これまで、アメリカーナ、ラテン、メキシカンといった独特な音楽のルーツを感じさせるアルバムを制作するインディーロックバンド”Calevico”が、十枚目のスタジオ・アルバム「El Mirador」のリリースを発表しました。Carexicoは、アルバム発売のアナウンスに併せて、リードトラック「El Mirador」のミュージックビデオを公開しています。

 

このアルバムの作品コンセプトについて、CarexicoのJoey Burnsは以下のような説明を行っています。 


「エル・ミラドールは、家族、友人、共同体に向けて、捧げられています。パンデミックは私達がお互いに必要とする全てのことを明らかにしました。そして、音楽というのは、私達にとって、分断された社会や人間関係に橋を架け、人々や、社会に、包摂性や積極性をもたらすための手法なのです。もちろん、現代社会の世相の変化というのは、人々に対し、一定の悲しみや憂鬱をもたらすと思います。それでも、常に音楽は、人々や社会に対してなんらかの変化や動きを働きかけるものなのです」


 

シカゴのインディーレーベルTouch And Goの傘下である”Quarterstick Records”から多くのレコードをリリースしてきたキャレキシコは、1990年代から、ラテン、メキシカン、アメリカーナといった様々な音楽性を交えてアメリカ社会の多様性を真摯に表現してきたロックバンドです。

 

4月8日にリリース予定の「El Mirador」は、パンデミック時代の分離に橋をかけ、それらをつなぎ合わせるような役割を持った作品となりそうです。インディーロックファンは要注目のアルバムとなります。

 

 

 

「El Mirador」




Tracklisting


1.El Mirador

2.Harness The Wind

3.Cumbia Penninsula

4.Then You Might See

5.Cumbia del Polvo

6.El Paso

7.The El Burro Song

8.Liberada

9.Turquoise

10.Constellation

11.Rancho Azul

12.Caldera



https://calexico.lnk.to/elmirador

 

 

 



 


 

アメリカ、カルフォルニア州、LAを拠点に活動するラッパー、ブレインフェーダーのレーベルオーナー、そして、映画製作者として、さらには、サウンドトラックのスコア制作と、近年、多彩な才能を発揮しているフライング・ロータス。彼は、このたび、二作目のSFアクションホラー映画「Ash」が今年夏に公開予定であるとアナウンスした。

 

今回の自作の映像作品において、フライング・ロータスは、やはりというべきか、映画監督とサウンドトラック制作の両方を担当している。このホラー映画について、「”Ash”は、五感を駆使したハイテンションSFサヴァイヴァルホラーだ。私達はまだ見ぬ手法を駆使し、ストーリーを伝えるための新たな方法に取り掛かっている」と期待感満載の発言をし、ファンの気持ちを盛り上げている。

 

この物語「Ash」の原作の脚本は、Jonni Remmler。遠くの惑星で目を覚まし、宇宙ステーションの乗組員が殺戮されているところを目撃した女性にフォーカスを当てて、ストーリーが急激な展開を見せていくという。 

 

 

「私はSFの分野で革新を起こしたいという強い願望を持っており、視聴者がこれまでに見たこともない作品を世界に対して示したいと考えている」

 

また、ロータスは次のようにも語っている。

 

「また、ちょっとだけ、制作秘話を打ち明けると、今回、私は、ニコラス・ケイジ主演の「Mandy」、イコ・ウワイス主演の「The Raid」と同じキャストと制作を始めているんだ」

 

 

2017年、フライング・ロータスは、映像監督としてデビュー作となる長編映画「Kuso」を発表した。

 

この作品は、「これまでに制作された中で最も悪趣味な映画」と評され、センセーショナルな反応を巻き起こした。アメリカ、ユタ州で開催されるサンダンス映画祭では、ストライキを食らったものの、その悪趣味さにもかかわらず、いかにもフライング・ロータスらしいユーモア、シュールさが発揮された映像作品として、マニアの間で少なからずの称賛を浴びた画期的な一作だった。


昨年、フライング・ロータスは、ラキース・スタンフィールド主演のNetflixの作品「Yasuke」のサウンドトラックも出掛けている。この作品では長年のコラボレーター、サンダーキャットと作業を行った。


フライング・ロータスは、この映画シリーズのスコアだけではなく、コンサルタントやエグゼクティブプロデューサーも兼任している。現在、Flyloは、音楽業界だけではなく、映画業界にも活躍の幅を広げていき、そのほかにも、ビジネスマンとしての隠れた才能が花開きつつあるようだ。

 

今回、発表されたフライング・ロータスの二作目の映像作品「Ash」は今夏にリリース予定となり、すでに1月下旬にキャスティングが始まっている。前作「Kuso」と同様、ホラー映画ファン、アクション映画ファン、SF映画ファンの間で、センセーショナルな話題を攫いそうな作品である。

 

Tomasz Bednarcsyk

 


トマシュ・ベドナルチクは、ポーランドのヴロツワフ在住の電子音楽家、サウンドデザイナーです。 

 

2004年以来、前衛的なアンビエントサウンドの解釈を通して、新鮮で親しみやすい性質を持った楽曲を数多く生み出して来ました。

 

ベドナルチクは、アコースティックループ、そして、自身のスマートフォンで録音したフィールドレコーディングをトラックとして緻密かつ入念に重ね合わせていき、奥行きがあり、時に暗鬱で、時に温かな、叙情性あふれるデザイン性の高いアンビエント音楽を数多く作り出しているアーティストです。


Wire Magazineは、トマス・ベドナルチクの音楽について、「・・・彼の作品は、音の断片に光に当て、それらの幾何学性を与え、音は絶妙な均衡を保っている。彼の作品は、アレクサンダー・カルダーの彫刻のように平均感覚を呼び覚ますものである」と2009年のレビューにおいて評しています。

 

ベドナルチクのデビュー作「Sonice」はAvangarde Audio Recordsからリリースされています。2007年、彼は、他のアーティスト、Flunk,Gusky,Mr.S、Novika,Old Time Radio、3 Moon boysの作品を取り上げ、独自のスタイルを追求しました。上記のリミックス作品のコンピレーションにより、彼は電子音楽家、サウンドプロデューサーとして注目を集めていきます。


オーストリアの著名なレーベルRoom 40からリリースされた二作目のスタジオアルバム「Summer Feeling」は、これまでのベドナルチクのキャリアにおいて代表作の一つに挙げられる作品です。

 

穏やかさと繊細さを兼ね備えたアンビエントのサウンドアプローチは、Wire Magazineを始め、多くの音楽評論家から好評を受けました。その後、「Wire Magazine MP3 Special」、「Shortcut to Polish Music」をはじめとするコンピレーション作品、日本のポスト・クラシカルシーンのアーティスト、Kato Sawakoのリミックス作品を始め、多くのリミックス作品を手掛けていくようになりました。

 

その後、Tomasz Bednarcsy名義のソロアルバムの発表を重ねていき、「Painting Sky Together」「Let's Make Better Mistakes Tomoroow」といった美麗なアンビエント作品を、Room 40,12Kといった著名な電子音楽専門レーベルからリリース。二作目のアルバム「Painting Sky Together」は、BBCラジオ3でオンエアされ、アンビエント作品として好評を受けています。

 

その後、三作目のスタジオアルバム「Let's Make Better Mistakes Tomoroow」発表後、2010年にトマス・ベドナルチクはソロ活動を引退すると発表しましたが、その後、その宣言を撤回、ソロ活動を再開。2018年に「Music For Balance and Relaxation Vol.1」をリリースした後、2021年までに四作の素晴らしいスタジオ・アルバムを発表しています。

 

「Windy Weather Always Makes Me Think Of You」 12k

 


 

 Scoring

 

 

 

Tracklisting

 

1.Stormy

2.A Man With A Bagpipe

3.Underwater Kalimba

4.Playing Stairs

5.Thema Ⅲ

6.Out Of Tune

7.Somewher In Hawaii

8.Underknown Memories

9.What Happens Whe Glaciers Melt?

10.White Noise


 

ホワイトノイズを活かし、そのノイズの精彩な質感をフィールドレコーディングの録音と巧みにリミックスとして融合し、さらに、それを美麗なアンビエント音楽として昇華しているポーランドの作曲家トマス・ベドナルチクは、1月28日リリースされた「Windy Weather Always Makes Me Think Of You」においても、その音楽の方向性をさらに前進させたと言えるでしょう。


この作品は、数年をかけてトマス・ベドナルチクがスマートフォンの録音機能を介してレコーディングした音の素材を巧みにトラック制作で処理を重ねた「音の日記」のような意味を為しているように思えます。これまでの作品と同様、風景に接したときの人間の心の変化であったり、叙情を音という側面から観察し、それをきわめて抽象性の高い作風へと仕上げているのが見事です。

 

ベドナルチクの生み出す音の質感というのは繊細であり、それでいて奥行きが感じられるのが特徴で、その点は今作でも引き継がれているポイントといえ、電子音楽という形式ではありながら、オーケストラの生演奏を聴いているかのような温かみのある雰囲気も十二分に感じていただける作品です。

 

今回、この作品において、ベドナルチクは、コンセプト・アルバムのような形式を選び、アンビエント音楽としての風景、サウンドスケープがなんの停滞もなくゆるやかにうつろいかわっていきます。それはまさにアルバムアートワークに描かれているごとく、遠目から美麗な海岸沿いの風景を眺めるかのような美しさに満ち溢れた音楽です。

 

時には、嵐、また、時には、おだやかな海、そして、ベドナルチク自身がその風景と身近に接した瞬間の心の動きのようなものが音楽を介し表現されているようにも思えます。時に、それは、暗さを持ち、また、時には、明るさ、激しさ、穏やかさといった様々な形を取って展開されていきます。

 

サウンド・デザイナーとしての二十年に近い長いキャリアを持つ音楽家が長い間、直に接してきた印象的で抽象的な風景の数々が、この作品では実に美麗に描き出されています。それは、人の長い一生を表す物語に、耳をじっと澄ますかのような、味わい深さを持ったアンビエント作品と称することも出来るはずです。

 

bandcamp:


https://12kmusic.bandcamp.com/album/windy-weather-always-makes-me-think-of-you

 


 

イギリス、サウスロンドンを拠点に活動するBlack Country,New Roadのリードシンガー兼ギタリストのアイザック・ウッドがバンドを脱退することが正式に決定しました。1月31日、このバンドに知性と文学性をもたらしていたアイザック・ウッドは、メンタルヘルス問題を理由にBlack Country,New Roadを去ると表明。今回の知らせは、バンドのtwitter公式アカウントの投稿を通じて明らかとなった。

 

バンドを脱退するアイザック・ウッドは文書を通じて、以下のような声明をファンに向けて出しています。



「皆さん、こんにちは。この度、私が、最も悲しみ、恐れていることを、皆さんにお伝えしなければならなくなりました。そして、私自身は、このことを事実ではなければ良いと捉えようとしていますが、残念ながら、精神的な理由により、これ以上、このバンドでギターを弾き、同時に歌ったりすることが困難になってしまいました。以前までは当たり前だったことを難しくさせているのは、私の心にある恐れや悲しみの気持ちです。

 

これまで、Black Country,New Roadの他の六人のメンバーと一緒に曲を書いたり演奏したりすることは、私にとって信じがたいような出来事ばかりでしたが、つまり、皆さんにお伝えしたいのは、現時点から、私はこのグループのメンバーではなくなったということです。

 

ただ、以下のことだけは明確にさせてください。 Black Country,New Roadの他の六人のメンバーは、私の知っているかぎりにおいて、最も素晴らしい人々であることは確かです。彼らは、きらきらと輝くような、明るさを持った素晴らしい人々でした。この文章をお読みになっている皆さんなら、そのことを既に充分ご存知かと思われます。最後に、私達に声援を与えてくださった皆さんにこのようなことをお伝えできることは、私にとってこの上ない喜びです。

 

「皆さん、どうもありがとう!!」

  

                             Isaac Wood



アイザック・ウッドの脱退の知らせは、今週のBlack Country,New Roadのセカンドアルバム「Ants From Up There」のリリースの直前にもたらされた。今後、予定されていたイギリス及びアメリカツアーは全てキャンセルされた。今後、Black Country,New Roadはアイザック・ウッドなしでバンドの活動を続行する。バンドは、アイザック・ウッドの脱退について以下ののようなコメントを提出している。

 

 

「アイザックは、グループの一員ではなくなりましたが、私達は、今後も Black Coutry,New Roadとして音楽を作りつづけるつもりです。実際、私達は、すでに次の作品に取り組んでいる最中です。これまでアイザックがこのバンドに与えてきた影響、実際の為した仕事についてはあまりに多すぎて、ここで逐一取り上げることは難しいですが、これまでにリリースされている音源を聴くことにより、彼がどのような影響をこのバンドに与えてきたのか、理解していただけるだろうと思っています。

 

いえ、もしかすると、それは理解しえないほどに大きなものだったのかもしれません。これまで彼とともに過ごした七人のグループとしての経験が、どれほど私達に大きな影響を及ぼしてきたのかについて、明確な言葉にすることは出来ないという気がしています。実際、これまでアイザックを含め、私達がどれだけの多くの経験を共にしてきたのか皆さんにわかりやすく伝えることは難しく、つまり、首尾一貫したことを端的に書くことは、実際の経験があまりに多すぎたため、困難をきわめるのです。

 

それでも、七人のグループとして、数年間、共に作曲をし、演奏をしてきたことは、私達にとって他では得られない特権のようなものだったと考えています。既に述べましたように、アイザックをのぞいた私達六人は、Black Country,New Roadの新たな音源に取り組んでいる真っ最中です。新しい音源と新たなライブパフォーマンスについての更新のお知らせを、皆様になるべく早くお伝えできるようにしたいと考えております。

 

これまで、私達、Black Country,New Roadを支えてくださった全ての人々、そして、これからも引き続いて私達を応援してくださる方々に多大なる感謝を捧げます。愛と友達、そして、未来へ」


Steve Gunn

 

 

スティーヴ・ガンはフィラデルフィア出身、NYのブルックリンを拠点に活動するシンガー・ソングライター。

 

アートと音楽をテンプル大学にて専攻した後、ニューヨークに転居し、音楽活動を開始する。その後、カート・ヴァイルのバックバンド、The Vibratorsのギタリストとして活動を行っている。

 

スティーヴ・ガンは、マイケル・チャップマン、ラ・モンテ・ヤング、インディアンミュージック、ジョン・ファレイ、ジャックローズ、ロビー・バショー、サンディ・ブル、といった音楽家から強い影響を受けている。


アコースティックギタリストとしての類まれなる腕前を遺憾なく発揮し、これまでに素晴らしいフォーク音楽を生み出している。スティーヴ・ガンのサウンドアプローチは、古典的なフォーク音楽からコンテンポラリーフォークまで、幅広い音楽性を擁している。

 

2009年から、ガンは、マイケル・チャップマンの所属するParadise of Bachelorsと契約を結び、今年までに六枚のスタジオ・アルバムを残している。


2021年には、ロードアイランド州で開催されるニューポートジャズフェスティヴァルのカウンターパートとして1959年に始まったNew Port Folk Festivalにも出演し、フォーク音楽アーティストとして知名度を上げつつある。

 

2016年、ニューヨークの名門レーベルMatadorとの契約を結び、「Eyes On The Lies」をリリース、その後は同レーベルから作品の発表を続けている。最新作「Other You」は収録されている11曲全てのソングライティングをスティーヴ・ガン自身が手掛けており、これまで、ソニック・ユースのサーストン・ムーア、カート・ヴァイルといった著名なアーティストの作品に参加しているハープ奏者メアリー・ラティモアを、ゲスト・アーティストとして招いて録音された。





「Nakama」 EP Matador 2022

 

  


Nakama

 

 

Scoring  

 

 

 

Tracklisting


1.Protection

2.Good Wind

3.On The Way

4.Ever Feel That Way

5.Reflection

 

 

「Nakama」Listen on:

 

https://stevegunn.ffm.to/nakama 

 

 

スティーヴ・ガンは、昨年「Other You」という快作を発表している。この作品について、フォーク専門ラジオのグレン・キンプトンが「これまでで最もエレガントなスティーヴ・ガンのソロ作品である。共感性のあるアレンジがずらりと並んでいる」という手放しの称賛を送っている。

 

2009年のソロデビュー当時から、カート・ヴァイルのバックバンドに属していたこともあり、ギタリストとして脚光を浴びてきた印象を受けるスティーヴ・ガンは、グレン・キンプトンの言葉に倣えば、近年の作品において、ヴァーカリスト、シンガーソングライターとしての才覚をひらきつつあるように思える。プロデューサーとして、ジャスティン・トリップを招き、絶妙なコンビネーションを発揮し、バランスの取れたサウンドスケープを前作「Other You」で丹念に構築した。

 

そして、最新ミニアルバムの「Nakama」は、日本語の「友好関係」を示す言葉を題名に取り入れた作品で、レーベルメイトであるギタリスト、Mdou Moctorを始め、複数のゲストミュージシャンを「仲間」として招聘してリミックスとして制作された作品だ。Matador Recordsのリリースコメントによれば、これらは厳密にいえば、カバーとして位置づけられた作品ではなく、といって、コラボレート作品でもなく、完全なスティーヴ・ガンの新たなソロ作品とレーベル側はみなしている。

 

Matador Recordsの言葉は、販促のために付け加えられた体裁の良いコメントでないことは、上記の楽曲を聞けば理解していただけるはず。それくらい聴き応えのある作品といえるのである。おそらく、Matador Recordsは、この作品のリリースに関して大きな手応えと自負を感じているから、上記のようなコメントを出したのである。これらの5つの楽曲は、これまでのスティーヴ・ガンのフォーク音楽のルーツを踏襲した作風に加え、ピンク・フロイドのシド・バレットのソロやドアーズの作品に近い、内省的で思索性の高いサイケデリアに彩られている。

 

しかし、スティーヴ・ガンの生み出すサイケデリアは、自由奔放なバレットの作風とは異なり、理知的なサイケデリアともいえる。今作は、緻密なアコースティックギターのフレーズが入念に紡がれ、ガンの蠱惑的なヴォーカルの雰囲気が絶妙にマッチし、既存の作品よりスティーブ・ガンの個性がこの上なく引き出された傑作といえる。それは例えば、西海岸のLA Priestをはじめとする自由奔放なサイケデリアとは異なる、都会的に洗練された雰囲気を感じさせる傑作だ。

 

西アフリカのトゥアレグ族のギタリスト、エムドゥー・モクターがゲスト参加した民族音楽のエッセンスを添えた「Protection」、あるいは、1970年代のサイケデリックフォークを彷彿とさせる「On The Way」、その他、電子音楽とフォーク音楽を融合させた実験音楽が濃密に展開されていく。

 

作品全体の印象として、「Nakama」は、綿密な構成によって楽曲が連結されていくため、繊細さを感じさせながらも、力強い雰囲気も込められている。これを人間関係をギター音楽としてアブストラクトに表現したものだとまでは明言できかねる。しかし、この作品は、何らかの人情をほのかに感じさせる奥深い音楽である。総じて、今作は、フォーク音楽としての聴きやすさとアートとしての前衛性を兼ね備え、サイケデリアという概念を知性を交えて見事に表現した快作と言える。

 

 

 

・ストリートアートの始まりは? ヴァんダリズムとアートについて


近年、UKのバンクシーのアート形態を見ても分かる通り、一般的な人々の間では、ヴァンダリズムが芸術なのか、それとも、ただの不法行為の戯れに過ぎないのか、という点で意見が分かれるように思える。

 

しかし、芸術と戯れ、その両側面を意義を持つのがこの芸術形態の本質である。ヴァンダリズムという形式はその始まりを見ると、正真正銘のアウトサイダー・アートといえる。

 

元は、「ヴァンダリズムー落書き」と呼ばれるアート形式、グラフィティアートは、1970年代のニューヨークのヒップホップ文化とともに、地下鉄構内の列車の側面に、あるいは構内の壁に、「タグ付け」と呼ばれる自分の名を記すスタイルが流行した後に一般的な芸術として認められるようになった。

 

1970年代、NYのブロンクス区のヒップホップアーティストが「グラフィティ」というアート形態を確立させ、最初のNYのグラフィティシーンの中には、後に、現代アーティストとして有名になる27歳という若さで、オーバードーズによりこの世を去ったジャン・ミシェル・バスキアもいた。ミシェル・バスキアは、他のヒップホップシーンの最初のアーティストたちに混ざり、NYの地下鉄構内で「タグ付け」を行っていた。

 

その後、白人アーティストたちがこのヴァンダリズムカルチャーを広めていき、NYの壁という壁はカラフルなスプレーだらけとなり、混沌とした様相を呈するようになった。1970年代当時のニューヨーク市長は、これ以上、市の景観が損うわけにはいかないという理由で、このグラフィティアートを一掃するための法案を議会に提出したのだ。その後、長い間、グラフィティというアートスタイルは、若者の戯れとしか見なされなかったように思える。

 

ところが、英国のアウトサイダー・アート界に彗星のごとくあらわれたバンクシーにより、このグラフィティアートは美術界で再注目を受けるようになったように思える。町中の公共施設になんらかのメッセージやイラストを書き記すというバンクシーのアートスタイルは、実のところは、この1960年代から1970年代のバスキアをはじめとするヒップホップカルチャーと共に育まれたアートスタイルを巧妙に模倣し発展させたものでしかない。そのことはおそらく、多くの謎に包まれているバンクシー本人が最もよく理解しているはずである。それ以上の付加価値をつけて街の風営法すらをも度外視させているのは美術界、 オークションでバンクシー作品価値を極限まで釣り上げようとする美術収集家の欲望である。その欲望を逆手にとり、自分の芸術にたいする価値を実際より大きくみせようとするパブロ・ピカソに学んだスタイル、資本主義にたいする強烈なブラックユーモアがバンクシーの作風の核心には込められている。

 

そこで、現代になって漸く芸術形態として確立されるに至ったヒップホップカルチャーの一貫として若者の間に広まっていったグラフィティアートというのは、どのようなルーツを持つのか。本来、このグラフィティと呼ばれるアート形態はニューヨークで生じたものでなく、フィラデルフィアの青年矯正院で過ごしていた黒人青年が始めたものだ。


彼は、[コーンブレッド]の異名をとり、のちに死亡説が新聞紙面で報じられ、自分が死んだという一報を自ら目撃し、公共施設のタグ付けにより自分がまだ生きているということを示した、そんな奇妙なエピソードを持つ。

 

コーンブレッドは、黒人アーティストの第一人者であり、人種上のマイノリティとして生きる上での自分の不確かな存在性、アメリカという図りしれない規模を持つ社会において、みずからのアイデンティティを明確に示す方法、スプレー等で公共施設の壁等に自分のニックネームを記すグラフィティの「タグ付け」という技法を時代に先んじて取り入れた芸術家でもある。


「Tag」という概念は、後に、ウェブで用いられる表記法ともなるが、今回、このコーンブレッドなるアーティストから始まったグラフィティアートが60年代から70年代を通して、どのようにアメリカのカウンターカルチャーとして広まっていったのだろうか、その概要を簡単に記していきたい。

 

 

 

1.コネチカットの少年矯正施設ではじまったグラフィティアート  「コーンブレッド」

 

 

グラフィティアートは、これまで音楽、映画、テレビ、ファインアート、ホビー玩具やファッションに至るまで、現代の大衆文化に深い影響を及ぼしてきた。巨大な壁画、ファッションショー、実物大のアートショー、様々な形式で表現される現代のグラフィティのアート形式は、フィラデルフィアの少年矯正施設に1960年代にある黒人の少年が最初にそのスタイルを確立した。

 

1965年、現代グラフィティアーティストとして知られているドリー・”コーンブレッド”・マクレイは、当時、フィラデルフィアの青少年育成センター(YDC)に収容されていた12歳の問題児だった。

 

ドリー・マクレイは、コーンブレッドをひときわ愛し、YDCで提供される食事を作る料理人にコーンブレッドを食べたい、ことあるごとにせがんだという。マクレイ少年は幼い頃から愛しい祖母と一緒にコーンミールいりのパン、コーンブレッドを食べてきたため、その思い出があるからか、YDCの料理人に何度もそのコーンブレッドを食べたいとせがんだのだ。あまりに少年がせがむとき、料理人は彼のことを愛着を込めて「コーンブレッド!!」と言って叱りつけたという。

 

「Cornbread」は、たちまちマクレイ少年のユニークなニックネームに成り代わった。コーンブレッドは内向的な気質を持つ少年であったようで、当時、フィラデルフィアの矯正施設で蔓延していたドラッグの使用、暴力沙汰に他の子どもたちのように参加するのを避けていた。そこで代わりに、マクレイ少年は、それまで、ギャングの名や、シンボルマークで覆われていた施設の壁に独自のニックーネームをスプレー缶で記すことに没頭し、施設内での多くの呆れるような時間を要した。それはまさに、彼が自分自身の有りか、存在意義を確認するために行った行為である。

 


Cornbread

 

コーンブレッドはその後、YDCのほぼすべての表面に、新しく手に入れたスプレー缶で落書きを始め、昼夜問わずタグ付を行う場所を探し求めていた。それはまさに、マクレイ少年はこの施設内において、自分の存在の在り処を確認するための場所を探し求めていたということでもある。やがて、それから、コーンブレッドは、YDCの場所を問わず、ビジターホール、チャウホール、教会、バスルーム、およそ考えられる場所すべてにタグ付けを行い、「Cornbreaad」と記しはじめたため、施設職員のソーシャルワーカーは彼が精神障害に苦しんでいるのだと決めつけた。

 

マクレイ少年はYDCから釈放された後、少年院時代に始めた芸術形式をより洗練させていこうと試みた。彼はフィラデルフィアの街を訪れ、複数の友人と協力し、街じゅうにタグ付を行った。 


この後、コーンブレッドの謎めいたグラフィティの一貫であるタグ付は、フィラデルフィアの人々に少なからずの影響を与えるようになっていく。

 

町中の若者の間でこのタグ付が流行り始め、街の壁は様々な名前と番号が記され、銘々のアーティストはより注目を集めようと躍起になったという。


当時、フィラデルフィアでは、コーンブレッドの名は一般的に浸透し、地元紙がコーンブレッドはギャングに銃殺されたと誤って報じた際に、上記したように、彼は、街じゅうにタグ付けを行うことにより、自分が生きていることを証明した。「自分の名前を生き返られられるのは自分しかいないと分かっていた」と、フィラデルフィアウィークリーのインタビューにもあっけらかんと答えた。

 

 



コーンブレッドは1960年代を通して、グラフィティアートの第一人者としての地位を確立した後、ゲリラ的なパフォーマンスを行い、センセーショナルな話題をもたらした。コーンブレッドは、フィラデルフィア動物園の中に忍び込み、柵を飛び越え、象の檻の両側に「コーンブレッドドライヴ」を描き出した。このゲリラアートには、フィラデルフィアの船の乗組員も半ば遊びで参加していたという。

 

このゲリラスタイルのパフォーマンスは、後のバンクシーなどの現代アーティストに引き継がれている一種の現代アートのパフォーマンスの原初というようにもいえるかもしれない。その後、コーンブレッドは、刑務所で服役するが、しかし、このごく限られた空間でさえ、彼の評判をとどめるものはなかった。

 

その後、彼は、ロジャー・ガストマンのグラフィティアートを取材したドキュメンタリー作品に登場し、刑務所の警備員が自分のところにサインを求めてくる、自分の名はイエス・キリストのように響いていると証言している。

 

 

 

2.NYストリートアートの立役者 「Taki 183」とは??

 


コーンブレッドがグラフィティの祖であることは疑いないが、この形式は一般的なアートとしては認められたというわけでなかった。北米の一地域で知られるニッチなアウトサイダーアートでしかなかったのだ。

 

そして、この芸術形態を、一般的にカルチャーとして広めていったのがTaki 183なる人物だった。彼は、コーンブレッドがフィラデルフィアの街の至る場所でストリートアートを広めていったのと同時期、ニューヨークでグラフィティという芸術形態を最初に普及させた重要人物である。

 

後に、バスキアといったアーティストも参加することになる公共施設の落書きに最初に取り組んだのはニューヨークの子どもたちだった。これは、上記のコーンブレッドと同じように、子供の戯れとしてこのグラフィティが始まったことを示唆している。それらのニューヨークの子どもたちの中に、ワシントンハイツ出身の自称「退屈なティーンネイジャー」を気取ったTaki183が出現した。彼は1969年にギリシャ名であるデトメリウスの変形「Taki」を組み合わせて、革新的なタグ付を確立した。「183」という番号は彼が住んでいた家の番地に因んでいる。

 



 

 

実のところ、Takiは名前と番号という後のヒップホップアートの符号の一つになるスタイルの最初の確立者ではなかった。それ以前にも、自分のニックネームと何らかの番号を組み合わせたタグ付けはニューヨークで存在していたというが、Takiは、「タグ付け」という行為を、最初のプロフェッショナルな仕事に変えた人物で、コーンブレッドが徹底して自分のニックネームにこだわったのとは異なり、Taki 183は、自分の住んでいる家の近所の番地の番号にこだわりを見せたアーティストである。後にComplexというカルチャーマガジンが「ニューヨークの偉大な50人の現代アーティスト」で彼を取り上げていることからも分かる通り、NYのストリートアート界で有名なアーティストとなった。

 

Taki 183はコーンブレッドが黒のスプレーを用いて、モノトーンのヴァンダリズム様式を生み出したのに対し、それとは異なるカラフルな色彩を用いた前衛的なスプレーペイントを世に広めた人物である。

 

しかし、上記のコーンブレッドと同じように、当時、スプレーペイントはアートとは認められておらず、当然ながら違法行為であった。警官に見つかれば、コーンブレドのように収監される可能性があった。

 

そこで、タキは自分の羽織っているジャケットに穴を開け、その中にスプレー缶やマジックマーカーを忍ばせ、ニューヨーク市の至る壁、街灯、消火栓、地下鉄の車両のタグ付を行い始めたが、現代のバンクシーと同様、人目につかない時間、場所を選び、相当、慎重にこのグラフィティ行為をおこなっていたようである。 

 

彼はコーンブレッドと同じように、すぐにこの奇妙な戯れに夢中になった。このグラフィティを行い始めた当時についてタキは、Street Art NYCのインタビューで以下のように回想している。

 

 

「私は自分の名を上げる感覚が好きだった。一度、落書きを始めたらなかなかやめられなかったんだ」

 


Taki 183は、自転車で移動をし、メッセンジャーとしての役割を担っていた。彼はニューヨークのアッパーサイドからダウンタウンに至るまで、自転車で移動し、グラフィティーアートを広め続けた。その後、彼の欲望はつのり、タグ付けにより街を征服しようとする野望を抱えるようになる。

 

この街の征服というTakiの欲求が一般的なメディアで取り上げられるようになった。最初にグラフィティをアートとして報じたのは、The New York Timesだった。ニューヨーク・タイムズは1971年に発行された紙面で、このグラフィティアートの特集を組み、1970年初頭のNYグラフィティシーンを世界に先んじて紹介し、その記事内で、とびきり風変わりなアーティスト、Taki183を取り上げた。ニューヨーク・タイムズで紹介されたことにより、彼の名は、一躍グラフィティーシーンの重要人物としてアメリカの全国区に知れ渡るようになっていった。

 

ヴァンダリズムで有名となった最初のニューヨーカーTaki 183は、コーンブレッドと同じように、実際のタグ付け行為を続けることにより、その後のニューヨークのストリートアートに対して強い影響を与えた。



3.1970年代、NYブロンクス区でのグラフィティの爆発的な流行

 


最初、Taki183が広めたグラフィティというアートスタイルが1970年代のNYをヒップホップと連れ立って席巻するのにはさほどの時を要さなかった。その一連の流れの中に、かのバスキアが登場したというのは既に述べておいた。そして、このアートスタイルが浸透していったのは1970年代初頭で、この年代にはブロンクスのドウィット・クリントン高校を中心にグラフィティコミュニティが形成されていく。都合の良いことに、クリントン高校は、都市交通局の操車場からさほど離れていない場所にあり、この操車場はその日の操業を終えた地下鉄車両が止められている場所、つまり、グラフィティをするのにうってつけの場所でもあったのだ。

 

クリントン高校に在学する若者たちは、この場所を介して、グラフィティを始めた。クラロイン社、ラストリューム社、レッド・デヴィル社のスプレー缶、フロウマスターインキ、さらに当時としては新しいテクノロジーであったフェルトペンを用いて、都市交通局の操車場に停車している地下鉄車両に、わいせつな言葉、へぼい文句を乱雑に書き連ねていった。


クリントン高校に在学する生徒、その仲間たちは、画家や美学生が用いるような専門の道具を使い、地下鉄車両を汚すという意図でなく、コーンブレッドやTakiと同じように、ゲリアアートを描き続けていたのである。これらの生徒は原初のNYのストリートアートの始祖、Taki183と同じようにタグ付けを行っていたことも同様である。

 

もちろん、これらは不法行為でもあったので、彼らはニックネームを用いることにより、巧妙に自分たちの身元をかくしおおせた。 クリントン高校のロニー・ウッドは「フェーズ2」という奇妙なタグを用い、グラフィックアーティストとして人気を博した。当時、「フェーズ2」は、ニューヨーク市内を走る地下鉄の車両の突然出現し、ニューヨーク市でも大きな噂を集めるようになった。

 

最初のNYの学生アーティスト、痩せて浅黒い肌をしたロニー・ウッドは、アフリカ系アメリカ人だった。しかし、事実としては、NYの初期のグラフィティシーンで活躍したのは、その多くがプエルトリコ系か白人である場合が多かった。平均的なニューヨーク市民にとって、人種的な背景というのはそれほど重要視されず、むしろ、そのアート性の強い個性の方が重視されていた。もちろん、グラフィティというのは、暇を持て余した人間、どことなく危なかっしい生活背景を持つ若者の仕業であると誰もが理解していた。実際、当時、グラフィティアートがカルチャーとして普及していくにつれて、多くのニューヨーク市民にとって、市の公共機関にグラフィティがあっという間に埋め尽くされていく様子のは奇異な感覚をもたらし、彼らが隣にあるニュージャージ州、或いは、フロリダ州に転居する原因を作ったこともたしかなことだった。


この後、1970年代にかけて、ニューヨークの地下鉄車両と駅は、交通手段であるほかに、グラフィティアーティストにとっての自由気ままに使用できるキャンバスのひとつに成り代わっていった。

 





学生アーティストたちの奇妙な欲求、創造性を最大限に発揮したいという思い、そして、ニューヨーク市民を震え上がらせたい、といういたずら心はいやまさっていき、ニューヨーク五区のグラフィティアーティストたちは、あらゆる公共機関にタグ付けをこぞって行い、壁を汚し、車両の端から端に至るまで、カラフルな文字を描き出した。

 

当時は、文字のフォントよりも、読みやすさそのものがアーティストの間では重視されていたようである、アーティストたちは、漫画的な文字で自分のスラングネームの「タグ」を書き連ねた。NYのグラフィティシーンが全盛期になると、ほとんどの地下鉄車両が、こういったヴァンダリズムによってカラフルな装飾にまみれていった。



4,ニューヨーク市のグラフィティアートに対する反発、それに対するグラフィティアーティストたちの反発

 


もちろん、ニューヨーク市としては、1970年代を通して、地下鉄をはじめとするあらゆる公共機関がヴァンダリズム行為によってサイケデリックになっていく様子を黙認していたわけではなかった。

 

アート形態としては多くの市民に支持されていたが、当時のニューヨーク市長、ジョン・リンゼイがついに、これらのグラフィティを一掃し、街の美化のために動き出した。 彼は側近であるエドワード・コッチに働きかけ、この若者たちのストリートアートをニューヨーク市の大きな都市問題としてみなし、目にするかぎりのヴァンダリズム行為を取り締まる主旨の法案を制定した。落書きを取り締まることは、無法状態に陥りつつあるニューヨーク市内の景観において、政治家が制御を取り戻した、という市民の信頼を得るためにも行われる必要があったのだ。

 

グラフィティの一掃運動が始まるや否や、アーティストたちも黙認するわけにはいかなくなった。彼らはすぐに抗議運動を開始し、地下鉄のシステムマップと共有する知識を活用し、落書きを増大させていった。

 

芸術というのは常になんらかの脅威に際して新たな発展を遂げる。それはどことなく人類の進歩にも似ているのだ。この市から突きつけられた脅威に際して、グラフィティアーティストたちは、既存の形式を捨て、新たな表現法を確立する。1970年代のグラフィティは新たな進化を遂げ、マジックマーカーという原始的な描写法から、エアゾールを用いた描写法に移行していく。グラフィティアートの作家たちは、新しく、レタリングスタイルを生み出し、星や王冠、花、眼球などのイラストをタグと一緒に用いて、さらにグラフィティアートの完成度を洗練させていく。この時代の作品には、アートとしてみた上で、歴史的な傑作もいくつか誕生する。もはや、最初の子供の落書きのスタイルでしかなかったグラフィティは、一つの芸術として認められるに至る。

 




この時代の象徴的な作家としては、Superkool223という人物が挙げられる。彼は、スプレーノズルが大きほど文字を素早く描き出せることを発見し、グラフィティアートの最初の傑作を生み出している。

 

そのほかにもTracy 168の作品は、ジョン・トラボルタの出演作のオープニングにも使用されるようになった。もちろん、それに加えて、上記の名前を名乗らない「フェーズ2」の作品も一般的に知られていくようになった。





 

フェーズ2を名乗るブロンクス出身のロニー・ウッドは、エアロゾルライティングが主流の、現在のグラフィティの礎「バブルスタイル」を最初に生み出した重要なアーティストである。

 

これは「ソフティ」とも呼ばれる太くてマシュマロのような文字のフォントを用い、1970年代当時の多くのグラフィティアートの中心的な形式となった。フェーズ2は、インターロッキングタイプと呼ばれる矢印の継いた文字、スパイク、目、星などのアイコンを最初に使用したことで知られている。

 




これらのアーティストの台頭した後、ニューヨークのブロンクスで隆盛をきわめてたオールドスクールヒップホップカルチャーと共に、グラフィティは進化していった。ヒップホップの流行とこれらのアート形式は深く関わりあいながら、ひとつの文化として長い時間をかけて確立されていったのは多くの方がすでにご存知のことだろうと思われる。


以後、グラフィティは、アメリカだけではなく、他の国々の若者のカルチャーとして浸透していく。彼らの始めたゲリラアートは子どもの戯れからはじまり、次第に洗練されていき、やがてモダンアートへ継承され、現代のバンクシーを始め、数多くの現代アーティストたちの重要なスタイルの一つとなっている。

 

 


 

現在、Spotify配信に対する大物歌手の抗議運動が沸き起こっている。事の発端は、アメリカのフォークシンガー、ニール・ヤングが先週月曜日に、spotifyで配信されているJoe Roganのポッドキャスト配信において、COVID-19に関する誤情報が出回っているとの意見を示したことにある。spotify側がこのポッドキャストを私企業として支持の姿勢を示したことにより、その後、ニール・ヤングはレコード会社側に掛け合い、結果的にすべての自身の楽曲をspotifyから削除する事を決定した。この騒動について、ニール・ヤングは、公式ウェブサイト上で署名付きの声明を出している。

 

「 Spotifyの事実に反する誤解を招く誤ったCOVID−19の情報を聴いている視聴者のほとんどは二十代の若者です。彼らは印象に惑わされやすく、真実の裏側に振り回されやすい。

 

これらの若者は、Spotifyが非現実的な情報を提供することなどありえないと信じ込んでいる。しかし、残念ながら彼らは間違っている」

 

 

この事実を受けて、Apple Musicは、ニール・ヤングの特設ページ「We Love Niel」を開設し、スウェーデン企業spotifyとの差別化を図っている。今回の決断について、ニール・ヤングは、「COVID-19の誤情報か、それとも(Apple Musicで)自分の曲を聴くか選んでほしい」とファンに切実に訴えかけている。

 

今回、この先週月曜日のニール・ヤングのspotifyの抗議運動に続き、カナダのシンガーソングライター、ジョニー・ミッチェルは、ワクチンに関する誤情報がspotifyのポッドキャストで横行しているとし、自身の楽曲の削除を決定した。「spotifyからすべての音楽を削除することに決めました」と、ミッチェルは彼女の公式ウェブサイトを通じて署名入りの声明を出している。

 

 

「無責任な人々は、多くの人々の命を犠牲にする嘘を広めています。私はこの問題に関して、ニール・ヤングと世界の科学及び医学界と連帯していきます」とニール・ヤングの抗議運動に追従するスタンスを選んだ。

 

 

先週土曜の朝の時点で、1971年リリースされたジョニー・ミッチェルの「Blue」を含めた傑作群がストリーミングサービスから削除されている。今後、この二人の大物ミュージシャンの動きに続く「3人目の大物」が出てくるかどうかが、スウェーデン企業spotifyの命運を左右すると言える。