアンスに近いリリースであり、長い時間を掛けて制作されたわけではないからか、アルバム全体には、爽快で軽やかな雰囲気が漂っています。

 

しかしその一方、長く聴けるような渋さも十分に併せ持った作品でもある。また、このコンピレーションで繰り広げられるコタ・ザ・フレンドの痛快で軽やかなフロウは、先行きの不透明な現代社会だからこそ意味深いもの。きっと多くのリスナーに、明るく、温かな息吹を与えてくれるはず。

 

今作は、本格派のフロウでありながら、通好みのローファイ感が満載。まさに、コタ・ザ・フレンドの名の通り、ヒップホップファンにとっての「長きにわたる友」と言えるような雰囲気に満ちた魅力的な作品。

 The Weeknd



ザ・ウィークエンドはカナダ出身、エイベル・マッコネス・テスファイの音楽プロジェクトである。

 

シンガーソングライター兼音楽プロデューサー、フランク・オーシャンやミゲルら共に、コンテンポラリーR&Bの新しいスタイル、「Alternnative R&B」を確立したとされる。

 

エイベル・マッコネス・テスファイは、カナダ、トロント生まれのソウルシンガーである。トロント東部にあるスカバロー地区で育ち、両親はともに、1980年代にエチオピアからカナダに移住した移民である。両親は共働きに出ていたため、エイベル・マッコネス・テスファイは幼少期、祖母に育てられ、英語は話せず、エチオピアの公用語のアムハラ語を話した。その後、両親が離婚した後、祖父母の元に引き取られた。この時代からテスファイは、エチオピア正教会の礼拝に出席するようになった。

 

その後、テスファイは、スカバローにある高校に通ったが、17歳の時に学校をドロップアウトした。

 

この時代、後年になって彼のクリエイティヴ・ディレクターを務めるようになるラ・マー・テイラーと一台のヴァンでトロントのバークデール地区に転居する。家出をした後、テスファイは、ドラッグを売りさばきながら、友人二人とルームシェアを始めるも、その後ルームメイトから家を追い出されたのち、複数の女性の家を転々とする苦しい生活を送った。

 

その後、彼は、アメリカのアパレル会社に勤務を始め、同時にミュージシャンとしての道のりを歩みはじめた。ソングライティングやレコーディングを開始した当初は、他人のために作曲を始めたようだが、レコードの買手がいないときに自分のための作曲を行うようになった。


エイベル・マッコネス・テスファイが用いるステージネーム「The Weeknd」は、このデビュー前の苦しい下積み時代のエピソードに因んでいて、ルームメイトから家を追い出されたのが週末だったことに由来している。「The Weeknd」のスペルに「e」が抜けているのは、当初、カナダ国内に同名のロックバンドが存在したことによる。

 

 

 

 「Dawn FM」 Xo

 

 

 

 

 Scoring

 

 

 


Tracklisting

 

1.Dawn FM

2.Gasoline

3.How I Do I Make You Love Me?

4.Take my Breath

5.Sacrifcei

6.A Tale By Quincy

7.Out of Time

8.Here We Go...Again(feat.Tyler,the Creator)

9.Best Friends

10.Is There Someone Else?

11.Starry Eyes

12.Every Angel is Terrifying

13.Don't Break My Heart

14.I Heard You're Married(feat. Lil Wayne)

15.Less Than Zero

16.Phantom Regret by Jim



2020年3月にリリースされた前作「After Hours」から約二年ぶりとなるザ・ウィークエンドとして五作目のスタジオ・アルバム「Dawn Fm」は今年の1月7日にサプライズリリースされた作品。

 

「Dawn FM」は、1980年代のシンセポップやディスコサウンドに触発された作品で、テスファイの生き生きとしたサウンドの妙味が引き出された快作である。サウンドレコーディングには、タイラー・ザ・クリエイター、リル・ウェイン、その他、クインシー・ジョーンズとジム・キャリー、ワン・オートリックス・ポイントネヴァーと、ヒップホップからR&B、アンビエントと、実に多彩かつ豪華なアーティストが勢揃いした話題作といえる。

 

ここでは、往年のディスコサウンドのグルーヴ、そして、クインシーのブラックミュージックの快活さ、近年トレンドであるシンセ・ポップの鮮やかさ、さらにはヒップホップのフロウの力強さ、これらの要素が合わさることでオルタネイティヴなR&Bの快作が生み出されている。

 

もちろん、ブラック・ミュージックにとどまらず、「Out Of Time」では、日本のアーティスト”亜蘭知子”の「Midnight Pretenders」のサンプリングが用いられていたり、多角的かつ多彩なアプローチを交えた聴き応え満点のフルレングスアルバムである。

 

また、「FM Dawn」は近年のイギリスやアメリカのR&Bリバイバルブームの流れに上手く乗った作風ともいえる。さらに、このアルバムに収録「Sacrifice」にあらわれている通り、グルーブ感満載のシンセサイザーベースの痛快なR&Bは表向きには華やかな印象を持つが、そこに、テスファイの音楽フリークとしての矜持が見て取れるのである。

 

これらのオルタナサウンドには、メインストリームに対する痛烈なアンチテーゼのような概念もほのかに宿っており、そのあたりの迫力が、今作全体に、軽薄さとはかけ離れた渋さのような雰囲気を添えている。つまりこの作品は、キャッチーではあるものの、その中にも抜けさがない強さのようなものが中心にしっかりと据えられているのである。

 

ザ・ウィークエンドは、この新作アルバムについて以下のように暗喩を交えて語っている。以下のテスファイの言葉は、この作品のニュアンスをいかなる評言よりも的確に表現しているに違いない。

 

 

「リスナーが死んだような、そんな作品を是非想像してもらいたい。そして、彼らは煉獄から抜け出せない。トンネルの渋滞から抜け出せない中、出口の明かりを目指すような状態を制作段階で意識していた。

 

そして、その渋滞の中で、彼らは、クルマのラジオを聴いている。ラジオの番組ホストは、あなた達を光へと導き、向こう側に行けるように助けてくれるだろう。だから、これは、祝福してるようにも思えるだろうし、それとは正反対に、全然希望がないと思うかもしれない。そう、それがまさに俺にとっての「The Dawn」なんだ」

 


 




・Apple Music Link

 

Dawn FM
Dawn FM

ドイツのクラシックを専門とするレコード・レーベル、ドイツ・グラムフォンが2021年のベストパフォーマンスをルックバックし、1月10日に二時間以上にも及ぶ凄まじいヴォリュームの昨年のベストパフォーマンスを集めた動画「Best of Deutsche Grammophon 2021」を公開した。

 

 



 

この動画内で取り上げられているベストパフォーマンスの演奏者の中には、2019年のチャイコフスキー国際コンクールピアノ部門で第二位を獲得している日本人若手ピアニスト、藤田真央が紹介されている。その他、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の芸術監督を務めるサイモン・ラトルの演奏、また、イタリア人巨匠ピアニスト、マウリツィオ・ポリーニらの魅力あふれるライブパフォーマンスが動画内で紹介されている。他にも、この動画内では、クラシック音楽にとどまらず、今、注目のポスト・クラシカルシーンの若手アーティストも取り上げられている。

 

クラシックファン、そして、ポスト・クラシカルファンにも是非チェックしていただきたい動画です。 

 


「Best of Deutsche Grammophon 2021」は、以下、ドイツ・グラムフォンの公式リンクよりご覧下さい。

 

https://www.youtube.com/watch?v=hHerWLVjKL8