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 Jayda G 『Guy』

 

 

Label: Ninja Tune 

Release: 2023/6/9



Review

 

Ninja Tuneから発売されたJayda Gのニュー・アルバム『Guy』は、Jack Peñate(SAULT、David Byrne、Adeleを手がける)と共同プロデュースし、IbeyiのLisa-Kaindé Diaz、Stormzy、Nia Archives、Jorja SmithのEd Thomasらが参加している。グラミー賞にノミネートされ、多くの優れた作品をリリースし、忙しい数年をすごした後に渾身の最新作は発表となった。

その間、アーティストはグラミー賞にノミネートされ、テイラー・スウィフトやデュア・リパのリミックスをリリース、グラストンベリー、コーチェラなどの世界最大のフェスティバルやステージをこなし、DJ KicksシリーズやAlunaとのコラボレーションのコンピをリリースし、さらに、BBCの「Glow Up」のゲスト審査員として出演、多忙な日々を送った。また故郷のグランドフォークスで幼なじみの恋人と結婚した(数十年前に両親が結婚したのと同じ家で)。気候の危機に焦点を当てた没入型インスタレーション「Undercurrent」(21年6月、ニューヨーク)では、クルアンビン、ノサジ・シング、マウント・キンビー、ボン・イヴェールらと参加することに。

 

Jayda Gの3rdアルバムは、ある意味では、グラミーの受賞を視野に入れて制作が行われた作品である。本家のビルボートも注目しているので、ノミネートは既に規定路線といえるか。元々は、2019年のデビュー・アルバムの時代からハウス、テクノ、及び、1990年代にロンドンで発生したジャングルのジャンルを元に、低音の強いダンスミュージックに取り組んできた。コアなDJとしてのアーティストの姿は、2ndアルバム『DJ Kicks』で求めることが出来る。ロンドンのダンスミュージックの影響に加え、ネオソウルの影響を加味した刺激的な作品である。既に同レーベルから発売された2作を見て分かる通り、その才覚は世界的なシーンを見渡したかぎり、傑出したものがある。例えばビヨンセのサポート・アクトを務めたNia Archieveと比べて遜色がないアーティストで、潜在的なスター性に関してはこれらのアーティストよりも強いものを感じる。

 

グラミーでの栄冠を手にするため、今作でJayda Gはジャングルやディープハウスの要素に加えて、より大掛かりなテーマを織り交ぜている。彼女は父親の黒人としてのルーツを探り、それを音楽性の中に取り入れようとしたのだった。

 

このアルバムは、「Intro」、「Interlude」を始めとする楽曲で、実際に彼女の父親を思わせるヴォイスが文学のモノローグのように展開される。そこには、米国中西部のカンザス州の荒れた地帯で育ち、近所のいじめっ子や警察、地元当局との様々な交流を描いた「Scars」、「Circle Back Around」、18歳で結婚しベトナム戦争に入隊し、帰国すると妻には別の男がいたことを明らかにする「Heads Or Tails」、「Lonely Back In O」、ワシントンD.C.に移り住んでから、妻との結婚生活に悩まされ続けたこと。夜間のラジオDJとして副業をしていたが、1968年の人種暴動にうっかり巻き込まれてしまう時代を描いた「Blue Lights」等、彼女の父親の人生が複数の観点から緻密に描かれている。これらは例えば、ケンドリック・ラマーが昨年「Mr.Morale~』の中で自分と架空の人物をミックスして独創的な音楽のストーリーを組み上げた手法、あるいは、ラナ・デル・レイの最新作『Did You Know〜』に見られたストーリー風のポピュラーミュージックの手法に近い内容である。音楽の中に文学的な要素を取り入れること、これは最近のミュージック・シーンのトレンドとなっているのである。こと、Jayda Gの場合は、それは家族の歴史をたどりながら紡がれるルポルタージュを意味するのだ。

 

確かに、大掛かりなテーマやイデアを取り入れ、それがもし実際の音楽と分かちがたく結びついた時には「To Pimp~」やカニエ・ウェストのヒット作のような世紀の傑作が生み出される可能性がある。しかし、問題は、そのテーマが実際の音楽と深く結びついているかどうかに注意を向ける必要がある。Jayda Gの『Guy』に関しては、序盤から重苦しい雰囲気に充ちている。父親のモノローグはたしかに注意を向けさせるものがあり、その言葉に聞き入らせるものもあるのだけれど、他のジャングルやディープハウス、ネオ・ソウルの楽曲の中にあって、むしろアーティストの楽曲の楽しさを損ねているという気がする。このアルバムを通して聴いて時に、むしろ、父親のモノローグが音楽自体を苦しくしているような感じがあり、スムーズな流れを断ち切ってしまっているように感じられる。せっかく素晴らしい楽曲がたくさんあるのにも関わらず、それはまた心楽しい雰囲気に充ちているのに、イデオロギーやポリティカル・コネクトネスにより、これらの音楽は雁字搦めにされ、少し重苦しい雰囲気に満たされている。本当にこれらのモノローグが必要だったのか、きわめて疑問点があるとここまでは思っていた。


それでも、アルバムには聴き応えのある良曲が多い。そして、それは2ndアルバムから引き継がれたアーティストの才覚が遺憾なく発揮された瞬間とも言える。「Blue Light」はディープ・ハウスとしてうねるようなビートと、セクシャルなJayda Gのボーカルがマッチし、清涼感すら感じさせるトラックとなっている。ここにデビュー・アルバムや2ndに比べると、よりポピュラーなものをというアーティストやレーベルの意図が伺える。そしてそれは実際多くのリスナーの心を惹きつけるものがあると思う。そして、ビートのはね方については、ソングライターではなくDJとしての覇気のようなものも込められている。エネルギッシュなナンバーで大きな賞にノミネートされてもおかしくないような一曲である。他にも気分を高揚させ、そして気持ちを浮き立たせるナンバー「Scars」も聴き逃がせない。ジャングルを基調にして、ハウス/テクノの影響を交え、弾けるようなポップ・ミュージックが生み出されている。DJセットを交えると、クラブやスタジアムの双方で光り、多くのオーディエンスの共感を獲得しそうな一曲である。

 

その後には、Rosaliaを中心とするレゲトンやアーバン・フラメンコを意識したナンバーが中盤を占める。単なる音楽として聴くと、純粋に楽しめる一曲である。しかし、これらの音楽に父親のベトナム戦争であるとか、私生活に纏わるエピソードが上手くマッチしているかといえば甚だ疑問点が残る。むしろ、そういったエピソードを考えると、何かこれらの純粋なナンバーに暗い影が落ちるような気もする。そしてそれは確かに制作者の思いが複雑にないまぜとなっていることも感じ取れるが、それが何らかの情感や説得力を持ち、胸を打つものがあるのかといえばそうではないように思える。そういったことを考えると、シンプルであるはずのものが複雑になっている気もするのである。観念により音楽に魅力が少しよわめられてしまっているという感じもあった。アルバムの中盤までは良い曲も多いけれど、首を撚ることが少なくなかった。

 

しかし、アルバムの最後に至ると、なんとなくアーティストが考えていることが少し理解でき、より身近に感じられる瞬間もあった。それは、ネオソウルの影響を加味した大人な雰囲気を持つ「Mean To Be」に至ると、そういった売れることへのプレッシャーがすっと消えて、また表面上の見栄や体裁が消えて、Jayda Gというシンガーの持つ本来の魅力が出てくるようになる。これらのネオソウルの影響を交えた楽曲は一聴の価値があり、時代に古びない普遍性が込められている。そして軽快なダンサンブルなナンバーである「Circle Back Around」を経た後、「When She Dance」は同じように、ソウル・ミュージックに依拠した一曲ではあるが、このあたりになると、少しだけ重苦しくかんじられたシンガーの父親の声が楽しげな印象に変化してくる。

 

父の苦難多き人生をほのかな明るさで彩ってみせようというのが、このアルバムの意図であるらしいことが最後になってようやくわかる。であるとするなら、このアルバムの本質はアーティストの父親への愛や優しさという感情の表出なのかもしれない。そして、言ったように、アーティストの最大の魅力は、レコードの一番最後になって滲み出てくる。「15 Foot」では名声を得るという重圧から解放され、純粋な感覚に満ちている。聞き手も、最後の曲で癒やされるようなカタルシスに出くわす。その時、少し重苦しいイメージもあった序盤の印象は立ち消え、温い感情で満たされる。愛情や優しさ・・・、つまりこれがこのアルバムの本質であるとわかると、少なくとも、モノローグは多少冗長さを感じるものの、必要であったとも考えられる。

 

 

 

81/100



Featured Track「15 Foot」

 

Jayda G


カナダのDJ/ハウス・プロデューサー、Jayda Gは、6月9日にNinja Tuneからリリースされるニュー・アルバム『Guy』を発表した。アルバムの発表に合わせて同時に公開されたファースト・シングル「Circle Back Around」のミュージックビデオは以下よりご視聴いただけます。


2019年の『Significant Changes』、2021年の『DJ-Kicks』に続く作品となる。Jayda Gはプロデューサー兼DJのJack Peñateと共同プロデュースし、IbeyiのLisa-Kaindé DiazとEd Thomasが参加している。またこのアルバムはJayda Gが亡き父に捧げた作品となる。

 

「このアルバムは、アフリカ系アメリカ人の経験、死、悲しみ、そして理解をテーマにした、ストーリーテリングのブレンドにしたかった」とジェイダは説明する。

 

「このアルバムは、私の父と彼の物語であり、当然、私の物語でもあるのですが、自分自身をもっと知りたいと願い、それを見つけるために旅に出た多くの人々の物語でもあるのです。このアルバムは、虐げられてきた人たち、楽な人生を歩んでこなかった人たちのためにあるんだ」

 


このアルバムは、原曲の持つ陰鬱な雰囲気にもかかわらず、音楽的にもメッセージ的にも、最終的には高揚感とポジティブな体験となる。



「父の人生をもっと理解したいと思った最大の理由は、診断されるほんの数年前、父が自分自身のために懸命に働いていたことだと思うんだ。ソーシャルワーカーになるために学校に戻り、自分自身と自分の悪魔を調べ、その過程で自分自身を本当によくしていました。これは、自分を見つめ直し、なぜそうなったのかを理解し、より良くなろうと努力することに遅すぎるということはないということを証明しているのだと思います。黒人の経験、黒人のアメリカでの経験を理解し、社会が言うところの『こうあるべき』よりも上に行きたいと考えているんです」




「Circle Back Around」
 

                 



Jayda  『Guy』

 


Label: Ninja Tune

Release: 2023年6月9日


Tracklist:

1. Intro
2. Blue Lights
3. Heads Or Tails
4. Scars
5. Interlude: I Got Tired Of Running
6. Lonely Back In O
7. Your Thoughts
8. Interlude: It Was Beautiful
9. Meant To Be
10. Circle Back Around 03:15
11. When She Dance
12. Sapphires Of Gold
13. 15 Foot

 

 

グラミー賞ノミネート作家、プロデューサー、DJ、環境学者、運動家、放送作家であるJayda Gが、新作フルアルバム『Guy』でカムバックを果たす。


ニュー・アルバムには、SAULT、David Byrne、Adeleを手がけるJack Peñateと共同プロデュースし、IbeyiのLisa-Kaindé Diaz、Stormzy、Nia Archives、Jorja SmithのEd Thomasらが参加している。


グラミー賞にノミネートされ、多くの優れた作品をリリースし、忙しい数年をすごした後に渾身の最新作は発表となった。


 その間、アーティストはグラミー賞にノミネートされ、テイラー・スウィフトやデュア・リパのリミックスをリリース、グラストンベリーやコーチェラなどの世界最大のフェスティバルやステージをこなし、DJ KicksシリーズやAlunaとのコラボレーションのコンピをリリースし、さらに、BBCの「Glow Up」のゲスト審査員として出演するなど、きわまて多忙な日々を送った。また、故郷のBC州グランドフォークスで幼なじみの恋人と結婚(数十年前に両親が結婚したのと同じ家で)。気候の危機に焦点を当てた没入型インスタレーション「Undercurrent」(21年6月、ニューヨーク)では、クルアンビン、ノサジ・シング、マウント・キンビー、ボン・イヴェールらと参加することになった。



新作「Guy」は、ジェイダ自身の声と言葉にこれまで以上に焦点を当て、彼女のルーツであるハウス、ディスコ、R&B、ソウルに加え、彼女のポップなソングライティング感覚を強調した13曲を、亡くなった父親、その名もWilliam Richard Guyのアーカイヴ音源を散りばめながら収録している。録音作業は、11時間以上にも及び、アフリカ系アメリカ人の青年の目を通して語られる米国の経験の小さなスナップショットとなった。直接的な引用とJaydaの個人的な歌詞の組み合わせによって、父親の人生にスポットライトを当てている。

 

米国中西部のカンザス州の荒れた地帯で育ち、近所のいじめっ子や警察、地元当局との様々な交流を描いた「Scars」、「Circle Back Around」、18歳で結婚しベトナム戦争に入隊し、帰国すると妻には別の男がいたことを明らかにする「Heads Or Tails」、「Lonely Back In O」、そして、ワシントンD.C.に移り住んでから、妻との結婚生活に悩まされ続けたこと。ワシントンDCに移り住み、夜間のラジオDJとして副業をしていたが、1968年の人種暴動にうっかり巻き込まれてしまう「Blue Lights」等、彼女の父親の人生が複数の観点から緻密に描かれている。

 

さらに、カナダでの新しい生活ではジェイダの母親と結婚し、自分だけでなく子供や地域の人々にもより良い人生を送ろうとするようになる「Meant To Be」。また、ジェイダの祖母、そして黒人女性の回復力と強さに敬意を表した「When She Dance」。さらに内省的な展開を見せ、父親の死という悲しみだけでなく、「15 Foot」など、ジェイダはこのアルバムで亡き父親の幻影を追い、一連の叙事詩を作り出した。タイトルは、ジェイダの母親が彼女自身の悲しみとの関係を記述した内容に由来している。父親の人生を調べ、死後にテープを聴くことがジェイダに何を意味するのかについて、「Your Thoughts」、「Sapphires Of Gold」で考察されている。

 


6月9日にNinja Tuneからリリースされるニューアルバム『Guy』に先駆けて、Jayda Gが最新シングル「Blue Lights」を公開しました。このアルバムはレーベルの次なる大作になる可能性が極めて高い。

 

次作アルバム『Guy』の中において、Jayda Gは父親のルーツについて、ラップやソウルという観点から解きほぐそうとしている。


1968年のワシントン人種暴動に巻き込まれた「父の非常識な話」にインスパイアされたJayda Gは、過去から現代に通じる普遍的な考えを学び取っている。「父にとって、とても大きな転機だったと思うんです。当時は誰にとってもターニングポイントだったと思います」と彼女は述べている。

 

ベトナム戦争があって、人々はなぜ、そこに人を送るのかさえわからず、国内では黒人のコミュニティ内で恐ろしいことが起こり、人々はそれにうんざりしていたのです。黒人であること、男性であること、貧困であること、人種差別への対応、警察への対応、警察の横暴など、この社会が抱える問題を改めて考えさせられたよ。

 


「Blue Lights」


 Jayda Gがニューシングル「Meant To Be」を公開しました。Ninja Tuneから6月9日に発売されるニューアルバム『Guy』の先行シングルです。以前、アーティストは「 Blue Light」をリリースしている。Jack Peñateとの共同プロデュースによるこの曲はチョッピーなディスコから、ハウスやポップへと移行しています。


この「Meant To Be」は、Jayda Gが、ブラジル人アーティストSeu JorgeとWu-TangのRZAによるオリジナル楽曲で構成された気候危機のドキュメンタリー映画「Blue Carbon」に出演時に発表された。


「Mean To  Be」

 Yaya Bey  『Ten Fold』

 

Label: Big Dada

Release: 2024/05/10


Review    癒やしに充ちたスモーキーなネオソウル



ニューヨークの気鋭のネオ・ソウルシンガー、Yaya Bey(ヤヤ・ベイ)はすでに2022年のアルバム『Remember Your North Star』でシンガーとしてもソングライターとしても洗練された才覚を発揮し、シーンで存在感を示している。このことはコアなR&B/ソウルファンであればご存じのはず。


続く最新作『Ten Fold』では、どうやらヤヤ・ベイが内面のフォーカスを当て、瞑想的なサウンドを打ち立てているという。アルバムのアートワークに写しだされる扇動的でセクシャルかつグラマラスなシンガーの姿は、一見したところポップな作風を思い浮かばせるが、しかし、驚くなかれ、それはブラフのような意味を持ち、実際はメロウでスモーキーなネオソウルのアトモスフィアが今作の全体には漂っている。ある意味では、このアルバムの事前のイメージは、ニューヨークの摩天楼を思わせるような洗練されたネオソウルによって覆されるに違いない。ヒップホップをベースにしながらも、ボーカルのサンプリング、レゲエ/ダブに近いリズム、そして時折、ソウルシンガーとして表されるヒップホップカルチャーへのリスペクト……。これらが混在しながら、メロウかつアーバンな響きを持つR&Bのストラクチャーが築き上げられる。



この作品の発売元であるBig DadaがNinja Tuneのインプリントであることを考えると、ニューヨークのソウルシンガーでありながら、インターナショナルな香りを漂わせるアルバムである。ヤヤ・ベイのサング(歌唱法)は、例えば旧来のサザン・ソウルやモータウンサウンドとは対極に位置し、アーバンな雰囲気に浸されている。ベイの歌はまるで、夜が深まったニューヨークの五番街を歩きながら、日常生活を丹念にリリックとして描写し、それをソフトに歌うかのようである。いや、歌うというよりも、ウィスパーボイスによってささやくといった方がより適切だろう。ベイの歌には、ヒップホップからの影響もあり、細かなニュアンスの変化とともに抑揚をコントロールしたピッチの微細なゆらぎを駆使し、マイルドな質感を持つ歌を披露する。背後のビートにUKソウルからの影響を反映させ、ダブともベースラインともつかないアンビバレントなリズムを背景にし、ヤヤ・ベイは軽やかな足取りでステップを踏むかのように歌う。このアルバムには、ニューヨークでの生活がリアルな形で反映され、その土地にしかないリアルな空気感が含まれている。曲が進むごとに、夜の町並みが中心街から地下鉄、そして再び地上の家へと、代わる代わるサウンドスケープが変化するような印象があるのがとても興味深い。

 

インプリントということで、ニンジャ・チューンらしいサウンドも反映されている。ロンドンのJayda Gがヒップホップとソウルの中間域にあるモダンなサウンドを、昨年の「Guy」で確立したが、この作品には、ヒップホップのサンプリングをストーリーテリングの手法として導入するという画期的な手法が見受けられた。 補足すると、Jayda Gが試みたのは家族のストーリーをサンプリングとして導入するというもので、スポークンワードの中で文学的にそれを表現するのではなく、サンプルのネタとして物語性を暗示的に登場させるという手法である。これは例えば、デル・レイの最新作にも共通している。もっと言えば、このサンプルの技法は、ストーリーにとどまらず、フレンドシップやコミュニティを表現することもできるかもしれない。「east coast mami」ではスポークンワードのサンプルを導入し、音飛びのしないブレイクビーツの規則的なリズムを背景にし、ヤヤ・ベイはメロウでマイルドな質感を持つリリックと歌を披露している。アルバムの中盤に収録されている「eric adams in the club」にもこの手法が見出せる。


ヤヤ・ベイは、ニューヨークを中心とする暮らしを、彼女の得意とするR&Bの手法で端的に表現している。それは、例えば、S.Raekwonのスタテン・アイランドに向かう船で切ない慕情を歌ったものとは異なり、ニューヨークのビジネスマンが肩で風を切って歩くような都会的な洗練性である。その中には、ややウィットに富んだ内容も見え、「Chasing Bus」は、乗り遅れたバスを追いかけるシーンと、彼女自身のソウルのアウトプットが現代的な質感とともに古典的な側面を持つことに対する自虐とも解釈出来る。これらはメインボーカルと鋭いコントラストをなしているし、そしてまた、ヒップホップの話のようなレスポンスと合わせて新旧の両側面を持つソウルミュージックの形として昇華されると、洗練されたモダンな音楽の印象を与える。さらにそういった多角的なネオソウル/ヒップホップのアプローチを通じて、トラックリストを経るごとに、ヤヤ・ベイの日常的な生活は内面と呼応するような感じで、どんどんと奥深くへと潜っていき、音楽的な世界観の広がりを少しずつ増していく。 つまり、このアルバムでは、最初から完成形が示されるのではなく、リスナーがニューヨークやロサンゼルスの歌手の体験を追いかけて、それらの出来事に接した際の感情の過程を追体験するような楽しさがある。さらに救いがあるのは音楽がシリアスになりすぎず、ユニークな要素をその中に併せ持つということ。

 

 

基本的にはヤヤ・ベイのソングライティングのスタイルはヒップホップとソウルの中間に位置していて、同時にそれがこのアルバム全般的な特色やキャラクターともなっているが、音楽性の中心点から少しだけ離れる場合もある。例えば、「Slow dancing in the kitchen」では、Trojan在籍時代のBob Marleyのレゲエサウンドを踏まえ、それらを現代的な質感を持つソウルミュージックとしてアウトプットしている。これらのサウンドは、シリアスになりすぎたヒップホップやソウルにウィットやユニークさを与えようという、ヤヤ・ベイの粋な取り計らいでもあろう。その他にも、ユニークな曲が収録されている。「so fantasic」では、Mad Professor、Linton Kwsesi johnsonのような古典的なダブサウンドに近づく楽曲もある。しかし、歌にしても、ソングライティングにしても、少しルーズで緩い感覚があり、それこそが癒やしの感覚をもたらす理由でもある。これらのチルアウトに近いレゲエやソウルの方向性は、ノッティンガムのYazmin Lacey「ヤスミン・レイシー)の最新作『Voice Notes』の系統にあるサウンドと言えるか。


これらの多角的な音楽性は基本的には、メロウなソウルという感じで、全体的なアルバムの印象を形作っている。それは真夜中の憂鬱や憂いというイメージを孕んでいるが、一方でブラックミュージックの華やかさに繋がる瞬間もある。例えば、先行シングルとして公開された「me and all n---s」は、ダウナーな感覚を持ちながらも、背後のオルガンの音色と合わせて、ヒップホップのニュアンスが少し高まる瞬間、ダークで塞いだ気持ちを持ち上げるような効果がある。


また、「iloveyoufrankiebeverly」は、古典的なノーザン・ソウルの影響下にある素晴らしいトラック。この曲では一貫して、アンニュイなボーカルを披露してきたシンガーが唯一楽しげな雰囲気を作り上げている。しかし、ベイが作り出す音の印象は一貫して真夜中のアトモスフィアなのである。憂いに留まらず夜の陶酔ともいうべき際どい感覚、要するにこれらは、トリップ・ホップのブリストルサウンドと似ているようで、実はカウンターポイントに位置している。

 

ダンスミュージック、ヒップホップ、チルアウト、レゲエ/ダブ、ジャズ、モダンなネオソウル、それとは対極にある70年代のノーザン・ソウルというように、幅広いバックグランドを持つベイだが、最後は、安らいだ感じのチルウェイブで統一されている。


「yvettes's cooking show」はヒップホップやローファイに近い音楽性を選んでいるが、依然として癒やしの感覚に満ちている。クローズ「let go」ではチルアウトをトロピカルと結びつけ、リラックスしたサウンドを生み出す。アウトロのタブラを思わせる民族楽器のエキゾチックな響きは、リゾート気分を呼び覚ますこと請け合いだ。


序盤ではニューヨークの都会的なイメージで始まるこのアルバム。しかし意外にも、複数の情景的な移ろいを通じて、最終的にはリゾート地への逃避行のような感覚を暗示している。『Ten Folds』には本格派のソウルミュージックの醍醐味が満載だ。それがウィットに富んだミュージシャンのユニークさに彩られているとあらば、やはり称賛しないというわけにはいかないのである。

 

 

 

86/100

 






Yaya Bey






ニューヨーク育ちのR&Bボーカリスト、ヤヤ・ベイは、彼女の新しいスタジオアルバム「Ten Fold」で包括的な自画像を想起させる。彼女の以前の作品が真剣でマインドフルだったところでは、ヤヤの新しいアルバムは決定的であり、意識的な意図の流れで彼女を取り巻く世界の未来を調べながら、彼女の過去の側面を遡ります。


ジャズグループブッチャーブラウン、カリームリギンズ、ジェイダニエル、エクサクトリー、ボストンチェリーのコーリーフォンビルからの熱狂的な制作を通して、ヤヤは、悲しみと喪失、人生を変えるマイルストーン、そしてその間のすべてによって中断された1年間の忍耐の複雑さを語る自由話の傑作を提供します。


彼女の強力な2022年のアルバム「Remember Your North Star」をリリースしてから9ヶ月後、ヤヤは激動を通して進化する準備を整えた北星のExodusで戻ってきました。「私は通常、アルバムに入るときに、このテーマ全体のものを持つようにしています。しかし、私が人生が起こっていたときに作ったこのアルバム」と彼女は言う。


そのようなオープンエンドの創造的なリズムの中で働くことで、ヤヤは音楽とそれ以降の彼女の仕事に知らせるすべての努力、感情、経験を伝える瞬間でアルバムを豊かにすることができました。彼女は詩人、抗議のストリートメディックとして人生を送り、サナアと呼ばれる相互扶助組織、アートキュレーター(PGアフリカ系アメリカ人博物館)、そしてブルックリンのモカダ博物館に居住し、過去のプロジェクトのカバーアートを制作したミクストメディアアーティストを設立しました(「ケイシャ」、「9月13日」、「The Things I Can't Take With Me EPなど)。


このアルバムは、ヤヤのアイデンティティのこれらのさまざまな側面の間に糸を結びつけ、彼女が誰であるかの心のこもった肖像画を提示し、彼女が見ているように世界について話すためのスペースを切り開く。テンフォールドでは、彼女は自分の内なる存在について瞑想し、恋に落ち、同様に、彼女の周りの世界やコミュニティについてコメントし、コストの上昇や人類のほぼディストピア状態などの政治状況を批判します。


滑稽で風刺的なリスニングのために、ユーフォリックな「クラブのエリックアダムス」を演奏し、ヤヤは市全体の混乱の真っ只中に公共のお祝いに出席するためにニューヨーク市長の名前をチェックします。「インフレと住宅危機のために、私たちは同じパーティーをすることさえできませんが、少なくとも市長は私たちと一緒にパーティーをしています」とヤヤは冗談を言います。


他の社会政治的懸念もヤヤの頭にある。彼女は、紛争鉱物と児童労働が毎年それらを注ぎ出すために使用されているため、別のiPhoneを購入することを拒否します。彼女のニューヨークの友人は、家賃が高騰している間、避難所の支払いに苦労しています。広大なLPを作るプロセスを通して自分自身をプッシュし、ヤヤは彼女の仕事が共感的であり、実生活とその絶え間なく変化する状況に対する彼女の意識を示すことを目指しました。アーティストとしての彼女の人生の真実を提示するヤヤのコミットメントは、本質的に音楽を作るキャリアの一部である成果と失敗の両方に聴衆を聞かせ、派手な芸術的なペルソナのファサードを取り除き、代わりにこの旅が彼女に教えたことへの感謝を植え付けます。


ヤヤは、彼女の中心的な音楽物語が苦労している黒人女性の声として彼女を見つけるというジャーナリズムの考えに反撃します。なぜなら、テンフォールドは、彼女が内側に焦点を向けるときと同様に、彼女の音楽が群衆を含むことができることを証明しているからです。彼女がどのように認識されても、ヤヤの使命は、主に最初から彼女を知っていたサポーターに、常に信憑性を維持することです。「私は失敗したので、現実と関連性からあまり離れないことを願っています」と彼女は言います。


ヤヤの本質は、センターピースのトラック「サー・プリンセス・バッド・ビッチ」にあります。催眠性のイヤーワームは、歌手が「私以外の何もない」と歌いながら、のんきに感じます。自然の中では軽いが、歌の中で、ヤヤはジェンダークィアな人としての彼女の存在について熟考する。ヤヤの定義では、「サー・プリンセス・バッド・ビッチ」はアーティストの複雑さを表しています。「このスイッチは非常に極端です。ある日、私はハンサムな男で、次の日、私はクソガウンを着てステージにいます」とヤヤは告白します。


内面と外面の探検がヤヤの精神であるように、テンフォールドはその文章に無文化なニュアンスで輝いています。ソウルフルなオープナー「歯をかばって泣く」は、ヤヤが「私はこのすべてのお金を得たが、私はまだクソ壊れている」のようなパンチの効いたセリフでユーモアを通して人生の重荷を運ぶのを見ます。「証拠」の大気生産は、ヤヤの穏やかな発声と「時々私はそれを作らないように感じる」のような不安な告白を覆います。


テンフォールド全体に散在するのは、日曜日の朝の親密さを醸し出す、軽くレゲエが塗られた「キッチンでのスローダンス」のように、喜びを垣間見ることができます。ヤヤは、短く輝く「私とすべての私のニガー」で彼らの窮状から自分自身を回復する彼女の友人サークルの能力を証明しています。「Iloveyoufrankiebeverly」は、夜間のバーベキューの雰囲気があり、迷路のフロントマンへの適切なオマージュです。各曲は、テンフォールドが顕在化するのにかかったライティングとフリースタイルセッションの治療的性質で流れます。


ヤヤは、祖先と直接つながっているように、バルバドスの父方の故郷を思い起こさせます。彼女のカリビアンのルーツを取り入れて、ヤヤは、詩の重い「私のパパのようなスタンティン」であろうと、ベイが娘に「あなたがどこかにいたように世界に自分自身を提示する」ことを思い出させる「私と私の」の紹介のような散在したオーディオクリップで、彼女の父アユブ・ベイに絶え間ないオードを与えます。


そして、本当に、彼女はどこにでもいました - ヤヤは私たちにそれをすべて音響的に旅行させています。第二世代のアーティスト、ヤヤが直接目撃した旅は、音楽とのより健康的な関係を築き、彼女の労働の成果を受け入れるために必要なツールを彼女に与えました。「それは天職であり、私と私の血統にとって、それは先祖代々のものです」と彼女は言います。彼女がアーティストとして舗装された道では、テンフォールドに浸透するヤヤの真実です。

Weekly Music Feature

 

Saya Gray:


 

昨年、Dirty Hitからアルバム『QWERTY』をリリースしたSaya Gray(サヤ・グレー)はトロント生まれ。


グレイは、アレサ・フランクリン、エラ・フィッツジェラルドとも共演してきたカナダ人のトランペット奏者/作曲家/エンジニアのチャーリー・グレイを父に持ち、カナダの音楽学校「Discovery Through the Arts」を設立したマドカ・ムラタを母にもつ音楽一家に育つ。幼い頃から兄のルシアン・グレイとさまざまな楽器を習得した。グレーは10代の頃にバンド活動を始め、ジャマイカのペンテコステ教会でセッションに明け暮れた。その後、ベーシストとして世界中をツアーで回るようになり、ダニエル・シーザーやウィロー・スミスの音楽監督も務めている。


サヤ・グレーの母親は浜松出身の日本人。父はスコットランド系のカナダ人である。典型的な日本人家庭で育ったというシンガーは日本のポップスの影響を受けており、それは前作『19 Masters』でひとまず完成を見た。

 

デビュー当時の音楽性に関しては、「グランジーなベッドルームポップ」とも称されていたが、二作目となる『QWENTY』では無数の実験音楽の要素がポピュラー・ミュージック下に置かれている。ラップ/ネオソウルのブレイクビーツの手法、ミュージック・コンクレートの影響を交え、エクスペリメンタルポップの領域に歩みを進め、モダンクラシカル/コンテンポラリークラシカルの音楽性も付加されている。かと思えば、その後、Aphex Twin/Squarepusherの作風に象徴づけられる細分化されたドラムンベース/ドリルンベースのビートが反映される場合もある。それはCharli XCXを始めとする現代のポピュラリティの継承の意図も込められているように思える。

 

曲の中で音楽性そのものが落ち着きなく変化していく点については、海外のメディアからも高評価を受けたハイパーポップの新星、Yves Tumorの1stアルバムの作風を彷彿とさせるものがある。サヤ・グレイの音楽はジャンルの規定を拒絶するかのようであり、『Qwenty』のクローズ「Or Furikake」ではメタル/ノイズの要素を込めたハイパーポップに転じている。また作風に関しては、極めて広範なジャンルを擁する実験的な作風が主体となっている。一般受けはしないかもしれないが、ポピュラーミュージックシーンに新風を巻き起こしそうなシンガーソングライターである。

 

 

『Qwenty II』- Dirty Hit


Saya Grayは、Dirty Hitの新しい看板アーティストと見ても違和感がない。同レーベルからリリースされた前作『Qwenty』では、ドラムンベースのフューチャリズムの一貫であるドリルンベース等の音楽性を元にし、エクスペリメンタル・ポップの未来形であるハイパーポップのアプローチが敷かれていた。グレイの音楽は、単なるクロスオーバーという言葉では言い表せないものがある。それは文化性と民族性の混交、その中にディアスポラの概念を散りばめ、先鋭的な音楽性を組み上げる。ディアスポラといえば同レーベルのサワヤマが真っ先に思い浮かぶが、女性蔑視的な業界の気風が是正されないかぎり、しばらく新譜のリリースは見込めないとのこと。

 

おそらく、サヤ・グレイにとって、ロック、ネオソウル、ドラムンベース、そしてハイパーポップ等の音楽用語、それらのジャンルの呼称は、ほとんど意味をなさないように感じられる。グレイにとっての音楽とは、ひとつのイデアを作り出す概念の根幹なのであり、そのアウトプット方法は音楽というある種の言語を通じて繰り広げられる「アートパフォーマンス」の一貫である。また、クロスオーバーという概念を軽々と超越した多数のジャンルの「ハイブリッド」の形式は、アーティストの音楽的なアイコンの重要な根幹を担っている。連作のような意味を持つ『Ⅱ』は、前作をさらにエグく発展させたもので、呆れるほど多彩な音楽的なアプローチ、ブレイクビーツの先を行く「Future Beats(フューチャー・ビーツ)」とも称すべき革新性、そしてアーティストの重要なアイデンティティをなす日本的なカルチャーが取り入れられている。

 

 『Qwenty Ⅱ』は単なるレコーディングを商品化するという目的ではなく、スタジオを舞台にロック・オペラが繰り広げられるようなユニークさがある。一般的に、多くのアーティストやバンドは、レコーディングスタジオで、より良い録音をしようと試みるが、サヤ・グレイはそもそも録音というフィールドを踏み台にして、アーティストが独壇場の一人の独創的なオペラを組み上げる。

 

心浮き立つようなエンターテイメント性は、もうすでにオープニングを飾る「You, A Fool」の中に見出せる。イントロのハイハットの導入で「何が始まるのか?」と期待させると、キング・クリムゾンやRUSHの系譜にある古典的なプログレッシヴ・ロックがきわめてロック的な文脈を元に構築される。トラックに録音されるボーカルについても、真面目なのか、ふざけているのか分からない感じでリリックが紡がれる。このオープニングは息もつかせぬ展開があるとともに瞬間ごとに映像のシーンが切り替わるような感じで、音楽が変化していく。その中に、英語や日本のサブカルの「電波系」のサンプリングを散りばめ、カオティックな展開を増幅させる。

 

そのカオティックな展開の中に、さりげなくUFOのマイケル・シェンカーのようなハードロックに依拠した古臭いギターリフをテクニカルに織り交ぜ、聞き手を呆然とさせるのだ。展開はあるようでいて存在しない。ギターのリフが反復されたかと思えば、日本のアニメカルチャーのサンプリング、古典的なゴスペルやソウルのサンプリングがブレイクビーツのように織り交ぜつつ、トリッピーな展開を形作る。つまり、聞き手の興味がある一点に惹きつけられると、すぐさまそこから離れ、次の構造へと移行していく。まるで''Catch Me If You Can''とでもいうかのように、聞き手がある場所に手を伸ばそうとすると、サヤ・グレイはすでにそこにはいないのだ。

 

続く「2 2 Bootleg」はグレイの代名詞的なトラックで、イギリスのベースメントのクラブ・ミュージックのビートを元にして、アヴァン・ポップとネオソウルの中間にあるポイントを探る。ノイズ性が含まれているという点では、ハイパーポップの範疇にあるが、その中に部分的にドリルンベースの要素を元にノイズを織り交ぜる。例えば、フォーク音楽の中にドリルの要素を織り交ぜるという手法は、カナダというより、ロンドンのポップスやネオソウルの中に頻繁に見出される。グレイの場合は、pinkpantheressのように扇動的なエナジーを込めて展開させていく。このトラックには、クラブ・ミュージックの熱狂性、ロックソングの狂乱、ヒップホップのフロウの節回し、そういった多数のマテリアルが渾然一体となり、旧来にはないハイブリッド音楽が組み上げられていく。唖然とするのは、曲の中盤では、フォーク音楽とIDMの融合であるフォークトロニカまでを網羅している。しかし、このアルバムの最大の魅力は、マッドな質感を狙いながら「聞きやすさ」に焦点が置かれていること。つまり、複雑な要素が織り交ぜられた先鋭的なアプローチであるものの、曲そのものは親しみやすいポップスの範疇に収められている。

 

しかし、解釈の仕方によっては、メインストリームの対蹠地に位置するアウトサイダー的なソングライティングといえ、発揮される才覚に関しては、それと正反対に一つの枠組から逸脱している。矛盾撞着のようではあるが、グレイの音楽というのは、一般的なものと前衛的なもの、あるいは、王道と亜流がたえず混在する、不可解な空間をうごめくアブストラクト・ポップなのだ。これは、グレイがきわめて日本的な家庭で育ったという背景に要因があるかもしれない。つまり、日本の家庭に見受けられるような、きわめて保守的な気風の中で精神性が育まれたことへの反動や反骨、あるいは徹底したアンチの姿勢がこの音楽の中に強かに含まれているのだ。

 

 

 

 

何らかの概念に対するアンチであるという姿勢、外的なものに対して自主性があるということ。これは政治的なものや社会気風に対する子供だましの反駁よりも遥かにパンクであることを意味する。


音楽的には、その限りではないが、上述のパンクの気風はその後の収録曲においても、何らかの掴みをもたらし、音響的なものとは異なる「ヘヴィネス」の概念を体現する。そしてサヤ・グレイは、音楽そのものの多くが記号学のように聞かれているのではないかと思わせる考えを提示している。

 

例えば、K-Popならば、「K-Pop」、J-Popであれば、「J-Pop」、または、ロンドンのロックバンド、1975の音楽であれば「1975の音楽」というように、世界のリスナーの9割が音楽をある種の「記号」のように捉え、流れてくる音に脊髄反射を示すしかなく、それ以上の何かを掴むことが困難であることを暗示している。「A A BOUQUET FOR YOUR 180 FACE」は、そういった風潮を逆手に取って、アーバンフラメンコの音楽性をベースに、その基底にグリッチ・テクノの要素を散りばめ、それらの記号をあえて示し、標準化や一般化から抜け出す方法を示唆している。アーバンフラメンコのスパニッシュの気風を散りばめたチルアウト風の耳障りの良いポップとして昇華されているこの曲は、脊髄反射のようなありきたりのリスニングからの脱却や退避を意味し、流れてくる音楽の「核心」を捉えるための重要な手がかりを形成するのである。

 

二曲目で示されたワールド・ミュージックの要素は、その後の「DIPAD33/WIDFU」にも含まれている。ヨット・ロックやチル・アウトの曲風の中で、グレイはセンスよくブラジル音楽の要素を散りばめ、心地よいリスニング空間を提供する。 そしてボーカルのジェイムス・ブレイクの系譜にある現代的なネオソウルの作風を意識しながら、Sampha、Jayda Gのようなイギリスの最新鋭のヒップホップとモダンソウルのアーティストの起伏に富んだダイナミックな曲展開を踏襲し、ベースラインやギターノイズ、シンセの装飾的なフレーズ、抽象的なコーラス、スポークンワードのサンプル、メロウな雰囲気を持つエレピというように、あらゆる手法を駆使し、ダイナミックなポップネスを構築していく。メインストリームの範疇にあるトラックではあるものの、その中にはアーティスト特有のペーソスがさりげなく散りばめられている。これらの両極端のアンビヴァレンスな要素は、この曲をリスニングする時の最大の醍醐味ともなりえる。

 

 

例えば、Ninja TuneのJayda Gが前作で示したようなスポークンワードを用いたストリーテリングの要素、あるいはヒップホップのナラティヴな要素は続く「! EDIBLE THONG」のイントロのサンプリングの形で導入される。


前曲と同じように、この曲は、現在のロンドンで盛んなネオソウルの範疇にあり、Samphaのような抽象的なアンビエントに近い音像を用い、渋いトラックとして昇華している。アルバムの中では、最も美麗な瞬間が出現し、ピアノやディレイを掛けたアコースティックギターをサンプリングの一貫の要素として解釈することで生み出される。これらは例えば、WILCOとケイト・ルボンとの共同作業で生み出された、Bon Iverの次世代のレコーディングの手法であるミュージックコンクレートやカットアップ・コラージュのような前衛的な手法の系譜に位置づけられる。

 

他にも、続く「! MAVIS BEACON」ではアヴァン・ポップ(アヴァンギャルド・ポップ)の元祖であるBjorkの『Debut』で示されたハープのグリッサンドを駆使し、それらをジャズ的なニュアンスを通じてネオソウルやクラブ・ミュージック(EDM)の一貫であるポップスとして昇華している。 


しかし、アルバムの中盤の収録曲を通じて示されるのは、クールダウンのためのクラブ・ミュージックである。たとえば、クラブフロアのチルアウトのような音楽が流れる屋外のスペースでよく聞かれるようなリラックスしたEDMは、このトラックにおいてはブリストルのトリップホップのようなアンニュイな感覚と掛け合わさり、特異な作風が生み出される。ボコーダーを用いたシーランのような録音、そして、それは続いて、AIの影響を込めた現代テクノロジーにおけるポピュラー音楽の新たな解釈という異なる意味に変化し、最終的には、 Roisin Murphy、Avalon Emersonを始めとするDJやクラブフロアにゆかりを持つアーティストのアヴァンポップの音楽性の次なる可能性が示されたとも見ることが出来る。そして実際的に、先鋭的なものが示されつつも、一貫して曲の中ではポピュラリティが重点に置かれていることも注目に値する。

 

最も驚いたのはクローズ「RRRate MY KAWAII CAKE」である。サヤ・グレイはブラジルのサンバをアヴァン・ポップの切り口から解釈し、ユニークな曲風に変化させている。そして伝統性や革新性の双方をセンスよく捉え、それらを刺激的なトラックとしてアウトプットさせている。 ジャズ、和風の音階進行、ミニマリズム、ヒップホップ、ブレイクビーツ、ダブ、ネオソウル、グレイ特有の独特な跳ね上がるボーカルのフレージング、これらすべてが渾然一体となり、音楽による特異な音響構造を作り上げ、メインストリームにいる他のアーティストを圧倒する。全面的に迸るような才覚、押さえつけがたいほどの熱量が、クローズには立ち込め、それはまたソロアーティストとして備わるべき性質のすべてを持ち合わせていることを表している。

 

このアルバムでは、ポップスの前衛性や革新性が示され、音楽の持つ本当の面白さが体験出来る。アルバムのリスニングは、富士急ハイランドのスリリングなアトラクションのようなエンターテイメントの悦楽がある。つまり、音楽の理想的なリスニングとは、受動的なものではなく、ライブのように、どこまでも純粋な能動的体験であるべきなのである。無論、惜しくもCHAIが示しきれなかった「KAWAII」という概念は、実は本作の方がはるかにリアリティーがあるのだ。

 

*Danny Brownの『Quaranta』と同じようにクローズのアウトロがオープナーの導入部となっており、実はこのアルバムは円環構造となっている。

 

 



90/100

 

 

「RRRate MY KAWAII CAKE」

 

 

 

  Slauson Malone  『Excelsior』

 

Label: Warp

Release: 2023/10/6


Review 



最近、電子音楽/エレクトロニックの界隈を見ると、その要素が、全般的あるいは部分的に取り入れられるかに依らず、「コラージュ」の手法を図った音楽が多いという印象を受ける。例えば、先々週のローレル・ヘイローの『Atlus』は、かなり画期的なアルバムであり、今後の音楽シーンに強い影響をもたらす可能性がきわめて高い。このアルバムは、ワシントン・ポストでレビューで取り上げられたし、また、ロレイン・ジェイムスが「美しい作品」と形容していた。

 

「ミクロのマテリアルを組み合わせて、元の音楽を別の何かに再構成する」というのがコラージュの手法である。この制作法はプロセスを通じて、当初意図していたものとは異なる予期せぬ何かが出来上がる。自分の手を離れた時、また、言い換えれば、コントロール下を離れた時に、音楽というのは傑出したものに変化する。スティーヴ・ライヒやバシンスキーのようにラジオの録音を元にし、再構成するのか。はたまた、ウィルコの『Cousin』のプロディースを務めた、ケイト・ル・ボンのように、バンドのスタジオ録音を元に、何か別の意味合いを持つ構成に組み直すのか。考えられるだけでも、色々なコラージュの手法があり、未知の可能性がある。

 

ライセンス的には、オリジナルのものなのか、元あるものを再構成したものなのか、という点は重要視されることは避けられないが、リスナーにとっては、その音楽の大本が何によって構成されているのかは大して重要ではない。一般的な聞き手としては、完成されたものを聴くので、そのプロセスはどうしても第二義的な要素となる。ともあれ、過去は、ヒップホップのサンプリングという手法で親しまれ、また、モダン・アートの一般的な形式でもある「コラージュ」という形式、つまり、別のものをランダムに組み合わせて、新しいものを作り出すというスタイルは、今後、電子音楽にとどまらず、 ロックやヒップホップに頻繁に使用されていくかもしれない。少なくともこれは、「ローファイ」というジャンルの進化系が示されているのである。

 

Slauson Malone 1の『Excelsior』でもコラージュの手法が部分的に示されている。近年、ロサンゼルスに移住したというスラウソーン・マローンによる6作目のアルバム。プレスリリースでは「エッセイのような作品として組み上げられている」と説明されている。本作は、Oneohtrix Point Neverが『AGAIN』で示された個人的な思索や、Jayda Gの『GUY』で示された父祖の時代の出来事を描いた文学的な意味を持つ構成をR&Bやハウスとして昇華させた作品に近似するものがある。上記の作品は、表向きに現れる成果がどうであれ、現代の音楽の強い触発を与え、一定の影響を及ぼす可能性が高い。未だミステリアスな印象のあるスラウソン・マローンの作品も、エレクトロニックの位置づけにありながら、本来別のリベラルアーツに属し、また、その表現方法が音楽が最適解とは言いがたいものを、あえて音楽の形式として昇華しているのである。そしてエッセイ的な叙述は断片的に組み合わせたコラージュの要素により示唆されている。


今回、曲数が多いため、Track By Trackは遠慮させていただきたいが、このアルバムには無数の音楽的な要素がひしめいていることがわかる。ヒップホップのドリルや、Caribouのようなグリッチ/ミニマル、ハウス、ネオソウル、ダブ/ダブステップ、アヴァン・ポップ、ボーカルのコラージュ、モダン・クラシカル、インディーロック/フォーク、ジャズ。広汎なマテリアルを吸収し、前衛的な音楽が作り出された。根幹にあるのは電子音楽ではありながら、多様な音楽の要素を散りばめて、一定の音楽のジャンルに規定されない前衛的なスタイルが生み出されている。

 

電子音楽の側面では、エイフェックス・ツインのようなミクロなビートを生かした曲もあれば、スクエアプッシャーのようなパーカッシヴな観点から生のジャズ・ドラムやベースを電子音楽として再構成した曲もあり、この点はワープ・レコードのアーティストらしい。音楽性の多彩さに関しては、Kassa Overallの最新作を彷彿とさせる。しかし、スラウソン・マローンの音楽的な感性の中には落ち着きと重々しさがある。一見、散漫な印象を与えかねない無尽蔵の音のマテリアルのコラージュをもとにした電子音楽は、比較的纏まりのある作品として提示されている。

 

数えきれない音楽性の中には、Alva Notoを思わせる精彩な電子音楽も「Undercommons」に見いだせる。他にも、モダンジャズと電子音楽を絡めた「Olde Joy」では、ヒップホップやネオソウルを風味をまぶし、前衛的な形式に昇華している。また、「New Joy」では、ジェフ・パーカーが好むようなジャズと電子音楽の融合を探求している。Gaster Del Solのようなアヴァン・フォークをネオソウルから捉え直した「Arms, Armor」も個性的な印象を残す。ボーカルをコラージュ的な手法で昇華した「Fission For Drums, Pianos & Voice」は、アヴァン・ジャズの性質を部分的に織り交ぜている。「Love Letter zzz」も同じように、チェロの演奏とスポークンワードを掛け合わせ、画期的な作風を生み出している。これらの無尽蔵な音楽性には白旗を振るよりほかない。

 

『Excelsior』の中盤の収録曲には冗長さがあるものの、 終盤に至ると、静謐な印象に彩られた作風がクールな雰囲気を醸し出している。「Destroyer x」は、エヴァンスのような高級感のある古典的なジャズ・ピアノの雰囲気を留めている。「Voyager」は、インディーフォークと電子音楽を掛け合せ、安らいだイメージが漂う。「Decades,Castle Romeo」では、ジェフ・パーカー、ジム・オルークに近い、先鋭的な作風を示している。クローズ曲「Us(Towar of Love)」では、アコースティックギターの弾き語りによって、インディーフォークの進化系を示している。この曲のスラウソン・マローンのアンニュイなボーカルは、バイオリンの演奏に溶け込むようにし、メロウな瞬間を呼び起こし、アルバムを聞き終えた後、じんわりとした余韻を残す。

 

Slauson Malone 1のアルバム『Excelsior』は、革新的な手法が各所に取り入れられながらも、全般的に切なさを中心としたエモーションが漂っている。こういった情感豊かな電子音楽やフォーク、ネオソウルやラップの混合体が今後どのように洗練されていくのか楽しみにしていきたい。 

 

80/100

 

 

 

「New Joy」

Loraine James 『Gentle Confrontation』 

 

 

 

Label: Hyper Dub

Release: 2023/9/22

 



Review


「James」という名のエレクトロニック・プロデューサーに外れなし。イギリス/エンフィールド出身の若きプロデューサー、ロレイン・ジェイムスの五作目のアルバム『Gentle Cofrontation』はシネマティックなシンセのテクスチャーを交え、ブレイクビーツ、ラップ、グリッチ、ソウル、ダブ・ステップを軽快にクロスオーバーしている。今週の要注目のアルバムとしてご紹介しておきたい。

 

タイトル曲は、シネマティックなシンセのシークエンスから始まり、ミニマル・グリッチのコアなアプローチを展開させる。 ボーカル・テクスチャーを交えた変幻自在のブレイクビーツは一聴の価値あり。UKドリルのビートを孕んだリズムは、ボーカルのコラージュを交え、リスナーを幻惑へと呼び込む。稀にリズムトラックの中に挿入されるボーカルは、会話のような形式となり、単なるエレクトロニック・ミュージックというよりも、ラップに近い意味を帯びる。オープニングの曲中には、ミステリアスな雰囲気のあるアーティストの魅力が凝縮されている。続く「2003」は、実験的な電子音楽で、ボーカルのコラージュをノイズ的なシンセと絡め、ボーカルトラックへと繋がっていく。ジェイムスのボーカルは、ソウルのような渋さがあるが、前衛的なコラージュをもとにしたエレクトロニックがメロウさを上手く引き出している。

 

KeiyaA をゲストボーカルに招いた「Let U Go」は、グリッチとポップスを劇的に融合させている。トラックメイクの刺激性も魅力なのだが、グリッチを背景にメロウなボーカルを披露するKeiyaAのボーカル、また、そのリリックさばきにも注目したい。エレクトロニックとソウルを絡めたネオソウルの最前線を行くようなトラック。まさにハイパー・ダブらしい一曲として楽しめる。「Deja Vu」でもゲストボーカルのRiTchieが参加し、グリッチとラップの融合体を生み出している。グリッチとしてもクールなバックトラックではあるのだが、RiTchieのリリック捌きにも光る点がある。 ボソボソとつぶやくようにリリックを披露するボーカルラインとソウルフルに歌う2つのRiTchieの声が合わさることで、前衛的なアヴァン・ポップが生み出されている。


「Prelude of Tired Of Me」もグリッチを基調にしたアヴァンギャルドなトラック。ドリルのようなドラムのビートが暴れまわるが、一方、そのトラックに乗せられるジェイムスの声はメロウかつ物憂げである。これらのアンビバレントな方向性を持ったトラックがアルバムの序盤の流れを形作っている。以上の5つのトラックはアルバムの印象に絶妙な緊張感をもたらしている。

 

中盤に差し掛かってもなお、ロレイン・ジェイムスの実験性における意欲は途絶えていない。「Glitch The System」は、あらためてアーティストのグリッチに関する愛着が示されている。しかし、アルバムの序盤に比べると、Aphex Twinのドリルン・ベースにも比するアヴァンな方向性が示されている。ジェイムスは自分の感情を電子音に乗り移らせ、不安定に揺れ動く感情性を、これらの複雑でシーケンサーによる変幻自在なビートに声を乗せる。また、このトラックでは、ボコーダーを効果的に用い、いくらかサイケデでリックな領域へと踏み入れていく。続く「I DM U」は聴き応え十分のトラックであり、アルバムのハイライトの一つに数えられる。アコースティックドラムをエレクトロニック風に配し、その上にオーガニックなシンセのシークエンスが被され、ダイナミックな音像が生み出されている。この曲に見受けられるスペーシーな感覚と現代的なエレクトロニック、そしてアヴァンギャルド・ジャズの融合は、アーティストが未知の領域へと足を踏み入れたことの証となる。特に、スネア、タムのハイエンドの強調により、ジャズドラムのような効果が生まれ、刺激的なインプレッションを及ぼしている。 

 

「I DM U」

 

「Emo」と銘打たれた次のトラック「One Way Ticket To Midwest(Emo)」は、おそらくアーティストの隠れたエモへの愛着が示されているのだろう。もちろん、シカゴを始めとする米国中西部のエモシーンを意味する「Midwest」という言葉も忘れていない。リバーブを掛けたギターラインから始まるイントロは、エモとまではいかないが、少なくともエモーショナルな気分を際どく表現している。しかし、その後は、北欧のエレクトロニカのような展開へと続く。本物志向が続いたアルバムの序盤に比べると、安らいだ感覚を味わえるトラックとなっている。ここにアーティストのちょっとしたユニークさや可愛らしいものへの親しみを感じ取ることも出来る。


「Cards With The Grandparents」は、アーティストの家族への親しみが歌われている。これは以前発売されたJayda Gのアプローチにも近いものである。しかし、ボーカルのサンプリングによって始まるこの曲は、やがて今作の重要なモチーフとなるグリッチ・サウンドの中に導かれていく。やがてそれは心地よいブレイクビーツ風のリズムと掛け合わされ、特異なグルーヴ感を生み出す。まるでアーティストは今や切れ切れとなりつつある記憶の断片を拾い集めるかのように、それらの破砕的なブレイクビーツを丹念に、そして重層的に折り重ねていく。それはやがて、アルバムのオープニングと同じように幻惑的な感覚を呼び覚ます瞬間がある。ネオソウルの方向性はほとんど取り入れられてはいないが、なぜかソウルにも近いメロウな雰囲気が生み出されている。これはアーティストの繊細な感覚がエレクトロニカ・サウンドに上手く乗り移った証でもある。いかなる感情や魂も音楽に乗り移らなければなんの意味もなさないのだから。


ロレイン・ジェイムスは音楽の実験性と並行して、茶目っ気というか、ユニークな手法も取り入れている。続く「While They Are Singing」は、そのことをよく表している。ボーカルのボコーダーのエフェクトは、一見するとアーティストによる戯れにしか過ぎないようにも思える。しかし、そのぼんやりとした音像に聴覚をよく澄ましてみると、意味深な目論見が込められているように感じる。グリッチ的な早いBPMを用いたトラックには、アーティストの人生に存在した複数の人物の声がコラージュのように散りばめられ、それは時に淡い悲しみや憂い、悲しみといった感情を伴い、ソウル音楽に近い印象を帯びる。単なるエレクトロニックと思うかもしれない。ところがそうではなく、アーティストは、みずからの人生や記憶に纏わる何らかの思いや感情を、実験的なエレクトロニック・サウンドに複合的な要素として織り交ぜているのだ。


「Try For Me」は、アーティストとしては珍しくアンビエントのトラックに挑戦している。ドローンに近い抽象的な音像はそれほど真新しいものとは言いがたい。けれど、その後、グリッチとハウス、そして、R&B寄りのボーカルトラックと結びつくことにより、新鮮なアヴァン・ポップ/エクスペリメンタル・ポップが生み出されている。この曲は、宇多田ヒカルの『Bad Mode』にも近い方向性が選ばれているが、難解なフレーズやリズムを擁する曲を軽快なポップスとして仕上げている。これはボーカリストとして参加したEden Samaraの貢献によるものなのかもしれない。アルバムの序盤の収録曲において、曲調という形で暗示的に示されていた物憂げな印象は、続く「Tired Of Me」では、フラストレーションや苛立ちに近い感覚を介して示されている。このトラックでも、アルペジエーターを駆使したユーロ・ビートとグリッチの融合という新しい型に取り組んでいる。ロレイン・ジェイムスの感情をあらわにした声については、他の曲にも増して迫力があり、真実味があり、なんとなく好感を覚えてしまう。しかし、スポークンワード風のリリックは、劇的なミニマル/グリッチによる中間部を越えると、一挙に虚脱したかのようなメロウでダウナーな瞬間に変わる。テンションの落差というべきか、抑揚の変化、あるいは感情の振れ幅にこそ、このアーティストの最大の魅力を感じ取ることが出来る。


「Speechless」「I DM U」と合わせてチェックしておきたい。まったりしたビートの中を揺れ動くように歌われるGeroge Rileyのセクシャルなボーカルの魅力は何ものにも例えがたいし、ジェイムスのボーカルとライリーのボーカルの掛け合いには、対話のような形式を感じ取ることが出来る。シンセのメロウなフレージングの妙はもとより、両者のボーカリストとしての相性の良さもあり、感情の交流が多彩な形で繰り広げられる。この曲において、ジャンルの選別はアーティストにとって第一義的なことではあるまい。両者の感情を巧緻に通わせて、感覚的なウェイブを、親しみやすいメロディーやリズムとして昇華させることの必要性を示唆している。 

 

「Speechless」

 

 

「Disjoined」もまたアーティストのユニークな性質が見事に反映されているのではないか。ジャズ・ピアノのコラージュを効果的に散りばめ、ブレイクビーツを展開させた後、ネオソウルに根ざしたボーカルトラックという形に引き継がれる。アルバムの中で最もアヴァンギャルドなポップスだが、むしろ音像という全体的な構造の中で、リズムやメロディー、ボーカルという複数のマテリアルをどのように配置するのかという点に、アーティストのこだわりや工夫を見いだせる。断片的に自己嫌悪が歌われた後、「I'm Trying To Love Myself」では、トラップの要素を活用しつつ、その後にやはり、アルバムの重要なモチーフであるグリッチを取り入れ、前衛的なダンスビートとして仕上げている。手法論としては、かなり難解ではあるが、少なくとも、これらは実際のフロウが欠落しているとしても、ラップのバック・ミュージックのような感覚で楽しめるはず。当然のことながら、ロレイン・ジェイムスのセンス抜群のアプローチにより、それは一定以上の水準にあるダンス・ミュージックとしてアウトプットされているのだ。

 

クローズ曲「Saying Goodbye」では少なくとも、アーティストのSSWとしての成長を感じ取れる。ネオソウルという切り口はロレイン・ジェイムスの得意とするところであると思われるが、その中には、作品全般のナラティヴな試みとともに、人生観の深み、あるいは自己的な洞察の深さも読み解くことが出来る。

 

このレコードの音楽は、前衛的な手法が用いられているため、マニアックな印象もある。けれども、実際、アバンギャルドな音楽に親近感を持たないリスナーにも少なからず琴線に触れるものがあるはずだ。それはアーティストがこの音楽性に関して、感情性に一番の重点を置いているからである。そして、音楽の設計的な考えを重要視する代わりに、己の感覚を大切にすることを最重要視しているからこそ、こういった説得力溢れるアルバムが生み出されたのだろう。

 

 

84/100

 Jamila Woods 『Water Made Us』


 

Label: Jagujaguwar

Release: 2023/10/13


Review


シカゴの詩人、R&Bシンガーとして活躍するジャミーラ・ウッズの最新作は、モダンなネオ・ソウルからモータウン・サウンドに象徴される往年のサザン・ソウル、そしてスポークンワードと3つの様式を主軸に、聞きやすく、乗りやすいサウンドが構築されている。注目は、同地のシンガーソングライター/ピアニストであるGia Margaretがスポークンワードを基調とする「I Miss All My Eyes」で参加している。そのほか、モータウン・サウンドを現代的なハウス・ミュージックと融合させた「Themmostat」にはPetter Cottontaleが参加している。全体的にBGMのようなノリで聞き流すことも出来、ブラック・ミュージックらしい哀愁も堪能出来る。本作にはUKのジェシー・ウェアのソウルとは異なるブルースの影響が感じられることも特記すべきだろう。

 


アルバムの収録曲の大半は、Covid−19のロックダウンの後に書かれたという。その中で、文学的な才覚を持つウッズは、この期間の間に学んだ感覚的なものの数々、愛、人間関係、その中での厳しい教訓を元にリリックを組み立てている。アルバムの制作の最初期に書かれたというオープナー「Bugs」では、それらのテーマが絡み合い、ソウルフルな世界を構築し、ディストーションを掛けたローズ・ピアノ(エレクトリック・ピアノ)というソウル・ミュージックの基本的な演奏を元に、メロウな楽曲を書き上げた。ウッズの歌は、たしかにその中に個人的な思索を含む場合もあるが、それほど堅苦しい内容ではない。いくらかくつろいだ感じのオープンハートなメロディー、そしてリリック、フレージングが絶妙な均衡を保ち、洗練されたソウルミュージックという形でアウトプットされている。さらに、彼女自身によるコーラスワークも秀逸であり、ハートウォーミングな空気感を生み出す。この曲はアルバムのオープニングとして最適なばかりか、ジャミーラ・ウッズの代名詞的なトラックと称せるのではないだろうか。


 

 

こういった明快なネオソウルも主な特徴ではありながら、しっとりとしたソウルも本作のひとつの魅力を形づくっている。ハウス・ミュージックをもとにした「Tiny Garden」はオーガニックな感覚を持つソウルと融合させ、軽快なナンバーを作り出している。現行のネオソウルのトレンドの中核にあるサウンドを抽出し、それをスモーキーな味わいのあるナンバーに昇華している。次いで、この曲では、クイーンズのシンガー、duenditaがゲストボーカルとして参加している。コラボレーターは、この曲にコーラスを通じて華やかな印象をひかえめに添えている。さらに、曲の終盤では、両者のシンガーソングライターによる遊び心満載のボーカルの掛け合いがユニークな印象を与えてくれる。ネオソウルとしては聞きやすく、安定感のある一曲である。

 

ダンサンブルなビートを打ち出した「Practice」もアルバムのハイライトのひとつに数えられるだろう。曲調としては、ハウスとソウルの融合に焦点が絞られ、一定のビートの中に軽快なウッズのしなやかなボーカルが乗せられる。 しかし、このステレオタイプのソウルに大きな意外性と変化を与えているのが、シカゴのラッパー、Sabaである。彼がボーカルで参加したとたん、曲の雰囲気は一変し、ヒップホップとソウルの中間域にある刺激的なナンバーへと変遷していく。ラップに関しては、それほどメロディーが含まれてはいないが、現代のシカゴのラッパーの多くがそうであるように、バックトラックの旋律を取り巻くように軽妙かつしなやかなリリックを披露することにより、メロウな空気感を曲のスポットに生み出しているのが見事だ。


 

 

アルバムの世界観の中核を担うのはスポークワードのインタリュードであり、その文脈については不明であるが、作品全体としてみたとき、ある種のナラティヴな要素を与えていることは確かである。「let the cards fall」では最初のボーカルのサンプリングが登場する。特にモノローグではなく、複数の人物が登場しているのが重要であり、ここには人物的な背景を一般的な曲の中に導入し、演劇や映画のワンシーンのような象徴的な印象性を組み上げようとしている。




アルバムの序盤では、いくらか大人びた印象のあるR&Bが主体となっているが、続く中盤部では、むしろそれとは正反対に感情性を顕にしたソウルへと移行している。「Send A Dove」では、センチメンタルな感覚を包み隠さず、それを丁寧な表現性としてリリックや歌に取り入れている。グリッチやシカゴ・ドリルのようなリズムを交えたナンバーではあるが、それほど先鋭的な曲とはならず、どちらかと言えば、ベッドルーム・ポップのような感覚を擁する一曲として楽しめる。そして実際に、オートチューンを掛けたモダンなポップスの様式と掛け合わされ、イントロのソウルやヒップホップから、精彩感のあるインディーポップへとその印象性を様変わりさせていく。これらの純粋な感じのあるポップスに注文をつける余地はないはず。一転して、「Wrecage Room」では懐かしのモータウン・ソウル(サザン・ソウル)の影響を元にして、本格派のソウルシンガーとしての存在感を示している。ジャズ風のメロウな音楽性を反映させた渋い感じのイントロから、ウッズの歌の印象は徐々に変化していき、アレサ・フランクリンやヘレン・メリルとそのイメージを変え、最終的には慈しみのあるゴスペルミュージックへと変化していく。ブラックカルチャーに対するアーティストの最大限のリスペクトを感じる。

 

同じように、「Thermostat」では、 イントロにスポークンワードを配した後、やはりアレサ・フランクリンを思わせるサザン・ソウルを基調とした渋い三拍子のリズムを取り入れ、懐古的なソウルへの傾倒をみせる。ただ、それに相対するリリックに関してはラップに近い感覚を擁しているため、旧さというよりも新しさを感じさせる。ソウルのように歌ってはいるが、節回しがフロウという前衛的なボーカルの手法を、ジャミーラ・ウッズはこの曲の中で提示している。そして、手法的には、ブラック・ミュージックが商業性の中に取り込まれ、その表現性を失った80年代よりも前の70年代のソウルの遺伝子のようなものが引き継がれているという印象がある。 その後の「out of the doldrums」では、年老いた男の声がサンプリングとして取り入れられているが、これはUKのソウルシンガー、Jayda Gの祖父の時代の物語を音楽の中に反映させようという意図と同じものを感じとることが出来る。そのスポークンワードの背後には、ニューオリンズかどこかのジャズの演奏をわずかに聴き取ることが出来る。それもラジオを通じたメタ構造(入れ子構造)のようなアヴァンギャルドな手法が示されているのもかなり面白い。

 



アルバムは一枚目とも称するべき段階において、ソウルとハウス、ラップ、ジャズのクロスオーバーを示しているが、徐々に、その音楽性が中盤から終盤にかけて再び別のものに移ろい変わる。続く「Wolfsheep」では、ジョニ・ミッチェルを思わせる温和なフォーク・ミュージックをポップスの中に昇華している。この曲は、アルバムの骨休めのような感覚で楽しめると思う。

 

その後の「I Miss All My Eyes」には、ポスト・クラシカル調の楽曲を得意とするGia Margaretの参加が、ジャズではなくオーケストラルの印象へと近づいていく。薄く重ねられるフェーダーのギターとユニークなシンセサイザーのラインが組み合わされる中で、ウッズはスポークンワードを散りばめる。一見、アンビバレントに思える手法もウッズのリリックが入ると、クールな印象を受ける。音と言葉をかけあわせたアンビエント風のトラックは、和らいだ感じ、寛いだ感じ、そして平らかな感じ、そういった気持ちを安らがせる全てを兼ね備えている。言葉は、先鋭的な感覚を生み出すことも可能だが、他方では、安らいだ感覚を生み出すことも出来ることを示唆している。もちろん、この曲でのジャミーラ・ウッズの音楽性は後者に属している。

 

同じように、意外性を前面に打ち出した曲が続く。 「Backnumber」ではインディーロック調のイントロから始まるが、ウッズのボーカルは現代的なネオソウルのフレージングへと変化する。さらに中盤でもパーカッシヴな強調を交えて、当初の落ち着いた印象はよりライブサウンドを反映させたアグレッシヴなサウンドへと変化していく。曲の終盤に訪れるコーラスワークも秀逸であり、聞き逃せない。メインボーカルを取り巻くようにして、メロウなハーモニーとグルーヴ感を生み出している。「libra Intuition」では、再度、スポークンワードの形式が出現する。しかし、一曲目、二曲目の雰囲気とは異なり、過ぎ去った時代のイメージを擁するスニペットは温和な言葉や笑いによって以前とは別の明るく朗らかなインタリュードへと変化する。



 

アルバムの終盤に至ると、軽快なネオソウルサウンドが続く、Pinkpantheressを思わせるダンスビートを反映させた「Boomerang」は、ポップ性も相まってか、このアルバムのリスニングの難易度を下げ、比較的とっつきやすい印象を与える。ダンサンブルな印象は、アーティストがその地点を未来へと走り抜けていくような感じをもたらす。その後、Nilfur Yanyaを思わせるインディーポップとダンスビートの融合もまたアルバムの終盤に一つのハイライトを設けている。


再びスポークワードの込めた「the best thing」を挟んだ後、「Good News」では、まったりとしたトロピカル・サウンドを基調とするファンク/ソウルでも集中性を維持している。クロージング・トラック「Head First」では、オープニングと呼応する軽快なネオソウルサウンドでこのアルバムは締めくくられる。


17曲とかなりのボリュームの作品ではあるけれども、各々のトラックが丁寧に作られているため、じっくり聴ける内容となっている。もちろん、ウッズのR&Bシンガーとしての本領もいくつかのトラックで顕著に反映されている。今年のネオソウルの作品として、かなりグッドな部類に入りそうだ。

 

 

85/100



Weekly Music Feature


Daneshevskaya




ニューヨーク/ブルックリンのアンナ・ベッカーマンのプロジェクトであるダネシェフスカヤ(Dawn-eh-shev-sky-uh)は、彼女自身の個人的な歴史のフォークロアに浸った曲を書く。

 

アーティスト名(本当のミドルネーム)は、ロシア系ユダヤ人の曾祖母に由来する。ベッカーマンは音楽一家に育ち、父親は音楽教授でありアンナ・ベッカーマンのプロジェクト。

 

ベッカーマンは音楽一家に育ち、父親は音楽教授、母親はオペラを学び、兄弟は家で様々な楽器を演奏していた。彼女は父親の大学院生からピアノを習い、自分で作曲を試みる前は、シナゴーグで教えられた祈りを歌った。彼女自身の曲は、宗教的な意味合いというよりは、ベッカーマン自身の過去、現在、未来の賛美歌のような、アーカイブ的な記録として、スピリチュアルなものを感じることが多い。「音楽の楽しみは人と繋がること、私はそうして育ってきたの」と彼女は言う。


彼女のデビューEP『Bury Your Horses』が人と人とのつながりの定点と謎を縫い合わせたのに対し、『Long Is The Tunnel』(Winspearからの1作目)は、出会った人々がどのように自分の進む道に影響を与えるかを考察している。ベッカーマンはずっとニューヨークに住んでいるが、彼女のアーティスト名(そして本当のミドルネーム)はロシア系ユダヤ人の曾祖母に由来する。『ロング・イズ・ザ・トンネル』を構成する曲を書いている最中に、彼女の祖父母は2人とも他界した。祖母(詩人であり教師でもあった)に関する話は、「過去の自分の姿」のように感じられると同時に、ベッカーマンがどこから来たのかという線に色をつけたいという燃えるような好奇心に火をつけた。

 

ベッカーマンは祖母の手紙を頻繁に読み返したが、その手紙は「憧れを繊細かつ満足のいくリアルな方法で伝えていた」という。痛烈な「Somewhere in the Middle」のような曲は、彼女の人生に残された人々を不滅のものとし(「もう二度と会うことはないだろう」)、過去を再現することで、しばしば暗い真実が表面化する。殺伐とした現実にもかかわらず、このEPは伝統的なソングライティングと現代的な言い回しの間の独特のコラージュを描いており、自己発見の純粋な輝きに魅せられる。


昼間はブルックリンの幼稚園児のためのソーシャルワーカーを務めるベッカーマンの音楽は、すべてが険しいと感じるときに生きる子供のような純粋さを追求することが多い。「子供が登校時に親に別れを告げるとき、もう二度と会えないような気がするものです」と彼女は説明する。

 

『ロング・イズ・ザ・トンネル』は、そのような心の傷の感覚を強調している。「人に別れを告げることは、私にとってとても神秘的なことなの」と彼女は言う。2017年から数年間かけて書かれた7曲は、パッチワークのような思い出/日記で、彼女の人生に関わる人々へのエレジーでもある。Model/ActrizのRuben Radlauer、Hayden Ticehurst、Artur Szerejkoによる共同プロデュースで、これらの初期デモの最終バージョンには、Black Country, New RoadのLewis Evans(サックス)、Maddy Leshner(鍵盤)、Finnegan Shanahan(ヴァイオリン)も参加し、各曲をそれ自身の中の世界のように聴かせるきらびやかな楽器編成を加えている。


ベッカーマンは、音楽を聴くときはまず歌詞に惹かれると強調する。「私が曲を書くことを学んだ方法の多くは詩を通してであり、それは私にとって言語についての新しい考え方なのです」 

 

彼女の祖母の足跡をたどる新作EPは、古典的な構成に、別世界のようでもあり、地に足のついた独特なメタファーが組み込まれている。『ロング・イズ・ザ・トンネル』は、逃避の形を示す超現実的なイメージで満たされている。曲のうち2曲は、鳥を題材にしており、ベッカーマンは、目を離せないものに目を奪われる一方で、自由にその場を離れることもできると説明している。「水中にいるような気分にさせてくれるアートが好きなんだ」とベッカーマンは過去のインタビューで語っているが、『ロング・イズ・ザ・トンネル』は、欲望、感情、ファンタジーに完全に没入しているような感覚を長引かせる。と同時に、「『ピンク・モールド』のような曲は、私が違うバージョンの愛を学ぼうとしていることを歌っているの」と彼女は説明する。彼女のラブソングの陰鬱なメランコリアは、しばしば他の誰よりも彼女の内面に現れている。彼女が本当に求めているのは健全な関係の自立だ。「私たちは互いのものにはならないけれど、この人生を分かち合う」 多くの場合、このような魅惑的なおとぎ話は途切れてしまうにしても。 


「私は運命の人じゃない!、私は運命の人じゃない!"と繰り返すフレーズは、新しい存在の野生の中に生まれた呪文のようである。


『Bury Your Horses』と『Long Is The Tunnel』のタイトルはどちらも特定のカーゲームにちなんだもので、後者はトンネルが何秒続くかを当てる内容だ。ベッカーマンは、それぞれの曲を通して建築的な注意深さを維持し、彼女の視点を越えてゆっくりと世界を構築していく。「海が出会う場所がある/その下には暗闇がある」と彼女は「Challenger Deep」の軽やかさの中で歌いながら夢想する。誰かを理解しようと近づけば近づくほど、その人の欠点が明らかになることがある。しかしながら、結局のところ、愛とは、目的のための手段にすぎないのかもしれない。

 

 -Winspear




『Long Is A Tunnel』/ Winspear


 

このアルバムは、ブルックリンのシンガー、ダネシェフスカヤの「個人的なフォークロア」と称されている通り、奥深い人間性が音楽の中に表出している。それは21世紀の音楽である場合もあり、それよりも古い時代である場合もある。最近の音楽でよくあるように、自分の生きる現代から、父祖の年代、また、複数の時代に生きていた無数の人々の記憶のようなものを呼び覚まそうという試みなのかもしれない。それは、現代的な側面として音楽にアウトプットされるケースもあれば、20世紀のザ・ビートルズが全盛期だった時代、それよりも古いオペラや、東ヨーロッパの民謡にまで遡る瞬間もある。しかし、音楽的にはゆったりとしていて、親しみやすいポップスが中心となっている。フォーク、バロック・ポップ、チェンバー・ポップ、現代的なオルト・ロックまで、多角的なアプローチが敷かれている。そして、アルバムを形成する7曲には、普遍的な音楽の魅力に焦点が絞られている。時代を越えたポップスの魅力。

 

「Challenger Deep」

 



アルバムは、幻想的な雰囲気に充ちており、安らかさが主要なサウンドのイメージを形成している。全般的に、おとぎ話のようなファンタジー性で紡がれていくのが幸いである。ダネシェフスカヤは、自分の日頃の暮らしとリンクさせるように、子供向けの絵本を読み聞かせるかのように、雨の涼やかな音を背後に、懐深さのある歌を歌い始める。ニューヨークのフォークグループ、Floristは、昨年のセルフタイトルのアルバムにおいて、フォーク・ミュージックにフィールドレコーディングやアンビエントの要素をかけ合わせて、画期的な作風で音楽ファンを驚かせたが、『Long Is A Tunnel』のオープニング「Challenger Deep」も同様に『Florist』に近い志向性で始まる。ナチュラルかつオーガニックな感覚のあるギターのイントロに続き、ダネシェフスカヤのボーカルは、それらの音色や空気感を柔らかく包み込む。童話的な雰囲気を重んじ、和やかな空気感を大切にし、優しげなボーカルを紡ぐ。デモソングは、ほとんどGaragebandで制作されたため、ループサウンドが基礎になっているというが、その中に安息的な箇所を設け、バイオリンのレガートやハモンド・オルガンの神妙な音色を交え、賛美歌のような美しい瞬間を呼び覚ます。驚くべきことに、シンガーとして広い音域を持つわけでも、劇的な旋律の跳躍や、華美なプロデュースの演出が用意されているわけではない。ところが、ダネシェフスカヤのゆるやかに上昇する旋律は、なにかしら琴線に触れるものがあり、ほろ苦い悲しみを誘う瞬間がある。

 

「Somewhere in The Middle」は「Challenger Deep」の空気感を引き継ぐような感じで始まる。同じようにアコースティックギターのループサウンドを起点として、インディーロック的な曲風へと移行していく。

 

イントロではフォーク調の音楽を通じて、吟遊詩人のような性質が立ち現れる。続いて、ギターにベースラインとシンプルなドラムが加わると、アップテンポなナンバーに様変わりする。この曲には、Violent Femmesのようなオルタナティヴ性もあるが、それをポップスの切り口から解釈しようという制作者の意図を読み取る事もできる。ときに、フランスのMelody Echoes Chamberのインディー・ポップやバロック・ポップに対する親和性も感じられるが、トラックには、それよりも更に古いフレンチ・ポップに近いおしゃれさに充ちている。曲の雰囲気はシルヴィ・バルタンのソングライティングに見られる涼やかで開放的な感覚を呼び覚ますこともある。曲の最後には、テンポがスロウダウンしていき、全体的な音の混沌に歌の夢想性が包み込まれる。 

 

 

「Bougainvilla」



「Bougainvilla」には、歌手のソングライティングにおける特異性を見いだせる。ダネシェフスカヤは、さながら演劇の主役に扮するかのように、シアトリカルな音楽性を展開させる。ミュージカルの音楽を明瞭に想起させる軽妙なポップスは、音階の華麗な駆け上がりや、チェンバー・ポップの夢想的な感覚と掛け合わされて、アルバムの重要なファクターであるファンタジー性を呼び覚ます。そして、シンガー自身の緩やかで和らいだ歌により、曲に纏わる幻想性を高めている。さらにヴィンテージ・ピアノ、ヴィブラフォン、コーラスを散りばめて、幻想的な雰囲気を引き上げる。しかしながら、嵩じたような感覚を表現しようとも、音楽としての気品を失うことはほとんどない。それはメインボーカルの合間に導入される複数のコーラスに、要因が求められる。アルバム制作中に亡くなったという祖(父)母の時代の言葉、不確かな何かを自らのソングライティングにアーカイブ的に声として取り入れているのは、(英国のJayda Gが既に試みているものの)非常に画期的であると言える。さらに、ダネシェフスカヤは驚くべきことに、自分の知りうることだけを音に昇華しようとしているのではなく、自分がそれまで知り得なかったことを音にしている。だからこそ、その音楽の中に多彩性が見いだせるのである。

 

アルバムには「鳥」をモチーフにした曲が収録されているという。なぜ、鳥に魅せられる瞬間があるのかといえば、私達にとって不可解であり、ミステリアスな印象があるからなのだ。「Big Bird」は、ニューヨークで盛んな印象のあるシンセ・ポップ/インディーフォークを基調とし、それをダイナミックなロックバンガーへと変化させている。特に、ゆったりとしたテンポから歪んだギターライン、ダイナミック性のあるドラムへと変化する段階は、鳥が空に羽ばたくようなシーンを想起させる。ドリーム・ポップの影響を感じさせるのは、Winspearのレーベルカラーとも言える。そして、そのシューゲイズ的な轟音性は曲の中盤で途切れ、ベッドルームポップ的な曲に変化したり、童話的なインディーフォークに変化したり、曲の展開は流動的である。しかし、その中で唯一不変なるものがあるとするなら、それらの劇的な変化を見届けるダナシェフスカヤの視点である。劇的なウェイブ、それと対象的な停滞するウェイブと複数の段階を経ようとも、その対象に注がれる眼差しは、穏やかで、和やかである。もちろん外側の環境が劇的に移ろおうとも、ボーカルは柔らかさを失うことがない。ゆえに、最終的にシューゲイザーのような轟音性が途切れた瞬間、言いしれない清々しい感覚に浸されるのである。

 

 

例えば、ニューヨークのBigThief/Floristに象徴されるモダンなフォークの音楽性とは別に、続く「Pink Mold」において、ダネシェフスカヤはより古典的な民謡やフォークへの音楽に傾倒を見せる。アメリカーナ、アパラチア・フォークのような米国音楽の根幹も含まれているかもしれない。一方、アルプスやチロル地方やコーカサス、はては、スラブ系の民族が奏でていたような哀愁に充ちた、想像だにできない往古の時代の民謡へと舵を取っている。これは、米国のブルックリンのハドソン川から大西洋を越え、見果てぬユーラシア大陸への長い旅を試みるかのようでもある。セルビア系の英国のシンガー、Dana Gavanskiの音楽性をはっきりと想起させる国土を超越したコスモポリタンとしてのフォーク音楽である。それはまた、どこかの時代でジョージ・ハリソンが自分らしい表現として確立しようと企てていた音楽でもあるのかもしれない。これらの西欧的な感覚は、さながら中世の船旅のようなロマンチシズムを呼び覚まし、どのような民族ですら、そういった時代背景を経て現在を生きていることをあらためて痛感させる。

 

メロトロン、淑やかなピアノ、ダネシェフスカヤのボーカルが掛け合わされる「Roy G Biv」は、60、70年代のヴィンテージ・レコードやジューク・ボックスの時代へ優しくみちびかれていく。夢想的な歌詞を元にし、同じようにフォーク音楽とポピュラー音楽を融合を図り、緩急ある展開を交えて、ビートルズのアート・ポップの魅力を呼び覚ます。後半にかけてのアンセミックなフレーズは、オーケストラのストリングスと融合し、すべては完璧な順序で/降りていく最中なのだとダネシェフスカヤは歌い、美麗なハーモニーを生み出す。最後の2曲は、ソロの時代のジョン・レノンのソングライティング性を継承していると思えるが、こういった至福的な気分と柔らかさに充ちた雰囲気は、「Ice Pigeon」において更に魅力的な形で表される。

 

シンプルなピアノの弾き語りの形で歌われる「Ice Pigeon」では、「Now And Then」に託けるわけではないけれど、ジョン・レノンのソングライティングのメロディーが、リアルに蘇ったかのようでもある。この曲に見受けられる、ほろ苦さ、さみしさ、人生の側面を力強く反映させたような深みのある感覚は、他のシンガーソングライターの曲には容易に見出しがたいものである。考えられる中で、最もシンプルであり、最も素朴であるがゆえ、深く胸を打つ。ダネシェフスカヤのボーカルは、ときに信頼をしたがゆえの人生における失望とやるせなさを表している。最後の曲の中で、ダネシェフスカヤは、現実に対する愛着と冷厳の間にある複雑な感情性を交えながら、次のように歌い、アルバムを締めくくっている。「信じてるのは私じゃない/やってくるもの全部が私には役に立たない/なぜならそれが何を意味するのか知っているから」

 

 

 

92/100

 

 

 

 「Ice Pigeon」

Black Decelerant


Contuour(コンツアー)ことKarlu Lucas(カリ・ルーカス)とOmari Jazz(オマリ・ジャズ)のデュオ、Black Decelerant(ブラック・ディセラント)は、コンテンポラリーな音色とテクスチャーを通してスピリチュアルなジャズの伝統を探求し、黒人の存在と非存在、生と喪、拡大と限界、個人と集団といったテーマについての音の瞑想を育んでいる。セルフ・タイトルのデビュー・アルバム、そしてこのコラボレーションの核となる意図は、リスナーが静寂と慰めを見出すための空間を刺激すると同時に、"その瞬間 "を超える動きの基礎を提供することである。


『Black Decelerant』は、プロセスと直感に導かれたアルバムだ。2016年に出会って以来、ルーカスとジャズは、形のない音楽を政治的かつ詩的な方法で活用できるコラボレーション・アルバムを夢見ていた。彼らは最終的に、6ヶ月間に及ぶ遠隔セッション(それぞれサウスカロライナとオレゴンに在住)を経て、2020年にプロジェクトを立ち上げ、即興インストゥルメンタルとサンプル・ベースのプロダクションを通して、彼らの内と外の世界を反映したコミュニケーションを図った。


ルーカスは言う。「それは、私たちがその時期に感じていた実存的なストレスに対する救済策のようなものでした。特にアメリカでは、封鎖の真っ只中にいると同時に、迫り来るファシズムと反黒人主義について考えていました。レコードの制作はとても瞑想的で、私たちをグラウンディングさせる次元を提供してくれるように感じていました」


リアルタイムで互いに聴き合い、反応し合うセッションは、黒人の人間性、原初性、存在論、暴力や搾取から身を守るための累積的な技術としてのスローネスをめぐるアイデアを注ぎ込む器となった。このアルバムに収録された10曲の楽曲は、信号、天候、精神が織りなす広大で共鳴的な風景を構成しており、記憶の中に宙吊りにされ、時間の中で蒸留されている。


ブラック・ディセラント・マシンは、アーカイブの遺物や音響インパルスを、不調和なくして調和は存在しない、融合した音色のコラージュへと再調整する。レコードの広大な空間では、穏やかなメロディーの呪文の傍らで、変調された音のカデンツの嵐が上昇する。ピアノの鍵盤とベース・ラインは、トラック「2」と「8」で、ジャワッド・テイラーのトランペットの即興演奏を伴って、リリース全体を通して自由落下する。


このデュオは、アリア・ディーンの『Notes on Blacceleration』という論文を読んで、その名前にたどり着いた。


この論文は、資本主義の基本的な考え方として、黒人が存在するかしないかという文脈の中で加速主義を探求している。「Black Decelerant」は、このレコードが意図する効果と相まって、自分たちと、自分たちにインスピレーションを与えてくれるアーティストや思想家たちとの間に共有される政治性をほのめかしながら、音楽がスローダウンへの招待であることに言及している。


「その一部は、自然な状態以上のことをするよう求め、過労や疲労に積極的に向かわせる空間や、これらすべての後期資本主義的な考え方に挑戦することなんだ」とジャズは言う。「黒人の休息がないことは、様々な方法で挑戦されなければならないことなのです」


ルーカスとジャズが説明するように、このレコードは、資本主義や白人至上主義に付随する休息やケアについて、商品化されたり美徳とされたりするものからしばし離れ、心身の栄養となることを行おうとする自然な気持ちに寄り添うという、生き方への入り口であり鏡ともなりえるかもしれない。


『BlackDecelerant』は、音楽と哲学の祖先が築き上げた伝統の中で、強壮剤と日記の両方の役割を果たす。


『Black Decelerant』は2024年6月21日、レコード盤とデジタル盤でリリースされる。アルバムは、NYのレーベル''RVNG Intl.''が企画したコンテンポラリー・コラボレーションの新シリーズ『Reflections』の第2弾となる。

 

 

『Reflection Vol.2』 RVNG Intl.


先週は、ローテクなアンビエントをご紹介しましたが、今週はハイテクなアンビエント。もっと言えば、ブラック・ディセラントは、このコンテンポラリー・コラボレーションで、アンビエント・ジャズの前衛主義を追求している。


ルーカスとジャズは、モジュラーシンセ、そしてギター、ベースのリサンプリング、さらには、バイオリンなどの弦楽器をミュージック・コンクレートとして解釈することで、エレクトロニック・ジャズの未知の可能性をこのアルバムで体現させている。


ジャズやクラシック、あるいは賛美歌をアンビエントとして再構築するという手法は、昨年のローレル・ヘイローの『Atlas』にも見出された手法である。さらには、先々週にカナダのアンビエント・プロデューサー、Loscil(ロスシル)ご本人からコメントを頂いた際、アコースティックの楽器を録音した上で、それをリサンプリングするというエレクトロニックのコンポジションが存在するということを教示していただいた。つまり、最初の録音で終わらせず、2番目の録音、3つ目の録音というように、複数のミックスやマスターの音質の加工を介し、最近のアンビエント/エレクトロニックは制作されているという。ご多分に漏れず、ブラック・ディセラントも再構築やコラージュ、古典的に言えば、ミュージック・コンクレートを主体にした音楽性が際立つ。


ニューヨークのレーベル”RVNG”らしい実験的で先鋭的な作風。その基底にはプレスリリースでも述べられているように、「黒人としてのアイデンティティを追求する」という意義も含まれているという。黒人の人間性、原初性、存在論、暴力や搾取から身を守るための累積的な技術、これはデュオにとって「黒人としての休息」のような考えに直結していることは明らかである。今や、ロンドンのActressことダニエル・カニンガム、Loraine Jamesの例を見ても分かる通り、ブラックテクノが制作されるごとに、エレクトロニックは白人だけの音楽ではなくなっている。

 

このアルバムは複雑なエフェクトを何重にもめぐらし、メタ構造を作り出し、まるで表層の部分の内側に音楽が出現し、それを察知すると、その内側に異なる音楽があることが認識されるという、きわめて難解な電子音楽である。

 

それは音楽がひとつのリアルな体験であるとともに、「意識下の認識の証明」であることを示唆する。アルバムのタイトルは意味があってないようなもの。「曲のトラックリストの順番とは別の数字を付与する」という徹底ぶりで、考え次第では、始めから聞いてもよく、最後から逆に聞いてもよく、もちろん、曲をランダムにピックアップしても、それぞれに聞こえてくる音楽のイメージやインプレッションは異なるはず。つまり、ランダムに音楽を聴くことが要請されるようなアルバムである。ここにはブラック・ディセラントの創意工夫が凝らされており、アルバムが、その時々の聞き方で、全く別のリスニングが可能になることを示唆している。

 

そして、ブラック・ディセラントは単なるシンセのドローンだけではなく、LAのLorel Halo(ローレル・ヘイロー)のように、ミュージックコンクレートの観点からアンビエントを構築している。その中には、彼ら二人が相対する白人至上主義の世界に対する緊張感がドローンという形で昇華されている。これは例えば、Bartees Strangeがロックやソウルという形で「Murder of George Floyd」について取り上げたように、ルーカスとジャズによる白人主義による暴力への脅威、それらの恐れをダークな印象を持つ実験音楽/前衛音楽として構築したということを意味する。そしてそれは、AIやテクノロジーが進化した2024年においても、彼らが黒人として日々を生きる際に、何らかの脅威や恐れを日常生活の中で痛感していることを暗示しているのである。

 

アルバムの序盤の収録曲はアンビエント/テクノで構成されている。表向きに語られているジャズの文脈は前半部にはほとんど出現しない。「#1 three」は、ミックス/マスターでの複雑なサウンドエフェクトを施した前衛主義に縁取られている。それはときにカミソリのような鋭さを持ち、同じくニューヨークのプロデューサー、アントン・イリサリが探求していたような悪夢的な世界観を作り出す。その中に点描画のように、FM音源で制作されたと思われる音の断片や、シーケンス、同じく同地のEli Keszler(イーライ・ケスラー)のように打楽器のリサンプリングが挿入される。彼らは、巨大な壁画を前にし、アクション・ペインティングさながらに変幻自在にシンセを全体的な音の構図の中に散りばめる。すると、イントロでは単一主義のように思われていた音楽は、曲の移行と併行して多彩主義ともいうべき驚くべき変遷を辿っていくことになる。

 

ブラック・ディセラントのシンセの音作りには目を瞠るものがある。モジュラーシンセのLFOの波形を組み合わせたり、リングモジュラーをモーフィングのように操作することにより、フレッシュな音色を作り出す。

 

例えば、「#2 one」はテクノ側から解釈したアンビエントで、テープディレイのようなサウンド加工を施すことで、時間の流れに合わせてトーンを変化させていくことで、流動的なアンビエントを制作している。

 

これはまたブライアン・イーノとハロルド・バッドの『Ambient Music』の次世代の音楽ともいえる。それらの抽象的な音像の中に組みいれられるエレクトロニックピアノが、水の中を泳ぐような不可思議な音楽世界を構築する。これはまたルーカスとジャズによるウィリアム・バシンスキーの実質的なデビュー作「Water Music」に対するささやかなオマージュが示されているとも解釈できる。そして表面的なアンビエントの出力中にベースの対旋律を設けることで、ジャズの要素を付加する。これはまさしく、昨年のローレル・ヘイローの画期的な録音技術をヒントにし、よりコンパクトな構成を持つテクノ/アンビエントが作り出されたことを示唆している。

 

アルバムの音楽は全体的にあまり大きくは変わらないように思えるが、何らかの科学現象がそうであるように、聴覚では捉えづらい速度で何かがゆっくりと変化している。「#3 six」は、前の曲と同じような手法が選ばれ、モジュラーシンセ/リングモジューラをモーフィングすることによって、徐々に音楽に変容を及ぼしている。この音楽は、2000年代のドイツのグリッチや、以降の世代のCaribouのテクノとしてのグリッチの技法を受け継ぎ、それらをコンパクトな電子音楽として昇華させている。いわば2000年代以降のエレクトロニックの網羅ともいうべき曲。そして、イントロから中盤にかけては、アブストラクトな印象を持つアンビエントに、FM音源のレトロな質感を持つリードシンセのフレーズを点描画のように散りばめ、Caribou(ダン・スナイス)のデビューアルバム『Starting Breaking My Heart」の抽象的で不確かな世界へといざなうのだ。

 

一箇所、ラップのインタリュードが設けられている。「#4 Seven 1/2」は、昨年のNinja TuneのJayda Gがもたらした物語性のあるスポークンワードの手法を踏襲し、それらを古典的なヒップホップのサンプリングとして再生させたり、逆再生を重ねることでサイケな質感を作り出す。これは「黒人が存在するかしないか」という文脈の中で加速する世界主義に対するアンチテーゼなのか、それとも?? それはアルバムを通じて、もしくは、戻ってこの曲を聴き直したとき、異質な印象をもたらす。白人主義の底流にある黒人の声が浮かび上がってくるような気がする。

 

 

アルバムの中盤から終盤にかけて、最初にECMのマンフレッド・アイヒャーがレコーディングエンジニアとしてもたらした「New Jazz(Electronic Jazz)」の範疇にある要素が強調される。これはノルウェー・ジャズのグループ、Jaga Jazzist、そのメンバーであるLars Horntvethがクラリネット奏者としてミレニアム以降に探求していたものでもある。少なくともブラック・ディセラントが、エレクトロニックジャズの文脈に新たに働きかけるのは、複雑なループやディレイを幾つも重ね、リサンプリングを複数回施し、「元の原型がなくなるまでエフェクトをかける」というJPEGMAFIAと同じスタイル。前衛主義の先にある「音楽のポストモダニズム」とも称すべき手法は、トム・スキナーも別プロジェクトで同じような類の試みを行っていて、これらの動向と連動している。少なくとも、こういった実験性に関しては、度重なる模倣を重ねた結果、本質が薄められた淡白なサウンドに何らかのイノヴェーションをもたらすケースがある。

 

「#5  two」では、トランペットのリサンプリングというエレクトリック・ジャズではお馴染みの手法が導入されている。更に続く「#6  five」は同じように、アコースティックギターのリサンプリングを基にしてアンビエントが構築される。これらの2曲は、アンビエントとジャズ、ポストロックという3つの領域の間を揺れ動き、アンビバレントな表現性を織り込んでいる。しかし、一貫して無機質なように思える音楽性の中に、アコースティックギターの再構成がエモーショナルなテイストを漂わせることがある。これらは、その端緒を掴むと、表向きには近寄りがたいようにも思えるデュオの音楽の底に温かさが内在していることに気付かされる。なおかつこの曲では、ベースの演奏が強調され、抽象的な音像の向こうにジャズのテイストがぼんやりと浮かび上がる。しかし、本式のジャズと比べ、断片的な要素を示すにとどめている。また、これらは、別の音楽の中にあるジャズという入れ子構造(メタ構造)のような趣旨もうかがえる。 

 

 

「five」

 

 

 

シンセの出力にとどまらず、録音、そしてミュージック・コンクレートとしてもかなりのハイレベル。ただ、どうやらこの段階でもブレック・ディセラントは手の内を明かしたわけではないらしい。解釈次第では、徐々に音楽の持つ意義がより濃密になっていくような印象もある。「#7 nine」では、Caribou(ダン・スナイス)の2000年代初頭のテクノに焦点を絞り、それらにゲームサウンドにあるようなFMシンセのレトロな音色を散りばめ、アルバムの当初の最新鋭のエレクトロとしての意義を覆す。曲の過程の中で、エレクトリックベースの演奏と同期させ、ミニマル・ミュージックに接近し、Pharoah Sanders(ファラオ・サンダース)とFloating Points(フローティング・ポインツ)の『Promises』とは別軸にあるミニマリズムの未知の可能性が示される。


一見、散らかっていたように思える雑多な音楽性。それらは「#8 eight」においてタイトルが示すようにピタリとハマり、Aphex Twinの90年代のテクノやそれ以降のエレクトロニカと称されるmumのような電子音楽と結びつけられる。そして、モダンジャズの範疇にあるピアノのフレーズが最後に登場し、トランペットのリサンプリングとエフェクトで複雑な音響効果が加えられる。これにより、本作の終盤になって、ドラマティックなイメージを見事な形で呼び覚ます。

 

「#9 four」は、一曲目と呼応する形のトラックで、ドローン風のアンビエントでアルバムは締めくくられる。確かなことは言えないものの、この曲はもしかすると、別の曲(一曲目)の逆再生が部分的に取り入れられている気がする。アウトロではトーンシフターを駆使し、音の揺らめきをサイケに変化させ、テープディレイ(アナログディレイ)を掛けながらフェードアウトしていく。 



85/100




「two」

 

 

 

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